日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ヨーゼフ・ゲッベルス

ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー・・・第2次世界大戦中、ユダヤ人虐殺など20世紀を血塗られた歴史にした人物です。
そのヒトラーの側近としてあらゆるメディアを牛耳ったのが、ヨーゼフ・ゲッベルスです。
嘘をばらまき、憎しみと暴力を煽って、人々を戦争へと動かしました。
彼が信じたのはヒトラーだけでした。
独裁者・ヒトラー・・・最大850万人もの党員を抱えたナチ党を率いる彼には、多くの側近たちがいました。
中でも異彩を放ったのが、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスです。

「プロパガンダには秘訣がある
 何より人々にプロパガンダと気付かれてはならない」byゲッベルス



プロパガンダとは、特定の主義・思想に導く宣伝戦略のことです。
これを駆使したゲッベルスは、地方の弱小政党に過ぎなっかったナチ党をドイツ有数の大政党に育て上げました。
ナチ党の名を広めるためには・・・わざと大乱闘を起こす
大統領選挙では、ヒトラーを飛行機に乗せ、ドイツ全土で演説させました。
これは、世界初の試みでした。
政権成立後は、ラジオ放送、映画・・・すべてのメディアをヒトラーのために利用しました。
そして・・・

「ユダヤ人による極端な知性主義の時代は終わった」byゲッベルス

煽られた国民は、ユダヤ人排斥の道へ突き進んでいきました。
しかし、第2次世界大戦の終盤・・・ナチス・ドイツは敗北をかさね、
側近たちはヒトラーのもとを去っていきました。
しかし・・・ゲッベルスだけは、ヒトラーのそばを離れませんでした。
ヒトラーのいない人生など考えられませんでした。

ゲッベルスは、1929年に出版した自伝的小説の中で、ヒトラーについてこう述べています。

「僕は新しいキリストを見た」

ゲッベルスは、どうしてヒトラーを救世主と崇めるようになったのでしょうか?
1897年、ドイツ西部、人口3万人の工業都市ライトで生まれました。
父親は、ガス燈を作る会社の支配人で、両親は敬虔なカトリック信者でした。
ゲッベルスは、6人兄弟の4番目、幼いころからコンプレックスを抱いていました。
学校での休み時間・・・楽しそうに遊ぶ同級生の輪の中に入っていくことはできませんでした。
その訳は・・・足の長さが異なるため、右側には整形用の靴を履き、足を引きずっていました。
4歳の時にかかった小児まひの後遺症でした。

「猛烈な痛み、長い処置、足は一生麻痺・・・」

同級生や周りの大人は、彼に同情したが、ゲッベルスはそれが嫌でした。
ゲッベルスは、友達を作らず、家に帰っても屋根裏に閉じこもっていました。
1914年、16歳の時・・・第1次世界大戦が勃発。
ゲッベルスの同級生たちは、先を争うように兵隊に志願!!
ゲッベルスも志願しましたが・・・兵役不適合とされました。

「みんなは旗の元へ、一緒に行けないのはつらい」
 


その後、ひたすら勉強に打ち込み、優秀な成績で高校を卒業。
その頃の夢は、ジャーナリストか小説家でした。
親元を離れ、大学では文学を専攻、文学の博士号を取得しました。
卒業後は、新聞に記事を投稿するなど、ライターとして身を立てようとしました。
しかし、記事は没ばかり・・・心血をかけ書いた小説も、全く評価されませんでした。 
その頃、ドイツは第1次世界大戦に敗北、戦勝国から課せられた巨額の賠償金のため、ドイツ経済は深刻な打撃を受けました。
苦しい暮らしを強いられた人々の不満は、敗戦でワイマール共和制となった政府に向けられました。
若者たちの多くは、反政府運動へ身を投じていきます。
そんなある日、ゲッベルスはある新聞記事を読みます。
ナチ党という小さな党が、政府の打倒を掲げてミュンヘンで武装蜂起したという・・・!!
指導者は、アドルフ・ヒトラー、34歳。
共和国政府を否定して、強いドイツの復活を訴えるヒトラーに惹かれたゲッベルス・・・。
武装蜂起は失敗に終わり、ヒトラーは逮捕されます。
しかし、ゲッベルスは、ヒトラーこそ新しいドイツのリーダーと確信し、手紙を送ります。

「あなたは奇跡を行い、我々の心にかかる雲を取り除かれた
 いつの日か、全てのドイツ人があなたに感謝するでしょう」

ゲッベルスは、ヒトラーをキリストの使いだと書いています。
武装蜂起で自らの命を懸けて、犯罪者扱いされても食い下がって、民族の覚醒を訴える大胆さ・・・
これは、他の政治家にはありませんでした。
1925年、27歳の時、ナチ党地方支部に加入、宣伝活動に従事しました。
そこで、文学で培った才能が開花します。
それが演説です。
演説の上手さを買われてか、ゲッベルスは入党してわずか1年の間に180回以上の演説を行っています。
ゲッベルスの活躍が、ヒトラーに伝わります。
2人は面会することに・・・
ゲッベルスは、その時のことを日記に綴っています。

「この人は、王となるにふさわしい
 生まれながらの指導者、未来の独裁者」

この時、ゲッベルス28歳でした。

わずか50人ほどから始まったナチ党・・・
結党14年で政権の座に就いたとき、党員は85万人になっていました。
その後も増え続け、第2次世界大戦が終わるころには、党員数は850万人に達していました。
ヒトラーはこう述べています。

「宣伝は組織に先行する
 そして、その宣伝のためには有意な人材を獲得せねば
 ゲッベルスこそ、私が待ち望んだ人間だ」byヒトラー

ゲッベルスは、どのようにしてナチ党を大きくしたのでしょうか??

1926年、ゲッベルスの姿は首都ベルリンにありました。
ヒトラーからベルリンのナチ党大管区長に任命されたのです。
ナチ党の地元はミュンヘン・・・遠く離れたベルリンでは知名度は低く、党員は400~500名。
ここでは、共産党が最大勢力でした。
ヒトラーは、首都ベルリンでの勢力拡大という大仕事をゲッベルスに託したのです。
そこで彼の取った手段は・・・乱闘騒ぎでした。
共産党の支持基盤である労働者地区で演説、共産党をののしり、挑発します。
すると、大乱闘となりました。
ゲッベルスはそこに突撃隊員を突入させ、乱闘騒ぎをさらに大きくしました。
多くの負傷者が出たため、こうした事件はナチ党の名前と共に新聞に大きく取り上げられました。

「ベルリンは、魚が水を必要とするように、センセーションを必要としている」

その結果、悪名にもかかわらず入党志願者が殺到・・・狙い通りでした。
しかし、あまりに流血騒ぎを起こしたことで、ナチ党は警察から集会・演説が禁止されます。
すると、ゲッベルスはすぐに次の手を打ちます。
新聞の発行です。
その名も「攻撃」。
ゲッベルスがこの新聞を作ったのは、ナチ党の首都進出を阻むベルリン市政府を攻撃し、徹底的にこき下ろすためです。
罵詈雑言を浴びせ、事実を捏造してもセンセーションを巻き起こす!!
ゲッベルスは、当局の介入は不当だと訴えます。
そして、読者の共感を得ていきます。
ゲッベルスがベルリンに来て2年後・・・1928年、国会議員選挙が行われ、国会の議席を初めて獲得します。
491議席中わずか12議席でしたが、ゲッベルスはこう語っています。

「我々は敵として乗り込むのだ
 羊の群れにオオカミが襲い掛かるように、敵として乗り込むのだ」

さらに、この後、ナチ党が大躍進する事件が起きます。

1929年、ニューヨーク・ウォール街での株の大暴落に端を発する世界恐慌・・・
第1次世界大戦の痛手から立ち直りかけていたドイツでも、次々と企業が倒産・・・。
数百万人もの失業者が街に溢れました。
そんな中、ナチ党が目をつけたのが、都会ではなく疲弊の激しい農村地帯でした。
農民が、民族の美徳と伝統の担い手・・・と訴え、貧しい農民たちの心をとらえていきました。
一方で、貧困は、ドイツ共産党にも追い風となりました。
共産党は、失業者の支持を得て急成長。
ナチ党にとっては、目の上のタンコブでした。
その為、都市部ではナチ党と共産党が衝突!!
そんな矢先・・・1930年1月、ナチ党員が、共産党員に撃たれ死亡する事件が起きました。
実はこの事件は、政治とは直接関係のない女性を巡るトラブルでした。
ところが、ゲッベルスは、共産党員によるナチ党員への銃撃事件と・・・巧みに利用しました。
プライベートな争いを、政党の争いのように掻き立てて、共産党への憎悪を煽ったのです。
彼の葬儀では、”旗を高く掲げよ”という曲をナチ党の党歌として歌うように命じました。

”赤色戦線に殺された同志は、魂となって我らとともに行進する”

この事件の宣伝効果もあって、ナチ党への支持はますます広がっていきました。
ゲッベルスは後に、プロパガンダの手法についてこう語っています。

「プロパガンダには秘訣がある
 何より人にプロパガンダと気付かれてはならない
 相手の知らぬ間に、たっぷり思想をしみ込ませるのだ」

1930年9月、再び行われた国会議員選挙・・・
ナチ党は、12議席から107議席へと大躍進!!
次の目標は、いよいよ政権獲得でした。

「正午、長時間ヒトラーと打ち合わせ
 彼は、大統領選挙に対する考えを述べ、出馬を決意した」



1932年の春・・・大統領選挙では、現職のヒンデンブルクとヒトラーの一騎打ちとなりました。
ゲッベルスはこの時、とっておきのアイデアを実行します。
それは・・・飛行機でした。
飛行機で、全国を遊説しながらドイツ上空をのヒトラーというスローガンを人々にアピール!!
さらに、膨大な量のビラまき、数百万枚のポスター、ヒトラーの演説の映画フィルムを全国の市町村で上映しました。
しかし、ヒトラーは選挙に敗れました。
ところが、翌年、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命します。
常識では考えられない行為でした。
ヒンデンブルク大統領は、ワイマール共和国(当時のドイツ)をあまり快く思っていませんでした。
特に、ワイマール共和国憲法が定めた共和国の政治秩序を。
ナチ党は危険だが、うまく利用すれば共和国の在り方を変えられると考えたのです。
ヒトラーに首相の座を与えるが、その脇を保守派が固めることで、ヒトラーを懐柔することができると考えたのです。
この時、ゲッベルス36歳。

1932年1月22日、ゲッベルスはヒトラーとこんなやり取りをしています。

「ヒトラーと遠い将来について話す
 特に将来、私が就く官職の任務、権限の範囲をかなりのところまで煮詰める
 考えているのは国民教育省というようなもので、映画・放送・芸術・文化・宣伝、それに新しい教育機関などを統括することになるだろう」

1933年3月、国民啓蒙・宣伝省という史上かつてない省庁が作られました。
ボスはもちろん、宣伝大臣のゲッベルスでした。

1933年5月10日夜、ナチ党を支持する学生たちが、ユダヤ人の書いた本を焼き払う焚書が行われました。
物理学者・アインシュタインや、精神病理学者・フロイトの本などが次々と燃やされました。

「ユダヤ人による極端な知性主義の時代は終わった」

彼の標的は、学者だけではありませんでした。
ドイツ国内の全てのユダヤ人を、国家の敵と見るように国民を煽ります。
ユダヤ人排斥です。
ゲッベルスも、ヒトラーも、初めから反ユダヤ主義者であったかどうか・・・そうではないと考えます。
世界でも、ユダヤ人を嫌う風潮が存在していました。
そこに働きかけることで、支持者を増やし、大衆運動をすすめる・・・と、反ユダヤ主義を添加していきました。
ゲッベルスが国民を扇動した方法は、非常に洗練され、巧みなプロパガンダでした。
プロパガンダの強力な武器となったのは、ラジオ放送でした。

「人々の憎悪や闘争は、ある特定の者によって育まれる
 やつらは民衆を対立に駆り立て、平和を求めない
 どこでも金儲けを始めるユダヤ人どもこそ、国際的な不穏分子だ」byヒトラー

定期的に放送を流し、それを集団で聴取させます。
内容を国民にしみこませました。
最も効果的な宣伝手段・・・それは映画でした。
映画の製作は、脚本や撮影内容など、ゲッベルスの許可なくして何一つできませんでした。
こうしたゲッベルスの仕事ぶりを讃えて、ヒトラーが賛辞を送ります。

「10年前、ゲッベルス博士は私からナチスの旗を受け取った
 その旗は、ゲッベルス博士によりドイツ国家の首都で掲げられ、今や国家を象徴する旗として翻っている
 ゲッベルス博士に最大の謝意を表する
 我らがゲッベルス博士に!!ハイル!!」byヒトラー 

1934年8月、ヒトラーは、首相と大統領の権力を一手に握り、自らを総統としました。
大衆を巻き込んだゲッベルスのプロパガンダ・・・憎悪を煽るだけでなく、人々の暮らしや家庭に入り込み、感情の奥に訴えかけるものもあります。
ゲッベルスは34歳の時、マグナという女性と結婚、6人の子供に恵まれます。
ゲッベルスは、自らの家族をドイツの理想的家庭として撮影させ、全土で公開しました。
ゲッベルスは実際に、出来るだけ時間を割いて、良きパパであることを心掛けました。
しかし、その裏では、個人的な欲望を追い求めます。
ゲッベルスは、しばしば撮影所を訪れます。
仕事というよりは、女優を物色するためです。
気に入った女性には、権力をちらつかせて次々と関係を迫っています。
その中で、ゲッベルスがぞっこんになった女優がいました。
チェコ出身のリダ・バーロヴァ・22歳です。
バーロヴァは、ゲッベルスについてこんな言葉を残しています。

「湖のそばの隠れ家で、彼は私を”愛している”と告白しました
 ”こんなに愛した女性は、これまでに一人もいなかった”と
 私たちは、完璧に恋に落ちました
 彼が家族を置き去りにするくらいに」



しかし、この恋は、呆気なく破局を迎えます。
ヒトラーの逆鱗に触れたのです。
ドイツの理想的家族の父親であるゲッベルスに、不倫などあってはならない!!
ヒトラーは、ゲッベルスを別荘に呼びつけ、バーロヴァと円を切るように厳しく迫りました。
しかし、ゲッベルスは、
「バーロヴァと別れるぐらいなら、宣伝大臣をやめ、バーロヴァと一緒になります」
この返答に、ヒトラーは激高!!

「国家に対する義務か、バーロヴァか、どちらを取るか、よく考えることだ」

その結果、ゲッベルスは・・・

「私は義務に屈しよう つらい 残酷な
 ただ義務に服した生活、青春は今終わった」

しかし、その矢先、ゲッベルスに失態を取り戻すチャンスが巡ってきました。
ユダヤ人青年によるドイツ大使館員射殺事件が起こります。
ゲッベルスは、ユダヤ人を敵視する演説を行いました。
これを引き金に、ナチ党の若者たちは、ドイツ中のユダヤ教会ユダヤ人商店を焼き討ちします。
この時の迫害は、ゲッベルスにとっては点数稼ぎにすぎなかったのかもしれません。
ナチス・ドイツは、こうして反ユダヤ政策を加速させていくのです。

1945年4月、ベルリンに向けてソ連軍の総攻撃が始まりました。
敗戦が濃厚となる中、ヒトラーの側近たちは、次々と彼の元を逃げ去っていきました。
しかし、ゲッベルスだけは、最期までヒトラーと生死を共にしました。

1935年、ヒトラーは、第1次世界大戦の敗北によって定められていたドイツの軍備制限を破棄すると宣言・・・ドイツ再軍備宣言!!
これをきっかけに、世界は再び戦争へと突き進みます。
ヨーロッパ諸国と対立し、孤立が深まる中、ヒトラーは日本との同盟を模索します。
日本は、ドイツと同じくソ連を仮想敵国としていました。
そこで、ゲッベルスは、国民への日本のイメージアップのため、あるプロパガンダを実行します。
日独合作映画「侍の娘」です。
これを、ドイツ国内で、大々的に公開しました。
日本人の恋人と日本を訪れたドイツ人の女性が、日本文化を体験するストーリーです。
この作品は、俳優・原節子の初主演映画でもありました。
ドイツでの封切には、ゲッベルスをはじめ、ナチ党幹部が出席するほどの力の入れようでした。

1939年9月、ナチスドイツはポーランドに侵攻。
さらに、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、そしてフランスを、1年足らずで占領します。
しかし、戦線を拡大しすぎたドイツ軍は、1943年スターリングラード攻防戦でソ連軍に敗北します。



そんな流れを断ち切ろうと、国民を鼓舞する演説会が大々的に開かれました。
この時、ヒトラーはあまり表に姿を見せなくなっていました。
戦局が悪化していたからと言われています。
壇上に立ったのは、ゲッベルス!!
ヒトラーの代わりに1万5000人の聴衆に訴えたのです。
彼にとって、一世一代の演説でした。

「諸君は総力戦を望むか?
 諸君に問う、勝利を勝ち取るため、総統に従っていく決意はあるか?
 苦難を共にし、最も重い負担に耐える覚悟はあるか?」

ゲッベルスは、渾身の演説でヒトラーの代役を完璧に演じました。
この演説は、ラジオでも全国に中継され、ソ連やアメリカとの戦いに総力戦が訴えられました。

「これより先、我々のスローガンはこうだ!
 ”人々よ、立ち上がれ、そして嵐を起こせ”」

しかし、ゲッベルスの演説の甲斐なく、ドイツ軍は次々と敗退していきました。
1945年4月、ソ連軍による首都ベルリンへの砲撃が始まりました。
ドイツの敗北は決定的となりました。
ヒトラーは、がらんとした総統官邸の地下壕で、最期の時を待っていました。
そばに付き従っていた高官は、もうゲッベルスしかいませんでした。
ヒトラーは、ゲッベルスにベルリンの防衛が敗れた場合は、ベルリンを去り、新内閣の首相になるように命じました。
そして・・・ヒトラーは、直前に結婚式を挙げたエヴァ・ブラウンと共に自ら命を絶ちました。
ヒトラーにドイツの将来を託されたゲッベルス・・・
しかし、

「私は生涯で初めて総統の命令に背かざるを得ない
 どんなことがあっても、総統の傍らで命を終える覚悟であることを断固として表明する
 総統のために奉仕することができなければ、私の命などもはや価値のないものだ」

ヒトラーの死の翌日、ゲッベルスは家族と共にヒトラーの後を追いました。
47年の生涯でした。

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「アメリカの移民として最近起きた事件について、市民の皆さんと世界中の友人に伝えたいことがあります」byアーノルド・シュワルツェネッガー

2021年1月、アーノルド・シュワルツェネッガーさんがアメリカで起きた連邦議事堂襲撃事件についてメッセージを発表し、世界から注目を集めました。

「私はオーストリアで育ちました
 ”水晶の夜”という事件を良く知っています
 1938年、ナチの過激グループによって多くのユダヤ人の街が襲撃された事件です
 水曜日は、ここアメリカにおける”水晶の夜”でした
 この国や世界中で、同じようなことが起こり得る恐怖があるのです」byアーノルド・シュワルツェネッガー

ヒトラーの大衆扇動術

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21世紀、民主主義の国アメリカが、どうして80年前の独裁政治のナチ・ドイツに重なるのか・・・??
あのような世の中は、いつ、どこでも現れ得るのだろうか・・・??

1930年代、ドイツ国民を独裁政治のもとに置いたアドルフ・ヒトラー・・・彼らはなぜ、笑顔で従ったのか??
今もヒトラーを慕う人々・・・その心の内とは・・・??
集団はなぜ簡単に従うのか??
ナチ社会がいきついたのは、弱者の安楽死でした。
庶民の笑顔が生み出した惨劇とは・・・??

総統アドルフ・ヒトラーのカリスマ的独裁・・・
メディアを活用した国民を欺くプロパガンダ。
批判するものは徹底的に取り締まる恐怖政治。
これまで、ヒトラー時代のドイツ国民は、狂気の集団・ナチ党に騙され、統制され、強引に熱狂に巻き込まれたと思われていました。
しかし、1990年代以降、新たな研究が進みました。

「まさに過ちのない神でした
 それが、我らの総統でした」

「1932年頃、ヒトラーをバカにしている子供たちに出会ったとき、私は”あれは許せない!”と怒って、その子たちとつかみ合いのケンカになりました
 私たち家族は、心の底からナチでした
 いつもヒトラーの写真を持ち歩いていたのです」

当時、ヒトラーを心から支持し、何十年たってもあの頃は良かったと語る人々・・・
一体、ヒトラーとナチのどこに惹かれたのでしょうか?

1920年代、ドイツ・・・ヒトラー登場以前のドイツは、新たな民主主義の時代・・・女性も選挙権を持ち、外に出て働く新しい女性がもてはやされました。
都市部での工業化が進み、産業が発展、当時の政治・・・ワイマール共和制では、議会主導のもと人権を尊重する自由な社会を目指していました。
ところが・・・この頃、ドイツの経済は二重の困難に見舞われていました。

1914年~1918年の第一次世界大戦に敗北し、領土の13%を失い、莫大な賠償金1320億金マルクを戦勝国に支払わされていました。
さらに、1929年の世界恐慌で、国民の暮らしはどん底に・・・失業者は550万人以上!!
そこに現れたのが、アドルフ・ヒトラー・・・過激な言動や演説で話題を集め、弱小政党だったナチ党・・・国民社会主義ドイツ労働者党を急速に成長させつつあるリーダーでした。

ヒトラーは、戦勝国に奪われたドイツ領土の奪還を国民に宣言!!
敗戦によってドイツがうけた恨みと屈辱を打ち破ろうと、いう呼びかけは、生活苦に苦しむ人々の心に火をつけました。

「ヒトラーこそ、敗戦からドイツを立ち直らせ、成功に導く救世主だ」

ヒトラーの呼びかけは、ドイツ人男性の心をくすぐるものでした。
当時のドイツ男性の多くは、戦争で戦って世界大戦で失ったものを取り戻したいと考えていました。
15世紀ドイツに”ランツクネヒト”という傭兵たちがいます。
彼等のように、最前線で泥にまみれて勇猛果敢に戦い抜くことに、魅力を感じていたのです。

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1940年、ナチ党女性向け機関誌の表紙は・・・工業労働者、農民と並ぶ兵士がいます。
男たちの団結によって、母親と赤ん坊が守られています。
当時、都市部の工業優先に不満を感じていた農民に、ヒトラーは目をつけます。
盛んに農村を訪れ、農村にも役割があり、国家は君を必要としていると、呼びかけました。
さらに、保守的な主婦層の声を拾い、社会進出する女性よりも、家庭で子供を産み育てる女性こそ大切だと語り掛けたのです。
新しい女性を興奮して受け入れた女性たちは案外少なく大多数は新しい現象を見て不安に陥っていたのです。
大多数の女性たちがよって立つところは、女性のいる場所は家庭であって、妻であり母である・・・この役割を認知してもらわなければならない・・・というのが、ナチ党を受け入れる太い下地になっていたのです。

民族共同体・・・男女の性の違い、労働の種類に関係なく、ドイツ民族の誰もが国家のために役立つ存在であり、皆で一致団結した公平な社会を目指そう!!と訴えたのです。
自分たちは、国家の必要とされている・・・!!
承認欲求をくすぐられ、喜びを感じた人々は、次々にナチ党を支持・・・
1928年にはわずか12/491席だったナチ党の国会での議席数は、1930年には107/577議席、1932年には230/608議席にまで急増・・・
1934年、ヒトラーは大統領と首相を兼ねた国家元首・総統を名乗り、前権力を握ったのです。

「必要不可欠なのは、ひとりの指導者の医師、ひとりが命じ、他の人々はそれを実行すればよい
 統治とは、上から始まり下で終わるものだ」byヒトラー

ナチ党のスローガン”そうとは命じ我々は従う”

統一された制服を身に着け、一糸乱れぬ更新をする八の隊員たち・・・
こうした集団行動も、人々が自らナチスに従う感情を掻き立てたといいます。


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「総統は命じ、我々は従う
 我々は彼に敬意を払い、愛したのです
 我らの総統として
 単純なことです」

近年の研究で合意独裁・・・ヒトラーが命じ、従うことに誇りと喜びを感じる国民の共同作業によって、独裁政治が実現したのです。

ヒトラーに、本当にカリスマ性があったのでしょうか??
カリスマとは、民衆が特定の人物に願いを投影したその結果です。
それによって、本当にカリスマに見えてしまうのです。

”勝利万歳!!”

”総統万歳!!”

1933年、政権を取ったヒトラーは、国民の更なる一致団結を目指し心をくすぐる政策を打ち出していきます。


ヒトラーの国民サービス ①歓喜力行団
旅行代理店のような政府機関で、旅行やスポーツ、コンサートなどの贅沢なレジャーを国民に格安で提供する組織です。
労働者の月給が1か月7万円ほどの時代に、絶景が大人気シュヴァルツヴァルトの旅1泊3食付きで1400円!!
後に世界遺産にもなる温泉地・エルツ山地への温泉旅行・8泊9日で1万2000円!!
安い!!かつて、お金持ちの特権だったレジャーを、労働者たちに開放。

”よく働いたらよく休む、国家のために力を蓄えてくれ”

という触れ込みでした。

ヒトラーの国民サービス ②国民車構想

一家に一台自動車を・・・!!エリート層限定だった自動車を、労働者層でも買えるようフォルクスワーゲン社が開発!!
数年後の納車を楽しみに、人々は積立金を支払いました。

ヒトラーの国民サービス ③アウトバーン

全国7000キロもの高速道路網アウトバーン計画・・・大型機械の使用を控え、出来るだけ手作業にすることで、年間60万人もの雇用を約束。
一時期550万人を越えていた失業者数は、ナチス時代に見る見るうちに下がり、1939年には12万人に!!

ところが、こうした魅力的な政策には、からくりがありました。
アウトバーンは、ヒトラー以前からアイデアがあり、計画が進んでいました。
ヒトラーの功績ではないのです。
国民車も、人々から積立金を集めるだけで、実際には納品されませんでした。
戦争に向けて、軍用車の製造で手いっぱいだったのです。
また、失業対策も、年間60万人の雇用を約束したアウトバーン建設では、実際の雇用者は10万人どまり。
それでも失業者が大きく減っ多様に見えるのは、若者を年間40万人も勤労ボランティアにつかせ、専業主婦にさせることで失業者のカウントから外したというのが実態でした。
さらに、1935年からは、戦争に向けての徴兵や軍需産業への動員で、失業者を減らしています。
ところがこれをヒトラーは、経済政策の政策だと宣伝・・・人々はこれを喜び、国家のために働く団結心を強めたのです。

しかし・・・表向きの一致団結には、裏側で生贄が必要でした。
それは、共同体の敵を作ること・・・!!

その標的が、ユダヤ人でした。
ユダヤ人は、古くからヨーロッパ各地で迫害を受け続けてきました。
苦境にあえぐドイツの中で、商業の成功で豊かな暮らしをするユダヤ人に妬みと憎しみが集まっていました。
ヒトラーたちは、ユダヤ人をドイツ人を食い物にし、ドイツが堕落した原因と決めつけ弾圧を開始。

1933年4月1日、ナチ党は国民にユダヤ人商店へのボイコットを呼びかけました。
ナチ党の武装組織・突撃隊が、ユダヤ人を象徴する六芒星や罵倒する言葉を落書き・・・買い物しようとする人を威圧しました。
この騒ぎに、ユダヤ人商店の前は、やじ馬で溢れかえりました。
当時の映像には、ボイコットという名の迫害現場を笑顔で見物する人々が記録されています。
映像に映っている人々の大半は、ナチの突撃隊ではなく、ただの見物人でした。
しかし、映像を見た人は、こう受け取ってしまいました。

「あの店ではもう買うべきではない」
「店のユダヤ人と自分たちは別である」

国民の中でバリアができてしまいました。
こうした直接暴力を振るうものと、見物するものとの関係が、予想だにしない恐ろしい効果を生みます。

ヒトラーの経済政策

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その後、ナチ党は、新たな法律によってユダヤ人への迫害を強めていきます。
弁護士や医師などの職業、商業の権利などをユダヤ人から奪い、ドイツ人のものとしました。

こうしたユダヤ人から合法で略奪した金品は、国の財源に充てる一方、格安で競売にかけることで、共同体を構成する国民に分配されたのです。
収容所送りとなったユダヤ人一家の家財道具を大勢のドイツ人が競り落としました。
彼等は、元の持ち主であるユダヤ人家族が、二度と戻ってこないとわかっているからこそ、安心して買えたのです。

共同体が団結すれば、皆が一緒に豊かになれる・・・
この幻想に喜ぶに人々は、その裏にある迫害を見て見ぬふりをすることで、さらにヒトラーの独裁を支えていきました。

街中で燃え上がる炎・・・まるでキャンプファイヤーを楽しむかのように笑うドイツの若者たち・・・
彼等が燃やしているのは書物の山・・・焚書です。
1933年5月10日、国内34の大学都市で学生団体が呼びかけます。
伝統的なドイツの価値観を守るためと称して、ユダヤ人の書物などを焼き払いました。

そして5年後・・・民衆の暴走が一銭を超える事件が起きます。
11月・・・ポグロム(虐殺)・・・水晶の夜
ドイツ全土のユダヤ人街を、ナチ突撃隊が襲撃、放火した事件です。
発端は、1938年11月7日、フランス・パリで、ドイツ大使館職員がユダヤ人青年に銃撃され死亡する事件が発生しました。
すると、ドイツの複数の地域で、ユダヤ教礼拝堂・シナゴーグへの放火など、報復行為が始まりました。
さらに事件の2日後、国民啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが奇妙な演説をしました。

「各地の反ユダヤデモで商店が破壊され、シナゴーグが焼かれている
 しかし、この行動は、あくまで自然発生的なので、抑える必要はない
 それが総統のご意向だ」byゲッベルス

報復を政府は止めない・・・
ところが、これが党幹部を通じて、全国のナチ党支部へ伝わるうちに、恐ろしい事態を引き起こします。

11月9日夜・・・ドイツ全土でナチ突撃隊によるユダヤ人街襲撃が始まりました。
一方、警察は、こうした暴力に対してみて見ぬふり・・・
だれも止める者がいない中、見物していた一般市民も暴走し始めます。
自分は手足となって、代弁者となって、権威者の願いや希望を遂行する・・・
野蛮な行動や暴力的な行為でも、責任を負わない・・・。
正しいことをやっている、いいことをやれる、模範市民として正当化する論理を持っていました。

襲撃は朝まで続きました。
放火されたシナゴーグ1400。
略奪、破壊されたユダヤ人商店7500軒。
負傷者多数、死者100人以上。

その後、事件の原因はユダヤ人側にあるとして、ユダヤ人3万人が逮捕。
頭を丸刈りにされ、収容所で強制労働をするか、財産を放棄して国外退去するか選択が迫られます。
上層部の無責任な扇動がもたらす民衆の無責任馬暴力の解放・・・
止めるもの無き共同体の暴走は、その後、急激に加速していきます。

首都ベルリンの中心地ティアガルテン通り4番地・・・
美術館やベルリンフィルハーモニーと並んで、ガラスの慰霊碑が立っています。
かつてここにあった司令部から障害者を安楽死させよという作戦・・・T4作戦です。
1939年9月1日、ポーランド侵攻・・・
これを機に第2次世界大戦がはじまりました。
この頃作られたナチ党のプロパガンダ映画「過去の犠牲者」・・・精神障害者の施設が映し出されています。

「健康な国民を健全にするための資金が、障害者を扶養するために使われている
 この施設の費用に、これまで7700万円かかった
 この資金があれば、数多くの健康な人が、家を買えたはずだ」

ヒトラーはこの障害者を5000人安楽死させることができれば、年間50億円の介護費が軽減できると計算しました。
莫大な戦争費用の足しにできると考えたのです。
1939年10月、T4作戦発動!!
医師たちは、全国の障害者施設や病院を調査して回り、労働力になりそうもない者を見つけると見つけるとこう呼びました。

「生きるに値しない命」

親に対しては、特別な治療が必要と嘘をつくとバスに乗せて安楽死施設へと連れ去りました。
彼等が連れてこられた施設内には、離れの建物がありました。
障害者たちはまずシャワーを浴びよと中に入ります。
そこは、ガス室でした。
全国6カ所の安楽死施設・・・その一つがあるハダマー・・・。
住民たちは、丘の上にある施設で何が行われているのかうすうす感付いていました。

「施設から煙がのぼっているのが見えて、何だろうと皆で噂しました
 戦場からの帰還兵が言いました
 死体が焼けるにおいと同じだと
 満席のバスが丘の上にのぼるのですが、帰りはいつも空っぽです
 施設はもう人でいっぱいのはずなのに、おかしいと思いました」

障害者の親の一部は、安楽死を歓迎しました。
わが子が障害者であることを恥と思う親もいたのです。
当時、精神的な疾患の場合、親や兄弟も障害者と疑われるからです。
しかし、T4作戦のうわさが広がると、次第に反発の声が上がります。
ドイツカトリック教会のフォン・ガーレン司教は強く非難しました。

「私たちは、他者から生産的であると認められた時だけ生きる権利がるというのでしょうか
 もし、非生産的な市民を殺してよいとするならば、病人、傷病兵、仕事でケガをした人、老いて弱った時の私たちすべてを殺すことが許されるのです」

宗教界からの反発に、国民がなびくことを恐れたヒトラーは、1941年8月、T4作戦の中止を命令します。
しかし・・・

「医療施設自身でどうにかする時が来たのだ」by安楽死施設医師

作戦の中止が伝えられたのちも、医師や看護師が自発的に安楽死を続けたのです。
この暴走に対して、ナチ政府が罰則を設けたり、富めたるすることはありませんでした。

「私は生涯一度も悪いことをしていません
 私は常に勤勉で、患者にも人気があり、上司の評価も良かったのです
 治療不可能な精神病患者が、国や国民、家族の負担になっているため、惠の死を与える法律が作られたせいなのです
 私は当時、そう信じていました」by安楽死施設の看護師

やがて安楽死の対象は、高齢の病人、空襲で傷を負った市民、さらには第1次世界大戦で負傷した退役軍人まで、戦争の役に立たないと殺害・・・その数は、20万人に拡大しました。

このT4作戦で使われた技術や使われた医師や看護師は、後にホロコースト・・・ユダヤ人大量虐殺の担い手となりました。

1945年4月30日、独裁者アドルフ・ヒトラー自殺・・・。
彼がドイツ国民に見させた夢・・・民族共同体は崩壊します。
ドイツは再び敗北・・・国民が喜んで従い、一致団結した独裁の結果、国民自身も含め数千万もの命が失われました。



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ヒトラー演説 熱狂の真実 (中公新書)

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1960年、南米アルゼンチン・・・
イスラエルの諜報機関モサドが、敗戦から15年後もなお逃走を続けるナチス幹部たちを追っていました。
大物幹部の隠れ家が見つかり、一人の男が拘束されました。
アドルフ・アイヒマン・・・リカルド・クレメントと偽名を使い、身をひそめていました。
アイヒマンは、ユダヤ人の強制収容所移送の中心人物でした。
ナチスの犠牲となったユダヤ人は、600万に及びます。
逃走中のアイヒマンが語っていた肉声が残されていました。

「ユダヤ人のその後の運命に関心はありませんでした
 彼等の生死など、関係なかったのです
 私たちが1030万の依田屋人をすべて殺すことができたら、満足してきっとこう言ったでしょう
 ”これで敵を根絶できた”」byアイヒマン

しかし、逮捕を指揮したモサドの長官は、狂気の実行者を見て驚きます。

「初めてアイヒマンと会ったとき、私は唖然とした
 いったいどうしてこんなごく普通に見える人間が怪物になったのか」by長官

世界を地獄に突き落とした800万の巨大政党・・・ナチス。
狂気の帝国を作り上げたのは、独裁者に命を捧げたエリートたちでした。

稀代の扇動家・・・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス
ドイツの全メディアを支配し、プロパガンダ国家を作りあげました。
国民をナチスの思想に染め上げ、狂気へと駆り立てました。

「私の身にもしものことがあった場合、私の後継者はゲーリングである」byヒトラー
ヒトラーに次ぐナチスNo,2に上り詰めた国家元帥ヘルマン・ゲーリング
ドイツ軍を率いてヨーロッパを蹂躙し独裁者の狂気を世界へと解き放ちました。

親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラー
純血主義に基づくエリート集団・親衛隊を指揮し、冷酷無比の計画によってホロコーストの狂気を実行しました。
「500から1000の死体の山を多くの者が目にしてきただろう
 だが、それは愛する国民のため、任務を果たしたに過ぎない」

ひとりひとりはごく普通の人間でした。
それがなぜ、狂気にとりつかれていったのでしょうか。

ヒトラーとナチ・ドイツ【電子書籍】[ 石田勇治 ]
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ドイツに巨額の賠償を課したベルサイユ条約によって、国民は貧困と飢えに苦しんでいました。
政治は混乱し、暴動やストライキが頻発・・・各地で極右組織が乱立し、社会は騒乱状態に陥りました。

「お金だけでなく、すべての価値観が崩れ去り、意味を失いました
 至る所に救世主を名乗る人が現れ、
 ”世を救うため神に遣わされた”と言いました」

一人の男が酒場の酔っ払いたちを相手に演説をうち、喝采を浴びました。
後のナチス総統アドルフ・ヒトラーです。
ナチス・・・国家社会主義ドイツ労働者党は、地方都市ミュンヘンを拠点とする50人ほどの弱小政党でした。
第1次大戦で、一兵卒だったヒトラーをはじめ、党員のほとんどが労働者や元軍人・・・
反ユダヤを表す鉤十字を掲げ、ナチス一党独裁によるドイツ復興を訴えました。
しかし、一般大衆の支持を得ることはありませんでした。

「初めの頃は、演説を聞きに集まる人々が時には7,8人しかいなかった
 人々が当時、我々を攻撃したとしても、それどころか嘲り笑ったとしても、我々は幸福にひたったに違いない
 何しろ我々が憂鬱だったのは、ただ完全に無視されることだったからだ」byヒトラー


ナチスの看板部隊・突撃隊・・・
ならず者の戦闘集団だった突撃隊・・・それをヒトラーに忠誠を尽くす軍事組織に鍛え上げたのは、ひとりの元軍人でした。
ヘルマン・ゲーリング・・・後のナチス国家元帥です。
ナチ党員には珍しい上流階級の出身でした。
ゲーリングは空軍のエースパイロットとして活躍し、敵18機を撃墜し、最高武勲章を受章・・・
戦場の英雄となりました。
しかし、敗戦ですべてが一変します。
ドイツ軍は、軍備を制限され、空軍は解体されました。
職を失ったゲーリングは、曲芸飛行士となるも長くは続きませんでした。
絶望の淵で、ゲーリングはヒトラーの演説を聞きました。

「ドイツは戦いに負けたのではない
 ユダヤ人と共産主義者の陰謀によって敗戦国となったのだ」byヒトラー

その言葉に、ゲーリングは魅了されました。

「その確信を持った言葉は、一言一句まるで私の魂からほとばしり出るかのようだった
 良い時も悪い時も、私はあなたに運命を委ねよう
 それがたとえ、私の命を懸けることになったとしても」byゲーリング

英雄の入党に、ヒトラーは大喜びしました。

「素晴らしい!!
 勲功章を授かった戦場の英雄とは!!
 想像したまえ
 これ以上ないほどの宣伝だ!!
 その上彼は、金持ちで、私は一文の金も払う必要がないのだ」byヒトラー

入党間もないゲーリングを、ヒトラーは突撃隊の隊長に就任させます。
統率の取れなかった隊員たちに、ゲーリングは将校の経験を活かして規律と団結心を叩き込みます。
英雄の入党は話題を呼び、隊員も急増・・・突撃隊はナチスの看板部隊となっていきました。

「ハッキリ言って荒っぽい怖そうなチンピラと思っていた隊員も、今ではすっかり変わって光の戦士となりました
 いつでも前身の用意のできている熱烈な十字軍戦士となっています」byナチ党員

ナチスは、ミュンヘンの強力な極右政党に成長・・・党員は5万5000人にまで成長していました。

1/16 ヘルマン・ゲーリング(WW I エースパイロット)【MA16034】 プラモデル ミニアート
1/16 ヘルマン・ゲーリング(WW I エースパイロット)【MA16034】 プラモデル ミニアート

1923年11月・・・ミュンヘン一揆・・・
ナチスは政権を奪おうと武装蜂起を決行しました。
政治要人がそろう集会を襲撃し、突撃隊の機関銃で会場を威嚇、ヒトラーは要人たちを人質にし、呼びかけます。

「今ミュンヘンで、国民革命が始まった
 市全域は直ちに我が舞台によって占領される」

しかし、計画は素人同然でした。
人質に逃亡を許し、警察が出動・・・突撃隊は、なすすべもなくとらえられ、武装蜂起は一晩で鎮圧されました。
ヒトラーは逮捕・・・ゲーリングは国外に逃亡しました。
ナチスは活動を禁じられ、逮捕者の多くは刑務所に収監されました。
自殺まで思いつめたヒトラーを、供に収容されていた共に収容されていた一人のナチ党員が支えます。
ルドルフ・ヘス・・・後の総統代理です。

ヒトラーの秘書として常に付き従っていたヘスは、大学で地政学を学んだ秀才でした。
中等教育しか受けていないヒトラーにとって、ヘスの豊富な知識は発見に満ちていました。
ヘスは、ドイツ地政学の権威ハウスホーファー教授を獄中でヒトラーに引き合わせます。
教授は、ドイツが再び強国となるためには、東への領土拡大が不可欠だと考えていました。
新たな着想を得たヒトラーは、ヘスと二人三脚で、みずからの政治思想を書き上げます。

「わが闘争」です。

”ドイツが領土を拡張するといえば、それはロシアを犠牲とする他に道がない
 ロシアを分割して、ドイツは大きくなるのだ”

これがナチスの根幹思想の一つ・・・東方生存圏の拡大となります。
ヒトラーは、その実現に向け、武装闘争をやめ、選挙活動に専念すると、ヘスに告げました。

「我々は国会に首を突っ込もう
 確かに、選挙で勝つのは時間がかかる
 だが、最終的には奴らの憲法が我々に勝利の道を保証するのだ」byヒトラー

再起を目指そうとするヒトラーを見て、ヘスはこう綴っています。

「私は前よりもっと総統に傾倒している
 私は彼を愛している」byへス

1924年、1年足らずでヒトラーは釈放・・・
しかし、政府はナチスを危険集団と見なし、ヒトラーの演説を禁止しました。

選挙活動の道を閉ざされたヒトラーのもとに、ひとりの青年から手紙が届きました。
送り主は、ヨーゼフ・ゲッペルス・・・後の宣伝大臣です。

「あなたは奇跡をおこない、我々の心にかかる雲を取り除かれた
 いつの日か全てのドイツ人があなたに感謝するでしょう」byゲッベルス

ゲッベルスは、ハイデルベルク大学哲学科で、博士号を取り、駆け出しの文筆家として活動していました。
新聞で、ミュンヘンでのクーデターを知って、ヒトラーこそがドイツの指導者だと確信したのです。
ゲッベルスは、活動を禁じられたヒトラーに変わり、最初の一年で189回もの演説をこなしました。
ゲッベルスには、聴衆を陶酔させる演説の才が備わっていました。

「我々は、国民にパンを、国家には栄誉を取り戻すことを決意している」byゲッベルス

ヒトラーは、ゲッベルスの才能に惚れ込みました。

「ゲッベルスこそ私は長い間待ち望んでいた人間だ
 この難しい仕事にうってつけの男だ」byヒトラー

1926年、ゲッベルスはナチス・ベルリン地区の指導者の就任。
ミュンヘンの地方政党に過ぎないナチスにとって、首都ベルリンの攻略は最重要課題でした。
首都では無名のナチスの知名度を上げるために、ゲッベルスはあらゆる手法を繰り出しました。
敢えて対立政党の地盤で、過激な演説を打ち、反発を先導します。
会場の緊張が高まったところに突撃隊を突入させ、大乱闘を繰り広げました。

ゲッベルスの起こした乱闘騒ぎは、翌日の新聞各紙の一面を飾りました。
ナチスの事務所には、2600通の入党志願が届きました。
批判を煽ることで、注目を集める・・・炎上商法です。

1928年、ナチスは国政選挙で12議席を獲得・・・
国会進出の一歩を勝ち取りました。
ヒトラーは、オーストリア出身で、ドイツ国籍がなく、議員にはなれませんでした。
その為、国会での活動は亡命先から帰国したゲーリング、ゲッベルスに託されました。
しかし、ナチスにとって、国会進出は野望実現の通過点にすぎませんでした。

「我々は、議会の友人ではない
 中立の立場でもない
 我々は敵としてやってきた
 狼が羊の群れに襲い掛かるようにここに来たのだ」

1929年8月ニュルンベルクで行われたナチス党大会・・・
ナチス党員は、13万・・・ミュンヘンでの武装蜂起から6年で2場以上に膨れ上がっていました。
しかし、大方の国民は、ナチスの躍進を一過性のブームとしか考えていませんでした。
当時の三大新聞の一つ、ベルリン日刊新聞は、ナチスについてこう断じました。

「行きどころのないアウトロー気分
 迷える子羊たちの若気の至り
 自分とは別の人種をねたむ劣等感
 雲をつかむような政治主張
 むき出しの暴力本能
 理想主義を装う自己陶酔
 そうしたものをごたまぜにして抱え込んだ団体である」
 
しかし、この年の10月、ナチスにとって天祐ともいえることがいきます。

1929年10月、アメリカ・ウォール街で株価が大暴落・・・世界恐慌へと広がります。
ドイツ政府は、有効な政策をうてず、失業者は300万人に上りました。
国民の間に、政府への失望が広がっていました。

「何千もの工場が閉鎖された
 政府の対策は国民には冷たく、まじめな労働者は食べ物が欲しければ盗みでもするほかない
 だからナチスに入党したのだ」

失業者の不満の受け皿となったのが、強いドイツの復活を国民に約束するナチスでした。

「私はドイツ国民に証明する
 国が生き残るのに必要なのは”正義”でありその”正義”に必要なのは”力”でありその”力”の源は国民ひとりひとりの強さなのだと!!」byヒトラー

この時期、失業者の指示を集め、急成長を遂げる党がもう一つありました。
ドイツ共産党です。
労働者による革命を訴える共産党は、ナチスとしばしば激しい衝突をしました。
共産党の準軍事組織・赤色戦線は、街頭に繰り出し、ナチスを攻撃しました。

1930年1月、事件が起きます。
ナチス突撃隊中隊長ホルスト・ヴェッセルが、共産党員に銃撃されたのです。
政治とは無関係な女性をめぐるいざこざでしたが、ゲッベルスは事件をナチスのプロパガンダに利用しました。
ホルスト・ヴェッセルは、共産党との闘争の殉教者とされ、ナチスのキリストと祭り上げられます。
ゲッベルスは、いささかの迷いもなく、プロパガンダを実行していきます。

「”あなたはただのプロパガンディストだ”といわれれば、答えはこうだ
 ”キリストは他の何だというのだ 宣伝しなかったか
 本を書き、説教したではないか
 ムハンマドは、何か違っていたのか?
 ブッダは宣伝課ではなかったか?”」

ナチスと共産党との闘争は、血で血を洗うものとなっていきます。

「突撃隊院の一人が、赤色戦線の一味に襲われた
 白昼、人通りの中でカミソリで喉を切り付けられたのだ
 その突撃隊院は即死した

 翌日、爆弾がさく裂し、ピストルがなった
 共産党の指導者2人が、路上で射殺された
 これが、赤のやつらに道理を教える唯一の手段だ」byゲッベルス

共産党との抗争は、この上ない選挙戦伝となりました。
共産主義を嫌悪、恐怖する人からの支持を集めたのです。

弱小政党だったナチスは、107議席を獲得し、最大野党に躍進!!

「私たちは、粘り強い闘争の末に、労働者を赤いベルリンから奪い取ったのだ
 労働者を獲得する者は、国民を獲得する
 国民を獲得する者は国家を獲得する!!」byゲッベルス

新時代の政党として、ナチスは一躍メディアの注目を集めます。

ナチスの次の目標は、政権の獲得でした。
国会で政府を攻撃するゲーリングの肉声が残されています。

「戦闘にことごとく負ける司令官は、戦場を去るべきです
 軍隊は、ひとりの司令官のために血を流すべきではなく、国民もまた、事態を収束させる能力のない政府のために破滅させられるべきではありません」byゲーリング

戦場の英雄・ゲーリングは、その知名度を生かし、大統領ヒンデンブルクに接近します。
しかし、陸軍元帥でもあるヒンデンブルクは、一兵卒上がりのヒトラーを軽蔑していました。

「あの男を私の下で首相にしろというのか?
 やつには郵便局長あたりがうってつけだ
 私の肖像が描かれた切手でもなめるがよい」byヒンデンブルク

ゲーリングは、大統領の息子を賄賂で口説き落とし、会談のチャンスを使います。
1931年、ヒトラーとヒンデンブルクの会見が実現・・・色物政治家とみられていたヒトラーに、権威が添えられました。
ナチスに対する国民の支持が高まると、財界との関係も深まっていきます。
ゲーリングは、共産主義の台頭を危惧する資本家や、銀行家の協力を取り付けます。
ナチスは、次々とパトロンを獲得し、多額の選挙資金を手に入れます。

「ナチズムより、共産主義の方がはるかに危険だ
 民間企業軽視など、極左の方が人の道から外れている」by元国立銀行総裁

ナチスは、これまでの過激な主張を隠し、資本家には共産主義者からの保護を、労働者や農民には悪徳資本家からの解放を約束しました。

1932年7月・・・ナチスは230議席を獲得し、遂に議会第一党となりました。
1933年1月、ヒトラー首相就任・・・1年前にドイツに帰化したばかりでした。

「この運動を成し遂げるため、7人の党員から1200万人の支持を得る政党へ成長させたように、これからも我々は躍進するつもりだ!!」byヒトラー

「1933年1月30日は、ドイツがかつての栄光を取り戻した日として、その歴史に深く刻まれるであろう」byゲーリング

「夢か幻か、今、私はヒトラーと共に首相官邸の執務室にいる」byへス

「いったん我々が権力をとったら、決して手放しはしない
 我々が死体となって官邸から運び出されない限りは・・・!!」byゲッベルス

政権を獲得すると、隠していた狂気はすぐにあらわになりました。
最初に動いたのはゲーリングでした。
ベルリンがあるプロイセン州の内務省を掌握!!
警察組織から反対勢力を一掃し、ナチ党員で固めました。
さらに、補助警察として、突撃隊を採用し、戒護権限と武器を与えます。
ゲーリングは、ナチスの意のまま動かすことのできる警察権力を作り上げました。

「内務省のTOPに立つことを引き受けた時、私はいかに困難な任務を背負ったかを自覚した
 今後、権力の中に紛れ込んだ政治的異分子どもを、鉄の放棄で一掃するつもりである」byゲーリング

政権獲得の翌月、ナチスに再び天祐とも思われる事件が起こりました。
1933年2月27日、国会議事堂放火事件
国会議事堂が放火され、全焼したのです。
現場にいたオランダ人の共産党員が逮捕されました。
証拠がないにもかかわらず、ゲーリングは共産党の組織のテロと断定し、大統領緊急令が発令されました。
共産党員を中心に2か月で2万5000人以上が拘束、首都ベルリンは混乱に陥りました。
翌月、オペラハウスで、臨時に開かれた議会は、ナチスの突撃隊に取り囲まれます。
ヒトラーは、混乱に乗じて自らへの権力集中を国家に要求・・・
暴力と恐怖を後ろ盾として、全権委任法が成立しました。
ナチス以外の政党活動家禁止され、合法的に一党独裁が確立しました。

「祖国ドイツは、危機に瀕している
 だからこそ、我々は国家社会主義を6500万の国民に広げようとしているのだ
 全国民が、国家社会主義者に!!
 最高だ、素晴らしい目標だ」byナチ党員

「ドイツ万歳!!」

ナチスが設立した世界国家機関・初の宣伝省・・・
ヒトラーは、国民をナチスの思想に染め上げる重要なポストにゲッベルスを指名しました。

「我々には優れた政府が必要だ
 そして優れた政府には、優れたプロパガンダが必
 両者は、不可分の関係にある
 プロパガンダを行わない政府は非常に弱く、政府無しにプロパガンダをするのと同じくらい意味がない
 両社は互いに補い合っているのだ」byゲッベルス

ゲッベルスのプロパガンダは、ドイツ社会を劇的に変えました。
新聞、出版、映画・・・すべてのメディアを管理下に置き、当時最新のラジオも活用しました。

「人々の憎悪や闘争は、ある特定の者によって育まれる
 奴らは民衆を対立的に駆り立て、平和を求めない
 どこでも金儲けを始めるユダヤ人どもこそ、国際的な不穏分子だ」by工場でのラジオ公開放送でのヒトラー

ゲッベルスは、決められた時間にラジオ放送を集団で聴取させる国民運動を展開しました。
国民は、ナチスの思想を否応なく刷り込まれました。
ナチスには、入党希望者が殺到・・・新規の入党が宣言されるほどでした。
哲学者・・・マルティン・ハイデガー
指揮者・・・ヘルベルト・フォン・カラヤン
ファッションデザイナー・・・ヒューゴ・ボス
も、ナチスに入党しました。

「プロパガンダには秘訣がある
 何より人々にプロパガンダと気付かれてはならない
 同様に、プロパガンダの意図も巧妙に隠しておく必要がある
 相手の知らぬ間にたっぷりの思想をしみ込ませるのだ」byゲッベルス

「ゲッベルスが、最初におこなった大規模なプロパガンダは、ユダヤ人商店のボイコットた
 ユダヤ人商店ボイコット運動は、午前10時に始まり瞬く間に街に広がった
 規律ある行動のため、大きな混乱はない」

ナチス政権の誕生後、世界各国にいるユダヤ人が、反ナチス運動を展開していました。
世論をかわすために、普通ならボイコット運動を弱めるところですが、しかし、ゲッベルスはさらにユダヤ人への迫害を強化したのです。

贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争 [ 吉田 喜重 ]
贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争 [ 吉田 喜重 ]

ドイツからのニュースを知った各国のユダヤ人は、ナチスを刺激することを恐れ、反ナチキャンペーンは収束に向かいました。

「ボイコットの効果をはっきりと認めることができる
 諸外国は、徐々に理性をとり戻しつつある
 世界もユダヤ人にドイツのことを話させておくのはためにならないと悟るだろう」byゲッベルス

ヒトラーは、ゲッベルスの長年の貢献を讃え、最大の賛辞を送ります。

「10年前、貴君は私からナチスの旗を受け取った
 その旗は、貴君の手によりドイツ国家の首都で掲げられ、今や国家を象徴するはたとして翻っている
 ゲッベルス博士に最大の謝意を表する
 我らがゲッベルス博士に!」byヒトラー

プロパガンダで拡大を続けるナチス・・・しかし、党内ではあらたな火種が生まれていました。
突撃隊の巨大化です。
党の創成期を支えた突撃隊は、政権発足後300万の隊員を抱える巨大軍事組織へと変貌していました。
ドイツ国防軍の5倍の兵力を誇り、もはや、一政党の軍事組織とはいえなくなっていました。
その頂点に君臨したのは、機関銃の王の異名を持つ突撃隊幕僚長のエルンスト・レームでした。
ミュンヘン時代からの最古参であるレームは、ヒトラーをお前と呼ぶことのできる数少ない盟友でした。

「突撃隊の諸君、ハイル!!
 はっきり述べよう
 突撃隊の諸君、ひとりひとりの功績があるからこそ、新生ドイツは今日、世界と対峙しうるのである!」byレーム

レームは、ドイツ国防軍を解体し、突撃隊に統合するようにヒトラーに迫りました。
しかし、ヒトラーは拒絶・・・
レームが軍部まで掌握すれば、自分の地位を脅かす恐れがある・・・
権力という魔物が、2人の長年の友情をあっけなく壊しました。

「アドルフは豚だ
 やつはすべてを台無しにするだろう
 古い帝国軍の二番煎じでは駄目だ
 300万の男が私にいることを忘れてはならない
 やつが同意しないなら、武力を行使しなければならない」byレーム
 
ナチスは、ヒトラー派とレーム派に分かれ、政権崩壊のうわさが広まります。
ヒトラーは、盟友の粛正を決断しました。

1945年、イギリスが制作した「アドルフ・ヒトラーの肖像」という再現映画では・・・
突撃隊幹部100人以上が、裁判もなく次々と殺害されました。
”逃亡しようとしたため射殺”・・・それが公式な声明でした。
レームは最後まで自殺を拒否し、射殺されました。

突撃隊の粛正・・・その冷酷な任務を遂行したのは、ヒトラーの護衛組織・親衛隊でした。
後に、ユダヤ人大虐殺を実行するナチスのエリート部隊です。
親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーは、この事件を機にまだ小さかった親衛隊を突撃隊に変る看板部隊にすることに成功します。

「我々は何のためらいもなく、命じられた任務を遂行した
 過ちを犯した同志たちを、窓際に立たせ射殺したのだ
 我々はこの件について、二度と口にすることはない
 しかし、命令が下されれば、再び同じ行動をとるだろう」byヒムラー

ヒムラーは、教師の家庭に育ち、虫一匹殺さない少年でした。
しかし、大学在学中に政治活動に参加し、反ユダヤ主義に傾倒・・・
親衛隊に入隊して頭角を現し、その指揮官に任命され、ヒムラーは親衛隊を、ナチスの純血主義を体現するエリート部隊へと育て上げました。
隊員の条件は、身長170センチ以上、ナチスの定義する純粋なドイツ人であること・・・
隊員には、人種調査が行われ、1800年にまで遡った家系図の提出が義務付けられました。

強靭な肉体と、高い身体能力・・・
ヒムラーが理想とする究極のドイツ人像が求められました。
さらに、優秀な子供を残すため、親衛隊員の結婚相手は、ナチス設立の花嫁学校に入れられ、専門の教育を受けました。
花嫁となる条件は、ナチスの思想を信じ、若く、健康的で、ユダヤ人でないこと。
ナチスが理想とするよき母親像を叩き込まれ、子供を4人以上生むことが奨励されました。

大学で農学を学んだヒムラーは、親衛隊の純血主義についてこう述べています。

「品種改良をやる栽培家と同じだ
 かつては立派だった品種も、雑草と混じると質が落ちる
 それをもとに戻して繁殖させるわけだが、我々はまず、植物選別の原則に立ち、使えないと思う者・・・つまり、雑草を除去するのだ」byヒムラー 

そして、ナチスの狂気は新たな段階へと進みます。
ヒムラーが最初に作ったダッハウ強制収容所・・・親衛隊によって、ドイツ各地に収容所が立てられました。
警察権力を掌握したヒムラーは、盗聴などで不穏分子の洗い出しを行います。
政治犯、同性愛者、少数民族、異教徒など、ナチス社会に適さないと判断された人々が、強制収容所に送られました。

「初めて”強制収容所”という言葉を耳にした時、人々はこう言いました。
 そんな施設に収容されるのは、政府に逆らった人や殴り合いのけんかをした人だろうと
 きっとすぐに刑務所に送るわけにはいかないから、まずは収容所で強制するのだろうと
 誰もそれについては深く考えませんでした」byドイツ市民

ドイツ国内を覆ったナチスの狂気は解き放たれ、国境を越えていきます。

1935年、ドイツ再軍備宣言
ナチスはベルサイユ条約で禁じられていた再軍備を宣言します。
解体されたドイツ空軍も再建され、ゲーリングは悲願の空軍総司令官に就任しました。
1935年4月・・・空軍の初仕事は戦場ではなく、ゲーリングの結婚式でした。
ベルリンの教会で、舞台女優エミー・ゾンネマンと結婚。
ヒトラーが立会人となり、祝福に市民が殺到しました。

「ベルリンを訪れた者は、王政が復古し、ついうっかり王家の結婚式の場に居合わせたのではないかと思ったに違いない
 3万人に及ぶ軍人まがいの隊列が街に並び、空には200機の軍用機が旋回していた」byイギリス大使

1936年3月・・・ラインラント進駐
再軍備宣言の翌年、ヒトラーはドイツ・ラインラント地方へ軍を進駐させ、フランスとの国境にあるベルサイユ条約で定められた非武装地帯でした。
国民は、強いドイツの復活に熱狂します。
ラインラント進駐の是非を問う国民投票では、98.8%の国民が支持しました。

ドイツ国内での地位を盤石のものとしたヒトラー・・・
今度は、国外に向け、領土拡大の野望をむき出しにしていきます。

「ドイツに隣接した国々に、1千万以上のドイツ人がおり、彼等はベルサイユ条約によってドイツと統合することを阻止されてしまった
 之は、実に苦痛極まりない」byヒトラー

ヒトラーは、オーストリア、チェコスロバキアのズデーテン地方と、ドイツ民族が住む場所を併合していきます。

1939年夏・・・1本のニュース映像が放映され、ドイツ国民は怒りに震えました。
ヒムラーが親衛隊を使って自作自演の被害を捏造・・・それを、ゲッペルスがニュース映像に仕立てたのです。
巧妙なプロパガンダによって、ドイツ国民の間に戦争への急務がみなぎっていました。

「本日、ポーランドが初めて我が領土に対し、正規軍による砲撃を開始した
 我が国は爆弾には爆弾で報いる」by開戦を告げるヒトラーのラジオ音声

1939年、ナチスドイツはポーランドに侵攻・・・
ポーランドと同盟関係にあったイギリスとフランスが、ドイツに宣戦布告!!
第2次世界大戦がはじまりました。
ゲーリング率いる1900機の空軍が、ワルシャワをはじめとする都市を無差別爆撃!!
わずか1か月でポーランドを降伏させます。
世界は、ドイツの圧倒的な軍事力を見せつけられます。
ヨーロッパのほぼ全土が、瞬く間にドイツ軍に蹂躙されていきます。

1940年7月、戦争に貢献した軍に指導者たちを叙勲する式典が厳かに行われました。
最大の貢献者と認められたゲーリングは、ドイツでただ一人の国家元帥となりました。
それは、名実ともにヒトラーの後継者となった事を意味していました。
しかし、ゲーリングの栄光は長くは続きませんでした。

「総統と共にあり 
 総統に従ってこそ力を持ち、国家の権力を手にしている
 総統の意思に反したり、総統に必要とされないというだけで、その瞬間に権力を失う・・・
 総統の言葉一つで、誰であろうと失脚する」byゲーリング

1940年夏・・・ゲーリングは、唯一抵抗を続けるイギリスの制圧にのりだしました。
しかし、最新鋭のレーダーの前に、ドイツ空軍は苦戦を強いられます。
ゲーリングは、3か月でイギリス軍の倍に当たる1700機を失いました。
ナチスドイツ・・・初めての敗北でした。
ゲーリングは、これ以降、軍事会議に姿を見せなくなります。
会議の場で、ヒトラーは部下にこう言いました。

「あの鉄人は何処にいるのか
 きっとイギリスの飛行機の代わりに、可哀想な鹿でも撃っているのだろう」byヒトラー

ゲーリングの権威は失墜しました。

「長い間彼は、ドイツ空軍の失敗のすべての責任を負わされてきた
 戦況会議で、ヒトラーは集まっている将校たちを前に、ゲーリングを激しい侮辱的な言葉で非難するのが常だった
 控室で待っているとき、私はヒトラーが彼を怒鳴りつけているのを聞くこともしばしばだった」byナチス幹部

ヒトラーは、イギリスへ自ら講和を呼びかけました。

「私は今一度、イギリスの理性と常識に訴えるべきだと感じている
 それは、私が施しを乞う敗者ではなく、勝者であるからだ
 戦争を続ける理由は見当たらない」byヒトラー

しかし、その呼びかけは、イギリスに一蹴されます。

「国家報道長官がやってきて報告しました
 ”総統閣下、イギリスは拒絶しました”
 そこで総統は、絶望的にこう言いました
 ”神よ、ではほかにどうすればよいのか?
  自らイギリスに飛んで行って、イギリス人の前でひざまづくことなどできん!!”」by警備兵

窮地に陥ったヒトラーを支えようとしたのは、またしてもルドルフ・ヘスでした。
ランツベルク刑務所で、ヒトラーと共にわが闘争を執筆・・・
政権獲得後は、長年の忠誠が報われ総統代理という高い地位を与えられました。

「私の身にもしものことがあった場合、後継者はゲーリング、ゲーリングに何かあれば、その次の人物はヘスである」byヒトラー

ヘスは、ゲーリングに次ぐNo,3の地位にありながら、権力闘争の蚊帳の外にいました。
野心も才能も持っていなかったからです。
ヒトラーを支えることだけが、人生の目的でした。
ヒトラーの苦しむ姿を目の当たりにし、ヘスは一世一代の賭けに出ます。

1941年5月10日、行先を誰にも告げず、ひとり軍用機で飛び立ちます。
行先はイギリス・・・無謀にもひとりで和平交渉をしようとしたのです。
1年前から準備を進め、密かに飛行訓練を重ねていました。
飛び立った翌日、1通の手紙がヒトラーのもとに届きました。

”総統閣下、必死の思いで決断しました
 国益のため、イギリスと和平を結ばねばならないと、難しい計画です
 成功への望みはわずかですが、もし失敗しても、閣下と国には害は及びません
 責任を否定なさってヘスは異常者と発表してください”

ヒトラーは激怒しました。
ヘスひとりで和平を結ぶなど到底不可能・・・最高幹部の暴走は、政権の失墜を招く・・・

「あのヘスが、どうして私にこんな仕打ちをするのだ・・・
 海に墜落してくれればいいのだが」byヒトラー

宣伝大臣ゲッペルスは、ヘスがイギリス軍につかまる前に、声明を発表しなければなりませんでした。
しかし、事件の詳細を知り、どんな嘘も思いつかないと匙を投げました。

「世界に対する何たる醜態・・・!!
 これは、世界一のプロパガンディストにさえ勝ち目のない状況だ」byゲッペルス

ヒトラーが、ラジオの原稿を考えました。

「5月10日土曜の18時ごろ、党員ヘスは一人で飛び立ち、本日に至るまで戻ってきていない
 残された手紙の支離滅裂な内容から見て、遺憾ながら彼は精神的に錯乱をきたしている」byヒトラー

一方、ヘスは、イギリスの防空網を奇跡的にかいくぐり、パラシュートで敵地に降り立ちました。

ナチス総統代理の突然の到来に、イギリスは騒然となりました。
しかし、首相チャーチルは、ヘスに会おうとさえしませんでした。

「ヒトラーの代理人がイギリスにいるだと?
 君は大まじめにそう言っているのか?
 よろしい 
 ヘスであろうとなかろうと、私はマルクス兄弟の映画を観に行く」byチャーチル

ヘスは、イギリス軍に収監されました。
生涯刑務所で過ごし、93歳で自ら命を絶ちました。

1941年6月、イギリスとの停戦がなされないまま、ヒトラーはソビエトへの侵攻を開始します。
わが闘争に書いた東方生存圏の拡大を遂に実行に移したのです。

東方生存圏の拡大を実現するため、ヒムラーは親衛隊の中に新たな部隊を作りました。
ドイツ軍と同様重火器を装備した武装親衛隊です。
武装親衛隊は通常の軍隊ではなく、精神的、政治的な訓練を受けたエリート部隊です。

武装親衛隊は、ドイツが占領した地域から募集され、隊員は最大90万にまで膨れ上がりました。
その任務は戦闘だけでなく、ドイツ人の入植地を作るためにソビエトからユダヤ人を排除することでした。
ドイツ軍が街を占領すると、親衛隊がやってきて、ユダヤ人の追放と銃殺を担いました。
ソビエトとの開戦から数か月で、50万のユダヤ人が命を落としました。
銃殺を免れたユダヤ人も、ユダヤ人居住区ゲットーに押し込められました。
塀と鉄条網でおおわれたゲットーは、人口過密で食糧事情は逼迫・・・
不衛生な環境下で、ユダヤ人は飢えと病に苦しみ、命を落としました。

ヒムラーが、親衛隊幹部に発した肉声が残っています。

「500から1000の死体の山を多くの者が目にしてきただろう
 だがそれは、愛する国民のため、任務を果たしたに過ぎない
 この重大な任務を耐え抜き、やり遂げたことにより、我々は強くなった
 これは史上初の類まれなる偉業である」byヒムラー

ヒムラーが作った、ゲットーのプロパガンダ映画が残されています。
”総統閣下ユダヤ人に街を贈る”
チェコスロバキアに作られたゲットー・・・テレージェンシュタットで撮影された映像です。
ヒムラーは、この町をユダヤ人の楽園と、国内外に宣伝しようとしました。
ユダヤ人迫害を危惧する国際赤十字職員も、視察に招かれました。
急ごしらえの庭園が造られ、粗末な宿舎は改装・・・ゲットーのユダヤ人たちは楽園の住人を演じさせられました。

「行儀よくすれば、見栄えのする服をやろうといわれました
 決して、テレージェンシュタットの悪口は言うな
 ただ楽しそうに演奏しろと・・・」byゲットー生存者

赤十字の職員は、ユダヤ人の平和な暮らしぶりを報告・・・ヒムラーは、世界を欺くことに成功しました。
悲劇はここで終わりません。
ゲットーに入りきらなくなったユダヤ人たちは、強制収容所へと送られました。
ヨーロッパ各地に、ユダヤ人殺戮を目的とした収容所が作られ、親衛隊によって計画的に実行されました。

「私を連行し、苦しめたのは、ヒトラーでもなければゲーリングでもない・・・
 ゲッベルスでもヒムラーでもない・・・それは隣に住む男とか、靴屋とか、牛乳屋だった
 そんな男たちが軍服に身を包むと、支配民族となったのだ」byアウシュビッツ収容者

収容所の職員の日常を記録したプライベートフィルムが残されていました。
彼等は日々の仕事が終わると、毎晩のように酒宴を繰り広げました。
ユダヤ人の荷物から金品を巻き上げ、何食わぬ顔でぜいたくな生活を続けました。
アウシュビッツ収容所の近郊には、親衛隊員をねぎらうための保養所まで建てられました。

「ほとんどがごく普通の人間だった
 ナチスに入れば得をする
 親衛隊の中でも、ヒムラーの言う”最も困難な任務を果たす集団”にいれば、自分はエリートだと多くの者が感じていた
 ”お前自身が小さな総統だ”」by親衛隊員 

1943年、ソビエトに大敗を喫し、ドイツの敗戦が決定的となると、狂気は加速していきます。
ヒトラーは、国民の前に姿を現さなくなり、演説は宣伝大臣ゲッベルスに託されます。
演説は、ラジオで全国に放送され、イギリスやソビエトの戦いに全国民の参加を求めます。
国家総力戦が訴えられます。

「イギリス人は主張している我々の総力戦計画が、諸君の反感を買っていると
 諸君が総力戦で泣く、降伏を望んでいると!!」
 ・・・
 勝利を勝ち取るため、総統に従っていく決意はあるか?
 苦難を共にし、もっとも重い負担に耐える覚悟はあるか?
 これより先、我々のスローガンはこうだ!!
 ”人々よ立ち上がれ、そして嵐を起こせ”」

「総統よ、命令を!! 我々は従う!!」

ゲッベルスは、ヒトラーに代わり、渾身の演説で国民を奮い立たせようとしました。
演説終了後、ゲッベルスは興奮冷めやらぬ部下に向かって言い放ちました。

「私がビルの屋根の上から飛び降りろと命じていたなら、彼等はその通りにしただろう」byゲッベルス

しかし、戦局は変わりませんでした。
ドイツ軍は次々と敗退・・・日々悪化する現実を前に、国民はなすすべもありませんでした。

「ライプツィヒを陥落させ、我々は街に入った
 市長はもういなかった
 前の晩、市庁舎でパーティーを開いた後、市長と職員の半数が自殺したのだ」by米軍兵士

首都ベルリンにソビエト軍が迫る中、ゲッベルス最後のプロパガンダ映画が完成します。
「コルベルク」・・・19世紀、ナポレオン軍に包囲されたドイツの街が舞台です。
劇中、主人公はゲッベルスの演説スローガンを叫び、完成した映画を見たゲッベルスは、この主人公のように歴史に名を残せと部下たちを奮い立たせました。

「これから100年後に、君たち自身の功績を描いた同じような映画が作られるだろう
 諸君よ、その映画に登場したくはないか
 100年後に、映画の中によみがえるのだ
 素晴らしい作品になるだろう
 さあ、最後まで立派にやり遂げるのだ」byゲッベルス

4月20日、ヒトラー56回目の誕生日を祝うために、ナチス幹部が集まりました。
しかし、祝賀会が終わると、ゲーリングやヒムラーをはじめ幹部たちはいっせいにベルリンを離脱しました。
ヒムラーは、ユダヤ人虐殺の実態が発覚するのを恐れ、収容所を閉鎖。
親衛隊幹部を集め、混乱に乗じて逃げるように指示を出しました。
自らも身分を隠し、逃走します。
ヒムラーは、軍人を装った2人の親衛隊員と共に捕まりました。
しかし、連合軍に捕らえられて正体が明らかになると、隠し持っていた薬で服毒自殺をしました。
ヒトラーに次いで人類史上もっとも人を殺したこの男には、裁きを受ける勇気がありませんでした。

巨漢ゲーリングはナチスの指導者で、戦争犯罪人の容疑がかけられています。
投降した彼は、銃を差し出しました。
ゲーリングも捕虜となり、権力の象徴だった勲章や装飾品はすべて剥奪されました。
隠し倉庫からは、ヨーロッパ各地で収奪した大量の美術品が発見されました。
連合軍の取調べ調書は、こう報告しています。

”ずるがしこいゲーリングは、今なお、彼の個人財産の一部でも守り、自分のために有利な立場を作り出そうということしか考えていない
 彼はかつてあれほど崇拝していた総統のことを、少しもためらわずに非難している”

ニュルンベルク裁判で死刑を宣告され、絞首刑の直前に服毒自殺しました。

総統官邸の地下壕で、最後までヒトラーに付き従ったのは、ゲッベルスだけでした。
ヒトラーは、ゲッベルスを次の首相に指名し、翌日命を絶ちました。

「わが生涯で、一度もなかったことだが、総統のこの命令に服することは絶対にお断りする
 私は総統のために相当の側で役立てうるのでなければ、個人として何の価値もないこの命を、総統の傍らで終えることを選ぶものである
 1945年4月29日ベルリンにて」byゲッベルス

ゲッベルスは、家族と共にヒトラーの後を追いました。
ナチス誕生の地・・・ミュンヘン・・・敗戦直後、かつてヒトラーがドイツの未来を訴えたその台座に、だれかがこんななぐり書きをしました。

「ドイツ人であることを恥じる」

終戦時、ナチスの党員はおよそ800万人・・・国民の10人に一人が入党していました。
占領軍は、ナチスを解体し、一切の活動を禁じました。

「これを書く手が震えています
 みんなヒトラーを見捨てました
 ナチスを支持したことも、他人を迫害したり、密告したことも、なかったというフリをしています
 私はどうだったでしょう
 あの場にいて、あの空気を吸っていました
 誰もが感化されていたのです」ドイツ市民

1960年、衝撃的なニュースが世界を駆け巡ります。
戦後、15年間にわたって逃亡していた元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの逮捕です。
エルサレムで始まった裁判に、世界の目が注がれました。

ヒムラーの忠実な部下として、ユダヤ人移送を取り仕切ったアイヒマンは、人道に対する罪など15の犯罪によって起訴されました。
多くのユダヤ人生存者が証言台に立ち、アイヒマンの非道を告発!!
アイヒマンは、終始冷静でした。
自分は上司の命令に従っただけだと、最後まで無罪を主張しました。

アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男 [ ブルクハルト・クラウスナー ]
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翌年・・・絞首刑を言い渡されます。
死刑制度のないイスラエルにおいて、異例の判決でした。
迫害を逃れ、アメリカに亡命していたユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、この裁判を傍聴していました。
どうしてごく普通の人間が狂気にとりつかれてしまったのか・・・彼女はこう断じています。

「自分の昇進に、恐ろしく熱心だったこと以外に、彼には何の動機もなかった
 この熱心さは、それ自体としては決して犯罪的なものではなかった
 言い古された表現を使うなら、彼は自分が何をしているのかわかっていなかった
 彼には全く思想がなかった
 それゆえ、彼はあの時代の最大の犯罪者の一人になるべくしてなったのだ」

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炎と闇の帝国―ゲッベルスとその妻マクダ

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1944年の夏、ベルリン郊外にとある邸宅にエレガントな母親が帰宅しました。
その立ち居振る舞いはどこか芝居じみています。
この女性こそ、第三帝国のファースト・レディー「マクダ・ゲッベルス」です。
ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの妻でアドルフ・ヒトラーとも親しいマクダ・ゲッペルス・・・。
4歳から12歳まで6人の子を愛する母親でもありました。
しかし、マクダは後の世に違う形で記憶されることとなります。

8か月後ベルリンは廃墟と化し、ソビエト軍はヒトラーの地下壕を捜索・・・
瓦礫の中なら現れたのはあまりにもむごたらしい光景でした。
白い服に身を包んだ6人の子の遺体・・・傍らには焼け焦げた二つの遺体・・・
連合国軍は、この二つの遺体をマクダ・ゲッベルスとヨーゼフ・ゲッベルスと確認しました。
ここで何が起きたのか・・・??
唯一の手掛かりは、マクダが前の夫との間にもうけた長男・ハラルトへの手紙でした。

最愛の息子へ・・・
私たちはヒトラー総統の地下壕にいます。
私たち家族が誇り高く一生を終えるにはこうするしかないのです。
総統亡き後の世界は生きるに値しないでしょう。
あなたの妹や弟たちをそんな世界によこすわけにはいきません。
夕べ総統から金色の党員指輪をいただき、光栄に思いました。
この上もなく、深い愛情をあなたに・・・。
母より。

第三帝国が崩壊した時、最高幹部の妻で自決したのはマクダだけでした。
しかし、彼女の経歴にはナチスの狂気の象徴となるようなことはありませんでした。
どうして犯罪的な政治組織に加わったのでしょうか?
何がイデオロギーの名のもと、我が子に手をかけさせたのでしょうか?
それこそ、理性を失うほど何かにのめり込むこと・・・。

1920年マクダは、ミュンヘンからベルリンに向かう列車に乗っていました。
ベルギーで育ち、ドイツの寄宿学校に通う20歳・・・裕福な建築家とその家政婦との間に私生児として生まれました。
品の良い40代の紳士が向かいに座ります。
ドイツでも指折りの実業家で大富豪・・・ギュンター・クヴァントでした。
戦後、クヴァントはこう語っています。

「目の前に、類まれな美女が座っていました。
 魅力的な青い瞳に、美しい金髪・・・私たちは演劇など若い女性が好む話をしました。」

マクダは20歳年上のクヴァントと結婚します。
息子も生まれ、ぜいたくな暮らしを続けます。
が、9年後、生活に息苦しさを感じ離婚。
それでも慰謝料によって何不自由なく暮らします。
激動の時代に、パーティーに明け暮れます。
1929年にドイツを襲った世界恐慌もどこ吹く風、30歳を前に暇を持て余していました。
美術史を学ぼうか?弁護士になろうか?託児所で働こうか?
しかし、何もかも退屈でした。

そんなマクダに退屈から逃れるきっかけが・・・
1930年、マクダ29歳・・・極右勢力が町を席巻していました。
2年前の選挙でナチ党が獲得した議席は僅か3%・・・長らくナチ党の支持者は世界からドロップアウトしたインテリで、ヨーゼフ・ゲッベルスもその一人でした。
それが様変わりしようとしています。
失業問題、汚職、共産主義の台頭・・・あらゆることが追い風となり、ナチスは上流階級に食い込んでいきました。

あるパーティーにマクダが出席しましたが・・・
マクダはナチスに入党していたホーエンツォレルン家の王子が入党を勧めます。
好奇心から翌週には、ベルリンスポーツ宮殿に足を運んでいました。
1930年9月の選挙に向け、ナチ党が大集会を行っていたのです。

その夜、聴衆の前に立ったのは、ヒトラーに次ぐアジテーター、ヨーゼフ・ゲッベルスでした。
彼の虜になったマクダ。。。
翌日、マクダは党本部に行き入党を志願します。
数か国語を話し教養もあるマクダは、すぐに秘書部門を任されます。
正式にナチ党員となったのは9月1日・・・驚くべき早さの転進でした。
政治に関心のなかった特権階級の女性がどうして短期間で活動家になったのでしょうか?
冒険、演説だけが理由でしょうか??

マクダには父親がいませんでした。
実の父親は彼女をすぐには認知せず、母親は雇い主と関係を持ったのですが、家柄のせいか、なかなか結婚してもらえませんでした。
その後、マクダはベルギーの寄宿舎に入れられます。
言葉が変わり、環境が変わり・・・ものの見方が一変します。
マクダはイデオロギーだけでなく、拠り所を見出しました。
世界を支配する優れた人種として・・・。

党本部で、マクダはナチスの思想を広める人物と出会います。
演説をしていたヨーゼフ・ゲッベルスです。
病弱で足の悪い作家崩れ・・・しかし、今やヒトラーの宣伝活動を行う大物でした。
9月の選挙でナチ党は、18%の票を獲得しました。
数か月後、二人は恋愛関係に・・・。

マクダは強くナチスとゲッベルスに惹かれていました。
ドイツ国内で大きくなるナチスの魅力・・・
そしてゲッベルスの魅力は、インテリで物分かりのいい会話の面白い、楽しい男性でした。
ゲッベルスは、やっと見つけた体裁のいい恋人に満足していました。
マクダは、上流階級の扉を開いてくれる女性でした。

「マクダとの昼食・・・彼女は戦災で心が広い。
 ”我が闘争”を彼女に送る。
 そう、これは愛だ。
 マクダは感激していた。
 午後は哲学や思想を話し合った。
 私たちは素晴らしいカップルになるだろう。」

1931年9月、ゲッベルスはマクダをナチスの指導者に紹介します。

マクダにとってヒトラーとの面会は、大きな転機でした。
ゲッベルスは周到に準備して、マクダを次の段階に引き上げました。
一人の活動家を、狂信的な信者に変えたのです。
ヒトラーは優しく親切に接することで、マクダの心を捕らえます。
相手の木をひくのが得意で、頭の中を支配しました。

ヨーゼフ・ゲッベルスの伴侶であるマクダは、ヒトラーの取り巻きの一員となります。
マクダは頻繁にヒトラーを夕食に招きました。
マクダの豪華な住まいは、ヒトラーが公務を行う本部となります。
権力を握る最終段階で会議を重ねます。
マクダも華やかなパーティーを開きました。
1932年の選挙で、ナチ党はついに議会第一党となります。
マクダのサロンには、新進の政党を見定めようと上級の人が集まりました。
ヒトラーは、上流階級を取り込もうと、何年も動いていました。
世間はナチスのことを、粗野な左翼集団ととらえていました。
そんなナチスの幹部が、上流階級の女性・・・しかも、大実業家のギュンター・クヴァントの元妻と深い関係にあるということは、大きな宣伝となりました。
ゲッベルスがマクダに惹かれたのは当然でした。
マクダの存在は、ナチスは労働者階級のチンピラというイメージを払拭するのにうってつけでした。
保守政党は、共産主義に対抗するためナチ党との連携を模索し・・・資本家と交流のあるマクダは、この二つを結びつける重要人物でした。

ヒトラーは、マクダの魅力にひかれます。
自分に忠実でありながら対等に話せる側近で唯一の女性・・・彼女に好意を持ちました。
ヒトラーは友人に、「マクダは私の男性的本能の対極にある女性かも知れない。」と語っています。
ゲッベルスは嫉妬します。
マクダは総統が相手だと下手に出る・・・それが私を苦しめる・・・。
ヒトラーはゲッベルスと話をします。
総統は、「マクダを愛しているが、私の幸せをねたみはしない。マクダは君の支えとなるだろう。」
そう言った時、総統の目はうるんでいた・・・哀れなヒトラーマクダは私の物だ・・・!!

ゲッベルスと結婚して私の傍にいなさい・・・そうヒトラーは言いました。
結婚式は黒いドレス・・・そして介添え人はヒトラー・・・!!
マクダは・・・
「夫への愛より、ヒトラー総統への愛の方が強いの。
 総統への想いに生涯を捧げたい。
 でも、総統は最早女性を愛することはなく、唯一愛するのはドイツ国家なの。」
ヒトラーは愛と結婚と国家の狭間で、女性との親密な関係を求めるも、結婚は約束出来ないという立場にありました。
自らを歴史的使命に身を捧げ、そこに女性の入る隙は無い・・・
体裁を考えて、マクダはゲッベルスと結婚した方がいいと、ヒトラーは考えたのです。

1932年11月の選挙で・・・
「私たちが負ければ共産主義が支配し、私はクヴァントからもらった財産を失うわ。
 でも、勝ったら、私はドイツで最も権力のある女性になる・・・!!」

ここに、マクダが入党した真の理由が伺えます。
ナチスへの心酔も事実ですが、限りない野心がありました。
1933年1月・・・ナチ党と連携する保守勢力は、国民から支持を集めるヒトラーを首相に・・・!!
ゲッベルスも国民啓蒙宣伝大臣に・・・!!
「マクダは名誉だと大喜びしている」
その夜・・・松明を掲げた大行進を余所に、ヒトラーはベルリンにある国立歌劇場にいました。
傍らにはその夜の同伴者・・・エレガントなマクダ・ゲッベルスがいました。

政権運営には人々の心をつかむことが必要でした。
ナチスは、シンボルとなる女性がいないという欠点をわかっていました。
相応しいのはマクダしかいません・・・弁が立ち、上流階級に身を置き、魅力にあふれていて・・・完璧でした。
マクダに白羽の矢が立ちました。
長くドイツ国民の目から隠されたヒトラーの愛人エバ・ブラウンではありません。

活躍の場を求めていたマクダは、新しい役に没頭します。
ドイツファッション協会の代表に就任、チャリティーイベント開催。
1933年ドイツ初の母の日・・・マクダはラジオで演説します。
ドイツで絶大な影響力を持ったマクダ・・・
しかし、マクダには、知られれば簡単に失脚しかねない秘密がありました。
1933年5月10日、夫ゲッベルスはユダヤ人による書物を焼き払います。
ゲッベルスは極端なまでの反ユダヤ主義で、ナチズムの中核をなすこの思想を強く推し進めていました。
彼は、ユダヤ人を排斥する法律を制定しようと躍起になっていました。
同じ日の夜・・・マクダと夫との間にある出来事が・・・
マクダの過去のこと・・・若い頃の彼女は無分別だった・・・と、ゲッベルス。
その日の朝、マクダと10年もあっていなかった男性が電話で話そうとしていました。
ベルリンを訪れていたその男性は、ユダヤ人のヴィクトル・アルロゾロフ・・・パレスチナのユダヤ人国家建設運動のリーダーです。
10年前、マクダはアルロゾロフと熱烈な恋愛をしていたのです。
当時から自己実現を求めていたマクダは、イスラエル建国運動に賛同し、一緒にパレスチナに行く覚悟をしていました。
そのためにヘブライ語まで勉強していました。
その頃マクダは、フリートレンダーというユダヤ系の姓を名乗っていました。
アルロゾロフはマクダを同胞と思ったのです。
しかし、ドイツ人だった・・・。
マクダの母親の再婚相手はユダヤ人でした。
養父フリートレンダーは愛情をもってマクダを育て、彼女もその姓を名乗りました。
アルロゾロフはマクダに会えないまま、ベルリンを去り、1か月後・・・テルアビブで暗殺されます。
おそらく、ゲッベルスの手先の仕業でしょう。
暴露されたならナチスにとって大打撃だったからです。

マクダは、養父フリートレンダーから助けを求められた際も、耳を貸しませんでした。
彼は、ある日ゲッベルスのオフィスに呼び出され、行方不明となりました。
マクダは新しい政権で、政治的な輝かしいキャリアを築きたいと考えていました。
自分にとって邪魔な人間を排除するぐらい簡単なことでした。
マクダは、育ての親が強制収容所で死ぬことを黙認しました。
狂信的だったのか・・・権力に飢えていたのか・・・
マクダの姿はナチスの幹部そのものでした。
どこまでも利己的で、ナチスの政治思想を徹底するためなら手段を選びませんでした。

ファーストレディーの地位を守ったマクダ・・・
次の望みは、第三帝国で主要な政治的役割を果たすこと・・・
しかし、女性の役割について、ナチスは凝り固まっていました。

「歴史を作るのは男性です。
 しかし、その男性の子供を産むのは女性であります。」

ドイツでは1919年に女性の参政権が認められましたが、新政権は育児や出産を推奨しました。
マクダも冷害ではなく、政治的にお飾りでした。
1934年ヒトラーはゲッベルス夫妻に事の白黒をはっきりさせます。
女性には政治をさせない・・・
マクダは帝国の母になるという役割を受け入れます。
ナチスの人口増加政策の広告塔です。
夫妻はベルリン郊外のボーゲン湖のほとりに別荘を構え、マクダは次々と身籠り、9年間で6人の子を授かりました。
夫妻は子煩悩でした。
ナチスの凶悪的なイメージとは離れ、暴力もなく、食事中の会話もできました。
1936年から44年まで、夫妻は毎年家族の記録を撮影しています。
ゲッベルスの誕生日10月29日にその映像を見るのがしきたりでした。
1937年も同様でした。
これらはホームムービーではなく、宣伝省の職員に家族の映像をとらせたものです。
ゲッベルス家の映像は、ニュース映画として放映されました。
その数は年間35回にも及びました。

この映画を通して、自分達が理想とする生活を知ることのできた人々・・・。
ナチスにおいてはイメージが全てで、ヒトラーでさえ、この家族よりも国民の目に触れることはありませんでした。
マクダの6人の子供は第三帝国の子供で、子だくさんで豊かなゲルマン民族の象徴なのです。
マクダの子供たちの笑顔は、犯罪的政策のプロパガンダに利用されます。
精神障碍者を安楽死させる政策です。
人種を純化させるために・・・!!
ファーストレディーで帝国の母であるマクダは、誰よりもヒトラーに忠実です。
マクダは家族を連れてヒトラーを訪問しましたが、そこにはカメラマンが同行していました。
ヒトラーが独身だからといって一人だけの写真ばかりを国民に見せることはできません。
ヒトラーはドイツ国民の父であるためにドイツの父だとアピールしなければなりません。
1938年頃、これらの写真は有効なプロパガンダとなりました。
ヒトラーは自分から戦争を仕掛けようともくろみながら、世間には平和を愛する男だと広めたのです。

嘘や虚構は、ナチスでは当たり前でした。
幸せなゲッベルス家も虚構でした。
マクダの身体は立て続けの出産で弱っていました。
ゲッベルスは浮気癖がひどくなり、家庭内暴力へ・・・!!
そんな中、マクダに屈辱的出来事が・・・!!
ゲッベルスが若い女優の愛人と公然と一緒にいるようになったのです。
マクダは離婚を望みます。
そして、ヒトラーの夏の別荘を訪ねました。
二人が別れることなど、ヒトラーに許されるわけがありません。
そこで彼は、夫婦関係が破たんしていても離婚しないようにと念を押します。
ヒトラーは強引に決着をつけます。
女優の愛人を追放し、ゲッベルスを呼びつけマクダの作った契約書に同意させます。
その契約書には、今後ゲッベルスは浮気をしないこと、その女優と会わないこと、さらにマクダの母親に優しく接することも書かれていました。
マクダの華やかなキャリアも、ゲッベルスの政治生命もすべてが終わるところを、ヒトラーは政治の力学に従わせたのです。
ベルリンに戻るとヒトラーは、ポーランド侵攻に着手します。
1939年9月1日、第二次世界大戦がはじまりました。
ボーゲン湖畔の別荘・・・子供たちの遊びも戦争が反映されていきます。
マクダの人生は再び軌道に乗り始めました。
彼女は強い愛国心の持ち主で、兵士の子供たちにプレゼントを贈るだけでは満足せずに、看護婦の育成も始めます。
子供達を伴って、ナチス親衛隊士官たちももてなします。
このナチス親衛隊・・・SSドクロ師団は、東部戦線で大虐殺を行いました。

マクダと前の夫との子・ハラルトも活躍が認められ勲章を受けました。
マクダはハラルトを特別扱いすることなく、前線に送っていました。
しかし、ハラルトは、1943年負傷。
マクダは心配のあまり体調を崩します。
戦争を思い知らされました。
優勢だったドイツ軍は勢いを失い、ソビエト軍が反攻に転じ、連合軍がイタリアに上陸。
1943年2月、マクダは子供達とスポーツ宮殿に行き、夫の演説を聞きます。
そこは13年前、全てが始まった場所でした。
その帰り道・・・連合国軍の爆撃で破壊されたベルリンの惨状を目の当たりにします。

戦争の英雄・・・ロンメル元帥の訪問・・・心のうちを隠してもてなします。
絶え間ない爆撃を避け、家族は別荘に籠っていました。
マクダは孤独でした。
厳しい戦況の中、夫やヒトラーとはめったに会えなくなりました。
ゲッベルスはその演説とは裏腹に、この戦争には勝てないとマクダに言っていました。

「総統は国民との約束を一つも実現できなかったのに、自分を正しいと思っている。
 忠告を受け入れず、耳当たりのいい言葉ばかり聞いて・・・
 最悪の結果に終わるでしょう。
 年を取り、疲れ果てた私に道はない。
 あるとすれば二つ・・・
 戦争に勝てば夫は更なる権力を手にし、みずぼらしい私のことを捨てるでしょう。
 もし負けても、私には死しか残されていない。」

1944年の夏・・・ゲッペルス一家の最後の映画・・・
敗戦が濃厚になり、ドイツは残虐行為を加速させました。
ゲッベルスはそれを最も推進した人間です。
この映画が撮られた夏の間に、30万人のユダヤ系ハンガリー人がガス室に送られました。
うち8万人は子供・・・

「夫の話すことがあまりにも残酷で、もう受け入れられない・・・
 私の良心は押しつぶされそうなのに、それを誰にも話せないの。
 夫は私を頼って何でもぶちまける・・・
 彼自身も限界なの。」

マクダは人生に失敗しました。
思想においても、結婚においても、そしてヒトラーへの熱狂も・・・
しかし、ナチスの幹部たちが逃亡する中、ベルリンに残ることを選びます。

「戦争に負けたらユダヤ人が戻ってくる・・・
 妻と話し合い、私たちは自決することにした。」

マクダはヨーゼフ・ゲッベルスの妻です。
夫がナチ政権の犯罪に深く関与している以上、自分も同罪だとわかっていました。
忠実なナチ党員として潔く戦い続けること・・・
ヒトラーに寄り添い、ヒトラーと共に死ぬこと・・・!!
1945年戦争はついにゲッベルス一家を追い込みます。
町にはソビエト軍の侵攻から逃れてきた人々が溢れていました。
ドイツ降伏の3か月前の2月1日、母に決心を伝えます。
ヒトラーは夫を道連れに死ぬ、夫は私と子供を道連れに死ぬ・・・全員死ぬ運命なのよ。
ゲッベルスも決意をヒトラーに伝えます。
祭祀とベルリンに留まることを決意したこと、子供たちを誰にも託さないこと・・・。
総統は、「それは感心だが正しい態度とは思わない」といいました。
ヒトラーでさえマクダの決断に反対でした。
友人たちはマクダの身を案じ、連合国側に脱出させようとします。
元夫ギュンター・クヴァントも、スイスへの亡命を提案し、せめて子供達だけでも面倒を見ると言いました。
しかし、マクダは聞く耳を持ちません。

1945年3月、マクダは親友と最後の会話をします。
「こんなにかわいい子たちを残していけないわ。
 夫はドイツ史上最悪の戦犯と見なされるでしょう。
 それが一生、あの子たちについて回り、蔑まれることになる・・・
 そんな重荷を背負わせることはできない。
 私が関わっていた政権は、言葉にできないほどの残虐なことをしてきたわ。
 世界中から報復されるでしょう。
 あの子たちを連れて行くしかないわ。
 絶対に・・・!!」

1945年4月22日、ソビエト軍が迫る中、マクダは6人の子供を連れて夫の待つ総統官邸地下壕へ向かいます。
マクダは長い間、子供たちを国民に晒し、国家のシンボルに仕立て上げてきました。
第三帝国の滅亡と共に、子供達も消えるべきだと考えたのかもしれません。

マクダは自決するしかない・・・最期まで自分を演じ切らなければと思っていました。
子供を道連れに自決することでヒトラーへの完全なる忠誠を示し、その親しい友人として名を刻もうとしたのです。
地下壕へと向かう時、マクダは子供たちに西部開拓への冒険に出かけようと出発しました。
息子は特別な服を着て、家政婦が同行しました。
長女のヘルガだけは理解していました。
他の子たちは、楽し気に相当の地下壕に行くとはしゃいでいました。
爆撃が続く中、不快な地下壕で、家族は一週間ヒトラーと忠実な部下たちと過ごします。
それまで大量殺戮に手を染めてきた男たちまでもがマクダに脱出を促しました。
4月30日、ヒトラーは自らの命を絶ちます。
その直前彼は、党の紋章入りの指輪をマクダに送ります。
翌日、マクダは眠っている子供達の口に青酸カリのカプセルを滑り込ませます。
そして、夫ヨーゼフ・ゲッベルスと共に第三帝国のファースト・レディはすべてに終止符を打ちました。

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