NHKさかのぼり日本史(6)江戸 “天下泰平”の礎

幕末、日本に開国騒動を巻き起こしたのは、黒船来航です。
しかし、それを遡ること50年・・・もう一つの黒船騒動がありました。
1906年9月12日「露寇事件」です。

ロシアが南下してきた軍事衝突です。
当時、出島で限られた国としか交易していなかった江戸幕府・・・
ロシアは開国と通商を求め武力で迫って来ます。
震撼する日本・・・!!
ここで初めて日本は、国防を意識し、国境を知るのです。
おまけにここに来て初めて鎖国を宣言したのでした。

露寇事件・・・
対外国という意味では、13世紀の蒙古襲来以来の大事件でした。
この頃から太平の眠りから覚めることになる日本。。。
ここに近代日本が出発したのかも知れません。
そして・・・日露関係のスタート地点ともなるのです。

文化年間・・・庶民のための文化が花開くのどかな時代に・・・
衝撃が走りました。
それが露寇事件だったのです。

首謀者はニコライ・レザノフ。
ロシア帝国の外交官でした。
このレザノフの命令を受けた軍人たちが、突然北方の島々に紛争を仕掛けたのです。
文化3年9月樺太・文化4年4、5月択捉島・5、6月利尻島・・・と次々に焼き払われ、食料が略奪されます。
しかし、この事件についての文献はほとんどありません。

鉄砲を撃つことが殆どなくなっていた日本・・・
200年前の・・・戦国時代の武器を使っていた日本・・・
被害は大きくなかったものの・・・その圧倒的な力に日本人は怖れ慄いたのです。

ロシアは毛皮が欲しい!!
毛皮交易は・・・16~19世紀に行われ、ロシア北米で発展しました。
特にラッコの毛は珍重されていたのです。
ロシアで生産し、中国で売る!!

1799年露米会社を設立し、レザノフが総支配人となっていました。
毛皮交易と植民地経営を目的とし。。。
日本近海が、ロシアにとって重要・・・国家の財源としての良質の毛皮が欲しかったのです。

当時のロシアは急速に領土を拡大していました。
西はナポレオン戦争、東はアラスカにまで勢力を伸ばしていました。

日本をその拠点にしたかたレザノフ・・・どうして攻撃したのでしょう??
2年前の長崎・・・

1804年9月6日レザノフ長崎来航。
ロシア皇帝の親書を以て意気揚々とやってきますが・・・幕府は上陸を拒否し、24時間体制の監視下に置きました。
来日して2か月半・・・陸の上でも軟禁状態に置かれます。
レザノフは日本語が話せたようです。
東北からロシアに流れ着いた漁師たちに教わっていたのです。
日本に対する関心の深さが伺えます。
現場の日本人たちも友達のようになっていきます。

そんな中幕府は・・・通商か鎖国かで悩んでいました。
レザノフを怒らせて帰らせる???
1805年3月日露会議。

レザノフに伝えられたのは・・・
「わが国は、唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外とは通交通商しない」
というものでした。
そして・・・
「再び来ることを費やすことなかれ。」
と言ったのでした。
この時初めて、外に向けて鎖国を表明したのです。

半年待たされたレザノフ・・・期待を裏切られたレザノフ。。。
幕府の結論を受け入れることができなくて・・・攻撃を命令してしまったのです。

この事件に幕府が下したのは・・・
1807年4・5月東北諸藩に蝦夷地への出兵を命令!!
当時の蝦夷地は、松前藩があるだけで他の土地はアイヌの土地でした。
1802年東蝦夷地上知。
1807年西・北蝦夷地上知。
段階的に直轄地としていきます。

幕府にとって蝦夷地の重要性が増していきます。
そして・・・津軽藩・秋田藩・南部藩・庄内藩が蝦夷地に向け3000人の軍勢が出陣しました。
箱館・宗谷・斜里などに配備されます。
軍事的緊張がピークに・・・!!

おまけに兵士たちは、食べるものもなく、気候も・・・なれない土地での生活に、病気になったりして弱っていきます。
彼等の病気は”浮腫病”・・・”脚気や壊血病”でした。
この惨状を救ったのは、松前藩。。。幕府に上申書を出します。

”蝦夷地全域を、守ることは難しい・・・
 民命に関わる問題だ・・・”と。。。

整備縮小された東北の軍・・・
1808年6月帰国命令が出されたのでした。
斜里詰津軽藩士105人中74人が死亡・・・この間にロシアの船は一度も現れなかったのです。
未開の・・・地図もない蝦夷地のあまりに悲劇でした。
この後、伊能忠敬や間宮林蔵が活躍していくのです。

露寇事件の後も、北方では緊張状態が続きます。
幕府はロシアと交戦状態にあると考えていたのです。
そんな中起きた事件が・・・
1811年6月4日ゴローニン事件勃発。
ディアナ号を拿捕、船長以下8人を捕縛しました。

露寇事件の報復措置だと思っていた日本。。。
露寇事件は決着したと思っていたロシアには寝耳に水でした。
副艦長のリコルドは報復として1812年8月14日北前船「観世丸」を拿捕。

この時ロシアに連れて行かれたのが、高田屋嘉兵衛でした。
この嘉兵衛がロシアとの緊張を解いていきます。

名字帯刀を許された御用商人の嘉兵衛、幕府の信頼も厚く一目置かれていました。
嘉兵衛は交易船を繰り出し・・・蝦夷地全域で商いをしていました。
なので、アイヌの人からロシアの現状も聞いていました。
民間人でありながら幕府にも内通し、国際感覚も持っていた嘉兵衛。。。
日本とロシアの溝を埋めたいと考えていました。
世の中のためにロシアで一肌脱ごう!!
捕虜ではないので対等でなければならない・・・嘉兵衛はロシアで食い扶持を自分で賄います。
が・・・その結果栄養不足で病に倒れます。
それでも毅然とした態度を貫いた嘉兵衛。。。

ロシアに連行されて4か月・・・リコルドに提案します。

「蝦夷地で行った乱暴は、公式に詫びさえすればゴローニン艦長は許されて自由の身となるだろう。」by嘉兵衛

ロシアは露寇事件は国家としての命令ではなかったと、書簡を発行し、嘉兵衛に持たせて帰らせます。

1813年9月16日リコルド箱館来航。
ロシアとの全面戦争をしたくなかった幕府も、渡りに船と会談をします。
そして・・・ゴローニン達は全員ロシアへ・・・嘉兵衛も日本に・・・。
9月26日、ゴローニン事件は解決したのでした。

ここに・・・ロシアとの緊張関係も終わりを告げたのでした。
露寇事件を通じて、対外関係の難しさを知った日本・・・
50年後のペリー来航にはこれを生かしたといいます。

嘉兵衛に対する幕府からのお礼は小判5枚・・・
現在の価値で20万円だったといいます。

ロシアに限らず外国と紛争を起こしたら大変なことになる・・・

将軍の御威光・メンツをつぶさない様に、しかし、紛争を起こさないような解決をとらなければいけない。
大きく負けないためには小さく負け、プライドを守る!!

露寇事件によってロシアと紛争になってしまった。。。
”発端から考え直そう”という考え方が・・・誤解を解いて再検討が大切なのです。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

幕末・明治時代(日本史) ブログランキングへ

ロシア人の見た幕末日本

新品価格
¥3,024から
(2014/6/5 10:42時点)

時代小説で読む! 北海道の幕末・維新: 歴史を愉しむブックガイド

新品価格
¥1,728から
(2014/6/5 10:43時点)