日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ルーズベルト

日本に投下された2つの原子爆弾は、一瞬にして都市を破壊し、多くの市民の命を奪いました。
この恐るべき兵器を作り出したマンハッタン計画・・・
当時最高の科学と技術を結集した巨大プロジェクトでした。
ノーベル賞受賞者をはじめ、世界の頭脳がアメリカに・・・彼等を率いたのは、物理学者のロバート・オッペンハイマーでした。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

マンハッタン計画の科学と歴史 [ Bruce Cameron Reed ]
価格:5830円(税込、送料無料) (2022/2/15時点)



科学者たちが挑む、原子から巨大なエネルギーを取り出す最先端の研究・・・
それは、大量殺りく兵器の製造にほかなりませんでした。
第2次世界大戦中、原子爆弾を作り出した科学者たち・・・その罪と罰に迫ります。

アメリカ・ニューメキシコ州・・・1945年7月16日、ここである歴史的な実験が行われました。
人類史上初の核実験成功・・・人間が原子爆弾という兵器を生み出した瞬間でした。
その巨大な力を作り出したのは、神でも悪魔でもない・・・

原爆の父とよばれた物理学者ロバート・オッペンハイマー。
如何にしてこの男は原子爆弾を作り出したのか・・・??
始まりは、1938年のドイツに遡ります。
2人の科学者が、核分裂を発見したのです。
物質を構成する原子を、その中核をなす原子核に中性子をぶつけると、二つに分裂することがわかりました。
この時、巨大なエネルギーが放出される・・・!!
これに科学者たちは注目しました。
そして、核分裂連鎖反応を起こせば、莫大なエネルギーを作りだせると考えました。
当時、ドイツはヒトラー率いるナチスの支配下・・・今にも戦争をはじめようとしていました。
ヒトラーが巨大なエネルギーを手に入れれば、恐ろしい兵器を作るに違いない・・・。
いち早く、危険を察知したのは科学者達でした。

ナチスから逃れてアメリカに亡命していたユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタインもその一人でした。
危機感を持った科学者の呼びかけに応え、アインシュタインはアメリカ大統領への手紙に署名しました。

”この核分裂連鎖反応は、爆弾の製造にもつながります
 それも、きわめて強力な新型爆弾を製造することが考えられます”

近い将来、ドイツで原子爆弾の製造ができるようになると警告します。
そこには、アメリカにドイツより早く原爆を完成させるようにする狙いがありました。
アメリカ合衆国大統領ルーズベルトは、原子爆弾の製造を決意します。

1942年8月、ニューヨークに司令部を設置・・・マンハッタン島ブロードウェイ270番地・・・
ここに、マンハッタン計画が誕生しました。
科学部門の責任者に選ばれたのは、カリフォルニア大学で物理を教えていたオッペンハイマーでした。
学生から愛称で呼び親しまれる教師・・・
後のブラックホール発見につながる先駆的な研究で注目される理論物理学者でした。
ユダヤ系アメリカ人として生まれたオッペンハイマーは、少年時代から科学、歴史、語学と様々な学問に興味を抱き、秀でていました。
その教養を武器に、あらゆる分野に対応することができると軍の上層部が目をつけたのです。

軍が求めていた科学的大事業に必要なリーダーシップをオッペンハイマーは全て備えていました。
オッペンハイマーは、観察眼が非常に鋭く、そして頭の回転も極めて速かったのです。
要するに、原子爆弾を早急に開発するための実践的能力に抜きんでていたのです。

オッペンハイマーはまず、計画の拠点となる研究所をどこにするかを考えました。
広大なアメリカの国土から選んだのは・・・マンハッタンから3200キロ離れたニューメキシコのロスアラモスでした。
崖の上に広がる独特の地形が決め手でした。
周囲から隔絶された辺境の地・・・機密保持には最適でした。
続いて、化学者の人選です。
オッペンハイマーはまず、一流の科学者だけに狙いを絞りました。
既に「ノーベル賞を受賞していた世界的物理学者エンリコ・フェルミ・・・
後にノーベル賞を受賞する物理学会の重鎮ハンス・ベーテ。
戦後、コンピューターの基礎を築くことになる数学者フォン・ノイマン。
ビッグネームが揃うと、その名前につられるように参加者が増え、有名科学者に憧れる若手研究者も多く集まりました。
オッペンハイマーの狙い通りでした。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

オッペンハイマーはなぜ死んだか [ 西岡昌紀 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2022/2/15時点)



オッペンハイマーは、研究所設立のセールスマンでした。
誰もが研究所に入りたがるような魅力的な人選をしました。
多くの若い科学者たちは、研究所に入り、自分が目標とする科学者と働けることを望みました。

続いてオッペンハイマーは、研究環境を整えます。
原爆開発は、陸軍主導のプロジェクト・・・軍は機密漏洩を防ぐため、科学者同士の会話も制約しようとしていました。
オッペンハイマーは、軍と粘り強く交渉・・・科学者たちの研究エリアに憲兵を立ち入らせないようにしました。
オッペンハイマーは、研究所は研究所らしくあるべきだと訴えたのです。
科学者全てが自由に議論でき、全ての情報を知ることができなければならない・・・
そして、全員が自由に意見を言えなければならないと軍に認めさせたのです。
科学者とその家族たちが続々と集まり、研究所の周りには町が作られました。
オッペンハイマ―は、科学者が心おおきなく研究できるように配慮しました。

こうして、マンハッタン計画の拠点としてロスアラモス研究所が完成しました。
所長に就任したオッペンハイマーのもと、原爆開発が動き出します。
最初に取り組んだのは、ウランの核分裂を利用した爆弾・・・核分裂を起こすことができる十分な量の濃縮ウランを二つに分け、筒の両端に配置・・・それを高速でぶつかり合わせ、核分裂を引き起こして爆発させる方法です。
仕組みは単純ですが、ウラン型爆弾には欠点がありました。
原料となる濃縮ウランを生成するのに膨大な手間と費用が掛かり、兵器として量産が出来ないこと・・・。
そこで、目をつけたのがプルトニウムでした。
濃縮ウランよりも容易に作ることができ、大量生産が可能でした。
ただし、ウランと同じ工法ではうまく核分裂させることができない・・・
科学者達は、プルトニウムを急激に圧縮すれば核分裂を引き起こせるのではないかと考えました。
プルトニウムを火薬で覆い、それを爆発させて一気に圧縮する爆縮という方法です。
この時、プルトニウムに均等かつ同時に力を加えなければ失敗してしまう・・・。
これこそが、原爆開発の最大の難問でした。

オッペンハイマーは、理論と技術、それぞれの専門家に知恵を求めました。
まずは理論・・・
爆弾の威力や弾道の計算で第一人者だった数学者フォン・ノイマンに設計を委ねます。
ノイマンは、均等にプルトニウムを圧縮するには火薬の種類や配置をどうすればよいか、最適な条件を計算で割り出そうとしました。
しかし、爆発という複雑な現象を計算することは至難の技でした。
思い通りに爆発させるためには、火薬をコントロールしなければなりません。
とても骨の折れる作業でした。
卓上計算機に手で打ち込み、繰り返し計算しなければなりませんでした。
このままでは、爆縮の計算など実現不可能だとみんな考えていました。

無数にある選択肢から最適な条件を導くため、ノイマンは当時最新型のパンチカード式計算機を活用。
昼夜フル活動させます。
そして、一つの答えにたどり着きました。
それは、プルトニウムの周りを32の区画に分け、火薬と点火装置を配置。
均等かつ同時に圧縮することが、理論的に可能になりました。
この設計図を技術チームが実現していきます。
火薬を爆破させるための点火装置も32の区画それぞれに設置します。
そのすべてを同時に点火しなくてはなりません。
ノイマン率いる理論チームの計算によれば、許される誤差はわずか2/100万秒でした。

誤差が少しでも生じたら爆縮は起きません。
当時、2/100万秒というのは、きわめて短い時間でした。
そこで、高速の解析カメラが欲しいという話になりました。
32個の点火装置が同時に点火するかどうかを検証するためのものです。

オッペンハイマーは、一瞬の光を捕らえることのできる超高速カメラを手配しました。
オッペンハイマーは、時間を見つけてはあらゆる部署を回り、仕事の新着情報を確認しました。
科学者は技術者の直面している問題に耳を傾け、解決のヒントを与え、答えに導いていったのです。
彼は全てのことを知り尽くしていました。
核、原子、流体力学・・・天才だったといっても過言ではありません。
しかも、親しみやすく、話しやすい人物でした。
オッペンハイマーについて全ての科学者が口にするのは、彼のリーダーシップが無ければ1945年の夏に原爆は出来上がっていなかっただろうということです。



原爆開発は進んでいきます。

原子爆弾を生み出す核分裂の連鎖反応・・・
それは、人類が作り出した究極の暴走だ!!
頭脳と情熱の限りを尽くし、原爆開発に突き進んだ科学者たち・・・
自らもまた暴走していることに気が付いていたのか・・・??

1944年6月6日・・・連合軍は、ドイツ占領下のフランス・・・ノルマンディに上陸。
8月25日には、ヒトラーの支配下にあったパリを奪還。
ナチスドイツの敗戦が濃厚になっていきました。
さらにアメリカ軍の諜報部隊が、ドイツの原爆開発に関する重大な情報を入手します。
ドイツは原子爆弾を作ってはいませんでした。
ドイツの原爆開発を恐れて始まったマンハッタン計画・・・その他意義が失われました。

故郷ポーランドで妻をナチスに殺された物理学者ジョセフ・ロートブラット・・・
「もはや原爆を作る必要はない」
1944年の冬にただ一人ロスアラモスを去りました。

オッペンハイマーの教え子で、濃縮ウランの精製技術を研究していたロバート・ウィルソンは、悩んでいました。
原爆の開発を続けるべきか、その是非を問う集会を開きたいと考えます。
オッペンハイマーに意見を求めたところ、

「そんな集会をやれば、君は軍の連中ともめ事を起こすことになるだろう
 だから、集会はやめた方が賢明だと思うね」

そんな集会を開くには、まったくふさわしくないタイミングだとオッペンハイマーは考えたのです。
計画が、加速度的に進展していたので、軍とことを荒立て開発がストップするのは避けたかったのでしょう。
軍の意向を慮るオッペンハイマーに失望し、ウィルソンは集会を決行します。
すると驚いたことに、参加者の中にオッペンハイマーの姿がりました。
そして発言の機会を求めて語り始めました。

「このままドイツとの戦争が終われば、原爆はアメリカの軍事機密となり、いつ新たな戦争で使われるかわからない
 むしろ、原爆を完成させて実験を行い、世界の人々に原爆の恐ろしさを知ってもらえば、国際平和を話し合ういい機会になる」

オッペンハイマーは、原爆が世界平和に貢献すると主張し、同席した科学者をひとり残らず納得させました。
ウィルソンは、その時の様子をこう回想しています。

”荷物をまとめて研究所を去ろうなんて、誰も言い出さなかった
 それどころ、あみんな取りつかれたような熱心さでまた仕事に戻っていった”

オッペンハイマーは、計画を継続するべきであると見事に納得させたのです。
彼の野望は、出来るだけ早く原爆を作ることでした。
それはプライドや野心といえるし、出世欲だったのかもしれません。
いずれにせよ、科学者がみんなオッペンハイマーの元、原爆開発に向けて一致団結したのです。

1945年5月7日、ナチス・ドイツが無条件降伏・・・原子爆弾開発の目的は消え失せました。
しかし、アメリカにはまだ敵がいました。
日本です。
太平洋戦争で激戦を繰り広げ、多くの死傷者を出していたアメリカは、日本への原爆投下を検討していました。
オッペンハイマーたちマンハッタン計画の科学者達もその議論に参加していました。
同じ頃、科学者の一部から日本への投下は望ましくないという意見が出ていました。
すでに、空襲で壊滅状態の日本に原爆を使うことが本当に必要なのか??
彼等はデモンストレーションとして原爆を砂漠や無人島で爆発させる提案をしていました。
各国の関係者に公表すれば、その脅威を理解させることができるというのです。
戦争を終わらせる手段としてデモンストレーションが効果的なのか??
議論は真っ二つに分かれました。



デモンストレーションを支持するものの主張
①実戦で使うのは、人道に反する
②アメリカが国際的な批判を受ける

原爆投下を支持するものの主張
①実戦で使用しない限り日本の戦争指導者を降伏させるのは難しい
②多くのアメリカ兵の命を救える

オッペンハイマーたちの最終報告書・・・

”我々は、戦争を終結させる手段として、デモンストレーションを提案することはできません
 つまり、原爆の直接的軍事使用の他には考えられません”

結論は、日本への原子爆弾の投下でした。

そして、最後にこう付け加えられていました。

”我々が、科学者として原子力利用について考える機会を得た数少ない市民であることは間違いありません
 しかし、我々には政治的、社会的、軍事的問題を解決する能力はありません”

オッペンハイマーたちは、科学者には軍事に関する特別な能力がないからと言い訳して、原爆投下の決定を事実上認めました。
何故なら、彼らは戦争に勝利し、早期に集結させることが、科学者の責任だと思っていたのです。

1945年7月・・・実践に向けた原爆の爆発実験の準備が始まりました。
トリニティー実験です。
爆発させるのは、爆縮の技術を駆使したプルトニウム型原子爆弾・・・
32個の点火装置も、2/100万秒以内の誤差で点火で来るように仕上がりました。

1945年7月16日午前5時29分45秒・・・
爆発の瞬間、真昼の太陽数個分に匹敵する閃光が、半径30キロを照らしました。
巨大な日の玉は、やがてきのこ雲となり、高度3000メートルの地点にまで上昇。
爆発音は、160キロ先まで聞こえ、200キロ先に窓ガラスも割れたといいます。

オッペンハイマーはただ一言「上手くいった」とつぶやきました。

ノイマンと同じ理論チームにいたロイ・クラウバー・・・
100キロ離れた地点から、実験を目撃しました。

「私は山頂から見ました
 すさまじい閃光とともの、実験場から爆風が広がりました
 そして、蒸気が幾重にも幾重にも立ち上っていきました
 空全体が明るくなるのを見て、実験が成功したことを、そして、実験が現実の事なのだと悟りました
 恐ろしかったです
 嬉しいことなどひとつもありません
 山頂からロスアラモスまで帰る途中、誰も一言も口をきかなかった」

開発を続けるべきか、迷って集会を開いたロバート・ウィルソンは、
酷いものを作ってしまったと座り込んでしまいました。

そして、オッペンハイマーは、一緒にいた科学者にこう言われました。

「オッピー、これで俺たちはみんなクソッタレだよ」

オッペンハイマーは晩年、トリニティー実験を回想しています。

”世界は前と同じでないことを私たちは悟った
 ある者は笑い、ある者は泣き、ほとんどの者は押し黙った
 私はヒンズー教の聖典の一説を思い起こした
 
 今 我は死となる 世界の破壊者となる”



1945年8月6日、広島・・・ウラン型原子爆弾リトルボーイ・・・
8月9日、長崎・・・プルトニウム型原子爆弾ファットマン。
二つの爆弾が日本に投下されました。

原子爆弾の開発は、科学者にとって悪魔との契約でした。
この契約は、いったん交わしたら撤回できない・・・日本に対して核兵器を使用したことは、世界の歴史で最も重大な出来事になりました。
我々人類は、いつの日か恐ろしい代償を払うことになるでしょう。

1945年8月15日、日本のみ条件降伏によって第2次世界大戦が集結。
オッペンハイマーは、戦争を終わらせた原爆の父として一躍国家的な英雄となりました。
そして物理学研究の名門プリンストン高等研究所所長に就任。
配下には、あのアインシュタインもいました。
さらに、政治の世界でも影響力を持ち、数多くの政府機関にも名を連ね、原子力政策への発言力を高めていきました。
オッペンハイマーは、原子力の国際管理、世界各国が協力する必要があると訴えました。

”世界の他の国々と、信頼関係を築き、協力し合うことこそが、安全な未来への唯一の道なのです”

しかし、世界はすでに東西冷戦に突入していました。
1949年8月・・・ソ連が原爆開発に成功。
対向してアメリカは、1952年11月、原爆の数百倍の威力を持つ水素爆弾の開発に成功します。
オッペンハイマーは、水爆開発を批判しました。
一方で、原爆の方が優れていると主張します。
原爆を小型化すれば、船上の限られた標的だけに使える・・・そうすれば、民間人を巻き添えにしないという理由でした。

そして、米ソの核開発競争が過熱すると、今度は真正面から政府を批判しました。

”我々の状態は、一つのびんの中の二匹のサソリに似ていると言えよう
 どちらも相手を殺すことができるが、自分の殺されることを覚悟しなければならない”

政府の政策に否定的な発言を繰り返したオッペンハイマー・・・
1953年、政府からソ連のスパイ容疑という濡れ衣を着せられ、公職から追放されます。
オッペンハイマーは、原爆開発で忠誠を誓ったアメリカに捨てられたのです。

アインシュタインは言いました。
「オッペンハイマーよ、君の役目は終わった 立ち去るべきだ」
しかし、彼はできませんでした。
そして、政府に裏切られたのです。

かつての国家的英雄の名は、世間から次第に忘れ去られていきました。
晩年、オッペンハイマーは日本への原爆投下を後悔していたといいます。

1967年2月18日、ロバート・オッペンハイマー死去 62歳。

咽頭がんでした。

オッペンハイマーの教え子で、原爆開発を続けるべきか集会を開いたロバート・ウィルソン。
戦後は、国立研究所の所長としてアメリカの物理学研究を牽引。
ドイツ降伏の時点で、ロスアラモスから去るべきだったと終生後悔しました。

ただ一人、ロスアラモスを離れたジョセフ・ロートブラット。
イギリスにわたり、核兵器と戦争の廃絶を訴えるパグウォッシュ会議を創設。
初代事務局長を務め、1995年ノーベル平和賞を受賞しました。



そして、アインシュタイン・・・原爆開発を促した手紙に署名したことを死ぬまで悔やんだといいます。

広島、長崎の原爆投下から70年以上・・・
世界の核兵器保有数は、現在1万5000にのぼると言われています。

現代の科学者にとって大切なこと・・・
科学自身は知識であって、自然から学んでいるだけ・・・
しかし、危ないものに使えば大変なことになる・・・
必ずプラスとマイナスがあるのです。
そこを常に見返して、科学者は間違った方向に行きそうだったらちゃんと警告しなければならない。
科学者は知識を持っていて、何が起こるかということも想像できます。
だから、それを活かしていろいろな問題について社会に対して助言をするということ・・・それが科学者の社会的責任です。

原爆の誕生を、生涯悔やんだアインシュタイン・・・
後に彼はこう語っています。

「この世には、無限なものが二つある
 宇宙と人間の愚かさだ
 宇宙の方は断言できないが・・・」

アメリカ・ニューメキシコにあるホワイトサンズミサイル実験場
その一角に年に2日だけ一般公開され・・・毎回数千人訪れる場所があります。
世界初の核実験・トリニティーの爆心地です。
ある世論調査で・・・アメリカ人の56%が日本への原爆投下は正しかったと答えました。

ロイ・グラウバーは、マンハッタン計画に参加したことをこう振り返ります。

「ロスアラモス研究所には、様々な科学者がいました
 優秀な科学者、才能に溢れた科学者、そうでない人物も含めてね
 そんな科学者たちと、素晴らしい環境で仕事を出来たことは、他の事には代えがたい日々でした
 しかし、それは私にとって、常に背負いきれない重荷でもあります
 あの場に居合わせた科学者は、みなそう感じていると思います」

原爆の父オッペンハイマー・・・広島、長崎の原爆投下から2年後にこんな言葉を残しています。

「物理学者は罪を知った」byオッペンハイマー

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村


































































その男は、ナチス・ドイツの総統ヒトラーと過ごした日々を誇らしげに語っていました。

「ヒトラーというやつは、天才であることは疑いのないことでしょうからね  
 私、こういうこと言われたことありますよ  
 ”実際、独裁者というものはつらいものだ”
 非常に人の言う意見
 ”お前どう思う お前どう思う”って聞きたがる」

男の名は、大島浩・・・駐ドイツ特命全権大使・・・”ナチスに最も食い込んだ日本人”です。

戦後、A級戦犯として終身刑の判決を受け、89歳で亡くなるまで自らの行いについて口を固く閉ざしてきたとされてきました。
その大島の肉声を記録した12時間に及ぶテープが見つかりました。
日本が太平洋戦争に突き進む外交の舞台裏・・・国内外の研究者たちも初めて聞く歴史の真相です。
ヒトラーに傾倒し、ナチス党員よりもナチスらしいと評された大島。
ドイツの力を過信していたと認める言葉口にしていました。
日本は大島がドイツからもたらす情報を信じ込み、破滅への道を突き進んでいきます。
強い発言力を持っていた大島に、異を唱える者は左遷され、反対意見が封じられたこともありました。
ナチスと日本を結び付けた黒幕・・・大島浩。
国をミスリードした男の知られざる告白です。



序章・・・口を閉ざしていた男
1973年、神奈川県にあった大島の自宅に通い、公表しないという条件で録音を許されました。
録音したのは、国際政治学者の三宅正樹。

”あなたには何でもしゃべるけれども、自分がしゃべったことが外に出ると、大島は自己弁解をしているというふうに受け取られるおそれがあるから、絶対に外に出さないでくれ
 自分は失敗した人間である、日本という国を誤った方向に導いたそういう失敗をした人間であるから弁明はしたくない”と、大島は言っていました。

当時、大島は86歳。
A級戦犯として服役した後、自宅で妻と二人ひっそりと暮らしていました。
録音の2年後に亡くなった大島・・・まもなく、夫人から1通のハガキが届きました。

「あのテープの内容は、どうぞご随意に発表してくださって結構であります」

と、書かれていました。
外に出すなとおっしゃりながら、記録として残したい気持ちがあったのでしょう。

大島の言葉を後世に残すことが大切だと考え、初めて音声を航海することとなりました。
3日間、12時間にわたって証言した大島・・・
ナチスの独裁者ヒトラーとの親密な関係を饒舌に語っていました。

「ヒトラーがね、なにしろ変わってますからね、性格が。
 常人の物差しじゃ非常にやりにくいところがあるんですよ
 私は非常に心やすくなったんですがね
 例えば私が酒好きだってことを知っているものですからね
 私にだけキルシュという一番強い酒を出すんですよ
 私だけ特別だってね」

ヒトラーの別荘に招かれ、長時間二人で語り合ったこともあったといいます。

「非常に人の言う意見”お前どう思う お前どう思う”と聞きたがるんですね
 その時に黙っていたり、変なこと言っちゃいけないんです
 ヒトラーという男は考えますからね
 天才であることは疑いのないことでしょうからね」

ヒトラー信仰が強かったのかもしれません。
自分の一番華やかだった時代を、思い出しているようでした。



第1章 ナチスに最も食い込んだ日本人

大島は、なぜナチスと親密な関係を築くことになったのでしょうか?
大島の性格は、朗らかで陽気な人でした。
日本の軍人のように幻覚というわけではなく、らいらくで冗談が多くて・・・。
日本の軍人らしくなかった大島・・・それは、ドイツに留学した経験を持つ父・健一の影響でした。
幼いころからドイツ式の英才教育を受け、流暢なドイツ語を話すことができました。

「新しい世界の平和を築くために、日本はドイツとともに戦いぬく!!」

その性格と身につけた素養が大きな武器となりました。
非常に深くドイツのことを勉強していて、洞察力もあり、大変なドイツびいきでした。
日本はドイツと一緒になれば怖い物は無いとはっきりと言っていました。

大島がナチスと最初に接近したのは、太平洋戦争が始まる7年前の1934年、ベルリンでした。
ベルリン駐在の陸軍武官として赴任しました。
ドイツでは、前年にナチス政権が誕生。
ヒトラーは、第1次世界大戦からの復興と雇用に取り組み、国民から熱狂的な支持を得ていました。
ドイツとの関係強化を陸軍の上層部から命じられていた大島・・・目をつけたのが、当時ヒトラーの外交ブレーンだったヨアヒム・フォン・リッベントロップ・・・後の外務大臣です。
ドイツ語に堪能で、ヨーロッパの文化にも精通していた大島のことを、リッベントロップは気に入り、度々面会するようになりました。
2人がドイツ語で会話できたことは大きなメリットで、お互いに信頼していました。
笑顔が絶えない時間でした。

大島とリッベントロップは、外交政策についても意気投合していきます。
そのことを、大島はテープの中で語っていました。

「あの時の情勢はソビエトは敵であることには変わりないわけです
 秘密条約を結ぼうではないかということを、リッベントロップに話したんです
 そしたら彼も同意して、やろうということになった」

当時日本は、中国東北部に満州国を建国。
国境を接するソ連と緊張が高まっていました。
一方、ドイツもソ連の共産主義やスラブ民族を敵視、ヒトラーは、東方に生存圏を確保すると主張していました。
ソ連という共通の敵を想定していた大島とリッベントロップ・・・
秘密裏に交渉を・・・1936年11月25日、日独防共協定調印。
共産主義の教義に対抗するため、互いの軍の情報を共用することが定められたのです。
大島は、協定の実現が評価され、1938年駐ドイツ特命全権大使に。

その頃、足繁く通っていたのは南ドイツにあるある別荘でした。
別荘の主はヒトラー。
親密になった大島に対し、側近にも話せない悩みを打ち明けていたといいます。

「”実際、独裁者というものはつらいものだ”
 自分の決心ひとつで全国民の利害に関係がある
 議会があれば責任はそれにあるんだから非常に楽だけれども”
 ”総統酒を召し上がりませんか”と言ったら、
 ”いや、私は酒を飲みます
 だけど独裁者としては酒は飲みません
 いつどんな重大な判決をしなければならない場合があるかわからないから”」by大島

側近にも弱みを見せなかったヒトラーにとって、大島は数少ない心を許せる人物だったようです。
ヒトラーは、他人を心から信頼することがない慎重な男でした。
それでも大島は難なく溶け込みました。
知識も豊富で、ナチスの高官たちは次第に大島の能力を高く評価するようになり、彼を非常に優れた能力がある人物と見なしたのです。

ナチスの幹部たちが高く評価した大島の能力・・・
それは、外交官としての手腕だけではなかったことがわかってきています。

ナチスの親衛隊長ハインリヒ・ヒムラーが、大島との会談について記したメモが残っています。
ヒムラーは、1939年、大島とある密談をおこなっていました。
その内容をまとめたメモには、大島が関わっていたソ連に対する秘密工作の実態が記されています。

”大島は20人のロシア人に爆弾を持たせ、ユーカサスの国境を超えることに成功したと述べた
 彼等はスターリンの暗殺の任務を帯びていた”

日本とドイツが敵視していたソ連の指導者スターリン・・・
その暗殺計画に、大島が関与していたというのです。
暗殺計画の首謀者とされるロシア人に、資金援助をしていたのが大島だったとみられています。
大島はテープの中で、スターリンを脅威に感じていたことを打ち明けています。

「スターリンというのが、それはもう実に悪い奴ですけど、この戦争で一番出たえらい奴は、私はスターリンだと思う
 ルーズベルトでもトルーマンでもチャーチルでも、この戦に勝てばいいというだけでやっていた
 スターリンだけは、勝った後にどういう自分が獲物(領土)を取るかということも前から工作していた
 だから、2歩、3歩彼等より先に出てるんです」

大島と親交のあったナチスの幹部(宣伝相・ゲッベルス)が残した日記・・・
日本とドイツの利益のために邁進する大島を高く評価する言葉が綴られています。

”大島は常にわれわれの思い通りに動いている
 勇敢で兵士のようにまっすぐだ
 日本の利益を追求しているが、そのうえ私たちの利益のために考え行動してくれている
 いつか、ドイツに彼の記念碑を建てる必要があるだろう”



第2章 日独伊三国同盟の”黒幕”

大島が残した12時間に及ぶ証言・・・
長い時間をかけ、詳細に語っていたのが日独伊三国同盟の舞台裏でした。

「あれは私が言い出したんですからね、三国同盟
 日本だって志那事変をやってイギリスやアメリカににらまれてますから
 おそらく日本政府は(同盟を)やることには応じるだろうと」

1940年9月、日本、ドイツ、イタリアの間で結ばれた三国同盟・・・
太平洋戦争を決定づけたといわれる軍事同盟です。
当時、泥沼の日中戦争を続けていた日本は、中国を支援するアメリカとの対立を深めていました。
そこで、ヨーロッパでの戦争で勢力を拡大していたドイツ、さらにイタリアと手を結ぶことで、アメリカを牽制しようと考えたのです。
この時、大島はドイツ大使の任を解かれ、一民間人にすぎませんでした。
1年前、ドイツが日本に相談することなく独ソ不可侵条約を締結。
ドイツ大使でありながら、その情報を事前に把握できていなかった責任を取らされたのです。
しかし、大島は、三国同盟の締結に、自らが重要な役割を果たしていたと告白しています。

「スターマー(ドイツ特使)が来た時に、私はもう(大使)やめておりましたけど、一番初めにスターマーが訪ねてきたのは私の家なんですよ」

1940年9月7日、同盟締結に向けた交渉のために来日したスターマー。
真っ先に訪れたのが、旧知の中だった大島の自宅でした。
大島は、スターマーと外務大臣・松岡洋右を引き合わせたのは自分だったとしています。

「松岡氏が私に来てくれというので、松岡氏訪ねて、スターマーにあったこともなければどんな人間かも知らないものだから、スターマーという人間はどうだこうだという話をした
 そこで至急一つ松岡大臣に会ってくれと、俺は電話をかけるからと言って、そして電話をかけて彼が松岡さんのところへ行ったわけです」

さらに、大島は松岡から条約の原案を書いてほしいと頼まれたといいます。

「私に”一案書いてくれ”と言いましたよ
 その内容の骨子をね
 ”参考に骨子ひとつ書いてくれ”とね
 それで出しましたがね、骨子を」

手元にあった便せんに、急いで書いたという骨子。
それをもとに作られたのが、日本、ドイツ、イタリアの軍事的な相互援助を定めた三国同盟だったのです。

当時一民間人に過ぎなかった大島が、どうしてここまで同盟締結に深く関与できたのか??

その頃、大島はベルリンにいるリッベントロップと連絡を取り合うことができました。
リッベントロップは、東京にあるドイツ大使館に、秘密の通信システムを作り上げていました。

大島と親密な関係にあったドイツの外務大臣リッベントロップ。
民間人の大島が、ドイツ大使館に自由にデイル出来るように計らい、モールス信号などを使った大島とのホットラインを用意していたというのです。
大島は当時、正式な大使という肩書がないだけで、以前として日独関係の中心にいたのです。
大島は、日本とドイツを強力に結びつける黒幕でした。
三国同盟をめぐっては、当時かい軍上層部などに根強い反対意見がありました。
アメリカと熾烈な戦争になることが危惧されていたのです。
しかし、1940年9月27日、大島らが強力に推し進めた日独伊三国同盟締結。
スターマー特使の来日からわずか20日後のことでした。

「この条約は、世界平和を招来する第一着工として締結せられたのであります」by松岡洋右

同盟締結の祝賀会で、誇らしげな大島の姿がありました。
大島には、一種、ドイツ屋という強烈な自負がありました。
世界史を動かしたという自負もあったかもしれません。



同盟締結後、大島は再びドイツ大使に任命され、華々しくベルリンに赴任します。
しかし、一方で、三国同盟は世界中に戦火を広げる転機となりました。
もともと日本がアジアで始めた戦争と、ドイツがヨーロッパで始めた戦争は、直接的な結びつきはありませんでした。
しかし、三国同盟によってこれらの戦争は結びつき、締結の1年後、戦火が地球規模に広がったことで、世界大戦となったのです。

第3章 封じられた真実

1941年12月8日、三国同盟でアメリカとの対立が決定的となった日本は、戦争に突入します。
この時、日本の指導者たちの判断に影響を与えたのが、大島のもたらすドイツ優勢の情報でした。
真珠湾攻撃の2か月前の1941年10月、大島が外務大臣にあてた公伝・・・。

”ドイツは、計画通り厳冬期前にソ連軍に殲滅的打撃を与え、ソ連の資源の大部分を押さえて、再起不能の状態にできるだろう”

当時、ナチス・ドイツはヨーロッパの広い範囲を制圧し、ソ連への侵攻をはじめていました。
しかし、ドイツ軍は、大島の報告したような圧倒的優位にはありませんでした。
ソ連の抵抗は予想以上で、苦戦していました。
大島は、当時、ドイツ軍の強さを十分な根拠なく信じ込んでいたと打ち明けています。

「私は2回ドイツの軍を視察しているんです
 実に立派にできている
 今考えると、大体ドイツが勝だろうという前提に立ってやったわけなんですよ」

一方、日本国内では、ドイツの国力の限界を客観的に分析する人もいました。
陸軍中佐・秋丸二朗を中心とする秋丸機関です。
経済学者らに依頼して、ドイツなど各国の資源や工業生産力を調査、戦争遂行能力を報告書にまとめ上げていました。
ドイツの交戦力は、1942年から次第に低下せざるを得ない・・・
独ソ戦が短期間で終わるか、長期戦になるかで大戦の運命は決定される。。。
実際の独ソ戦は、泥沼の長期戦となりました。
ドイツ軍は極寒の地で、進軍さえままならない状況だったのです。
それでも大島はベルリンから優勢を伝え続けました。

”ドイツはソ連軍の殲滅をほぼ完成している
 ソ連側の抵抗が急に増すこともあり得ず、戦局ははなはだ楽観すべき状態だ”

秋丸機関の参加者は、当然「ドイツというのはもうすでに限界である、依存したところでまったく意味がない」と考えていました。
大島は、ナチスに心酔しているような状態で、ナチスは非常に強大な国家になっている、それを事実だと信じ込んでいました。

さらに、大島に異を唱えた人物が冷遇される実態がありました。
大島と同じ時期にハンガリーで大使を務めた大久保利隆。
生前書き残した回想録に、大島と対立した様子が記されています。

1942年秋・・・大島の主催で、ベルリンの大使館にヨーロッパ駐在の大使や公使、15人が集められました。
その場で大島は、同盟国ドイツのために、日本もソ連との戦争に参戦すべきだと提案します。

「独ソ戦もドイツの有利に展開し、もう一押しというところだ
 日本が東からソ連を攻撃すれば、屈服するだろう
 日本政府に対してそう意見具申すべきである」by大島

大島を恐れ、誰も反対意見を言わない中・・・
声をあげたのが大久保でした。

「ソ連軍は、日本が行動に出るかもしれないと予測して、むしろ増員、強化されていると聞く
 日本こそ、苦境に立たされるに違いない」by大久保

大久保は、既に独ソ戦に参戦していたハンガリー軍の情報から、ドイツの劣勢を確信していました。
結局、意見具申は見送られることになりました。
その後、大久保はハンガリー公使の任を解かれ、降格の憂き目にあいます。
降格を告げられた大久保は、上司に帰国を願い出る手紙を書きます。
大島は、当時ヨーロッパですごい権力を振るっていました。
大使や公使が本国に打つ電報をチェックし、ドイツに良くないことを書くとベルリンの日本大使館に呼び出され、叱られる人たちが出始め、書かなくなっていったと言われています。



強い発言力を持っていた大島の情報を信じ込み、ナチスと命運を共にしていった日本・・・。
国民を巻き込んだ無謀な戦争が、繰り広げられていきました。

1945年5月、ベルリン陥落。

終章 A級戦犯として

終戦後、大島はA級戦犯とされ、東京裁判の法廷に立ちました。
自分は国の方針に従って、ドイツとの関係強化に努めたに過ぎない、そう釈明し、ヒトラーとの親密な関係も否定しました。
そして、1票差で絞首刑を免れ、終身刑の判決を受けます。
刑に服した大島は、1955年12月に釈放。

家の小さな机の上にはヒトラーと対面している写真がありました。
「ヒトラーは天才だよ、今でもそう思っているよ
 当時は国の力をいかに強くするかっていうことが世界中のどの国にとっても一番大切なことだった
 だから、その為に自分は日本の国をいかに崇徳して大きくするかということだけを考えていたから、ヒトラーとは非常に気が合ったんだ」by大島

一方、大島は自分には重い戦争責任があったことを率直に認めていました。
今回見つかったテープのなかでも反省を口にしていました。

「私はもちろん自分の責任を痛感する側で、非常にそういうことを感じます
 私が陸軍武官の時は、軍が強いか、弱いか見ていればいいけど、大使になれば経済力だとか、産業だとか、そういうことに関する判断もしなければならない
 経済力、生産力なんていう判断は、全くやってないんですよ、私はね
 郡力だけでこれは勝だろうと」by大島
 
大島だけではなく、当時の指導者や国民は、ドイツの勢いに惑わされていたことを忘れてはなりません。
”バスに乗り遅れるな”・・・当時の流行語です。
裏返せば、「強いものにつけ」という単純な考えです。
そういう物が永久普遍なのか・・・??
状況が動く中で、国家ビジョンをもって見る目を持たないと、国論は、進む方向など危なくて為政者に任せられない・・・ということになるのではないのか??
その責めを、大島だけに背負わせていいのか??
しかし、大島を見ることによって、問題点が浮き彫りになってくるのです。

晩年、大島は公の場に姿を現すことなく、神奈川県茅ケ崎の自宅でひっそりと暮らしました。
自分は国を誤った道に導いた人間だ・・・
口を閉ざしていた男が最後に残した12時間の告白。。。
それは、冷静な判断力を失い、破局へと突き進んだ日本の実像・・・そのものでした。

1975年6月6日、大島浩 死去。

ヒトラーを信じすぎた男の89年の生涯でした。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村



アメリカ最大の軍事施設ホワイトサンズ ミサイル実験場・・・ここで人類初の核実験が行われました。
トリニティーと言われたこの実験は、広島に原爆が投下される3週間前に実施されました。
当時、マンハッタン計画と言われた原爆開発・・・アメリカの極秘プロジェクトと言われてきました。
しかし、最新研究から、この研究にイギリスが深く関与していたことが明らかになってきました。
その中心となったのが、首相のウィンストン・チャーチル。
その全容を示す資料が、イギリスで公開されました。
原爆開発を秘匿する為に、プロジェクトは暗号名で呼ばれました。
チューブ・アロイズ・・・そこには、知られざるイギリスの核戦略が記されていました。
原爆開発のカギとなる技術をもたらしたのは、イギリスの科学者たちでした。
さらに、日本の原爆投下にチャーチルが強い影響力を与えていたことが明らかになりました。

アメリカを動かし、原爆開発を進めるチャーチル・・・
しかし、ナチス・ドイツを率いるヒトラーや、ソビエトのスターリンも原爆開発を進め、しのぎを削っていました。
スターリンは、開発を急ぐため、イギリスにスパイを送り込んでいました。
原爆投下の舞台裏で、何が起きていたのか・・・暗号名”チューブ・アロイズ”。

イギリスの首都ロンドン・・・中心部の官庁街にある大蔵省・・・
その地下には、第2次世界大戦中、秘密の作戦室がありました。
イギリス首相ウィンストン・チャーチルが、戦争の指揮を執った内閣戦時執務室です。
シェルターで身を守りながら、チャーチルは強大な敵と戦っていました。

ヒトラー率いるドイツ軍・・・1939年、ポーランド侵攻。
続いてオランダやフランスを占領し、その脅威はイギリスに迫っていました。
対するチャーチルは、劣勢に立たされながらも、徹底抗戦を続けました。

「いかなる代償を払っても勝利を、海で陸で空で戦う」

チャーチルが最も恐れていたことは・・・それは、ヒトラーが原爆を手にすることでした。

ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男【Blu-ray】 [ ゲイリー・オールドマン ]
ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男【Blu-ray】 [ ゲイリー・オールドマン ]

①原爆をめぐる攻防~チャーチルVSヒトラー~
1938年、ヒトラー率いるドイツで、後の原爆に繋がる重大な発見がありました。
当時、最先端の原子物理学を研究していたカイザー・ヴィルヘルム研究所・・・
人類にとって、未知のエネルギー反応が見つかりました。
原爆の原理であるウランの核分裂反応が観測されたのです。
天然資源ウラン鉱石・・・その原子に中性子を当てることで、ウランが分裂・・・
それを連鎖的にひきおこすと、莫大なエネルギーが得られることが分かりました。
核分裂を応用すれば、通常兵器の数万倍の破壊力を引き出せる可能性がありました。
翌1939年4月、ヒトラーは、ウランを使った新兵器の開発に向け、研究機関を設立。
その5か月後・・・ドイツはポーランドを攻撃し、第2次世界大戦がはじまりました。
原爆に関する情報を厳重に管理、極秘裏に研究を進めていくヒトラー。
その脅威に、いち早く警鐘を鳴らしたのが、ドイツからアメリカに亡命した天才科学者でした。

1939年、アインシュタインは、アメリカも原爆研究を始めるよう提案する手紙を書きました。
あて先は、当時の大統領ルーズベルト。
しかし、ルーズベルトは、原爆は実用的でないと考えました。
原爆開発には、大量のウランが必要になる・・・
爆弾は重すぎて、大型船でしか運べず、輸送は困難と見なしたのです。
原爆研究を本格化しないアメリカ・・・ヨーロッパの戦争に関わらない、孤立主義をとっていました。

一方のイギリス・・・
1940年、ドイツによる空襲で、ロンドンが大火に包まれました。
ヒトラーの猛攻で、敗戦の危機に立たされるチャーチル・・・
そのチャーチルのもとに、逆転の朗報がもたらされます。
バーミンガム大学で、原爆を小型化する理論が見つかったのです。
サイクロトロンは、原爆の小型化に欠かせない装置・・・
後にウランの分離に用いられました。
当時、研究を行っていたのが、ドイツから亡命していたユダヤ人科学者ルドルフ・パイエルスでした。
注目したのは、ウランの周囲・・・
自然界に存在するウランは、0.7%のウラン235と99.3%のウラン238・・・このうち、核分裂しやすいウラン235だけを分離し、濃縮すると、原爆を小型化できることが分かりました。

「1940年の春に状況が変わりました
 突然、核兵器開発の可能性を見出したのです
 それが、同位体(ウラン235)を分離する大規模な計画に繋がるのです」byパイエルス

その発見は、フリッシュ・パイエルス・メモと呼ばれた文書にまとめられました。
原爆を飛行機で運べるほど、小型化できる可能性が見えてきました。
チャーチルは、原爆が実用的な兵器になると認識・・・
本格研究に乗り出すことを決断します。

フリッシュ・パイエルス・メモの登場は、原爆開発の歴史で最も重要です。
単なる理論だった者を、現実へと変えたのです。
それは驚くべき前進でした。
パイエルスの発見をもとに、チャーチルは原爆開発の組織を立ち上げます。
オールドクイーン・ストリート16番地・・・
ここに、原爆開発の方針を検討する”チューブ・アロイズ技術委員会”が置かれました。
チューブ・アロイズ計画・・・暗号名で呼ばれました。
チューブ・アロイズとは、管状合金のこと・・・航空機のラジエーターや、燃料タンクの製造計画を連想させ、原爆開発と悟られないようにしました。
研究の中核を担った科学者は、50人ほど・・・
パイエルスのようにヒトラーの迫害を逃れてきたユダヤ系の人々が多かったのです。

「ヒトラーが、最初に原爆を手にしたら、という想像は私たちを震え上がらせた
 原爆は、多数の市民を死傷させる
 これを防御するには、同じ武器での報復以外に手段はない
 抑止力として開発する価値がある」byパイエルス

ところが、イギリスの原爆開発には大きな障害がありました。
ドイツによる激しい空襲です。

”イギリスは、絶え間ない敵の爆撃に晒されている
 必要とされる大きくて目につきやすい工場をこの国に建てるのは不可能に思われた”byチャーチル

このままでは、ヒトラーに対抗できない・・・
チャーチルは思い切った決断に出ます。
アメリカと協力すれば、最短で原爆開発ができると考えていました。
アメリカは、資金を持っているし、空襲もありません。
原爆の秘密を渡し、アメリカを味方につければ、アメリカの工業力を使って戦争に勝つための原爆開発ができると目論んだのです。

1941年7月・・・チャーチルは、原爆開発のカギを握るパイエルスの発見を密かにアメリカに伝えました。
報告を受けたのは、ルーズベルト大統領の右腕ヴァニーヴァー・ブッシュ。
兵器開発の責任者でした。

「我々は、イギリスの報告書を読み、初めて”これはできる”と確信した
 チャーチルは、ルーズベルトに非常に大きな影響を及ぼし歌と思う」byブッシュ

ブッシュは、これまで原爆開発に乗り気でなかったルーズベルトに、イギリスの報告を伝えました。
その2日後・・・ルーズベルトはチャーチルに電報を送りました。

「チャーチル閣下へ
 我々は、早急に会談を開くべきだと考える
 共同で研究を進めたい」byルーズベルト

ルーズベルトは、政策を大きく転換・・・原爆開発に着手することを決断しました。

奇妙な同盟 1 ルーズベルト、スターリン、チャーチルは、いかにして第二次大戦に勝ち、冷戦を始めたか [ ジョナサン・フェンビー ]
奇妙な同盟 1 ルーズベルト、スターリン、チャーチルは、いかにして第二次大戦に勝ち、冷戦を始めたか [ ジョナサン・フェンビー ]

2か月後・・・1941年12月真珠湾攻撃
それまで孤立主義をとっていたアメリカが参戦。
太平洋戦争が始まりました。
真珠湾攻撃は、イギリスにとって好都合でした。
アメリカが参戦し、チャーチルは”感謝してぐっすり眠った”と言っています。

1942年6月・・・チャーチルは自らアメリカへわたりました。
ニューヨーク・ハイドパークにあるルーズベルトの邸宅・・・
原爆を共同で開発するための秘密会談が行われました。

「私が強く主張したのは、直ちに全ての情報を共有すること
 そして同じ条件で仕事をし、成果を平等に分かち合うことだ」byチャーチル

チャーチルは、英米の科学者が、互いの国で研究を進め、その成果を交換し合うことを提案。
ルーズベルトも原爆開発プロジェクトを始めることを決定しました。

アメリカの計画は、その事務所がマンハッタンにあったことからマンハッタン計画と暗号名がつけられました。
アメリカを巻き込んだことで、原爆開発競争は加速していきます。
ヨーロッパでは、チャーチルがヒトラーに対し攻めに転じます。
ドイツの原爆開発を阻止するために、極秘の破壊工作を命じました。
1943年2月、ドイツ軍が占領したノルウェーのテレマルクで・・・
特別に訓練した9人の兵士を潜入させました。
切り立った壁に囲まれた秘密工場・・・
ここで、ドイツ軍は大量の重水を製造していました。
重水は、ウラン核分裂の連鎖反応を誘発させる材料でした。

「重水という不気味で異様で不吉な言葉・・・
 この恐るべき領域で敵に後れを取るという致命的な危険を冒すことはできなかった」byチャーチル

重水の製造ラインは、爆破されました。
チャーチルは、ヒトラーの原爆開発に打撃を与えることに成功したのです。
同じ頃、アメリカではイギリスの支援によって原爆研究が加速していました。
巨額の資金を投じ、全米各地に研究施設や大規模工場の建設を開始。

1942年12月・・・シカゴ大学で、世界初の実験用原子炉を建設・・・
ここで、原爆を量産する新たな可能性が見出されました。
それは、原爆のもう一つの材料となるプルトニウム・・・
ウランよりもわずかな量で、強大な爆発を引き出す特性を持っていました。
それまで、原爆の材料とされてきたウラン235、わずか0.7%しか存在しない貴重なものでした。
一方、99.3%を占めるウラン238。
これに、中性子を当てることで、プルトニウムを生み出せることが実証されました。
プルトニウムを量産できれば原爆を量産できる!!
アメリカは、頑張ク開発のカギとなる技術を独自に見出したのです。
その生かを受け、ブッシュはルーズベルトに一つの提案をしました。

「今後の情報すべてをアメリカだけで保有することの利点は明らかだ
 これから先の歩みが第一級の重要性を持つ軍事機密になる段階に達しつつある」

アメリカは、1942年の末には、プルトニウムを製造する技術をすべて持っているという強い自信がありました。
マンハッタン計画の責任者たちは、イギリスに情報を渡すことに抵抗しました。
戦後に、原子力開発の分野でイギリスがアメリカの競争相手に発展することを恐れたからです。

原爆情報の独占へと動き始めたアメリカ・・・
1943年1月、イギリスは思わぬ通告を受けます。

「アメリカからの情報は、上から規制されました
 密かに行われていた情報交換が政治的理由ですべてストップしたのです」byパイエルス 

頼りにしていたアメリカの方針転換・・・
チャーチルは、原爆の共同開発計画の見直しを迫られたのです。


②核の独占~チャーチルとルーズベルト

1943年7月、チャーチルは首相官邸にアメリカ大統領の右腕ブッシュを呼びつけました。
当初、アメリカを頼るしかないと共同開発を持ち掛けたチャーチル・・・
しかし、この会談で、意外な行動に出ました。

「イギリスは独自に原爆開発を開始する」byチャーチル

チャーチルの方から、原爆の共同開発の解消を主張しました。
チャーチルたちは追い詰められていました。
自分たちの計画が、アメリカに乗っ取られた・・・イギリスが排除されると感じていたのです。
この時、チャーチルに秘策があったことが明らかになりました。

「アメリカの協力なしでカナダに短期間で工場を建設する」byチューブ・アロイズ技術委員会議事録

カナダが、イギリス連邦の一つで、チャーチルの影響力が強く及びました。
ドイツの空襲がなく、原爆開発を安全に行えるメリットがありました。
この計画を立案したのは、パイエルス達イギリスの科学者でした。
開発拠点は、モントリオール大学、独自の原爆開発に踏み切るため、ウランと核分裂に必要な材料”重水”を運び込み、原子炉を造ろうとしていました。
こうしたチャーチルの思い切った行動を重く受け止めたのは、ルーズベルトでした。
これ以上、イギリスを追い詰めることは同盟関係をそこなうと考え始めていました。

イギリスは、第2次世界大戦の終わりには、破産寸前でした。
ルーズベルトは、それを見抜き、イギリスが没落するのを阻止しようと決めました。
ルーズベルトには、戦後の目的がありました。
力を発揮できる強力な同盟国としてイギリスを保っておくことです。
結局、ルーズベルトはイギリスを強い同盟国でいさせるために、核政策のパートナーにしておこうと思いました。

イギリスとの同盟関係を最優先にしたルーズベルト・・・
情報公開の再開を行いました。
その1か月後、カナダで行われた英米首脳会談・・・チャーチルは、アメリカが再び格の独占に走らないようにルーズベルトとの間で秘密の協定を結びました。
”ケベック協定”です。
原爆を共同管理する上での基本方針を取り決めました。

第一、互いに対し原爆の力を使わない
第二、互いの合意なしに第三者に使用しない
第三、互いの合意なしに如何なる情報も第三者に提供しない

注目すべきは、第二項。
原爆投下の決定権は、英米の二国で持つという内容です。
その後、ケベック協定は予想を超えた役割を果たします。
1941年にチューブ・アロイズ計画がマンハッタン計画に組み込まれた瞬間から、イギリスは原爆を使用するつもりがあったと思われます。
チャーチルは、原爆投下の決定権にアメリカと対等の立場を望んだのです。

「ルーズベルトと交わした秘密の協定より、良い条件はありえない
 もうほかにすることはない
 ただ最善をもってこれを貫くのみだ」byチャーチル

チャーチルの計画は、ケベック協定を後ろ盾に加速していきます。
アメリカ西部のロスアラモス・・・標高2200m、人里から隔離された高台・・・
この地に、アメリカは原爆の設計と組み立てを行う秘密の研究施設を建設します。
全米の優秀な科学者や、その家族など6000人が集められました。
そこに、チャーチルは、イギリスの優秀な科学者を派遣。
一刻も早い完成を目指そうとします。

”イギリスの委員会はマンハッタン計画に全力を尽くす
 イギリス全ての研究が中断されてもだ”byチューブ・アロイズ技術委員会

イギリスの科学者は全員、本物の科学者でした。
ロスアラモスでは、皆若く、上司たちもせいぜい30代・・・
とくにイギリスの科学者が取り組んだのは、原爆を実用化する上での最大の難問・・・プルトニウムの起爆方法でした。
当時は、爆縮と呼ばれる起爆方法でした。
プルトニウムの球体の周囲を火薬で取り囲み、同時に転嫁することでプルトニウムを圧縮する仕組みです。
プルトニウムは密度が高くなると、臨界に達し、爆発する特性があり、それを起こすために外側からの爆発の力が必要だったのです。

文庫 ルーズベルトの開戦責任 (草思社文庫) [ ハミルトン・フィッシュ ]
文庫 ルーズベルトの開戦責任 (草思社文庫) [ ハミルトン・フィッシュ ]

プルトニウムの球体を覆うように32個の起爆スイッチが取り付けられていました。
起爆スイッチが同時に作動すれば、それが一つの爆発になります。
それが爆縮・・・球体を小さい体積に圧縮し、爆縮を引き起こそうとしたのです。

しかし、プルトニウムの爆縮は、困難を極めました。
火薬で圧縮しようとすると、その衝撃波は先端だけが先にプルトニウムに到達します。
プルトニウムに同時に均一の力が加わらないため、圧縮される前に逃げ道を求めて飛び散ってしまうのです。
爆縮に許された誤差は、2/1000000秒でした。
多くの科学者のとけない難問でした。
解決の糸口を見つけたのは、イギリスから派遣された二人の物理学者クラウス・フックスとジェームス・タックでした。
高度な計算理論と、火薬の専門知識を持っていました。
注目したのは、爆縮レンズと呼ばれる仕組みです。
プルトニウムの周囲に、燃焼速度の異なる火薬を組み合わせると、衝撃波が屈折!!
すると、プルトニウムを均等に包み込むように爆縮が起こるのです。
こうして、誤差を克服・・・プルトニウムを起爆する見通しが立ちました。

爆縮レンズを開発したイギリス人科学者は、どのように評価されたのでしょうか・・・??

「爆縮レンズの実現は、非常に困難なものでした
 ロスアラモスの中でも、主要な研究テーマでした
 最終的に、爆縮レンズが必要だと突き止めるまでは、この方法が使えると想像できた人は誰もいなかったのです
 イギリスが他に類を見ない重要な貢献をした
 アメリカよりはるかに高度な専門知識がありました」byロイ・グラウバー博士

アメリカの原爆開発を、陰で動かしたチャーチルと、イギリスの科学者たち・・・
当初の敵は、ヒトラー率いるナチス・ドイツでした。
しかし、ヨーロッパの戦局が激変する中で、新たな脅威が出現しようとしていました。
ソビエトです。

1941年、ソビエトは、ドイツ軍の大規模な奇襲攻撃を受ける・・・
ソビエト軍は敗退・・・首都モスクワの近郊まで侵攻されました。
ソビエトを率いるのは、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリン。

「全ての国民が陸海軍を支えてナチスの大軍を叩き潰すのだ
 我々の人的資源は無尽蔵だ」byスターリン

徹底抗戦を命じるスターリン・・・
イギリスと同盟を結び、戦局の転換を目指しました。
ソビエトが攻勢に転じたのは、スターリングラードの戦いでした。
1943年2月・・・それまで連勝を続けていたドイツ軍を壊滅に追い込んだのです。
ドイツ軍は、その後も撤退が続いていきます。
ヒトラーは、劣勢を打破しようと弾道ミサイルV2の開発に力を入れました。
いつ完成するかもわからない原爆開発は、中止に追い込まれていきます。

一方、ソビエトはスターリングラードで勝利した2月、国家防衛委員会が原爆開発を決定。
極秘に小型の原子炉建設を開始しました。
急速に台頭するソビエト・・・同盟国とはいえ、チャーチルの目にはスターリンも新たな脅威として映っていました。


③新たな脅威=チャーチルVSスターリン

スターリン率いるロシアは、原爆情報を盗み取る諜報戦に力を入れていました。

「ロシアは昔からスパイ活動に強い国です
 ロンドンにはソ連の諜報支局があり、政治や科学技術の情報を収集していました
 スターリンは、チャーチルが原爆を持てば、ソ連に戦争を仕掛けると考えていました
 当時、ソ連は原爆を持っていませんでした
 ですから、緊急を要したのです」by元KGB

もっとも重要な原爆情報をソビエトに渡していたスパイがいました。
コードネーム・チャールズ・・・
イギリスで、原爆実用化の理論が発見されたこと・・・
さらに、それをもとにアメリカ・ロスアラモスで開発が行われていることをつぶさに報告していました。
最初に情報を渡していたのは、1941年。
マンハッタン計画が始まる以前から、チャールズはスパイ活動を行っていました。
誰がチャールズなのか・・・??

ソビエトの機密資料には、その実名が記されていました。
クラウス・フックス・・・チューブ・アロイズ計画に参加し、あのプルトニウムの爆縮の研究を行った物理学者でした。
フックスは、ドイツ共産党員で、イギリスに亡命した物理学者でした
フックスは、ソビエトにどのように情報を渡していたのでしょうか??
アメリカ、ロスアラモスで研究を行っていたフックス・・・度々研究施設を離れていました。
外出が許されたのは、ドイツからアメリカに亡命した姉に面会するという理由でした。
しかし、実は、ソビエトの工作員と落ち合っていたのです。
工作員は目印として、当時流行していたコメディ本を持っていました。
フックスが渡した情報には、原爆開発における最高機密が含まれていました。
起爆装置の構造・・・プルトニウムを爆縮する方法です。
最後のカギが、ソビエトに渡っていたのです。

フックスはどうしてスパイになったのでしょうか??  
フックスは、すべての行動を、”反ファシズムの戦い”としていました。
ナチスを中心としたファシズムと対抗する勢力としてソビエトに期待していたのです。
スターリングラードの戦いで、ソビエトは祖国を開放する存在に映ったといいます。
戦いで戦局が変わったこと・・・戦争で貢献したソ連は甚大な被害も受けていたので、支援するべきだと考えていました。
フックスには、ソビエトに情報を渡したもう一つの理由がありました。
もし、原爆の情報が誰か一人の手にとどまっていたら、危険であると気づいていました
原爆を独占し、悪用できる状態は人類の危機であると・・・!!

ファシズムとの戦い、そして、英米の核の独占への危機感・・・
それが、フックスがソビエトに情報を流した理由でした。

ソビエトは、諜報活動で得た情報をもとに、プルトニウム型原爆の開発を進めていきます。
それは、英米が開発していた原爆と、瓜二つのものでした。
チャーチルは、イギリスの科学者が原爆の最高機密情報までソビエトに漏らしていたことを把握していませんでした。

アメリカとイギリスは、スターリン政権下のソ連の動向を察知できませんでした。 
独裁体制で、厳しく情報が統制されていたからです。
それでもチャーチルは、スターリンが原爆開発を始めているのではないかと恐れ続けていました。

「ロシア人は、化学開発に特異な才能がある
 原爆開発を進め、大きな成果を上げている可能性を忘れてはならない」byチューブ・アロイズ計画担当大臣

当初、ヒトラーと対抗するために始まったチャーチルの原爆開発計画・・・この先、スターリンとの攻防が焦点となっていきます。
それぞれの思惑は、原爆投下にどのようにかかわっていくのでしょうか??

1944年、ヨーロッパではドイツの敗色が濃厚となっていました。
スターリン率いるソビエトは、ベルリンを目指し猛攻撃を続けていました。
こうしたソビエトの力の脅威を感じていたのは、チャーチルでした。
共産主義のソビエトと戦後に衝突が起こると考えると、原爆の実用化を急いでいました。

「国際的恐喝に利用されかねない原爆を獲得する競争で、ソ連を勝たせてはならない」byチャーチル

一方、原爆を共同開発していたアメリカ・・・チャーチルとは異なる考えが芽生え始めていました。
ルーズベルト大統領は、大国ソビエトとの対立は、世界に混乱を招くとみていました。
ルーズベルトの戦後の大きな目標は、ソ連との協調でした。
ルーズベルトは、戦後もイギリスとは軍事同盟を維持しながら、同時にソ連との協調も必要になると信じていたのです。
ルーズベルトが目指したのは、ソビエトとの協調・・・
核を独占したいチャーチルとは、異なる考え方でした。

④”対立”か”協調”か~ソ連をめぐる攻防~
どうすれば、ソビエトと協調を図れるのか??
ルーズベルトは、ひとりの世界的な科学者を起用します。
アインシュタインと並ぶ天才と呼ばれたデンマーク出身のノーベル賞物理学者ニールス・ボーア。
チューブ・アロイズ計画の特別顧問で、英米の高官とも広い人脈を持っていました。
当時、ニールス・ボーアは、最先端を行く物理学者でした。
ルーズベルトとこれほど個人的にはなしができた科学者はいません。
ボーアは、対ソ協調に向けた独特な構想を持っていました。
原爆開発を行っていることを、ソビエトに打ち明けようというのです。

「秘密裏に準備されると、競争を防止するには情報交換と開放的な態度が必要となる
 大国間にある不振の原因の根絶に役立つはずである」byボーア

ボーアの構想は、後に”核(原子力)の国際管理”と呼ばれました。
ソビエトとの軋轢を無くすため、米英ソで原爆情報を共有・・・その上で国際組織で核技術と資源を管理する・・・
世界から、原爆の開発競争を無くすことが目的でした。
ルーズベルトは、”核の国際管理”に非常的に好意的でした。
そして構想をスターリンに伝えられるよう、イギリスに行きチャーチルを説得するようボーアに依頼しました。
ボーアは、イギリスに渡り、チャーチルとの会談を取り付けます。
1944年5月・・・ロンドン首相官邸に招かれたボーア・・・会談開始から30分、突然チャーチルが話を打ち切りました。
この時、チャーチルの元には、イギリスの諜報機関からのソビエトを警戒する計画書が届いていました。
会談の直前、ソビエトの大使館員がボーアと接触・・・ソビエトの原爆開発を手伝うように勧誘を行ったのです。
ボーアは、その勧誘をことわり、接触の事実をイギリス側に伝えていました。
しかし、チャーチルは、ボーアをソビエトのスパイと疑いました。

「どうしてボーアは、この問題に入り込んできたのか
 彼は、ソ連と密接な交信をしている
 死刑に値する大罪を犯していることをわからせなければならない」byチャーチル

9月、チャーチルはルーズベルトを訪ねます。
ボーアとソビエトの接触の事実を突き付け、くぎを刺しました。

「原爆情報を世界に知らせようとする提案は受け入れられない
 ソ連に絶対に情報を漏洩しないよう、措置を取るべきである」byチャーチル

この時結ばれた協定により、核の国際管理に繋がるルーズベルトの構想は潰えたのです。
チャーチルは、戦後スターリンが世界制覇に動くことを非常に恐れていました。
いずれはソ連も原爆を持つ・・・しかし、その時には英米が原爆を大量に保有し、優位に立っていると考えました。
1944年、太平洋では、日本軍が絶望的な抵抗を続けていました。
英米を中心とする連合国の兵士にも、犠牲者が増え続けていました。

「我々は、とりわけ日本の存在を忘れてはならない
 日本を償わせるために、どれだけの時間や努力が必要とされるのか」byチャーチル

9月、チャーチルとルーズベルトが交わした協定・・・
この中に、日本降伏に向けたある重要な方策が記されていました。

「最終的に原爆が使用可能になったとき、おそらく日本に使用することになろう」byハイドパーク協定

日本を降伏に追い込むための切り札として、原爆を実践で利用することが視野に入ってきたのです。
1945年2月、米英ソの首脳が集まったヤルタ会談。
ここで、日本降伏へのもう一つの切り札が検討されました。

ヤルタの密約・・・ソ連は対日参戦を条件に南樺太や千島列島などを要求

スターリンは、参戦の見返りに南樺太や千島列島などを要求・・・
それには共産圏の拡大のリスクがありましたが、米英は受け入れました。
ソ連参戦は、日本を確実に降伏させるための作戦でした。
この時、原爆が本当に実用化できるか誰にもわかりませんでした。
終戦へのあらゆる戦略を練ったのです。

会談から2か月後の1945年4月・・・ルーズベルトが死去
新たに大統領となったのは、それまで原爆開発について何も聞かされていなかったトルーマンでした。
共産主義のソビエトに、批判的な考えを持つ政治家でした。
4月末・・・ヒトラーは自殺、5月、ドイツ降伏・・・長きにわたる戦いが終わり、イギリスは戦勝ムードに湧きました。
しかし、チャーチルは違っていました。

「歓喜に沸く群衆にもまれながら、私の心は将来の懸念でいっぱいになっていった
 事態にはもう一つの局面があった
 日本がまだ征服されていなかった
 原子爆弾がまだ生まれておらず、世界は混沌としていた
 私の目にはソ連の脅威がナチスにとって代わっているように見えた」byチャーチル

5月のドイツ降伏後、原爆を日本に投下する計画が加速していきます。
アメリカ・ロスアラモスに近い砂漠地帯・・・原爆を実際に爆発させ、兵器としての効果を確かめる実験の準備が始まろうとしていました。
日本のどの都市に原爆を投下するのか??
その検討も始まっていました。
ドイツ降伏から2日後に開かれた目標検討委員会・・・目標の選定にあたって重要な条件が示されました。

「兵器を使用する際、これを劇的なものにし、その重要性を国際的に認識させること」

英米が、原爆という強大な力を持っていることを世界に示す・・・
それが、次の戦争を防ぐ抑止力になると考えていました。

チャーチルは後に「原爆の被害が大きいほど好都合だ」と言っています。
核のパラドックスです。
原爆被害への想像が恐ろしいほど、再び使いにくいだろうと考えました。
イギリスから派遣された科学者たちは、原爆の効果を最大限に引き出そうとします。

ウィリアム・ペニー・・・爆風研究の第一人者です。
注目したのは、原爆を起爆させるCODE。
ある一定の高さで起爆すると、通常の爆風の2倍以上の威力を持つ衝撃が!!
マッハステムが発生します。
原爆が爆発すると、上空からの爆風・・・そして、地面にぶつかり反射する爆風・・・この2つの爆風の波長がタイミングよく重なるとマッハステムが発生します。

原爆を起爆する高度が重要議題でした。
適切な高度が設定できれば、2つの波長が同調し、威力を増大できるのです。
原爆の威力を世界に示し、マッハステムの効果を測定する空襲被害の少ない都市に投下する必要がありました。
こうして、広島と長崎が目標に選ばれました。
原爆投下に向けて、7月に実験が行われることになりました。
戦局を左右するこの極秘情報すら、ソビエトは、スパイを通じて察知していました。
プルトニウムの起爆方法をソビエトに渡したクラウス・フックス・・・原爆実験の情報も伝えていました。

「実験は7月10日ごろ行われる
 成功すれば原爆は早急に実際の戦闘で試される」

この情報は、政治的価値がありました。
フックスは、ソ連に実験を警告しました。
それで、スターリンは日本との戦いに参戦すべきとの決意を固くしました。
ソビエトは、対日参戦に向けて、極東に急ピッチで兵士を輸送していきます。
原爆投下の前に、対日参戦できるのだ。
それがスターリンの課題でした。
一方、チャーチルも動き出します。
チャーチルは、トルーマンから原爆投下の同意を求められ、ためらうことなく同意しました。

ケベック協定・・・第二、互いの合意なしに第三者に使用しない

原爆投下の決定権を等しく持つことを取り決めたケベック協定・・・
7月2日、チャーチルは、原爆が完成したら、協定に基づき、即使用することを示しました。

「イギリスは日本への原爆投下に同意する」by合同政策委員会

英米は、ソ連参戦前に、原爆投下で戦争を終わらせようとします。
スターリンに、日本の領土を渡さずに済むからです。
ソビエトの参戦を阻止したいチャーチル・・・
原爆投下の前に参戦したいスターリン・・・
日本降伏を巡って繰り広げられる大国の駆け引き・・・
そのカギを握る実験は、7月16日に行われることが決まりました。
原爆実験の前日、7月15日、チャーチルはドイツに向かいました。
ポツダム会談です。
対日戦や、戦後のヨーロッパ問題について話し合う2週間の首脳会談です。
チャーチルの呼びかけで、トルーマン、スターリンが集まりました。
どのように戦争を終結させるのか・・・
会談初日の7月17日、先に動いたのはスターリンでした。
スターリンは、チャーチルに近寄り、日本から極秘の電報が届いていたことを打ち明けました。

日本は当時、中立条約を結んでいたソビエトに、昭和天皇の和平の意向を知らせていました。
ソビエトの対日参戦の意向を知らず、和平の仲介を頼んでいたのです。
スターリンは、和平の仲介は行わず、対日参戦する意向をチャーチルに伝えました。
スターリンからのこの情報は、チャーチルもすでに掴んでいました。
日本がソビエトに送った暗号電報は解読され、チャーチルに報告されていたのです。
チャーチルも、和平に応じないことを述べました。

英米は和平交渉がソ連と日本の間で結ばれることを嫌いました。
外交的な終結を望まず、日本人に罰を下す必要があると考えていました。
翌18日、事態は大きく動きます。
アメリカで2日前におこなわれた原爆実験の報告書が届いたのです。
原爆が正確に爆発するかどうかが、プルトニウムの起爆にかかっていました。
実験は、成功・・・プルトニウム型原爆の威力は、想定を超えるものでした。
実験の成功を受け、チャーチルとトルーマンは、宿舎で話し合いました。
その時のことをトルーマンが日記に記していました。

「マンハッタンが日本の上空で爆発すれば、日本は間違いなく降伏する」byトルーマン日記7月18日

チャーチルは、トルーマンと同じ考えでした。

「対日戦の終結には、もはやソ連を必要としなくなった」byチャーチル

そして、実験の成功は、大統領になって首脳会談が初めてだったトルーマンの態度にも変化をもたらしました。
トルーマンは大胆になり、スターリンに対し強気の外交交渉を進めます。
これは、チャーチルにとって好都合でした。

「我々は、ソ連とのパワーバランスを回復するものを手に入れた
 ドイツ降伏後、不安定だった外交が、原爆の力で一変する
 今後、ソ連にあれこれ言われたら、モスクワを消せばいいのだ」byチャーチル

ポツダム会談開始から1週間後、トルーマンはソビエトに対し優位に立ったと確信!!
スターリンに実験のことを伝えました。

トルーマンは、”新兵器を手に入れた”と言いました。
スターリンを怖がらせようと思ったのです。
しかし、スターリンの反応は、トルーマンの予想とは違いました。
スターリンは、非常に冷静でした。
何の反応もありませんでした。
スターリンは、すでに知っていたのです。
原爆開発計画は、スターリンより知っていました。

2人の話し合いを、少し離れたところで聞いていたチャーチル・・・

「二人の国家元首の話し合いは、間もなく終わってしまった
 トルーマンが私のそばに姿を見せた
 ”どうでしたか?”と私は尋ねた 
 ”スターリンは、一つも質問をしなかった”とトルーマンは答えた
 私は、スターリンが自分の知らされている事の重要な意義をまるでわかっていないと確信した」byチャーチル

しかし、その重要性を知っていたスターリン・・・
すぐに側近を集め、会合を開きました。

「我々は同盟国だったはずだ
 米英は、我々が当分の間、原爆を開発できないことを望んでいるに違いない
 そうやって、時間稼ぎをして、自分たちの計画を押しつけようというのだ
 だが、そうはさせない」byスターリン

スターリンが指示したのは、対日参戦の予定を繰り上げることでした。

日中戦争はスターリンが仕組んだ 誰が盧溝橋で発砲したか [ 鈴木荘一 ]
日中戦争はスターリンが仕組んだ 誰が盧溝橋で発砲したか [ 鈴木荘一 ]

翌25日、トルーマンは、日本への原爆投下を承認します。
原爆を確実に投下するため、作戦は航空機から投下目標が目視できる最も早い日と決められました。
そして翌26日、日本への無条件降伏を呼び掛けるポツダム宣言が発表されました。
これを日本は黙殺・・・。
8月6日、午前8府15分・・・広島にウラン型原爆が投下されました。
2日後、ソビエトは日ソ中立条約を一方的に破棄、9日未明、旧満州・中国東北部へ侵攻します。
同じ日、B29に積み込まれたのは、プルトニウム型原爆・・・。
8月9日、午前11時2分・・・長崎に投下されました。

翌日、トルーマンは声明を発表します。

「戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救うため、原爆投下を決断した
 アメリカ国民も、同意してくれると思う」byトルーマン

「原爆を使用すべきかどうかについて、一刻の議論の余地もなかった
 1、2度の爆発の犠牲によって圧倒的な力を顕示する
 我々が、あらゆる苦労と危険を経験してきた後では、奇跡的な救いのように思われた」byチャーチル

8月15日、昭和天皇の玉音放送が日本の降伏を伝えました。
原子爆弾・・・爆風は、爆心地から5キロ先の建物までも破壊しました。
熱線によって、爆心地は4000度となりました。
その年だけで、22万人もの命が失われました。
そして、目に見えない放射線は、がんや白血病を引き起こし、今も多くの被爆者を苦しめています。

⑥終わりなき核の時代へ
戦争終結から1か月後の9月・・・ロスアラモスにいたイギリスの科学者たちは、帰国することになります。
送別会では、原爆開発を劇にしていました。
そこには、7月の原爆実験を祝う場面もありました。
科学者の多くは、帰国後イギリスの核開発に関わっていくことになります。
当初、ヒトラーの抑止力として原爆開発を始めたパイエルスもその一人でした。

「父を研究に引き止めたのは、核開発がもたらす結果ではなく、科学への探求心だと思います
 でもそれは間違っています」

戦後、核開発をめぐる国際情勢は、大きく変わろうとしていました。
原爆の力を確信したトルーマン・・・
1946年マクマホン法を制定・・・外国への原子力技術の移転を禁止、政策を転換します。
ソビエトは、1949年、核実験に成功。
アメリカの原爆実験から4年後のことでした。
短期間で開発できたのは、フックスからの機密情報があったからです。
1950年、朝鮮戦争が勃発・・・核の力を後ろ盾に、 米ソ冷戦が激化していきます。
1952年、アメリカが水爆を誕生させます。
翌年、ソビエトも実験を行いました。
チューブ・アロイズ計画開始から10年余り・・・
核開発競争が激化し、一般市民が核の脅威にさらされる時代が始まっていました。
核の時代・・・原爆開発に関わった科学者はどう受け止めたのでしょうか??
英米の核の独占を阻止しようとしたフックス・・・1950年、ソビエトのスパイであることを自白して、イギリスで裁判にかけられます。
英国籍を剥奪され、9年の服役後、東ドイツで過ごしました。

「戦後、私はソ連の政策に疑問を抱くようになった
 私の行いがもたらした被害を、修復できるよう努めたい
 だが、過去にはもう戻れはしない」

フックスが自白したのは、戦後、スターリンが核の力を後ろ盾に東欧諸国を力で押さえつけたことに失望したからでした。祖国は東西に分割され、東ドイツはソビエトのひどい監視と弾圧を受けました。
フックスは、ベルリンの壁崩壊を見ることなく、31年前に亡くなりました。

冷戦時代、核のパワーバランスが次の世界大戦を防いだと信じています

原爆は投下された長崎・・・その年だけで7万人の命が失われました。
その被害を、科学者たちはどのように受け止めたのでしょうか?
戦後、イギリスは被爆地に科学者を派遣していました。
どの都市に落とすのか、選定を行ったペニーは、戦後、戦略爆撃調査団の中心メンバーとして長崎を訪れていました。
目的は爆風の威力の調査でした。
ペニーが注目したのは、爆心地から500mにある旧城山国民学校です。
当時、珍しい鉄筋コンクリートの頑丈な建物でした。
校舎には、8000トンもの力がかかったものの骨組みがあり、計測できたからです。

ペニーが学校に興味を持ったのは、人々の在籍記録があったからです。
そのデータを使い、被爆状況と死亡率の関係を調査しました。
ペニーはさらに、ひとりひとりの死因や、学校のどの場所でなくなったかを詳しく調査しました。
無くなった場所のその建物の強度を調査することで、防護率を算定していきました。
ペニーは、これらのデータから、核戦争に備えた防衛計画を立案していきました。

「同じ威力の原爆を爆発させても、イギリスのシェルターならば十分耐えられる
 ロンドンの地下鉄にある深いシェルターならば、完全に身を守ってくれる」

1952年、ペニーは、チャーチルが主導したイギリス発の核実験の責任者となります。
イギリスは、アメリカが核の独占に走ったことで戦後、独自の核開発を進めました。

ペニーは、科学者としての功績から、貴族の地位を与えられ、イギリスの原爆の父と呼ばれました。

「私は常に自分が重要だと思った仕事を、さらには義務として自分に与えられたこと、そして自分が上手くできると思われることをしてきました。
 これが私の人生で貫いてきた原則です。」byペニー

ペニーたちが見失っていたことは、広島・長崎は、人々が住んでいる普通の街だったということです。
巨大な爆発の下に、日常の生活を送っていた一般の人たちを普通の人間とは見ないのです。
被爆者の調査は、データを取るということから考えると、実験材料にされたということです。
それは許しがたいことで、人間としてのモラルは一体何だったのか??
絶対人間としてやるべきではありません。

戦後も核開発を続けたチャーチル・・・
1965年、90歳でなくなりました。
生前、
原爆投下について語った言葉があります。

「神は私になぜ原爆を使用したのか尋ねられるかもしれない
 しかし、自己弁護させてほしい
 人類が熾烈な戦いのさ中にあったときに、なぜ神はこの知識を私たちに与えたのだろうか」byチャーチル

もし、原爆が日本に投下されていなかったら、戦後の世界の様相は違っていたでしょう。
原爆投下は、第2次世界大戦の終わりではなく、冷戦の始まりでした。
チャーチルが原爆開発を主導したことを考えれば、核の軍拡競争の責任はチャーチルにあります。

明らかになったチャーチルの核戦略、チューブ・アロイズ計画。
人類と核をめぐる、今も私たちに突き付けられている課題が、既にそこにはありました。
核をどう管理すべきか・・・
倫理的な責任をどう負うべきなのか・・・

大切なのは、核の国際管理や協調を唱えた人々の考えです。
彼等が想定した戦後の最悪の姿が、多くの国が密かに核兵器を開発し、文明が逸滅びるかもしれない核の緊張下に置かれていることです。
なぜ今、この状況に陥ったのでしょうか、人類が不道徳だから間違ったのでしょうか。
答えを知るのは困難でも直視するしかないのです。
私たちは、今、その世界に生きているのですから・・・!!

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

1945年・・・なぜ日本は焼け野原になったのか?
アメリカ軍の特別資料室でその真相が語られた貴重なテープが見つかりました。
太平洋戦争で、日本への空爆を実行したアメリカ空軍幹部の聞き取り調査の記録でした。

「我々は日本人が根絶やしになるまで爆撃し続けることが出来た
 どれだけ耐えられるものか」byエメット・オドンネル将軍

東京大空襲を実行した責任者カーチス・ルメイ将軍の肉声も見つかりました。

「過激なことをやろうとした
 日本人を皆殺しにしなければならない」

答えた空軍の幹部は216人・・・戦勝国の軍幹部が大規模に調査された極めて珍しい記録でした。

1945年、敗色濃厚な日本への無差別爆撃・・・わずかな期間で、40万人もの犠牲者を出しました。
そこに突き進んでいった彼らの思惑や野望、本音が赤裸々に語られていました。

「空軍に素晴らしいチャンスが来た」byローリス・ノースタッド将軍

「航空戦力のみで戦争に勝利できる」byエメット・オドンネル将軍

空軍は、ある航空兵器に命運を託していました。
原爆を凌ぐ開発費をかけたB-29!!
しかし、思い描いた戦略はことごとく失敗・・・
アメリカ軍内部で突き上げられ、追い込まれていきます。

「空軍大将は恥ずかしいと全員に怒っていた」byローリス・ノースタッド将軍

「B29を持つ空軍は、深刻な非難にさらされた」byヘイウッド・ハンセル将軍

「自分のクビがかかっていた」byカーチス・ルメイ将軍

アメリカ軍の中では、空軍と陸海軍との激しい対立が起きていました。
「しかも、空軍は陸軍の下部組織で、極めて弱い立場でした。
 陸海軍に空軍力を認めさせるために、戦争で成果を残さなければならなかった」
アメリカ軍に残されている機密資料を調べていると、空軍内部で恐ろしい計画が進められていたことが分かりました。
ガス攻撃の計画書です。
空から毒ガスを撒き、1400万人を無差別に攻撃することまで計画されていました。

「一番の目的は、人口の中心部を破壊することだった
 しかし、それについては決して公表しなかった」byバーニー・ガイルス将軍

どうして日本は焼き尽くされることとなったのか・・・??
日本への無差別爆撃の真相とは・・・??

アメリカ・コロラド州・・・ロッキー山脈の麓に広がる町・・・コロラドスプリングス・・・
ここに、アメリカが誇るエアパワー・・・空軍の士官学校があります。
5月・・・卒業式が行われていました。
全米から成績優秀者が集まるこの学校・・・卒業生1000人が、毎年幹部候補生として空軍に入隊していきます。
現在32万人で構成されている巨大組織・アメリカ空軍・・・
世界最強のこの空軍が設立されたのは、戦後の1947年・・・第二次世界大戦中、アメリカに独立した空軍は存在していませんでした。

この士官学校の入り口に、アメリカ空軍の独立を成し遂げ、空軍の父と呼ばれている男の銅像があります。
ヘンリー・ハップ・アーノルド・・・第二次世界大戦中、陸軍の下部組織だった陸軍航空軍司令官です。
アーノルドが命じたのは、東京大空襲・・・10万人もの人々が犠牲となりました。
さらに、戦争末期、日本の60以上の都市を焼夷弾で徹底的に爆撃し続けました。
終戦までのわずかな期間で、40万もの人々が犠牲となりました。
陸軍航空軍は、この空爆の戦果を足掛かりに独立したのです。

「この国を守るため、空軍は陸海軍の下に甘んじてはいけない
 偉大なる空軍組織が欠かせないのだ」byヘンリー・アーノルド将軍

アーノルドは、したたかな軍人だったといいます。
いつも笑顔で、政治的な駆け引きがうまく、上へ上へと昇進していきました。
若き日のアーノルド・・・1907年に陸軍の中に初めて航空部が作られたころからのパイロットです。
飛行機に憧れ、自ら航空部を志願・・・ライト兄弟から直接操縦方法を教わりました。
しかし、所属した航空部は、長い間敵の偵察や、兵器の輸送など、陸軍の支援が中心の弱小組織でした。

ドキュメント東京大空襲 発掘された583枚の未公開写真を追う [ 日本放送協会 ]

価格:1,540円
(2020/8/17 06:10時点)
感想(0件)



アーノルドは、1938年、航空組織のTOPに・・・!!
その当時の世界各国の空軍力を航空機の数で比較すると・・・
ドイツ・・・・・・・・8000
日本・・・・・・・・・4000
イギリス・・・・・・3900
イタリア・・・・・・3000
フランス・・・・・・2000
アメリカ・・・・・・1200
と、アメリカは6位にとどまっていました。

当時、世界最強はドイツ空軍!!
メッサーシュミットなどの戦闘機をヒトラーのもとで次々と開発し、量産していました。
一方、アーノルド率いる航空隊は予算が少なく、多くは旧式の航空機のままでした。
戦争が始まる前は、郵便配達までさせられていました。
1939年、航空軍は、最新の爆撃機をどのくらい保有していたか??
たったの14機でした。
最終的には、第二次世界大戦中にアメリカは何千機も生産しますが、その時点では14機だけだったのです。
1941年12月8日、アメリカ・ハワイの真珠湾に、日本の戦闘機が突如襲来しました。

「アメリカは戦争を日本と開始する」byルーズベルト大統領

当時、アーノルドは開戦をどう受け止めていたのでしょうか?
空軍内に残された史料を探すために、コロラド州のアメリカ空軍士官学校に・・・!!
ここには、歴代の空軍幹部が残した内部文書や遺品などが保管されています。
中でも特別資料室は、歴史的な価値が高いものが集められています。
空軍幹部が何を考えていたのか??
その中に、肉声テープが残っていました。
録音された1960年代から1度も再生されていません。
テープの数は、207本・・・時間にして300時間を超えていました。
1960年代から軍内部で行われた聞き取り調査の記録・・・
協力したのは、空軍将校206人・・・アーノルドは既に死去していましたが、彼を支えた古参の空軍参謀や、日本への空爆を指揮した将軍たちが答えていました。
空軍史を作るために行われましたが、担当者が途中で死亡・・・以来、半世紀埋もれたままになっていました。
しかし、テープは著しく劣化が進み、当初聞くことが困難でした。
一本、一本修復していくことで、およそ50年ぶりに肉声を再現することが出来ました。

アーノルドの参謀だったローリス・ノースタッド将軍・・・大戦当時のアーノルドの言葉を語っています。

「アーノルドは、仲間を集めていった
 ”空軍に素晴らしいチャンスが来た”
 我々はこれまでずっと、誰か声を聞いてくれと求めてきた
 独立した空軍を夢見てきた
 君たちとその基礎を築くのだ
 この戦争で空軍には無限の可能性がある」

日本への空爆を指揮したエメット・オドンネル将軍・・・空軍の力を示すための戦争だったと明かしました。

「我々は、航空戦力だけで戦争に勝利できると考えていた
 アーノルドは、空軍独立を貪欲なまでに追い求めていた」

アーノルドは、空軍独立という野望を掲げて、戦争に臨んでいました。

第二次世界大戦に参戦すると、アメリカは軍事作戦を決定する統合参謀本部を設置します。
集められたのは、陸海軍のTOP・・・そこに、アーノルドも加えられました。
しかし、アーノルドは、年齢も階級も一番下でした。
当時55歳だったにもかかわらず、空軍の坊やと呼ばれ、海軍トップからは陸軍の下部組織と相手にされませんでした。

「アーノルドは、列席を許されたが、そこは陸海軍の物で気に入らなかった
 彼らは、空軍をハナタレの新興部門と考え、何も理解しようとしなかった
 彼らは、空軍を軽視しただけでなく、至る所でおとしめようとした」byエメット・オドンネル将軍
 
戦前、陸軍の下部組織だった航空軍の兵力は、陸軍の地上軍17万、海軍14万に対し、わずか2万・・・ 
太平洋を越えて、日本を直接爆撃できる飛行機を持っていなかった航空軍・・・
アーノルドは、直接ルーズベルト大統領に窮状を訴えることで、航空軍の状況を劇的に変えていこうとします。

ルーズベルトは、貧弱な空軍しかないことにただただ驚きます。
実際に、航空軍は世界の空軍の中で6位と伝えられ、ぞっとしました。
航空軍に、かつての100倍の予算を与えたルーズベルトは、日本への報復を強く求めました。

「一刻も早く、日本本土を爆撃せよ!!」

アーノルドは、戦力の整わない中で、賭けに打って出ます。
1942年4月・・・開戦から5か月後、空母に乗っているのは、通常陸上から発進する爆撃機・・・日本に近いところまで運び、空爆を行う奇襲作戦でした。
空母の短い滑走路からの離陸は危険がありました。
さらに、出撃後は空母には戻って来られないため、中国大陸への不時着を想定していました。

この作戦の指揮を命じられたのはジェームズ・ドゥーリトル将軍です。

「私はアーノルドから、クルー選定と訓練を命じられた
 日本を爆撃するチャンスだった
 だが、海に突っ込むかもしれなかった」byジェームズ・ドゥーリトル

しかし、アーノルドは作戦実行に踏み切ります。
16機の爆撃機は、日本本土への初めての空爆を実行!!
目標としたのは、東京の兵器工場でしたが、無関係の場所を爆撃!!
市民50人が亡くなりました。
全ての爆撃機は、中国大陸や海に不時着・・・日本の捕虜になる者や、死者も出ました。
この作戦は、アメリカの歴史に残る無謀な作戦でした。
驚くほどリスクの高い作戦だったのです。
どの飛行機も、大きく壊れ、多くの航空隊員も失いました。
しかし、アーノルドは、アメリカの国民に対して、空軍の力を示すいい機会だと考えたのです。

後に東京大空襲を決行する将軍カーチス・ルメイは、当時の想いを語っていました。

「航空軍の力は、一度も適切に使われず、空軍力を全く知らない陸海軍は航空機を道具として使おうとした
 どの飛行士も、空軍力は国家に貢献する力を持つと気づいていた
 陸海軍に空軍力を認めさせるため、戦争で頑張らなければならなかった」byカーチス・ルメイ

アーノルドは、第二次世界大戦中、猛烈なスピードで航空機の開発を進めていきます。
アーノルドは、獲得した莫大な予算で、年間10万機の航空機を製造。
世界6位から最強のエアパワーへと一気に駆け上がろうとしました。

超大型爆撃機・・・B-29!!
長距離かつ大量に爆撃できるB-29は、空軍の特別な攻撃力となるだけでなく、陸海軍の補佐するだけの立場から、我々を同じ立場へと押し上げてくれる
B-29は、それを可能にする唯一の道だ・・・アーノルド指令書より

目指したのは、太平洋を越え、日本を直接爆撃すること・・・その為、航続距離は、それまでの2倍近くに増やそうとしました。
さらに、当時の軍用機が飛ぶコード・・・5000~7000mの上・・・超高高度1万mを飛行し、敵の反撃を受けずに爆撃できることを目指しました。
どの国も不可能だと諦めた高さ1万mを飛ぶ夢の飛行機の開発・・・
アーノルドは、30億ドル・・・現在の4兆円を超える莫大な予算を投入し、完成を急がせました。

「B-29は、新しく強力な武器だった
 アーノルドは、B-29がアメリカと空軍を救うと本当に信じていた
 もし、我々が日本を叩き続ければどうか、陸軍の力はいらないと言いたいのだ」byエメット・オドンネル将軍

「アーノルドの決断の中で、最も勇気があったのはB-29の採用だ
 彼はB-29の工場を作り、まだ計画が未完成の時点で最重要だと決めた
 非常に大きな賭けだった」byヘイウッド・ハンセル将軍

アーノルドは、どのようにB-29の構想を練り、切り札になると考えていったのか・・・??

アーノルドと構想を考えていた人がいました。
1932年雑誌に寄稿された記事です。
日本との戦争の準備は出来ているか・・・
ここに、B-29の原案といえる航空兵器が書かれていました。
日本を破壊するためには、3万5000フィートの高さを飛び、5000マイルの行動範囲を持つ航空機が必要だ。
日本はそれを恐れている!!
提唱していたのは、軍の最も早い時期からのパイロット、ウィリアム・ビリー・ミッチェル・・・航空軍きっての天才将校でした。
ミッチェルは、第1次世界大戦で実験的で使われていた飛行機を見て、戦争のやり方を変え得る画期的なものと確信しました。
第1次大戦は、数百万の兵士が徹底して殺し合う戦争となりましたが、それを変えられるはずだと考えたのです。
ミッチェルの唱えた航空戦略・・・軍隊同士が衝突する前線を航空機で越える・・・兵器工場など軍を支える敵の中枢を攻撃し、戦争を早く終わらせるというものでした。
それには、陸軍の補佐ではなく、自ら指揮権を持つ空軍として独立すべきだと主張・・・

米軍資料で語る岡山大空襲 少年の空襲史料学 (岡山空襲資料センターブックレット) [ 日笠俊男 ]

価格:770円
(2020/8/17 06:11時点)
感想(0件)



当時の若手パイロットたちは、彼を崇拝し、ミッチェルスクールと呼ばれました。

その中で、もっともミッチェルを信奉した愛弟子が、アーノルドでした。

「アーノルドは、ミッチェルから多くの航空戦略を教えられた
 空軍が自らの使命をもっているか、攻撃の指揮をどう執れるかだ」byジェームズ・ドゥーリトル将軍

ミッチェルは、空軍力を競う時代になると、日本が敵として台頭すると予測・・・
太平洋戦争が始まる17年前には、ある予測をしていました。

1924年・・・ミッチェルの予言
ある晴れた日曜の朝7時半
日本の航空機が真珠湾の基地を攻撃する
海軍の戦艦、弾薬集積場を爆撃し、太平洋で戦争が始まる

17年後、ミッチェルの予言はそのまま現実のものとなりました。
しかし、ミッチェルは、軍で不遇の人生を送ります。
空軍独立を掲げたミッチェルの主張は、陸海軍との激しい摩擦を生んで、軍を除隊処分となりました。
そして、第2次世界大戦がはじまる3年前・・・1936年に56歳で死去・・・。

ミッチェルは、亡くなる1か月前・・・自らの想いを語った映像を残しています。

「今日の戦争で勝敗を決めるものは、敵の中枢を攻撃することだ
 空軍力が無ければ、アメリカは負ける
 陸海軍の下にある空軍など、ロウソク工場に伝統を頼むようなものだ」

空軍は独立すべきだ・・・その言葉を残したミッチェルとアーノルドは、死ぬまで深い交流を続けていました。

開戦当初、苦しい戦いが続いたアメリカ軍・・・
陸軍のダグラス・マッカーサー、海軍のチェスター・ミニッツ・・・エリアを分けて別々に戦線を展開し反撃していました。
1944年には、どちらが早く日本に迫れるか、競い合っていました。

一方、航空軍は、アーノルドが対日戦線のために開発してきたB-29が、遂に完成し、実戦配備できるようになりました。
完成まで3年以上・・・それでも、通常の開発期間の半分に急がせていました。
アーノルドは、B-29の拠点として海軍が制圧していたマリアナ諸島に目をつけていました。
マリアナ諸島のサイパンやグアムなどから、日本までは往復で4800の距離・・・
日本全土のほとんどを射程距離に入れることが出来ました。
しかし、アーノルドに大きな問題が降りかかります。
B-29は、特別プロジェクトで作られ、アメリカ軍のどの軍が指揮権を握れるのか?決まっていませんでした。

「どの司令官もB-29を欲しがったが、我々航空軍は苦々しく思っていた
 太平洋線域でのB-29の導入は、極めてデリケートな問題だった」byヘイウッド・ハンセル将軍

日本に迫っていた陸軍のマッカーサーと海軍のニミッツ・・・B-29の指揮権をどちらも強く要求しました。

「B-29をマッカーサーに渡せば、海軍の目標を先に爆撃して手柄を横取りしようとするし、ニミッツに渡せば同様の使い方をするだろう
 B-29は、日本全土の攻撃に用いるつもりで、そのためには私が指揮するしかない」byアーノルド

ワシントンにいたアーノルドは、航空軍が陸海軍の攻撃のサポートをすることを条件に、指揮権を自分に委ねるように政府や軍の要人の元を走り回りました。

「結果を出すので任せてください
 B-29が必要なときは、協力します!!」byアーノルド

統合参謀部と大統領を納得させました。

「それはアーノルドが成し遂げた素晴らしい成果だった
 だれもがB-29を欲しがっていた
 手に入れた後、どう扱っていいのか全く分かっていなかったのに、統合参謀本部でやり合い、B-29の指揮権を手に入れたのは、アーノルド最大の成果だ」byカーチス・ルメイ将軍

1944年11月・・・
陸軍航空軍は、B-29の出撃の準備を進めていました。
アーノルドは、ワシントンで統合参謀本部にとどまったまま指揮を執りました。
現地の司令官に任命したのは、ヘイウッド・ハンセル将軍・・・長くアーノルドの参謀を務めていました。

「ハンセルは、とても優秀な指揮官で、空軍一のパイロットだった
 アーノルド将軍はハンセルの事がお気に入りだった」byバーニー・ガイルス将軍

ハンセンは、精密爆撃という航空戦略を練り上げた将軍で、それは当時の航空軍でもっとも重要なことでした。
精密爆撃とは、軍需産業や発電施設など敵の中枢をピンポイントで爆撃し、戦争遂行能力を失わせる作戦でした。
カギを握っていたのは、当時軍の最高機密とされていた装置・・・ノルデン照準機・・・
風の流れや、飛行高度などをセットすると自動計算で正確な爆撃が行われる・・・最先端の技術が詰め込まれていました。
精密爆撃のテスト飛行が、繰返し行われました。
軍事目標を正確に爆撃できれば、一般市民の犠牲を最小限に避けることが出来る・・・!!

「女性や子供を含む大勢の市民が警告なしに空からの爆撃で殺された」byルーズベルト

ルーズベルトは、ドイツや日本を批判し、人道的な戦い方を訴えていました。
精密爆撃を実現することは、アーノルドにとって重要なポイントでした。

「我々航空軍の任務は、軍事目標への精密爆撃である
 優れた制度で、爆弾を投下できる装置を開発し、望ましい結果を出す能力を得た」byアーノルド

アーノルドからハンセルへの最初の指令は、日本の「航空機生産施設を叩け」でした。

「第一の仕事は設定された目標を破壊することだった
 それはまさに、精密爆撃のために、設定された目標だった
 我々はこの作戦と運命を共にしていた
 もしうまくやらなければ恥になる」byヘイウッド・ハンセル将軍
 
B-29による日本への精密爆撃・・・
それは、陸軍航空軍にとって、もう、後がないものでした。

改訂 大阪大空襲 大阪が壊滅した日 [ 小山 仁示 ]

価格:3,080円
(2020/8/17 06:13時点)
感想(0件)



1943年・・・航空軍は、ヨーロッパでドイツに精密爆撃を行っていました。
B-29ではなく、高度6000メートルを飛ぶB-17にノルデン照準機を乗せた攻撃でした。
43年1月から9月までの爆撃で、目標への命中率はわずか2割・・・
理由は、爆撃の際、テストとは違いB-17は敵機から激しい攻撃を受けていたのです。

「敵機から攻撃を受けそれを交わし反撃しながら爆撃を行うのだが、それではうまくいかなかった
 まぬけな報告が多く出された」byエメット・オドンネル将軍

「アーノルドは非常に不満で、とても懸念していた
 陸軍だけでなく、誰もがアーノルドを突き上げた
 彼は言った
 ”君たちは、間違った庭にホースを向けている
  私はどうする事も出来ない
  もはや後には引けないんだ” 」byチャールズ・キャベル将軍

B-17は、ドイツの反撃で被害が大きく、出撃したうち3割近くが撃墜されることもありました。

アーノルドはドイツの爆撃で、面目を失った結果、軍の中で惨めな敗者となった」byアイラ・エーカー将軍

アーノルドは、ヨーロッパで空軍力での勝利を目指しましたが、戦果をあげることが出来ずとてもかなしみました。
日本に空軍力だけで単独勝利を勝ち取ろうと・・・我々だけで確実に降伏させると決心したのです。

1944年11月24日、アーノルドの指令を受けたハンセルが日本への精密爆撃を遂行します。
サイパン島から111機のB-29が出撃しました。
搭乗を狙った大規模な空爆作戦が、初めて実行に移されたのです。
最重要の目標は、東京武蔵野市にあった中島飛行機の巨大な工場でした。
零銭のエンジンなどを作る日本の航空産業の要でした。

「最初の攻撃の直前、アーノルドは私に手紙を送りこう書いてあった
 ”B-29は日本にたどり着けないかもしれない
  日本で撃墜されるかもしれない
  あなたに幸運があらんことを”
 この手紙は私を不安にさせた
 私も同じ不安を持っていたからだ」byヘイウッド・ハンセル将軍

出撃から7時間後・・・敵の反撃を受けにくい超高高度1万mから初めて東京を爆撃しました。
爆弾は、大きく外れました・・・この空爆で、目標を捕らえた爆弾はほとんどありませんでした。

「作戦は期待通りにはいかなかった
 しかし、何かができる可能性は示した」byヘイウッド・ハンセル将軍

3日後・・・再びB-29・81機が出撃・・・しかし、今度は雲に蔽われ、飛行機工場を発見することが出来ませんでした。
3回目の出撃は12月3日・・・発進した86機のうち60機が中島飛行機の工場上空につき爆撃しました。
しかし、爆弾の命中率はわずか2.5%・・・!!
目標を破壊するには程遠い結果でした。

ドイツで成果をあげられなかったアーノルドにとって、日本への空爆は失敗の許されな最後の機会でした。
B-29の1万mの超高高度であれば、敵の反撃を受けず、精密爆撃が実現するはずでした。
日本への空爆は、なぜうまくいかなかったのか・・・??ハンセルの部下で日本上空を飛んでいたエメット・オドンネル将軍は・・・B-29の最大の特徴である超高高度が問題だったと打ち明けています。

「日本の上空では、非常に激しい風にぶつかった
 だれも知らなかった”ジェット気流”で我々が世界で初めて確認したのだ
 しかも、1年で最も激しい時期で、我々は真っすぐ飛ぶことが出来なかった」byエメット・オドンネル将軍

B-29が飛行する日本上空の高度1万mには時速200キロを超えるジェット気流が流れています。
人類で初めて1万mを飛行した航空軍は、これを発見することとなります。
ノルデン照準機は、自動で水平を保つ画期的な機能がついていましたが、想定を超える風の影響で誤差が生じ、爆撃の精度を維持することが困難になっていました。
さらに、超高高度を実現したエンジンにも大きな問題を抱えていました。

「B-29のエンジンが発火するという問題だ
 エンジンの配線構造の問題で、高温になる場所が数カ所あった
 火災が多発し、多くの乗組員がパラシュートで飛び降りることとなった」byエメット・オドンネル将軍

エンジントラブルが相次ぎ、目的地にたどり着けないばかりか、命を落とすパイロットも出ていました。
しだいに出撃できる機体も減り、作戦の遂行に影を落とすようになりました。

「もしエンジンが頼りなければ、それでやり切るしかない
 これは非常に大きな問題だった
 すべての問題は、新兵器を慌てて実践投入した結果、生まれたものだ」byヘイウッド・ハンセル将軍

ワシントンでは、アーノルドが厳しい立場に追い込まれていました。
統合参謀本部では、指揮権を与えたにもかかわらず、B-29で結果を出せないアーノルドに厳しい批判が相次ぎました。

「B-29をもつ空軍は、深刻な非難にさらされていた
 アーノルドは、非常に大きなプレッシャーの中にあった
 陸軍参謀総長からの批判に加え、大統領もよくない結果に不満だった」byヘイウッド・ハンセル将軍

「アーノルドは、恥ずかしいと言って全員に対して怒っていた
 私やハンセル、作戦の関係者全員に激怒していた」byローリス・ノースタッド将軍

B-29で成果を残せなければ、空軍独立というアーノルドの野望は完全に断たれる・・・
しかし、状況は更に厳しくなっていきます。

「アーノルドは言った
 ”ちくしょう 私は未来を予測できない”」byバーニー・ガイルス将軍

陸海軍からの厳しい批判・・・さらに、大統領やアメリカ国民のいら立ちが航空軍にのしかかっていきます。
アーノルドは、4度の心臓発作を起こすほど、大変なプレッシャーを感じていました。
そのプレッシャーは、部下である司令官へと下っていきます。

「結果を出さないといけない
 私の首がかかっていた」byカーチス・ルメイ将軍

そして、精密爆撃とはかけ離れた、日本への非人道的な戦略に手を染めていきます。
なぜ、日本は焼き尽くされたのか・・・航空軍の戦略が倒錯していく真相とは・・・??

1943年、第2次世界大戦のさ中に、アメリカで公開された映画「空軍力の勝利」。
製作したのは、あのウォルト・ディズニーです。
ディズニーは、アメリカ陸軍航空部が推し進める空爆戦略に共鳴し、映画を作りました。
描かれていたのは、日本への徹底した空爆・・・
この日本への爆撃は、映画の公開から2年後、現実のものとなります。

日本への空爆に、空軍独立をかけていたアーノルド・・・空爆の計画の全貌とは・・・??
恐ろしい計画が・・・ガス攻撃の計画書です。
1944年4月、日本への報復のガス空爆計画!!
日本軍が、もし毒ガスを使用した場合、最大の効果を達成するため日本全国の人口密集地域に毒ガス攻撃をする・・・攻撃対象は、東京、横浜、川崎、大阪、神戸、名古屋、八幡の7都市・・・そのエリアの人口1400万人すべてに毒ガス攻撃を行う想定でした。

日本に対して毒ガス攻撃まで用意していたアーノルド・・・当時、アメリカ国民に向けて日本に空爆することを強くアピールしていました。

「我々はフィリピンへ戻り、そしてその次は東京だ
 我々の東京訪問は仕事だ
 つまり、爆撃に行くのだ
 任務は困難だが、不可能ではない
 神に誓ってやってやる」byアーノルド

アーノルドが、爆撃のために作り上げた切り札B-29。
航続距離は5000km、飛行高度1万m・・・どちらも当時最高で、未来から来た飛行機と呼ばれました。
しかし、B-29による日本への空爆は、当初成功しませんでした。
アメリカ軍の予算の中で当時最大現在の4兆円をかけたB-29・・・アーノルドは、B-29を無駄遣いしていると厳しい批判にさらされていました。

マッカーサーは、「我々ならB-29を使っていい仕事ができる、我々によこせ、航空軍の無駄な攻撃より大きな影響を与える」といいました。

B-29を奪われることは、空軍独立の野望が完全に途絶えることを意味していました。
アーノルドは、ハンセルに対して結果を出すことを強く求めていました。
日本から2400キロ離れたグアム島にあるアメリカ空軍で最大級のアンダーセン空軍基地・・・
現在の大型爆撃機B-1・・・航続距離は1万キロを超え、太平洋全域をカバーしています。
ここに、最大で2000機のB-29が配備され、日本への爆撃へと飛びたちました。
1944年12月・・・日本への空爆が始まってから、1月余り・・・爆撃の失敗が続いていたヘイウッド・ハンセル将軍は、どうすれば結果が出せるか悩み続けていました。
精密爆撃失敗の理由はわかっていました。
日本の上空は時速200キロのジェット気流に加え、冬場は分厚い雲に覆われていました。

「正確な目標を日中に目視で狙わなければならないが、何度も雲が視界を遮り、目標を目視できず当たらなかった」byリチャード・モンゴメリー中尉

目視できない標的は、開発を進めてきたレーダーで捕らえようとしました。

「爆撃用のレーダーはあったが、最適な高度は5000mだった
 だが、1万mから爆撃したので、どうしようもない結果になった」byエメット・オドンネル将軍

12月27日、追いつめられたハンセルは、B-29・72機で、再び中島飛行機の工場へ爆撃を行います。
しかし、目標に命中した爆弾は、わずか6個・・・またしても失敗に終わりました。
その1週間後・・・ハンセルは解任されました。
突然の通告でした。

「地面が崩れたのかと思うほど驚いた
 私は完全に挫折してしまった
 確かに結果は悪かったが、ドイツへの爆撃とおなじようなものだった
 そして、実際に多くの障害を克服していた
 私なら部下に責任転嫁はしない
 アーノルドは、自分で責任を負わなかった」byヘイウッド・ハンセル将軍

「私はアーノルドに(ハンセルを)解任しないよう頼んだ
 アーノルドは言った
”ちくしょう、私は未来を予測できない
 ハンセルは任務をこなさない
 司令官に留まるべきではない”」byバーニー・ガイルス将軍

アーノルドがハンセルの後任に指名したのは、カーチス・ルメイ将軍。
当時38歳、難しい戦場でも常に結果を出し、史上最年少で将軍に昇進していました。
ルメイは自ら爆撃機に乗り込み、部隊の先頭を飛ぶなど、陣頭指揮を執るリーダーでした。
部下たちの絶大な信頼を集めていました。

アーノルドは、そのルメイに最後の望みを託したのです。

「B-29は、これまでどんな軍用機もできなかった偉大な結果をもたらす
 その結果をもたらしてくれるのは、君だと信じている」byアーノルド

航空軍の運命を背負うこととなったルメイ・・・何を考え、どのような心情で日本に空爆を実行していったのか・・・??

1970年3月14日、カリフォルニア・・・
「アーノルドは、私が何とかすると期待していた
 結果を求められていた
 航空軍は、何も成果がなかった
 すぐ何かしなければならなかった
 統合参謀本部の考えはわかっていた
 B-29を奪おうとアーノルドの圧力をかけた」

日々徒然〜お気楽な毎日が最高〜 - にほんブログ村

1945年1月20日・・・
マリアナ諸島の基地に着任したルメイ・・・就任してから1月ほど精密爆撃を行いました。
しかし、ハンセル同様、成果が上がらない・・・超高高度へも突撃してくる日本軍から、激しい反撃を被ることもありました。 

「ハンセルは、ほとんど成果を残せなかったため解任された
 結果を残さなければならなかったが、その方法は何なのか・・・??」byルメイ

ルメイには、一つだけ恐れているものがありました。それは失敗でした。
それは、彼の父親が、仕事の続かない出来損ないだったからです。
彼はとても貧しい家庭で少年時代から懸命に働き、いつも大変な責任を負って生きてきました。
家族や軍隊、国に対して、非情に責任感があったのです。

1945年2月・・・ルメイが結果を出せない中、アーノルドのもとに驚くべき情報が入ります。
ペリリュー島を制圧し、硫黄島の攻略に向かっていた海軍が、日本への空爆に成功したのです。
しかも、海軍が爆撃したのは、B-29が最大目標として失敗した東京の中島飛行機武蔵野工場だったのです。
爆撃を行ったのは、飛行速度の遅い海軍の小型機でした。
低空で敵の反撃をかいくぐりながら、爆撃を成功させたのです。
新聞は、東京への決定的な空爆だと海軍大将のニミッツを称賛しました。

海軍の戦果を見せつけられ、アーノルドはいよいよ後がなくなっていました。

「海軍のニミッツは、
 ”B-29の指揮権をよこせ
  1度に300機を送り込んでやろう”
 そう言って、指揮権を要求してくるだろう」byアーノルド

統合参謀本部では、結果を残せない航空軍への風当たりが一層強くなっていました。
中でも厳しかったのが、ルーズベルト大統領でした。
軍の最高司令官の大統領が、アーノルドに圧力をかける・・・

「B-29に費やされたお金は最終的にその価値があったと示せ
 ”アメリカ国民のため戦争を終わらせるのに役立った”と」byルーズベルト

アーノルドは、4回の心臓発作を次々と起こしたほど、大変なプレッシャーを感じていました。

この頃、日本軍の徹底抗戦で、アメリカ兵の犠牲が多く出ていました。
戦地の兵士を早く帰国させてほしいというアメリカ国内での声が、日増しに高まっていました。

”戦争を可能な限り早く終わらせろ”というアメリカ国民からの圧力が生まれ、それが大統領から下へ指揮系統をずっと下っていく・・・
海軍の空爆が成功した2日後・・・アーノルドは、ルメイにある指令を出していたことが分かりました。
都市への焼夷弾攻撃を試せ
ルメイは肉声テープでこの時の思いを語っています。

「この件は、誰も責任を取ろうとしなかった
 こんな状況ならそうだろう
 とても孤独な仕事だった
 自分一人で決めるしかなかった
 戦争とは破壊することである
 B-29で結果を出し、陸海軍に見せつけなければ、私は過激なことをするつもりだった」byカーチス・ルメイ将軍

アーノルドは、焼夷弾を使った空爆を、いつからアラバマ州にあるマックスウェル空軍基地・・・軍事作戦に関する機密資料が保管されています。
その中に、焼夷弾の計画書がありました。

1943年10月「日本焼夷弾攻撃データ」

狙ったのは、日本の20都市・・・それぞれの都市の人口や建物の密集度合いに応じて、必要な焼夷弾の量を分析していました。
どこに攻撃を行うのか??地図に示されていました。
東京で最も効果が高い地域とされたのは、下町の人口密集地でした。
当時、アメリカではその下町の住宅街を実際に再現して、焼夷弾攻撃の実権を繰り返していました。
実験結果をもとに立てた計画では、1200万人の住宅を消失できると記されていました。

「一番の目的は、人口の中心の破壊
 決して公表しなかった
 抵抗する者に対する爆撃だ
 人口密集地を破壊する」byバーニー・ガイルス将軍

航空軍は、関東大震災を調べていて日本が焼夷弾攻撃にぜい弱だと知っていました。
アーノルドは、戦争に勝つためならどんな方法でも追及する人間でした。
精密爆撃を掲げる裏で、焼夷弾による無差別爆撃を準備していたアーノルド・・・
当時、どう考えていたのでしょうか?

「これは野蛮な戦争であり、敵国人に自らの政府に戦争中止を要求させるべく、甚大な被害と死をもたらすことである
 市民の一部が死ぬかもしれないという理由だけで、手心を加えるわけにはいかない」byアーノルド

統合参謀本部で突き上げられ、一刻も早く成果をあげたかったアーノルド・・・
日本を爆撃するB-29の拠点のサイパン島を訪れ、鼓舞する映像が残っています。

「今、君たちは日本に最も近い基地にいる
 世界一の爆撃機B-29がある
 よりたくさんの爆弾を運べるのだ
 北海道から九州に至る軍事拠点をすべて爆撃できる
 爆撃の時に日本人にメッセージがある
 伝えてくれるか

 日本の兵士たちめ、パールハーバーは忘れない
 B-29は、お前たちに思い知らせてくれる
 何度も、何度もな」byアーノルド

アーノルドから焼夷弾攻撃の指示が下ってから1週間余り・・・ルメイは日本上空からの偵察写真を眺めながら、あることに気付きました。
ドイツには数多くあった低空の航空機に向けた対空火器が少なかったのです。

「低空の対空火器がないことに気付いたとき、自分の中で”これだ”と確信した
 レーダーは、使い物にならないから、気圧を調整してB-29を限りなく低く飛ばせるようにした」byルメイ

低空を飛べば、B-29を苦しめていたジェット気流や雲の影響を避けられる・・・
B-29の大部隊を編制し、作戦を決行することになりました。
狙うは・・・東京!!

アーノルドが43年から計画してきた焼夷弾計画が、遂に実行される・・・精密に目標を狙うのではなく、ターゲットの区域に焼夷弾をくまなくばらまく作戦でした。

「アーノルドに話をせずに実行するつもりだった
 先に話をして失敗したら、彼の失敗になってしまう
 一人で失敗すれば、”バカな部下が暴挙に出たから首にした”と、誰か代わりの部下をつけてB-29の作戦は続
けられる
 かかっていたのは、アーノルドの首でなく、私の首だったので実行を決めた」byカーチス・ルメイ将軍

地図で読む東京大空襲 両国生まれの実体験をもとに/菊地正浩【1000円以上送料無料】

価格:2,420円
(2020/8/17 06:14時点)
感想(0件)

 
1945年3月10日、B-29が出撃準備をしていました。
その数325機・・・焼夷弾を多く積むため、機関銃などは取り外していました。
B-29は、あわせて1600トンを超える焼夷弾を積んで、東京に向かいました。
空軍独立の野望と、戦果を求める声・・・そして、現場への圧力・・・無差別爆撃が遂に実行されました。
大量の焼夷弾が投下されました。
燃え広がる地域に、爆撃は2時間半にわたって続けられました。
焼夷弾の数25万発・・・東京の下町に暮らす130万人が逃げ場のない日の海に包まれました。

「大量の爆弾を投下し、不幸にも少しでも想像力があれば崩れ落ちそうになる瓦礫の下で、ママ、ママ、と泣いている3歳の女の子の恐ろしいイメージが脳裏に浮かぶものである
 だが、正気でいたいと思うなら、また、祖国の期待する任務を遂行していこうと思うならば、そうした想像から意識を飛ばさねばならない」byルメイ

一夜にして住民のほとんどが被災・・・死者は、10万人を超えるとみられています。
爆撃の報告を受けたアーノルドは、ルメイにこう伝えました。

「おめでとう、この作戦で、あなたたちはあらゆるものに立ち向かう勇気があると示した」byアーノルド

アメリカ国内にも、東京を火の海にしたことが大々的に伝えられました。
東京は、焼夷弾で荒廃しました。
ルメイは、東京の被害を記録した写真を見た時の思いを書き残しています。

「東京は跡形もなかった
 かつてない激しい攻撃だったらしい
 私は居心地の悪さを感じていたが、アーノルドは非常に満足していた。」byカーチス・ルメイ

その後もルメイは、B-29による焼夷弾攻撃で次々と大都市を焼き払っていきます。
3月12日から19日、名古屋、大阪、神戸・・・43年から攻撃が計画されていた都市でした。
この焼夷弾攻撃で、さらに1万人以上が犠牲となりました。

「とにかく可能な限り早く爆撃した
 日本軍が対策を考えて反撃してくる前に、徹底的にやりたかったのだ
 だが、中止した
 なぜかわかるか?
 焼夷弾が切れたからだ」byカーチス・ルメイ

ルメイは、わずか10日間で焼夷弾を1万トン・・・150万発使い切りました。
焼夷弾が補充されたのは、およそ1か月後・・・ルメイは再び大都市への爆撃を繰り返します。
焼夷弾での空爆をやめられない理由がありました。

アーノルドからルメイに届いた「おめでとう」という言葉は、実は、言葉そのものを意味する祝福ではありませんでした。
”他の都市を攻撃し続けろ”という青信号で、”そのまま続けろ大丈夫だ”という意味だったのです。
一般市民を狙った非人道的な無差別爆撃に突き進んだ陸軍航空軍・・・その原点ともいえる思想がありました。
第2次世界大戦がはじまる20年前の資料の中に、将来の無差別爆撃を引き起こす思想がありました。

市民に恐怖を与えることで、戦争をやめさせることが出来る
ガスを使ってその土地で生きられなくし、焼夷弾で炎上させる!!

このレポートを書いていたのは、ウィリアム・ビリー・ミッチェルです。
アーノルドが師を仰いでいた航空軍の戦略の原点を築いた男でした。
ミッチェルは、敵の中枢で戦争を支える一般市民を攻撃対象とし、戦争への意思を失わせることが勝利への近道だと考えていました。
ミッチェルは、一般市民の戦意はもろく、それを打ち砕くのに多くの爆弾は必要ない、すぐに市民は平和を求め、政府は要求に応じると考えていました。
そこから、市民を攻撃目標とする戦略が生まれたのです。

1945年6月17日、これまで軍事施設の多い大都市を狙ってきたB-29が、突如鹿児島の上空に現れました。
鹿児島への空爆でも、大量の焼夷弾が落とされました。
2000人以上が亡くなりました。
なぜ、大都市だけでなく、地方都市までもが攻撃対象になったのでしょうか?
鹿児島空襲の5日前、グアムのルメイのもとを、ワシントンにいたアーノルドが訪ねてきたことが肉声テープで明かされています。

「我々は、アーノルドのために、どう作戦が遂行され、どんな目標が達成できるか説明した
 するとアーノルドが聞いたんだ
(その作戦だと)いつ戦争が終わる?
 われわれは、正確な日時について考えたこともなかった」byカーチス・ルメイ将軍

この頃、日本本土への上陸を目指していた陸軍と海軍が、共に沖縄での戦闘を終えようとしていました。
これを受け統合郷参謀本部では、終戦に向けた動きが加速!!
日本本土への上陸作戦が、11月1日に決行予定となっていました。
この決定を受け、アーノルドは航空軍の力をどのように示すことが出来るか、ルメイと話に来ていたのです。

「陸軍が上陸する前に、空軍だけで戦争を終わらせる
 そう決意したのは、アーノルドと話した時だった
 9月中旬までに、空爆の標的とすべき都市はなくなるから、10月1日までに確実に戦争は終わらせられる」byカーチス・ルメイ将軍

会議の後、アーノルドに提出させた焼夷弾攻撃の計画が残されていました。
そこにあげられた都市は180!!
人口の多い順に並べられ、標的はほとんど軍事工場のない地方の小さな都市にまで拡大していました。
ルメイは10月までに、日本の戦争能力をすべて破壊し終えるといいました。
アーノルドは、この大規模な破壊によって、ルメイ一人で勝利できると確信しました。

ルメイは、激しい爆撃を地方へと広げていきます。
一晩で、3都市、4都市と焼夷弾で焼き払い続けました。
日本が降伏するまで爆撃は続きました。

航空軍の日本に対して行っていた無差別爆撃・・・その被害の実態が、アメリカ国内に次第に伝わり次第に物議をかもしていきます。
5月30日、東京の惨状を伝えたニューヨーク・タイムス・・・
ルメイは、東京は消えたといった
12キロ四方にわたって焼き尽くされ、100万人が火の海で死んだ
この記事を見て、衝撃を受けた人物がいます。
陸軍長官のヘンリー・スティムソンです。
アーノルドの上司で、文民出身のTOPでした。
スティムソンは、アーノルドの部下から日本に対しては精密爆撃のみを行うと約束されていたといいます。
「私は精密爆撃は可能であるし、適切であると聞いた
 ヒトラーがしたような、残虐行為をアメリカにしてほしくない」
6月・・・スティムソンは、アーノルドを呼び出し詰め寄ります。

「アーノルドは、
 ”分散する日本の工業都市を市民を殺傷せずに攻撃するのは不可能だ
  できる限り市民の殺傷の抑制を試みている”
 と語った」byスティムソン

焼夷弾で悲惨な被害を出し続け、人道的な精密爆撃ができないなら、原爆を使う選択肢もあるのではないか??
スティムソンは、原爆投下によって、焼夷弾爆撃は止められたと書き残しています。
彼が原爆の使用に賛成した理由の一つは、焼夷弾を止めるためだったといいます。
焼夷弾空爆の乗組員は、燃えた人肉の匂いが染みつくため、飛行機を丁寧に洗ったし、ガスマスクをつけるほどでした。
当時、日本への空爆で、越えてはいけない道徳上の一線は、焼夷弾の使用であり、原爆ではなかったのです。

1945年8月・・・戦争は終わりました。
航空軍は、その圧倒的な力を見せつけました。
終戦から2年後、日本を焼き尽くしたアメリカ陸軍航空軍は、太平洋戦争での戦果が認められ、悲願だった空軍独立を果たします。
第2次世界大戦中、航空軍を率いたヘンリー・アーノルドは、唯一の空軍元帥に昇進、終戦から5年後、63歳で死にました。

アーノルドは、戦後何を思っていたのでしょうか?
アーノルドは、週戦後まもなく退役し、戦争を振り返ることはあまりありませんでした。
空軍力で戦争を終わらせることは、ミッチェルのアイデアで、空軍全員が描いた夢でした。
しかし、その結果は想像を超えていました。
あの戦争で、想定以上の兵器を手にして、産んだ結果は恐ろしいものだったのです。
アーノルドのもとで日本を焼き尽くしたカーチス・ルメイ・・・終戦から15年後に空軍TOP参謀総長の座につきました。
ルメイが空軍TOPだった時に起きていたベトナム戦争・・・ナパーム弾などを使った爆撃を行いました。
空軍力は、再び多くの民間人の犠牲者を出すことになりました。

アーノルドからルメイへと受け継がれた航空戦略の提唱者ウィリアム・ビリー・ミッチェル・・・
戦後、再評価がなされ、故郷ミルウォーキーに名前を冠した空港が作られました。
終戦から1年後、位階勲等を受賞し、失っていた軍籍も取り戻しました。
航空戦略の創始者と呼ばれています。

100年余り前に、小さな組織からなったアメリカ空軍・・・
いまや並ぶべき存在のないスーパーパワーとなりました。
第2次世界大戦では達成できなかった精密爆撃を、技術が進化する中で今も追い求めています。
しかし、技術がどんなに進歩しようと、もたらす結果に代わりはありません。

現代の空軍力は頼正確で、洗練されているという話があります。
しかし、それは第2次世界大戦前に空軍が
「我々なら第1次世界大戦で起きた虐殺を回避し、より早く人道的に戦争を終えられる」
と言ってだましたのと同じことです。
私たちはそれを信じて第2次世界大戦のような虐殺が2度と怒らないと考えてはいけません。

日本は、徹底的な無差別爆撃で焼き尽くされました。
もたらされた凄惨な被害は、アメリカ空軍の想定をも超えていました。
しかし、戦争に勝利した後、検証し、反省をすることはありませんでした。
悲劇を引き起こした戦略は、連綿と受け継がれているのです。

戦争は何をもたらすのか・・・?今も突き付けられています。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング


本土決戦と滋賀 空襲・予科練・比叡山「桜花」基地 (別冊淡海文庫) [ 水谷孝信 ]

価格:1,980円
(2020/8/17 06:14時点)
感想(0件)

真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任 [ 倉山満 ]

価格:1,404円
(2019/1/20 10:02時点)
感想(0件)



長野県軽井沢町・・・戦前、国民の人気が高いある政治家の別荘が残されています。
政財界の友人を招き、当時最先端だったゴルフに熱中していました。
別荘の主は近衛文麿・・・
昭和の初め、日本が戦争に突き進んだ時代に3度にわたって首相を務めました。
別荘に残されていた掛け軸・・・昭和19年、アメリカの戦いのさ中、認めた言葉です。
「度量数称勝」・・・国力で圧倒的に勝るアメリカに勝てない・・・そう思っていたであろう近衛文麿、どうして戦いを避けることができなかったのでしょうか?

昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争・・・
そに8か月前、殊勝だった近衛は、アメリカとの関係改善を目指し、和平交渉を行っていました。
そこでまとめ上げたのが「日米諒解案」です。
両国の主張を盛り込んだだけの外交文書でしたが、その後の日米交渉の土台となりました。
しかし、この近衛の動きを真っ向から否定したのが外務大臣・松岡洋右でした。

松岡は第二次世界大戦下のヨーロッパで快進撃を続けるナチス・ドイツとの同盟を軸にアメリカに対抗する力の外交を進めました。
松岡を支持する国民の熱狂が、近衛を外交を狂わせ、外交交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。
迫り来る開戦・・・近衛はルーズベルト大統領とのトップ会談に託しました。
外交と世論のはざまで揺れた近衛文麿、その選択とは・・・??

京都大徳寺・・・ここに近衛家代々の墓所があります。
近衛家は、藤原鎌足を祖先に持ち、代々歴代天皇に仕えてきた公家の名家です。
宮中の中で、代々文化面を司っていた家で、文麿も最初から政治の道についたわけではなく、華族としての立場で政治に関わっていました。
明治時代に作られた特権階級の華族。
その最高位侯爵だった近衛文麿は、大正5年、25歳で政界デビュー、貴族院議員となります。
当時から大衆の人気は高く、名家でありながら親しみやすい人柄で、政界の貴公子としてもてはやされました。
そんな近衛の言論が注目されるようになったのは、大正7年のことでした。
この年終わりを迎えた第一次世界大戦・・・
イギリス、アメリカを中心とする連合国が勝ち、英米主導の新しい国際秩序が築かれることとなりました。
この時、27歳の近衛の論文が議論を呼びます。

「英米本位の平和主義を排す」
英米は戦後の国際秩序を都合よく再編するつもりだ
豊富な天然資源を独占するなど、他国の発展を抑圧している
日本は正当なる生存権を主張し、それを貫徹すべきである

国際協調を掲げながら自国の利益を優先する英米を強く批判したのです。
そして大正から昭和へ・・・近衛が政治の舞台へと・・・!!
昭和恐慌・・・失業者が続出し、政治への国民の不満が高まります。
昭和6年9月満州事変勃発、満州国が誕生しました。
軍部の勢いは誰にも止められないものとなりました。
日本の行き詰まりは支配層の腐敗が原因だと考えた若者によって暗殺やテロが相次ぎます。
総理大臣が次々と変わる不安定な政局の中、新しいリーダーとして期待されたのは、当時貴族院議長だった近衛文麿でした。
昭和12年6月・・・近衛は45歳という若さで内閣総理大臣に就任します。
メディアはこぞって期待します。
”低迷する暗雲の中から一つの光が忽然として輝きだす”
しかし、組閣からわずか1か月で難局に直面します。
7月7日、盧溝橋事件・・・日中両軍が衝突します。
これをきっかけに日中戦争がはじまりました。
近衛は国民が一丸となって戦うように大演説を行い、ラジオや新聞を使って戦意高揚に・・・!!
日中戦争は拡大の一途をたどり、南京まで陥落!!
熱狂した人々は手旗や提灯をもって行進し、日本中が歓喜の渦に包まれました。
この世論の高揚が、近衛内閣に影響を及ぼすこととなります。
その頃、日本はドイツの仲介で、中国側と交渉していました。
相手は国民政府を率いる蒋介石でした。
しかし、戦勝に湧く世論に押され、交渉条件を釣り上げてしまいます。
それは、満州国の承認、賠償金の要求・・・中国側が容認しがたいものでした。
当時の外交の問題点は、ほぼ呑めないであろうモノを求めてしまった・・・その国際感覚のなさ、国内向けの政治を重視した外交でした。
国民の戦争熱を煽った場合、自分でも止められなくなって・・・外交的に妥協すべきところで妥協できなくなってしまったのです。
昭和13年1月、近衛は中国に対し、事後、国民政府を相手とせずと、自ら和平交渉を打ち切りました。

日中戦争がはじまって3か月後の昭和12年10月・・・
アメリカのルーズベルト大統領が演説を行いました。
「アメリカは戦争を憎む
 アメリカは平和を望む
 だからこそ、平和のために関与することを辞さない」
名指しこそしなかったものの、日本を強く批判したものでした。
当時、中国との貿易拡大を目論んでいたアメリカ・・・海軍の軍備増強に着手し、中国国民政府に援助物資をするなど、日本との対決姿勢を明確にしました。
日本では泥沼化する日中戦争に国民は厳しい統制下に置かれていました。
昭和14年1月、第一次近衛内閣総辞職。
外交方針を巡って閣内で対立したことが原因でした。

この年、ヨーロッパ情勢は激動を迎えていました。
昭和14年9月第二次世界大戦勃発。
ヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスはドイツに宣戦し、戦いが始まりました。
ドイツはデンマーク、オランダ、フランスなど周辺諸国を次々と制圧し、ドイツの優勢をみたイタリアもドイツ側として参戦!!
東京荻窪にあった近衛の邸宅「荻外荘」
昭和15年7月、再び首相に推された近衛は、組閣に先立ち陸海軍大臣、外務大臣予定者を呼び、ドイツ・イタリアとの関係強化を決定します。
この時、外務大臣に任じられていたのが松岡洋右でした。
昭和8年日本は国際連盟脱退を通告。
松岡の演説は、世界を相手に物怖じしない姿に、国民は喝采を送りました。
オレゴン大学を卒業し、アメリカ痛を自負していた松岡、弁が立つと、軍部を押さえられる人材と近衛が抜擢したのです。
第2次近衛内閣発足2か月後、松岡が主導した外交が世界に衝撃を与えます。
昭和15年9月日独伊三国同盟締結。
松岡の狙いは三国の結束を誇示することでアメリカに対抗するというものでした。
この同盟には、近衛にも明確な狙いがありました。
アメリカとの衝突を避けること・・・!!

昭和9年・・・首相になる3年前に近衛がアメリカに50日間滞在した時の記録・・・「米国巡遊日記」には・・・
ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれたり、各地で政財界の要人と交流を深めていたことが書かれています。
「ニューヨークに現代日本を正しく伝える施設を作るべきだ」とも。
両国の文化交流を進めることで、対立を避けられると考えていました。
アメリカ国民に対して友情の大切さを語る画像も残っています。
「私は多くの旧友たちと再会し、新しい友人たちと出会いたいと思っています。
 そして、太平洋の反対側にいる私たちが80年育んできた日米間の友情を、どれほど大切に思っているか、私から直接お伝えしたいのです。」
大国アメリカを目の当たりにした近衛にとって、日米開戦は絶対にあってはならないものでした。

昭和15年11月、アメリカから二人の神父が施設として来日・・・
「日米の友好関係の回復を望む」アメリカからのシグナルでした。
当時ドイツと戦うイギリスを支援していたアメリカは、同時にアジアで日本と対立するのは避けたいと考えていました。
しかし、中国問題をめぐり、日米関係が悪化していたために、民間レベルで交渉を始めたのです。
アメリカとの対決に危機感を抱いていた近衛は、期待していました。
昭和16年2月、日本の使節がアメリカに向かいました。
対話の機運が高まったため、僅か2か月で駐米大使・野村吉三郎と国見長官コーデル・ハルの交渉に格上げされました。

日米諒解案・・・
外交方針から経済協定まで、あくまでお互いの主張を記したものに過ぎなかったものの、冷え切った日米関係の解決の糸口となるものでした。
アメリカの狙いは、日本が三国同盟における軍一事情の義務を免れること・・・
アメリカとドイツが戦争になっても、日本は参戦しないという意図が含まれていました。
日本の狙いは、日中戦争の解決でした。
アメリカが満州国を承認すること・・・ルーズベルト大統領による中国の和平勧告日本の有利な条件が盛り込まれました。
さらに、近衛にとって大きかったのは、日米首脳会談でした。
国内の調整をへずにTOPで外交方針を決められる強力なものでした。
しかし・・・ハルは諒解案に基づく交渉を始める前に、前提条件を示していました。
ハル四原則
①領土保全と主権尊重
②内政不干渉
③機会均等
④太平洋の現状維持
それは、中国をはじめとする他国の領土や主権を守り、内政干渉や武力行使を全面的に禁止するというものでした。
交渉が途絶えるのを恐れた野村は、東京に諒解案を伝える前に、この四原則には触れませんでした。
4月18日、諒解案を受け取った近衛は、大本営政府連絡懇親会で検討。
軍部も賛同し、これをたたき台にアメリカとの交渉を始めようとしていました。
ところが・・・この動きに強硬に反対したのが、外務大臣・松岡洋右でした。
松岡は日米交渉の模索が始まっていた3月から1月あまりヨーロッパを外遊していました。
ドイツではヒトラーと会談し、熱狂的な歓迎を受けました。
帰路、ソ連で直接スターリンと直接交渉し、昭和16年4月、日ソ中立条約締結に成功。
松岡は三国同盟に莫大な戦闘機や陸上兵力を加えたソ連との”四国協商”を構想・・・連合国に匹敵する軍事力でアメリカを圧倒しようとしていました。
4月22日、松岡は帰国。
政治家、軍人、メディアが迎える華々しい凱旋となりました。
松岡の外遊は、外交史上画期的な出来事と報じられ、近衛自ら飛行場に足を運び、松岡を出迎えました。
しかし、自分のいないところで近衛が進めた日米交渉に、松岡は警戒心を隠しませんでした。

”本提案は米国の悪意七分善意三分と解する”

日米諒解案をもとに交渉を続けるべきか、四国協商を進めるべきか・・・近衛は国の命運をかける選択に迫られました。

松岡が帰国した1941年4月22日、大本営政府連絡懇談会が開かれました。
近衛が進め、軍部も賛同していた日米諒解案に対し松岡が反発、一人退出し、その後自宅に引きこもってしまいました。
陸海軍首脳からは、松岡に対する反感が高まり、更迭してまでも諒解案を進めるべきという案も・・・
しかし、結局近衛は、松岡にアメリカとの外交を委ねることを選びました。
早いところで罷免することは難しい・・・松岡には日ソ中立条約という手土産がある・・・
5月12日、松岡は自ら手を加えた修正案をアメリカに伝えます。

”三国同盟の軍事義務に基づき、ドイツとアメリカが戦争になれば、日本は参戦する”

あくまで三国同盟の結束を誇示し、アメリカの要求を拒絶する内容でした。
6月21日、国務長官ハルは、日本を非難するオーラル・ステートメント発表。

”日本の指導者は、ナチス・ドイツへの援護に固執している”

日米諒解案に基づく交渉は頓挫しました。
さらに翌日・・・日本に想定外のことが起きます。
6月22日、ドイツが日本と中立のソ連に侵攻。
松岡が構想していた四国協商はもろくも崩れました。
それでもアメリカへの強硬姿勢を変えない松岡・・・
近衛内閣は日米交渉を続けるために松岡を排除することで一致。
7月18日、外務大臣を変えて、第三次近衛内閣発足。
しかし、近衛内閣はアメリカとの対立を決定づけてしまいます。

日本軍は、石油や語句などの資源を求めて、南部仏印に進駐します。
東南アジアは、アメリカが支援する連合軍にとって戦略拠点でした。
そこににらみを利かす進駐は、連合軍に対する挑発とも取れる行動でした。
アメリカは在米日本資産を凍結、さらに日本への石油輸出禁止を発表します。
危機感を募らせた軍部は、早期開戦を主張!!
国民やメディアの間で反米が強まり、開戦は抑えられない事態に・・・。

日米開戦・・・
”ついに、自ら大統領と会見しようという一大決心をした”
8月、近衛は野村を介して日米首脳会談を打診します。
在日アメリカ大使グルーは、近衛の心境を本国にこう伝えています。

「今や近衛はこれまでの政策は根本的に間違っていると認識している。
 そして、勇敢にも自らの命を犠牲にしてまでも、日米の和解を実現しようと決心している」

近衛のメッセージを受け取ったルーズベルトは興味を示し、アラスカでの会談を提案。
しかし・・・ハル国務長官は東南アジアに侵攻した日本に不信感を募らせ会談に消極的に・・・。
アメリカとの交渉が停滞する中、9月6日御前会議。
大きな打撃が・・・
決定した国策に軍部の意向が反映され、日米交渉の機嫌が盛り込まれました。
10月上旬までにアメリカとの交渉のめどが立たなければ、アメリカ、イギリス、オランダとの戦争に踏み切る・・・!!
近衛に残された期間は僅か1か月でした。

開戦に傾く軍部を横目に近衛はグルーと極秘に会い、会談を模索します。
この頃の近衛は・・・
コップ酒を煽り、激しく軍部を罵り・・・
陛下が反対だと言われているのに、陸軍は負ける戦争を主張する。
最早アメリカに脱出し、ルーズベルトと会談する以外にない!!
ハルはあくまで四原則の合意と、中国からの撤退を求め、譲歩することはありませんでした。
そしてこの絵が主張した日米交渉は内きりの機嫌が・・・
トップ会談による局面打開の望みは絶たれたのです。
10月16日、近衛内閣は総辞職・・・東条英機内閣が成立します。
その2か月後の12月8日・・・日本は真珠湾を攻撃し、アメリカとの4年にわたる戦争へ突入します。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

消えゆく太平洋戦争の戦跡 [ 消えゆく太平洋戦争の戦跡 編集委員会 ]

価格:1,944円
(2019/1/20 10:04時点)
感想(0件)

NHKスペシャル カラーでみる太平洋戦争 ~3年8か月・日本人の記録~ [ (ドキュメンタリー) ]

価格:3,898円
(2019/1/20 10:05時点)
感想(0件)

このページのトップヘ