日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:三法師

尾張国・清須城・・・1582年6月27日、ここで本能寺の変で命を落とした信長亡き後の織田家の跡継ぎを決める重要な会議がありました。
清須会議です。
顔をそろえたのは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・・・そして、羽柴秀吉・・・4人の織田家家臣と言われています。
そんな清須会議・・・詳しいことはわかっていません。

1582年6月2日・・・天下統一目前の織田信長が、京都・本能寺で家臣の明智光秀の謀反に遭い自害しました。
その後、同じく信長の長男・織田信忠も明智軍に攻められ命を絶ちます。
強大な影響力を持っていた信長と、家督を譲られ織田家当主となっていた信忠の死・・・。
織田家存亡の危機に一早く駆けつけたのが、備中高松からおよそ200キロの道程を2万もの軍勢を率い、わずか8日間で駆け戻った中国大返しを果たした羽柴秀吉・・・。

6月13日、山城国山崎で光秀と対峙。
見事主君・信長の仇を討ったのです。
それから14日後・・・
1582年6月27日、清須会議が行われます。

その議題は二つ・・・
①織田家の家督相続者を決めること
②織田家の所領の配分を決めること
旧明智領を含む560万石の所領の分配です。

清須城には誰が参加していたのでしょうか?
「川角太閤記」によると・・・参加したのは、
・織田家の古参で家臣の筆頭である柴田勝家
・同じく宿老の丹羽長秀
・信長の仇を討った功労者・羽柴秀吉
・秀吉と同じく山崎の戦いに参加していた池田恒興
この4人が通説となっています。

しかし・・・参加者はもっといた・・・??
「多門院日記」によると・・・4人に堀秀政が加わり5人だったとされています。
秀政は、織田軍の中国方面軍に参陣し、秀吉の配下として活躍した武将です。
本能寺の変の後、秀吉軍と共に中国大返しで信長・信忠の弔い合戦に駆け付け貢献しています。
秀政が会議に参加した可能性は・・・??
清須会議の時点では、秀政は織田軍団でのランクは他の4人よりもかなり下でした。
そのため、織田軍団の重役会議に同席しているとは考えにくいと思われます。
また、「多門院日記」は、尾張の出来事を、奈良の僧が伝え聞いて書いています。
若干史実とは受け止め難いと思われます。

また、7人いたという資料も・・・山鹿素行の「武家事紀」です。
そこには、通説の4人の他に、滝川一益、信長の次男・信雄、三男・信孝が書かれています。
滝川一益は、勝家、長秀、明智光秀と共に織田四天王と呼ばれていました。
織田家の行く末を決める会議に参加していてもおかしくないのですが・・・。
織田軍団の重要メンバーでしたが、滝川一益は会議に参加していません。
どうして・・・??
一益は、会議への参加を自ら辞退したと言われています。
織田軍団の関東方面軍司令官と思われるポジションでしたが、本能寺の変の直後、上野国で起こった神流川の戦いで、北条の大軍に乾杯しています。
そのみじめな敗戦を恥じて、清須会議への参加を辞退したのです。
また、単に北条氏との戦が長引いて、会議に間に合わなかったともいわれています。

信雄と信孝は会議に参加していたのでしょうか?
清須城にいたとは言われていますが、家督継承の当事者であり、会議に参加していないと思われます。
出席を止められていた可能性もあります。

こうしたことから、「川角太閤記」に書かれた柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人が参加者と考えられます。

その中で、清須城での会議開催を呼び掛けたのが柴田勝家でした。
しかし、どうして清須城だったのでしょうか?
勝家が指定した清須城には、信忠の忘れ形見の三法師がいました。
そのために、清須城ですることを決めたのです。

6月27日・・・顔を合わせた4人・・・張り詰めた空気の中、話し合いの口火を切ったのは柴田勝家でした。

「上様親子を突然に失ったのはまことに口惜しいことだが、新しい天下人を定め、上様と仰ぎ奉るがよかろう」

こうして、織田家の後継者選びから話し合うことになりました。
ところが・・・誰一人口を開きません。
相手を伺っているようでした。
そこにはそれぞれの思惑がありました。

この時後継者候補となり得たのは、信長の次男・織田信雄、信長の三男・織田信孝、信長の孫(信忠の嫡男)・三法師でした。

①織田信雄
この時、25歳!!
信長の長男の信忠と同じ母から生まれた嫡流の子でした。
しかし、信長の伊勢攻略に利用されます。
伊勢国・北畠具教を取り込むために.、養子に・・・。
それ以後、信雄は北畠を名乗りながらも信長・信忠と共に戦に参加。
戦歴だけは重ねるものの・・・今一つ。
信長の死後、安土城に入ります。
安土城は五層七重の天主閣を持つ当時最大の城です。
信長が天下取りの夢を馳せた居城でした。
ところがこの城が、信雄が入った直後に炎上し、灰になってしまいました。
ルイス・フロイスの報告やイエズス会日本年報に書かれている「信雄が放火した」という説が現在では有力視されています。
そんなこともあってか、信雄は家臣団からの評判も悪く、清須会議の前には後継者争いから外されていました。
織田家の後継候補は、信長の三男・信孝と、孫・三法師の二人に絞られていました。

②織田信孝
信孝は、信雄とは異母兄弟でこの時25歳。
母親の身分が低く、信長から冷遇されていたせいか、記録は殆どありません。
歴史上、その存在が顕著になるのは信長が伊勢攻略の際、抵抗の大きかった有力豪族・神戸具盛のもとに養子に・・・。
その後、武功をあげるも信長の扱いは変わらず、信孝は不満を募らせていきました。
それを知ってか、信長は信孝を四国派遣軍の総大将に抜擢!!
大坂に入った信孝は、そのチャンスをものにしようと準備に精を出していました。
そこに本能寺の変の報せが・・・。
信孝はすぐに備中高松から戻った秀吉と合流し、山﨑の戦いで明智光秀を破り、見事、父と兄の仇を討つのです。
当時の人々も、父と兄の仇を討った信孝が後継者に相応しいと考えていました。
来日していた宣教師たちも、キリスト教に理解のある信孝を後継者に望んでいました。

③三法師
信長の長男で織田家当主となっていた信忠の嫡男です。
血筋的には最も有力でしたが、この時まだ3歳でした。

信孝か三法師か・・・??

・・・??張り詰める空気の中、遂に勝家が・・・

「信孝様こそお年頃といい、その利発さといい、まことに天下人として適任この上ない人物と存ずる」

信孝を、織田家の後継に挙げたのです。
しかし、それは表向きの理由・・・勝家には思惑がありました。
勝家が清須会議の開催を呼びかけたのは、信長の敵討ちで秀吉に後れを取ってしまった汚名を返上するためです。
会議をリードすることで、織田家家臣筆頭という立場を周囲に示そうと考えたのです。
そしてその立場を盤石にするためには信孝を後継者にする必要がありました。
勝家は、信孝の成人の際の烏帽子親で、信孝とのつながりが強かったのです。
勝家は、信孝を織田家の後継者にし、自分が中心となって織田家を支えていこうと考えていました。

事実上天下を掌握するのは誰・・・??

「勝家殿の意見はごもっともだが、ここは筋目から言ってもご嫡男を擁立するのが道理・・・
 信忠さまにれっきとした若君がおられる以上は三法師様をお取り立てるのが当然かと存ずる」

秀吉は、勝家が信孝の後ろ盾として前面に出てくることを避けようと考えていました。
勝家に対抗する候補を擁立しようといました。
何よりも血筋を重んじる時代だったので、信忠の後継者を決める会議となると、信忠の血をひく三法師がいる限り、家督相続者は三法師以外ありえませんでした。

宿老の勝家に対し、強気の秀吉・・・
秀吉には、明智勢討伐の実績があったからです。
光秀討伐の功績に伴う発言力は大きいものでした。
秀吉の思惑は・・・??
成人した信雄、信孝が織田家を継ぐと、その家臣として仕えなければなりません。
幼少の三法師であれば、自身の傀儡にすることができると考えたのです。

自分よりも各下で足軽からの成り上がり者の秀吉の態度に、勝家は顔に出さないもののはらわたが煮えくり返っていました。
武将として優秀な信孝を推す勝家に対し、筋目を理由に三法師を推す秀吉・・・。
真っ向から対立する二人を前に、会議は膠着状態に・・・
勝頼と同じく織田家古参で秀吉を嫌っていた丹羽長秀が・・・
「そうじゃな・・・秀吉の申すことは正論。
 三歳とはいえ三法師様が後を継がれるのが筋目であろうな。」

どうして長秀は秀吉に味方したのでしょうか?

秀吉の器量を認める長秀・・・。
丹羽家を守るためには、勝家と秀吉のどちらに味方した方が良いかを見極め、秀吉を選んだのです。
長秀の援護射撃で、会議は一気に秀吉に傾きます。
ところがとうの秀吉は・・・席を立ってしまいました。
これも秀吉の作戦で、秀吉が立った間に長秀、恒興も勝家を説得・・・。
「弔い合戦に間に合わなかったお前の出る幕はない」という勝家への直言を秀吉がすると角が立つからです。
わざと退席し、長秀に言わせたのです。
こうして三法師が後を継ぐこととなります。
清須会議の前、秀吉は信長の妹で浅井長政に嫁いでいたお市と勝家の再婚話を進めていました。
高嶺の花であるお市との縁談を持ちかけることで、会議前に勝家に恩を売っていたのです。

また違う見方も・・・
それは、そもそも「川角太閤記」は、秀吉の天下人への台頭を前提とした歴史観によって書かれたものだからです。
三法師が後継者に選ばれたのは、秀吉が擁立鹿からではなく、会議の前から決まっていたという説です。
血筋が重要視されていた当時ならば、三法師がすんなりと跡継ぎになっていたはず・・・。
そのために、会議では後継者はすぐに決着。
別のことが議題に・・・・
信雄・信孝は、織田家当主の座を争っていたのではなく、どちらが三法師の名代になるかを争っていたのです。
議論は紛糾・・・
次男の信雄を名代とすれば、血筋は大事にされるものの・・・
信長と信忠の仇討の功績のある信孝は・・・??
信孝のもとで活躍した家臣たちも不満が・・・。
信孝を名代とすれば、血筋が軽んじられる・・・となると、三法師を血筋で選んだことにも異議が生じます。
どちらを選んでも、不都合が生じることに・・・
そこで4人が出した答えは・・・三法師様に家督は継承させるが、信雄様、信孝様のどちらも名代にはしない・・・でした。
その代わりとして、三法師の世話役の傅役を置くことに・・・。
その傅役は、三法師が治める直轄領の代官に就任した堀秀政でした。
そして三法師は、居城である安土城が修理の間、信長の三男・信孝の居城である岐阜城に・・・信孝が後見人となったのです。

謀反人・明智光秀の所領を含む560万石の遺領分配は・・・??
織田家の血縁者たち・・・光景に決まった三法師は、近江の国一郡と安土城を。
次男・信雄は本領の南伊勢に加え尾張国と清須城を。
信雄は、織田家の父祖の地である尾張国と信長ゆかりの清須城を与えられたことで、あっさり受け入れます。
信孝には、本領の伊勢神戸に加えて、美濃国と岐阜城を分配することに・・・。
信孝はこれを不満に思うも、父信長の天下布武の根拠であった岐阜城を譲り受けること、自身が三法師の後見人となったことで、しぶしぶ承知しました。

会議に参加した織田家家臣4人は・・・??
池田恒興は、摂津国池田・有岡に加え、同じ摂津国の尼崎・兵庫・大坂を。
丹羽長秀には、若狭国に加えて近江国二郡と坂本城を。
羽柴秀吉には、播磨国に加えて丹波国・山城国・河内国を。
ただし、本領だった近江国三郡を手放すことになります。
その近江国三郡を本領の越前国に加えて手に入れたのが柴田勝家です。
これによって、秀吉の居城・長浜城も勝家のものとなりました。
どうして秀吉は、長浜城を勝家に譲ったのでしょうか?
勝家が所望したのか?秀吉から譲ったのかははっきりとはしていません。
しかし、家督問題で主導権を秀吉に握られ、信雄擁立に失敗した勝家にとっては、せめて遺領配分の県は自分の言い分を通したと考えます。
秀吉は、これ以上勝家を刺激しないように、自分の本拠地の割譲と、居城の譲渡という大幅な譲歩をし、プライドの高い勝家のメンツを立てたのです。
長浜城を手放すことになった秀吉の居城は、播磨国の姫路城となりました。
秀吉は、山崎の戦いの戦場にもなった天王山に山崎城を築城することにしていました。

そして、三法師が織田家当主となったこと、山城国を押さえ京都を手中にしたことで、天下を手中に収めるという構想が出来上がっていました。
長浜城を手放すことぐらい、痛くもかゆくもなかったのです。
この時、山城国を押さえて京都を手中にしたことが、後の天下統一への足がかりとなったのは、歴史が証明しています。

ところが・・・半年後、秀吉が長浜城を攻めます。
勝家の養子柴田勝豊が守っていましたが、あっけなく降伏・・・
もともと秀吉の城・・・攻め方はわかっていたでしょう。
そして季節は冬に・・・越前に帰っていた勝家が、すぐには動けないことをわかっていたのです。
1583年、秀吉と勝家は賤ケ岳の戦いで戦います。
敗北した柴田勝家は、その二日後に自害・・・!!
秀吉は1590年、天下を統一します。

清須会議の後織田家はどうなったのでしょうか?
武将として器量なしと言われていた信雄は、秀吉についたり、家康についたりと日和見で・・・。
しかし、最後は幕府をひらいた徳川家から、大和国宇陀松山藩2万8000石を与えられ、大名となり血を繋ぎます。
対照的な信孝・・・
秀吉と敵対し、勝家と共に賤ケ岳の戦いに臨みます。
しかし、敗れて降伏・・・切腹を命じられます。
信孝辞世の句は・・・

昔より
  主をうつみの
      野間なれば

報いを待てや
      羽柴筑前

信孝は秀吉への凄まじい怨念を抱いたまま切腹!!

織田家当主となった三法師は、元服して秀信となります。
その後、美濃国を与えられますが、秀吉の身内の扱いを受け、天下分け目の関ケ原では秀吉の西軍についたことで敗北・・・
家康によって改易となり、高野山に追放されます。
再び歴史の表舞台に出てくることはありませんでした。
1605年、26歳の時、静かにこの世を去ります。

天下を決めた清須会議の結末でした。

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京都・大徳寺総見院には織田信長の木像があります。
秀吉が直々に作らせたものです。

この像には、秀吉の天下への野望が秘められていました。
1582年6月2日未明・・・本能寺の変!!
天下統一目前の織田信長が、明智光秀の謀反によって自刃!
紅蓮の炎に包まれた信長でした。が、その後、信長の遺体は見つかりません。
葬儀を行うことが出来ない・・・!!
これを逆手に取った秀吉は、天下への道を進みだしました。

信長亡き後跡取りを決めるための清須会議で、秀吉は柴田勝家を退け、会議の主導権を握ったと言われてきました。
しかし、きわめて不利な状況に追い込まれていたと思われます。

家督を継ぐことになったのは、秀吉が推したわずか3歳の三法師。
ところが会議の後、三帽子の身柄をおさえたのは柴田勝家でした。
織田家の正当性は勝家に握られてしまいました。
秀吉が起死回生の一手として行ったのが、信長の葬儀だったのです。

しかし、葬儀を挙行するためには喪主は誰にすればいいのか??
大問題です。
喪主の候補者は二人・・・信長の次男・信雄か、四男・秀勝か??
秀吉の決断とは・・・??
その度肝を抜く前代未聞の葬儀・・・。
もう一つの天下争奪戦に迫ります。

天下をとるためには、信長の葬儀をしなければならない・・・!!

本能寺の変で織田信長がこの世を去りました。
その頃、織田家家臣たちは、各地で天下統一に向けてまい進していました。
信長討たれる・・・それは、中国を攻めている秀吉にとっては天下を狙う絶好の機会となりました。
秀吉は毛利と和睦を結ぶと、わずか2日で本拠地・姫路に帰還!!
中国大返しです。

本能寺の変から12日後、山崎の戦いで、逆臣・明智光秀を破り、弔い合戦に見事勝利をし、後継者レースに名乗りを上げました。
山崎の戦いから2週間後、織田家ゆかりの清須城で、清須会議が行われました。
出席者は羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興といわれています。
その中で最大のライバルとなるのが、織田家筆頭家老・柴田勝家でした。

織田家の家督は誰にするのか?
信長の領地をどう配分するのか?

長男・信忠は討ち死に・・・あとの三人の息子たちが候補でしたが・・・。
勝家は三男・信孝を推挙、勝家は信孝の烏帽子親で後見人でした。
信孝が継げば・・・勝家に天下が転がり込むかも・・・??

秀吉が推挙したのは、以外にも亡くなった長男の息子・三帽師でした。
生前信忠は、すでに信長から家督を譲られていました。
三歳とはいえ・・・三法師が筋目が正しい!!
三法師なら意のままにできる!!

清須会議は秀吉主導で行われたとされていますが。。。

秀吉の筋書き通り、あとを継いだ三法師。
叔父の信孝は、三法師を貢献すると、岐阜城に留め置きになります。
勝家側に身柄を抑えられてしまったのです。

さらに秀吉を不利にしたのは・・・勝家が信長の妹・お市を娶ったことです。
お市の方と三法師、そして信孝・・・織田家の正当性は、勝家の手の中にありました。

料理問題も予断を許しません。
秀吉は畿内を中心にしているものの、勝家にまわりを押さえられていました。
勝家は、四国の長宗我部、紀州の雑賀・根来を糾合し、反秀吉を掲げていました。
そして、長浜・・・秀吉が築いた町でしたが、清須会議で勝家の領地となっていました。
長浜は、勝家にとっては死活問題にもなる場所・・・
長浜が決戦の地となることは解っていたのです。

1582年9月11日勝家は京都・妙心寺で信長の百箇日法要を行います。
施主はお市の方。
信長につけたられた戒名は・・・天徳院殿。。。
その翌日、秀吉は京都大徳寺で百箇日法要を行います。
施主は、秀吉の養子となっていた信長の四男・秀勝です。

秀吉側は、別の戒名・・・総見院殿をつけ、対抗心をあらわにしました。
終始後手に回っていた秀吉・・・劣勢が続けば、味方も勝家側についてしまう・・・!!

起死回生の一手を講じます。

秀吉が目をつけたのが、信長の葬儀でした。
それまで葬儀が行われなかったのは、本能寺から信長の遺体が発見されなかったからです。
信長の死にはいくつもの話が残っており、墓も各地・・・十七か所にあります。
信長の京都にある菩提寺・阿弥陀寺には、信長・信忠の墓があります。
こちらは遺体を供養するのは当然です。

勝家は葬儀をするつもりはなかったのでしょうか??
百箇日はした。遺体もないし、常識的に葬式は出来ないと考えていたのでは・・・??

正当性を生み出すために、秀吉が行った信長の葬儀・・・
百箇日法要の6日後、織田家重臣・丹羽長秀と会談。
葬儀への協力を要請したようです。
劣勢は挽回できるのでしょうか・・・??
しかし、そこには難題が・・・!!
誰を喪主にたてるのか??
基本的には後継者が喪主・・・跡継ぎなのですが。。。

信孝は勝家側、三法師も勝家の手の中に・・・
残るは次男・信雄と四男・秀勝ですが。。。
信長の葬儀を行うことで天下の道をひらこうとする秀吉ですが・・・

①四男・秀勝
秀吉の養子となった秀勝なら葬儀は思うまま・・・。
しかし、そこには問題が・・・清須会議の際、秀吉は・
「筋目が立てば、下々の者に至るまで不足はない」
と・・・筋目が不可欠と主張していました。
自分の・・・羽柴家の跡取りとなっている秀勝を喪主にしては、筋目が立たない・・・。

②次男・信雄
筋目は立つ!!&勝家とは仲が良くない。
自分の味方となって喪主になってくれるはず。
清須会議の後、信雄は尾張の国主となっていました。
本来なら織田家の家督を継いでもおかしくないので、正当性はあります。
しかし、信雄には問題がありました。
武将としての力量が劣り、織田家の重臣からも疎んじられた存在でした。
そして、信雄が、本能寺の変の際に安土城を炎上させたという噂もありました。
御しやすいが・・・筋目が立つのでいずれは天下取りの敵になるかも知れない・・・!!

事実、信雄は「威加海内」の印を使い始めます。
天下に自らの威を示すという意味で、「天下布武」を模したものでした。
将来、信雄と戦うことになれば・・・”主殺し・逆賊のそしり”を受けることは免れません。
明智光秀の二の舞に・・・??

どうるる・・・・秀吉??

本能寺の変から4か月後・・・秀吉は、喪主に秀勝を立て信長の葬儀を挙行することに決めました。
”信長様は、秀勝を猶子(養子)として下された
 従って、秀吉は信長さまの縁者に等しい
 葬儀をしないわけにはいかない

 今葬儀をしなければ、今後どういった状況の変化があるか分からない”

対する勝家は、非難の書状を送ります。
”四方には、織田家の敵があるという
 内輪もめをしている時ではない
 軍事行動は控え、四方の敵に当たるのが本筋である
 一体誰を敵として こういうことをやろうというのか”

勝家に備え、秀吉は葬儀の警護兵を配置・・・その数2万~3万!!

一方、遺体がないという難問はどうするのか・・・??
秀吉は、等身大の信長像を二体造り・・・一つは大徳寺・・・もう一体は香木で作り、遺体の代わりに棺に納めました。
1582年10月15日、信長の葬儀を、京都大徳寺で挙行!!
これは、前代未聞の葬儀となります。
金砂金襴で造られた棺・・・その中に納められたのは、香木で作られた木像・・・
荼毘に伏された時、都中に香木の香りが立ち込めました。
秀吉か、勝家か、どちらに??・・・しかし、家臣たちはこの葬儀に参加せざるを得ません。
棺の後ろには、位牌を持つ秀勝、その後ろには秀吉が・・・行列は三千人、僧侶の数は宗派を超えて数え切れず・・・見物客は、雲霞のごとしでした。

この時の戒名は・・・”総見院殿贈大相国一品泰巌大居士”・・・
大相国とは太政大臣のことで・・・朝廷からも認められたという証でした。

”見せる儀礼”が秀吉の狙いだったようです。
七日に及んだ葬儀・・・一大イベントにすることで、野心を公けにした秀吉・・・
勝家との決戦は時間の問題でした。

おまけに・・・この一大イベントで京都の人々は、臨時収入を得られる人もたくさんいました。
京都に好景気をもたらしていきます。
庶民には秀吉さまならば!!という雰囲気が・・・!!

葬儀から3日後・・・秀吉の敵対する信孝に向けた書状には・・・
”葬儀のことについて信孝たちに申し上げたが、とかくの返事もなく、勝家など老臣たちも葬儀を営む沙汰もないので、天下の外聞いかがと思い 身分に叶わぬ葬儀を秀吉が行った”
それは。。。葬儀に参列しなかった勝家側に対するあからさまな挑発でした。
信長の葬儀に参列することで・・・あいまいだった立場を持った武将たち・・・丹羽長秀、池田恒興ほか・・・は、秀吉に着くことがはっきりと解ります。

10月15日・・・葬儀の時期は、そろそろ勝家の越前は寒い冬の時期になろうとしています。
大規模な軍を動かすことのできなくなる頃を狙ったのかもしれません。
葬儀の2か月後・・・12月7日勝家の予想を上回る速さで兵を挙げます。
勝家側の長浜城を奪取、岐阜城へ信孝を攻撃!!
遂に、秀吉は三法師を手中に収めることができました。

1583年3月9日・・・これまで雪に閉ざされていた越前から勝家が出陣!!
賤ヶ岳付近であいまみえます。
1か月のにらみ合いの中・・・勝家側の滝川一益と信孝が兵を挙げます。
秀吉は、2万の兵を裂いて岐阜へ向かいました。
背後から勝家軍に挟まれれば・・・??
勝家軍は追撃を始めますが。。。
岐阜へ向かった秀吉軍は、中国大返しの如く52㎞の道のりを、5時間で帰還!!
勝家軍を討ち果たしたのです。

賤ヶ岳の戦いは、秀吉軍の圧勝に終わります。
勝家とお市の方は北ノ庄城で自刃!!
信孝もまた切腹して果てるのです。
ライバル勝家を倒し、天下人への道を上り詰めていく秀吉。。。
遂に、その野望を成し遂げるのです。

秀吉の栄光の影で、葬儀の喪主を務めた秀勝は、葬儀の3年後に病死。
三法師は、後に岐阜城主となるものの・・・26歳でこの世を去りました。
秀吉の野望に翻弄された短い生涯となりました。

天下人となった秀吉は、1598年8月18日62年の生涯を閉じるのです。
その夜、秀吉の遺体は密かに運び出されます。
朝鮮出兵など・・・時代は、天下人の死を公表することを許しませんでした。
秀吉の最期は、盛大な信長の葬儀を挙行した天下人には似つかわしくないものでした。


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織田信長に仕えた大物家臣といえば・・・
柴田勝家と丹羽長秀です。
秀吉が姓を名乗るときに、この2人にあやかって、”羽柴”秀吉と名乗ったのは有名な話。

信長が、浅井長政を討ち滅ぼした時、朝廷の許可のもと部下たちに官位を与えました。
秀吉は”筑前守”、明智光秀は”日向守”、勝家は修理亮、滝川一益は”左近将監”、荒木村重が”摂津守”で・・・
長秀には越前守を与えようとしました。
すると・・・長秀は、今までどおりでいいと言い張って、さすがの信長も折れる他なかったとか・・・。
長秀は、忠実であったものの融通の利かない頑固者でした。

織田家臣のなかでの出世頭はもちろん”秀吉”。
勝家はそれを快く思わず敵意むき出しのバチバチ状態でしたが、長秀は秀吉を庇う立場をとります。
なので、信長の死後も、長秀は秀吉に味方しています。


1582年6月の本能寺の変後、秀吉は信長の敵・光秀を討つべく中国大返し!!
同じころ、四国征伐に備えて摂津・住吉の浦にいた長秀は、途中で秀吉軍と合流しています。

清州会議も、秀吉と勝家の権力争いの場になりましたが、長秀は秀吉と同じく信長の嫡孫・三法師を推しています。

でも・・・秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家を破ってから、丹羽家に陰りが見え始めました。
天下をとった秀吉に・・・下僚だった秀吉に臣従しなければならなくなったのです。
さらに・・・秀吉は、信長の三男・信孝を自害させ、小牧の戦いでは次男・信雄を攻撃しました。

怒った長秀は、越前府中の居城に籠もり、秀吉の招きに応じなくなります。
長秀にとっては織田家は主家。。。その主家の子供を次々と手にかけ、天下取りに突き進む秀吉に我慢ならなかったのです。

そのうち長秀は、持病が悪化し床に臥せるようになりますが。。。
1585年4月に突然病床で自害します。
勝家のように秀吉と戦うこともできず、前田利家のように従うこともできず・・・
自害は長秀の最大の抵抗だったのでしょう。

長秀は、腹を切り開き病巣を抉り出し・・・
握りこぶし大だったその病根を遺書と共に秀吉に送らせたと言われています。
秀吉も腰を抜かしたことでしょう。

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1582年6月27日・・・
歴史を動かす会議が・・・!!
柴田勝家VS羽柴秀吉!!

織田信長を継ぐ天下人の戦いでした。
世にいう清州会議。。。

本能寺で斃れた信長の後継者を決める会議です。

自分に有利な後継者を拝し、天下の実権を握ろうとする秀吉・・・
それを阻止しようとする勝家の戦いでした。

清州会議の資料は残っていません。
しかし、これが秀吉の天下取りの足掛かりとなりました。
戦国時代にあって・・・戦いではなく会議で天下が決まっていく!!
まさに、ターニングポイントでした。

会議は調略とも言えます。
気を見るに敏な秀吉は、そのような能力に長けた人。。。
交渉の天才で、計画を立てタイミングを逃さない・・・そんな人でした。


huji
一代で天下人となった秀吉・・・
秀吉の陣羽織には、背中に黄金の富士山が書かれています。
”富む武士”と書かれてあるのです。
江戸時代までは・・・”不二”二番ではない=№1・・・”不死”死なない・・・
戦場で富士山の陣羽織を背負うことで自分は№1であって死なないということを想っていました。
自分こそが天下人だ!!

しかし、その出自は貧しい農民でした。
足軽から織田家重臣へ!!
天下を意識したのは・・・1582年。
あの本能寺の変でした。

天下統一を目前にした信長が、明智光秀に討たれてしまいました。
当時織田軍団は、方面軍として地方で・・・それぞれの敵と戦っていました。

中国方面軍司令官羽柴秀吉・・・
織田家最大の敵・毛利と戦っていました。
秀吉は信長の死を知るやすぐさま毛利と講和を結び、すぐさま光秀討伐に・・・中国大返しをします。
本能寺の変からわずか11日で”山崎の合戦”を!!

兵力に勝る秀吉軍は、光秀軍を圧倒!!
光秀も絶命しました。
主君の仇討ちを果たし、一躍歴史の表舞台に出て来た秀吉。。。
しかし、その前に立ちはだかった男が・・・!!!
織田家筆頭家老・・・鬼柴田こと柴田勝家でした。

柴田勝家は、今の福井市に当たる越前・北ノ庄に本拠を置いていました。
信長の父の代から仕えていた勝家・・・古参の重臣として戦場で数々の武勲を立てていました。
信長から拝領した北の地を終の棲家にしようと思っていた柴田勝家。
織田家に対して特別な思いがありました。
”織田家”というものに忠義をもっている古い形の武将だったのです。
常に織田家を第一に考えていた勝家。
勝家は・・・上杉と戦っていました。
そんな勝家に本能寺の知らせが・・・!!
勝家は、それぞれの土地を守ることが織田家の安泰につながるとして、北陸から動かなかったのです。

そんな勝家を出しぬき・・・明智討伐の最大の功労者となった秀吉。。。
焦った勝家は、織田家の家臣に向け書状を書きます。

「談合申したいことがある。。。」

信長の後継者を決める会議を自ら申し出たのです。
会議の場は織田家ゆかりの”清州城”。

本来ならば、信長の家臣の自分は筆頭だと思っていました。
しかし、秀吉に先を越されてしまった・・・
だからこそ、清州会議の呼びかけ人になることが必要だったのです。
”遅れを挽回したい!!”

本能寺の変で長男・信忠は討ち死に・・・
勝家が担いだのが信長三男・信孝。
名目上の総大将を務めるなど、家臣たちの評判も高くありました。
烏帽子親は勝家でした。
信孝を据えて・・・後見役となることで織田家の実権を握ろうとしました。
さらに強力な援軍は・・・お市の方。。。
この頃、勝家はお市との婚儀が約束されていました。
三男・信孝とお市。。。勝家の地位は盤石と思われました。

対する秀吉は・・・
明智討伐の勢いをもって・・・乾坤一擲の勝負に出ようとしていました。
明智討伐・・・それは織田家として闘ったのであり、まだまだ秀吉は安泰ではなかったのです。
風が吹いているうちに・・・戦後外交で何とかしなければ・・・!!

信長亡き後の織田家のリーダーを決める”清州会議”
信長の子どもは11人・・・成人しているのは、三男・信孝と次男・信勝でした。
ふたりは兄弟仲が悪かったのです。

信孝はあまりにも柴田勝家とべったりしている・・・
信孝が織田家の跡目を継げば・・・後見役として柴田勝家の株があがってしまう。。。
そうなると自分の出る幕はない!!

とすれば・・・次男・信勝。。。
序列的にも第1位・・・側室の子である信孝に比べ、正室扱いされた母親の子・・・正当性は申し分ない!!
これなら織田家中の実権を握れるかもしれない・・・!!
しかし・・・信勝では他の家臣が納得しない・・・???
信勝は、戦場では家臣たち評判が良くなかったのです。
最大の失態は・・・
明智の残党狩りで放った火で、安土城天守を焼いてしまったのです。

もう一人の後継者・・・!!
信忠の子であり信長の孫である・・・3歳の三法師です。
三法師なら、傀儡政権となり、自分が実権を握れるかもしれない・・・!!!
しかし・・・戦国の世で3歳の子の擁立に家臣が納得する???

天正10年6月27日清州会議当日・・・
参加メンバーは・・・4人。
丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興・柴田勝家。
古参の幹部の丹羽長秀・・・織田軍団の実務責任者でした。
池田恒興・・・信長の乳兄弟としての参加でした。

信孝を推す勝家・・・三法師を推す秀吉。。。
三法師意外だと、秀吉に出る幕はなく・・・
この清州会議から天下取りの野望が徐々に芽生えたのではないかと思われます。

能力と信望の厚さから信孝を推す勝家。
血筋から跡目を主張する秀吉。。。
座は沈黙していたものの丹羽長秀が・・・
「秀吉の申すことは筋目が通っていて正論である。」
と言ったのです。

この発言に続くものはなく・・・
秀吉は、持病の痛風が出たとして退席してしまいました。
会議半ばにして中座・・・

秀吉不在のまま会議は進みます。

「上様が本能寺で亡くなった時、秀吉は中国から3日と休息せずにただちに京都に入り、見事亡き信長さまの仇を討ったではないか。。。
勝家殿もすぐに北陸から戻っていれば、光秀の2,3人は踏み潰すことが出来たであろうに。。。
油断なされたな・・・!!」by長秀

返事に窮した勝家は・・・三法師に納得するのでした。

丹羽長秀は、どうして秀吉側についたのか???
それは、本能寺の変の直後にありました。
本能寺の後の明智光秀軍は1万6千人。
丹羽長秀は四国攻めのための準備をしながら大坂にいました。
明智討伐の絶好の機会であったのに・・・その兵の数は3千人。。。
わずかでした。
秀吉の4万人に加えてもらうことで、何とか主君の仇討ちが出来たのです。
長秀は・・・秀吉の力を目の当たりにしていたのです。
新しい時代を見据えて・・・秀吉と長秀は手を結んでいたのかも知れません。

清州会議では・・・織田家の領地配分に関しても話し合われました。
秀吉が領地を増やす一方・・・丹羽長秀、池田恒興も加増。。。勝家も秀吉の治めていた近江・長浜を手に入れました。きめ細やかな配慮で秀吉は清州会議を乗り切ったのです。

三法師を盛り立てていくことで決まった清州会議。。。
ところが会議から4か月後・・・秀吉と勝家の対立が決定的となります。
大徳寺で行われた信長の葬儀・・・実質的に喪主を務めたのが秀吉だったのです。
秀吉は勝家の同意を得ずに・・・数百人の僧で17日間に及び盛大に葬儀を執り行いました。

”信長を一番慕っているのは私だ!!”

天下取りの布石を着々と築いていく秀吉。。。
織田家を守ろうとする忠臣勝家・・・。
両人は、遂に賤ヶ岳で戦います。
戦場には・・・秀吉と長秀の姿がありました。

大軍で包囲する秀吉に対し、北ノ庄に追い詰められた勝家の家臣は80人。。。
天正11年4月24日。妻・お市と共に自害するのでした。

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その壮絶な最期を描いたのがこの画です。
返り血を浴びて・・・しかし、目はただ一点を見据えています。
戦国乱世を織田家の忠義に生きた武将・柴田勝家と共に・・・一つの時代が終わりました。

秀吉は・・・信長が亡くなってから1年とたたずに勝家を滅ぼし、天下へ。。。
そのもっとも重要な布石となったのが、清州会議でした。


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