日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:レオン・ロッシュ

1867年、フランス・パリ・・・画期的なイベントが開催されました。
パリ万国博覧会です。
世界中の国々が特産品や最先端技術を展示する一大イベント・・・
初参加の日本は、徳川幕府使節団を派遣します。
代表を務めたのは、将軍・慶喜の弟・昭武でした。
慶喜自ら昭武を自分の名代に選び、フランスでの外交を託したのです。
慶喜が昭武に送ったものが残されています。
無精が戦の時に身に着ける陣羽織です。
その壮麗な造り・・・昭武のフランスでの活躍を願う慶喜の気持ちが伝わってきます。
使節団が託されたのは、華やかな万博外交だけではありませんでした。
徳川慶喜から直々に幕府の命運を握る密命を帯びていました。

600万ドル借款計画・・・フランスより借り入れた資金で、武器や軍艦を購入し、薩長を討とうという計画です。
しかし、使節団は予想外の事態に・・・

1867年、フランス・パリで開催された画期的なイベント・パリ万国博覧会
世界中の国々が特産品や最先端の技術を展示する一大イベントです。
参加国は42か国。7か月の開催期間中に、世界中から1500万人もの来場者がありました。
パリ万博は、フランスをはじめ各国から最先端の工業力のお披露目の場でした。
中でも異彩を放った展示場は、日本の茶屋でした。
万博に初参加した異国・日本は、ひときわ注目を浴びました。
日本から来た芸者が煙草をのみ、茶を振る舞う・・・エキゾチックな女性たちの姿は観光客に人気を博し、一日の来場者は1300人を超えたといいます。
パリ万博には、徳川幕府使節団が派遣されました。
代表は、将軍・徳川慶喜の弟・昭武、15歳。
さらに、慶喜の出身地水戸の藩士たち、幕臣たちと、総勢33人が派遣されました。
当時28歳だった渋沢栄一も会計係兼書記として参加しています。
彼等は、徳川慶喜の命を受け、幕府の行く末を担う密命を帯びていました。

1866年、第二次長州征討で、幕府は長州藩に事実上の敗北を喫します。
敗因は、長州側との圧倒的な武力の差でした。
イギリスと友好関係にあった薩摩が、長州にイギリスの武器を提供していました。
薩長に対抗するため、軍事力増強に迫られます。
その陣頭指揮にあたったのが、外国奉行や勘定奉行の要職を歴任した小栗上野介です。
小栗は、数年前から軍事力増強の計画を着々と進めていました。
神奈川県横須賀にあるアメリカ海軍・横須賀基地・・・小栗が幕府海軍の拠点としてここに世界有数の大造船所を計画したのです。
小栗が作らせた第1号ドック・・・全長136m、今もアメリカ軍の施設として使われています。
当時の設計図には、3つのドック、製鉄所の建設など示されています。
建設費は、フランスからの借款240万ドルでした。
さらに、幕府陸軍の強化にも乗り出します。
フランスから軍事顧問団を呼び、組織、兵器の近代化を進めます。
小栗の対薩長計画を支援したのは、駐日フランス公使のレオン・ロッシュでした。
その背景には、フランスの危機的状況がありました。
当時、フランスで蚕の疫病が蔓延、生糸の生産量が80%減少していました。
ヨーロッパの絹工場の中心地だったフランスは、大打撃を受けます。
フランスの生糸の生産が80%壊滅、新しい供給国を探さなければならなかったのです。
ロッシュは、リヨン・・・フランスの絹産業の中心地の出身でした。
幕府と接近し、日本に生糸の安定的な供給を要望しました。
当時、日本の生糸は、良質なことで欧米から高い評価を受けていました。
ロッシュは、日本の生糸の独占輸入を目論み、幕府を支援したのです。
幕府の再興を目指す小栗と、生糸の独占を目論むロッシュの思惑が密かに更なる計画を練ります。
この計画について、勝海舟が書き残しています。
小栗は、フランスの協力を得て、薩長を討つ計画を進めていました。

小栗は、政治の背景に軍事力があることをわかっていました。
軍事力を背景にして、国家の利益を追求する・・・幕府も取り入れた方がいいのではないか?と考えていました。
1866年8月、小栗上野介、フランスと契約。

その内容は、
”フランスより600万ドルを借款し、その資金を使って武器や軍艦を買い付ける”というものでした。
600万ドル借款すると、どれだけ軍備が増強できるのでしょうか?
当時の軍監はおよそ9万ドル、600万ドルあれば66隻購入できます。
対する当時の薩摩郡の軍監は6隻・・・武力で薩摩藩を圧倒することができます。
さらに契約書には、窓口としてフランスに新たな会社を設立すると書かれていました。
小栗とロッシュに計画は、フランスに会社を設立し、ここで投資を募り、600万ドルを集め、幕府に貸し付けます。
幕府はこの資金で、フランスから武器や軍艦を購入、一方、フランスには、生糸の独占輸入の権利を与えるといったものでした。
その計画はその後、軍制改革を進める15代将軍・徳川慶喜に引き継がれることとなります。

慶喜は、イギリスが薩摩や長州を支援していると知っていました。
「夷(フランス)をもって夷(イギリス)を制す」と、フランスに傾倒していきます。
駐日公使レオン・ロッシュは、外務大臣にこう報告しています。

「日本政府の保護のもとに置かれる会社の有利は絶大なものがあるから、フランスにとっての日本はイギリスにとっての清、言い換えればフランスの市場となるだろう」byロッシュ

英仏の経済戦争を背景に進められる小栗の幕府再生計画・・・しかし、この段階では、あくまでも契約にすぎません。
そして、パリ万博使節団に出された密命こそが、パリで600万f¥ドルの借款を具体的に成立させることだったのです。

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1867年3月、徳川幕府使節団、パリに到着。
万博参加の主な目的は、
①倒幕の動きが盛んになる中、日本国の主権が幕府にあることをヨーロッパ諸国に示す
②600万ドルの借款の成立

使節団はまず、ナポレオン3世に謁見、沿道は東洋からやってきた一行を一目見ようと見物人で埋め尽くされました。
衣冠束帯に身を包んだ昭武は、各国の国王や貴族から大いに注目されたといいます。
意気揚々と万博会場に向かう使節団、そこで一行は、驚くべき事態に直面します。
日本の展示スペースに、堂々と薩摩の紋が掲げられていたのです。
そこには、薩摩の展示品が所狭しと並べられていました。
さらに、幕府が巨費を投じて制作した等身大の武者人形の前に、あたかも薩摩藩の展示物かのように薩摩の紋が置かれていました。
日本に割り当てられたスペースの1/3が薩摩のスペースとなっていたのです。
さらに、薩摩藩は、フランスの要人に配る勲章を用意していました。
そこには、”薩摩琉球国”と記されています。
薩摩藩は、あたかも幕府から独立した国であるかのように万博に参加していました。
幕府使節団は、薩摩藩に猛抗議し、侃々諤々の議論を繰り広げます。
交渉の場にいた書記官・田辺太一は、その顛末を記しています。
田辺たちの必死の交渉により、薩摩側から次のような譲歩を勝ち取ります。

”薩摩藩は琉球島王の呼称を削り、日本の国旗を掲げる”

しかし、薩摩藩は藩をどのように名乗るかにおいて、次のように主張しました。
薩摩藩は「グーベルマン太守薩摩」と名乗る・・・使節団は、グーベルマンを藩という意味と解釈し、これならば薩摩藩は独立国とは思われないだろうと申し出を受け入れます。
しかし、これが致命的な失策となりました。
会談の数日後、フランスの新聞は一斉にこう書きたてました。

”徳川将軍は日本の皇帝ではなく薩摩や他の大名と同等である”

グーベルマンは英語でガバメント=政府という意味でした。
つまり、薩摩藩は、独立した政府であり幕府は日本を統治していないと受け止められたのです。
日本国の主権が幕府にあることをヨーロッパ諸国に示すという万博参加の第一の目的は大きく揺らぎます。
それはまた秘密の任務・600万ドル借款計画を困難にする者でもありました。
日本には、幕府とさらに薩摩太守政府もあると・・・”日本は一元的に幕府が支配している国ではない”と位置付けてしまったのです。
凍死する人にとって、「どこが一番優良なのか?」と、リスクになります。
600万ドル借款計画にとって、非常に由々しき問題でした。

イギリスに興味深い文書が残されていました。
当時、イギリス外務省に送られた報告書には・・・
”もし600万ドルの借款とフランスの貿易独占会社が成功すれば、イギリスに有害な結果となる”
報告者の名は、アレキサンダー・シーボルト!!
アレキサンダー・シーボルトは、長崎に来日したフォン・シーボルトの息子です。
日本のイギリス公使館で通訳として働いていたシーボルトは、フランス語も堪能であったため、幕府使節団の通訳を務めていました。
イギリスは、使節団にスパイを送り込み、そこで得た情報を薩摩藩に伝えていたのです。
小栗の600万ドル借款計画は、薩摩藩とイギリスの妨害を前に、その成立が難しくなりました。

開国の先覚者 小栗上野介 (PP選書) [ 蜷川新 ]
開国の先覚者 小栗上野介 (PP選書) [ 蜷川新 ]

薩摩藩の妨害工策により暗雲が立ち込めた600万ドル借款計画・・・そこに追い打ちをかける事態が・・・!!
横浜居留地で発行されていた英字新聞”ジャパンタイムズ”に極秘だった600万ドル借款計画が暴露されたのです。

”フランスは日本と生糸の独占契約を計画している”

この情報は、イギリス本国に伝わり、英国議会で問題となりました。

”フランスが計画している日本の生糸の独占は、自由な貿易を阻害する”

1860年、英仏通商条約締結

互いに自由な貿易を保証していました。
イギリスは直ちにフランスに抗議します。
この頃、フランスは外交政策の転換期にありました。
前年の1866年、フランスはメキシコ遠征に失敗し、撤退を開始していました。
これによって、フランスは対外政策を切り替え、各国との協調を重視するムスティエ外務大臣が新たに就任。
ムスティエ外務大臣は、在日フランス公使レオン・ロッシュに訓令を発します。

「貴下が仏国貿易のために独占権を制定せんとしたる行為に対し、駐仏イギリス大使は直接予のもとに来てこの不満を訴えた
 競争国に非難の口実を与えないように留意することが、いかに我が国の利益に重大であるかを改めて言うを要せざるべし」byムスティエ

600万ドル借款のために不可欠だった日本の生糸の独占にストップがかかったのです。
そして、パリの幕府使節団から、江戸に驚くべき報告がもたらされます。

”600万ドルの借款はにわかに相破れ候”

600万ドル借款計画は、完全に暗礁に乗り上げました。
報告された3か月前、1867年4月・・・交渉の難航を察知したロッシュは、意見書を作成し、軍制改革を推し進める将軍・慶喜に進言します。
そこには、600万ドル借款の起死回生の一手が書かれていました。
生糸の独占の権利を与える代わりに蝦夷地の鉱山開発権をフランスに与えようというのです。

予想だにしない提案を受けた慶喜・・・
1856年8月、幕府は箱館の鉱山資源を調査、見込みアリと情報を得ていました。

フランスに蝦夷地の鉱山開発権を与える??与えない??どうする??

1867年5月、徳川慶喜はひとりの幕臣・栗本鋤雲を呼び出します。
鋤雲は、小栗上野介の盟友で、フランス語に堪能は幕府きってのフランス通でした。
慶喜が鋤雲に指示した内容は・・・
①日本の政治的主権者は徳川将軍にあるとフランスや欧州諸国に認識させよ
②新たに蝦夷地鉱山開発権を提案して、600万ドル借款を成立させよ
でした。

慶喜は、蝦夷地の鉱山開発権を与えるを選択したのです。

1867年8月、鋤雲は、パリに到着。
早速問題の解決に乗り出します。
この時、徳川昭武一行は、パリを離れ、各国訪問の旅に出ていました。
一行は、スイス→オランダ→ベルギー→イタリア→イギリスを訪問、各国の首脳たちと会い友好関係を築いていきます。
各国で王族と同等のもてなしを受け、イギリスの新聞は昭武を”プリンス徳川”と報じました。
使節団からの報告によれば、博覧会場の誹謗は、煙のように消え、昭武の名が世に称され、尊崇されるようになったのです。
ヨーロッパ各国は、日本の政治的主権者は徳川将軍にあると認識を改めたのです。
一方で、鋤雲は、幾度となくフランス外務省を訪れます。
蝦夷地の鉱山開発権を新たに提案し、600万ドル借款の交渉を行ったのです。
しかし、結果ははかばかしくなく・・・

”御借銀 蝦夷地など 小生にお任せ候御用向 未だ混沌未分 三か月の淹留”

フランスは、鉱山の専門家です。
銅や銀の埋蔵量がどのくらいあるのか、そこまで調べたかったのです。
細かい資料がないから信頼できない・・・
1868年1月2日、幕府使節団一行と、鋤雲に、幕府から2か月遅れで知らせが届きます。

1867年10月14日、大政奉還・・・将軍・慶喜が、政権の返上を天皇に申し出たのです。
さらに、情勢は大きく動きます。
1868年1月、鳥羽・伏見の戦い・・・旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍は、京都近郊で激突!!
しかし、最新鋭の武器を有する新政府軍は、旧幕府軍を圧倒!!
江戸幕府は終焉を迎えたのです。
600万ドル借款契約の計画者・小栗上野介は江戸を離れ、知行地・上州権田村で静かな生活を送ります。
しかし・・・新政府軍に反逆の疑いありとされ、非業の死を遂げました。

今からおよそ150年前、パリを舞台に密かに繰り広げられた600万ドル借款計画・・・鋤雲たちの必死の努力もむなしく、計画は日の目を見ませんでした。
しかし、国際政治の現場を目の当りにした鋤雲や使節団は、その苦い経験を後の時代に伝えていくことになります。

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文庫 富と幸せを生む知恵 ドラッカーも心酔した名実業家の信条「青淵百話」 (実業之日本社文庫) [ 渋沢 栄一 ]
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1905年、日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破しました。
その時の司令長官・東郷平八郎は、戦後、「仁義礼智信」の文字をある幕臣の子孫に送りました。
あて先は、小栗・・・書を送るにあたり、東郷はこう述べました。

「小栗上野介殿による横須賀製鉄所建造が、日本海海戦の完全な勝利にどれほど役立ったかしれません。」

横須賀製鉄所は1865年、徳川幕府によって建造が始まった日本初の近代的造船所です。
横須賀アメリカ海軍基地に、その一部が残っています。
1号ドライドック・・・日本海海戦の勝利には、ここで建造、整備された艦艇が大きな役割を果たしました。
その建設を手掛けたのが、小栗上野介です。

群馬県高崎市にある東善寺・・・
小栗を象徴する品が残されています。
何の変哲もない一本のネジ・・・
アメリカのワシントン海軍造船所を見学した時に、ひと箱もらってきたものです。
蒸気機関を用いて、大量に作っている工業ネジ、みんな規格が同じ・・・。
アメリカの近代工学、文明のシンボルです。
日本もこういうものを作りたい・・・!!

日本の近代化をネジに託して持ち帰った小栗・・・
その先見性はどのようにして生まれたのでしょうか?
1827年、小栗上野介は旗本の嫡男として生まれます。
幼い小栗は、エリート教育を受けます。
小栗は僅か7歳で、漢学者・安積艮斎の塾に入門しています。
艮斎は、非常に開明的な人で、著書「洋外紀略」には次のような一節があります。

「国を守るには大船や大砲を数多く作るしかない
 諸外国は、その費用を交易で賄っている」と。

まさに時代は変革期にありました。
1853年黒船来航。
圧倒的な武力を前に、日本は、1854年日米和親条約の締結に踏み切ります。
艮斎から学んだことが、小栗の目の前に・・・!!

1859年、33歳を向かえた小栗は歴史の表舞台に・・・!!
日米修好通商条約批准の使節に抜擢されたのです。
役職は、使節一行を監督する目付・・・。
その才能を認めた井伊直弼直々の抜擢だったといいます。
使節を乗せたアメリカの軍艦ポーハタン号は、太平洋を横断し、サンフランシスコを経由して東海岸へ・・・およそ2か月の航海の後、首都ワシントンへ・・・!!
大統領に国書を奉呈します。
現地の新聞はその様子を大々的に報じています。
しかし、果たすべき仕事はまだあります。
小栗は出発前に、井伊大老から使命を帯びていました。

「我が国にとって海軍創設は急務。
 海軍工廠を見学したい。」と。

条約批准の8日後・・・1860年4月5日、ワシントン海軍造船所を見学。
最新の造船技術は、小栗の目にどのように映ったのでしょうか?

”銅や鉄製の部品が、すべて蒸気機関を用いて作られている”

とりわけ小栗たちを驚かせたのが、巨大なスチームハンマーでした。
そこではおよそ3トンものハンマーが、蒸気の力で持ち上がり、巨大な鉄の棒をひと打ちで切断していました。
1860年5月13日、ニューヨークを出港。
日本への帰路につきました。
日本を外国から守るため、近代的な造船所を建設する・・・小栗の中に、確かな目標ができました。

しかし、帰国した小栗を待ち受けていたのは、驚くべき報せでした。
1860年3月3日に起きていました。
大老井伊直弼が、尊皇攘夷を掲げる薩摩や水戸の浪士たちによって暗殺されたのです。
桜田門外の変です。
自らをアメリカへ派遣した大老の死・・・夢を描いて帰国した小栗・・・その行く手は突如暗転しました。

アメリカから帰国して一月・・・外国奉行に抜擢されます。
処が翌年事件が起きます。
1861年2月、ロシア軍艦対馬を占拠。
小栗はすぐに現場に急行します。
しかし、ロシア船の船長は、幕府を交渉相手と認めず、対馬藩を交渉相手と直接交渉を主張します。
交渉は行き詰まり、江戸に戻る小栗・・・
一説には、この時小栗は、対馬を幕府領としてロシアと交渉することを考えていたといいます。
しかし、幕閣はこの案を却下。
東アジアに大きな勢力を持っていたイギリスに、対馬に軍艦を派遣してもらい、ロシア軍艦を退去させたのです。
この外交の裏側には、外国通として知られた勝海舟がいたと言われています。

「日本が正面から単独で、ロシアと談判したものなら、なかなかうんとは承知しなかっただろう」by勝海舟

1861年7月、小栗は責任をとって外国奉行を辞任
軍事力無くして国家は成り立たないことを痛感することとなりました。
しかし、幕閣はその才能を放ってはおきませんでした。
1862年、勘定奉行に就任。
これを機に造船所建設を推し進めようとした小栗・・・
しかし、その道は平たんではありませんでした。
当時、幕府内では莫大な金のかかる造船所建設に疑問の声が上がっていました。

「船は外国から買えば良い」

というのです。

「海軍を運用する人材育成に、イギリスは300年かかっている
 日本では500年かかる
 造船所建設よりそちらを優先すべきである」by勝海舟

「我が国はすでに、外国から購入した船を何隻も保有している
 破損すれば修理する場所が必要ではないか?」by小栗

短期的な目で見れば、外国から船を買った方が早い・・・
しかし、メンテナンスせず、ずっと動くかと言ったらそうではない。
外洋を走る船には貝殻が付き、船体が腐らないように塗装をするのです。
そのためには、船を造るだけではなく、実際に毎日修理できる場所が必要なのです。

1864年、幕府は造船所建設に動きます。
しかし、大きな課題が残っていました。
高度な技術と莫大な資金です。
当時の日本に単独での建設は不可能でした。
幕府には、当初アメリカに援助を求める計画がありました。
ところが・・・1861年南北戦争勃発!!
小栗は新たなパートナーを探す必要が出てきました。
虎視眈々と日本を狙う列強・・・!!
もし選択を誤れば、植民地化につながる恐れがあります。

イギリスにする・・・??
海軍に置いてイギリスは世界に冠たる国で、一早く蒸気機関を実用化し、最先端の造船技術は他国の追随を許さない・・・。
しかし、イギリスのアジア進出は、極めて暴力的!!
立ち寄った香港では道の真ん中はイギリス人が歩き、清国人は端に追いやられていた・・・。
造船所建設には多額の費用が要る・・・もし、支払いが滞れば、イギリスに国の富を根こそぎ奪われる事態になりかねない・・・。
そして、イギリスは最近薩摩と接近している・・・!!
この頃薩摩藩は、幕府政治の改革に動き出していました。
政治工作でそれを実現しようとしたが果たせず、方針を転換・・・
イギリスから最新式の武器を購入し、軍隊の近代化を進めていました。
イギリスがその後押しをしているとすれば・・・幕府の要請にこたえてくれるだろうか・・・??

オランダは・・・??
古くから付き合いがあり、海軍建設(長崎海軍伝習所)にあたり頼っていた国だ。
教官はオランダから派遣された士官が勤めていました。
オランダに、技術者肥田浜五郎を派遣してもいます。
目的は、造船の機会の注文と造船所建造方法伝習です。
幕府の一部では、オランダでの造船所建設が具体的に上がっていました。
しかし、近年その国力は衰えていると聞く・・・。
造船所建設という大プロジェクトの全面的援助が可能だろうか・・・??

フランスは・・・??
あまり付き合いのないフランス・
その頃、日本とフランスの関係は転機を迎えていました。
新たな公使レオン・ロッシュが来日、イギリスの植民地政策を非難、幕閣の好意を得ていました。
フランスは正義の国だと宣伝していました。
ロッシュには、日本で手に入れたいものがありました。
それは・・・蚕。
当時、絹織物は、フランスの輸出産業の主力で、伝染病の大流行で蚕が絶滅に瀕していました。
ロッシュは幕府の許しを得て、種紙を購入し本国に送っています。

「日本政府は我が国に皇位を持っています。
 毎日私は、フランスが日本政府に与えた幸福な影響を確認しています。」byロッシュ

友好的な関係を築きつつあるフランスとなら植民地の危険性はないかもしれない・・・。
それにフランスは、イギリスに負けじと造船技術の近代化に努めていると聞く・・・
そこにかけてみる価値はあるのでは・・・??
イギリスか?オランダか?フランスか・・・??

小栗が選んだのはフランスでした。
何が決め手となったのでしょうか?

”小栗上野介がフランス公使ロッシュに要請した造船所建設担当者について回答があった
 ヴェルニーという者が適任だという”

ヴェルニーは、清国で造船所建設の経験もある、フランス海軍きっての技術者です。
そのヴェルニーを日本に派遣し、工事の指揮を執らせると、ロッシュが確約したのです。
ヴェルニーは、契約を待たずに来日し、測量しました。
大型船でも侵入可能な横須賀に白羽の矢を立て設計に取り掛かりました。

ドックから備品の工場まで・・・小栗がアメリカで目の当たりにした造船所が日本で実現しようとしていました。

小栗が勘定奉行として直面していたのが、建設費年間100万ドルです。
ひっ迫する幕府財政の中、何を財源とすべきか・・・??
目をつけたのは生糸でした。
フランスとの契約との何か月も前から、根回しに動く小栗・・・そこで、生糸に気付きます。
生糸の安定供給・・・輸出によって外貨を得、造船所のための機材を買うことができる・・・!!
そしてその、生糸を現物で納めさせ、幕府が海外で売れば、大きな利益が得られるのです。
幕府は動き始めます。

”幕府の改印のない生糸や種紙の売買は一切許さない”

小栗は、幕府による生糸独占に舵を切ったのです。
さらにこの年、幕閣に組合商法の設立を提案しています。
計画は・・・??
幕府が改印制度を使って日本中の生糸を独占します。
さらに、日本とフランスで大商人に組合を作らせ、独占して生糸貿易を行います。
日本とフランスで生糸貿易を独占し、その費用を造船所建設に使おうと考えたのです。
造船所の建設は順調に・・・
しかし、国内情勢は悪化の一途をたどり始めました。

1866年第二次長州征伐
薩摩の仲介でイギリスから最新兵器を購入した長州を相手に、幕府軍は大敗北を喫します。
幕府の威信は充足に低下していきます。
この時、長州との講和講習に臨む勝海舟に対して小栗は・・・
「幕府の下に郡県制度を立てようと思う」
すべての藩を廃止し、将軍が任命した知事が地方を治める中央集権制です。
小栗は、徳川中心の近代国家を構想していました。
明治維新の2年前でした。

1868年鳥羽・伏見の戦い
薩摩長州の新政府軍と旧幕府軍との間に戦いが勃発!!
旧幕府軍は敗北を喫します。
登城した小栗上野介は慶喜に、徹底抗戦を訴えます。
慶喜の袖をとってまで秘策を・・・!!
”東海道を上ってくる新政府軍を幕府陸軍で迎撃
 孤立した敵を、幕府の誇る最新鋭の軍艦で海から砲撃する”

新政府軍の参謀・大村益次郎は・・・
「あの策を用いられれば我が軍は全滅していたかもしれない」と言っています。
しかし、すでに恭順を決めていた慶喜は、小栗の策を却下し、勘定奉行から罷免します。
そして恭順派の勝が・・・江戸城無血開城をするのです。
徳川中心の近代化の夢はついえたのです。

1868年3月1日、小栗は、知行地・権田村に退去
移住から間もなく、この地に屋敷の普請を始めます。
敷地の一角には・・・お茶の苗木を江戸から運んで植えています。
当時お茶は、生糸と並んで重要な輸出品目でした。
この地でも、国をとませる方法を考えていたのです。

国の基本は国民、国民が豊かになって落ち着いた暮らしができるということが大事なのです。
しかし、4月22日、新政府軍から付近の諸藩に一通の命令書が届きます。
小栗上野介は権田村に陣屋を厳重に構え、砲台を築いている・・・反逆の謀略は明らか・・・
手に余るようであれば、誅滅すべし!!

4月5日、小栗は逮捕され、翌日付近の河原で斬首されます。
享年41歳でした。

小栗が手掛けた造船所建設は新政府に受け継がれ、1871年横須賀製鉄所完成!!
製鉄所とは当時の用語で造船所を含む海軍工廠を指します。
後の日本海海戦でバルチック艦隊を沈めた駆逐艦や、魚雷艇の多くがこのドックで建造補習されたといいます。
小栗が造船所建設にあたって同僚に語った言葉が残されています。

「この造船所ができれば たとえ幕府を売り出すとしても、 土蔵付き売り家の栄誉が残る」by小栗上野介

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英雄たちの選択 第2弾・勝海舟さんです。

1868年新政府は、5万という軍勢を江戸へ向かわせました。
慶喜討伐の為に・・・
この、徳川家絶体絶命を任されたのが、勝海舟でした。

勝は、官軍の西郷の直談判、江戸城を明渡し、戦争を回避することに成功します。
江戸城無血開城です。

しかし・・・勝にはもう一つの選択肢があったと言います。
それは、官軍に対する徹底抗戦・・・戦いでした。

徹底抗戦か?交渉による講和か?
直前まで悩み続けていたようです。
この難局をどのように切り抜けたのでしょうか?

幕府海軍の指導にあたっていた勝・・・横浜に台場を築きます。
そこは、横浜の外国人居留地の前でした。
外国との一触即発を思ってのことでした。
ペリー来航以来、西欧列強は幕府・諸藩に対して、利権を拡大しようと干渉を強めてきていました。

各地で攘夷運動が激化!!
列強に戦いを挑むものの、屈服せざるを得ませんでした。
この危機感が、無血開城へのヒントとなります。

1867年10月幕末動乱の時代は、大きな転換を迎えます。
15代将軍・慶喜が・・・大政奉還を行ったのです。
260年続いた徳川幕府に終止符が打たれ、徳川家は一大名となりました。

しかし・・・薩摩藩・長州藩は・・・新政府を樹立し、徳川家のお取り潰しへと動き出しました。
1868年1月3日鳥羽伏見の戦い勃発。
新政府軍と旧幕府軍が武力衝突!!!
旧幕府軍は大敗を喫し、慶喜は江戸に逃げ帰ってしまいました。

そして・・・1月7日、慶喜の追討命令が出されました。
”大逆無道”と断罪し、徳川家の廃絶、慶喜を討つ!!
徳川家、絶体絶命の危機・・・ここに全権を握るのが、勝海舟です。
陸海軍の全権を握る立場にありました。
どうしたら・・・この危機を乗り越えられるのか???

徳川の家臣たちは混乱するばかり・・・
江戸城内では、連日激論が!!
多くは、徹底抗戦を!!というものでした。

このまま抗戦論でいくと・・・江戸が火の海に!!
100万人の命が危機に陥ることに!!
これをどうしても避けたかった勝。。。

戦いが長期化すれば・・・
中国のように・・・
当時、清国」では、太平天国の乱がおこり、国内が大混乱となっていました。
そして・・・外国の食い物にされてしまう!!
戦いの長期化による外国勢力の介入を阻止する必要もありました。

最悪の場合・・・インドや中国のように・・・各国に干渉され植民地のようになってしまう!!

駐日イギリス公使、ハリー・パークス・・・
薩摩と急速に接近し、死の商人となっていきます。
対日貿易でイギリスに後れを取っていたフランスは、レオン・ロッシュ。
旧幕府を支持。。。
新政府と旧幕府の戦いは、英仏の代理戦争になる可能性を含んでいたのです。
日本の独立は!!??

①徳川家を守る
②江戸を戦火から守る
③内戦による外国の介入を防ぐ

これが、勝に任された3つの大きな使命でした。
矛盾したこの3つの使命をどのようにして乗り越えたのでしょう。

勝が亡くなる3年前に書いた屏風には・・・


幕末の動乱は、大波のように激しいもので
この国全体を暗雲が覆っていた
天は私を試すように国難に直面させた
私は買会代えきれないほどの問題に混乱し、
心を痛めることも多かった。


勝にはどんな道があったのでしょうか?

徹底抗戦策の決め手は、圧倒的な海軍力でした。
新政府がかき集めた軍艦は5隻。
対する旧幕府軍は、その倍もありました。

中でも最強を誇っていたのが開陽丸でした。
最新鋭の大砲が装備されていました。
清見関で待ち受けて、海から砲撃する!!
さらに、大阪湾に派遣して大坂・京都を脅かす!!

しかし、国が真っ二つに分かれるかも???
徳川家と江戸を守ろうとすると、国益を守ることができない・・・!!


講和策は・・・
交渉の余地は西郷のみ!!

交渉が上手くいけば・・・
戦わない・徳川家も安泰・諸外国につけいれられない
街も守れ・・・万々歳!!

しかし、敵も味方も拳を振り上げたまま・・・
交渉が成り立つ???

1868年2月慶喜討伐軍が京都を出発しました。
総勢5万・・・錦の御旗を掲げて・・・
そこには、参謀・西郷隆盛の姿がありました。。。

勝は・・・和戦どちらも対応できるようにしていたようです。
しかし、向こうが強行的に江戸城を占拠するという立場で来るなら・・・
迎え撃つしかない・・・と、思っていました。

旧幕府は優位に交渉を進めるために・・・
1868年2月12日慶喜・寛永寺に謹慎。恭順の意を示します。
その一方で、駿府にまで来ていた西郷に新政府を非難する書簡を送っています。
その内容は・・・官軍の進攻中止を要求するとともに、軍艦で抗戦すると脅迫したのです。

西郷は???

新政府軍は、東海道・東山道・北陸道を江戸に向かっていました。
3月には、先鋒隊が続々と江戸へ・・・。
3月15日には江戸城総攻撃が決定されていたのです。
3月9日に・・・
勝は、山岡鉄舟を西郷の元へ派遣し、交渉をさせます。
しかし・・・西郷から出されたのは、厳しい降伏条件でした。
その内容は・・・
①慶喜は備前藩預かり
②江戸城 武器 軍艦の没収
③徳川家臣の処罰
でした。

外様の備前藩に預けるということは・・・慶喜の処刑を意味していました。
徳川家の実質取り潰しも示唆していたのです。

これを満たさなければ・・・江戸城総攻撃を行う!!

勝は・・・
軍艦だけではなく、ゲリラ戦も決意していたようです。
帳簿には・・・250両の焼き討ち手当というものが残っています。
官軍総攻撃の際は・・・町火消しなどに江戸を焼き払うように依頼していました。
焦土作戦です・・・。

この作戦の真意は???
これは、イギリスの外圧を引き出させる・・・ためだったのかもしれません。
イギリスは、薩摩に武器を売っていながら横浜で貿易を行っていました。
その利益が一番大事で・・・。
大都市江戸が壊滅するのは・・・大打撃だったのです。

3月13日西郷の元に、パークスの意見が届けられます。
その内容は・・・
「徳川が恭順を示している以上、慶喜への厳罰は国際法上有り得ない」
薩摩藩の重要な後ろ盾だったイギリス・・・
そのイギリスの言葉に衝撃を受ける西郷。。。

勝が用意した焦土作戦が、イギリスをひきずりだしたのです。

そして・・・西郷に直談判を申し入れます。
それは、総攻撃前日の3月14日・・・。

折れない勝に・・・
「いろいろ難しい議論もあるでしょうが、 
 私が一身にかけてお引き受けします。」

勝の策が、功を奏した瞬間でした。
ここにおいて・・・ようやく徹底抗戦というカードを捨てることができたのです。

4月11日江戸城無血開城。
血を見ることなく新政府軍に明け渡されたのでした。

慶喜は故郷の水戸に隠居。
家臣も罰を免れ・・・
武器・軍艦も残され・・・徳川の存続が認められたのでした。

平和裏に行われた無血開城・・・
しかし、勝の事を裏切りと罵る人もいました。
上野では彰義隊が新政府軍と衝突、旧幕府艦隊を率いた榎本武揚たちは軍艦で江戸を発ち北海道へ・・・
五稜郭に立て籠もりました。

新政府軍は・・・東北諸藩に強硬な姿勢を崩さす・・・
内戦は、東北を中心に展開していきます。。。
特に会津藩は、大きな被害を出したのでした。




新政府にとっても、江戸が無傷の状態で手に入ったことは非常に好都合でした。
明治政府は、首都機能を引き継ぎ・・・新しい国家を造って行ったのです。

東北がなぜ・・・??
それは。。。黙認。。。
官軍側が勝った形にする・・・何らかの犠牲・・・象徴が必要だったのかもしれません。

しかし、勝の江戸城無血開城・・・動乱から一転、素早く維新を展開させた一因となったことは間違いありません。
katu

明治12年に集められた活躍した重臣たちの写真・・・明治天皇のアルバムには・・・役職についていない勝海舟も載っています。 それは、新政府樹立に貢献したことが認められたと言われています。

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