長州ファイブ chosyu editio [ 松田龍平 ]

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もう一つの幕末維新②です。

西欧列強から日本を守るべく、果敢に海を渡ったスーパー留学生がいました。
人呼んで長州ファイブ。
平均年齢25歳の若者たちでした。
彼等は近代日本の礎となるべく・・・

「生きた器械となって日本を救うため洋行する」

動乱の幕末にあって、イギリスに密航留学を企て。。。
これがのちの明治国家建設の原動力となっていきます。

メンバーは、
伊藤俊輔(博文)=総理大臣
井上聞多(馨)=外務卿
山尾庸三=工業の父
野村弥吉=鉄道の父
遠藤謹助=造幣の父
日本の近代化を担うのです。

彼等は、最初の近代日本人であり国際人でした。
彼らが学んだことが、明治国家の礎となり・・・いなければ近代日本は変わっていたかもしれません。

1863年12月12日・・・
イギリス公使館焼き討ち事件で。。。
「命を賭してでもいてきを排除し、国家の御楯となる。」by聞多。
そんな長州ファイブがどうして留学したのでしょうか???

幕府が1858年にアメリカと結んだ日米修好通商条約。。。
その内容は不平等なものでした。
攘夷の声が高まりました。

そんななか・・・佐久間象山は・・・
「攘夷は到底不可能
 異国に学び、軍備を充実させる」
と主張します。

攘夷を諦め、外国に学ぶことを説き。。。
それに感化されたのが、長州藩・井上聞多でした。

井上は、攘夷を実行するために・・・外国に学び軍備を充実させようと・・・留学が不可欠だと思い始めます。
リアリストだったことが大きな要素となりました。
そして・・・長州ファイブによる留学が・・・
しかし、鎖国で留学渡航はできず・・・見つかれば死罪!!
そこで5人は、密航を決意しました。

資金を捻出するために・・・
長州藩の御用金を担保に商人から5000両を借りました。
主君にも内緒で・・・!!

あのイギリスのマセソン商会に依頼し・・・
しかし、どうしてイギリス側は長州ファイブを手助けしたのでしょうか?

幕末の日英関係・・・
当時日本はイギリスの倍以上の人口があって、加えて金と銀の保有量が世界一の国でした。
植民地政策の維持費が大変だったイギリスは、貿易で利益をあげる方が安全で安上がりだと考えたのです。

当時の貿易は幕府に厳しく管理されていました。
イギリスは、豊かな西国・長州藩と結びつくことで自由貿易を画策したのです。
削者隻を持っている長州藩に恩を売っておくのはメリットとなる・・・!!
5人は、生きた器械となるまでは決して帰らない!!と、武士の誇りであった髷を落とし。。。
命を賭けた覚悟の留学が始まったのでした。

しかし・・・イギリス留学で、彼らの考え方は根底から覆されます。

「攘夷の念如きは、跡形もなく消え去った」by聞多。

上海に寄港した5人・・・
ここで彼らが目にしたのは・・・イギリスの進出によって見る影もない大国・清の姿でした。
我が物顔で西洋人が町を歩き、こき使われる上海の人々、港では・・・軍艦、蒸気船・・・100艘以上を目の当たりにするのでした。

”これがすべて襲い来ると思うと防御のしようがない
 海軍を我が国に興して軍備を整えないと、遂に国を滅ぼす!!”

カルチャーショックを受けるのでした。
しかし・・・攘夷思想は完全には払拭できません。
軍事技術や文明力を学べば、攘夷も可能ではないか?と、思っていました。
西洋列強の脅威を痛感します。

食べ物はビスケットと塩漬けの肉・・・
水夫同様の扱いを受け、デッキを掃除させられる。。。
不満を言おうにも、英語が解らない。。。

4か月の過酷な航海を経て・・・1863年11月4日イギリス・ロンドンに到着します。

彼らの留学生活は???
ロンドン大学に在籍し、科学・物理学・鉱物学・・・日本ではなじみのなかった理系を選択していました。
ロンドン大学は、当時の最高技術の化学を学べる名門でした。
ろくに英語も話せない5人がこの大学に入れたのは・・・
科学者アレキサンダー・ウィリアムソンのおかげです。
彼の家で、ホームステイをし・・・決して裕福ではなかったウィリアムソンでしたが、5人の世話をしてくれます。

その日々は、若者たちにとってかけがえのない日々でした。
休日には社会見学・・・国会・博物館・造船所などを案内してくれます。

5人は近代国家イギリスの繁栄を目の当たりにし・・・
”鉄道は諸方に快走し、工場から噴き出る黒煙は天にたなびき、
 人々の往来も激しい。。。
 その繁華の盛況に茫然・・・
 攘夷の念如きは跡形もなく消え去った”
命を賭けて海を渡った5人には、もう攘夷の文字はありませんでした。

彼らの2年後には、薩摩から薩摩スチューデントがやってきます。
一緒に行動するようになって・・・
日本で殺し合っている二藩が、ロンドンでは一緒に行動しているという現実。。。
薩長同盟を先取りして・・・明治国家を先取りしていたのです。
留学したことによって、自分が”日本人である”と、強烈に意識し始めていました。
一番最初に日本人となった若者でした。

しかし・・・日本では・・・真逆のことが起こっていました。
1863年5月10日、長州藩外国船砲撃事件勃発!!
西欧列強との緊張が、一気に高まります。
彼らの心境は複雑でした。

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「どんなに海軍の学問を研究しても、自分の国が滅びれば、全く無益である。
 伊藤と2人で帰国して、藩主を説得し、攘夷を変じて開国の道を取らせる。」と、決心した井上。
「3人は残って、初志貫徹せよ。」
万が一、自分達が斃れた時には・・・と、後を託しました。

1864年6月、密かに帰国します。
この頃・・・諸国は長州に対して臨戦態勢に入っていました。
そこで二人は・・・駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックの元を訪ねます。
名もなき二人の若者が、戦争相手国責任者に直談判しました。
「長州藩が行った無謀な外国船砲撃は、子供が大人に石を投げるのと同じこと。
 大人である外国が、四国連合して子供を攻めるのはいかがなものか?
 必ず藩主を説得し攘夷を止めさせ、開国主義へと方針転換させるので、攻撃をやめてほしい。」

以外にもオールコックは、猶予を与えてくれました。
そして、2週間後。。。
藩主・毛利隆親に自分が見てきた西欧列強の力を話します。
「西洋では君主から市民まで、皆、一致協力して富国の為に努め、人民のための行政法律が整っている。
 これこそが、文明である。
 こうした国々と戦って、勝てるわけがない!!
 領土や賠償金を奪われ、国を滅ぼすだけである。」

藩主にたてつき、攘夷の無謀さを訴える聞多。
しかし、聞多たちは、売国奴!!と、蔑まれます。
が・・・1か月後・・・7月19日禁門の変勃発!!
御所に向けて長州が発砲した事件です。

幕府は長州を朝敵とみなし、長州征伐が始まりました。
数十万の幕府軍に取り囲まれた長州・・・列強と幕府・・・苦境に立たされた長州・・・
毛利隆親は、止む無く諸外国と交渉するように井上に命令するのでした。

藩主の場当たり的な態度に・・・
「和議の方針を、今後一切変えることのないように・・・!!」
藩主は、これを確約しました。

しかし8月5日・・・和議を待たずして・・・下関戦争開戦。
圧倒的な軍事力の前に、長州軍は完敗したのでした。
和平交渉は、高杉晋作を中心に、伊藤・井上が行い・・・
外国の信頼を得て、下関戦争が終息します。

この事が・・・もしかすると。。。長州藩だけでなく、日本を救ったかもしれません。
下関戦争を足掛かりに、大坂を攻め落とし、京都を陥れる恐るべき作戦があったからです。
あっさりと下関戦争が終わり・・・大規模な戦争に発展しなかった・・・
これが、大規模な戦争になっていたら・・・
日本の近代化の在り方は、大きく変わっていたかもしれません。

実は・・・イギリスに残った3人も、奔走していました。
外交官レジナルド・ラッセルと接触し、ラッセルに長州藩が外国船を攻撃したことについて・・・
「長州藩は、幕府と諸外国を不仲にし、幕府の権力を弱体化させ、朝廷に権力を取り戻そうと望んでいる。
 朝廷と新たな条約を結べば、自由に貿易できるようになるであろう。」
と、釈明しています。

最終的には、天皇に権力を取り戻し、日本に平和と秩序をもらたらすこと・・・
幕府が間違っているということをロビー活動したのです。
この影響を受けて・・・政府も攻撃を止めるように命令したのでは???と言われています。
二手に分かれた長州ファイブのおかげで、日本の危機は救われたのでした。

下関戦争から4年後・・・時代は明治。
帰国した長州ファイブは、新政府に出仕し、新しい国づくりを始めました。
「文物 制度という形ばかりが進歩しても、人民は疲弊するだけで国力は減退する
 民力という実をはぐくむことが先決である。」by聞多

民力・・・新しい日本人をつくることを目指しました。
土台作りをしたのは伊藤博文。
大日本帝国憲法を制定し・・・そこには近代国家の権利と義務が書かれてありました。
井上馨は、鹿鳴館外交を行います。
国民の文明化をめざし、欧化政策を勧めました。
今までの日本にない国民に脱皮することで、日本がさらに大きな発達を遂げると考えたのです。

そして・・・イギリスに残っていた3人も。。。
帰国後、民力を高める改革を行います。

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鉄道大国日本の原点を作ったのは井上勝(野村弥吉)。
鉄道事業を統括する地位についた井上は、明治5年初めての鉄道・・・新橋横浜間を開通させました。
当時歩いて1日かかっていたところを、1時間で行くことが出来るようになり。。。
鉄道網の父と呼ばれるようになりました。

大阪の夏の風物詩・・・造幣局の桜の通り抜け・・・
その生みの親が、遠藤謹助です。
日本独自の造幣が目標でした。
遠藤が勤め出したころの造幣局は・・・西洋人だらけ。。。
貨幣技術は、機械から技術まで・・・西洋人に頼っていたのです。
給料が破格に違う!!
お雇い外国人は、安い人でも200円ぐらい給料をもらっていたのに、日本人職員は5円ほどだったのです。
明治14年造幣局長に就任した遠藤は・・・日本経済の根幹となる貨幣経済の鋳造を。、日本人たちの手だけで行います。
こうして明治の日本経済が支えられていったのでした。

世界でも有数の日本の造船技術を普及させたのは、工業の父と呼ばれた山尾庸三です。
しかし・・・単に工業技術を伝えただけではなく・・・

「工業無くも 人を作らば その人 工業を見出すべし」

人材育成にも力を注ぎます。
工部大学校(東京大学工学部)、工部美術学校・・・色々な学校を設立。
その取り組みの中には・・・盲動教育あり、明治13年楽善会訓盲院を設立。
健常者と一緒に働く人々を・・・文明開化の為に働きました。

命を賭けた長州ファイブは、技術や制度だけではなく、人々の民力を高める改革を行い。。。
今日の日本の礎となりました。
新しい国家をつくるために、民力を利用したのはかつてなく。。。
日本の近代に、ひとりとして欠くことのできない役割を果たしたのです。
長州ファイブは幕末留学生の先駆けであり、このおかげで今の日本があるのです。

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