1870年、20世紀を大きく変えたひとりの革命家が生まれました。
レーニン・・・世界で初めて社会主義の国・・・ソビエト社会主義連邦を作った人物です。
20世紀、ソ連は、東ヨーロッパの盟主として、長らくアメリカと世界を二分してきました。
レーニンは、どのような国を作ろうとしていたのでしょうか?
サンクトペテルブルク・・・かつての宮殿だったエルミタージュ美術館をはじめ歴史ある建物が並んでいます。
ここは、ロシア帝国の首都であり、政治、文化の中心でした。
今からおよそ100年前、ここで世界の歴史を大きく変える革命が起きました。
国家と革命 (講談社学術文庫) [ レーニン ]
1917年10月、ロシア革命・・・
労働者と兵士が、特権階級の打破を叫んで宮殿を襲撃。
時の政権を倒したのです。
この史上初の社会主義革命を成功させたのが、レーニンでした。
レーニンが目指したのは、誰もが平等な労働者の国・・・。
全ての人が幸せに生きることのできるユートピアでした。
「我々の道は優れている
勝利か、然らずんば死か」
しかし、そこにたどり着くまでの道のりは、険しいものでした。
革命に身を投じた兄の処刑、自身も極寒のシベリアに抑留、20年にもわたる逃亡生活・・・
レーニンは、革命のためには手段を選びませんでした。
革命の運動資金を得るために、仲間を使い、銀行や金持ちから強盗。
「有名な富農、金持ち、吸血鬼を絞首刑にせよ!!」
後のKGBとなる秘密警察を結成し、自分に抗う者を取り締まる・・・
飢饉になると、農民から作物を奪い、抵抗する者は強者なく殺す・・・それがレーニンでした。
レーニン、20歳の頃、共に革命を志す仲間から”老人”というあだ名で呼ばれていました。
モスクワから南東に900キロ・・・ヨーロッパ最長の川ボルガ川のほとりにあるシンビルスク・・・
1870年4月、レーニンはこの小さな田舎町に生れました。
父は、官吏として働く下級貴族、母は医師の娘で家庭を何より大事にする女性でした。
レーニンは、6人兄弟の3番目でした。
当時、ロシアに君臨していたのは、ロマノフ家・・・
300年続いたロシア帝国では、一握りの貴族や地主が全ての富を独占し、優雅な暮らしを謳歌していました。
一方、国民の8割以上を占める農民は、貧しい生活を強いられ、ほとんどが教育を受けられませんでした。
レーニンは、親が下級貴族だったために暮らしは裕福でした。
付き合う相手も、貴族やブルジョワと呼ばれる裕福な商人たちでした。
レーニンは、成績も優秀で、倫理学は4でしたが、後はすべて5。
学年の最優等生になり、両親を喜ばせました。
そんなレーニンの憧れは4歳年上の長男アレクサンドルでした。
兄もまた中学校を最優等生で卒業し、記念に金メダルをもらうほどの秀才でした。
レーニンは、兄を慕い、何でも兄のマネをしました。
読書家だった兄をまねて本を読み、レーニンの運命を変える1冊も、元々は兄の愛読書でした。
「何をなすべきか」・・・ロシアの作家・チェルヌイシェフスキーが反政府活動のため投獄され、その中で書いた小説です。
社会主義活動家たちを通して、個人の独立、男女の平等を目指す生活が描かれていました。
「私の兄もこの本に熱中していたし、私も虜になった
この本は、私のものの見方を完全に変えてしまったのだ」byレーニン
レーニンが15歳の時、一家を不幸が襲います。
1886年、レーニンが15歳の時、父・イリヤが病に倒れ、54歳で死去。
その翌年、ロシア一の名門サンクトペテルブルク大学に通っていた兄・アレクサンドルが秘密警察に逮捕されました。
大学で、反政府活動の地下組織に入った兄は、皇帝暗殺を企てて、密かに爆弾を製造したからです。
裁判では、兄はすべての罪を認め、2か月後、仲間と共に絞首刑となりました。
一家は、それまで親しくしていた人びとから、テロリストの家族としてつまはじきにされます。
レーニンは、この時の怒りを生涯忘れませんでした。
「ブルジョアども・・・奴らは、常に裏切り者で臆病者だ」byレーニン
一家は引っ越し、レーニンは1887年、17歳でカザン大学に入学。
法律を勉強することになりました。
その頃、レーニンには恋人ができました。
「私はマルクスとエンゲルスに恋したよ」byレーニン
ドイツ人思想家マルクスとエンゲルスによる共産党宣言に夢中になったのです。
”これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である”
後に世界的名著とされるこの本は、階級闘争が主題となっています。
人類の歴史は、自由民↔奴隷、領主↔農奴、資本家↔労働者・・・支配する側と支配される側との階級闘争の歴史であり、労働者が立ち上がり、資本家の独占する資本を奪って、社会全体で共有すれば、すべての人にとって平等な共産主義社会が誕生すると予言したのです。
共産主義にのめりこんだレーニンは、非合法のグループに加わりデモに参加。
当局に逮捕され、わずか6か月で大学から追放されてしまいました。
その後、レーニンは、母の勧めで兄と同じサンクトペテルブルク大学に入学。
弁護士の資格を取得しました。
しかし、ある事件をきっかけに、レーニンのロシア帝国への怒りは再び沸き上がります。
ロシアの穀倉地帯・ボルガ地方の大飢饉です。
飢える人々を前に、政府は何の手も打たず、40万人以上が飢えと伝染病で亡くなります。
「資本主義は、その本性からしてほとんどの人民を傷つけ、多くを殺すのだ
基金はわかりやすい証明なのだ」byレーニン
レーニンは、弁護士助手として働きながら、マルクス主義者の非合法な集会に参加するようになります。
スタリーク=老人というあだ名がついたのもこのころです。
23歳で、すでに髪が薄い・・・という見た目だけではなく、議論になると常に上から目線で尊大な物言いが老人のようだったからともいわれています。
集会に参加してついたのは、あだ名だけではなく、ひとりの女性と出会いました。
ナジェージダ・クルプスカヤ・・・夜間学校の教師をしながら参加していましたが、仲間内の評判では取り立てて目立つ存在ではありませんでした。
クルプスカヤは、レーニンの自説を堂々と述べる姿に心を奪われます。
レーニンも自分と同じ志をもつクルプスカヤに惹かれていきます。
「自分と意見が全く異なり、仕事の上で同志でない女性なら、決して愛せなかっただろう」byレーニン
1897年、27歳の時、仲間とマルクス主義の政治組織を結成。
しかし、まもなくレーニンたちは、反体制の危険人物として逮捕されました。
シベリア・・・シュシェンスコエ村・・・逮捕されたレーニンは、ここに流刑となりました。
3年に渡る流刑生活の間に、レーニンは結婚。
相手は、共にシベリア送りとなっていた同志のクルプスカヤでした。
2人は、子供には恵まれませんでしたが、クルプスカヤは妻だけでなく、秘書としてもレーニンを支えていきます。
刑期を終え、30歳で首都サンクトペテルブルクに戻ったレーニン。
しかし、依然として秘密警察からマークされていました。
看守を逃れるため、夫妻のヨーロッパでの亡命生活が始まります。
資金は、母からの仕送りでした。
レーニンは、ドイツのミュンヘンで新聞や小雑誌の発行を始めました。
「革命を思想的に統合できる一貫した文書こそ、活動のため書くことのできない一歩である」byレーニン
新聞や雑誌は、秘密工作員の手でロシアに運び込まれ、農民や労働者にレーニンの言葉が伝えられました。
「我々に革命家の組織を与えよ
さすれば、前ロシアを転覆させてみよう」byレーニン
革命をやるためには、少数者による秘密結社的な政党でなければ絶対にやりきれない・・・
やがて、ドイツの警察にもマークされ、イギリス・ロンドンに拠点を移します。
その頃、ひとりの男が訪ねてきました。
革命家・レフ・トロツキー・・・レーニンと同じ、ロシア政府からシベリアに送られたものの収容所を脱走し、レーニンに会いに来たのです。
トロツキーは、レーニンとは面識がなかったものの、彼の新聞を読んで共感したといいます。
後に、レーニンの右腕として働くことになります。
1903年、レーニン33歳の時・・・
マルクス主義の政党・ロシア社会民主労働党 第2回党大会がロンドンで開かれました。
参加したのは、50人ほどの革命家たち・・・
ところが、大会は荒れに荒れました。
職業革命家が主導する革命を目指すレーニンと、大衆中心の緩やかな革命を目指す派閥が対立したのです。
独裁的だと批判されたレーニンは、「裏切り者!!くそ野郎!!」と、相手を徹底的に罵倒!!
レーニンに反対の意見を表明したトロツキーには・・・
「空虚な言い回しと、大言壮語を轟かせる豚野郎!!」
とまで言い放ちました。
ところが、レーニンは、方針を決める投票で少数派になってしまいました。
しかし、レーニンは負けを認めず、自分のグループを多数派を意味する”ボリシェビキ”だと言い張りました。
多くの仲間から愛想をつかされ、トロツキーとも袂を分かつことになったレーニン・・・
しかし、レーニンへの追い風は、意外なところから吹きました。
1904年日露戦争勃発。
ロシア軍は、アジアの小国とバカにしていた日本に攻め込まれ、翌年にはロシアの旅順港が陥落。
兵士や労働者の不満が高まり、怒りの矛先は皇帝ニコライ2世に向かいました。
その3週間後・・・
1905年1月、首都サンクトペテルブルクで、10万人の民衆が蜂起、民主化を求めるデモが起こりました。
この時、皇帝の軍が市民に発砲、1000人以上が虐殺されました。
血の日曜日事件です。
赤軍の形成 (復刊ライブラリー 革命のオルタナティヴ) [ レーニン ]
レーニンは、この事件をスイスのジュネーブで知りました。
「革命を信じていなかった人でさえ、それを信じ始めている
権力を奪取するためには、あらゆる手段を使わなければならない」byレーニン
レーニンは、活動資金を得るためにロシア国内の同志たちに命じ、銀行の馬車や郵便局を襲い、現金を強奪!!
強盗のまとめ役としてトップに据えたのが、28歳のヨシフ・スターリンでした。
目的のためには手段を選ばないという剛腕を評価され、レーニンのもとで頭角を現していきます。
革命運動に邁進していた1909年、39歳の時、レーニンの私生活に大きな変化が訪れます。
フランス系亡命ロシア人イネッサ・アルマンドと出会ったのです。
ボリシェビキの党員として、革命を目指す同志の一人でした。
イネッサは、5人の子供を育てる人妻・・・集会に参加し、レーニンの演説に夢中になりました。
「話を聞くのも、見るのも、本当に大好きでした
あなたに本当に恋してしまったのです」byイネッサ
レーニンは、イネッサを愛人としました。
イネッサを自分のアパートから数軒先に引っ越しさせます。
このことを知った妻のクルプスカヤは、意外なことを言い出しました。
「私はあなたと別れるわ
あなたとイネッサを一緒にさせてあげる」byクルプスカヤ
しかし、レーニンは、妻とも愛人とも別れようとしませんでした。
いつしか、クルプスカヤとイネッサは親友となり、レーニンを公私にわたって支え、奇妙な三人の関係は終生続くことになります。
血の日曜日事件の後、秘密警察の徹底的な取り締まりで、ロシア国内の革命勢力は弱体化しました。
しかし、その10年後、47歳のレーニンは、ロシア国内の権力を奪取、ソビエトを成立させました。
レーニンはどうして権力を奪うことができたのでしょうか??
1914年8月、亡命生活を送っていたレーニンに、衝撃的なニュースが舞い込んできました。
ドイツが、ロシア帝国に宣戦布告!!
連合国と同盟国に分かれ、ヨーロッパを二分する第1次世界大戦がはじまったのです。
ロシアの損害は大きく、開戦から1年で、27万の兵が戦死しました。
民衆の中に、厭戦気分が広がっていきますが、皇帝は戦争をやめようとはしませんでした。
この時、レーニンは中立国のスイスに逃げ込みました。
しかし、ボリシェビキの活動資金は底をつき、珍しく弱気になっていました。
「我々老人は、この来るべき革命の決定的な戦闘の時まで、生きながらえることはないであろう」byレーニン
ところが・・・思わぬ形でレーニンに運が向きます。
1917年2月、46歳の時、サンクトペテルブルクで10万人以上の女性たちが、戦争停止と食料を要求するデモを敢行し、宮殿に押しかけました。
デモの勢いはすさまじく、きゅでんを制圧・・・ここにロマノフ王朝は崩壊!!
ニコライ2世とその家族は、全員捕らえられました。
労働者や農民は、300年以上続いた圧政から解放されたと革命を歓迎しました。
所が一月後、革命で成立した臨時政府は、戦争の継続を発表。
これに、レーニンは反応します。
「我々は何としても帰らなければならない
たとえ地獄を通っても・・・!!」byレーニン
ロシアに戻り、ボルシェビキを中心とした政権を打ち立てるのは、今しかない!!
しかし、スイスからロシアに行くのは、敵国のドイツを通らねばならない・・・!!
万事休すか!!
この時、レーニンに手を差し伸べたのは、ロシアと戦っていたとうのドイツでした。
スイスにいるレーニンを帰らせて、革命をどんどん起こしてもらえば東部戦線は楽になる!!
3月末、ドイツは、レーニン夫妻を含む30人ほどの革命家を、ロシア行きの列車に乗せました。
車両の外に一切出ないことが条件でした。
スイス・チューリヒを出発した列車は、秘密裏にドイツ領内を通過・・・
1週間後、ロシア・サンクトペテルブルクに到着しました。
17年間の亡命生活の末、帰国を果たしたレーニン・・・群衆の熱狂的な歓迎に迎えられました。
到着後すぐに、レーニンは列車の中で書き上げた10項目の指針(4月テーゼ)を発表します。
臨時政府への指示を一切認めないこと、
戦争を即刻辞めること
土地を国有化すること
労働者・農民の組織「ソビエト(評議会)」に全ての権力を集中させること
「我々は、平和・土地・パン、こういった物事について語らなければならない
そうすれば、我々は暗闇の中の東大のように輝くだろう」byレーニン
民衆は、レーニンの訴えに喝采を送ります。
ボリシェビキの勢力を急速に拡大します。
レーニンの帰国前に、最大2万3000人だった党員は、7月までに20万人に達していました。
そして、長年袂を分かっていたトロツキーがレーニンと和解。
亡命先のヨーロッパから戻り、ボリシェビキに入党。
銀行強盗などの罪でシベリアに流されていたスターリンも戻ってきました。
司令塔レーニンのもとに、部隊を率いる二人の実力者が揃ったのです。
「今こ!!」
レーニンは、臨時政府を倒すため、武装蜂起を命じます。
その様子は、後に作られた映画「十月」で描かれています。
1917年10月25日、ボリシェビキが制圧した軍艦の砲声を合図に、舞台は臨時政府がある宮殿に・・・!!
実際には、レーニン側と綸旨背う府側との間に激しい戦闘はありませんでした。
ほとんど抵抗はなかったのです。
後に、十月革命とよばれたクーデターです。
レーニン率いるボリシェビキが、遂に権力を握ったのです。
「ロシアでは、史上初めて労働者と農民によるソビエトが組織された
このソビエトが、すべての国家権力を握ったのだ」byレーニン
この時、47歳。
レーニン 権力と愛(下) [ ヴィクター・セベスチェン ]
ロシアの大多数を占める農民と労働者に支えられ、権力を握ったレーニン。
しかし、その翌年、農民たちに銃口を向けます。
どうしてレーニンは農民を殺したのか??
臨時政府を打倒した翌日の10月26日、レーニンは2つの布告を発します。
平和に関する布告・・・全ての交戦国に、講和を呼び掛けたのです。
翌年、ドイツと講和条約を結び、人々を苦しめていた戦争を終わらせます。
もうひとつは、土地に関する布告・・・すべての土地は、全人民の財産として私有を禁止、地主から没収した土地は農民たちに均等に分け与えられました。
さらに、レーニンは、男女平等の権利を宣言。
世界の国々に先駆けて、女性の選挙権を確立し、労働や財産面でも男性と同等の権利を保証しました。
しかし、わずか1か月で、レーニンは政権を失いかねない事態に直面します。
1917年11月におこなわれた憲法制定議会選挙・・・
ここで、国民に選ばれた党が、政治の主導権を握る・・・ところが、レーニン率いるボリシェビキは、第一党には慣れなかったのです。
都会の労働者の票を集めたものの、農民からの支持を得ることができなかったのです。
しかし、レーニンは、選挙の結果を否定しました。
「議会では、庶民の目を欺くことを目的に、駄弁を弄しているに過ぎない」byレーニン
強制的に議会を解散、ボリシェビキの一党独裁政権を成立させました。
議会を蔑ろにする措置に、他の党は反発します。
ロシア各地で、次々と独立政府樹立を宣言しました。
この時期、ボリシェビキの統治下にあったのは、国土のわずか1/10ほど。
さらに、周りの国々は、革命の波及を恐れ、独立政権を支援するために兵を送り込みました。
これにたいし、レーニンは右腕のトロツキーに対し、労働者や農民からなる防衛部隊・赤軍を組織させます。
さらに、ボリシェビキに反対する者を取り締まるため、秘密警察チェカを創設。
KGBの前身となる組織です。
「障害物は、払いのけねばならない
その為に、過去の価値あるものを破壊しなければならないなら、涙も感傷もなしにそうしよう
そして、さらに素晴らしいものを打ち立てよう」byレーニン
レーニンの赤軍に対して、反ボリシェビキの軍は白軍と呼ばれました。
この内戦で、ロシアは荒廃・・・そこに追い打ちをかけたのが飢饉でした。
食糧の不安が広がる中、農民は食料を貯めこみ、都市への供給が止まりました。
レーニンが基盤とする都市では、深刻な食糧難に陥ってしまいます。
「飢饉を克服しなければ、我々は革命全体をだめにし、破滅させるだろう」byレーニン
レーニンは、チェカを農村に派遣。
豊かな農民から、強制的に穀物や畜産物を徴取しました。
農民のための革命を訴えていたレーニンは、いつの間にか、農民から奪い取る立場に変わっていました。
食糧の提供を拒否する者は、容赦なく処刑!!
反発する農民たちが蜂起すると、武力でこれを鎮圧しました。
1918年3月、48歳の時、ボリシェビキは、ロシア共産党に改称します。
そして、外国からの干渉を避けるため、サンクトペテルブルクから内陸のモスクワへと遷都しました。
レーニンは、反乱の芽を徹底的につぶします。
シベリアで監禁状態にあったニコライ2世は・・・妻や子供、召使も合わせて11人を銃殺。
独裁体制を強めていくレーニンに対し、民衆には不満が募ります。
そして、ついに爆発します。
1918年8月30日、モスクワでの演説を終えた時の事・・・
反ソビエトの女性活動家がレーニンを狙撃。
放った3発のうち2発が命中・・・かろうじて一命はとりとめました。
しかし、これ以降、レーニンの健康状態は悪化していきます。
若い頃からの不眠症と頭痛に加え、胸を締め付けられる激痛に襲われるようになりました。
さらに悲しい出来事が追い打ちをかけます。
1920年9月、愛人イネッサコレラで死去。
葬儀でレーニンを見た周りの人は、
「あれほど完全に悲しみにとらわれている人間は一度も見たことがなかった」
妻クルプスカヤとの間に子供がいなかったレーニンは、イネッサの5人の子供のうち3人を非公式ながら養子にしました。
レーニンの家は質素で、生活はつつましやかでした。
妻のクルプスカヤと散歩したり、郊外に狩りに出かけることが唯一の息抜きでした。
1921年の春・・・反対勢力をほぼ制圧し、内戦が終結します。
ロシア全土の統治権を取り戻しました。
1922年12月、52歳の時、ソビエト社会主義共和国連邦建国。
そのわずか2年後、1924年1月・・・レーニンはこの世を去りました。
53歳でした。
死から6日後、モスクワ・赤の広場で行われた葬儀には、数十万人が集まって、レーニンの死を悼みました。
建国から70年・・・1991年12月、ソビエト社会主義共和国連行崩壊・・・
社会主義時代の象徴・レーニンの銅像が引き倒されました。
2017年11月、社会主義革命100周年をきっかけに、ロシアではレーニンを再び評価する動きも出てきています。
レーニンは、第1次世界大戦の危機と、諸外国からの内政干渉戦争・・・
ほとんど国が滅亡に陥りかねないのを救った偉大な指導者であったと。
一方、レーニンの遺体を安置しているモスクワ・赤の広場のレーニン廟・・・
レーニン廟を、赤の広場に置いておくべきか、撤去するべきは、今なお、ロシア内では議論が続いています。
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レーニン対イギリス秘密情報部 [ ジャイルズ・ミルトン ]
レーニン・・・世界で初めて社会主義の国・・・ソビエト社会主義連邦を作った人物です。
20世紀、ソ連は、東ヨーロッパの盟主として、長らくアメリカと世界を二分してきました。
レーニンは、どのような国を作ろうとしていたのでしょうか?
サンクトペテルブルク・・・かつての宮殿だったエルミタージュ美術館をはじめ歴史ある建物が並んでいます。
ここは、ロシア帝国の首都であり、政治、文化の中心でした。
今からおよそ100年前、ここで世界の歴史を大きく変える革命が起きました。
国家と革命 (講談社学術文庫) [ レーニン ]
1917年10月、ロシア革命・・・
労働者と兵士が、特権階級の打破を叫んで宮殿を襲撃。
時の政権を倒したのです。
この史上初の社会主義革命を成功させたのが、レーニンでした。
レーニンが目指したのは、誰もが平等な労働者の国・・・。
全ての人が幸せに生きることのできるユートピアでした。
「我々の道は優れている
勝利か、然らずんば死か」
しかし、そこにたどり着くまでの道のりは、険しいものでした。
革命に身を投じた兄の処刑、自身も極寒のシベリアに抑留、20年にもわたる逃亡生活・・・
レーニンは、革命のためには手段を選びませんでした。
革命の運動資金を得るために、仲間を使い、銀行や金持ちから強盗。
「有名な富農、金持ち、吸血鬼を絞首刑にせよ!!」
後のKGBとなる秘密警察を結成し、自分に抗う者を取り締まる・・・
飢饉になると、農民から作物を奪い、抵抗する者は強者なく殺す・・・それがレーニンでした。
レーニン、20歳の頃、共に革命を志す仲間から”老人”というあだ名で呼ばれていました。
モスクワから南東に900キロ・・・ヨーロッパ最長の川ボルガ川のほとりにあるシンビルスク・・・
1870年4月、レーニンはこの小さな田舎町に生れました。
父は、官吏として働く下級貴族、母は医師の娘で家庭を何より大事にする女性でした。
レーニンは、6人兄弟の3番目でした。
当時、ロシアに君臨していたのは、ロマノフ家・・・
300年続いたロシア帝国では、一握りの貴族や地主が全ての富を独占し、優雅な暮らしを謳歌していました。
一方、国民の8割以上を占める農民は、貧しい生活を強いられ、ほとんどが教育を受けられませんでした。
レーニンは、親が下級貴族だったために暮らしは裕福でした。
付き合う相手も、貴族やブルジョワと呼ばれる裕福な商人たちでした。
レーニンは、成績も優秀で、倫理学は4でしたが、後はすべて5。
学年の最優等生になり、両親を喜ばせました。
そんなレーニンの憧れは4歳年上の長男アレクサンドルでした。
兄もまた中学校を最優等生で卒業し、記念に金メダルをもらうほどの秀才でした。
レーニンは、兄を慕い、何でも兄のマネをしました。
読書家だった兄をまねて本を読み、レーニンの運命を変える1冊も、元々は兄の愛読書でした。
「何をなすべきか」・・・ロシアの作家・チェルヌイシェフスキーが反政府活動のため投獄され、その中で書いた小説です。
社会主義活動家たちを通して、個人の独立、男女の平等を目指す生活が描かれていました。
「私の兄もこの本に熱中していたし、私も虜になった
この本は、私のものの見方を完全に変えてしまったのだ」byレーニン
レーニンが15歳の時、一家を不幸が襲います。
1886年、レーニンが15歳の時、父・イリヤが病に倒れ、54歳で死去。
その翌年、ロシア一の名門サンクトペテルブルク大学に通っていた兄・アレクサンドルが秘密警察に逮捕されました。
大学で、反政府活動の地下組織に入った兄は、皇帝暗殺を企てて、密かに爆弾を製造したからです。
裁判では、兄はすべての罪を認め、2か月後、仲間と共に絞首刑となりました。
一家は、それまで親しくしていた人びとから、テロリストの家族としてつまはじきにされます。
レーニンは、この時の怒りを生涯忘れませんでした。
「ブルジョアども・・・奴らは、常に裏切り者で臆病者だ」byレーニン
一家は引っ越し、レーニンは1887年、17歳でカザン大学に入学。
法律を勉強することになりました。
その頃、レーニンには恋人ができました。
「私はマルクスとエンゲルスに恋したよ」byレーニン
ドイツ人思想家マルクスとエンゲルスによる共産党宣言に夢中になったのです。
”これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である”
後に世界的名著とされるこの本は、階級闘争が主題となっています。
人類の歴史は、自由民↔奴隷、領主↔農奴、資本家↔労働者・・・支配する側と支配される側との階級闘争の歴史であり、労働者が立ち上がり、資本家の独占する資本を奪って、社会全体で共有すれば、すべての人にとって平等な共産主義社会が誕生すると予言したのです。
共産主義にのめりこんだレーニンは、非合法のグループに加わりデモに参加。
当局に逮捕され、わずか6か月で大学から追放されてしまいました。
その後、レーニンは、母の勧めで兄と同じサンクトペテルブルク大学に入学。
弁護士の資格を取得しました。
しかし、ある事件をきっかけに、レーニンのロシア帝国への怒りは再び沸き上がります。
ロシアの穀倉地帯・ボルガ地方の大飢饉です。
飢える人々を前に、政府は何の手も打たず、40万人以上が飢えと伝染病で亡くなります。
「資本主義は、その本性からしてほとんどの人民を傷つけ、多くを殺すのだ
基金はわかりやすい証明なのだ」byレーニン
レーニンは、弁護士助手として働きながら、マルクス主義者の非合法な集会に参加するようになります。
スタリーク=老人というあだ名がついたのもこのころです。
23歳で、すでに髪が薄い・・・という見た目だけではなく、議論になると常に上から目線で尊大な物言いが老人のようだったからともいわれています。
集会に参加してついたのは、あだ名だけではなく、ひとりの女性と出会いました。
ナジェージダ・クルプスカヤ・・・夜間学校の教師をしながら参加していましたが、仲間内の評判では取り立てて目立つ存在ではありませんでした。
クルプスカヤは、レーニンの自説を堂々と述べる姿に心を奪われます。
レーニンも自分と同じ志をもつクルプスカヤに惹かれていきます。
「自分と意見が全く異なり、仕事の上で同志でない女性なら、決して愛せなかっただろう」byレーニン
1897年、27歳の時、仲間とマルクス主義の政治組織を結成。
しかし、まもなくレーニンたちは、反体制の危険人物として逮捕されました。
シベリア・・・シュシェンスコエ村・・・逮捕されたレーニンは、ここに流刑となりました。
3年に渡る流刑生活の間に、レーニンは結婚。
相手は、共にシベリア送りとなっていた同志のクルプスカヤでした。
2人は、子供には恵まれませんでしたが、クルプスカヤは妻だけでなく、秘書としてもレーニンを支えていきます。
刑期を終え、30歳で首都サンクトペテルブルクに戻ったレーニン。
しかし、依然として秘密警察からマークされていました。
看守を逃れるため、夫妻のヨーロッパでの亡命生活が始まります。
資金は、母からの仕送りでした。
レーニンは、ドイツのミュンヘンで新聞や小雑誌の発行を始めました。
「革命を思想的に統合できる一貫した文書こそ、活動のため書くことのできない一歩である」byレーニン
新聞や雑誌は、秘密工作員の手でロシアに運び込まれ、農民や労働者にレーニンの言葉が伝えられました。
「我々に革命家の組織を与えよ
さすれば、前ロシアを転覆させてみよう」byレーニン
革命をやるためには、少数者による秘密結社的な政党でなければ絶対にやりきれない・・・
やがて、ドイツの警察にもマークされ、イギリス・ロンドンに拠点を移します。
その頃、ひとりの男が訪ねてきました。
革命家・レフ・トロツキー・・・レーニンと同じ、ロシア政府からシベリアに送られたものの収容所を脱走し、レーニンに会いに来たのです。
トロツキーは、レーニンとは面識がなかったものの、彼の新聞を読んで共感したといいます。
後に、レーニンの右腕として働くことになります。
1903年、レーニン33歳の時・・・
マルクス主義の政党・ロシア社会民主労働党 第2回党大会がロンドンで開かれました。
参加したのは、50人ほどの革命家たち・・・
ところが、大会は荒れに荒れました。
職業革命家が主導する革命を目指すレーニンと、大衆中心の緩やかな革命を目指す派閥が対立したのです。
独裁的だと批判されたレーニンは、「裏切り者!!くそ野郎!!」と、相手を徹底的に罵倒!!
レーニンに反対の意見を表明したトロツキーには・・・
「空虚な言い回しと、大言壮語を轟かせる豚野郎!!」
とまで言い放ちました。
ところが、レーニンは、方針を決める投票で少数派になってしまいました。
しかし、レーニンは負けを認めず、自分のグループを多数派を意味する”ボリシェビキ”だと言い張りました。
多くの仲間から愛想をつかされ、トロツキーとも袂を分かつことになったレーニン・・・
しかし、レーニンへの追い風は、意外なところから吹きました。
1904年日露戦争勃発。
ロシア軍は、アジアの小国とバカにしていた日本に攻め込まれ、翌年にはロシアの旅順港が陥落。
兵士や労働者の不満が高まり、怒りの矛先は皇帝ニコライ2世に向かいました。
その3週間後・・・
1905年1月、首都サンクトペテルブルクで、10万人の民衆が蜂起、民主化を求めるデモが起こりました。
この時、皇帝の軍が市民に発砲、1000人以上が虐殺されました。
血の日曜日事件です。
赤軍の形成 (復刊ライブラリー 革命のオルタナティヴ) [ レーニン ]
レーニンは、この事件をスイスのジュネーブで知りました。
「革命を信じていなかった人でさえ、それを信じ始めている
権力を奪取するためには、あらゆる手段を使わなければならない」byレーニン
レーニンは、活動資金を得るためにロシア国内の同志たちに命じ、銀行の馬車や郵便局を襲い、現金を強奪!!
強盗のまとめ役としてトップに据えたのが、28歳のヨシフ・スターリンでした。
目的のためには手段を選ばないという剛腕を評価され、レーニンのもとで頭角を現していきます。
革命運動に邁進していた1909年、39歳の時、レーニンの私生活に大きな変化が訪れます。
フランス系亡命ロシア人イネッサ・アルマンドと出会ったのです。
ボリシェビキの党員として、革命を目指す同志の一人でした。
イネッサは、5人の子供を育てる人妻・・・集会に参加し、レーニンの演説に夢中になりました。
「話を聞くのも、見るのも、本当に大好きでした
あなたに本当に恋してしまったのです」byイネッサ
レーニンは、イネッサを愛人としました。
イネッサを自分のアパートから数軒先に引っ越しさせます。
このことを知った妻のクルプスカヤは、意外なことを言い出しました。
「私はあなたと別れるわ
あなたとイネッサを一緒にさせてあげる」byクルプスカヤ
しかし、レーニンは、妻とも愛人とも別れようとしませんでした。
いつしか、クルプスカヤとイネッサは親友となり、レーニンを公私にわたって支え、奇妙な三人の関係は終生続くことになります。
血の日曜日事件の後、秘密警察の徹底的な取り締まりで、ロシア国内の革命勢力は弱体化しました。
しかし、その10年後、47歳のレーニンは、ロシア国内の権力を奪取、ソビエトを成立させました。
レーニンはどうして権力を奪うことができたのでしょうか??
1914年8月、亡命生活を送っていたレーニンに、衝撃的なニュースが舞い込んできました。
ドイツが、ロシア帝国に宣戦布告!!
連合国と同盟国に分かれ、ヨーロッパを二分する第1次世界大戦がはじまったのです。
ロシアの損害は大きく、開戦から1年で、27万の兵が戦死しました。
民衆の中に、厭戦気分が広がっていきますが、皇帝は戦争をやめようとはしませんでした。
この時、レーニンは中立国のスイスに逃げ込みました。
しかし、ボリシェビキの活動資金は底をつき、珍しく弱気になっていました。
「我々老人は、この来るべき革命の決定的な戦闘の時まで、生きながらえることはないであろう」byレーニン
ところが・・・思わぬ形でレーニンに運が向きます。
1917年2月、46歳の時、サンクトペテルブルクで10万人以上の女性たちが、戦争停止と食料を要求するデモを敢行し、宮殿に押しかけました。
デモの勢いはすさまじく、きゅでんを制圧・・・ここにロマノフ王朝は崩壊!!
ニコライ2世とその家族は、全員捕らえられました。
労働者や農民は、300年以上続いた圧政から解放されたと革命を歓迎しました。
所が一月後、革命で成立した臨時政府は、戦争の継続を発表。
これに、レーニンは反応します。
「我々は何としても帰らなければならない
たとえ地獄を通っても・・・!!」byレーニン
ロシアに戻り、ボルシェビキを中心とした政権を打ち立てるのは、今しかない!!
しかし、スイスからロシアに行くのは、敵国のドイツを通らねばならない・・・!!
万事休すか!!
この時、レーニンに手を差し伸べたのは、ロシアと戦っていたとうのドイツでした。
スイスにいるレーニンを帰らせて、革命をどんどん起こしてもらえば東部戦線は楽になる!!
3月末、ドイツは、レーニン夫妻を含む30人ほどの革命家を、ロシア行きの列車に乗せました。
車両の外に一切出ないことが条件でした。
スイス・チューリヒを出発した列車は、秘密裏にドイツ領内を通過・・・
1週間後、ロシア・サンクトペテルブルクに到着しました。
17年間の亡命生活の末、帰国を果たしたレーニン・・・群衆の熱狂的な歓迎に迎えられました。
到着後すぐに、レーニンは列車の中で書き上げた10項目の指針(4月テーゼ)を発表します。
臨時政府への指示を一切認めないこと、
戦争を即刻辞めること
土地を国有化すること
労働者・農民の組織「ソビエト(評議会)」に全ての権力を集中させること
「我々は、平和・土地・パン、こういった物事について語らなければならない
そうすれば、我々は暗闇の中の東大のように輝くだろう」byレーニン
民衆は、レーニンの訴えに喝采を送ります。
ボリシェビキの勢力を急速に拡大します。
レーニンの帰国前に、最大2万3000人だった党員は、7月までに20万人に達していました。
そして、長年袂を分かっていたトロツキーがレーニンと和解。
亡命先のヨーロッパから戻り、ボリシェビキに入党。
銀行強盗などの罪でシベリアに流されていたスターリンも戻ってきました。
司令塔レーニンのもとに、部隊を率いる二人の実力者が揃ったのです。
「今こ!!」
レーニンは、臨時政府を倒すため、武装蜂起を命じます。
その様子は、後に作られた映画「十月」で描かれています。
1917年10月25日、ボリシェビキが制圧した軍艦の砲声を合図に、舞台は臨時政府がある宮殿に・・・!!
実際には、レーニン側と綸旨背う府側との間に激しい戦闘はありませんでした。
ほとんど抵抗はなかったのです。
後に、十月革命とよばれたクーデターです。
レーニン率いるボリシェビキが、遂に権力を握ったのです。
「ロシアでは、史上初めて労働者と農民によるソビエトが組織された
このソビエトが、すべての国家権力を握ったのだ」byレーニン
この時、47歳。
レーニン 権力と愛(下) [ ヴィクター・セベスチェン ]
ロシアの大多数を占める農民と労働者に支えられ、権力を握ったレーニン。
しかし、その翌年、農民たちに銃口を向けます。
どうしてレーニンは農民を殺したのか??
臨時政府を打倒した翌日の10月26日、レーニンは2つの布告を発します。
平和に関する布告・・・全ての交戦国に、講和を呼び掛けたのです。
翌年、ドイツと講和条約を結び、人々を苦しめていた戦争を終わらせます。
もうひとつは、土地に関する布告・・・すべての土地は、全人民の財産として私有を禁止、地主から没収した土地は農民たちに均等に分け与えられました。
さらに、レーニンは、男女平等の権利を宣言。
世界の国々に先駆けて、女性の選挙権を確立し、労働や財産面でも男性と同等の権利を保証しました。
しかし、わずか1か月で、レーニンは政権を失いかねない事態に直面します。
1917年11月におこなわれた憲法制定議会選挙・・・
ここで、国民に選ばれた党が、政治の主導権を握る・・・ところが、レーニン率いるボリシェビキは、第一党には慣れなかったのです。
都会の労働者の票を集めたものの、農民からの支持を得ることができなかったのです。
しかし、レーニンは、選挙の結果を否定しました。
「議会では、庶民の目を欺くことを目的に、駄弁を弄しているに過ぎない」byレーニン
強制的に議会を解散、ボリシェビキの一党独裁政権を成立させました。
議会を蔑ろにする措置に、他の党は反発します。
ロシア各地で、次々と独立政府樹立を宣言しました。
この時期、ボリシェビキの統治下にあったのは、国土のわずか1/10ほど。
さらに、周りの国々は、革命の波及を恐れ、独立政権を支援するために兵を送り込みました。
これにたいし、レーニンは右腕のトロツキーに対し、労働者や農民からなる防衛部隊・赤軍を組織させます。
さらに、ボリシェビキに反対する者を取り締まるため、秘密警察チェカを創設。
KGBの前身となる組織です。
「障害物は、払いのけねばならない
その為に、過去の価値あるものを破壊しなければならないなら、涙も感傷もなしにそうしよう
そして、さらに素晴らしいものを打ち立てよう」byレーニン
レーニンの赤軍に対して、反ボリシェビキの軍は白軍と呼ばれました。
この内戦で、ロシアは荒廃・・・そこに追い打ちをかけたのが飢饉でした。
食糧の不安が広がる中、農民は食料を貯めこみ、都市への供給が止まりました。
レーニンが基盤とする都市では、深刻な食糧難に陥ってしまいます。
「飢饉を克服しなければ、我々は革命全体をだめにし、破滅させるだろう」byレーニン
レーニンは、チェカを農村に派遣。
豊かな農民から、強制的に穀物や畜産物を徴取しました。
農民のための革命を訴えていたレーニンは、いつの間にか、農民から奪い取る立場に変わっていました。
食糧の提供を拒否する者は、容赦なく処刑!!
反発する農民たちが蜂起すると、武力でこれを鎮圧しました。
1918年3月、48歳の時、ボリシェビキは、ロシア共産党に改称します。
そして、外国からの干渉を避けるため、サンクトペテルブルクから内陸のモスクワへと遷都しました。
レーニンは、反乱の芽を徹底的につぶします。
シベリアで監禁状態にあったニコライ2世は・・・妻や子供、召使も合わせて11人を銃殺。
独裁体制を強めていくレーニンに対し、民衆には不満が募ります。
そして、ついに爆発します。
1918年8月30日、モスクワでの演説を終えた時の事・・・
反ソビエトの女性活動家がレーニンを狙撃。
放った3発のうち2発が命中・・・かろうじて一命はとりとめました。
しかし、これ以降、レーニンの健康状態は悪化していきます。
若い頃からの不眠症と頭痛に加え、胸を締め付けられる激痛に襲われるようになりました。
さらに悲しい出来事が追い打ちをかけます。
1920年9月、愛人イネッサコレラで死去。
葬儀でレーニンを見た周りの人は、
「あれほど完全に悲しみにとらわれている人間は一度も見たことがなかった」
妻クルプスカヤとの間に子供がいなかったレーニンは、イネッサの5人の子供のうち3人を非公式ながら養子にしました。
レーニンの家は質素で、生活はつつましやかでした。
妻のクルプスカヤと散歩したり、郊外に狩りに出かけることが唯一の息抜きでした。
1921年の春・・・反対勢力をほぼ制圧し、内戦が終結します。
ロシア全土の統治権を取り戻しました。
1922年12月、52歳の時、ソビエト社会主義共和国連邦建国。
そのわずか2年後、1924年1月・・・レーニンはこの世を去りました。
53歳でした。
死から6日後、モスクワ・赤の広場で行われた葬儀には、数十万人が集まって、レーニンの死を悼みました。
建国から70年・・・1991年12月、ソビエト社会主義共和国連行崩壊・・・
社会主義時代の象徴・レーニンの銅像が引き倒されました。
2017年11月、社会主義革命100周年をきっかけに、ロシアではレーニンを再び評価する動きも出てきています。
レーニンは、第1次世界大戦の危機と、諸外国からの内政干渉戦争・・・
ほとんど国が滅亡に陥りかねないのを救った偉大な指導者であったと。
一方、レーニンの遺体を安置しているモスクワ・赤の広場のレーニン廟・・・
レーニン廟を、赤の広場に置いておくべきか、撤去するべきは、今なお、ロシア内では議論が続いています。
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