日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:一橋慶喜

1853年、アメリカ東インド艦隊司令官マシュー・ペリー率いる黒船4隻が、浦賀沖に姿を現しました。
黒船来航・・・それは、2世紀半続いた江戸幕府の終焉の始まり・・・
外圧に、攘夷を叫ぶ声、幕府の権威は低下していきました。
そんな時代に幕府をしょって立つことになったのが、14代将軍・徳川家茂です。
家茂が将軍だったのは、8年9カ月・・・そのすべてを、幕末の騒乱を治めるために奔走しました。

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14代将軍・徳川家茂誕生。
黒船の来航により、長く続いた太平の世は終わります。
ペリーは開国を要求、そのわずか19日後、危機に直面した幕府に追い打ちをかけるように、12代将軍徳川家慶が死去。
13代将軍に就任したのは、家慶の子・家定でした。
しかし、生まれつき病弱の家定に、世継ぎの誕生が望めなかったことから、早々に次の将軍を誰にするか、将軍継承問題が持ち上がります。
候補は2人・・・御三家・水戸藩の出身で御三卿・一橋家を継いだ一橋慶喜と、御三家・紀州藩主の徳川慶福(のちの家茂)です。
慶喜を擁立した一橋派を占めるのは、薩摩藩主・島津斉彬や土佐藩主・山内容堂らの外様大名、将軍選びには能力を重視し、譜代大名以外の有力大名も幕政に参加すべしという開明派でした。
対して慶福を担ぎだしたのは、譜代大名の彦根藩主・井伊直弼や会津藩主・松平容保らの南紀派・・・今までの幕藩体制を維持しようとする保守派でした。
この将軍争いで、当初は慶喜がリードしていました。
慶喜はすでに元服していて慶福より年長で、さらに、非常に優秀で、英名の誉れ高い青年でした。
慶福はまだ13歳・・・血筋は近いが、難しい政局を乗り切るには慶喜の方がいいのでは??と思われていました。
しかし、将軍の光景となったのは、劣勢とみられていた慶福でした。

どうして将軍になれたのでしょうか??
ひとつには、慶喜の足を引っ張った人物・・・慶喜の父で水戸藩主の徳川斉昭です。
斉昭は、かつて大奥の女中を襲って妊娠させ、大奥から嫌われていました。
その為、その子である慶喜が将軍になることに、大奥が強く反発したのです。
当時、大奥の力は強く、将軍後継選びにも及びました。
さらに、慶福を押す南紀派の井伊直弼が大老に就任。
形勢は逆転・・・直弼の強権によって、慶福は将軍後継となるのです。

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1858年、13代将軍・徳川家定が死去。
それに伴い、慶福は名を家茂と改め、14代将軍に就任します。
この時まだ13歳でした。

家茂は、1846年5月24日、11代紀州藩主・徳川斉順の嫡男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれます。
幼名は菊千代・・・父は、菊千代が生まれる前に亡くなってしまったため、誕生後、12歳紀州藩主となっていた叔父・斉疆の養子となりました。
ところが、斉疆も、30歳の若さで死去・・・
1849年、菊千代はわずか4歳で13代紀州藩主に就任しました。
そんな菊千代には心強い味方がいました。
波江という美しく聡明な教育係です。
家茂の誕生から教育係を務め、しっかりと手堅く、相応の人物でした。
波江の教育のおかげで、家茂はリーダーとしての資質を備えて行きました。

6歳になった菊千代は、元服の儀に先立って、12代将軍・家慶に拝謁することになりました。

「今日は非常に大切な日ですから、お泣きにならないよう、大人しくしていなければなりませんよ」by波江

しかし、重々しい雰囲気で不安になり号泣・・・

「好きなものでなだめすかし 遊ばせよ」by家慶

そうして座敷に持ってこられたのは小鳥・・・
菊千代は、鳥や虫が大好きで、この時もすぐに泣き止み、無事将軍と対面することができました。
屋敷に帰ってきた菊千代は、波江の顔を見るなり

「波江、泣いたよ!」by菊千代

約束を破って泣いてしまったことをそのまま報告・・・
誠実な少年へと成長していきます。

菊千代は、家慶から慶の字を賜り、13代紀州藩主・徳川慶福となります。
そして藩主として恥じないよう、鍛錬をかさねて行きました。
毎日、朝は手習いのために筆をとり、その後、論語や孟子などを素読・・・剣術や柔術の稽古も怠りませんでした。
まさに文武両道・・・
1858年、慶福は江戸幕府14代将軍・徳川家茂となります。
その真面目さ、聡明さは変わることがありませんでした。

そんな家茂は、多くの幕臣から慕われます。
しかし、その優しさが動乱の時代の家茂を苦しめます。
家茂は、自分を将軍にしてくれた大老・井伊直弼に絶大な信頼を寄せます。
しかし・・・幕府の実権を握る直弼が暴走して開国路線を強行・・・!!
朝廷の勅許をえることなく独断でアメリカと日米修好通商条約を結んでしまいます。
さらに、安政の大獄を行い、幕府に批判的な勢力を弾圧粛清していきました。
直弼の横暴を良しとしない水戸藩士たち・・・尊王攘夷派によって、大事件・・・桜田門外の変!!
1860年3月3日・・・水戸浪士たちが登城中の井伊直弼を江戸城桜田門前で暗殺!!
直弼の死を知った家茂は涙し、悲嘆にくれたといいます。

将軍継承問題で勝利した南紀派の力が一気に弱まり、対立していた一橋派が息を吹き返します。
1862年、新たに将軍後見職に就任したのは、家茂と将軍を争った一橋慶喜でした。
幕府の実権は、一橋派が握っていくことになります。

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1860年、家茂の婚礼の儀が執り行われます。
将軍家に輿入れするため、京の都から江戸へ向かったその女性こそ・・・
時の孝明天皇の妹・皇女和宮でした。

アメリカの強硬な姿勢に屈し開国を決めた弱腰外交への批判、そして、大老・井伊直弼が白昼暗殺されるなど幕府の権威は急速に衰えていきました。
焦った幕府は、将軍・徳川家茂と皇女との婚礼を画策します。
天皇家と姻戚関係を結び、公武合体を行うことで、緊張を緩和し幕府の権威回復を働こうと目論んだのです。
この時、家茂と年のころが釣り合うと選ばれたのが、時の孝明天皇の妹・皇女和宮でした。
しかし、宮中以外の世界を知らない皇女には、江戸は恐ろしいところと死か思えませんでした。

「鬼のような異人が集まるところに違いない」by和宮

和宮は、当初この婚礼を強く拒みました。
しかし、

”惜しまじな
   君と民とのためならば
 身は武蔵野の
   梅雨と消ゆとも”

兄・孝明天皇の為、民衆のためとこの婚礼を受けることになります。
1861年、和宮はお輿入れのために京都を発ちます。
道中の警備を入れると、総勢1万人以上、50kmにも及ぶ行列になったといいます。
そして、和宮の江戸到着から3か月後・・・
1962年2月11日、将軍家茂と和宮との婚儀が行われました。
この時二人は同じ17歳。
若い二人に混迷する幕府の行く末が託されたのです。

皇女から御台所となった和宮の住まいは、江戸城大奥!!
200年以上にわたる伝統と、厳しいしきたりによってつくられた女の園でした。
京の都とは異なる大奥での暮らし・・・不安と孤独の中で、和宮の心は固く閉じていきます。
しかし・・・やがて、和宮は心を開いていきます。
家茂の優しさから、信頼関係が生まれていったのです。
家茂は、和宮を大事にすることによって、幕府と朝廷の関係が良くなることを望んでいました。
かなり気を遣って大切にし、気にかけていたのです。
夫・家茂の優しく誠実な人柄が、和宮の心を開かせたのです。

229年ぶりの上洛・・・
時の孝明天皇は、異国人が日本に入ることを嫌い、外国勢力を打ち払う攘夷を望みます。
これに呼応し、天皇のいる京の都には、尊王攘夷派の志士たちが、全国から集結していました。
中心となったのは、桂小五郎・高杉晋作らのいた長州藩です。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけていきます。
そして、過激化した長州藩士とそれに呼応する公家たちは、天誅と称して、反対派への脅迫行為と暗殺を繰り返していました。
これに対し、幕府は会津藩主・松平容保を京都守護職に任じ、配下に浪士集団である新選組を置くなど、治安維持に努めます。
そんな中、1863年3月、14代将軍・家茂が上洛するのです。
江戸幕府将軍の上洛は、3代将軍家茂以来229年ぶりのことでした。

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当時の京都は、尊王攘夷を掲げる過激派の志士たちが暴れ回っていました。
将軍がいくことによって、幕府の力を京都に及ぼそうとしたのです。
それは、公武合体をより確かなものにするためでした。

孝明天皇と対面した家茂・・・2人の間である約束が交わされます。
「攘夷」実行が、天皇及び朝廷の強い意向でした。
孝明天皇の周りの尊王攘夷の過激派を納得させるためには、幕府が戦闘に立って外国船を打ち払うこと・・・それが、孝明天皇に対する忠誠だと考えました。
家茂は、現実的に外国船打ち払いは不可能だとわかっていました。
しかし、孝明天皇に対し、5月10日に譲位を実行すると約束するのです。

妻・和宮の兄でもある孝明天皇の御心を無下にはできない・・・
心優しき将軍は無理を承知の約束をしますが、これが家茂をさらに追い詰めていきます。
家茂が譲位決行日とした5月10日、幕府は動きませんでしたが、長州藩がとんでもない行動に出ます。
なかなか攘夷を行動に移さない幕府に業を煮やし、下関を航行中のアメリカ商船などに向かっていきなり大砲を放ったのです。
さらに、家茂が江戸に帰ったのち、京の都でも事件が起きます。
際限なく過激化する長州藩と尊王攘夷派の公家たちが、孝明天皇の不興を買い京都から追放されたのです。
世にいう、八月十八日の政変です。

その翌年の1864年1月・・・将軍家茂は、二度目の上洛を果たします。
参内した家茂は、孝明天皇からお言葉を賜ります。

「汝は朕が赤子
 朕 汝を愛すること子の如し
 汝 朕を親しむこと父の如くせよ
 その親睦の厚薄
 天下挽回の成否に関係す」by孝明天皇

親子のように互いに情愛をもって親しむことが、天下泰平へとつながると・・・
それは、公武合体を強固なものにしていこうということでした。
さらに、

「無謀な攘夷は望むところではない」

京都で家茂の心を癒してくれたものは、他にもありました。
和宮からの手紙でした。
しかし、時代のうねりは早く、激しく、家茂を巻き込んでいきます。

1864年7月19日、京の都を追放された長州藩が、御所周辺で武力蜂起!!
御所に攻め込んできました。
禁門の変です。
この暴挙に、孝明天皇は激怒!!
1865年9月、孝明天皇は長州征討の勅許を下します。
第1次長州征討・・・大坂にいた将軍・家茂が、幕府軍総大将として指揮を執りました。
しかし・・・なんと、混乱のさ中、朝廷に将軍の辞職を願い出るのです。
家茂はどうして将軍の辞職を望んだのでしょうか?
当時、国内の混乱に加え、諸外国からの圧力も強硬になっていく一方でした。
イギリス・フランス・オランダが、兵庫(神戸)の開港と、通商条約の勅許を強硬に求めていました。
幕府は兵庫開港をやむなしと考えていましたが、将軍後見職・一橋慶喜が開港に反対していました。
慶喜は江戸幕府と別の権力を京都で構築していました。
一会桑・・・一橋家・会津藩・桑名藩のことで、彼らは朝廷と強く結びついていました。
江戸幕府は、朝廷をコントロールしようと考えていましたが、「一会桑」は、朝廷の意向を第一に考えていました。
それが、大きな亀裂となっていたのです。
家茂は、幕府と一会桑の対立に板挟みとなり、有効な手段を打てずにいました。
事態は、家茂のキャパシティを越えてしまっていたのです。
将軍職を、慶喜に譲ろうとしていました。
しかし、慶喜はこの一番の難局に将軍となって火中の栗を拾う必要はないと考えていたのです。
家茂は、慶喜の説得を受けて辞意を撤回し、将軍職にとどまります。


不安なご時世に、庶民が歌い踊る「ええじゃないか」がはやる中、決してええじゃないかと言えない将軍・家茂はますます追い詰められていきます。

第1次長州征討の際、幕府への恭順派が権勢を握ったことで長州藩は戦わずして降伏。
しかし、これに我慢できなかったのが、長州藩の尊王攘夷派の中心にいた高杉晋作でした。
高杉は、町人や農民などの民衆で組織した奇兵隊を結成、武装蜂起し、再び幕府に反旗を翻しました。
これに対し、1866年再び長州征討の勅許が出され、幕府は15万人の兵を挙げて鎮圧に乗り出します。
第2次長州征討の始まりでした。
三度目の上洛をしていた将軍・家茂は、大坂城で布陣。
しかし、前とは状況が変わっていました。
長州藩と密か同盟を組んでいた薩摩藩が出兵を拒否します。
足並みが乱れた幕府軍は、敗戦を繰り返します。
そんな中、家茂が体調を崩します。
喉や胃腸の障害をきたし、やがて足が腫れだしました。
脚気です。
墓所の発掘調査によって、家茂には虫歯が30あったことがわかっています。
当分は、脚気の原因であるビタミンB1の消費を加速させます。

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孝明天皇が、自らの御典医を家茂のもとに送ります。
懸命の治療が行われましたが、その甲斐もなく、1866年7月20日、14代将軍・徳川家茂死去。
大坂城で息を引き取りました。
将軍在位・8年9カ月、まだ21歳でした。

激動の時代に将軍となった徳川家茂・・・後世の評価は??
幅広い人たちの信頼を得て、幕府の内紛や事件を未然に防いでいます。
確執が表に出ないような安定した政治を行えた人でした。
バランスがよく、人との信頼関係も上手に築けたようです。

家茂のような調整型の人との信頼関係を作る政治家には、もっと時間が必要でした。
家茂の亡骸は、和宮の待つ江戸城に運ばれました。
一緒に届けられたのが西陣織の反物・・・和宮が家茂におねだりしていたもので、家茂は具合が悪い中、忘れずに買っていてくれたのです。

悲しみに暮れる和宮が詠んだ歌・・・

空蝉の 唐織衣 なにかせむ
      綾も錦も 君ありてこそ

家茂亡き後、和宮は京の都に戻ることなく、徳川の女として生きます。
そして、1877年8月に亡くなりました。

その遺言により、2人は今、寄り添うように眠っています。
いつまでの仲睦まじく・・・

家茂の後、将軍となった第15代将軍徳川慶喜は、1867年に大政奉還。
江戸幕府は終焉を迎えました。
しかし、混迷を迎える幕末・・・
大きく揺れる日本を、崩れゆく江戸幕府を、必死で支えようと紛争開いていたのは間違いない将軍・家茂でした。
激動の世を駆け抜けた将軍、波乱に満ちた21年の生涯でした。

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日本資本主義の父・渋沢栄一・・・生涯で、500もの会社を立ち上げ、日本経済の発展に多大な貢献をしました。
晩年は、国際交流にも尽力し、ノーベル平和賞候補者に二度までも推薦されました。
しかし、渋沢の青春時代は、平和とは程遠かったのです。
時は幕末!!外国船を打ち払えと、攘夷が叫ばれ、日本国内は騒然としました。
若き日の渋沢も、攘夷を実行しない幕府に、同志を集めて討幕のテロを計画します。
これを発端に、いくつかの出会いが渋沢を導きます。

埼玉県深谷市・・・かつて武蔵国と呼ばれたこの地に渋沢栄一は生まれました。
栄一の家は、麦の栽培や養蚕の他に、藍染めに使う藍玉の製造販売で財をなしていました。
藍の葉を発酵して固めた藍玉・・・栄一の父・市郎衛門は藍の葉の目利きとして知られていました。
栄一は、6.7歳の頃から親戚の尾高惇忠のもとで学問をはじめます。
栄一が毎日のように通った尾高家が今も保存されています。
近隣の子供たちと家に集い、惇忠の薦めで読書に熱中しました。
自伝「雨夜譚」で、東寺をこう振り返っています。

”里見八犬伝のような小説や軍記物の類が至って好きで、正月のあいさつ回りの時も、本を読みながら歩いていて、溝に落ちてしまい晴着を汚してしまいたいそう母親に叱られたことがありました”

そんな栄一に、父親は厳しく・・・

”父から、家業にも精を出すよう言われ、13の年には一人で藍の葉の買い付けに行ったもんです”

後に、大実業家になる渋沢栄一の商いは、藍の葉を買い集めることから始まりました。
藍玉の出来は、葉の出来の良し悪しに左右されました。
そこで、栄一は、農家に良質の愛を栽培してもらうために工夫します。
農家を力士に見立て、葉の質に応じて番付にします。
これを、農家を集めた宴会の余興に配ったといいます。
行司役には、栄一の名が記されています。

渋沢が考えたのは、情報共有でした。
上位の人は、何か工夫があるはずだと勉強する場となり、村全体が一致団結、もっといい藍を作って藍玉というものを製造販売すれば、村全体に利益がある・・・ひいては人々が豊かになる・・・!!
そこに、渋沢栄一の原点があります。

商売の面白さを知り、父の信頼も得た栄一は、各地の集金を任されるようになります。
はじめて栄一が愛の買い付けをしたのが・・・1853年6月、江戸は大変な騒ぎに・・・
ペリー提督率いる黒船の来航です。
栄一が暮らす武蔵国の隣国・常陸国・水戸では、外国を打ち払えと攘夷が叫ばれ、すでに軍事演習まで行われていました。
栄一の師匠・尾高惇忠も、攘夷思想に傾倒していました。

1856年・・・16歳になった栄一にも、政治に不満を抱く事件が起きます。
それは、血洗島を治める岡部藩の代官から御用金差出の命が下ったことに始まります。
御用金とは、逼迫した藩の財政では賄えない出費を、領民に供出させるというもので、返済されることはありませんでした。
裕福な栄一の家には、ことあるごとに御用金が要求されていました。
都合で行けない父に代わって他の当主たちと陣屋に出向きます。
代官は、横柄な態度で、栄一に500両差し出すように命令します。
よその主人たちは、平伏して引き受けましたが・・・
「私は代理ですから、一度帰って父の承諾を得たうえで、改めてご返事に参ります」と答えました。
代官は、こんな判断もできないのかと、栄一を子ども扱いしてバカにしました。
しかし、栄一は頑として受け付けず、陣屋を後にします。

「無性に腹が立った私は、その根本をよくよく考えました
 あんな下劣な男が代官を務めているのは、もとをただせば藩がだらしなく、藩がだらしないのは幕府がいけないのだと思い至ったのです」

結局、渋沢家は、御用金を引き受けましたが、その後も栄一の心を騒がせる事件が次々とおこります。
栄一、19歳の年に横浜が開港。
さらに、その翌年には桜田門外の変で大老・井伊直弼が水戸藩士らによって殺害されます。
天皇の許可なしにアメリカと通商条約を結んだことが原因でした。

渋沢栄一 100の訓言 「日本資本主義の父」が教える黄金の知恵 (日経ビジネス人文庫) [ 渋澤 健 ]
渋沢栄一 100の訓言 「日本資本主義の父」が教える黄金の知恵 (日経ビジネス人文庫) [ 渋澤 健 ]

21歳になった栄一は、農閑期だけという許しを得て、江戸に出ました。
栄一は、塾や千葉道場で憂国の同志たちと合流し、最新の情報に触れます。

1863年8月・・・攘夷を実行しない幕府を倒すしかないと思いつめ、尾高惇忠や従兄弟・喜作と共に討幕の策を練ります。
その策とは・・・横浜を焼き討ちして、外国人を片っ端から切り殺すという乱暴なものでした。
藍玉の売り上げから流用した金で、刀や槍・100本余りを用意しました。
決行に当たり、まず高崎城を襲撃、さらに武器を補充してから鎌倉街道を横浜へと南下する作戦でした。

「幕府に攘夷などできない・・・もはや、徳川の政府は滅亡するに違いないと一途に思い込んでいたので、自分たちが目覚ましく血祭りになって、世の中に騒動を引き起こす引き金になろうと考えたのです」

この血気盛んな決意を、尾高惇忠が信託と題した檄文に認めます。
神に託された計画の正当性と外国人の打ち払いを激烈な言葉で綴り、人々を扇動するものでした。
集まった同氏は総勢69人・・・江戸で知り合った憂国の士と惇忠や栄一に感化された農民でした。
決行は11月23日・・・冬至の日と決定しまた。

10月29日・・・決行の日も近づき、栄一らは尾高家の2階に集まります。
京都の情勢を探索してきた惇忠の弟・長七郎が帰郷したのです。
長七郎を交え、倒幕計画の詰めが行われました。
剣術化として知られた長七郎は、挙兵の参謀官でした。
しかし、長七郎は、栄一たちの計画を聞き、猛烈に反対します。
長七郎は、京都で攘夷派の反乱が力づくで押さえ込まれ、攘夷派公暁までもが朝廷から放逐される様を目の当たりにしてきました。
意見の対立で興奮した栄一と長七郎は、お互いを殺してでも計画を止める、決行すると激論し、夜を明かしました。

「ここまで長七郎さんに言われ、よくよく考えてみたところが・・・
 百姓一揆のように、みなされては後に続く志士もなく、犬死になるかもしれないと悟ったのです
 長七郎さんが、命がけで私らの命を救ってくれたのです」

倒幕計画は断念しましたが、栄一は安穏としてはいられませんでした。
計画のうわさが幕府方に漏れると捕らえられる恐れがありました。
栄一は、各地から人と情報が集まる動乱の中心地・京都に身を隠すことにして、喜作と共に故郷血洗島村を出奔します。

栄一と喜作は情報と策謀の渦巻く京都にいました。
道中の安全は、平岡円四郎という人物の助けを借りました。
平岡は、徳川家の身内・御三卿の一つ一橋家重役でした。
攘夷倒幕に逸る栄一と違い、平岡は開国派でしたが栄一を見所ある若者と評価していました。
平岡は、すでに主君・一橋慶喜に従い京都にいました。
しかし、栄一たちが江戸の留守宅に来たら、家来の身分を与えて京都に来るようにと言い残していたのです。
京都についた栄一たちは、もとより家来になる気はないため、平岡への挨拶もそこそこに諸国の志士たちとの交流や物見遊山に時を過ごしました。

1864年2月・・・栄一のもとに驚愕すべきたよりが届きました。
高崎城襲撃を命がけで止めてくれた尾高長七郎が、殺人事件を起こし捕らえられ、懐から栄一の手紙が出てきたというのです。
それは、栄一が、京都から幕政批判を書き連ね、長七郎も上洛するようにと誘った文でした。
これによって長七郎は討幕派の嫌疑をかけられているという・・・
翌朝、栄一は平岡円四郎から呼び出され、長七郎の一件で、江戸から一橋家に問い合わせが来たのです。
栄一は事の経緯を包み隠さず話しました。
聞き終えた平岡は、栄一たちに思いがけない提案をします。

考えの違いは脇において、一橋家に仕官しないかというのです。
 
予想もしなかった平岡からの誘いに栄一は戸惑います。
宿に戻って悩みます。
討幕の意志を貫くのか、あるいは幕府を支える一橋家に身を寄せるのか??

思い悩むうちに、夜は白々と明けてきました。
渋沢栄一、この時24歳!!
人生の岐路となる選択を迫られます。

議論の末、朝を迎えた栄一たちは、平岡円四郎のもとに出向きます。
そこで栄一は、平岡の申し出を受け、一橋家への仕官を願い出ます。
しかし、召し抱えられるにあたり、条件を付けます。
あろうことか、慶喜本人に直接思いのたけを伝えたいというのです。
前例がないと渋る平岡に、農民を直に召し抱えることも例がありますまいと食い下がる栄一・・・!!
数日後、平尾確信の差配によって、慶喜の宿で拝謁が実現します。

「身の程知らずにも、慶喜公に幕府の命脈もすでに滅絶したと、無遠慮に申し上げたのです
 幕府が潰れるのを、とりつくろわれるようでは、一橋の御家ももろとも潰れます
 敢えて、好むことではござりませぬが、幕府をつぶすのが徳川家を忠孝するもとであります
 と、正直に申し上げたところ、慶喜公はただふむふむと聞いておられました」

慶喜との出会いで、栄一の運命は大きく動き出します。
一橋家仕官後の栄一の活躍は目覚ましく、栄一は一橋の武力強化のため、農民からなる歩兵の編成を目指します。
西国の一橋領をめぐって勧誘し、志願者500人という成果を上げました。
続いて取り組んだのが、一橋家の財政強化でした。
勘定組頭となった栄一は、藩札を発行して、播磨の木綿を買い上げます。
これを特産品として販売し、一橋家の財政を改善していきます。

明治政府がスローガンにあげた富国強兵の一橋家版でした。
慶喜の政界での力を高める意図で、一橋家の財政改革に尽力していきます。
ところが、またしても栄一に時代の大波が押し寄せます。
14代将軍・家茂が死去し、慶喜の15代将軍就任がとりだたされる事態となったのです。
栄一は、幕府はやがて斃れる運命とみていました。

「徳川氏は、家屋に例えていうと土台も柱も腐り、屋根も二階も朽ちた大きな家の如きもの・・・
 故に、何卒徳川家相続はおやめ願いたいと上司に進言し、直接慶喜公に申し上げる運びになったのですが」

一橋慶喜は、幕府老中からの懇請を受け入れ、徳川家を相続して徳川慶喜となりました。
栄一は、失望の極みにありました。

「この時は、また元の浪人になろうか、いや、いっそ死んでしまおうかと思い詰めた次第です」

栄一自身は、幕府は日本を背負える組織ではないと感じていました。
潰れていく幕府のTOPを継いでしまう・・・日本を変えていきたいといった思いで一橋慶喜のもとで一生懸命働いてきた栄一にとって、見通せなくなったことで落胆しました。
しかし、この後、またしても栄一に大きな転機が訪れます。

渋沢栄一検定 公式テキスト [ 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 ]
渋沢栄一検定 公式テキスト [ 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 ]

倒すべき敵だった幕府の家臣となってしまった栄一・・・
もう、死んでしまおうかと考えていた矢先、思いもよらない話が舞い込んできます。
フランス・パリに行かないかというのです。
1867年、パリで開催される万国博覧会に、幕府は義信の弟・昭武を将軍名代として派遣し、その後もパリで留学させることにしました。
栄一は、昭武の世話係として、庶務と会計を担うことを期待されていました。
多くの家臣の中から栄一を指名したのは慶喜でした。
これを聞き、栄一はパリ行きを即答します。

「この降ってきたような話、その時の嬉しさは実になんとも例えようもありませんでした
 速やかにお受けをいたしますから、是非お遣わしを願います、どのような甘苦も決して厭いませんとお答えしました」

1867年1月、栄一は横浜を出航!!
長旅の末に到着したパリで、栄一は昭武の世話や滞在費の管理に多忙な日々を送りながら、ヨーロッパの習慣になじんでいきました。

一方、日本ではその年の10月、徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出ました。
この報せがパリに届いたのは、翌年の1月2日。
この時、すでに大坂を出た旧幕府軍は、京都鳥羽伏見に進軍をはじめていました。
しかし、旧幕府軍は惨敗し、慶喜は謹慎しました。
戊辰戦争開戦から2か月後、栄一はパリでこの報せを受け取ります。
栄一は、水戸・徳川家に生まれた昭武を、先行きが見えない日本に帰さず、フランス留学を続けさせることを望みました。
しかし、4月に水戸藩主・徳川慶篤が死去すると、これによって昭武が水戸藩を継ぐことが決まりました。
止むなく栄一がフランスを発った4日後、日本は年号を明治と改めました。
帰国後、栄一は駿府に向かいます。
かつて行き場を失った自分を召し抱え、活躍する場所を与えてくれた慶喜がそこで謹慎していました。

「慶喜公は、貧相なお寺に蟄居していらっしゃいました。 
 畳が破れて、薄暗い行燈のともった小さな一室に、ひとりでひょろりと入って来られ、しょんぼりとお座りになりました
 余りのお変わりように、感極まって涙がこぼれました」

慶喜は、フランスでの昭武の様子を聞き、栄一の労をねぎらったといいます。

明治以降、経済界で華々しい業績を積み上げる栄一・・・
しかし、老境に至っても、倒幕に思いを寄せた血洗島村の生家に度々帰郷しました。
ふるさとの家族たちも、栄一のための座敷を作り、温かく迎えたといいます。

「私は特に人より優れた才能があったわけではありませんが、真心ひとつで万事に当たってまいりました
 まるで夢うつつのようですが、忘れがたいことばかりでありました」

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渋沢栄一 才能を活かし、お金を活かし、人を活かす 実業の父が教える「人生繁栄の法則」 (知的生きかた文庫) [ 大下 英治 ]
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水戸藩第9代藩主・徳川斉昭は、その優れた功績に激しい気性も重ねて、後に烈公と呼ばれ、激動の時代を強烈な個性で生きた人物でした。
江戸時代後期、日本は開国を要求する外国からの脅威にさらされました。
この危機に立ち向かうため、斉昭が諸藩に先駆けて掲げたのが尊王攘夷・・・天皇をいただき、外敵を打ち払うというスローガンです。
斉昭は攘夷の急先鋒に立ち、全国の志士たちに大きな影響を与えました。

徳川斉昭 不確実な時代に生きて [ 永井 博 ]
徳川斉昭 不確実な時代に生きて [ 永井 博 ]

徳川御三家の一つ・水戸藩の城下町として栄えた茨木県水戸市・・・
藩の石高35万石は御三家では最も少なく、藩主は水戸ではなく江戸に常駐して将軍家を支えました。
藩校・弘道館・・・優れた藩士を育成するために設けられました。
3万2000坪の広大な敷地は、当時日本最大規模だったといわれています。
最盛期には、1000人の生徒が学び、文武両道に学びました。
この弘道館を作ったのが水戸藩第9代藩主・徳川斉昭です。
弘道館の中心に建てられた八卦堂・・・お堂には斉昭の教育理念を掲げた弘道館記碑が納められています。
江戸時代を通じて受け継がれてきた水戸藩の精神が刻まれています。

天皇を貴ぶ尊王、そして外国を打ち払う攘夷・・・斉昭はこの二つを組み合わせた尊王攘夷の実践を何よりも重んじました。
ここにあるのは”東照宮 撥乱反正 尊王攘夷”・・・徳川家康が、戦乱を治め正しい道に返し、皇室を尊び、外国との交易を制御した・・・家康の天下統一の功績をたたえるために使用された言葉と考えられます。
斉昭は、尊王攘夷を水戸藩のっ伝統として受け継いでいきたい・・・と考えていたのではないかと思われます。
斉昭の思想の礎となったのは、二代藩主徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」。
神武天皇に始まり、南北朝時代の終わりに至るまで、歴代の天皇の事績を中心に記した歴史書です。
天皇を敬い、朝廷から政をゆだねられた幕府に忠誠を誓う・・・大義名分を重んじる朱子学の影響を受けた学問「水戸学」がここから発展していきます。
斉昭も、水戸学を学ぶことで、尊王攘夷の考えを固めていきます。
そして、時代の危機が差し迫る中、それを前面に打ち出していくのです。
臨海に外国船が次々と姿を現し、日本を脅かすようになります。
1804年には、ロシア船が通称を求めて来航、幕府がこれを拒絶したため、樺太や択捉が襲撃されました。
1808年には、長崎にイギリス船が不法侵入・・・人質を取り、水や燃料を要求して幕府に大きな衝撃を与えました。
度重なる外国船の接近に、海岸線が長い水戸藩も警戒を強めていました。
そうした中、水戸藩が恐れていた事態が起こります。
領内の大津浜に食料を求めて2隻の外国船が漂着しました。
上陸した12人のイギリス人を捕縛し、取り調べを行いましたが、その間、沖合の船は空砲をならし威嚇し続けました。
黒船来航の30年前の事です。
既に水戸藩は外国の脅威を肌で感じていたのです。
1829年、斉昭は、30歳で水戸藩第9代藩主に就任します。
自らの力で攘夷を実現すべく、対外政策の改革を打ち出していきます。
斉昭は目をつけたのは、北方にある蝦夷地・・・ロシアからの侵略を防ぐため、藩士を移住させ、有事の際は武力行使も辞さない考えでした。
開拓計画を斉昭は自ら執筆した「北方未来考」で明らかにします。
挿絵をふんだんに使い、蝦夷地の城を拠点にロシアに立ち向かう構想を示しています。
積み上げた石垣の間から、的確に銃で敵を狙い撃ちする作戦です。
堀の入り口には水門を築き、綱や鎖を設置して敵の侵入を阻止する方法を考えています。
さらに斉昭は、海防政策の要として、大型船の建造を幕府に求めます。
当時、軍事力の強化や外国との交易を防ぐため、幕府は大型船の建造を禁じていました。
斉昭は、外国船に脅かされる今こそ、その解禁が必要だと訴えました。

「堅固な大型船の建造をお許しになれば、海防のためによろしく 人命も助かり重要な荷物が海中に沈む心配もなくなる」

しかし、幕府はそうした提案の御数々を決して認めませんでした。
斉昭は、攘夷の実践のため、独自の行動に出ます。
狩猟を名目に、水戸郊外の原野で軍事演習を挙行。
この「追鳥狩」には、斉昭指揮のもと、3000人の水戸藩士が参加し、諸藩から人々が足を運ぶほど注目を集めました。

太平の世になれていて、甲冑さえも持っていない・・・そんな水戸藩士もたくさんいました。
藩士たちに甲冑を着させ、大砲や鉄砲を使う・・・大々的に見せることで、攘夷が重要だと天下に知らしめたかったのです。
大砲は、斉昭が外国船から沿岸を防備する為に開発したものでした。
この作られた大砲の銅は、領内の寺院から鐘や仏像を供出させ、それらを鋳つぶして作ったのです。
この行為は、寺院勢力だけでなく、水戸藩内部からも反感を買いました。
斉昭の急進的な改革の数々に、幕府も危機感を抱き始めます。
その結果、藩主就任から15年・・・1844年、斉昭は幕府から江戸屋敷での隠居謹慎を言い渡されます。
藩政への介入を絶たれた斉昭は、失意の中、藩主の座を息子・慶篤に譲ります。
斉昭の改革は、志半ばでとん挫することになります。

隠居・謹慎の身で苦悩の日々を送る斉昭・・・
幕政の中核を担う老中首座・阿部正弘が就任すると、斉昭に転機が訪れます。
幕府として外国船の脅威に備える対策が急務と考えた阿部は、海防政策に精通する斉昭に意見を求めるようになります。
公の場に出られない斉昭は、書簡を通じて自らの考えを伝えます。

「軍艦の件は一日も早く着手したい
 異国に島々を奪われてから、こちらが船の製造にとりかかったところでどのみち手遅れである」

軍艦製造を求める斉昭の提案に対し、阿部は同意を示します。
そしてまず、幕府が作り、後に諸藩にも許可を与える方向で調整すると返信しました。
その後も、海防政策への助言を続けた斉昭は、阿部からの信頼を得て、幕府に欠かせない人材となっていきます。
1849年、斉昭は謹慎をとかれ、藩政へ復帰。
そしてこの時まだ17歳の藩主・慶篤を支える相談役に任じられました。
それから4年後・・・日本全土を揺るがす大事件が・・・!!
1853年6月3日、浦賀沖に黒船来航!!
司令長官のマシュー・ペリーは大統領の国書を持参し、日本の開国と通商を強く求めます。
海防政策が十分に練れていない中、アメリカの要求にどう答えたらいいのか・・・??
向かった先は、斉昭の屋敷でした。
今こそ、海防に関する見識を幕府で生かしてほしいと直々に要請します。
ペリー来航から1か月後・・・54歳の時に「海防参与」に任命されます。
遂に幕政への進出を果たしたのです。
斉昭は、ペリーの回答を引き延ばし、その間に海防を強化するように指示します。

「海防の強化を厳重にして、庶民を兵隊に加える
 もし、決戦になれば、全国に大号令を発し、武家だけでなく、百姓、町人まで覚悟を決めて、神国全ての心を一つにして団結することが肝要である」

攘夷の姿勢を崩さなかった斉昭は、幕府と諸藩が一体となって、未曽有の危機に立ち向かうことを訴えます。
危機感を過剰に煽らないと日本が侵略される危険性がある・・・
危機意識を高めることによって、バラバラだった日本人の心が一つになる・・・その先に、富国強兵を進めていく!!
「攘夷」は手段で、人々の心を一つにする・・・それが求められていました。
阿部は、斉昭の意見を取り入れ、戦火を交えるときは挙国一致で動く、海防の大号令を発します。
攘夷を貫いていたとみられる斉昭ですが・・・当時の斉昭の本心は・・・??
斉昭と同じく攘夷派だった福井藩主・松平春嶽に宛てた手紙です。

「外国と交際することは最善ではない
 しかし、今の辞世ではどうすることもできない
 とても攘夷を行うことはできない
 ぜひ交易、和親の道を開くべきで、尽力されることがいいだろう」

水戸藩で、海防政策に真っ先に着手した斉昭は、外国とは軍事力で大きな差があると感じていました。
現実を見据えて攘夷一辺倒ではなく、開国もやむ終えないと考えていたのです。

「私はもう年老いてしまった
 ”攘夷の巨魁”として、これまで世間に認知されてきたので、死ぬまでこの説は変えないつもりだ」

実際の行動と本心は乖離していたのです。
自分はとにかく攘夷を訴えるのが使命だ・・・!!

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幕府は通商問題を先送りにしたものの・・・1854年3月3日、日米和親条約締結。
下田・箱館の開港を認めます。
しかし、アメリカはそれに満足せず、2年後に来日したハリスは、通商条約の締結を強く要求。
拒否すればすぐ開戦という強硬な姿勢を見せました。
さらに、この外圧のさ中・・・斉昭の立場を揺るがす事態が・・・!!
病弱で子供のいなかった第13代徳川家定の後継者問題です。
譜代大名や幕臣の多くは、将軍・家定の血筋に近い紀州藩主・徳川慶福の擁立を目指しました。
それに対し、斉昭や西国の雄藩らは斉昭の息子・一橋慶喜を推挙します。
多難な幕府の行く末を託せる聡明な人物として期待されていました。
二つの勢力が対立する中、斉昭に信頼をよせてくれていた阿部正弘が、1857年に死去。
これを機に、斉昭も海防参与を辞任して水戸藩に戻り、幕政から距離を置きました。
その後、幕府の最高職・大老に彦根藩主・井伊直弼が就任・・・懸案の通商条約問題に取り組みます。
幕府ははじめ、天皇の勅許を仰ぎ条約調印を目指していました。
しかし、朝廷内は、攘夷の考えが根強く、孝明天皇の勅許は得られませんでした。
すると井伊は、無勅許のまま、1858年6月19日に日米修好通商条約を締結!!
朝廷と幕府の関係を揺るがす、異例の事態でした。
井伊の独断を許せなかった斉昭・・・
条約締結から5日後、幕府が定めた登城日を無視し、松平春嶽らと共に江戸城にいる井伊のもとに向かいます。
なぜ、天皇の許可なく調印したのか??
斉昭は問い詰めます。
井伊は、無勅許調印はやむなしとして、斉昭の質問をそれ以上受け付けませんでした。
さらに、将軍継嗣問題についても、井伊は斉昭たちの主張に取り合わず、次期将軍は慶福に決まっていることを告げました。
不満を募らせる斉昭・・・そこに追い打ちをかけるように幕府から江戸屋敷での謹慎を命じられます。
登城の件を身勝手な行動と判断されたのです。
斉昭は幕政だけでなく、藩の政からも再び離れることになりました。

斉昭謹慎の報せは、朝廷にも届いていました。
1858年8月8日、朝廷は孝明天皇の命令である「勅諚」を、尊王攘夷を掲げる水戸藩に直接下しました。
世に言う”戌午の密勅”です。
その内容は、通商条約の無勅許調印に対する叱責と、斉昭らの処分に対する幕府への批判、見直しでした。
そして、御三家や諸藩は、幕府と協力して国内の平安を図り、外国の侮りを受けないようにせよというものでした。
水戸藩に攘夷の推進を強く求めるものでした。
さらに、勅諚には添え書きが・・・”水戸藩から全国の諸藩に勅諚を伝達せよ”・・・幕府の頭越しに勅諚を諸藩に伝えるという前代未聞の指令でした。
尊攘の志士たちの意向が朝廷内に反映していました。
斉昭、水戸藩に重要な役割を担ってほしい!!
水戸藩に幕府をアシストして、勅諚の内容を実現するように努力させようとしたのです。

2日後、同じ内容の勅諚が幕府にも下されました。
この時幕府は、水戸藩に直接勅諚が送られたことを知ることになります。
一方、突然受け取った勅諚の扱いに、斉昭や水戸藩は困惑しました。
程なく、藩内でもこの一件は周知の事実となります。
即刻諸藩に勅諚を伝えるべきという声も上がり始め、その是非をめぐり意見は割れました。
謹慎中の斉昭は、みずから指揮を執れず、水戸藩は統制が利かない状況に陥っています。
勅諚の扱いは、水戸藩の行く末を左右しかねない・・・どうする斉昭・・・??
朝廷と幕府の狭間で、斉昭と水戸藩は厳しい選択を迫られました。

幕末の魁、維新の殿 徳川斉昭の攘夷 [ 小野寺龍太 ]
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思い悩む斉昭・・・そんな斉昭に進言したのは、水戸学の指導者として知られた会沢正志斎でした。
斉昭を尊王攘夷の思想へと導いた師匠に当たる人物です。
会沢はこの時、
「勅諚の趣旨を、幕府が穏便に受け取ればよいが、そうでなければ私にもどのような異変が起こるかは想像もできない」
と、あくまで勅諚を慎重に扱い、取り置くことを提案しました。
これを受けて斉昭は、勅諚を藩に留めるべきだと判断します。
藩主・慶篤にも、幕府を通り越して諸藩に伝達することは断念するように勧めました。
将軍家あっての水戸家・・・尊王をもっとも率先してやるべきは、”将軍”という立場はぶれていませんでした。

勅諚をとどめたことをきっかけに、反論は真っ二つに割れました。
斉昭の判断に従い幕府を刺激すべきではないと主張する鎮派、それに異を唱えたのが天皇の勅諚通りに諸藩への伝達を唱える激派・・・幕府への敵対心を示し、次々と江戸へ向かいます。
激派に刺激された領民たちも追随します。
謹慎中の斉昭は、激派の怒りを鎮めるために自らの思いを諭し書きに認めました。

「我々の処分が解けず、悲嘆に耐えかねて、思いつめて起こした行動ではなかろうか
 幕府への忠誠により、私は深く謹慎している
 この心情をくみ取り、早く争いを鎮めよ」

もとは自分の蒔いた種・・・しかし、その種は、勝手に成長してしまったのです。
一番の問題点は、謹慎蟄居により外に出られなくなってしまったことでした。
斉昭支持派は、勝手に忖度をはじめてしまったのです。
斉昭の肉声が届かなくなってしまっていました。
そんな中、彼らの行動はエスカレートしていく・・・それを止められないもどかしさ・・・!!
井伊直弼は、密勅の問題が幕政を揺るがすという危機感を抱き、反対派の一斉弾圧をはじめます。
安政の大獄です。
激派の首謀者と見なされた斉昭は、1859年8月、「永蟄居」の処分を受けます。
斉昭の政治生命は、永久に立たれることになります。
江戸に護送された藩士たちは、打ち首や獄門などの過酷な刑に処せられました。
その後、幕府は水戸藩に対し勅諚の返納を求めましたが、激派は断固拒否し、抵抗を続けます。

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そして・・・激派の一味は藩を抜け出し、1860年3月3日、江戸桜田門外で、彦根藩の行列を襲撃・・・井伊を殺害します。
その日の深夜、斉昭はいい暗殺の報告を受け・・・

「将軍家の信頼が篤い宰相を殺害するとは不届き至極!!
 言語道断だ!!」

自らが火をつけた尊王攘夷のうねりは、斉昭の思惑をはるかに超えて、先鋭化していたのです。
その5か月後・・・1860年8月15日、斉昭は水戸藩の将来を案じながら、
61歳でその生涯を閉じました。
斉昭の死後、幕府は水戸藩に対する監視をゆるめませんでしたが、激派の勢いは止まりませんでした。
中でも過激な尊皇攘夷を唱える天狗党が反省の実権を掌握!!
朝廷との約束である攘夷を直ちに実行すべしと訴えた天狗党は、筑波山で挙兵!!
しかし、幕府軍に追討され、指導者以下300人が命を落としました。
すると今度は、幕府よりの保守勢力が藩内を制圧・・・しかし、その後も天狗党との血で血を洗う構想は続き、水戸藩は衰退の一途をたどりました。

水戸徳川家にゆかりのある鷲子山上神社・・・ここに、幕末の水戸藩の姿を象徴するものが残されています。
斉昭公から頂いた水戸家の手鏡・・・その真ん中には菊のご紋が・・・周りに小さく葵のご紋が・・・菊は皇室への敬意、葵は幕府への忠誠・・・水戸学の伝統に基づき両者を共存させようとした水戸藩・・・斉昭が推し進めた理念に、藩はほんろうされ続けました。
そして、混乱を極める中で、幕末の政局の主導権を失っていくのでした。


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【新品】【本】徳川斉昭 不確実な時代に生きて 永井博/著
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第2回です。
今回から吉沢亮くん登場ですよ~~!!

9歳になった栄一は、お父さんの仕事のお手伝いを始めていました。

tuke5











目利きな父親と一緒に、各地の藍農家をまわり、藍葉を買い付けるのも仕事でした。
躾に、仕事に厳しい父も、栄一に仕事を教えるのは楽しいようです。

tuke2















村では、五穀豊穣と悪疫退散のために、祭りが催されます。
お千代もまつりに合わせて、新しい着物を作ってもらえると喜んでいました。

血洗島の渋沢家には、この地域一帯を納めている岡部藩の代官が時々やってきました。
そんな時は、精一杯のおもてなしで迎えることが常でした。
代官からお話がありました。

「この度、若殿の御乗出しが決まった
 ついでは、道を整えねばならぬ
 六月吉日の前後十日、この村より人足を百人と御用金二千両を用意するようにとのお申し付けだ」

「恐れながら、お代官様・・・
 その頃と申しますと、この村は一年のうちで一番人手が足りぬ時期で・・・
 毎年、他の村より人手を借りるほど・・・
 御用金の方は、なんとか用立てます。
 何卒今少し、人足の数を減らしてはいただけませんかと・・・」by市郎右衛門

「そうか・・・その方、不服と申すのか・・・!!」

「不服など、もってのほか・・・
 ただ・・・六月は、お蚕様も繭になり、藍の買取も一番忙しい時にて・・・
 どうか、この地の百姓のためにも、百を八十に、九十にも減らしてはいただけませんか・・・」by市郎右衛門

「たわけおって!!
 その方、百姓の分際で口が過ぎるぞ・・・!!」byお代官様

「ははっ!!」by市郎右衛門

「いいか、お上が百人出せといったら、百人出すんだ!!」byお代官様


何か言いだしそうな栄一に口止めする母・・・
井戸に向かって叫びます。

「承服できん!!
 承服できっこないに!!
 なんでとっさまが・・・村のみんなに慕われているとっさまが・・・
 あんなに頭を低くしなきゃなんねえに!!」by栄一

村人に慕われている父が、頭を下げて・・・悔しかったのです。

人も足りない・・・お金も足りない・・・みんなが楽しみにしていた祭りは諦めないといけないのか・・・??

「俺は嫌だに!! 
 俺は獅子が舞いてえ!!
 祭りをしてくれ!!
 そんじゃあ、今年の五穀豊穣はどうするんだに!!」
 悪疫退散は・・・祭りをして村の悪いものを追い出さねえと、なんねえ・・・!!
 だって、おいちゃんも、村の祭りは大事だといったじゃねえか・・・!!
 大事とわかっててやんねえのは、”義を見てせざるは勇無きなり”だ!!」by栄一

父に頭をはたかれてしまいました。

「なんもわかんねえモンが、えらそうなこと言うな!!
 みんなも悪いな・・・
 お代官様からの申しつけだが、ちと来てくれ・・・」by市郎右衛門

村のみんなも、栄一の気持ちを痛いほどわかってくれていました。
でも・・・祭りは無くなってしまったのです。
不条理を感じる栄一でした。

その頃、江戸城の一橋邸・・・
七郎麻呂は、将軍・家慶の慶の字を賜わり、徳川慶喜となりました。
そして・・・暇を持て余していたのです。

その頃、水戸・・・
慶喜の父・斉昭は、幕府の命により、隠居生活を送っていました。
そして、慶喜に望みをかけていたのです。

6月・・・血洗島で一番忙しい季節がやってきました。
しかし、お代官様の命令通り、男たちは人足にとられ、女たちで桑や藍葉の刈り取りです。

「よし!!」と、働く栄一!!

時期を逃すと、葉に含まれる色素が変化するので、急いで刈り取らなければならないのです。
お蚕様も、繭になる時期でした。

忙しいので、人足仕事から帰ってきた男たちも、まだまだ働きます。
松明をともしてまでも働く・・・そんな日が、何日も続きました。

tuke3















刈り取りが終わり、人足仕事も終わり・・・市郎右衛門が足を洗おうとしたとき・・・
どこからともなく笛の音が聞こえてきました。
それは獅子でした。

tuke4















「何やってんだ・・・!!」by市郎右衛門

「五穀豊穣!!悪疫退散だに!!」by栄一

それは、栄一と喜作でした。

そこへ、父・市郎右衛門、村人たちも・・・ささやかな祭りの始まりでした。

それから数年が経ち・・・栄一は、立派な青年になっていました。

tuke1















栄一と喜作はともに剣を学び、読書に明け暮れる日々を送っていたのです。

将軍は、自分の子よりも、聡明な慶喜を気に入り、次の将軍は・・・??
と噂されるようになっていました。

そこへ・・・ペリーがやってくると長崎奉行から阿部正弘に知らせが届いたのです。

一生懸命働いていた栄一は、父に江戸に連れて行ってもらえることになり、嬉しそうです~~!!

「江戸だ~~!!江戸だ~~!!江戸~~!!」by栄一

ということで、少年から青年になりましたね~~!!
私は、この少年→青年には、トラウマがあって・・・( ̄▽ ̄;)
もちろんそれは、八代将軍吉宗です。
あの伝説の、”包帯とったら西田敏行事件”ですΣ( ̄ロ ̄|||)
ツッコミどころ満載でしたが、あの作品はとっても好きだったから~~( ̄▽ ̄;)!!
今回は、同じようにかぶってましたけど・・・( ̄▽ ̄;)スッと代わりましたね。
獅子舞も良い感じでした。

今回は、第2回です。
第2回ですが、視聴率とかなんだかんだといろいろと言う人もいるようです。
私は女ですが・・・男尊女卑なのか・・・大河ドラマは男性の主人公が好きです。
やっぱり、血湧き肉躍る作品が好きだからです。
なので、ダイナミックに戦国時代を描いてくれた作品は大好きです。
ちなみに、女性が主役なものでは「八重の桜」が好きかな??

おまけに、イケメンで推している作品は??と思ってしまうきらいがあります。
言わずもがな・・・あのイケメン大河「花燃ゆ」ですよ・・・Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

そしてそれは「龍馬伝」だったとしても・・・
もともと坂本龍馬さんはあまり好きではない(っていうか、新撰組派)なので思い入れがないし、もともとの龍馬も、福山雅治さんも飄々している感じがするのでなんだかなあ・・・って思っちゃうんです。
「龍馬伝」で言うなら、同じイケメンでも泥にまみれた佐藤健さんの岡田以蔵が良かったですね。
そんな感じの好みです。

おまけに、皆さんにあまり評価の高くない「平清盛」は大好きです。
きっと、昔の人はお風呂にもあまり入らないし、画面が暗いとか埃っぽいと言われたけど、事実、江戸時代でさえコンクリートもないから埃っぽかったんですよ??
と思ってみたりして・・・変かな??

そして今回の「青天を衝け」、2回までですが、見てみて良い感じだと思いました。
今回、栄一が井戸に向かって叫ぶシーンは良かったです。
昔、腹が立ったら、井戸に向かって叫ぶ・・・こんな事良くしましたよね??
SNSで叫べないしな・・・
でも、今の人は、井戸なんて見たことないだろうからやったことももちろんないでしょう。
そんな若い子も観てほしい大河ドラマなんですよね。

話はそれますが、私が子供の頃に読んだ子供向けの本「ガラスのうさぎ」は、原作者さんが映画化、アニメ化、漫画化を嫌っていました。
でも、最近、映画になったように思います。
どうしてか??それは、最近の子が字で読んでも、防空壕とか、かまどとか・・・映像化しないとわからないものが多すぎるからというのが理由でした。

時代劇をテレビで見なくなって久しい・・・あ、「鬼滅の刃」は時代劇かしら??
そうね・・・アニメの方でやっているのかもしれませんね。

話は長くなりましたが、渋沢栄一、今はまだ若造で、お話も朝ドラのようですが、その活躍、実績はすごいですよ!!
起業家、福祉活動・・・人たらしで魅力的な人です。
そりゃあ、お札になる人です!!
ネタはそこらへんに転がっているんだから~~!!
尻上がりに面白くなると思っています!!

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今からおよそ150年前、大改革が行われていました。
参勤交代は、全国の大名が二年に一度江戸へ赴き、軍役奉仕を行う江戸時代の基本制度です。
その費用は莫大で、藩財政を圧迫・・・幕末には多くの藩の財政を圧迫し、破たん寸前となっていました。
当時は異国船の来航・・・防衛力の強化と財政の立て直しが叫ばれていました。

「最早参勤交代をしている場合ではない!!」

そういったのは、越前福井藩主・松平春嶽です。
春嶽は、大胆な緩和を幕府に提案し、大名の負担軽減と防衛力の強化を叫びます。
しかし、参勤交代は主従関係を確認する幕藩体制の根幹・・・周囲は難色を示します。
国家存亡の危機を前にしても帰られないその制度とは・・・??!!

松平春嶽が、参勤交代の帰り道を書いた日記によると・・・
江戸を出て間もなく、農民たちの姿を目の当たりにして・・・

”裕福なら牛や今を使えるが、貧しいとそうはいかぬ
 もし百姓の苦労や実情を知らぬ大名がいたら、嘆かわしきこと”

一国の主たるもの、領民を慈しむ政治をしなくてはならない!!
その政治信条を培ったのが、幕末の財政難でした。
90万両もの借財があったと言われていて、自分の藩を見つめ直し、領民に対する見方を戒めたのです。
つもりに積もった福井藩の借金・・・90万両=450億円・・・。
そのしわ寄せが領民の年貢に・・・打ちこわしや一揆が頻発していました。
危機的な懐事情で・・・春嶽ですら一汁一菜でした。
粗食で耐え凌ぐ有様でした。
他の藩も同様の状況で苦しめられていました。

その最大の原因が、莫大な経費を必要とする参勤交代でした。
その旅路は宿代だけでもバカにならず、2000人のお供を連れていた加賀藩の場合、1泊で1000万以上・・・
江戸までの片道の宿泊費は総額2億円にもなりました。
少しでも宿泊日数を減らそうと、速足で駆け抜けるという涙ぐましい努力をする藩もありました。
さらに、江戸へ人質として置いていた妻や子の住む江戸藩邸の維持費も大きなものでした。
5000人もの藩士がいた加賀藩では、年間予算の半分・・・50億円を江戸で費やしていました。

それなら参勤交代の規模を縮小すれば・・・??
御用商人たちの武鑑には、各大名の名前、石高、武器の種類や数まで事細かく書かれていて・・・それが大名の格となっていました。
江戸に暮らす庶民は、この武鑑を大名行列のガイドブックとしていたので、大名たちは、お家の威信にかけて格を下げるようなことはできませんでした。
しかも、この行列は、幕府にとっても大名にとってもメリットがあり・・・
江戸に大名が来るというのは、幕府の権威を非常に高め政権が安定します。
大名同士の序列の中で、自分の家が他藩より高いか努力します。
参勤交代の道具を増やすことを幕府に嘆願し、幕府が許可する・・・
それは、幕府の恩恵を感じ、大名は同等だった大名たちに一歩先んじる努力をしたのです。

将軍との謁見でも、格に応じて畳の何枚目に座るかが決まっており、大名の努力次第で位置を変えることができ・・・参勤交代は、大名同士の格式をめぐるせめぎあいでもありました。
しかし、その制度の改革を迫る未曽有の危機が日本を襲います。

1853年ペリーが浦賀に来航。
どう対応するのか??幕閣は連日議論していました。
しかし、結論を出すことができません。
時の老中・阿部正弘は、全国の大名に意見を募ります。
幕府としては異例の試みでした。
そして、1通の建白書が幕府に届きます。
その差出人こそ、26歳の福井藩主・松平春嶽で、その内容は、幕府にとって衝撃的なものでした。

全国の大名は参勤交代で疲弊しきっております。
この国難に対峙するためには、江戸に散布する大名を帰国させ、挙国一致で軍備を整えるべきかと存じます。

春嶽は、異国に立ち向かうためには、財政をひっ迫させている参勤交代を緩和する必要があると幕府に訴えたのです。
しかし、将軍の忠誠を誓う証である参勤交代の改革を主張すれば、幕府から反逆を疑われ、処罰されてもおかしくありませんでした。
どうして春嶽は危険を省みず主張したのでしょうか??
春嶽は、本来は田安徳川家の出身で、将軍になったかもしれない立場でした。
なので、福井藩のことだけを考えてはいなかったのです。
春嶽が生まれた田安徳川家は、八代将軍吉宗に始まる家柄で、春嶽は11代将軍家斉の甥に当たり、12代将軍家慶のいとこにあたるサラブレッドだったのです。
これは譜代からは言えず・・・親藩大名の将軍に近い自分だからこそ言える!!自信と使命感に溢れていました。
しかし、幕府はこれを却下。

「幕府を人体に例えれば、大名の参勤は、骨の最大なるもの。
 骨を砕いてしまえば、取り返しがつかない。」by阿部正弘

納得がいかない春嶽は、当時最も英明と言われていた薩摩藩主・島津斉彬に自分の意見を解き、幕府説得の協力を求めます。
しかし、斉彬は春嶽に同意するものの・・・外様の自分に言えるわけがないと答え、幕府の前で突飛な言動は控えるようにとくぎを刺されてしまいます。
しかし、建白書を出し続ける春嶽。

諸大名の忠誠と服従を繋ぎ止めてきた参勤交代を緩和すれば、幕府の権威は一気に崩れ去るかもしれない・・・
そんな危機感が幕閣にはあったのです。
このまま何も変えなくていいのか・・・??
春嶽の前に大きな壁が立ちはだかっていました。

最早自分一人の力だけではどうすることもできない・・・春嶽は、行動に移します。
同じ志を抱く大名と党派を組んで幕府の政治を変えようというものでした。
春嶽は、水戸・徳川斉昭、薩摩・島津斉彬と共に、栄明と評判の高い一橋慶喜を次期将軍に推薦します。
さらに、1857年8月、江戸の藩邸に徳川家に近しい大名達と会談し、協力を要請します。
春嶽の意見を聞いた徳島藩主・蜂須賀斉裕は、神君家康公以来の法に触れるのは幕府に不審を抱かせると難色を示しました。
それでも春嶽は引き下がらない!!改革の意義を力説します。
その熱い想いにじっと耳を傾けていたのが鳥取藩主・池田慶徳です。
慶徳はその後も春嶽と会談を進め、大名の声が天下変革の響になるという春嶽の想いに共感し、幕府に建白書を提出します。
やがて春嶽達に同調するかのように幕府内からも参勤交代を見直すことが挙げられます。
特に海防を担当する海防掛大目付は改革の必要性を痛感。
「参勤交代の緩和が諸藩の出費を減らし、海防強化の一助になる」と、建白書を出しています。

春嶽が参勤交代の緩和を主張してから4年・・・改革の機運は高まりつつありました。
ところが・・・一人の男が立ちはだかります。
譜代最大の大名・井伊直弼です。
次期将軍に紀州の徳川慶福(のちの家茂)を推した直弼は、次期将軍をめぐっての主導権争いに勝利!!
そして・・・一橋派の一掃に乗り出しました。
世に言う安政の大獄です。
1858年7月、春嶽は隠居謹慎処分に・・・江戸藩邸で逼塞生活を送ることとなりました。
井伊直弼の強硬な姿勢に耐え忍ぶようにと、家臣たちを戒めます。
2年後、春嶽を謹慎に追い込んだ井伊直弼が桜田門外で暗殺されます。
幕府の権威は急速に傾き始めました。
しかし、春嶽の近親が解かれることはなく、4年にも及びました。
春嶽はどのような政治構想を持っていたのでしょうか。
虎豹変革備考・・・春嶽がイギリスの政治体制をもとに自らの政治構想を記しています。
上院と下院に分かれた議会で、幕府には行政のみを委ねる議会制度を構想していました。
上院には大名を、下院には武士や百姓町人を参加させるべきだと説いています。
春嶽は参勤交代の改革を突破口に、近代的な政治の導入を模索していたのです。

井伊直弼の暗殺から2年後・・・時代は大きく動きます。
1862年3月、島津久光が藩兵1000人を率いて上洛。
朝廷を後ろ盾にして、幕府に政治改革させようとしました。
それは、春嶽を大老に、慶喜を将軍後見役に就任させ、幕政の助けにするという要求でした。
これに慌てたのが老中たちです。
朝廷や外様大名の要求を受け入れ幕政改革が行われるような事態になれば、幕府の権威は地に落ちたも同然!!
1862年5月、春嶽は謹慎を解かれ江戸城へ登城!!
将軍家茂の元へ・・・!!
欧米列強の対応で亀裂の入っていた朝廷との関係を修復、公武合体の実現に向けての交渉役を依頼されます。
春嶽にとって、それは将軍の以来と引き換えに参勤交代の緩和の絶好のチャンス!!
しかし、幕府の権威が落ちた今、それを行うのは大きなリスクをはらんでいました。
どうする・・・??

参勤交代の緩和を今切り出すのか?それとも時期を見るのか・・・??

将軍を目の前にどう応えたのでしょうか?
春嶽は将軍自らが不退転の覚悟で幕政改革をすると約束しないならば、従うつもりはないと言い放ちました。
その上で、老中らに速やかに徳川優先の政治をやめ、大名を苦しめる参勤交代の緩和をはじめとする幕政改革を迫ったのです。

改革の時はいまを置いて他になし!!

1862年7月、将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽を任命。

その一月後・・・幕府はついに参勤交代の緩和を布告しました。
この改正によって参勤は2年→3年となり、江戸の滞在日数を1年→100日としました。
江戸にいる間は幕府に積極的に政治的意見を具申するようにさせます。
大名妻子は帰国は自由とし、大名たちを最も苦しめていた江戸での経費削減を実施していきます。
効果は覿面!!
全国で藩政改革が進んで行きます。

大名達はこぞって軍艦や大砲を購入。
それまでできなかった軍事力の強化と産業の育成に励みます。

しかし・・・その先には、春嶽も予測できなかった時代のうねりが・・・。
それは、急速に発言力を持ちだした朝廷でした。
春嶽たちが幕政改革をし出した2か月後・・・大名に対し、帝のいる京都の治安を守るように京都警護を発令!!
幕府を通さず、天皇が直接大名たちに軍役奉仕を求めたのです。
強硬な公家・三条実美は将軍後見職の慶喜に対し、諸大名の参勤は江戸と京都で折半しようと持ちかけさえしました。
1863年2月、上洛のために家茂が江戸を出発。
開国を容認してもらうために・・・。
その交渉役を任された春嶽は、将軍上洛の数か月前から朝廷と開国容認の交渉を続けていました。
しかし、孝明天皇は認めず、攘夷実行尾を春嶽に迫ります。
交渉は暗礁に乗り上げていました。
幕府と朝廷との板挟みになる春嶽・・・

さらに盟友であった一橋慶喜との間で政治方針を巡って対立し始めました。
3月、春嶽は政事総裁職を辞任。
政治改革の道から離脱してしまうのです。
その後、日本は本格的な激動を迎えます。

1864年第一次長州征討
幕府は諸大名に出兵を命じます。
その1か月後、幕府は参勤交代の復旧を発令!!
幕府への統制力を強めようというのが狙いでした。
ところが大名たちは、国家の大事件だと困惑・・・。
春嶽にも問い合わせが来ます。

「幕命には従わなければならないが、そのまま様子を伺い、幕府から催促が来た場合には病気を口実に断ればよい」と。

春嶽から見ても、衰退は止めようがありませんでした。

1867年10月14日、大政奉還
仕える将軍がいなくなったことで、参勤交代制度は終焉を迎えます。

明治に入っていからの春嶽は、執筆活動に専念。
数々の著作を残しています。
井伊直弼のことは・・・
”徳川家の威光を盛んにせんとの志にて、決して私欲のためにやったことではない。
 彦根公の英断が今に至りては感すへし”
と書いています。

直弼の一連の決断は、幕府と徳川を思っての英断だったと振り返っています。

春嶽は、自分が行った改革を失敗だったと思っていたのでしょうか?
その真意が明かされることはなく、1890年6月、春嶽死去・・・63歳でした。

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