歴史人別冊 世界史人 ヒトラーとナチスの真実 (ベストムックシリーズ・27)

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1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に就任しました。
ユダヤの人々にとって苦難の12年間が始まった日です。
ヒトラーの著書「我が闘争」には、ユダヤ人に対する憎悪が書かれています。
この本を読んでいたであろうドイツ系ユダヤ人・・・
自分達の存在を消そうとする政権の誕生をどう思っていたのでしょうか?

ヒトラーは、職業公務員再建法やニュルンベルク法でドイツ系ユダヤ人の生存権を奪っていきます。
ひび強まっていく差別・・・。

1930年代、反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れていたドイツ・・・。
ナチス・ドイツのベルリンで、ユダヤ人小学生たちの避難場所となったのが小学校でした。
若い女教師が立ち向かいます。

1933年首相に就任したヒトラーは、独裁体制をひいていきます。
反ユダヤ人をスローガンとしていました。
ヒトラーが出てくるまでは、ユダヤ人たちはごく普通にドイツ人として生活していました。
当時ベルリンでは、2万7000人のユダヤ人の子供たちが学校に通っていました。

普通に生活していたのに・・・
ヒトラー政権の下、忌み嫌われていきます。
反ユダヤ主義は、学校にまで持ち込まれ、ナチズムが刷り込まれていきます。
ユダヤ人生徒に対するいじめ、差別が激しくなり・・・
それは、教師も同じでした。
レオノラ・ゴールドシュミットは、11年の経験を持つ教師。
1933年4月・・・職業公務員再建法によって、政治的に好ましくない公務員は、即刻解雇できるようになりました。
好ましくない存在・・・ユダヤ人のことでした。

解雇されてしまったレオノラ。
しかし、鳴き寝入りはしません。
公立が雇ってくれないなら、私立を作ろう!!
と、行動を開始します。

当時の状況で、ユダヤ人の学校を作ることは極めて困難でした。
ナチスは、ユダヤ人教師が教えてもいい人数を、一度に5人までとしていました。
この規定をうまく利用したのです。
しかし、レオノラと夫・エルンストは・・・多くの教員で教えれば学校ができる??

学校設立に動いていたレオノラ・・・
その間も着々と独裁体制を固めていくヒトラー。
1937年、宣伝映画を作るために、アメリカ人の映画製作者ジュリアン・ブライアンを雇い入れました。
が・・・ユダヤ人に関することや軍事力に関することの撮影は禁止されました。
ブライアンは、労働者、建物、高速道路・・・しかし、ナチスがひた隠しにする現実に気が付いていくのです。

そして・・・本当は何がこの国で起こっているのか?暴こうとします。
ナチスの掲げる反ユダヤ主義は教室の子供たちにも強まっていきます。
教師は、ナチスを浸透させるための道具に変貌し、子供たちはユダヤ人はドイツ人より人種的に劣ると教え込まれます。
そうした中・・・レオノラは、ユダヤ人の子供たちが安心して安心して通える学校を!!と、奮闘していました。

何代も遡って家系を調べられ、ユダヤ人の子は教室の後ろに分けられていきます。
レオノラは、乗り越えなくてはならない壁にぶち当たっていきます。
膨大な資金、学校に相応しい建物・・・。
1934年レオノラの親戚がナチス親衛隊に殺害され、レオノラに莫大な財産が入りました。
遺産の一部のベルリンの邸宅を使っての学校ですが・・・
許可はなかなか下りません。
当局の規制をかいくぐり・・・
1935年申請が許可され、ゴールドシュミット・スクール開校。
解雇された5人の教師による25人の生徒の学校が始まり・・・
そこには本当の自由がありました。

しかし、迫害はひどくなっていきます。
1935年ナチスはニュルンベルク法という反ユダヤ主義の法律を作りました。
ユダヤ人は、国民としての権利を奪われます。

レオノラは、将来子供たちが国外に逃げることを想定し英語教育をします。
ほとんどの授業は英語で行われ・・・移住に備えられました。

イギリス大使館から教師を呼びます。
自分の学校を、イギリス・ケンブリッジ大学受験の認定校にするように動き出します。
教え子たちが国外の学校に行きやすくなるように。。。

ドイツ教育省の高官ヴァルター・ヒューグナーを頼ります。
かつての恩師に嘆願書を送ります。
ヒューグナーは、ナチスに睨まれるのを承知で協力してくれ。。。
1937年・・・ドイツでも数少ないケンブリッジ大学受験の認定校となるのです。
お蔭で、他のユダヤ人学校のように閉鎖されずに済んだのです。
ドイツ以外でも生きていけるように・・・!!

しかし、学校の外ではナチスの暴挙が・・・!!
ユダヤ人迫害の事実は隠せなくなってきました。
その頃、ジュリアン・ブライアンは、事実を暴く撮影を始めていました。

「ユダヤ人お断りの看板」
「ユダヤ人は黄色のベンチ」

1937年夏・・・7週間かけてドイツを廻り・・・
ゴールドシュミット校にも来て撮影しています。
しかし・・・このオアシスも長続きすることはありませんでした。

ブライアンは、自らとった映像を世界に公表しようとします。
撮りためたフィルムを国外に出さなければ・・・

ブライアンは、自分が撮った映像が、ナチスにとって大打撃になることを知っていました。
アメリカに帰国したブライアンは、記録映画を作り始めました。
1938年「ナチスドイツの内側」という映画が公開され、何百万人の観客を動員しましたが・・・
歴史はすぐには動かなかったのです。
アメリカの世論を動かそうとしたのに・・・
その間にも、事態はますます悪化していきます。
1938年3月、ヒトラー率いるドイツが隣国オーストリアを併合!!

ユダヤ人への迫害があからさまに行われるようになっていきます。
そしてドイツのユダヤ人にも・・・。
1938年11月9日「水晶の夜」事件によって、ユダヤに関係のある建物が襲撃されます。
3万人ものユダヤ人男性が強制収容所に送られました。

そして学校も危険に晒されていました。
襲撃されたのは、全てユダヤ人の所有する建物でした。
たった一晩で、何百もの建物が襲撃されたのです。
どうすれば学校を守れる??

建物をイギリスの所有物だということにして、難を逃れます。

そのうち・・・町では男性はみんな逮捕され、強制収容所に送られていきました。
そしてその危険は、レオノラの夫・エルンストにも・・・
水晶の夜の次の日・・・ゲシュタポが家の近くまでやってきていました。
二人が家を出た直後にやってきて・・・対応したのは彼らの娘でした。

娘が時間を稼いでいる間に、イギリスのビザを取得し逃れることができました。
ドイツのユダヤ人たちは、もはや生き残るためには国外脱出しかない・・・!!と、思い始めていました。

1938年には、もう、国を出ることすら難しくなっていました。
経済恐慌・・・反ユダヤ主義は、各地に飛び火していたのです。
アメリカも受け入れには消極的でした。
生徒たちを国外に・・・!!
イギリスに渡った夫と考えます。
イギリスにゴールドシュミット校の分校を作ろう!!
ユダヤ人を支持しているイギリスの団体に援助を求めます。
が・・・いい返事は得られません。

あらゆるつてを頼ったのに、資金は集まりません。
多くのユダヤ人たちが連行されていきます。
一刻の猶予もない!!

イギリスにあるユダヤ人支援団体が、ユダヤ人の子供の移住を後押ししていました。
9000人以上の子供たちが親元を離れ、イギリスに渡っていきました。

1939年7月レオノラがドイツ出国!!
9月1日、イギリスでゴールドシュミット校が開校。
その2日後、イギリスはドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦がはじまったのです。
幸いにも当時の生徒たちのほとんどはホロコーストを免れることができました。

レオノラは、その後もイギリスで教師を続け・・・
1983年に85歳で亡くなりました。
多くの生徒たちは、今も彼女を誇りに思っています。

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