1615年5月・・・大坂城落城・・・
関ケ原の戦いから15年・・・徳川家康は、大坂の陣で豊臣を滅ぼし、徳川の天下を確かなものとしました。
そして12か月後・・・75歳で生涯を終えます。
しかし、それはただの12か月ではありませんでした。
家康亡き後も、徳川誠二が永続できる仕組みを・・・!!
家康の終活・・・それは、武力で勝ち取った徳川の天下を戦のない時代に永続させるための仕組みづくりでした。
しかし・・・死を間近にした家康の悩みは・・・それは、徳川一門を揺るがしかねないある人物の存在でした。

1615年5月8日、大坂夏の陣・・・燃えさかる大坂城で豊臣秀頼が自刃したことを知った家康は、直ちに京都に向かいました。
夜遅くに二条城に入った家康は、すぐさま戦後処理を始めます。
「徳川実記」によれば・・・
5月10日、諸大名引見
大坂夏の陣での諸大名への論功行賞です。
6日後の5月16日には公家衆や、仏教各宗派の僧侶と会見。
6月2日豊臣家の金銀が到着
6月15日、すぐに御所に参内し、その銀を進上します。

都に凱旋した天下人・家康・・・多忙を極める日々の中で、着々と新しい時代のための法度の作成をしていました。

大坂の陣が始まる前・・・
1614年4月に、金地院崇伝に膨大な書物を集めさせていました。
大坂の陣の後の2か月は、その資料を基に作られた法案を吟味する時期だったのです。
崇伝は法案を家康に読み聞かせていました。
崇伝の説明を受け、家康が疑問を投げかけます。
禅問答のようなやり取りを、何度も行っていたといいます。
そして、大坂夏の陣からおよそ3か月・・・将軍秀忠の名で、新たな法令が矢継ぎ早に発布されていきます。

1615年6月13日・・・一国一城令
大名は、領国に城を一つしか持ってはならないとされました。
この法令は、西国の外様大名の軍事力を大幅に削減することを狙ったものと考えられます。
ちなみに、豊前小倉藩城主・細川忠興が破却した城は7つ・・・
悉く破却し、小倉城と中津城を残すのみとなりました。
わずか数日のうちに全国で400以上の城を破却したと言われています。

1615年7月7日・・・武家諸法度が申し渡されます。
”文武弓馬の道 もっぱら相嗜むべき事”
で始まるこの条文、第6条では城を修復する際には幕府に届け出をすること、新たな城を造ることは禁止されています。
これは、大名たちの武力を徹底的に削減するとともに、法令を守らない大名を処罰することで幕府の権威を高める仕組みになっていました。
この家康の狙いにまんまとはまってしまった大名は??
安芸広島藩50万石の藩主・福島正則です。
副島は、洪水で破損した石垣を修理しただけでしたが、届け出がなかったため許可なく城の改築をしたとして改易・・・取り潰しとなってしまいました。
家康の死から3年後のことでした。
武家諸法度発布後に改易された大名は、外様51家、親藩・譜代34家・・・徳川幕府は、法の権威を高めることで支配を確立しました。

7月17日・・・朝廷と幕府の連絡役の公家が呼ばれ、17条に及ぶ朝廷を統制する法令・・・禁中並公家諸法度が申し渡されました。
1条から12条までが皇室と公家が守るべき規定・・・
1条の”天子が修めるべきものは第一に学問である”・・・これは、天皇の政治関与を禁じた規定として知られています。
また、7条の”武家の官職は、公家の官職とは別のものとする”という規定・・・これは、武家の序列の証である朝廷の官職を将軍が自由に任免できることを意味していました。
諸大名の序列は、石高でなく官位でした。
石高が高くても、官位が低いと下座に置かれました。
だから・・・どうしても高い官位が欲しい・・・!!
武家諸法度で厳しく行動を規制するのがムチなら、アメに相当するのが官職・・・その利用価値を家康は見抜いていました。

7月24日には、諸宗寺院法度発布
各派ごとに本山(本寺)→末寺という制度を設け、本山である寺が末寺を統制するしくみを作りその本山を幕府が管理する・・・!!
家康は、戦国時代に大名をも脅かした宗教勢力を徹底的に封じ込めようとしたのです。

8月4日・・・京都を立ち、駿府に帰りつきます。
そして、この地で大好きな鷹狩りを楽しむこととなります。

10月・・・京都での法令づくりを終え家康は江戸城にいました。
徳川実記によれば、この時家康は、関東各地を巡り狩りを楽しんでいるように思えました。
しかし、その目的は違うところにありました。
9月・・・駿府滞在中、江戸から訪ねてきた春日局より重要な報告を受けていました。
春日局は、秀忠と正室のお江が、病弱な竹千代を跡継ぎから外し、快活で夫婦からの寵愛を受けている国松に
代えようとしていると訴えたのです。
春日局の報告を受けた家康は、すぐさま江戸に赴きました。
徳川将軍の行動を記録した”武野燭談”によると・・・
江戸城で竹千代と国松に面会した家康は・・・
竹千代と国松を呼び寄せた家康は、身近に竹千代を座らせました。
国松が寄っていくと・・・「それはダメだ!!」と、下がるように指示をしました。
あくまで年長の竹千代が将軍跡継ぎで、国松は将軍を支える立場であることをわからせようとしたのです。

長幼の序という秩序を乱す危険性が大きい・・・
能力主義で、兄弟の優秀なものを選ぶのは一つの考えですが、それをもとに権力闘争、内紛から政治体制が自壊することがあります。

1616年元旦・・・江戸城黒書院・・・
秀忠は、将軍への始めの挨拶を竹千代に行わせました。
家康の意を察した秀忠は、家臣たちの前で将軍の跡継ぎが竹千代であることを明らかに示したのです。
将軍後継者と徳川一門をめぐる新たなルール作りに心を砕いていた家康・・・
実は、頭を悩ませる問題がもう一つありました。


1615年9月・・・京都での法令発布を終え、駿府で休息していたとされる家康・・・
しかし、徳川実記には大事件があったと記されています。
家康は、息子・上総介忠輝を感動していたのです。
松平忠輝は、家康の6男・・・将軍秀忠と13歳違いの24歳。
存命している家康の息子のうち2番目の年長者で、越後高田75万石を擁する大大名でした。
当時、徳川一門では、2代将軍・秀忠に次ぐ存在でした。
どうして忠輝を勘当したのでしょうか?

原因は、大坂夏の陣!!
忠輝は、大坂に向かう自分の軍を、追い抜こうとした将軍秀忠の家臣2人を討ち取り、報告もしていませんでした。
さらに、肝心の夏の陣では、戦場に到着が遅れ、陣の最後尾で高みの見物をしていたと様々な記録に残されています。
将軍を蔑ろにし、戦で何の成果もあげない・・・報告を受けた家康は激怒・・・忠輝の勘当という処分に繋がったと考えられています。
しかし、当時、行軍中の追い抜きは無礼に当たるということで、斬り捨てが許されていました。
本当に家康は、斬り捨てが原因で息子を処分したのでしょうか?

伊達政宗の存在・・・??
政宗は、忠輝の舅という関係にあります。
政宗は、忠輝をかわいがっていました。
高田城を普請する時には、自ら駆けつけ世話を焼くほどの入れ込みようだったのです。
その忠輝と政宗が連携することになれば、大きな力になりかねないという心配がありました。
忠輝は、仙台62万石の大名・伊達政宗の娘・五郎八姫を娶っていました。
関ケ原の戦いの前年、伊達政宗との関係を深めようと、家康が画策した政略結婚でしたが、そのおかげで徳川の中では忠輝が将軍秀忠を脅かしかねない大きな存在となっていたのです。

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1613年・・・政宗は、家康の許しを得てスペインやメキシコとの貿易交渉に支倉常長を派遣しています。
ところが、スペインは貿易の条件としてキリスト教の布教許可を要求・・・
政宗は、領内の布教を容認する姿勢を示したと考えられます。
しかし、キリシタン禁教を進める幕府から見れば、政宗の振る舞いは徳川の方針に従わない危険なものでした。
家康亡き後、政宗が日本の皇帝になると、ソテロ神父は言いふらしていました。
徳川を脅かしかねない伊達政宗・・・
その伊達政宗に支えられ、将軍秀忠を蔑ろにする忠輝・・・
忠輝は、徳川一門最大のリスクになっていたのです。

大坂夏の陣の翌年・・・1616年正月。
江戸では謀反の噂がしきりと流れていました。
江戸にいた大名・・・細川忠興が、国元の息子に送った手紙には・・・
”正宗の事、色々噂がある 根も葉もないうわさとも、真とも知れないが、内々に陣の用意をしておくように・・・”
平戸のイギリス商官庁のリチャード・コックスは、
”皇帝と政宗の後押しを受ける上総(忠輝)との間で戦争が起きるという噂がある”
勘当された忠輝が、政宗と兵をあげる噂が全国に広まっていたのです。

忠輝と、政宗との婿・舅の関係、キリスト教徒と政宗の親密な関係・・・
何かしでかすかもしれないと思わせるような政治状況はまだ残っていました。

一方、家康には死期が迫っていました。
静岡県藤枝市・・・田中城・・・家康が鷹狩りで訪れていた場所です。
1616年1月21日、家康発病・・・
夕食にタイの天ぷらを食べた後、発病します。
現在では胃がん説が有力視されています。
すぐさま駿府に戻ったものの、病状は一進一退・・・秀忠をはじめとする一門が、駿府に駆けつける中、謀反の噂が立っていた忠輝も駿府に向かっていました。
忠輝は、なんとか面会したいと願い、何度も嘆願を繰り返しました。
しかし、家康は面会を許しませんでした。

この時の家康の心は・・・??
忠輝と政宗が兵をあげるという噂は本当か??
真偽を確かめるより攻め滅ぼすべきか・・・??
将軍を蔑ろにする弟は、邪魔者でしかない・・・??
キリシタン禁制を守らないだけでも、幕府に従わない異物・・・??
この際、忠輝と政宗を攻め滅ぼす・・・??

そうすれば、徳川の天下を脅かす者はいなくなる!!
秀忠も、安心して将軍を治められる!!

しかし・・・謀反が根も葉もない噂だったら・・・??
折角戦のない世を作ろうとしているのに、誰も徳川の世を信じなくなる・・・
しかも、忠輝は息子・・・確かの証拠もなく殺したくはない・・・!!

問題は、忠輝と政宗・・・2人が結びついていることだ!!
2人を徹底的に引き離すか・・・??
そんなことが出来るのか・・・??
秀忠の天下は脅かされ続けるのか・・・??

伊達政宗が、晩年に側近に語った懐旧談があります。
”木村宇右衛門覚書”・・・そこに、家康の選択が記されていました。
家康の死から16年後の1632年3月・・・
秀忠が死の床で、政宗に語った言葉です。

「権現様が、駿河で病気になった時、政宗をひどく悪く言って私に江戸に戻って仙台攻めの支度をせよと命じられた」

政宗自身も、こう語っています。

「家康公が病気と聞いて、駿府に向かおうとしていたら、将軍秀忠公が江戸で仙台攻めの用意をしているという知らせが次々に入ってきた
 身に覚えのないことなので、驚いた
 もし、戦となれば、幕府軍相手に勝ち目はない・・・!!」

家康は、政宗討伐を選んだように見えます。
しかし、そこに、家康公の側室・お勝の方から早馬で文が届けられた!!
”一刻も早く家康公と対面しないとためにならない”と。

駿府に行けば殺される・・・そう止める家臣たちの手を振り切り、政宗は駿府に向かいました。
2月22日・・・政宗は駿府に到着。
病床の家康に会って聞かされた仙台攻めの理由とは・・・謀反の疑いでした。
政宗が、家康の病に乗じて大坂の豊臣方の残党と組んで謀反をするかもしれない・・・
そんな密告がされていたのです。
その人物とは・・・??
”かつさの守”・・・松平忠輝でした。
実は忠輝は、「政宗が謀反の意思を持っているということを言ってきた」ということを話しました。
それを家康が心配し、仙台陣やお勝の文という形で動いたのです。
もし、謀反する気なら絶対に来ないだろう・・・
しかし、駆けつけたことで、家康は政宗への疑いをときました。

政宗自身の証言によると、毎日のように見舞う政宗に、家康は将軍秀忠の後見さえも命じたといいます。
忠輝が、本当に政宗謀反を密告したのか・・・??
証拠はありません。
確かなのは、家康の言葉を聞いた政宗が、忠輝と縁を切り二度と支えようとしなかったことです。
家康は、政宗と忠輝を殺すことなく二人の間を裂き、政宗を秀忠を支える側にしたのです。

1616年3月19日、家康は、金銀を末の息子3人に分け与えます。
遺産の総額は、194万1600両・・・およそ1940億円でした。

4月2日、金地院崇伝らのブレーンを呼び、亡くなったのちの埋葬、位牌などを指示します。

”一周忌が過ぎたら、下野・日光に小堂を建て、勧請せよ
 関八州の鎮守になろう”

この言葉が、家康の遺言となりました。
そして4月17日、息を引き取ります。
享年75・・・
家康の死から3か月後、忠輝は将軍秀忠の命で改易され伊勢朝熊に蟄居となります。

長野県諏訪市・・・貞正院・・・
伊勢に流されてから10年後、忠輝は諏訪に移され92歳で亡くなるまでこの寺で過ごしました。
25歳で流されてから67年、その頃、幕府は5代将軍・綱吉の時代になっていました。

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