人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派、語る

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カンボジアのアンコールワット・・・900年前に建てられた寺院で、クメール王朝の文明の粋・・・象徴でした。
そのカンボジアに、1970年代200万人の国民を大量虐殺した恐怖の政権がありました。

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その政権のリーダーはポル・ポト。。。
貨幣の廃止・国民総農家・家族の解体・文字を読めたら処刑・学校の廃止・子ども医者・・・。


ウソだらけのプロフィール

1978年53歳のときの海外テレビ初取材映像では・・・
農村の出身で両親を手伝い、寺に住み込み・・・貧しい生い立ちを語りましたが、それは嘘で固められたものでした。
ポル・ポトも偽名で・・・本名はサロト・サル。

サロト・サルは、1925年プレクスバウ村に生まれます。
当時、人口280万人だったカンボジアは、その8割が農民で・・・ほとんどが貧しい暮らしをしていました。
その中でサルの両親は、周りの人の10倍の水田を持つ豊かな農家でした。
少年時代、何不自由ない生活を送ったのです。
9歳の時にプノンペンに・・・そして、エリートを目指して名門小学校に入学しました。
そこでサルが熱狂したのはバイオリンとロマンチックなフランスの詩・・・鳥も殺せない優しい少年でした。
名門高校に進学し・・・大きな挫折を味わいます。
勉強が付いていけなくなって大学の進学試験に失敗・・・
進学したのは工業専門学校でした。
サルは、エリートに劣等感を抱きます。

24歳の時に、チャンスが!!
1949年専門学校生初のフランスに留学・・・パリ技術専門学校へ・・・!!
希望に燃えるサル!!
パリでカンボジア人留学生の勉強会に参加しようとします。
しかし・・・一流大学のエリート留学生の話についていけません。。。
その差は、勉強会で使う本さえ理解できないほどでした。

上昇志向が強いサルは、自分の学歴を呪います。
「勉強会のリーダーは、学歴で選ばれた
 しかし私には、高校の修了書しかなかった。」

失意の中でサルは・・・人生を変えるものと出会います。
それは、当時パリの若者に流行していた共産主義思想です。
国民が財産を共有し、平等な社会を作る!!
当時、カンボジアは、フランスに植民地支配を受けていました。
さらに名目上の君主としての国王・・・二重支配のもとで、苦しんでいたのです。

「共産主義で国民が結束し、革命を起こせば、国王を倒し、フランスからも独立できる!!」

革命を夢見たサル・・・
「私は将来、革命組織を指揮するよ・・・!!
 そして、書記長となって官僚が人民のための政策から逸脱しないように統制してみせる。」

サルは28歳でカンボジアに帰国し、革命活動に参加します。
1953年11月カンボジアがフランスから独立!!悲願の達成です。
しかし、革命家たちにとっては悲劇の始まりでした。
名実ともに全権を握った国王・シハヌークは、革命活動家たちを潰しにかかります。
弾圧を開始し、多くの活動家たちが殺害されてしまいました。

サルにピンチとチャンスが・・・??
1963年38歳で共産主義政党のリーダーに就任します。
それは、真っ先に狙われることを意味していました。

秘密警察に追われることに名たサルは、首都・プノンペンを脱出し、東部・・・ベトナムとの国境地帯の農村に逃げ込みます。
そして・・・山岳地帯を移動し・・・本格的な武力闘争に・・・
その移動中に見たものは・・・教育を受けることもできず、貧しい中でただ生きるためだけに懸命な農民たちでした。
ポル・ポトは、この人たちを率いて・・・平等な社会を作ることを決意します。
「辺境の地で、平凡な庶民と暮らしてみて、問題点がわかった。
 貧しい農民こそ、基本なのだ。」
そして、都会の金持ち、インテリ・・・を革命の敵とみなし、憎悪の対象となっていきました。
この頃名乗り始めた名がポル・ポト・・・カンボジアで素朴で質素な農民にありがちは名前です。
そして、偽りの人生を始めたのです。


目立たない記念写真

辺境の農村に身を隠したポル・ポトは、政府と武力闘争を行うゲリラ部隊を結成します。
「クメール・ルージュ」です。
ポル・ポトは、北部の山岳地帯を基地に、武力で農村から革命を起こしていきます。
・土地制度の改革・・・すべての農民から土地を取り上げて平等に再配分します。
強制的に平等な社会を築いていくことで、貧しい農民の支持を集め勢力を拡大していきます。
1970年3月・・・首都プノンペンで・・・首相ロン・ノルによるクーデターが起きます。
最高権力者のシハヌーク国王を追放したのです。

共産主義精力と接近した国王シハヌークを追放し、新しい政権を樹立しました。
新政権は、共産主義を敵視するアメリカと手を組みます。
こうして始まったのが・・・アメリカによる共産主義「クメール・ルージュ」支配地域への空爆です。
50万トンにも及ぶ爆弾が投下され、地上軍が・・・!!
死傷者30万人とも言われています。

ポル・ポトは、圧倒的な物量の差に追い込まれていきます。
そこで、中国に亡命していた宿敵・・・元国王のシハヌークと手を結ぼうと画策します。
1973年2月・・・シハヌーク元国王が、クメール・ルージュと会談を持ち、カンボジアへ秘密裏に帰国・・・。
このシハヌークを迎えたのは・・・クメール・ルージュの幹部キュー・サムファンでした。
ポル・ポトではなかったのです。
会合の写真でも、ポル・ポトは目立っていません。

シハヌークは、このポル・ポトが、昔秘密警察に追わせたサロト・サルとは、気付きませんでした。
ポル・ポトは、自分の存在をかくし、シハヌーク元国王との協力関係を築こうとしました。

ポル・ポトは秘密主義者で、自分は影に潜んで身を守り、幹部を動かして部下を操る・・・そんな戦い方をしていました。
「勝利へのカギは、秘密を厳しく守ることである。
 機密性が高ければ高いほど、我らは長く生き延びられるのだ。」

シハヌークと組んだことで、支配地域は拡大していきます。
首都プノンペンに近づいていきます。
1975年1月・・・クメール・ルージュ、プノンペンの総攻撃を開始、3万5000の兵で政府軍を圧倒します。
4月17日・・・クメール・ルージュがプノンペンを制圧。
これで悲惨な内戦が終わる・・・と、誰もが思っていました。
この時も・・・その兵士たちの中に・・・ポル・ポトの姿はありませんでした。

そして・・・恐ろしい命令を・・・!!
「今すぐ町を出ていけ!!」兵士たちは、市民たちに銃を突き付けて追い立て始めました。
大混乱で、荷物ひとつ持ち出すことができません。
しかし、兵士たちも混乱していました。
何が目的で、何をすべきなのか・・・??
混乱の中・・・射殺される人も・・・!!
ポル・ポトの秘密主義は、無秩序が巻き起こす惨劇をもたらしたのです。
そして・・・200万の人々が農村へ移住・・・。
その距離最大で300㎞・・・。
炎天下を歩かされ・・・歩けなくなったものは銃で撃たれ・・・あるいは置いていかれ・・・この移動で、2万人が死亡したと言われています。

首都プノンペンは、人っ子一人いない・・・もぬけの殻となりました。
混乱と殺戮の中・・・4月下旬になってようやくポル・ポトがプノンペン入りをします。
姿なき独裁者でした。


大虐殺の引き金となったつぶやき・・・「責任を負うべき者がいる」

クメール・ルージュ・・・国民が全員農民として働くことで、農作物はこれまでの3倍以上の収穫を目指します。
そして・・・誰もが腹いっぱいの米を食べることを賛美しました。
これは、全ての国民を平等な農民とする為でした。
私有財産を没収し、貨幣を廃止・・・自らの理想を完成させようとしました。
中国やベトナムよりも30年以上も進んでいる??
それは・・・地獄でした。

都市から移住させられた農業に不慣れな人々・・・
農機具は堕落した資本主義なので一切使わない農業。。。
衣服は黒い農民服・・・見知らぬ土地での共同生活でした。

もともと農村にいた人は、旧人民・・・革命に協力した人で、都市から移住した人は新人民とされました。
新人民は、旧人民の教育指導のもと、絶対服従とされました。

人間関係も強制的に作りかえられます。男女・夫婦は別々となり、オンカーのもとで、重労働・・・共同生活を強いられました。
7歳以上は親から引き離され、オンカーの子供となり思想教育を施されました。
工場で働くのは子供・・・学歴がある知識人たちは革命に反抗する敵であるとみなされ処刑されました。
無垢で洗脳できる子供たちに工場での労働が任されたのです。

全ての国民がオンカーの支持の元、農村へと伝えられました。
しかし、知っているのは直属のオンカーのみ・・・。
ポル・ポトの名さえ知らないのでした。
上から降りてきた命令を、理由も目的も分らないまま、絶対服従を命じられたのです。

1年後・・・無形かっくでガムシャラな農村の拡大は、失敗に終わります。
機械を使わない手作業では、作物の収穫量が伸びなかったのです。
農村では食糧不足となり餓死者がたくさん出ました。

ポル・ポトは幹部を集めて・・・
「正しい政治意識を持っていれば、こんな失敗はしなかったはずだ。
 責任を負うべき者がいる。
 あらゆる場所で、この問題を解決せよ。」と。。。

国民の側に責任を負わせ・・・全国の農村へ・・・!!
裏切り者の密告・・・!!
革命の敵となれば・・・どこかへと連れていかれ・・・二度とは、戻って来ません。。。

「粉砕せよ・・・!!」

もはや敵とすることに深い意味はありませんでした。

キリング・フィールド・・・殺戮の地・・・連行された多くの人は拷問・・・逮捕・・・そして・・・集団銃殺・・・殴り殺されたのです。
このキリング・フィールドは、カンボジアだけで400カ所。。。
3年8か月で・・・死者は推定100万人から200万人と言われています。

1978年12月・・・軍の一部によるクーデターが起こります。
司令官はヘン・サムリン。
1979年1月7日プノンペン陥落・・・。
ポル・ポト政権は、3年8か月で崩壊しました。

ポル・ポトは、タイ国境付近の密林に潜伏します。
当時は冷戦の時代・・・共産主義国(ベトナム・ソビエト)はカンボジア新政権を支持したので、ポル・ポトはしノン主義国(アメリカ・イギリス・フランス)が支援をします。
食料・・・武器・・・ゲリラ戦を続行し、20年にも及ぶ内戦へと発展していくのです。
内戦の傷痕は今も・・・双方の地雷600万個、死傷者5万人以上と言われています。

1980年代・・・カンボジアの取材が入った時・・・ポル・ポト政権による虐殺が明るみにされましたが・・・
ポル・ポトは認めませんでした。

1998年4月15日・・・最期まで自分の罪を認めないまま・・・この世を去りました。
病死とも自殺とも言われています。
その1年後・・・戦いは終結しました。

2009年プノンペンでクメール・ルージュによる虐殺の国際法廷が行われました。
被告となったのは・・・ポル・ポトの側近だった5人のみ。
いずれも自分に責任はないと主張!!

しかし、ポル・ポトの関与を認めたうえで、幹部たちの責任も免れないとしました。
これまでに3名の被告に、最高刑である終身刑が言い渡されました。

正体を偽り、影となった姿なき独裁者・ポル・ポト・・・。
未だに傷跡を残したままなのです。

最近・・・高校生に向けて、ポル・ポトが何をしたか?の授業が始まりました。
被害者と加害者が同じ生活をしている国で。。。
悲劇を風化させないように・・・。
教科書の冒頭には・・・

「我々カンボジア人は、あの暗黒の時代と向き合って初めて、他の国でも起こりうるこのような大量虐殺を阻止出きる国民になれるのだ。」

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