日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:一橋治済

およそ260年に渡り泰平の世を築いた江戸幕府・・・
その権威の頂点に立った将軍は、15人!!
在位期間をランキングにすると、栄えある一位に輝いたのは、11代将軍・徳川家斉。
なんと、その在位期間は50年!!
最も長く武家の頂点に立ち続けた男!!
にもかかわらず、ほとんど取り上げられることもなく・・・家斉って誰??
「続徳川実紀」によると・・・

”遊王となりて数年を楽しみたまふ
 嗚呼 福徳王と申したてまつるべきかな”



1773年、徳川家斉は、御三卿の一橋治済の嫡男として生まれます。
幼名は豊千代。
御三卿とは、田安、一橋、清水の三徳川家。
8代将軍・吉宗が創設したもので、徳川将軍家に世継ぎがない場合に、御三家からではなく吉宗の血筋の御三卿から将軍を輩出できるようにしました。

時は10代将軍・徳川家治の治世・・・
跡継ぎとなる時期将軍は、家治の嫡男・家基と決まっていました。
家基に万が一のことがあった場合、第2、第3の将軍候補も考えられていました。
第二候補は田安家の7男で吉宗の孫・賢丸(のちの松平定信)、第三候補が豊千代(家斉)でした。
豊千代は、吉宗のひ孫にあたります。
御三卿の格式は、田安家の方が上で、吉宗との血筋も、孫の賢丸の方がひ孫の豊千代よりも近く、この時点で豊千代が将軍になれる可能性はかなり低かったのです。

1779年、次期将軍に決まっていた・家基が18歳の若さで急死。
それを受けて将軍の跡継ぎとなったのが、21歳になっていた定信・・・ではなく、なぜかまだ9歳だった豊千代でした。
定信よりも格下だった豊千代がどうして将軍の跡継ぎに慣れたのでしょうか?

1773年、定信は、突然、幕府から白河松平家に養子に行けと命令が出されます。
将軍の家族から普通の大名に行けと言われてしまうのです。
定信は、田安徳川家を出され、将軍になれる資格を失ってしまったのです。
その裏で暗躍していたのが、豊千代の親の一橋治済だったと言われています。
治済は、嫡男である豊千代を将軍にしたいと強く望んでいました。
その為、格上である田安家の定信は目障りな存在でした。
そこで、時の老中・田沼意次と手を組み、定信を白河へ追いやったといいます。
田沼意次の弟が、一橋家の家老を務めるなど、田沼家と一橋家の関係が深くありました。
治済は、なんとか息子の豊千代を将軍にしたいと思います。
優秀と評判の定信がいることは、豊千代を将軍にするうえで邪魔だったのです。
田沼も、将軍が変わると前の時代の権力者は必ず失脚することを知っていました。
次の時代を考えたのです。
そんな二つの思惑が定信を排除したのです。



清廉な人柄で知られる定信は、賄賂が横行する田沼政治を批判していました。
その為、定信が将軍となれば、田沼の失脚は必至!!
その点、幼い豊千代が将軍になれば扱いやすいと考えたのです。
こうして利害が一致した二人が、有力候補・定信を早々に排除したため、豊千代は将軍の後継になれました。
そして7年後・・・将軍・家治が死去すると・・・
1787年、豊千代は、15歳で11代将軍・徳川家斉となります。

江戸城内では・・・
「家基さまは、本当は毒殺されたらしい・・・」
と、噂が立ちます。

家基が死んで一番得をするのは、我が子を将軍にした治済だということで、首謀者ではないかと噂までたちます。
真相はわかりませんが、家斉の父の野望はまだまだ続きます。
家斉が将軍となって1カ月がたった頃・・・江戸で前代未聞の事件が起きます。
天明の打ちこわしです。
1783年、浅間山が大噴火!!
その火山灰が、田畑をを覆ったことや、悪天候が続いたことで、大飢饉が発生!!
深刻なコメ不足となった上に、商人による米の買い占めが起き米価が高騰!!
これに反発した5000人もの町人が、米問屋を襲い、略奪する暴動を起こしたのです。
将軍のおひざ元である江戸での騒動・・・
その責任を取らされる形で田沼派は幕府から一掃されます。
そして、新たに老中として就任したのが、家斉と将軍の座を争った松平定信だったのです。

治済は、息子を将軍にする目論見を達成しました。
自分の子供の時代には、権力者は自分一人だけでいい・・・!!
そうなると、批判が高まる田沼意次は邪魔だ!!
まさに、身内である徳川一門で新しい政治を始めた方が得策なのではないか??と考えます。
そこで、田沼から松平定信に、乗り換えたのです。
定信は、逼迫していた白川藩の財政を立て直し、評判となっていました。
治済は、その手腕を利用し、徳川一門の手で政治をしようと考えたのです。
家斉・18歳、定信30歳・・・!!
こうして定信は、若い将軍・家斉のもとで、理想の政治を行っていくことになります。

寛政の改革です。
商業を重視した田沼意次の重商主義は、賄賂の温床となり、社会を乱すと定信は質素倹約を奨励。
町人の女房が髪結いを呼ぶことは贅沢だと禁じたり、障子の張替えの回数、ひな人形の大きさまで規制し、締め付けを行いました。
その結果・・・町から活気は消え、経済は停滞・・・やがて、倹約の締め付けが幕府内にも及ぶと、家斉はその窮屈さから対立するようになります。
そんな2人の関係が決定的となった事件は・・・
家斉は、自分を将軍にしてくれた父・治済に大御所の号を送りたいと考えていました。
しかし、定信はこれに対して先例がないことだと反対します。
将軍となった人が「大御所」になれるので、なっていない治済が「大御所」になることはできない、筋が通らないという定信。
何度も何度もこの問答が繰り返され、そのうちに家斉も堪忍袋の緒が切れて・・・
刀を抜いて成敗しようとしました。
ところが、そこにはおこしがいて

「定信殿、家斉さまからお刀をいただけるようでございます
 ちょうだいなされ」

家斉は、かざした刀を放り出しておくにはいってしまいました。

緊張した場面が、何回か繰り返されたのです。

1793年、松平定信・老中を罷免される!!

家斉は、古代中国の歴史書・三国志好きで、劉備玄徳の命参謀として知られる諸葛孔明の肖像画を自ら描き、掛け軸にするほどでした。
ある日のこと・・・この孔明を刺して・・・

「何故、(諸葛孔明のような)幕臣がいないのか?」by家斉

その場にいた幕臣たちは凍り付きました。

「それもそうだな・・・上に劉備玄徳のような(立派な)主君もいないのだからなあ」by家斉

そう言って笑ったといいます。
家斉は、自分自身に対しても、冷静に判断できる将軍でした。



徳川家斉の将軍就任から時は経ち・・・
家斉は、江戸幕府歴代の中で大奥を最も活用した将軍と言われ、正室以外に多くの側室を持ちました。
日頃、精力増強のためにオットセイの睾丸の粉末を飲んで・・・オットセイ将軍と言われています。
一説に、生涯に持った側室は40人、そのうち16人が家斉の子を身ごもり出産、その数は、徳川諸家系譜で名前が確認できるだけでも男子25人、女子27人の計52人!!
流産した子などを含めると、家斉は55人もの子をもうけたと言われています。
中には、2人の側室が同時に出産したこともあったとか・・・

しかし、家斉の名誉のためにいうと・・・
多くの子を持った理由・・・それは好色家というだけではなく、10代将軍・家治には男子が2人しか授からず、次男は生後3か月で早世・・・そのうえ、跡継ぎだった家基も急死。
自分の血を将軍として残せませんでした。
家斉は、このことを反面教師としてとらえてました。
徳川本家が途絶えたことで、紀州徳川家となり・・・結局、紀州徳川家も一橋という違う家から将軍を出すこととなります。
この新々の将軍家を、自分たちの血脈で維持していくためには、たくさん子供を作り、途絶えないようにしなければならない・・・!!
家斉は、使命と思っていたのかもしれません。
こうして、生涯に55人もの子をもうけた家斉でしたが、皮肉にも、それが幕府の危機を招くことになるのです。
家斉がもうけた55人の子供のうち、健康に育ったのは男子14人、女子13人でした。
嫡男が早世したため、次男の瓶次郎が嫡男となりました。
問題は、それ以外の子の行く末でした。
幕府は引き取り先を探すことに奔走します。
その結果、男子の場合は半ば押しつけるように大名への養子縁組が行われます。
幕府も、引き取り先には気を遣って、格式を上げたり、借金の返済を免除したり・・・
当然、貸していたお金が返って来なくなれば・・・幕府の資産は激減です。
姫君たちは・・・??
積極的に外様大名と縁組をさせました。
大変だったのは、婚礼にまつわる費用でした。
水戸藩に行った峯姫は、お化粧料1万両と、お手当1万両を持参金として付けています。
おまけに水戸家が借りていた借金2万2000両の返済を免除しました。
莫大な費用のために、幕府の財政がひっ迫し、危機を招いたのです。

家斉は、就任してしばらくの間は老中・松平定信がいたことで、質素倹約を心がけていました。
しかし、定信を罷免し、新たな老中にいうことを何でも聞くイエスマンの水野忠成をつけると一変、贅沢三昧に・・・!!
浪費をかさね、更なる財政危機を招くのです。

東京・汐留にある浜離宮恩賜庭園は、かつては浜御殿と呼ばれた将軍家の別邸でした。
見事な庭園は、家斉が莫大なお金を投じて整備させたものです。
当時、家斉は、浜御殿で園遊会を度々開催。
幕臣を招いて遊ばせたり、釣りをさせたり、庭木を与えたりして労ったといいます。
家斉も、大奥の女性たちと舟遊びに興じたり、巨大なクジラを運ばせて見学したりと楽しんでいました。
その贅沢ぶりは、大奥にも波及・・・
家斉時代の大奥は、3000人を超える大所帯で、規模は最も膨れ上がっていました。
当然、維持するための費用も莫大!!
正室の小遣いは、年間5000両+銀百貫・・・現在の価値で8億円!!
側室の小遣いなども合わせると、年関係費は30~40万両!!
幕府の年間経費140万両の1/4を大奥が占めていました。
江戸城に蔓延した贅沢で享楽的な気風は、幕府の財政難をより深刻なものに・・・
定信の緊縮財政による100万両の蓄えが半分になると・・・家斉も危機感を覚えます。
そして、自らが招いた財政危機を乗り越えるため、ある策を講じるのです。



老中・水野忠成に命じたのは、貨幣改鋳・・・
市中に流通している貨幣を回収し、鋳つぶして金や銀の含有量を改訂した新たな貨幣を作り、それを市中に流通させるというものでした。
貨幣改鋳を行うのは、8代将軍・吉宗以来で、しかも家斉は在位中、小判に限らず銀貨など8回も貨幣改鋳を行っています。
例えば、江戸時代市中に出回った小判は10種類あります。
大きさが違うだけでなく、金の割合も異なりました。
それまでの元文小判が金品位65%なのに対し、家斉が懐中して作らせた文政小判は56%。
江戸時代に作られた小判の中では最低の品位でした。
その文政小判を、金品位の高い元文小判と等価交換し、それをまた金の少ない文政小判に改鋳すれば枚数が増え増収になる・・・それが幕府の資産となりました。
こうして得た利益は、1550万両!!
家斉は、貨幣改鋳を行うことで、幕府の年間予算の10倍近い利益を得て財政を潤わせました。
しかし、その一方で、質の悪い貨幣が大量に出回ったため、お金の価値が下がり物価が上昇!!
インフレを招きました。
酒・1割、味噌・2割、塩・4割・・・米に関しては、7割も価格が上昇!!
庶民の生活を圧迫しました。

経済活動が活発になったことで、庶民文化が発展します。
浮世絵も爛熟期を迎えます。
風景画という新たなジャンルを開いたのは葛飾北斎。
最高傑作シリーズ・富岳三十六景・・・たぐいまれなる才能が生んだ富士の姿に、人々は魅了されました。
これに対抗し、歌川広重が描いたシリーズが東海道五十三次。
空前の旅行ブームに乗って、こちらも大ヒット!!
作家たちの腕も絶好調。
文学の分野でも続々と傑作が生まれます。
十返捨一九の「東海道中膝栗毛」・・・弥二さんと喜多さんの伊勢詣での道中を綴ったこの小説は、ベストセラーとなります。
滝沢馬琴が、「里見八犬伝」を描き始めたのもこの頃です。
こうした江戸庶民文化が花開いたのも、家斉の贅沢のたまものでした。

農民から年貢をとり、商人から税金を取ったとしても、武士階級が倹約でお金を貯めこんでいたら市中にお金が還流しません。
将軍の最大の仕事は、贅沢をしてお金を還流させることなのです。
家斉も、壮大なおすそ分けをしていると思っていました。
自由な風潮により、庶民の不満も少なく、安定した政権運営ができました。

徳川家斉が、幕府の中で最も長い政権を築けたのは、
①優秀な人材を適材適所に起用した
②自由な風潮で庶民の不満が少なかった

家斉は、生まれながらにして体が丈夫で、一年中薄着で過ごし、将軍在任中寝込んだのは、風邪を引いた数回だけ。
健康には特に気を遣い、毎朝江戸城内での散歩を欠かさなかったといいます。
さらに、家斉はしょうがを決行をよくし、身体を温める効果がある健康食として毎日欠かしませんでした。
そして・・・牛乳を煮詰めて丸めたチーズのようなものを作らせ、精力減退や疲労衰弱に効くと食べていました。

③常に健康に気づかい長生きだったのです。

だからこそ、長期政権を築くことができたのです。

1837年、65歳となった家斉は、嫡男の家慶に将軍職を譲り隠居。
将軍在位は50年に及びました。
その4年後・・・1841年閏1月13日・・・家斉は、激しい差し込み・・・疝癪に襲われました。
急性腹膜炎だったと思われます。
そして、そのまま帰らぬ人となりました。
69歳でした。

長い治世の中で、優秀な幕臣を巧みに使い、自らは自由に時代を謳歌した家斉・・・
まさに、遊王と呼ばれるにふさわしい、最強の将軍でした。

”武門の天下を平治すること これに至りて その盛を極むと云ふ”by頼山陽

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今から200年前、江戸は人口100万を超え、錦絵、読み本、芝居に落語が大人気。
空前の繁栄を誇っていました。
手軽な食事として天ぷらや寿司が流行。
今、私たちが時代劇で見る光景は、まさにこの頃のことです。
しかし、この江戸の最盛期に君臨した将軍は??

11代将軍・徳川家斉です。

しかし、教科書に乗る家斉は、大奥が代名詞。
40人を超える側室を持ち、産ませた子供は53人・・・小作りばかりに励む放蕩将軍・・・
家斉は、子供の多くを、主だった大名たちに跡継ぎや正妻として送り込んでいます。
その数、21家、640万石です。
まるで日本中の主だった大名を自分の血筋で埋め尽くし、一大ファミリー化を図っているように見えます。

徳川家斉は、1773年、八代将軍の孫である一橋治済の長男として生まれます。
7歳の時、10代将軍・家治の跡継ぎが急死したことによって次期将軍への道を歩み始めます。
治済は、なんとかして家斉を次期将軍にしようとして時の老中・田沼意次に接近。
他の候補者を退き、家斉を将軍候補にさせました。
そして1786年、将軍・家治が病死し、家斉は15歳で11代将軍に就任します。
同時に父・治済の工作で田沼意次が失脚、老中となった松平定信のもとで、寛政の改革が始まりました。
しかし、家斉は、翌年定信を退け、自ら政治を行い始めます。

徳川実紀によると。。。
家斉は早朝から日が高くなるまで怠けることなく政務をこなし、真剣に政治に取り組んでいました。
しかしやがて、遊び好きの本性が表れ始めます。
趣味は鷹狩り・・・関東中の狩場に足しげく通い、鴨を捕らえるだけでは飽き足らず、猪や鹿狩りまでやっています。
江戸湾に巨大な鯨が現れたときは、目の前で見たいと浜御殿の池に引き入れさせ、泳ぐ姿を見て楽しんだという逸話も残っています。
そんな家斉を最も特徴づけるのが、色好みです。
15歳から大奥通いを始め、次々と手を付け40人を超える側室を持ったともいわれています。
最初の子が生まれたのが17歳の時、生涯で53人もの子供をもうけ、大奥に入り浸っていたと言われています。
さらに家斉は、生まれた子供たちを全国の大名家に世継ぎや正室として送り込んでいます。
その結果、全国の主だった大名の多くが、家斉の息子や娘婿となっていきました。
その方法は、大名たちの弱みに付け込む実に巧みなものでした。

その一つが”金”・・・
将軍家から迎えるといろいろなメリットがあります。
若君をもらうと支度金、お姫さまだと化粧料、たくさんの女中を連れてくるので1万両、2万両。
迎える側が幕府から借金をしている場合、免除してもらう。
当座は財政難が救われたのです。
当時の大名たちは、参勤交代やお手伝い普請などで借金を抱え、どの藩も借金に喘いでいました。
それが、家斉の子どもを受け入れることで借金が免除され、金銭的に支援を受けるなどの恩恵を受けられました。
その金額は莫大なものでした。
例えば、水戸徳川家は、家斉の娘を正室に迎えたことで、幕府に借りていた19万2000両の借金が免除されることに・・・今の金額で、200億円の借金免除でした。
100万石の加賀前田家も、家斉の娘を正室に迎えました。
その時に作られた門が、東京大学の赤門です。
将軍の娘を迎えることで出費がかさみましたが、それに対して毎年1万8000両(18億円)の化粧料を前だけに行っています。
中には世継ぎがいるにもかかわらず廃嫡し、家斉の息子を世継ぎに迎えた藩も・・・明石・松平家です。
これによって2万石を加増されています。
家族化かの波は、外様にまで・・・
徳島藩蜂須賀家では・・・家斉の23男を後継ぎに迎え入れ、長州藩・毛利家、仙台藩・伊達家も家斉の娘を正室として迎えています。
こうして将軍・家斉のファミリーとなったのは、21家に及びます。

こうした縁組にかかる莫大な費用を、家斉はどのように工面したのでしょうか?
その秘密は、貨幣の改鋳という錬金術でした。
それまで流通していた小判・4819万両を回収、金の含有量の少ない小判に作り直させたのです。
浮いた金の分が、幕府の利益になりました。
家斉の貨幣改鋳は、小判以外の貨幣にも及び、15年間で1550万両の利益があったと言われています。
強引に作った潤沢なお金によって子供たちを大名家に送り込んでいたのです。

江戸幕府の1年間を、100万両前後で予算を組んでいました。
かなりの貨幣鋳造をして財政を豊かにしました。
それだけ湯水のように使って、徳川家の血が各大名家に浸透していくということに使ったのです。
さらに・・・家斉が利用したのが「家格」
子供を受け入れた大名たちを優遇し、家格を上げたのです。
江戸城ではこの家格によってすべてが区別されていました。
特に、大名が控える部屋は、家格によって七カ所に分かれていました。
最上位とされるのが、松之大廊下に面した大廊下の一室・・・御三家に御下問、そして加賀前田家のみが使用できました。
主な譜代大名には黒書院溜之間と帝鑑之間が用意され、10万石以上の外様大名や官位の高い大名は大広間が控の間となりました。
それ以外の大名は155家には3つの部屋が与えられています。
家格が低ければ、将軍に謁見する場合も集団で平伏、立ったままの将軍に目通りする事しか許されていません。
家格の違いは歴然でした。
そんな下位の部屋から大出世をしたのが、わずか6万石の舘林・松平家です。
家斉の20番目の息子を養子とすることに成功します。
すると、大部屋から帝鑑之間、大広間を経由して大廊下へと三段跳びの大出世・・・
家紋も、三つ葉葵の使用を許されるという破格の扱いとなりました。
封建社会の平和な時代、他に人間の望みがない時代・・・格が上がること、人より上に行くということは、一番の望みでした。
金と家格を使った巧みな大名支配と子供送り込み・・・家斉はただの贅沢将軍だったのでしょうか??

18世紀末から19世紀・・・家斉が統治した時代には、日本を取り巻く環境が大きく変わろうとしていました。
外国船が日本近海に現れるようになっていたのです。
1792年、ロシアの使節・ラックスマンが根室に来航、通商を求めます。
1808年イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入。
外圧が高まっていました。
当然家斉の耳にも入ります。
通商を求めるロシア船に頭を悩ませ、外国船の対策に旅谷議論しています。
しかし、外国船対策の一元化は当時の幕藩体制は適していませんでした。
それぞれの地域を支配しているのは大名で、中には外国と密貿易を行っている場合もあり、足並みをそろえることはできませんでした。
そんな中、家斉の子供達でファミリー化すれば・・・将軍の意に沿うのでは・・・??
幕府を中心にものを考えるとなれば、幕府に協力すると海岸線の防備をしようと言われれば喜んで手をあげる・・・殿様は、将軍家のために尽くそう・・・そういう思いがあったのです。

もう一つの問題が・・・徳川一門の結束です。
幕府が開かれてから190年・・・ゆるみが出てきていました。
家斉が特に注目したのが尾張徳川家・・・
尾張藩は御三家筆頭の62万石。
徳川家康の9男・義直を初代藩主にいただく名門です。
尾張藩が位置するのは西国で反乱が起きた場合に、幕府を守る楯になる重要拠点です。
そんな尾張徳川家・・・すっかり血縁が薄くなってきていました。
さらに、8代将軍の座を尾張藩を差し置いて紀州藩の吉宗が勝ち取ったことで不仲となり、七代藩主となった宗春は吉宗と対立。
宗春は蟄居・謹慎させられ、その後、将軍家と終わりの間には緊張が続いていました。
そこで家斉が考えたのが娘を送り込むことでした。
尾張徳川家に娘を嫁がせ跡取りが生れれば、その子は家斉の孫・・・
家斉は、5歳になったばかりの長女・淑姫を尾張の世継ぎと婚約させます。
しかし、同じ年、その世継ぎが病死し、家斉の目論見は潰えてしまいました。

1796年、空いていた尾張の世継ぎに生れたばかりの4男・敬之助を養子として送り込みます。
しかし、その4男は、わずか1年で病死・・・
家斉は諦めません。
1年後、弟の子を尾張藩主の世継ぎとして送り込み、自分の10歳になった長女を嫁がせ、ファミリー化しようとします。
家斉は、養子に入った弟の子に斉朝という名前を与えています。
そして翌年斉朝は、尾張藩10代藩主徳川斉朝となり、ついに家斉の尾張ファミリー化は成功します。
度重なる子供送り込み工作・・・尾張藩も、最初は歓迎していたといいます。
将軍家との血のつなが生じ、姫との間に子供が生まれて次の当主になれば、確固とした血のつながりの再現となりります。
官位も上がり、経済的にもある程度のメリットが生じます。
相対的に尾張にとってはいいことです。
しかし、順風満帆は続きません。三人目に送り込んだ斉朝は、尾張藩を統治するものの淑姫との間に世継ぎは生まれませんでした。
1822年、家斉は夫婦の養子として19男斉温を養子に据えます。
この時、家斉50歳・・・あくまでも尾張家をファミリーにしたかったのです。
斉朝を継いで藩主となった斉温は、江戸城西ノ丸が大火で焼失した時、父家斉のために見舞金として9万両もの大金と大量の木曽ヒノキを献上したといいます。
家長である家斉を、大名家を継いだ子供たちが助けてくれる・・・
それこそが、家斉の目指すファミリーでした。
4回にわたって跡継ぎや正妻を送り込まれ、家斉のファミリーとなっていた尾張藩・・・11代藩主となった斉温かは、1836年近衛家の姫・福君と結婚。
この婚儀は、尾張藩に莫大な費用を強いることとなりました。
福君の婚礼調度品は、210点にも及び、贅を尽くした調度品でした。
当然、福君の出立の準備も尾張藩が行いました。
京都から江戸へ下向する行列は千人を超え、これにもまた巨額の費用が掛かったと言われています。
ところが、婚儀から3年後斉温は21歳で死去・・・1839年。
跡継ぎがいなかったことで、尾張藩は混乱します。
藩士たちは度重なる家斉の子の受け入れが藩の財政を圧迫したとし、次こそは尾張家初代の分家から次の藩主を・・・と期待するようになっていきます。
この時家老に出された意見書には、

”度重なる世継ぎ受け入れは、天下の嘲りを受け、将軍家の乗っ取りに怨念を持つ者や、お国の恥と嘆く家臣が大勢いる”と書かれています。

急進過激派・・・我々はどんな政治的圧力にも屈しない・・・
金や鉄のような固い意志を持つ・・・ということで、金鉄党と名付け、派閥を作りました。
将軍家による尾張家の乗っ取りではないのか・・・??

この時、家斉67歳・・・空席となった尾張藩主の座をどうするのか・・・??
用紙に送り込める子や孫はいない・・・尾張藩の中から不平不満が出ている今、手綱を緩めることはできない・・・

どうする・・・??
男子を将軍家に戻し、尾張徳川家に送る??
夫と死別し出戻った永姫か、婚約しているもののまだ13歳の泰姫を・・・女子を尾張徳川家に送る??
しかし、それまでには何年もかかってしまう・・・!!
忠誠を誓わせて誰も送らない・・・??

どうする・・・??

1839年3月26日、家斉は決断を下します。
御三卿の一つ田安家当主・斉荘(家斉12男)を、亡くなった藩主・斉温の末期養子として尾張藩12藩主を継がせたのです。
これに尾張藩主の不満が爆発!!
押し付け養子であると批判の声が上がります。
家斉は、尾張藩をなだめるために当時日本有数の商業地で10万石相当であった近江八幡を加増します。
さらに、吉宗と対立して蟄居させられていた尾張藩七代藩主宗春の罪を赦し、官位を元に戻します。
家斉は、いかなる代償を払ってでも、尾張藩を身内に止めようと考えていました。
斉荘が藩主になった事を見届けると・・・2年後・・・
1841年徳川家斉死去・・・69歳でした。

しかし、尾張の問題は終わりませんでした。
家斉の死から4年後・・・斉荘が病死・・・再び尾張藩主の座が空席となってしまいます。
家斉の息子の12代将軍家慶は、なおも親しい身内を尾張藩主とすることにこだわり家斉の弟の子供・慶臧を13代藩主として送り込んでいます。

尾張藩士たちは、「またか!!」尾張藩と将軍家の戦になるようなことまで、平気で言う過激状態になってきていました。

新藩主となった慶臧に、兄である越前福井藩主・松平春嶽は手紙を送り、尾張内をなだめるように指示しています。
手紙には、家臣から気に入らないことを言われても、決して咎めだてしないこと、仁心を持って接することと書かれています。
しかし、その4年後、慶臧は14歳で亡くなってしまいます。
跡を継ぎ、14代藩主となったのは、初代藩主義直の流れをくむ美濃高須藩松平家の徳川義勝でした。
遂に尾張藩は、家斉ファミリーではなくなりました。

1868年・・・鳥羽伏見の戦いが起こります。
この時、新政府軍の中心となっていた長州・毛利家は、かつて家斉の娘を正室に迎えましたが子供は生まれず、家斉の血筋とはなりませんでした。
家斉の子供を送り込まれた21家の中で、家斉の血筋が当主となっていたのは、加賀藩・前田家、鳥取・池田家、姫路・酒井家、徳島・蜂須賀家・・・4家のみ・・・
しかし、この4家が、旧幕府側につくことはありませんでした。
鳥羽伏見の戦い以降、新政府軍に味方します。
そして尾張藩藩主となっていた徳川義勝は、新政府の要職につき、江戸無血開城の受け取り役を務めています。

家斉が50年かけて行った大名ファミリー化計画・・・
それが幕府を支えることはありませんでした。


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