日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:三好義継

京都市北区にある等持院は、足利将軍家の菩提寺です。
その一角にある霊光殿には、歴代将軍の木像が安置されています。
およそ240年続き・・・15歳将軍の足利義昭・・・
織田信長の後ろ盾で将軍となってから京都を追放されるまで5年・・・幕府を滅亡させてしまった最後の将軍となりました。
そんな義明につけられたレッテル・・・傀儡将軍・・・
信長に操られていた無能な将軍だったというのですが、本当にそうだったのでしょうか?

1537年11月3日、足利義昭は、12代将軍足利義晴の次男として生まれました。
兄は一つ年上の義輝、下には弟と二人の妹がいました。
足利将軍家では嫡男以外の男子は、仏門に入るのが習わしで、次男である義昭は6歳で、仏教勢力で最大勢力を誇る奈良・興福寺一乗院に入れられ、覚慶と名乗ります。
その後、1546年父・義晴が、まだ11歳だった兄・義輝に将軍職を譲ります。
覚慶は、仏教を修行を続け、26歳で一乗院の門跡となり寺の跡を継ぎます。
本来ならば、このまま僧として生涯を全うするはずでした。
しかし・・・29歳の時、事態は一転・・・乱世に飲み込まれていくのです。

1565年、兄である13代将軍・義輝が、幕府の実権を握っていた三好義継とその家臣である三好三人衆らによって暗殺されてしまったのです。
世に言う永禄の政変です。
この時、覚慶の母・慶寿院と弟・周暠は京都にいたので殺されてしまいました。
覚慶は、奈良におり、寺を継ぐことを条件に命が保証されていました。
命は助かったものの、覚慶は、興福寺一乗院に幽閉されてしまいます。
そんな中、義輝の側近・細川藤孝らが覚慶脱出計画を画策します。
覚慶を新たな将軍として、三好勢から政権を取り戻し、幕府を再興しようと考えたのです。
しかし・・・幽閉された覚慶には見張りがつけられていました。
唯一出入りが許されたのは、細川藤孝只一人・・・その藤孝が計画を覚慶に伝えます。

覚慶は、藤孝に覚慶が病気だと偽り医師を呼ぶように指示します。
意を汲んだ藤孝は、配下の医師を送り込みます。
そして兄・義輝が襲撃されてから2か月後のある晩・・・
病気平癒と称して、番兵に酔いつぶれるまで酒を勧めます。
覚慶は、番兵が酔いつぶれたすきに屋敷を脱出!!
直臣である和田惟政を頼り、近江へと逃れます。
将軍になり、兄を殺した三好勢から政権を取り戻し、幕府を再興するという使命を帯びた覚慶は、すぐに見方を集めます。
上洛する為に越後・上杉謙信、安芸・毛利元就など、諸国の諸大名などに出兵を擁する御内書を出しました。
御内書は、本来は将軍が発給する文書です。
覚慶はまだ僧侶の身分でしたが、これを発することで正当な将軍の後継であることをアピールしたのです。
この時、まだ覚慶が後継者だとは決まっておらず、京都では三好三人衆が従兄弟にあたる足利義栄を将軍職に就かせようとしていました。

1565年11月、覚慶は近江国矢島の少林寺うつります。
その翌年の2月に、還俗して「義秋」と名を改め、僧侶から武士に戻りました。
そして2か月後、朝廷から従五位下左馬頭に任じられます。
これは、足利将軍家にとって意義あることでした。
足利尊氏の弟・直義が左馬頭に命じられていました。
この左馬頭は、将軍の後見人や次期将軍が任じられる官職でした。
しかし、義秋が任じられた年の12月・・・義栄も左馬頭の官職を得るのです。
焦った義秋が動きます。
義栄を擁立する三好勢を倒すべく、各地の大名たちに御内書を出すのです。
ところが・・・良い返事をくれる者も、兵を送ってくる者もいませんでした。
この頃の戦国大名たちは、お互いに近隣の大名達と生存をかけて闘っているので、国を留守にすることはできなかったのです。
なので、次期将軍の予防であっても、上洛することは難しいことだったのです。
そんな中、義秋の書状に乗ったのが織田信長でした。
この時信長は、尾張を統一したばかりの32歳、勢いづく信長は、義昭に上洛にお供しますと返してきたのです。

1566年8月、こうして信長は、京に向けて出兵します。
しかし、交戦中だった美濃の斎藤龍興に撃退され、先に進めませんでした。
上洛しようと勇みながら、あっけなく敗退した信長を龍興は”天下の笑い者”と嘲笑・・・
耐え難い屈辱を受けた信長は、京都までの経路を安全なものにすることが先だと思い知り、美濃の攻略を優先します。
さらに、万全を期し、伊勢からのルートを確保する為に北伊勢の攻略も開始。
これによって信長を伴っての上洛は先送りとなりました。
そこで義秋は、別の人物を頼ることにします。
以前から交流のあった越前・朝倉義景です。
義秋は、朝倉義景に上洛を要請しますが、嫡男を亡くしたばかりの義景は、一向に動かず・・・
そうこうしているうちに・・・1568年、三好勢に擁立された足利義栄が14代将軍に就任。
この2か月後、32歳でようやく元服し、義秋を義昭としました。
自分が将軍になるためにはどうすればいいのか・・・??

動こうとしない義景を見限り、越前を出た義昭が頼ったのは・・・信長でした。
信長はこの時、斎藤龍興を倒し、美濃を手中に収め、さらに北伊勢をも攻略、上洛のめどが立っていたからです。
義昭は、信長とゆかりがあったといわれる明智光秀の仲介で、美濃で対面を果たします。
しかし、一度義昭と上洛しようとして失敗、屈辱を味わった信長が再び協力してくれるのか??
不安がよぎる中、義昭はこう切り出します。

「今一度、上洛を手伝ってはくれぬか?」by義昭
「義昭さまの望み、しかと承りました」by信長

ゆくゆくは畿内の制圧を目論む信長は、この上洛を足掛かりにしようと義昭の申し出を受け入れたともいわれています。
義昭は、信長の上洛のおまけだったと・・・。

1568年9月、準備を整えた信長は、6万の兵を率いて上洛を開始。
美濃を出ると、抵抗する南近江の六角氏を攻略、城という城に軍勢を派遣し、城下に火をつけ、南近江を手中にすると、美濃に残っていた義昭を迎えいれ、今日へと向かうのです。
この報せに戦々恐々となったのが京の都の人々でした。
都の人々の関心は、信長の動向・・・義昭のことはどうでもいい??
上洛の主役は信長・・・??
都の人々は、信長が来ることで戦場になることを恐れていましたが、義昭が上洛することにお供として上洛することをわかっていました。
義昭と信長は、上洛の宿願を果たします。
そして、14代将軍足利義栄が病死・・・
1568年10月、義昭はついに、室町幕府第15代将軍に就任するのです。
この時32歳、兄・義輝が、非業の死を遂げてから3年余りが過ぎていました。

室町幕府第15代将軍足利義昭は、上洛の最大の功労者・織田信長のことを御父と呼び、尊敬していました。
その信長に、義昭は斯波家の家督相続(織田家は元々尾張の守護だった斯波家の家臣にありました)、管領職の就任を褒美として与えようとしました。
管領職は、三代将軍足利義満の時に作られた将軍を補佐する幕府ナンバー2の役職です。
織田家の主家であった斯波家・畠山家・細川家の三管領家が務めていました。
しかし、この頃、細川家の家臣だった三好家が力を持ち、畿内の国々を掌握・・・
三管領家の立場は弱まり、管領職は名ばかりの役職となっていました。
そこで・・・義昭は、信長に斯波家の家督を継承させ、管領職につけることで「三管領家」を復活させようとしていました。
「将軍→管領→守護」・・・
そして、諸国の大名を従える幕府を再興させようと考えていました。
ところが信長は、これを辞退・・・義昭は副将軍の座を新しく用意します。
しかし、これも辞退・・・堺・大津・草津に代官を置かせてほしいと・・・直轄地にしてほしいと望み、義昭はこれを認めます。
信長の国は、元々尾張国の津島・・・ここは、尾張の中でも有数の港湾都市でした。
信長は、重要な港を押さえることが利点があるとよくわかっていたので、堺・大津・草津といった交通と物流の拠点となる港を手に入れることで、軍資金を得ようとしていたのです。
地位や名誉より実を取った信長・・・そんな信長の要求を認めた義昭は、結局信長を管領にできずに終わりました。

義昭は、信長の軍事力におんぶにだっこだった・・・??
実際は信長に任せきりではなく、1569年、上洛後信長が美濃に帰るとその隙を狙った三好勢が義昭の御座所となっていた「本圀寺」を襲撃・・・本圀寺合戦です。
この時の義昭は・・・軍勢を指揮し、自ら斬りかかって応戦したといいます。
信長が襲撃の知らせを聞いて急遽美濃から早掛けで上洛した時には、戦はすでに終わっていました。
義昭は、信長に頼ることなく勝利を治めていたのです。

義昭が将軍に就任してから2か月・・・信長によって掟書きが・・・殿中御掟が出されます。
しかし、その中に驚くべき項目が書かれていました。

一、将軍への直訴は禁止する
一、幕臣が御所に用向きがある際は、信長の許可を得ること
   許可なしに御所に近づくことは禁止する

この頃、将軍が財政と領地に関わる訴訟に対して介入が可能となり、影響力が強まりました。
しかし、そうなると義昭に有利な判決ばかりが増え、天下を揺るがす事態になりかねないと、信長は思ったのです。

当時、土地をめぐる訴訟は、問注所で審議され、判決を下すことになっていました。
しかし、その問注所を飛び越えて義昭が判決を下すことが多くなっていたのです。
信長は、いずれもめ事が起こるであろうことを危惧し、義昭の将軍権力を制限、通説ではそれを強要したといわれています。
本当に強要されたのでしょうか?
信長にとって幕府は、秩序の安定をもたらす機関です。
将軍はその「天下静謐」を体現するべき存在でした。
信長は、それを義昭に求めたのです。
義昭もまた天下静謐を目指し理想としていたので、「殿中御掟」は双方が承諾して出したものでした。
世の平和を目指す義昭もまた、政治に秩序と安定をもたらすためには公正な裁判が必要だと考えていました。

丁度この頃、信長は義昭のために将軍御所を建設しています。
その場所は、三好勢の襲撃で自害した兄・義輝の将軍御所跡地に建設されました。
信長は、大量の人員を導入し、堅牢な防衛施設を備えた将軍御所をたった3か月で建ててしまいました。
誰の目から見ても、忠臣と映ったことでしょう。
将軍御所が完成し、信長が帰国する際には義昭はその別れに涙を流したといいます。
まさに、蜜月の時・・・しかし、翌年・・・!!

1579年1月・・・
室町幕府15代将軍足利義昭と織田信長との間で新たな条約が制定されました。
五か条の条書です。
その内容は・・・
・将軍が諸国の大名に御内書を出す際には、必ず信長に報告し、書状を添えて出すこと
・将軍がこれまでに諸大名に出した命令はすべて無効とし、改めて考えたうえで下すこと
信長が将軍義昭を傀儡とし、厳しい要求を突き付けているように見えますが、その理由が第四条に書かれています。
”天下のことは信長に任せおかれたので、相手が誰であっても将軍の許可を得ないで信長の分別次第で成敗する”
通説では、義昭が将軍の仕事・・・天下のことをすべて信長に任せたため、義昭に対して厳しい要求を突き付けることが出来たといわれてきましたが・・・
義昭は信長に任せっきりだったのでしょうか?
”天下”とは、畿内5か国のことです。
さらには、義昭な将軍の権限全てを委任したわけではなく、”成敗”においてという限定的なものだったと思われています。
つまり、義昭は信長に対し、「畿内5か国における討伐」の権限を与えたのにすぎず、将軍の仕事を任せたわけではなかったのです。

1570年、勢力回復を図る三好三人衆が摂津で挙兵します。
将軍義昭は、信長と共に出陣します。
この時の幕府・信長連合軍6万のうち3万は、義昭の動員要請によって集められました。
そう考えると、義昭の力を侮ることはできません。
幕府・信長連合軍は、大軍によって三好勢を圧倒するも、大坂にある石山本願寺が挙兵!!
信長が本願時と敵対します。
義昭もまた本願寺と対立することとなりました。
この本願寺挙兵に呼応して、越前・朝倉義景、北近江・浅井長政が兵をあげます。
さらに、甲斐の武田信玄までもが信長打倒に乗り出したのでした。
これによって幕府・信長連合軍は、三好、本願寺、浅井、朝倉、武田に包囲されてしまいました。
信長包囲網の形成です。
今までは、この信長包囲網は、義昭がしたものと考えられてきました。
しかし、実際には義昭に敵対する勢力との合戦だったので、義昭も包囲される対象であり、義昭・信長包囲網だったことが分かります。
信長包囲網は、義昭が仕組んだものではなかったのですが・・・

幕府再興と天下静謐を目指し共に戦ってきた第15代将軍足利義昭と織田信長・・・
義昭は信長に、上洛して将軍にお礼を申し上げるようにという書状を信長に出させています。
これを受け、諸大名は次々に上洛、幕府の臣下であることを認めたのです。
こうして将軍の権威は回復、目指した幕府再興が叶いました。
しかし、2人の中に亀裂が入ります。
将軍となってから5年・・・義昭が信長を裏切るのです。
一体何があったのでしょうか?
原因の一つは、義昭の所領政策にありました。
幕臣たちの給与である所領の与え方が、人を選んだ偏ったものだったのです。
十分な所領を得られなかった幕臣たちは、不満を募らせ信長に助けを求めます。
これを受け、信長は義昭に対し異見十七ヶ条を送りつけます。
その第3条には、
”よく奉公をして忠節を尽くしている者にそれ相応の恩賞を与えずに、新参者でたいした身分でもない者に扶持を与えている、人々の評判もよろしくない”
痛烈な批判を食らった義昭でしたが、偏った所領政策には理由がありました。
幕府には、義昭以前から与える領地が無くなってきていました。
義昭の所領政策は、破たんしていたのです。
与える領地が不足していたため、致し方のなかったことだったにもかかわらず、信頼していた信長に批判された義昭は、信長に強い不信感を抱くようになります。

そんな中、1573年1月25日・・・三方ヶ原の戦いが勃発!!
織田・徳川連合軍が遠江の三方ヶ原で武田軍と激突し、大敗を喫するのです。
これによって信長の本国・尾張と美濃は、いつ武田軍に攻め込まれてもおかしくない状況に・・・
そこへ、朝倉達反信長方が大挙して来れば、たちまち京都は戦場と化します。
義昭は決断します。

「このまま信長と一緒にいては、せっかく再興した幕府も危うくなる・・・
 もはや信長を裏切るしか手はないか・・・??」

義昭が、反信長の兵をあげたのは、1573年2月13日・・・幕府を守るために苦渋の決断でした。
信長は義昭の離反を知り、とても驚いたといいます。
一方、反信長方に翻った義昭を味方につけた三好・本願寺・浅井・朝倉・武田は、有利に戦いを進めていきます。
信長討伐まであと少し・・・!!
しかし、思いもよらない事態が起こります。

病に伏していた武田信玄が、1573年4月12日死去。
武田勢が甲斐に撤退します。
さらに、近江に出陣していた朝倉軍も撤退。
信長包囲網の崩壊です。
信長は、この機を逃しませんでした。
義昭のいる京まで軍勢を率いて都に火を放ったのです。
義昭は、二条城で抵抗を続けていましたが、都で戦火が広がることを恐れた時の正親町天皇が、義昭・信長双方に矛を収める様に命じ、講和が成立するのです。

ところが・・・その3か月後、義昭がまさかの再挙兵!!
信長をどうしても許すことのできなかった義昭は、一方的に講和を破棄、3700という僅かの勢力で再挙兵し、山城の槙島城に籠城します。
これに対し信長は、大軍で槙島城を攻め、周辺一帯に火を放ちます。
恐れをなした義昭は降伏・・・信長によって都を追放されると山城枇杷荘に退きました。
これをもって、室町幕府滅亡とされてきました。
しかし、義昭が将軍の地位を朝廷に返していなかったため、名目上幕府は存続していました。
義昭は、西国の大大名・毛利元就を頼り、備後の鞆の浦に映ったのち、鞆幕府を作ったといわれています。

信長から都を追われてもなお、幕府を再興しようと奮闘して、守ろうとしたのです。
しかし、時代は義昭に味方をしませんでした。
天下は織田信長の世に・・・そして信長が本能寺の変で自害すると、豊臣秀吉が天下人となるのです。
その後、秀吉から京に戻ることを許された義昭は、1588年将軍職を辞して出家・・・
名実ともに室町幕府は消滅したのです。
晩年、義昭は、秀吉の保護を受け、槙島一万石の大名となります。
大阪城下に私邸を構え、静かに暮らしたといいます。
そして、1597年8月28日、61歳で波乱の人生に幕を下ろすのです。

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戦国時代、室町幕府の権威は地に落ち、大名や武将たちによる熾烈な戦いが繰り広げられていました。
暗殺や裏切りが当たり前の時代・・・この時代にも、悪人と呼ばれる男がいました。
松永久秀です。

応仁の乱からおよそ70年・・・京の都はいまだ混乱のさ中にありました。
この頃、幕府のj権威は失墜しており、実権を握っていたのは管領細川氏の家臣・三好長慶でした。
1550年長慶は、将軍・足利義輝を攻め追放、周辺に勢力を広げ、畿内を支配していきます。
この長慶の腹心として活躍したのが松永久秀です。
久秀は、出自も経歴も謎・・・武将としてだけでなく、行政面でも辣腕を振るっていました。
1560年、朝廷より弾正少弼に選ばれ、松永弾正が通り名となり、翌年には従四位下を賜わり、更に主君・三好長慶と共に、足利の紋と同じ桐を使うことを許されます。
当時、日本を訪れていた宣教師は・・・
「さして高い身分ではないが、その知力と手腕によって、家臣であるにも関わらず、公方様(将軍)と三好殿を掌握していた。」といっています。

1559年三好長慶の命により、久秀は大和へ侵入。
当時の大和国は大名の支配しない特殊な地域でした。
他のところは、細川氏、畠山氏・・・足利一門の武士が、その国の守護という役職を与えられ、支配していました。
大和は足利一門は入れず・・・興福寺が大和の国を支配し、武士たちを支配していました。
その大和に侵入した久秀の前に立ちはだかったのは、興福寺の配下として大きな力を持っていた筒井順慶でした。
久秀は、順慶を二度の戦いで打ち破り、大和を我が物とします。
しかし、その後も順慶は久秀への攻撃を繰り返し、二人は宿命のライバルとなるのです。
1561年、久秀は大和の中心・奈良に本拠地となる城・多門城を築きます。
多門城からは、東大寺や興福寺・・・大和の主だった寺を見下ろすことができました。
興福寺に代わる新しい支配者を示す城でした。

この城を訪れたポルトガル人の記録が残っています。
「これだけの優れた建造物は世界にもない。
 すべての城や、塔の壁には漆喰が塗ってあり、かつて見たことのないほど白く輝いていた。
 この中を歩いていると、まるで天国に来たようだ。」と。

その城を一目見ようと、奈良中の人が見物にやってきたといいます。
今まで興福寺や東大寺しか立派な建物を見たことのない人々が、武士でも作れる・・・
寺の時代は終わって、武士の時代が来ることを見せつけていきます。

多門城は・・・
昭和22年、小学校が立てられて、城の遺構は無くなってしまいました。
しかし、校舎の周囲には、その痕跡が残っています。
多門城には、それまでの城にはない4階建ての櫓もありました。
瓦葺・・・当時は瓦葺は寺院建築にしか用いていませんでした。
内装は、絢爛たる襖絵に彩られ、金色の柱が並んでいました。
城の中には、いくつもの茶室があり、久秀は頻繁に茶会を開いていました。
千宗易などの超一流の文化人が集まっていました。
松永久秀は、戦で領地を争うだけの武将ではなく、優れた築城家であり、教養人でもあったのです。

多門城が作られたころ、久秀の支配地は、南山城にも及んでいました。
しかし、久秀の大和支配に暗雲が立ち込めます。
長慶の死と共に動き出したのは・・・将軍・足利義輝でした。
長い間、長慶に実権を握られていた義輝は、三好をたたき実権を取り戻そうと謀ったのです。
不穏な気配が・・・先手を打ったのは三好側でした。
1565年5月、長慶の後を継いだ三好義継、久秀の息子・久通らは、およそ1万の大軍で将軍御所を攻め、義輝を亡き者にしようとします。
義輝殺害!!
その首謀者とされたのが久秀でした。
ルイス・フロイスによると・・・「謀叛人の筆頭者は弾正殿」
「さらに、久秀が絶対的君主となり、将軍義輝への気遣いなどをしなくても良いように、暴虐な方法を用いて権勢の最高位にのぼろうと決意した。」とあります。

ところが将軍を暗殺してまで権力を守ろうとした三好家の中で内紛が勃発!!
1567年久秀と対立する三好家の武将たちが1万の軍を率いて大和に侵攻・・・。
興福寺や東大寺に陣を構え、久秀と対峙しました。
小競り合いが続くものの・・・決着は尽きません。
半年後、久秀は東大寺に陣を敷いた軍に夜討ちをかけ、遂に打ち破ります。
しかし、この時大仏殿に火が付き全焼・・・大仏の上半身がとけ落ちてしまいました。
一方、久秀は新しい動きも・・・大和の地侍たちに手紙が届いていました。
「近々、足利義昭を奉じて上洛するので、義昭に対する忠節と、松永久秀親子といっそう懇意になることをお願いしたい。」
差出人は、織田信長でした。
なんと、久秀は、上洛前の信長と手を結んでいたのです。

1568年、義昭を奉じて信長上洛!!
久秀は、直ちに義昭と信長の元を訪れ、大和の支配を認めてもらいます。
この時、自慢の「付藻茄子」を信長に送っています。
効果は絶大!!
宿敵・筒井順慶が久秀の城を奪った時も、信長の2万の援軍で奪還に成功しています。
久秀は、信長との同盟で、大和支配を強固なものにしていくのです。

信長上洛から3年後、久秀の大和支配を脅かす事態が・・・。
将軍・足利義昭が、久秀の宿敵・筒井順慶に娘を嫁がせ姻戚関係となったのです。
更に順慶は、信長の家臣になることも認められます。
筒井氏はもともと興福寺の有力な衆徒のひとりでした。
以前から、大和国内に勢力を持っていたのです。
義昭は、将軍になる前、興福寺の一条院門跡でした。
なので、興福寺の勢力は何たるかを知っていたのです。
大和をおさえる一つの手立てだったのです。
怒った久秀は、筒井順慶と組んだ義昭の家臣を攻撃!!
それは、信長に対する反逆でもありました。
その後、織田軍と各地で衝突を起こします。
そんな久秀に吉報が・・・
甲斐の武田信玄が、打倒信長に動き出したのです。
信玄の軍は、三方ヶ原の戦いで、信長・家康連合軍と大激突!!大勝利を治めます。
久秀はこのことを珍重と喜びます。
時を同じくして、将軍・義昭も信長に反旗を翻します。
窮地に陥った信長・・・あとは、信玄の上洛を待つだけでした。
しかし、信玄が都に現れることはありませんでした。
三方ヶ原の戦いの後、病で亡くなっていたのです。
勢いを取り戻した信長は、将軍義昭を追放。
久秀の多門城を取り囲みます。
信長が突き付けた降伏の条件は厳しいものでした。

・多門城の引き渡し
・支配地の没収
・孫を人質に差し出す

1573年12月26日多門城開城。
久秀の14年に及ぶ大和支配は終わったのでした。
その後、信長から大和の支配を任されたのは、宿敵・筒井順慶でした。
順慶は、多門城の破却を久秀の息子に命令!!
大和の支配者・久秀のシンボルは、跡形もなく消されたのです。
多門城を明け渡してから4年・・・久秀に再びチャンスがやってきます。
大坂本願寺・武田・宇喜多・毛利・・・各地の大名が打倒信長に立ち上がったのです。
足利義昭の呼びかけによるものでした。
この時久秀は、織田の一武将として本願寺攻めの最前線にいました。
義昭たちと手を結んで信長に背くか、信長を支え続けるのか・・・??
どうする??

信長に背く??
このまま信長に従っていても、大和が手に入ることはないだろう・・・
筒井順慶に大和を与え、多門城も壊されてしまった。
断じて許すことができない・・・!!
大和を再び我がものとするためには、義昭さまの呼びかけに応じて信長を討つしかない!!
毛利をはじめ、多くの武将が立ち上がっている今、信長に勝ち目はない??
今、手柄を立てておくべきでは・・・??

信長を支える??
自分の力を認めてもらう???
上杉、武田、毛利・・・義昭さまの呼びかけに応じたはいいが・・・いつ裏切るかわからない・・・。
武田信玄は病で亡くなったではないか・・・??
何が起こるかわからない!!

大和を再び支配するためには・・・??
どうする??

安土日記には・・・
大坂本願寺を攻める天王寺の砦に、松永久秀と息子・久通を入れておいたが、
8月17日、松永親子は謀反を企て、砦から退去して大和の信貴の城に立て籠った。
とあります。

信貴山城は、河内と大和の国境にそびえる信貴山にある城・・・。
信長に背いた久秀は、信貴山城に籠りました。
城からは、大阪平野・奈良盆地を見渡すことができました。
平野部で戦いを挑むと、兵力の差から久秀は負けて、殺されてしまうので、兵力差を補うために信貴山城に立て籠り、援軍を待つ方が、戦略的に生き延びられると判断したのです。
しかし、事態は久秀の思惑通りにはいきませんでした。
越後の上杉軍は、一度は織田軍を撃破するもまもなく撤退・・・
武田勢も、徳川家康と国境の城を取り合いを続けて進むことができません。
久秀は孤立・・・信長は使者を派遣し、久秀に謀反の真意を問います。
久秀は使者に会おうともしませんでした。
信長は、大軍で信貴山を包囲して攻撃!!
挙兵から1か月半後の10月10日・・・追いつめられた久秀は、城に火をつけ切腹しました。
こだわり続けた大和を見下ろす地で70年の生涯を閉じたのです。

久秀が亡くなった後、人々の間で噂が・・・
久秀は、死ぬ間際に大切にしていた茶釜平蜘蛛をたたき割ります。
平蜘蛛を欲しがっていた信長に渡るのを嫌ってのことだという。
戦国史に数々の逸話を残した久秀・・・その死にざまも、悪人らしい死にざまでした。


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