日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:三国同盟

真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任 [ 倉山満 ]

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長野県軽井沢町・・・戦前、国民の人気が高いある政治家の別荘が残されています。
政財界の友人を招き、当時最先端だったゴルフに熱中していました。
別荘の主は近衛文麿・・・
昭和の初め、日本が戦争に突き進んだ時代に3度にわたって首相を務めました。
別荘に残されていた掛け軸・・・昭和19年、アメリカの戦いのさ中、認めた言葉です。
「度量数称勝」・・・国力で圧倒的に勝るアメリカに勝てない・・・そう思っていたであろう近衛文麿、どうして戦いを避けることができなかったのでしょうか?

昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争・・・
そに8か月前、殊勝だった近衛は、アメリカとの関係改善を目指し、和平交渉を行っていました。
そこでまとめ上げたのが「日米諒解案」です。
両国の主張を盛り込んだだけの外交文書でしたが、その後の日米交渉の土台となりました。
しかし、この近衛の動きを真っ向から否定したのが外務大臣・松岡洋右でした。

松岡は第二次世界大戦下のヨーロッパで快進撃を続けるナチス・ドイツとの同盟を軸にアメリカに対抗する力の外交を進めました。
松岡を支持する国民の熱狂が、近衛を外交を狂わせ、外交交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。
迫り来る開戦・・・近衛はルーズベルト大統領とのトップ会談に託しました。
外交と世論のはざまで揺れた近衛文麿、その選択とは・・・??

京都大徳寺・・・ここに近衛家代々の墓所があります。
近衛家は、藤原鎌足を祖先に持ち、代々歴代天皇に仕えてきた公家の名家です。
宮中の中で、代々文化面を司っていた家で、文麿も最初から政治の道についたわけではなく、華族としての立場で政治に関わっていました。
明治時代に作られた特権階級の華族。
その最高位侯爵だった近衛文麿は、大正5年、25歳で政界デビュー、貴族院議員となります。
当時から大衆の人気は高く、名家でありながら親しみやすい人柄で、政界の貴公子としてもてはやされました。
そんな近衛の言論が注目されるようになったのは、大正7年のことでした。
この年終わりを迎えた第一次世界大戦・・・
イギリス、アメリカを中心とする連合国が勝ち、英米主導の新しい国際秩序が築かれることとなりました。
この時、27歳の近衛の論文が議論を呼びます。

「英米本位の平和主義を排す」
英米は戦後の国際秩序を都合よく再編するつもりだ
豊富な天然資源を独占するなど、他国の発展を抑圧している
日本は正当なる生存権を主張し、それを貫徹すべきである

国際協調を掲げながら自国の利益を優先する英米を強く批判したのです。
そして大正から昭和へ・・・近衛が政治の舞台へと・・・!!
昭和恐慌・・・失業者が続出し、政治への国民の不満が高まります。
昭和6年9月満州事変勃発、満州国が誕生しました。
軍部の勢いは誰にも止められないものとなりました。
日本の行き詰まりは支配層の腐敗が原因だと考えた若者によって暗殺やテロが相次ぎます。
総理大臣が次々と変わる不安定な政局の中、新しいリーダーとして期待されたのは、当時貴族院議長だった近衛文麿でした。
昭和12年6月・・・近衛は45歳という若さで内閣総理大臣に就任します。
メディアはこぞって期待します。
”低迷する暗雲の中から一つの光が忽然として輝きだす”
しかし、組閣からわずか1か月で難局に直面します。
7月7日、盧溝橋事件・・・日中両軍が衝突します。
これをきっかけに日中戦争がはじまりました。
近衛は国民が一丸となって戦うように大演説を行い、ラジオや新聞を使って戦意高揚に・・・!!
日中戦争は拡大の一途をたどり、南京まで陥落!!
熱狂した人々は手旗や提灯をもって行進し、日本中が歓喜の渦に包まれました。
この世論の高揚が、近衛内閣に影響を及ぼすこととなります。
その頃、日本はドイツの仲介で、中国側と交渉していました。
相手は国民政府を率いる蒋介石でした。
しかし、戦勝に湧く世論に押され、交渉条件を釣り上げてしまいます。
それは、満州国の承認、賠償金の要求・・・中国側が容認しがたいものでした。
当時の外交の問題点は、ほぼ呑めないであろうモノを求めてしまった・・・その国際感覚のなさ、国内向けの政治を重視した外交でした。
国民の戦争熱を煽った場合、自分でも止められなくなって・・・外交的に妥協すべきところで妥協できなくなってしまったのです。
昭和13年1月、近衛は中国に対し、事後、国民政府を相手とせずと、自ら和平交渉を打ち切りました。

日中戦争がはじまって3か月後の昭和12年10月・・・
アメリカのルーズベルト大統領が演説を行いました。
「アメリカは戦争を憎む
 アメリカは平和を望む
 だからこそ、平和のために関与することを辞さない」
名指しこそしなかったものの、日本を強く批判したものでした。
当時、中国との貿易拡大を目論んでいたアメリカ・・・海軍の軍備増強に着手し、中国国民政府に援助物資をするなど、日本との対決姿勢を明確にしました。
日本では泥沼化する日中戦争に国民は厳しい統制下に置かれていました。
昭和14年1月、第一次近衛内閣総辞職。
外交方針を巡って閣内で対立したことが原因でした。

この年、ヨーロッパ情勢は激動を迎えていました。
昭和14年9月第二次世界大戦勃発。
ヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスはドイツに宣戦し、戦いが始まりました。
ドイツはデンマーク、オランダ、フランスなど周辺諸国を次々と制圧し、ドイツの優勢をみたイタリアもドイツ側として参戦!!
東京荻窪にあった近衛の邸宅「荻外荘」
昭和15年7月、再び首相に推された近衛は、組閣に先立ち陸海軍大臣、外務大臣予定者を呼び、ドイツ・イタリアとの関係強化を決定します。
この時、外務大臣に任じられていたのが松岡洋右でした。
昭和8年日本は国際連盟脱退を通告。
松岡の演説は、世界を相手に物怖じしない姿に、国民は喝采を送りました。
オレゴン大学を卒業し、アメリカ痛を自負していた松岡、弁が立つと、軍部を押さえられる人材と近衛が抜擢したのです。
第2次近衛内閣発足2か月後、松岡が主導した外交が世界に衝撃を与えます。
昭和15年9月日独伊三国同盟締結。
松岡の狙いは三国の結束を誇示することでアメリカに対抗するというものでした。
この同盟には、近衛にも明確な狙いがありました。
アメリカとの衝突を避けること・・・!!

昭和9年・・・首相になる3年前に近衛がアメリカに50日間滞在した時の記録・・・「米国巡遊日記」には・・・
ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれたり、各地で政財界の要人と交流を深めていたことが書かれています。
「ニューヨークに現代日本を正しく伝える施設を作るべきだ」とも。
両国の文化交流を進めることで、対立を避けられると考えていました。
アメリカ国民に対して友情の大切さを語る画像も残っています。
「私は多くの旧友たちと再会し、新しい友人たちと出会いたいと思っています。
 そして、太平洋の反対側にいる私たちが80年育んできた日米間の友情を、どれほど大切に思っているか、私から直接お伝えしたいのです。」
大国アメリカを目の当たりにした近衛にとって、日米開戦は絶対にあってはならないものでした。

昭和15年11月、アメリカから二人の神父が施設として来日・・・
「日米の友好関係の回復を望む」アメリカからのシグナルでした。
当時ドイツと戦うイギリスを支援していたアメリカは、同時にアジアで日本と対立するのは避けたいと考えていました。
しかし、中国問題をめぐり、日米関係が悪化していたために、民間レベルで交渉を始めたのです。
アメリカとの対決に危機感を抱いていた近衛は、期待していました。
昭和16年2月、日本の使節がアメリカに向かいました。
対話の機運が高まったため、僅か2か月で駐米大使・野村吉三郎と国見長官コーデル・ハルの交渉に格上げされました。

日米諒解案・・・
外交方針から経済協定まで、あくまでお互いの主張を記したものに過ぎなかったものの、冷え切った日米関係の解決の糸口となるものでした。
アメリカの狙いは、日本が三国同盟における軍一事情の義務を免れること・・・
アメリカとドイツが戦争になっても、日本は参戦しないという意図が含まれていました。
日本の狙いは、日中戦争の解決でした。
アメリカが満州国を承認すること・・・ルーズベルト大統領による中国の和平勧告日本の有利な条件が盛り込まれました。
さらに、近衛にとって大きかったのは、日米首脳会談でした。
国内の調整をへずにTOPで外交方針を決められる強力なものでした。
しかし・・・ハルは諒解案に基づく交渉を始める前に、前提条件を示していました。
ハル四原則
①領土保全と主権尊重
②内政不干渉
③機会均等
④太平洋の現状維持
それは、中国をはじめとする他国の領土や主権を守り、内政干渉や武力行使を全面的に禁止するというものでした。
交渉が途絶えるのを恐れた野村は、東京に諒解案を伝える前に、この四原則には触れませんでした。
4月18日、諒解案を受け取った近衛は、大本営政府連絡懇親会で検討。
軍部も賛同し、これをたたき台にアメリカとの交渉を始めようとしていました。
ところが・・・この動きに強硬に反対したのが、外務大臣・松岡洋右でした。
松岡は日米交渉の模索が始まっていた3月から1月あまりヨーロッパを外遊していました。
ドイツではヒトラーと会談し、熱狂的な歓迎を受けました。
帰路、ソ連で直接スターリンと直接交渉し、昭和16年4月、日ソ中立条約締結に成功。
松岡は三国同盟に莫大な戦闘機や陸上兵力を加えたソ連との”四国協商”を構想・・・連合国に匹敵する軍事力でアメリカを圧倒しようとしていました。
4月22日、松岡は帰国。
政治家、軍人、メディアが迎える華々しい凱旋となりました。
松岡の外遊は、外交史上画期的な出来事と報じられ、近衛自ら飛行場に足を運び、松岡を出迎えました。
しかし、自分のいないところで近衛が進めた日米交渉に、松岡は警戒心を隠しませんでした。

”本提案は米国の悪意七分善意三分と解する”

日米諒解案をもとに交渉を続けるべきか、四国協商を進めるべきか・・・近衛は国の命運をかける選択に迫られました。

松岡が帰国した1941年4月22日、大本営政府連絡懇談会が開かれました。
近衛が進め、軍部も賛同していた日米諒解案に対し松岡が反発、一人退出し、その後自宅に引きこもってしまいました。
陸海軍首脳からは、松岡に対する反感が高まり、更迭してまでも諒解案を進めるべきという案も・・・
しかし、結局近衛は、松岡にアメリカとの外交を委ねることを選びました。
早いところで罷免することは難しい・・・松岡には日ソ中立条約という手土産がある・・・
5月12日、松岡は自ら手を加えた修正案をアメリカに伝えます。

”三国同盟の軍事義務に基づき、ドイツとアメリカが戦争になれば、日本は参戦する”

あくまで三国同盟の結束を誇示し、アメリカの要求を拒絶する内容でした。
6月21日、国務長官ハルは、日本を非難するオーラル・ステートメント発表。

”日本の指導者は、ナチス・ドイツへの援護に固執している”

日米諒解案に基づく交渉は頓挫しました。
さらに翌日・・・日本に想定外のことが起きます。
6月22日、ドイツが日本と中立のソ連に侵攻。
松岡が構想していた四国協商はもろくも崩れました。
それでもアメリカへの強硬姿勢を変えない松岡・・・
近衛内閣は日米交渉を続けるために松岡を排除することで一致。
7月18日、外務大臣を変えて、第三次近衛内閣発足。
しかし、近衛内閣はアメリカとの対立を決定づけてしまいます。

日本軍は、石油や語句などの資源を求めて、南部仏印に進駐します。
東南アジアは、アメリカが支援する連合軍にとって戦略拠点でした。
そこににらみを利かす進駐は、連合軍に対する挑発とも取れる行動でした。
アメリカは在米日本資産を凍結、さらに日本への石油輸出禁止を発表します。
危機感を募らせた軍部は、早期開戦を主張!!
国民やメディアの間で反米が強まり、開戦は抑えられない事態に・・・。

日米開戦・・・
”ついに、自ら大統領と会見しようという一大決心をした”
8月、近衛は野村を介して日米首脳会談を打診します。
在日アメリカ大使グルーは、近衛の心境を本国にこう伝えています。

「今や近衛はこれまでの政策は根本的に間違っていると認識している。
 そして、勇敢にも自らの命を犠牲にしてまでも、日米の和解を実現しようと決心している」

近衛のメッセージを受け取ったルーズベルトは興味を示し、アラスカでの会談を提案。
しかし・・・ハル国務長官は東南アジアに侵攻した日本に不信感を募らせ会談に消極的に・・・。
アメリカとの交渉が停滞する中、9月6日御前会議。
大きな打撃が・・・
決定した国策に軍部の意向が反映され、日米交渉の機嫌が盛り込まれました。
10月上旬までにアメリカとの交渉のめどが立たなければ、アメリカ、イギリス、オランダとの戦争に踏み切る・・・!!
近衛に残された期間は僅か1か月でした。

開戦に傾く軍部を横目に近衛はグルーと極秘に会い、会談を模索します。
この頃の近衛は・・・
コップ酒を煽り、激しく軍部を罵り・・・
陛下が反対だと言われているのに、陸軍は負ける戦争を主張する。
最早アメリカに脱出し、ルーズベルトと会談する以外にない!!
ハルはあくまで四原則の合意と、中国からの撤退を求め、譲歩することはありませんでした。
そしてこの絵が主張した日米交渉は内きりの機嫌が・・・
トップ会談による局面打開の望みは絶たれたのです。
10月16日、近衛内閣は総辞職・・・東条英機内閣が成立します。
その2か月後の12月8日・・・日本は真珠湾を攻撃し、アメリカとの4年にわたる戦争へ突入します。

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今回は、「英雄たちの選択」ではなくって「昭和の選択」第1回です。
でも、メンバーも音楽も一緒。

終戦70年・・・開かれた太平洋戦争への扉。。。

syukuga1940年9月末・・・東京の華族会館で日独伊三国同盟婦人祝賀会が開かれました。
当時陸軍大臣だった東条英機の妻・かつ子が主催したものです。


一部の人々が恐れていたことが現実となります。
日独伊三国同盟・・・イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーとの同盟に、アメリカは激しく反発します。

その1年後、日本は太平洋戦争へと踏み出しました。
しかし三国同盟締結したものの、日本は望んでいない対米戦でした。
締結直前まで、海軍は同盟反対を訴えていたのです。
突如賛成へと変わった海軍・・・その理由とは・・・??

スイス・ジュネーブ・・・かつて国際連合の本部が置かれていたこの地で、1933年日本は大きな決断をします。
1931年の満州事変をきっかけに1932年に満州国が成立・・・
これが日本の傀儡国家であるという非難を受け、国際連盟から脱退します。
yousuke日本全権を任されたのは松岡洋右・・・。
奇しくも同じ時期に国際連盟を脱退したのは、ヒトラー率いるドイツ。
領土拡大を目論見、軍備拡大を深めていたからです。
孤立する二国は急接近していきます。
1936年日本はドイツとの間に日独防共協定を結びます。

共産主義国家・ソ連を仮想敵国として結ばれたこの協定・・・翌年には、ムッソリーニ率いるイタリアが参加し三国へとなっていきます。

1938年・・・日本はドイツから提案を持ち掛けられます。
ソ連だけではなく、イギリスとフランスを仮想敵国とすることを・・・!!
軍事同盟を結びたい!!
この頃、ヨーロッパに拡大していくドイツは、オーストリアを併合。
領土拡大はイギリス・フランスとの対立となっていました。
そこでヒトラーが注目したのは、極東にある日本の存在でした。
ドイツからの持ちかけに賛成したのは陸軍大臣・板垣征四郎。
1937年から中国で日中戦争が起こっており、短期間で中国を制圧できると思っていたものの・・・
日本に権益を独占されることを危惧するイギリス(ビルマ)とフランス(仏領インドシナ)が国民政府・蒋介石に軍需物資を搬入、さらにアメリカも資金援助をし、戦いは泥沼化していました。
陸軍は・・・中国を支援する国々を、三国同盟で牽制できると思っていたのです。

主要閣僚が集まった会議で・・・板垣征四郎は、三国同盟を締結するべきだと陸軍を主張します。
これに反対するのは海軍大臣・米内光政。
米内は、アメリカやイギリスと戦争になった時に事を考え、「勝てる見込みはない」と、判断します。
反対する理由・・・そこには軍需物資の問題がありました。
海軍にとって必要不可欠な軍需物資輸入額に占めるアメリカの割合は・・・
石油:76%、鉄類:69%でした。
その大部分をアメリカに依存していたのです。
「英米が、日本に攻撃を仕掛けることはないだろうが、経済的な圧力をかけてきたらとても憂慮に耐えることができない!!」と。

もう一つ海軍が反対する理由が、ドイツからの協定案の一文でした。
「締約国の一が締約国以外の第三国より攻撃を受けたる場合、ほかの締約国は之に対し、武力援助を行ふ義務あるものとす」
参戦義務を意味する条文で、日本がヨーロッパでの戦いに巻き込まれる恐れがあったからです。
米内とともに同盟に反対していたのは、海軍次官の山本五十六。
反対する手紙も残っています。

「勇戦奮闘 戦場の華と散らむは易し
 誰か至誠一貫俗論を排し
 斃れて後已むの難きを知らむ
 ・・・・
 此身滅すへし此志奪ふ可からす」

事実この頃、同盟反対をつらぬく海軍首脳には、暗殺の噂が絶えませんでした。

それでも志を曲げることはない・・・と、山本は覚悟を決めていたのです。
陸海とも一歩も譲らす・・・平沼騏一郎内閣では、70回以上の会議を重ねました。

そんな中・・・ヨーロッパから衝撃的なニュースが・・・!!
ドイツが・・・日本と仮想敵国としていたソ連との・・・1939年8月23日・独ソ不可侵条約締結です。
この時、ポーランド侵攻を画策していたドイツは、西の英仏、東のソ連の挟み撃ちを避けるために、ソ連との条約締結に踏み切ったのです。
日本には、事前に何も連絡はありませんでした。
平沼内閣は、もはや国際情勢に対応できない・・・??と思われ総辞職!!
”欧州の天地は複雑怪奇!!”
三国同盟の締結は・・・一旦立ち消えとなってしまいました。

1939年9月第二次世界大戦勃発!!
快進撃を続けるドイツ軍・・・翌年にはフランスを制し、西ヨーロッパを手中に収めようとしていました。
日本はイギリスさえもドイツの手に落ちると考え・・・
世論の後押しもあり、日独伊三国同盟の機運が高まります。
しかし政府は、反対派の米内光政内閣!!
そこで同盟に賛成する陸軍は・・・海軍大臣・畑俊六に辞表を出させ、代わりの大臣を出さない・・・と、策謀する
陸軍大臣不在・・・異例の事態に米内内閣はわずか半年で総辞職となります。

humimaro近衛文麿は・・・内閣発足3日前に、邸宅に閣僚候補者を集めて、今後の話し合いを持ちました。
その中に近衛自ら外務大臣に指名したのは、国際連盟脱退の時の松岡洋右でした。
松岡は、日独伊の三国にソ連を加え、日本の立場を強化してアメリカと話し合う・・・渡り合う・・・と考えていたようです。

日ソ独伊の締盟は、事変(日中戦争)解決に最後の決定力を持つ!!

四国連合交渉に・・・!!
ソ連との国境不可侵協定を結ぶべし!!
アメリカには無用の衝突を避け・・・アメリカと戦うつもりは毛頭ない!!
それが、近衛内閣の方針となりました。

同じころドイツでは・・・イギリス本土への戦いが本格化???

松岡どうする??
①同盟に賛成する??
日中戦争を終わらせるためには・・・!!
これには陸軍も大賛成ですが・・・

②同盟に反対する??
海軍は相変わらずこちらを支持!!
参戦義務の問題はどうする??
望まざる戦争に巻き込まれるかもしれない・・・!!


国民はどう思っていたのでしょうか??

対米外交は強硬に出るべきか??
強硬に出る・・・・・・・・・・・・・・62%
強硬に出るのはよくない・・・37%

1940年9月7日、ドイツから外務大臣特使ハインリヒ・スターマーがやってきました。
迎えたのは外務大臣・松岡洋右。
海軍の許可もなく・・・独自に交渉を始めました。
ヒトラーも、日本との同盟に前向きでした。
6月10日演説をしました。これまでヨーロッパでの戦争を傍観していたアメリカ・・・
アメリカ大統領・ルーズベルトが、イギリスの支援を表明したからです。

松岡とスターマー・・・
ドイツが日本に求めるのは、あらゆる手段でアメリカをけん制し、アメリカの参戦を阻止することでした。
日ソ神前につき、ドイツは正直な仲買人たるの用意あり・・・。
ドイツも四国連合に興味を持っていたのです。

一方海軍は、黙ってみていたわけではなく・・・
9月13日海軍次官が松岡のもとを訪れ、賛成はできないと迫り・・・参戦義務を外す!!と、松岡に言わせます。
海軍大臣・及川古志郎は、参戦義務がなくなった今、この選択を迫られることとなりました。

会議の場で・・・松岡ははっきりとした態度に出ないといけない!!と詰め寄り・・・
及川は、「それ以外・・・道なし!!」海軍大臣として初めて同盟に賛成の意を表しました。
15日には、海軍首脳会議が・・・
ここまで来たら仕方ない・・・賛成・・・
及川の考えが、海軍の総意となった瞬間でした。

1940年9月27日・・・ベルリンで、調印式が行われ・・・日独伊三国同盟が成立!!
大きく分けて三条からなるこの条約・・・第三条は、一方が攻撃された場合・・・三国は軍事を含むあらゆる手段で援助をするという内容でした。
参戦義務をうたっているかに見えるこの条項・・・
松岡とドイツの間では、攻撃されたかどうかは三国で協議するとなっていました。
つまり。。。参戦義務の回避をしたのです。

isorokuこの時山本五十六は・・・
「実に言語道断だ!!
 東京あたりは三度ぐらい丸焼けにされて、非常にみじめな目に遭うだろう」
と言っています。

しかし、賛成に回ったことで海軍にはメリットも・・・
物資不足で全く行き詰っていた海軍の戦備は、幸か不幸かこれを機に進んだのです。
海軍は多大な予算を獲得!!

松岡の次なる構想は・・・
志を同じくする国と提携し、全世界の国家と人民に永久の平和を調約することでした。
全国各地で祝賀が行われます。


日中戦争の解決のために結んだ日独伊三国同盟・・・
しかし、海軍の恐れていた事態が・・・
アメリカがくず鉄の対日輸出を禁止!!
厳しい経済制裁を打ち出してきます。
軍需物資を求めて・・・アジア南方への進出の必要性が・・・!!

アメリカが牙をむき始めた今・・・!!
松岡洋右はモスクワにいました。
四国連合の重要性が増してきていたのです。
1941年4月13日日ソ中立条約締結!!
しかし、松岡の思惑通りに進んだのはここまででした。
2か月後の6月22日、独ソ戦勃発!!
四国連合構想が藻屑となった瞬間でした。
内閣の信用を失った松岡は、外務大臣の職を辞することとなります。
7月28日・・・資源を求めて仏領インドシナに進駐を開始する日本・・・
4日後にはアメリカの石油全面禁輸という制裁が待っていました!!

日本の石油の備蓄はわずか2年分。
軍事行動によって打開しようという考えが・・・!!
ついに日本は・・・決断・・・1941年12月8日日米開戦!!
真珠湾攻撃を指揮したのは、最後まで三国同盟に疑問を抱いていた山本五十六でした。

開戦の方を受けた松岡洋右は・・・泣きながら・・・
「三国同盟の締結は、ぼく一生の不覚だったことを今更ながら痛感する。」

三国同盟締結からわずか1年余りでなだれ込んだ太平洋戦争・・・
日本は国際情勢を読み違えた末に、悲惨な戦争へと踏み出したのです。

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なかなか興味のある題材です。

全部ビデオに撮りたかったのだけれど、色々バッティングして①と②しか撮れませんでした。(TmT)

でも、やっぱりNHKはいいですね。見応えがあります。

①では、戦争への分岐点として、満州事変・国際連盟の脱退・防共協定が取り上げられていました。


満州事変で関東軍が暴走したのは周知の事実ですが、日本の外務省としては、国際連盟は脱退したくはなかったとのこと。いつも、この時松岡洋右が「名誉の脱退をした」といわれていますが、本当はしたくはなかったらしいのです。

満州国の成立に熱狂した国内世論を優先し、満州から手を引くことのなかった日本。
そして、軍との摩擦を避けたくて、関東軍に強気に出ることが出来なかった内閣。

国連を脱退すれば脱退していく国に対して、わざわざ経済制裁はしないだろうという希望的観測。

この希望的判断・急場しのぎ・戦略の欠如が日本が孤立へと大きく踏み出す原因となりました。

この内閣のだらしなさは6年間の間に7人も首相が変わるという混乱で、国内外に信用を失っていたことがそもそもの原因なのです。

そして国際連盟を脱退した日本は、共産主義に対して防共協定を結ぼうと相手国を探すのですが、日本の軍部と外務省に一貫性がなく、まとまりのなさが諸外国の信頼感を失わせていました。

そんな中、防共協定をドイツと結ぶことになるのです。

結局、ドイツ以外を敵に回し、孤立化を避けようとして孤立化していきました。それは、長期化の計画を持たず、その場しのぎになって、何も見えなくなって、外交敗戦したとのことです。

そうして松岡洋右は、1940年日独伊三国同盟を締結させるのです。

なんか、以外でした。松岡洋右といえば近衛文麿同様、戦争に導いた男、みたいなイメージがありますよね。本当は戦争を回避したかったなんて・・・。

まあ、外交官だから、世界情勢も解っていたのでしょう。石油の75%をアメリカから輸入しているというのに、そのアメリカに戦争を仕掛けるなんて、無謀だということは解っているでしょうね。当たり前か・・・。

でも、何だか見ていてショックでした。内閣のふがいなさは今も変わらないですよね。(TωT)あんなに忌まわしい戦争をしたのに、未だにリーダーシップのかけらもないなんて・・・。

この外交下手、危機管理能力のなさ・・・。学習能力がないのかしらΣΣ( ̄◇ ̄;)!なんて、思ってしまいました。

戦争なんてばかなことはないだろうけど、ホント、イギリスもアメリカも日本もがんばって欲しいですね。


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