今年、20年ぶりに日本の紙幣が一新されることとなりました。
1,000円札には日本近代医学の父・北里柴三郎
5,000円札には日本女子教育の先駆者・津田梅子
そして10,000円札に起用されることとなったのが、日本経済の父・渋沢栄一です。

時は幕末から明治へと移り変わる時代の大変革期・・・
そんな頃、近代化において数々の偉業を成し遂げたのが渋沢栄一です。
日本で初めての銀行を作るほか、色々な会社を作ります。
生涯に携わった数・・・500社余り・・・。
今も日本経済の屋台骨を背負っています。
しかし、具体的に何をしたのか・・・??
その真の姿とは・・・??

1867年、横浜港からフランスに向けて一隻の船が出航しました。
船に乗り込んでいたのは、パリ万国博覧会幕府使節団。。。そして、そのまま留学することになっていた慶喜の異母兄弟・徳川昭武でした。
この使節団一行に、庶務兼会計係として随行していたのが、幕臣・渋沢栄一、27歳でした。
将軍慶喜からその能力を買われて、直々に昭武のお供を命じられたのです。
その時の決意・・・
”彼の国の長所を探り 我が国のものとせねばならない”
幕府は黒船来航以来、欧米列強の国力の差を見せつけられていました。
そこで、幕府は、一刻も早く追いつかねばと、フランスでその国力の秘密を探らせ、慶喜に報告させることにしたのです。

4月11日、パリに到着した渋沢は、見るものすべてに圧倒されます。
整備された上下水道、黒煙をあげて疾走する蒸気機関車、そしてエレベーターや発電機など・・・最新の技術の数々・・・

「こんなものを作る費用は、どうやって集めているのだろうか?」

渋沢が探ったフランスの国力の秘密とは・・・??
大きなカルチャーショックを受けた渋沢が向かったのは、理髪店でした。
その誇りである髷を切り落としました。
渋沢は、先進文明に触れ、多くの知見を得たいと考えていました。
そのためには、いつまでも誓った文明文化の姿をするのではなく、郷に入れば郷に従え・・・
フランスの文化に染まり、溶け込むことでより良い情報が得られると考えたのです。
全ては、フランスの国力の秘密を探るためでした。

経済の仕組みを教えてくれたのが、銀行家フリューリ・エラール氏でした。

「国に豊かさをもたらしているのは、役人ではなく銀行と株式会社です。」

エラールが渋沢に教えた秘密は・・・資本主義の根幹となる銀行と株式会社の存在でした。
銀行が個人から資金を集め、まとめて貸し出す・・・大規模な事業を可能にし、会社もまた個人に株を買ってもらってそれを元手に商売をし、その利益を配当として還元する・・・
そうすることで、個人、企業、国も豊かになっていく・・・このシステムがフランスを支えているのだと。
それを円滑に行うためには、官尊民卑がないこと・・・。
そして、民間人が政府に従って行うのではなく、両者が対等の立場であることが大切だという事。
フランスの国力の秘密は、民間人が政府と協力して行う銀行と株式会社の仕組みにあったのです。
渋沢はこれを合本法と呼び、日本への導入を決意します。

こうしてフランスの豊かさを渋沢が掴み始めた頃・・・日本ではとんでもないことが起こってきました。
渋沢をフランスに送り込んだ将軍慶喜が大政奉還!!
徳川の世が突如終わりを告げたのです。

1840年、渋沢栄一は、武蔵国血洗島村(現・埼玉県深谷市)に、農家の長男として生れます。
農家といっても渋沢家は裕福でした。
父親が詳細を発揮し、染め物などに使われる藍の葉の買い付けと河口で財をなしていました。
そんな父親から、幼い頃より熱心に学問を授けられました。
6,7歳のころから「三字経」・・・当時の農民は、農業に支障をきたすため、文字を読む必要はないとされていました。
しかし、よりよい生活をしていくためには、教養を身につけるべきだろ渋沢の父は考えていたのです。
父から様々な学問を学んだ渋沢が、驚くべき商才を発揮するのは、わずか13歳の時でした。
不在の父親に代わって藍の買い付けに行った時の事・・・
子ども相手だと見下していた農家に対し・・・
「何だこの藍は・・・肥料が足りない、別の物はないのか?」と、ベテランの目利きのような口ぶりで、周囲の大人を圧倒!!
次々と農家を口説き落とし、良質の藍の葉を手に入れたのです。
渋沢は、人を説得する際には信念を持って話をし、誠実な態度で信頼・信用を得ていました。
人をうまく巻き込む才能が渋沢にはあったのです。

そんな渋沢が17歳になった時、その後の人生を大きく決めることが・・・
村を治めていた代官から渋沢の家に呼び出しがあり、父親の代理で出向いたところ・・・
「500両を納めるよう申し渡す」
「500両と突然言われましても、年貢は毎年納めております
 すぐにはお答えできません」
「何をぬかすか、この若造が!!これは命令じゃ!!」
今のお金で5000万のお金を出すというような理不尽な命令をされても、農民だから逆らえない・・・。
渋沢にかつてない怒りがこみ上げてきました。

”その時に、始めて幕府の政事が善くないという感じが起こりました” 

全ての元凶は、代々受け継ぐというシステムを作った徳川だ・・・!!

当時は尊王攘夷論が流行っていた頃で、渋沢もその思想に傾倒し、江戸に留学、漢学者の塾に通い剣術などを学んだあと村に戻り、同じ考えを持った若者を募り、攘夷作戦を実行しようとします。
その作戦は・・・??
一気に蜂起し、近くの高崎城を占拠、その後横浜の外国人居留地を焼き打ちし、手当たり次第に外国人を斬り殺すというとんでもない過激なものでした。
世の中の不条理を排除していかなければよりよい社会にならないと思ったようです。
それは、自分たちの生活を守るという意識が強かったのです。

結局渋沢は、周囲の説得を受け・・・生き長らえて世の中を変えていこう・・・と計画を中止しましたが、時すでに遅し・・・!!
渋沢は、幕府に危険人物として手配されてしまいます。
このままでは捕まってしまう・・・絶対説明の危機・・・どうやって乗り越える・・・??

身に危険が起こった渋沢は、最早村を出るしかありませんでした。
江戸遊学中に出会った一人が渋沢に救いの手を伸べます。
八代将軍・徳川吉宗の流れをくむ御三卿の一橋家の用人・平岡円四郎です。
渋沢は平岡から思わぬ提案を受けます。

「捕縛されて牢屋で死ぬぐらいなら、いっそのこと一橋家に仕官してみては・・・??」

渋沢に与えられた道は、捕縛され処刑されるか、徳川家に仕官することだったのです。
渋沢が選んだのは・・・士官の道でした。
この時一橋家の当主は、水戸家から養子になっていた一橋(徳川)慶喜でした。
渋沢は尊王攘夷派から一転、慶喜の家臣になることで、処刑の危機を脱したのです。
その裏には・・・一橋家は、当時の幕政に対して批判的な考えを持っていました。
慶喜の実家である水戸徳川家は尊王攘夷派だったのです。
渋沢も、一橋家なら・・・と、選んだのかもしれません。
24歳のことでした。

一橋家は、京都御所を守る役割を担っていました。
一橋家には譜代の家臣が少なかったため、有能な家臣を求めていたのです。
その時、慶喜は平岡から渋沢の能力の高さを聞いていたのでした。
一橋家は家臣も少なく、軍備も弱かったので、渋沢が最初にした仕事は、農兵を集めることでした。
渋沢は、与えられた役割をきっちり果たしただけではなく、先々で見た情報から一橋家の財政改革案を出していきます。

・木綿の生産高と流通機能を高めさせた
・年貢米を領地内の酒造家に買わせた
・領地内に硝石を火薬にする製造所を作った

後に、日本経済の父となる商才が、慶喜に認められた瞬間でした。

徳川慶喜が、第15代将軍に就くことになりました。
渋沢は、遅かれ早かれ幕府が倒れることを考えていた渋沢にとって、慶喜の将軍就任はあってはならないことでした。
渋沢は、危うい状態にある幕府の将軍就任は、負担が大きいだけで意味がないと反対します。
そして、幕政を批判していた自分が、幕臣になることに抵抗があったのです。
慶喜が将軍となった事で、渋沢は未来に展望を見いだせず、悶々とした日々を過ごすことに・・・。
そんな渋沢に新しい命が下ります。
慶喜の弟・昭武の随行としてパリに赴くことでした。
フランスで経済を学ぶという新しい目標を見つけた渋沢・・・まさにそのさ中・・・
1867年10月、慶喜は将軍に就任してからわずか11か月後、まるで政権の座を放り出すかのように将軍の座を朝廷に帰してしまったのです。
翌1868年、フランスから帰国した渋沢は、慶喜が暮らす駿府へと向かいました。

「及ばずながらも、慶喜公に出来るかぎりの御奉公をしなければならぬ・・・」

余生は慶喜のために・・・渋沢は、駿府に妻と子を呼び寄せ、慶喜のもとで骨をうずめようと心に決めたのでした。
そして手始めに・・・パリで学んだ合本法を実践。
駿府領内の産業振興を図ることでした。
そのために渋沢は、商法会所という会社を設立します。
公の資金を領内の商人や農民に貸し出し、大規模な商売をはじめさせ、収益の一部を預けてもらうシステムです。
いまの銀行と商社を組み合わせたようなものでした。
まさにフランスで学んだ合本会社でした。
商法会所は大きな利益を得ていきます。
すると1869年東京の新政府から、税制の実務を取り仕切る租税正に抜擢されます。
断わるつもりでいた渋沢でしたが、いう事を聞かなければ慶喜が政府に反対していると思われ慶喜の立場が悪くなってしまうと思い直し、29歳で政府の役人に転身しました。
大蔵省で、次々と事業を立ち上げていくこととなります。

鉄道の整備、富岡製糸場の建設、郵便制度の整備・・・国の基礎となる重要な事業で、渋沢が取りまとめ役としてかかわった政策立案は、200にも及びました。
渋沢は、その剛腕ぶりが認められ、わずか3軟飯で大蔵省のナンバー2となるのです。

1872年、新政府は国立銀行条例を発布します。
これが渋沢栄一が次に行う大仕事でした。
日本を欧米列強のように富ませるためには、広く出資者を募り、新たな事業に投資するという銀行の設立が不可欠だったのです。
しかし、その頃、渋沢たち国の動きとは別に、巨大資本による銀行設立が進んでいました。
東京府兜町入り口に建てられた三井組ハウス・・・文明開化の象徴となって人々の話題をさらっていました。
その建物を建て、銀行の設立を目指していたのが、江戸一の大店、明治になっても政府のかねの流れを一手に引き受ける御用商人として莫大な利益を上げていた三井家・・・三井組でした。
渋沢は、この三井組による銀行設立に待ったをかけます。

”特定の財閥だけが富を独占したのでは、銀行を作る意味がないのではないか?”

利益を独占する銀行ではダメだ・・・
あまねく社会に資金を回し、経済を活性化し、その利益を国民に還元していく・・・これこそ真に国をとませることだ・・・!!
そこで、渋沢は、三井組による利益の独占を防ぐために、銀行設立に名乗りを上げていた小野組などから広く資金を募る合本会社による銀行の設立を画策します。
さらに、その新銀行に三井組ハウスを明け渡すように迫ったのです。
渋沢は、三井組ハウスの建物が欲しかったのではなく・・・三井組が三井組ハウスで銀行経営を行えば、独占の象徴になるため、引き離したのです。

当然三井組は断固拒否!!

結局三井組独自の銀行設立を認める代わりに、新銀行が三井組ハウスを使うという妥協案で決まります。
こうして1873年日本初の銀行「第一国立銀行」が設立!!

この銀行の主な業務は二つ・・・
お金を預けてもらい、その資金を事業に貸し出す事、そして紙幣(銀行券)の発行です。
紙幣の発行は、欧米列強を見習ってのことですが、それまで全国で流通する紙幣がなかったので、急に小判のようなお金だといっても信じません。
そこで渋沢は、その紙幣と「金」をいつでも交換できると定めました。
紙幣を信用させることで、流通させたのです。
これで最早国に対する自分の役目は終わった・・・と、渋沢は設立の直前に大蔵省を退官・・・銀行のお目付け役である総監役に就任、富の独占を監視することにします。

第一国立銀行設立の直後・・・予想もしない出来事が・・・。
全国で旧士族の反乱がおこり、社会は混乱状態に・・・
凶作で米の価格が急騰!!
紙幣の価値が急落してしまいました。
さらに、銀行の大口出資者だった小野組が倒産。
すると、紙幣を金に変えようと人が殺到します。
まだまだ紙幣の価値が確立されていないために、人々は信用できない紙幣を金に変えたのです。
外国の商人も、安く交換できる日本の金を求めたため、銀行から金の流失が進みました。
銀行の金庫にはもう金がない・・・破綻・・・?
この危機を、渋沢はどう乗り切るのか・・・??
渋沢は断腸の思いで提言します。
「銀行条例を改正し、金と紙幣の交換を廃止してほしい」
渋沢は、自らが携わった銀行条例に大きな欠陥があることに気付きました。
ルールを変えるべきではない??
銀行を残すことが一番だ!!と、紙幣と金の交換を停止することで、銀行からの資金の流失を防ぎました。
この苦肉の策が、新たなチャンスを招くこととなります。

金を保有していなくとも銀行を容易く設立することができる・・・と、日本全国で銀行設立ブームが起こります。
明治12年の時点で日本の銀行数は153!!
地方経済が活性化、鉄道や様々な地場産業が発達していきます。

銀行破たんの危機を乗り切った渋沢栄一は、民間会社の立ち上げに次々と関わっていきます。
その数およそ500社!!
ガス会社・・・東京瓦斯など
鉄道会社・・・日本鉄道(現東日本旅客鉄道)
         畿内電気鉄道(現京阪電気鉄道)など
製紙会社・・・王子製紙(現王子ホールディングス 日本製紙)など
保険会社・・・東京海上保険(現東京海上日動)など
ホテル・・・・帝国ホテルなど
ビール会社・・・大日本麦酒(現アサヒビール サッポロビール)など

その中で、渋沢が長くかかわった会社は、第一国立銀行をはじめ数社です。
どうして会社の経営に携わらなかったのでしょうか?
渋沢は、世の中に必要な事業を会社組織として設立し、事業が軌道に乗れば次の事業に手を差し伸べたのです。
しかし、経済の基盤を作るなら政治家になったほうが・・・??
渋沢は、官尊民卑を打ち破らなければと思っていました。
民の力を信じていたのです。
井上馨が総理大臣になる時、渋沢栄一に大蔵大臣を要請します。
が、渋沢は、頑なに断っています。

次々と会社を作り、経済を発展させていく渋沢・・・強力なライバルが現れます。
1878年8月、渋沢は、向島にある料亭に呼ばれます。
招待したのは、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎です。
土佐藩の藩営会社を引き継いで三菱商会を立ち上げた岩崎は、海運御湯をほぼ独占!!
台湾出兵、西南戦争で莫大な利益を得、海運王として名を馳せていました。
同じ実業家として次々と会社の立ち上げに関わっていた渋沢に興味を持ち、意見交換の場を設けたのです。

「君と僕が手を組めば、世界を牛耳ることができる・・・!!」by岩崎弥太郎

そして、この時、二人は日本経済の在り方を巡って大激論!!
合本主義を主張する渋沢に対し、岩崎は利益の独占を主張します。
世の中の繁栄、日本経済の発展を望むのは同じ二人でしたが、その手法が違っていました。
渋沢・・・個が協力し合う
岩崎・・・強いリーダーシップ
そして二人は、それぞれの手法で日本経済の発展に寄与していきます。

そんな渋沢が晩年、経済以外に次世代へと残した偉業の足跡が渋沢資料館に残されています。
「徳川慶喜公伝」
渋沢の恩人であり、主君であった徳川慶喜が、日本のために果たした役割を克明に書いた伝記・・・
次々と会社を立ち上げていた一方で、渋沢は慶喜本人への取材、資料の収集、編集方針の策定、伝記の出版にも力を注ぎました。
渋沢は幕末、危うい自分を救ってくれた慶喜に対して、強い恩義を感じていました。
その慶喜の伝記を編纂したかったのです。
渋沢が残した公伝により、慶喜が果たした役割が再評価されるようになります。

そしてもう一つの顔は・・・??
1879年、渋沢が院長として就任した施設が・・・明治維新の混乱による困窮者救済のために造られた日本で最も古い福祉施設の一つ「東京養育院」です。
捨て子、親のいない子・・・社会的弱者を預かっていました。
渋沢は運営資金の調達、学校の設置など、慈善事業の拡大にとり人で、長きにわたって院長を務めていました。

渋沢が行った世の中の繁栄と産業振興・・・その中で、貧富の差が生れてしまった・・・
日常の生活からドロップアウトしてしまう人々を、底辺から救い上げ、よりよい社会にするために、福祉に尽力したのです。
渋沢は自分が進める資本主義の負の側面とも向き合い、取り組んだのです。
そして・・・1923年9月1日、死者行方不明者10万人ともいわれる関東大震災・・・。
未曽有の被害を出しました・・・その際には、被災を免れた自宅を開放し、炊き出しを行い、被災者の救済に当たり、その人脈から海外からの支援金を募りました。

1930年・・・90歳の渋沢をたずね、福祉施設の代表ら20人がやってきました。
この時、渋沢は高齢の上に風邪を患っていました。
主治医も面会を許可しませんでしたが・・・渋沢は会うといって聞かず、面会が叶います。
彼等は渋沢に懇願します。
飢えと寒さに苦しむ20万人の貧しい人を救うための救護法が制定したにもかかわらず、予算が足らずに実行されていない・・・力を貸してほしいというものでした。

渋沢はこう答えます。
「どれだけお役に立つかわかりませんが、出来るだけのことを致しましょう 
 それが、私に与えられた最後の義務でしょうから・・・」
と、自ら交渉役を買って出・・・大蔵大臣と内務大臣に面会を申し出たのです。
木枯らしの吹く中、病での外出は命に係わると周囲の者が渋沢を止めようとすると・・・
「これで私が死んでも20万もの人々が救われれば、本望じゃありませんか。」
渋沢栄一が天寿を全うしたのはその翌年・・・1931年11月11日、91歳のことでした。
日本のために生き抜いた渋沢栄一
そして、渋沢の死後、救護法は実施されることになります。

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