ヒトラーは、1933年~1945年ドイツの首相となり、12年間独裁者として君臨しました。
彼が国民を一つにまとめる原動力としたのが演説でした。

「国のため献身的に奉仕する諸君の姿に、ドイツは誇りと喜びと共に見い出すだろう
 ドイツの息子たちが、力強く前進する姿を!!」

情熱的で、雄弁な言葉の持ち主でした。

「我々の敵は雄たけびを上げている
 ”ドイツは破滅するべきだと!!”
 彼等に対するドイツの答えはただ一つ
 ”ドイツは生き続ける!”
 ”ドイツは勝利するのだ!”」

ヒトラーは、第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパをこの世の地獄に変えました。
ユダヤ人を迫害し、600万もの人々を強制収容所で殺害しました。
ドイツ国民をこうした狂喜に駆り立てて行ったのも、演説でした。

「私はこれまで度々予言者であったが、今日もまた予言者となろう
 ユダヤ人のたくらみ通り、このまま世界が戦争へと突入すれば、その結末はヨーロッパに暮らすユダヤ人の絶滅に終わるだろう」

演説に魅了され、ヒトラーを熱烈に支持したのは、ごく普通のドイツ人でした。
あの時代、人々はなぜヒトラーの言葉に己の運命を委ねてしまったのでしょうか??
稀代の演説家ヒトラーと、その言葉にうんめうぃお翻弄された人々の物語です。

演説家としてのヒトラーのキャリアは、ドイツ南部・ミュンヘンから始まりました。
街の広場などで行われていた彼の演説は、当時大人気でした。
ドイツの首相になったばかりのヒトラー・・・
ミュンヘンの人々を熱狂させたヒトラーの演説とはどのようなものだったのでしょうか?

1933年11月8日・・・
ヒトラーは、駆け出しの政治家だったころから、自分を支持してくれた人々に向けて話しかけました。

「私の古くからの親衛隊たちよ
 あれから10年が過ぎ、私はこの上ない幸福に包まれている
 かねてからの私の希望がかなったからだ
 我々はともに集い、遂に国民は一つになった
 ドイツは二度と、この団結を失うことはないだろう」

過ぎ去った10年を懐かしく振り返り、ドイツは団結したと語るヒトラー・・・
演説の丁度10年前、この広場には市民に反乱を呼び掛けるヒトラーの声が響き渡っていました。

1923年11月9日、自らが党首を務めるナチ党を率いて武装蜂起を起こしたのです。
第一次世界大戦の敗戦国であるドイツは、混乱の中にありました。
イギリス、フランスなど戦勝国から極めて重い賠償金を課せられ、国の経済が破たん寸前にまで追い込まれていました。
ヒトラーは、国家の危機を前に無力な政府に不満を募らせナチ党を立ち上げます。
そして、同じ不満を持つ人々に向け、武装蜂起を呼び掛けたのです。
ヒトラーの呼びかけに、多くの市民が答え、大群衆となってミュンヘンの街を行進しました。
反乱軍の先頭が、広場の入り口に差し掛かった時、事件は起きました。

警察は、反乱軍を食い止めるのに、格好の場所だと考えました。
ここで待ち構え、銃弾を放ったのです。
ナチ党員14名が命を落としました。
こうして武装蜂起は失敗に終わります。
だからこそ、この広場はヒトラーにとって特別な場所なのです。

ヒトラーは捕らえられ、1924年4月、ランツベルク刑務所に収監・・・半年余り過ごしました。
この獄中でヒトラーが記したのが、「わが闘争」です。
そこに、再起にかける思い綴られています。

~歴史上、永遠の昔から、この世界に最も偉大な変革をもたらしたのは語られる言葉の魔力である~

武力による国家の転覆に失敗したヒトラーは、今度は演説の力により合法的に政権を奪おうと考えていました。
その再出発の舞台に選んだのが、庶民の集うビアホールでした。
ホフブロイハウス・・・ここは、ミュンヘンでもっとも伝統のあるビアホールで、ヒトラーが反乱を起こす3年前、ナチ党を立ち上げた場所でもありました。
ヒトラーは常に敵を探していました。
そうすることで、ドイツを結束させられると考えたのです。

なかでも、彼が敵として名指ししたのがユダヤ人でした。
出獄して3年後、公園での演説が撮影されています。
1927年8月21日のナチス党大会です。
ヒトラーは、全国から集まった党員たちに、こう訴えました。

「国境を越えて暗躍するユダヤ人により、2000年の歴史を持つ偉大なヨーロッパ文明が滅亡のふちにある事実から人々は目を背けている
 この内なる敵に対し、我々はあらゆる形で戦うことを宣言する
 我々を支配する感情はただふたつ
 ドイツ民族および祖国の敵への憎しみ
 そして、我がドイツに対する溢れるほどの愛である」 

ユダヤ人とはユダヤ教を信じる人々のことを意味します。
彼等は、1000年以上にわたり、ヨーロッパ各地で差別を受けてきました。
その為、キリスト教徒が卑しい職業とする金貸しや商人になるものが多く、巨万の富を持つ者もあらわれました。
ヒトラーは、こうしたユダヤ人を国から締め出し、ドイツ人のためのドイツを作ろうと訴えました。

ヒトラーの大衆扇動術

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”ドイツ人のためのドイツ”という考えに共感したのは、どのような人たちだったのでしょうか??

ドイツ人のためのドイツを唱えるヒトラーの最大のライバルが、左翼の共産党でした。
労働者は国を越えて団結すべきだと唱え、急速に支持を拡大していました。
ヒトラーは、自分こそがドイツの救世主だという印象付けるため、ドラマティックな演出をします。
当時はまだ珍しかった航空機を使って、全国を遊説し始めたのです。
1日にいくつもの都市を飛び回りながら、演説を繰り返す・・・
今では当たり前のこの思想を、ドイツで初めて取り入れました。

ケーニヒスベルク15万人・・・

時に遅れて期待感を煽ってみたり、田舎の小さな村を訪れたときは親しみ深さを演出。
人々の心をつかんでいきました。

「親愛なる国民の皆さん
 皆さんもお気づきのように、我が国では次の選挙を控え、新たな機運が高まっています」

この日の演説のテーマは、少数政党が乱立し、行き詰った議会政治をどう打開するか・・・
ヒトラーは、演説の序盤、聴衆の反応を確かめるかのように穏やかに語り始めました。
話が確信に近づくにつれ、ボルテージが上がっていきます。

「私はこのドイツにはびこる30もの政党をすべて排除するつもりだ!
 私はドイツ国民に証明して見せる
 国が生き残っていくのに必要なのは”正義”であり、その”正義”に必要なのは”力”であり、その”力”の源は国民ひとりひとりの強さなのだと!」

選挙を重ねていく中で、ヒトラーの演説はより多くの人の心をつかむように進化していきます。

558回に及ぶヒトラーの演説を集計し、150万語からなるビックデータから分析すると・・・
1930年を境に、それまで高い頻度で使われていた言葉の多くが急速に姿を消しています。
その最たるものが、”ユダヤ人”です。
きっかけは、その前年・・・1929年にアメリカで起こった世界大恐慌でした。
ドイツでも失業者の数が急増し、国の先行きに不安が高まっていました。
 
ユダヤ人という言葉が使われなくなった代わりに、国家が多くなってきます。 
その時代にナチ党にとって重要だったのが、国民共同体を作り上げることでした。
国家、憲法・・・が多く使われています。
ナチ党は、1932年に行われた選挙で、地滑り的な勝利を収めて230議席を獲得し、第一党に躍り出ました。
そして翌年・・・1033年1月、ヒトラーはドイツの首相に就任しました。

ヒトラーの演説には、聴衆を引き付けるさらにおおっくの秘訣があります。
それが最もわかりやすく見られるのが”首相就任演説”です。

「親愛なる国民の皆さん・・・」

冒頭、感情が高まらないように手を前に合わせ、いつものように穏やかに語り掛けます。
そして、開始から20分以上が過ぎ、

「国の再建には国民ひとりひとりの努力が必要だ」

という確信にいたると、一気にヒートアップしていきます。

「外国から助けてもらえると決して信じてはならない
 自分の国と国民以外からのいかなる助けも期待してはならない
 ドイツ民族の未来は、我々だけに帰属するのだから
 国民ひとりひとりが国を発展させるのだ
 自らの努力で、自らの勤勉さで、自らの決意で、自らの意地で、自らの根気で行うならば、我々は再び勝利を収めるだろう
 この国を自らの力で築き上げた祖先たちと同じように」

自らの・・・と、5回・・・
人は5回聞けば焼き付く・・・そんな形でメッセージを伝えていきます。

ヒトラーはこの手法を、様々な演説で使っていました。 

1933年4月8日のナチス親衛隊への演説では
「敵の憐みによるものではなく、自らの力で、自らの意思と行為で、自らの運命の主人として立ち上がる時が来たのだ!」

1936年10月6日・・・慈善募金を呼び掛ける演説では
「あらゆる者が助け合わねばならない
 貧しい者も、富める者も、あらゆる者が考えねばならない
 ”私より貧しい同胞を助けたい”と
 礼儀をわきまえ、気骨あるあらゆるドイツ人が、この隊列に加わると期待している」

さらに、演説の中の言葉を聴衆の頭の中に焼き付けるため、効果的に使われいたのがジェスチャーでした。
これによって、メッセージがさらに有効に伝わります。

首相就任の日の夜、ベルリンの目抜き通りは松明を持った男たちで埋め尽くされました。
ナチ党の武装組織突撃隊です。
沿道のベルリン市民は、この様子を期待と不安の入り混じった思いで見つめていました。

政権を握ったヒトラーは、国民にさらに広く演説を届けるための大きな武器を手にすることになります。
政府の管轄下にあったラジオ電波を、自由に利用できるようになったのです。
この頃ラジオは、庶民にとっては高級品でした。
そこで、安いラジオの開発を命じ、半年後に国見受信機として発売しました。
ヒトラーは、歓声や拍手の入った臨場感ある音声を届けることで、ドイツ中の家庭を演説会場に変えました。

さらに、ヒトラーが利用したのが庶民の娯楽・映画でした。
選挙で約束した国家の再建が、実行に移されていることを、国民に知らせました。
その中でも演説が効果的に行われています。

「我が民族の勤勉さ、能力、結束力を6年間で示すのだ」

経済政策の目玉が、世界初の高速道路網アウトバーンの建設でした。
機械の使用を極力抑えることで、一人でも多くの失業者を雇いあげました。
また、第1次世界大戦の敗戦により、持つことを制限されていた軍を再編成し、多くの若者を兵士として雇いあげました。
ヒトラーが政権についたときに、500万近くいた失業者は、わずか2年で半分以下にまで減少しました。
目に見える成果を上げたことで、当初は懐疑的だった人々までもがヒトラー支持に傾いていきました。

どの家にもヒトラーの肖像がありました。
彼はアイドルだったのです。

ヒトラーが国民にいかに支持されていたのかがわかる町があります。
ドイツの南の端、アルプスのふもとにあるベルヒテスガーデンです。
別荘に向かう時、ここをよく通りました。
ヒトラーの別荘の様子を写した映像も残っています。
ヒトラーの恋人エーファ・ブラウンが残したプライベート・フィルムです。
ヒトラーは、この別荘からの眺めを気に入り、年に何度もベルリンからやってきました。
そんな彼を一目見ようと全国からファンが押し寄せ、ヒトラーもまた気さくに言葉を交わしました。

国民からの信望を一心に集めていくヒトラー・・・
そんな彼は国民をさらに魅了する為に作り上げた部隊が、ニュルンベルク郊外に残っています。
毎年9月にここで行われるようになったナチスの党大会では、連日10万人規模の大演説会が行われました。

その一角に集められたのは・・・ナチス少年団ヒトラー・ユーゲントです。
ヒトラー・ユーゲントは、週末ごとに屋外での運動やキャンプなど、子供たちが喜ぶ催しが行われました。
そうした活動を通じ、子供の頃からナチスの思想を植え込むのが目的でした。
年に1度の党大会には、ドイツ全土の少年団の中から、特に優秀と認められた者だけが集められ、演説を直接聞くことを許されました。

「諸君らドイツの少年少女に、切に願うことがある
 我々が未来のドイツに託す期待のすべてを担ってもらいたい
 我々の前にドイツの未来があり、我々は国家と共に歩み、我々の後に輝かしいドイツができるのだ」

ナチスが制作した党大会のプロパガンダ映画「意志の勝利」が各地の映画館で上映され、記録的な動員を達成しました。
これを見た当時の少年たちは、ヒトラーへの憧れをますます強くしていきました。

1935年9月15日、ヒトラーが行った演説・・・

「ユダヤ人の唯一にして最大の罪・・・それはドイツ人でありたいと願ったことだ
 もし、ユダヤ人の排斥が進まない場合、この排斥法案はナチ党の力で最終解決されるものとする」

ヒトラーは、1930年以来、控えてきた反ユダヤのヘイトスピーチを再び解き放ちます。
この演説は、それまで平穏に暮らして来たヨーロッパ全体を翻弄していきます。

ドイツ国内に住む70万を超えるユダヤ系ドイツ民が、選挙権などの市民権を剥奪されました。
かつて首相になる前、ヒトラーはユダヤ人を国から追放すべきだと主張したものの、広く支持を得られませんでした。
そこで、経済的な豊かさを取り戻したドイツにとって、その富を狙うユダヤ人こそが脅威であると訴えました。

1939年1月30日のラジオ演説は・・・
「ユダヤ人が豊かなのは、正直者のドイツ人の富を横取りするるからだ
 善良なドイツ人が、働いて節約して得た蓄えは、あくどいユダヤ人により奪われるのだ
 ドイツには、知性の高い農民や労働者の子供がたくさんいる
 彼等を我々は教育している
 彼らに国の指導者的立場を占めてほしい
 よその民族の子供などではなしにだ
 ドイツ文化とは、ドイツ人のもので、ユダヤ人のものではない」

そしてその憎しみは、ヒトラーを崇拝するごく普通のドイツ人によって増幅していきました。
子供たちは、学校の教師や父親から反ユダヤ主義を教えられ、素直にその差別意識を吸収していきます。

ヒトラーは、ナチスの幹部を前にこう語っています。
1938年12月2日ナチス党幹部への演説

「大ドイツの誕生は、ドイツ国民の意思に基づいている
 国民の全男性、全女性がそれに従う
 若者たちを労働奉仕団で鍛え上げる
 ドイツ国家のシンボルである鋤を使ってだ
 それでも高慢は階級意識が残っていれば、軍が引き受けて鍛え上げる
 彼等は一生自由になることはない
 彼等はそれで幸福なのである」

ヒトラーが国内のユダヤ人に対して牙をむいた1935年以降、外交政策を語る演説にも大きな変化が見えてきました。
国民に向けて平和を訴え始めたのです。

「我々が望むのは平和だけだ
 我々はすでに戦争を経験した
 我々は周りの国々に和解の手を差し出したい
 我々は彼等と共に働きたい
 我々は彼等に敵意は持っておらず、憎しみを感じない」

ビックデータからは・・・ヒトラーが平和を語る時期には大きな偏りが見られることが分かります。
ひとつは1935年から36年にかけて・・・
これは、ヒトラーが大規模な軍備拡張を取り出した時期と重なります。
もうひとつは、1939年・・・ヒトラーが第2次世界大戦を引き起こすときです。
平和を語る演説を丹念に見ていくと、ヒトラーの本当の狙いが浮かび上がってきました。

1935年5月21日、ドイツの国会で行った演説で、ヒトラーは心から平和を望むと述べる一方で、次のように主張しています。

「第1次世界大戦以前のドイツは、その生存圏の中で富を蓄積することができた
 だが、大戦によりドイツ経済が破壊され、領土も狭められ、ドイツ国民は生存圏の狭さゆえ、食料と原料の不足に悩まされている
 だからこそ、我々はこの不当な状況を打破しなければならない」

この時ヒトラーは、ドイツには生存圏・・・つまり、領土が足りずにこのままの状況が続けば実力行使に出ざるを得ないと訴えていました。
平和を声高に訴えることで、領土拡大の野心を覆い隠し、言葉巧みに国民を戦争へ導こうとしていたのです。
平和を求めるというヒトラーの言葉が、偽りだったことが多くの歴史学者によって証明されています。

1939年のかけての政治のすべてが戦争準備のためのものでした。 
経済的合理性を顧みることなく、借金をして軍備に大金をつぎ込み、その額は膨れ上がっていました。
戦争を起こさなければ、体制そのものが崩壊するしかありませんでしたが、もちろん、ヒトラーにそんなつもりはありませんでした。
彼にとって戦争に踏み切る以外、選択肢はありませんでした。

1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し、第2次世界大戦がはじまりました。
ヒトラーは、開戦を伝える演説の中ですら平和を訴えていました。

「私は協議を通じて平和的な提案をし、問題を解決しようとした
 彼等が我々の領土割譲要求に応じさえすればよかったのだ
 平和を望む私の忍耐や私の愛を、弱さや臆病と混同してはならない!!」

そして開戦のきっかけは、ポーランド側にあるとでっち上げました。

「本日5時45分、我が軍は、敵からの発砲に反撃を開始した!!
 今日からは、爆弾には爆弾で報いてやる!!」

ポーランドを一月で破ったドイツ軍は、勢いに乗ってフランスまで占領し、西ヨーロッパの大部分を支配下に治めていきました。第1次世界大戦の屈辱を晴らす大勝利に、国民は酔い、いつしか平和のための戦争という建前すら忘れていきました。
国民の熱狂に迎えられたヒトラーは、その野望をさらに膨らませていきます。

「我が軍は、ミンスクへと突進する」

1941年6月22日、ソビエト侵攻開始。

ヒトラーの命を受け、突如300万のドイツ軍がソビエトに侵攻を開始しました。

”我が軍は6月22日から27日の間に、2233両のソビエト軍戦車を撃破、捕獲
 大胆は攻撃で、敵陣を奪い、何千人もの捕虜を得た”
 
しかし、一方で国民の多くは、広大な国土を持つソビエトを屈服させるのは難しいのではないか??と不安を抱いていました。
そんな不安を払しょくし、人々を戦争に駆り立てた言葉があることが分かってきました。
それは、「価値の低い人間」という言葉です。
ロシア人など、スラブ系の人々は、人種的に価値が低く、彼等を打ち負かすことなどたやすいのだとヒトラーが言ったのです。
ロシア人は、ポーランド人よりさらに価値が低く、汚いとされました。
ロシアを全滅せねばならないといいました。
ロシア人は共産主義者で、価値の低い人間だと・・・!!
ドイツ人のような人間ではなく、根絶やしにすべきだと・・・!!

”捕虜、それは、野蛮な人種ども
 こいつらは、原始的で頭が鈍く、数ばかりが多い、安い道具だ”
 
この後、4年間に及ぶ戦争で、2000万人にも及ぶソビエトの人が命を落とすことになります。
一方、ドイツ国内でも異変が起きていました。
同じく価値の低い人間だとされたユダヤ人が、次々と姿を消し始めたのです。
強制収容所という言葉が多く聞かれるようになってきました。
そして、何が起きているかもうすうす気づいていました。
ひどいことが起きていると・・・

1943年2月18日ベルリン・・・
開戦以来、最大規模の演説会がベルリンで開かれ、ラジオで全国に中継されました。

「諸君は総戦力を望むか!?」

戦争が長引き、国民の戦意を鼓舞するのが、狙いでした。
しかし、この日、演台に立ったのは、ヒトラーではなく忠実な僕・・・宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッペルスでした。
 
「勝利を勝ち取るため、総統に従っていく決意はあるか!?
 苦難を共にし、最も重い負担に耐える覚悟があるか!?」

このころを境に、人々を戦争にたきつけてきヒトラーは、演説の表舞台から姿を消していきます。
きっかけは、第2次世界大戦の天王山といわれるスターリングラード攻防戦で、大敗北を喫したことがきっかけでした。
ソビエト侵攻の主力部隊を失ったドイツ軍は、これ以降、敗退を重ねていくことになります。

1943年3月24日のドイツ週刊ニュース
戦死した将兵の追悼式典にヒトラーが出席した時の映像があります。
ヒトラーの声は一切使われず、背中を丸め、原稿を読み上げる様子が映し出されているだけです。
しかし、かつてその演説に魅了された若者たちは、ヒトラーは偉大な指導者であるという幻想にとらわれ続けていました。

ドイツの主要な都市は、イギリスから飛んでくる爆撃機により、次々と焼き尽くされていきました。

1945年1月30日、東からソビエト軍、西からアメリカを主力とする連合軍がベルリンに迫る中、ラジオからヒトラーの声が響いてきました。

「親愛なる国民の皆さん」

この日は、ヒトラーが首相に就任して12年目の記念日でした。
そしてこれが、ヒトラー最期の演説となります。
ベルリンの地下壕の中、一人の観客もいない演説・・・
ヒトラーは、ドイツを導く予言者として人々に語り掛けました。

「立派に戦う者は、自らの命と愛する者の命を救うだろう
 だが、怖気づき、無節操に国家を裏切者は、必ず唾棄すべき死を迎えるだろう!!」

そして、ドイツ勝利のため更なる犠牲を国民に求めました。

「私は健康な者一人一人が、この闘争に命をかけることを望む
 私は疾病人や苦しむ者一人一人が最後の力を振り絞って働くことを望む
 私は夫人と少女たち一人一人が今まで同様最高の熱意をもって闘いを援護することを望む
 私はここで格別の信頼をドイツ青少年へ寄せる
 我々は、かくも団結した共同体を形成しているがゆえに、全能の神の前に進み、憐みと祝福を乞う資格を得るのである」

1945年5月1日・・・ラジオから臨時ニュースが流れます。
”総統大本営より通知がありました
 総統は4月30日、デーニッツ元帥を後継者に指名しました”

4月30日・・・ヒトラーは、ベルリンの地下壕で自ら命を絶ち、1週間後ドイツは降伏しました。
生き残った人々は、ヒトラーの言葉に熱狂し、信じ、従ったという事実と向き合いながら、長い戦後を生きていきます。
ソビエト軍の捕虜になった者は、過酷な労働を強いられていました。
破壊された町の修復を命じられ、ヒトラーの言葉がもたらした現実と向き合うことを求められました。

ドイツ人は偉大な民族であるというヒトラーの言葉に踊らされ、戦場で命を落とした若者が500万を数えます。
言葉は、時として普通の人々を狂気に駆り立てていくのです。

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