日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:レーニン

1870年、20世紀を大きく変えたひとりの革命家が生まれました。
レーニン・・・世界で初めて社会主義の国・・・ソビエト社会主義連邦を作った人物です。
20世紀、ソ連は、東ヨーロッパの盟主として、長らくアメリカと世界を二分してきました。
レーニンは、どのような国を作ろうとしていたのでしょうか?

サンクトペテルブルク・・・かつての宮殿だったエルミタージュ美術館をはじめ歴史ある建物が並んでいます。
ここは、ロシア帝国の首都であり、政治、文化の中心でした。
今からおよそ100年前、ここで世界の歴史を大きく変える革命が起きました。

国家と革命 (講談社学術文庫) [ レーニン ]
国家と革命 (講談社学術文庫) [ レーニン ]

1917年10月、ロシア革命・・・
労働者と兵士が、特権階級の打破を叫んで宮殿を襲撃。
時の政権を倒したのです。
この史上初の社会主義革命を成功させたのが、レーニンでした。
レーニンが目指したのは、誰もが平等な労働者の国・・・。
全ての人が幸せに生きることのできるユートピアでした。

「我々の道は優れている
 勝利か、然らずんば死か」

しかし、そこにたどり着くまでの道のりは、険しいものでした。
革命に身を投じた兄の処刑、自身も極寒のシベリアに抑留、20年にもわたる逃亡生活・・・
レーニンは、革命のためには手段を選びませんでした。
革命の運動資金を得るために、仲間を使い、銀行や金持ちから強盗。

「有名な富農、金持ち、吸血鬼を絞首刑にせよ!!」

後のKGBとなる秘密警察を結成し、自分に抗う者を取り締まる・・・
飢饉になると、農民から作物を奪い、抵抗する者は強者なく殺す・・・それがレーニンでした。

レーニン、20歳の頃、共に革命を志す仲間から”老人”というあだ名で呼ばれていました。
モスクワから南東に900キロ・・・ヨーロッパ最長の川ボルガ川のほとりにあるシンビルスク・・・
1870年4月、レーニンはこの小さな田舎町に生れました。
父は、官吏として働く下級貴族、母は医師の娘で家庭を何より大事にする女性でした。
レーニンは、6人兄弟の3番目でした。
当時、ロシアに君臨していたのは、ロマノフ家・・・
300年続いたロシア帝国では、一握りの貴族や地主が全ての富を独占し、優雅な暮らしを謳歌していました。
一方、国民の8割以上を占める農民は、貧しい生活を強いられ、ほとんどが教育を受けられませんでした。

レーニンは、親が下級貴族だったために暮らしは裕福でした。
付き合う相手も、貴族やブルジョワと呼ばれる裕福な商人たちでした。
レーニンは、成績も優秀で、倫理学は4でしたが、後はすべて5。
学年の最優等生になり、両親を喜ばせました。
そんなレーニンの憧れは4歳年上の長男アレクサンドルでした。
兄もまた中学校を最優等生で卒業し、記念に金メダルをもらうほどの秀才でした。
レーニンは、兄を慕い、何でも兄のマネをしました。
読書家だった兄をまねて本を読み、レーニンの運命を変える1冊も、元々は兄の愛読書でした。

「何をなすべきか」・・・ロシアの作家・チェルヌイシェフスキーが反政府活動のため投獄され、その中で書いた小説です。
社会主義活動家たちを通して、個人の独立、男女の平等を目指す生活が描かれていました。

「私の兄もこの本に熱中していたし、私も虜になった
 この本は、私のものの見方を完全に変えてしまったのだ」byレーニン

レーニンが15歳の時、一家を不幸が襲います。
1886年、レーニンが15歳の時、父・イリヤが病に倒れ、54歳で死去。
その翌年、ロシア一の名門サンクトペテルブルク大学に通っていた兄・アレクサンドルが秘密警察に逮捕されました。
大学で、反政府活動の地下組織に入った兄は、皇帝暗殺を企てて、密かに爆弾を製造したからです。
裁判では、兄はすべての罪を認め、2か月後、仲間と共に絞首刑となりました。
一家は、それまで親しくしていた人びとから、テロリストの家族としてつまはじきにされます。
レーニンは、この時の怒りを生涯忘れませんでした。

「ブルジョアども・・・奴らは、常に裏切り者で臆病者だ」byレーニン

一家は引っ越し、レーニンは1887年、17歳でカザン大学に入学。
法律を勉強することになりました。
その頃、レーニンには恋人ができました。

「私はマルクスとエンゲルスに恋したよ」byレーニン

ドイツ人思想家マルクスとエンゲルスによる共産党宣言に夢中になったのです。
”これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である”
後に世界的名著とされるこの本は、階級闘争が主題となっています。
人類の歴史は、自由民↔奴隷、領主↔農奴、資本家↔労働者・・・支配する側と支配される側との階級闘争の歴史であり、労働者が立ち上がり、資本家の独占する資本を奪って、社会全体で共有すれば、すべての人にとって平等な共産主義社会が誕生すると予言したのです。

共産主義にのめりこんだレーニンは、非合法のグループに加わりデモに参加。
当局に逮捕され、わずか6か月で大学から追放されてしまいました。
その後、レーニンは、母の勧めで兄と同じサンクトペテルブルク大学に入学。
弁護士の資格を取得しました。
しかし、ある事件をきっかけに、レーニンのロシア帝国への怒りは再び沸き上がります。
ロシアの穀倉地帯・ボルガ地方の大飢饉です。
飢える人々を前に、政府は何の手も打たず、40万人以上が飢えと伝染病で亡くなります。

「資本主義は、その本性からしてほとんどの人民を傷つけ、多くを殺すのだ
 基金はわかりやすい証明なのだ」byレーニン

レーニンは、弁護士助手として働きながら、マルクス主義者の非合法な集会に参加するようになります。
スタリーク=老人というあだ名がついたのもこのころです。
23歳で、すでに髪が薄い・・・という見た目だけではなく、議論になると常に上から目線で尊大な物言いが老人のようだったからともいわれています。
集会に参加してついたのは、あだ名だけではなく、ひとりの女性と出会いました。
ナジェージダ・クルプスカヤ・・・夜間学校の教師をしながら参加していましたが、仲間内の評判では取り立てて目立つ存在ではありませんでした。
クルプスカヤは、レーニンの自説を堂々と述べる姿に心を奪われます。
レーニンも自分と同じ志をもつクルプスカヤに惹かれていきます。

「自分と意見が全く異なり、仕事の上で同志でない女性なら、決して愛せなかっただろう」byレーニン

1897年、27歳の時、仲間とマルクス主義の政治組織を結成。
しかし、まもなくレーニンたちは、反体制の危険人物として逮捕されました。

シベリア・・・シュシェンスコエ村・・・逮捕されたレーニンは、ここに流刑となりました。
3年に渡る流刑生活の間に、レーニンは結婚。
相手は、共にシベリア送りとなっていた同志のクルプスカヤでした。
2人は、子供には恵まれませんでしたが、クルプスカヤは妻だけでなく、秘書としてもレーニンを支えていきます。
刑期を終え、30歳で首都サンクトペテルブルクに戻ったレーニン。
しかし、依然として秘密警察からマークされていました。
看守を逃れるため、夫妻のヨーロッパでの亡命生活が始まります。
資金は、母からの仕送りでした。
レーニンは、ドイツのミュンヘンで新聞や小雑誌の発行を始めました。

「革命を思想的に統合できる一貫した文書こそ、活動のため書くことのできない一歩である」byレーニン

新聞や雑誌は、秘密工作員の手でロシアに運び込まれ、農民や労働者にレーニンの言葉が伝えられました。

「我々に革命家の組織を与えよ
 さすれば、前ロシアを転覆させてみよう」byレーニン

革命をやるためには、少数者による秘密結社的な政党でなければ絶対にやりきれない・・・
やがて、ドイツの警察にもマークされ、イギリス・ロンドンに拠点を移します。
その頃、ひとりの男が訪ねてきました。
革命家・レフ・トロツキー・・・レーニンと同じ、ロシア政府からシベリアに送られたものの収容所を脱走し、レーニンに会いに来たのです。
トロツキーは、レーニンとは面識がなかったものの、彼の新聞を読んで共感したといいます。
後に、レーニンの右腕として働くことになります。

1903年、レーニン33歳の時・・・
マルクス主義の政党・ロシア社会民主労働党 第2回党大会がロンドンで開かれました。
参加したのは、50人ほどの革命家たち・・・
ところが、大会は荒れに荒れました。
職業革命家が主導する革命を目指すレーニンと、大衆中心の緩やかな革命を目指す派閥が対立したのです。
独裁的だと批判されたレーニンは、「裏切り者!!くそ野郎!!」と、相手を徹底的に罵倒!!
レーニンに反対の意見を表明したトロツキーには・・・

「空虚な言い回しと、大言壮語を轟かせる豚野郎!!」

とまで言い放ちました。

ところが、レーニンは、方針を決める投票で少数派になってしまいました。
しかし、レーニンは負けを認めず、自分のグループを多数派を意味する”ボリシェビキ”だと言い張りました。
多くの仲間から愛想をつかされ、トロツキーとも袂を分かつことになったレーニン・・・
しかし、レーニンへの追い風は、意外なところから吹きました。
1904年日露戦争勃発。
ロシア軍は、アジアの小国とバカにしていた日本に攻め込まれ、翌年にはロシアの旅順港が陥落。
兵士や労働者の不満が高まり、怒りの矛先は皇帝ニコライ2世に向かいました。
その3週間後・・・
1905年1月、首都サンクトペテルブルクで、10万人の民衆が蜂起、民主化を求めるデモが起こりました。
この時、皇帝の軍が市民に発砲、1000人以上が虐殺されました。
血の日曜日事件です。

赤軍の形成 (復刊ライブラリー 革命のオルタナティヴ) [ レーニン ]
赤軍の形成 (復刊ライブラリー 革命のオルタナティヴ) [ レーニン ]

レーニンは、この事件をスイスのジュネーブで知りました。

「革命を信じていなかった人でさえ、それを信じ始めている
 権力を奪取するためには、あらゆる手段を使わなければならない」byレーニン

レーニンは、活動資金を得るためにロシア国内の同志たちに命じ、銀行の馬車や郵便局を襲い、現金を強奪!!
強盗のまとめ役としてトップに据えたのが、28歳のヨシフ・スターリンでした。
目的のためには手段を選ばないという剛腕を評価され、レーニンのもとで頭角を現していきます。

革命運動に邁進していた1909年、39歳の時、レーニンの私生活に大きな変化が訪れます。
フランス系亡命ロシア人イネッサ・アルマンドと出会ったのです。
ボリシェビキの党員として、革命を目指す同志の一人でした。
イネッサは、5人の子供を育てる人妻・・・集会に参加し、レーニンの演説に夢中になりました。

「話を聞くのも、見るのも、本当に大好きでした
 あなたに本当に恋してしまったのです」byイネッサ

レーニンは、イネッサを愛人としました。
イネッサを自分のアパートから数軒先に引っ越しさせます。
このことを知った妻のクルプスカヤは、意外なことを言い出しました。

「私はあなたと別れるわ
 あなたとイネッサを一緒にさせてあげる」byクルプスカヤ

しかし、レーニンは、妻とも愛人とも別れようとしませんでした。
いつしか、クルプスカヤとイネッサは親友となり、レーニンを公私にわたって支え、奇妙な三人の関係は終生続くことになります。

血の日曜日事件の後、秘密警察の徹底的な取り締まりで、ロシア国内の革命勢力は弱体化しました。
しかし、その10年後、47歳のレーニンは、ロシア国内の権力を奪取、ソビエトを成立させました。
レーニンはどうして権力を奪うことができたのでしょうか??
1914年8月、亡命生活を送っていたレーニンに、衝撃的なニュースが舞い込んできました。
ドイツが、ロシア帝国に宣戦布告!!
連合国と同盟国に分かれ、ヨーロッパを二分する第1次世界大戦がはじまったのです。
ロシアの損害は大きく、開戦から1年で、27万の兵が戦死しました。
民衆の中に、厭戦気分が広がっていきますが、皇帝は戦争をやめようとはしませんでした。
この時、レーニンは中立国のスイスに逃げ込みました。
しかし、ボリシェビキの活動資金は底をつき、珍しく弱気になっていました。

「我々老人は、この来るべき革命の決定的な戦闘の時まで、生きながらえることはないであろう」byレーニン

ところが・・・思わぬ形でレーニンに運が向きます。
1917年2月、46歳の時、サンクトペテルブルクで10万人以上の女性たちが、戦争停止と食料を要求するデモを敢行し、宮殿に押しかけました。
デモの勢いはすさまじく、きゅでんを制圧・・・ここにロマノフ王朝は崩壊!!
ニコライ2世とその家族は、全員捕らえられました。
労働者や農民は、300年以上続いた圧政から解放されたと革命を歓迎しました。
所が一月後、革命で成立した臨時政府は、戦争の継続を発表。
これに、レーニンは反応します。

「我々は何としても帰らなければならない
 たとえ地獄を通っても・・・!!」byレーニン

ロシアに戻り、ボルシェビキを中心とした政権を打ち立てるのは、今しかない!!
しかし、スイスからロシアに行くのは、敵国のドイツを通らねばならない・・・!!
万事休すか!!
この時、レーニンに手を差し伸べたのは、ロシアと戦っていたとうのドイツでした。
スイスにいるレーニンを帰らせて、革命をどんどん起こしてもらえば東部戦線は楽になる!!
3月末、ドイツは、レーニン夫妻を含む30人ほどの革命家を、ロシア行きの列車に乗せました。
車両の外に一切出ないことが条件でした。
スイス・チューリヒを出発した列車は、秘密裏にドイツ領内を通過・・・
1週間後、ロシア・サンクトペテルブルクに到着しました。
17年間の亡命生活の末、帰国を果たしたレーニン・・・群衆の熱狂的な歓迎に迎えられました。
到着後すぐに、レーニンは列車の中で書き上げた10項目の指針(4月テーゼ)を発表します。

臨時政府への指示を一切認めないこと、
戦争を即刻辞めること
土地を国有化すること
労働者・農民の組織「ソビエト(評議会)」に全ての権力を集中させること

「我々は、平和・土地・パン、こういった物事について語らなければならない
 そうすれば、我々は暗闇の中の東大のように輝くだろう」byレーニン

民衆は、レーニンの訴えに喝采を送ります。
ボリシェビキの勢力を急速に拡大します。
レーニンの帰国前に、最大2万3000人だった党員は、7月までに20万人に達していました。
そして、長年袂を分かっていたトロツキーがレーニンと和解。
亡命先のヨーロッパから戻り、ボリシェビキに入党。
銀行強盗などの罪でシベリアに流されていたスターリンも戻ってきました。
司令塔レーニンのもとに、部隊を率いる二人の実力者が揃ったのです。

「今こ!!」

レーニンは、臨時政府を倒すため、武装蜂起を命じます。
その様子は、後に作られた映画「十月」で描かれています。
1917年10月25日、ボリシェビキが制圧した軍艦の砲声を合図に、舞台は臨時政府がある宮殿に・・・!!
実際には、レーニン側と綸旨背う府側との間に激しい戦闘はありませんでした。
ほとんど抵抗はなかったのです。
後に、十月革命とよばれたクーデターです。
レーニン率いるボリシェビキが、遂に権力を握ったのです。

「ロシアでは、史上初めて労働者と農民によるソビエトが組織された
 このソビエトが、すべての国家権力を握ったのだ」byレーニン

この時、47歳。

レーニン 権力と愛(下) [ ヴィクター・セベスチェン ]
レーニン 権力と愛(下) [ ヴィクター・セベスチェン ]

ロシアの大多数を占める農民と労働者に支えられ、権力を握ったレーニン。
しかし、その翌年、農民たちに銃口を向けます。
どうしてレーニンは農民を殺したのか??
臨時政府を打倒した翌日の10月26日、レーニンは2つの布告を発します。
平和に関する布告・・・全ての交戦国に、講和を呼び掛けたのです。
翌年、ドイツと講和条約を結び、人々を苦しめていた戦争を終わらせます。
もうひとつは、土地に関する布告・・・すべての土地は、全人民の財産として私有を禁止、地主から没収した土地は農民たちに均等に分け与えられました。
さらに、レーニンは、男女平等の権利を宣言。
世界の国々に先駆けて、女性の選挙権を確立し、労働や財産面でも男性と同等の権利を保証しました。
しかし、わずか1か月で、レーニンは政権を失いかねない事態に直面します。

1917年11月におこなわれた憲法制定議会選挙・・・
ここで、国民に選ばれた党が、政治の主導権を握る・・・ところが、レーニン率いるボリシェビキは、第一党には慣れなかったのです。
都会の労働者の票を集めたものの、農民からの支持を得ることができなかったのです。
しかし、レーニンは、選挙の結果を否定しました。

「議会では、庶民の目を欺くことを目的に、駄弁を弄しているに過ぎない」byレーニン

強制的に議会を解散、ボリシェビキの一党独裁政権を成立させました。
議会を蔑ろにする措置に、他の党は反発します。
ロシア各地で、次々と独立政府樹立を宣言しました。
この時期、ボリシェビキの統治下にあったのは、国土のわずか1/10ほど。
さらに、周りの国々は、革命の波及を恐れ、独立政権を支援するために兵を送り込みました。
これにたいし、レーニンは右腕のトロツキーに対し、労働者や農民からなる防衛部隊・赤軍を組織させます。
さらに、ボリシェビキに反対する者を取り締まるため、秘密警察チェカを創設。
KGBの前身となる組織です。

「障害物は、払いのけねばならない
 その為に、過去の価値あるものを破壊しなければならないなら、涙も感傷もなしにそうしよう
 そして、さらに素晴らしいものを打ち立てよう」byレーニン

レーニンの赤軍に対して、反ボリシェビキの軍は白軍と呼ばれました。
この内戦で、ロシアは荒廃・・・そこに追い打ちをかけたのが飢饉でした。
食糧の不安が広がる中、農民は食料を貯めこみ、都市への供給が止まりました。
レーニンが基盤とする都市では、深刻な食糧難に陥ってしまいます。

「飢饉を克服しなければ、我々は革命全体をだめにし、破滅させるだろう」byレーニン
 
レーニンは、チェカを農村に派遣。
豊かな農民から、強制的に穀物や畜産物を徴取しました。
農民のための革命を訴えていたレーニンは、いつの間にか、農民から奪い取る立場に変わっていました。
食糧の提供を拒否する者は、容赦なく処刑!!
反発する農民たちが蜂起すると、武力でこれを鎮圧しました。

1918年3月、48歳の時、ボリシェビキは、ロシア共産党に改称します。
そして、外国からの干渉を避けるため、サンクトペテルブルクから内陸のモスクワへと遷都しました。
レーニンは、反乱の芽を徹底的につぶします。
シベリアで監禁状態にあったニコライ2世は・・・妻や子供、召使も合わせて11人を銃殺。
独裁体制を強めていくレーニンに対し、民衆には不満が募ります。
そして、ついに爆発します。

1918年8月30日、モスクワでの演説を終えた時の事・・・
反ソビエトの女性活動家がレーニンを狙撃。
放った3発のうち2発が命中・・・かろうじて一命はとりとめました。
しかし、これ以降、レーニンの健康状態は悪化していきます。
若い頃からの不眠症と頭痛に加え、胸を締め付けられる激痛に襲われるようになりました。
さらに悲しい出来事が追い打ちをかけます。
1920年9月、愛人イネッサコレラで死去。
葬儀でレーニンを見た周りの人は、
「あれほど完全に悲しみにとらわれている人間は一度も見たことがなかった」

妻クルプスカヤとの間に子供がいなかったレーニンは、イネッサの5人の子供のうち3人を非公式ながら養子にしました。
レーニンの家は質素で、生活はつつましやかでした。
妻のクルプスカヤと散歩したり、郊外に狩りに出かけることが唯一の息抜きでした。

1921年の春・・・反対勢力をほぼ制圧し、内戦が終結します。
ロシア全土の統治権を取り戻しました。
1922年12月、52歳の時、ソビエト社会主義共和国連邦建国。
そのわずか2年後、1924年1月・・・レーニンはこの世を去りました。
53歳でした。
死から6日後、モスクワ・赤の広場で行われた葬儀には、数十万人が集まって、レーニンの死を悼みました。
建国から70年・・・1991年12月、ソビエト社会主義共和国連行崩壊・・・
社会主義時代の象徴・レーニンの銅像が引き倒されました。

2017年11月、社会主義革命100周年をきっかけに、ロシアではレーニンを再び評価する動きも出てきています。
レーニンは、第1次世界大戦の危機と、諸外国からの内政干渉戦争・・・
ほとんど国が滅亡に陥りかねないのを救った偉大な指導者であったと。

一方、レーニンの遺体を安置しているモスクワ・赤の広場のレーニン廟・・・
レーニン廟を、赤の広場に置いておくべきか、撤去するべきは、今なお、ロシア内では議論が続いています。

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レーニン対イギリス秘密情報部 [ ジャイルズ・ミルトン ]
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”一人の死は悲劇だが 100万人の死は統計だ”

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ソビエト連邦に四半世紀にわたって君臨したヨシフ・スターリン。
ソビエトを第二次世界大戦の戦勝国に導き、世界を二分する大国にした男です。
しかしそれは、多くの国民の死の上に築かれたものでした。


1878年12月18日ジョージア・小さな農村ゴリで、貧しい靴職人の息子として生まれたのが、ヨシフ・ジュガシビリ・・・後のスターリンでした。


1892年2月13日、13歳の時に、公開絞首刑という衝撃的な事実を目にします。
処刑されるのはジョージア人、処刑するのはロシア人。。。
19世紀当時、ジョージアは、ロシア帝国の支配下にある辺境の地でした。
ロシア皇帝の絶対的権力のもとに、民族も文化も違うジョージア人は抑圧されていたのです。
貧しい生活に喘いでいました。
ジョージアの権力と経済を握っていたのはロシア人で、ロシア語が強制され、新聞もジョージア語は禁止されていました。

厳しい暮らしの中、ジョージア人が救いを求めたのがキリスト教でした。
ヨシフも、キリスト教が主催する学校に通い、聖職者を目指していました。
しかし・・・この目の当たりにした現実・・・
ロシアに逆らった些細な罪で、命を落とすジョージア人。。。
見せしめの絞首刑・・・それを教会学校の教師が子供たちに見学を命じます。
処刑する側には聖職者が・・・

神は実際には存在しない・・・教会学校を退学したヨシフは、ジョージアの貧しい者たちを救う為に解放運動に参加します。

退学から4年後・・・1903年7月・・・ヨシフは、労働者を扇動しストライキを起こしたという罪で、シベリアに流刑となります。
この流刑地で自らの運命を変える一人の人物の存在を知ることとなります。
lenin一冊の小冊子・・・その著者はウラジミール・レーニン。。。
ロシア皇帝打倒の革命集団を率いる若き指導者でした。
当時、すでに農奴はなかったものの・・・労働者が一部の特権階級に搾取されていました。
レーニンの思想は、特権階級から富を奪い、労働者が主人公となる・・・。
だれもが公平な社会主義国家の樹立を目指していました。

「搾取階級に同情する必要はない。
 彼等は根絶やしにしなければならないのだ。」

ヨシフはレーニンに共感し、自らの道を確信します。
倒すは、ロシア帝国!!

以後ヨシフの活動は過激に・・・13年間で逮捕7回、流刑5回に及びました。
ヨシフは自らに新たな名前を付けました。
スターリン・・・ロシア語で”鋼鉄の人”という意味です。

1917年ペトログラードでレーニンがで武装蜂起を促します。
労働者や兵士たちがたちまち宮殿を占拠し、権力を掌握しました。
200年に及んだロシア帝国は終わりをつげ、世界初の社会主義政権「ソビエト共和国」が誕生したのです。
レーニンをはじめとする政治を行う7人の中にはスターリンの名前もありました。
エリートが揃う中、末席でしたが・・・

最初の仕事は・・・クラーク(富農)から食料を奪うことでした。
汚れ仕事でした。。。
「100人以上の金持ちを処刑せよ。
 必ず民衆に見える様に処刑せよ。」byレーニン
スターリンは命じられたとおりに、食料の提供をしないクラークを処刑していきます。
「死が全ての問題を解決する
 全員が死んでしまえば何の問題も残らない。」byスターリン

1917年革命により建国されたソビエト共和国・・・目指したのは階級のない誰もが平等な世界でした。
しかし、20年後・・・彼らが見たのは大凶作の上の400万人を餓死させた失政でした。
反抗する900万人を収容所に送り、半数を死に至らしめました。
この責任者はスターリン。。。

どうして抑圧する側に回ってしまったのでしょうか??

1922年43歳で共産党書記長に就任します。
権力への階段を登り始めたスターリンの最大の敵は、国家の最重要ポスト・軍事担当大臣レフ・トロツキーでした。裕福なユダヤ教農家に生まれたトロツキーは雄弁家で理論家・・・。
トロツキーにとっては、スターリンはジョージア出身の田舎者でした。
相容れないふたり・・・トロツキーを追い落とす千載一遇のチャンスがスターリンの訪れます。
1924年1月21日レーニン死去。

葬儀は書記長であるスターリンが執り行うこととなりました。
torotuki-トロツキーは病気療養のためにモスクワを離れていました。
スターリンは電報を打ちます。
「レーニン死す。葬儀は1月23日。」
受け取ったトロツキーは、間に合わないと葬儀を欠席しました。
しかし・・・実際には、葬儀は1月26日。。。
スターリンの陰謀でした。
偉大なる指導者の葬儀に欠席・・・騙されたとはいえ、トロツキーの権威は失墜!!
これを機に・・・1927年共産党中央委員会総会で批判し・・・トロツキーを党から除名します。
最大のライバルを葬り去ったスターリンは、ソビエト連邦の最高権力者となったのでした。

モスクワ・・・赤の広場にあるレーニン廟。
スターリンは、レーニンの遺体を永久保存しました。
真っ先に行ったのは、レーニンの神格化です。

「私は、レーニンの最も忠実な使徒である。」

各地にレーニンの銅像を作り、農村には写真を・・・。
レーニンの神格化は、実際には自分を神格化するためでした。
しかし、問題は山積・・・。
世界で唯一の社会主義国は、その波及を恐れる本主義諸国から敵視されていました。
1927年イギリスとの国交が断絶。
戦争が起こる可能性に、スターリンは危機感を感じていました。
我々は、先進諸国に50年から100年立ち遅れている。
この距離を10年で走り抜けねばならない・・・。
農業が中心の近代化が遅れた国だったソビエト・・・現状打破のために、1928年第1次五か年計画を始めます。
重工業を先進諸国のレベルまで一気に発展させようというものでした。

高層ビルが・・・鉄道が・・・自動車が・・・ダムが・・・作られていきます。
計画を推進するためには莫大な資金がかかる・・・作物を輸出することを考えます。
農業の集団化を考え始めました。

作物を確実に徴収するために、収穫した作物は全て国が管理します。
しかし・・・この政策が悲劇を招くのです。
大凶作・・・にもかかわらず、あらかじめ決められた量をノルマとして徴収していきます。
農民の手元には、生き延びるのに必要な穀物すら残っていませんでした。
1年で400万人の死者がでたことも・・・村人全員が死に絶えたことも・・・
あまりに過酷な農民の政策に、妻・ナージャも批判します。
1932年11月・・・革命の理想を見失った夫を避難する妻は・・・ピストルで自らの胸を撃ち・・・
「お前は私を見捨てた・・・まるで敵のように。。。」byスターリン。

反抗する者は全て革命の敵・・・
妻が抗議の自殺をしてもそれは変わることはありませんでした。
「ペルミ36」強制収容所は、現存する唯一の強制収容所です。
スターリンは、集団化に反抗する人間を、次々に強制収容所に送ります。
このような施設は500ほどあり・・・
集められた人々は、工場や工事現場でタダ働きの労働者となりました。

収容所に送られた農民の数は900万人。
半数以上が耐えられずに1年以内に死にました。

「死の懲罰をともなう恐怖の強制労働こそ、囚人を矯正するのだ。」

スターリンの指示によって製作された「イワン雷帝」は・・・敵対する貴族たちを次々と粛清し、恐怖政治を行った暴君でした。


1934年共産党党大会・・・壇上に立ったスターリンは・・・
「決してパニックに陥るな!!
 たとえ混沌と危険が地平線に迫っても・・・!!」
この時、会場にいた半数以上の党員が、処刑されるとは思う余地もありませんでした。

大粛清・・・
1932年・・・・・2728人
1933年・・・・・2154人
1934年・・・・・2056人
1935年・・・・・1229人
1936年・・・・・1118人
だったのが・・・
1937年・・・353,074人
1938年・・・328,618人
となりました。

ヒトラーでさえ・・・
「スターリンとその部下は病気なのだ
そうでなければ、大粛清の説明がつかない。」と言ったとか。

どうしてこんなことが行われたのでしょうか??

1936年スターリン体制が盤石なものとなります。
まず、粛清の対象となったのは、かつての共産党幹部でした。
rehu最初に狙われたのは、レフ・カーメネフ。
スターリンと同じジョージア出身でシベリア流刑の仲間でした。
罪状は、国家反逆罪・・・家族には手を付けないと約束し、自白を強要します。
公開裁判が行われ・・・家族を守るために罪を認めたカーメネフはすぐに処刑されてしまいました。
ところが・・・約束を反故にして、妻子をも処刑!!
そして、共産党幹部全員を死に追いやったのです。

その背景には、農業集団化の失敗があったようです。
農民たちがバタバタと死んでいく・・・党の幹部たちはスターリンの責任を追及・・・する人間を粛清していたのです。
一般人たちも巻き込まれていきます。

人々が一番恐れていたのは、密告でした。
密告されないように、外では声を潜め・・・密告しないのは人民の敵だと密告する側にもなります。
粛清された人と話していたとか、一緒に写真に写っていたとか・・・些細なことで密告されます。

地方の党支部への命令には・・・地区ごとに処刑ノルマが決まっていました。
あらかじめ人数を決めて、目標に達するまで処刑していきます。
毎晩、膨大な処刑執行命令書にサインをするスターリン。

「逮捕した者の中に、本物の敵が5%含まれていれば、大成功というべきである。」

しかし、スターリンは今でも支持されているのでしょうか?

1938年ヒトラー率いるドイツが台頭し、スターリンは脅威を感じていました。
この時、ドイツはオーストリアを併合し、東西に領地を広げます。
いずれソビエトにも・・・。
ドイツとの戦争を回避したいと思っていたスターリンは、独ソ不可侵条約を締結。
ところが、1941年6月22日ドイツがソビエトに電撃侵攻!!
ソビエトは、わずか3週間で200万の兵士を失って・・・壊滅的となってしまいます。
国境地帯の警備を怠っていたスターリンの失策でした。

しかし、なおも権力の座に座り続けるスターリン。
鼓舞するために、ロシア帝国時代の軍服を復活させます。
自ら軍の最高司令官となります。

リーダーになれる人物は、スターリン以外に考えられませんでした。
なぜなら、リーダーになる人間は、スターリンによって粛清されてしまっていたのです。
1941年7月・・・ソビエト軍の捕虜の中に、長男・ヤコフが含まれている!!
ドイツから捕虜交換を求められるスターリン。
しかし、これを拒否!!
ヤコフはドイツの収容所で死亡しました。

知らせを聞いたスターリンは・・・ヤコフの写真を眺めていました。
「もしほかの兵士たちのことを忘れて、ヤコフだけ助けたら・・・私はもう”スターリン”ではいられなくなるだろう」

劣勢に立たされたソビエトを立て直すために・・・
指令227号を出しました。

”戦闘から一歩でも退却した兵は、背後から銃殺せよ。」

戦場では・・・軍の最後に秘密警察の銃殺部隊が構えていました。

死の恐怖で戦意を煽ったのです。
1942年200日に渡って激戦が行われたボルゴグラード(旧・スターリングラード)・・・100万のドイツ軍が包囲する中、戦闘は熾烈を極め、ソビエトは苦戦を強いられます。
しかし、厳しい冬でソビエトに有利となりドイツに勝利!!
この戦いでのソビエトの犠牲者は48万人、味方による銃殺は、13,500人にのぼりました。

1945年6月24日モスクワでの戦勝パレード・・・。
第二次世界大戦の戦勝国となり、スターリンの権力は絶大となります。
終戦から8年後、スターリンは一人倒れているところを発見されます。
脳溢血でした。
1953年3月5日、スターリンは74年の生涯を閉じました。

モスクワ・ノヴォデヴィチ修道院・・・31歳の若さで自殺したナーシャはここに葬られています。
葬儀の途中にも仕事場に戻ったスターリンは、暇さえあればここに来ていました。
束の間・・・”鋼鉄の人”から自分に戻ったのかもしれません。

スターリンの名を使った息子にはこういいました。

「お前はスターリンではない。
 私だってスターリンではない。 
 新聞に載っているスターリン。
 肖像画に描かれているスターリン。
 それがスターリンなのだ。」


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