日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:マリー・アントワネット

今からおよそ250年前、オーストリアの王女マリーは、フランスのルイ16世と結婚。
パリの民衆は、このロイヤルウェディングを大歓迎・・・華やかな式典は、2週間以上続きました。
しかし、バラ色の門出は悲劇への第一歩でした。

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パリから南西20キロに位置するベルサイユ宮殿・・・
マリーとルイは、この壮麗な宮殿で暮らしていました。
しかし、結婚から4年後、ルイは20歳で新国王、マリーは19歳で王妃。

「なんという重荷だろう
 私は何も教わってこなかった」byルイ16世

「統治するには私たちは若すぎます」byマリー・アントワネット

宮廷での生活に嫌気がさしたマリー・・・夜遊びや庭園づくりに散財!!
イケメン貴族の恋人も作りました。
妻のワガママと浪費を許したルイ・・・しかし、戦争や凶作が続き、国の財政が悪化します。
貧困にあえぐ国民を救うため、ルイは改革を次々断行します。
ところが、フランス革命が勃発!!
食糧を求め、群衆が宮殿内に乱入します。
彼らが非難したのは、国王ではなく、贅沢三昧の王妃でした。
夫婦はベルサイユからパリへ連れ出され幽閉!!
しかし、マリーは諦めませんでした。
母国オーストリアへの亡命を計画します。
国王一家は、馬車でパリを脱出しました。
しかし、逃亡劇は失敗し、夫婦は24時間監視のもと、狭い塔に閉じ込められました。
皮肉にも、この時初めてルイとマリー、そして子供たち、家族だけの幸せな時間を持つことができました。
しかし、ルイは裁判にかけられ、ギロチン台へ・・・!!

「私のせいで妻にふりかかってしまった不幸
 そして、共に過ごした期間に、私が彼女に与えたであろう悲しみを許してほしい」byルイ

さらに、マリーも・・・

「さようなら子供たち
 あなた方のお父様のところに行きます」byマリー

断頭台の露と消えたマリー・アントワネットとルイ16世、その数奇な運命とは・・・??

ベルサイユ宮殿で始まったマリーアントワネットとルイ16世の新婚生活・・・
歴代の王妃は、目立たず自己主張もせず、世継ぎを生むための役割。
マリーのような天真爛漫な王妃は、前代未聞でした。
しかし、ルイはマリーのふるまいを許しました。

フランス国王ルイ16世は、1754年8月23日にベルサイユ宮殿で誕生。
引っ込み思案な性格で、ダンスも会話も苦手でした。
そんなルイは、錠前や時計を自作するなど機械いじりに夢中でした。
頭脳明晰で、1日7時間勉強し、最先端の本も読み漁りました。
中には、人間の平等や権利を唱えるルソーやモンテスキューなどの啓蒙思想家などの著書も。
ベルサイユ宮殿の庭師に気軽に話しかけて一緒に梯子に登ったりもしていました。
そんなルイのもとに嫁いできた15歳のマリー・アントワネットは、オーストリアの名門・ハプスブルク家に、16人兄弟の末娘として1755年11月2日に誕生しました。
美しい容姿に愛嬌のある性格でしたが、勉強は苦手でした。
王家の教養として、文学、歴史、フランス語など学びましたが、隙あらばサボっていました。
そして、母はオーストリアの君主で実質的な女帝マリア・テレジアでした。
マリア・テレジアは、子供達に政治的な使命を課していました。
それは、政略結婚です。
子供達が諸外国との友好の証となり、外国の政治をオーストリアに有利になるように間接的に操ろうとしました。
マリーも、ヨーロッパで急速に力をつけてきていた新興国・プロイセンに対抗すべく、フランスに送られたのです。
1770年、16歳のフランス王太子ルイと、15歳のオーストリア王女マリーの政略毛婚が実現します。
ベルサイユ宮殿で、2人の結婚式が盛大に行われました。
パリ市民もマリーを熱烈に歓迎し、祝賀は2週間に及びました。
結婚式でルイの様子を見た出席者は、 

「王太子は震えており、新婦の細い指に指輪を通すときは赤面していた」

結婚初夜の寝室では、お互いの遠慮と疲労もあって、なにごともありませんでした。
マリーは夫にこう語りかけました。

「私たちは、一緒に仲良く暮らしていかねばならないのだから、心を許してなんでも打ち明けるようしなくてはなりませんね」byマリー

けなげで前向きな提案でしたが、実行はされませんでした。
これから7年に渡り、夫婦の営みは不首尾に終わったと言われています。

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さらに、新婚生活が始まると、マリーには困惑させられることが・・・
故郷とは全く違う儀式やしきたり・・・
フランスでは、王家と国民の距離が近く、ルイ14世の時代から宮殿内を一般公開されていました。
しかも、朝起きて、服を着替える場面から食事まで、ほとんどが儀式として誰でも見ることができました。
プライバシーが全くない生活に、マリーのストレスはどんどん溜まっていきます。
そのはけ口となったのが、連日の夜遊びでした。
夜な夜なパリに出かけ、オペラを観賞したり、仮面舞踏会を楽しみました。
さらに、明け方までギャンブルに熱中し、借金を作ることもありました。
そんな中、夫婦の立場を一変させることが起こります。
祖父・ルイ15世が64歳で病死しました。
1774年、ルイ20歳の時に新国王に即位・・・マリーは王妃となりました。

「なんという重荷だろう! 
 私は何も教わってこなかった!
 世界が私の上に落ちてくるような気がする!」byルイ16世

「神様、私たちをお守りください!
 統治するには、私たちは若すぎます」byマリー

国王と王妃になり、大きなプレッシャーを背負った二人・・・
まず、新婚当初から上手くいっていなかった夫婦の営みの解決を目指します。
1778年、マリー23歳、ルイ24歳の時に女の子(マリー・テレーズ)が誕生しました。
ようやく出来た子供に、フランス中が沸きました。
私生活が充実したルイは、政治改革にも力を注ぎます。
まず率先して宮廷内の贅沢にブレーキをかけます。
食費と衣服費、国王遊興費などを減額、ルイの警備につく人数も少なくしました。
さらに、農奴制を配し、領主から過酷な土地代を課せられていた農民たちを解放しました。
また、拷問による処罰も廃止、ルイは、受刑者に苦痛を与えないよう一撃で斬首できるギロチンを採用しました。
刃を斜めにするようにアドバイスしたのも機械好きのルイでした。

国王として、国の舵取りを始めたルイ・・・
実は、マリーは母国オーストリアから政治的な役割を背負わされていました。
直接ルイの政策に関与できなくとも、人事に介入し、オーストリアに都合のいい人物をフランスの要職に推薦します。
ルイはフランスの為、マリーは母の統治するオーストリアの為、夫婦の思惑は完全に違っていました。
しかし、ルイは、重要な大臣の人事には妻に口を出させませんでした。
普段は、妻のしりに敷かれるふりをしながらも、政治の場ではマリーのわががまを聞きませんでした。
その為、マリーは母の期待に応えられませんでした。

ルイは間違いなく、マリア・テレジアの思惑に気付いていました。
私生活では多少はマリーの自由は許すものの、政治や経済となると話は別・・・!!
政治面では妻に厳格な態度で接したルイでしたが、家庭内では優しい夫でした。
マリーにプチ・トリアノンと呼ばれる離宮をプレゼント。
政治から遠ざけられたマリーは、プチ・トリアノンの庭園づくりに力を注ぐようになります。
総額およそ200万リーブル・・・200億円という費用をかけて、母国オーストリアの田園風景を再現しました。

「いくら美しくても、ベルサイユの庭園は苦手だし、もう見飽きてしまった
 私に相応しいのはもっと自然に近い自由で生き生きとした庭なのだわ」byマリー

マリーは、ごく親しい友人だけを離宮に呼び、楽しい時間を過ごす社交場としました。
さらに、ここにはマリーが心をときめかせた男性も訪れました。
スェーデン出身の貴族・フェルセン伯爵です。
背が高く、ハンサムで雄弁家・・・有望な外交官でした。
3年前にマリーと舞踏会で出会うと、同い年ということもあって、急速に親しくなりました。
生涯独身を貫いたフェルセンは、マリーへの思いを綴っています。

「たとえ不自然であっても、私は決して結婚しないだろう
 私がその人のものになりたいと思っているただひとりの人
 私を本当に愛してくれる唯一の人
 その人のものになることが私には出来ないのだから」byフェルセン

ルイは、見て見ぬふりをしていました。
この時、マリー23歳、ルイ24歳でした。

ルイが35歳の時、貧しい民衆たちの不満が爆発!!
武器を携え、警備の兵を押しのけ、ベルサイユの王の寝室に迫りました。
妻子に危険が迫る中、ルイは武力を使って暴徒を押さえることもできました。
しかし・・・

「決して銃を向けてはならない」

どうしてこう命令したのでしょうか?
マリー・アントワネットが29歳の頃に出回っていた風刺画・・・
女の顔と胸を持つ鳥は貪欲の象徴・・・
マリーの贅沢な生活ぶりは、国民の怒りを買いました。

プチ・トリアノンの改装など、国民の目からすればただの税金の無駄遣いでした。
マリーは次第に”赤字夫人”と呼ばれるようになります。
しかし、国民が貧困にあえぐ原因は、ルイ16世の政治姿勢にもありました。
ルイは23歳の時からアメリカの独立戦争を支援していました。
その背景は、アメリカの戦争相手が宿敵・イギリスだったからです。
敵の敵は味方・・・!!
しかし、国内の景気が悪化しているにも関わらず、海の向こうの戦争に金を投じ、ますます財政難に・・!!
ルイはこの窮地を脱するため、優秀な銀行家として評判だったネッケルを財務長官にします。
ルイは、国の財政改革を人々にアピールするため、ネッケルに一冊の本を出版させます。

”国王への報告書”

本には、公費や税金の使い道が細かく記されていました。
財務を透明化し、聖職者や貴族の贅沢三昧を国民に訴え、財政改革の後押しにしようとしたのです。
報告書は、10万部を超えるベストセラーとなります。
しかし、このことが、ルイの思惑と全く違う方向に・・・
なんと、報告書には、宮廷の支出が公共事業の7倍も使われていた事実が乗ってしまいました。
これによって、批判の矛先は聖職者や貴族という特権階級より王室へと向かったのです。

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ルイが逆風を受けながらも改革に力を注ぐ中、私生活で夫婦に変化が・・・
1781年、マリーが25歳の時に待望の男の子ルイ・ジョゼフ誕生!!
さらに4年後には、2男のルイ・シャルルも誕生!!
王家の後継者問題は、これで解決!!
当然みんな喜んでくれると夫婦は思いました。
しかし、国民の反応は冷ややかでした。

”父親はあのフェルセンなのでは??”

マリーは国民に嫌われていました。

「一体、私があの人たちに何をしたというのでしょう」byマリー

さらにルイが34歳の時、フランスが危機に見舞われます。
夏は大雨、冬は零下20度の極寒という異常気象・・・農業と商業は大打撃を受け、食うや食わずの人がパリに溢れました。

1789年、ルイ35歳の時、この状況をなんとかしようと従来の王政とは違う議会三部会を開催。
三部会とは、国王主体で改革を行うための議会です。
第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民、各代表により政策を話し合います。
ルイの狙いは免税特権を持つ聖職者と貴族に税金をかけ、平民の負担を減らすことでした。
平民からは大歓迎の改革でした。
しかし、既得権益を守るため、聖職者と貴族は大反対!!
三部会は紛糾し、行き詰ってしまいます。
この状況を打開しなければならないルイ!!
しかし、それどころではない事態が起きます。
長男ルイ・ジョゼフの健康が急速に悪化。
わずか7歳でこの世を去ってしまいました。
夫婦は悲嘆にくれ、数日間喪に服しました。

しかし、数日後、三部会の議員たちが突然宮殿にやってきました。
数日間議会を欠席したルイに改革を進めてほしいというのです。
するとルイは・・・

「そなたたちの中に、子を持つ父親はいないのか」byルイ


「可哀想な息子の死さえ、国民には伝わってはいなかった」byマリー

ルイの政治改革は失敗し、国民の不満は爆発!!

1789年7月14日、5000人の平民が兵器や弾薬を求めバスティーユ牢獄を襲撃します。
遂に革命が始まりました。
民衆の勢いは止まらず・・・3か月後、8000人の主婦らが、パリの広場に集まり、「パンをよこせ」と叫びながら、ベルサイユを行進し、宮殿にまで押し寄せました。

「私の首を求め、あの人たちがやってきたことはわかっていますが、死を恐れないことを母から学んでいます」byマリー

この危険な状況にもかかわらず、ルイは兵士たちに

「国民に銃を向けてはならない」byルイ

しかし、その思いは届きませんでした。
一部の武装した民衆が、マリーへの怒りで宮殿に乱入。

「俺たちはあの女の首を切ってやる
 心臓と肝臓をクリームで煮込んでやる」

なんとか民衆を追い返し、窮地を脱したルイ・・・
しかし、民衆の怒りは収まりません。
今度は、ルイとマリーたちにバルコニーに出てくるように要求してきました。
ルイたちが表に出ると意外な反応が・・・

「国王万歳!!」

そして国王夫妻は、パリへ来いと要求されます。
民衆は、自分たちの住むパリに、国王に来てもらい、共に改革を進めたかったのです。
夫婦は渋々この要求をのみ、ベルサイユを後にします。
そして、二度と戻ることはありませんでした。

パリに連行されたルイとマリーと子供たちは、チュイルリー宮殿に幽閉されました。
とはいえ、生活の自由度は高く、ルイは避暑地で狩りもでき、マリーはフェルセンと会うことができました。
にもかかわらず、国王一家はパリから逃亡を図ります。
チュイルリーは、100年以上前にたてられた宮殿・・・
一家はベルサイユと比べ宮廷の規模が小さくなった分、家族で過ごす時間が増えました。
マリーはシャルルと連れ立って、庭園を散歩しました。
庭園は一般に公開されていたので、皇太子シャルルは民衆の人気者。
次第にパリを気に入っていきます。

「ベルサイユよりパリの方がいい
 前よりもパパとママに会えるようになったもの」byシャルル

しかし、チュイルリーの外では、革命勢力から逃れるため、貴族たちが外国へ次々と亡命。
その中には、マリーと親しい友人たちもいました。
批判の矛先が一番強かったのが貴族と聖職者でした。
平民たちは、やがて貴族階級の様々な特権を奪っていきます。
王政の将来に危機感を覚えたマリーは手紙を書き、実家のオーストリアやスペイン、ロシア、スウェーデンに軍隊の派遣を要請します。
しかし、マリーの願いがかなえられることはありませんでした。
追い詰められたマリーが企てたのが、故郷オーストリアへの逃亡でした。
マリーを熱烈に愛するフェルセンが、安全に脱出させるべく、ち密な計画を立案します。
計画はまず国王一家を外国人の貴族に変装させて、夜中のうちにパリを抜け出します。
そして、シャロンという中継地で王に味方する兵士たちと合流、兵が護衛しながら国境の町モンメディを目指すというものです。
ルイもこの計画に乗ります。
しかし、その狙いはマリーやフェルセンとは違っていました。
一度革命勢力が強いパリを離れて、地方へ行き、王政を立て直すチャンスを探ろうと考えたのです。
まだ地方には、王政を支持する国民が大勢いたのです。
1791年6月30日深夜・・・
国王と王妃とその恋人・・・三者それぞれの思惑を乗せて馬車は走り始めました。
まずは厳重な警備をかいくぐり、パリを脱出!!
ところが、最初の停留地でルイがフェルセンにこう切り出しました。

「貴殿はここから一人でベルギーへ向かうがよい」byルイ

寝耳に水のフェルセンは、自分も一緒に行くと説得を試みます。
しかし・・・

「私がいるのだから心配いらぬ」byルイ

こうして、全計画を練ったフェルセンは、失意の中去っていきました。
そして王の一行には案の定、アクシデントが起きます。
味方の兵たちと合流するはずのシャロンにつくも、そこには誰もいなかったのです。
それもそのはず、ルイはフェルセンの計画を無視、
何度も休憩をとり、なんと5時間遅れで到着したのです。
ルイもさすがに不安になったのか、先を急ぐも更なる失態を侵します。
国境近くの村ヴァレンヌ・・・ルイは、フェルセンからの忠告を破り、人前で馬車を降り、顔を晒しました。
すると、ルイを見たひとりが・・・

「もしや、陛下ではありませんか」

「うむ、いかにも私が国王だ」byルイ

国王一家は、身柄を拘束され、パリに連れ戻されました。
ルイを連行した役人の証言では、

「国王は、まるで狩りから帰るといった風情であった
 何事も起きなかったかのように冷静で沈着だった」

一方、計画が失敗し、愕然としたマリー・・・髪が白く変色していたといいます。

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ルイ16世が変装してまで逃亡したことに人々は憤慨し、こんなうわさが広がりました。

「国王は、外国の軍隊に頼って、革命をつぶそうとしている」

国民の父でなければならない国王が、国を捨てることは”父が子を捨てるということ”
民衆からすればそれほど重い罪はありません。

「王政を廃止せよ」という声が、フランス全土から湧き上がり、暴徒と化した民衆が、チュイルリー宮殿を襲撃。
革命政府は、国会で王権の停止を宣言しました。
国王一家はタンプル塔に幽閉されます。
王妃と子供たちの部屋は2階、ルイは3階、24時間監視のもとでしたが、行き来はできました。

ルイとマリーは以外にもこの生活の中で安らぎを見出していきます。
マリーは娘に音楽を教え、ルイは息子の勉強を見ました。家族そろってゲームをすることもあったし、マリーが朗読する読書会もありました。
初めて訪れた家族水入らずの暮らし・・・家族のきずなが深まると、夫婦の気持ちにも変化が・・・
マリーは夫の何事にも動じず包容力のあるという長所を見直し、ルイはやっと妻に愛されるようになったと実感します。
結婚から22年・・・ようやく二人は王と王妃ではなく、夫婦としてお互いを愛し合うようになります。
しかし、それはつかの間の幸せでした。

1792年、ルイが38歳の時にルイ16世の裁判が開始。
ルイは二枚舌を使って国民を欺いたと裁判にかけられます。
罪状は”国民の自由と国家の安全全般に対する陰謀”・・・国民への反逆罪です。
およそ1か月後・・・死刑判決が下されました。
ルイの遺言には、

「妻には私のせいで彼女の身にふりかかってしまった不幸
 そして、共に過ごした期間に私が彼女に与えた悲しみについて許しを乞います」

1793年1月21日、38歳のルイはコンコルド広場で処刑されました。
彼自身が採用し、改良を施したギロチンによって。

死の直前、ルイは断頭台から叫びました。

「私は罪なくして死ぬ
 私は私を殺す者たちを許す
 あなた方が、流そうとしている血が、フランスにふりかからぬよう、私は神に祈る・・・」

さらに言葉をつづけようとしたが、太鼓の音でその声はかき消されました。

そして9か月後、マリーも裁判にかけられます。
誹謗中傷をもとにした反革命の罪を着せられ、証拠もないままに死刑判決が言い渡されました。
マリーがルイの妹に宛てた最後の手紙・・・

”10月16日午前4時半
 たった今、死刑の判決を下されたのですが、不名誉な死ではありません
 そんなものは犯罪者がうけること
 私にはあなたの兄上と再会するようにとの判決でした
 良心に何の咎めもない時と同じように私は平静です”

そして、子供達には・・・

”どんな境遇にあってもしっかり手を取り合ってないと、本当に幸せになれないことに気付いてほしい
 私たちを見本にしてほしいわ”

やつれたマリーは、粗末な荷馬車に乗せられ処刑場へと向かいました。
1万人もの群衆から浴びせられたのは罵声の嵐・・・
マリーは最期にこう言いました。

”さようなら子供たち あなた方のお父様のところに行きます” 

1793年10月16日、マリー・アントワネット死去・・・37年の生涯でした。

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近年話題となった処刑人シャルル=アンリ・サンソン・・・3000近い命を奪った処刑プロフェッショナルです。
シャルル=アンリ・サンソンは、容姿端麗で優美、知性と教養・気品に満ちた男。
その剣の腕前は、ある斬首で受刑者が跪くのを拒否した時・・・
なんと、首が胴体の上に乗ったままだったという逸話が残るほどです。

時は18世紀後半・・・ベルサイユ宮殿に象徴される王侯貴族社会・・・。
国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットたちによる優雅で煌びやかな時代。



しかし、光ある処に闇がある・・・
20キロ離れたパリでは、殺人など重大犯罪が後を絶ちませんでした。
処刑は広場で庶民に公開されていました。

国王や王族の命を狙ったものに対しては、馬4頭で全身を引き裂く”八つ裂きの刑”
受刑者を苦しませるときには体中の関節を鉄の棒で打ち砕く”拷問刑”
身分によっても異なりました。
一般庶民の死刑は絞首刑。
貴族などの特権階級には斬首。
鞭打ちや焼印押しなど、死刑以外の刑罰も公開で行われました。
見物人の前で、正確に処刑を成し遂げる・・・サンソン家とは、そうした特殊技術を駅称する一族でした。
特にシャルル=アンリ・サンソンは、最高裁判所に当たるパリ高等法院所属でした。
重罪判決執行人という肩書の官僚で、パリの街中に立派な邸宅を構え、給料は当時の庶民の100倍、6000リーブルで、家族に加え、助手や見習いなど30人を雇う喉の優雅な暮らしでした。
サンソンは、フランス王家のもと、治安維持を担う執行者のプライドを強く持っていました。

「万軍の神は、罪人を罰して無辜の者たちを守るために、王の手に剣を委ねました
 しかし、陛下ご自身で罰することはできないので、公営にも陛下は私にそれを託されました
 私は君主にとって最も重要な権利、大切な任務の保持者なのです」byシャルル=アンリ・サンソン

当時のフランス社会派、サンソンのプライドを激しく傷つけていました。
1766年、シャルル=アンリ・サンソン・・・27歳。
郊外での狩猟のあと、宿で夕食をとっていた時のこと・・・
容姿端麗なサンソンを気に入ったのか、侯爵夫人にテーブルに招かれます。

「お仕事は何ですの?」
「高等法院の役人をしております」
「まあ・・・そうですの」

ところが帰り際・・・
「奥様、今の若い男が何者か知っているのですか?」
「いいえ、高等法院の官吏だと聞きましたが・・・」
「彼はパリの処刑人ですよ
 多分、家業である処刑を執行したか、立ち会ったばかりですよ」

公爵夫人はすぐさま、パリ高等法院にサンソンを訴えました。
「サンソン氏は侯爵夫人を侮辱しました
 あなたの悪名他界職業は、ただの市民と一緒に食事をすることさえ許されないものです
 死に関わる仕事を忌まわしく思うのは、ごく自然な感情です
 彼が人間を殺して血を流している限り、反感を抱かれるのは当然のことでしょう」by侯爵夫人の弁護人

当時のフランスの身分制度は、国王や貴族など特権階級と平民層に分かれ、さらに経済的に恵まれたブルジョワ市民、農民など、労働者階級に分かれていました。
ところが、サンソンら処刑人は、高等法院という重要な司法機関で、貴族と共に働きながらも身分制度ではどこにも位置付けられていません。
その為、あらゆる階層からも感情的に差別され、さげすまれる矛盾を感じていました。
サンソンは自ら裁判官たちに訴えます。

「諸君に問います
 国家において恥ずべきであり、不名誉な責務などあるでしょうか?
 例えば、兵士たちに”あなたの職務は何か”と問えば、私と同じように”人間を殺すことだ”と答えるでしょう
 なのに軍人を高く評価する人々が、私の職務を恐怖の思いで見るのは一体どのような心の持ち方でしょうか?
 それは、幼少期や教育による偏見の産物に過ぎないかもしれません
 これは、我々の時代における汚点です
 このような謝った風潮を正せるかどうかはあなた方次第です
 私はあなた方の公正さに大いに期待しています」byシャルル=アンリ・サンソン



論理の力ではサンソンの方が正しい・・・
しかし、それが通るのか??
人間の感情が強いことはサンソンもわかっていました。

高等法院の結論はあいまいなまま棚上げとなり・・・
サンソンたちへの偏見や差別が変わることはありませんでした。

ところが、23年後の1789年7月、サンソン50歳。
パリ・・・バスティーユ監獄襲撃!!
過酷な税金を取り立て、不公平な政治をかさねる貴族層に対し、貧困に苦しむ平民たちの不満が爆発!!
当時、圧政の象徴だった監獄を、平民たちが実力で陥落。
フランス革命の始まりでした。
平民のブルジョワ層中心の勢力が、国王や貴族の政治体制を解体!!
議会中心の平等、公平な政治を目指し始めます。
サンソン50歳・・・引き続き、革命政府の処刑人として働く一方、革命によって偏見や差別が無くなる世の中を期待していました。

神様が国王に剣を委ね、その国王から人々を犯罪から守る任務として死刑執行をゆだねられたサンソン。
彼は、その仕事が公平さに基づいていることにとても誇りを持っていました。
一方で、人の命を奪う仕事のために、自分自身が公平の扱われないサンソンにとって、フランス革命は屈辱的な立場を変える絶好のチャンスでした。
果たして、自由と平等を謳う革命は、サンソンに応えてくれるのでしょうか?

フランス革命が始まって1か月・・・1789年8月26日。
国民議会では、人類の歴史上画期的な”人およ及び市民の権利宣言”を採択します。
いわゆる人権宣言です。

第1条 人間は自由なものとして生まれ、権利において平等である

すべての市民に自由と平等、人民主権、三権分立、意見と表現の自由などを保障し、新たな社会を目指す宣言でした。
この宣言は、人間を対象にしています。
当時の社会常識である貴族や神父、農民と言った身分で考えず、全ての人間に聖なる不可侵の権利を明言したという点が重要です。
もちろんこれより前の時代から生物的な「人間」という概念はありました
それとは異なり、大文字のHで始まる「人間」・・・つまり、政治的観点から人間をとらえ直したことに意味があるのです。

ここでサンソンは動きます。
死刑執行人を代表して、議会に市民権の要望書を提出します。

「この要望書は偏見の対象であり、恥辱、屈辱。軽蔑を耐え忍びながら暮している者たちの不満の表明である
 他の市民と同じように公的な税を支払っている者が、他の市民と同じように恩恵を享受できないのはなぜだろうか?
 偏見は、人間と人間を分け隔て、社会をそこなう怪物であり、善良な人々は栄誉のために偏見と戦わなければならない 
 すべての人間は、法の前に平等である」byシャルル=アンリ・サンソン



しかし、国民議会も死刑執行人を市民と認めるかどうかはあいまいなまま・・・
サンソンの願いは聞き届けられませんでした。
この状況に、サンソンは不満を訴え続けました。
何故なら、実際には市民としての権利を実行できなかったからです。
現実に、死刑執行人に選挙権・被選挙権を当たることに賛否両論がありました。
例えば、死刑執行人が市長に選ばれるようなことを人々は想像するだけでも拒絶しました。
この世に、死刑執行人は市民としてみなされなかったのです。

一方で、革命による平等意識の高まりは、サンソンの仕事面で意外な変化を与えます。
これまでの処刑方法は身分や罪状でバラバラでした。
しかし、斬首に統一するように決まったのです。
サンソンはこれに反対します。
従来の剣による斬首が増えれば、失敗も増え、受刑者も苦しめてしまう・・・
より正確に、苦しませずに処刑する方法が必要だ!!
こうした要請に基づいて誕生したのがギロチンです。

罪人の体を寝かせて固定し、首元に巨大な刃を落とすだけで、正確に苦しませずに斬首ができるという触れ込みの機械です。
この紐を引けば簡単、確実に人を殺せる機械の登場は、革命に高揚した人々の感情を刺激しました。
こうした感情は、やがて解体された旧体制の頂点元国王ルイ16世へと向かいます。

国王を裁判にかけるべき大討論が行われます。
国王とは、法律も及ばぬ民に認められた支配者の扱いで、革命後でも彼を罰する法律はない・・・
法を犯していない元国王を、法を遵守する革命指導者たちはどう扱うのか??
ブルジョア市民を中心とした国民公会では、国王を守ろうとする王党派に対して急進派が激しく反論します。

「ルイは死ななければならない
 なぜなら、祖国が生きなければいけないからだ」byロベスピエール

「王政はそれ自体が永遠の犯罪である
 人は罪なくして王たり得ない」byルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト

国王という存在自体が、新しい国家にとって罪・・・
明らかに法を逸脱した意見でした。
死刑か否か・・・評決の結果・・・

死刑反対334票 死刑賛成387票

元国王の死刑が確定しました。
その命は、サンソンに委ねられました。

国王が犯罪人かどうか・・・これは断じて犯罪人ではない。
犯罪人ではない人間を処罰することはできない。
サンソンは、国王によって任じられたというのが心の支えとして生きてきました。
その国王を自分が処刑するなんてとんでもない話でした。

1793年1月21日朝・・・元国王ルイ16世処刑の朝。
サンソンは、元国王を救出するため人々が処刑を妨害するという噂を耳にしていました。
短刀とピストル4丁をつけ家を出ました。
午前10時過ぎ・・・革命広場にルイが到着しました。
しかし、元国王を救出しようという者は現れません。
そこでサンソンは、ルイの両手を縛る時、ささやきました。

「王の手を縛っている間、我々は時間を稼げます
 国王が縛られるという光景が、民衆の真心を動かさぬはずがありません」byシャルル=アンリ・サンソン

しかし、民衆には、動き出そうという気配は全くありませんでした。
そして10時22分・・・

「私の助手が、国王の威厳に満ちた首を民衆に見せた時、数人の狂信者が勝利の叫びを上げたものの、大多数の人々は深い恐怖と悲痛な戦慄で顔を背けていた
 ならばどうして彼等は国王をこれほどみじめに見捨てたのだ
 私には理解できなかった」byシャルル=アンリ・サンソン

民衆は、元国王の処刑に反対しているのに自ら動こうとはしない・・・
サンソンの目にはそう映りました。

平等に無用な苦痛を与えないというサンソンの意見書がきっかけで作られた処刑道具ギロチン・・・
それまでの重い剣を振るうやり方より、はるかに正確で合理的でした。
サンソンは紐を引くだけで、いとも簡単に処刑できるようになりました。
身分によらず平等に・・・と目指した道具は、最悪の大量殺人機械に!!
少しでも人道的にというサンソンの願いは、より残酷に、彼の手を血で染め上げていきます。

革命が進むにつれ、フランスは国の内側と外側・・・二つの戦争を抱えるようになります。
オーストリアやイギリスなど周辺の王国が、王家を打倒する革命に危機を感じて介入。
フランス政府はこれに反発し、宣戦を布告。
1793年3月、国内のヴァンデ地方で、王党派が蜂起し大規模な反乱が起きます。 
パリの革命政府は追い詰められていきます。

「革命の敵を排除せよ!」

死刑執行・・・すなわち、サンソンの仕事は徐々に増えていきます。
外国の勢力に助けを求めたもの王妃マリー・アントワネット。
口髭将軍と親しまれていたもののオーストリアとの戦闘に敗れたキュスティーヌ将軍。
暴力革命を主張する指導者マラ―を暗殺したシャルロット・コルデー。
革命をつぶそうとする貴族から戦場で撤退の判断をした司令官まで革命の敵とされた者は、次々とサンソンの手に委ねられました。
サンソンは、彼らが死に向かう姿を日記に書き留めています。

”シャルロット・コルデーはまつげひとつ震わせず、その表情にも苛立ちや怒りはつゆほども浮かんでいなかった
 ギロチンを前にした彼女は、
 「私が興味を持ってもよいでしょう
  これまで一度も見たことがないのですから」
 私はこの勇敢な女の苦痛を1秒でも引き延ばすことは野蛮なことだと思った”

一方、革命を進める国民公会では、派閥の対立が激化!!
これまで国内での改革の主流派ジロンド派は、外国との戦争を進めてきました。
このジロンド派政治は失敗だと攻撃したのが山岳派・・・指導者は弁護士出身のロベスピエールでした。 
マクシミリアン・ロベスピエール35歳。
「自由・平等・友愛」という理想を追求し、貧しい農民や労働者の救済を重視していました。
政治の不正や汚職を嫌う清廉潔白の人でした。
彼は理想の革命を目指すため、ジロンド派の責任を追及。
その排除を決意します。

「すべての腐敗した議員たちに対して蜂起せよ!!」byロベスピエール

1793年6月2日、ロベスピエールの先導によって、パリ市民8万人が議会を包囲。
この圧力を利用して、ジロンド派議員29人を逮捕します。
ところが、逮捕され、自宅謹慎となったジロンド派議員たちはこれに抵抗します。
次々にパリを脱出し、地方の内乱を扇動します。
悪化する事態に議会は9月17日、「反革命容疑者法」を制定。
発言や行動が「自由の敵」と疑われるもの、市民の義務に反するとみなされるものは、直ちに逮捕されることとなりました。
革命後、政治犯を裁くために「革命裁判所」が設置。
ここでは、容疑者が身の潔白を訴える弁明も制限されました。
そして裁判官と陪審員による判決の多くは死刑!!
10月31日、ジロンド派議員21名がサンソンのもとへ・・・。
サンソン家の記録によると、彼等は護送される際にラ・マルセイエーズを2度歌い、抱き合うと恐れることもなく、非難することもなく、勇敢に死のうと互いに励ましあいました。

「今日は私の人生で最高の日だ」
「共和国万歳!!」

サンソンは連日、革命に貢献したにもかかわらず粛清される人々の最期を見続けます。

ジロンド派の女王と呼ばれたロラン夫人・・・
「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」



バスティーユ襲撃の1か月前、国民議会を率いて貴族と対立、革命運動の先駆けとなったジャン=シルヴァン・バイイ
「57年もの間、名誉を重んじて生きることを学んだのに、もし勇敢に死ねないとしたら残念だ」

処刑が日常となる日々・・・死への感覚がマヒしていく人々・・・
サンソンは嘆きます。

「昔、私が牢獄に行くと囚人はみな震え上がったものだ
 しかし今は、囚人と廊下で会っても、私に対しては微笑みかける者さえいる
 ”ありがとう 本当に大変だね”
 そう話す囚人を、ギロチンに連行することに、まだ完全に慣れてはいない
 陪審員の市民たちは、誰を有罪とするかあまり吟味していない
 その一方で、有罪とされた者たちは命を安売りしている
 判事たち、陪審員たち、被告人たちを見ていると、死の狂乱とでも呼ぶべき病にかかっているかのように思える」byシャルル=アンリ・サンソン

1794年2月、国民公会は、ジロンド派を粛正したものの国の内外の混乱は依然続いていました。
そこでロベスピエールは、政治の引き締めをはかる演説を行いました。

「平時における政治の主要な動力は徳である
 しかし、革命の渦中にあってはそれは徳と同時に恐怖である
 徳のない恐怖は忌まわしく、恐怖のない徳は無力である
 恐怖とは、即座に行われ、厳格で、確固とした正義である」byロベスピエール

ロベスピエールたちは、政治的道徳よりも国民全体の利益にかなう政治を目指しました。
彼等はとても真剣でした。
その為、ジロンド派を排除すると共和国をより早く樹立できると考えていましたが、これは大きな間違いでした。
厳しい法律を制定すればするほど新しい政敵を作ることになり、その政敵を排除すればまた別の政敵が現れるという悪循環・・・”永続的な粛清システム”に陥ってしまったのです。

恐怖政治が進むにつれ、サンソンの日記は連日処刑された人の名が並びました。

”2月26日・・・この日は全部で15人だった
 群衆の中には「万歳」「ざまみろ」と叫ぶ者たちもいた
 愚かな者たちは、パリが地方より過激であることで虚栄心を満たそうとしている
 彼等は、「リヨンとナントが百人単位で処刑するなら我々は千人単位だ」などと騒いでいる”

対立する相手を、革命の敵とみなし次々と粛清するロベスピエールたち・・・その先に生れるのは、派閥内の新たな対立でした。
ロベスピエールの盟友で司法大臣などを歴任したジョルジュ・ダントンや、バスティーユ襲撃を扇動したカミーユ・デムーランたち寛容派です。

「ロベスピエール、君はギロチンという手段を用いて、君の敵すべてを取り除こうとしている
 今までにこれほど巨大な愚行があっただろうか
 ひとりの人間を断頭台で亡き者にする、それは、必ずその人の家族や友人の中から敵を十人作り出すのだ」byデムーラン

サンソンは、恐怖政治を止めようとするこの動きに期待します。

”デムーランのような純粋な愛国者が寛容について話すようになって以来、会う人すべての表情がそれほど憂鬱でもなくなったし、暗くもなくなったように見える”

しかし、ロベスピエールはこれに反撃。
3月31日、ダントンやデムーラン寛容派に収賄の容疑をかけて逮捕。
4月5日、ダントン、デムーラン、処刑。
ロベスピエールを止められるものはいなくなりました。

”善良な者たちが絶え間なくギロチンにかけられる
 さらにどれだけ多くの者たちがむさぼり食われるのか
 毎日繰り返される虐殺がこれほどまでになれば、政治家たちもさすがにそのひどさに気付いてくれるだろう”

もはや、ロベスピエールが自ら立ち止まるのを期待するしかない・・・
しかし、5月、ロベスピエールの暗殺未遂が相次ぎます。
自分が殺されれば革命は終わる・・・
追い詰められたロベスピエールには、立ち止まる余裕などありませんでした。

ロベスピエールは最後の手段に出ます。
6月10日、「プレリアール22日法」を制定
証人尋問や弁論を廃止します。
陪審員の心証で、直ちに判決が出される・・・!!
刑罰はすべて死刑に統一されます。
つまり、有罪は直ちに死刑となるのです。
恐怖政治は歯止めを無くしました。
これを境に、サンソンの日記には連日、2桁の名前が並びます。
役人、軍人、肉屋、農夫、商人・・・そして、高等法院の判事まで・・・多いときは50人以上。
ここ1カ月余りで1300人以上が処刑されました。
やがてサンソンは、ギロチンを使うたびにめまいや手の震えに襲われます。

”罪人たちは泣いたり祈ったりしながらそこにいる
 彼等は最期の時間を生きているのだと実感している
 私だけ現実感がない
 その場で起きていることに確信を持てずにいる
 ギロチンの刃が響き、私は我に返る
 その音を聞くたびに、私の体は震え、冷や汗でおおわれる
 疲労困憊し、精神は混乱、どこまでも落ち込み泣きたくなるが涙は1滴も流れない”

6月17日、54人が処刑。
その中に少女がいました。
当時の慣習で容疑者の関係者の税員が逮捕。
家族全員、愛人から召使いまで死刑が宣告されました。

「少女の名はブシャール・・・彼女が助手につれられ、前を通り過ぎたとき、私は自分の心の叫びに抗っていた
 この子を、ギロチンの餌食にしてしまうくらいなら、ギロチンを壊してしまえ
 私は、彼女が細く澄んだ声で囁くのを聞いた
 ”あなた方、本当にこれでよいのですか”
 私は慌てて背を向けた
 目の前が真っ暗になり、膝が震えた
 後は弟子に任せ、なにも応えずに処刑台から降りた
 そして、後ろを見ずに立ち去った」

サンソンの日記は、この10日後説明もなく途切れ、そして、1か月後・・・
1794年7月27日、
「暴君を倒せ!!」
反ロベスピエールがクーデターを決行。
ロベスピエール、サン=ジュストら22名が逮捕されました。
翌日、サンソンたちの手によって処刑されました。
ロベスピエールがクーデターで失脚した時、彼に武力蜂起を促すパリ市民や兵士が集まりました。
しかし、彼は決して反逆者にはなろうとせず、政治家としての責任をとって自ら身を引いたのです。
彼は、法に忠実で尊厳を持ち、激しい人生を送りました。
その点で、ロベスピエールとサンソンは、共通しているといえます。

その後、ロベスピエールに加担したものも、次々と粛清!!
恐怖政治は終了します。
フランスはその後も混乱・・・ナポレオンが皇帝となり独裁政治を行うなど時代の逆行と大勢の犠牲をかさねながら、現代へと進みます。

1795年、56歳でサンソンは処刑人を引退します。
後任を息子に譲った後は、家に籠り、庭いじりを楽しみます。
晩年のある日、庭に咲いた立派なチューリップを見て声をあげたといいます。

「なんと鮮やかな赤だ
 この花を見るものは言うだろう
 きっと私が血をやっているに違いないと」

1806年、サンソンは67歳で死去。
命と法と偏見のはざまで、苦しみ続ける生涯でした。

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「余の辞書に不可能の文字はない」byナポレオン

フランス革命の英雄と言われたナポレオン・・・
外国との戦争では、天才的な手腕で連戦連勝。
フランスの国土を史上最大に広げました。
しかし・・・ナポレオンの人生は「こんなはずではなかった」の連続でした。

「ナポレオン ─英雄の誕生─」



戦場から帰り、意気揚々とフランス議会に乗り込んだ時、ナポレオンは議員の大半から罵声を浴び追い出されてしまいました。
フランス革命の精神・・・自由・平等・博愛を謳うナポレオン法典をつくった・・・しかし、彼は奴隷制度を復活。女性の政治参加や離婚を厳しく制限しました。
王政に苦しむイタリア国民を開放するといって戦った・・・しかし、勝ったとたんに民衆に課税。さらに、数々の美術品を奪いました。
極めつけは自らを民衆が生んだ革命の子と称しながら、皇帝の座に上りつめます。
最期には、民衆の支持を失ったナポレオン・・・

「裏切られたというより、私は見捨てられた」byナポレオン

1789年、フランス・パリ。
長く続いた王政への怒りから始まったフランス革命。
4年後、フランス王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットが処刑されました。
しかしその後、王政に代わる国家体制を巡って大混乱が続きます。
そんな中、救世主として現れたのがナポレオン・ボナパルトでした。
彼はどうして革命の英雄とされたのでしょうか?

イタリア半島の西・地中海に浮かぶコルシカ島・・・世界遺産にも登録される自然豊かな島です。
1769年8月、ナポレオンはコルシカ島で8人兄弟の次男として誕生。
ところが・・・
「私は祖国が滅亡した時に生まれた」byナポレオン

ナポレオンが生まれる3か月前、コルシカ島はフランス軍に侵攻され、併合されてしまいました。
抵抗したコルシカ人は、フランス軍によって腕を砕かれ車裂きの刑にされるなど、残虐な刑罰を受けました。
住民は縞の言葉を禁じられ、フランス語を強要されました。

「瀕死の人々の叫び、虐政に苦しむ人々のうめき声、そして絶望の涙
 これらは私のゆりかごをはじめから取り囲んでいた」byナポレオン

そんな中、父・カルロはいち早くフランス国家に忠誠を誓い、下級貴族となりました。
家族を守るためです。
しかし、ナポレオンは父を嫌っていました。

「フランスのコルシカ併合に協力した父を、私は決して許すことができない」byナポレオン

一方、母レティツィアは教育熱心でナポレオンは母になついていました。
9歳の時、ナポレオンはコルシカ島を離れ、フランス本土に渡ることになります。
父が貴族となったことで、学費が支給され、フランス王立のブリエンヌ陸軍幼年学校に入ることができたのです。
しかし、周りは貴族の子ばかり・・・
コルシカ訛りの抜けないナポレオンは、田舎者とバカにされました。
休み時間は一人で図書室に籠り、勉強に打ち込みました。
応用数学と地理が得意でした。
15歳になると、ナポレオンは士官学校に進学。
母の薦めで最先端だった砲兵術を専攻します。
大砲を正確に撃つには、火薬の量や弾道の計算が欠かせません。
母は、ここなら得意の数学を活かせると考えたのです。
しかし半年後・・・ナポレオン家に暗雲が立ち込めます。
父・カルロが突然亡くなり、収入が途絶えたのです。
2歳年上の兄はまだ学生・・・15歳のナポレオンが一家の暮らしを支える柱となります。
ナポレオンは士官学校を最短記録で卒業します。
普通は4年かかるところをわずか11カ月で卒業し、職業軍人となります。
しかし、ナポレオンは故郷を併合したフランスを憎んでいたはず・・・!!
軍人としてフランスに忠誠を誓うことは矛盾ではなかったのか??

私たちはできていないが、成功者はやっている52のこと

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1785年、16歳の時、ナポレオンは少尉として駐屯地に赴任。
訓練に明け暮れる中でも、読書に没頭します。
彼が好んだのは、ルソーやモンテスキューの著書。
民衆の権利や自由平等を謳う啓蒙思想に惹かれていきます。

1789年6月、19歳の時に時代が大きく動きました。
民衆に重税を課すルイ16世や王侯貴族に対し、民衆の怒りが爆発したのです。
フランス革命の始まりでした。
王政が倒され、民衆中心の立法議会が成立。
フランス各地で特権階級の財産と権利が奪われました。
ナポレオンが所属する王党派には、貴族の子弟が多かったため、彼らは次々と海外へ亡命しました。

「フランス全土で血が流れました
 しかしそれはほとんどどこでも
 自由の敵の 国民の敵の 汚らわしい血でした」byナポレオン

共和制を目指す立法議会に対し、旧体制の残党である王党派は、イギリスやスペインの支持を受けて対向。
軍人は王党派か共和派か、どちらにつくか選択に迫られました。
その頃、ナポレオンは混乱を避け、休暇を取ってコルシカ島に戻っていました。
しかし、1793年6月、23歳の時に共和国の軍人として復帰。
南フランスの港町・トゥーロン・・・当時は王党派勢力の最大の拠点でした。
復帰したナポレオンはここの攻略を任されます。
トゥーロンは、城壁と海に囲まれた難攻不落の要塞都市でした。
さらに海上には、王党派と手を組んで革命を阻止しようとするイギリス、スペインの連合艦隊がいました。
ナポレオンが目をつけたのは、港と連合艦隊を見下ろす丘でした。
得意の大砲を使って丘と砦を占領します。
すると、丘からの砲撃を恐れた外国の艦隊は沖に避難しました。
海からの援護の無くなったトゥーロンは、裸同然・・・
ナポレオンはわずか2日で、要塞を攻略したのです。
こうして共和国勢力は、フランス革命を確固たるものとします。
この時、ナポレオン24歳。
戦いの功績によって三階級特進、フランス史上最年少の将軍となりました。
ナポレオンは民衆から革命の英雄と呼ばれるようになったのです。

1794年、最年少で将軍となったナポレオンは、出世階段を上り始めます。
そんな時、革命政府の最高権力者ロベスピエール側から首都パリの司令官を要請されます。
大抜擢です。
しかし、ナポレオンはこれを断わります。
ロベスピエールの政治に疑問を抱いたナポレオンは、彼と距離をおこうとしたのです。
ロベスピエールは、わずか1年余りで政策に反対する者50万人を逮捕。
1万6000人をギロチン台に送っています。

「もしパリに引き止められれば、何が起こるかわからない」byナポレオン

ナポレオンが要請を断ってから2か月、政権内部で反ロベスピエールのクーデターが発生します。
ロベスピエールとその一派は逮捕、処刑されました。
ナポレオンの代わりにパリの司令官となっていた人物も、処刑されました。
すんでのところで命拾いをしたナポレオン・・・しかし、この混乱に乗じて王党派が武力蜂起。
パリで火の手が上がります。
王党派の民衆と軍人併せて2万5000人が宮殿に押し寄せました。
これを鎮圧に向かったナポレオンの兵は5000。
しかし、彼には勝算がありました。
この時、ナポレオンが使ったのは葡萄弾を込めた大砲でした。
葡萄弾とは、砲弾に葡萄のような散弾を詰めたものです。
殺傷能力は高いが、建物は壊さない・・・
これを、王党派に打ち込んだのです。
王党派は300人が死に、蜂起はわずか1日で鎮圧されます。
非人道的な砲弾を使ったナポレオンを王党派は虐殺者と非難しました。
この功績で、ナポレオンの名声はますます高まりです。
そんな折、パリのサロンのパーティーでひとりの女性と出会います。
ジョゼフィーヌです。
美貌の年上女性に夢中になった彼は、1796年4月に結婚。
しかし、わずか2日後、ナポレオンはパリを後にします。
総司令官としてイタリアに行かなければならなかったのです。
フランスは、オーストリア帝国に支配され、圧政に苦しむ北イタリアを開放すると、宣戦布告します。

「イタリアは、自由を獲得するのにふさわしい存在であることを、世界に知らしめなければならない」byナポレオン

ミラノなど北イタリアでは、オーストリア軍を蹴散らして圧勝。
オーストリア帝国の支配から解放された市民は歓喜したと言われています。
北イタリアに自由をもたらしたはずのナポレオン・・・
しかし彼は、貴族や僧侶から戦勝金を巻き上げ、市民からは占領税を取りました。
その金額は、現在の価値で800億円!!
さらに、200点以上の貴重な美術品を収奪、パリに送りました。
これらの美術品は、ルーブル宮殿に集められ、現在のルーブル美術館のもととなっています。
どうして権利もないのに美術品を奪ったのでしょうか?

「天才の産物は共有財産である」byナポレオン

数々の非道な行い・・・しかし、ナポレオンがパリに凱旋すると、人々は大歓迎しました。
火の車だった国家財政に、ナポレオンが北イタリアから金を持ってきてくれた・・・ナポレオンにとっては人気を高める大きなポイントとでした。
ナポレオンは、民衆に歓喜の声で迎えられるように裏工作をしていました。
ナポレオンの勝利を伝える新聞は、パリなどで無料で配られました。
イタリアで得た戦勝金を使って、ナポレオンが兄・ジョゼフと弟・ルシアンに編集させたものです。

新聞には当然、都合の悪い者は一切書かれていません。
こうして、ナポレオンの人気は急上昇。
ナポレオンの政治家への野心が生まれました。

「我が国の政治部隊で様々なことを決する役割を果たす
 そのような力が自分にあるのではないかと考えるようになった」byナポレオン

提督の艦隊



1798年、28歳の時、ナポレオン人気を不動のものにする機会が訪れます。
フランスと敵対するイギリスを叩くため、ナポレオンはイギリスの貿易拠点だったエジプトに遠征。

「兵士諸君!ピラミッドの頂から4千年の歴史が諸君を見つめている」

実際は、イギリス艦隊に大敗。
制海権を失ったナポレオンは、補給を断たれ、砂漠の中で孤立してしまいました。
大敗にもかかわらず、新聞には戦勝報告を送り続けます。
その為、民衆は熱狂しました。
一方、フランス本国も危機に陥っていました。
周辺の国々が、再び対仏大同盟を結成。
ナポレオンの不在をついて、フランスに攻め込もうとしていたのです。
不安に陥った民衆は、ナポレオンの帰還を待ち望みました。
ナポレオンは考えます。
今、フランスに自分が帰れば、権力を握るだけの地位を得るだろう。
しかし、すぐには撤退できない事情がありました。
フランス軍にペストが蔓延していたのです。
フランスに帰るか、兵士の回復を待つか??
結論は・・・??
感染した数百人の患者の枕元にアヘンをおきました。
そしてアヘンを飲んで死ぬか、捕虜になるか、本人に選ばせたのです。
戦いの英雄、将軍にもかかわらず、ペストにかかった兵士を置き去りにしたのです。
エジプトから帰ったナポレオンは、民衆から熱狂的な歓迎を受けました。

”栄光に輝く様々な勝利を、誰にも先駆けてフランス軍にもたらしてきたボナパルト将軍!!
 その将軍がオリエントの覇者となって戻ってきた” 

歓迎の熱狂に包まれたナポレオンは、そのままの勢いで政治の中枢議会に乗り込みます。
しかし、待っていたのは多くの議員からの激しい罵声でした。
あまりのショックに、議会で何もできずに退場してしまいます。
問題は、ナポレオンが兵を連れていたことでした。
軍事クーデターではないか??
軍事力で発言が抑えられてしまう危険性を思ってのことでした。
彼等の誤解を解いたのは弟ルシアンでした。

「もし兄が、共和国の自由を侵害するなら、この短刀を(兄の)胸に刺そう」byルシアン

そして行われた国民投票・・・
1799年、30歳の時に第一統領に就任します。
賛成301万票、反対は1562票でした。
ナポレオンが、事実上の最高権力者になった瞬間でした。

「共和国が危機を逃れたら、即刻権力の座を退く」byナポレオン

しかし、この後、15年間、権力の座に居座ることになります。
政権を握ったナポレオンは当初こう言っていました。

「危機を逃れたら、即刻権力の座を退く」byナポレオン

しかし、その言葉とは裏腹に、5年後、自ら皇帝の座につきました。
どうして??
1800年、イギリス、オーストリアなど周辺の王国は、第一統領のナポレオンを危険視し、同盟を組んでフランスを包囲していました。
しかし、ナポレオンは、敵の弱点を見極める達人です。
5月、ナポレオンは密かにアルプスを南に進軍、イタリア北部に駐屯していたオーストリア軍に奇襲をかけます。
わずか2日間で、オーストリア軍に勝利します。
この結果、フランスはライン川西側の領土を、オーストリアからもぎ取り、支配地域を拡大。
オーストリアが破れて、包囲網に穴が開くと、同盟は総崩れ・・・
イギリスも国内問題で戦争を断念、フランスと講和しました。
対外戦争にひとまず講和したナポレオン、次に行ったのは、フランスの改革でした。
それまでのフランスでは、地域ごとに異なる法律が使われており、その数は30もありました。
ナポレオンはこれを統一、後にナポレオン法典と呼ばれるフランスの民法典を交付しました。

”万人の方の前の平等”
”経済活動の自由”
”私有財産の不可侵”

など、自由と平等を謳うフランス革命の精神を体現しています。
しかし、ナポレオンの政策の中には、矛盾するものもありました。
1794年、フランス政府はフランス領ハイチの奴隷制度を廃止、世界に先駆けた画期的な判断でした。
ところがナポレオンは、フランス化革命の英雄にもかかわらず、奴隷制度を復活させます。
自由、平等、博愛という革命のスローガンとは真逆でした。
ハイチでの奴隷を使った農場工場での利益を優先したのです。

「文明というものを持たず、フランスの何たるかさえ知らぬアフリカ人に、どうして自由を与えることができようか」byナポレオン

フランス革命では、男女同権の考えも進展しました。
それまで離婚を求めることは男性しかできませんでした。
しかし、女性が離婚が希望しても認められるようになったのです。
しかし、ナポレオンは、フランス革命で女性が獲得した権利を剥奪しました。
彼の法典では、男性が不倫をしても、罰せられることはありませんでした。
しかし、妻が同じことをした場合は、3カ月以上2年以下の禁固刑を課しました。

「我々西洋人は、女性を手厚く扱い過ぎて、万事を台無しにしてきた
 男とほぼ同党と見なすことが、そもそもの間違いなのだ」byナポレオン

1800年12月、ナポレオンの権力への欲望をさらに搔き立てる事件が起こります。
ナポレオンに反対する一派が、命を狙い爆弾を仕掛けます。
馬車の近くで爆発!!
しかし、爆発は、ずれ、事なきを得ます。

「自分の命を狙う連中を、根絶やしにしなければ・・・!!
 それには今よりもっと絶対的な力が必要だ!!」byナポレオン

ナポレオンの答えは、自らを皇帝とすることでした。
1804年、国会の議決と国民投票で、ナポレオンは世襲の皇帝につきます。
賛成350万票、反対は2579票でした。
フランス革命で王政を否定したナポレオンが、国王以上に強力な皇帝に就任したのです。
ナポレオン、この時35歳、玉座に向かいながら、隣を歩く兄・ジョゼフにこう言ったといいます。

「ジョゼフ!父さんに見てもらいたかったな」byナポレオン

皇帝となってからも、ナポレオンは休むことなく自ら戦場に赴きました。

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ナポレオンは、イギリス、スウェーデンを除き、ヨーロッパの大半を制圧。
フランスの国土は、史上最大となりました。
このナポレオンの行動は、ますますフランス革命の精神とかけ離れていきます。
兄・ジョゼフをスペイン国王に、弟・ルイをオランダ国王にすることに成功。
これで、フランス包囲網は緩みます。

それだけではなく・・・ナポレオンは、自身も王族になろうとしました。
若き日の恋愛で結ばれた皇后ジョゼフィーヌと離婚。
1810年、政略結婚の本家本元オーストリアの皇女・マリー・ルイーズと再婚しました。
北イタリアの戦いでは、オーストリアの圧政を非難したナポレオン・・・とうとう自分がその仲間になったのです。
再婚の翌年・・・1811年、41歳の時にナポレオン2世が誕生。
国民は歓喜にわきました。

コルシカ島の貧乏貴族から、フランスの皇帝に上りつめたナポレオン・・・他国の王家との政略結婚で結ばれ、跡継ぎも生まれました。
彼にとってわが世の春でした。

しかし・・・そのわずか3年後に皇帝の座を追われることとなります。
どうして追放されたのでしょうか??
ヨーロッパ中にフランスの領土を広げたナポレオン・・・
次の標的はロシアでした。
1812年6月、ナポレオンはロシアに侵攻。
同盟国の兵も合わせて40万もの大軍でした。
負けるはずがない・・・と思っても無理はありません。
しかし、これまでとは何かが違う・・・
ある都市を占領すると、そこはすでに後退するロシア軍によって焼き払われていました。
現地で物資や食料を補給する計画が根本から崩れたのです。
補給がほとんどできずに疲れていく軍隊。
それでも9月には、モスクワに進軍!!
しかし、その夜・・・
またしても街に火を放たれ・・・モスクワ炎上。
補給が出来なくなってしまいました。
もはや、撤退するしかない!!
しかし、帰り道に待っていたのは冬将軍と呼ばれるロシアの12月の寒さでした。
ロシアから本国に帰還できた兵士は5000人・・・全体のおよそ1%でした。
戦術の天才ナポレオンが、戦術で完敗したのです。
この大敗で、ナポレオンの勢いが衰えたと見た各国は、第6次対仏大同盟を結成。
フランス領に攻め込み、領土を奪還します。
現在のドイツ・ライプチヒで、ナポレオンと対仏連合軍との戦いの火蓋が切って落とされました。
1813年、ライプチヒの戦いです。
連合軍の中には、妻・マリー・ルイーズの実家オーストリア軍もいました。
3日間の激闘の末、ナポレオンは敗走。
連合軍は追撃の手を緩めず、進軍しました。
1814年3月、パリ陥落。
パリの町では、連合軍兵士による市民への略奪や蹂躙が横行しました。

「私の人民は、苦痛と悲惨にあえぎ、見るも恐ろしい状況にある」byナポレオン

降伏を促す連合軍を前に、ナポレオンは部下たちから無条件の退位を迫られます。
ナポレオンはこれを拒否、軍人らしく、自ら毒を煽ります。
しかし・・・苦しくて吐いてしまいました。
死ねなかったナポレオンは、皇帝の座を引きずり降ろされます。

1814年、44歳の時に故郷のコルシカに近いエルバ島の小領主に身分を落とされ追放されます。

「裏切られたというより、わたしは見捨てられた」byナポレオン

一方、フランス本土では、王政が復活。
ブルボン家のルイ18世が王となりました。
この頃ナポレオンは、エルバ島から妻マリー・ルイーズに手紙を送っています。

「私は元気でいる
 だから来ておくれ
 一日千秋の思いで待っている」byナポレオン

しかし、返事はなく・・・マリー・ルイーズと息子が島に来ることはりませんでした。
しかし、失意のナポレオンに朗報がもたらされます。
この1年の間に、フランス経済は河口の一途をたどり、民衆は再び王政に不安を抱いていると・・・!!
1815年、ナポレオンは監視の目を盗み、エルバ島を脱出。
本土につくと、ナポレオンを慕う部下たちが次々と合流。
パリに帰還したナポレオンを、新聞はこう伝えます。

”我らが皇帝陛下が、パリの宮殿にお入りになった!”

身の危険を感じ、フランスから逃げ出したルイ18世に代わり、皇帝に返り咲いたナポレオンは、再び戦争へと突き進みます。
しかし、ワーテルローの戦いではイギリスやプロイセンの連合軍に完敗。
イギリスに投降します。
ナポレオンの二度目の天下はわずか95日でした。
1815年、46歳の時にセント・ヘレナ島に追放。
イギリスは、この地にナポレオンを追放します。
ここでナポレオンは、一挙手一投足を監視されながら生きなければなりませんでした。

「私の生涯は、なんという小説だろう」byナポレオン

1821年5月5日、ナポレオン・ボナパルト死去。
51歳の生涯でした。

「私の遺体はセーヌ川の河畔に葬ってほしい
 私が深く愛するフランス国民の中にありたいからである」byナポレオン

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パリ郊外のフォンテーヌブロー宮殿・・・かつてはフランスの歴史を動かした二人の女性が住んでいました。
一人目の女性は、王妃マリー・アントワネット・・・フランス革命によって、彼女が命を落とした後、この豪華絢爛な部屋を使ったのが二人目の女性です。
ナポレオンの妻・・・ジョゼフィーヌ・ド・ボナパルト・・・ナポレオンは、息を引き取る間際、こう言い残しました。
フランス、陸軍、ジョゼフィーヌ・・・ナポレオンが生涯愛し続けた女性の生涯は、波乱に満ちたものでした。

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天才的な頭脳と、ハードワークで知られるナポレオン・・・並みいる強国を打ち倒し、フランスを勝利に導きました。
熱狂的支持を受け、皇帝に上り詰めたナポレオン・・・彼の力の源は、妻・ジョゼフィーヌから注がれる愛!!

と思っていたのは、ナポレオンだけでした。

「彼を愛しているの?とあなたはお尋ねになるでしょう
 いいえ、愛してはおりません」

ナポレオンは、戦場から数百通の手紙を送ったものの、ジョゼフィーヌは読みもせず恋人と一夜を共にしていました。
突然ナポレオンが帰宅して、浮気がバレたこともありました。
すると・・・ジョゼフィーヌは居直り泣きわめきました。
止まらない浮気・・・許せずに離婚を突き付けます。
しかし、なぜかその後も、ナポレオンはジョゼフィーヌを愛し続けます。

パリから遠く離れたカリブ海・・・常夏の島・マルティニーク島。
かつては、フランスの植民地だったこの島で、1763年、ジョゼフィーヌ誕生。
一家は、サトウキビ農場を経営していました。
元々はフランスの貴族でしたが、祖父の時代にここへ移住したといいます。
父は、酒浸りの毎日でした。
貴族とは名ばかりの、お世辞にも裕福な暮らしとはいえませんでした。
長女のジョゼフィーヌも働き者とはいえず、暇さえあれば鏡に映る自分の姿を眺めていました。
彼女の憧れは、フランス王妃マリー・アントワネットだったといわれています。
そんなジョゼフィーヌが、フランス本国に渡り、あのナポレオンと結婚・・・どうして・・・??

島で伸び伸びと暮らしていたジョゼフィーヌ・・・16歳の時に転機が訪れます。
フランス本国にいたおばが、ある男性との縁談を持ち掛けたのです。
相手は、パリに住んでいる本物の貴族だという・・・1779年、二つ返事で縁談を受け入れたジョゼフィーヌ・・・期待を膨らませ、パリ郊外の教会で、結婚式に臨みました。
ところが、初めて彼女を見た夫のアレクサンドルは落胆しました。
パリで上流社会の女性を見慣れているアレクサンドルには、彼女は、あか抜けない島育ちの小娘だったのです。
容姿は良かったものの、パリに来てからは飛びぬけて美人というわけではありませんでした。
だから、夫はみっともない、連れていけない・・・と思って、家にほっぽり出して一人でいつも遊びに出かけました。
アレクサンドルはさっさと愛人を作り、あまり家に帰らなくなりました。
流石に良心がとがめたのか、愛人の家から手紙を送っています。

「僕の心よ 本当に僕は君を愛しているし、君にとても逢いたい」byアレクサンドル

結婚2年目には、長男・ウジェーヌを出産、その2年後には妹・オルタンスを身ごもりました。
しかし・・・この妊娠は、妻の浮気が原因ではないのか??と、アレクサンドルは疑い始めました。

「計算が合わない・・・
 お前がこの子を身ごもったとき、私は留守にしていた
 お前には、身の振り方を決めてもらいたい
 この手紙を受け取り次第、修道院へ行け」byアレクサンドル

当時は、浮気をしたり不貞を働いた女性は修道院に入る習わしがありました。
この修道院の規則は二つだけ・・・毎日ミサに出席すること、そして外泊をしないこと。
これさえ守れば、外出も自由、部屋で何をしてもよいというお気楽なところでした。
ここで、ジョゼフィーヌと同じように家から追い出された大貴族の奥方がたくさんいました。
恋の道にかけては百戦錬磨のジョゼフィーヌ憧れの社交界の華でした。
ジョゼフィーヌは、彼女たちからあらゆるテクニックを学びます。
立ち居振る舞い、ドレスの着こなし、そして男女の会話・・・

1785年、32歳の時に夫・アレクサンドルと正式に別居します。
当時は離婚は許されませんでした。
ジョゼフィーヌは、修道院を出ることとなります。

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晴れて社交界にデビューしようとした矢先に、とんでもない出来事が起きます。
1789年、フランス革命・・・バスティーユ襲撃です。
多くの貴族が逮捕され、やがて、子供の頃からの憧れ王妃マリー・アントワネットが処刑されます。
夫アレクサンドルも処刑・・・いよいよ次は・・・しかし、ここで、運命のいたずらが・・・!!
夫の処刑から4日後、革命政府にクーデターが起きたのです。
政権が変わり、ジョゼフィーヌは処刑を免れます。
自由の身となったジョゼフィーヌでしたが、財産はすべて差し押さえられていました。
2人の子供を抱えてどうする・・・??
頭に浮かんだのは、ショミエールという名のサロンです。
ショミエールには、政治家や銀行家、実業家などフランス国家の要人も出入りしていました。
ジョゼフィーヌは、持ち前の美貌に加え、修道院で鍛えた優雅なふるまいで、男性を魅了・・・裕福な紳士たちと次々と付き合います。
衣装などはすべて借金をしてそろえたことなど知る由もありませんでした。
金がないのに召使を4人を雇う・・・給料を払いもせずに召使にまた借金を申し込む・・・。
しかし人が離れていかなかったのは、彼女の人徳でした。
ジョゼフィーヌが、金持ちのパトロンを得た頃・・・革命に反対する王党派が武装蜂起!!
パリはまたしても騒然!!
そこに派遣されたのが、陸軍少将のナポレオン・ボナパルト26歳でした。
パリ市内にもかかわらず大砲を使い、わずか1日で王党派を鎮圧しました。
彼の見事な戦いぶりは、フランス中で評判となります。
ナポレオンとジョゼフィーヌが出会ったのは、運命ともいえるある偶然でした。

当時、パリ市民には武装解除の命令が出されていました。
ジョゼフィーヌの家からも、武器が没収され、亡き夫・アレクサンドルの形見の剣も取られてしまいます。
息子ウジェーヌは、なんとか剣を取り戻そうとナポレオンのもとを訪ねます。
父の形見であると切々と訴える姿に心を打たれたナポレオンは、剣を息子に返しました。
後日、ジョゼフィーヌはそのお礼に、ナポレオンのもとを訪れます。
ジョゼフィーヌを見たナポレオンは、一瞬で心を奪われます。
以来、ナポレオンは、足繫くジョゼフィーヌのもとを訪ねるようになります。
そして二人は、一夜を共にするようになります。

その頃のナポレオンの手紙には・・・

「比類なきジョゼフィーヌよ、あなたは僕の心になんという不思議な感銘を与えたことか
 わが愛しき人よ
 1,000回のキスを受けてくれ
 けれども、僕にはキスをよこさないでくれ
 それは僕の血を燃え上がらせるから」byナポレオン

そしてついに、ナポレオンはプロポーズ・・・しかし、ジョゼフィーヌは迷っていました。
ジョゼフィーヌが友人に宛てた手紙には、ナポレオンのことをストレートに綴られていました。

「彼を愛しているの?とあなたはお尋ねになるでしょう
 いいえ、愛してはおりません
 でも、彼がエネルギッシュに語る力強い情熱は、私の気に入っているものですし、彼の口ぶりからすると誠実さを疑うことはできません、」byジョゼフィーヌ

しかし、出会ってから半年後、彼女はプロポーズを受け入れます。
ジョゼフィーヌ33歳、ナポレオン27歳の時でした。

1796年、33歳の時にナポレオンと旧パリ市役所で結婚式を挙げました。
しかし、ジョゼフィーヌは、結婚からわずか1か月で浮気に走ってしまいます。
ナポレオンはその事実を知りながらも許します。
新婚の二人でしたが、あまり一緒には過ごせていませんでした。
ナポレオンは、外国との戦争に出たからです。
敵はオーストリア帝国・・・戦場はイタリア北部!!
この頃、オーストリアは、フランス革命の動きが自分の国にも広がることを懸念していました。
その為、他の王国と対仏大同盟を結成し、フランスを封じ込めようとしていたのです。
この時、フランス軍は兵の数では劣勢でした。
しかし、ナポレオンは大胆な作戦で勝負に出ます。
左翼の敵には最低限の兵力を残し、ほとんどの兵力を右翼に・・・!!
次に左翼と各個撃破を図ります。
一歩間違えば全滅しかねない作戦で、見事オーストリア軍を蹴散らします。
そんな戦場にいても、ナポレオンはジョゼフィーヌへの手紙を毎日3,4通書いて送りました。
その数、実に数百通!!
ジョゼフィーヌへの熱烈なラブレターでした。

「野営地を馬で駆け回っているときでも、心の中には僕の素晴らしいジョゼフィーヌがいて、感情を支配してしまう」
「ジョゼフィーヌ、君から離れていては、この世は砂漠であり、独りぼっちのボクには思いを打ち明けて、慰めとすることもできない
 毎日毎日、考えるのは君のことだけだ」

しかし、ジョゼフィーヌは、夫の手紙にろくに目も通さず、返事もほとんど書きませんでした。
友人にはこう言っています。

「ボナパルトって変な人ね」byジョゼフィーヌ

ジョゼフィーヌは貴族の結婚観・・・ナポレオンと結婚した時、貴族の結婚は家と家との結びつきで、当人同士の愛情は、一切考慮されていません。
ナポレオンは私たちと同じような感覚で結婚をしました。
ナポレオンは、イタリアの戦場にジョゼフィーヌも来てほしいと度々懇願します。
しかし、ジョゼフィーヌは、身体の調子が悪い、病気になったと、口実を作って断わっています。

「君の手紙は短くて悲しげで筆跡が震えている
 どうしたのだ?これまで僕は、嫉妬深かったと思うが、もうそんなことはないと誓って言う
 君がふさぎ込んでいるくらいならむしろ、僕自身で君に愛人を世話してあげたいぐらいだ」byナポレオン

しかし、そんな心配は全く要りませんでした。
何故なら、すでに愛人がいました。
相手は、9歳年下の陸軍中尉イポリット・シャルルでした。
オシャレで逞しいイケメン・・・舞踏会や観劇に出かけると、スマートにリードしてくれるプレイボーイでした。
ナポレオンがイタリアに発って一月後には、彼に夢中になっていました。
一方、妻がやってこないことにしびれを切らせたナポレオンは、戦線離脱してパリに戻ると言い出します。
慌てたのはフランス政府です。
ナポレオンに離脱されてはたまらない・・・ジョゼフィーヌにイタリアに行くように説得します。
渋々同意したジョゼフィーヌ・・・条件を出します。

「イポリットも一緒じゃなきゃ嫌!!」

仕方なく、政府は二人をイタリアに送り込みます。
ようやく現地についたジョゼフィーヌ・・・
ところが、軍人のイポリットは、ナポレオンと一緒に戦いの前線へ・・・!!
その後、ナポレオンは、ジョゼフィーヌを戦場近くの館に呼び寄せ、1か月ほど甘い生活を送ります。
その間、イポリットがどうしていたのかは誰も知りません。
英気を養ったナポレオンは、1797年1月リヴォリの戦い・・・北イタリアからオーストリアを撃退して勝利!!
1797年12月、パリに凱旋すると、フランス国民からは歓喜の声が上がりました。
妻のジョゼフィーヌは、勝利の聖母と言われるほど、国民的な人気者となります。
ナポレオンが快進撃を続けているのは、妻への愛に燃えているからである・・・原動力は妻への愛!!

ところがこの後、ジョゼフィーヌへの疑念がわきます。
パリに滞在していた時の事・・・ナポレオンは、自分の兄弟からジョゼフィーヌが浮気をしていると聞かされます。
ナポレオンは、ジョゼフィーヌを前に問い詰めます。
しかし、ジョゼフィーヌは、必死にごまかしました。
ベッドに誘い込みながら、涙ながらに訴える・・・いろんな方法を駆使し、
「私が愛しているのはあなただけ・・・」
ナポレオンを納得させることができました。

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一応納得したナポレオン・・・1798年5月、エジプトへ遠征!!
敵対するイギリスをけん制するためです。
その時、夫婦の危機は決定的なものとなりました。
副官からジョゼフィーヌの素行について一部始終を聞かされたのです。
はじめは妻の裏切りを信じようとはしませんでしたが、密会の日付や場所など、詳しい説明を聞きました。
するとナポレオンは、顔をけいれんさせ、顔を何度もたたき、部下にこう言いました。

「君たちは、ちっとも僕のことを思っていてはくれなかったのだ
 女というものはジョゼフィーヌ もし君たちが本当に僕のことを思ってくれているのなら、今、ジュノーから聞いたばかりのことを君たちは僕に教えてくれるべきだったではないか」byナポレオン

ナポレオンは離婚を決意し、エジプトから緊急帰国!!

一方、ジョゼフィーヌは、フランス総裁の宮殿で食事の真っ最中でした。
ナポレオンがパリに帰ってきていると聞いたジョゼフィーヌは、真っ青に・・・。
夫が自宅に帰れば、以前告げ口をした彼の兄弟から詳しい話を聞くだろう・・・
そうすれば、浮気のことを言い逃れできなくなってしまう・・・!!
ジョゼフィーヌは、ナポレオンを兄弟に合わせないために、自宅へと急ぎます。
しかし、ナポレオンの本意うが一足早く・・・兄から改めて、ジョゼフィーヌの浮気について聞きました。
怒り狂ったナポレオンは、ジョゼフィーヌの持ち物を家の外へと運び出させます。
ようやく自宅に戻ったジョゼフィーヌ・・・自分の荷物が積み上げられているのを見て、事の深刻さを悟りました。
慌ててナポレオンの寝室に向かい、ノックをするも反応なし!!
ドア越しに、どんなにナポレオンを愛しているか涙ながらに話しました。

「どうか、私の言うことも少しは聞いてほしい
 私が悪かったけど、きっとあなたは事実でないこともたくさん聞かされているはずなのだから」

一夜明け、ナポレオンはようやくドアを開けました。
彼もまた、めを真赤に腫らし、泣いていたといいます。
ジョゼフィーヌは、二度と浮気はしないと誓いました。
36歳の時でした。

浮気がバレたジョゼフィーヌは、心を入れ替え、ナポレオンと家族だけに愛情を注ぎました。
しかし、2人はやがて離婚します。
エジプト遠征から帰国したナポレオンは、是長期を迎えます。
1799年、30歳の時にクーデターを主導して政府を倒します。
その5年後、国民の圧倒的な支持を受けて皇帝に上り詰めます。
戴冠式は、パリのノートルダム大聖堂で行われました。
パリから65キロ離れたフォンテーヌブロー宮殿・・・もとは、フランスの王族が使っていたこの宮殿で、皇帝ナポレオンと皇后ジョゼフィーヌの生活が始まりました。
ナポレオンが設えた王の間・・・勤勉と繁栄を象徴する蜂の模様が描かれています。
ジョゼフィーヌの部屋は・・・もともとも主は、かのマリー・アントワネットの部屋でした。
ベッドの上にはMAというイニシャルが書かれていますが、結局使われていませんでした。
マリー・アントワネットに憧れていたジョゼフィーヌにとって、まさに夢の部屋でした。
部屋だけでなく、ジョゼフィーヌは、マリー・アントワネットさながらの絢爛豪華な暮らしを追い求めました。
お気に入りのドレスを次々と買い付けます。
その数、900着以上。
中でも一番のお気に入りは、白い生地に金の刺繍が施されています。
公式行事の時には、ベルベットのドレスを身に着け、最高級のショールを巻きました。
そのショールの請求書は、2枚で3,264フラン・・・現在の価格で約300万円です。
ドレス以上に値段がかかったのが装飾品です。
真珠とエメラルドとダイヤモンドのセットジュエリーがお気に入りでした。
この飾りは、肖像画にも記されています。
宮殿に来た宝石商が勧めるものは、ほとんど買っていたといわれています。
さらに・・・大きな買い物もしています。
パリ近郊にあるマルメゾン城です。
もともとは、貴族が使っていた城です。
一目で気に入り、すぐさま購入したといわれています。
一方、皇帝になったナポレオンですが、相変わらず戦争に多くの時間を割いていました。

1805年、アウステルリッツの戦い・・・ナポレオンは大軍を率いてオーストリア・ロシアの連合軍と戦闘開始。
フランスの支配権を広げるため、オーストリアに侵攻しました。
ここでも、圧倒的な強さを見せたナポレオン・・・この戦いは、ナポレオンの生涯の中でも最も華々しい大勝利でした。
その為、エトワール広場に、凱旋門の建設を開始。
皇帝ナポレオンは、ヨーロッパ最強の名をほしいままにしました。
順風満帆に見えた二人でしたが、ジョゼフィーヌには大きな不安がありました。
ナポレオンとの間に跡継ぎができないことです。
そこで、ジョゼフィーヌは、ある結婚を勧めて不安を取り除こうとします。
一人娘のオルタンスを、ナポレオンの弟と結婚させたのです。
2人の間に男の子が生まれれば、自分は皇太子の祖母となり、地位は安泰のハズ・・・
ジョゼフィーヌの思惑通り、2人の間には長男が生まれました。
しかし、5歳の誕生日を待たずに子供はこの世を去ってしまいます。
そんな中、ナポレオンとジョゼフィーヌの間を一変させる出来事が・・・!!
今度はナポレオンが愛人を作ったのです。
ナポレオンは、愛人との間に子供を授かります。
しかし、皇位継承者には認めませんでした。
しかし、このことで、2人の間に子供ができないのはジョゼフィーヌに原因があると考えたのです。
1809年12月、ナポレオンはついに離婚を決断します。

ナポレオンは離婚を発表する際、親族の前でこう述べました。

「私の愛するフランス国民は、彼らの将来のために我が子孫を残すことを強く望んでいる
 しかしながら、私と妻には子供を持てる望みがない
 私は、我々の結婚を解消する
 付け加えれば、愛する妻は、この15年間、私の人生をかくも美しいものにしてくれた」

ジョゼフィーヌの声明書は・・・

「私たちの結婚が障害となり、フランスの未来を剥奪していることを認識し、この離婚の決定を承諾します
 しかし、私は光栄に思います
 祖国のために、犠牲を捧げることができるということを」

しかし、ジョゼフィーヌは、読み上げる途中で泣き崩れ、最後の文章まで読めませんでした。
46歳でした。

パリ郊外にあるマルメゾン城・・・
離婚後のジョゼフィーヌは、ここで5年間暮らしました。
城が作られてから100年以上・・・改築したとはいえ、老朽化が激しく、改修工事と増築で、城を生まれ変わらせます。
”マルメゾン・・・それはジョゼフィーヌである”・・・と言われるほど、ここで誇り高く暮らすことを生きがいにしました。
大きな壁一面を名画で埋め尽くします。
一番の自慢は、高価なガラスを使った巨大な温室です。
世界各地から珍しい植物を取り寄せ、楽園に見立てました。
城を彩るバラの色使いには、特に気を遣いました。
形様々なバラが、250種類・・・当時、世界一ともいわれたコレクションでした。
そんな優雅な暮らしができたのは、離婚した後もナポレオンが彼女に破格の待遇を与えたからです。
引き続き皇后と名乗ることが許され、年に300万フラン・・・現在の価格で30億円が支給されました。 

1810年、ナポレオンはオーストリア皇女マリー・ルイーズと結婚。
息子・フランソワが生まれ、ローマ王の称号を与えられました。
しかし、再婚した後も、毎年ジョゼフィーヌのもとを訪ね、ジョゼフィーヌも楽しみ似ていました。

「皇帝陛下、私は陛下の思い出から遠のけられることを恐れておりました
 ですが、そうでないことを知りました
 ですから、これからは幸せさえ感じられるのではないかと思っております」

「君の手紙を受け取った
 でも、皇帝陛下とはよそよそしいではないか
 私はこれからも常にあの時のままで変わることはないのだから」

「あなたの言葉全てに私は涙しました
 それは辛い涙ではなく優しい涙でした
 どうかお幸せに
 あなたは祖合わせがふさわしいのです
 わたしにはどんなものもあなたとの思い出にはかないません
 私はあなたを愛し続けます
 永遠に ジョゼフィーヌ」

離婚から2年が過ぎた1812年の春・・・ジョゼフィーヌを思いがけない人が訪ねます。
ナポレオンの計らいで、息子フランソワをジョゼフィーヌに合わせたのです。
その子の顔をじっとのぞき込むジョゼフィーヌ・・・涙があふれ出ます。

「かわいい坊や 私があなたのためにどんな犠牲を払ったか
 いつかあなたにもわかる日が来るでしょう」

しかし、ジョゼフィーヌと別れた後のナポレオンは、転落をはじめます。
1812年、ロシアに侵攻するものの大敗北!!
ナポレオンの勢いが弱まったとみるや、周辺の国々は連合軍を結成し、フランスに侵攻をはじめました。
1814年、遂にパリが陥落・・・その後、ナポレオンは、地中海のエルバ島に流されました。
同じ年、ジョゼフィーヌにも病が襲います。
1814年5月29日、肺炎のためジョゼフィーヌ死去・・・50歳でした。
ジョゼフィーヌの墓がある聖ピエール・聖ポール教会
息を引き取る前にこう言いました。

「ボナパルト エルバ島 ローマ王」

大西洋に浮かぶ絶海の孤島セント・ヘレナ島・・・ジョゼフィーヌの死から7年後、1821年ナポレオン・ボナパルト、51歳はここで生涯を終えました。
その最期の言葉が伝えられています。

「フランス 陸軍 ジョゼフィーヌ」

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マリア・テレジア: ハプスブルク唯一の「女帝」 (河出文庫)

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ヨーロッパの名門・・・ハプスブルク家のマリア・テレジア・・・。

オーストリアの首都にある世界遺産・シェーンブルン宮殿。
フランスのベルサイユ、ロシアの冬宮と並んで、世界の三大宮殿の一つとされています。
ハプスブルク家の栄華を現代に伝えるこの宮殿を建てた人物こそ、マリア・テレジアです。


16人の子供の母親であり、宮殿には末娘マリー・アントワネットが7歳だった時、当時6歳だったモーツァルトが演奏に来た部屋が残っています。
子供たちを愛するとともに、テレジアには大きな使命がありました。
君主として国民の幸せと国の発展を・・・!!
国の近代化に成功し、オーストリアでは今でも国母として称えられています。

ハプスブルク家の領土を狙う急先鋒は・・・
プロイセンのフリードリヒ2世、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を拡大していました。
マリア・テレジアは、人生の多くをこの男との戦いに費やします。
戦いに勝利するために、さっそうと馬にまたがります。
そして・・・300年以上も敵対していたフランスと手を組む・・・外交革命をやってのけます。


中世の13世紀から20世紀にいたるまで、ヨーロッパで権勢をふるったハプスブルク家。
双頭の鷲の紋章で知られています。
マリア・テレジアが生れた頃には、オーストリア、ハンガリーなど中欧ヨーロッパを支配するハプスブルク帝国を築いていました。
その帝国を引き継いだマリア・テレジア・・・
敵が突然襲い掛かってきました。
周囲がためらう中、戦いに乗り出すのです。

1717年、マリア・テレジアは、ハプスブルク家の長女として生まれました。
王女としての教養を身に着けるために、ピアノ、ダンス、外国語、宗教を学びました。
6歳の時に、小国・ロートリンゲン王子、フランツ・シュテファンと出会います。
9歳年上のこの少年に恋心を抱き・・・テレジア1736年、19歳の時・・・初恋のフランツと結婚しました。
この結婚に期待していたのが、父・カール6世でした。
早く後継ぎとなる男の子が欲しい!!
ハプスブルク家の君主は代々男性・・・しかし、カール6世には男子がいませんでした。
そこで、テレジアの子に期待したのです。
すぐに二人の間に子供が・・・しかし、娘・・・2人目、3人目も娘でした。
カール6世は失望してしまいます。
そして4人目を身ごもっていた時・・・カール6世急死。

1740年、23歳の時、突然の父の死によって・・・長女だったテレジアは、ハプスブルク家の君主に・・・!!
しかし、周辺諸国は女性の君主を認めようとはしませんでした。

「鷲が死んだので羽根をいただこう・・・」

王女としての教養しか身に着けていなかったテレジア・・・
国を統治する経験も知識もありません。
しかし、突然財政や軍隊に向き合わなければならなくなりました。
突然、プロイセンがハプスブルク家北部のシュレージェン地方に侵攻!!
帝国内で、最も資源の豊富な工業地帯でした。
プロイセン軍を率いていたのは、国王・フリードリヒ2世!!
強大な軍事力を背景に、シュレージェンを占領してしまいました。
テレジアは、父の時代からの側近たちと緊急会議を開きます。
しかし・・・誰も口を開こうとはしない・・・。
沈黙が続きます。

皆、戦争をしても勝ち目がないと思っていたのです。
しかし、テレジアは・・・
「父から譲り受けた領地を割譲することはなりません!!
 シュレージェンを失うくらいなら、ペチコートを脱いだ方がましだわ!!」
当時、身分の高い女性がスカートの下に履いていたペチコートを脱ぐということは、並々ならぬ覚悟でした。
シュレージェン奪還の決意!!
しかし、事態はさらに緊迫!!
周辺諸国が攻め寄せてきます。
そんな中・・・テレジアは、乗馬の練習を始めました。
側近たちはわけもわからずオロオロ・・・
しかし、ほどなくして、テレジアは、颯爽と馬にまたがってハンガリーに現れました。
長い対立の末に、支配下に置かれていたハンガリーでは、いまだにハプスブルク家に対する反発が強かったのですが・・・それでも事態を切り抜けるには、ハンガリーの軍事力に頼るしかない!!
そこで、馬を愛するハンガリー人の信頼を得ようと乗馬を特訓したのです。
テレジアを見たハンガリー人たちは・・・
「女王万歳!!我らが国王万歳!!」
ハンガリーには、「国王の騎行」という騎馬民族国家ならではの儀式がありました。
ハンガリー各地から持ち寄った土で作った丘を国王が剣をもって駆け上がり、「どこから敵が雇用とも国を守る!!」と、宣誓するのです。
この儀式に望むために訓練をしたのです。

ハンガリーを味方につけたテレジアは、攻め寄せる周辺国に立ち向かいます。
このオーストリア継承戦争は、8年にわたって続きました。
結局、プロイセンにとられたシュレージェン地方を取り返せなかったものの、テレジアはハプスブルクの後継者として周辺国に認められたのでした。

シェーンブルン宮殿を拠点に、テレジアは国の改革を進めていきます。
8年に及ぶ戦争の経験を踏まえて、いかにハプスブルク家が時代に後れた国であるのかを痛感したのです。
テレジアは、徹底した近代化に乗り出します。
最初に手を付けたのが、人材の登用でした。
従来のように身分を気にすることなく優秀な人材を抜擢!!
こうして抜擢した人材と共に、あらゆる改革に挑んでいきます。

軍隊・・・
それまで戦いがあるときには、農民や傭兵を使っての寄せ集めの軍隊でしたが・・・
正式な軍を作ることに資、士官学校を設立!!
貴族も農民の平等に扱います。
兵たちの食堂も作り、栄養価の高い食事を提供、傷病兵の病院も作ります。
しかし、軍を辞していくためには多額の費用が・・・

税制改革にも取り組みます。
多民族国家のハプスブルク帝国では、各地域が勝手に税率を決め、国に納める額も自分達で決めていたので、
財政が不安定でした。
そこで、税率を一本化し、中央から役人を派遣し、税の徴収に当たらせます。
これによって国の財政が安定し、地域差による不公平感も無くなります。

生産性の向上にも・・・。
当時労働者は、寝ているとき以外働いているというほど長時間仕事場にいました。
しかし、実際は仕事を中断し、遊んだりお酒を飲んだり・・・
そこで、休憩時間を設けます。
人々の集中力が高まっていきます。

一方、家族との時間を大切にするテレジア。
シェーンブルン宮殿は、もともとウィーン郊外の別荘でしたが、政務をとりながら家族と暮らせるように整理したものです。
子供は、息子5人、娘11人の合わせて16人。
宮殿内に劇場を設け、子供たちが披露する声楽やバレエを見るのが、一番の楽しみでした。

テレジアは、子供たちの家庭教師を自ら選びます。
息子には帝王学を、娘には様々な教養を・・・
しかし、結婚に関しては、恋愛結婚は認めませんでした。
政略結婚によって、周辺国との関係を強化する必要があると考えていたからです。
ハプスブルク家には、古くから娘たちを政略結婚させる伝統がありました。
子供は資本で、それを政治に投資するという感覚です。
結局、テレジアの娘たちも犠牲にならざるを得ませんでした。

テレジアには忘れることのできない屈辱がありました。
プロイセンのフリードリヒ2世にシュレージェンを奪われたことです。
テレジアは、再び宿敵・フリードリヒと戦います。
シュレージェン奪還の秘策は・・・フランスやロシアとのプロイセン包囲網でした。
そしてロシアの女帝エリザベータ、フランスのポンパドゥール夫人を味方につけることに・・・ペチコート同盟を作り上げたのです。
しかし、この同盟成立への道程は容易なものではありませんでした。
というのも・・・フランスとハプスブルク家は300年以上の敵対関係にありました。
しかも、フランスはプロイセンと協調関係にあったのです。
フランス国王・ルイ15世が、やすやすと同盟を結んでくれるはずはない・・・
そこで、フランスにスパイとして送り込まれたのが、側近・カウニッツ伯爵!!
テレジアは、カウニッツと二人で秘密裏に動き始めます。
フランスのベルサイユに赴いたカウニッツは、頻繁に舞踏会を催します。
諜報活動に励むカウニッツ。
そして逐一テレジアに報告!!
6年後・・・ルイ15世の公妾で、国政を取仕切っていたポンパドゥール夫人を味方につけることに成功します。
彼女は女性を蔑視するフリードリヒ2世に反感を持っていたのです。
ポンパドゥール夫人は、ルイ15世を説得!!
遂に、ハプスブルク帝国とフランスとの同盟が成立しました。
この大転換は、歴史上外交革命と言われています。

家庭を大切にし、モラルを重んじるテレジアにとって、ルイ15世の愛人の存在を認め、力を借りるのは耐え難い事でした。
しかし、シュレージェンを取り戻すには、こうするしかないと判断し、行動したのです。

テレジアはその一方で、ロシアの女帝エリザベートに手紙を送ります。
エリザベータは快諾。
彼女も女性を蔑むフリードリヒを苦々しく思っていたのです。

こうして三人の女性によるペチコート同盟が成立し、プロイセン包囲網が完成したのです。
そして・・・1756年、39歳の時に、七年戦争が始まります。
ハプスブルク帝国を率いたのはダウン将軍。
テレジアが抜擢した人材のひとりでした。
ダウン将軍は次々とプロイセン軍を撃破!!
テレジアは・・・
「私は心の奥底から、本当に嬉しい気持ちをあなたに伝えないではいられません。」
そして、ロシアとハプスブルク帝国との連合軍を前に、フリードリヒ2世惨敗!!
彼自身、胸部に弾丸を受け、タバコ缶のおかげで九死に一生を得ていました。

テレジアは勝利を確信!!
その矢先、信じられないことが・・・
ロシアの女帝・エリザベート死去。
代わって即位したピョートル3世は、フリードリヒ2世の崇拝者でした。
そして・・・テレジアとの同盟を破棄し、プロイセン側についたのです。
プロイセンは、崩壊寸前で踏みとどまったのです。
一方、ハプスブルク帝国も、戦争継続の余力は残っていませんでした。
長引く戦いで、国力は衰退し、国民の暮らしはひっ迫し、食料不足に陥っていました。 
テレジアはついに、シュレージェンの奪還を断念。
多くの人が犠牲となった七年戦争は、1763年、46歳の時に集結。
戦後、テレジアは・・・
「私は戦争の打撃を嫌というほど体験しましたから、もう戦争などしたくはありません。」

結局、シュレージェンを取り戻せなかったばかりか、多くの犠牲者を出し、国力も衰退してしまった・・・
しかしテレジアは今もなお”国母”として慕われています。

七年戦争終結から2年後・・・最愛の夫・フランツが亡くなってしまいました。
「わたくしの幸せな結婚生活は、29年6か月6日。
 335か月、1540週・・・
 突然彼は、私の手から奪い取られてしまった。」
テレジアはその後死ぬまで、喪服を脱ぐことはありませんでした。
伴侶がいなくなったテレジアは、一人で子供たちと向き合います。

24歳になった長男・ヨーゼフ2世にある程度の国政を任せることにしました。
幼いころから帝王学を学んできたので、戦争で悪化した国家財政を直すために歳出削減を始めます。
休廷の馬を1200頭から400頭。
「馬の世話をしていた飼育係たちはどうなったの?
 まさか、彼らを路頭に迷わせるつもりではないでしょうね?」
しかし、ヨーゼフは聞く耳を持ちません。
それどころか、儀式や祝祭など、自分が必要でないと思ったものは廃止してしまいます。
歳出削減を推し進めていきます。

テレジアとヨーゼフの対立を決定的にしたのがポーランドの分割でした。
ヨーゼフは、テレジアの宿敵・フリードリヒ2世を崇拝していたのです。
そのフリードリヒの呼びかけに応じて・・・プロイセン、ロシアと共に3か国でポーランドを領土を略奪してしまったのです。
”国力を回復するためには、新しい領土が必要!!”というヨーゼフの考えがありました。
勢いに乗ったヨーゼフは、隣国・バイエルンの王が亡くなったのを機会にバイエルンへ侵攻。
テレジアは必死に息子を諭します。
「バイエルンに要求を突きつける正当な理由など、何もないではないですか??」

もう・・・ヨーロッパの平安を乱さないでほしい・・・

テレジアが危惧した通り、ヨーロッパに再び戦火が・・・!!
フリードリヒがハプスブルクを攻撃してきたのです。
フリードリヒは、好戦的なヨーゼフは、いずれプロイセンに悪影響を及ぼすと思ったのです。
戦いが始まりましたが・・・双方決め手にかけ膠着状態・・・
兵士たちは疲弊するばかりでした。
そんな中・・・フリードリヒ2世のもとへ一通の手紙が・・・
送り主はテレジア。
「自分の子供を無理矢理戦場に連れて行かれた女性たちのことを、私はいつも考えてきました。
 戦争とはなんと醜い営みなのでしょう。
 人間性に対しても、幸せに対しても・・・」
宿敵に対し、和平を申し出ました。

フリードリヒ2世はこれを受け入れました。
テレジアは、人命が失われ、経済が崩壊していく戦争を、なんとしても避けたかったのです。
その思いから、息子に内緒で手紙を送り、ヨーロッパに平和をもたらしたのです。

テレジアを悩ませたのは、ヨーゼフだけではありませんでした。
中でも手を焼いたのが・・・フランス国王・ルイ16世に嫁いだ末娘、マリー・アントワネット。
テレジアは浪費を重ねる噂しか聞こえてこない娘に対し、苦言を呈していました。

「わたくしは、多くの新聞が何度も書き立てていることについて、言わざるを得ません。 
 それはあなたの華美な装飾品についてです。
 髪が90センチもあり、羽根やリボンで飾り立てているそうではないですか。
 もしあなたが改めなければ、待っているのはただならぬ不幸だけ。」

一人の母親としては、ジレンマを抱え続けていましたが、国民のためには様々な改革を・・・!!
当時、人々を死に追いやる天然痘が流行しました。
そこでテレジアは、予防接種のために自ら現場に赴きます。
他国に先駆け義務教育を導入し、帝国の全域に小学校を設立します。
教育が生活の改善、国力のにつながるとしたのです。
当時の考え方では革新的でした。

「やがてこの子たちが成長して、教養を身に着けた成人となって、国家を支えてくれるのだわ。」

母であり、君主であり続けたテレジア。
「過ぎ去った幸せを思い浮かべているの。
 その幸せをあまりにも大切にしなかったと今更ながら後悔したりもしているけれど、今、私が早く来ないかと待ち望んでいるのは、棺と死に装束だけ。」

ハプスブルク帝国の君主となって40年・・・
1780年11月29日、マリア・テレジア死去・・・63年の生涯でした。


テレジアの死から3か月後・・・
一枚の版画が作られました。
「テレジア最期の日」
子供たちに囲まれ、息を引き取る様子が描かてれいます。
テレジアの死を悼み、多くの人が手に入れられるように版画にしたと言います。
23歳という若さで大国を背負ったテレジア。
生涯をかけて国を守り抜き、近代化へと導きました。
その人生は、国民を想い、国を育てるという愛に満ち溢れたものでした。
テレジアは、即位したとき、君主としての決意をこう述べていました。

「私は、最期の日に至るまで、誰よりも慈悲深い女王であり、必ず正義を守る国母でありたい。」




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