今週から始まりました。
追跡者 ザ・プロファイラー です。
プロファイリングするのは、V6の岡田准一さんです。
第1回は、「ヒトラー 独裁者という名の怪物」でした。
独裁者、アドルフ・ヒトラー。
第2次世界大戦や、ユダヤ人虐殺などの大事件を巻き起こした悪魔や怪物のように描かれる人物です。
しかし、彼は、青年時代は以外にも大人しく、絵描きになりたい、人付き合いの苦手な少年でした。
30歳を越えたころから突然、恐るべき独裁者の道のりを歩むことになります。
孤独な若者に、一体何が起こったのでしょう?
ヒトラーの知られざる素顔を追跡します。
ヒトラーは・・・
身長175㎝、芸術を愛し、作曲家ワーグナーに心酔。
酒やたばこはたしなまず、趣味は読書。
青年時代の夢は、画家になることでした。
その身勝手な10代の少年時代・・・
「これからウィーンの芸術大学に入学します。
私を待っていてください。
帰ったらあなたと結婚します。」
16歳の時に書いたと言われているラブレターです。
相手は、面識がありませんでした。
1889年4月20日、オーストリアにあるブラウナウ・・・アドルフ・ヒトラーは、ドイツと国境を接するこの町に生まれました。
成績は優秀、リーダーシップをとりたがる子供でした。
しかし、10代半ばで学校をやめ・・・大きな挫折を味わいました。
プライドが高く、人付き合いが苦手なアドルフ・・・
そんなアドルフにも、たった一人の友人がいました。
彼は、アウグスト・クビツェク・・・一つ年上の、家具職人の息子でした。
そのクビツェクを子分のように扱います。
アドルフの興味の中心は、建築や美術にありました。
絵を見せたり、文化について演説・・・
クビツェクは、聞き役に徹しました。
アドルフは・・・生涯ですが、反論を許しませんでした。
それは、独裁者になっても変わらず、自分を肯定する人間だけを集めたのです。
そんなアドルフの恋・・・
彼女の名は、ステファニー・ヤングステン。
道ですれ違った時に一目ぼれしたのです。
しかし、自ら声をかけることもなく・・・
理想のカップルとして妄想していきます。
「世間の凡人がするような言葉による礼儀作法は
僕とステファニーのような非凡な者同士の間には必要ない
いつか2人だけで会うことが出来れば
一言も話さずともすぐに打ち解けあうだろう」
そんなある日・・・
ステファニーが宛先人不明の手紙を受け取ります。
そこには・・・
「これからウィーンの芸術大学に入学します。
私を待っていてください。
帰ったらあなたと結婚します。」
実際に芸術大学を受験しますが、不合格・・・
その後、定職につくわけでもなく、絵を描いてその日暮らしの生活が続きます。
膨らむ夢と妄想・・・夢と現実のギャップ・・・。
アドルフは、そんな若者でした。
ヒトラーを理解する”鍵”は芸術にあり。と、ヒトラー研究の、第一人者・甲南大学の田野大輔教授はおっしゃっています。
ヒトラーは、政権を取った後も、自分を芸術家としてみている面があります。
ヒトラーが理想として計画した都市は、”ゲルマニア”と呼ばれています。
それがこちら。
ベルリンを作り替え、世界の首都にしようとしていました。
最大の特徴は、建物の桁違いの大きさです。
ヒトラーが理想としたのは、年前年後もの後世にも残る古代ギリシャの文化でした。
普遍的な強さと美しさを求めていました。
1914年7月第1次世界大戦勃発。
ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国 VS フランス・イギリス・ロシアとの戦いが、ヨーロッパを二分する戦いへと拡大していきます。
ドイツが統一を果たしたのは19世紀後半、まだ歴史の浅い新興国で、フランス・ロシアなど大国との緊張が続いていました。
第1次世界大戦は、ドイツにとっては、ヨーロッパの中でのし上がる民族の誇りをかけた戦いでした。
ドイツ南部の都市ミュンヘンに、誇りと挫折の20代を過ごしたヒトラーの姿がありました。
ヒトラーにとって、ドイツは理想の国でした。
経済力・軍事力そして文化・・・すべてが上り調子だったドイツが憧れだったのです。
ただちにドイツ軍に志願、西部戦線に伝令兵として参加します。
二度も負傷しながら、勲章を授かるほど奮闘します。
しかし、1918年ドイツ敗北・・・。
1919年ベルサイユ条約で、イギリスやフランスから過酷な賠償を要求されます。
ドイツは、産業にとって重要な工業地帯を含む領土の13%を失います。
住民は移住を余儀なくされます。
さらに、当時のドイツのGNPの20倍、40兆円以上の賠償金を支払うことになってしまいました。
致命的なダメージです。
「全ての犠牲は無駄であった
こんな屈辱の為に
兵士たちは死んでいったのか」
民族の誇りをかけた戦い、屈辱・・・国家の挫折・・・それが、ドイツ国民の間にありました。
「普通の人間」だったヒトラーは、どのようにして「怪物」になったのでしょうか?
アイデンティティー、誇りを取り戻すための理由が欲しい・・・
ヒトラー怪物に変え、世界を惨劇へと導いていく決定的な武器・・・それは、演説でした。
ヒトラーは、我が闘争の中で、最初の演説について・・・
「私は30分間スピーチした
以前から自分の中でもしやと感じていた事が、
今や現実によって証明された
私には、演説する力があったのだ」
1919年ヒトラー30歳、ドイツは苦しみのどん底にありました。
経済は悪化の一途を辿り、失業者が溢れました。
1919年10月16日ミュンヘン市内のビアホールで・・・
この政治集会で、弁士として初めて演説をします。
ベルサイユ条約への不満、ドイツ人の団結・・・情熱的な演説が、人々の心をとらえます。
聴衆も同じ気持ちだ・・・
不満を歌い上げれば、みな、勝手についてくる!!
演説の力は絶大でした。
党員数は、みるみる増加、2年後には党首となり、ナチ党と呼ばれるようになります。
どのようなポーズで、どのような言葉で話せばいいのか・・・研究します。
①聴衆を焦らす
②声の抑揚と身振り
③言葉を繰り返し印象付ける
④「敵」を設定して攻撃する
⑤声をわざと裏返す
ドイツ民族主義の団結、それに反するものは、排除しよう!!
ヒトラーの演説は、論理ではなく「演出」でした。
演説では、具体的な政策は語られないのです。
国民選挙におけるナチ党議席数は・・・
1928年12席だったのが、1930年には107議席、さらに1932年には230議席を獲得し、第1党となりました。
そして、1933年1月30日首相に就任しました。
この時43歳でした。
ヒトラーは、写真を使って庶民派のイメージ、優しいイメージを演出していました。
政治は一般大衆に対しては難しいものでしたが、ヒトラーは、難しい「政治」を単純化して、自分に従えば解決するような空気を生み出しました。
では、どうしてユダヤ人虐殺を行ったのでしょうか?
1934年国家の独裁者となったヒトラー・・・
ヒトラーは、積極的に経済の立て直しを行います。
高速道路、アウトバーン政策で、600万人の失業者の職を与えます。
しかし、国民の圧倒的支持と同じくして行っていたのは意に反するものの排除でした。
言論統制・他の政党の活動を禁止します。
違反者は逮捕され、強制収容所に連れていかれました。
その最たるものが国内に50万人いたとされるユダヤ人でした。
ユダヤ人は、商人や金融業を行っていた富裕層が多く、独自のコミュニティを持っていました。
そこで、市民権停止、官職剥奪を勧めます。
1938年11月・・・
ユダヤ人街が襲われ100人以上が殺害されます。「水晶の夜」です。
この事件を、ナチスは「ドイツの民族主義に則した正しいもの」と判断します。
このようにして、ユダヤ人を殺害し、その財産を奪うということが、正当化されていきました。
1939年9月1日、ポーランドに侵攻、第2次世界大戦が勃発しました。
ドイツは、フランス、ノルウェー、ソビエトにも侵攻していきます。
ヨーロッパが戦火に巻き込まれていきました。
そして、占領地からもユダヤ人を排除しようとします。
虐殺の地、アウシュビッツ強制収容所、ここで想像を絶する数の人々が、虐殺されました。
ここに送られたのは、ナチスが富裕とした人々・・・そのほとんどがユダヤ人たちでした。
3つの収容所で最大20万人を収容することが出来ます。
ここには、28の収容棟が残されています。
そこに展示されているのは・・・
8万足の靴、大量のメガネ、刈り取られた20トン・4万人分の髪の毛・・・
この髪の毛からドイツ軍の軍服が作られたそうです。
人々は名前ではなく、番号で呼ばれます。
人の尊厳を根こそぎ奪い、尊厳を失う・・・
人々は、荒野の開拓や軍需工場での労働に狩り出されました。
11時間を超す強制労働でした。
第二強制収容所、ビルケナウでは・・・
収容者用の宿舎がありました。
衛生状態も悪く、伝染病が蔓延していました。
ここにきても、生きられるのは、長くても3~6か月・・・短ければ3日でした。
身体を壊したものや、労働に不向きな女性や子供、老人を・・・
「価値なし」と呼びました。
その人たちは、ガス室に連れてこられました。
1度に700人から900人。。。
ここで殺されました。
まさに、死ぬための工場といっても過言ではありません。
収容所の駅の門は通称「死の門」
人々を詰め込んでやってきましたが、乗せて出ていくことはありませんでした。
そこには絶望がありました。
1945年4月ドイツ・ベルリン。
ソ連軍が突入しました。
ナチスは最期の時を迎えます。
しかし、ヒトラーは・・・
ベルリンを改造するゲルマニア構想に没頭していたそうです。
その夢がかなわないと知った時・・・
「ドイツ国民はあまりに軟弱だった」
そして、4月30日首相官邸の地下で自殺。
遺体は側近が燃やしたといいます。
物凄く自己中心的な人物であることが解ります。
独裁者とは、ネガティブな感情を正当化してくれる・・・とても危険な指導者でした。
しかし、ヒトラーを必要としたのは・・・作ったのは大衆である我々だということだけは言えるのです。
歴史を知って考え続けることが、第2のヒトラーに対する抑止力になるのかもしれません。
虐殺されたユダヤ人500万人以上、戦争による死者3000万人以上・・・
敗戦後ドイツは東西に分断され、再び統一するまで45年・・・
ドイツの負の遺産は、ドイツを翻弄し続けています。
今年の春、ドイツで大きな動きがありました。
「我が闘争」は、今までドイツでは発禁でした。
しかし、出版社が、4月25日再出版計画を明らかにしました。
何が間違っていたのか・・・
同じ過ちを二度と繰り返さないために・・・。
ヒトラーについて、サラッとな作品でしたが、切り口もなかなか面白かったです。
毎週あるようなので、楽しみにしています。
↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村
芸術・人文 ブログランキングへ
追跡者 ザ・プロファイラー です。
プロファイリングするのは、V6の岡田准一さんです。
第1回は、「ヒトラー 独裁者という名の怪物」でした。
独裁者、アドルフ・ヒトラー。
第2次世界大戦や、ユダヤ人虐殺などの大事件を巻き起こした悪魔や怪物のように描かれる人物です。
しかし、彼は、青年時代は以外にも大人しく、絵描きになりたい、人付き合いの苦手な少年でした。
30歳を越えたころから突然、恐るべき独裁者の道のりを歩むことになります。
孤独な若者に、一体何が起こったのでしょう?
ヒトラーの知られざる素顔を追跡します。
ヒトラーは・・・
身長175㎝、芸術を愛し、作曲家ワーグナーに心酔。
酒やたばこはたしなまず、趣味は読書。
青年時代の夢は、画家になることでした。
その身勝手な10代の少年時代・・・
「これからウィーンの芸術大学に入学します。
私を待っていてください。
帰ったらあなたと結婚します。」
16歳の時に書いたと言われているラブレターです。
相手は、面識がありませんでした。
1889年4月20日、オーストリアにあるブラウナウ・・・アドルフ・ヒトラーは、ドイツと国境を接するこの町に生まれました。
成績は優秀、リーダーシップをとりたがる子供でした。
しかし、10代半ばで学校をやめ・・・大きな挫折を味わいました。
プライドが高く、人付き合いが苦手なアドルフ・・・
そんなアドルフにも、たった一人の友人がいました。
彼は、アウグスト・クビツェク・・・一つ年上の、家具職人の息子でした。
そのクビツェクを子分のように扱います。
アドルフの興味の中心は、建築や美術にありました。
絵を見せたり、文化について演説・・・
クビツェクは、聞き役に徹しました。
アドルフは・・・生涯ですが、反論を許しませんでした。
それは、独裁者になっても変わらず、自分を肯定する人間だけを集めたのです。
そんなアドルフの恋・・・
彼女の名は、ステファニー・ヤングステン。
道ですれ違った時に一目ぼれしたのです。
しかし、自ら声をかけることもなく・・・
理想のカップルとして妄想していきます。
「世間の凡人がするような言葉による礼儀作法は
僕とステファニーのような非凡な者同士の間には必要ない
いつか2人だけで会うことが出来れば
一言も話さずともすぐに打ち解けあうだろう」
そんなある日・・・
ステファニーが宛先人不明の手紙を受け取ります。
そこには・・・
「これからウィーンの芸術大学に入学します。
私を待っていてください。
帰ったらあなたと結婚します。」
実際に芸術大学を受験しますが、不合格・・・
その後、定職につくわけでもなく、絵を描いてその日暮らしの生活が続きます。
膨らむ夢と妄想・・・夢と現実のギャップ・・・。
アドルフは、そんな若者でした。
ヒトラーを理解する”鍵”は芸術にあり。と、ヒトラー研究の、第一人者・甲南大学の田野大輔教授はおっしゃっています。
新品価格 |
ヒトラーは、政権を取った後も、自分を芸術家としてみている面があります。
ヒトラーが理想として計画した都市は、”ゲルマニア”と呼ばれています。
それがこちら。
ベルリンを作り替え、世界の首都にしようとしていました。
最大の特徴は、建物の桁違いの大きさです。
ヒトラーが理想としたのは、年前年後もの後世にも残る古代ギリシャの文化でした。
普遍的な強さと美しさを求めていました。
1914年7月第1次世界大戦勃発。
ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国 VS フランス・イギリス・ロシアとの戦いが、ヨーロッパを二分する戦いへと拡大していきます。
ドイツが統一を果たしたのは19世紀後半、まだ歴史の浅い新興国で、フランス・ロシアなど大国との緊張が続いていました。
第1次世界大戦は、ドイツにとっては、ヨーロッパの中でのし上がる民族の誇りをかけた戦いでした。
ドイツ南部の都市ミュンヘンに、誇りと挫折の20代を過ごしたヒトラーの姿がありました。
ヒトラーにとって、ドイツは理想の国でした。
経済力・軍事力そして文化・・・すべてが上り調子だったドイツが憧れだったのです。
ただちにドイツ軍に志願、西部戦線に伝令兵として参加します。
二度も負傷しながら、勲章を授かるほど奮闘します。
しかし、1918年ドイツ敗北・・・。
1919年ベルサイユ条約で、イギリスやフランスから過酷な賠償を要求されます。
ドイツは、産業にとって重要な工業地帯を含む領土の13%を失います。
住民は移住を余儀なくされます。
さらに、当時のドイツのGNPの20倍、40兆円以上の賠償金を支払うことになってしまいました。
致命的なダメージです。
「全ての犠牲は無駄であった
こんな屈辱の為に
兵士たちは死んでいったのか」
民族の誇りをかけた戦い、屈辱・・・国家の挫折・・・それが、ドイツ国民の間にありました。
「普通の人間」だったヒトラーは、どのようにして「怪物」になったのでしょうか?
アイデンティティー、誇りを取り戻すための理由が欲しい・・・
ヒトラー怪物に変え、世界を惨劇へと導いていく決定的な武器・・・それは、演説でした。
ヒトラーは、我が闘争の中で、最初の演説について・・・
「私は30分間スピーチした
以前から自分の中でもしやと感じていた事が、
今や現実によって証明された
私には、演説する力があったのだ」
1919年ヒトラー30歳、ドイツは苦しみのどん底にありました。
経済は悪化の一途を辿り、失業者が溢れました。
1919年10月16日ミュンヘン市内のビアホールで・・・
この政治集会で、弁士として初めて演説をします。
新品価格 |
ベルサイユ条約への不満、ドイツ人の団結・・・情熱的な演説が、人々の心をとらえます。
聴衆も同じ気持ちだ・・・
不満を歌い上げれば、みな、勝手についてくる!!
演説の力は絶大でした。
党員数は、みるみる増加、2年後には党首となり、ナチ党と呼ばれるようになります。
どのようなポーズで、どのような言葉で話せばいいのか・・・研究します。
①聴衆を焦らす
②声の抑揚と身振り
③言葉を繰り返し印象付ける
④「敵」を設定して攻撃する
⑤声をわざと裏返す
ドイツ民族主義の団結、それに反するものは、排除しよう!!
ヒトラーの演説は、論理ではなく「演出」でした。
演説では、具体的な政策は語られないのです。
国民選挙におけるナチ党議席数は・・・
1928年12席だったのが、1930年には107議席、さらに1932年には230議席を獲得し、第1党となりました。
そして、1933年1月30日首相に就任しました。
この時43歳でした。
ヒトラーは、写真を使って庶民派のイメージ、優しいイメージを演出していました。
政治は一般大衆に対しては難しいものでしたが、ヒトラーは、難しい「政治」を単純化して、自分に従えば解決するような空気を生み出しました。
では、どうしてユダヤ人虐殺を行ったのでしょうか?
1934年国家の独裁者となったヒトラー・・・
ヒトラーは、積極的に経済の立て直しを行います。
高速道路、アウトバーン政策で、600万人の失業者の職を与えます。
しかし、国民の圧倒的支持と同じくして行っていたのは意に反するものの排除でした。
言論統制・他の政党の活動を禁止します。
違反者は逮捕され、強制収容所に連れていかれました。
その最たるものが国内に50万人いたとされるユダヤ人でした。
ユダヤ人は、商人や金融業を行っていた富裕層が多く、独自のコミュニティを持っていました。
そこで、市民権停止、官職剥奪を勧めます。
1938年11月・・・
ユダヤ人街が襲われ100人以上が殺害されます。「水晶の夜」です。
この事件を、ナチスは「ドイツの民族主義に則した正しいもの」と判断します。
このようにして、ユダヤ人を殺害し、その財産を奪うということが、正当化されていきました。
1939年9月1日、ポーランドに侵攻、第2次世界大戦が勃発しました。
ドイツは、フランス、ノルウェー、ソビエトにも侵攻していきます。
ヨーロッパが戦火に巻き込まれていきました。
そして、占領地からもユダヤ人を排除しようとします。
虐殺の地、アウシュビッツ強制収容所、ここで想像を絶する数の人々が、虐殺されました。
ここに送られたのは、ナチスが富裕とした人々・・・そのほとんどがユダヤ人たちでした。
3つの収容所で最大20万人を収容することが出来ます。
ここには、28の収容棟が残されています。
そこに展示されているのは・・・
8万足の靴、大量のメガネ、刈り取られた20トン・4万人分の髪の毛・・・
この髪の毛からドイツ軍の軍服が作られたそうです。
人々は名前ではなく、番号で呼ばれます。
人の尊厳を根こそぎ奪い、尊厳を失う・・・
人々は、荒野の開拓や軍需工場での労働に狩り出されました。
11時間を超す強制労働でした。
第二強制収容所、ビルケナウでは・・・
収容者用の宿舎がありました。
衛生状態も悪く、伝染病が蔓延していました。
ここにきても、生きられるのは、長くても3~6か月・・・短ければ3日でした。
身体を壊したものや、労働に不向きな女性や子供、老人を・・・
「価値なし」と呼びました。
その人たちは、ガス室に連れてこられました。
1度に700人から900人。。。
ここで殺されました。
まさに、死ぬための工場といっても過言ではありません。
収容所の駅の門は通称「死の門」
人々を詰め込んでやってきましたが、乗せて出ていくことはありませんでした。
そこには絶望がありました。
1945年4月ドイツ・ベルリン。
ソ連軍が突入しました。
ナチスは最期の時を迎えます。
しかし、ヒトラーは・・・
ベルリンを改造するゲルマニア構想に没頭していたそうです。
その夢がかなわないと知った時・・・
「ドイツ国民はあまりに軟弱だった」
そして、4月30日首相官邸の地下で自殺。
遺体は側近が燃やしたといいます。
物凄く自己中心的な人物であることが解ります。
独裁者とは、ネガティブな感情を正当化してくれる・・・とても危険な指導者でした。
しかし、ヒトラーを必要としたのは・・・作ったのは大衆である我々だということだけは言えるのです。
歴史を知って考え続けることが、第2のヒトラーに対する抑止力になるのかもしれません。
虐殺されたユダヤ人500万人以上、戦争による死者3000万人以上・・・
敗戦後ドイツは東西に分断され、再び統一するまで45年・・・
ドイツの負の遺産は、ドイツを翻弄し続けています。
今年の春、ドイツで大きな動きがありました。
「我が闘争」は、今までドイツでは発禁でした。
しかし、出版社が、4月25日再出版計画を明らかにしました。
何が間違っていたのか・・・
同じ過ちを二度と繰り返さないために・・・。
ヒトラーについて、サラッとな作品でしたが、切り口もなかなか面白かったです。
毎週あるようなので、楽しみにしています。
↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村
芸術・人文 ブログランキングへ
新品価格 |