日本に投下された2つの原子爆弾は、一瞬にして都市を破壊し、多くの市民の命を奪いました。
この恐るべき兵器を作り出したマンハッタン計画・・・
当時最高の科学と技術を結集した巨大プロジェクトでした。
ノーベル賞受賞者をはじめ、世界の頭脳がアメリカに・・・彼等を率いたのは、物理学者のロバート・オッペンハイマーでした。
科学者たちが挑む、原子から巨大なエネルギーを取り出す最先端の研究・・・
それは、大量殺りく兵器の製造にほかなりませんでした。
第2次世界大戦中、原子爆弾を作り出した科学者たち・・・その罪と罰に迫ります。
アメリカ・ニューメキシコ州・・・1945年7月16日、ここである歴史的な実験が行われました。
人類史上初の核実験成功・・・人間が原子爆弾という兵器を生み出した瞬間でした。
その巨大な力を作り出したのは、神でも悪魔でもない・・・
原爆の父とよばれた物理学者ロバート・オッペンハイマー。
如何にしてこの男は原子爆弾を作り出したのか・・・??
始まりは、1938年のドイツに遡ります。
2人の科学者が、核分裂を発見したのです。
物質を構成する原子を、その中核をなす原子核に中性子をぶつけると、二つに分裂することがわかりました。
この時、巨大なエネルギーが放出される・・・!!
これに科学者たちは注目しました。
そして、核分裂連鎖反応を起こせば、莫大なエネルギーを作りだせると考えました。
当時、ドイツはヒトラー率いるナチスの支配下・・・今にも戦争をはじめようとしていました。
ヒトラーが巨大なエネルギーを手に入れれば、恐ろしい兵器を作るに違いない・・・。
いち早く、危険を察知したのは科学者達でした。
ナチスから逃れてアメリカに亡命していたユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタインもその一人でした。
危機感を持った科学者の呼びかけに応え、アインシュタインはアメリカ大統領への手紙に署名しました。
”この核分裂連鎖反応は、爆弾の製造にもつながります
それも、きわめて強力な新型爆弾を製造することが考えられます”
近い将来、ドイツで原子爆弾の製造ができるようになると警告します。
そこには、アメリカにドイツより早く原爆を完成させるようにする狙いがありました。
アメリカ合衆国大統領ルーズベルトは、原子爆弾の製造を決意します。
1942年8月、ニューヨークに司令部を設置・・・マンハッタン島ブロードウェイ270番地・・・
ここに、マンハッタン計画が誕生しました。
科学部門の責任者に選ばれたのは、カリフォルニア大学で物理を教えていたオッペンハイマーでした。
学生から愛称で呼び親しまれる教師・・・
後のブラックホール発見につながる先駆的な研究で注目される理論物理学者でした。
ユダヤ系アメリカ人として生まれたオッペンハイマーは、少年時代から科学、歴史、語学と様々な学問に興味を抱き、秀でていました。
その教養を武器に、あらゆる分野に対応することができると軍の上層部が目をつけたのです。
軍が求めていた科学的大事業に必要なリーダーシップをオッペンハイマーは全て備えていました。
オッペンハイマーは、観察眼が非常に鋭く、そして頭の回転も極めて速かったのです。
要するに、原子爆弾を早急に開発するための実践的能力に抜きんでていたのです。
オッペンハイマーはまず、計画の拠点となる研究所をどこにするかを考えました。
広大なアメリカの国土から選んだのは・・・マンハッタンから3200キロ離れたニューメキシコのロスアラモスでした。
崖の上に広がる独特の地形が決め手でした。
周囲から隔絶された辺境の地・・・機密保持には最適でした。
続いて、化学者の人選です。
オッペンハイマーはまず、一流の科学者だけに狙いを絞りました。
既に「ノーベル賞を受賞していた世界的物理学者エンリコ・フェルミ・・・
後にノーベル賞を受賞する物理学会の重鎮ハンス・ベーテ。
戦後、コンピューターの基礎を築くことになる数学者フォン・ノイマン。
ビッグネームが揃うと、その名前につられるように参加者が増え、有名科学者に憧れる若手研究者も多く集まりました。
オッペンハイマーの狙い通りでした。
オッペンハイマーは、研究所設立のセールスマンでした。
誰もが研究所に入りたがるような魅力的な人選をしました。
多くの若い科学者たちは、研究所に入り、自分が目標とする科学者と働けることを望みました。
続いてオッペンハイマーは、研究環境を整えます。
原爆開発は、陸軍主導のプロジェクト・・・軍は機密漏洩を防ぐため、科学者同士の会話も制約しようとしていました。
オッペンハイマーは、軍と粘り強く交渉・・・科学者たちの研究エリアに憲兵を立ち入らせないようにしました。
オッペンハイマーは、研究所は研究所らしくあるべきだと訴えたのです。
科学者全てが自由に議論でき、全ての情報を知ることができなければならない・・・
そして、全員が自由に意見を言えなければならないと軍に認めさせたのです。
科学者とその家族たちが続々と集まり、研究所の周りには町が作られました。
オッペンハイマ―は、科学者が心おおきなく研究できるように配慮しました。
こうして、マンハッタン計画の拠点としてロスアラモス研究所が完成しました。
所長に就任したオッペンハイマーのもと、原爆開発が動き出します。
最初に取り組んだのは、ウランの核分裂を利用した爆弾・・・核分裂を起こすことができる十分な量の濃縮ウランを二つに分け、筒の両端に配置・・・それを高速でぶつかり合わせ、核分裂を引き起こして爆発させる方法です。
仕組みは単純ですが、ウラン型爆弾には欠点がありました。
原料となる濃縮ウランを生成するのに膨大な手間と費用が掛かり、兵器として量産が出来ないこと・・・。
そこで、目をつけたのがプルトニウムでした。
濃縮ウランよりも容易に作ることができ、大量生産が可能でした。
ただし、ウランと同じ工法ではうまく核分裂させることができない・・・
科学者達は、プルトニウムを急激に圧縮すれば核分裂を引き起こせるのではないかと考えました。
プルトニウムを火薬で覆い、それを爆発させて一気に圧縮する爆縮という方法です。
この時、プルトニウムに均等かつ同時に力を加えなければ失敗してしまう・・・。
これこそが、原爆開発の最大の難問でした。
オッペンハイマーは、理論と技術、それぞれの専門家に知恵を求めました。
まずは理論・・・
爆弾の威力や弾道の計算で第一人者だった数学者フォン・ノイマンに設計を委ねます。
ノイマンは、均等にプルトニウムを圧縮するには火薬の種類や配置をどうすればよいか、最適な条件を計算で割り出そうとしました。
しかし、爆発という複雑な現象を計算することは至難の技でした。
思い通りに爆発させるためには、火薬をコントロールしなければなりません。
とても骨の折れる作業でした。
卓上計算機に手で打ち込み、繰り返し計算しなければなりませんでした。
このままでは、爆縮の計算など実現不可能だとみんな考えていました。
無数にある選択肢から最適な条件を導くため、ノイマンは当時最新型のパンチカード式計算機を活用。
昼夜フル活動させます。
そして、一つの答えにたどり着きました。
それは、プルトニウムの周りを32の区画に分け、火薬と点火装置を配置。
均等かつ同時に圧縮することが、理論的に可能になりました。
この設計図を技術チームが実現していきます。
火薬を爆破させるための点火装置も32の区画それぞれに設置します。
そのすべてを同時に点火しなくてはなりません。
ノイマン率いる理論チームの計算によれば、許される誤差はわずか2/100万秒でした。
誤差が少しでも生じたら爆縮は起きません。
当時、2/100万秒というのは、きわめて短い時間でした。
そこで、高速の解析カメラが欲しいという話になりました。
32個の点火装置が同時に点火するかどうかを検証するためのものです。
オッペンハイマーは、一瞬の光を捕らえることのできる超高速カメラを手配しました。
オッペンハイマーは、時間を見つけてはあらゆる部署を回り、仕事の新着情報を確認しました。
科学者は技術者の直面している問題に耳を傾け、解決のヒントを与え、答えに導いていったのです。
彼は全てのことを知り尽くしていました。
核、原子、流体力学・・・天才だったといっても過言ではありません。
しかも、親しみやすく、話しやすい人物でした。
オッペンハイマーについて全ての科学者が口にするのは、彼のリーダーシップが無ければ1945年の夏に原爆は出来上がっていなかっただろうということです。
原爆開発は進んでいきます。
原子爆弾を生み出す核分裂の連鎖反応・・・
それは、人類が作り出した究極の暴走だ!!
頭脳と情熱の限りを尽くし、原爆開発に突き進んだ科学者たち・・・
自らもまた暴走していることに気が付いていたのか・・・??
1944年6月6日・・・連合軍は、ドイツ占領下のフランス・・・ノルマンディに上陸。
8月25日には、ヒトラーの支配下にあったパリを奪還。
ナチスドイツの敗戦が濃厚になっていきました。
さらにアメリカ軍の諜報部隊が、ドイツの原爆開発に関する重大な情報を入手します。
ドイツは原子爆弾を作ってはいませんでした。
ドイツの原爆開発を恐れて始まったマンハッタン計画・・・その他意義が失われました。
故郷ポーランドで妻をナチスに殺された物理学者ジョセフ・ロートブラット・・・
「もはや原爆を作る必要はない」
1944年の冬にただ一人ロスアラモスを去りました。
オッペンハイマーの教え子で、濃縮ウランの精製技術を研究していたロバート・ウィルソンは、悩んでいました。
原爆の開発を続けるべきか、その是非を問う集会を開きたいと考えます。
オッペンハイマーに意見を求めたところ、
「そんな集会をやれば、君は軍の連中ともめ事を起こすことになるだろう
だから、集会はやめた方が賢明だと思うね」
そんな集会を開くには、まったくふさわしくないタイミングだとオッペンハイマーは考えたのです。
計画が、加速度的に進展していたので、軍とことを荒立て開発がストップするのは避けたかったのでしょう。
軍の意向を慮るオッペンハイマーに失望し、ウィルソンは集会を決行します。
すると驚いたことに、参加者の中にオッペンハイマーの姿がりました。
そして発言の機会を求めて語り始めました。
「このままドイツとの戦争が終われば、原爆はアメリカの軍事機密となり、いつ新たな戦争で使われるかわからない
むしろ、原爆を完成させて実験を行い、世界の人々に原爆の恐ろしさを知ってもらえば、国際平和を話し合ういい機会になる」
オッペンハイマーは、原爆が世界平和に貢献すると主張し、同席した科学者をひとり残らず納得させました。
ウィルソンは、その時の様子をこう回想しています。
”荷物をまとめて研究所を去ろうなんて、誰も言い出さなかった
それどころ、あみんな取りつかれたような熱心さでまた仕事に戻っていった”
オッペンハイマーは、計画を継続するべきであると見事に納得させたのです。
彼の野望は、出来るだけ早く原爆を作ることでした。
それはプライドや野心といえるし、出世欲だったのかもしれません。
いずれにせよ、科学者がみんなオッペンハイマーの元、原爆開発に向けて一致団結したのです。
1945年5月7日、ナチス・ドイツが無条件降伏・・・原子爆弾開発の目的は消え失せました。
しかし、アメリカにはまだ敵がいました。
日本です。
太平洋戦争で激戦を繰り広げ、多くの死傷者を出していたアメリカは、日本への原爆投下を検討していました。
オッペンハイマーたちマンハッタン計画の科学者達もその議論に参加していました。
同じ頃、科学者の一部から日本への投下は望ましくないという意見が出ていました。
すでに、空襲で壊滅状態の日本に原爆を使うことが本当に必要なのか??
彼等はデモンストレーションとして原爆を砂漠や無人島で爆発させる提案をしていました。
各国の関係者に公表すれば、その脅威を理解させることができるというのです。
戦争を終わらせる手段としてデモンストレーションが効果的なのか??
議論は真っ二つに分かれました。
デモンストレーションを支持するものの主張
①実戦で使うのは、人道に反する
②アメリカが国際的な批判を受ける
原爆投下を支持するものの主張
①実戦で使用しない限り日本の戦争指導者を降伏させるのは難しい
②多くのアメリカ兵の命を救える
オッペンハイマーたちの最終報告書・・・
”我々は、戦争を終結させる手段として、デモンストレーションを提案することはできません
つまり、原爆の直接的軍事使用の他には考えられません”
結論は、日本への原子爆弾の投下でした。
そして、最後にこう付け加えられていました。
”我々が、科学者として原子力利用について考える機会を得た数少ない市民であることは間違いありません
しかし、我々には政治的、社会的、軍事的問題を解決する能力はありません”
オッペンハイマーたちは、科学者には軍事に関する特別な能力がないからと言い訳して、原爆投下の決定を事実上認めました。
何故なら、彼らは戦争に勝利し、早期に集結させることが、科学者の責任だと思っていたのです。
1945年7月・・・実践に向けた原爆の爆発実験の準備が始まりました。
トリニティー実験です。
爆発させるのは、爆縮の技術を駆使したプルトニウム型原子爆弾・・・
32個の点火装置も、2/100万秒以内の誤差で点火で来るように仕上がりました。
1945年7月16日午前5時29分45秒・・・
爆発の瞬間、真昼の太陽数個分に匹敵する閃光が、半径30キロを照らしました。
巨大な日の玉は、やがてきのこ雲となり、高度3000メートルの地点にまで上昇。
爆発音は、160キロ先まで聞こえ、200キロ先に窓ガラスも割れたといいます。
オッペンハイマーはただ一言「上手くいった」とつぶやきました。
ノイマンと同じ理論チームにいたロイ・クラウバー・・・
100キロ離れた地点から、実験を目撃しました。
「私は山頂から見ました
すさまじい閃光とともの、実験場から爆風が広がりました
そして、蒸気が幾重にも幾重にも立ち上っていきました
空全体が明るくなるのを見て、実験が成功したことを、そして、実験が現実の事なのだと悟りました
恐ろしかったです
嬉しいことなどひとつもありません
山頂からロスアラモスまで帰る途中、誰も一言も口をきかなかった」
開発を続けるべきか、迷って集会を開いたロバート・ウィルソンは、
酷いものを作ってしまったと座り込んでしまいました。
そして、オッペンハイマーは、一緒にいた科学者にこう言われました。
「オッピー、これで俺たちはみんなクソッタレだよ」
オッペンハイマーは晩年、トリニティー実験を回想しています。
”世界は前と同じでないことを私たちは悟った
ある者は笑い、ある者は泣き、ほとんどの者は押し黙った
私はヒンズー教の聖典の一説を思い起こした
今 我は死となる 世界の破壊者となる”
1945年8月6日、広島・・・ウラン型原子爆弾リトルボーイ・・・
8月9日、長崎・・・プルトニウム型原子爆弾ファットマン。
二つの爆弾が日本に投下されました。
原子爆弾の開発は、科学者にとって悪魔との契約でした。
この契約は、いったん交わしたら撤回できない・・・日本に対して核兵器を使用したことは、世界の歴史で最も重大な出来事になりました。
我々人類は、いつの日か恐ろしい代償を払うことになるでしょう。
1945年8月15日、日本のみ条件降伏によって第2次世界大戦が集結。
オッペンハイマーは、戦争を終わらせた原爆の父として一躍国家的な英雄となりました。
そして物理学研究の名門プリンストン高等研究所所長に就任。
配下には、あのアインシュタインもいました。
さらに、政治の世界でも影響力を持ち、数多くの政府機関にも名を連ね、原子力政策への発言力を高めていきました。
オッペンハイマーは、原子力の国際管理、世界各国が協力する必要があると訴えました。
”世界の他の国々と、信頼関係を築き、協力し合うことこそが、安全な未来への唯一の道なのです”
しかし、世界はすでに東西冷戦に突入していました。
1949年8月・・・ソ連が原爆開発に成功。
対向してアメリカは、1952年11月、原爆の数百倍の威力を持つ水素爆弾の開発に成功します。
オッペンハイマーは、水爆開発を批判しました。
一方で、原爆の方が優れていると主張します。
原爆を小型化すれば、船上の限られた標的だけに使える・・・そうすれば、民間人を巻き添えにしないという理由でした。
そして、米ソの核開発競争が過熱すると、今度は真正面から政府を批判しました。
”我々の状態は、一つのびんの中の二匹のサソリに似ていると言えよう
どちらも相手を殺すことができるが、自分の殺されることを覚悟しなければならない”
政府の政策に否定的な発言を繰り返したオッペンハイマー・・・
1953年、政府からソ連のスパイ容疑という濡れ衣を着せられ、公職から追放されます。
オッペンハイマーは、原爆開発で忠誠を誓ったアメリカに捨てられたのです。
アインシュタインは言いました。
「オッペンハイマーよ、君の役目は終わった 立ち去るべきだ」
しかし、彼はできませんでした。
そして、政府に裏切られたのです。
かつての国家的英雄の名は、世間から次第に忘れ去られていきました。
晩年、オッペンハイマーは日本への原爆投下を後悔していたといいます。
1967年2月18日、ロバート・オッペンハイマー死去 62歳。
咽頭がんでした。
オッペンハイマーの教え子で、原爆開発を続けるべきか集会を開いたロバート・ウィルソン。
戦後は、国立研究所の所長としてアメリカの物理学研究を牽引。
ドイツ降伏の時点で、ロスアラモスから去るべきだったと終生後悔しました。
ただ一人、ロスアラモスを離れたジョセフ・ロートブラット。
イギリスにわたり、核兵器と戦争の廃絶を訴えるパグウォッシュ会議を創設。
初代事務局長を務め、1995年ノーベル平和賞を受賞しました。
そして、アインシュタイン・・・原爆開発を促した手紙に署名したことを死ぬまで悔やんだといいます。
広島、長崎の原爆投下から70年以上・・・
世界の核兵器保有数は、現在1万5000にのぼると言われています。
現代の科学者にとって大切なこと・・・
科学自身は知識であって、自然から学んでいるだけ・・・
しかし、危ないものに使えば大変なことになる・・・
必ずプラスとマイナスがあるのです。
そこを常に見返して、科学者は間違った方向に行きそうだったらちゃんと警告しなければならない。
科学者は知識を持っていて、何が起こるかということも想像できます。
だから、それを活かしていろいろな問題について社会に対して助言をするということ・・・それが科学者の社会的責任です。
原爆の誕生を、生涯悔やんだアインシュタイン・・・
後に彼はこう語っています。
「この世には、無限なものが二つある
宇宙と人間の愚かさだ
宇宙の方は断言できないが・・・」
アメリカ・ニューメキシコにあるホワイトサンズミサイル実験場
その一角に年に2日だけ一般公開され・・・毎回数千人訪れる場所があります。
世界初の核実験・トリニティーの爆心地です。
ある世論調査で・・・アメリカ人の56%が日本への原爆投下は正しかったと答えました。
ロイ・グラウバーは、マンハッタン計画に参加したことをこう振り返ります。
「ロスアラモス研究所には、様々な科学者がいました
優秀な科学者、才能に溢れた科学者、そうでない人物も含めてね
そんな科学者たちと、素晴らしい環境で仕事を出来たことは、他の事には代えがたい日々でした
しかし、それは私にとって、常に背負いきれない重荷でもあります
あの場に居合わせた科学者は、みなそう感じていると思います」
原爆の父オッペンハイマー・・・広島、長崎の原爆投下から2年後にこんな言葉を残しています。
「物理学者は罪を知った」byオッペンハイマー
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