平成28年熊本地震 特別報道写真集 -発生から2週間の記録-

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4月中旬、熊本を襲った震度7の巨大地震・・・熊本城も大きな被害を受けました。
堅固な石垣が崩れ、建物は雪崩を打って壊れています。
しかし、熊本は復興に向けて動き出しています。
石を元通りの場所に配置するための石の緻密な採寸が行われていました。
そして6月1日・・・1か月半ぶりにライトアップされました。
人々の心の支えとなっている熊本城には、不屈の精神が宿っていると言われています。

熊本城を築いたのは加藤清正!!

1600年、天下分け目の関ケ原の戦い!!
東軍か??西軍か・・・??
どちらにつけば秀吉の遺児・秀頼を守ることが出来るのでしょうか??


名古屋市中村区の豊国神社は、豊臣秀吉の出生地です。
神社からわずか100mのところで秀吉に後れること25年・・・加藤清正が生まれました。
9歳の時母方の親戚である秀吉に小姓としてあがった清正。
歴史の表舞台に出てくるのは、信長の死後秀吉が柴田勝家と戦った1583年賤ヶ岳の戦いです。
22歳の清正は、槍をふるい、獅子奮迅の働きを見せました。
猛将のイメージが強い清正ですが・・・

九州平定の陣立てでは・・・清正の名が記されているのは後ろから8人目・軍勢僅か170名・・・。
後備という秀吉の周りを固める配置となっていました。
なので、九州征伐で自分が手柄を立てられるような場所ではなかったのです。
秀吉の周りで、秀吉の支持で動く・・・九州征討中に発生した没収地の管理をしていました。
官僚的な側面も強かったのです。

1588年肥後半国19万5千石の大名に抜擢!!
秀吉の朱印状には期待が込められています。
「お前は何事にも精を入れて頑張っており、役に立っているから肥後を与える」と。。。
新たな領地肥後・・・その統治は困難を極めていました。
1587年には既得権益を奪われたため国衆一揆が勃発!!
前任者・佐々成政は責任を取って切腹していました。
秀吉の期待に応えるべく、果敢に立ち向かっていく清正!!

清正が領民に対して施政方針を出しています。
・一揆に加わった平百姓はこれまで通り耕作せよ
・派遣した代官が百姓に無理を言った場合、清正に直訴せよ
一方的に力で押さえつけるのではなく、民に歩み寄り・・・清正ならではの統治策が伺えます。
しかし、豊臣政権は転換期に差し掛かっていました。
1596年7月13日慶長伏見地震!!
秀吉の住む伏見城も崩壊し、多くの女官が犠牲となる大惨事となりました。
復興のための負担は大名たちにのしかかり、政権に対する不満は募ります。
それから2年・・・37歳の清正に最大の岐路が訪れます。
1598年8月豊臣秀吉死去!!
後継者の秀頼はわずか6歳・・・政権争いが始まりました。

不穏な動きを見せたのは家康・・・
秀吉の遺言に逆らい、大名たちとの婚姻を結んでいきます。
家康は大坂城に入場し、天下の政治をわがもの顔で取仕切り始めます。
秀頼を支える立場にあった三成は、これに反発し動き出しました。
天下の行く末が全く見えない・・・どうする、清正!!

熊本城の発掘で出土した”軒平瓦”。。。
刻印に・・・”慶長四年八月吉日”とあります。
清正はこの時、熊本築城を進めていました。
昼夜の境なく、突貫工事を進めています。
来るべき戦乱を見据えたかのように・・・!!
熊本城の特徴は、そのまれにみる防御力にあります。
縄張りは大小の天守49もの櫓からなり、6基の五層櫓を攻略しないと天守にはたどり着けません。
石垣は、高い所では20メートル、急な武者返しが敵を阻みます。
史上空前、難攻不落の城でした。
清正にはどんな戦略があったのでしょうか??

1600年7月、関ケ原の戦いの2か月前、領国・熊本で築城を急がせている清正に驚く知らせが・・・!!
それは、家康と並ぶ実力の毛利輝元!!
「秀頼さまに忠誠を尽くすために、大坂で政務を執る。
 貴殿も早々にご上洛されたい!!」by輝元
1か月前の6月、家康が会津征伐に出陣したとき、家康が大坂を留守にしたので・・・
7月中旬・・・毛利輝元、三成と共に、反家康の挙兵をしました。
激に応え、西国の大名9万5000もの大軍が大坂に集結!!
清正にもそこに加われというのです。
輝元の要請に応えるべきか・・・??

清正と三成・・・
1597年慶長の役で・・・朝鮮戦争出兵の遺恨がありました。
苦戦が続き、戦線を縮小しようとした清正たちの動きを三成の家臣が秀吉に報告したことで、清正たちは厳しい処分を受けました。
秀吉の死後・・・1599年黒田長政らとともに石田三成を襲撃し、奉行職を解任していました。
たとえ戦に勝ったとしても、三成の下で働くのか・・・??

なので東軍につく・・・??

しかし、清正と家康との間にもわだかまりがありました。
1599年薩摩藩で起きた重臣の反乱に清正が加担したことが家康の逆鱗に触れます。

三成には従えない・・・徳川との関係も今一つ・・・
九州で・・・熊本城を本拠地として独自行動する・・・??
そのカギを握るのは・・・秀吉の軍師・黒田如水!!
大部分が西軍の九州にあって、清正と如水は数少ない家康方と目されていました。
関ケ原の前後、二人は頻繁に連絡を取り合っています。
天守の内装についても・・・。

西軍につくのか??東軍につくのか・・・??九州で独自行動か・・・・・??

1600年9月15日関ケ原の戦い・・・東西両軍の戦いは、遂に火ぶたを切りました。
その戦いは、僅か1日で東軍の勝利に終わります。
清正の洗選択・・・??

9月7日に家康側近に出した書状には・・・
黒田如水と相談の上、隣国に侵攻を開始する・・・と、旧州での軍事行動を選択しました。
9月19日、西軍主力・小西行長の留守をついて居城・宇土城に侵攻!!
一月後に落とし、立花宗茂の居城・柳川城を開城させます。
子の清正の行動は・・・??
豊後の大名・中川清秀に対し・・・清正が東軍寝返りを保障した書状には・・・
”家康公に味方するのは秀頼さまへのご奉公である”と書かれています。
清正は、豊臣家に対して独自の戦後構想を持っていたと思われます。
立花家や島津家にも徳川と和平を結ばせようとしていた清正。
九州の大名同士で戦後秩序を作っていこう・・・九州の事は九州の大名で・・・と思っていたようです。
関ケ原ののち、九州では西軍に加担した多くの豊臣大名が勢力を温存しています。
これは、豊臣王国・九州だったのです。
10年後・・・熊本城を大改造する清正。。。
増築された本丸御殿・・・若松の間の奥・・・それは、狩野派の絵師による襖絵に彩られた昭君の間。
描かれているのは絶世の美女・王昭君です。
しょうくん・・・将軍に通じる・・・
一説によると、清正は有事の際に、秀頼をここに匿うことを考えていたと言われています。
熊本城の奥深くに設えられた絢爛豪華な昭君の間・・・例えどのような苦境にあっても、秀頼を守ろうとした清正の決意の表れなのかもしれません。

しかし、関ケ原が1日で終わってしまった。。。

1611年3月28日・・・
京都二条城・・・将軍を息子・秀忠に譲り、徳川の天下を盤石にしていた家康は、これまで上洛を拒否していた秀頼と会談。
通説では清正はこの時、秀頼の側近として参加。
いざとなったら家康と刺し違えるつもりで懐に短刀を忍ばせていたと言われてきました。
が・・・最近の研究からは・・・??
会見に参加した細川忠興の書状によると、そこには・・・
”常陸さま(家康10男・頼宣)へは加肥州(清正)がお供した”と書かれています。
清正は後の御三家・紀州頼宣の供・・・徳川側として会見に参加していました。
しかし、そこには高度な政治判断があったようです。
当時としては、徳川の天下は誰の目から見ても明らかでした。
そんな中で、豊臣家が残っていけるような融和な策を作ろうとしていたのです。
そんなことが出来たのは、清正だけだったのです。
豊臣恩顧の筆頭・加藤清正、あえて徳川方として列席することで、両家のパイプ役となろうとしたのです。

清正の菩提寺・本妙寺・・・清正の本心をうかがわせるような資料が残っています。
関ケ原後・・・家康が将軍に任ぜられた頃の、加藤清正を肥後守に任じる後陽成天皇の辞令書・・・
そこには豊臣清正・・・と書かれています。
あえて豊臣を名乗る・・・自分は豊臣家の柱石である・・・その固い想いが感じられます。

しかし、運命は冷酷・・・
二条城会見から2か月・・・清正は領国に帰る途中で発病!!
帰国後ほどなくこの世を去ります。
享年50・・・余りにも早すぎる死でした。

本妙寺では、毎年清正の命日の前日に盛大な祭りが行われ、10万人以上が祈りを捧げます。
一途に忠義を捧げた清正・・・それは、熊本の人の誇り。。。
不屈の精神を現した熊本城は人々の希望の光なのです。



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