1867年、フランス・パリ・・・画期的なイベントが開催されました。
パリ万国博覧会です。
世界中の国々が特産品や最先端技術を展示する一大イベント・・・
初参加の日本は、徳川幕府使節団を派遣します。
代表を務めたのは、将軍・慶喜の弟・昭武でした。
慶喜自ら昭武を自分の名代に選び、フランスでの外交を託したのです。
慶喜が昭武に送ったものが残されています。
無精が戦の時に身に着ける陣羽織です。
その壮麗な造り・・・昭武のフランスでの活躍を願う慶喜の気持ちが伝わってきます。
使節団が託されたのは、華やかな万博外交だけではありませんでした。
徳川慶喜から直々に幕府の命運を握る密命を帯びていました。
600万ドル借款計画・・・フランスより借り入れた資金で、武器や軍艦を購入し、薩長を討とうという計画です。
しかし、使節団は予想外の事態に・・・
1867年、フランス・パリで開催された画期的なイベント・パリ万国博覧会
世界中の国々が特産品や最先端の技術を展示する一大イベントです。
参加国は42か国。7か月の開催期間中に、世界中から1500万人もの来場者がありました。
パリ万博は、フランスをはじめ各国から最先端の工業力のお披露目の場でした。
中でも異彩を放った展示場は、日本の茶屋でした。
万博に初参加した異国・日本は、ひときわ注目を浴びました。
日本から来た芸者が煙草をのみ、茶を振る舞う・・・エキゾチックな女性たちの姿は観光客に人気を博し、一日の来場者は1300人を超えたといいます。
パリ万博には、徳川幕府使節団が派遣されました。
代表は、将軍・徳川慶喜の弟・昭武、15歳。
さらに、慶喜の出身地水戸の藩士たち、幕臣たちと、総勢33人が派遣されました。
当時28歳だった渋沢栄一も会計係兼書記として参加しています。
彼等は、徳川慶喜の命を受け、幕府の行く末を担う密命を帯びていました。
1866年、第二次長州征討で、幕府は長州藩に事実上の敗北を喫します。
敗因は、長州側との圧倒的な武力の差でした。
イギリスと友好関係にあった薩摩が、長州にイギリスの武器を提供していました。
薩長に対抗するため、軍事力増強に迫られます。
その陣頭指揮にあたったのが、外国奉行や勘定奉行の要職を歴任した小栗上野介です。
小栗は、数年前から軍事力増強の計画を着々と進めていました。
神奈川県横須賀にあるアメリカ海軍・横須賀基地・・・小栗が幕府海軍の拠点としてここに世界有数の大造船所を計画したのです。
小栗が作らせた第1号ドック・・・全長136m、今もアメリカ軍の施設として使われています。
当時の設計図には、3つのドック、製鉄所の建設など示されています。
建設費は、フランスからの借款240万ドルでした。
さらに、幕府陸軍の強化にも乗り出します。
フランスから軍事顧問団を呼び、組織、兵器の近代化を進めます。
小栗の対薩長計画を支援したのは、駐日フランス公使のレオン・ロッシュでした。
その背景には、フランスの危機的状況がありました。
当時、フランスで蚕の疫病が蔓延、生糸の生産量が80%減少していました。
ヨーロッパの絹工場の中心地だったフランスは、大打撃を受けます。
フランスの生糸の生産が80%壊滅、新しい供給国を探さなければならなかったのです。
ロッシュは、リヨン・・・フランスの絹産業の中心地の出身でした。
幕府と接近し、日本に生糸の安定的な供給を要望しました。
当時、日本の生糸は、良質なことで欧米から高い評価を受けていました。
ロッシュは、日本の生糸の独占輸入を目論み、幕府を支援したのです。
幕府の再興を目指す小栗と、生糸の独占を目論むロッシュの思惑が密かに更なる計画を練ります。
この計画について、勝海舟が書き残しています。
小栗は、フランスの協力を得て、薩長を討つ計画を進めていました。
小栗は、政治の背景に軍事力があることをわかっていました。
軍事力を背景にして、国家の利益を追求する・・・幕府も取り入れた方がいいのではないか?と考えていました。
1866年8月、小栗上野介、フランスと契約。
その内容は、
”フランスより600万ドルを借款し、その資金を使って武器や軍艦を買い付ける”というものでした。
600万ドル借款すると、どれだけ軍備が増強できるのでしょうか?
当時の軍監はおよそ9万ドル、600万ドルあれば66隻購入できます。
対する当時の薩摩郡の軍監は6隻・・・武力で薩摩藩を圧倒することができます。
さらに契約書には、窓口としてフランスに新たな会社を設立すると書かれていました。
小栗とロッシュに計画は、フランスに会社を設立し、ここで投資を募り、600万ドルを集め、幕府に貸し付けます。
幕府はこの資金で、フランスから武器や軍艦を購入、一方、フランスには、生糸の独占輸入の権利を与えるといったものでした。
その計画はその後、軍制改革を進める15代将軍・徳川慶喜に引き継がれることとなります。
慶喜は、イギリスが薩摩や長州を支援していると知っていました。
「夷(フランス)をもって夷(イギリス)を制す」と、フランスに傾倒していきます。
駐日公使レオン・ロッシュは、外務大臣にこう報告しています。
「日本政府の保護のもとに置かれる会社の有利は絶大なものがあるから、フランスにとっての日本はイギリスにとっての清、言い換えればフランスの市場となるだろう」byロッシュ
英仏の経済戦争を背景に進められる小栗の幕府再生計画・・・しかし、この段階では、あくまでも契約にすぎません。
そして、パリ万博使節団に出された密命こそが、パリで600万f¥ドルの借款を具体的に成立させることだったのです。
渋沢栄一 才能を活かし、お金を活かし、人を活かす 実業の父が教える「人生繁栄の法則」 (知的生きかた文庫) [ 大下 英治 ]
1867年3月、徳川幕府使節団、パリに到着。
万博参加の主な目的は、
①倒幕の動きが盛んになる中、日本国の主権が幕府にあることをヨーロッパ諸国に示す
②600万ドルの借款の成立
使節団はまず、ナポレオン3世に謁見、沿道は東洋からやってきた一行を一目見ようと見物人で埋め尽くされました。
衣冠束帯に身を包んだ昭武は、各国の国王や貴族から大いに注目されたといいます。
意気揚々と万博会場に向かう使節団、そこで一行は、驚くべき事態に直面します。
日本の展示スペースに、堂々と薩摩の紋が掲げられていたのです。
そこには、薩摩の展示品が所狭しと並べられていました。
さらに、幕府が巨費を投じて制作した等身大の武者人形の前に、あたかも薩摩藩の展示物かのように薩摩の紋が置かれていました。
日本に割り当てられたスペースの1/3が薩摩のスペースとなっていたのです。
さらに、薩摩藩は、フランスの要人に配る勲章を用意していました。
そこには、”薩摩琉球国”と記されています。
薩摩藩は、あたかも幕府から独立した国であるかのように万博に参加していました。
幕府使節団は、薩摩藩に猛抗議し、侃々諤々の議論を繰り広げます。
交渉の場にいた書記官・田辺太一は、その顛末を記しています。
田辺たちの必死の交渉により、薩摩側から次のような譲歩を勝ち取ります。
”薩摩藩は琉球島王の呼称を削り、日本の国旗を掲げる”
しかし、薩摩藩は藩をどのように名乗るかにおいて、次のように主張しました。
薩摩藩は「グーベルマン太守薩摩」と名乗る・・・使節団は、グーベルマンを藩という意味と解釈し、これならば薩摩藩は独立国とは思われないだろうと申し出を受け入れます。
しかし、これが致命的な失策となりました。
会談の数日後、フランスの新聞は一斉にこう書きたてました。
”徳川将軍は日本の皇帝ではなく薩摩や他の大名と同等である”
グーベルマンは英語でガバメント=政府という意味でした。
つまり、薩摩藩は、独立した政府であり幕府は日本を統治していないと受け止められたのです。
日本国の主権が幕府にあることをヨーロッパ諸国に示すという万博参加の第一の目的は大きく揺らぎます。
それはまた秘密の任務・600万ドル借款計画を困難にする者でもありました。
日本には、幕府とさらに薩摩太守政府もあると・・・”日本は一元的に幕府が支配している国ではない”と位置付けてしまったのです。
凍死する人にとって、「どこが一番優良なのか?」と、リスクになります。
600万ドル借款計画にとって、非常に由々しき問題でした。
イギリスに興味深い文書が残されていました。
当時、イギリス外務省に送られた報告書には・・・
”もし600万ドルの借款とフランスの貿易独占会社が成功すれば、イギリスに有害な結果となる”
報告者の名は、アレキサンダー・シーボルト!!
アレキサンダー・シーボルトは、長崎に来日したフォン・シーボルトの息子です。
日本のイギリス公使館で通訳として働いていたシーボルトは、フランス語も堪能であったため、幕府使節団の通訳を務めていました。
イギリスは、使節団にスパイを送り込み、そこで得た情報を薩摩藩に伝えていたのです。
小栗の600万ドル借款計画は、薩摩藩とイギリスの妨害を前に、その成立が難しくなりました。
開国の先覚者 小栗上野介 (PP選書) [ 蜷川新 ]
薩摩藩の妨害工策により暗雲が立ち込めた600万ドル借款計画・・・そこに追い打ちをかける事態が・・・!!
横浜居留地で発行されていた英字新聞”ジャパンタイムズ”に極秘だった600万ドル借款計画が暴露されたのです。
”フランスは日本と生糸の独占契約を計画している”
この情報は、イギリス本国に伝わり、英国議会で問題となりました。
”フランスが計画している日本の生糸の独占は、自由な貿易を阻害する”
1860年、英仏通商条約締結
互いに自由な貿易を保証していました。
イギリスは直ちにフランスに抗議します。
この頃、フランスは外交政策の転換期にありました。
前年の1866年、フランスはメキシコ遠征に失敗し、撤退を開始していました。
これによって、フランスは対外政策を切り替え、各国との協調を重視するムスティエ外務大臣が新たに就任。
ムスティエ外務大臣は、在日フランス公使レオン・ロッシュに訓令を発します。
「貴下が仏国貿易のために独占権を制定せんとしたる行為に対し、駐仏イギリス大使は直接予のもとに来てこの不満を訴えた
競争国に非難の口実を与えないように留意することが、いかに我が国の利益に重大であるかを改めて言うを要せざるべし」byムスティエ
600万ドル借款のために不可欠だった日本の生糸の独占にストップがかかったのです。
そして、パリの幕府使節団から、江戸に驚くべき報告がもたらされます。
”600万ドルの借款はにわかに相破れ候”
600万ドル借款計画は、完全に暗礁に乗り上げました。
報告された3か月前、1867年4月・・・交渉の難航を察知したロッシュは、意見書を作成し、軍制改革を推し進める将軍・慶喜に進言します。
そこには、600万ドル借款の起死回生の一手が書かれていました。
生糸の独占の権利を与える代わりに蝦夷地の鉱山開発権をフランスに与えようというのです。
予想だにしない提案を受けた慶喜・・・
1856年8月、幕府は箱館の鉱山資源を調査、見込みアリと情報を得ていました。
フランスに蝦夷地の鉱山開発権を与える??与えない??どうする??
1867年5月、徳川慶喜はひとりの幕臣・栗本鋤雲を呼び出します。
鋤雲は、小栗上野介の盟友で、フランス語に堪能は幕府きってのフランス通でした。
慶喜が鋤雲に指示した内容は・・・
①日本の政治的主権者は徳川将軍にあるとフランスや欧州諸国に認識させよ
②新たに蝦夷地鉱山開発権を提案して、600万ドル借款を成立させよ
でした。
慶喜は、蝦夷地の鉱山開発権を与えるを選択したのです。
1867年8月、鋤雲は、パリに到着。
早速問題の解決に乗り出します。
この時、徳川昭武一行は、パリを離れ、各国訪問の旅に出ていました。
一行は、スイス→オランダ→ベルギー→イタリア→イギリスを訪問、各国の首脳たちと会い友好関係を築いていきます。
各国で王族と同等のもてなしを受け、イギリスの新聞は昭武を”プリンス徳川”と報じました。
使節団からの報告によれば、博覧会場の誹謗は、煙のように消え、昭武の名が世に称され、尊崇されるようになったのです。
ヨーロッパ各国は、日本の政治的主権者は徳川将軍にあると認識を改めたのです。
一方で、鋤雲は、幾度となくフランス外務省を訪れます。
蝦夷地の鉱山開発権を新たに提案し、600万ドル借款の交渉を行ったのです。
しかし、結果ははかばかしくなく・・・
”御借銀 蝦夷地など 小生にお任せ候御用向 未だ混沌未分 三か月の淹留”
フランスは、鉱山の専門家です。
銅や銀の埋蔵量がどのくらいあるのか、そこまで調べたかったのです。
細かい資料がないから信頼できない・・・
1868年1月2日、幕府使節団一行と、鋤雲に、幕府から2か月遅れで知らせが届きます。
1867年10月14日、大政奉還・・・将軍・慶喜が、政権の返上を天皇に申し出たのです。
さらに、情勢は大きく動きます。
1868年1月、鳥羽・伏見の戦い・・・旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍は、京都近郊で激突!!
しかし、最新鋭の武器を有する新政府軍は、旧幕府軍を圧倒!!
江戸幕府は終焉を迎えたのです。
600万ドル借款契約の計画者・小栗上野介は江戸を離れ、知行地・上州権田村で静かな生活を送ります。
しかし・・・新政府軍に反逆の疑いありとされ、非業の死を遂げました。
今からおよそ150年前、パリを舞台に密かに繰り広げられた600万ドル借款計画・・・鋤雲たちの必死の努力もむなしく、計画は日の目を見ませんでした。
しかし、国際政治の現場を目の当りにした鋤雲や使節団は、その苦い経験を後の時代に伝えていくことになります。
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パリ万国博覧会です。
世界中の国々が特産品や最先端技術を展示する一大イベント・・・
初参加の日本は、徳川幕府使節団を派遣します。
代表を務めたのは、将軍・慶喜の弟・昭武でした。
慶喜自ら昭武を自分の名代に選び、フランスでの外交を託したのです。
慶喜が昭武に送ったものが残されています。
無精が戦の時に身に着ける陣羽織です。
その壮麗な造り・・・昭武のフランスでの活躍を願う慶喜の気持ちが伝わってきます。
使節団が託されたのは、華やかな万博外交だけではありませんでした。
徳川慶喜から直々に幕府の命運を握る密命を帯びていました。
600万ドル借款計画・・・フランスより借り入れた資金で、武器や軍艦を購入し、薩長を討とうという計画です。
しかし、使節団は予想外の事態に・・・
1867年、フランス・パリで開催された画期的なイベント・パリ万国博覧会
世界中の国々が特産品や最先端の技術を展示する一大イベントです。
参加国は42か国。7か月の開催期間中に、世界中から1500万人もの来場者がありました。
パリ万博は、フランスをはじめ各国から最先端の工業力のお披露目の場でした。
中でも異彩を放った展示場は、日本の茶屋でした。
万博に初参加した異国・日本は、ひときわ注目を浴びました。
日本から来た芸者が煙草をのみ、茶を振る舞う・・・エキゾチックな女性たちの姿は観光客に人気を博し、一日の来場者は1300人を超えたといいます。
パリ万博には、徳川幕府使節団が派遣されました。
代表は、将軍・徳川慶喜の弟・昭武、15歳。
さらに、慶喜の出身地水戸の藩士たち、幕臣たちと、総勢33人が派遣されました。
当時28歳だった渋沢栄一も会計係兼書記として参加しています。
彼等は、徳川慶喜の命を受け、幕府の行く末を担う密命を帯びていました。
1866年、第二次長州征討で、幕府は長州藩に事実上の敗北を喫します。
敗因は、長州側との圧倒的な武力の差でした。
イギリスと友好関係にあった薩摩が、長州にイギリスの武器を提供していました。
薩長に対抗するため、軍事力増強に迫られます。
その陣頭指揮にあたったのが、外国奉行や勘定奉行の要職を歴任した小栗上野介です。
小栗は、数年前から軍事力増強の計画を着々と進めていました。
神奈川県横須賀にあるアメリカ海軍・横須賀基地・・・小栗が幕府海軍の拠点としてここに世界有数の大造船所を計画したのです。
小栗が作らせた第1号ドック・・・全長136m、今もアメリカ軍の施設として使われています。
当時の設計図には、3つのドック、製鉄所の建設など示されています。
建設費は、フランスからの借款240万ドルでした。
さらに、幕府陸軍の強化にも乗り出します。
フランスから軍事顧問団を呼び、組織、兵器の近代化を進めます。
小栗の対薩長計画を支援したのは、駐日フランス公使のレオン・ロッシュでした。
その背景には、フランスの危機的状況がありました。
当時、フランスで蚕の疫病が蔓延、生糸の生産量が80%減少していました。
ヨーロッパの絹工場の中心地だったフランスは、大打撃を受けます。
フランスの生糸の生産が80%壊滅、新しい供給国を探さなければならなかったのです。
ロッシュは、リヨン・・・フランスの絹産業の中心地の出身でした。
幕府と接近し、日本に生糸の安定的な供給を要望しました。
当時、日本の生糸は、良質なことで欧米から高い評価を受けていました。
ロッシュは、日本の生糸の独占輸入を目論み、幕府を支援したのです。
幕府の再興を目指す小栗と、生糸の独占を目論むロッシュの思惑が密かに更なる計画を練ります。
この計画について、勝海舟が書き残しています。
小栗は、フランスの協力を得て、薩長を討つ計画を進めていました。
小栗は、政治の背景に軍事力があることをわかっていました。
軍事力を背景にして、国家の利益を追求する・・・幕府も取り入れた方がいいのではないか?と考えていました。
1866年8月、小栗上野介、フランスと契約。
その内容は、
”フランスより600万ドルを借款し、その資金を使って武器や軍艦を買い付ける”というものでした。
600万ドル借款すると、どれだけ軍備が増強できるのでしょうか?
当時の軍監はおよそ9万ドル、600万ドルあれば66隻購入できます。
対する当時の薩摩郡の軍監は6隻・・・武力で薩摩藩を圧倒することができます。
さらに契約書には、窓口としてフランスに新たな会社を設立すると書かれていました。
小栗とロッシュに計画は、フランスに会社を設立し、ここで投資を募り、600万ドルを集め、幕府に貸し付けます。
幕府はこの資金で、フランスから武器や軍艦を購入、一方、フランスには、生糸の独占輸入の権利を与えるといったものでした。
その計画はその後、軍制改革を進める15代将軍・徳川慶喜に引き継がれることとなります。
慶喜は、イギリスが薩摩や長州を支援していると知っていました。
「夷(フランス)をもって夷(イギリス)を制す」と、フランスに傾倒していきます。
駐日公使レオン・ロッシュは、外務大臣にこう報告しています。
「日本政府の保護のもとに置かれる会社の有利は絶大なものがあるから、フランスにとっての日本はイギリスにとっての清、言い換えればフランスの市場となるだろう」byロッシュ
英仏の経済戦争を背景に進められる小栗の幕府再生計画・・・しかし、この段階では、あくまでも契約にすぎません。
そして、パリ万博使節団に出された密命こそが、パリで600万f¥ドルの借款を具体的に成立させることだったのです。
渋沢栄一 才能を活かし、お金を活かし、人を活かす 実業の父が教える「人生繁栄の法則」 (知的生きかた文庫) [ 大下 英治 ]
1867年3月、徳川幕府使節団、パリに到着。
万博参加の主な目的は、
①倒幕の動きが盛んになる中、日本国の主権が幕府にあることをヨーロッパ諸国に示す
②600万ドルの借款の成立
使節団はまず、ナポレオン3世に謁見、沿道は東洋からやってきた一行を一目見ようと見物人で埋め尽くされました。
衣冠束帯に身を包んだ昭武は、各国の国王や貴族から大いに注目されたといいます。
意気揚々と万博会場に向かう使節団、そこで一行は、驚くべき事態に直面します。
日本の展示スペースに、堂々と薩摩の紋が掲げられていたのです。
そこには、薩摩の展示品が所狭しと並べられていました。
さらに、幕府が巨費を投じて制作した等身大の武者人形の前に、あたかも薩摩藩の展示物かのように薩摩の紋が置かれていました。
日本に割り当てられたスペースの1/3が薩摩のスペースとなっていたのです。
さらに、薩摩藩は、フランスの要人に配る勲章を用意していました。
そこには、”薩摩琉球国”と記されています。
薩摩藩は、あたかも幕府から独立した国であるかのように万博に参加していました。
幕府使節団は、薩摩藩に猛抗議し、侃々諤々の議論を繰り広げます。
交渉の場にいた書記官・田辺太一は、その顛末を記しています。
田辺たちの必死の交渉により、薩摩側から次のような譲歩を勝ち取ります。
”薩摩藩は琉球島王の呼称を削り、日本の国旗を掲げる”
しかし、薩摩藩は藩をどのように名乗るかにおいて、次のように主張しました。
薩摩藩は「グーベルマン太守薩摩」と名乗る・・・使節団は、グーベルマンを藩という意味と解釈し、これならば薩摩藩は独立国とは思われないだろうと申し出を受け入れます。
しかし、これが致命的な失策となりました。
会談の数日後、フランスの新聞は一斉にこう書きたてました。
”徳川将軍は日本の皇帝ではなく薩摩や他の大名と同等である”
グーベルマンは英語でガバメント=政府という意味でした。
つまり、薩摩藩は、独立した政府であり幕府は日本を統治していないと受け止められたのです。
日本国の主権が幕府にあることをヨーロッパ諸国に示すという万博参加の第一の目的は大きく揺らぎます。
それはまた秘密の任務・600万ドル借款計画を困難にする者でもありました。
日本には、幕府とさらに薩摩太守政府もあると・・・”日本は一元的に幕府が支配している国ではない”と位置付けてしまったのです。
凍死する人にとって、「どこが一番優良なのか?」と、リスクになります。
600万ドル借款計画にとって、非常に由々しき問題でした。
イギリスに興味深い文書が残されていました。
当時、イギリス外務省に送られた報告書には・・・
”もし600万ドルの借款とフランスの貿易独占会社が成功すれば、イギリスに有害な結果となる”
報告者の名は、アレキサンダー・シーボルト!!
アレキサンダー・シーボルトは、長崎に来日したフォン・シーボルトの息子です。
日本のイギリス公使館で通訳として働いていたシーボルトは、フランス語も堪能であったため、幕府使節団の通訳を務めていました。
イギリスは、使節団にスパイを送り込み、そこで得た情報を薩摩藩に伝えていたのです。
小栗の600万ドル借款計画は、薩摩藩とイギリスの妨害を前に、その成立が難しくなりました。
開国の先覚者 小栗上野介 (PP選書) [ 蜷川新 ]
薩摩藩の妨害工策により暗雲が立ち込めた600万ドル借款計画・・・そこに追い打ちをかける事態が・・・!!
横浜居留地で発行されていた英字新聞”ジャパンタイムズ”に極秘だった600万ドル借款計画が暴露されたのです。
”フランスは日本と生糸の独占契約を計画している”
この情報は、イギリス本国に伝わり、英国議会で問題となりました。
”フランスが計画している日本の生糸の独占は、自由な貿易を阻害する”
1860年、英仏通商条約締結
互いに自由な貿易を保証していました。
イギリスは直ちにフランスに抗議します。
この頃、フランスは外交政策の転換期にありました。
前年の1866年、フランスはメキシコ遠征に失敗し、撤退を開始していました。
これによって、フランスは対外政策を切り替え、各国との協調を重視するムスティエ外務大臣が新たに就任。
ムスティエ外務大臣は、在日フランス公使レオン・ロッシュに訓令を発します。
「貴下が仏国貿易のために独占権を制定せんとしたる行為に対し、駐仏イギリス大使は直接予のもとに来てこの不満を訴えた
競争国に非難の口実を与えないように留意することが、いかに我が国の利益に重大であるかを改めて言うを要せざるべし」byムスティエ
600万ドル借款のために不可欠だった日本の生糸の独占にストップがかかったのです。
そして、パリの幕府使節団から、江戸に驚くべき報告がもたらされます。
”600万ドルの借款はにわかに相破れ候”
600万ドル借款計画は、完全に暗礁に乗り上げました。
報告された3か月前、1867年4月・・・交渉の難航を察知したロッシュは、意見書を作成し、軍制改革を推し進める将軍・慶喜に進言します。
そこには、600万ドル借款の起死回生の一手が書かれていました。
生糸の独占の権利を与える代わりに蝦夷地の鉱山開発権をフランスに与えようというのです。
予想だにしない提案を受けた慶喜・・・
1856年8月、幕府は箱館の鉱山資源を調査、見込みアリと情報を得ていました。
フランスに蝦夷地の鉱山開発権を与える??与えない??どうする??
1867年5月、徳川慶喜はひとりの幕臣・栗本鋤雲を呼び出します。
鋤雲は、小栗上野介の盟友で、フランス語に堪能は幕府きってのフランス通でした。
慶喜が鋤雲に指示した内容は・・・
①日本の政治的主権者は徳川将軍にあるとフランスや欧州諸国に認識させよ
②新たに蝦夷地鉱山開発権を提案して、600万ドル借款を成立させよ
でした。
慶喜は、蝦夷地の鉱山開発権を与えるを選択したのです。
1867年8月、鋤雲は、パリに到着。
早速問題の解決に乗り出します。
この時、徳川昭武一行は、パリを離れ、各国訪問の旅に出ていました。
一行は、スイス→オランダ→ベルギー→イタリア→イギリスを訪問、各国の首脳たちと会い友好関係を築いていきます。
各国で王族と同等のもてなしを受け、イギリスの新聞は昭武を”プリンス徳川”と報じました。
使節団からの報告によれば、博覧会場の誹謗は、煙のように消え、昭武の名が世に称され、尊崇されるようになったのです。
ヨーロッパ各国は、日本の政治的主権者は徳川将軍にあると認識を改めたのです。
一方で、鋤雲は、幾度となくフランス外務省を訪れます。
蝦夷地の鉱山開発権を新たに提案し、600万ドル借款の交渉を行ったのです。
しかし、結果ははかばかしくなく・・・
”御借銀 蝦夷地など 小生にお任せ候御用向 未だ混沌未分 三か月の淹留”
フランスは、鉱山の専門家です。
銅や銀の埋蔵量がどのくらいあるのか、そこまで調べたかったのです。
細かい資料がないから信頼できない・・・
1868年1月2日、幕府使節団一行と、鋤雲に、幕府から2か月遅れで知らせが届きます。
1867年10月14日、大政奉還・・・将軍・慶喜が、政権の返上を天皇に申し出たのです。
さらに、情勢は大きく動きます。
1868年1月、鳥羽・伏見の戦い・・・旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍は、京都近郊で激突!!
しかし、最新鋭の武器を有する新政府軍は、旧幕府軍を圧倒!!
江戸幕府は終焉を迎えたのです。
600万ドル借款契約の計画者・小栗上野介は江戸を離れ、知行地・上州権田村で静かな生活を送ります。
しかし・・・新政府軍に反逆の疑いありとされ、非業の死を遂げました。
今からおよそ150年前、パリを舞台に密かに繰り広げられた600万ドル借款計画・・・鋤雲たちの必死の努力もむなしく、計画は日の目を見ませんでした。
しかし、国際政治の現場を目の当りにした鋤雲や使節団は、その苦い経験を後の時代に伝えていくことになります。
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