日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ラバウル

南太平洋のガダルカナル島・・・今から77年前、このジャングルで日本軍とアメリカ軍が死闘を繰り広げました。
森の至る所に戦争の爪痕が残っています。
死者2万人以上、ガダルカナルは地獄の戦場といわれ、島で戦った日本陸軍の一木支隊は、最強の精鋭部隊といわれましたが全滅・・・
その責めを負い自殺したとされる指揮官・・・陸軍・一木清直大佐・・・
無謀な突撃にこだわり大敗北を招いた張本人として非難を浴びてきました。

謎だった日本軍の無謀な戦い・・・
日本と戦った米軍の上陸部隊は1万人・・・わずか900人の一木支隊と比べると、圧倒的な大兵力の部隊でした。
一木支隊は米軍の周到な罠にはまっていきます。
そして、部隊全滅の影に、陸海軍の熾烈な対立があることがわかってきました。
海軍はアメリカの艦隊をおびき寄せて叩くために、陸軍を囮にする作戦でした。
陸海軍の対立が深まり、補給が滞る中、すさまじい飢えが兵士たちを襲います。
日本は敗戦に向かう転換点が、ガダルカナルの激戦です。

ガダルカナル島は、日本からおよそ6000キロ・・・
アメリカと日本は、6か月にわたってこの島で激戦を繰り広げました。
ここは、日米が初めて総力戦を始めた場所でした。
喉かな南の島で、血で血を洗う戦いが行われました。

日本軍が作った島で唯一の飛行場・・・ホニアラ国際空港(旧日本軍飛行場)を巡って、日米は激突しました。
日本海軍は現地の住民を使い、森を切り開き、建設を進めていました。
800mの滑走路を備えた飛行場は、重要拠点となるはずでした。

1941年12月8日、真珠湾攻撃で、連合国との全面戦争に突入した日本・・・
米軍の拠点ハワイとオーストラリアの線上にあるガダルカナル島に着目します。
ここで制空権を得れば、連合国を分断し、更に優位に立てる・・・!!と。
危機感を募らせたアメリカは、飛行場を占領し、制空権を奪おうと計画します。

米軍の飛行場占領作戦とは・・・??
残されたフィルムによると・・・。
1942年8月7日、アメリカ海兵隊がガダルカナル島上陸!!
1万人の兵力で、たちまち完成間近の飛行場を占領!!
米軍機を迎えるために、整備を進めました。
そして・・・圧倒的な火力で、飛行場奪還に現れた日本軍を撃退します。
全滅し、大地に横たわる日本兵・・・わずか900人で、10倍の兵と戦った結果でした。

この時殲滅したのは、陸軍屈指の精鋭部隊といわれていた一木支隊。
兵を率いた一木清直大佐は、敵を侮り、自信過剰、無謀な作戦、偵察をせずに突撃、致命的なミスをしたとして、轟々たる非難を浴びてきました。
一木大佐はどうして隊を全滅することとなったのでしょうか?

ガダルカナルの敗北の責めを負った一木大佐・・・しかし、部隊全滅の影には、日本軍の組織の抱える問題がありました。

1942年8月7日、大本営・・・
ガダルカナル米軍上陸の報せは、直ちに大本営にもたらされました。
陸海軍の作戦参謀が一堂に会して、飛行場奪還作戦のための緊急会議が行われました。
両軍の議論を資料を基にすると・・・

この2か月前の6月5日、ミッドウェー海戦で敗北、空母4隻を失い、報復の機会をうかがっていた海軍・・・
一方の陸軍は、中国やアジア各国で勝利し、向かうところ敵なしと自信を深めていました。
米軍を倒すべく、初の陸海軍共同作戦が行われようとしていました。
陸海軍は、それぞれ、連合艦隊(海軍部)と第17軍(陸軍部)に作戦準備を命令。
海軍は艦隊と航空艦を、陸軍は歩兵部隊を派遣し、連携して飛行場を奪還する作戦でした。
この時、白羽の矢が立ったのが、中国戦線で名を上げた陸軍・一木支隊でした。

一木支隊の故郷は北海道の旭川・・・
彼等が出征の直前、必勝祈願を護国神社で行います。
その時、境内で撮った写真が残っていました。
総勢2000名、農家出身、20代の若者が厳しい訓練を経て精鋭部隊に・・・!!
その強さは・・・日本最強であったと、今も地元で語り継がれています。
その隊員たちは、ほぼ全滅となりました。


飛行場を奪還する初の陸海共同作戦・・・海軍の側はどう動いたのでしょうか?
ガダルカナル島の沖合で、沈没船の調査が行われています。
この調査は、戦艦武蔵を発見した実績を持つ国際的なチームが行っています。
無人潜水艇で、日米の戦いの痕跡を探す・・・。
沈んだ軍艦・・・アメリカ重巡洋艦クインシー・・・
日本海軍の攻撃で、船体に大きな穴が開き、沈没したようです。
海軍の作戦は、アメリカが飛行場を占領したその日のうちに始まりました。
指揮官は、第八艦隊司令長官・三川軍一中将。
闇に紛れた奇襲を決断します。
攻撃目標は、米軍の輸送船団!!
空母や巡洋艦に護衛されていました。
夜、10時50分・・・連合艦隊はアメリカの艦隊を発見!!
しかし、すぐに攻撃を仕掛けず夜の闇に紛れて敵陣深く忍び込みました。
11時38分、攻撃開始!!
連合艦隊は重巡洋艦クインシーなど巡洋艦4隻を沈め、他、3隻に大ダメージを与えます。
ミッドウェー海戦の敗北以来、久々の大戦果を挙げた海軍!!
勝利は大々的に報じられました。
しかし、海軍はこの戦いで大きなミスを犯します。
空母や巡洋艦への攻撃を優先する・・・当初の目的だった輸送船団を見逃していたのです。
米軍は、補給が途絶える危機を脱し、武器や食料を受け取ります。
ラバウルの陸軍第17軍司令部は、この海軍の判断を非難します。
一木支隊の作戦を担当する参謀長の二見秋三郎少将の手帳には、海軍に対して痛烈な批判が書かれていました。

”ニュース、海軍大々的ニ報ズ
 ヤリ方ナマヌルキコト多ク 全クキガシレズ”

海軍のミスでアメリカの兵力は増強され、一木支隊にとって不利な状況が増していきます。

共同作戦と言いながら、優先順位が食い違う海軍と陸軍・・・大勝利の影で、亀裂が生じようとしていました。
一木支隊の上陸地点は、ガダルカナル島のタイボ岬・・・
日本軍のものとみられる船の一部が残されていました。
8月18日、一木支隊無血上陸に成功!!
一木大佐自ら隊を率いていました。
米軍が占拠する飛行場まで35キロ・・・行く手に残酷な運命が待ち受けていることに兵士たちは気付いていませんでした。
一木支隊のこれまでの行動がアメリカで新事実として発見されました。
戦場でのそれぞれの出来事を時間ごとに細かく記入されている・・・併せて1000ページを超える米軍機密文書・・・。
米軍陣地の突破を図った一木支隊が、反撃を受け殲滅されるまでが分刻みで細かく書かれています。

陸軍屈指の精鋭部隊が全滅・・・その始まりは、作戦を立案した大本営陸海軍の参謀が、米軍の兵力を見誤ったことでした。
1942年8月10日・・・
海軍の情報を元に、陸軍は推定2000人と見積もりました。
しかし、実際は1万人・・・!!
致命的なミスが生れていきます。
謎をさらに深める資料・・・日本海軍がアメリカに潜入させていたスパイの極秘情報として、
「今朝、大船団が戦車や軍隊を乗せて南太平洋方面へ向かった」
海軍は、偵察に当たった航空機の情報からも、米軍輸送船団の動きを掴んでいました。
海軍参謀・佐薙毅・・・輸送船団の数から敵兵力は1個師団(1万5000人)と、的確に見積もっていました。
それを狂わせたのが、連合艦隊が夜襲でアメリカ艦隊を撃破した戦いの勝利でした。
戦果を受け、陸海軍の参謀は、見積もりを削減。
輸送船団は、大部分の兵を乗せて撤退したと判断し、残る兵力は2000と考えたのです。
一木支隊が所属する陸軍第17軍司令部は、見積もりに疑問を持ちました。
二見参謀長は、すでに上陸を果たして空港の占領を続ける米軍は、8000人はいると考えていました。
初公開の手帳にこう書いています。

”海軍急グモ不安 一木支隊ヤレズ”

敵の数がはっきりしない中、攻撃をせかす態度に不安を抱いていました。
二見参謀長は、一木支隊の進軍に待ったをかけようとしていました。
ところが、陸軍参謀本部のナンバー2・参謀次長から電報が入ります。

”速やかに(飛行場を)兌換することを考えよ”

米軍機が配備され、戦況が不利になる前に、飛行場奪還を求めたのです。
二見参謀長は、大本営の命じるまま、一木支隊の進撃を認めるしかありませんでした。

8月19日、一木支隊は飛行場を目指し、行軍を続けていました。
兵士から慕われていた一木大佐・・・作戦を遂行する上で、敵の情報が全くないことを問題視していました。
8月19日8時30分・・・偵察部隊派遣
偵察部隊はジャングルに身をかくし、西に向かいました。
ところが、米軍はジャングルに周到な監視体制を敷いていました。
小さなマイクを無数にしかけ、日本の隠密行動を丸裸にしました。
さらに鉄条網を張り巡らせ、万全な迎撃態勢を取っていました。

偵察部隊38名は、米軍の待ち伏せ攻撃にあい全滅!!
これまで無謀な作戦を非難されてきた一木大佐・・・
作戦を続けるべきか司令部の判断を仰ごうにも連絡できない状況に置かれていました。
どうして通じない・・・??
陸軍司令部のあるラバウルは、ガダルカナルから1000キロと遠く、無線が届きません。
海軍の潜水艦が中継することとなっていました。
ところが、この共闘作戦に潜水艦は任務を放棄し、もち場を離れていました。

何が起きていたのか・・・??
連合艦隊の動きは・・・??

”空母を含む敵機動部隊を発見”

この日・・・8月20日の9時、偵察に当たっていた海軍機が米空母を発見!!
連合艦隊は、周辺にいた全艦に出撃命令を出しました。
その命令に従ったために、一木支隊は無線連絡できない状況に置かれてしまったのです。
連合艦隊参謀長の宇垣纒・・・ミッドウェー海戦で大敗し、復讐に燃えていました。

宇垣の日記には・・・アメリカ艦隊をおびき出すためにガダルカナルの陸軍部隊を利用する策が記されていました。

”陸軍を種とし 囮となす”

陸軍が米軍と戦えば、救援のためにアメリカの空母が来る・・・そこをたたこうというのです。
海軍の中では、陸上部隊は待っていろ・・・アメリカの空母の方が大事だ!!という判断でした。
それで、陸軍側が非常に混乱と迷惑を被る・・・しかし、それはアメリカの空母をたたくことに比べれば大したことはない!!ということなのです。

アメリカの空母部隊を殲滅することを最優先した海軍・・・
一木達陸軍部隊をおとりにすることも作戦の一つでした。

孤立無援となった一木部隊・・・
一木大佐は、この作戦に当たって大本営から命令を受けていました。

”速やかに奪回せよ!!”

何より重要なのは、敵が使う前に飛行場を奪還すること・・・

この時、一木支隊は先遣隊の916名のみ。
遅れていた後続部隊の1000人の到着を待たずに命令に従って攻撃を急ぎました。
しかし・・・目標の飛行場に到着する直前に恐れていた事態が起きました。

8月20日16時・・・
アメリカ軍の戦闘記録によると・・・
”飛行場に味方の戦闘機が到着した”
米軍機31機が飛行場に配備され、制空権はアメリカの手に渡りました。

状況が悪化する中、一木支隊は望みを捨てず進軍します。
決戦に臨む兵士の日記には・・・悲壮な決意が書かれていました。

8月20日夜10時30分・・・
一木支隊、闇に紛れて飛行場に接近!!
その時・・・突然照明弾が光り、待ち構えていたアメリカ軍から攻撃を受けます。
日米が激突したイル河の河口・・・一木支隊が悲劇の最期を迎えた場所です。
無謀な突撃で自滅したと言われていた一木支隊・・・
全滅までの数時間、何が起こっていたのでしょうか?

日本側から見ると、川向うは少し高くて見えにくい場所にアメリカは軍をおき・・・米軍側からは河で足止めされた日本軍を上から見下ろせます。
アメリカからは、天然の要塞のような地形でした。
日本軍は丸見えでした。
待ち構えていたアメリカ軍は、一木支隊に二方向から十字砲火を浴びせました。
圧倒的な火力で攻撃するアメリカ軍・・・銃撃を避けようと川べりのくぼ地に身を潜めた日本軍・・・
しかし、それは罠でした。
アメリカ軍は、くぼ地めがけて迫撃砲を雨あられと打ち込んだのです。

敵の罠を察知した一木大佐は、部隊に突撃中止を命じました。
その時、米軍の戦車隊が出現!!逃げ道を塞ぐように側面から背後に回りました。
日本軍を袋小路に追い込みます。
それは、日本海軍が海の戦いで見逃した輸送船団が運んだ兵器でした。
行き場を失った一木支隊は、狭い砂洲を進みます。
しかしそこはアメリカ軍の攻撃が集中する最も危険な場所でした。
絶体絶命・・・!!
その時、夜が明けて・・・

8月21日6時7分・・・日本海軍の基地からゼロ戦が緊急発進!!
向かった先は、一木支隊が戦う陸の戦場ではなく、海でした。
米軍の空母発見の報せに攻撃命令が下ったのです。
一木支隊が全滅の危機にあっても、海軍は空母攻撃を優先させました。
同じころ、島の飛行場から米軍機が離陸・・・僅かに残った一木支隊に機銃掃射を・・・!!

午前10時25分、空母を見失ったゼロ戦が、ガダルカナル島上空へ・・・!!
しかし、時すでに遅し・・・一木大佐と共に部隊は全滅・・・。
部隊の殆ど・・・777人が命を落としました。

作戦失敗の報せがラバウルの陸軍司令部に届きました。
一木支隊の派遣に不安を抱いていた二見参謀長は日記にこう綴っています。

”夜12時 一木全滅の報あり 寝られず 寝られず”

一方、海軍側の反応は全く異なるものでした。
宇垣参謀長の日記では・・・
”敵を軽視”したことが作戦失敗としていました。
海軍は、自分たちの行動が、一木支隊の全滅に関わったとは受け止めなかったのです。

陸海共同作戦とは名ばかり・・・それぞれ全く別の戦いを進めた陸軍と海軍・・・
部隊全滅の原因を見極めようとはしませんでした。
一木大佐は責任を取って自決したとして幕引きが図られたのです。
一木大佐の娘は、部隊の全滅を知らされても、秘密を守るように軍に口止めされました。

大本営は、その後もガダルカナルに小出しに部隊を送り込みます。
敗北を重ねるたびに兵力を増やし、日本人延べ3万人以上が戦いました。
一木支隊で辛くも生き延びた敗残兵は、帰国も敵わず密林で戦い続けました。
そしてそれは、更なる悪夢の始まりでした。

一木支隊が全滅した後、アメリカ軍は飛行場を拡張し、戦闘機の数を増やしていきました。
日本軍の輸送船が島に近づくたびに、襲い掛かります。
食糧の補給も途絶え、生き残った一木支隊の兵士たちは地獄を見ます。
兵士たちは次々と飢餓に斃れ、命を落としていきました。

1942年12月・・・
このまま戦いを続けるか、撤退をするのか??陸海軍が衝突していました。
日本軍がガダルカナル島から撤退したのは、一木支隊が全滅してから半年後・・・1943年2月のことでした。
この間に、1万5000人が飢えと病で命を落としました。

アメリカ軍は、次々と太平洋の島に上陸し、日本を追いつめます。
日本は、陸海軍の対立が続く中、人命を軽視した戦いが続きます。
1943年11月ギルバート島タワラ
1945年2月硫黄島
1945年4月沖縄
終戦までに犠牲者は300万人を超えました。

組織の狭間で無謀な戦いを強いられた一木支隊・・・
日米の激闘で地獄の戦況と化したガダルカナル島・・・
日本軍の組織の論理は悲劇の指揮官を生んでいました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

ガダルカナルを生き抜いた兵士たち 日本軍が初めて知った対米戦の最前線 (光人社NF文庫) [ 土井全二郎 ]

価格:750円
(2019/8/20 19:55時点)
感想(2件)

ガダルカナル勝者と敗者の研究 日米の比較文明論的戦訓 (光人社NF文庫) [ 森本忠夫 ]

価格:802円
(2019/8/20 19:55時点)
感想(1件)

水木サンの幸福論【電子書籍】[ 水木 しげる ]

価格:626円
(2019/1/28 14:15時点)
感想(0件)



「ゲゲゲの鬼太郎」・・・鬼太郎をはじめねずみ男、一反木綿などのキャラクターは、50年以上愛され続けています。
作者の水木しげるがよく口にしていたのは・・・「なまけ者になりなさい」でした。
しかし、水木の人生は怠け者ではいられない大変なものでした。
太平洋戦争の激戦地へ行かされた水木は爆撃で左腕を失ってしまいます。
終戦後漫画家になるも全く売れず、食うや食わずの極貧生活・・・
40歳を過ぎてようやくゲゲゲの鬼太郎が大ヒット!!
すると、締め切りに追われる日々が始まりました。

大量のスケジュール帳には、仕事に追われハグルマのように動く人格を失った自身の姿が書かれていました。

「仕事の鬼になって何のために生きてきたのかわからない一生を送るのがいいのか、人間は結局、幸福になる方法を知らない・・・」

数々の経験を経て水木がたどり着いた怠け者の幸福とはどのような境地だったのでしょうか??

一反木綿、ぬりかべ、砂かけババア、猫娘、目玉おやじ・・・おなじみのキャラクター・・・水木は生涯で1000種類を超える妖怪を世に広めました。
どうして妖怪に興味を持ったのでしょうか?

1922年に生まれ、鳥取県境港市で海と山に囲まれ幼少期を過ごしました。
水木少年が大好きだったのが、眠ることと食べることでした。
5歳の頃、水木に大きな影響を与えることとなったのが・・・お手伝いさんの”のんのんばあ”でした。
のんのんとは、神仏に仕えることのことを指すこの地方の呼び名でした。
のんのんばあは、言い伝えや妖怪、不思議な話を聞かせてくれました。

境港市の正福寺は、のんのんばあによく連れられてきた場所で・・・
本堂に飾ってあるのが、地獄極楽絵図でした。
この絵に描かれている地獄を見て、死後の世界に強い興味を抱くことに・・・。

水木が弟と船着き場で遊んでいた時・・・疑問が浮かびます。
「人は死ぬとどうなるんじゃろう」
水木は3歳の弟を海に突き落としてしまいました。
たまたま通りかかった近所の人が助けて事なきを得たといいます。
そんな水木が何より情熱を抱いたのが絵を描くことでした。
1935年、13歳の時には天才少年画家現ると、絵が新聞に掲載されるほどの腕前で・・・
17歳になった時、絵を勉強しアンデルセンやグリム童話をヒントに手作りの絵本を作りました。
しかし、19歳の時平穏な生活に不穏な・・・
1941年太平洋戦争勃発!!
世の中は、戦争中心となり、水木少年もいつ徴兵されてもおかしくありませんでした。
近年見つかった直筆の手記には・・・

「画家だろうと、哲学者だろうと、土色に一色に塗られて死に場に送られる時代だ。
 もう、俺を苦しめるな、時代だ、運命だ、自己をすべて捨てて、死にながらにして生きるのだ。」

1943年、21歳の時、遂に招集され出征!!
むかったのは激戦が続く南太平洋・・・ニューブリテン島のラバウルでした。
水木はラバウルの中でも最前線に送られ、少数の舞台で敵軍を偵察していました。
しかし、その時・・・部隊が全滅!!
水木は慌てて崖から海に飛び込んで一人助かりました。
しかし、ここからたった一人、敵が潜むジャングルを通って味方の陣地にたどり着かなければならない・・・。
逃げている途中に装備を失った水木・・・どっちに進んでいいかもわからずジャングルを彷徨います。
この時、不思議な体験をしました。

「ジャングルを前へ前へと進んでいると、どうした訳か一歩も前へ進めなくなってしまった。
 僕はあまりの意外さに、闇の中に手を押し当ててみた。
 押してみると指が入った。
 あまりの不思議さに右も左も触ってみた。
 それこそ、目の前にぬりかべが出て来たように進めないのだ。」

暫く進もうと試みたものの・・・馬鹿らしくなってその場で眠ってしまいました。
翌朝起きてみると・・・水木は驚きます。
そこは切り立った崖の上だったのです。
このまま進んでいたら崖から落ちていたところでした。
不思議な何かのおかげで命拾いをした水木・・・。
その後、日本軍と合流でき、奇跡的に生還を果たします。

「人間が生きているということは、自分以外にどんなものの力が作用しているかしれない。
 自分の意志以外の様々な要素が自分を生かしてくれている。
 軍隊生活で、それがわかった。」

ラバウルで所属部隊が全滅する中、命からがら帰ってきた水木しげる・・・この時、22歳でした。
しかし、数日後、命の危険が・・・マラリアでした。
高熱に苦しみ・・・よりによってこの時、敵の爆撃を受けることに・・・!!
左腕に重傷を負い、手術で腕を切断された水木・・・野戦病院に運ばれ、誰もが助からないと思った・・・その時・・・「食べたい・・・」と、食べ物を求めました。

必ず生きて帰る・・・

水木が戦場に持って行った「ゲーテとの対話」という本に・・・至る所に水木が線をひいています。

生きている限り頭をおこしていよう
まだものを生み出すことができる限り、諦めはしないだろうよ

手術から回復した水木は、片腕で絵を描き始めました。
目に映る風景、兵隊・・・
この頃、水木の人生に影響を及ぼす出会いが・・・
ある時、現地の村に行けばタバコと食料を交換してもらえると聞きました。
水木はさっそくジャングルを探し回り、現地のトライ族の村へ・・・!!
村の生活は農業を主体とした素朴なものでした。

彼らは1日に3時間ぐらいしか働かない
熱帯の自然は、それくらいの労働で十分に人間を食べさせてくれる
熱帯だから、衣料も住居も簡単でいい
人間が自然に対し、闘いを挑むのではなく、自然が人間を生かしてくれるのだ

それ以来、上官の目を盗んでは彼等と交流し、彼らを書き留めます。
すっかり村人と仲良くなった水木は、祭りで踊りを見せてもらったり、自分用の畑を作ってもらったりしました。
そんなある日、左腕の傷跡が変わってきたことに気付きます。

切った腕からかすかに赤ん坊の匂いがする・・・
なんだか生命が底の方から湧き上がってくる匂いだった
ぼくは何となく希望がわいた

村の暮らしの中で、生命力がみなぎってきました。

1945年8月、上官の命令を受けて集まった水木たちは、日本の敗戦を知らされました。
部隊は日本に引き上げる・・・水木はトライ族に別れを告げに行きました。
ところが。。。
「脱走してここへ残れ、家も建ててやる」
村の人々の熱心な誘いに心を打たれます。

人は大地に生まれ、大地に還っていく
金儲けや出世にあくせくせず、山や川、草木に抱かれて小動物や虫たちと一緒に暮らし、土に還るのもいい

その夜、上官に現地に残りたいと申し出ました。
しかし、とにかく一度日本に帰って両親に相談してからでも遅くはないだろうと帰国を勧められます。
迷いに迷ったが、帰国することに・・・この時、23歳でした。

1946年、24歳の時、故郷に帰ります。
両親と再会・・・

景色も明るく見えて仕方がない
利き腕の右手があるぞとむしろ気持ちが昂ってきた

戦後の混乱期、東京に出た水木は鮮魚店やタクシー会社・・・さまざまな職を渡り歩きます。
しかし、どれもうまく行かず・・・流れ着いたのが神戸。。。
1950年28歳、水木通りにあるアパートで暮らし始めました。
この時、人生の歯車が大きく動き始めました。
同じアパートの住人に紙芝居作家がいました。

これはいい商売だ
好きな絵を描いて金を稼げるなんて最高じゃないか!!

水木はその作家の紹介で、紙芝居の世界へ・・・!!

戦争が終わって内地に帰って、なにかもうけものをした人生
付録の人生という気がした
だったら、好きなことをして死のう!!

そして、アパートの名、水木荘からペンネームを得、終戦から6年・・・1951年、29歳の時に作家「水木しげる」誕生!!

ゲゲゲの鬼太郎・・・テレビ放送から50年、現在も親しまれています。
しかし、水木が鬼太郎を書きだしてからヒットするまで15年かかっています。
どうして大ヒットしたのでしょうか??
神戸で紙芝居画家となった水木・・・7年後、紙芝居に見切りをつけ上京します。
1957年35歳の時でした。
翌年には「ロケットマン」で漫画家デビュー。
その後も次々と漫画を描くものの、ヒット作に恵まれず、本と布団以外は質屋に入れる極貧生活でした。
1961年の正月、突然故郷の両親が訪ねてきます。
もうすぐ40歳だというのに未だ独身の水木・・・
見かねた両親がお見合いの話を持ってきたのです。
相手は地元の10歳年下の布枝という女性でした。
故郷に帰って布枝に会うと、5日後には結婚し夫婦で東京に戻りました。
結婚しても水木の生活は変わらず、仕事を始めると部屋に籠りきり・・・

1962年40歳の時長女誕生!!
しかし、お金がありません・・・。
そんな水木に千載一遇のチャンスが・・・!!
少年漫画雑誌からの依頼でした。
編集者が水木に提案したのが当時はやっていた宇宙が舞台のSF漫画。
しかし、少し考えて・・・
「宇宙ものは不得手です
 すみません」

人気雑誌に連載すれば、暮らしはずっと楽になるのに・・・
数か月後、今度は自由なテーマで書いてほしいと依頼が来ました。
それなら・・・と、快く仕事を受けます。
1965年当時、庶民の憧れだったテレビ・・・
画面から不思議な男の子が出てくるテレビくんは大好評!!
水木はこれで、雑誌社の漫画賞を受賞。
40歳でした。

これを機に、水木のもとに次から次へと依頼が・・・
そして、ゲゲゲの鬼太郎で人気が爆発します。
悪さをする妖怪から人間を守るため、鬼太郎が正義のヒーローとして大活躍するストーリーです。
この鬼太郎は、紙芝居作家の時代から水木が何年も書いていたキャラクターでした。
”墓場鬼太郎”・・・ゲゲゲの鬼太郎とは別物です。
墓場鬼太郎は当てもなく全国をぶらぶらしています。
少年のような身なりでもタバコを吸い、大金が手に入るとスポーツカーを乗り回すなど人間臭いキャラクターです。
社会風刺の強い漫画でした。
しかし、雑誌に乗せるにあたり、多くの注文が・・・

合理的に・・・
わかりにくいストーリーは絶対に避けてください

雑誌になると・・・1話1話、格闘をして妖怪をやっつけることに変わりました。
これを機に、悪い妖怪をやっつける勧善懲悪のストーリーに変わります。
子供に人気が出るように、見た目も丸みを帯びたかわいいキャラクターに・・・。

1968年45歳の時にテレビ放送開始!!
巨人・大鵬・卵焼きと言われるほど、強いヒーローが人気だった時代、鬼太郎は大ヒットします。
しかし、水木自身はこの鬼太郎に疑問を抱いていました。

正義のヒーローが出てきてやっつけるのは好ましいことではない
あまりに単純すぎて
ただやっつけるだけなんで、いったい何のために・・・??
ただ正義のためですよ

水木の死後、自宅の本棚からスケジュール帳が見つかりました。
仕事の予定やアイデアが書かれた雑記帳・・・
ゲゲゲの鬼太郎の大ヒットの頃にはこんなことを描いています。

マンガは衝撃を毎回与えなくてはいけない
読者が原点、読者が原点、読者が原点・・・
ヒット作を生むための努力・・・ヒットだけを追求??自分が納得・・・??
板挟みで苦しんでいました。
そんな水木を救ったキャラクターが、ねずみ男でした。
金と権力が大好きなねずみ男は、鬼太郎を利用して金儲けを企んだり、嘘をついて人をだまそうとする・・・
正義とは正反対のねずみ男は、昔の鬼太郎でした。

水木自身が作詞した主題歌・・・
高度成長真っただ中の日本を妖怪に託して皮肉ったのかもしれません。

もう一つ水木がこだわったのが、妖怪を決して殺さないこと・・・

作り話の世界で会っても、お父ちゃんは相手が死ぬところを見たくないわけなんだよ。
戦場で散々見てきたからね
それに妖怪には、いろいろ世話になっているから殺すわけにはいかん

そして鬼太郎は、水木は生涯描き続ける作品となりました。

80歳を超えた水木はエッセイを執筆します。
人間の永遠のテーマとなる「水木サンの幸福論」です。
幸福になるヒントは水がは良く書き残していた言葉にあります。

「なまけ者になりなさい」

売れない作家の頃から人一倍働き、数々の作品を残して来た水木・・・
なまけ者とは正反対でした。
どうしてなまけ者になれと言ったのでしょうか?
のんきでなまけ者・・・??

手記には、カラカラと音を立てて回るハグルマ・・・その中心には劇画作成機が・・・。
タイトルは「自画像」
雑誌社の歯車となってマンガを描き続ける顔のない自分自身の姿でした。

近頃は地獄に行かんでも地上にいくらでも地獄が見れる
試験地獄、交通地獄、公害地獄、値上げ地獄、ノルマ地獄、医療費地獄・・・

なまけもの、面白いおじいさん・・・そんな風に水木しげるを見てもらいたいと思っていたようですが、実際の武良茂はものすごく勤勉で、真面目で全く違いました。
50歳を前にして働きづめだった水木の身体に異変が・・・
連日強いめまい、耳鳴り・・・妻の勧めで病院に行くと過労と診断されました。
慢性的な寝不足のために、心と体が悲鳴を上げていたのです。
15年間、休みなく働き続けてきた水木は、初めて夏休みをとることに・・・。
水木が向かったのは、かつて兵隊として赴き、終戦を迎えた南太平洋のラバウルでした。
あれから25年の月日がたっていましたが、トライ族の人々に会いたかったのです。
村人たちは大歓迎!!
水木のために、鶏や豚が焼かれ、村には音楽が・・・!!
東京の大都会で暮らす水木は、自然と暮らすトライ族と過ごし初めて気づかされたことがありました。

彼等の中には「幸せ」という言葉はありません。
それでも彼らの村には「幸せ」の空気が充満しています。
「幸せ」なんていう言葉は、ない方がいい。
そんな言葉があるから、人は幸せを叫ぶのです。

帰国後、これまでの仕事をセーブするようになります。

多忙と不安に苛まれて生きるのはもうコリゴリだった。
生来身に備わったのんきな「水木サンのルール」を今こそ取り戻すべきだ。
仕事をセーブしたのは楽をするためではない・・・自分が本当にやりたいことに取り組むためでした。
水木はラバウルで村人たちに会うだけではなく、亡くなった戦友たちのために小さな墓標を立ててきました。
そして自らの戦争体験を伝える「総員玉砕せよ!!」を執筆。

仕事に追われるのではなく、次第にやりたい仕事を自分で追いかけるようになってきた。

次に水木は日本中、世界中にいる妖怪探しの旅に出るように・・・

日本は電気が普及して明るくなり過ぎたのに加え、世の中自体が百鬼夜行の様相になったのに怯え、本物の妖怪たちが姿を消しつつある。
妖怪も住めないようなところは、人間を幸せにしてくれるわけがありません。

各地を訪れた水木は、妖怪の気配を感じることができたといいます。

驚き、感動し、嬉しくなった。
再び信じる気持ちを確かめたときの気力の盛り上がりは凄かった。
生きる希望がわいてきたのだ。

1996年74歳で世界妖怪協会を設立。
大好きな妖怪研究に精力を注ぎ、80歳を過ぎても国内外を飛び回りました。

「水木大先生から見ると普通の人は怠け者なの。
 水木さんは怠け者のふりして人一倍働く方だから、だから、人は騙されてなまけて生きられると思うらしいね。
 人は、私から見るとあまり働かないね。」by水木しげる

2015年11月、水木は自宅で転倒し、頭を強く打ち入院・・・帰らぬ人となりました。
享年93歳でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

ゲゲゲの鬼太郎 水木しげる漫画大全集5巻【電子書籍】[ 水木しげる ]

価格:3,024円
(2019/1/28 14:16時点)
感想(0件)

総員玉砕せよ! (講談社文庫) [ 水木しげる ]

価格:745円
(2019/1/28 14:16時点)
感想(102件)

零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

新品価格
¥596から
(2016/8/27 12:31時点)




「零戦よ永遠なれ」


日本時間の1941年12月8日午前1時30分・・・
ハワイオアフ島沖を進む日本の空母6隻から、183機の飛行機が飛び立ちました。
真珠湾攻撃・・・太平洋戦争の勃発です。

「トラトラトラ (ワレ奇襲ニ成功セリ)」

アメリカ軍に甚大な被害を与えた日本の飛行隊・・・そこで活躍したのが、当時の最新鋭戦闘機・零戦でした。
日本で最も多く作られた飛行機で、生産数は1万425機!!
設計者は、アニメ映画「風立ちぬ」の主人公となった堀越二郎です。


1937年に始まった日中戦争・・・その年の夏・・・
日本の新鋭の陸上攻撃機が戦闘機の護衛なしで中国奥地へ爆撃を仕掛けたのですが・・・撃墜されてしまいました。
陸上攻撃機とは・・・??
陸上基地から発進し、爆弾や魚雷を落として攻撃する飛行機のことで、敵の攻撃機と戦う能力に劣っているために、戦闘機が護衛についていました。
が・・・その頃、日本の戦闘機の飛行距離は短く、陸上攻撃機を援助できずに敵に撃ち落されてしまったのです。

その頃・・・中国撤退を巡ってアメリカと対立・・・国際情勢は悪化の一途を辿っており・・・
ABCD包囲網を組む諸外国との太平洋を舞台にした戦争を視野に入れなければまりませんでした。
なので、今まで以上に空戦性能に優れ、長距離飛行な戦闘機を必要としていました。

10月・・・日本海軍は、「十二試艦上戦闘機」(後の零戦)の開発を決定!!

零式艦上戦闘機・・・どうして零式なのか・・・??
当時は、神武天皇の即位の年を皇室紀元年とし、武器などのその下二ケタをつけていました。
〇〇式・・・零戦が制式採用されたのが昭和15年・・・これは皇紀2600年に当たったのです。
なので・・・零式。
艦上戦闘機とは・・・航空母艦から離発着できる戦闘機という意味です。
空対空戦闘機を任務としました。
日中戦争から太平洋戦争に活躍した戦闘機です。

そして、この戦闘機の開発に当たったのが三菱航空機の技術者・堀越二郎でした。

堀越二郎は1903年群馬県藤岡で生まれました。
奇しくもこの年はライト兄弟が世界初の動力飛行に成功した年でもありました。
堀越は子供の頃から飛行機に思いを寄せ、その夢を真っすぐに追いかけます。
1924年東京帝国大学工学部航空学科に入学・・・3年後首席で卒業すると、航空機製造を手掛けていた三菱内燃機製造(今の三菱重工業)に入社。。。
その後、航空機先進国の欧米を視察、入社僅か5年で設計主任に・・・!!
1936年制式採用された九六式艦上器戦闘機が日中戦争で無類の強さを誇りますが・・・
航続距離が短いのが難点でした。
そこで、十二試艦上戦闘機の開発命令が出されます。
航続距離、空戦能力、武装、速度、上昇力・・・全てにおいて他国に勝る戦闘機を・・・!!

堀越はその要求をスポーツに例え・・・
「十種競技の選手に対し、5千メートル競争で世界記録を大幅に破り、フェンシングの競技で世界最強を要求し、そのほかの種目でもその種目専門の選手が出した世界記録に近いものを要求しているようなものであった。」と言っています。
全てを満足させる・・・当時の常識を超える開発でした。

設計チームは、平均年齢24歳、気心の知れたメンバーでした。
が・・・一筋縄でいけません。
苦悩の日々が半年続き・・・堀越は海軍に対し、一つでも妥協できないか??と、聞きます。
航続距離、速度、空戦能力の重要性の比率は・・・??
議論は平行線をたどり、終わらせることは・・・やはり、要求通りの物を作る以外になありませんでした。

最大の難関は重量軽減でした。
開発会議ではあまり述べず、部下たちに議論を刺せる堀越でしたが・・・黙々とメモを取って支持をします。

重量軽減の秘策は・・・??
①穴開け加工
零戦の座席など、強度を計算し、問題のない所を穴開け加工します。
グラム単位で軽減しました。

②新素材採用
超々ジュラルミンです。
国内の金属メーカーが開発し、強度が高く、この新素材を主翼の桁に採用!!
これによって、30キログラムの軽量化に成功!!

「この難題を解決するには、今までのしきたりや規格を神格化せず、新しい光を当ててみよう」

③安全率の引き下げ
当時の軍用機の安全率は1.8。
一部を1.6に引き下げます。
現在の飛行機の安全率は1.5。

航続距離や速度などを向上させるために、期待を極限まで軽くしました。


これと並行して空力設計・・・空気抵抗を減らすことにもにも取り組んでいました。
速度を上げ、航続距離を伸ばすためにも・・・!!
まず注目したのは、機体の金属板を留めていた鋲・・・従来は、表面に突起がありました。
①沈頭鋲を用い、機体表面を滑らかにしました。
②主脚を翼に納める
③密閉式のコックピット
と、空気抵抗を減らしていきます。
遂に、試作機が・・・!!
海軍の要求から1年が経っていました。

これまでよりもはるかに早く、長く飛ぶ戦闘機を・・・!!

「どんなに優れた戦闘機であっても、平時で4年、戦時なら2年で旧式となり通用しなくなってしまう。」

1939年3月23日、試作機の運搬がありました。
名古屋市内の工場を出発し、1日がかりで岐阜県各務原飛行場へ・・・!!
4月1日初試験飛行開始!!
14日には特殊飛行試験!!
堀越は「美しい・・・!!」心の中でそう叫んだと言います。
しかし、次々と問題点も出てきました。
「零戦」試作1号機の試験飛行で・・・パイロットから。。。
「操縦桿と飛行機の動きが合わず運転しにくい。」
それは、今までの飛行機よりも格段にスピードの上がった結果でした。

飛行機は、昇降舵によって上昇下降しますが・・・
操縦桿を手前に引くと連動し、機首上を向き、エンジンのパワーをあげていきます。
しかし、スピードが速いので、操作時に大きな風圧があがって機体が急激に上がってしまったのです。

「操縦系統の弾性を利用できないだろうか・・・??」

操縦系統を細くすることによって、伸び縮みするようにしました。
すると、上昇が穏やかに・・・。
低速でも、高速でも同じような運転が可能となりました。
これを、剛性低下方式といい、戦後の戦闘機の設計にも大きな影響を与えました。

2度の空中分解・・・二人の殉職者・・・原因はフラッター現象。。。
フラッターとは、高速飛行中に、機体の一部が気流の影響で破壊的な振動を起こすことです。
原因の一つは軽量化でした。
そこで、外板を厚くし、制限速度を750㎞から670㎞にしました。

改良を加えながら、2年に及ぶ試行が行われました。
試作機は・・・1940年7月24日制式採用され・・・零式艦上戦闘機(零戦)となりました。
しかし・・・国民にも伏せられ・・・知ったのは、4年後でした。

中国との泥沼の戦いが続く日本・・・
1940年9月13日・・・零戦初陣!!
中国・漢口の海軍基地を飛び立った13機は、1000キロ離れた中華民国の首都・重慶に・・・!!
中国軍戦闘機27機を相手に、すべてを撃墜!!
零戦の損壊は0でした。
その後1年間に、中国戦線に配備された零戦は、僅か30基ほどでしたが、敵機266機を撃墜、撃破しました。
零戦の損害は、僅か2機で、地上からの攻撃によるもので・・・空中戦では無敵でした。
この圧倒的な強さは、中国の航空部隊からアメリカに報告されましたが・・・広く伝わることはありませんでした。
どうして、アメリカ軍に知られなかったのでしょうか・・・??
アメリカやイギリスから見れば、航空後進国の日本・・・信用していなかったのです。
アメリカ軍は、日本に高性能戦闘機を開発する技術はないと、零戦の存在を黙殺したのです。
この黙殺によって、真珠湾攻撃まで零戦の存在は知られなかったのです。

1941年12月8日、太平洋戦争勃発!!
アメリカ・イギリスなどの連合国は、零戦の性能を初めて目にしました。
零戦は無敵!!まさに太平洋の覇者!!
台湾・高雄基地を飛び立った零戦は、その性能を生かして、800キロも離れたフィリピンのアメリカ航空部隊を殲滅!!
日本の戦闘機が攻撃してくることは、空母が近くにいるはずだ!!と、アメリカ軍は混乱しました。
さらに零戦は、台湾からフィリピンを経てラバウルへ・・・!!
「ラバウル航空隊」です。
後にエースパイロットが揃う、日本海軍最強の零戦舞台でした。
笹井醇一、太田敏夫、西澤広義、坂井三郎・・・
坂井は、太平洋戦争を生き抜きますが・・・出撃回数約200回、撃墜数64機!!
戦後、「大空のサムライ」という本を出版しています。

とにかく先に敵を見つけること・・・!!
そして、敵の死角になる後方上空に回り込み、降下しながら一撃を加えました。
討ち漏らした後は乱戦となりますが、そうなれば零戦の独壇場!!
一対一なら必勝でした。

アメリカ軍機を次々と撃墜・・・!!
アメリカ軍も零戦を認めざるをえなくなります。
アメリカ軍は通達を出します。
「飛行中、退いていいのは”雷雨に会った時”と”零戦と遭遇した時”と・・・!!


太平洋戦争で、零戦と同じく快進撃を続けていた日本軍でしたが・・・
開戦からわずか半年後の6月5日ミッドウェー海戦!!
空母四隻を失う大敗北!!
敗戦への分水嶺ともいわれる戦いです。
その頃零戦も・・・栄光から悲劇へ向かう事件に・・・!!
アリューシャン列島のアクタン島に1機の零戦が不時着・・・沼地に足を取られてひっくり返り・・・パイロットは即死しましたが、機体はほぼ無傷でした。
本当なら、敵に見つかる前に破壊しなくてはならないのですが・・・
アメリカ軍に発見、回収されてしまいました。
「アクタン ゼロ」と呼ばれたその機体は、星印をつけられ、徹底的に研究されました。
そして、零戦との戦い方を見つけていったのです。

アメリカ軍はこの零戦を研究し・・・次々と新鋭戦闘機を投入していきますが、零戦は・・・??
もともとも地力の差・・・戦争中にわずかな改良のみとなったのです。
ガダルカナルの上空に散っていったパイロットたち・・・。
日本の敗戦は、零戦の悲劇と共に、足音を立てて近づきつつありました。

1944年10月25日・・・日本海軍の恐るべき作戦・・・神風特別攻撃隊を実行に移します。
神風特攻隊です。
機体に爆弾を抱えたまま敵艦に突っ込む・・・命と引き換えの作戦・・・これに使われたのが零戦でした。
11月23日、日本国民は初めて零戦の名を知るのでした。
1945年・・・年が明けるとアメリカ軍の爆撃機”B-29”によって日本各地が焦土と化します。

8月15日・・・終戦。

零戦の悲劇に寄り添うように・・・。

零戦の設計者・堀越二郎は玉音放送を聞きながら・・・
「これで私が半生を込めた仕事は終わった。
 それと同時に、長い苦しい戦いと、緊張からいっぺんに解放され、前身から力が抜けていくのを覚えた。

 飛行機と共に歩んだ私の生涯において、最も心を痛めたのは、神風特攻隊のことであった。」


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

堀越二郎零戦への道 2013年 08月号 [雑誌]

新品価格
¥2,160から
(2016/8/27 12:32時点)

雷電と零戦 (第二次大戦機DVDアーカイブ)

新品価格
¥2,160から
(2016/8/27 12:33時点)

このページのトップヘ