CD付 I Have a Dream! 生声で聴け!世界を変えたキング牧師のスピーチ【日英対訳】

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「汚らわしい異常な野獣よ
  よく聞け お前は録音されている
 お前の浮気行為、乱交ぶりが 過去の過去まで」

送り主はFBI、受け取ったのはキング牧師でした。

アメリカで繰り返されていた黒人への人種差別・・・激しい暴力・・・
理不尽な差別を撤廃すべく25万もの人が平等を訴えたワシントン大行進・・・そのリーダーはマーティン・ルーサー・キング・・・キング牧師でした。

「私には夢がある・・・
 小さな私の四人の子供たちが 
 いつの日か肌の色ではなく
 人格で評価される国に住めるようになる
 私には夢がある」

決して暴力を振るわず・・・公民権法を成立させます。
当時最年少の35歳でノーベル平和賞に輝きます。
しかし、キングの戦いはこれからでした。
法律が成立したものの、変わらない悲惨な暮らし・・・。
黒人からも、キングの非暴力は批判の的となっていきます。

人種差別問題の歴史を変える転換となった事件が起こりました。
1955年アメリカ・アラバマ州モンゴメリーで・・・一人の黒人女性が白人に席を譲らなかったとして逮捕されました。
これに対し、黒人住民たちは、市バスを利用しないという対策に出ます。
その運動の先頭に立ったのが、マーティン・ルーサー・キングでした。
当時は牧師になったばかり・・・26歳でした。

リンカーンの奴隷解放宣言以降、憲法上は認められていた黒人の権利・・・しかし、差別はまだまだ残っていました。
南部の法にはジム・クロウ法という人種隔離法があり、あらゆるものが白人専用と有色人種専用とに分けられていました。
事件が起こったアラバマ州でも、”バス内において黒人は白人に席を譲らなければならない”という州条例があったのです。
さらに・・・KKKという白人至上主義団体があり、黒人たちは常に危険と隣り合わせの生活を送っていたのです。
そんな状況下で・・・唯一の救いの場は教会で・・・心の安らぎを得ていました。

キングは父が聖職者ということもあり、19歳で神学校へ・・・。
学生数100人中黒人はわずか1割・・・。
しかし、学生委員長を務めていました。
首席で神学校を卒業しましたが・・・教会の在り方に疑問を抱くようになっていきました。
というのも、多くの教会では、「現世を諦め来世での幸せ」を説いていたからです。

「なぜ・・・白人から虐げられる境遇を受け入れ現世の幸せを諦めなくてはならないのか??」

そんな中、マハトマ・ガンジーの存在を知るのです。
インドを独立に導いた指導者でした。
彼の非暴力・不服従という平和的な方法で得た独立に・・・改革の方法を発見したのです。
目標としたのは、白人と同じ権利を黒人も獲得する・・・
人種隔離法の撤廃や、白人と同じ市民権を黒人もとることを目指したのです。

神学校を卒業したキングは、モンゴメリーのあるデクスター・アヴェニュー・パブティスト教会でスタートをしました。
妻・コレッタと結婚・・・1年もたたないうちのバスの事件でした。
自身の教会の集まりで・・・
「ずっと弾圧され踏みつけられてきたことにもはや耐えられない。
 その時が来たのだ。
 耐えられないから、今ここにいるのだ。」

キングたちが訴えたのは、バスのボイコットでした。
非暴力の抗議だったのです。
そして、ボイコットのリーダーへ!!

この地区では、バスの乗客の75%が黒人が占めていました。
黒人が利用しなければ、市バスに大打撃を与える!!
子供から老人まで歩き続けます。

そして、キングは合衆国連邦裁判所に提訴!!
バス会社の人種差別が憲法違反に当たると訴えたのです。
すると・・・マスコミがこの運動を取り上げて・・・ニュースの中心へとなっていきます。

そして・・・ついに勝利し、バスで逮捕されたことを憲法違反であることと認めさせることができたのです。
これによって、黒人たちがバスで自由に座る権利を獲得しました。
有名になったキングは、差別撤廃の活動を支援することになります。
全米各地に広がりますが、警察も黙っていません。
キングは逮捕・・・デモ行進だけで懲役刑!!
この理不尽な状況に手を差し伸べたのが、ジョン・F・ケネディでした。

釈放するように働きかけてくれました。
当時は大統領選の真っただ中・・・キングを助けることで、黒人票を獲得しようとしたのです。
結果、43歳の若さで大統領となったケネディは、公民権運動に理解を示します。

キングはマスコミを巻き込むことを利用します。
全米にそこにある暴力、現状を発信すると、黒人だけではなく白人の賛同者も出てきました。

1963年奴隷解放宣言から100周年・・・キングは壮大な計画を打ち出します。
ワシントン大行進です。
人種差別撤廃を訴える黒人、賛同する白人・・・25万人もの大群衆。。。
リンカーン記念堂を目指し行進します。

「私には夢がある・・・
 小さな私の四人の子供たちが 
 いつの日か肌の色ではなく
 人格で評価される国に住めるようになる
 私には夢がある」

1964年キングの目指していた公民権法が成立します。
法律によって公然と行われていた差別を禁止するものでした。
当時の最年少35歳でノーベル平和賞を受賞!!
しかし、キングの本当の戦いはここから始まるのです。

1964年「公民権法」成立!!
しかし、黒人たちの厳しい現実はほとんど変わりませんでした。
この年、ニューヨークの黒人居住地ハーレムで暴動!!
略奪や放火が起こります。
非暴力を否定する暴動が・・・!!
キングに対して非難の声が出始めます。
どうして暴動は起き、黒人のために戦ってきたキングが批判されるのか・・・??

ハーレムの暴動は、大家との金銭トラブルで揉めた黒人少年を白人警官が射殺したことに始まりました。
黒人たちの鬱積がぶちまけられたのです。原因は、白人と黒人の経済格差でした。
特にアメリカ北部ではひどく、高い教育を受けられなかった黒人は、低賃金の職にしか付けなかったのです。
貧困にあえいでいました。
そんななか・・・北部の居住地に出現したカリスマは・・・マルコムX。
白人と共存せずに、黒人だけの社会づくりを唱えます。
そして、暴力には暴力で応じると宣言したのです。
マルコムの父は、キングの父と同じく牧師でしたが、白人に撲殺されていました。
憎悪の念を燃やしていたマルコムは、白人と手を組んで成功してきたキングにを痛烈に批判していきます。

マシンガンのように攻撃的に主張するマルコムに共鳴していく黒人たち・・・。
危機感を募らせるキングはマルコムのことを・・・
「黒人の絶望感を長々と話しながら、前向きで建設的な代案を一切提示しない・・・
 これは、彼自身にとっても、黒人全体にとっても有害である。」
しかし、黒人の反応は冷ややかでした。

非暴力は弱さの源・・・??

そんななか・・・演説中のマルコムX射殺!!
これによって黒人の暴動は激化していきます。
ついには死者34名を出す大暴動が・・・!!
暴力の応酬の中・・・結果を出せない非暴力の戦い・・・。
そして・・・。
「活動をやめないと、お前たちの子供を殺すぞ!!」
キングの自宅には、脅迫電話が毎日鳴り響いていました。

同じように戦う仲間からも、非暴力に対する不満が・・・。

「もし、合衆国中の黒人が暴力に転向しても、私はそれが間違った方法だと叫ぶただ一つの声になることを選びたい。」

1963年キングの名声を高めたワシントン大行進の裏で、国家権力が警戒感を強めていました。
FBIです。
当時、アメリカの恐怖は、世界的に広がりつつあった共産主義でした。
ソビエトとの冷戦下で、国家に敵対する人物や社会運動家は共産主義者の疑いをかけられ・・・キングもその一人でした。

当時、キングが受け取った手紙には・・・

「汚らわしい異常な野獣よ
  よく聞け お前は録音されている
 お前の浮気行為、乱交ぶりが 過去の過去まで
 お前は完全な詐欺師で 我々黒人にとってのお荷物だ」

FBIが脅迫状を送り付けたのです。そして、キングの近くの人の裏切りのように装っていました。
そして手紙の最後には・・・

「お前に残された道は一つだけだ わかっているだろう。」
と、暗に自殺を迫っていました。

当時のキングは・・・多くのタバコを吸い、多くの酒を飲むようになって・・・眠ることさえままならなくなっていました。
そしてアメリカはベトナム戦争へ・・・!!
共産主義の拡大を恐れ、南北に分かれたベトナムの戦争に介入!!
政府は、勝利のための戦争だとし、国民の大半もこれを支持していました。
しかし・・・キングの考えは違っていました。
「政府が、破壊的な戦争行為をエスカレートさせているのだ。
 言葉だけ平和を約束していることに苦悶を覚えるようになった。」

戦争という暴力を肯定することはできない・・・
そしてそこには、アジア人に対する人種差別が含まれていました。
しかし・・・もし反戦を訴えれば共産主義とみなされて今う・・・。
それは、協力してくれた政府に反発・・・協力者たちも敵に回す・・・ということでした。

非暴力・差別反対を取るか、ベトナム戦争を支持するのか・・・??
1967年ニューヨークの反戦デモに参加。

その結果・・・黒人問題に理解を示してきたジョンソン大統領は、それまで良好だったキングとの関係を断絶!!
支持者からは・・・「キングの行動は、公民権運動を1年もしくはそれ以上遅らせた!!」
           「ベトナム反戦の立場を支援できません。金銭的にも知的にも。。。」
一緒に戦ってきた指導者たちをも失ってしまいました。
当時の世論庁舎によると、キングのベトナム反戦表明を支持する国民は、25%でした。

このころから、キングは、アメリカを変えることはそれほど簡単ではないということを痛感してきていました。
キングは疲れ果てていました。
絶望の淵に経たされたキング・・・
「自分には、その全部を敵に回して戦い、同時に公民権運動を続けるだけの力はない。。。
 すでに多くの荷を背負いすぎていて精神的に疲れた・・・。」

1967年12月24日・・・キリスト教の聖なる日の演説では・・・
この演説のさなかに・・・
「1963年、私は自分の夢をアメリカ国民に語った。
 だが今、告白しなければならない。
 あれからほどなくして、私の夢が、悪夢に代わり始めているのを・・・。」

1968年、精神的に追い詰められながらも、キングは行動に出ます。
貧者の更新です。アメリカのあらゆる人種・民族・宗教の貧しい人々の現状を政府に知らしめる計画です。
黒人活動家の枠を超えて、貧困問題に踏み込んだのです。
計画は、アメリカ各地からワシントンに向かって同時にデモ行進を敢行するというものでした。
さらに、政府建物付近でテントによる共同生活・・・機能をマヒさせるという過激なものでした。
これには、黒人や政府からも反対の声が上がります。
さらにキングを敵視していた白人至上主義者を刺激し・・・彼らをエスカレートさせる危険性がありました。
それでもキングは、4月29日を決行日とし、運動を始めます。

テネシー州メンフィスで・・・黒人清掃員が事故死しました。
遺族が葬儀を行うお金もないということがニュースとなって、黒人たちがたちあがったのです。
待遇改善を求めて・・・デモ行進をします。
プラカードをつけて・・・
メンフィスの活動家から応援を要求されたキング・・・しかし、貧者の行進まであと20日・・・。

「私にはまだ救わなくてはいけない人が沢山いる。」byキング

1968年4月3日・・・メンフィスは雷鳴とどろく悪天候でした。
多くの人であふれかえっているところに姿を現したキング。
歓声の沸く会場・・・1時間にも及ぶ演説。。。
最後に・・・
「皆さんと同じように私も長生きしたい。
 長生きには価値があります。
 でもそれには執着しません。
 今はただ神の意志に従うつもりです。」
 約束の地へは、皆さんと一緒にいけないかもしれません。
 でも、我々は一丸となって、絶対に約束の地にたどり着くでしょう。
 私は今夜幸せです。
 何も心配していません。
 どんな人物も恐れてはいけません。」

その翌朝・・・マーティン・ルーサー・キングは、一発の凶弾にたおれたのでした。
1968年4月4日・・・39年の生涯でした。

お金もなく牛車に引かれてのキングの葬儀には、10万の人々が集い、行進を行いました。
黒人、白人、様々な人々が、ひたすら歩き続けたのです。



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