アメリカの情報機関は、最近2000ページに及ぶ極秘文書を公開しました。
20世紀最大の喜劇王チャールズ・チャップリンの人物ファイルです。
命じたのは、J・エドガー・フーバー・・・FBI史上最強の長官は、チャップリンを共産主義と危険視していました。
私生活も徹底調査、電話の盗聴、取り巻きの素行調査、女性関係、セックスの監視、作品の分析・・・
1922年から78年まで50年以上に及んだ容赦ない調査の記録です。

チャップリンとフーバーの対決には、長い間アメリカを分断してきたリベラルと保守の対立構造が伺えます。
なぜアメリカで人道主義者のチャップリンが批判の的になったのでしょうか?
どうして言論の自由は蔑ろにされたのでしょうか?

1910年代・・・
20代半ばだったイギリス人俳優・チャップリンは、所属する劇団の巡業でアメリカを訪れました。
その頃、ハリウッドでは、映画産業が急成長を遂げていました。
まだ小さな制作会社の集まりでしたが、その一つのキーストンスタジオがチャップリンを雇い、短編のトーキー映画に出演させます。
チャップリンは、すぐに人気をさらいます。
奇妙ないでたちでユーモアたっぷりの浮浪者の姿が、大いに受けたのです。

チャップリンはタイミングのいい男で、映画産業が花開こうとするときにハリウッドにやってきました。
放浪者は、大きすぎる服に、だぼだぼのズボン、しかし、山高帽でステッキ、フロックコートを着ています。
下半身はみすぼらしいのに、上半身は上流階級のよう・・・。
チャップリンが自ら選んだこの衣装は、後の映画での基本的なスタイルがすでにできています。
質素でありながら威厳を供えている・・・。

こうして、トレードマークの放浪者が誕生しました。
チャップリンは、自ら監督も行うようになり、もっと自由な環境で映画を作りたいと考えるようになりました。
チャップリンは、いくつもの映画会社を渡り歩き、70本以上作成します。
数年で莫大な富を築きます。
1917年には、自身のスタジオの建設に着手しました。
彼が好んで制作したのが風刺映画でした。
金持ちの紳士が、顔にパイを投げつけられたり、警察官がひどい目に合ったりします。
チャップリン演じる放浪者は、社会で虐げられている人々の代弁者になっていきます。
彼が、劇中で繰り広げる権力者への些細な抵抗が、庶民の共感を詠んだのです。
チャップリンの風刺作家としての名声は高まっていきます。

チャップリンは、放浪者を労働者や移民の一人として描きました。
生涯で様々な役を演じますが、貧しい生まれの人物という部分では共通していました。
彼は、虐げられている弱者のことをよく知っていたのです。
彼自身の貧しい生い立ちを考えれば当然のことでした。
子供の頃に感じた不公平感を・・・

1917年公開の映画{チャップリンの移民」は、アメリカの移民政策への批判が込められていました。
保守派の論客は、チャップリンの映画を反体制的だととらえるようになります。
アメリカのピューリタン的な価値観を、脅かしかねないと見たのです。

第一次世界大戦でアメリカ兵が戦地へ赴く中、チャップリンはアメリカの市民権を拒んだことで批判されます。
チャップリンは、「自分は世界市民だ。国籍は生まれた国の物だけあればいい。」と言いました。

一方、チャップリンは、戦争資金を調達するための公債の発行を支援します。
政府への支持を訴え、全米を回りました。
さらに、公債と題したプロパガンダ映画を製作します。
しかし、公開時にはすでに休戦が宣言されていました。

1920年代になると、アメリカは飛躍的に成長を遂げます。
大手映画会社は、700本を超えるサイレント映画を世界中で公開しました。
チャップリンは、作家自身による映画配給会社「ユナイティッド・アーティスト」を作ります。
作品の内容により強い権限を持つようになったチャップリンは、映画「キッド」では固辞の問題を取り上げました。
チャップリン演じる放浪者が、ニューヨークの街で孤児と出会うストーリーです。
チャップリンは、人々に夢と希望を与えてきたアメリカが、一方で貧しい孤児たちの存在を無視してきた実態を描いています。
彼は、様々な手法で批判してきたことです。
ワシントンではロシアの革命から、共産主義の思想の広がりを懸念していました。
若きフーバーの任務は、要注意人物の監視でした。
フーバーは公務員でした。
彼は大戦中から、政治犯の監視の担当をしていたのです。
フーバーは、黒人を蔑視する人種差別の塊で、同性愛も嫌悪していました。
そして何よりも反共主義者でした。
国際的な秘密組織が存在し、欧米各国を弱体化させ社会主義革命を狙っているという妄想に取り憑かれていました。
1919年、フーバーは、共産主義運動の指導者たちを国外追放します。
少しでも社会主義やリベラルな思想を持つ者は、コミュニズムの支持者だと疑われました。
マスメディアで反体制の言動をする者も標的になります。
知識人や芸術家も疑われました。
一般市民に危険な思想を植え付けていると思われたのです。

フーバーは、ハリウッドに捜査員を潜入させ、監視下におきます。
ゴシップ誌も重要な情報源でした。
フーバーは、チャップリンファイルを開設、50年で2000ページに及ぶ記録の始めは、俳優ミルドレッド・ハリスとの結婚です。
当時、ミルドレッドは16歳、スキャンダルを畏れたチャップリンは、1918年結婚します。
子供は生後すぐに亡くなり、結婚はすぐに破綻・・・
妻が離婚を申し立て、ほどなく認められました。
1921年、チャップリンは、長期のヨーロッパツアーに出かけます。
ロンドンやパリで大歓声で迎えられました。
1924年、チャップリンは、俳優のリタ・グレイと結婚し、二人の息子を設けますが、結婚はうまくいかず、リタは幼い子供を連れて家を出ました。
その後、リタはチャップリンの不貞や暴力を訴え、離婚を申し立てます。
裁判の末、チャップリンが多額の示談金を支払うことで離婚が成立します。

第1次世界大戦後のアメリカは、禁酒法が施行され、保守主義が台頭した時代でした。
しかし、チャップリンはそんな時代をあざ笑っていました。
彼の映画は、多くの良識あるアメリカ人にとって不快に映ることもありました。
一方で庶民は、チャップリンの映画を称賛しました。
権力者がコテンパンにされる姿を見て大喜びしたのです。

厳格なキリスト教徒たちは、チャップリンの映画のボイコットを呼びかけます。
道徳的な観点から映画に懸念を示す人が大勢いて、キリスト教の団体が政府に映画の検閲をするように求めていました。
そのため、多きな映画会社が、MPPDAを設立し、自主的な倫理規定を作ります。
初代会長は、郵政長官だった共和党の政治家ウィル・ヘイズです。
協会は、まず俳優たちに教会に従うという誓約書への署名を義務付けました。
しかし、自分の配給会社を持っていたチャップリンは、縛られることはありませんでした。

チャップリンは、次第にFBIからにらまれるようになります。
1922年8月、フーバーは、特別捜査官のホプキンスに調査を命じます。
ホプキンスは、チャップリンがロサンゼルスの自宅で開催したパーティーについて報告しました。
それによると、招待客の中には、共産主義に共鳴する人物や、急進主義者、労働組合の指導者も含まれていました。
ホプキンス捜査官は、チャップリンはMPPDAのヘイズ会長を批判し、我々は如何なる検閲にも反対すると明言したと言い、トイレの扉には「ようこそヘイズ」と書かれたペナントがあったと報告しています。
フーバーは、報告書をヘイズに送ります。
FBIとMPPDAは、映画に含まれるプロパガンダを取り締まるために協力関係を築き、この関係は1945年前まで続きました。

マスメディア・FBI・MPPDAの圧力を前に、チャップリンは四面楚歌の状態でした。
1927年、チャップリンの映画の内容に、外部から更なる圧力がかかり、更なる規則が追加されました。
映画に含んではいけない11の要素と扱いに注意を払うべき25の項目のリストが発表されました。
ヌードは禁止、宗教は敬意をもって扱う、犯罪や不貞行為を煽らない・・・
MPPDAには、違反者を罰する手段がありませんでした。
映画の製作者たちは、一分でもリストを守ればいいと都合よく解釈をし、良心と興行収入を守りました。

華やかな1920年代は悲劇で幕を閉じます。
1929年10月24日、株価が大暴落!!
大恐慌となります。
人口の1/4が職を失い、多くの人が路頭に迷いました。
FBIにとって、経済危機であると同時に、政治的な危機でもありました。
国内の全ての反体制分子を監視しろという命令が秘密裏に出されました。
極右のメンバーと共産主義者への調査活動が強化されました。

映画「街の灯」は、金融危機がもたらした労働者たちの過酷な日常を書いています。
チャップリンは、脚本を恐慌が始まる前から書いていました。
劇中では酒飲みの大富豪と放浪者との奇妙な関係が描かれ、庶民に対する支配階級の冷淡さが表現されています。
この映画の製作中、新たな問題に直面します。
トーキーの登場です。
映像と音声と同期したトーキーは、大手映画会社では数年前から制作されていました。
しかし、チャップリンは、一時的な流行に過ぎないと考えていました。
チャップリンは、放浪者はしゃべれない・・・しゃべった瞬間、死んでしまう・・・ジェスチャーを通して意思疎通することに面白さがあると言っていました。
サイレント映画では興行的に失敗すると言われても、チャップリンはトーキーを嫌いました。
チャップリンの「街の灯」は大ヒットし、賭けに勝ちました。
1933年になると、映画業界はカトリックの団体から圧力を受けるようになります。
これに対応する為に、MPPDAはジョセフ・グリーンを検閲の責任者に据えます。
彼は何より道徳を重んじました。
彼は最高で2万5000ドルの罰金を科す権限を与えられたので、制作者たちは規則を守らざるを得なくなります。
これが、ハリウッドの転換点となりました。
制作者たちは規則に従うか、抜け穴を見つけるか、判断を迫られます。
チャップリンにとっては受け入れがたいことでした。

同じころ、ルーズベルト大統領が、ニューディール政策を打ち出します。
経済を復興させ、失業者たちを無くす目的でした。
チャップリンは、ルーズベルトへの支持をラジオで訴えます。
公正な社会を求める彼の思いが、次の作品「モダン・タイムス」につながります。
当時、地方の人々が、大挙して大都市に移り住みましたが、生活は非常に貧しいものでした。
この窮状を目の当たりにしていたチャップリンは、大手自動車工場を訪問したのち、モダン・タイムスを制作します。
そして、効率化を求める会社の管理体制や、分業化、機械化を批判しました。
労働者を機械やロボットのように変えてしまう資本主義社会を痛烈に皮肉ったのです。

チャップリンは、ポーレット・ゴダードを起用、その後二人は10年近くプライベートでもパートナーとなります。
彼女はチャップリンの生活に多くの幸せをもたらしました。
チャップリンは、彼女に会った瞬間に、モダン・タイムスにピッタリだと思いました。
映画が封切られると、チャップリンはゴダードと一緒に世界旅行に出かけます。
1936年、二人は密かに結婚しました。
映画は大成功を収めましたが、内容は共産主義的だと非難する批評家が大勢いました。

チャップリンは抗議します。
この映画は共産主義でも資本主義でもない・・・中立だ!!
ナショナリズムの機運が高まる中、中立を貫くのは不可能だということを、チャップリンはわかっていませんでした。
それまでハリウッドの共産主義者は少数でしたが、1930年代半ばに変化が起こります。
アメリカ国内の共産主義者の数も倍増しました。
フーバーは、映画業界が反体制派に対抗するように手をまわします。
フーバーはFBIの後方映画の制作を指揮、その活動がいかに優れているのかをアピールします。
さらに、FBI捜査官が主役の映画を作るように映画会社に働きかけました。
1935年の「Gメン」は、その一例です。

フーバーは、捜査官のネットワークを使い、チャップリンの収入や資産をつぶさに監視、多額の預金があることは確認できましたが、共産主義団体に寄付した痕跡は見つかりませんでした。
失望したフーバーは言いました。
「ロックフェラーのように大金を稼いでおきながら、資本主義を批判するのは間違っている」

当時の世界情勢に触発され、チャップリンは新作「独裁者」に取りかかります。
彼は全体主義の台頭に恐れを抱きました。
チャップリンは、本質的に常にヨーロッパ人でした。
彼は独裁者の構想を練り始めます。
そして、2年という歳月をかけてヨーロッパ情勢を分析し、300ページに及ぶ作品を書きあげました。

本当にすごい偶然です。
世界で最も嫌われた男と、最も愛された男が、ほとんど生き写し・・・
誕生日は数日違い、年齢も、身長も、体つきも同じ・・・
髭の大きさは違っていましたが、しかし、ヒトラーの髭は次第に縮んでいって、チャップリンそっくりになっていきます。
ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した1939年9月、チャップリンはハリウッドで撮影を開始します。
チャップリンは独断でこの映画を作ることを決め、自分のたくわえを投じました。
家族も制作会社も映画の制作には反対でした。
チャップリンは、殺しの脅迫まで受けていましたが、経済的なリスクを含め、あらゆる覚悟をしていました。
人々の連帯や、人権が尊重される世界を信じ、平和主義を訴えようとしました。

独裁者は、1940年秋に公開されると、たちまち人気に・・・
しかし、終盤の平和を訴えるスピーチには賛否両論がありました。
新聞は、チャップリンが共産主義を宣伝していると批判します。
映画を見たルーズベルト大統領はナチス・ドイツを支持する国々との間で緊張が高まるのではないかと心配します。
当時アメリカは、ドイツに宣戦布告しておらず、孤立主義の立場をとっていました。
市民の多くは、アメリカの参戦に反対でした。
ルーズベルトは、FBIの役割を強化します。
ナチスを支持するドイツ系アメリカ人協会の団体を、監視下に置くよう命じます。
1940年以降、FBIは、国内の諜報活動において軍を凌ぐほどの力を持つようになります。
1941年12月、日本の真珠湾攻撃をきっかけに、世論が変わります。
アメリカ人の大半が、参戦を支持するようになりました。
ソビエト連邦が、連合国側についたことで、アメリカの共産主義者への姿勢も変わります。
内なる敵からナチスと戦う戦友となったのです。
ルーズベルトは国民を一つにすることに専念しました。

大統領はハリウッドにも協力を求めます。
政府、軍、映画会社は一丸となって愛国心を鼓舞する作品を作りました。
チャップリンは、大統領の要請にこたえるだけではなく、ソビエト軍を支援すべきだと公に訴えました。
チャップリンは、ドイツが東部戦線を制したら、ヨーロッパは終わりだと思っていました。
ソビエトを支援する運動を、FBIは、共産党の隠れ蓑だと思っていました。
運動を支持したチャップリンも、共産主義者では??と疑われました。

1942年、チャップリンはロシア戦線を支援する集会でスピーチをするように当局から依頼されます。
求めに応じたチャップリンは、サンフランシスコの会場に向かいます。
そして、スピーチ冒頭「同志よ・・・!!」と、突然呼びかけ、聴衆を驚かせます。
まずいことにスピーチの内容をFBIが記録していました。
更にチャップリンは、オーソン・ウェルズらと共にニューヨークで開かれた集会に出席します。
主催したのはFBIが左翼としてマークしていた芸術団体で、開場のカーネギーホールの前では、共産主義に反対するデモが行われました。
ロシア戦線への支持を表明したことが、とどめの一撃になりました。
チャップリンは、大統領だけでなく連邦議会まで敵に回しました。

フーバーは、チャップリンを法廷に引きずり出すための証拠探しを続けていました。
1943年、俳優のジョーン・バリーが妊娠6か月で父親はチャップリンだと主張。
フーバーは、早速調査に乗り出しました。
報告書によれば、二人の出会いは1941年。
彼女はハリウッドに出てきたばかりでしたが、チャップリンにうまく取り入り、彼の映画で役をもらいました。
しかし、次第にジョーンの精神的不安定が明らかになります。
ある日彼女が泥酔状態で車の事故を起こします。
チャップリンは、ジョーンとの契約を解除し、その後しばらく彼女に会いませんでした。
報告書でフーバーが興味を示したのが、次のような一文でした。
1942年10月にチャップリンがニューヨークを訪れた際、ジョーンと一夜を過ごすために列車の切符を買い与えた。
フーバーは報告書にしるしを入れ「掘り下げるように」と記入。
マン法に違反している場合は、厳しく処罰するようにと指示しました。
マン法は、白人奴隷の売買を防ぐ目的で、1910年に施行された法律です。
州をまたいで女性を輸送し、売春などの不道徳な行為に当たらせることを禁じるものでした。
ホテルの請求書を手に入れたフーバーは、ついにチャップリンを追いつめる証拠を手に入れたと意気込みます。
フーバーは、職責を著しく逸脱してジョーンを説得し、チャップリンに対する訴訟を起こさせます。
さらに、彼女のために、自ら弁護士を雇いました。
1944年2月10日、裁判が行われ、報道陣が押しかけました。
チャップリンの弁護士は陪審員に訴えます。
「ジョーン・バリーは、いつでも被告の求めに応じたであろうに、わざわざ4500キロも一緒に旅をしたなんて、おかしいと思いませんか?」
チャップリンは無罪になりますが、これで終わりではありませんでした。
すぐに二つ目の裁判が始まります。
ジョーン・バリーが子供を認知するように訴えを起こしたのです。
しかし、血液検査で親子関係がないことが証明されます。
チャップリンは法廷で彼女とは2年間関係を持っていないと主張しました。
それでも裁判所は、チャップリンの姓を名乗ることを認め、チャップリンに養育費の支払いを命じます。

不当な判決に傷ついた彼を救ったのは、ウーナ・オニールの存在でした。
ウーナは、1943年6月、一連の騒動の渦中でチャップリンと結婚し、彼がこの世を去るまで支え続けました。
この頃チャップリンは、これまでで最もシリアスな作品を書き始めていました。
「殺人狂時代」です。
よく手入れされた口ひげを蓄え、オーダーメイドのスーツに身を包んだ紳士・ベルドゥーが、殺人を繰り返し、最後は処刑される物語です。

「一人を殺せば犯罪者だが、数百万人殺せば英雄だ」

チャップリンは、このセリフに裁判所への恨みを込めていました。
戦争が終わると状況が一変・・・アメリカとソビエトの間で冷戦が始まります。
マッカーシー上院議員が主導する赤狩りがあらゆる分野で吹き荒れ、特にハリウッドは大きな打撃を受けます。
殺人狂時代のメディア無家の試写会は惨憺たるものでした。
記者たちは映画の内容ではなく、チャップリンについて質問しました。

「あなたは共産主義者ですか?」
「私は共産主義者ではない。」
「ではなぜアメリカ市民にならないのですか?」

「チャップリンはアメリカの道徳的基盤を脅かしている
 彼の映画が若者たちの目に触れないようにしなければならない」byジョン・ランキン

ランキンは、司法長官にチャップリンの国外追放命令を出すように迫ります。
チャップリンは、下院非米活動委員会に召喚されました。
反体制的な活動を摘発するこの委員会は、1947年秋、ハリウッドの映画関係者聴聞会を開きます。
チャップリンは委員会にこう伝えます。

「喜んで出席するが、聴聞会の間中放浪者の姿でパントマイムする」

これにより、チャップリンは出席を免れることができましが、多くの映画関係者はそうはいきませんでした。
委員会は反体制的で共産党との関係が疑われる人物をハリウッド10に絞ります。
俳優のハンフリー・ボガート、ローレン・バコール夫妻などが、友人たちを助けようと立ち上がります。
映画会社はボガートにハリウッド10の支援をやめなければ俳優としてのキャリアを失うぞと警告しました。
チャップリンは、委員会に逆らい、友人らを擁護します。
アイスラ―は国外追放となり、チャップリンは共産主義者の味方をしたと責められました。
証言を拒否した映画関係者は、理解侮辱罪に問われ、禁固刑に処せられました。
大手映画会社の幹部たちは、ニューヨークで対策に追われ・・・
今後は共産主義者でないと誓ったものしか雇わないことで一致しました。
ブラックリストに載った者は、潔白を証明する為に仲間を売ることを余儀なくされました。
チャップリンは、非米活動委員会や映画業界の圧力からは逃れることができましたが、退役軍人やカトリック団体からの追及は続きました。
彼等は、ハンス・アイスラ―との関係を、さらに調査するように求めていました。

1948年、ロンドンでの撮影を計画していたチャップリンは、帰国の際に必要な再入国許可を申請しました。
すると移民局から4時間にわたって尋問を受けます。
人種的なルーツは??・・・
女性関係はどうなっているのか??
なぜアメリカの市民権をとらなかったのか?
戦時中にソビエトを支援したのはなぜか?
チャップリンは答えました。
「ソビエトを支援したのは彼らがいなければナチスが勝っていたからだ。
 私は進歩的な民主主義者であって、社会主義者ではない・・・
 人道的な愛国者で、世界市民だ
 私は常にアメリカを愛してきた」
尋問の末、チャップリンの再入国が認められますが、後日、税務当局は一変して200万ドルの保証金の支払いを命じてきました。
チャップリンは、イギリスへの渡航を中止し、次回作をハリウッドで撮影することを決めます。
チャップリンがイギリス行きを計画したのは、新作「ライムライト」の世界観が、自分が育ったロンドンの貧しい町だったからです。
チャップリンは、何回もオーディションを行い、イギリスの舞台俳優クレア・ブルームをヒロインに抜擢します。
ハリウッドで全くの無名でした。

映画が完成すると、試写会の準備のためにロンドンに向かいます。
1952年9月、チャップリンは妻と4人の子供を連れ、アメリカを離れました。
しかし、出港から2日後、悪い知らせが・・・
司法省が再入国許可を取り消し、チャップリンがアメリカに戻った場合は拘束することを通達したのです。
この措置は、フーバーの調査報告に基づき、以前から決められていたことでした。

チャップリンは唖然としつつも立ち向かう決意をします。
40年近く暮らし、情熱や愛情を注いできた国から追放される・・・到底受け入れられないことでした。

ロンドンでチャップリンは大歓迎を受けます。
ライムライトは、試写会で絶賛されます。
チャップリンはイギリス王室の面々にも謁見しました。
その後、パリやローマでも熱烈な歓迎を受けます。
もう二度とアメリカへと戻らないと決心したチャップリンは、妻にアメリカにおいてきた財産を整理するように銘じました。
アメリカ国籍を持っていたウーナはアメリカに戻り、家やスタジオを処分し、スタッフに別れを告げ、銀行から預金を引き出し、書類を持ってチャップリンの元へ戻りました。

1953年、チャップリン一家は、スイスに移り住み、レマン湖を望む場所に居を構えます。
チャップリンは疲れ切っていました。
静かな場所で安心して映画を作り続けたかったのです。
一家は幸せに暮らしました。
そしてさらに、4人の子供に恵まれました。
妻のウーナは、アメリカの市民権を放棄します。
チャップリンは自分を追放した人々を許すつもりはありませんでした。

1954年に制作が始まった「ニューヨークの王様」では、チャップリンの息子マイケルがFBIに追われる夫婦の子供を演じました。
長年の敵フーバーとチャップリンの対立のパロディでした。
赤狩りがテーマで、自分を追放したアメリカを痛烈に批判しました。
フーバーは、チャップリンがアメリカを離れた後も、しつこく追い続けます。
本当はユダヤ人ではないかと、イギリスの情報機関に問い合わせたり、スイスの情報機関から交友関係や行動について報告を受けたりしていました。
しかし、ベトナム戦争が始まると、チャップリンの帰国待望の声が高まります。
1960年代に入ると、フーバーの勢いにも陰りが・・・執拗な反共攻撃や部下へのパワハラ、政治家への脅迫、マフィアとのつながりなど、次第に明らかになり、そのキャリアを泥の中に終えたのです。
チャップリンは、フーバーとの長きにわたる戦いを終えるがごとく、20年ぶりにアメリカに帰還・・・至る所で大歓迎を受け、ニューヨークではカギを贈呈されました。

アカデミー賞授賞式で、名誉賞を授与されたチャップリンは、12分間の熱烈な拍手喝さいを浴びます。
それは、彼を追放していた映画界からの心からの謝罪でした。
1か月後、フーバーは心臓発作でこの世を去ります。
彼は、戦後アメリカの暗い秘密を墓場まで持って行きました。
1975年、チャップリンはエリザベス女王からナイトの称号を受けます。
1977年のクリスマスの日、天国に旅立ちました。
庶民の味方で誇り高き自由人の放浪者と共に・・・。

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