随感録 (講談社学術文庫) [ 浜口雄幸 ]

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どうすれば軍備を縮小し、争いの芽を摘み取れるのか・・・??
世界はその答えを探し続けてきました。

国同士が抱く不信感が軍事的な緊張を生み出し、それが更なる不信感となる・・・
戦争とは、得てしてそんな悪循環の中から始まる・・・。

1941年のハワイ真珠湾攻撃で、アメリカと日本が不信の連鎖が生み出す対立の末に悲惨な戦いへと突入していきました。
しかし日米開戦の11年前、その事態を防ぐべく、行動を起こした政治家がいました。
第27代内閣総理大臣・浜口雄幸です。
その浜口が政治生命をかけて臨んだのが、1930年のロンドン海軍軍縮会議です。
軍艦の数を互いに制限することで生まれる信頼関係が、日本が繁栄を勝ち取る唯一の道だったのです。
しかし、その浜口に真っ向から対立したのが、日本海軍でした。
アメリカは・・・ハワイ併合、フィリピンの植民地化・・・強い海軍力が必要・・・??

1870年4月、高知市を望む山間のちいさな集落の家に、浜口雄幸は三人兄弟の末っ子として生まれました。
付近の山林を管理する役人だった父は、才能さえあれば立身出世できる新しい時代に、子供たちの教育に力を注ぎました。
雄幸は15歳までの多感な時期をこの山間の村で過ごします。
高知市内の中学校まで片道2時間をかけて通った雄幸は、帰ってきたら離れの勉強部屋に籠っていることが多くなります。
学校での成績は常にトップ、めったに笑わない、むっつりと常に黙っている少年でした。
中学へ進学しても変わらず、しかし、仲間内でも一目置かれる存在に・・・。
いかつい武士のようにとっつきにくいけれど、他人への思いやりに満ちた男で、周りの人々の信頼を得て行くようになります。

1895年東京帝国大学卒業後、大蔵省に入省。
不器用な性格が災いし、上司とぶつかり左遷もされるも、堅実な仕事ぶりが評価され、頭角を現すように・・・。
ところが、45歳で大蔵省に辞表を提出。
1915年立憲同志会に入党。
どうして浜口は、高級官僚の職を投げ打ち、政治家を目指したのか??
そこには、彼の生まれ育った土地柄と関係が・・・。
明治前半の高知では、盛んに政治集会(自由懇親会)が行われ、人々が自由に集い、要求を掲げていました。
自由に声を挙げて、日本を良くしていこうという熱気の中に、少年浜口も身を置いていたのです。

「先輩が、政治思想の養成に必死の努力を払われた結果、言論の発達、驚くべきものあり。
 自然にその気風を受けて、同好の友人達と共に、附近の小学校の校舎を会場として、盛に討論会をやったものである。」

浜口が政治家になって3年・・・
浜口は数多いる新人政治家の中でも、特に一目を置かれるようになっていきます。
世の人々は、大いに期待し、信用している・・・なぜなら、官僚が一時の気まぐれに政治家を目指したものではないと信じたからです。
浜口は、官僚として培った経験と人脈を買われ、大蔵大臣、内務大臣を歴任!!
その頃・・・世界は歴史の大きな転換点に立っていました。
第一次世界大戦・・・・。
戦車、飛行機、毒ガス・・・新兵器が次々と戦場に送られ、死傷者は1千万人に・・・!!
戦後、このような悲劇を二度と起こしてはならないという反省から、1920年国際連盟発足。
国同士の利害を調整しながら戦争を未然に防ごうという試みが行われます。
その一方で、緊張が高まっていたのが、国の統一の機運が高まる中国での情勢でした。
4億人を越える巨大市場に、アメリカ、イギリス、フランス、日本が権益拡大を狙っていました。

1929年7月、浜口雄幸が第27代内閣総理大臣に・・・
欧米諸国との協調と、軍備縮小を掲げて・・・!!
その背景には、恐慌と軍備拡大によって疲弊していた日本の経済を立て直したいという強い思いでした。

「我等は、世界人類の間に、平和愛好の精神を具体化し、我が外交政策の基調と為し、以て世界の進運に寄与しつつ、帝国の前途を開拓することを以て、我国の使命となすべきであると信ずるのである。」

首相に就任して4か月後・・・
浜口は、自らの代理である全権団を組織し、命運をかけた国際会議に送り出します。
1930年1月・・・ロンドン海軍軍縮会議です。
イギリス、アメリカ、日本の3か国にフランス、イタリアを加えた5か国がロンドンに集まりました。
会議は、国と国の利害と思惑がぶつかり合う、熾烈な国際交渉の場となっていきます。
中でも激しく対立していくのが、日本とアメリカ・・・!!
第1次世界大戦を経て、経済的にも軍事的にも世界の超大国となったアメリカ・・・世界最強の戦艦部隊を持ち、強大な海軍力を誇っていました。
日本の海軍は、そんな状況に、強い危機感を覚えます。
アメリカに太刀打ちできる軍艦を持たなくては、いずれ抑え込まれてしまうのでは・・・??
不信感が高まっていました。
そんな対米不信の急先鋒が、海軍の作戦立案の責任者、海軍軍令部長の加藤寛治大将でした。
その原因は、およそ10年前・・・1921~22年のワシントン海軍軍縮会議でした。
そこで、戦艦など・・・主力艦の持てる量を国ごとに定めた会議で、日本は対米7割を主張したものの、認められたのは6割・・・。
そこには、攻める側が守る側を屈服させるためには1・5倍の兵力が必要という世界の海軍関係者が共有している軍事的常識が関係していました。
どうして日本に対してアメリカが強く出るのか・・・攻めてくる意図があるのではないのか・・・??
対米6割・・・そこで、加藤が目を付け増強したのが、ワシントン軍縮会議で対象となっていない補助艦艇の強化でした。
戦艦に次ぐ攻撃力を持つ巡洋艦と、敵を待ち伏せする潜水艦・・・
ところがロンドン軍縮会議では、これらの補助艦も制限の対象になろうとしていました。

そこで日本海軍の要求は・・・??

①大型巡洋艦・・・・対米7割
②潜水艦・・・・・・・・78,000トン
③補助艦艇・・・・・・対米7割     でした。

浜口は、この海軍の要求を受け入れました。
全権団の代表として国際協調に深い理解のある若槻礼次郎を選び、交渉の行方を委ねます。
こうしてロンドン軍縮会議が幕をあけました。
交渉相手はアメリカ全権代表のスチムソン国務長官です。
アメリカ側の要求は、日本にとって厳しいものに・・・

①大型巡洋艦・・・・対米6割
②潜水艦・・・・・・・・全廃
③補助艦艇・・・・・・対米6割     だったのです。

これに対し、若槻は真っ向から対立していきます。

東京で待つ浜口の元では、逐一電報で会議の様子が知らされていました。
イギリスやアメリカの代表団からは、日本が歩み寄るべきだと揺さぶりがかけられます。
こうした圧力に若槻が食い下がります。
するとスチムソンは妥協案を・・・
交渉開始から2か月の3月15日、若槻全権から浜口のもとに妥協案の電報が・・・。
それは、日米療法が、譲歩に譲歩を重ねての結果でした。

①大型巡洋艦・・・・対米6割
②潜水艦・・・・・・・・52,000トン
③補助艦艇・・・・・・対米6.975割   

これ以上は譲歩は望めず、いたずらに押し返せば、会議は決裂する・・・!!
しかし、妥協案に強固に反対する者が・・・加藤寛治です。
一見、アメリカも譲歩しているように見えて、到底考慮の余地なし!!
これでは、日本の国防の責任は持てない・・・。
不満を抱いた加藤は、交渉中の外交秘密を新聞に発表!!
国民に訴えかけるという禁じ手に打って出たのです。

国際協調する・・・??
対外強硬する・・・??

ロンドンにいる若槻全権から最終回答案が来てから1週間・・・浜口は決断を下せずにいました。
そんな浜口を後押ししたのは国民の声・・・
1930年2月20日の第2回普通総選挙では、国際協調を説く浜口らの民政党が圧勝していました。
改心の勝利・・・さらに決断した決定的な出来事は・・・
3月27日、昭和天皇から参内するように申し付けられ宮中に向かった浜口・・・

「世界の平和のため、早くまとめるよう努力せよ」by昭和天皇

天皇に拝謁した日の午後、加藤が浜口の元へ・・・。
若槻からの妥協案を押し返すべきだという加藤に、浜口は
「これ以上交渉を先延ばしにすることはできない。
 もはや、決断の時だ。海軍の事情は理解したので、あとは自分の責任で決めさせてもらう。」
浜口が下した決断は・・・国際協調でした。

1930年4月22日、ロンドン海軍軍縮条約調印。

一方、面目を潰された海軍強硬派は、反発を強めていきます。
軍令部長の加藤が頼ったのは、東郷平八郎元帥でした。
東郷は、1905年ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦に破った国民的英雄でした。
加藤と東郷は、浜口の判断は軍事的越権行為であると攻め、条約を審議する枢密院で廃案に追い込もうとします。
再び苦しい立場の浜口を後押ししたのは、やはり国民の声でした。
6月18日、ロンドンから若槻全権代表が帰国・・・15万を越える人々が熱烈に出迎えました。
一方の東郷には天皇が使いをだし、これ以上口出ししないように暗に伝えさせました。

「東郷もそろそそ達観すべき。。。」

東郷が身を引いたのが決め手となって、10月2日、ロンドン海軍軍縮会議批准。

その3週間後の10月27日、日本、アメリカ、イギリスの各首脳が協約の成立を祝い、それぞれの国民にメッセージを送るラジオ放送が・・・。
浜口は、いつものように笑顔を見せることもなく呼びかけます。
「ロンドン海軍条約は、人類の文明に一新紀元を画したるものであります。
 今回の条約は、国際的平和親善の確立に向かって大なる一歩を進めたるものでありまするが、我々は今後益々この崇高なる事業の進展を切望してやまざるものであります。」

1930年11月14日、この日、浜口は東京駅4番線ホームから岡山に向かう特急に乗ろうとしていました。
近づいてきた一人の男が、至近距離から銃弾を浜口に浴びせたのです。
銃弾は下腹部に命中、内臓を傷つけ、腰骨を砕いていました。
運び込まれた東京駅の駅長室で・・・浜口はつぶやきました。

「男子の本懐だ。。。」

浜口はこの傷が元となり、1931年8月26日死去・・・61歳でした。

現場で捕らえられた21歳の青年は、取り調べに際して・・・

「軍部の意見を無視して、米国の主張に屈し、軍備縮小条約を締結したのは、一大汚辱であり、国家の存立を危うくすると憤慨した。」と述べていました。

浜口の死を、国民は大いに悼みます。
8月29日、東京日比谷公園で行われた葬儀には・・・15万にも及ぶ人が参列しました。
しかし、その僅か3週間後・・・国民は、新たな熱狂へと・・・!!

1931年9月18日、満州事変勃発!!

満州全域を支配下に置こうとする陸軍の行動を、国民は熱烈に後押しし、日本は軍国主義の道を突き進んでいきます。
一方海軍では、ロンドン軍縮条約に賛成した穏健派が海軍を追われ、強硬派が台頭していきます。
やがて、軍縮条約から脱退・・・
そして、数ではかなわないアメリカの戦艦を質で圧倒しようと「大和」「武蔵」の建造に着手しました。
こうして陸海軍は、悲劇的な結末に終わる太平洋戦争へと突入していくことになります。



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