およそ260年に渡り泰平の世を築いた江戸幕府・・・
その権威の頂点に立った将軍は、15人!!
在位期間をランキングにすると、栄えある一位に輝いたのは、11代将軍・徳川家斉。
なんと、その在位期間は50年!!
最も長く武家の頂点に立ち続けた男!!
にもかかわらず、ほとんど取り上げられることもなく・・・家斉って誰??
「続徳川実紀」によると・・・
”遊王となりて数年を楽しみたまふ
嗚呼 福徳王と申したてまつるべきかな”
1773年、徳川家斉は、御三卿の一橋治済の嫡男として生まれます。
幼名は豊千代。
御三卿とは、田安、一橋、清水の三徳川家。
8代将軍・吉宗が創設したもので、徳川将軍家に世継ぎがない場合に、御三家からではなく吉宗の血筋の御三卿から将軍を輩出できるようにしました。
時は10代将軍・徳川家治の治世・・・
跡継ぎとなる時期将軍は、家治の嫡男・家基と決まっていました。
家基に万が一のことがあった場合、第2、第3の将軍候補も考えられていました。
第二候補は田安家の7男で吉宗の孫・賢丸(のちの松平定信)、第三候補が豊千代(家斉)でした。
豊千代は、吉宗のひ孫にあたります。
御三卿の格式は、田安家の方が上で、吉宗との血筋も、孫の賢丸の方がひ孫の豊千代よりも近く、この時点で豊千代が将軍になれる可能性はかなり低かったのです。
1779年、次期将軍に決まっていた・家基が18歳の若さで急死。
それを受けて将軍の跡継ぎとなったのが、21歳になっていた定信・・・ではなく、なぜかまだ9歳だった豊千代でした。
定信よりも格下だった豊千代がどうして将軍の跡継ぎに慣れたのでしょうか?
1773年、定信は、突然、幕府から白河松平家に養子に行けと命令が出されます。
将軍の家族から普通の大名に行けと言われてしまうのです。
定信は、田安徳川家を出され、将軍になれる資格を失ってしまったのです。
その裏で暗躍していたのが、豊千代の親の一橋治済だったと言われています。
治済は、嫡男である豊千代を将軍にしたいと強く望んでいました。
その為、格上である田安家の定信は目障りな存在でした。
そこで、時の老中・田沼意次と手を組み、定信を白河へ追いやったといいます。
田沼意次の弟が、一橋家の家老を務めるなど、田沼家と一橋家の関係が深くありました。
治済は、なんとか息子の豊千代を将軍にしたいと思います。
優秀と評判の定信がいることは、豊千代を将軍にするうえで邪魔だったのです。
田沼も、将軍が変わると前の時代の権力者は必ず失脚することを知っていました。
次の時代を考えたのです。
そんな二つの思惑が定信を排除したのです。
清廉な人柄で知られる定信は、賄賂が横行する田沼政治を批判していました。
その為、定信が将軍となれば、田沼の失脚は必至!!
その点、幼い豊千代が将軍になれば扱いやすいと考えたのです。
こうして利害が一致した二人が、有力候補・定信を早々に排除したため、豊千代は将軍の後継になれました。
そして7年後・・・将軍・家治が死去すると・・・
1787年、豊千代は、15歳で11代将軍・徳川家斉となります。
江戸城内では・・・
「家基さまは、本当は毒殺されたらしい・・・」
と、噂が立ちます。
家基が死んで一番得をするのは、我が子を将軍にした治済だということで、首謀者ではないかと噂までたちます。
真相はわかりませんが、家斉の父の野望はまだまだ続きます。
家斉が将軍となって1カ月がたった頃・・・江戸で前代未聞の事件が起きます。
天明の打ちこわしです。
1783年、浅間山が大噴火!!
その火山灰が、田畑をを覆ったことや、悪天候が続いたことで、大飢饉が発生!!
深刻なコメ不足となった上に、商人による米の買い占めが起き米価が高騰!!
これに反発した5000人もの町人が、米問屋を襲い、略奪する暴動を起こしたのです。
将軍のおひざ元である江戸での騒動・・・
その責任を取らされる形で田沼派は幕府から一掃されます。
そして、新たに老中として就任したのが、家斉と将軍の座を争った松平定信だったのです。
治済は、息子を将軍にする目論見を達成しました。
自分の子供の時代には、権力者は自分一人だけでいい・・・!!
そうなると、批判が高まる田沼意次は邪魔だ!!
まさに、身内である徳川一門で新しい政治を始めた方が得策なのではないか??と考えます。
そこで、田沼から松平定信に、乗り換えたのです。
定信は、逼迫していた白川藩の財政を立て直し、評判となっていました。
治済は、その手腕を利用し、徳川一門の手で政治をしようと考えたのです。
家斉・18歳、定信30歳・・・!!
こうして定信は、若い将軍・家斉のもとで、理想の政治を行っていくことになります。
寛政の改革です。
商業を重視した田沼意次の重商主義は、賄賂の温床となり、社会を乱すと定信は質素倹約を奨励。
町人の女房が髪結いを呼ぶことは贅沢だと禁じたり、障子の張替えの回数、ひな人形の大きさまで規制し、締め付けを行いました。
その結果・・・町から活気は消え、経済は停滞・・・やがて、倹約の締め付けが幕府内にも及ぶと、家斉はその窮屈さから対立するようになります。
そんな2人の関係が決定的となった事件は・・・
家斉は、自分を将軍にしてくれた父・治済に大御所の号を送りたいと考えていました。
しかし、定信はこれに対して先例がないことだと反対します。
将軍となった人が「大御所」になれるので、なっていない治済が「大御所」になることはできない、筋が通らないという定信。
何度も何度もこの問答が繰り返され、そのうちに家斉も堪忍袋の緒が切れて・・・
刀を抜いて成敗しようとしました。
ところが、そこにはおこしがいて
「定信殿、家斉さまからお刀をいただけるようでございます
ちょうだいなされ」
家斉は、かざした刀を放り出しておくにはいってしまいました。
緊張した場面が、何回か繰り返されたのです。
1793年、松平定信・老中を罷免される!!
家斉は、古代中国の歴史書・三国志好きで、劉備玄徳の命参謀として知られる諸葛孔明の肖像画を自ら描き、掛け軸にするほどでした。
ある日のこと・・・この孔明を刺して・・・
「何故、(諸葛孔明のような)幕臣がいないのか?」by家斉
その場にいた幕臣たちは凍り付きました。
「それもそうだな・・・上に劉備玄徳のような(立派な)主君もいないのだからなあ」by家斉
そう言って笑ったといいます。
家斉は、自分自身に対しても、冷静に判断できる将軍でした。
徳川家斉の将軍就任から時は経ち・・・
家斉は、江戸幕府歴代の中で大奥を最も活用した将軍と言われ、正室以外に多くの側室を持ちました。
日頃、精力増強のためにオットセイの睾丸の粉末を飲んで・・・オットセイ将軍と言われています。
一説に、生涯に持った側室は40人、そのうち16人が家斉の子を身ごもり出産、その数は、徳川諸家系譜で名前が確認できるだけでも男子25人、女子27人の計52人!!
流産した子などを含めると、家斉は55人もの子をもうけたと言われています。
中には、2人の側室が同時に出産したこともあったとか・・・
しかし、家斉の名誉のためにいうと・・・
多くの子を持った理由・・・それは好色家というだけではなく、10代将軍・家治には男子が2人しか授からず、次男は生後3か月で早世・・・そのうえ、跡継ぎだった家基も急死。
自分の血を将軍として残せませんでした。
家斉は、このことを反面教師としてとらえてました。
徳川本家が途絶えたことで、紀州徳川家となり・・・結局、紀州徳川家も一橋という違う家から将軍を出すこととなります。
この新々の将軍家を、自分たちの血脈で維持していくためには、たくさん子供を作り、途絶えないようにしなければならない・・・!!
家斉は、使命と思っていたのかもしれません。
こうして、生涯に55人もの子をもうけた家斉でしたが、皮肉にも、それが幕府の危機を招くことになるのです。
家斉がもうけた55人の子供のうち、健康に育ったのは男子14人、女子13人でした。
嫡男が早世したため、次男の瓶次郎が嫡男となりました。
問題は、それ以外の子の行く末でした。
幕府は引き取り先を探すことに奔走します。
その結果、男子の場合は半ば押しつけるように大名への養子縁組が行われます。
幕府も、引き取り先には気を遣って、格式を上げたり、借金の返済を免除したり・・・
当然、貸していたお金が返って来なくなれば・・・幕府の資産は激減です。
姫君たちは・・・??
積極的に外様大名と縁組をさせました。
大変だったのは、婚礼にまつわる費用でした。
水戸藩に行った峯姫は、お化粧料1万両と、お手当1万両を持参金として付けています。
おまけに水戸家が借りていた借金2万2000両の返済を免除しました。
莫大な費用のために、幕府の財政がひっ迫し、危機を招いたのです。
家斉は、就任してしばらくの間は老中・松平定信がいたことで、質素倹約を心がけていました。
しかし、定信を罷免し、新たな老中にいうことを何でも聞くイエスマンの水野忠成をつけると一変、贅沢三昧に・・・!!
浪費をかさね、更なる財政危機を招くのです。
東京・汐留にある浜離宮恩賜庭園は、かつては浜御殿と呼ばれた将軍家の別邸でした。
見事な庭園は、家斉が莫大なお金を投じて整備させたものです。
当時、家斉は、浜御殿で園遊会を度々開催。
幕臣を招いて遊ばせたり、釣りをさせたり、庭木を与えたりして労ったといいます。
家斉も、大奥の女性たちと舟遊びに興じたり、巨大なクジラを運ばせて見学したりと楽しんでいました。
その贅沢ぶりは、大奥にも波及・・・
家斉時代の大奥は、3000人を超える大所帯で、規模は最も膨れ上がっていました。
当然、維持するための費用も莫大!!
正室の小遣いは、年間5000両+銀百貫・・・現在の価値で8億円!!
側室の小遣いなども合わせると、年関係費は30~40万両!!
幕府の年間経費140万両の1/4を大奥が占めていました。
江戸城に蔓延した贅沢で享楽的な気風は、幕府の財政難をより深刻なものに・・・
定信の緊縮財政による100万両の蓄えが半分になると・・・家斉も危機感を覚えます。
そして、自らが招いた財政危機を乗り越えるため、ある策を講じるのです。
老中・水野忠成に命じたのは、貨幣改鋳・・・
市中に流通している貨幣を回収し、鋳つぶして金や銀の含有量を改訂した新たな貨幣を作り、それを市中に流通させるというものでした。
貨幣改鋳を行うのは、8代将軍・吉宗以来で、しかも家斉は在位中、小判に限らず銀貨など8回も貨幣改鋳を行っています。
例えば、江戸時代市中に出回った小判は10種類あります。
大きさが違うだけでなく、金の割合も異なりました。
それまでの元文小判が金品位65%なのに対し、家斉が懐中して作らせた文政小判は56%。
江戸時代に作られた小判の中では最低の品位でした。
その文政小判を、金品位の高い元文小判と等価交換し、それをまた金の少ない文政小判に改鋳すれば枚数が増え増収になる・・・それが幕府の資産となりました。
こうして得た利益は、1550万両!!
家斉は、貨幣改鋳を行うことで、幕府の年間予算の10倍近い利益を得て財政を潤わせました。
しかし、その一方で、質の悪い貨幣が大量に出回ったため、お金の価値が下がり物価が上昇!!
インフレを招きました。
酒・1割、味噌・2割、塩・4割・・・米に関しては、7割も価格が上昇!!
庶民の生活を圧迫しました。
経済活動が活発になったことで、庶民文化が発展します。
浮世絵も爛熟期を迎えます。
風景画という新たなジャンルを開いたのは葛飾北斎。
最高傑作シリーズ・富岳三十六景・・・たぐいまれなる才能が生んだ富士の姿に、人々は魅了されました。
これに対抗し、歌川広重が描いたシリーズが東海道五十三次。
空前の旅行ブームに乗って、こちらも大ヒット!!
作家たちの腕も絶好調。
文学の分野でも続々と傑作が生まれます。
十返捨一九の「東海道中膝栗毛」・・・弥二さんと喜多さんの伊勢詣での道中を綴ったこの小説は、ベストセラーとなります。
滝沢馬琴が、「里見八犬伝」を描き始めたのもこの頃です。
こうした江戸庶民文化が花開いたのも、家斉の贅沢のたまものでした。
農民から年貢をとり、商人から税金を取ったとしても、武士階級が倹約でお金を貯めこんでいたら市中にお金が還流しません。
将軍の最大の仕事は、贅沢をしてお金を還流させることなのです。
家斉も、壮大なおすそ分けをしていると思っていました。
自由な風潮により、庶民の不満も少なく、安定した政権運営ができました。
徳川家斉が、幕府の中で最も長い政権を築けたのは、
①優秀な人材を適材適所に起用した
②自由な風潮で庶民の不満が少なかった
家斉は、生まれながらにして体が丈夫で、一年中薄着で過ごし、将軍在任中寝込んだのは、風邪を引いた数回だけ。
健康には特に気を遣い、毎朝江戸城内での散歩を欠かさなかったといいます。
さらに、家斉はしょうがを決行をよくし、身体を温める効果がある健康食として毎日欠かしませんでした。
そして・・・牛乳を煮詰めて丸めたチーズのようなものを作らせ、精力減退や疲労衰弱に効くと食べていました。
③常に健康に気づかい長生きだったのです。
だからこそ、長期政権を築くことができたのです。
1837年、65歳となった家斉は、嫡男の家慶に将軍職を譲り隠居。
将軍在位は50年に及びました。
その4年後・・・1841年閏1月13日・・・家斉は、激しい差し込み・・・疝癪に襲われました。
急性腹膜炎だったと思われます。
そして、そのまま帰らぬ人となりました。
69歳でした。
長い治世の中で、優秀な幕臣を巧みに使い、自らは自由に時代を謳歌した家斉・・・
まさに、遊王と呼ばれるにふさわしい、最強の将軍でした。
”武門の天下を平治すること これに至りて その盛を極むと云ふ”by頼山陽
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在位期間をランキングにすると、栄えある一位に輝いたのは、11代将軍・徳川家斉。
なんと、その在位期間は50年!!
最も長く武家の頂点に立ち続けた男!!
にもかかわらず、ほとんど取り上げられることもなく・・・家斉って誰??
「続徳川実紀」によると・・・
”遊王となりて数年を楽しみたまふ
嗚呼 福徳王と申したてまつるべきかな”
1773年、徳川家斉は、御三卿の一橋治済の嫡男として生まれます。
幼名は豊千代。
御三卿とは、田安、一橋、清水の三徳川家。
8代将軍・吉宗が創設したもので、徳川将軍家に世継ぎがない場合に、御三家からではなく吉宗の血筋の御三卿から将軍を輩出できるようにしました。
時は10代将軍・徳川家治の治世・・・
跡継ぎとなる時期将軍は、家治の嫡男・家基と決まっていました。
家基に万が一のことがあった場合、第2、第3の将軍候補も考えられていました。
第二候補は田安家の7男で吉宗の孫・賢丸(のちの松平定信)、第三候補が豊千代(家斉)でした。
豊千代は、吉宗のひ孫にあたります。
御三卿の格式は、田安家の方が上で、吉宗との血筋も、孫の賢丸の方がひ孫の豊千代よりも近く、この時点で豊千代が将軍になれる可能性はかなり低かったのです。
1779年、次期将軍に決まっていた・家基が18歳の若さで急死。
それを受けて将軍の跡継ぎとなったのが、21歳になっていた定信・・・ではなく、なぜかまだ9歳だった豊千代でした。
定信よりも格下だった豊千代がどうして将軍の跡継ぎに慣れたのでしょうか?
1773年、定信は、突然、幕府から白河松平家に養子に行けと命令が出されます。
将軍の家族から普通の大名に行けと言われてしまうのです。
定信は、田安徳川家を出され、将軍になれる資格を失ってしまったのです。
その裏で暗躍していたのが、豊千代の親の一橋治済だったと言われています。
治済は、嫡男である豊千代を将軍にしたいと強く望んでいました。
その為、格上である田安家の定信は目障りな存在でした。
そこで、時の老中・田沼意次と手を組み、定信を白河へ追いやったといいます。
田沼意次の弟が、一橋家の家老を務めるなど、田沼家と一橋家の関係が深くありました。
治済は、なんとか息子の豊千代を将軍にしたいと思います。
優秀と評判の定信がいることは、豊千代を将軍にするうえで邪魔だったのです。
田沼も、将軍が変わると前の時代の権力者は必ず失脚することを知っていました。
次の時代を考えたのです。
そんな二つの思惑が定信を排除したのです。
清廉な人柄で知られる定信は、賄賂が横行する田沼政治を批判していました。
その為、定信が将軍となれば、田沼の失脚は必至!!
その点、幼い豊千代が将軍になれば扱いやすいと考えたのです。
こうして利害が一致した二人が、有力候補・定信を早々に排除したため、豊千代は将軍の後継になれました。
そして7年後・・・将軍・家治が死去すると・・・
1787年、豊千代は、15歳で11代将軍・徳川家斉となります。
江戸城内では・・・
「家基さまは、本当は毒殺されたらしい・・・」
と、噂が立ちます。
家基が死んで一番得をするのは、我が子を将軍にした治済だということで、首謀者ではないかと噂までたちます。
真相はわかりませんが、家斉の父の野望はまだまだ続きます。
家斉が将軍となって1カ月がたった頃・・・江戸で前代未聞の事件が起きます。
天明の打ちこわしです。
1783年、浅間山が大噴火!!
その火山灰が、田畑をを覆ったことや、悪天候が続いたことで、大飢饉が発生!!
深刻なコメ不足となった上に、商人による米の買い占めが起き米価が高騰!!
これに反発した5000人もの町人が、米問屋を襲い、略奪する暴動を起こしたのです。
将軍のおひざ元である江戸での騒動・・・
その責任を取らされる形で田沼派は幕府から一掃されます。
そして、新たに老中として就任したのが、家斉と将軍の座を争った松平定信だったのです。
治済は、息子を将軍にする目論見を達成しました。
自分の子供の時代には、権力者は自分一人だけでいい・・・!!
そうなると、批判が高まる田沼意次は邪魔だ!!
まさに、身内である徳川一門で新しい政治を始めた方が得策なのではないか??と考えます。
そこで、田沼から松平定信に、乗り換えたのです。
定信は、逼迫していた白川藩の財政を立て直し、評判となっていました。
治済は、その手腕を利用し、徳川一門の手で政治をしようと考えたのです。
家斉・18歳、定信30歳・・・!!
こうして定信は、若い将軍・家斉のもとで、理想の政治を行っていくことになります。
寛政の改革です。
商業を重視した田沼意次の重商主義は、賄賂の温床となり、社会を乱すと定信は質素倹約を奨励。
町人の女房が髪結いを呼ぶことは贅沢だと禁じたり、障子の張替えの回数、ひな人形の大きさまで規制し、締め付けを行いました。
その結果・・・町から活気は消え、経済は停滞・・・やがて、倹約の締め付けが幕府内にも及ぶと、家斉はその窮屈さから対立するようになります。
そんな2人の関係が決定的となった事件は・・・
家斉は、自分を将軍にしてくれた父・治済に大御所の号を送りたいと考えていました。
しかし、定信はこれに対して先例がないことだと反対します。
将軍となった人が「大御所」になれるので、なっていない治済が「大御所」になることはできない、筋が通らないという定信。
何度も何度もこの問答が繰り返され、そのうちに家斉も堪忍袋の緒が切れて・・・
刀を抜いて成敗しようとしました。
ところが、そこにはおこしがいて
「定信殿、家斉さまからお刀をいただけるようでございます
ちょうだいなされ」
家斉は、かざした刀を放り出しておくにはいってしまいました。
緊張した場面が、何回か繰り返されたのです。
1793年、松平定信・老中を罷免される!!
家斉は、古代中国の歴史書・三国志好きで、劉備玄徳の命参謀として知られる諸葛孔明の肖像画を自ら描き、掛け軸にするほどでした。
ある日のこと・・・この孔明を刺して・・・
「何故、(諸葛孔明のような)幕臣がいないのか?」by家斉
その場にいた幕臣たちは凍り付きました。
「それもそうだな・・・上に劉備玄徳のような(立派な)主君もいないのだからなあ」by家斉
そう言って笑ったといいます。
家斉は、自分自身に対しても、冷静に判断できる将軍でした。
徳川家斉の将軍就任から時は経ち・・・
家斉は、江戸幕府歴代の中で大奥を最も活用した将軍と言われ、正室以外に多くの側室を持ちました。
日頃、精力増強のためにオットセイの睾丸の粉末を飲んで・・・オットセイ将軍と言われています。
一説に、生涯に持った側室は40人、そのうち16人が家斉の子を身ごもり出産、その数は、徳川諸家系譜で名前が確認できるだけでも男子25人、女子27人の計52人!!
流産した子などを含めると、家斉は55人もの子をもうけたと言われています。
中には、2人の側室が同時に出産したこともあったとか・・・
しかし、家斉の名誉のためにいうと・・・
多くの子を持った理由・・・それは好色家というだけではなく、10代将軍・家治には男子が2人しか授からず、次男は生後3か月で早世・・・そのうえ、跡継ぎだった家基も急死。
自分の血を将軍として残せませんでした。
家斉は、このことを反面教師としてとらえてました。
徳川本家が途絶えたことで、紀州徳川家となり・・・結局、紀州徳川家も一橋という違う家から将軍を出すこととなります。
この新々の将軍家を、自分たちの血脈で維持していくためには、たくさん子供を作り、途絶えないようにしなければならない・・・!!
家斉は、使命と思っていたのかもしれません。
こうして、生涯に55人もの子をもうけた家斉でしたが、皮肉にも、それが幕府の危機を招くことになるのです。
家斉がもうけた55人の子供のうち、健康に育ったのは男子14人、女子13人でした。
嫡男が早世したため、次男の瓶次郎が嫡男となりました。
問題は、それ以外の子の行く末でした。
幕府は引き取り先を探すことに奔走します。
その結果、男子の場合は半ば押しつけるように大名への養子縁組が行われます。
幕府も、引き取り先には気を遣って、格式を上げたり、借金の返済を免除したり・・・
当然、貸していたお金が返って来なくなれば・・・幕府の資産は激減です。
姫君たちは・・・??
積極的に外様大名と縁組をさせました。
大変だったのは、婚礼にまつわる費用でした。
水戸藩に行った峯姫は、お化粧料1万両と、お手当1万両を持参金として付けています。
おまけに水戸家が借りていた借金2万2000両の返済を免除しました。
莫大な費用のために、幕府の財政がひっ迫し、危機を招いたのです。
家斉は、就任してしばらくの間は老中・松平定信がいたことで、質素倹約を心がけていました。
しかし、定信を罷免し、新たな老中にいうことを何でも聞くイエスマンの水野忠成をつけると一変、贅沢三昧に・・・!!
浪費をかさね、更なる財政危機を招くのです。
東京・汐留にある浜離宮恩賜庭園は、かつては浜御殿と呼ばれた将軍家の別邸でした。
見事な庭園は、家斉が莫大なお金を投じて整備させたものです。
当時、家斉は、浜御殿で園遊会を度々開催。
幕臣を招いて遊ばせたり、釣りをさせたり、庭木を与えたりして労ったといいます。
家斉も、大奥の女性たちと舟遊びに興じたり、巨大なクジラを運ばせて見学したりと楽しんでいました。
その贅沢ぶりは、大奥にも波及・・・
家斉時代の大奥は、3000人を超える大所帯で、規模は最も膨れ上がっていました。
当然、維持するための費用も莫大!!
正室の小遣いは、年間5000両+銀百貫・・・現在の価値で8億円!!
側室の小遣いなども合わせると、年関係費は30~40万両!!
幕府の年間経費140万両の1/4を大奥が占めていました。
江戸城に蔓延した贅沢で享楽的な気風は、幕府の財政難をより深刻なものに・・・
定信の緊縮財政による100万両の蓄えが半分になると・・・家斉も危機感を覚えます。
そして、自らが招いた財政危機を乗り越えるため、ある策を講じるのです。
老中・水野忠成に命じたのは、貨幣改鋳・・・
市中に流通している貨幣を回収し、鋳つぶして金や銀の含有量を改訂した新たな貨幣を作り、それを市中に流通させるというものでした。
貨幣改鋳を行うのは、8代将軍・吉宗以来で、しかも家斉は在位中、小判に限らず銀貨など8回も貨幣改鋳を行っています。
例えば、江戸時代市中に出回った小判は10種類あります。
大きさが違うだけでなく、金の割合も異なりました。
それまでの元文小判が金品位65%なのに対し、家斉が懐中して作らせた文政小判は56%。
江戸時代に作られた小判の中では最低の品位でした。
その文政小判を、金品位の高い元文小判と等価交換し、それをまた金の少ない文政小判に改鋳すれば枚数が増え増収になる・・・それが幕府の資産となりました。
こうして得た利益は、1550万両!!
家斉は、貨幣改鋳を行うことで、幕府の年間予算の10倍近い利益を得て財政を潤わせました。
しかし、その一方で、質の悪い貨幣が大量に出回ったため、お金の価値が下がり物価が上昇!!
インフレを招きました。
酒・1割、味噌・2割、塩・4割・・・米に関しては、7割も価格が上昇!!
庶民の生活を圧迫しました。
経済活動が活発になったことで、庶民文化が発展します。
浮世絵も爛熟期を迎えます。
風景画という新たなジャンルを開いたのは葛飾北斎。
最高傑作シリーズ・富岳三十六景・・・たぐいまれなる才能が生んだ富士の姿に、人々は魅了されました。
これに対抗し、歌川広重が描いたシリーズが東海道五十三次。
空前の旅行ブームに乗って、こちらも大ヒット!!
作家たちの腕も絶好調。
文学の分野でも続々と傑作が生まれます。
十返捨一九の「東海道中膝栗毛」・・・弥二さんと喜多さんの伊勢詣での道中を綴ったこの小説は、ベストセラーとなります。
滝沢馬琴が、「里見八犬伝」を描き始めたのもこの頃です。
こうした江戸庶民文化が花開いたのも、家斉の贅沢のたまものでした。
農民から年貢をとり、商人から税金を取ったとしても、武士階級が倹約でお金を貯めこんでいたら市中にお金が還流しません。
将軍の最大の仕事は、贅沢をしてお金を還流させることなのです。
家斉も、壮大なおすそ分けをしていると思っていました。
自由な風潮により、庶民の不満も少なく、安定した政権運営ができました。
徳川家斉が、幕府の中で最も長い政権を築けたのは、
①優秀な人材を適材適所に起用した
②自由な風潮で庶民の不満が少なかった
家斉は、生まれながらにして体が丈夫で、一年中薄着で過ごし、将軍在任中寝込んだのは、風邪を引いた数回だけ。
健康には特に気を遣い、毎朝江戸城内での散歩を欠かさなかったといいます。
さらに、家斉はしょうがを決行をよくし、身体を温める効果がある健康食として毎日欠かしませんでした。
そして・・・牛乳を煮詰めて丸めたチーズのようなものを作らせ、精力減退や疲労衰弱に効くと食べていました。
③常に健康に気づかい長生きだったのです。
だからこそ、長期政権を築くことができたのです。
1837年、65歳となった家斉は、嫡男の家慶に将軍職を譲り隠居。
将軍在位は50年に及びました。
その4年後・・・1841年閏1月13日・・・家斉は、激しい差し込み・・・疝癪に襲われました。
急性腹膜炎だったと思われます。
そして、そのまま帰らぬ人となりました。
69歳でした。
長い治世の中で、優秀な幕臣を巧みに使い、自らは自由に時代を謳歌した家斉・・・
まさに、遊王と呼ばれるにふさわしい、最強の将軍でした。
”武門の天下を平治すること これに至りて その盛を極むと云ふ”by頼山陽
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