日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ルイス・フロイス

1582年・・・天正10年6月2日・・・京都・本能寺に宿泊中の織田信長を、明智光秀が急襲・・・!!
信長を自害へと追い込みました。
光秀は、そのまま近くにいた信長の嫡男・信忠も襲撃し、死に追いやりました。
本能寺の変・・・未だ、様々な謎が残る、戦国史上最大のミステリーです。
この謀叛には、数少ない生き証人がいます。
その男の名は弥助・・・弥助は、光秀の襲撃、信長の自害、信忠の自害まですべてを目の当たりにした歴史の目撃者なのです。

①なぜ信長の遺体は見つからなかったのか・・・??
弥助は、身の丈6尺以上(190cm)の大男で、十人力の怪力の持ち主と、信長公記には書かれています。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが上司に宛てた書簡には「イエズス会日本年報追加」には、本能寺の変における弥助の行動が書かれていました。

”信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き相当長い間戦っていたところ、明智の家臣が彼に近づいて恐るることなくその刀を差し出せといったので、これを渡した”

弥助は、イエズス会から信長への贈り物でした。

159年7月・・・本能寺の変の3年前・・・
イエズス会の船が、島原半島の口之津に入港しました。
その時、宣教師ヴァリニャーノの従者として降り立った一人が弥助でした。
信長公記によると・・・
”年の齢二十六、七と見えたり
 その身の黒きこと牛のごとし
 彼の男 健やかに器量なり”
アフリカのモザンビーク出身と言われる弥助は、奴隷として買い取られ、インドのゴアで宣教師の護衛兼荷物持ちとなった事がわかっています。
更に弥助には大きな役目がありました。
宣教師たちは物珍しさが好きな日本人のために、黒人を「人寄せ」に使っていました。
当時、日本では黒人の人気は相当なもので、布教をしていた宣教師はこう書いています。
”日本人は極めて新奇なことを喜ぶ
 彼らは黒人を見るためにお金を払うだろうから、それを監督する者は短期間で金持ちになるだろう”
イエズス会は、黒人を日本に連れてくることで、日本人の心をつかもうとしていたのです。

1581年、弥助は宣教師に連れられて、京都に来ました。
弥助の噂は瞬く間に広がり、弥助を一目見ようと大勢の人が押しかけました。
見物人同士の喧嘩でけが人が出るほどでした。
その騒ぎを聞きつけた織田信長が、弥助を連れてくるように命じます。

1581年2月、信長と面識のあった宣教師オルガンティーノは、弥助を伴って信長との謁見に臨むこととなります。
信長は当時、畿内を中心とした強力な政権を確立、イエズス会は信長を日本の実質的最高権力者と見なし、信長に取り入ることでキリスト教の布教と庇護を確実にするという目論見がありました。
この時弥助をはじめてみたときの信長の反応は・・・??

”信長は大いに喜んだものの、愉しませるために我らが墨を塗ったのではないかと考え、男の肌の色が生来の者であると信じなかった
 しかしながら、帯から上の着物を脱がせて検分した後は、信長もようやくこれを納得した”

弥助の漆黒の肌に驚いた信長は、肌をこすったり引っかいたりしました。
それでも肌の色が変わらないとわかると、やっと黒い肌を認めたといいます。
片言の日本語が喋れるとわかった信長は、矢継ぎ早に質問をしたといいます。
数日後・・・弥助の主人ヴァリニャーノも信長に謁見します。
そこで弥助の運命が一変!!当時珍しいクリスタルガラスなどを献上したところ、弥助の献上も申し出たのです。
弥助を気に入っていた信長は、この申し出を受け入れました。
しかも、単なる従者としてではなく、弥助を侍として取り立てたのです。
信長公記によると・・・
”弥助は安土城の城下町に従者付きの住居を与えられ、さらに身分に相応しい衣服と武具も与えられた”とあり、正式な家臣となっていました。
こうして弥助は、日本初の外国人侍となったのです。
本能寺の変のわずか1年3か月前のことでした。

1582年6月1日・・・
天下統一を目指す織田信長は、羽柴秀吉の毛利攻めの援軍に向かうために、京都本能寺に宿泊していました。
当時の本能寺は、東西140m、南北270mの広大な敷地と大伽藍を有していました。
しかし、信長が連れていたのは僅かな手勢のみでした。
従者のうち戦力となるのは弥助を含め、30人ほどでした。
そして翌、6月2日未明・・・
信長と同じく秀吉の援軍に出立するはずだった明智光秀が、1万3000の兵で本能寺を包囲!!
只ならぬ喧噪で目を覚ました信長は、当初、従者たちの喧嘩だと思ったといいます。
しかし、小姓の森蘭丸が、明智光秀の謀反であると告げると・・・

「是非に及ばず」

と覚悟を決めたのです。

鬨の声を上げ攻撃を仕掛ける明智の軍勢、それでも信長は弓を次々と放ち、弦が切れると槍を突き立てて敵をなぎ倒しました。
弥助も主君の首をとらせてなるものかと必死に応戦!!
しかし、兵力の差は歴然・・・状況を打破するには至りませんでした。
そして、雑兵によって深手を負わされた信長は、もはやこれまで・・・と観念・・・
一説によると奥に誰も通さぬよう命じ、燃え盛る本能寺で自害し、果てたといわれています。
49歳でした。
問題はこの後・・・襲撃後、明智軍は信長の遺体を探します。
しかし、それらしき遺骨すら見つけることができませんでした。
信長の遺体はどこに消えたのでしょうか?
それが、本能寺の変おける長年の謎でした。
その謎を解くカギを握っていたのは弥助でした。

森蘭丸が、信長の首を切り落とし、弥助が本能寺から持ち出すことを任されていた・・・??
戦国の世では、首をとることが戦に勝った事の証・・・
首が見つからなければ、光秀は信長を討ったとは証明されず、大きな打撃となります。
弥助に首を持って本能寺を脱出した・・・??
明智軍をどうやって突破したのか??

信長の死後の弥助の行動は・・・??
本能寺の近くにあった阿弥陀寺に残されています。
本能寺の変の頃、阿弥陀寺の住職をしていたのは清玉上人です。
清玉上人は、幼い頃信長の兄・信広に命を救われ、その後織田家に家族同然に育てられた織田家とつながりの深い人物でした。
そんな清玉上人の本能寺の変当日の行動を書いたものが「信長公阿弥陀寺由緒之記録」です。
そこには・・・
本能寺の変の知らせを受けた清玉上人は、大いに驚き、仲間の僧侶20人ばかりと一緒に信長のもとに駆け付けます。
なんとか寺の裏側から寺に入ると、既に信長は切腹した後・・・
墓地のやぶの中で、10人ほどが火葬をしていました。
話を聞くと、遺言通り信長の首を持ち出そうとしたものの、四方を明智軍に囲まれているので仕方なく火葬しているとの事・・・
この火葬を行っていた家臣の一人が弥助・・・??
弥助たち家臣は、織田家にゆかりのある清玉上人なら信長の遺骨を託せる・・・と、あるものは再び明智軍に飛び込んで行ったといいます。
火葬を終えた清玉上人は、信長の遺骨を取り集め、自らが着ていた法衣に包みました。
そして、本能寺の僧侶のふりをして阿弥陀寺に持ち帰ります。
火葬し、遺骨にしていたので、目立たずに持ち運ぶことができたというのです。
清玉上人は、葬儀を行い、死を弔いました。
そのため、現在でも阿弥陀寺では信長の法要が毎年行われています。
墓地も存在しています。
弥助たち家臣が火葬し、清玉上人が遺骨を持ち去った可能性が高いと思われます。

本能寺の変の直後、京都と近江を支配下に置いた光秀は、織田家の武将たちの反撃に備えます。
その際、光秀は周辺の武将たちに味方になるように要請します。
しかし、信長の遺体が見つからないことで、信長が討たれた確証はなく、もし生きていた場合光秀に加担したことで攻め滅ぼされてしまう・・・と、ほとんどの武将が光秀の味方に付かなかったといいます。
その結果・・・
1582年6月13日、明智軍は本能寺の変を知り急遽引き返した秀吉の軍と山崎で激突し敗退・・・
光秀は、逃げる途中に落ち武者狩りにあい、本能寺の変からわずか11日後に命を落としました。
弥助と清玉上人の活躍が、光秀の三日天下につながったとも考えられます。

遺骨を上人に預けた弥助は・・・??

②なぜ信忠も巻き添えとなってしまったのか・・・??
本能寺と1.2キロのところに信忠が宿泊していました。

本能寺の変の当日、織田信長の嫡男・信忠は、京都にいないはずでした。
本能寺の変の3か月前・・・3月11日、織田家が長年争っていた甲斐の武田氏を滅ぼしたことで、信忠は功労者である徳川家康をねぎらうために堺に向かう予定だったのです。
しかし、父・信長が毛利と戦う羽柴秀吉の応援に向かうことになり、安土を出発したことを知った信忠は、急遽予定を変更し、信長を迎えようと京都にとどまったのです。
このように信忠が信長の顔色をうかがうのには理由がりました。
織田家の嫡男として小さい頃から帝王学を学んできた信忠は、父・信長と共に多くの戦に参戦し、自らも多くの功績をあげてきました。
1575年織田家の家督を継いで岐阜城へ・・・
美濃・尾張の二か国およそ100万石を治める大名に・・・正式に織田家の当主となったのです。
しかし、信忠に対する信長の評価は・・・

「信忠は、一見器用に見えるが、城持ち大名としては不器用だ
 もっと人が予測できないことをやらなければ合戦には勝てない」

と、極めて厳しいものでした。
信忠は19歳で織田家を継承しましたが、天下平定の実権は父・信長のもとにありました。
そんな中、信長が自らの後継者として信忠に並々ならぬ期待をしていました。
信忠にとっては、そのプレッシャーは、計り知れないものがありました。
その父・信長の重圧が、信忠を京都に止まらせてしまったのです。

1582年6月1日・・・
信忠は、本能寺にいる信長のもとを訪ね、酒を酌み交わしたといいます。
それが、父と子の今生の別れとなりました。
その僅か数時間後・・・本能寺の変が起きたのです。
信忠は、明智軍が本能寺を攻めたという知らせを妙覚寺で聞きました。
その信忠のもとへ弥助が駆けつけることに・・・
どうして弥助が向かったのか・・・??
明智急襲の知らせを聞いた信忠は、直ちに手勢500人を引き連れて、父・信長を救うべく本能寺に向かいました。
その途中で、信長の家臣で村井貞勝に遭遇します。
すると村井が、
「本能寺は明智勢に取り囲まれ、近づくことすらできません。」by村井
「となれば、もはや明智勢から逃げ切ることは出来ないだろう
 もし逃げられたとしても、雑兵に討ち取られては後世の物笑いになり、無念である」by信忠
「ならば、御所へお行き下さい
 御所であれば、光秀も攻め入ることはできないでしょう」by村井
「仕方あるまい・・・」by信忠

こうして信忠は、二条御所に向かい、籠城することになったのです。
一方、死を覚悟した信長は、一刻も早く京都から脱出の命を信忠に伝える必要がありました。
信長にとって最悪の事態は、自分と信忠が同時に討ち取られてしまうことでした。
織田家の当主である信忠が生きていれば反撃できる!!
そこで、信長が考えたのが、何とかして信忠を京都から脱出させることだったのです。
しかし、本能寺は光秀の軍勢に取り囲まれている・・・
どうやって伝える・・・??
信長は、十人力の弥助なら、明智軍を潜り抜け、自らの首と伝言を妙覚寺の信忠に届けられると考えたのかもしれません。
信長の命を受けた弥助は、信長の遺骨は清玉上人に託すことになりましたが、伝言だけは・・・と、命がけで妙覚寺に向かうこととなります。
その結果、弥助はなんとか信忠のもとにたどり着くことができました。

弥助は、織田家の当主だった信忠に、信長の死を報せ、京都から退避するように伝えるために、信忠のもとに向かったのです。
明智光秀が信長を討ち取ったのち、織田家当主の信忠は、弥助から父・信長の死と、京都を脱出せよという最後の命を受け取りました。
しかし、信忠が逃げようとした形跡はありません。
すでに、安全であったはずの二条御所も明智軍に包囲され、京都を脱出することは不可能だったのです。
それでも信忠は、明智軍と命の限り戦いました。
弥助も信忠を守ろうと応戦しますが、それも時間の問題でした。

信忠の最期について信長公記には・・・

「私が腹を切ったら縁の板をひきはがし、亡骸を床下に入れて隠せ」

こう言い残し、信忠は自決という名誉の死を選んだのです。
26歳の若さでした。

③光秀に謀反を起こさせた黒幕とは誰なのか・・・??

織田信長とその嫡男・信忠が自害し、明智光秀軍の勝利に終わった本能寺の変・・・
ここにもう一つの謎があります。
その後の弥助について、フロイスはこう書いています。

「明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差し出せと言ったので、これを渡した」

こうして弥助を捕らえた明智の家臣が光秀にその処分をたずねると・・・光秀はこう命じました。

「インドのパードレの聖堂に置け」by光秀

インドのパードレの聖堂とは、京都・南蛮寺・・・イエズス会の京都における本拠地のことです。
明智軍と戦った信長の側近・弥助をなぜか無罪放免・・・かつて従者として仕えていたイエズス会へ戻したのです。
どうして弥助は殺されることなくイエズス会に戻されたのでしょうか?

本能寺の変の後、光秀に味方する武将はいませんでした。
そこで、光秀が目をつけたのが、京都に近い高槻城主の高山右近でした。
右近はかつて信長によって弾圧された荒木村重の家臣だったことで、信長に反感を持っていると考えたからです。
光秀は、右近がキリシタン大名でもあったことから、宣教師を通じて書状を送り、味方になるように要請していました。
とにかく見方を作る必要があった光秀・・・
イエズス会と連携して、キリシタン勢の支持を得ようとしたのです。

こうした光秀とイエズス会との関係が、本能寺の変の前からあったという説があります。
そのきっかけとなったのは、信長のある行動でした。
ルイス・フロイスの「日本史」によると・・・

「安土山の寺院には神体はなく、信長は己自らが神体であり、生きたる神仏であるとし、彼の上に万物の創造主もないと言い、地上において崇拝されんことを望んだ」

信長は、自らが神になろうとしたのです。
安土城・・・の本丸に清涼殿という天皇を招く館を作りました。
しかし、この館の上に、信長のいる天守を置いたのです。
自ら天皇の上にたとうと・・・あらゆるものを超越しようと自らを神格化し、全く新しい権力構造を作ろうとしたのです。
この信長の野望は、キリスト教に忠実なイエズス会にとって絶対に許すことにできないものでした。
そして、そんな信長の絶対的権力に恐れを抱いたのが、信長の重臣・明智光秀でもあったのです。
当時光秀は、信長によって丹波・近江志賀郡などの領地を召し上げられ、出雲と石見を自ら攻略し、領土とするよう命じられていました。
このことから、打倒信長という点で、イエズス会と光秀の利害が一致、そのため、イエズス会が本能寺の変の黒幕だった・・・??

その結果か、光秀は本能寺に宿泊していた信長を襲い、自らの主君を自害に追い込むことになりました。
そして、この謀叛の一部始終を、イエズス会の宣教師たちは、本能寺のすぐ近くの南蛮寺から見届けていたのです。

「インドのパードレの聖堂に置け」・・・

つまり、弥助がイエズス会に返されたのは、光秀とイエズス会との密接な関係の証であった可能性があるのです。

イエズス会の思惑と、信長の野望・・・その狭間で、運命を翻弄されたのが弥助だったのかもしれません。
この後、弥助に関する記録は残っていません。
日本を離れ、モザンビークに帰ったのでは??と言われています。
しかし、イエズス会の報告書に気になる記述がありました。
本能寺の変の2年後、九州に黒人がいたことが記され、キリシタン大名であった有馬晴信の軍勢の大砲の使い手として活躍し、勝利をもたらしたというのです。
その黒人が弥助だったとしたら・・・九州のどこかで一生を終えていたのかもしれません。
本能寺の変の目撃者として全ての真相を胸に秘めたまま・・・。

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大小3000の島からなる瀬戸内海・・・
この海で、何百年にわたり中央権力に媚びることなく、自由に生きた一族がいました。
その一族とは、村上水軍です。
行き交う船は、彼らに関銭を払うことが掟!!
拒否すれば、誰であれ襲い略奪!!
奪い取った関銭を元に海洋貿易をし、瀬戸内最強の水軍を組織していきました。
そんな村上水軍を戦国時代に率いていたのが村上武吉!!

その実力は、陸地の名だたる大名が、武吉を敵に回すことを恐れていました。
そんな武吉を宣教師ルイス・フロイスは・・・日本最大の海賊と称しました。
群雄割拠・戦国の世に、瀬戸内海に君臨した海賊王でした。
この武吉の前に大きく立ちはだかったのが、豊臣秀吉です。
日本を一つにまとめようとしていた秀吉は、武吉が支配している海にも影響を及ぼそうとしていました。
秀吉は命じます。海の関所を停止することを・・・!!
関銭を停止するように命令してきたのです。
関銭徴収は、武吉たちが先祖代々自らの手で勝ち取ってきた既得権益です。
この権利を完全に否定したのです。
村上水軍の力を根こそぎ奪おうとする秀吉の苛烈な要求!!
村上武吉はどう応えるのか・・・!!

村上水軍はいつから存在しているのでしょうか??
それは謎です。
が、既に12世紀・平安時代に海賊に対する禁圧令が出されています。
古くから海賊たちは、中央政府にとって悩みの種だったのです。
中でも瀬戸内海は、朝鮮半島や中国からの船が都に向かう際の重要航路。
物資の往来も激しかったことから、多くの海賊が跋扈していました。
海の荒くれものは、陸の権力者のものであろうとお構いなし!!
海の民たちは、陸の権力者に阿ることなく自分たちの掟で生きていたのです。
そんな瀬戸内のリーダーとなったのが村上水軍!!
彼らが歴史の表舞台に躍り出たのが室町時代中期。
世は戦国時代へと突入していました。
村上水軍は、瀬戸内海の中央部、現在の山口県・上関から香川県・塩飽諸島まで170キロを支配下に置いていました。
その内部は3つの家から成り立っていました。
・因島村上氏
・来島村上氏
・戦国時代村上水軍の主となった能島村上氏
・・・武吉が頭領だった家です。

3つの村上家が協力することで、瀬戸内を遮る網を張ることができ、行き交う船から関銭を徴収していたのです。
戦国時代、武吉が瀬戸内を通る船に与えた村上の上の字が書かれた旗「過所旗」・・・行き交う船は、この旗を、関銭を払うことによって掲げ、安全を保障するパスポートとしていました。
逆に言えば、村上の許可なくしては瀬戸内海の海を通ることは許されなかったのです。
そんな武吉たち村上水軍が、瀬戸内の王者となれた秘密は・・・??

能島・・・能島村上氏が本拠地とした島です。
このあたりの潮流は、瀬戸内海とは全く違います。
まるで渓流のような激しい潮流・・・その速さは、最大10ノットおよそ時速18キロで流れています。
その動きは、潮の満ち引きによって絶えず変化していました。
このような中で育った村上水軍。
島々が密集しているこのあたりは、非情に潮の流れが激しかったのです。
この潮の流れで育まれた操縦技術が、彼らの力でした。
村上水軍は、卓越した操船技術を手に入れ、そして、瀬戸内の海賊の中でも抜きんでた存在となっていきます。

戦国時代、能島村上氏が本拠地としていたのが、この島全体を丸々城塞化した能島城でした。
島には、岩礁ピットが残っています。
岩礁ピットの総数は、能島城の周囲で400を越えています。
かなりの数の船を保有していました。
船をどれだけ持っていたのか?関銭をどれだけとっていたのか・・・??それは謎のままです。

しかし、海賊的な行為以外にも・・・
見近島からは、陶磁器の破片がたくさん(およそ1万2000)見つかっています。
中でも際立っているのが、中国、朝鮮の陶磁器の多さです。
能島村上氏が商品流通に干与していたことがわかります。
大名クラスの品々を取り扱っていました。
こうした活動を代々続けながら、瀬戸内海の王者となっていったのです。

1555年、武吉22歳の時・・・
瀬戸内海に接する中国地方では、ある新興勢力が・・・
広島県・・・安芸を拠点に勢力拡大を狙う毛利元就です。
その元就と対立していたのが、陶晴賢。
陶晴賢は、周防国を実質的に支配していた武将です。
この両者が、厳島神社がある宮島で激突!!
厳島の戦いです。
この一大決戦を前に、元就は武吉をかなり警戒していました。
小早川隆景によると・・・
「音戸の瀬戸の両側に砦を築くこと」としています。
能島村上氏が音戸の瀬戸を通過して、広島湾に侵入するのを防ごうとしたと考えられます。
元就は、武吉が敵方として参戦することを恐れ、砦を築いたというのです。
武吉の存在を恐れていた毛利元就!!

「能島村上武吉は、何としても味方に引き入れたいものだ」
「世を日に継いで調略せよ」

能島の力は、三島の村上の中で、一番強かったのです。
毛利にとって、瀬戸内の水軍の力は、他の大名と戦っていくうえで、極めて重要な意味を持っていました。
元就は、どうしても武吉を味方に付けたかったのです。

武吉の力・・・それは、室町幕府13代将軍村上義輝の知るところとなります。
この頃中国地方では、毛利と尼子が戦っていました。
それを何とかして鎮めようとした義輝は、武吉に仲介を頼みます。
能島村上氏が、将軍から「毛利に対して働きかけ出来る存在」として認められていたのです。
大名や将軍などの陸の支配者からも力を認められていた村上武吉。
日本最強の海賊として戦国の世を堂々と渡り歩いていました。

群雄割拠の戦国時代・・・それぞれの地域を代表する大名が誕生してきました。
中国地方を制覇したのは毛利家。
この頃には、毛利輝元になっていました。
そして、その毛利家を飲み込むように成長してきていたのが、東海、近畿を抑えた織田信長。
日本を一つにしようとしていた信長は、既存のルールを壊していきます。
関所を廃止、座を撤廃、楽市楽座を行いました。
信長は、旧来の支配者の既得権を否定することで、大きくなっていきました。

1576年、信長は本願寺を攻め立てていました。
そんな本願寺を助けようと思っていた毛利輝元は、本願寺に援助物資を運び入れるよう武吉率いる村上水軍に依頼します。
1576年7月、木津川の戦い・・・村上水軍と織田水軍との間で戦いの火ぶたが切られました。
ほうろく火矢で戦う村上水軍に織田水軍は驚きます。
この戦いで織田軍を壊滅させた村上水軍の名は、世に響き渡ります。
村上水軍の強さを痛感した信長は、天下統一のためには武吉の力が必要だと感じます。
そこで信長は・・・
「望むことがあるようなら、何でもその意を叶える。」と、武吉に言っています。
来るべき毛利との戦いに。村上水軍を味方にしようと思ったのです。
その翌年、信長は中国攻めに・・・!!
信長の意を受け進出してきたのは、羽柴秀吉。
秀吉は、村上水軍を本格的に調略すようと動き出します。
武吉の息子・元吉に書状を送ります。

「先日送ってきた使者を、こちらに寄こせ。
 内緒の話をしよう。」と・・・。

実は、能島村上家では、毛利に付こうとする父・武吉と、織田に付こうとする息子・元吉の間で意見が分かれていました。
それを知っていた秀吉が、調略を仕掛けたのです。
秀吉によって親子分断の危機・・・。
そして・・・来島村上氏にも・・・。
秀吉の誘いに、来島村上通総が乗ってしまいます。
これまで一致団結して瀬戸内海を支配してきた村上水軍・・・信長、秀吉という強大な敵を前に、結束に乱れが生じてしまいました。
このまま信長によって瀬戸内海は分断されてしまうのか??
そんな時大事件・・・1582年6月、本能寺の変!!
織田家の棟梁・織田信長が、家臣・明智光秀の謀反によって非業の死を遂げたのです。
この一大政変によって、秀吉の毛利攻めは中断!!
結果、瀬戸内海は、武吉が君臨することに・・・!!
武吉人生次第の危機は去ったかに見えました。
そかし、それはつかの間の事・・・。

本能寺の変という予想だにしなかった事件で再び瀬戸内海に君臨した村上武吉。
しかし、天下は一人の男によって、信じられないスピードでまとまろうとしていました。
その男とは、武吉たち家族の分断を図った羽柴秀吉です。

信長の後を継いだ秀吉は、本能寺の変の僅か3年後には関白に就任。
事実上の天下人となりました。
天下人となった秀吉は、日本を一つにまとめていく政策を打ち出します。
太閤検地・・・これまで地域によって異なっていた田畑の広さの単位を統一

「海陸役所停止の事。
 海と陸の関所は禁止とする。」

秀吉からすれば、関銭徴収は中世だから存在しえた私的な行為・・・
このような過去の遺物は、新しい国家には必要ない!!
何百年にわたる中世の海賊の基本的な在り方を侵害されてしまう!!
秀吉が命じた関銭の禁止・・・

関銭徴収は、先祖代々作り上げた海の掟・・・。
自由な海賊としての道か、生き延びてこその道か・・・??

天下人・豊臣秀吉の関銭禁止命令に、村上武吉は・・・??
豊臣政権側は、当然会場の静謐、対して武吉側は従来の権益・・・。
お互い引けない・・・!!
関銭行為を止めない武吉。
海賊として自由に生きる選択をしたのです。
しかし、武吉の態度に業を煮やした秀吉がついに動き出しました。

「能島・村上武吉が海賊行為を行ったと聞いた。 言語道断!!」

そして、武吉の瀬戸内追放!!

武吉を先祖代々の地から追い出したのです。
福岡県糸島半島へ移された武吉。
その4か月後、秀吉は「海賊禁止令」を出します。
「今後は、船を使うものは代官が管理し、海賊行為をしないように約束させる。」
秀吉はこの法令によって、今後海は、陸の者が支配すると宣言したのです。

中世の海賊の一番代表として日本中に名前が通っていた武吉を屈服させ、本拠地瀬戸内海から追放したということは、もう中世の海の世界というものはダメということを日本全体に知らせる出来事でした。

しかし、1598年3月、天下人・豊臣秀吉死去。
二年後の1600年、関ケ原の戦い!!
この混乱を待っていたように武吉が動き出します。
この時、68歳!!
武吉が向かったのは、愛媛県にある興居島。
この時、この地を治めていた加藤義明は関ケ原の戦いで不在。
この好きに武吉は瀬戸内海を取り戻そうと考えていました。

しかし・・・突如夜襲に・・・
檄文を送った相手が裏切ったと考えられています。
彼らにとっては、武吉はもう、過去のものだったのかもしれません。
瀬戸内海にある周防大島・・・夢破れた武吉はこの地に移ります。
以降、能島村上氏はもう海賊ではなく、毛利家の一家臣として生きていくのです。
関ケ原の戦いの4年後・・・
1604年8月22日、村上武吉死去・・・享年72歳でした。
武吉の死は、日本から海賊が姿を消したことを意味していました。
以降、海は、陸の論理によって支配されることとなります。


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1582年6月13日、天下分け目の決戦が行われました。
明智光秀VS羽柴秀吉・・・山崎の戦いです。
合戦は僅か数時間・・・圧倒的な秀吉に、光秀は敗北しました。
本能寺の変で天下人・織田信長を討ちながら、10日余りで秀吉に敗北・・・。
後世、三日天下と揶揄されることに・・・
しかし、光秀の動きは緻密な作戦に基づいていた・・・??

戦国史上最大の事件・・・本能寺の変!!
この変は、光秀の緻密な作戦のもとに遂行されました。
1582年5月29日、織田信長は、僅かな供周りと共に安土城から本能寺に宿泊・・・
6月1日午後5時ごろ・・・光秀は1万3000の兵と共に、居城である亀山城を出陣!!
毛利攻めを行う中国方面軍・羽柴秀吉の加勢を命じられたためです。

当時、信長の家臣団は5つの方面軍に分けられており・・・
関東方面軍・・・滝川一益
北陸方面軍・・・柴田勝家
四国討伐軍・・・織田信孝
中国方面軍・・・羽柴秀吉
近畿方面軍・・・明智光秀
信長の傍で大軍を擁しているのは光秀ただ一人でした。

午後9時ごろ・・・光秀は重臣を集め、謀反の決意を語ったと言います。
光秀は信長襲撃に当たり、緻密な作戦を立てていました。
戦国時代の京都攻略は容易なものではなく・・・
というのも、町のあちこちには堀があり、櫓門、木戸門もありました。
応仁の乱以降、戦乱の巷となった京都は、要塞都市と化していたのです。
そのため光秀は、先陣にあらかじめ木戸門を開けさせておいて、軍勢が通りやすいようにしていました。
そして・・・
6月2日・・・午前4時ごろ!!信長に気付かれることなく、本能寺を取り囲んだ光秀は、一斉攻撃をかけます。
ルイス・フロイスによると・・・

”明智の兵たちは、門に達するとすぐに中に突入した。
 こうした裏切りを予想していなかったため、抵抗する者はなかった。
 信長は切腹したと言う者もあれば、邸に火を放ち死んだと言う者もあった”

戦いは僅かな時間で終わったものの・・・光秀の作戦は続きます。
次の標的は・・・本能寺の近くにいた信長の嫡男・信忠です。
織田家の家督は、既に信忠に譲られており、持ぶただが織田家の代表であり、信長の正統な後継者でした。
光秀は僅か1時間ほどの戦闘で、信忠を討ち取ることに成功!!
電光石火の早業でした。
信長が滅び、後継者もいない・・・そんな状態を作り出した光秀とは・・・??

光秀の出自は定かではなく、早くから後に室町幕府15代将軍となる足利義昭に仕えていました。
その後、信長に能力を見出され、比叡山焼き討ちを指揮し、様々な戦場で手柄を上げ、近江の要衝・坂本錠を任されるほどになります。

1575年光秀は、丹波攻めの総指揮官に抜擢されます。
都のある山城と接する国・丹波・・・山と盆地が入り組んだその土地は、統治が極めて難しく・・・
丹波平定は、中国の覇者・毛利攻略の足掛かりでした。

武将・光秀はどんな人・・・??
標高356m、周囲8キロに及ぶ巨大な山城・黒井城は、重臣・斎藤利光に命じて大土木工事を行った城です。
この城は、外枡形が2つ重なっていて、まさに光秀は築城名人です。
ルイス・フロイスも・・・光秀は勇猛な武将で、築城技術に精通していたと書いています。
羽柴秀吉やほかの武将と競い合っていたので、光秀もほかの有力武将に負けないお城を造る・・・そんな思いはありました。
緻密な作戦で成功した本能寺の変・・・光秀にとってそれは、天下をとるための一歩にすぎませんでした。

本能寺の変の後の光秀は素早く・・・
6月2日午後1時ごろ・・・光秀は今日を出立し、近江に向かって進軍します。

光秀の戦略
①近江平定
軍事的な地盤を固めます。
中国方面軍の秀吉に対抗する備えは、中川清秀をはじめとする摂津の武将達。
もともと光秀配下のために、味方に付く可能性が高いのですが、問題は近江。
北には柴田勝家、南には徳川家康が・・・近江を抑えることは光秀にとって生命線でした。
光秀は、居城・坂本城に入るとすぐに攻略を開始・・・
秀吉の長浜城や、美和長秀の佐和山城を攻略し、近江を平定し終えたのが6月4日。
6月5日・・・安土城に入城!!
近江を抑えることは、織田政権の継承者である証拠だったからです。
この光秀の軍事行動は、近江近辺の大名たちの若狭・武田元明や大和・筒井順慶を味方に付けます。

②朝廷工作
6月7日、光秀は朝廷の勅使を、安土城に迎えます。
光秀にとって朝廷を味方につけることは最重要課題でした。
主君・信長を討った光秀には大義名分がありません。
そこで光秀は朝廷に、治罰の綸旨を求めたのです。
朝敵追討という大義名分を得ることによって、光秀は官軍となるのです。

③外交(調略)
さらに光秀は、上杉、北条、毛利、長宗我部などに敵対する大名たちに密使を派遣、連携を依頼しました。

④庶民対策
光秀は今日の人々の税を免除するなど、人心収攬に努めました。
2017年、愛知県で発見された記録には・・・
「信長親子が死亡して、人々はそれに拍手し、天下が定まったと喜んだ」とあります。
光秀は勇士。
光秀は、天下人の地位を盤石にするための期間を50日、100日と見積もり、そのうちに、近国を平定しようとしていたのです。

完ぺきと思われた光秀の戦略・・・しかし、落とし穴が・・・!!
毛利との和睦交渉を成立させた秀吉が、光秀を討つべく進軍開始・・・!!
世に言う中国大返しです。

本能寺の変以降、天下取りに向けて次々と手を打ってきた光秀・・・
そんな光秀にほころびが生じます。
光秀の配下であり姻戚関係でもある丹後の大名・細川藤孝が協力を拒否。
藤孝は信長の死を知ると、髷を切り謹慎を表明していました。
摂津の武将たちも去就を明らかにしておらず、光秀は書状で説得をしています。

6月9日・・・
安土から京に戻った光秀に驚愕の知らせが・・・!!
秀吉軍がすでに姫路まで戻ってきている・・・!!
光秀と同じく、秀吉も諸国の武将に書状を送っています。
中川清秀宛ての手紙によると・・・
「今日から知らせをもたらした者が、確かに言っています。
 信長さま、信忠さまは窮地を脱したとの事・・・」と。
つまり、信長は生きているとニセ情報を流し、味方に付けようとしたのです。
秀吉を迎え討つべくどのように戦略を立てるべきか・・・??

山崎で戦う・・・??
京の玄関口・山崎は、天王山と淀川に挟まれた狭隘な場所・・・
西から来る軍勢は、体勢を崩し細長くならざるを得ない。。。
山崎の周辺の光秀本陣は・・・恵解山古墳。
巨大な前方後円墳でした。
発掘された戦国時代の堀跡は・・・
幅4メートル、深さ2メートルの堀は、長さ400mに及ぶと考えられています。
戦国時代には、古墳は陣になったり、お城に造り替えたりされることが多かったのですが・・・
周辺一帯を陣地として構築し、秀吉軍を迎え撃った様子が伺えます。
こうした堅固な陣地を構築することで、秀吉に一歩先んじることができる・・・。

それとも大坂の織田信孝を討つべきか??
秀吉が信孝を担ぐと、弔い合戦の大義名分となってしまう・・・!!
信孝を討つと、秀吉の大義名分がなくなり、摂津の大名たちも味方になってくれるかも・・・??

信長と信忠を討ち果たした光秀・・・しかし、信長の次男・信雄は伊勢、三男・信孝は大坂に・・・信雄は、四国の長宗我部討伐のために1万5000の兵を率いていました。
しかし、本能寺の変が起きると、各地から集められた兵が逃走、信雄は大坂に取り残されていたのです。
光秀は信雄討伐を考えていた??
秀吉の書状には・・・
「大坂に信孝さまがいるため、光秀は河内へ兵を乱入させ、早くも大坂を取り巻いて、信孝さまを切腹させようという風聞がある・・・」とあります。

信孝討伐のために、大坂に兵を向わせるのなら兵力が分散される・・・
更に、秀吉とそこで野戦となれば、勝敗はどちらに転ぶかわからない・・・
陣地を構築し、山崎で秀吉を迎え討つべきか、大坂に向かい信孝を討つべきか・・・??
光秀に選択の時が近づいていました。

6月9日、光秀、下鳥羽に出陣!!
信孝を討つために、大坂に向かおうとしていました。
しかし、この時光秀の作戦に破たんが生じました。
光秀に加勢したはずの筒井順慶が参陣を拒否・・・すでに、順慶は秀吉と通じていたのです。
一方秀吉は、姫路城を出陣し、東へ・・・!!
秀吉の動きを察知した光秀軍は、急いで山崎に向かいました。
交通の要衝として栄えていた山崎は、街道沿いに栄えた自治都市でした。
しかし・・・ここで不利な情報が光秀を待っていました。
光秀があてにしていた摂津の武将たちが秀吉に味方したというのです。
光秀軍1万余り・・・対して秀吉軍は3万数千となってしまいました。
大軍に対して三成はどういう作戦を立てたのでしょうか??
西は天王山と淀川に挟まれた狭隘地・・・南は3つの川が集まる湿地帯・・・。
秀吉軍より先に山崎に入った光秀軍は、小泉川を防衛ラインとし、大山崎の出口に陣を構えました。
これによって、天王山は無力化されたことになります。
また光秀は、淀城や勝竜寺城を後詰とし、防御を固めます。
秀吉軍は陣形が取れず、細長くならざるを得ない・・・
光秀は、大軍の利を封じたのです。
この時点での光秀の迎撃作戦は、秀吉を上回っていたと考えられます。

一方、秀吉の陣営は、歓喜に包まれています。
大坂の信孝が合流したのです。
秀吉は信孝を迎え、顔を合わせると涙し、いつまでも大声で泣き続けました。
信孝を味方に迎えることで、秀吉は弔い合戦という大義名分を得たのです。

光秀VS秀吉・・・決戦開始は、6月13日午後4時ごろ・・・
光秀の予想通り、大山崎の狭い隘路で秀吉軍は長くならざるを得ません。
光秀軍の猛攻で、秀吉軍の先陣は後退・・・狭い道に兵が溢れ大混乱に・・・!!
光秀軍は攻勢を強め、戦いは光秀の思い通りに展開していました。
このまま戦っていけば、秀吉軍は崩れ、勝利を手にすることができる・・・??
ところが、秀吉軍の別動隊が湿地帯を抜け、光秀軍の側面をついたのです。
子の奇襲によって、光秀軍の左翼が崩れ、勢いに乗った秀吉軍が、光秀本陣に迫ります。
この時、光秀は前線に向かおうとしますが・・・家臣に制せられます。
激闘は数時間で終了・・・。
再起を図るべく、近江の坂本城を目指した光秀。
しかしその途中、落武者狩りに襲われて、命を落としたと伝えられています。
光秀の天下取りは、ここに終わったのです。

京都の北にある慈眼寺には、光秀の木像が伝わっています。
力強い武将の姿は、これまでの光秀のイメージを覆すものでした。
敗者となり、謀反人の烙印を押された光秀・・・その真実は、歴史の深い闇に葬られたのです。



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1582年6月2日・・・天下統一を目前に、織田信長が家臣の明智光秀の謀反で命を落とす・・・本能寺の変です。
戦国の世を大きく変えたこの本能寺の変・・・信長と光秀を取り巻く女たちの運命をも翻弄します。
光秀の娘・・・細川ガラシャもその一人でした。
父・光秀の暴挙によって謀反人の娘となってしまったガラシャ・・・戦国の美女と謳われたガラシャの人生は壮絶なものでした。

戦国の革命児・織田信長が尾張の一大名から天下布武に走り出したころ・・・1563年、細川ガラシャは、明智光秀の三女・玉として生まれました。
幼少の頃の記録はなく、歴史に名を刻んだのは、16歳・・・1578年8月に細川忠興に嫁いだ時でした。
当時、ふたりの父親・光秀と藤孝は信長の家臣で、光秀は近江国、藤孝は山城国を治めていました。
そんな婚儀を取り持ったのが、主君・信長でした。

信長の思惑は・・・
この頃の明智光秀は信長の重臣・・・西を攻めるために、両家を固く結びつけようというものでした。
婚礼は、細川家の居城・勝龍寺城で行われ、誰もがうらやむ美男美女のカップルでした。
夫婦仲は良く、翌年には長女・於長、次の年には長男・忠隆が生まれ、子宝にも恵まれました。
そんな中、明智家と細川家は信長に命じられた丹波・丹後を見事に平定!!
父・光秀は丹波国を、舅・藤孝は丹後国を・・・順風満帆でした。
勝龍寺城での生活が、玉の一番幸せな時だったのかもしれません。


若くて綺麗で、和歌に儒学、仏教にも造詣の深い、才色兼備な女性だったようで、藤孝も絶賛な嫁でしたが、気位が高く、怒りっぽかったかも・・・??
ガラシャは洗礼名ですが、どうしてキリシタンとなったのでしょうか?

最初の悲劇は1582年6月2日、結婚から4年・・・玉が20歳の時、運命が急変!!
本能寺の変!!父・明智光秀が主君・信長を討ったことで謀反人となり、その娘となってしまった玉・・・これが、悲劇の始まりでした。

悲劇①謀反人の娘
信長に謀反を起こした光秀は、玉の嫁ぎ先の細川家に援軍を要請!!
上洛し、味方に付くように書状を送りました。
しかし、細川家の答えは。。。「光秀は主君の敵」・・・光秀に協力することを拒みます。
細川藤孝は髻を切り、息子・忠興に家督を譲ることで、主君・信長への哀悼の意を表します。
昵懇の中の両家の対立に板挟みの玉に試練が・・・
織田家・細川家家臣から、離縁、自害などの声が上がります。
忠興は・・・「もはやともに暮らすことはできない・・・」と、玉を丹後国の外れ味土野に幽閉してしまいました。

味土野には、明智家の茶屋があったようで・・・
実家ゆかりの地へ幽閉することで、送り返したと見せかけ様々な圧力から守ろうとしたと考えられます。
しかし知らない玉は・・・
「(父上が)腹黒なる御心ゆえ、自らも忠興に捨てられ、幽かなる有り様なり」と恨み言を述べています。

11日後の6月13日、山崎の合戦にて光秀は羽柴秀吉と戦い惨敗。
落ち延びる際、落武者狩りにあい絶命します。
母や、玉の男兄弟たちも命を絶ち、明智家滅亡・・・乱世に散りました。
玉は・・・味土野で、子供とも話され孤独な日々を送っていました。
幽閉生活で次男・興秋出産。
玉の支えは、清原いとという侍女でした。

1584年豊臣秀吉が天下を統一!!
そんな秀吉の臣下となった細川忠興は、妻・玉の幽閉を解いてもらえるように秀吉に願い出ます。
幽閉生活から2年・・・大阪市中央区玉造に戻ってきました。
しかし、その暮らしは幽閉生活以上に苦しかったのです。


悲劇②戦国一の美女
玉の幽閉中に側室を持ち、子まで作っていた忠興は、玉に厳しく接します。
それはかつての優しい夫ではありませんでした。
短気な忠興に玉の心は頑なになっていきます。
どうして忠興は玉に厳しく接したのでしょうか??

「彼女に対して行った極端な監禁は、信じられぬほど厳しいものであった。
 家臣に昼夜普段に、自邸での妻の監視を義務付けた。
 自分が外出する時には、いかなる使者が入り、またいかなる女たちが家から外出したか報告するように命じた。
 ごく親しい親戚か、身内の者でない限り、彼女に対してはいかなる伝言も許さぬようにし、彼女に伝えられることは家臣の検閲を受けるように命ぜられた。。。」byルイス・フロイス

どうしてそのようにしなければならなかったのでしょうか??
謀反人の娘という事への世間体から。。。
戦国一の美女・・・美し過ぎる妻を持った男の嫉妬・・・美しい妻が、他の男の目に触れることを嫌ったのです。
次第にふさぎ込んでいく玉・・・

1592年秀吉の命により朝鮮に出兵。
その際、九州・名護屋城に大名たちの妻子を招いて茶会を催すという噂を聞いて・・・

「なびくなよ わが姫垣の 女郎花
         男山より 風は吹くとも」・・・秀吉のことも警戒していたようです。

そんな忠興に対し・・・

「なびくまじ わがませ垣の 女郎花
          男山より 風は吹くとも」・・・と、返しています。


そして茶会当日・・・玉は覚悟を以て秀吉と謁見します。
挨拶をした玉は、その懐からわざと短刀を落とします。
私に触れれば自害するという意思表示でした。
さすがの秀吉もその覚悟に、何もせずに帰したと言われています。

しかし、自分の幽閉中に側室を持ち、帰ってからは監禁・・・その歪んだ愛に・・・夫への不信感が強くなっていきます。
しかし、忠興のキリスト教の話には興味がありました。
高山右近から聞いてきた話です。
忠興にとっては唯一幸せな時でした。

1549年キリスト教伝来
イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエルによって伝えられ、30年あまりで全国に広まり、信者は15万人に達したと言われています。
玉は、その教えに大きく心を動かされます。
「神の前では、何人も平等であり、愛を持って接しなければならない。」
玉は、教会に行き、もっと教えを・・・と思うようになっていきます。

悲劇③キリシタン
厳しい監視の中、外に出られない玉にチャンスが回ってきたのは、1587年3月。
夫・忠興が秀吉の命を受け、九州討伐へ・・・!!
大坂の屋敷を離れたのです。
玉は病気と偽って部屋にこもると、お付きの者と屋敷を抜け出します。
向ったのは天満の教会。
日が暮れるまで宣教師に質問します。
「これほどの理解力を持つ聡明な日本女性を見たことがない。
 明晰かつ果敢な判断ができる女性であった。」by宣教師
玉は、すぐに洗礼を受けることを望みましたが、それは叶いませんでした。

細川家の素性を明かさない玉を宣教師が怪しんだのです。
その後、外出の機会が巡ってくることはありませんでした。
どうしてもキリシタンになりたかった玉は、侍女・清原いとに洗礼を受けさせます。
そしてそのいとから洗礼を受け、キリシタンとなったのです。
洗礼名はガラシャ・・・ラテン語で”神の恩恵”という意味です。
玉=賜るからついたと言われています。

この時、ガラシャ25歳。。。
どうしてそこまでキリシタンになりたかったのでしょうか?
儒教の三従の教えから逃れたかったのではなかったか??
三従の教えとは、女性は幼い頃は父、嫁いでからは夫、年老いたら長男に従うというものです。

そして病弱な三男の回復も願います。
多くの不安の心のよりどころとなったのがキリスト教でした。

キリシタンとなり充実な日々を送っていたガラシャ・・・
1587年6月九州を平定した秀吉は、キリスト教への入信および、日本人奴隷の売買などの禁止、宣教師の国外退去を求める伴天連追放令を出します。

九州に行き、キリスト教の圧を感じたようです。
信長の一向一揆のようになるかも・・・??
その結束力の恐ろしさ・・・
秀吉のキリシタン迫害は、日に日に強くなっていきます。
大名たちにも侵攻を禁じ、破った物は領地没収!!

キリシタンの結束を恐れた秀吉が、キリスト教への締め付けを強める中、ガラシャは、娘たち、侍女たち、家臣たちも洗礼を受けさせていきます。
これに激高したのが、九州から帰った忠興でした。
忠興は改宗を迫りますが、ガラシャは聞きません。
そこで、洗礼を受けたガラシャの周りの者たちに攻撃します。
キリシタンとなった侍女たちの髪を切ったり、鼻や両耳を切り落とされ屋敷の外に放り出されるものまで・・・。
忠興も、高山右近の影響を受け、キリスト教には寛大だったのですが・・・
秀吉が伴天連追放令を出したので・・・家を守るためには仕方なかったのです。

ガラシャは離縁を望むようになり、侍女を通じて宣教師に相談・・・
しかし、キリスト教は離婚が禁止されていました。
そこで、宣教師に手紙を書きます。
「どのような迫害を受けようとも、私の侵攻は変わりません。」
篤い信仰心。。。しかし、時代の渦に巻き込まれていきます。

1598年8月18日豊臣秀吉死去
秀吉亡き後、天下を巡って暗躍する徳川家康と守ろうとする石田三成。。。
再び戦乱の世へ・・・!!
天下分け目の戦いが始まるのです。

悲劇④戦国武将の妻

1600年9月15日美濃国関ケ原・・・
徳川家康率いる東軍7万4千。。。石田三成率いる西軍8万4千・・・激突。
天下分け目の関ケ原の戦いが始まりますが・・・わずか半日余りで・・・東軍の圧勝に終わりました。
この勝敗に大きく関係していたのが、細川ガラシャだった・・・。
その関係とは・・・??

3か月前の6月15日、ガラシャの夫忠興をはじめ多くの大名たちが上杉討伐のために会津へ向かいます。
大坂城下には女性だけ・・・。
そこで三成は、敵対する妻子を大阪城内に人質にとる作戦に出ます。
この時点での三成の想いは・・・人質にとることで、自分の味方になる・・・という思いがあったのです。
人質としてどうしても欲しかったのがガラシャ・・・。
ガラシャを愛している忠興なら、絶対に寝返るはず・・・!!

そうなれば、他の大名たちも次々と味方に付くだろうと考えたのです。
7月16日、三成の使者が、大阪城下の細川屋敷に・・・
「御上様(ガラシャ)を人質として差し出すように」
家臣たちの判断は・・・人質は出さない・・・
翌日、石田軍によって取り囲まれてしまいました。
危機が迫る中・・・かつて夫から言われた言葉を思い出しました。
「いざとなったら細川忠興の妻として自害するように。」by忠興
しかし、キリスト教では自殺は禁止されている!!
このままでは人質になってしまう・・・大名の妻としての面目は・・・??

屋敷の者を逃がすことに・・・夫への遺言を渡します。
「側室を正室代わりにされることのないように。」byガラシャ
そして・・・家老・小笠原秀清に・・・
「私の胸を、その長刀で突きなさい。」
「御免!!」
自害せず、家臣に殺させることでキリスト教の教えを守り、死によって大名の妻として、細川家を守ったのです。
残った家臣たちもガラシャに続いて自刃・・・屋敷に火を放ちます。
遺体は炎に包まれました。

細川ガラシャ・・・38歳でした。
妻の死が夫・忠興のもとに伝えられたのは、数日後のことでした。

ガラシャを死なせてしまったことで怖気づいた三成・・・
諸大名たちの正室を人質にとることを諦めてしまうこととなります。
結果、大名たちは徳川側に残ることとなり、関ケ原の戦いで家康が不利にならずに済んだのです。
男たちに翻弄されたガラシャ・・・

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
           花も花なれ 人も人あれ」byガラシャ

散り際を知っている花は美しく・・・私もそうなりたい・・・

その潔い死は、歴史を大きく変えたのでした。

キリスト教禁令の中、忠興は愛する妻のために教会で葬儀を行いました。
涙を流し泣き続けたと言います。
そして、亡くなる83歳まで正室を持ちませんでした。
本能寺の変、関ケ原の戦い・・・悲劇に何度も遭いながら、キリスト教という救いに出会い、慈悲の心で戦乱の世を一生懸命生きました。
戦国時代を象徴するような女性でした。



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日本最大の湖・琵琶湖・・・
その東に残る430年前の城跡・・・聳えていたのは、戦国時代の覇王・織田信長の安土城でした。
今や幻となった安土城・・・革命的な城でした。

織田信長が初めて城を手に入れたのは、1544年、11歳の時・・・父・信秀から尾張・那古野城をもらいました。
18歳で家督を継ぐと、清須城に居を移し、尾張を統一!!
新たに小牧山城を築くと、織田家の宿願だった美濃攻略を果たしました。
この後、金華山山頂に岐阜城を築き、近江・北陸にまで勢力を拡大していきました。
次々と居城を移していった信長ですが、当時の戦国大名は、一つの城を居城としているのが常でした。

信長が居城を次々と移した理由は・・・
領地が広がれば広がるほど、国境地帯、紛争地帯に駆け付けるのが難しくなります。
領土の広がりに限界が来るのです。
その時その時、一番BESTなところに自分が動いていく・・・合理的、効率的だったのです。
そんな信長が、天下取りの為に新たに築こうとしたのが安土城でした。

建設地としたのが、近江にある標高199mの安土山でした。
選んだ理由は・・・
当時の信長は、尾張・美濃が基盤でした。
京都を抑えることが重要で・・・近江・安土はその中間にあったのです。
しかも、琵琶湖に接しているために、交通の便が良かったのです。

1576年1月中旬より安土城の普請が始まりました。
惣奉行として重臣の丹羽長秀を指名!!
長秀は、ほとんどの戦いに参加し、現場での統率力に長けていました。
朝廷や豪商たちとの折衝・・・政治経済の手腕もあり、信長から全幅の信頼を得ていました。
長秀はまず、仮御座所を建設。
基礎的な工事を行いました。
工事には、畿内・尾張・美濃・伊勢・三河・越前・若狭の武士と領民を動員し、京都・奈良・堺から職人たちを呼びました。
当代一流の技術者たちによる前代未聞の築城工事となりました。
革新的な安土城・・・築城かしいから僅か1か月で信長は居城を移しています。
城づくりの常識を覆した安土城!!
その革新的なものは・・・

石垣
それまでの城の土台は、土塁が一般的でした。
そこから石の城へ!!常識を一変させたのが信長でした。
一番最初に石垣を作ったのは、小牧山城!!
小牧山城以前は、石垣はありませんでした。
自然石を積み上げた野面積みですが、段々に積んで大きな石の城に・・・
これが、信長の城づくりの原型で、のちに安土城に生かされることとなります。

岐阜城では金華山から切り出した石で、より強固な石垣を作っています。
その集大成ともいえる石の城が安土でした。
1573年4月1日四人の石奉行が任命されました。
好んで使われたのが、琵琶湖の沿岸の湖東流紋岩でした。
きめが細やかで固く、石垣に適していました。
安土山から6キロ圏内で切り出したと考えられています。
「昼夜 山も谷も動くばかり」と言われるほどの空前の大工事でした。
大きな石を使うのは力の象徴でした。

しかし、空前の石垣工事には事故も多く・・・
ルイス・フロイスは「日本史」に・・・
「特別大きな石を6.7千人で引き上げていたところ、石がずり落ちて、150人以上が下敷きとなった」と書いています。

膨大な人員と時間と、犠牲を払って作られた石垣は、4年で完成・・・
それは、城郭全体に及ぶ壮大なものでした。
堅固な守りを固めたその石垣は、今も見ることが出来、高いものでは10mをゆうに超えます。
信長の家臣たちは、築城の技術を身に着け、石垣の城を作り上げていきます。
近代城郭の常識となっていきました。

堅固な安土城・・・
本丸の黒金門から信長の居る天守までは、巨石を積んだ石垣が、折れ曲がった厳重なものとなっていました。
しかし、大手道という真っすぐな180mの道があります。
敵に攻めてくれと言わんばかりの大手道・・・。
それは、正親町天皇の行幸を計画していたからだと言われています。
ところが、最後まで真っすぐではない・・・
ではどうして真っすぐな道だったんでしょうか??
大手道の周りには、家臣たちの家が建っていました。
家臣の居住エリアを攻めやすくして、信長との差を見せつけようとしたためと言われています。

1577年天主の建造が始まりました。
大工の棟梁には尾張時代から信長に仕え、熱田神宮の宮大工でもあった岡部又右エ門が任ぜられました。
8月24日に柱建て、11月3日には屋根葺きが行われたことから、工事は急ピッチで進められたことが判ります。
そして、1579年、安土城天守の外装がようやく出来上がりました。
地上6階地下1階の7階建て、最上階までの高さは30m以上、今の10階建てのマンションに相当したと言われています。
さらに平成元年からの発掘調査によると、金箔の瓦が発見されており、天守は豪華絢爛だったことが判ってきました。
派手好みな信長らしく、最上階の6階は、全体に金箔が張られ、屋根にも金の鯱が、5階は鮮やかな朱色に塗られていました。
5月吉日、この天主に信長は移り住みます。
戦国時代には櫓を作る建築技術はありましたが、御殿の役割はありませんでした。
城が武士の権力の象徴となった瞬間でした。

城の内部もまた、豪華なしつらえが・・・
立て板張りに黒漆の高級な書院造で、動植物や仏教世界、中国の故事などを題材とした障壁画が書かれていました。
中でも虎の障壁画は、当代随一の画家・狩野永徳とその弟子たちです。

1579年5月、安土城に居を移した信長は、主だった家臣たちを城下に呼び寄せます。
しかし、住み慣れた尾張や岐阜からの強制的な引っ越しによって、問題が起きます。
家臣の多くが故郷に妻子を置いて単身赴任していたからです。
彼らは慣れないひとり暮らしに困惑し、火を出してしまうこともありました。
当時の武士は、先祖伝来の土地を離れるという考えが出来なかったので・・・
信長は、故郷の家を焼いたり、壊したりして強制的に来させたりしています。

この時信長は、武家屋敷の建設と共に、安土城城下町を建設しています。
戦国時代、城はあくまでも軍事施設であり、生活の場ではありませんでした。
なので、城下町の発展もありませんでしたが・・・信長は、城下町を作りパイオニアとなっていきます。
信長は、城下町が経済の中心となることを重視した大名で、関所などを撤廃し街道を整備、それまでの街道を付け替えて、安土を経由するように変えています。
旅人は、安土で宿泊する決まりを設け、近江国での馬の売買を安土のみとしました。
安土にやってきた者は、誰でも商売をしていいという楽市楽座を制定。
これらの政策によって、城下町には人が溢れ、瞬く間に経済的な発展を遂げていきました。
信長が作り上げた近世城下町は、後世へと受け継がれていくことになります。

どうして天主5階は8角形でなければならなかったのでしょうか??
5階内部の装飾は・・・柱に金の龍、天井にも龍、壁にも龍があります。
中国の皇帝を連想されるシンボルの龍。
信長が龍のモチーフを利用したのは、日本の天皇を超える存在、中国の皇帝のような存在をイメージしていたようです。
安土城を建てた頃は、官位をすべて返還しており、実力で「天下布武」を進めていました。
本能寺の変直前も、太政大臣、征夷大将軍、関白・・・すべてを断っていました。
なので、すでに天皇を超えた存在だと思っていた可能性があります。
信長にとって安土城は、これから先のビジョンを示すシンボルだったのです。

信長の野望は、御幸の御間からも見受けられます。
天皇が安土城に行幸に来た際に使われるであろうこの場所・・・
信長の座主・天守よりはるかに低いところにありました。
これは、自分が現人神より上だということを周囲に見せつけるためだったと言います。
八角形の場所は、本来神聖な人を迎える場所とされていました。
天守5階の八角形は、信長が神であるということを示すためだったのです。
1581年9月、安土城は、5年以上の歳月をかけて完成!!
それは、信長の城づくりの集大成であり、天下人としての理想の城でした。

安土城天主台跡には、その柱を支えていた礎石・・・
天主台の大きさは、南北30m、東西25m、です。
また、南北20間(42メートル)、東西17間(35.7m)ともいわれています。
これこそが安土城最大のミステリーです。
もともと天主は、天主台と同じくらいかそれより小さいはず・・・なので、これでは天主がはみ出してしまいます。
懸け造り・・・清水寺のように柱を外側に出して支えていたと思われます。
天主台西側の礎石の列が、懸け造りのためのもののようです。
天主1回には、舞台となる「懸け造り」があり、そこから信長が現れる・・・
圧倒的な権力を見せつけるようになっていたと思われます。

豪華絢爛な天主・・・史上空前の城で・・・
1581年7月15日、城を数千ものちょうちんでライトアップ!!
盂蘭盆会で見せたサプライズ!!
闇夜に浮かぶ、壮麗な城・・・誰もが信長の存在を恐れ、称えたに違いありません。

天主は後に天守となります。
天の主は信長だけ・・・そういったためだと言われています。
天の主・・・誰の下にもつかない唯一無二の信長・・・独創的な信長の安土城は、その後の城郭建築の常識となっていくのです。

信長の夢の城・安土城・・・
地上6階地下1階・・・神となり、新しい時代を作ろうとしていた信長・・・
しかし、1582年6月2日、明智光秀の謀反によって、その夢は潰えるのです。
その13日後・・・主を失った安土城もまた、炎に包まれます。
火をつけたのは、信長の次男・織田信雄とも、光秀の娘婿・明智秀満ともいわれています。

深窓は未だ闇の中・・・安土城は、多くの謎を残したまま、夢幻の城となったのでした。
僅か9か月の事でした。


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