勇気ある人々 [ ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ ]

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”アメリカの女王”と言われたジャクリーン・ケネディ・・・。
第35代大統領ジョン・F・ケネディの妻として知られています。
最も華麗なファーストレディ、悲劇の主人公、裏切者・・・様々な言葉と共に、どうして女王と言われたのでしょうか?

アメリカのファーストレディと言えば、華麗なファッションと言動の一つ一つに世界の注目が集まります。
そんな歴代の夫人の中で、別格としてスーパー・ファーストレディと呼ばれるのが、ジャクリーン・ケネディです。
ファッションリーダーとして絶大な人気を誇り、アメリカ国民を魅了しました。
外交でも、笑顔と流暢な語学で各国の首脳を虜にしました。
更に、自ら企画したホワイトハウスの修復や、文化活動も幅広く手がけました。
夫をサポートするだけではなく、自ら行動する最初の大統領夫人でした。

しかし、悲劇は突然起こりました。
夫のケネディが、ジャックリーンの目の前で暗殺されたのです。
ジャクリーンの孤独な戦いはここから始まりました。

1953年6月2日、エリザベス2世戴冠式・・・
世界で注目されたこのビッグイベント・・・取材のためにアメリカから派遣されたのが24歳のジャクリーンブービエでした。
この時、滞在先に一通の電報が届きました。
後にジャクリーンの運命を変える人物からでした。

「新聞記事は最高。
 君がいなくてさみしい。」

ジョン・F・ケネディ・・・アメリカで新進気鋭の政治家として注目を集めていた青年でした。

1929年7月28日、ジャクリーンはアメリカのニューヨーク、サウサンプトン・・・マンハッタンを望む高級住宅地に生まれました。
父、ジョン・ブービエ3世は、株の仲買人・・・プレイボーイとして有名でした。
母、ジャネットは、資産家の娘・・・父は、幼い娘をかわいがり・・・
「特別な存在になれ
 ユニークな人間になれ
 お前は女王になるんだ」と言いました。
しかし、11歳の時、父はジャクリーンの元を離れていきました。
遊び人の父と母が離婚したのです。

その2年後、母は、大富豪と再婚します。
待っていたのは、ニューヨークでも指折りの金持ちしか味わえない豪華で夢のような暮らしでした。
高校に通う頃には、ジャクリーンはわがまま放題のお嬢様に育っていました。
頭がいいが、先生には反抗的・・・制服が嫌いで、学校でタバコも吸っていました。
異性に興味はなく、言い寄ってくる男は多いものの・・・
「男の子って不器用で退屈、私は一生恋もせず、結婚もしない気がするの」
高校の卒業アルバムには・・・”将来の夢=主婦にならないこと”と書いていました。

1949年20歳・・・フランスのソルボンヌ大学に留学します。
パリでフランス文学や美術を学び、ボードレールの詩を暗唱するほど熱心でした。
勉強の合間には、オペラやバレエを見ます。
美術館を巡り、カフェで読書に熱中します。

「パリでの1年間は、生涯で最も幸せな時期でした」

アメリカに戻ったジャクリーン・・・キャリア・ウーマンとして活躍しようとしていた時に千載一遇のチャンスが・・・。
世界的ファッション雑誌VOGUEの未来の編集者を発掘するコンテストです。
優勝者には、パリとニューヨークで半年間ずつ見習い編集者として働くという特典がついていました。

ジャクリーンの論文やエッセイは高く評価され、1280人の応募者の中から1位に選ばれます。
ところが、ジャクリーンが雑誌社で働くことはありませんでした。
大富豪の義父と母に大反対されたのです。
良家の子女は、優秀な伴侶をアメリカで見つけることが第一・・・

「欲求不満の塊でした
 将来は、敷かれたレールを進むだけ
 そして有利な結婚をするだけですから」

雑誌社で働くことを辞退させた義父は、知り合いのコネを使って地方紙の記者に採用させました。
受け入れ炊きの新聞社では、誰もがジャクリーンを結婚までの腰掛仕事だと思っていました。
ところがジャクリーンにはそんなことはなく・・・
最初は雑用係だったものの、街頭インタビューに志願。

1951年22歳のジャクリーンは、あるパーティーで運命の人と出会います。
ジョン・F・ケネディです。

「この人は、自分の一生に深い影響を与え、心を悩ませる存在になる」

12歳上のケネディは大富豪ケネディ家の次男で、青年政治家として将来を期待されていました。
ケネディの魅力は、莫大な財産、人間的な魅力、ハンサムなルックス・・・でも、それ以外に、それまでジャクリーンが出会ったどんな男性も持っていない何かを持っていたのです。

ケネディに興味を抱いたジャクリーンは、手作りのランチをもって事務所を訪ねるようになりました。
時には、議会で使うフランス語の資料を翻訳したり・・・親密になっていきます。
知り合ってから1年後・・・ケネディは、遂に彼女を父・ジョセフに紹介します。
ケネディ家の長・ジョセフは、一代で莫大な財を築いた大富豪でした。
手段を選ばず、金と権力でのし上がったジョセフ・・・息子を大統領にする野望に燃えていました。
ジョセフはジャクリーンを気に入ります。
聡明さ、美貌、学歴、家柄・・・彼女は、大統領夫人の条件すべてを満たしていました。
ジョセフ・ケネディは、ジャクリーンの女性としての魅力より、政治的な才能に目をつけたのです。

1952年5月、ケネディはジャクリーンにプロポーズ。

「結婚の相手は、君の他にいないことがわかった
 結婚してほしい」

ジャクリーンは、この申し出を受けました。
ケネディとだったら、冒険心に富んだドラマチックな人生が歩める・・・!!
1953年9月、ジャクリーンはケネディと結婚。
ニューポートのセントメアリー教会には、700人の招待客と、3000人の見物客が・・・!!
ウエディングドレスは、新郎の希望で伝統的なスタイルのものを着ました。
青年政治家と良家の娘の結婚を、マスコミはこぞって取り上げます。
この時、24歳!!

1958年、ジョン・F・ケネディは、大統領選挙に出馬表明をします。
結婚して5年間、子育てを優先してきたジャクリーンでしたが、ケネディ家の家族会議で協力を求められ・・・
「ジョンが大統領になるためなら何でもするわ」と言いました。
ケネディ家の命運をかけた大勝負、父ジョセフは、この選挙戦に莫大な資金を投じました。
フランク・シナトラをはじめ、多くのハリウッド俳優たちがケネディを応援・・・空前絶後のキャンペーンでした。

ジャクリーンは、夫の良き相談相手でした。
ジョンの服装、演説の原稿、身振り手振りにもアドバイスを与えます。
これまでいまいちだったケネディの演説は、大いにイメージアップします。
さらにジャクリーン自らも演説をします。
フランス語、スペイン語、イタリア語など、移民たちの言葉で語りかけます。
この言葉は、英語を話さず、貧しい生活を送るマイノリティの心を掴んだのです。
聴衆はその語学力に驚き、しかし、それ以上に庶民のために努力をしてくれる彼女に心打たれたのです。

ジャクリーンの人気は沸騰!!
ジャクリーンが来ると知らされると演説会場は2倍に膨れ上がりました。
1960年11月8日、大統領選挙投票日・・・
「今までの人生で最も長い夜」
夫を大統領にする・・・その目標のために、全てを犠牲にしてきました。
そして、ケネディが大統領に当選!!
ジャクリーンは31歳の若さでファーストレディとなったのです。

ジャクリーンの服装は、それまでの大統領夫人とは全く違い、華やかなものでした。
しかし、先輩の元大統領夫人からは批判を受けます。
「質素にしなさい」
「高価な服や派手なスタイルはやめなさい」
大統領夫人は、アメリカの母・・・常に質素で夫を立てる・・・控えめなイメージに合わないというのです。

そのジャクリーン・ルックは華やかで、全米に大ブームを巻き起こします。
自分専属のデザイナーをおいていました。

「私が着るものは常にオリジナルで、他の人が同じものを絶対に着ないように配慮してください
 太った背の低いご婦人に同じドレスで歩き回られるのは嫌なのです」

しかし、人々はそのファッションに夢中になります。
華やかで行動的な大統領夫人は、アメリカの女性たちに大きな影響を与えます。
”結婚しても、こういうファッションをしていいんだ”と思い、ジャクリーンの存在感自体が女性の在り方、生き方を大きく変えていきました。

ファッションだけでなく、ホワイトハウスを変えていきます。

「こんなところには住めない!!」

当時、ホワイトハウスは大統領の住まいとは思えないくらいひどい状態でした。
歴代の大統領がそれぞれ改築した結果、水の流れないトイレや、壊れたシャワーが放置されていました。
そしてジャクリーンは、ホワイトハウスの改修を行います。
修復の会議を作り、メンバーには全米有数の富豪たちを入れます。
莫大な予算を税金で賄えば、批判を受けるので、金持ちから寄付金や調度品の寄付をしてもらい節約しながら・・・
さらに、斬新なアイデア・・・ホワイトハウスのガイドブックを作り、見学に訪れた人に売ります。
発売から10か月で50万部売れ、改修費用を大きく助けました。
そしてテレビ番組も。。。「ジャクリーン・ケネディが案内するホワイトハウスへの誘い」自ら出演し、フランス語版、スペイン語版も作り、世界108か国に発信します。

ジャクリーンは、大統領夫人として、政治的にも使らを発揮します。
ケネディ大統領の外交の切り札ともいわれました。
フランスでシャルル・ド・ゴール大統領と会談した時、ケネディは険悪だったアメリカとフランスとの関係修復にジャクリーンの力を借りようとしました。

「私はジャクリーン・ケネディをパリまでエスコートしてきた男です」

夫の通訳を務めたジャクリーンは、フランス語を巧みに操り、文学や美術の話をし、ド・ゴールの心を掴んでしまいました。

「素晴らしい髪と目をしたほれぼれするほど魅力的な女性だ」

冷戦で緊張関係が続いていたソ連との会談にも同行。
ジャクリーンは、フルシチョフ書記長をたちまち魅了します。
カメラマンがフルシチョフに、ケネディと並んでポーズをとってくれというと・・・
「できればケネディ夫人との方がいいんだけどなー」と言ったと言います。
ジャクリーンを待ち受ける各国のマスコミは過熱し、まるで王族のようでした。
アメリカの女王と世慣れていたジャクリーン・・・立ち居振る舞いや歩き方など、何とも言えない魅力がありました。

大統領夫人として絶大な人気を誇ったジャクリーン・・・
ところが数年後には裏切り者のレッテルを貼られることに・・・。
1963年、ジャクリーンが34歳の時、大統領再選を目指すケネディは、テキサス州で遊説することにしました。
1963年11月22日、ダラス・・・
ジャクリーンは、ストロベリーピンクのスーツにピルボックスハットを被り、颯爽とタラップから降り立ちました。
ケネディは、オープンカーでのパレードを予定していました。
前回の選挙では、この地方では票がとれなかったので、てこ入れのためにジャクリーンと共に、しっかりと姿を見せようとしたのです。
そして、みんなが見やすいようにパレードのルートも発表!!
12時55分パレード開始。
ジャクリーンは夫の隣に座りました。
13時30分・・・車がテキサス教科書ビルに差し掛かった時・・・銃弾を頭に受けてのけぞる大統領。。。
ジャクリーンは、座席を這い上ってトランクにのぼろうとしました。

「私は彼の頭を抱えて、これ以上脳がこぼれ出ないようにしたの」

ジャクリーンは、夫について病院へ・・・。
しかし・・・1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ死去。
ショックと悲しみに包まれたものの、大統領の不在は許されない・・・。
すぐに大統領専用機の中で、ジョンソン副大統領が宣誓式を行い、ジャクリーンも立ち会います。
この日、ジャクリーンは、ケネディの血を浴びたスーツのままでした。
着替えるように勧められたものの・・・

「犯人に自分がしたことを見せるの
 世界中の人たちに見せるの」

夫の死を人々の心に深く刻みたい・・・
ジャクリーンは、葬儀のすべてを自ら取り仕切ることにしました。

1963年11月25日、ジョン・F・ケネディの国葬が行われました。
葬列は、ジャクリーンとケネディの家族が先頭に、ワシントンの議事堂からセントマシューズ大聖堂まで徒歩で移動。
埋葬は、南北戦争の兵士も眠るアーリントン国立墓地・・・。
ジャクリーンが特にこだわったのは墓を照らす”永遠の炎”。
消えることのない炎のようにアメリカ国民がケネディを忘れないように・・・。
ケネディの死後、ジャクリーンは親しい人に手紙で・・・
「私の人生は終わった」と書きました。

しかし、失意のジャクリーンを、世間は放っておいてくれませんでした。
ワシントンの新居の前には常に報道陣が・・・観光バスまでも・・・。
夫の死から5年・・・さらにケネディ家の悲劇は続きます。
弟・ロバート・ケネディが大統領に立候補するも・・・1968年6月5日暗殺・・・。選挙中のことでした。

ジャクリーンは、子供達にも身の危険が迫っていると感じていました。
しかし、ケネディ家は、ロバートの選挙に財産の殆どをつぎ込んでしまっていました。
ジャクリーンが警備のために使える資金は殆どありませんでした。
ロバートの葬儀の翌日・・・

「アメリカという国が憎い、アメリカという国を軽蔑するわ
 ケネディだから殺されるなら、子供たちは一番の標的じゃない!!
 こんな国、私出ていく!!」

ジャクリーンが逃避先に選んだのは、ギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスの元でした。

「とんでもない悪党だけど、同時にとても理解があるの」

オナシスとは、5年前、ケネディの存命中に一度会っていました。
この頃、ジャクリーンは3人目の子を身籠ったものの、生後わずか3日で死亡・・・。
その傷を癒すために妹の知り合いだったオナシスと船旅を共にしたことがあったのです。
23歳年上のオナシスはプレイボーイではあったものの、女性に対する気遣いがありました。
莫大な財力を使って、宝石は言うを及ばず、船や飛行機をジャクリーンにプレゼント。
何より魅力的だったのは、地中海に島を持っていたことでした。
ジャクリーンのために、島に万全のセキュリティシステムを作ってくれたのです。

1968年10月、39歳の時、オナシスと再婚。

この結婚は、アメリカをはじめ、世界中か裏切り行為だとバッシング!!

その一方で、少数ながら再婚を支持した人も・・・。
友人の女優エリザベス・テーラーでした。

「オナシスは魅力たっぷりで、新説で思いやりがある人だと思うわ
 ジャクリーンは、最善の選択をしたと思う」

11歳の娘と7歳の息子のために、平穏な生活を求めてギリシャに来たジャクリーン・・・。
しかし、浮気者のオナシスとは喧嘩が絶えませんでした。
ジャクリーンは、寂しさを紛らわすためにショッピングにのめり込みます。
気に入った靴はダース単位で、気に入ったブラウスは全色揃えました。
さらに、数々のファッションショーの常連で、コレクションを丸ごと買い上げます。
さすがの大富豪オナシスも制限を設けたほど、その買い物はすさまじいものでした。

1975年、結婚から7年でオナシス死去。
晩年、ジャクリーンに愛想をつかしていたオナシスは、遺言で財産の殆どを娘クリスティナに譲るとしていました。
ところがジャクリーンは、クリスティナを相手に、遺産相続の訴訟を起こします。 
その結果、2600万ドル・・・当時の金額で79億円という莫大な遺産を手にすることになりました。
もう、誰に頼る必要もない・・・ジャクリーンはアメリカに戻り、子供たちとニューヨークで生活を始めます。
莫大な遺産のお金で、子供の頃に味わった豪華な暮らしを再び手に入れたのです。

「今の生活は退屈で仕方がないの」

1975年、46歳で突然出版社に就職。
学生時代から好きだった美術や文学の本を作り始めます。
それを見た社員たちは驚いてこう言いました。
「雑誌の表紙が歩いている!!」
しかし、ジャクリーンは、コーヒーを自分で入れるなど、部下の手をわずかわせることはありませんでした。

「もう、自分のために生きる時が来たの」

仕事ではアーティストの書物を得意としました。
「ジョンとヨーコの愛の詩」、マイケル・ジャクソンの自伝の出版・・・
マイケルの自伝には、少年時代の体験や、思春期のコンプレックス、家族の問題など、それまでにない内容が書かれていました。
ジャクリーンは、序文にこんな文章を寄せました。

”多くの人にとってマイケル・ジャクソンは理解しにくい人物に見えるかもしれません
 けれど、彼と一緒に仕事をした人は違います
 この才能あふれるアーティストは、感じやすく、心温かく、面白く、また洞察力にも富んでいるのです”

そして、生涯最後の恋をしました。
50歳となったジャクリーンの相手は、有名な政治家でも大富豪でもなく・・・同い年のベルギー人・・・モーリス・テンペルズマンでした。
ジャクリーンはモーリスとは趣味が合い、文学を愛し、フランス語で会話をし、二人でオペラを見たり、美術品を買ったりしました。
二人は一緒に暮らすようになったものの、結婚することはありませんでした。
モーリスの妻が離婚に応じなかったからです。
それでもジャクリーンは満足でした。

「私が有名であることで、私の人生から彼が遠ざかることがないよう、心から願っているわ」

1994年5月19日、ジャクリーンはリンパ腺がんによりニューヨークで死去・・・64歳でした。
子供達とモーリスに見守られての最期でした。

墓は、本人の希望でアーリントン国立墓地のジョン・F・ケネディの隣に造られました。
ジャクリーンが夫の葬儀の際に灯した永遠の炎は今も燃え続けている・・・

「人生にあまり多くを期待してはいけない
 普遍的なものは何もない
 だから、誰も頼ることはできない
 頼れるのは自分だけ
 これが辛い思いをして私が学んだことです」

 
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