杉原千畝は、明治33年1月1日、岐阜県八百津町に生れます。
幼いころから成績優秀で、父親からは将来、医者になるように言われていました。
ところが、杉原が興味を持ったのは外国でした。
英語の教師になりたいと思うようになります。
そして18歳になった杉原は・・・
1918年早稲田大学高等師範学校(現教育学部)英語科に入学します。
本格的に英語の勉強しし始めましたが、父の意向に背いての上京だったため、仕送りが無く、たちまち生活費に困ってしまいました。
そんな時、偶然目にした新聞に、外務省の官費留学生募集の広告を見つけます。
それは、3年間の学費と、留学先への渡航費が支給されるというものでした。
学費は最高で年2500円、当時、大学卒の初任給が40円だった時代に、破格の条件でした。
しかし、問題がありました。
中国語・モンゴル語・ロシア語・スペイン語・タイ語・オランダ語・ポルトガル語・トルコ語・・・
募集の中に英語専攻がありませんでした。
それでも、学費が必要な杉原は、諦め切れずに当時人気のスペイン語を選択、猛勉強の末、見事合格しました。
ところが・・・せっかく勉強したスペイン語ではなく、ロシア語を選ばされることに・・・。
この年は、たまたまスペイン語を希望する人が多く、反面、ロシアは革命の混乱などもあってロシア語を選択する者が極端に少なかったのです。
そのため、外務省の担当官は、スペイン語の定員からあぶれた者に、ロシア語を選択するように勧めたのです。

こうして、官費留学生として、ハルビンの日露協会学校に入学。
気持ちを切り替え、ロシア語の専門家になる決意をし、一から必死に学んでいきました。
そこで杉原は、人生の指針となる教えを受けます。
それは、この学校の創設者で、外務大臣などを務めた後藤新平の言葉で、学校のモットーにもなっています。

”人のお世話にならぬよう
 人のお世話をするよう
 そして報いを求めぬよう”

日露協会学校を卒業した杉原は、大正13年、24歳の時に外務省に正式に採用されます。
ハルビン日本総領事館のロシア係として赴任、そこで、ソビエト政権に反対し、亡命してきていた白系ロシア人と交流し、独自の情報網を作り上げていきます。
そんな中、満州事変が起こり、昭和7年、満州国建国。
杉原は、ロシア語の能力を買われ、満州国外交部に引き抜かれます。
その満州国には、懸案事項がありました。
当時、満州国がソ連と共同経営していた北満州鉄道をめぐる問題です。
この鉄道は、両国の紛争の種になっていたこともあって、満州国がソ連の持つ経営権を買い取る方向で交渉が始まりました。
ソ連が提示した譲渡価格は・・・当時の日本円で6億2500万円!!
対して満州国が示した金額が5000万円でした。
交渉は平行線をたどりました。

その状況を打破したのが、満州国側の一員として交渉に参加していた杉原でした。
杉原は、交流を深めていた白系ロシア人からある重大な情報を手に入れます。
ソ連側が交渉のさ中にも関わらず、北満州鉄道の車両を密かにソ連内に運び出していたのです。
ソ連の行為は不当だとして杉原は、それを盾に交渉します。
譲渡金を1億4000万円まで値下げさせたことで、譲渡協定は結ばれました。
この功績により、杉原の外交官としての名声は国内外に一気に広まることになります。

同じ頃、ヨーロッパでは戦争の機運が高まりつつありました。
ドイツではヒトラーが総統となり、全権を掌握し再軍備へと進みます。
ロシア革命後のソ連では、鋼鉄の人と呼ばれたスターリンが独裁体制を固め、ドイツの動きを警戒していました。
そんな中、杉原の新たな赴任先は・・・ヨーロッパのバルト三国の一つリトアニアです。
どうして杉原は、リトアニアに派遣されたのでしょうか?
当時の日本は、モンゴルと満州の国境付近でノモンハン事件と呼ばれるソ連との武力衝突のさ中でした。
杉原が、ソ連に近いリトアニアに派遣されたのは、ノモンハン事件を外交的に解決するための情報を集める目的だったと言われています。
こうして、昭和14年8月28日、家族と共にリトアニアのカウナスに着任・・・39歳でした。

リトアニア着任から9か月たった昭和15年6月・・・
ソ連がリトアニアへの強引な進駐を開始。
カウナスにあった各国の大使館や領事館に対し、8月25日をめどに閉鎖することを求めてきました。
その準備に追われていた7月18日の朝の事・・・窓の外を見た杉原は驚きました。
領事館の鉄柵の向こうに、大勢の人が押し寄せてきていたのです。
杉原はすぐにその中の代表者を呼び、話しを聞くことにしました。
すると・・・

「我々は、ポーランドから逃げてきたユダヤ人です
 どうか日本の通過ビザを交付していただきたい」

当時、ヨーロッパにいたユダヤ人は、ナチスドイツから迫害されていました。
ユダヤ人迫害の歴史は古く、ユダヤ教徒がイエス・キリストを救世主として認めなかったことに端を発します。
それ以来、ユダヤ人はキリスト教を冒涜する存在としてヨーロッパのキリスト教徒から疎まれるようになり、ヒトラーは、その反ユダヤ主義を利用し、明確な敵をつくることによってドイツ国民を一つにしようとユダヤ人を迫害します。
迫害はドイツ国内にとどまらず、占領したポーランドでも行われていました。
そして、ユダヤ人にとって逃げ込んだリトアニアも安全とは言えませんでした。
進駐してきたスターリンも彼らを敵視していたからです。

「一刻も早く遠くに逃げたい!!」
 
そんなユダヤ難民たちに最初に手を差し伸べたのは、カウナスにいたオランダ名誉領事のヤン・ズヴァルテンディクでした。
ズヴァルテンディクは、南米にあるオランダ領のキュラソーやスリナムならビザが無くても入国できる・・・そう考え、独断での入国許可の証明書をユダヤ人たちに与えました。
逃げる先が決まったユダヤ人たちでしたが、問題はそこまでどうやって行くかでした。
ヨーロッパを抜けていくルートはナチスドイツの脅威があって使えません。
残された方法は、シベリア鉄道を使って東から行くルートです。
ただし、シベリア鉄道の終点・ウラジオストクからは日本の通過ビザがないと海を渡ることが出来ません。
その為、多くのユダヤ難民が、カウナスの日本領事館に押し寄せてきたのです。

杉原は、急いで日本の外務省に通過ビザ発給の許可の電報を打ちます。
帰ってきた答えは・・・

「渡航先の入国許可や、渡航費用を持たない者には通過ビザを発給してはならない」

ビザ、発給の規定を厳守するようにというのです。
ユダヤ難民の中には、キュラソーやスリナム以外を希望する者もいて、彼らの多くは入国許可を持っていませんでした。
それに、命からがら逃げてきたユダヤ人たちが、十分な渡航費用を持っているわけもなく・・・
杉原は悩みます。

「少量のビザ発行なら何とかすることもできるが、これだけ大量になると自分の裁量を越えている・・・
 問題が起これば服務規程違反で首になるかもしれない・・・」

そんな時、連日のように領事館の前にたたずむのを見た幼い長男が・・・

「あの人たちは何をしに来たの?
 パパが助けてあげるの??」

杉原は、腹をくくりました。
そして妻・幸子にこう言うのです。

「私は外務省の指示に背いた 
 領事の権限でビザを出すことにしようと思うがいいだろうか
 職務規定違反で外務省も辞めさせられるかもしれない
 それでも、私はやるべきなのだろうか」

「あとで私たちはどうなるかわかりませんけど、ぜひそうしてあげてください」


リトアニアのカウナスに赴任した年の暮れ、杉原はひとりのユダヤ人少年ソリー・ガノールと出会います。
当時11歳だったソリ―は、ユダヤ今日のお祭りで貰った小遣いをポーランドから逃れてきた難民共催のためにすべて寄付しました。
ところが、見たかった映画のお金を残さなかったことをその後後悔していたのです。
杉原は、たまたま訪れたソリ―の叔母の店でその話を聞きました。
そして、僅かな銀貨を差し出し、ソリーに言いました。

「これで映画を見なさい
 私のことを君のおじさんだと思ってくれればいいから・・・」と。

それ以来、ソリー一家と家族ぐるみの付き合いが始まったのです。
この時、ソリーの家にはポーランドから逃げてきたユダヤ人が匿われていました。
そして彼らは杉原にこんな身の上話をしました。

ワルシャワでナチスドイツによる空襲を受け、妻と長女の命をうばわれた
私は命からがらなんとか次女と逃れてきたんだ

そうした厳しい状況を聞き、胸を打たれた杉原は、自分に何かできないかとずっと考えていました。
だから、職を失う覚悟で決めたのです。
ただ・・・その一心で・・・!!

昭和15年7月末・・・
杉原千畝は、リトアニア・カンザスの日本領事館に押し寄せるユダヤ難民を助けるため、独断で日本の通過ビザの発給を始めました。
しかし、日本領事館閉鎖まで1か月・・・時間はあまりありませんでした。

「一人でも多く助けたい!!」

そう考えていた杉原は、朝食を食べ終わるとすぐに執務室に入り、行列を成すユダヤ人一人一人と面会・・・
ビザを発給していきました。
多い日には、1日250通を超えるビザを・・・
愛用の万年筆が折れるまで書き続けました。
やがて、手だけではなく体中が痛み出したといいます。
それでも杉原は休みませんでした。

そんな中、杉原からビザを受け取った最初のユダヤ人たちが日本に着きます。
すると・・・8月16日、外務省から1通の電報が届くのです。
そこには・・・

”カウナス領事館で発給された通過ビザを持参しているものの中には、行先国の入国手続きが済んでいない者がいて上陸を許可できないので、対応に苦慮している
 行先国の入国手続きを完了し、十分な旅費を持っている者でなければ通過ビザを与えないように”

しかし、外務省からの指示通りに発給規定を厳守すれば、助けられないユダヤ人たちが大勢出てしまいます。
そこで杉原は、このままビザの発給を続けるためある策を講じます。
その策とは・・・??
それは、発給規定の厳守を命じた電報を一旦無視するというものでした。
外務省への返事を後回しにし、ビザを発給し続けたのです。
そしてそこに、こんな発給条件を記したスタンプを押していきます。

”本ビザは、ウラジオストク乗船までに本邦以遠の行先国入国許可取り付け並びに乗船券予約を完了すべきことを了知する旨申告せしめ交付せり”

リトアニアを出る時には行先国の入国手続きは済んでいないが、日本に入るまでには入国許可を得させ、行先国までの船の予約を済ませるという条件付きで特別にビザを発給したと・・・。

これもまた、外務省からの電報に対する杉原の対応策の一つでした。
こうして杉原は、領事館を閉鎖するまでの12日間、条件付きビザを発給し続けます。

昭和15年8月分28日、カウナスの日本領事館を閉鎖。
その後、ようやく外務省へ返事を送ります。

”ウラジオストクで日本行きの船に乗るまでに行先国の入国許可を取り付けること、また、日本からの目的地までの乗船券の予約を済ませること、以上の実行を条件にビザの発給をしています”

条件付きでビザを発給したことを伝える杉原の電報が外務省に送られたのが、初めにもらったユダヤ人たちが日本に渡ろうとするとき・・・そのビザが偽造ではなく、杉原がだした正式なものだと証明する事にもなりました。
そして、この電報の最大のポイントは・・・”ビザを発給しています”と、現在進行形で書いたことです。
昭和15年9月3日に外務省から杉原に宛てた電報には・・・

”貴殿の如き取り扱いをなしたる避難民の後始末に窮しておる実状につき
 以後は、往電22号の通り厳重取扱いありたし”

とあります。
以後は厳守してビザを発給するようにと書かれていたのです。
この電報が届いたのは9月3日・・・すでに、8月28日には領事館を閉鎖しているので、これ以後は・・・ということは、杉原がそれまでに発給したビザはすべて有効となった事を意味するのです。

もう一つ大事なことは、当時の日本の規則では、ビザ発給に当たっては十分な旅費を持っていることが必要とされていました。
しかし、具体的な金額を示す基準がありませんでした。
この曖昧さも、杉原に有利に働きました。
杉原の発給したビザの数は、記録によると2140人分・・・通説では、杉原が救ったユダヤ人は6000人ともいわれています。
ビザは、当時は家族全員で1つのパスポートなことも見受けられます。
1通のビザが複数の人を救っていたのです。
リストを見ると、領事館を閉鎖する日が近づくにつれ、1日当たりのビザ発給数が極端に少なくなっています。
これは、ビザを求める人が増えたため、ビザ発給に専念し、数の記録をとることが出来なかったからだと思われます。
こうしたことから、リストに載っている数よりも、杉原が実際に助けたユダヤ人の数が多いと言われているのです。
この時、杉原がユダヤ人を助けていることは、ナチス・ドイツに伝わっていました。
近年の研究で、領事館の事務員グッチェが、ナチスのスパイだったことが分かっており、そこから伝わったのではと考えられています。
まさに、命を狙われてもおかしくない状況で、ユダヤ難民を救った杉原千畝・・・彼は後に、こう語っています。

「全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、ビザを拒否しても構わないのか。
 それが果たして国益に叶うことだというのか」

ユダヤ人を救うことは、必ず将来の日本のためになる・・・命のビザは、そういう強い信念のもと発給されたのです。



わかっているだけでも、2140という膨大なビザを一か月にわたって休むことなく発給し続けた杉原千畝・・・
昭和15年8月28日、リトアニア・カウナスの領事館を閉鎖。
ベルリンに向かうことになっていました。
その汽車を待つ間、市内にあるホテルメトロポリスに宿泊していたのですが、ユダヤ人たちがビザを求めてここにもやってきたのです。
しかし、ビザの発給に必要な公印は、すでにベルリンに送ってしまっていました。
そこで杉原は、ビザに準じる日本への渡航許可証を書くことに・・・
公印はなくても、自分のサインだけで書くことが出来たからです。
ホテルをたつその日まで、渡航許可証を発行します。
しかし、とうとうリトアニアを立つ日がやってきました。
すると、杉原を追って駅にまでユダヤ人たちがやってきました。
ドイツのベルリンに向かう汽車に乗った杉原は、その窓から身を乗り出すように手渡されたパスポートに次々と渡航許可証を署名し続けたといいます。
発車の汽笛が鳴ると・・・

「ゆるしてください
 もうこれ以上書くことはできません
 皆さんのご無事を祈っています」by杉原千畝

この言葉を聞いたユダヤ人の一人は・・・

「スギハラ!私たちはあなたを忘れません!
 いつか必ず再会しましょう!!」

そこにいる全てのユダヤ人が、杉原に深く感謝していました。

杉原千畝が発給したビザにより、ユダヤ人たちはウラジオストクから日本の敦賀に上陸できました。
ところが、想定外の問題が発生します。
オランダ領のキュラソーや、スリナム以外のアルゼンチンなどの中南米諸国が、ユダヤ人の入国を拒否するようになっていたのです。
これを受け、外務省はウラジオストク総領事館に対し、渡航先が中南米諸国の場合、日本に向かう船に乗せる許可を出さないように指示しました。
乗船許可を得られなければ、ユダヤ人たちはソ連によって拘束されてしまいます。
そうなれば、命の保証はありません。

ユダヤ人たちが、命の危険にさらされるのをわかって追い返すことなどできない・・・
そういって、外務省の方針に異を唱えた人物がいました。
ウラジオストク総領事代理・根井三郎です。
根井も、杉原と同じ日露協会学校でロシア語を学んだ外交官でした。
根井にとって杉原は、外務省では先輩であり、学校では同窓生でした。
当然、根井も、あの教えを大事にしていました。

”人のお世話にならぬよう
 人のお世話をするよう
 そして報いを求めぬよう”

根井は、杉原からのバトンを受け継ぎ、命のビザを繋ぐため、外務省に電報で抗議します。

「日本の領事が出したビザを行先国が中南米になっているというだけの理由で、一律に船に乗る許可を与えないのは日本が発行したビザの威信をそこなうことになり、面白くない」

根井は、外務省の指示に従わず、ビザを持つすべてのユダヤ人を受け入れ、敦賀港に向かわせたのです。

リトアニアのカウナスからドイツのベルリンについた杉原は、ドイツ大使だった来栖三郎からチェコスロバキアのプラハにある日本総領事館の領事代理を務めるよう命じられました。
外務省外交史料館には、そのプラハで杉原が発給したビザのリストが2通保管されています。
そこには、合計120人の名前が記されており、そのほとんどがユダヤ人でした。
杉原がいたプラハはこの時、ドイツの占領下にあり、ユダヤ人への弾圧が強まっていました。
その現状を見た杉原は、ユダヤ人たちを救いたいと、ここでもビザを発給していたのです。

その時、杉原にビザを発給してもらったジョン・ステシンジャーは、

「プラハの日本総領事館は、すでに長蛇の列ができていた
 中に入ると杉原に、”君は日本語が話せますか”と聞かれました
 その時私はたまたま”ハイ”という日本語を知っていたのでそう答えると、杉原は微笑みながら
 ”よろしい ビザを出しましょう”と、発給してくれました」

と言っています。
きっと杉原は、わかっていたのでしょう。
ジョンが、ハイ以外の日本語を話せないということを・・・。

プラハで発給したビザには、条件を満たしていない者も多く含まれていただろうと言われています。
この時は、杉原はリストにある80人以上の他にも多くの人を救っていたと考えられます。
ジョン・ステシンジャ―一家がプラハをたった後、プラハ郊外にゲットーが築かれ、終戦までにおよそ14万人ものユダヤ人が収容されたと言われています。
そして、そこで働けなくなった者は、アウシュビッツ強制収容所に移送。毒ガスなどで命を失いました。
もし、杉原がプラハにいなければ、ジョンは命を落としていたかもしれません。

昭和20年、第二次世界大戦が、同盟を結んだドイツ、イタリア、日本の敗戦で終結・・・
ルーマニアのブカレストで終戦を迎えた杉原は、その2年後、家族と共にシベリア鉄道で帰国。
外務省を退職すると、商社に勤め、再び海外生活を送ることとなります。
そんな杉原を探している人がいました。
杉原が発給したビザによって命を助けられたユダヤの人々です。
ところが、どんなに探しても、杉原を探し出すことはできません。
一説には、杉原は外国人が発音しやすいように”チウネ”を”センポ”と呼ばせていたといわれています。
ユダヤ人たちは”センポ・スギハラ”を探していたため見つからなかったというのです。

時は過ぎ、昭和43年、68歳になっていた杉原も、また、ユダヤ難民たちの消息が気になり調べ始めていました。
そんな中、日本にあるイスラエル大使館から連絡が入りました。
訪ねて行くと・・・そこには、杉原によって救われたユダヤ人が・・・!!
リトアニア・カウナスの日本領事館で、ビザを求める嘆願をしに来たユダヤ人たちの代表・ニシェリでした。
彼は、イスラエル大使館の参事官となっていたのです。
28年ぶりの再会に、2人は手を取り合い喜んだといいます。
それから17年が経ち、昭和60年・・・イスラエル政府は、杉原の功績をたたえ、日本人で唯一となる「諸国民の中の正義の人」として、イスラエル政府から表彰されます。

そして、その翌年、昭和61年7月31日永眠・・・86年の人生でした。

杉原は、生前こんなことを言っています。

「私のしたことは、外交官として間違った事だったかもしれない
 しかし、私には頼ってきた何千人もの人々を見殺しにすることはできなかった
 大したことをしたわけではない
 当然のことをしただけです」

そして杉原は、それが国益になると考えていました。
その通り、2011年の大震災の際、イスラエルの人々は多大な支援を日本の対して行ってくれました。
当時のイスラエル大使はこう言っています。

「これは恩返しなのです
 我々は、杉原千畝の恩を、決して忘れることはありません」

杉原が、自らの命を懸け、繋いでくれた国と国、人と人との絆・・・これもまた杉原の言っていた国益なのかもしれません。
命のビザを発給し続けた杉原千畝・・・信念を貫き、国も、人種もこえ、まさに正義のために生きた人でした。



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