ジャイアントキリング・・・19世紀のヨーロッパでそれを成し遂げた男がいました。
その男の名は鉄血宰相と呼ばれたドイツのビスマルクです。
明治の日本でヨーロッパを訪れた新政府の指導者たち・・・西洋文化の視察と江戸幕府が結んだ不平等条約の改正のために・・・!!
一行は、法整備や機械文明の進んだヨーロッパを貪欲に学びました。
しかしその反面、不平等条約の改正は一向に進んでいませんでした。
彼等は対応には丁寧だが、交渉には取りつく島もありませんでした。
そんな中、有益な助言をくれた政治家が一人だけいました。

「諸君らは、各国が礼儀を持って接していると思っただろうが、それはあくまで建前にすぎず、現実は弱肉強食である」

ドイツの首相オットー・フォン・ビスマルクです。
19世紀、小さな国の集まりだったドイツを統一し、弱小国からヨーロッパ屈指の強国へと押し上げた・・・目的のためには、慣習や法律を破ることもいとわない風雲児でした。

ビスマルクが首相になったのは47歳の時でした。
しかし、若い頃のビスマルクは札付きのワルでした。
仕事そっちのけで酒と女遊びに・・・借金まみれ、おまけに誰彼構わずケンカを吹っ掛けました。
そんな男がどうして首相になったのでしょうか?

ベルリンから西へ100キロほどのシェーンハウゼン・・・
1815年、ビスマルクはこの片田舎で生まれました。
当時は現在のようなドイツ国家はなく、ビスマルクのいたプロイセン王国やオーストリアなど、大小の国が集ってドイツ連邦(約35の国と4つの自由都市からなる連邦組織)を形成し、それぞれの国を治めていました。
父フェルディナントは、プロイセン王国に仕えて地方の領地経営をする田舎貴族・ユンカーで、農業経営をしながらプロイセン国王の下で地域を治めていて、おおらかで朴訥だったといいます。

「私は父を心から愛していました」

母・ヴィルヘルミーネとは、ソリが合いません。
母は大都会ベルリンから嫁いできた政府高官の娘でした。

「母は美しく頭脳明晰でしたが、情けをほとんど持ち合わせず、厳しく冷たい人に見えました
 小さい頃は、心底母が嫌いでした」

1822年、6歳でベルリンの寄宿学校に入学し、エリート教育を施されます。
英語・フランス語を習得、成績は優秀でした。
しかし・・・1832年17歳でゲッティンゲン大学に入学すると・・・ろくに授業に出なくなります。
奇抜な服を着て、大きな犬を従え、毎日あてもなく町をうろつきます。
仲間と会えば酒を煽り、喧嘩に明け暮れます。
そんなビスマルクが唯一熱中したのが歴史学でした。
歴史の裏に、ヨーロッパの利害や思惑がいかに絡み合っているのかを読み解く授業・・・
ビスマルクは夢中になりました。

「僕はプロイセンで最大のゴロツキになるか、最も偉くなるかだ」

1935年、20歳で母の望み通り官僚として働き始めます。
しかし、単調なデスクワークにすぐに飽きてしまいます。
代わりに夢中になったのが恋愛でした。
仕事をさぼって、恋人と各地で豪遊・・・金が尽きるとギャンブルに手を出しました。
しかし、恋人と別れるころには借金と無断欠勤とでビスマルクは職場を逃げ出します。

1839年、24歳の時、ビスマルクが次に手掛けたのが農場経営でした。
父の跡継ぎとして故郷でユンカーとして働き始めます。
数年もたつと・・・一人の時は退屈だ・・・何をやっても本気にならないビスマルク・・・
しかし、1842年、27歳の時、大きな転機が訪れます。
幼なじみに連れられてキリスト教のサークルに入ります。
ここからビスマルクの人生に二つの道が切り開かれていきます。

ひとつは政治家への道・・・
このサークルには、プロイセン国王の側近たちも参加していました。
彼等の推薦でビスマルクは州議会議員になることができました。
もう一つは結婚への道・・・
サークルの中に、マリー・フォン・ダッテンという7歳下の知的な美女がいました。
ビスマルクはマリーと交際し、愛を育んでいきます。
しかし、幸せは束の間でした。
1846年、31歳の時、突然病でマリーがこの世を去ってしまいます。

「こんな親しい人を死によって失ったのは初めてだ
 かけがえのない彼女の姿を見ることも、声を聞くことも二度と出来ない
 この出来事が、まだ現実だとは思えない」

ところがその翌月、ビスマルクは驚くべき行動に出ます。
マリーの親友ヨハナ・フォン・プトカマーにプロポーズしたのです。
ヨハナは内向きで、社交的というよりは家庭の人でした。
信仰と伝統を重んじて非常に地味な女性でした。
マリーの死をきっかけに、二人の関係は急に密になったのです。
ビスマルクからすれば、自分が落ち着ける場所を見出したのです。

1847年、32歳でヨハナと結婚。
議員として政治に没頭していきます。

1851年、36歳で外交官に抜擢されます。
1852年3月、外交官になったばかりのビスマルクが意気揚々と向かったのがドイツ連邦議会でした。
しかし、そこで目にしたのはプロイセンの二倍ほどもある大国オーストリアの強大な権威でした。
オーストリアのシェーンブルン宮殿・・・当時、宮殿の主はハプスブルク家でした。
ヨーロッパの国々と婚姻を結んで影響力を持ち、さらに長い歴史を誇る神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねたという名門中の名門です。
プロイセンはドイツ連邦の中ではナンバー2の国で、つねに格下扱いされ屈辱を受けてきました。
ビスマルクはそこで大胆な行動に出ます。

議会で葉巻を吸うことができるのは、連邦議会会長のオーストリア代表だけ・・・という慣例がありました。
ところが、ビスマルクは葉巻を取り出しおもむろに議長の前で吸い出したのです。
議長は呆気にとられたといいます。
オーストリアの秘密文書には、ビスマルクについてこう書かれています。

”時には紳士らしくするものの本性は傲慢で卑怯、過剰なうぬぼれに大ぼら吹き
 オーストリアへの嫉妬と憎しみでいっぱいで、常に戦いを挑んでくる”

外交官となって11年経った1862年47歳・・・
ビスマルクはついに首相に就任しました。
プロイセン国王・ヴィルヘルム1世の意向だったといいます。
その背景には、国王と議会の対立がありました。
当時のプロイセン議会は、個人の自由を尊重し、国王に否定的な自由主義議員が多数を占めていました。
そのため、国王と議会が対立し、政治が麻痺していたのです。
そこでヴィルヘルム1世は、常々国王に忠誠を誓っていたビスマルクに目をつけたのです。

議員になりたての1847年、32歳の時・・・ビスマルクは既にこんな演説をしています。

「プロイセン君主は、神からの恵によって、絶対的な王権を所有しているのです」

君主主義に対する忠誠、保守的なところがあります。
そこが一番大きかったのです。
しかし、何をしでかすかわからない・・・!!

プロイセン王国の首相となったビスマルク・・・ある野望に燃えていました。
プロイセンをドイツ連邦を代表する大国として周りの国々に認めさせることです。
しかし、そのためには同じドイツ連邦でナンバー1のオーストリアが邪魔になる・・・

首相の座について1週間後、ビスマルクは後世に残る演説をします。

「時代の大問題を決着させるのは、演説や多数決によってではない
 鉄と血によってだ!!」

武器を示す鉄と兵士を意味する血・・・
プロイセンを発展させ、強国に導く手段は軍備拡張であると明確に打ち出したのです。
ところが、大きな問題がありました。
それは議会・・・当時の議会は、君主制を嫌う自由主義の議員が多数を占めており、国王に忠実なビスマルクに猛反発します。
ビスマルクの出した政府予算案は、議会で否決されてしまいます。
しかし、ビスマルクはそんなことでは諦めない・・・
議会の了承を得ないまま軍備を拡張します。
これは、当時の憲法の不備に付け込んだ裏技でした。
プロイセン憲法には、”政府予算の成立には国王と議会の合意が必要”とあります。
合意せず予算が成立しなかった場合のルールがなかったのです。
予算不成立の後、ビスマルクが国王の承認を得て、予算を使っても憲法違反として罰することができないのです。
さらにビスマルクは邪魔をする自由主義委員の力を削ぐために、普通選挙を導入します。
それまで貴族が大多数を占めていた議会に労働者や農民など様々な階級の人間が入ってくることで、彼らの影響力を奪おうという狙いでした。
彼が大衆民主主義を考えて、その制度を取り入れたかというとそうではなく・・・
まだ選挙権を持っていない農民層などの保守的な大衆は、おのずと君主の政府を支持するだろうと・・・その計算があって、普通選挙制度を導入したのです。

首相に就任してから、ビスマルクはそれまで以上に猛烈に働き、部下にもそれを求めました。
早起きが苦手なビスマルクは、夜になるにつれて調子が上がったといわれています。
そのため、眠りにつくのが朝の7時になることもありました。
直属の部下は、その無茶苦茶な生活に振り回されていましたが、それでもビスマルクを慕っていたといいます。

そんなビスマルクにとって、唯一ホッとできる場所は、妻ヨハナのいる家庭でした。
公務で家を空けることの多かったビスマルクは、ヨハナは三人の子供を育てながら夫を支えました。
ビスマルクは、ヨハナにこんな手紙を送っています。

「僕があなたと結婚したのは、あなたを愛するためさ
 あなたと故郷の暖炉以上に大切で愛しいものはないよ」

ビスマルクは、工業化による国力増大にも力を入れました。
豊富な石炭のとれたライン川流域には、製鉄会社や軍需産業のクルップ社などが誕生しました。
そして、各地を結ぶ鉄道網に着々と整備されていきました。
首相に就任してから4年後の1866年、50歳の時、国力の増強に手ごたえを感じたビスマルクは、いよいよ他国に目を向けました。
ビスマルクは、国王ヴィルヘルム1世の御前会議でこう進言します。

「プロイセンこそ、ドイツの頂点に立つ正当な権利を持っています
 それに対してオーストリアは、その嫉妬心ゆえ指導する能力もないのにプロイセンにドイツの指導権を許すまいとしてきたのです」byビスマルク

その後、フランクフルトで開かれたドイツ連邦議会・・・ビスマルクは人々の度肝を抜く改革案を提出させます。
ドイツ連邦から議長国のオーストリアを除外するという案でした。
当然オーストリアは戦争も辞さない構えで猛反発!!
両国の対立は避けられなくなりました。
こうして1866年、51歳の時に普墺戦争勃発!!
オーストリア側の兵は40万、それに対しプロイセンの勢力は32万でした。
しかし、ビスマルクには勝算がありました。
それは、プロイセン軍にその人ありと謳われた参謀長モルトケの存在です。
ビスマルクより15歳年上のモルトケは、参謀長として長年プロイセン軍を指揮してきました。
めったに人を褒めないビスマルクですら、モルトケをこう表しています。

「彼は非常に珍しい人物だ
 常に準備ができていて、絶対的に信頼できる
 その上、心の底まで冷静だ」

開戦から1か月後、勝敗を左右する重要な戦いが起きます。
1866年7月3日、ケーニヒグレーツの戦いです。
この時、モルトケは誰も思いつかなかった斬新な作戦でオーストリアの数をひっくり返します。
カギとなるのがドイツの鉄道網でした。
モルトケは、開戦前に鉄道部を新設、ドイツ各地から戦場となりそうな各地に5本の線路をひかせていたのです。
モルトケの作戦は・・・
部隊を3つに分けて、鉄道を使って送り込み、オーストリアの守りの要ケーニヒグレーツ要塞を三方向から攻撃する・・・25万もの兵士や、ひとつ数トンにもなる大砲を、あっという間に敵陣に送り込むという当時の常識からは考えられない戦法でした。
戦いが始まるとプロイセン軍は三方向からオーストリア軍に襲い掛かり撃破、さらに、旧式の銃で重点突撃してくる敵には最新鋭の銃で返り討ち!!
戦いは、わずか半日で決着しました。
オーストリア軍の戦死者は10000以上、プロイセン軍はおよそ2000・・・
プロイセンの圧勝でした。
勝利の報告に歓喜した国王ヴィルヘルム1世は、この勢いに乗って戦争を続けようとします。
しかし、ビスマルクは国王を説得し、勝利から間もなくオーストリアと講和を結びました。
他のヨーロッパ諸国が介入してくることを警戒したのです。
大戦前、ビスマルクはイタリア、フランスに密かに交渉を行っています。
戦争に介入しないように根回ししていたのですが・・・戦いが長引けば、どうなるかはわからない・・・。
ビスマルクは、他の国がどう動くのかを常に警戒していました。
もし、他国からの調停や介入を認めると、せっかく獲得したものを、成し遂げようとしたものを、制限されてしまう恐れもあったのです。
なるべく早く戦争を終わらせて、講和を結びたかったのです。

1867年、52歳の時にオーストリアを排除し、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦が誕生しました。
この実績を前にして、これまで反発していた議会もビスマルクを支持、一枚岩となったプロイセンは、更なる野望に突き進んでいきます。
ビスマルク52歳の時でした。

オーストリアに勝利したのち、ビスマルクは次なる野望に燃えていました。
ドイツ統一です。

「もしドイツが今世紀中に、その国民的目標を達成するとすれば、それだけで偉大なことだと思う
 それが5年、いや10年のうちに達成できたとすれば、神の恵みとしか言いようがない」

しかし、この野望は、5年も待たずに達成されることとなります。

オーストリアに勝利した1866年、ビスマルクはバルト海のリューゲン島で3か月の休養を取りました。
この時、激務とストレスが原因で、神経痛を患っていたのです。
そんな状態でも、ビスマルクは暴飲暴食を繰り返し、医者の警告を無視します。
医者に止められていた大好きなコニャック入りソーダをコッソリ妻のヨハナに持ってこさせたといいます。
休養十分で、公務に復帰したビスマルクは、悲願のドイツ統一には乗り越えなければならない二つの壁がありました。
一つ目の壁は、南ドイツ諸国(4か国)の抵抗。
元々この地域はプロテスタントが主流の北ドイツと違ってカトリックが主流でした。
特に最も多いバイエルン王国が統一に反対していました。
もう一つの壁が、隣国フランスのナポレオン3世です。
南ドイツ諸国ともめれば、付け入るスキを与えかねない・・・。
フランスを何らかの方法で黙らせておくことが必要です。
1870年、ビスマルクにこの問題を一気に解決する絶好の機会が訪れました。
それは、ドイツでもフランスでもなくスペインの次期国王をめぐる争いでした。
その候補の一人がレオポルト!!
プロイセンの分家に当たる家柄でした。
ビスマルクはレオポルトを応援します。
これに危機感を持ったのが、ナポレオン3世です。
レオポルトがスペインの王になった場合、フランスの東と南をプロイセン王家が固めることになってしまう・・・
戦争が起きれば、挟み撃ちにあう危険な状況です。
そこでナポレオン3世は、プロイセン国王ヴィルヘルム1世に対し、戦争も辞さない態度で猛抗議!!
フランスの圧力の前に、プロイセンは動揺・・・ということは全くなく、それはビスマルクの想定内でした。
彼のシナリオ通りに事は進行していました。
フランスに揺さぶりをかける何らかのけん制をしようとしたときに、「スペイン王位継承問題」は”使える”と、判断したのです。
しかし、ナポレオン3世の要求は、レオポルトの候補辞退だけにとどまりませんでした。
「今後一切、プロイセンと関係する家柄からのスペイン国王候補を承認するな」と迫ったのです。
これに対しビスマルクはナポレオンを挑発し、フランスの方から戦争を仕掛けるべく手を打ちました。

ビスマルクは、フランスからの要求の電報を、新聞に発表します。
しかしそれは、嘘にならない範囲で巧妙に書き換えられていました。
フランスがプロイセンに不当な要求をしているという印象が際立つように、短くまとめられていました。
さらにその要求を、国王は毅然とはねのけ、今後の面会を拒否したことも強調されました。
生地が出るや否やプロイセンの国民はフランスに猛反発、南ドイツの人々でさえプロイセン国王を支持しました。
開戦が秒読みになった時、ビスマルクはモルトケに言いました。

「準備はよろしいかな?」
「もちろん!!」

1870年7月19日普仏戦争勃発
モルトケはまたも鉄道を活用し、軍を変幻自在に移動させます。
そのスピードも、輸送できる兵力も、オーストリアとの戦争のわずか4年で3倍となっていました。
さらにモルトケは、最新鋭のクルップ砲を戦場に投入!!
フランス軍の大砲が青銅で作られていたのに対し、クルップ砲は鋼鉄製、火力も飛距離も圧倒的でした。
プロイセン軍は、ナポレオン3世を捕虜にするという大戦果を挙げるのです。
こうして戦局を有利に進めながらも、ビスマルクはドイツ統一のため南ドイツ諸国との交渉を続けていました。
ビスマルクがこだわったのが、南ドイツ4か国の要請を受ける形でドイツ統一するという形でした。
併合を力任せにやってしまうと北ドイツ連邦の君主国はどうなるかという問題が発生します。
あくまでも彼が目指していたのは、君主国の連合による形のドイツだったのです。
そうすれば、プロイセン国王を温存する形でドイツ統一が実現できる!!

プロイセンによるドイツ統一に最後まで抵抗したのはバイエルン国王・ルードヴィヒ2世でした。
芸術に造詣が深く、多くの名建築を残した国王は、激しい浪費癖でも有名な君主でした。
その性格に目をつけたビスマルクは、ルードヴィヒ2世に多額の援助を約束します。
資金繰りに困っていたルードヴィヒ2世は遂に折れ、統一に同意します。
ビスマルクの援助によって、ルードヴィヒ2世が建築したのが、ドイツを代表する城・ノイシュヴァンシュタイン城です。
その美しい景観、内装を見ようと、今も年間150万人以上の観光客が訪れ、南ドイツを代表する名所となりました。

1871年1月18日、ドイツ皇帝即位式を決行。
場所はなんとベルサイユ宮殿!!
ここにプロイセン軍の大本営が置かれていました。
南ドイツとの合意を取り付けて2か月・・・情勢が変わらないうちに、ドイツ統一の既成事実を作ろうと急いでこの日に決めました。
しかし、即位式の直前、またもビスマルクを悩ませる問題が・・・

「私はドイツ皇帝になどなりたくない!!」byヴィルヘルム1世

ドイツ統一を望んだ張本人が、「プロイセン国王」の称号にこだわり、「ドイツ皇帝」を渋ったのです。
ビスマルクは何とか説得し、式場へ連れていきます。
こうしてドイツを統一する皇帝が即位。
ヨーロッパの大国に引けを取らない国が誕生しました。

「この皇帝出産は難産だった
 国王というものは、気まぐれな欲望を抱くものだ
 私は爆弾になって建物全体を粉々にしてやろうと何度思ったことか」byビスマルク

皇帝の即位から4か月後、ビスマルクはフランスと講和を結び、戦争を終えます。
首相に就任してから9年・・・56歳の時でした。

オーストリアとフランスに勝利し、ドイツ統一を果たした2年後の1873年に戦勝記念塔が完成、除幕式はビスマルクによって行われました。
ビスマルクは、生まれたばかりのドイツを近代国家にさせようと次々と政策を行います。
ドイツの最高裁判所や、中央銀行を設立、貨幣をマルクに統一し、経済や法律の基盤を整備していきます。
戦争に負けたフランスから莫大な賠償金を得たこともあり景気は絶好調、工業もますます発展します。
統一から20年後には、鉱工業の生産高がほぼ倍増します。
ドイツは世界有数の工業大国へとなっていきます。

そしてビスマルクは外交でも手腕を発揮します。
オーストリア=ハンガリー、ロシアなどの国々と複雑に同盟を結びました。
後にビスマルク体制と呼ばれる同盟で、各国の勢力がバランスを保つ仕組みを作り上げました。
1873年、そんなドイツを訪れた日本人がいます。
明治新政府の岩倉使節団です。
彼等を歓迎したビスマルクはこう語りかけます。

「諸君らは、各国が礼儀を持って接していると思っただろうが、それはあくまで建前にすぎず、現実は弱肉強食である」

この時、明治政府のリーダー大久保利通が西郷隆盛に送った手紙が残されています。

「ビスマルク モルトケ大先生を生んだドイツこそ、我が理想とする国である」by大久保利通

この頃には、ビスマルクの息子も政界に入り、父を支えるようになっていました。
しかし、ドイツ統一から17年後、1888年、72歳の時ビスマルクの政治生命に暗い影が・・・
皇帝ヴィルヘルム1世が90歳で亡くなりました。
3か月後に即位したのは孫のヴィルヘルム2世・・・
73歳のビスマルクと若き29歳のヴィルヘルム2世では、考えが合いません・・・
2人の関係は日に日に悪くなっていきます。

「10年間にわたり実直かつおそれることなく仕事を続けたら、敵はたくさん増えるのに古い友人を失ってばかりで新たな友人もできません」byビスマルク

1890年3月、74歳の時、遂にビスマルクは皇帝に辞表を提出・・・27年務めた首相から引退しました。
それから4年後の1894年、ビスマルクを生涯支えていた妻ヨハナ死去・・・70歳でした。

「私に残っていたもの それはヨハナであり48年間を振り返れば心に満ちてくるのは感謝だけだった」

4年後、1898年7月30日、ビスマルクは83歳でその生涯を終えます。

2012年、そのビスマルクの肉声が見つかりました。
アメリカの発明家エジソンが、ビスマルクが74歳の時に声を録音させたものです。
唯一残るビスマルクの声は、息子への助言でした。

「仕事しろ 食事しろ 何事もほどほどにしなさい
 特に酒には気を付けるように
 父親より息子への助言だ」

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