ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー・・・第2次世界大戦中、ユダヤ人虐殺など20世紀を血塗られた歴史にした人物です。
そのヒトラーの側近としてあらゆるメディアを牛耳ったのが、ヨーゼフ・ゲッベルスです。
嘘をばらまき、憎しみと暴力を煽って、人々を戦争へと動かしました。
彼が信じたのはヒトラーだけでした。
独裁者・ヒトラー・・・最大850万人もの党員を抱えたナチ党を率いる彼には、多くの側近たちがいました。
中でも異彩を放ったのが、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスです。
「プロパガンダには秘訣がある
何より人々にプロパガンダと気付かれてはならない」byゲッベルス
プロパガンダとは、特定の主義・思想に導く宣伝戦略のことです。
これを駆使したゲッベルスは、地方の弱小政党に過ぎなっかったナチ党をドイツ有数の大政党に育て上げました。
ナチ党の名を広めるためには・・・わざと大乱闘を起こす
大統領選挙では、ヒトラーを飛行機に乗せ、ドイツ全土で演説させました。
これは、世界初の試みでした。
政権成立後は、ラジオ放送、映画・・・すべてのメディアをヒトラーのために利用しました。
そして・・・
「ユダヤ人による極端な知性主義の時代は終わった」byゲッベルス
煽られた国民は、ユダヤ人排斥の道へ突き進んでいきました。
しかし、第2次世界大戦の終盤・・・ナチス・ドイツは敗北をかさね、
側近たちはヒトラーのもとを去っていきました。
しかし・・・ゲッベルスだけは、ヒトラーのそばを離れませんでした。
ヒトラーのいない人生など考えられませんでした。
ゲッベルスは、1929年に出版した自伝的小説の中で、ヒトラーについてこう述べています。
「僕は新しいキリストを見た」
ゲッベルスは、どうしてヒトラーを救世主と崇めるようになったのでしょうか?
1897年、ドイツ西部、人口3万人の工業都市ライトで生まれました。
父親は、ガス燈を作る会社の支配人で、両親は敬虔なカトリック信者でした。
ゲッベルスは、6人兄弟の4番目、幼いころからコンプレックスを抱いていました。
学校での休み時間・・・楽しそうに遊ぶ同級生の輪の中に入っていくことはできませんでした。
その訳は・・・足の長さが異なるため、右側には整形用の靴を履き、足を引きずっていました。
4歳の時にかかった小児まひの後遺症でした。
「猛烈な痛み、長い処置、足は一生麻痺・・・」
同級生や周りの大人は、彼に同情したが、ゲッベルスはそれが嫌でした。
ゲッベルスは、友達を作らず、家に帰っても屋根裏に閉じこもっていました。
1914年、16歳の時・・・第1次世界大戦が勃発。
ゲッベルスの同級生たちは、先を争うように兵隊に志願!!
ゲッベルスも志願しましたが・・・兵役不適合とされました。
「みんなは旗の元へ、一緒に行けないのはつらい」
その後、ひたすら勉強に打ち込み、優秀な成績で高校を卒業。
その頃の夢は、ジャーナリストか小説家でした。
親元を離れ、大学では文学を専攻、文学の博士号を取得しました。
卒業後は、新聞に記事を投稿するなど、ライターとして身を立てようとしました。
しかし、記事は没ばかり・・・心血をかけ書いた小説も、全く評価されませんでした。
その頃、ドイツは第1次世界大戦に敗北、戦勝国から課せられた巨額の賠償金のため、ドイツ経済は深刻な打撃を受けました。
苦しい暮らしを強いられた人々の不満は、敗戦でワイマール共和制となった政府に向けられました。
若者たちの多くは、反政府運動へ身を投じていきます。
そんなある日、ゲッベルスはある新聞記事を読みます。
ナチ党という小さな党が、政府の打倒を掲げてミュンヘンで武装蜂起したという・・・!!
指導者は、アドルフ・ヒトラー、34歳。
共和国政府を否定して、強いドイツの復活を訴えるヒトラーに惹かれたゲッベルス・・・。
武装蜂起は失敗に終わり、ヒトラーは逮捕されます。
しかし、ゲッベルスは、ヒトラーこそ新しいドイツのリーダーと確信し、手紙を送ります。
「あなたは奇跡を行い、我々の心にかかる雲を取り除かれた
いつの日か、全てのドイツ人があなたに感謝するでしょう」
ゲッベルスは、ヒトラーをキリストの使いだと書いています。
武装蜂起で自らの命を懸けて、犯罪者扱いされても食い下がって、民族の覚醒を訴える大胆さ・・・
これは、他の政治家にはありませんでした。
1925年、27歳の時、ナチ党地方支部に加入、宣伝活動に従事しました。
そこで、文学で培った才能が開花します。
それが演説です。
演説の上手さを買われてか、ゲッベルスは入党してわずか1年の間に180回以上の演説を行っています。
ゲッベルスの活躍が、ヒトラーに伝わります。
2人は面会することに・・・
ゲッベルスは、その時のことを日記に綴っています。
「この人は、王となるにふさわしい
生まれながらの指導者、未来の独裁者」
この時、ゲッベルス28歳でした。
わずか50人ほどから始まったナチ党・・・
結党14年で政権の座に就いたとき、党員は85万人になっていました。
その後も増え続け、第2次世界大戦が終わるころには、党員数は850万人に達していました。
ヒトラーはこう述べています。
「宣伝は組織に先行する
そして、その宣伝のためには有意な人材を獲得せねば
ゲッベルスこそ、私が待ち望んだ人間だ」byヒトラー
ゲッベルスは、どのようにしてナチ党を大きくしたのでしょうか??
1926年、ゲッベルスの姿は首都ベルリンにありました。
ヒトラーからベルリンのナチ党大管区長に任命されたのです。
ナチ党の地元はミュンヘン・・・遠く離れたベルリンでは知名度は低く、党員は400~500名。
ここでは、共産党が最大勢力でした。
ヒトラーは、首都ベルリンでの勢力拡大という大仕事をゲッベルスに託したのです。
そこで彼の取った手段は・・・乱闘騒ぎでした。
共産党の支持基盤である労働者地区で演説、共産党をののしり、挑発します。
すると、大乱闘となりました。
ゲッベルスはそこに突撃隊員を突入させ、乱闘騒ぎをさらに大きくしました。
多くの負傷者が出たため、こうした事件はナチ党の名前と共に新聞に大きく取り上げられました。
「ベルリンは、魚が水を必要とするように、センセーションを必要としている」
その結果、悪名にもかかわらず入党志願者が殺到・・・狙い通りでした。
しかし、あまりに流血騒ぎを起こしたことで、ナチ党は警察から集会・演説が禁止されます。
すると、ゲッベルスはすぐに次の手を打ちます。
新聞の発行です。
その名も「攻撃」。
ゲッベルスがこの新聞を作ったのは、ナチ党の首都進出を阻むベルリン市政府を攻撃し、徹底的にこき下ろすためです。
罵詈雑言を浴びせ、事実を捏造してもセンセーションを巻き起こす!!
ゲッベルスは、当局の介入は不当だと訴えます。
そして、読者の共感を得ていきます。
ゲッベルスがベルリンに来て2年後・・・1928年、国会議員選挙が行われ、国会の議席を初めて獲得します。
491議席中わずか12議席でしたが、ゲッベルスはこう語っています。
「我々は敵として乗り込むのだ
羊の群れにオオカミが襲い掛かるように、敵として乗り込むのだ」
さらに、この後、ナチ党が大躍進する事件が起きます。
1929年、ニューヨーク・ウォール街での株の大暴落に端を発する世界恐慌・・・
第1次世界大戦の痛手から立ち直りかけていたドイツでも、次々と企業が倒産・・・。
数百万人もの失業者が街に溢れました。
そんな中、ナチ党が目をつけたのが、都会ではなく疲弊の激しい農村地帯でした。
農民が、民族の美徳と伝統の担い手・・・と訴え、貧しい農民たちの心をとらえていきました。
一方で、貧困は、ドイツ共産党にも追い風となりました。
共産党は、失業者の支持を得て急成長。
ナチ党にとっては、目の上のタンコブでした。
その為、都市部ではナチ党と共産党が衝突!!
そんな矢先・・・1930年1月、ナチ党員が、共産党員に撃たれ死亡する事件が起きました。
実はこの事件は、政治とは直接関係のない女性を巡るトラブルでした。
ところが、ゲッベルスは、共産党員によるナチ党員への銃撃事件と・・・巧みに利用しました。
プライベートな争いを、政党の争いのように掻き立てて、共産党への憎悪を煽ったのです。
彼の葬儀では、”旗を高く掲げよ”という曲をナチ党の党歌として歌うように命じました。
”赤色戦線に殺された同志は、魂となって我らとともに行進する”
この事件の宣伝効果もあって、ナチ党への支持はますます広がっていきました。
ゲッベルスは後に、プロパガンダの手法についてこう語っています。
「プロパガンダには秘訣がある
何より人にプロパガンダと気付かれてはならない
相手の知らぬ間に、たっぷり思想をしみ込ませるのだ」
1930年9月、再び行われた国会議員選挙・・・
ナチ党は、12議席から107議席へと大躍進!!
次の目標は、いよいよ政権獲得でした。
「正午、長時間ヒトラーと打ち合わせ
彼は、大統領選挙に対する考えを述べ、出馬を決意した」
1932年の春・・・大統領選挙では、現職のヒンデンブルクとヒトラーの一騎打ちとなりました。
ゲッベルスはこの時、とっておきのアイデアを実行します。
それは・・・飛行機でした。
飛行機で、全国を遊説しながらドイツ上空をのヒトラーというスローガンを人々にアピール!!
さらに、膨大な量のビラまき、数百万枚のポスター、ヒトラーの演説の映画フィルムを全国の市町村で上映しました。
しかし、ヒトラーは選挙に敗れました。
ところが、翌年、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命します。
常識では考えられない行為でした。
ヒンデンブルク大統領は、ワイマール共和国(当時のドイツ)をあまり快く思っていませんでした。
特に、ワイマール共和国憲法が定めた共和国の政治秩序を。
ナチ党は危険だが、うまく利用すれば共和国の在り方を変えられると考えたのです。
ヒトラーに首相の座を与えるが、その脇を保守派が固めることで、ヒトラーを懐柔することができると考えたのです。
この時、ゲッベルス36歳。
1932年1月22日、ゲッベルスはヒトラーとこんなやり取りをしています。
「ヒトラーと遠い将来について話す
特に将来、私が就く官職の任務、権限の範囲をかなりのところまで煮詰める
考えているのは国民教育省というようなもので、映画・放送・芸術・文化・宣伝、それに新しい教育機関などを統括することになるだろう」
1933年3月、国民啓蒙・宣伝省という史上かつてない省庁が作られました。
ボスはもちろん、宣伝大臣のゲッベルスでした。
1933年5月10日夜、ナチ党を支持する学生たちが、ユダヤ人の書いた本を焼き払う焚書が行われました。
物理学者・アインシュタインや、精神病理学者・フロイトの本などが次々と燃やされました。
「ユダヤ人による極端な知性主義の時代は終わった」
彼の標的は、学者だけではありませんでした。
ドイツ国内の全てのユダヤ人を、国家の敵と見るように国民を煽ります。
ユダヤ人排斥です。
ゲッベルスも、ヒトラーも、初めから反ユダヤ主義者であったかどうか・・・そうではないと考えます。
世界でも、ユダヤ人を嫌う風潮が存在していました。
そこに働きかけることで、支持者を増やし、大衆運動をすすめる・・・と、反ユダヤ主義を添加していきました。
ゲッベルスが国民を扇動した方法は、非常に洗練され、巧みなプロパガンダでした。
プロパガンダの強力な武器となったのは、ラジオ放送でした。
「人々の憎悪や闘争は、ある特定の者によって育まれる
やつらは民衆を対立に駆り立て、平和を求めない
どこでも金儲けを始めるユダヤ人どもこそ、国際的な不穏分子だ」byヒトラー
定期的に放送を流し、それを集団で聴取させます。
内容を国民にしみこませました。
最も効果的な宣伝手段・・・それは映画でした。
映画の製作は、脚本や撮影内容など、ゲッベルスの許可なくして何一つできませんでした。
こうしたゲッベルスの仕事ぶりを讃えて、ヒトラーが賛辞を送ります。
「10年前、ゲッベルス博士は私からナチスの旗を受け取った
その旗は、ゲッベルス博士によりドイツ国家の首都で掲げられ、今や国家を象徴する旗として翻っている
ゲッベルス博士に最大の謝意を表する
我らがゲッベルス博士に!!ハイル!!」byヒトラー
1934年8月、ヒトラーは、首相と大統領の権力を一手に握り、自らを総統としました。
大衆を巻き込んだゲッベルスのプロパガンダ・・・憎悪を煽るだけでなく、人々の暮らしや家庭に入り込み、感情の奥に訴えかけるものもあります。
ゲッベルスは34歳の時、マグナという女性と結婚、6人の子供に恵まれます。
ゲッベルスは、自らの家族をドイツの理想的家庭として撮影させ、全土で公開しました。
ゲッベルスは実際に、出来るだけ時間を割いて、良きパパであることを心掛けました。
しかし、その裏では、個人的な欲望を追い求めます。
ゲッベルスは、しばしば撮影所を訪れます。
仕事というよりは、女優を物色するためです。
気に入った女性には、権力をちらつかせて次々と関係を迫っています。
その中で、ゲッベルスがぞっこんになった女優がいました。
チェコ出身のリダ・バーロヴァ・22歳です。
バーロヴァは、ゲッベルスについてこんな言葉を残しています。
「湖のそばの隠れ家で、彼は私を”愛している”と告白しました
”こんなに愛した女性は、これまでに一人もいなかった”と
私たちは、完璧に恋に落ちました
彼が家族を置き去りにするくらいに」
しかし、この恋は、呆気なく破局を迎えます。
ヒトラーの逆鱗に触れたのです。
ドイツの理想的家族の父親であるゲッベルスに、不倫などあってはならない!!
ヒトラーは、ゲッベルスを別荘に呼びつけ、バーロヴァと円を切るように厳しく迫りました。
しかし、ゲッベルスは、
「バーロヴァと別れるぐらいなら、宣伝大臣をやめ、バーロヴァと一緒になります」
この返答に、ヒトラーは激高!!
「国家に対する義務か、バーロヴァか、どちらを取るか、よく考えることだ」
その結果、ゲッベルスは・・・
「私は義務に屈しよう つらい 残酷な
ただ義務に服した生活、青春は今終わった」
しかし、その矢先、ゲッベルスに失態を取り戻すチャンスが巡ってきました。
ユダヤ人青年によるドイツ大使館員射殺事件が起こります。
ゲッベルスは、ユダヤ人を敵視する演説を行いました。
これを引き金に、ナチ党の若者たちは、ドイツ中のユダヤ教会ユダヤ人商店を焼き討ちします。
この時の迫害は、ゲッベルスにとっては点数稼ぎにすぎなかったのかもしれません。
ナチス・ドイツは、こうして反ユダヤ政策を加速させていくのです。
1945年4月、ベルリンに向けてソ連軍の総攻撃が始まりました。
敗戦が濃厚となる中、ヒトラーの側近たちは、次々と彼の元を逃げ去っていきました。
しかし、ゲッベルスだけは、最期までヒトラーと生死を共にしました。
1935年、ヒトラーは、第1次世界大戦の敗北によって定められていたドイツの軍備制限を破棄すると宣言・・・ドイツ再軍備宣言!!
これをきっかけに、世界は再び戦争へと突き進みます。
ヨーロッパ諸国と対立し、孤立が深まる中、ヒトラーは日本との同盟を模索します。
日本は、ドイツと同じくソ連を仮想敵国としていました。
そこで、ゲッベルスは、国民への日本のイメージアップのため、あるプロパガンダを実行します。
日独合作映画「侍の娘」です。
これを、ドイツ国内で、大々的に公開しました。
日本人の恋人と日本を訪れたドイツ人の女性が、日本文化を体験するストーリーです。
この作品は、俳優・原節子の初主演映画でもありました。
ドイツでの封切には、ゲッベルスをはじめ、ナチ党幹部が出席するほどの力の入れようでした。
1939年9月、ナチスドイツはポーランドに侵攻。
さらに、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、そしてフランスを、1年足らずで占領します。
しかし、戦線を拡大しすぎたドイツ軍は、1943年スターリングラード攻防戦でソ連軍に敗北します。
そんな流れを断ち切ろうと、国民を鼓舞する演説会が大々的に開かれました。
この時、ヒトラーはあまり表に姿を見せなくなっていました。
戦局が悪化していたからと言われています。
壇上に立ったのは、ゲッベルス!!
ヒトラーの代わりに1万5000人の聴衆に訴えたのです。
彼にとって、一世一代の演説でした。
「諸君は総力戦を望むか?
諸君に問う、勝利を勝ち取るため、総統に従っていく決意はあるか?
苦難を共にし、最も重い負担に耐える覚悟はあるか?」
ゲッベルスは、渾身の演説でヒトラーの代役を完璧に演じました。
この演説は、ラジオでも全国に中継され、ソ連やアメリカとの戦いに総力戦が訴えられました。
「これより先、我々のスローガンはこうだ!
”人々よ、立ち上がれ、そして嵐を起こせ”」
しかし、ゲッベルスの演説の甲斐なく、ドイツ軍は次々と敗退していきました。
1945年4月、ソ連軍による首都ベルリンへの砲撃が始まりました。
ドイツの敗北は決定的となりました。
ヒトラーは、がらんとした総統官邸の地下壕で、最期の時を待っていました。
そばに付き従っていた高官は、もうゲッベルスしかいませんでした。
ヒトラーは、ゲッベルスにベルリンの防衛が敗れた場合は、ベルリンを去り、新内閣の首相になるように命じました。
そして・・・ヒトラーは、直前に結婚式を挙げたエヴァ・ブラウンと共に自ら命を絶ちました。
ヒトラーにドイツの将来を託されたゲッベルス・・・
しかし、
「私は生涯で初めて総統の命令に背かざるを得ない
どんなことがあっても、総統の傍らで命を終える覚悟であることを断固として表明する
総統のために奉仕することができなければ、私の命などもはや価値のないものだ」
ヒトラーの死の翌日、ゲッベルスは家族と共にヒトラーの後を追いました。
47年の生涯でした。
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そのヒトラーの側近としてあらゆるメディアを牛耳ったのが、ヨーゼフ・ゲッベルスです。
嘘をばらまき、憎しみと暴力を煽って、人々を戦争へと動かしました。
彼が信じたのはヒトラーだけでした。
独裁者・ヒトラー・・・最大850万人もの党員を抱えたナチ党を率いる彼には、多くの側近たちがいました。
中でも異彩を放ったのが、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスです。
「プロパガンダには秘訣がある
何より人々にプロパガンダと気付かれてはならない」byゲッベルス
プロパガンダとは、特定の主義・思想に導く宣伝戦略のことです。
これを駆使したゲッベルスは、地方の弱小政党に過ぎなっかったナチ党をドイツ有数の大政党に育て上げました。
ナチ党の名を広めるためには・・・わざと大乱闘を起こす
大統領選挙では、ヒトラーを飛行機に乗せ、ドイツ全土で演説させました。
これは、世界初の試みでした。
政権成立後は、ラジオ放送、映画・・・すべてのメディアをヒトラーのために利用しました。
そして・・・
「ユダヤ人による極端な知性主義の時代は終わった」byゲッベルス
煽られた国民は、ユダヤ人排斥の道へ突き進んでいきました。
しかし、第2次世界大戦の終盤・・・ナチス・ドイツは敗北をかさね、
側近たちはヒトラーのもとを去っていきました。
しかし・・・ゲッベルスだけは、ヒトラーのそばを離れませんでした。
ヒトラーのいない人生など考えられませんでした。
ゲッベルスは、1929年に出版した自伝的小説の中で、ヒトラーについてこう述べています。
「僕は新しいキリストを見た」
ゲッベルスは、どうしてヒトラーを救世主と崇めるようになったのでしょうか?
1897年、ドイツ西部、人口3万人の工業都市ライトで生まれました。
父親は、ガス燈を作る会社の支配人で、両親は敬虔なカトリック信者でした。
ゲッベルスは、6人兄弟の4番目、幼いころからコンプレックスを抱いていました。
学校での休み時間・・・楽しそうに遊ぶ同級生の輪の中に入っていくことはできませんでした。
その訳は・・・足の長さが異なるため、右側には整形用の靴を履き、足を引きずっていました。
4歳の時にかかった小児まひの後遺症でした。
「猛烈な痛み、長い処置、足は一生麻痺・・・」
同級生や周りの大人は、彼に同情したが、ゲッベルスはそれが嫌でした。
ゲッベルスは、友達を作らず、家に帰っても屋根裏に閉じこもっていました。
1914年、16歳の時・・・第1次世界大戦が勃発。
ゲッベルスの同級生たちは、先を争うように兵隊に志願!!
ゲッベルスも志願しましたが・・・兵役不適合とされました。
「みんなは旗の元へ、一緒に行けないのはつらい」
その後、ひたすら勉強に打ち込み、優秀な成績で高校を卒業。
その頃の夢は、ジャーナリストか小説家でした。
親元を離れ、大学では文学を専攻、文学の博士号を取得しました。
卒業後は、新聞に記事を投稿するなど、ライターとして身を立てようとしました。
しかし、記事は没ばかり・・・心血をかけ書いた小説も、全く評価されませんでした。
その頃、ドイツは第1次世界大戦に敗北、戦勝国から課せられた巨額の賠償金のため、ドイツ経済は深刻な打撃を受けました。
苦しい暮らしを強いられた人々の不満は、敗戦でワイマール共和制となった政府に向けられました。
若者たちの多くは、反政府運動へ身を投じていきます。
そんなある日、ゲッベルスはある新聞記事を読みます。
ナチ党という小さな党が、政府の打倒を掲げてミュンヘンで武装蜂起したという・・・!!
指導者は、アドルフ・ヒトラー、34歳。
共和国政府を否定して、強いドイツの復活を訴えるヒトラーに惹かれたゲッベルス・・・。
武装蜂起は失敗に終わり、ヒトラーは逮捕されます。
しかし、ゲッベルスは、ヒトラーこそ新しいドイツのリーダーと確信し、手紙を送ります。
「あなたは奇跡を行い、我々の心にかかる雲を取り除かれた
いつの日か、全てのドイツ人があなたに感謝するでしょう」
ゲッベルスは、ヒトラーをキリストの使いだと書いています。
武装蜂起で自らの命を懸けて、犯罪者扱いされても食い下がって、民族の覚醒を訴える大胆さ・・・
これは、他の政治家にはありませんでした。
1925年、27歳の時、ナチ党地方支部に加入、宣伝活動に従事しました。
そこで、文学で培った才能が開花します。
それが演説です。
演説の上手さを買われてか、ゲッベルスは入党してわずか1年の間に180回以上の演説を行っています。
ゲッベルスの活躍が、ヒトラーに伝わります。
2人は面会することに・・・
ゲッベルスは、その時のことを日記に綴っています。
「この人は、王となるにふさわしい
生まれながらの指導者、未来の独裁者」
この時、ゲッベルス28歳でした。
わずか50人ほどから始まったナチ党・・・
結党14年で政権の座に就いたとき、党員は85万人になっていました。
その後も増え続け、第2次世界大戦が終わるころには、党員数は850万人に達していました。
ヒトラーはこう述べています。
「宣伝は組織に先行する
そして、その宣伝のためには有意な人材を獲得せねば
ゲッベルスこそ、私が待ち望んだ人間だ」byヒトラー
ゲッベルスは、どのようにしてナチ党を大きくしたのでしょうか??
1926年、ゲッベルスの姿は首都ベルリンにありました。
ヒトラーからベルリンのナチ党大管区長に任命されたのです。
ナチ党の地元はミュンヘン・・・遠く離れたベルリンでは知名度は低く、党員は400~500名。
ここでは、共産党が最大勢力でした。
ヒトラーは、首都ベルリンでの勢力拡大という大仕事をゲッベルスに託したのです。
そこで彼の取った手段は・・・乱闘騒ぎでした。
共産党の支持基盤である労働者地区で演説、共産党をののしり、挑発します。
すると、大乱闘となりました。
ゲッベルスはそこに突撃隊員を突入させ、乱闘騒ぎをさらに大きくしました。
多くの負傷者が出たため、こうした事件はナチ党の名前と共に新聞に大きく取り上げられました。
「ベルリンは、魚が水を必要とするように、センセーションを必要としている」
その結果、悪名にもかかわらず入党志願者が殺到・・・狙い通りでした。
しかし、あまりに流血騒ぎを起こしたことで、ナチ党は警察から集会・演説が禁止されます。
すると、ゲッベルスはすぐに次の手を打ちます。
新聞の発行です。
その名も「攻撃」。
ゲッベルスがこの新聞を作ったのは、ナチ党の首都進出を阻むベルリン市政府を攻撃し、徹底的にこき下ろすためです。
罵詈雑言を浴びせ、事実を捏造してもセンセーションを巻き起こす!!
ゲッベルスは、当局の介入は不当だと訴えます。
そして、読者の共感を得ていきます。
ゲッベルスがベルリンに来て2年後・・・1928年、国会議員選挙が行われ、国会の議席を初めて獲得します。
491議席中わずか12議席でしたが、ゲッベルスはこう語っています。
「我々は敵として乗り込むのだ
羊の群れにオオカミが襲い掛かるように、敵として乗り込むのだ」
さらに、この後、ナチ党が大躍進する事件が起きます。
1929年、ニューヨーク・ウォール街での株の大暴落に端を発する世界恐慌・・・
第1次世界大戦の痛手から立ち直りかけていたドイツでも、次々と企業が倒産・・・。
数百万人もの失業者が街に溢れました。
そんな中、ナチ党が目をつけたのが、都会ではなく疲弊の激しい農村地帯でした。
農民が、民族の美徳と伝統の担い手・・・と訴え、貧しい農民たちの心をとらえていきました。
一方で、貧困は、ドイツ共産党にも追い風となりました。
共産党は、失業者の支持を得て急成長。
ナチ党にとっては、目の上のタンコブでした。
その為、都市部ではナチ党と共産党が衝突!!
そんな矢先・・・1930年1月、ナチ党員が、共産党員に撃たれ死亡する事件が起きました。
実はこの事件は、政治とは直接関係のない女性を巡るトラブルでした。
ところが、ゲッベルスは、共産党員によるナチ党員への銃撃事件と・・・巧みに利用しました。
プライベートな争いを、政党の争いのように掻き立てて、共産党への憎悪を煽ったのです。
彼の葬儀では、”旗を高く掲げよ”という曲をナチ党の党歌として歌うように命じました。
”赤色戦線に殺された同志は、魂となって我らとともに行進する”
この事件の宣伝効果もあって、ナチ党への支持はますます広がっていきました。
ゲッベルスは後に、プロパガンダの手法についてこう語っています。
「プロパガンダには秘訣がある
何より人にプロパガンダと気付かれてはならない
相手の知らぬ間に、たっぷり思想をしみ込ませるのだ」
1930年9月、再び行われた国会議員選挙・・・
ナチ党は、12議席から107議席へと大躍進!!
次の目標は、いよいよ政権獲得でした。
「正午、長時間ヒトラーと打ち合わせ
彼は、大統領選挙に対する考えを述べ、出馬を決意した」
1932年の春・・・大統領選挙では、現職のヒンデンブルクとヒトラーの一騎打ちとなりました。
ゲッベルスはこの時、とっておきのアイデアを実行します。
それは・・・飛行機でした。
飛行機で、全国を遊説しながらドイツ上空をのヒトラーというスローガンを人々にアピール!!
さらに、膨大な量のビラまき、数百万枚のポスター、ヒトラーの演説の映画フィルムを全国の市町村で上映しました。
しかし、ヒトラーは選挙に敗れました。
ところが、翌年、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命します。
常識では考えられない行為でした。
ヒンデンブルク大統領は、ワイマール共和国(当時のドイツ)をあまり快く思っていませんでした。
特に、ワイマール共和国憲法が定めた共和国の政治秩序を。
ナチ党は危険だが、うまく利用すれば共和国の在り方を変えられると考えたのです。
ヒトラーに首相の座を与えるが、その脇を保守派が固めることで、ヒトラーを懐柔することができると考えたのです。
この時、ゲッベルス36歳。
1932年1月22日、ゲッベルスはヒトラーとこんなやり取りをしています。
「ヒトラーと遠い将来について話す
特に将来、私が就く官職の任務、権限の範囲をかなりのところまで煮詰める
考えているのは国民教育省というようなもので、映画・放送・芸術・文化・宣伝、それに新しい教育機関などを統括することになるだろう」
1933年3月、国民啓蒙・宣伝省という史上かつてない省庁が作られました。
ボスはもちろん、宣伝大臣のゲッベルスでした。
1933年5月10日夜、ナチ党を支持する学生たちが、ユダヤ人の書いた本を焼き払う焚書が行われました。
物理学者・アインシュタインや、精神病理学者・フロイトの本などが次々と燃やされました。
「ユダヤ人による極端な知性主義の時代は終わった」
彼の標的は、学者だけではありませんでした。
ドイツ国内の全てのユダヤ人を、国家の敵と見るように国民を煽ります。
ユダヤ人排斥です。
ゲッベルスも、ヒトラーも、初めから反ユダヤ主義者であったかどうか・・・そうではないと考えます。
世界でも、ユダヤ人を嫌う風潮が存在していました。
そこに働きかけることで、支持者を増やし、大衆運動をすすめる・・・と、反ユダヤ主義を添加していきました。
ゲッベルスが国民を扇動した方法は、非常に洗練され、巧みなプロパガンダでした。
プロパガンダの強力な武器となったのは、ラジオ放送でした。
「人々の憎悪や闘争は、ある特定の者によって育まれる
やつらは民衆を対立に駆り立て、平和を求めない
どこでも金儲けを始めるユダヤ人どもこそ、国際的な不穏分子だ」byヒトラー
定期的に放送を流し、それを集団で聴取させます。
内容を国民にしみこませました。
最も効果的な宣伝手段・・・それは映画でした。
映画の製作は、脚本や撮影内容など、ゲッベルスの許可なくして何一つできませんでした。
こうしたゲッベルスの仕事ぶりを讃えて、ヒトラーが賛辞を送ります。
「10年前、ゲッベルス博士は私からナチスの旗を受け取った
その旗は、ゲッベルス博士によりドイツ国家の首都で掲げられ、今や国家を象徴する旗として翻っている
ゲッベルス博士に最大の謝意を表する
我らがゲッベルス博士に!!ハイル!!」byヒトラー
1934年8月、ヒトラーは、首相と大統領の権力を一手に握り、自らを総統としました。
大衆を巻き込んだゲッベルスのプロパガンダ・・・憎悪を煽るだけでなく、人々の暮らしや家庭に入り込み、感情の奥に訴えかけるものもあります。
ゲッベルスは34歳の時、マグナという女性と結婚、6人の子供に恵まれます。
ゲッベルスは、自らの家族をドイツの理想的家庭として撮影させ、全土で公開しました。
ゲッベルスは実際に、出来るだけ時間を割いて、良きパパであることを心掛けました。
しかし、その裏では、個人的な欲望を追い求めます。
ゲッベルスは、しばしば撮影所を訪れます。
仕事というよりは、女優を物色するためです。
気に入った女性には、権力をちらつかせて次々と関係を迫っています。
その中で、ゲッベルスがぞっこんになった女優がいました。
チェコ出身のリダ・バーロヴァ・22歳です。
バーロヴァは、ゲッベルスについてこんな言葉を残しています。
「湖のそばの隠れ家で、彼は私を”愛している”と告白しました
”こんなに愛した女性は、これまでに一人もいなかった”と
私たちは、完璧に恋に落ちました
彼が家族を置き去りにするくらいに」
しかし、この恋は、呆気なく破局を迎えます。
ヒトラーの逆鱗に触れたのです。
ドイツの理想的家族の父親であるゲッベルスに、不倫などあってはならない!!
ヒトラーは、ゲッベルスを別荘に呼びつけ、バーロヴァと円を切るように厳しく迫りました。
しかし、ゲッベルスは、
「バーロヴァと別れるぐらいなら、宣伝大臣をやめ、バーロヴァと一緒になります」
この返答に、ヒトラーは激高!!
「国家に対する義務か、バーロヴァか、どちらを取るか、よく考えることだ」
その結果、ゲッベルスは・・・
「私は義務に屈しよう つらい 残酷な
ただ義務に服した生活、青春は今終わった」
しかし、その矢先、ゲッベルスに失態を取り戻すチャンスが巡ってきました。
ユダヤ人青年によるドイツ大使館員射殺事件が起こります。
ゲッベルスは、ユダヤ人を敵視する演説を行いました。
これを引き金に、ナチ党の若者たちは、ドイツ中のユダヤ教会ユダヤ人商店を焼き討ちします。
この時の迫害は、ゲッベルスにとっては点数稼ぎにすぎなかったのかもしれません。
ナチス・ドイツは、こうして反ユダヤ政策を加速させていくのです。
1945年4月、ベルリンに向けてソ連軍の総攻撃が始まりました。
敗戦が濃厚となる中、ヒトラーの側近たちは、次々と彼の元を逃げ去っていきました。
しかし、ゲッベルスだけは、最期までヒトラーと生死を共にしました。
1935年、ヒトラーは、第1次世界大戦の敗北によって定められていたドイツの軍備制限を破棄すると宣言・・・ドイツ再軍備宣言!!
これをきっかけに、世界は再び戦争へと突き進みます。
ヨーロッパ諸国と対立し、孤立が深まる中、ヒトラーは日本との同盟を模索します。
日本は、ドイツと同じくソ連を仮想敵国としていました。
そこで、ゲッベルスは、国民への日本のイメージアップのため、あるプロパガンダを実行します。
日独合作映画「侍の娘」です。
これを、ドイツ国内で、大々的に公開しました。
日本人の恋人と日本を訪れたドイツ人の女性が、日本文化を体験するストーリーです。
この作品は、俳優・原節子の初主演映画でもありました。
ドイツでの封切には、ゲッベルスをはじめ、ナチ党幹部が出席するほどの力の入れようでした。
1939年9月、ナチスドイツはポーランドに侵攻。
さらに、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、そしてフランスを、1年足らずで占領します。
しかし、戦線を拡大しすぎたドイツ軍は、1943年スターリングラード攻防戦でソ連軍に敗北します。
そんな流れを断ち切ろうと、国民を鼓舞する演説会が大々的に開かれました。
この時、ヒトラーはあまり表に姿を見せなくなっていました。
戦局が悪化していたからと言われています。
壇上に立ったのは、ゲッベルス!!
ヒトラーの代わりに1万5000人の聴衆に訴えたのです。
彼にとって、一世一代の演説でした。
「諸君は総力戦を望むか?
諸君に問う、勝利を勝ち取るため、総統に従っていく決意はあるか?
苦難を共にし、最も重い負担に耐える覚悟はあるか?」
ゲッベルスは、渾身の演説でヒトラーの代役を完璧に演じました。
この演説は、ラジオでも全国に中継され、ソ連やアメリカとの戦いに総力戦が訴えられました。
「これより先、我々のスローガンはこうだ!
”人々よ、立ち上がれ、そして嵐を起こせ”」
しかし、ゲッベルスの演説の甲斐なく、ドイツ軍は次々と敗退していきました。
1945年4月、ソ連軍による首都ベルリンへの砲撃が始まりました。
ドイツの敗北は決定的となりました。
ヒトラーは、がらんとした総統官邸の地下壕で、最期の時を待っていました。
そばに付き従っていた高官は、もうゲッベルスしかいませんでした。
ヒトラーは、ゲッベルスにベルリンの防衛が敗れた場合は、ベルリンを去り、新内閣の首相になるように命じました。
そして・・・ヒトラーは、直前に結婚式を挙げたエヴァ・ブラウンと共に自ら命を絶ちました。
ヒトラーにドイツの将来を託されたゲッベルス・・・
しかし、
「私は生涯で初めて総統の命令に背かざるを得ない
どんなことがあっても、総統の傍らで命を終える覚悟であることを断固として表明する
総統のために奉仕することができなければ、私の命などもはや価値のないものだ」
ヒトラーの死の翌日、ゲッベルスは家族と共にヒトラーの後を追いました。
47年の生涯でした。
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