500年前、身の丈6尺、180㎝という大男が現れました。
茶の湯の大成者・千利休です。
彼が愛したのは、その体とは対照的なとても小さな宇宙でした。
京都府の南・・・大山崎町。
ここには、千利休がつくった唯一現存する茶室が残っています。
国宝・待庵です。
小さな入り口をくぐると、わずか2畳の極小の空間。
壁は、素材がむき出しで質素な素材。
窓は小さく、室内は薄暗い・・・
利休が好んで使ったのが、武骨で荒々しい黒樂茶碗。
独自の日を追求したこの小宇宙で、名だたる戦国武将たちをもてなしました。
茶の力によって時代を動かした利休。
しかし、歴史の表舞台に現れたのは、50代の頃でした。
そこから激動の人生を歩むことになります。
堺の商人出身で、52歳の時に信長に茶の師匠として抜擢されます。
信長が本能寺の変で討たれると、その後、天下人となる豊臣秀吉のもとでは茶の湯のみならず、裏で政治を操るほどの大出世。
「利休以外には、秀吉さまへ一言も進言できる者がいない」
また、茶の湯を大衆に広めるため、1000人を超える茶の湯の大イベントを成功に導きます。
さらに、秀吉の信頼を受け、前代未聞、御所での茶会をプロデュースします。
天皇からも認められる存在となりました。
硬い絆で結ばれた秀吉のもと、時代の寵児となった利休・・・
しかし、秀吉から命じられたのは切腹でした。
利休に何が起きたのでしょうか??
その栄光と挫折とは・・・??
千利休の生まれは、自由な商売で繁栄した商売の町・堺。
しかし、利休は、その自由な町の支配を狙う戦国武将・織田信長に仕えることになります。
どうして信長に仕えたのでしょうか??
千利休・・・幼名・与四郎は、室町時代終盤の1522年、現在の大阪・堺に生れました。
倉庫や魚、塩を扱う商家と言われますが、父や祖父を早くに失い、暮らしは厳しかったといいます。
当時は戦国大名が、各地で力を競い戦乱の時代・・・。
堺の商人の中でも、外国と貿易を行い武器を大名に売るものは巨万の富を得て豪商へと成長しました。
堺は、町の周囲に堀を築いて守りを固め、豪商が自ら町を治める自治都市として繁栄しました。
日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、自由で豊かな商業都市・堺をこう例えました。
「まるで東洋のベネチアのようだ」byフロイス
そんな堺の町の商人たちの間で流行していたのが茶の湯です。
茶の湯は、4畳半ほどの茶室でお茶を飲みながら商談や世間話などをするサロンのようなものでした。
茶の湯を楽しむときに欠かせないのが、名物・・・主に中国製の高価な茶道具です。
堺の商人にとって、莫大な富で名物を買い集め、客に披露しながら茶の湯を行うのがステータスでした。
与四郎も、商人のたしなみとして、十代の頃から茶の湯の稽古を始めました。
そして、19歳の頃、大きな影響を受ける人物と出会います。
武野紹鴎・・・武具・甲冑を売る豪商で、名物の収集家・・・堺の商人や茶人としても一流でした。
与四郎は、紹鷗の茶会に参加するなど修行を続け、この頃から千宗易と名乗るようになります。
ある時紹鴎が、宗易の才を試そうとした逸話が残っています。
「庭を掃除しなさい」by紹鷗
しかし、宗易が庭に行ってみると塵ひとつありません。
紹鷗は、わざと宗易を困らせて反応を見ようというのです。
宗易は、庭の木の1本の近づき揺らす・・・やがて落ち葉が風に舞い、地に落ち、庭に自然の趣を添えました。
宗易は、わざと完璧を崩すことで美しさを演出したのです。
完璧・・・完全無欠を日本人は好みません。
花も散り際が美しいという、古来日本で語られていたある種の「わび」が生まれてくるもとになった言葉を表現しています。
「わび」とは何かを理解し、それを表現しようとする少年でした。
さらに宗易は、茶会の際、独自の工夫で客人を喜ばせます。
当時、宗易がもっている数少ない名物のひとつは、香炉。
宗易は、茶会の前に本来は床の間に飾り披露する香炉を茶入れ用の袋に入れて隠しておきました。
茶会が始まり、客が見せる様な名物もないのかと思う中、宗易が素知らぬ顔で袋を開けたところ・・・
名物の香炉が出てきて客はビックリ!!
この宗易の大胆な工夫は、客を楽しませ、茶会は大成功に終わったといいます。
名物道具の鑑賞というのが、お茶会の柱でしたが、名物を持っていない茶人も出てきます。
これを当時はわび数寄と言い、千利休の弟子の山上宗二が書きとどめたわび数寄の心構えが”胸の覚悟ひとつ 作分ひとつ手柄ひとつ”。
作分は創意工夫、作分を支えるのが胸の覚悟・・・名物の鑑賞会から脱却して、お茶というものを通じて亭主と客がコミュニケーションをとっていくことが中心となっていくお茶を、突き詰めていったのが千利休でした。
宗易の評判は次第に広がり、37歳の時に有力武将とも親交を持ちます。
戦国武将・三好実休です。
三好家は、畿内や四国で大きな勢力を持つ大名で、堺が商人の自治都市として維持できているのは三好家の後ろ盾のおかげでした。
三好実休も、茶の湯をきっかけに宗易を気に入り、お抱えの商人にしました。
いわば、宗易の恩人です。
実休亡き後、1568年、宗易47歳の時に三好家との間にひびが入ります。
織田信長の上洛です。
尾張の一大名だった信長は、京の都で足利将軍家の権威を得ることで、畿内での勢力を拡大。
畿内の有力者三好勢を京から追い払うとともに、後ろ盾の無くなった堺の商人に過酷な要求を行います。
「軍資金2万貫の献上を命じる」
現在の価値で20億円という莫大な金額の献上金でした。
これは、信長が堺を支配下に置くための第一歩でした。
豪商の多くは、堺の自治を守るため三好の反撃に期待し、信長の要求を拒否しようとします。
しかし、そんな堺の中で、信長に従おうとする者が現れます。
堺で指折りの豪商・今井宗久です。
宗久は、戦国大名が欲しがる鉄砲の生産に目をつけ、その売買で得た大金で多くの名物を持つ茶人でした。
信長の上洛後すぐに、茶つぼと茶入れを信長に献上、敵意がないことを示していました。
また、千宗易も今井宗久と親しいことから、これまでの三好とのつながりよりも、信長側につくことを選んだと言われています。
信長の上洛の翌年・・・堺の多くの期待を背負った三好勢は、信長方に攻め込みますが・・・反撃を受け敗北。
後ろ盾を失った堺は、信長からの軍資金の要求を受諾。
信長の支配下に置かれることになりました。
そして、今井宗久はいち早く従う意思を見せたことで信長に認められ、その経済面を支える重要な配下となります。
この時宗久は、茶の湯を嗜みとする信長に、堺の優れた茶人を紹介・・・その中に千宗易もいました。
信長の茶の湯を仕切る一人として召し抱えられることとなったのです。
この時・・・52歳!!
室町時代の中頃まで身分の高い人々が嗜んでいた茶の湯・・・
大広間に高価な美術品を飾り、大人数んで行うことが一般的でした。
しかし、宗易は、わずか2畳の質素な茶室を作ります。
そこにはどのような狙いがあったのでしょうか??
堺が織田信長の支配下に置かれた2年後、54歳の千宗易は信長3番手の茶頭に。。。
茶頭とは、主君に仕え茶会を仕切る重要な役割です。
しかし、宗易はその重い責任に臆することなく、自らの茶の湯を表現しました。
ある茶会にて・・・
信長は、宗易が茶をたてる様子に違和感を覚えました。
「他の茶頭と比べると、作法を略してあるところがあるようだが・・・」
信長に、手を抜いていると思われたら一大事!!
ところが・・・
「信長さまは、茶の湯をお好みですから、後には世の人々もそれに倣うようになるでしょう
その時、古法の通りにやっていては難しがって嫌がります
そう考えて、わかりやすい作法にしました」by宗易
これを聞いた信長は、大いに感心したといいます。
型をその場その場に応じて変化させることに恐れない・・・
必要とあらば、ある種の権威や格を外したり崩したりすることを恐れないという踏み込んだ勇気と個性がありました。
信長が、宗易たち茶頭を重宝したのは、趣味のためだけではありません。
茶の湯は、政治に利用できるからです。
武士の時代、功績を上げた家臣には領地を与えて労うのが常識でした。
しかし、土地には限りがあります。
そこで信長は、高価な茶器・名物に目をつけました。
新たな支配地で、茶器の収集・名物狩りを行い、家臣に褒美として与えるようになります。
褒美の茶器が素晴らしいものと価値をつけるためには、目利き役として宗易たち茶頭は欠かせなかったのです。
”褒美には、茶入れを所望したが、都から離れた国を与えられては茶の湯が出来ない”by滝川一益
また宗易は、相手の気持ちを察し気遣いできる達人でもありました。
「戦の前、鉄砲の弾千発が届いた
心遣いを大変うれしく思う」by信長
やがて宗易は、信長のもとでその後の人生を決める大きな出会いを・・・!!
羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉です。
秀吉は、信長の有力な家臣として各地で戦をする多忙の中でも、茶の湯を好んだといいます。
そんな秀吉に、宗易は茶釜を送り、親交を深めていきました。
1582年6月、宗易61歳。
本能寺の変!!
明智光秀が謀反を起こし、信長を討ちます。
この時、利休は大きなかけに出ます。
新たな支配者として京の都を制した明智光秀ではなく、中国大返しのさ中の秀吉のもとへ身を寄せたのです。
二人とも成り上がりで、持たざる者でした。
それと同時に、茶の湯など、文化芸術が二人とも好きでした。
宗易は、元祖職業茶人・芸術家なので、それを愛してくれる人と結びついたのです。
本能寺の変からおよそ10日後・・・
畿内に駆け戻った秀吉は、京の都のある山城国の入り口・山崎で明智光秀を撃破。
信長の後継者として名乗りを上げ、天下人へと向かう秀吉・・・その茶頭として、宗易も天下に名を上げていきます。
光秀を破ったのち、秀吉が本拠地を構えたのが山崎。
ここに、秀吉と共に千宗易がつくった茶室が残っています。
国宝・待庵。
茶の湯の伝統を覆す、独創的な空間で知られています。
かがまなければ入れないにじり口、中はわずか2畳・・・
それまでの開放的な大広間や、堺の茶人たちが使用した四畳半よりもさらに狭く・・・。
さらに茶道具にも革命を起こします。
本能寺の変で、信長が持っていた中国製の価値のある名物の多くが失われました。
新しい茶器が必要でした。
そこで、宗易が新しく職人に作らせたのが、黒!!
”黒キハ古キコゝロ 赤ハ雑ナルコゝロ”
”黒は古き心なり”の中に、見せかけの華やかさや豊かさを捨てることで、物事のもともと持っている素の形、姿の中に、美しさとか価値というものと向き合って、それを自分が選び取っていくことが、わび数寄には大事なんだということを、利休は好み、人に伝えようとしました。
黒楽茶碗は、名物とは対照的な質素なデザインでした。
しかも、適度な厚みで熱を伝えにくいため、持ちやすくて実用的でした。
宗易は、茶の湯を通して時代の美意識を変えていきます。
この時、61歳!!
1585年、宗易64歳。
秀吉が関白に就任します。
天下人への道を歩む秀吉は、朝廷から天皇の補佐をする関白職に任じられたのです。
そのお礼として秀吉は、御所で茶会を開きます。
秀吉自ら天皇に茶をたてる”禁中茶会”です。
これには、秀吉の権威を見せつけるという意味もありました。
失敗が許されない催しに、宗易も茶頭として参加することになりました。
しかし、一つ問題が・・・
朝廷で位も官職もない宗易は、御所に入ることができません。
そこで、宗易が天皇から授かったのが、”利休居士”の号です。
居士とは、朝廷に仕えず自由に修行に励む者のことです。
階級や身分から外れた特別な立場です。
こうして禁中茶会に参加が叶った宗易・・・以後は、利休と名乗るようになります。
「禁中で台子の茶式を行った
この上なく光栄なことだ」by利休
そして、禁中茶会で利休と秀吉は権威を示す驚くべきものを持ち込みました。
黄金の茶室です。
この茶室の特徴は、組み立て式だということ。
禁中茶会の後も、どこにでも持ち運ぶことができました。
秀吉は、後に大坂城で組み立て、訪れた客に披露したといいます。
世間の序列の外、特別な存在として認められた利休・・・
彼の言動は、時代の価値観を大きく揺さぶっていきます。
「古い由緒もない新品に1000貫文の値をつけた」
1000貫文は、今の価値でおよそ1億円・・・
利休が認めれば、どんな茶器も高い価値を持ったのです。
全てを常識にとらわれずに見定める利休は、政治も大きな影響力を持つようになります。
秀吉の有力の補佐・弟の豊臣秀長は、ある大名に語っています。
「内々に秀吉さまに申し上げることは利休に
公に申し上げるにはこの秀長にお伝えください」by秀長
秀長の信頼を得た利休は、その後ろ盾によってますます大きな存在となっていきます。
「利休以外には秀吉さまへ一言も進言できる者がいない」
利休64歳の時、秀吉は天下統一への大きな足掛かり・・・九州平定に乗り出します。
秀吉は、九州全域を手に入れるべく戦いを続けていた島津義久に対し、警告を送ります。
「戦を中止しなければ、遠征し成敗する」by秀吉
九州では勢いのある島津でしたが、圧倒的な軍事力の秀吉に攻め込まれれば勝ち目は薄い・・・
島津義久は返事を送ります。
あて先は利休でした。
「少ないですが、生糸十斤を送ります
秀吉殿におとりなしくだされば大変喜ばしいです」by島津義久
やがて秀吉は、九州を平定。
1587年、利休66歳・・・歴史的な茶会を開催します。
京都の北野天満宮に1000人以上が集まったとされています。
北の大茶湯です。
その様子を描いた図が、北野天満宮に残されています。
秀吉や利休の姿・・・くじ引きで当たった者は、秀吉や利休の点てた茶を飲むことができたといいます。
しかも、この大茶湯が画期的だったのは、上流階級だけの茶会ではなかった事です。
「茶の湯に興味がある者は、若侍、町人、農民、誰でも参加せよ
茶座敷は各々2畳、ただし、畳を持って来られない者はむしろでも構わない」by秀吉
藁の敷物を敷いた茶席、地面に傘を差しだただけの茶席・・・
秀吉が、天皇から庶民に至るまで、自分こそが天下人であり、天下人は政治・権力を握っているだけではなく、ある種の文化の庇護者として世の中をリードしてこれを庇護する存在なのだとアピールする意味で、必要なイベントだったのです。
秀吉と利休、2人は同じ志のもと、長く固まっていた社会の序列を破壊し、新たな時代を目指そうとしていました。
常識外れの茶会を次々成功させ、秀吉と共に新たな時代を目指していた千利休・・・
しかし、利休は、盟友のはずの秀吉に切腹を命じられます。
二人の間に何があったのでしょうか?
1590年、利休は69歳の時、小田原にいました。
秀吉の天下統一に抵抗する最後の大物・北条氏を屈服させる小田原攻めに同行したためです。
しかし、この頃から、利休と秀吉の関係は悪化していきます。
一説には、小田原攻めの時、利休の弟子・山上宗二が秀吉に処刑されたことが原因とされています。
もともと宗二は、利休と共に秀吉に仕えていました。
歯に衣着せぬ発言で、頑固な性格と言われる宗二・・・率直な物言いが、秀吉を怒らせ追放処分に。
その後、宗二は北条氏に仕えたため、小田原の地で利休と宗二は再会します。
利休は、愛弟子を利休に面会させ、追放処分を解いてもらおうとしました。
しかし、宗二の発言がまたも秀吉を怒らせます。
そしてついに、処刑!!
耳と鼻を削ぐという残酷な仕打ちでした。
利休は、手紙に記しています。
”小田原で悲しい思いをした
涙を流すばかりだ”
1590年、利休69歳・・・
北条氏を倒した秀吉は、天下を統一!!
しかし、この後、秀吉は変わります。
茶の湯では新たな作法をもうけ、秀吉が認めた者のみが秘伝を教わるように限定しました。
茶の湯をルールで縛る権威付けに使う秀吉・・・
利休は密かにつぶやきました。
「本来、茶の湯に大事な習いなどというものはありません
習いなどないことを極意とするのです」by利休
1591年利休70歳・・・
彼の立場は大きく揺らぎます。
利休と共に秀吉を支え、信頼篤かった豊臣秀長が病死したのです。
その後、利休は秀吉から突然罪に問われました。
罪状は二つ・・・
①大徳寺の山門に利休の像を設置したこと
山門は、天下人である秀吉や天皇の勅使もくぐるもの
それを、利休の像が上から見下ろすのは不敬とされたのです。
しかし、この像は、2年前から設置されており、今更罪に問うのは不自然でした。
②売僧と呼ばれた不当売買
鑑定や売買で不正を行い、値段を釣り上げたというのです。
しかし、そもそも茶器売買は、目利きの利休が決めた値打ちに客も納得して行うものです。
昔からのやり方を不当と言い出すのも、おかしな話でした。
罪に問われた利休は京を追放され、堺に蟄居を命じられてしまいます。
それはまさにでっち上げでした。
平和な時代が訪れる中で、身分制度など新たに立ち上がっていく武士を中心とした社会の中で、階級に属さない特別な立場の人間の居場所がなくなっていきました。
利休のような特殊な立場の茶頭を必要としない世の中になっていったのです。
利休は、都を去る時、弟子に言い残しています。
「都の思い出が様々思い出され、今は悲しく涙を流すばかりだ」by利休
利休追放から間もなく、京都では大徳寺の利休像が一乗戻橋のたもとで磔に・・・晒されました。
一説には、直ちに謝罪しなければ、利休本人も処刑するという秀吉の脅しともいわれています。
利休を慕う武将たちは、秀吉に物申したくても、仲介役の利休が罪に問われ、秀長もすでにいない・・・
そこで頼ったのが、秀吉の家族である母・大政所と妻・北政所でした。
秀吉が大切にする身内であれば、仲介も上手くいくに違いない・・・
二人は秀吉に謝罪するように助言します。
しかし、
「茶の湯で天下に名をあらわした私が、命が惜しいからと女性たちを頼って助命となるのは無念でしょう」by利休
秀吉は、利休を京に呼び戻し、命じます。
「切腹・・・」と。
利休は受け入れます。
1591年・・・70歳の時でした。
利休は、己の運命を神となった偉人に例えました。
優れた才能が嫉妬され都を追われた人物・・・
「利休は何はともあれ果報者である
菅原道真になると思えば」by利休
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国宝・待庵です。
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窓は小さく、室内は薄暗い・・・
利休が好んで使ったのが、武骨で荒々しい黒樂茶碗。
独自の日を追求したこの小宇宙で、名だたる戦国武将たちをもてなしました。
茶の力によって時代を動かした利休。
しかし、歴史の表舞台に現れたのは、50代の頃でした。
そこから激動の人生を歩むことになります。
堺の商人出身で、52歳の時に信長に茶の師匠として抜擢されます。
信長が本能寺の変で討たれると、その後、天下人となる豊臣秀吉のもとでは茶の湯のみならず、裏で政治を操るほどの大出世。
「利休以外には、秀吉さまへ一言も進言できる者がいない」
また、茶の湯を大衆に広めるため、1000人を超える茶の湯の大イベントを成功に導きます。
さらに、秀吉の信頼を受け、前代未聞、御所での茶会をプロデュースします。
天皇からも認められる存在となりました。
硬い絆で結ばれた秀吉のもと、時代の寵児となった利休・・・
しかし、秀吉から命じられたのは切腹でした。
利休に何が起きたのでしょうか??
その栄光と挫折とは・・・??
千利休の生まれは、自由な商売で繁栄した商売の町・堺。
しかし、利休は、その自由な町の支配を狙う戦国武将・織田信長に仕えることになります。
どうして信長に仕えたのでしょうか??
千利休・・・幼名・与四郎は、室町時代終盤の1522年、現在の大阪・堺に生れました。
倉庫や魚、塩を扱う商家と言われますが、父や祖父を早くに失い、暮らしは厳しかったといいます。
当時は戦国大名が、各地で力を競い戦乱の時代・・・。
堺の商人の中でも、外国と貿易を行い武器を大名に売るものは巨万の富を得て豪商へと成長しました。
堺は、町の周囲に堀を築いて守りを固め、豪商が自ら町を治める自治都市として繁栄しました。
日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、自由で豊かな商業都市・堺をこう例えました。
「まるで東洋のベネチアのようだ」byフロイス
そんな堺の町の商人たちの間で流行していたのが茶の湯です。
茶の湯は、4畳半ほどの茶室でお茶を飲みながら商談や世間話などをするサロンのようなものでした。
茶の湯を楽しむときに欠かせないのが、名物・・・主に中国製の高価な茶道具です。
堺の商人にとって、莫大な富で名物を買い集め、客に披露しながら茶の湯を行うのがステータスでした。
与四郎も、商人のたしなみとして、十代の頃から茶の湯の稽古を始めました。
そして、19歳の頃、大きな影響を受ける人物と出会います。
武野紹鴎・・・武具・甲冑を売る豪商で、名物の収集家・・・堺の商人や茶人としても一流でした。
与四郎は、紹鷗の茶会に参加するなど修行を続け、この頃から千宗易と名乗るようになります。
ある時紹鴎が、宗易の才を試そうとした逸話が残っています。
「庭を掃除しなさい」by紹鷗
しかし、宗易が庭に行ってみると塵ひとつありません。
紹鷗は、わざと宗易を困らせて反応を見ようというのです。
宗易は、庭の木の1本の近づき揺らす・・・やがて落ち葉が風に舞い、地に落ち、庭に自然の趣を添えました。
宗易は、わざと完璧を崩すことで美しさを演出したのです。
完璧・・・完全無欠を日本人は好みません。
花も散り際が美しいという、古来日本で語られていたある種の「わび」が生まれてくるもとになった言葉を表現しています。
「わび」とは何かを理解し、それを表現しようとする少年でした。
さらに宗易は、茶会の際、独自の工夫で客人を喜ばせます。
当時、宗易がもっている数少ない名物のひとつは、香炉。
宗易は、茶会の前に本来は床の間に飾り披露する香炉を茶入れ用の袋に入れて隠しておきました。
茶会が始まり、客が見せる様な名物もないのかと思う中、宗易が素知らぬ顔で袋を開けたところ・・・
名物の香炉が出てきて客はビックリ!!
この宗易の大胆な工夫は、客を楽しませ、茶会は大成功に終わったといいます。
名物道具の鑑賞というのが、お茶会の柱でしたが、名物を持っていない茶人も出てきます。
これを当時はわび数寄と言い、千利休の弟子の山上宗二が書きとどめたわび数寄の心構えが”胸の覚悟ひとつ 作分ひとつ手柄ひとつ”。
作分は創意工夫、作分を支えるのが胸の覚悟・・・名物の鑑賞会から脱却して、お茶というものを通じて亭主と客がコミュニケーションをとっていくことが中心となっていくお茶を、突き詰めていったのが千利休でした。
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宗易の評判は次第に広がり、37歳の時に有力武将とも親交を持ちます。
戦国武将・三好実休です。
三好家は、畿内や四国で大きな勢力を持つ大名で、堺が商人の自治都市として維持できているのは三好家の後ろ盾のおかげでした。
三好実休も、茶の湯をきっかけに宗易を気に入り、お抱えの商人にしました。
いわば、宗易の恩人です。
実休亡き後、1568年、宗易47歳の時に三好家との間にひびが入ります。
織田信長の上洛です。
尾張の一大名だった信長は、京の都で足利将軍家の権威を得ることで、畿内での勢力を拡大。
畿内の有力者三好勢を京から追い払うとともに、後ろ盾の無くなった堺の商人に過酷な要求を行います。
「軍資金2万貫の献上を命じる」
現在の価値で20億円という莫大な金額の献上金でした。
これは、信長が堺を支配下に置くための第一歩でした。
豪商の多くは、堺の自治を守るため三好の反撃に期待し、信長の要求を拒否しようとします。
しかし、そんな堺の中で、信長に従おうとする者が現れます。
堺で指折りの豪商・今井宗久です。
宗久は、戦国大名が欲しがる鉄砲の生産に目をつけ、その売買で得た大金で多くの名物を持つ茶人でした。
信長の上洛後すぐに、茶つぼと茶入れを信長に献上、敵意がないことを示していました。
また、千宗易も今井宗久と親しいことから、これまでの三好とのつながりよりも、信長側につくことを選んだと言われています。
信長の上洛の翌年・・・堺の多くの期待を背負った三好勢は、信長方に攻め込みますが・・・反撃を受け敗北。
後ろ盾を失った堺は、信長からの軍資金の要求を受諾。
信長の支配下に置かれることになりました。
そして、今井宗久はいち早く従う意思を見せたことで信長に認められ、その経済面を支える重要な配下となります。
この時宗久は、茶の湯を嗜みとする信長に、堺の優れた茶人を紹介・・・その中に千宗易もいました。
信長の茶の湯を仕切る一人として召し抱えられることとなったのです。
この時・・・52歳!!
室町時代の中頃まで身分の高い人々が嗜んでいた茶の湯・・・
大広間に高価な美術品を飾り、大人数んで行うことが一般的でした。
しかし、宗易は、わずか2畳の質素な茶室を作ります。
そこにはどのような狙いがあったのでしょうか??
堺が織田信長の支配下に置かれた2年後、54歳の千宗易は信長3番手の茶頭に。。。
茶頭とは、主君に仕え茶会を仕切る重要な役割です。
しかし、宗易はその重い責任に臆することなく、自らの茶の湯を表現しました。
ある茶会にて・・・
信長は、宗易が茶をたてる様子に違和感を覚えました。
「他の茶頭と比べると、作法を略してあるところがあるようだが・・・」
信長に、手を抜いていると思われたら一大事!!
ところが・・・
「信長さまは、茶の湯をお好みですから、後には世の人々もそれに倣うようになるでしょう
その時、古法の通りにやっていては難しがって嫌がります
そう考えて、わかりやすい作法にしました」by宗易
これを聞いた信長は、大いに感心したといいます。
型をその場その場に応じて変化させることに恐れない・・・
必要とあらば、ある種の権威や格を外したり崩したりすることを恐れないという踏み込んだ勇気と個性がありました。
信長が、宗易たち茶頭を重宝したのは、趣味のためだけではありません。
茶の湯は、政治に利用できるからです。
武士の時代、功績を上げた家臣には領地を与えて労うのが常識でした。
しかし、土地には限りがあります。
そこで信長は、高価な茶器・名物に目をつけました。
新たな支配地で、茶器の収集・名物狩りを行い、家臣に褒美として与えるようになります。
褒美の茶器が素晴らしいものと価値をつけるためには、目利き役として宗易たち茶頭は欠かせなかったのです。
”褒美には、茶入れを所望したが、都から離れた国を与えられては茶の湯が出来ない”by滝川一益
また宗易は、相手の気持ちを察し気遣いできる達人でもありました。
「戦の前、鉄砲の弾千発が届いた
心遣いを大変うれしく思う」by信長
やがて宗易は、信長のもとでその後の人生を決める大きな出会いを・・・!!
羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉です。
秀吉は、信長の有力な家臣として各地で戦をする多忙の中でも、茶の湯を好んだといいます。
そんな秀吉に、宗易は茶釜を送り、親交を深めていきました。
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1582年6月、宗易61歳。
本能寺の変!!
明智光秀が謀反を起こし、信長を討ちます。
この時、利休は大きなかけに出ます。
新たな支配者として京の都を制した明智光秀ではなく、中国大返しのさ中の秀吉のもとへ身を寄せたのです。
二人とも成り上がりで、持たざる者でした。
それと同時に、茶の湯など、文化芸術が二人とも好きでした。
宗易は、元祖職業茶人・芸術家なので、それを愛してくれる人と結びついたのです。
本能寺の変からおよそ10日後・・・
畿内に駆け戻った秀吉は、京の都のある山城国の入り口・山崎で明智光秀を撃破。
信長の後継者として名乗りを上げ、天下人へと向かう秀吉・・・その茶頭として、宗易も天下に名を上げていきます。
光秀を破ったのち、秀吉が本拠地を構えたのが山崎。
ここに、秀吉と共に千宗易がつくった茶室が残っています。
国宝・待庵。
茶の湯の伝統を覆す、独創的な空間で知られています。
かがまなければ入れないにじり口、中はわずか2畳・・・
それまでの開放的な大広間や、堺の茶人たちが使用した四畳半よりもさらに狭く・・・。
さらに茶道具にも革命を起こします。
本能寺の変で、信長が持っていた中国製の価値のある名物の多くが失われました。
新しい茶器が必要でした。
そこで、宗易が新しく職人に作らせたのが、黒!!
”黒キハ古キコゝロ 赤ハ雑ナルコゝロ”
”黒は古き心なり”の中に、見せかけの華やかさや豊かさを捨てることで、物事のもともと持っている素の形、姿の中に、美しさとか価値というものと向き合って、それを自分が選び取っていくことが、わび数寄には大事なんだということを、利休は好み、人に伝えようとしました。
黒楽茶碗は、名物とは対照的な質素なデザインでした。
しかも、適度な厚みで熱を伝えにくいため、持ちやすくて実用的でした。
宗易は、茶の湯を通して時代の美意識を変えていきます。
この時、61歳!!
1585年、宗易64歳。
秀吉が関白に就任します。
天下人への道を歩む秀吉は、朝廷から天皇の補佐をする関白職に任じられたのです。
そのお礼として秀吉は、御所で茶会を開きます。
秀吉自ら天皇に茶をたてる”禁中茶会”です。
これには、秀吉の権威を見せつけるという意味もありました。
失敗が許されない催しに、宗易も茶頭として参加することになりました。
しかし、一つ問題が・・・
朝廷で位も官職もない宗易は、御所に入ることができません。
そこで、宗易が天皇から授かったのが、”利休居士”の号です。
居士とは、朝廷に仕えず自由に修行に励む者のことです。
階級や身分から外れた特別な立場です。
こうして禁中茶会に参加が叶った宗易・・・以後は、利休と名乗るようになります。
「禁中で台子の茶式を行った
この上なく光栄なことだ」by利休
そして、禁中茶会で利休と秀吉は権威を示す驚くべきものを持ち込みました。
黄金の茶室です。
この茶室の特徴は、組み立て式だということ。
禁中茶会の後も、どこにでも持ち運ぶことができました。
秀吉は、後に大坂城で組み立て、訪れた客に披露したといいます。
世間の序列の外、特別な存在として認められた利休・・・
彼の言動は、時代の価値観を大きく揺さぶっていきます。
「古い由緒もない新品に1000貫文の値をつけた」
1000貫文は、今の価値でおよそ1億円・・・
利休が認めれば、どんな茶器も高い価値を持ったのです。
全てを常識にとらわれずに見定める利休は、政治も大きな影響力を持つようになります。
秀吉の有力の補佐・弟の豊臣秀長は、ある大名に語っています。
「内々に秀吉さまに申し上げることは利休に
公に申し上げるにはこの秀長にお伝えください」by秀長
秀長の信頼を得た利休は、その後ろ盾によってますます大きな存在となっていきます。
「利休以外には秀吉さまへ一言も進言できる者がいない」
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利休64歳の時、秀吉は天下統一への大きな足掛かり・・・九州平定に乗り出します。
秀吉は、九州全域を手に入れるべく戦いを続けていた島津義久に対し、警告を送ります。
「戦を中止しなければ、遠征し成敗する」by秀吉
九州では勢いのある島津でしたが、圧倒的な軍事力の秀吉に攻め込まれれば勝ち目は薄い・・・
島津義久は返事を送ります。
あて先は利休でした。
「少ないですが、生糸十斤を送ります
秀吉殿におとりなしくだされば大変喜ばしいです」by島津義久
やがて秀吉は、九州を平定。
1587年、利休66歳・・・歴史的な茶会を開催します。
京都の北野天満宮に1000人以上が集まったとされています。
北の大茶湯です。
その様子を描いた図が、北野天満宮に残されています。
秀吉や利休の姿・・・くじ引きで当たった者は、秀吉や利休の点てた茶を飲むことができたといいます。
しかも、この大茶湯が画期的だったのは、上流階級だけの茶会ではなかった事です。
「茶の湯に興味がある者は、若侍、町人、農民、誰でも参加せよ
茶座敷は各々2畳、ただし、畳を持って来られない者はむしろでも構わない」by秀吉
藁の敷物を敷いた茶席、地面に傘を差しだただけの茶席・・・
秀吉が、天皇から庶民に至るまで、自分こそが天下人であり、天下人は政治・権力を握っているだけではなく、ある種の文化の庇護者として世の中をリードしてこれを庇護する存在なのだとアピールする意味で、必要なイベントだったのです。
秀吉と利休、2人は同じ志のもと、長く固まっていた社会の序列を破壊し、新たな時代を目指そうとしていました。
常識外れの茶会を次々成功させ、秀吉と共に新たな時代を目指していた千利休・・・
しかし、利休は、盟友のはずの秀吉に切腹を命じられます。
二人の間に何があったのでしょうか?
1590年、利休は69歳の時、小田原にいました。
秀吉の天下統一に抵抗する最後の大物・北条氏を屈服させる小田原攻めに同行したためです。
しかし、この頃から、利休と秀吉の関係は悪化していきます。
一説には、小田原攻めの時、利休の弟子・山上宗二が秀吉に処刑されたことが原因とされています。
もともと宗二は、利休と共に秀吉に仕えていました。
歯に衣着せぬ発言で、頑固な性格と言われる宗二・・・率直な物言いが、秀吉を怒らせ追放処分に。
その後、宗二は北条氏に仕えたため、小田原の地で利休と宗二は再会します。
利休は、愛弟子を利休に面会させ、追放処分を解いてもらおうとしました。
しかし、宗二の発言がまたも秀吉を怒らせます。
そしてついに、処刑!!
耳と鼻を削ぐという残酷な仕打ちでした。
利休は、手紙に記しています。
”小田原で悲しい思いをした
涙を流すばかりだ”
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1590年、利休69歳・・・
北条氏を倒した秀吉は、天下を統一!!
しかし、この後、秀吉は変わります。
茶の湯では新たな作法をもうけ、秀吉が認めた者のみが秘伝を教わるように限定しました。
茶の湯をルールで縛る権威付けに使う秀吉・・・
利休は密かにつぶやきました。
「本来、茶の湯に大事な習いなどというものはありません
習いなどないことを極意とするのです」by利休
1591年利休70歳・・・
彼の立場は大きく揺らぎます。
利休と共に秀吉を支え、信頼篤かった豊臣秀長が病死したのです。
その後、利休は秀吉から突然罪に問われました。
罪状は二つ・・・
①大徳寺の山門に利休の像を設置したこと
山門は、天下人である秀吉や天皇の勅使もくぐるもの
それを、利休の像が上から見下ろすのは不敬とされたのです。
しかし、この像は、2年前から設置されており、今更罪に問うのは不自然でした。
②売僧と呼ばれた不当売買
鑑定や売買で不正を行い、値段を釣り上げたというのです。
しかし、そもそも茶器売買は、目利きの利休が決めた値打ちに客も納得して行うものです。
昔からのやり方を不当と言い出すのも、おかしな話でした。
罪に問われた利休は京を追放され、堺に蟄居を命じられてしまいます。
それはまさにでっち上げでした。
平和な時代が訪れる中で、身分制度など新たに立ち上がっていく武士を中心とした社会の中で、階級に属さない特別な立場の人間の居場所がなくなっていきました。
利休のような特殊な立場の茶頭を必要としない世の中になっていったのです。
利休は、都を去る時、弟子に言い残しています。
「都の思い出が様々思い出され、今は悲しく涙を流すばかりだ」by利休
利休追放から間もなく、京都では大徳寺の利休像が一乗戻橋のたもとで磔に・・・晒されました。
一説には、直ちに謝罪しなければ、利休本人も処刑するという秀吉の脅しともいわれています。
利休を慕う武将たちは、秀吉に物申したくても、仲介役の利休が罪に問われ、秀長もすでにいない・・・
そこで頼ったのが、秀吉の家族である母・大政所と妻・北政所でした。
秀吉が大切にする身内であれば、仲介も上手くいくに違いない・・・
二人は秀吉に謝罪するように助言します。
しかし、
「茶の湯で天下に名をあらわした私が、命が惜しいからと女性たちを頼って助命となるのは無念でしょう」by利休
秀吉は、利休を京に呼び戻し、命じます。
「切腹・・・」と。
利休は受け入れます。
1591年・・・70歳の時でした。
利休は、己の運命を神となった偉人に例えました。
優れた才能が嫉妬され都を追われた人物・・・
「利休は何はともあれ果報者である
菅原道真になると思えば」by利休
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