日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:マッカーサー

現在、世界中で飛行機に乗る人の数は、1年間で約45億!!
地球上のどこでも気軽に飛んでいけます。
旅客機の時代は、一人の若者の快挙から始まりました。
チャールズ・リンドバーグ・・・およそ100年前、ニューヨーク⇔パリ間の5800キロの無着陸飛行に初めて成功しました。

1929年にアメリカで公開されたウォルト・ディズニーの初期作品「プレーン・クレイジー」・・・飛行機に夢中になった主人公が、パイロットにチャレンジする物語です。
主人公が、その髪型を真似するほど憧れたその人物・・・それがリンドバーグでした。

1927年5月20日、ニューヨーク⇔パリ間を大西洋単独無着陸飛行という世界初の快挙に成功したリンドバーグ・・・
ニューヨークの凱旋パレードでは、400万人もの人が祝福、一夜にして世界中のヒーローとなりました。
しかし、その後リンドバーグを待っていたのは、英雄ゆえの悲劇の連続でした。

20世紀は飛行機と共に始まりました。
1903年、ライト兄弟が世界初の友人動力飛行に成功します。
1914年、第1次世界大戦で、飛行機が戦闘に投入されます。
飛行機の運動性能は瞬く間に向上し、その後は如何に長く飛ぶか・・・飛行距離を競う時代となりました。
そして1919年、アメリカで世界最大の航空レースが催されます。
ニューヨーク⇔パリ間の5800キロ・・・大西洋を横断し、しかも無着陸のレースです。
1番乗りの賞金は、2万5000ドル・・・現在の価値でおよそ4000万円でした。
前人未到のこのレースに挑み、初の偉業達成した若者こそ、リンドバーグでした。

リンドバーグは、どのようにして大西洋無着陸横断に成功したのでしょうか?
1902年、リンドバーグは、ミシガン州デトロイトで生まれました。
父は弁護士、母は教師・・・しかし、両親はリンドバーグが5歳の時に別居します。
母に引き取られたリンドバーグ・・・しかし、母が仕事に出かけると、リンドバーグはひとり・・・。
ひとり遊びが好きな内気な少年でした。

「私は部屋の中で生白い顔をして何時間もずっとあれこれつまらないことを考えて過ごした」

時折会いに来る父は、友達のいないリンドバーグをこう励ましました。

「一人は一人前の仕事をする
 二人では半人前の仕事をする
 三人になると何も達成できない・・・ということわざがある
 他人を頼り過ぎてはいけないよ」

そんなリンドバーグは心を惹かれたのは機械でした。
近くに住んでいた祖父は、歯科医で発明家。
リンドバーグは祖父の研究室に入り浸り、様々な工具や機械に夢中になりました。

「科学はあらゆる謎を解き明かす鍵なんだ!」

やがてリンドバーグの興味は、最先端のメカ・飛行機に向いてきます。
10歳の時、母と共に試験飛行を見学しました。
リンドバーグの目の前で、飛行機が大空へと駆け上がっていきます。

「僕も空を飛びたい!!」

20歳になったリンドバーグは、パイロットを目指して飛行学校へ入学。
1週間後、初めて飛行機に乗せてもらいました。

「美しさと危険に満ち 生と死を超越した永遠の空間の中に生きている気がした」

在学中、リンドバーグはアルバイトして稼いだ金をつぎ込んで中古の飛行機を手に入れます。
その目的は、プロの曲芸飛行士!!
第1次世界大戦が終わり、仕事にあぶれたパイロットが始めたこのショーは、全米で大人気でした。
リンドバーグは、”命知らずの空中軽業師”というキャッチフレーズで、各地を回り、操縦の腕を磨いて行きました。
その後、リンドバーグは、22歳で陸軍飛行学校に入学。
曲芸飛行で磨いた操縦の腕前は、教官を凌ぐほどだったといいます。
翌年、リンドバーグは首席で卒業、航空産業の中心だったセントルイスに移住します。
セントルイスでは、全米に先駆けて、民間の航空郵便が発足、リンドバーグはその会社のチーフパイロットに採用されました。
嵐でも、闇夜でも、たった一人で飛ぶ航空郵便・・・
それは、孤独を苦にしないリンドバーグにうってつけでした。
しかし、当時、航空郵便のパイロットは、最も危険な職業でした。
墜落死亡事故が後を絶たなかったのです。
リンドバーグも、2度墜落事故をに遭いましたが、その度にパラシュートで脱出し、生還しました。
そんな頃、耳にしたレースが、大西洋横断レースでした。
ニューヨーク⇔パリ間、5800kmの無着陸飛行です。
それまで大西洋横断の最長記録は3000km・・・
今回のレースは、その2倍近い前人未到の距離でした。
名だたるパイロットが挑戦したものの、次々と失敗、6人の犠牲者が出ていました。
しかし、リンドバーグに迷いはありませんでした。

「賞金よりコースを飛んでみたい」

リンドンバーグは、他の挑戦者が考えもしなかったアイデアを次々と実行していきます。
大西洋横断は、30時間以上の長距離飛行です。
操縦を後退するため、他の挑戦者は2人乗りの飛行機を使っていました。
しかし、リンドバーグは・・・

「僕はひとりだけで飛ぼう」

狙いは、軽量化でした。
2人乗り用の飛行機では、どうしても重くなり、長距離に適しません。
一人乗りならば劇的に減る・・・
しかし、その代わりにリンドバーグは飛行中一睡もできない!!
さらにリンドバーグは、無線機も非常用のパラシュートも積みませんでした。
命の危険と引き換えに、ギリギリまで軽くしたのです。

リンドバーグは、飛行機の設計の時点で細かく常識外れの注文をつけます。
操縦席の前に、巨大なガソリンタンクを設置しろと言うのです。
操縦席からは、全く前が見えなくなってしまう・・・

「前が見えないと危険だ」と、技術者は猛反対・・・しかし、リンドバーグは反対を押し切ります。
その設計にした理由は、飛行機に燃料を一番多く積める方法だったからです。
彼の飛行技術であれば、前方の視界は必要ありませんでした。
航空郵便では闇夜に飛ぶことも多く、彼にとって飛行は感覚的なものでした。
航路はわかっていて、メーターで高度も解り、飛行の状況をちゃんと把握できたのです。
完成した飛行機の名は、”スピリット・オブ・セントルイス号”でした。
地図には大西洋上空を吹く季節風なども計算し、1時間で飛べる距離・・・すなわち100マイルごとに方向を細かく書き込みます。

「正確であることは、とても重要なことだ
 ぼくの職業は、命そのものが正確さに依存しているから」

1927年5月20日・・・大西洋横断飛行出発当日・・・。
入念に準備をしてきたリンドバーグでしたが、大きなミスを犯していました。
記者たちの取材攻勢で眠ることができず、フライトを前に24時間も眠っていない状態でした。
積んでいた食料は、サンドイッチ5食分だけ・・・
「それで足りるのか?」と聞かれたリンドバーグは、

「パリに着けばサンドイッチはいらない
 パリに到着しなければやはりサンドイッチはいらない」

午前7時54分離陸・・・
ところが燃料が満タンで重かったうえ、滑走路が雨でドロドロにぬかるんでいたため、なかなか離陸ができない・・・
なんとか機体を持ち上げた飛行機・・・パリへの長い旅が始まりました。
離陸から14時間・・・飛行機は大西洋上空へ・・・!!
リンドバーグの最大の敵は、睡魔でした。
飛行前からの睡眠不足と疲労で、激しい睡魔に襲われ、幻覚まで見えたといいます。

「なんとかして気を張り詰めておく方法を見つけなくてはならない
 この分では、死か失敗しかない」

窓から顔を出し、プロペラからの熱風を浴びてなんとか眠気を覚ましたといいます。
ニューヨークを出発してから33時間30分・・・リンドバーグの目に映ったのは・・・

「星空の下に星がきらめくような大地がある・・・ パリの灯だ!!」

空港には、15万人のパリ市民がリンドバーグを一目見ようと殺到しました。
アメリカに帰国後、大統領からは勲章が与えられました。
その後、リンドバーグは全米の82都市を訪問、熱烈な歓迎と祝福を受けました。
リンドバーグ25歳の時でした。

前人未到の偉業を成し遂げ、一躍世界のヒーローとなったリンドバーグ・・・
しかし、その僅か8年後、リンドバーグ一家は祖国アメリカを去りイギリスに移住します。
英雄となったリンドバーグを待っていたのは、祝賀行事の分刻みのスケジュールでした。
行く先々で、待ち構えるマスコミから猛烈な取材攻勢を受けます。
端正な顔立ちも、人気に益々火をつけます。
多くの女性が、独身のリンドバーグに熱い視線を送ります。
しかし、彼は何の関心も示しませんでしたが・・・

メキシコシティ・・・1927年、アメリカ政府の要請で親善大使としてメキシコへ
そして、アメリカ大使館のクリスマスパーティーに出席します。
そこでリンドバーグを迎えたのが、大使の娘アン・モローでした。
文学を愛する物静かな女性にリンドバーグは一目ぼれします。
大西洋横断から2年後、27歳になったリンドバーグはアンと結婚。
リンドバーグは、しばしばアンを飛行機に乗せて空を飛びました。
そしてこんな夢を語りました。

「僕が今、興味があるのはね 国と国の間にある偏見を打ち破って、飛行機を通じてお互いを結びつけることなんだ」

リンドバーグは、航空会社の技術顧問に就任。
ニューヨークから西海岸への航路の開発に乗り出します。
当時、ニューヨークから西海岸までは、大陸横断鉄道・・・一番早い汽車でも丸3日かかりました。
このルートを飛行機が飛ぶようになれば、客が殺到するのは確実だ!!
リンドバーグは、安全で効率的なルートを探すため、何度も大空に飛び立ちました。
なんと、妻のアンも一緒でした。

1929年、ニューヨークロサンゼルス間を48時間で結ぶ大陸横断旅客航路、就航。
リンドバーグ・ラインと呼ばれるこの航路は、誰もが飛行機に乗って旅をする先駆けとなりました。
私生活も充実し、この頃、長男チャールズが誕生します。
リンドバーグは、静かな環境を求めてニューヨークから車で2時間ほど離れた郊外に移り住みます。
航空ルート開拓の仕事は、子供が生まれても続けました。
アンと二人でアラスカからベーリング海、日本に至る北太平洋航路の開発の旅に出ます。

1931年8月、夫妻は茨城県霞ヶ浦に到着。
日本での滞在はおよそ1か月・・・東京、大阪、福岡と訪問し、各地で熱烈な歓迎を受けます。
その後、アメリカに戻ったリンドバーグ・・・しかし、その6か月後悲劇が・・・。
1932年3月1日、自宅で一家団らんを過ごした夜9時すぎ・・・当時1歳8か月の長男チャールズが2階の寝室から忽然と姿を消したのです。
部屋には脅迫状が残されていました。

「5万ドルを用意しろ
 警察には知らせるな」

世界的な英雄を襲った誘拐事件・・・!!
静かな森は、報道陣と警察で騒然となりました。
妻アンはリンドバーグの母への手紙にこう書いています。

「恐ろしく非現実的な状況に私の感覚は麻痺しています」

リンドバーグは、身代金5万ドルを用意します。
犯人から受け渡しに指定された墓地・・・
リンドバーグは、離れたところから身代金受け渡しに立ち会いました。
しかし・・・金を渡したもののチャールズは帰らず、犯人からの連絡も途絶えました。
事件から70日後・・・自宅から5キロほど離れた松林で、変わり果てた我が子が発見されました。

「抑えようのない感情がこみ上げてくる
 今はこの悲しみを受け入れることができない」

事件から2年半後、身代金の紙幣を使った男が逮捕されました。
ドイツ系移民のブルーノ・ハウプトマン・・・不法入国者で逮捕歴もありました。
裁判でハウプトマンは、無罪を訴えました。
その内容をリンドバーグは欠かさず傍聴したといいます。
リンドバーグは、ハウプトマンの声を聞いてこう証言しました。

「あの晩に聞いたのと同じ声です」

リンドバーグの証言が決め手となり、ハウプトマンは死刑となりました。
しかし、判決の後、リンドバーグへの取材攻勢はやむこともなく・・・さらに、事件後に生れた次男のジョンを誘拐するという予告状まで舞い込み、リンドバーグ一家の忍耐力は限界に達していました。
1935年、妻と次男と共にイギリスに移住・・・33歳の時でした。

第2次世界大戦が起きると、リンドバーグは英雄から一転、国民の批判にさらされることとなります。
どうして英雄の座から転げ落ちたのでしょうか?
1935年、イギリスに移住したリンドバーグ一家・・・ロンドンの郊外で、おだやかな日々を過ごしていました。
1年後・・・リンドバーグのもとに、アメリカ政府から1通の手紙が届きます。
ヒトラー率いるナチスドイツの空軍を視察する依頼でした。
1936年7月、34歳のリンドバーグは、妻のアンと共にベルリンに飛びます。
ドイツを視察訪問・・・リンドバーグの名声は、ドイツでも絶大でした。
ヒトラーの右腕で、ドイツ空軍総司令官だったゲーリングは、リンドバーグを大歓迎・・・
軍事機密である戦闘機の視察も特別に許可されます。
ドイツ空軍の戦闘機を見たリンドバーグは、高い技術力に感銘を受けます。
第1次世界大戦の負け、兵器を破壊されてから20年足らず・・・
驚異のスピードでドイツを復興し、軍備を整えたヒトラーを高く評価しました。
リンドバーグは、日記にこう記しています。

「彼に対して批判はあるが、偉大な人物であることに間違いない
 若干の狂信的行為はあるが、ある程度の狂信性がないと、これほどまでのことは達成できなかっただろう」

その後、リンドバーグにはドイツに貢献した外国人に与えられるという荒鷲十字勲章が与えられました。
リンドバーグは、意味を深く考えずに勲章を受け取ったといいます。
彼は決して”親ナチス”ということではありませんでした。
しかし、彼は間違いなく、ナチスドイツの技術の進歩、そしてヒトラーが作り上げた空軍に感銘を受けていました。

1939年4月・・・3年半ぶりにアメリカに帰国。
その9月、第2次世界大戦が勃発!!
ナチスドイツがポーランドに侵攻したのです。
これを受けアメリカでは、ナチスドイツを批判するローズベルト大統領がアメリカも参戦すべきだと主張していました。
リンドバーグは、この主張に真っ向から対立!!
中立を訴えました。

「私は皆さんにアメリカの中立を訴えたい
 戦争に介入すれば、私たちは大変な損害を受けます
 我が国の指導者の判断は間違っています」

リンドバーグの主張は、大きな支持を集め、次期大統領の有力候補という声まで聞かれるようになっていました。
1940年、ナチスドイツがロンドンを空爆開始、アメリカの世論は一気に参戦に傾きます。
それでも参戦に反対し続けるリンドバーグに、民衆は失望していきました。

「アメリカを戦争へと駆り立てるのは、ローズベルト大統領に他ならない」

風刺画にはナチスの手先として描かれ・・・ドイツの勲章を持っていたことも、ナチスとの関わりの証拠だとされ、国中から大バッシングを受けたのです。

リンドバーグの立場がさらに悪くなる事態に・・・
1941年、日本がハワイ真珠湾のアメリカ軍を攻撃、太平洋戦争が勃発しました。
こうなっては、リンドバーグも反戦の主張を撤回する以外にありませんでした。

「我が国に対して武力を行使された今、武力によって報復せねばなりません」

自らも参戦したいと希望したリンドバーグ・・・
しかし、ローズベルト大統領と廃立している時に軍籍を返上していました。
軍には戻れない・・・そこで、戦闘機を作る民間会社の技術顧問として参戦します。
太平洋のニューギニアへ・・・!!
到着すると、軍法を無視して爆撃機に搭乗します。
米軍は、日本軍の拠点ラバウルの爆撃を計画、パイロットにはニューギニアからラバウルを往復する長距離飛行の技術が必要でした。
すでに40歳を超えていたリンドバーグ・・・しかし、長距離飛行で彼の右に出る者はいませんでした。
最高司令官マッカーサーは、リンドバーグの参戦を黙認。
若いパイロットの指導役として燃料の節約教えます。
ゼロ戦の激しい攻撃をかわしながら、日本軍に爆撃を続けたリンドバーグ・・・
しかし、爆撃後地上に降りて日本兵の死体を見た時、大きな衝撃を受けました。

「自分がボタンを押すことで死が落下していく
 爆弾が落ちたところに人がいたら、その人の命を奪ったのは自分なのだ」

1945年5月、首都ベルリンが陥落・・・ドイツは降伏しました。

1960年代、60歳を過ぎてからリンドバーグはそれまでと全く違う活動を始めます。

「もしどちらかを選ぶとするならば、今の私は飛行機よりも鳥を選ぶだろう」

それは、絶滅危惧動物の保護でした。
飛行機という最先端の文明とは真逆の自然に生きがいを見つけたのです。

1945年5月、ドイツの敗戦から1か月後・・・ドイツ空軍の技術調査のためにドイツを訪問。
そして調査の一環として、ナチスの強制収容所を訪れます。
そこで、多くのユダヤ人が虐殺された生々しい現場を目の当たりにします。

「これこそ、人間の生と死が堕落の極みに達した場所・・・
 このような施設を正当化することは絶対に不可能だ」

太平洋戦争の終結から3年後、今度は日本へと飛んでいき広島を上空から眺めました。

「よく目を凝らすと、眼下には爆破され、放射能を浴び、焼けただれた広島の土が見えた」

そして1953年、リンドバーグは1冊の本を発表します。
タイトルは「翼よ、あれがパリの灯だ」。
ニューヨーク⇔パリ間の無着陸飛行を中心に書かれた青春の自叙伝です。
あれから26年経った今、リンドバーグは快挙に酔いしれた当時とは全く違う気持ちだと語りました。

「私たちは飛行機というものに命を捧げてきたが、それを作り出した文明を、いま私たちは破壊しているのだ」

60歳を過ぎたリンドバーグは、世界自然保護基金の団体と連携し、絶滅が心配される生き物の保護するため、世界中を飛び回るようになります。
フィリピンのミンドロ島にだけ生息する野生のタマラオ・・・この牛も、絶滅危惧種の一つでした。
リンドバーグは、その知名度を生かし、マルコス大統領の直談判、フィリピン政府を動かして、保護区を作らせました。
他にも、シロナガスクジラ・ハクトウワシ・ホッキョクグマ・マウンテンゴリラなど、世界中を飛び回りながら、その後の人生を動物たちを救うことに捧げました。

ハワイ・マウイ島・・・豊かな自然のこの島に、リンドバーグが晩年家族と過ごした家があります。
文明から遠ざかるように、電気もガスもひかず、ランプと薪の生活を送っていたといいます。
末の娘によると・・・

「父は優しくもあり厳しくもありました
 子供の頃には私を抱き上げて高く投げてくれたり、家ではロープで素敵なものを色々と作ってくれました
 機械であろうとお金であろうと、日常使うものの管理にはとても厳しかった
 車に乗る前には、私たちにもタイヤを蹴らせ、オイルの点検もさせました
 突然車を停めて、私たちにタイヤの交換をさせたりもしました
 まだ交換の必要が無くてもです」

そんな父が晩年、自然の保護活動に打ち込んだのも分かる気がするといいます。

「父は飛行機の技術が、世界中の自然を破壊していると考えたのです
 ”人類が生き残るには自然とテクノロジーのバランスをとらなくてはならない”と言っていました」

71歳の時、リンドバーグは悪性リンパ腫に侵され、ニューヨークの病院に入院します。
しかし、都会で死を迎えることをかたくなに拒み、医師の反対を押し切って島へ戻りました。

「マウイ島で死に、その地で埋葬される・・・
 そのことが、父にとって大事なことでした
 亡くなる10日前とか、1週間前に、死に向けて全ての準備が整っているか確認したかったのです
 父はどのようにお墓が建てられるかも知りたがりました
 自分の葬式で、母に讃美歌を歌ってほしいと希望したのに、”あれはダメ””これはダメ””他の賛美歌にして”と注文を付け、自分で決めようとしていました
 本当に父らしいと思います
 父は非常に細かいプランナーでした」

「どうせ死と対面するならば、前もって知っておきたいのだ
 死こそ人生における最後の、そして最大の冒険だろうから」

1974年8月26日、チャールズ・リンドバーグ死去・・・72歳の生涯でした。
今、リンドバーグは、マウイ島の自然の中で静かに眠っています。

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1945年9月29日、日本国民を驚愕させた一枚の写真が新聞に掲載されました。

tennnou昭和天皇と、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーとのツーショット写真です。
この時、天皇44歳、マッカーサー65歳でした。
写真は、天皇がアメリカ大使館をたずね、マッカーサーと初めて会見した際に撮られたものでした。

この写真を見た作家・高見順は「古今未曽有」と、敗戦日記に記し、歌人・斎藤茂吉は「ウヌ!マックアーサーの野郎」と、憤りました。
現人神として崇められてきた天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツのカジュアルな服装で、両手を後ろに回し傲慢にさえ見える・・・
国民は、大きなショックと怒りを抱いたのです。
ところが、この後行われた二人の会談が、敗戦国となり、連合国の占領下に置かれた日本の行く末を握っていました。

その世紀の会見の中身とは・・・??

1945年8月30日、戦後日本の命運を握る男がやってきました。
ダグラス・マッカーサー、GHQ最高司令官です。
GHQとは、連合国最高司令官総司令部のことで、敗戦国日本を占領管理するため、米・英・中・ソ・仏などの戦勝国によって設置された機関です。
その最高権力者となったマッカーサーが、神奈川県厚木飛行場に降り立ちました。
午後2時5分・・・アメリカ軍の輸送機・バターン号で予定より1時間ほど早く到着。
濃いサングラスにノーネクタイ、コーンパイプをくわえたマッカーサーは、ゆっくりと辺りを見回しながら、タラップを悠々と降りてきました。
この時の印象的な登場は、マッカーサーが周到に計算した演出だったといいます。
戦争に勝利をおさめて、最高指揮官として一歩踏み出す・・・
サングラスにコーンパイプを片手に降りてきたのは、如何に自分を印象付けるかを考えた結果でした。
厚木飛行場を後にしたマッカーサーが向かったのは、東京入りするまでの狩りの宿舎となるホテルニューグランドでした。
現在も、マッカーサーが宿泊した部屋が残っています。
どうしてこのホテルだったのでしょうか?
進駐軍が、最初の滞留地を横浜としたのは、最高司令官の宿舎としてニューグランドが相応しかったからです。
ホテルニューグランドが、外国人向けに作られたホテルであった事、アメリカの攻撃対象から外されていたので、焼けずに残っていたのが大きな理由です。
マッカーサーは、横浜港に面したこの部屋を、とても気に入っていました。
しかし、その対応には苦労もあったようで・・・
マッカーサーは、朝食に卵を二つ注文しましたが、当時の日本は食糧難・・・その卵を一日中探し回って手に入れたのが1個だけでした。
それをきっかけに、マッカーサーは日本の食糧難を知り、進駐軍から日本に大量の食糧が届けられました。

1937年、マッカーサーがフィリピン軍事顧問だったころ、当時のケソン大統領の訪米にお供し、日本に立ち寄っていました。
一緒に来ていたジーン夫人は、二度目の結婚でした。
新婚旅行をしていなかったので、このニューグランドに泊まったことがありました。

1945年9月2日、日本の降伏調印が、東京湾上ミズーリ号で行われました。
その調印式の開会を述べるマッカーサー・・・

「私は連合国最高司令官として、
 私の代表する諸国の伝統に従って、
 正義と寛容を持って私の責任を果たし、
 降伏条件が、完全、迅速かつ誠実に遵守せられるよう、
 ありとあらゆる必要な措置をとる決意である」

日本側からは、外務大臣・重光葵が代表として調印・・・
ここに大日本国帝国は終焉します。

9月8日・・・
マッカーサーは東京に入ると、日本での住まいとなるアメリカ大使館へ・・・。
そして、皇居の迎えに立つ第一生命ビルを接収しGHQ本部としました。
最大で40万人となった米軍部隊も日本各地に上陸。
占領体制は着々と整備されていきました。

マッカーサーは土日も休まず、判で押したような生活をしました。
毎朝10時にアメリカ大使館を出て、GHQ本部に向かいます。
仕事をするのは、マッカーサールームと呼ばれた執務室。

敗戦からおよそ1月・・・GHQによる本格的な日本統治が始まりました。
実質的にはアメリカの単独占領・・・おのずとGHQのトップにいたマッカーサーの命令は、絶対でした。

「私は日本国民に対して、事実上無期限の権力を持っていた
 歴史上、いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことがなかった
 私の権力は至上のものであった」

それでもマッカーサーは、調印式、第一生命ビルの接収では、支配者マッカーサーとして日本人に焼き付けるには不十分だと思っていました。

「早急に天皇と会見をする必要があるのだが・・・」

マッカーサーはGHQの幕僚たちから強く勧められていました。
「私たちの権力を示すために、天皇を総司令部に来させたらどうだ??」
敗戦の惨めさを思い知らせろとの声もあったのです。
しかし、マッカーサーは迷っていました。
そして考えた末・・・天皇を呼びつけるのではなく、天皇から会いに来るのを待つことにしました。
どうして天皇を呼びつけなかったのでしょうか?
それは、マッカーサーの経歴と深く関係していました。

1880年アメリカ合衆国アーカンソー州で生まれます。
陸軍士官学校を首席で卒業。
アメリカ軍に入隊し、フィリピン赴任を経て、陸軍参謀総長に史上最年少の50歳で就任。
エリート軍人でした。
太平洋戦争勃発後は、5回目となるフィリピンへ・・・
こうして長年でフィリピンで過ごしていたマッカーサーは、アジア通を自負していました。
アジア人の心理をよくわかっていたと言われています。

「幕僚たちが、権力を示すために天皇を招き寄せたらと、強く勧めたが、そんなことをすれば、日本の国民感情を踏みにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立て上げることになる」

マッカーサーは、日本は天皇崇拝のおかげで戦後も無政府状態にならず、粛々と敗戦を受け入れたのだと考えていました。
無理やり天皇を呼びつければ、日本国民の反感を買い、今後の占領がやりにくくなると考えたのです。

「私は待とう 
 そのうち天皇が自発的に私に会いに来るだろう
 西洋のようにせっかちにするより、東洋のように辛抱強く待つ方が、我々の目的に一番かなっている」

後に、副官であるバンカー大佐は・・・
「ゼネラルは、心理的な側面では天皇を通じて占領を極めて効果的に行った」と言っています。

GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー・・・
この時、日本側もマッカーサーと早急に会いたいと思っていました。
日本がポツダム宣言を受諾した最大の理由は、国体が護持(=天皇制存続)されると思っていました。
しかし、同時にぽつ談宣言の中では、戦争責任を追及する軍事裁判を行うことも謳われていました。
天皇が糾弾される可能性もあったのです。
日本政府は、”天皇が軍事裁判で糾弾されるのか”をGHQから探りたかったのです。

実際、アメリカでは天皇を糾弾せよという機運が高まっていました。
そこで、宮内省関係者は日本統治の最高権力を有するマッカーサーの考えを探ろうと情報集めに奔走・・・。
しかし、何もつかめずにいました。
そのために、天皇とマッカーサーとの会見に踏み切れずにいたのです。

そんな中・・・9月20日。
昭和天皇の侍従長・藤田尚徳のもとへ電話が・・・時の外務大臣吉田茂でした。
マッカーサーとあってきた吉田・・・

「マッカーサー元帥に、もし天皇陛下が”あなたを訪問したい”と言われたらどうなさるかと質問したところ”喜んで歓迎申し上げる”との返事だった。」

吉田から電話がかかってくる直前に、藤田もマッカーサーと会っていました。
藤田が伝えた内容は・・・

「マッカーサー元帥は、開戦以来方々の戦場で戦われ、日本に進駐されたが、ご健康はどうであろうか
 炎熱の南方諸島で健康をそこなわれるようなことはなかったろうか
 また、日本の夏は、残暑が厳しいので、十分に健康にご注意ありたい」

すると、マッカーサーは・・・

「私のことをいろいろご心配下さって感謝に堪えない
 どうか天皇によろしくお伝え願いたい」

マッカーサーの丁寧な対応に、藤田侍従長は安堵したといいます。
吉田茂大臣からの連絡は、大変うれしいものでした。
マッカーサーの意向がわかったので、宮内省で計画し、天皇がアメリカ大使館にマッカーサーをの訪問することが決まります。

その運命の日は、9月27日でした。
昭和天皇は、数人のお付きのものと共に、赤坂にあるアメリカ大使館へ。
迎賓室の入り口で待っていたマッカーサーと、遂に対面します。
握手と簡単な挨拶を交わした後、天皇はなかに入ります。
この時、お付きとして許されたのは、通訳只一人・・・。
マッカーサーは天皇に、こちらにお立ち下さい・・・そう言って、天皇の右側に立つと・・・突如、マッカーサー付きのカメラマンがシャッターを切ったのです。
撮影に関して何も知らされていなかった天皇は、驚きを隠せず・・・姿勢を正すことができませんでした。
三枚目でようやく体制を整えることができました。
宮内省発表の記事と共に翌日28日の新聞に報じられる予定でしたが、内務大臣山崎巌がこれを不敬だとして掲載禁止とするのです。
これまで国民が見慣れた天皇の写真は、御真影と言われた陸海軍大元帥の礼装服か、白馬にまたがった陸軍改定式などの勇姿でした。
それが、平民と変わらないモーニングにネクタイという姿だったからです。
さらに、現人神である天皇が直立不動の体勢をとっているのに対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツという軽装・・・こうした理由から不敬とし、差し止めたのです。

しかし、新聞に写真が載っていないことを知ったGHQは激怒!!
依然として獣体制の考え方を持っている者がいると、言論に対する一切の制限令を撤廃したのです。

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こうして会見から2日後の29日、二人の写真が新聞に掲載されました。
これを見た国民の多くは、改めて日本が敗戦したことを思い知らされたといいます。

昭和天皇・マッカーサー 第1回会見
この写真を撮ったのち、第1回会見が始まりました。
会見の主な内容は、天皇が開戦を遺憾している事、ポツダム宣言の履行に対する確認でした。
マッカーサーは天皇のことをエンペラーと呼び、天皇に全てを訳し伝えよと強い口調で通訳に伝えると、10分にわたり話し続けたといいます。

後に、マッカーサーはこのことを振り返りこう言っています。

「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないかという不安を感じた」

天皇は命乞いをしに来たのでは??と考えていました。

「私がアメリカ製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた
 そのタバコに火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気が付いた」

普段は吸わないタバコを手にした天皇・・・
その緊張がほぐれたのは、マッカーサーの思い出話でした。

「私は日本とは40年来の縁があるのです
 最初の日本訪問は、日露戦争の時
 父が従軍武官としてきた際に、その副官としてきたのです
 戦争後には、私は一度天皇の父君に拝謁したこともあるのですよ」

そんな話をするうちに、天皇の警戒心は薄らぎ、その場の空気も和らいできました。
すると天皇は・・・

「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身、あなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」

戦争責任のすべてを追うというのです。

「死を伴うほどの責任・・・
 明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした
 私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」

気付けば会見の予定より大幅にオーバーしていました。
昭和天皇とマッカーサーは、35分の会見で心を通わせたのです。
会見が終わると、天皇を大使館の玄関まで見送りました。
予定外のことでした。

天皇との信頼関係が築けたことは、日本国民の信頼も勝ち得たと判断したのでしょう。
この会見の成功が、敗戦国日本の歴史を大きく変えることとなります。

1946年5月3日、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で極東国際軍事裁判・・・東京裁判が行われました。
ポツダム宣言に基づく戦争責任を追及するというものです。
注目されたのは、最大の責任アリとされた昭和天皇の処遇でした。
連合国側では、裁判にかけ、処刑追放するべきだという声が高まっていました。
マッカーサーは、天皇が日本の国際法違反に関与していないか、戦争責任はあるか、全ての証拠を収集せよと、アメリカ本国から命じられていました。

1946年1月25日、これに対しマッカーサーは、アイゼンハワー陸軍参謀総長に回答しています。
「天皇の犯罪行為について調査したが、過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからなかった
 天皇告発は、日本人に大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊は日本を崩壊させる」
マッカーサーはこう考えていました。
日本は降伏しても、天皇制は存続すると信じたからポツダム宣言を受諾した。
そのため、これを裏切り天皇を裁けば、ゲリラ戦が各地で勃発するだろう。
それを制圧するためには、膨大な費用と人材を要する・・・
占領を容易に遂行するためにも天皇を裁判にかけるべきではない・・・!!

マッカーサーは様々なてを打ちます。
1946年1月1日、昭和天皇の発意として「新日本建設ニ関スル詔書」を出します。
天皇自ら現人神であることを否定した人間宣言です。
原案は、GHQによって作られました。
①「人間宣言により新たな天皇像を作り上げ、天皇の独裁者のイメージを払拭しようとしました。
そして、天皇制を存続させ、天皇が裁判で糾弾されないよう、東京裁判の為に来日したキーナン首席検事にその意向を伝えます。
これによってアメリカ政府も天皇に”戦争責任を問わない”となりました。
しかし、他にも問題が・・・
東京裁判で審判をする連合国の内ソ連とオーストラリア・・・未だ天皇の戦争責任を追及する構えでした。
②天皇を裁かないことを前提に、裁判を進めるよう他国を説得し、同意させます。
裁判が始まると、天皇を裁かないことに矛盾が生じてきます。

東京裁判を行う上で大きな課題となった昭和天皇の戦争責任・・・
この時、天皇を糾弾せよという声を制したのは、天皇との会見をしたGHQ最高司令官マッカーサーでした。
マッカーサーの働きかけによって、天皇を糾弾しないという方向で進んでいきます。
ところが・・・
開戦当時の総理だった第40代内閣総理大臣東条英機への検察尋問で状況が一変します。

「天皇が望んでいないのに、あなたは戦争を選択した。
 このことについてどう思うか?」と聞かれ・・・
「私は忠実な軍人で、陛下に背いたことはない!」

これは即ち天皇の命令で戦争を行ったということ・・・
これでは天皇の戦争責任を追及しなければならなくなる・・・!!
そこで、アメリカのキーナン主席検事は、検察尋問を打ち切り、法廷が正月休みの間に東条が親しい軍人や官僚を使い説得させたのです。
東条は渋りながらも、天皇を訴追させないためにこう証言します。

「陛下には責任なし
 全責任は自分にある」と。

こうしてなんとか天皇を出廷させずに済みました。

マッカーサーは日本の占領において、民主化にも力を入れます。
それは、日本を二度と戦争国家にしないためです。
民主化の名のもとに、日本の軍事主義を徹底的には甲斐、壊滅することが大命題でした。
武装解除を行い、背後にある財閥やそれを運用する人間の追放を徹底的に行いました。

憲法改正・・・
マッカーサーは、占領当初から時代遅れの古い憲法を改正すべきだと口にしていました。
民主的な憲法を作るべきだ・・・!!
これを受けて日本政府は新たな憲法草案を作りますが・・・明治憲法に変わらないと却下されます。
そこで、GHQ主導の下で新憲法の製作に・・・!!
別名「マッカーサー憲法」と呼ばれた日本国憲法の草案・・・
その最初に掲げられたのが、天皇の地位についてでした。

天皇は国家元首の地位にある
皇位は世襲される
天皇の職務および機能は憲法に基づく

憲法草案に関わったホイットニー局長は、「草案が守られれば天皇は安泰になるだろう」といったといいます。
マッカーサー・ノートに基づく三原則
①天皇の地位は国民主権に基づくものとする
②戦争の放棄
③封建制度の廃止
でした。
この草案に、当時の幣原内閣は驚きます。
自分達には考えも及ばない形で、日本や日本国民の権利か書かれていました。
新しい日本の憲法草案は、当時世界の中でも斬新的な民主憲法だったのです。

新憲法についても、マッカーサーと天皇は話し合いました。
1946年10月16日、第3回会見
2時間にわたった会見で天皇は・・・
「日本国民は、戦争放棄の実現を目指してその理想に忠実でありたいと思う」by昭和天皇
「戦争放棄を決意する日本国憲法は歴史的な意味を持つだけでなく、戦争を放棄したがゆえに道徳的な評価を受けていて、その面で国際社会のリーダーになりうる」byマッカーサー
日本国憲法は、その年の11月3日に公布され、翌5月3日に施行されました。

こうして天皇は、国民の象徴となったのです。
強い信頼関係で結ばれていた天皇とマッカーサー・・・その内容は、回を追うごとに深みを帯びていきます。
第4回会見以降、マッカーサーは天皇を陛下と呼んだのです。
二人の関係は信頼そのものとなり、マッカーサーは、天皇を当惑させたり、屈辱したりしないよう気を遣ったといいます。

マッカーサーはGHQ最高司令官を突如解任されます。
それは、朝鮮戦争の進め方について当時のトルーマン大統領と意見が対立したからです。
この突然の報せに、日本は驚きます。
1951年4月15日、昭和天皇はなっかーさーに別れのあいさつに向かいます。
11回目・・・これが最後の会見でした。
そして・・・翌日、マッカーサーはあわただしく日本を去っていきました。
羽田空港へと向かう沿道には、新聞発表で二十数万もの人々が星条旗と日の丸を手に一行を見送ったといいます。
しかし、どうして日本を占領しに来た司令官がこんなに人気があったのでしょうか?

アメリカの援助物資はじめ、マッカーサーの政策が、自分たちの為になっている有難さを、日本国民は身をもって知っていたからです。
こうしてマッカーサーは、日本の統治を大成功におさめたのでした。

「私はいつも、占領政策の背後にある色々な理由を、注意深く説明したが、天皇は倭代謝話し合ったほとんど、どの日本人よりも、民主的な考え方をしっかり身に着けていた
 天皇は日本の精神的復活に、大きい役割を演じ、占領の成功は、天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」

天皇は・・・
「東洋の思想にも通じているあのような人が日本に来たことは、日本の国のためにも良かった
 一度約束したことは必ず守る信義の厚い人だ
 元帥との会見はいまなお思い出深い」

昭和天皇とダグラス・マッカーサー・・・この会見がなければ、日本はいまとは違った形になっていたかもしれません。
まさに、日本の運命を決めた世紀の会見でした。


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アメリカ海兵隊のクアンティコ基地・・・情報戦略の拠点です。
その地下倉庫に、アメリカ史上最大の犠牲を払った闘いの記録がありました。
太平洋戦争の激戦地・・・”ペリリュー島”の記録です。

初めて実戦で導入されたアメリカ軍最新鋭の殺戮兵器。。。
日本兵たちの狙撃。。。
戦闘意欲を失った日本兵への容赦ない攻撃。。。
過酷な戦場に耐え切れず精神が破壊されていく兵士・・・。
撮影したのは海兵隊18人の兵士たちでした。
プロパガンダ映画を作るために派兵されていたのです。
生き残れるかどうかは運だけ。。。
狂気が狂気を呼ぶ戦場。。。それがペリリューでした。

サンゴ礁に囲まれた周囲26キロの小さな島・・・
この地を巡って、日米が血で血を洗う戦いをしたのです。
アメリカ海兵隊が記録した死傷率は史上最悪で、およそ1万人の日本兵のうち、最後まで生き残ったのはわずか34人でした。
あまりの犠牲の多さと過酷さから、今まで語られることはありませんでした。

日本から南に3200キロ、パラオ諸島のペリリュー島には、今も太平洋戦争直前に作られた滑走路が残っています。
東洋一といわれた日本軍の飛行場で、一時は300機置かれていました。
戦いも終盤の1944年4月、ペリリュー島守備隊長としてやってきたのは中川州男率いる陸軍歩兵第2連隊。
関東軍として派遣された中でも最強と謳われた連隊です。

この頃・・・サイパン島・ニューギニア島・・・アメリカ軍に絶対国防圏の島々を占領されてきていました。
アメリカ軍は、日本の拠点・フィリピン・レイテ島に照準を置いていたのです。
そのレイテ島攻略のために・・・ペリリュー島の飛行場に戦略的価値を見出していたのですが。。。
日本もそれに気づいて精鋭部隊を送り込んでいたのです。

1944年9月、ペリリュー島攻略に向かうアメリカ軍。。。
中心となったのは、1万3000人に及ぶ第一海兵師団でした。
海兵隊きっての精鋭部隊です。
第1海兵師団師団長のウイリアム・ルパータス少尉は、「3日もあればペリリュー島を制圧できる」と、考えていました。


9月15日・・・上陸作戦が始まりました。
目指したのは飛行場に近い西側の海岸。。。
日米の激突が始まりました。
一番に上陸したのは第1海兵師団・第1海兵連隊・3000人です。
日本軍の猛攻を受けながら前進しました。

日本軍の”バンザイ突撃”に備えます。
圧倒的武力でこれを突破してきたアメリカ軍は、3日で決着がつくと思っていたのです。
しかし・・・バンザイ突撃はありませんでした。

どうしてバンザイ突撃はなかったのか???
日本軍の大本営は、戦術の大転換を行っていました。
サイパンの玉砕を受け・・・バンザイ突撃を禁止し、戦いを長引かせるように転換していたのです。
その最初の戦いの場が、ペリリュー島だったのです。
ここを境に、日米の戦い方が大きく変わっていきます。

中川大佐は、持久戦の準備に取り掛かります。
固いサンゴを掘り掘り、複雑なトンネル陣地を構築していきます。
1000人以上入れる物もありました。

上陸から8時間後・・・アメリカは最大の目的、飛行場の制圧に取り掛かります。
飛行場防衛の要だった戦車隊は初日で壊滅。。。
飛行場を制圧するため、前進するアメリカ兵たち。。。
岩山からの日本兵の銃弾攻撃に、なかなか前へは進めません。

上陸して3日目。。。飛行場付近の日本の陣地を制圧するアメリカ。。。
米などの備蓄倉庫もアメリカ軍の手に落ちます。
3日間の戦いで亡くなった日本兵は、少なく見積もっても2400人。
アメリカ軍も2000人の死傷者を出していて。。。
3日で落とせると思っていたアメリカ軍が、この時点で制圧できていたのは1/3でした。
兵士の間で不安が高まっていきます。

陸軍から援軍を受けるべきだ!!という意見も出始める中、ルパータス少尉は支援を断ります。
陸軍をライバル視していたので、海兵隊単独での勝利にこだわったのです。

お蔭でアメリカ軍は、急峻な岩山での戦いに引き込まれていきます。
日本軍の守備隊の訓示・・・必殺必勝の訓示。。。
それは、戦力に劣る日本軍の接近戦でした。
日本軍のゲリラ戦で、負傷兵が増えていきます。
トンネルからの不意打ちな攻撃に悩まされるアメリカ兵たち。。。
精神的に追い込まれていきます。

この接近戦・・・もはやどこが前線かもわからない状況になっていました。
精鋭部隊なアメリカの海兵隊も、上陸から1週間後・死傷率が60%を越えます。
海兵隊創立後、最悪の事態でした。
上陸から1週間後には撤退を余儀なくされます。

この間にも、ペリリュー島に対する戦況は変わっていました。
マッカーサーの陸軍6万人が、ペリリュー島陥落を待たずにレイテ島に上陸することを決定。
ペリリュー島の戦略的意味が無くなってしまいました。

上陸から2週間。。。
多くの犠牲者を出していたアメリカ軍は、最終の兵器を出してきました。
火炎放射器を搭載した装甲車です。
炎を130m先まで噴射することができます。
日本兵を生きたまま焼き殺すのです。

さらに上空からはナパーム弾を投下。
岩山をまるごと焼き尽くします。
日本兵の死者は9000人を超え・・・
生き残った兵士はトンネル陣地で隠れているほかはありません。
投降はもとより玉砕さえ許されない持久戦は、1月以上に及びました。

小さな島は死体の山となっていきます。
50日が過ぎた12月8日・・・中川大佐率いる隊は300人となっていました。
食料も、武器も尽き・・・飛行場に斬り込む覚悟を決め、玉砕を決行しようとします。
が、持久戦を最後まで続けるように指示されます。

アメリカでもひとたび始まった戦いが見直されることはありませんでした。
10月20日マッカーサーがレイテ島に上陸、この時点でペリリュー島の戦略的意義が無くなります。
大きな戦局から取り残されるペリリュー島・・・しかし、いつ終わるかもわからない戦いは続きます。

憎しみが憎しみを呼ぶ狂気の戦場ペリリュー島。。。
正気を保つことさえできなくなっていく異常な戦場の中、その殺戮は味方にまで及んでいきます。

11月24日、日本軍・守備隊本部以外はすべてアメリカ軍に制圧されていました。
この時、日本軍の生き残りは120人・・・。
長期持久戦を続けてきた守備隊長は、「状況切迫、陣地保持ハ困難ニ至ル」と電報を打ち、自決しました。
その後、アメリカ軍による敗残兵の掃討が行われ、74日に終わる戦いが終結しました。

日本軍がペリリュー島で初めて行った長期持久戦・・・
それに初めて対峙したアメリカ軍。。。
そしてそれは、硫黄島、沖縄へと続くのです。

日本が長期持久戦によって最後まで徹底抗戦をするとさとたアメリカ軍。。。
ペリリュー島で洞窟に潜む日本兵に使った火炎放射器やナパーム弾を、硫黄島や沖縄ではさらに大々的に行って・・・
遂には日本の本土を焼き尽くす焼夷弾の使用にまでつながっていきました。
容赦なき戦いの原点が、ペリリュー島の戦いなのです。

あれから70年・・・

ペリリュー島ではあらたにトンネル陣地が見つかります。
そこには日本軍の武器がそのままに残っています。
島には、2500人にも及ぶ日本兵の遺骨が今なお眠ったままです。

狂気の戦場ペリリュー・・・地獄のような戦場。
70年経った今も、兵士たちは苦しみから逃れることはありません。

ペリリュー島の戦いは、戦争が何をもたらすのか???訴え続けています。


私は父方の祖父をペリリュー島の戦いで亡くし、母方の祖父は硫黄島の帰還兵でした。
昨日の終戦の日・・・全国戦没者追悼式があり、80歳になる父も遺児として、母と共に参列してきました。

なんだか重く考えさせられる番組でした。


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人生の目標に向かって・・・信念に従って・・・!!
自ら信じる美学にこだわり続け、幾多の栄光と挫折を味わいながら俺流を貫き通した男・・・マッカーサーです。

終戦後の日本に現れたマッカーサー元帥・・・連合国軍最高司令官です。
桁外れのリーダーシップで政策を推し進めます。
若いころから常にトップのエリート軍人でした。

独特のスタイルと破天荒な男!!
奇抜なファッションと個性。。。

カリスマであり、英雄にはもう一つの顔がありました。

厚木基地での有名な写真。。。

ma






















トレードマークは帽子、サングラス、コーンパイプです。
自らデザインした帽子で、クシャッとつぶれています。

「私の記憶に残る一番古い思いでは、兵営のラッパの音だ。」
1880年1月26日・・・ダグラス・マッカーサー誕生。
アメリカ南部のアーカンソン州の兵舎で生まれました。

裕福な家庭に育った母は、いつも身だしなみに気を付けていました。

「名家に恥じぬよう立ち振る舞いに気を付けなければいけません。」

父・アーサーは、南北戦争で活躍し、英雄と言われたエリート軍人でした。

「常に勇気を持ち、男らしくあれ。」

13歳の時・・・
父を超える偉大な軍人になることを決めました。

ニューヨーク州ウエストポイントにある陸軍士官学校。
アメリカでもっとも古い歴史ある士官学校・・・エリート養成学校に1899年19歳で入学しました。
軍人になるための第1歩を踏み出しました。
やんちゃで目立つマッカーサー。

しかし成績優秀で、密かに猛勉強もしていました。

首席で士官学校を卒業します。
成績は・・・ほとんど満点でした。
得点率98%という驚異的な成績でした。

その後は、エリートが配属される工兵隊に所属し、その前途は洋々たるものでした。
しかし・・・29歳のころ。。。
陸軍参謀総長への就任が有力視されていた父が、大統領と対立し失脚・・・!!
3年後帰らぬ人となってしまいました。

遺言には・・・「陸軍による葬式を拒否する!!」
と、書かれていました。

32歳の時・・・マッカーサーにとっての英雄だった父の死。。。

「世界はその夜変わってしまった。
 私の心のいてでは癒されることはなかった・・・」

父の無念を晴らしたい!!
自分自身が何が何でも頂点に立つ!!と思うようになります。

1917年第1次世界大戦に参戦・・・
37歳のマッカーサーは、指揮官としてフランス戦線へ・・・!!
長いマフラーをなびかせた奇抜なファッションで最も派手な指揮官として有名になりました。

あえて目立ち、古いタイプの指揮官を意識していました。
司令官で部隊のイメージが決まると考えていました。

そして行動も破天荒!!
銃弾が飛び交う中でもヘルメットなし!!

戦闘になると最前線に飛び出し、危険を顧みない勇猛な戦い方でした。
戦場では・・・”銃弾もマッカーサーを避けて通るのだ!!”と伝説となりました。
戦場の指揮官としての資質があったのです。
尊敬を得、効果的に指揮することが出来ます。

指揮した部隊は次々と戦線を突破し、勝利に貢献したのです。
15の勲章を授与され、英雄とされました。

1930年・・・50歳の時に最年少で陸軍参謀総長に就任。
父の果たせなかった夢を実現したのです。

しかし・・・世界大恐慌で、アメリカは深刻な不況にあえいでいました。
フランクリン・ローズベルト大統領は・・・
軍の予算を半分にすることを要求!!
これに猛反発したマッカーサーは・・・
「次の戦争で負けて 兵士が死に際に
 呪いの言葉をはくときには
 あなたの名前を口にするでしょう」

マッカーサーはその後も度々大統領と対立し、陸軍参謀総長を解任されてしまいました。
しかし・・・新天地を求めて・・・
1935年アメリカの植民地だったフィリピン軍の顧問に就任。
フィリピン軍の創設に関わることになります。

軍事顧問を足がかりに行政長官を狙うようになります。
いずれは政界へ。。。!!


1941年、61歳の時に太平洋戦争開戦。
ハワイの真珠湾を奇襲されたのです。
日本軍はその日のうちに、フィリピン上空へ・・・!!
この時、マッカーサーは大きな過ちを犯していました。

真珠湾攻撃の一報後、部下から出撃を提案されますが、承認せず・・・戦闘機や爆撃機はそのまま残っていました。そこを日本軍に狙われ・・・わずか数分で航空部隊の大半を失ったのでした。

開戦から3週間後、日本軍はマニラを占領、マッカーサーはコレヒドール島に撤退を余儀なくされました。
この時も、持久戦になることは考えずに、食料の備蓄はほとんどなく・・・深刻な食糧難へと陥るのでした。

前線の兵はマッカーサーのことを・・・
”ダグアウト・ダグ”・・・防空壕のダグと、揶揄しました。
第1次大戦の英雄が・・・!!

しかし・・・アメリカでは、日本軍と戦う英雄となっていました。
新聞やラジオは連日マッカーサーを称え、通りもできました。
そこには・・・??
マッカーサーには、報道発表という戦場もありました。
リーダーシップの他に、個人的野望も発揮していたのです。
日本軍に追い詰められ負ける中・・・
140回報道発表しています。

なかには、ありもしないでっち上げもありました。
”日本軍の輸送船を撃沈し、多数溺死させた”

激しさを増す日本軍の攻撃・・・
コレヒドール島陥落は、時間の問題でした。


1942年3月、大統領はマッカーサーにフィリピン脱出を命令します。
絶大な人気を誇るマッカーサーが、日本軍にとらえられたら・・・???
と、判断したのです。

マッカーサーは、大半の部下を戦場に残したまま、オーストラリア・メルボルンへと脱出します。
初めての負け戦でした。

オーストラリアについたマッカーサーは・・・

「 I shall Return 」

と、演説するのです。

軍から「I」を「We」に変えるように要望がありましたが、マッカーサーは「I」と表現しました。

常にマッカーサーが背後にいる!!
Shallという古い言葉をあえて使うことで、強い決意を表現しているのです。
20世紀最大のサウンドバイトです。

「マッカーサーを大統領へ!!」

太平洋戦争中に、ポスターが作られます。
1943年65歳の時・・・1通の手紙が届きました。
共和党の大統領候補に???

マッカーサーは表向きには無関心を装っていましたが・・・
部下に自分の人気を調べさせていました。


サングラスでミステリアスを醸し出し・・・コーンパイプでアメリカを表現します。
このスタイルには、大統領選挙の意欲が感じられるのです。
1944年黙認する形で大統領選挙へ・・・!!

しかし・・・最初の戦いに負けると・・・

「私は指名を切望しないし、その受託もしないだろう」

このまま選挙戦を続け、負けることはありえない・・・!!
この頃から、自分の見え方を意識するようになります。

1944年10月レイテ島を日本軍から奪還!!
約束を守り、再びフィリピンにやってきたマッカーサー・・・
しかし、船は浅瀬に座礁し・・・服がぬれることに・・・
激怒したマッカーサーでしたが、写真を見て・・・

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水しぶきを上げ男らしい自分に気分を良くし、ポスターを作らせます。

”マッカーサーは戻った”

300万枚まかれたのでした。

1945年8月、65歳で太平洋戦争終結。

マッカーサーは、日本を統治する連合国軍最高司令官として厚木基地に到着!!
敵地にひとり、タラップに丸腰で立つマッカーサー。。。

カメラマンの前でコーンパイプをふかします。
部下の護身用の拳銃に・・・
「そんなものは外せ
 彼らが我々を殺そうと思ったら、拳銃など役に立たない
 それよりも、おそれを見せない堂々とした態度に勝るものはない」

その姿は、敗戦国・日本国民の目に焼き付けられたのでした。

一方マッカーサーは、日本を理解しようと猛勉強していました。
日本の歴史・・・天皇に敬意を払って民主化をすすめます。
その結果が、日本の力強い経済と発展への道を開いたのでした。

日本でのマッカーサーは、厚木基地に一目見ようと人が溢れかえり、1日に1000通の手紙が届いたほどでした。

この業績は、アメリカ国民にも伝えられていました。
1948年68歳で大統領選挙。
アメリカでの人気は絶大のマッカーサー。

日本にいながら、大統領選挙出馬を正式に受託します。
大統領になる夢を捨ててはいませんでした。

「ここ日本にいる限り、神秘性が保たれる」

と、日本にいながら選挙に挑んだのです。

しかし・・・1094票中11票と、惨敗でした。
そして・・・態度を一変させました。
「私は公職を求めることもないし、日本での任務を離れる予定もないと、繰り返し伝える必要があると思う」

1950年朝鮮戦争勃発!!
70歳となったマッカーサーは・・・再び戦場へ舞い戻りました。
しかし、中国の参戦を機に原爆投下をを主張したマッカーサーは、第3次世界大戦を怖れるトルーマン大統領と激しく対立します。
「マッカーサー大統領の解任は、我々の政策の遂行のために不可欠と判断した」
マッカーサー解任。。。52年にわたる軍人生活に終止符が打たれました。

その決定を下したのも、またもや大統領でした。
1951年4月、14年ぶりにアメリカに帰国します。

議会での演説で・・・

ma2












”老兵は決して死なず ただ消え去るのみ
 いまや自分の軍歴を閉じ 消え去るのみである
 神が与えてくれた才能に従って、
 任務を果たさんとした1人の老兵として”

マッカーサーは、表舞台から去ろうとしていました。
翌日ニューヨークで行われた帰国歓迎パレードでは・・・
大群衆が!!
沿道には750万人が・・・!!
自分がまだアメリカの英雄であると実感した瞬間でした。

翌年の大統領選挙では・・・
自ら出馬せずに大統領候補の応援に・・・!!
当選の暁には、副大統領と全軍総司令官代理の地位が・・・!!
最大の敵は、自分の部下だったアイゼンハワー。

マッカーサーと並ぶ英雄となっていました。

候補者争いに勝ったのは、アイゼンハワーでした。
アイゼンハワーは、孤高の人・マッカーサーと正反対の人物で。。。
軍人たちを褒め称えました。
「I」ではなく「We」で人々の心をつかんだのです。

「I」で自分を貫き通したマッカーサー。。。
その後、政治の表舞台に立つことはありませんでした。

1964年4月5日マッカーサー死去、享年84歳でした。
アメリカ全土で英雄の死が悼まれたのでした。

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東京裁判を批判したマッカーサー元帥の謎と真実―GHQの検閲下で報じられた「東京裁判は誤り」の真相

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第2次世界大戦中、連合国としてともに戦ったアメリカとソ連。。。
戦後処理や復興政策の違いで対立していくようになります。

ソ連は、ナチスドイツから解放された東ドイツで勢力を広め、東欧諸国はソ連の指導下で社会主義圏を形成。

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これに対し、イギリスの首相チャーチルは、“鉄のカーテン”が下されているとソ連を非難します。それと共に、アメリカも対立していきます。

第2次世界大戦中の連合国の異質な存在だった大国ソ連。
ソ連・・・ソビエト社会主義共和国連邦です。
1917年のロシア革命により誕生したソビエト政権を経て、1922年に成立しました。

ソ連が力をつけていく中で、自由主義の代表となってきたアメリカが、経済的にも軍事的にも対抗していくようになります。
宇宙競争をはじめ、あらゆる面で対立していくようになります。
冷たい戦争=冷戦と呼ばれています。

帝国主義のような支配下に置いて植民地化にする(市場と原料を求める)領土を広げることではなく、経済・イデオロギー・・・すべてにおいて違うお互いへの危機感が、“小国が大国によって分断されてしまう”・・・という構図を招くのです。


第2次世界大戦から4年後の1949年NATO(北大西洋条約機構:アメリカを中心とする反ソ軍事同盟)結成。
その6年後、1955年には、ワルシャワ条約機構(ソ連と東欧諸国の8か国による軍事同盟)結成。
世界は、アメリカを中心とする資本主義国家とソ連を中心とする社会主義国家に二分されるようになります。
静かに睨みあうアメリカとソ連・・・
そこで起こったのは・・・朝鮮戦争。

第2次世界大戦後の朝鮮半島は、38度線で南北に分け、ソ連とアメリカが占領。
3年後の1948年にアメリカ占領地域で大韓民国成立。(大統領:李承晩)
同じく1948年にソ連占領地域に朝鮮民主主義人民共和国(首相:金日成)が成立します。

朝鮮は、もともと1910年に日本の植民地となりました。
太平洋戦争が終わり日本の支配が無くなり・・・朝鮮半島をどうするのか?
というときに・・・話し合いの結果、朝鮮を独立国家にすることが決まっていましたが・・・

敗戦間直の1945年8月8日に日ソ中立条約を破り、ソ連が対日参戦します。
満州国・朝鮮に侵攻しました。
1945年2月ヤルタ協定で米・ソ・英の間で密約されたことです。
朝鮮をどんどんソ連が制圧していく・・・これにあせったアメリカは、二つに分けて統治しよう・・・将来的には一つに・・・。

話し合いをしても決着はつかずに、それぞれの主義をもった国が登場してしまいました。
数年後・・・アメリカもソ連も撤退し・・・
半島統一の為に戦い北朝鮮・金日成に対し、ソ連のスターリンは・・・
アメリカとの戦争を危惧して許可しません。
しかし1950年・・・ついに許可をします。

なぜスターリンは北朝鮮の韓国侵攻を許したのか?
①ソ連が核開発に成功
②1949年中華人民共和国成立
③1950年アチソン演説(アメリカ不介入)
1950年、アメリカのアチソン国務長官が行った演説で・・・
アチソン・ライン(不後退防衛線)というのを示します。
これは日本やフィリピンを含むアメリカが責任を持つ郡司防衛ラインのことです。
そこに朝鮮半島は含まれていなかったのです。
必ずしもアメリカの朝鮮戦闘介入を否定したものではなかったのですが・・・


1950年6月北朝鮮が韓国に侵攻。
その数日後、アメリカが参戦。
予想外のことが起こった北朝鮮・・・
アメリカは国連を利用して、アメリカ・イギリス・カナダ・オーストラリア・トルコ・・・国連軍を構成します。
実際はアメリカ軍が主体でしたが・・・。

中国は、人民解放軍を使ってまたもや南下してきます。
丁度38度線で膠着状態になってしまいました。

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大国の思惑によって民族が分断された瞬間でした。
同じ民族同士が血を流し・・・今もまだ国が・・・民族が分断されています。

これは、世界大戦につながる可能性がありました。
マッカーサーは、満州地域を空襲しようとか、原爆を落とそう・・・と、提案していましたが・・・トルーマン大統領は、38度線を守れればいいのでは???
と、意見が相違し、マッカーサーは解任されました。
この時アメリカが攻撃していれば、第3次世界大戦が勃発していたかもしれません。


ベトナム戦争は・・・
ベトナムは、フランスや日本に1945年まで占領されていましたが・・・

1945年9月2日革命家ホー=チ=ミンが、ベトナム民主共和国建国を宣言。
しかし、フランスが戻ってきます。
南部の肥沃な地域が欲しかったようです。
傀儡政権を南政権に作ります。
しかし、インドシナ戦争に負けることとなるフランス。
ベトナム撤退などを定めた条約を・・・
1954年ジュネーブ休戦協定が結ばれます。
統一国家をつくっていこうとなっていましたが、これをアメリカが容認しませんでした。
もし南ベトナムを含むベトナム全土が共産主義になってしまったら???
カンボジア・ラオス・・・他の国々が、共産主義になってしまうことを恐れたのです。

フランスに勝利をおさめながらも、北緯17度で南北に分断・・・

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ベトナム戦争はどのようにして始まったのでしょうか?
アメリカは、もともと支援だけ・・・
北ベトナムが南へ南へと・・・進んできたので、なし崩しに始まってしまいました。
始まったのはいつか分からない・・・というのがベトナム戦争の特徴ですが、1965年に北爆し、本格的な軍事介入が始まりました。
アメリカが南ベトナムを支援し、北ベトナムの爆撃を開始・・・北ベトナムにはソ連と中国がつき、南北の争いは激化していきます。

どんどんアメリカ兵、韓国兵・・・
共産主義化を防ごうとします。
ジャングルを丸裸に!!
枯葉剤をまいて・・・泥沼の戦争を始めます。

勝ったのは、北ベトナム・・・
アメリカは撤退し、北ベトナムの政府が誕生します。
アメリカは、大量の兵を投入しながら、敗れることになったのです。

大国の思惑で始まった戦争でしたが、そこには新しい形の戦いが・・・

ベトナムの民族自決・・・独立戦争でもあり、大国・アメリカとも戦っていく!!
アメリカ・日本でも反戦運動が起き、アメリカ・ソ連・中国などの大国の思惑も外れたものになっていきます。


当時の社会では、社会主義・・・共産主義化・・・などを持っていたソ連と、自由主義のアメリカ・・・今では考えられないイデオロギーの戦いがそこにはありました。


なぜ冷戦下で戦争が起きたのか?
戦争とは、大国の思惑によって引き起こされます。
大国が大きく変わらなければ、これからも連鎖していく・・・
その連鎖はなかなか止めることは出来ません。

20世紀は、大国の思惑と、戦争を支持した民衆の悲劇の時代でした。

池上彰の現代史講義~東西冷戦とベルリンの壁崩壊~はこちら

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