日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ユダヤ人

1945年4月・・・ベルリン・・・
ドイツ第三帝国の最期の日々を、15歳にも満たない少年兵たちがアドルフ・ヒトラー総統の地下壕を守ろうとしていました。
ソビエト軍には到底太刀打ちできません・・・
しかし、ヒトラーのために戦うと誓った青少年たちは、その約束を最後まで守り通したのです。
ヒトラーのために命を投げ出す・・・
そのゆるぎない精神は、どのように培われたのでしょうか?
青少年たちは、いかにしてナチスの闇に取り込まれたのでしょうか?
ナチスの未来、宣伝材料、使い捨ての兵士の物語です。

ナチス・・・そしてヒトラーユーゲントの歴史は、1920年代に遡ります。
当時のドイツは、第1次世界大戦の敗戦の深い傷を負っていました。
ベルサイユ条約によって厳しい制裁を科され、領土の一部を失ったのです。
敗戦国にとって屈辱的なこの条約を改めようとした男・・・それが、アドルフ・ヒトラーでした。
1923年、クーデターに失敗したヒトラーは、選挙による政権奪取を目指します。
ナチ党は、党の軍事組織SA・・・突撃隊を始め、少年たちを選挙活動に動員しました。
若い活動員たちは組織を結成し、ヒトラーユーゲントと名乗ります。
年齢は14歳から18歳、まだ少人数でした。
1920年代のドイツでは、共産党やカトリック教会が独自に青少年団体を組織していました。
イギリスではじまったボーイスカウトを手本に作られ、子供たちにレクリエーションの機会を与えていました。
ヒトラーユーゲントも人気のあるイベントを催し、あらゆる階級の子供を参加させていました。
多くの子供たちにとって、それは夢のような時間でした。

当時、労働者階級はギリギリの生活をしていました。
青少年向けのレクリエーションは特別で、喜んで参加していたのです。
ヒトラーユーゲントと共に出かけることは、日常とは違う生活を送ることのできる素晴らしい体験でした。
ボーイスカウト同様、メンバーには制服の着用が義務づけられ、見た目には階級の違いは判りませんでした。
ナチ党と共に、ヒトラーユーゲントも急速に勢いを増していきます。
当初ヒトラーは、投票権もない彼らが自分の役に立つとは考えていませんでした。
しかし、1932年、ポツダムのスタジアムに7万の青少年が集まり、ヒトラーを盛大に迎えます。
その力の結集を見たヒトラーは、若者こそが自分の理想を実現する要だと考えます。
ヒトラーは側近に打ち明けました。

「我々は年を食った・・・しかし、この若者たちの力を借りれば新しい世界を作れる・・・!!」

経済危機に乗じて政権を奪取!!
1933年、ヒトラーはついに首相となります。
民主主義は葬られ、ナチ党以外の政党は活動を禁止させられます。
ヒトラーは、最高指導者に全権をゆだねられる民族主義国家をつくることを目指します。
900万人のドイツの子供達を狂信的なナチ党員に育て上げるために、ヒトラーは、脅迫と誘惑を使い分けます。
まず脅迫・・・
対立する政党の全ての青少年組織は解体され、ヒトラーユーゲントに統合されました。
次は誘惑です。
少年たちが一年で一番楽しみにしているサマーキャンプ・・・ヒトラーユーゲントはこのイベントを独占したのです。
親の目の届かない環境は、ナチスのイデオロギー教育に最適でした。
野外活動を通じて、幸せな将来が約束されていると子供たちに思い込ませます。
多くの子供達は、これまでにない楽しい経験をしました。
ユーゲントのメンバーの数は、1年で10万人から200万人以上に爆発的に増えました。
ユダヤ人や野党の党員でない限り、第三帝国の国民は快適な人生を送れたのです。
ユーゲントには女子も男子もいましたが、ヒトラーが計画を成し遂げるためには男子が重要でした。
将来、帝国の兵士となる男子には、特別なプログラムが用意されました。
本格的な戦争ゲームです。
少年たちは、敵の陣地にコンパスと地図をもって潜入し、偽装工作を続けながら標的に接近します。
アドベンチャーゲームは、少年たちの心を掻き立てました。

まるで、ドイツ版西部劇のような宣伝映画も作られました。
映画は劇場公開され、新しいメンバーの入団を促しました。

「ドイツの若き男たちよ!今一度野獣となり、美しさを求める軟弱より、無学な野獣の方がいいのだ!!」

腕っぷしが何より大事です。
ひ弱な子供は笑い者にされ、屈辱を受けました。
ナチスの理念の下では、強い者だけが優遇され、期待に応えられない人間は落伍者として扱われたのです。
いじめの余りのひどさに、若者の中には精神を病み、自殺を図るものまで現れました。
しかし、第三帝国では都合の悪い出来事は覆い隠され、ヒトラーユーゲントは全員勇猛果敢な戦士でした。
徐々に教会や様々な団体が運営する青少年組織は、ヒトラーユーゲントに吸収されていきました。
1937年までヒトラーユーゲントのへの加入は、法律で義務付けられます。
子供達は、幼いころから名誉あるメンバーとして、街頭のパレード行事に招かれました。
行進の練習をすることで、団結したのです。
その足並み同様、少年たちの考え方も統一されていきます。
大人たちに褒め称えられ、政権の宣伝の道具とされた彼らは、高揚感に包まれていきます。
大規模集会では、イベントが最高潮に達すると総統ヒトラーが登場することがありました。
第三帝国の将来を担う者と、その創始者との対面です。
若者たちは我を忘れ、ヒトラーをスターのように褒め称えます。

「我が若きドイツ人たちよ
 君たちがドイツの将来を保証する

 君たちは我々の血であり、肉であり、魂だ
 そして、我が国民の将来である

 君たちの中にある国の未来が、称賛されんことを!!」byヒトラー

ナチスのプロパガンダは、ドイツの若者に、君たちは成功し、強くなり、幸せな暮らしをすると思い込ませました。
若者は喜んで、その魔法にかかりました。
1936年には、500万人以上の若者が、ヒトラーに傾倒し、大きな歌声を響かせました。
国民の洗脳を徹底するため、日常生活にもナチス的敬礼が組み込まれます。
一日に何十回も「ハイルヒットラー」を繰り返す中で、ヒトラーユーゲントは、国家社会主義を刷り込まれました。
イデオロギーの強制は、さらに厳しさを増します。
ナチスは子供と接する大人全てに監視の目を・・・!!
協会の活動は、礼拝だけが許され、サマーキャンプの間に親の影響が取り除かれました。
ナチスは、学校の教育課程も変えました。
子供達は、ユダヤ人と共産主義者を憎むように教えられます。
民族を差別する法律も制定されます。
愛国的な歌は、徐々に憎しみの歌に代わりました。
何度も歌ったため、今でも歌えるといいます。
ひとたび憎しみに感染すると、行動に移すのは簡単です。
ヒトラーユーゲントは、親衛隊SSや、突撃隊SAと共に、ユダヤ排斥運動を大々的に展開していきます。

1936年までに、ドイツは不況から脱します。
ヒトラーは、軍備拡張と、大規模な公共事業を行うことで失業率を低下させ、ドイツをヨーロッパ内の強国に押し上げます。
1938年には、対外攻勢を加速させ、周辺の国や地域を次々とドイツに併合!!
戦争の足音が聞こえてきます。
ナチスにとって、将来の兵士となるヒトラーユーゲントはより重要になりました。
ヒトラーは、自分の望む戦士に仕立て上げるために彼らを厳しく鍛えようと考えます。
スポーツや遊びに加えて、若者たちは本格的な軍事訓練を始めます。
競争心を煽られ、16歳の少年が8キロのリュックを背負って20キロ以上の道程を歩きます。
恐怖心を克服し、戦士にならなければなりません。
ヒトラーユーゲントでは、夢で見た大人の世界のあらゆるものに手が届きます。
射撃訓練も行います。
海軍への入隊に備えた海上訓練・・・空軍の入隊を夢見る少年には、グライダーを使った飛行訓練を、こうした大きすぎるおもちゃを使ってヒトラーユーゲントの子供達は真剣な戦争ごっこをしました。
そして徹底させるために、宣誓をさせました。
年齢を問わず、帝国と総統に忠誠を誓います。

10歳が唱える宣誓・・・

「赤い血の旗の前で私は自分のエネルギーと力の全てを、我が国の救世主アドルフ・ヒトラーに捧げることを誓います。
 総統のためならば、命を捨てる意思と覚悟があります。
少年たちは動じることなく、この言葉を受け入れました。

ヒトラーユーゲントは、恐るべき大組織となります。
1929年に1万7000人だった団員の数は、10年後にはドイツの全ての青少年の98%にあたる800万人以上に達していました。
この頃、ヒトラーユーゲントへの参加は義務となっていましたが、招集に応じない家族には重い罰金が科され、逮捕されることもありました。
徴兵の年齢に達した若者は、国防軍やSS親衛隊に競って入隊しました。
1939年9月1日、戦争が勃発!!
ドイツは、先に攻撃されたという嘘を口実にポーランドに侵攻。
その進軍は、電光石火の早業でした。

ポーランド侵攻から8か月後の1940年5月、ドイツは、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻します。
ドイツ国民にとって、ヒトラーは史上もっとも偉大な戦略家でした。
ヒトラーユーゲントは、ドイツ軍の進軍ぶりを信じられない思いで見ていました。
ドイツ国防軍は、フランスとの戦いを6週間で決着させ、勝利しました。
ヒトラーは攻勢を続けます。
1941年6月には、ソビエトに対して奇襲を仕掛けました。
長年の訓練が実を結び、ヒトラーユーゲント育ちの若い兵士たちが至る所で立派な戦士であることを証明します。
前線から戻ると、将来の兵士たちへ英雄となった体験を語ります。

ドイツ軍が東部戦線で進撃を続ける中、後方ではヒトラーユーゲント育ちのメンバーの多い特殊部隊アインザッツグルッペンに、ユダヤ人殺害の任務が与えられました。

前線の戦いが激しさを増す中、ヒトラーユーゲントには体を鍛える授業や、イデオロギー教育が続けられていました。
民族的優位についての授業では、頭蓋骨を奥行き、幅、高さの比率や、髪の毛と目の色が調べられ、ナチスの科学者が決めた基準で分類されます。

1942年の暮れには、ドイツは劣勢となり北アフリカ戦線や東部戦線の戦いは膠着状態となります。
成人男性の殆どが戦場に送られたドイツでは、ヒトラーユーゲントが前線の活動に動員されました。
14歳以上の少年は、一軒一軒家を回って、古着や金属などを集めました。
郵便配達、路面電車の運転、道路や線路の工事、収穫などの畑仕事に駆り出されたメンバーもしました。
戦時の経済を支えるうえで、若者の力は欠かせなくなりました。
プロパガンダ映像は、青少年の強い意志を掲げますが、実際には辛い思いをし、疑問を抱く者が続出します。
工場や鉱山での社会奉仕活動は、強制労働に近いものがありました。

1943年の冬、ヒトラーユーゲントは想定外の事態に直面しました。
劣った人間と呼ぶように教えられてきたロシア人が、ドイツが誇る屈強な軍人たちに反撃を始めたと伝わったのです。
スターリングラードの攻防戦で、ドイツ側は数十万の兵力を失いました。
モスクワ占領も、赤の広場の行進も、もはや夢物語です。

1943年になると、アメリカやイギリスは、地上部隊の損失を最小限に止めるために、大規模な空襲をドイツの工業施設や都市で繰り返しました。
戦争へ行きたいと願っていたヒトラーユーゲントのもとへ、戦争がやってきました。
ドイツは大きな打撃を受けます。
瓦礫の中で、ユーゲントは即席の消防隊員や救急隊員となります。
10年以上にわたってナチスに洗脳され、明るい未来を約束されたヒトラーユーゲント・・・
しかし、彼らは今、連合軍の空襲を受け、悪夢のただ中にいました。
そして、事態はさらに悪化・・・ドイツが敗戦に向かう中、完全な崩壊に至るまで、本土防衛が、この青少年たちに押し付けられたのです。


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独裁者アドルフ・ヒトラー・・・彼には唯一心を許した正式な妻がいました。
その名はエヴァ・ブラウン・・・ヒトラーより23歳年下の女性です。
しかし、その存在はドイツ国民に知らされることはありませんでした。
秘密の関係を続けたエヴァとヒトラー・・・二人が結婚式を挙げたのは、共に命を絶つ前日でした。
独裁者アドルフ・ヒトラーが愛した一人の女性・・・エヴァ・ブラウン。
幼いころから自由奔放、政治には関心がなく、ハリウッド女優になることを夢見ていました。
やがてヒトラーと恋人となると、エヴァはヒトラーが用意した豪華な山荘で暮らしました。
ファッションを楽しみ、大好きな動物を飼い、気ままに過ごす日々・・・
第二次世界大戦が勃発し、ドイツ国内が戦火に包まれる中でも、身の危険や貧困からは無縁の暮らしでした。
ヒトラーをはじめ、ナチスドイツの高官と他愛もない会話で周囲を和ませたエヴァ・・・
多くの召使に囲まれ、山荘の女主人と称しました。
しかし、その裏では家族との確執を抱えていました。
ヒトラーの過激な言動に反発し、別れを勧める父・・・
ナチスドイツの反ユダヤ政策に反対する姉・・・
そしてヒトラーには常に何人もの女性の影が付きまといました。
その一方でエヴァの存在は極秘・・・山荘という鳥かごに閉じ込められていました。
しかし、ナチスドイツが滅びる2か月前・・・
エヴァは自ら鳥かごを出てヒトラーがいる戦火のベルリンに向かいました。

エヴァ・ブラウンとヒトラーが出会ったのは1929年。
17歳のエヴァは、ミュンヘンにある写真館で働いていました。
そこへ店主に連れられて一人の男がやってきました。

「おかしな口ひげを生やし、大きなフェルトの帽子をかぶった中年紳士が入ってきたの
 私の足を見つめていて、あまりいい気がしなかったわ」

「君は、あの方が誰だかわからないのか?」

「さあ・・・」

この男こそ、アドルフ・ヒトラー。
当時40歳、急激に勢力を伸ばしていたナチ党の党首・・・すでにメディアを賑わす有名人でした。
エヴァにとっては、この中年男の初対面の印象はよくありませんでした。
しかし、後にエヴァとヒトラーは恋人同士になします。
どうして惹かれていったのでしょうか?

エヴァ・ブラウンは、1912年、ドイツ・ミュンヘンの中流家庭で誕生します。
エヴァは三姉妹の次女で、教員だった父のフリードリヒと母フランツィスカの元、娘たちは厳しく教育されました。
学校の成績は優秀でしたが、いたずら好きの問題児・・・教師たちに手を焼かせる生徒でした。
エヴァは思春期を迎えると、父の監視は益々厳しくなります。
父は娘たちの手紙すべてに目を通します。
門限を設けて夜10時には床につくように・・・。
1928年、16歳になるとカトリック修道会の女学院に入学させ、模範的な淑女に育てようとしました。
しかし、この頃エヴァが夢中になったのは恋愛小説と映画。
特に学芸会では演劇に熱心に取り組みます。
いつしか、ハリウッド女優として成功することを夢見るようになっていました。

教師の父親が一番重要視していたのは、娘たちに一流の専門教育を受けさせること・・・。
しかし、エヴァ達娘は、反抗的でした。
17歳になったエヴァは、近所の写真館で働き始めます。
これが、彼女の運命を大きく変えることとなります。

この頃ドイツは、第1次世界大戦で敗戦し荒廃していました。
戦争を再び起こさないように軍備を制限され、戦後賠償で経済はどん底・・・町には失業者が溢れていました。
そんな時、経済復興と失業問題の解決を掲げ、支持を集めたのがヒトラー率いるナチ党でした。
エヴァが働く写真館の店主は、熱烈なナチ党員・・・ヒトラーの専属写真家も務めていたため、店はヒトラーの写真で埋め尽くされていました。
ヒトラーと出会った夜、エヴァは父に聞いてみました。

「アドルフ・ヒトラーってどんな人?」

「ヒトラー?
 あいつは自分が万能だと思い上がっている青二才だ!!」

父親はもちろん心配していました。
なぜなら、当時のナチ党は、極めて暴力的で殺人を犯すこともありました。
しかし、エヴァは、父への反抗としてヒトラーに近づきました。
一方、ヒトラーは、エヴァを気に入りました。

「彼女は私を和ませるんだ」

ヒトラーは、周りを側近や気の置けない人で固める傾向にありました。
そういった狭い交友関係の中で女性も選んでしまうのです。
その後、ヒトラーは写真館を訪れるたびにエヴァへプレゼントを持ってくるようになりました。

「エヴァさん・・・オペラに招待してもよろしいですかな?」

23歳年上の男からの紳士的な誘いに魅了されていったエヴァ・・・
出会いから2年がたったころには姉にこう打ち明けています。

「絶対にあなたもヒトラーに会うべき!
 会えばあの人のイメージも変わるから・・・!!」

ヒトラーの女性に対するマナーには、うっとりとするものがありました。
夢中になってしまったのは、エヴァからでした。
しかし、この頃のヒトラーには特別に親密な女性がいました。
姪のゲリ・ラウバル(23歳)です。
ヒトラーの姉の娘で、エヴァより4歳年上でした。
ヒトラーとゲリは、2年の同居生活を送り、叔父と姪を超えた深い関係だったといいます。

「私は姪のゲリを愛している
 だが、結婚は出来ない」

タイプとしては、エヴァとおなじように非常に快活で行動的な女性でした。
そんな中、ヒトラーとエヴァが急速に近づく事件が起こります。
1931年ゲリが自ら命を絶ちました。
一説ではヒトラーの束縛が原因ともいわれています。
ヒトラーは憔悴しきっていました。
ゲリを失ってしまったショックがあまりにも大きかったのです。
それを見たエヴァは・・・

「ヒトラーにとってあの女は、きっと特別な人だったのね」

この直後、エヴァは思いがけない行動に出ます。
髪型や風貌、話し方まで自分をゲリそっくりに真似たのです。
いつしか二人は恋人同士になりました。
エヴァ19歳、ヒトラー42歳の時でした。

自ら望んでヒトラーの恋人となったエヴァ・ブラウン・・・しかし、わずか2年の間に2度も自殺を企てます。
何が原因だったのでしょうか?
エヴァがヒトラーと出会って3年後、1932年7月、ヒトラー率いるナチ党は、ドイツ国会選挙で第1党に躍進します。
ますます政治活動に力を入れるヒトラー・・・
エヴァをミュンヘンに残し、ドイツ中を飛び回ります。
以前より会う時間は減っても二人の関係は続いていました。
当時ヒトラーは、側近にこう漏らしています。

「私はミュンヘンにいる一人の娘を愛している」

しかし、エヴァの存在は、限られた一部の人だけの秘密でした。
それは、ヒトラーの結婚に対する考えからでした。

「私には既に花嫁がいる
 私はドイツと結婚したのだ!」

独身であることで、女性の支持が得られるという考え方がヒトラーにはありました。
結局最後まで、ヒトラーはエヴァと言う存在を国民の目からひた隠しにしました。
ヒトラーにとっては、女性よりも政治の方が大事だったのです。

この時、エヴァ・ブラウンは20歳・・・ミュンヘンの実家でヒトラーからの連絡を待つだけの生活でした。
そんな中、ある事件を引き起こします。
エヴァは、ヒトラーに別れの手紙を投函・・・そして・・・銃弾は首をかすめ、一命をとりとめました。
知らせを聞いたヒトラーは、すぐに病院へ駆けつけました。
そして医師にこうただしました。
 
「彼女は本気で自殺しようとしていたのか・・・??」

「彼女は心臓を狙っていましたが、なんとか助けられました」

エヴァは、ヒトラーとの関係が終わるのではないかと深く絶望していました。
これからは、この娘を気にかけてやらなければ・・・
2度とこんなことが起きてはならない・・・
ヒトラーは、いつでも連絡が取れるようエヴァの部屋に電話を設置しました。
自殺未遂の翌年・・・1933年1月にヒトラーは首相に就任。
一層政局に謀殺されていきます。
21歳の誕生日を迎えたエヴァの元には、ヒトラーから指輪やネックレス、ブレスレットが届きました。
しかし、肝心のヒトラー本人は現れませんでした。

「彼が殊勝になったところで、私に何の関係があるの??
 彼に会えない日が増えるだけだわ」

翌年ヒトラーは、ナチ党の党首・首相・大統領と全ての権限を持つ総統に就任し、独裁色を強めていきます。
武力を背景に、反対勢力を排除していきます。
しかし、エヴァは、ヒトラーの政治には関心を示さず、生涯ナチ党に入りませんでした。
そんなエヴァにとっての最大の関心ごとは、ヒトラーの周りの女性たちでした。
絶大な人気を誇るヒトラーの周りには、有名女優や歌手、映画監督などが集まりました。
青年時代は画家志望だったヒトラーは、芸術的才能を持つ女性たちと積極的に触れ合います。
それに対して、エヴァの存在はあくまで秘密にされ、公の行事に参加する事さえ許されませんでした。
エヴァは、ヒトラーに寄ってくる女性たちに、激しい嫉妬心を抱いていたといいます。
ヒトラーは、多くの著名な女性と出会っては、彼女たちの機嫌を取るため贈り物までしていました。
しかし、エヴァは、自分がとても難しい立場にいることも自覚していて、すべてを受け入れるしかありませんでした。

エヴァの23歳の日記には・・・ヒトラーと自分の関係が・・・その時々の気持ちが書かれています。

「昨日は思いがけなく彼が来て、うっとりとするような夜になったわ」

それから2週間後には・・・

「彼はもう、14日間も来ていない
 私は彼がなぜ怒っているのかわからない」

さらに12日後には・・・

「今は政治的にいろんなことが起きているから彼が私に興味を示さないのは当然のことよ
 ただ静かに待っていればいいのよ」

この日記が書かれた1935年3月16日、ヒトラーは第1次世界大戦後に禁止されていたドイツの再軍備を宣言しました。

エヴァの日記に書かれているのは、ありふれた日常ばかり・・・
国がひっくり返って、世界が崩壊するかもしれない中で、エヴァがはヒトラーが自分のために時間があるかどうかという観点からしか見ていませんでした。

翌月のエヴァの日記には・・・

「愛なんてものは彼の計画から外されてしまったんだわ」

そしてエヴァは再び事件を起こします。
自宅で大量の睡眠薬を飲み、2度目の自殺を図ったのです。

「親愛なる神様、今日中に彼と話すことができるようにお力をお貸しください
 明日では遅いのです
 私は35錠飲むことに決めました」

しかし、姉がすぐに発見して手当てをしたため、命はとりとめました。
この時姉は、エヴァの自殺の原因を両親に知られるのを恐れ、日記の一部を破りとりました。
エヴァの日記は後になくなりますが、姉が破った4か月分だけが偶然残りました。
再び自殺を図ったエヴァに対し、ヒトラーは驚くとともに心打たれたといいます。
ヒトラーは、自分に絶対的な忠誠心を誓った仲間に非常に温情をかけるような面があります。
自分の命をかけてまで、自分に忠誠を示してくれたというのが、ヒトラーの気持ちを動かしました。
2度目の自殺未遂から3か月後、ヒトラーは公式行事にエヴァも参加することを許しました。

1935年秋、ニュルンベルク党大会・・・ヒトラーのもとに10万もの人が集まるのをエヴァは初めて目の当たりにしました。
この党大会中にヒトラーはある重要な法案を可決しました。
ニュルンベルク法と呼ばれるユダヤ人の市民権を奪う人種差別法です。
エヴァは日記にこうつづっています。

「地球でもっとも偉大な人の恋人の私」

エヴァ・ブラウン23歳の秋のことでした。

エヴァとヒトラーが出会って6年が経った1935年、父・フリードリヒはヒトラーに手紙を送ろうとしました。
恋人とはいえ、秘密で結婚もしようとしないというエヴァとの中途半端な関係を心配したからです。
「子供達は結婚して初めて両親のもとから離れるもの」
これ以上付き合うなら、エヴァと結婚してほしいと遠回しに迫っています。
この手紙はヒトラーに届けられる前に、エヴァに見つかり破り捨てられてしまいます。
しかし、父が手紙の写しを持っていたため、どんな内容だったのかわかっています。

もちろん、エヴァは結婚したかったのです。
しかし、自分の立場を受け入れ、一度たりともヒトラーの邪魔をしようとはしませんでした。
常にヒトラーの言われたように動きました。
だから、あのような関係が長く続いたのです。
ミュンヘン近郊・・・自然に囲まれたオーバーザルツベルクの山荘・・・ここを気に入ったヒトラーは、山荘を買い取って改築しました。
改築が完成すると、エヴァ・ブラウンは実家から出て山荘で暮らすようになります。
この時、24歳・・・山荘には巨大な大広間をはじめ、30以上の部屋があり、最高級の木材などが使われていました。
人里離れた山荘は、関係を公にできない二人にとって絶好の隠れ家でした。
この山荘で、エヴァに仕えていた女性の証言が残っています。

「”ハッキリ言っておくわ”と初日に言われたの
 ”あれがヒトラーの部屋で、こっちがエヴァの部屋、利口ならば2人の関係はわかるわね
 あともうひとつ
 何を見ても、何が起こっても、絶対口外したり、書き留めたりしないこと
 エヴァの存在は極秘よ”とね
 だから、2人がどこまで進展しているのかは分からなかった」

エヴァとヒトラーは、人前では仲のいい友人として振る舞い、決して親密な態度は見せませんでした。
そんな2人が楽しみにしていたのが夜の映画鑑賞です。
その日何を見るか決めるのはエヴァ、特に好きだったのはハリウッド映画「風と共に去りぬ」でした。
エヴァは、主役のスカーレット・オハラを真似た衣装を着て、映画の一シーンを再現するほどお気に入りでした。

エヴァが山荘に移って3年が経った1939年、第2次世界大戦勃発。
9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。
戦争が始まると、山荘は総統大本営となりました。
ヒトラーは、ここで日夜作戦会議を開いて戦略を立てました。

戦争中でも、エヴァの暮らしにはほとんど変わりはありませんでした。
しかし・・・エヴァ自身にはある変化が起きていました。
ヒトラーが山荘を離れるとエヴァはそれを待っていたかのようにいそいそとパーティーの準備を始めるようになります。

「それまでおとなしくしていた彼女が一瞬で豹変した
 すぐに様々なお楽しみの準備が始まった
 はめを外し、まるで子供だった」

さらに、エヴァは家族も山荘に呼んで一緒に優雅な生活を送るようになりました。
そこには、ヒトラーをかつての青二才と嫌っていたフリードリヒの姿もありました。
この頃には、父もナチ党に入党しています。
いつしかエヴァは、自らを山荘の女主人と名乗るようになっていました。

開戦当初、ヒトラー率いるドイツ軍は快進撃を続け、1940年6月にはパリを占領するなどヨーロッパ中を震え上がらせました。
戦争を拡大する裏で、ナチスは数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ります。
こうしたユダヤ人迫害など、ヒトラーの政策を批判していたのは姉のルイゼでした。
山荘で公然とヒトラーを批判する姉に対して、エヴァはこう言いました。

「総統が、あなたを強制収容所送りにしても私は助けないわよ!」

第2次世界大戦末期の1945年4月30日・・・
ナチスドイツの総統官邸でエヴァはヒトラーと共に命を絶ちました。
一体どうして・・・??
1944年、ヒトラー率いるナチスに開戦当初の勢いはありませんでした。
6月には連合軍がノルマンディ上陸作戦に成功。
ドイツ国内では市街地への空襲が激化!!
山荘にいたエヴァは、故郷ミュンヘンから立ち上る炎をじっと見つめていたといいます。
更に翌月には、ヒトラー自身に衝撃的な事件が起こります。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件・・・会議中、ヒトラーの傍に置かれていたカバンが爆発・・・戦争の敗北を悟った側近たちのクーデターでした。
この爆発で4人が命を落としたものの、ヒトラーは奇跡的に軽傷を負っただけで済みました。
この時、エヴァのもとにヒトラーからあるものが届けられました。
爆発の衝撃でボロボロになった軍服です。
エヴァはヒトラーにこう返事を書きました。

「あなたの身に万一のことがあったら、私は生きていくことができません
 たとえ死んでもあなたについていくと誓ってまいりました
 あなたを愛することが私の全てです・・・あなたのエヴァ」

1944年10月、エヴァは細かい遺書を書きます。
遺書には現金や車、買いそろえた毛皮のコートやじゅうたんなど、家族や友人の誰に渡すか・・・事細かに記されていました。

1945年1月、連合軍は首都ベルリンに迫っていました。
ヒトラーは、総統官邸の地下に作られた地下壕に籠り、ベルリン防衛を指揮。
エヴァに対しては、戦火から遠く離れた山荘に留まるように指示していました。
しかし、3月7日、ベルリンの戦火を抜けて走る一台の車が・・・
エヴァ・ブラウンでした。
ヒトラーは、彼女が言いつけに背いてやってきたことを心から喜んだといいます。
その後も連合軍の猛攻は続き、地下壕の側近たちにも不安が募っていきます。
しかし、エヴァは、地下壕に家具一式を運び込んで、美しく着飾って、山荘にいるのと同じように過ごしました。
エヴァは、ヒトラーが部下の前で弱みを見せることを許さず、時には軍服の乱れを注意することもありました。

「そんな薄汚れた格好で歩き回ってはいけないわ」

1945年4月、連合軍は総統官邸の目前まで迫ってきました。

「1日ごと、いや1時間ごとに最後が私たちに近づいてきています
 総統は、この戦争の全ての希望を失いました
 けれど、私たちは生きて捕らわれるつもりはありません」

敗戦が濃厚となり、逃亡する兵士が続出・・・
その中にエヴァの妹の夫・・・義理の弟もいました。
逃亡先で捕まった義理の弟には、処刑命令が下りました。
しかし、エヴァは救いの手を差し伸べませんでした。
すでに地下壕は絶望的な状況・・・連合軍がいつ押し寄せてもおかしくありませんでした。
そして、4月29日未明・・・
エヴァは、ヒトラーと結婚式をあげようとしていました。
写真館の出会いから16年が経っていました。
エヴァは、光沢を帯びたロングドレスに身を包み、美しい宝石で着飾ります。
式は、ナチスドイツの婚姻条例に従ってベルリン市役員立会いの下で行われました。
結婚証明書に署名する際、エヴァはブラウンと書きそうになり、慌ててエヴァ・ヒトラーと書き直しました。
朝になるとエヴァは使用人にこう言います。

「私のことをヒトラー夫人と呼んでもいいのよ」

結婚式の翌日・・・1945年4月30日午後3時・・・
ヒトラー夫妻はそろって部屋へと入っていきました。
そして銃声が・・・こうして、エヴァ・ヒトラー33年の生涯に幕を下ろしました。

2人の遺体は地下壕の外に運び出され、焼却されました。
2日後ベルリンが陥落し、ドイツは敗戦を迎えます。

 
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宗教と経済・・・それぞれの宗教によって、経済活動が随分違います。

日本にいる限りはあまり関係ありませんが・・・。
海外に於いてはかなり関係しています。

日本人はお宮参りに教会で結婚・・・お葬式はお寺で・・・??
海外から見ると、「一体日本人はどんな宗教を信じているんだ?」ということになりかねません。

文化庁によると、日本の宗教の信者数は・・・1億9710万人・・・
しかし、日本の人口は、1億2700万人です。
お寺では檀家であり、神社では氏子である日本人がたくさんいるのです。

では、日本人は宗教を信じていないの??
宗教はあまり考えなくても、人知を超えるような超自然的なものには畏敬の念を持っています。
「バチが当たる」「お天道様が見ている」・・・
特定の宗教を信じている気持ちは無くても、宗教的な感覚や発想を持った人が大勢います。

世界でも、宗教を見ると解りやすいのですが・・・

イスラエルはユダヤ人の作った国です。
第2次世界大戦中、ユダヤ人はナチス・ドイツによって約600万人が殺害されました。
戦後、世界がその悲劇を知るようになって・・・同情的になります。
結果、ユダヤ人たちが、かつて自分達の王国のあったパレスチナ地域に国を作ることを認めたのです。

パレスチナ地域を”ユダヤ人の国”と”アラブ人の国”に国連が分割しました。
それがイスラエルで、そこから追い出される形になったのが、イスラム教徒のアラブ人で。。。
反イスラエル闘争を始めます。
これが今に至る中東紛争の原因となったのです。

どうしてユダヤ人たちはヨーロッパで迫害されたのでしょうか?
きっかけは、キリスト教の”新約聖書”です。
4つの福音書からなっていますが。。。

そのなかのマタイの福音書には・・・キリストが十字架にかけられるシーンがあります。
当時のパレスチナはローマ帝国の一部でした。
イエスは、ユダヤ教徒として生まれ、ユダヤ教の改革運動をしたことが当時のユダヤ教徒たちに憎まれて十字架にかけられて殺害されたのですが・・・

イエスが処刑されるとき・・・ゴルゴダの丘には他に2人十字架にかけられている人がいました。

ローマ総督のピラトが・・・
只者ではないイエスを十字架にかけて良いのか悩んで聞くと・・・

ユダヤ人たちは・・・
「イエスを殺せ! 十字架にかけろ!!
 その血の報いは、我が子孫に及んでも構わない!!」
と言ったと書かれています。

3日後にイエスは復活し、人々に色んな教えをしたうえで、天に昇って行ったと信じられています。
ユダヤ教に於いては「救世主が現れる」と言われています。
イエスが十字架にかけられ復活し・・・ということを聞くと、イエスに着き従っていた人々が、イエスこそがユダヤ教における救世主ではないか?ということになったのです。

その人々の勢力が大きくなって・・・キリスト教徒と呼ばれるようになったのです。

ユダヤ教における神=キリスト教における神で、キリスト教がローマ帝国全体の国の教えとなって・・・ユダヤ人の王国は、ローマ帝国によって滅ぼされ、世界中に散り散りになってしまうのです。
「イエス様を十字架にかけたものの子孫だ!!」ということで、差別されることになるのです。

「その血の報いは、我が子孫に及んでも構わない!!」
と言っただろう!!ということになったのです。

キリスト教社会にあってもユダヤ教を守るユダヤ人たち・・・。
ユダヤ人陰謀説もでてくるのです。
ユダヤ人たちはキリスト教社会において、大変苦労をします。
まともな仕事にもつけません。
キリスト教徒が就きたくない職業・・・金融業につくようになります。

一生懸命働いて・・・金融業で成功し、金持ちになってきました。
差別されていた人々がお金持ちに・・・!!
ますます差別され、偏見を受けるようになります。

”強欲の高利貸し”として、ヴェニスの商人にも登場します。

ドイツには、第一次世界大戦後、多額の賠償金が課せられていました。
そいつ経済がどん底になって・・・不満が高まって・・・そこで登場するのがヒトラーなのです。

多くの人々を、特定の敵に対して対抗する形で、国内をまとめます。さらに公共事業をやってドイツ経済は復活を遂げていきます。
ユダヤ人を目の仇にすることで力を持ったヒトラーがユダヤ人狩りをするのでした。

多くのユダヤ人がアメリカに逃げていきます。
アメリカもキリスト教の国なので、ユダヤ人たちは差別を受けます。
東海岸で差別をされた人たちが・・・カリフォルニアまで逃げて行って・・・映画産業に参入していきます。
ハリウッドの名だたる映画監督にユダヤ人が多いのもそのためです。

in
















そう言えば、このコンビ・・・
黒人&ユダヤ人の設定です。
これってもしかして、今まで差別を受けていた人が地球を救うって意味も含まれてるのかしら??


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あ~、私の尊敬する杉原千畝さんです。

数々の不運に見舞われながら自分の長所を生かし、ベストを尽くした杉原千畝です。
歴史に名を残す外交官・・・杉原千畝です。

第2次世界大戦真っ只中のヨーロッパで、ユダヤ人・6千人の命を救いました。
そんな杉原のもう一つの顔は・・・諜報。。。
中国で・・・ヨーロッパで・・・日本の外交のための情報収集を行っていました。
諜報活動と命のビザ。。。それは、千畝の命の証でした。

昭和12年3月・・・ソビエトは千畝の優れた諜報能力を警戒し、ビザの発行を拒絶して・・・国際問題に発展しました。
当時の大国ロシアも恐れた杉原千畝です。

杉原千畝の生まれ故郷・・・岐阜県八百津町。
美しい棚田で知られています。
千畝という名前は、この棚田からつけられたと言われています。
1900年1月1日杉原千畝誕生。
杉原家の次男でした。
新しいものが好きな公務員の父、子煩悩な母のもとで育ちました。
小学校の成績は・・・すべて甲。
中学で夢中になったのは英語でした。
「英語が他の科よりもよほど好きで、英語を毎日喋る職業につくのが、なんだか開けている人間のすることのように思われる。」
将来の夢は英語教師でした。

17歳の時・・・不運が!!
父の願いは医者!!
独断で医学校の受験手続をしてしまいました。
父との板挟みにあう千畝!!
大胆な解決策に打って出ます。
”医学校を受験して白紙解答!!”
不合格なら仕方ない!!という名案だったはずが。。。
白紙答案が父にばれてしまいました。
勘当されてしまった千畝。。。
英語で身をたてようと、働きながら大学に通いました。
そして運命の出会いが・・・!!

新聞広告に・・・
””外務省留学制度””・・・国費で3年間留学し語学を学び、成績が良ければ外交官に採用するというものでした。
チャンスに見事合格するものの・・・
望んでもいないロシア語担当に・・・!!
19歳で国費で留学したのは中国のハルビン。
中国とロシアの鉄道交通の要所で・・・ロシア人がたくさんくらしていました。

日本領事館で目にしたのは???
領事館にはロシア語が堪能な領事館員が少なく。。。
自分の力をロシア語につぎ込みます。
日本の為にロシア語を極める千畝。

気さくで人情にも篤く、お酒の強い千畝・・・
生きたロシア語を学んでいきます。
留学から5年・・・24歳で、ハルビンの外務書記生として採用されます。
外交官・杉原千畝の誕生でした。
領事館には、日本人の保護や通商の促進に当たる総領事を始め、ビザの発給や国際交流をおこなう副領事や書記生がいました。
色んな人のいる中・・・ロシア語に長けた千畝の仕事は”諜報”。

8年前に発見された千畝直筆の極秘記録によると・・・

①怪露人チェルニャエクを諜者として操縦
当時は革命により、ロシアがソビエト連邦に変わった直後、徹底的な秘密主義の為に何もわかっていませんでした。
そこで千畝は、ロシア人チェルニャエクを操縦して情報を集めていました。

②渡日露人身許探査
これまで培った現地の人脈を活用し、日本への渡航手続きを行ったロシア人を探し、危険人物の来日を防ごうとしていました。
当時のハルピンは、中国・ソビエト・日本・・・複雑な関係にありました。
そこで千畝は、信頼関係を築いていた現地の人々を使って、ソビエトの内部情報と日本の国益を考えていたのでした。
情報源を絶対に守ること・・・それは、諜報に関わるものの最低限の原則でした。

外務省に報告し、日本の外交に役立てるために!!
わずか2年・・・26歳の時に20代最大の功績を達成します。
「ソヴィエト」連邦国民経済大観。。。千畝が調査・分析してまとめたソビエト経済の調査報告書を書き上げます。
そこには、経済はもとより、産出される膨大な資源、貿易などに自らの見解も・・・!!
その充実した精巧さは、製本され、各部署に配布されるほどの高い評価を受けました。
諜報活動によって日本一のソビエト通になった千畝。。。
外交官・・・偶然のめぐりあわせだったのに・・・全力投球した結果の・・・それはまさに天職でした。

若くしてロシアのエキスパートとなった千畝に・・・
時代の波が押し寄せてきます。

昭和6年・・・中国東北部で事件が勃発・・・満州事変です。
日本が権益を持つ鉄道が、何者かによって爆破されたという事件をきっかけに、関東軍が中国軍への攻撃を開始したのでした。
関東軍は中国東北部を制圧!!
満州国を建国しました。
地元住民による建国を謳っていましたが、実際は関東軍の傀儡国家でした。
ハルビンにいた千畝。。。
激動のうねりの中へ!!
日本国外務省から満州国の外交部への出向を命じられます。
ここで・・・持ち前の諜報を発展させます。
交渉能力です。

千畝が担当したのは、ロシアとの北満鉄道譲渡交渉の開始でした。
北満鉄道は、元はロシアと中国が共同で敷設しソビエトが継承した鉄道です。
国土を分断する鉄道を外国にもたれたままでは、経済的にも軍事的にも不都合でした。
是が非でも手に入れたい!!
ソビエト通として、千畝に期待がかかります。
交渉が始まって・・・
満州国の希望価格は5000万円。現在の価格の約350億円です。
ソビエトの提示額は・・・6億2500万円(4500億円)でした。
しかし千畝は一歩も引きません。
独自のネットワークで内部事情を調査して・・・鉄道施設の老朽化とソビエト領内に車両を持ち出しているという事実と。。。
このふたつを武器に、資産価値の低さを指摘・・・!!
そして、昭和10年3月、ソビエトの提示額の1/4以下の1億4000万円で北満鉄道譲渡協定に調印するのです。
優れた諜報能力の大きな成果でした。
キャリアは家柄重視・・・
たたき上げの苦労人だからこそ、ソビエトとの外交交渉を成立に導いたとも言えます。
千畝の評価があがっていきます。

ところが・・・3か月後。。。
35歳・・・満州国外交部を依願退職。
16年暮らしたハルビンをでて・・・日本に帰国してしまいました。
直筆のメモによると・・・

「多額の工作費治安あり 一切拒否した」

とあります。

関東軍の将校が、北満鉄道の交渉で活躍した千畝に軍のスパイとして働くように要請してきたのです。
ロシアのスパイができる人材が不足しているのが原因でした。
しかし、軍部の手先になるのが嫌だったのです。
当時関東軍は・・・
張作霖爆殺事件など・・・要人の暗殺、施設の破壊・・・謀略で現地を抑え込んでいたのです。

「横暴を極める軍人に利用されることは不本意だった。」

外交官として異文化へのリスペクト、相互理解を考えていた千畝。。。
戦争につながりかねない軍の諜報活動は絶対やりたくなかったのです。
・・・関東軍に逆らえば、ハルビンにはいられない・・・
そこで・・・千畝は長年築いた人脈もキャリアも全て捨てて・・・日本に帰国したのでした。
しかし、その5年後・・・
リトアニアでの命のビザ発給という奇跡を起こしたのです。

ヨーロッパ北東部の国・リトアニア・・・
第2の都市カウナスには、日本領事館(現・杉原記念博物館)も残っています。
命のビザの舞台となった場所です。
1939年8月・・・39歳の時に、在カウナス領事代理として着任します。
しかし、日本人は千畝ただ一人でした。
妻と二人の息子を連れての新しい生活でした。
そこには重要な任務が・・・!!
着任から4日後、ドイツがポーランドに侵攻。
第2次世界大戦の勃発でした。
16日後には、ソビエトがポーランドに侵攻。
リトアニアは、ドイツとソビエトの睨み合い最前線へ・・・!!
ロシア語・ドイツ語堪能な千畝、独ソの動向を調査時、外務省に送り続けます。
それが使命でした。
しかし・・・翌年事態は急展開!!リトアニアはドイツとソビエトに包囲されてしまいました。
昭和15年には、ソビエトがリトアニアに進駐・併合が決定されます。
各国の公館に退去命令が出されました。

千畝も、あとひと月で退去しなければなりません。
そんな昭和15年7月。。。
千畝は領事館の前で・・・大勢の人だかりを見ます。

「なんとこれは、大部分がヨレヨレの服装をした老若男女で、色々な人相の人々がザッと100人も公邸の鉄鉄柵に寄りかかってこちらに向けて何かを訴えている光景が目に映った。」

何事か???
代表団を招き入れます。
彼等は・・・
「私たちはポーランドから逃げてきたユダヤ人です。
リトアニアから安全な国に脱出するために、日本を通過するためのビザが必要なのです。」

ユダヤ人・・・特定の国をもたずに、世界中に住んでいました。
ヨーロッパでは、度々迫害を受けていました。
ドイツのヒトラー政権は、ユダヤ人への憎しみから・・・
財産没収・国外追放・強制収容所送り・・・迫害をエスカレートさせていました。

一方、ソビエトも、ユダヤ人にとっては恐怖の対象でした。
最高権力者スターリンは、意に副わないユダヤ人を粛清し、シベリア送りにしてきました。

ドイツとソビエト・・・両国に挟まれたリトアニアのユダヤ人たちが、迫りくる恐怖に・・・まだ安全なうちに、日本を経由してアメリカなどに向かおうとして・・・
そのためには、日本国の通過ビザがどうしても必要だったのです。

当時、ドイツは日本と友好国にありました。
ユダヤ人にビザを発給することは???
友好国ドイツの反感を買うのではないか???
だからと言って、目の前で救いを求めている人々を見捨てることは出来ない・・・!!

「ドイツとの協調路線に迎合するために、全世界に散らばり隠然たる勢力を有するユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまでビザを拒否しても構わないとでもいうのか。
それが果たして国益に叶うことだというのか。」

昭和15年7月末
千畝は日本の通過ビザ発給を開始。
続々領事館を訪れるユダヤ人たち・・・
その一人一人に手書きでビザを発給していきます。
早朝から夜遅くまで書いても一日70通が限度でした。
痛みで手が動かなくなることも・・・。
領事館閉鎖まであと12日となった8月16日。。。
大量のビザを発給する千畝に新たな難題が・・・!!

外務省からの電報22号。
千畝がユダヤ人に発給したビザが日本で問題になっているという。。。
「あなたのビザを持つ人の中で、必要な条件を満たしていないため入国を許可できない事例が起きています。
条件を満たさぬ人にはビザを発給しない様に。」

当時日本政府は、日本国通過ビザに2つの条件を出していました。
①行先国の入国許可証
②十分な旅費
しかし、ユダヤ難民の多くは、命からがら逃げてきた人々・・・
十分な旅費も入国許可証もありませんでした。
そこで千畝は・・・発給条件を拡大解釈し・・・
現時点で二つの条件は満たしていなくとも・・・
「日本行きの船に乗るまでには条件を満たすこと」
と、但し書きをして発給していたのです。

このビザに対して・・・この二つを守るように言ってきたのです。
そして千畝の目の前には助けを求める人たちが・・・!!!
どうしたらいいのか???

ここを巧みな交渉戦術で乗り切ります。
8月24日千畝は電報66号を打ちます。
「例えばこのような事例はどうでしょうか?
既にアメリカ公使館に入国許可の申請は終えています。
しかし、とうの公使館がすでに閉鎖したため許可を受け取れない人がいます。
この場合は特例として発給しても良いでしょうか?」と。。。

個別のケースを問い合わせます。
その4日後・・・
「そのような例であっても、行先国の入国許可が出てからビザを発給するように。。。」
これは、千畝の時間稼ぎでした。
命令への回答を後回しにし、ビザを発給し続けます。
8月28日日本領事館閉鎖。

最後のビザを出し終えた千畝は・・・外務省に電報を送ります。
電報第67号
「我が国の通過ビザは、避難民がアメリカ方面へ脱出するのに絶対欠かせない唯一のものとなっております。
これはビザを求める彼らの事情をくみ取り、同情するに値するものだと考えます。
そこで私は、旅費と行先国の入国許可については拡大解釈の上でビザを発給しています。」
全てのビザを描き終えてからの・・・外務省への本心の訴えでした。

これに対し、外務省からの回答は、
「以後発給条件を満たさない人にいはビザを発給しないよう厳重に取り扱うように。」

うらを返せば・・・すでに発給済みのビザは有効・・・外務省からの暗黙の了解ということでした。
こうして千畝のビザを手にしたユダヤ人はリトアニアを脱出!!
日本を通過して、それぞれの国に向かったのでした。

リトアニアに残されたユダヤ人たちに惨劇が起こったのは、それから10か月後でした。
昭和16年ドイツがリトアニアを占領。
各地でユダヤ人虐殺が始まりました。
カウナス周辺でも年寄りから子供までもが連れていかれ。。。
21万人いたユダヤ人の9割以上・・・リトアニアのユダヤ人犠牲者は20万人にも及びました。
一方、千畝が発給したビザは2139通。
命が救われた人の数は6000人と言われています。
本当に救える道を考えた結果でした。

そこには、外交官として・・・
世界中のユダヤ人の恨みを買ってまで拒否するべきなのか???という将来的な日本の国益を見据えていたともいえます。
国際感覚・歴史感覚・・・を見通すことが出来ていたのです。
しかし、心の中に人道的支援があったことは言うまでもありません。


「この人たちを助ける」という想いが・・・!!

昭和16年太平洋戦争が勃発。
日本はアメリカ・イギリスなどに宣戦布告します。
千畝はプラハ・ケーニヒスベルク・ブカレスト・・・と、ヨーロッパを転々とし、ドイツとソビエトが戦う中で情報を送り続けます。
昭和20年第2次世界大戦終結。
その犠牲者は、8000万人とも言われています。
2年後、ヨーロッパから帰国した千畝は、突然23年間務めた外務省を去りました。
外務省が大規模な人員削減を行ったさなかでした。

「カウナスでのビザ発給が、博愛人道精神から決行したことであっても、それは本省訓令の無視であり、その角により47歳で依願免官となった。」

外務省を去った後でも、目の前の仕事に精一杯接します。
ロシア語学校の教師、貿易会社の重役、専門文書の翻訳・・・外国語に接する職業でした。

昭和43年夏・・・自宅に思いがけない電話が・・・!!
イスラエル大使館からの電話でした。
出向いてみると・・・そこにいたのは、大使館員のヨシュア・ニシュリ。
28年前の朝、初めに千畝と交渉した代表団のひとりでした。
薄汚れた1枚の紙切れ・・・千畝が発行したビザを大切に持っていたのです。
翌年千畝はイスラエルに招かれ・・・勲章を与えられます。
授与したのは、宗教大臣のゾラフ・バルハフティク・・・かれも代表団のひとりでした。
今ではその命が20万にもなっています。

28年の沈黙を経て・・・その人道的な行いが世界各地で称えられるようになった千畝。。。
しかし、千畝本人は何一つ変わることはありませんでした。
命ある限り人のために働く・・・人のために動けることが、とても大事だったようです。

昭和61年・・・杉原千畝は86歳で波乱万丈の生涯を終えたのでした。
平成25年イスラエルで、杉原千畝感謝式典が行われました。
集まったのは・・・74年前に命のビザで救われた人々でした。
救われた命が新たな命を生み・・・新たな命へと繋がっていく・・・。
それが、千畝が生み出したものでした。
しかし晩年千畝はこう言っています・・・

「何も騒がれるようなことじゃない
 私はただ 人として当然のことをしただけです。」


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