日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:上杉景勝

今まで大河ドラマに登場した戦国武将の登場回数ベスト3は・・・??

①徳川家康・・・21回
②織田信長・・・17回
③前田利家・・・17回

4位の豊臣秀吉を抑えてランクインしたのが前田利家です。

下剋上はびこる乱世に終止符を打つべく、天下統一を目指した織田信長と豊臣秀吉・・・
前田利家は、その二人に仕え、彼らの偉業を陰で支えた人物とされています。
そんな利家の人生には、4つの転機がありました。




①信長に仕えていた23歳の時

信長か、他の大名か??
尾張国の豪族・前田家の4男として生まれた利家は、15歳で織田信長のそばに仕える近習として召し抱えられます。
その信長の家臣時代の同僚には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)がいて、同い年の2人は終生の友となります。
前田利家の身長は、180センチ以上もあったといわれ、かなりの大男でした。
端正な顔立ちをした若き日の利家は美男子でしたが、派手な拵えの槍をひっさげ闊歩する傾奇者で、けんかっ早い事で有名でした。
気性の粗さと腕っぷしで、戦で数々の武功を上げていきましたが・・・
23歳の時、窮地に陥ります。
発端は、信長が寵愛する茶坊主・拾阿弥が、利家の笄を盗んだことでした。
けんかっ早い利家は、怒りのあまり信長にこう願い出ます。

「拾阿弥は盗人でございます
 あ奴をたたっ斬ることをお許しください」by利家

当然信長は許可しませんでしたが・・・
利家はあろうことか信長が見ている前で、拾阿弥を斬り捨ててしまいました。
これに信長は大激怒!!
利家は、織田家からの追放を言い渡されます。
妻・まつとの間に子供が生まれたばかり・・・
それなのに、利家は、牢人の身となってしまいました。

利家は、食い扶持を稼がなければならず、信長とは別の主君に仕える道もありました。
利家が選んだのは、信長に再び仕えることでした。
利家が追放された翌年・1560年5月・・・
織田信長は、駿河の今川義元と激突!!
桶狭間の戦いです。
織田家がのし上がっていくために、重要な一戦でしたが、利家はその戦に、信長に断りもなく、単独で参戦しました。
武功さえ上げれば処分が解かれると考えた利家は、決死の覚悟で戦い、敵将の首を3つも討ち取りました。
恐る恐る信長にその首を差し出しましたが・・・信長は見向きもせずに利家を無視しました。

それでもあきらめきれない利家は、粘り強く機会を伺い、1年後、美濃の斎藤龍興との戦いに、またも無断で参戦しました。
この戦でも、首とり足立と恐れられた敵将・足立六兵衛などの首2つを討ち取ります。
すると、信長はようやく利家の帰参を許しました。
牢人の身となって、2年の歳月がたっていました。



②本能寺の変で信長が非業の死を遂げた翌年47歳の時

勝家か?秀吉か??
1582年、京都・・・織田信長は、家臣の明智光秀の謀反により、本能寺で自害に追い込まれました。
光秀は、織田家の他の家臣が出払っている隙に蜂起したと言われています。
この時、羽柴秀吉は毛利方が立てこもる備中高松城を、そして前田利家は柴田勝家らと共に上杉方の越中魚津城を攻略中でした。
その為、利家が信長自害の報せを聞いたのは、しばらくたってからのことでした。
本能寺の変の4日後のことでした。

利家は、勝家や佐々成政らと相談の上、自らの領地である能登に帰ることになります。
かつて能登国を支配していた畠山家の旧臣達が、利家が支配する能登国を奪い返そうと動き出していたのです。
京都の光秀を討つための軍勢を差し向けるのは、難しい状況でした。
身動きの取れない利家らに代わり、秀吉は電光石火の早業で備中から京都に戻ると山崎の戦いで光秀の軍勢を打ち破り、信長の無念を晴らしたのです。

本能寺の変からほどなくして、尾張の清州城に織田家の家臣たちが集まります。
そこで、織田家の跡目を誰にするかなどが話し合われましたが・・・
秀吉らが信長の孫である三法師を跡目に推したのに対し、勝家らは信長の三男・信孝が相応しいと主張。
両者譲らない中、結局秀吉が強引に押し切ります。
その後も、秀吉が信長の葬儀を取り仕切るなど、まるで自分が信長の後継者であるかのように振る舞ったため、織田家の重鎮である柴田勝家は秀吉に対し不満を募らせていきました。

勝家と秀吉の対立によって、どちらにつくのか・・・利家は選択を迫られます。
この時、利家は、与力大名として柴田陣営にいました。
しかし、秀吉は、家族ぐるみで付き合う無二の親友でした。
さらに、利家の四女・豪が、秀吉の養女となっていました。
どちらにも近しい利家は、和睦させようと上洛し、秀吉と交渉します。
しかし・・・徒労に終わりました。

信長の仇を討った秀吉と、織田家の重鎮の勝家・・・。

こうして、1583年、近江国・・・勝家と秀吉は、賤ケ岳で相まみえることになります。
利家が選んだのは・・・柴田軍として戦う・・・!!
勝家の与力であった利家が、武士として勝家方につくのは当然のことでした。
しかし・・・羽柴軍の勢いに押され、やがて柴田軍が総崩れとなると、利家は近江から撤退し、息子・利長の領地・越前府中へ逃げ延びます。
そして、翌日、羽柴軍の追手がやってくると、利家は降伏し、そのまま羽柴軍と共に勝家のいる越前・北ノ庄へと進軍します。
秀吉と共に、勝家を自害へと追い込みます。

下剋上の世、戦国時代にあって、大出世を遂げていった前田利家・・・
その裏には、妻・まつの尽力があったと言われています。
能登の末森城が、佐々成政によって攻められた時、利家は戦費がかさむことを懸念し、援軍を送ることを渋っていました。

「家臣ではなく、金銀を召し連れて槍をつかせたら??」byまつ

自分の家臣の命よりお金に執着する利家を痛烈に皮肉ります。
ようやく利家は援軍の派遣を決断します。
この戦での勝利が、秀吉の北陸制覇の大きな一歩になったと言われています。

こうしてまつの内助の功を受けながら、盟友・秀吉を支えていく存在となっていきます。

1585年、羽柴秀吉は関白に任ぜられ、豊臣姓を賜り、ここに豊臣政権が誕生します。
秀吉は、京都に豊臣政権の本拠地・聚楽第を造営。
その周辺には、諸だぢみょうの屋敷が置かれ、利家は1年の大半をここで過ごし、秀吉のために働いていきます。
秀吉も、そんな利家を信頼していました。

1587年、秀吉自ら九州平定へ出陣。
留守居として京都を守ったのは利家でした。
実直な働きぶりと、気心の知れた安心感・・・諸大名の中にあって、利家の存在は秀吉にとって特別なものでした。
しかし、2人の関係を脅かすことが一度だけありました。

1590年小田原攻め・・・
上洛の求めに応じない、北条氏政・氏直親子を討つため、秀吉は諸大名を動員し、自らも小田原へと攻め込みます。
利家は、越後の上杉景勝と共に別動隊を編制。
北陸から南下し、北関東に陣取る北条勢力を討ち取るよう秀吉に命じられました。
利家らは、上野国の松井田城、武蔵国の鉢形城などを落としていきました。
しかし・・・利家が、秀吉の怒りを買ったのは、この頃のことでした。

従来の説によると、降伏した北条方の武将を助命するなど、利家の戦い方の甘さに秀吉が不満を持ったからだと言われています。
しかし・・・一緒に戦っていた上杉景勝や息子の利長も連座しているはず・・・
しかし、そんな形跡はありません。
そして、秀吉からとがめられた後も、軍事行動を行っています。
利家に政治的な落ち度があったのではなく、感情的なもつれ、意思疎通の問題など、小さな揉め事の可能性があります。
一説に、ある大名が、利家に関してありもしないことを秀吉に告げ口したことで、秀吉が真に受け怒ったと言われています。
それは、秀吉と利家の仲の良さを妬んでのことだったのかもしれません。
結局、秀吉の側近である浅野長政のとりなしもあって、秀吉の利家への怒りは収まります。

小田原攻めで、北条氏を攻め滅ぼしたことで、秀吉は関東を平定し、東北の諸大名らも臣従させ、天下統一を成し遂げます。
すると、甥の秀次に関白の座をあっさりと譲り、太閤となった秀吉は次なる野望・朝鮮出兵に向けて行動を起こします。
そして、この頃から、秀吉と利家の関係に再び変化がみられることになります。



③信長に代わり天下統一を進めていく秀吉に仕えていた56歳の時
秀吉の朝鮮行き・・・認めるか?止めるか?
1592年、豊臣秀吉は、中国・明を平定するため、朝鮮半島への出兵を命じます。
朝鮮出兵です。
丁度その頃、前田利家は、新しい役目を仰せつかります。
秀吉のそばに付き、雑談の相手などをして秀吉の心を癒すというものです。

隠居した大名や、話術・学問に秀でた者がその任につくのが通例でしたが、利家のように現役の大名が務めるのは異例のことでした。
この頃、秀吉は、親族の死・・・弟・秀長、嫡男・鶴松が相次いで病死。
特に、秀吉の右腕として働いた秀長の死は、豊臣政権にとって大きな痛手でした。
そこで、利家に白羽の矢が立ったのです。
この時、利家の三女が秀吉の側室になっていたため、もはや利家は、秀吉にとって親族のような存在でした。
秀吉は、親族のように信頼できる利家をそばに置くことで、弟・秀長のような相談役になってもらおうと考えたのです。
これによって、利家は、秀長が担ってきた秀吉の暴走を止めるという役目も背負うことになります。

もう一人の有力大名・徳川家康と共に、秀吉について朝鮮出兵の拠点である肥前・名護屋城で・・・
豊臣軍が、朝鮮半島で善戦していることを聞いた秀吉が、なんと自分も海を渡って戦場へ行くと言い出しました。

秀吉の朝鮮行きを容認するのか、止めるのか・・・
利家が選んだのは、止める!!
利家は、家康と共に秀吉を必死で説得し、なんとか思いとどまらせたといいます。
結局、日本側が撤退する形で終わった朝鮮出兵・・・
もし、利家が秀吉を止めていなければ・・・戦は長引き、日本の運命は大きく変わっていたかもしれません。




④利家が亡くなる直前63歳の時
1593年8月、豊臣秀吉と淀の方との間に秀頼が生まれます。
諦めかけていた跡継ぎの誕生に、もろ手を挙げて喜ぶ秀吉。
しかし、その裏で、秀吉に仕えていた前田利家は複雑な思いでした。
遡ること2年前、秀吉が甥の秀次に関白の座を譲ったことで、誰もが秀吉の跡継ぎは秀次だと考えていました。
しかし、秀頼が生まれたことで、跡継ぎが誰になるか不透明な状況に・・・!!
秀次とも親しい関係にあった利家は、秀次の立場が危うくなることを案じていました。
そんな中、1595年、突如、秀次に謀反を企てたという嫌疑をかけ、関白の職を剥奪、高野山へ追放しました。
秀次は、失意の中自害してしまうのです。
秀次の死によって、跡継ぎが秀頼に決まったことで、秀吉は新しい組織づくりに着手します。
五大老五奉行せいです。
五大老・・・徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝
五奉行・・・石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以
の合議制により、自分が無き後も豊臣政権を維持しようと考えたのです。
さらに秀吉は、一番信頼していた利家を秀頼の後見人・・・傅役に指名しました。
それで安心したのは、やがて秀吉はこの世を去ってしまうのです。

主君であり、無二の友である秀吉の死に、悲しみに暮れる利家でしたが、この時、すでに利家も病魔に侵されていました。
それでも利家は、最期の力を振り絞り、跡継ぎ・秀頼の後見人よしての役割を務めます。
ところが・・・不穏の動きを見せる者が・・・五大老のひとり、徳川家康です。
秀吉の生前から、許可なく大名家同士が結婚することを禁じられていたにもかかわらず、家康は味方を増やそうと自分の親族と、伊達家や蜂須賀家との結婚話を進めていました。

これに怒ったのが、四大老と石田三成ら五奉行でした。
家康のもとにも支持する諸大名が集まり、利家らと家康との間に一触即発の様相が漂い始めます。

家康と戦うのか、それとも和解するのか??
最後の選択を迫られます。
利家が選んだのは、家康と和解するでした。
利家が、病を押して家康の屋敷を訪ね、その後、家康が利家の屋敷を訪問。
双方が和解したのです。
しかし、家康が訪れた際、利家はすでに死の床にありました。
一説に、その際利家は家康に、こう頼んだといいます。

「これが暇乞いでござる
 わしは間もなく死ぬ
 利長のことを頼み申す」

さすがの家康も、この利家の申し出を涙ながらに受け入れたといいます。
その翌月・・・1599年3月3日・・・利家死去。
63歳の生涯でした。

徳川家康が、天下分け目の関ケ原で勝利したのは、前田利家が亡くなった翌年のことでした。
利長は、関ケ原の戦い直前、母親で利家の正室である”まつ”を家康に人質に差し出すことで、家康方につくことを表明。
関ケ原の戦いののち、家康から加賀国の南半分を加増され、併せて120万石を領することになります。
前田家と徳川家は、婚姻関係を結び、両家は良好な関係にあったといいます。

利家と家康の和解は、前田家にとって大きなターニングポイントだったのかもしれません。

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江戸に幕府が開かれて150年ほどたったころ・・・
巷では奇妙なおまじないが流行っていました。

”新しい鍋釜から金気を抜くには上杉と書いた札を貼るといい
  そのこころは
    上杉には金がないのですぐ抜ける”

この上杉とは、出羽邦・米沢藩のことです。
16万両ともいわれる借金を抱え、破産状態でした。
一時は幕府に領地返上を決断するまでに追い詰められていました。
この時、米沢藩を引き継いだのが、若き藩主・上杉鷹山でした。
類まれなリーダーシップで、財政を立て直した江戸時代屈指の名君です。

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江戸時代には出羽国と呼ばれた山形県米沢市。
米沢市上杉博物館には戦国から続く上杉家が残した”洛中洛外図屏風”や上杉家文書など貴重な資料が残されています。
その中の一つが・・・江戸時代中期ごろの米沢藩の参勤交代行列を描いた絵・・・
ここには、上杉家が幕府から特別な扱いを受けていた藩であると示されるものが描かれています。
馬の鞍にかぶせられている”虎皮鞍覆”と”大鳥毛馬印”です。
その外にも、漆塗りの筒に家紋と龍があしらわれた刀入れや、革製の覆いに金で家紋が描かれた鋏箱、屋外で茶をたてる道具の入った茶弁当を行列に同行させることを許されていました。
非常に広い領地をしはいする大名・・・国持大名という格でした。

国持大名とは、領地が一国以上ある大名を指します。
御三家に次ぐ格式で、18家のみに許された呼称でした。
加賀102万石の前田家、薩摩77万石の島津家、仙台62万石の伊達家など、名だたる国持大名の一つが米沢15万石の上杉家だったのです。
国持大名の中で、最も石高が低い米沢藩・・・それでも国持大名と呼ばれるには訳がありました。
米沢藩の藩主・上杉家は、戦国時代の名将・上杉謙信から続く名門。
もともとは、越後を領地とする大名でした。
謙信の跡を継いだ上杉景勝は、越中信濃へと領地を広げ、その後秀吉によって会津120万石の大大名、五大老となります。

1600年、関ケ原の合戦で、家康に敵対する西軍についたため、1/4の30万石に減封。
それでも景勝は、家臣を減らすことはせず、5000人の家臣団のほとんどを残しました。
通常、30万石であればおよそ1800人が適正な家臣数です。
上杉のルーツは、大化の改新の藤原鎌足にまでさかのぼる名門です。
徳川氏は新興・・・意識は高かったのです。
鉄砲づくりをやったり、軍道の整備をやったり、関ケ原の直後は、まだ戦う意識があったのではないか??と思われます。
この時、上杉家には、謙信時代に蓄えられた御貯金15万両(150億円)があり、関ケ原の戦いから50年たったころでも残されていました。
しかし、3代藩主・網勝が、後継ぎなく死亡・・・米沢藩は、おとり潰しの危機に・・・!!
幕府に働きかけ、高家・吉良家から養子をもらい4代藩主に。
所領は半分の15万石に減封、景勝時代の1/8になってしまいました。

新藩主となった藩主・綱憲は、実の父・吉良上野介のために吉良屋敷の新築費用や膨大な借金の肩代わりなど、多額の援助をしています。
さらに、莫大な費用を投じて豪華な大名行列を仕立てるようになり、米沢や上屋敷には能舞台を建設、派手で豪華な生活を続けました。
この頃、江戸藩邸の出費は、毎年2万5千両、御貯金15万両をすべて使い切ってしまいます。
それ以降、上杉家伝来の家宝の武具や、高級調度品を抵当に、商人から借金を重ねるその場しのぎの藩財政が続きます。
遂には、前家臣の俸禄の半分を借り上げる”半知借上”を行うまでに藩は追い込まれていきました。

この時期の大名家はそのほとんどが借金に追われる状態でした。
幕府は大名を弱体化させるため、参勤交代や江戸藩邸の出費、お手伝い普請などを課し、諸藩の財力をはいでいました。

1753年、米沢藩は、お手伝い普請として、上野寛永寺・根本中堂を修復・・・費用約6万両。
最上川の氾濫で農地が荒廃・・・2年後に天候不順で宝暦の大飢饉・・・。
農村部では農民の逃亡が頻発し、50年前に藩の人口が13万5000人を越えていたが、10万人を割り込むまでになっていました。
藩の借金は、16万両・・・160億円にまで膨れ上がっていました。
返済不可能な規模となっていたのです。
米沢藩の家老たちは、藩財政は破たんし、これ以上藩の維持は困難であると、領地を公儀に返上することを藩主・重定に進言しています。
重定も、決意・・・親戚筋の尾張藩に説得され、危うく思いとどまるという前代未聞の事件を起こしています。
その4年後の1767年、上杉家の再興を託され、9代藩主となったのが上杉鷹山・・・17歳の新藩主でした。

1751年7月、上杉鷹山は九州・高鍋藩主の次男として生まれました。
1759年3月、鷹山9歳の時、大きな転機が訪れます。
米沢藩主・上杉重定の養子となることが決まり、翌年、上杉家上屋敷の桜田邸に移りました。
鷹山は、米沢藩4代藩主の孫にあたります。
8代藩主・重定に嫡子がなかったため、重定の娘・幸姫の婿として白羽の矢が立ったのです。
この時、高鍋藩の家老は、
「養家を継ぐからには、決して恥辱を残すようになってはならぬ
 養家の作法に絶対違反することがないよう、生涯努力するように」と、鷹山に繰返し諭しています。

一方、鷹山を迎える米沢藩士は、
「上杉家の家風や家格、米沢藩の国情や人情を何一つ知らない小藩の末子を、名門たる上杉家の跡取りに据えたることは好ましくない」と、小藩から来る跡取りに不満を記しています。

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そんな中、東寺江戸家老の竹俣当綱は、度々若君鷹山の部屋を訪れ、反の苦境を訴えています。
「御家の立つも立たざるも、お前様のお心ひとつ、十万人が苦しむも楽しむも、お前様の御心一つである」

米沢藩の現状を伝え、藩主となる鷹山にお家を再興する覚悟を持つように繰返し言い含めます。

1767年4月24日、17歳の鷹山は家督を継いで9代藩主に。
将軍にお目見えし、家臣に祝賀された鷹山は、国元・米沢に一通の書状を送っています。
主君として何をするのか??代々の墓がある白子神社に誓詞を奉納しています。

”贅沢はしない
 民と共に倹約をして政治を進め、もし政治が上手くいかなかった場合は、どんな神罰でも被っても構いません”

神様と鷹山だけの間だけの約束・・・人知れずの誓いでした。

藩主となった鷹山は、江戸勤番の家臣たちを集めます。
玄奘に対する認識を伝え、改革の開始を表明します。

”大家から小家になったにもかかわらず、質素律儀の風も失われ”

さらに家臣からの半地借上を続ける現状を、藩主としての役割を果たせていないと家臣に詫びます。
そして、打ち出しただ対策の第一が・・・

①大倹約で出費を抑える

鷹山は、率先して倹約生活を行います。
着るものは木綿、奥女中も50人から9人に・・・。
食事は一汁一菜、藩主の経費は1/8近くに切り詰めました。
2年後の1769年10月、鷹山は、初めての国入りを果たします。
その行列は、従来の参勤交代の1/10の人数で行い、質素なものでした。
鷹山は、国入りするや藩内の改革に乗り出します。
藩復興の要となる「農業政策」を実行。
農村での代官の不正をただすため、世襲制を廃止、下級武士から能力のある者を登用します。
農民が逃亡し、荒れたまま残された田畑は、再度農民に分け与え、農業指導を行いました。
さらに、鷹山自ら農村の暮らしぶりを視察、藩主自らが田を耕す「籍田の礼」を行って農民を励ますなど、農村の復興を目指す態度を明らかにします。

さらに鷹山は、藩の経営状況を明らかにするため、1年ごとの収支明細書を作らせます。

②財政収支の明細を明らかに

しかし、改革を初めて5年後・・・
1772年江戸の大火で米沢藩の屋敷が消失・・・再建のため、借金が膨らみ、改革がとん挫するかに見えました。
この逆境下で、鷹山は、新たな改革を打ち出します。それまで農業や林業などに全く関わって来なかった藩士に伐採や開墾の手伝いを毎時他のです。

③藩士を土木作業に動員

藩士たちは、江戸屋敷復旧のため、山奥に分け入り1万本の材木を切り出します。
現場の指揮を執った奉行は・・・「人々の魂が洗われ、気力が奮い立つ初めての経験だった」と記しています。
鷹山自身も自ら美濃嵩に草鞋で作業現場に現れ、藩士たちに酒を勧めて慰労します。
家臣と苦楽を共にする姿勢を見せます。
これ以降、荒れ地の開墾や堤防建設、道や橋の普請に家臣たちが大規模動員され、のべ1万3000人の藩士が参加しました。

しかし、この鷹山の改革を苦々しく思っていた一団がありました。
これまで藩政を仕切ってきた名門の重臣たちです。
伊達政宗が滅ぼした会津の芦名氏の家臣や、武田信玄の息子もいました。
侍組という米沢藩の中では上級武士団に属していました。
上級武士団「侍組」は、謙信・景勝時代から仕える96家のことです。
家老職など要職を独占していました。
侍組は、よそから送られてきた藩主より、自分たちこそが藩を支えているという意識が強く、ことあるごとに鷹山に反発します。

ある重臣は、鷹山が家臣たちの修復した橋を馬を降り、感謝の気持ちを示しながらわたる様子を見て、
「見せかけの子供だましだ」と言い放ち、自分は贅沢な羽織姿で騎乗したまま橋を渡りました。
さらに、自分たちの子弟には、誇り高き武士のすることではないとお手伝い普請に参加することを禁じていました。
上杉家の今までの格式を壊してしまうのではないか・・・??
体面が保てないようにされていくのではないか・・・??
鷹山に対する危機意識があったのです。

鷹山が推し進める藩政改革・・・反発する侍組との戦いは、いよいよ抜き差しならない状態に・・・!!

1773年6月27日、明六つ・・・侍組の重臣7人が暴動を起こします。
重臣たちは早朝にもかかわらず、鷹山に拝謁を求め、7人の署名入りの訴状を提出したのです。
その時の訴状の写しが残されています。
訴状は、鷹山の藩政改革に強く異を唱えていました。

”第一に上様は媚びへつらう家臣に心惑わされ、国政を乱している”
”質素律儀の越後風に戻し、おとなしくなさるよう”

という苦言でした。
鷹山が行った支出を抑える倹約に関しては、一汁一菜や、木綿を着ることは小さなことにすぎず、籍田の礼もそのあとかえって天候が悪化し、大根の音が上がった、大凶作の前触れだとして、藩士を土木事業に参加させたことに関しては鹿を馬と見立てて使うようなものであり、国中十万人いれば九万九千人はこの改革に反対していると記しています。
重臣たちは、鷹山を軟禁することを辞さない勢いで、改革の中止を迫っていました。

累々と書き上げた40ヶ条以上・・・七家の人たちは、真剣にそう思っていました。
お諫めしてもとの形に、国持大名上杉家の格式に戻さなければいけないと思っていました。
それが、自分たちの忠義である・・・実際に非難しているけれど、それは忠義であって彼等にとってはなんら疑うことがないものでした。

上杉鷹山とイノベーション経営

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実はこの時期、家臣が主君を押し込め、藩主から引き下ろす事件が頻発していました。
徳島藩主蜂須賀重喜が贅沢を禁じ藩政改革に取り組むが失敗、隠居。
岡崎藩主水野忠辰、改革を断行するも家臣によって軟禁、隠居・・・失意のうちに死去。
松江藩主松平宗衍は、財政悪化の責任を取らされ家督を譲り近居させられています。
幕府も藩を守るための家臣の行動に対しては寛容で、家臣の要望を受け入れることも多かったのです。
この日、鷹山に改革中止を迫る重臣たちは昼まで居座り、席を立とうとする鷹山の裾を握って引き止めさえしました。

鷹山は選択を迫られていました。

明け方から昼時まで、鷹山に改革中止を迫った重臣たち・・・
その後、全員が屋敷に籠り、鷹山の対応を伺いました。
記録によれば、2日後、鷹山は観察役である目付を呼び出し、まず訴状内容の真偽を問いただしています。
目付たちは・・・不正はなく、人心も離れていないと証言。
さらに鷹山は、郡奉行はじめ足軽頭まで家臣の多くを招集。
訴状にある改革中止が家臣全員の総意であるかを確認しています。
家臣たちはそれを否定し、全員が鷹山を支持。
改革を続けることを望んでいると伝えました。
翌日、騒動を起こした7人の重臣たち・・・2名は切腹・家名断絶、5名は蟄居閉門・知行没収の重罰に処されました。
鷹山は、家臣に訴えの真偽を確認して判断しました。

その後、藩の収支を示した「会計一円帳」を藩士全員に公開されます。
藩の経営状況を公開することで、改革に対する家臣の心を一つにまとめようとしたのです。

藩を一つにまとめた鷹山は・・・
④収入を増やす
政策を打ち出します。
荒れ地を整備し、広げた農地を下級武士の次男三男に与え、農村人口の増加を図ります。
さらに、特産品を作るため、ろうそくの原料(漆)、生糸の餌(桑)、和紙の原料(楮)を100万本植え、産業を振興させる計画を実行、官民あげて取り組んでいきます。
改革は、飢饉などで度々とん挫します。
期待された漆のろうそくも、ハゼを使った安い蝋燭が出回ると売れなくなり、成果を上げることはありませんでした。
最大の成果を上げたのは、米沢織です。
蚕から生糸を取るだけでなく、独自の製品にするため「先染め」「縮布」の技術を確立、家臣の妻や娘に織らせて特産品にしました。
生糸や絹織物は、やがて毎年4万両の収入を得るまでに成長していきます。

1822年、上杉鷹山死去・・・享年72歳。
鷹山は、改革にかけた人生をとげます。
鷹山が亡くなった翌年、米沢藩は借金16万両を完済。
さらに、5000両の蓄えができていました。
鷹山の改革で、米沢藩は見事自力再生を果たしたのです。

”為せば成る
 為さねば成らぬ何事も
  成らぬは人の為さぬなりけり”

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1600年9月15日に起きた天下分け目の関ケ原の戦い・・・
西軍を率いる石田三成と、東軍率いる徳川家康が激突しました。
時を同じくして、遠く離れた北の地でもう一つの関ケ原が繰り広げられていました。
慶長出羽合戦です。

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慶長3年8月18日、天下人豊臣秀吉が亡くなると、一時期平穏だった世の中に暗雲が漂い始めます。
豊臣政権を支えていた五大老筆頭の徳川家康が、暴走始めたのです。
家康は、自分以外の大老を帰国させるとで全権を掌握していきます。
さらに、反家康の急先鋒であった石田三成を追放するなど、邪魔者を次々と排除していきました。
同格だった大老・前田利家亡き後、虎視眈々と天下を狙う家康にとって、もっとも目障りだったのが上杉景勝でした。
先代・上杉謙信の跡を継ぎ当主となっていた景勝は、会津120万石の大大名で、豊臣政権を支える東日本の要となっていました。
家康は、そんな景勝を潰しにかかりますが・・・
真っ向から立ち向かったのが、上杉家の名参謀・直江兼続でした。
兼続は、1560年、越後国に生れました。
父が上杉家に仕えていましたが、地位は低く、恵まれた環境ではありませんでした。
兼続の運命が大きく変わったのが、5歳の時。。。
上杉景勝の世話が狩り・・・近習として取り立てられます。
幼いころから聡明だったといわれる兼続は、どんな人物だったのでしょうか??

景勝が、上杉謙信の養子となって迎えられ春日山城内に入った時、共に春日山上に入り、上杉謙信という名将の義の心を学んでいます。
名を上げるきっかけとなったのが、上杉家の家督相続争いでした。
謙信亡き後、養子であった鐘勝人景虎との間で跡目争い・・・1578年御館の乱勃発!!
直江兼続の行動は迅速でした。
春日山城内の御金蔵を押さえます。
その判断がなければ景勝が負けていた可能性がありました。
この戦に勝利した兼続は、その後も数々の武功をあげ、上杉家のNo,2となっていきます。

直江兼続の兜の前立ての愛には、どんな意味があるのでしょうか??
それは人間愛だけではありません。
兜の愛の下には雲がかかっています。
当時、武将たちは軍神を信仰していました。
愛宕勝軍地蔵・愛染明王・・・雲の上に乗っている神様の意味でした。
軍神を表す愛の文字・・・軍略に長け、主君のため忠義を尽くし、戦い続けた兼続らしい兜です。

1600年4月13日、上杉家のNo,2となり、政治・軍事を取り仕切っていた兼続のもとに、上杉家を揺るがす1通の手紙が届きます。
上杉討伐を狙っていた家康の命によって送られた弾劾状です。

”越後の堀秀治が、景勝のことについて家康さまに訴えているので、景勝の陳謝が必要である”

とありました。
当時、上杉家は、越後から東北の重要拠点である会津へと国替えになったばかりでした。
その後、越後に入ってきたのが堀秀治でした。
問題は年貢・・・越後国の年貢の半年分を、上杉は徴収しました。
そこで、堀秀治が直訴したのです。
さらに、弾劾状には家康が上杉に対して不信感を抱いている旨が書かれていました。

ひとつは景勝が家康に挨拶に来るための上洛が遅れているということ、もうひとつは、上杉家が道や橋を整備し、武具を集めているということです。
これらの動きを謀反のための戦の準備をしているのでは??と、いうものでした。
書状を受け取った兼続は、すぐに返事を認めました。
それが、関ケ原の戦いの発端となったといわれる直江状です。
謀反の疑いをかけられた上杉家の危機に、兼続が出した返答とは・・・??

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家康が、上杉に謀反の疑いをかけ送りつけた弾劾状に対し、直江兼続が返した直江状とはどんなものなのでしょうか??
それは、長さ4m、16ヶ条にも及ぶ長い書状で、見た家康は激怒したといいます。
内容は、家康の弾劾状に対しての反論だったからです。
驚くほど丁寧に反論しています。
そして、主君・上杉景勝の上洛に対しては、家康に真っ向から反論します。
それは言いがかりであると・・・!!

主君・上杉景勝が上洛を引き延ばしているという批判に対しては・・・

”国替えがあって程なく上洛し、昨年、ようやく国に戻ったのにもかかわらず、また上洛せよとは・・・
 それではいつ、領国の政務を執ったらよいのでしょうか
 ことに、こちらは雪国なので、十月から三月まではどうすることもできません”

冬の会津の悪条件を述べ、再三にわたる上洛命令を非常識としながら、家康に対し謀反の意がないことを示しています。
また、上杉を訴えた堀秀治への陳謝の上洛に対しては、堀を讒人・・・人を陥れる悪人と言い放ち、

”讒人が言っていることを厳しく糾明してこそ、御懇切の証拠であるのに、理由もなく逆心と言い上洛を命じるのは乳呑み子のような扱いです
 讒人の糾明がないうちは、上洛はできません”

兼続は、きっぱりと上洛を拒否し、さらにこう続けます。

”主君・景勝が間違っているのか、内府様・家康公に表裏があるのか”
”上杉家累代の律儀の名と、弓箭の覚えまでも失ってしまうことになる”

それがたとえ家康の命令であっても、上杉家の家名にかけて間違ったことはできないというのです。

直江状を受け取った家康・・・
書状に激怒する一方で、伏見城の広間でほくそ笑んでいた・・・??
1600年5月、直江状に激怒した家康は、上洛拒否を明言した上杉家の討伐を決断し、直ちに諸大名に出陣命令を下します。
側近たちは諫めたものの・・・家康は聞き入れません。

もう一つの関ケ原・・・慶長出羽合戦まで79日!!

1600年6月18日、家康自ら総大将となって息子・秀忠と共に会津に進軍を開始しました。
さらに、陸奥・伊達政宗、出羽・最上義光にも兵を出させ、15万を超える大軍勢で上杉包囲網を作りました。
強大な徳川軍を迎え撃つこととなった上杉景勝と直江兼続は、徳川軍撃破のため周到な作戦を立てます。

福島県白河市・・・ここに、兼続の作戦を知るある物が残されています。
兼続が、徳川軍をせん滅するためにしかけた罠・・・革籠原防塁です。
高さ4m、幅7mの防塁で、総延長は3キロメートルにも及びました。
上杉軍は、まず先陣である秀忠軍と交戦・・・敗北したと見せかけて、軍勢を革籠原防塁までおびき寄せます。
そこに水を引き込んで、ぬかるみを作り、秀忠軍を足止めさせ、待ち受けていた援軍によって攻撃・・・さらに、救援にやってきた家康の本体を別動隊が襲い、徳川軍を一気に壊滅させるという計画でした。
この防塁を作るにあたって、兼続は6万人を動員し、3か月で作ったとされています。
兼続は、奥州街道を封鎖し、敵が確実に革籠原に来るように新たな道を作り誘導・・・
総勢8万4000の軍勢で迎え討とうとしていました。
兼続の周到な戦略はそれだけではなく、江戸時代に書かれた”史料綜覧”によると・・・

”これより先、石田三成、密かに陸奥・会津の上杉景勝と通じ、徳川家康の東下に乗じ、兵を挙げんことを謀る”

関ケ原の戦いで、西軍の指揮官となる石田三成と、上杉家とが通じていると書かれているのです。
上杉家の領国・会津若松にも、三成との関係を伺える記録が残されていました。
国替えとなった際に、会津の村人たちに出されたお触れの最後には・・・
直江兼続に加えて、石田三成の署名が記されています。
村人に対するお触れに、他の国の武将が署名するのは珍しいことでした。

上杉だけでは困難な会津への国替えを早急に遂行するために、三成が手を貸していたのです。
上杉のNo,2が兼続、豊臣家のNo,2が三成で、2人は同い年でした。
信頼しうるような関係で、反家康という利害でも一致、盟友という関係でした。

直江兼続と関ケ原 [ 福島県文化振興財団 ]
直江兼続と関ケ原 [ 福島県文化振興財団 ]

打倒・徳川家康・・・直江兼続と石田三成が練っていた策とは・・・??
まず、家康を上杉討伐に向かわせることで、上方を手薄にし、その上で三成が挙兵!!
さらに、佐竹氏ら有力大名と結託し、会津と上方から家康を挟み撃ちにするという大戦略です。
兼続は、この一戦に天下をかけていました。
豊臣家のために、家康の暴走を止め、上杉の存在を認めさせたいと・・・!!

1600年7月24日・・・会津の上杉討伐に乗り出した家康は、上杉軍の目と鼻の先・下野小山に到着しました。
そんな時、先陣を切った男がいました。
家康から上杉討伐の命を受けていた伊達政宗です。
政宗は、白石城を攻撃し、上杉軍を追い詰めますが・・・この行動に家康は激怒・・・!!
闘いをはじめろとは言っていなかったのです。
そんな家康に、この日・・・石田三成挙兵の一報がもたらされます。
三成に従う諸大名が、大坂城に集結しているという知らせに、家康はすぐに会議を開きます。
世に言う”小山評定”です。

家康は、上杉攻めを中止し、上方に戻ることを決断!!
大名たちは驚きましたが、家康には目論見がありました。
会津攻めは、三成挙兵の誘い水だったのです。
これ以後は、家康の計算された行動でした。

直江状を受け取った家康は、ひっそりとほくそ笑んでいたのは、これをうまく使えば三成を担ぎ出し、戦いの口実を作ることができると考えたからでした。

もう一つの関ケ原・慶長出羽合戦まで33日・・・
1600年8月5日、家康は上杉討伐を中止し、三成を討つために江戸にもどります。
しかし、そこからはなかなか動けず・・・その理由の一つが、共に戦う豊臣ゆかりの武将たちが、最後まで家康支持を貫くかどうかという不安があったためです。
それを見極めようと、家康は122通にも及ぶ書状を出し、東軍内部の体制固めに1か月を費やしました。
さらに、家康を江戸に足止めしたのには・・・江戸城を離れ出陣した際に、上杉・佐竹軍が背後から攻め上ってくると徳川軍は挟み撃ちの危険があったからです。
しかし、まさに、これこそ直江兼続と石田三成が建てた徳川壊滅作戦の筋書きでした。
徳川軍の崩壊は、上杉軍にとって千載一遇のチャンスでした。

「殿、直ちに追撃いたしましょう
 後退した今、徳川を討てるまさに最良の時・・・三成と挟み撃ちすれば、勝利は我らのもの!!」by兼続

しかし、どんなに説得しても、景勝は首を縦に振りません。

「謙信公は敵の背後を襲うことはなかった」by景勝

追撃を許さなかったのです。
兼続は諦めるしかありませんでした。
しかし、この時上杉軍は、家康を追撃する状況にはありませんでした。
戦術に長けていた兼続ですが、にっくき家康を討ちたいという思いの強さから先走ってしまったようです。
上杉軍は、完全に包囲されていました。
北には最上・伊達が、西には越後の堀がいたのです。
この状況を打破するため、兼続は越後での一揆を画策します。
弟を越後に侵入させ、一揆を続けたことで、堀をくぎ付けにしました。
問題は、家康が上杉軍を押さえるために残していった伊達と最上でした。
追撃されることを恐れた家康が、上杉軍への圧力として残した伊達軍と最上軍・・・
しかし、残された両軍は、家康が引き揚げたことでかなり動揺します。
政宗は、上杉軍に停戦を申し入れます。

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残るは最上軍!!
それが慶長出羽合戦です。
1600年9月9日・・・直江兼続を総大将とした2万4000の上杉軍が、最上領に進軍します。
120万石を有する上杉に対し、最上は20万石でした。
城攻めを得意としていた上杉軍は、最上軍の城を次々と落としていきます。
ここには、軍略に長けた兼続の狙いが・・・
上杉の所領が、最上と分断されていました。
それが手に入れば、背後を取られることはない・・・と、最上領に侵攻したのです。

9月15日、戦を優位に進める兼続は、最上軍最後の砦・長谷堂城へ総攻撃をかけます。
そして、まさにその日・・・美濃の関ケ原では、東西16万の軍勢が対峙していました。
関ケ原の戦いです。
家康率いる東軍7万2000と、三成率いる西軍8万4000!!
兵力では、家康は不利な状況にありました。
午前8時・・・天下分け目の戦いの火蓋が切られ・・・両軍互いに一歩も引かない攻防戦が続きました。
一方、北で繰り広げられていたもう一つの関ケ原の戦いは・・・
上杉軍2万4000に対し最上軍はわずか3000!!
上杉軍が圧倒的有利に立っていました。
しかし・・・何日たっても城を落とせません!!
そこには、直江兼続の誤算がありました。
長谷堂城は、標高230mほどの丘陵に立つ小さな山城です。
しかし、本丸を中心にして無数の防御陣地を備え、山全体が水堀で固められた守りの堅い城でした。
さらに、城の周囲には田園地帯が広がり、これが上杉軍の進軍を阻んだといいます。
ぬかるんだ田んぼに足を取られ、なかなか前に進めませんでした。
なんとか外堀まで侵攻するものの・・・山の上から鉄砲の集中砲火を浴び、多くの兵を失ってしまいます。
思わぬ持久戦となった上杉軍を、さらに追い詰めたのが、最上軍に伊達政宗の援軍が到着したことでした。
敵の士気は一気に上がりました。
そんな中、兼続に思わぬ知らせが届きます。

関ケ原で西軍・石田三成敗れる・・・!!

予想外の、わずか数時間の戦でした。
このままここに残っていては、戻ってきた徳川軍との挟み撃ちにあってしまう・・・
主君・上杉景勝からは、即時撤退の命令が下されました。
直江兼続・・・無念の撤退でした。

10月1日、兼続は撤退を開始しましたが、敵地から追撃を受けながら2万もの大軍を引かせるのは至難の技でした。
兼続は、会津に繋がる狐越街道に敵を集中させようと、一計を案じました。
兼続率いる部隊がおとりとなって狐越街道に後退し、それを伊達・最上に追撃させます。
そのすきに、別の道を使い上杉本体を本国に撤退させるという作戦でした。
この時、直江兼続は自ら殿を務めて闘ったといいます。

兼続の活躍により、上杉軍は3日後には米沢に到着。
こうしてもう一つの関ケ原も、西軍の敗退という結果で終わったのです。

暴走する家康を止めたい・・・上杉家の存在を知らしめたい・・・
強い思いで家康に戦いを挑んだ北の関ケ原・・・
その戦に敗れた兼続は、主君・景勝と共に家康の元を訪れ謝罪・・・
そして、会津120万石から米沢30万石に減封を命じられるのです。

徳川家に従うことになった上杉は、大坂冬の陣で大活躍、家康に勲功を讃えられた兼続は、こう答えました。

「慶長出羽合戦に比べれば、大坂の陣など簡単で、子供の喧嘩のようでした」by兼続

戦に負けてもなお、武士としてのプライドは健在でした。

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相模湾を望む城下町・・・
神奈川県小田原市・・・この町のランドマークと言えば、今も昔も中心部にそびえたつ小田原城です。
遡ること430年ほど前の戦国時代、この地を5代100年にわたって治めたのが相模国戦国大名・北条氏でした。
小田原城を居城として、周辺諸国に勢力を拡大し、やがて関東の覇者となりました。
ところが・・・その北条氏が、突如歴史の表舞台から姿を消すことになるのです。

5代にわたり小田原の地を治めた北条氏・・・鎌倉時代の北条氏と区別するため、後北条氏ともよばれています。
その歴史は、伊豆国を本拠地としていた後北条氏初代・北条早雲が小田原の地を攻略したことに始まり、徐々に勢力を拡大し、4代氏政と、5代氏直の時代には伊豆・相模・駿河・武蔵・上総・下総・上野・・・まで領地を広げ、まさに関東の覇者として絶頂にありました。
しかし、1582年、戦国の革命児・織田信長が本能寺の変で死去・・・
状況は一変します。
信長の家臣・羽柴秀吉が急速に勢力を伸ばし、天下統一を進めていきました。

本能寺の変の後、秀吉は中国地方、紀州、四国地方を平定し、さらに、朝廷から関白に任命されると、天皇や朝廷の威光を借りて、自らが天下人となることを目指します。
当然、北条氏がしはいする関東を配下に置くことも狙っていましたが・・・北条氏は、断固として秀吉の部下になることを拒否・・・それには北条氏に十分な勝算があったからです。

この時、北条氏は三河・徳川家康と同盟関係にありました。
織田信長の死後、旧武田領を巡って北条と徳川は対立しましたが、和睦し、同盟関係となりました。
その証として、家康の娘・督姫が、北条氏直の正室として迎えられています。
おまけに、家康と氏政の弟・北条氏規は昵懇の仲でした。
家康が幼少の頃今川に捕らえられていた時、氏規もまた人質として・・・同じ境遇でした。
北条氏政、氏直親子は、家康と組めば秀吉に対抗できると考えていました。

しかし、そこはしたたかな秀吉・・・
そんな両家の固い絆を切り崩しにかかります。
徳川を自分の臣下にしたかった秀吉は、妹・旭姫を家康の正室に差し出しただけでなく、母親の大政所を人質として家康の元に送ります。
その代わりとして家康に上洛を求めます。
関白の秀吉にそこまでされ、もはや拒否できなくなった秀吉は、しぶしぶ上洛し、大坂城で多くの諸大名がいる中、秀吉への臣従を誓ったのです。

これを聞き、大きな衝撃を受けたのが、北条氏政・氏直でした。
同盟を結んでいた家康が、秀吉の臣下となった事で、北条氏は徐々に追い詰められていくことになります。
秀吉はその後、薩摩の島津義久を討ち、九州を平定し、天下統一まで関東と東北を残すのみとなりました。
そこで秀吉は、北条氏の説得を北条ど同盟関係にあった家康に任せるのですが・・・北条氏はなかなか首を縦に振りません。
北条氏では、重要な事柄は重臣たちを集め小田原評定という軍議を開いていました。
この時、秀吉に服従するか否かで意見が分かれていました。
氏直は、時局を冷静に分析できる人物で、
「家康殿が秀吉の臣下となった今、秀吉への服従も致し方あるまい・・・
しかし、その氏直に、当主の座を譲った後も実権を握っていた父・氏政や、氏政の弟・氏照らは反対・・・!!
関東の覇者としての誇りが許さなかったのかもしれません。
なかなか意見がまとまらない北条氏・・・
しびれを切らした秀吉は、最後通告をします。

「この月中に、氏政殿の兄弟衆を大坂城に遣わしてほしい
 もし、秀吉殿に臣従できないというのなら、娘をすぐさま返していただきたい」by家康

北条氏と同盟を結んださい、家康は娘の督姫を北条氏直の正室として差し出していました。
その娘を返せというには、北条と徳川の同盟破棄を通告しているようなもの・・・
そうなれば、さらに孤立してしまう・・・!!
北条氏は、氏政の弟で外交担当の氏規を、秀吉のいる京都の聚楽第に派遣しましたが・・・

1588年、当主・北条氏直の名代として、父・氏政の弟である氏規が豊臣秀吉と謁見したことで、遂に北条氏は豊臣政権に臣従する姿勢を見せます。
しかし・・・そのあと、秀吉は宣戦布告することとなります。

秀吉は、はるばるやってきた氏規に対し、”北条氏政が上洛すること”を要求・・・
北条家の実権を握る氏政の口から豊臣家への臣従を誓わせたかったのです。
すると氏規は、大胆にも秀吉に条件を出します。

「兄・氏政の上洛の前に、沼田領の問題を解決していただきたい」by氏規

話は遡ること6年前・・・
信長の死後、徳川氏と北条氏が旧武田領を巡って抗争・・・
その後、和睦・・・甲斐と信濃を徳川が、上野を北条の領地として同盟に合意します。
しかし、問題が・・・
上野の沼田領を支配していた徳川家臣・真田昌幸がその領地を北条に差し出すことを拒んだのです。
昌幸は、主君である家康の再三の説得にも応じず、やがて徳川を離れ、越後の上杉景勝を通して秀吉の家臣となってしまいます。
その為氏規は、昌幸の新たな主君・秀吉に直訴したのです。
そこで秀吉は、ひとまず家康や正幸から事情を聞くことに・・・
真田昌幸は、老獪で知られています。
最後までごねましたが、秀吉は、関東の北条を服従させれば天下統一も間近となると考え、北条氏に有利な裁定を下します。

秀吉が下した裁定は、沼田領のうち、沼田城を含む2/3を北条の領地とし、名胡桃城の1/3を真田領とするというものでした。

北条も真田も、秀吉のこの裁定を渋々受け入れたのですが・・・
北条氏の家臣・猪俣邦憲が沼田城の城代として入ります。
が・・・ほどなくして事件を起こします。
利根川を挟み、目と鼻の先にあった真田領の名胡桃城に奇襲をかけ、城を奪い取ってしまったのです。
一説に猪俣は、
「真田方に残った領地が手に入れば、上野国はすべて北条のものになる・・・
 対岸の小さな城ひとつのっとっても、さして問題になるまい」と、軽い気持ちで事を起こしたというのです。
北条氏の家臣の中には、秀吉への服従に反対する者も多くいました。
秀吉が下した裁定を軽く見て軽率な行動を起こしてしまったのです。

真田昌幸から報告を受けた秀吉は、大激怒~~!!
自ら下した裁定を、北条が反故にしただけではなく、約束していた氏政が上洛する件についても北条側からの連絡が全くありませんでした。
臣従を誓う筈の北条氏が、自分の命令を軽んじたため、怒った秀吉は北条氏に宣戦布告しました!!
秀吉が北条に突き付けた書状にはこう書かれていました。

””明くる年 必ず小田原へ攻め寄せて 氏直の首をはねる””

慌てた北条氏直は、すぐに秀吉へ弁明書を送りますが・・・

”名胡桃城は奪い取ったものではなく、もともと北条のものである”

さらに・・・なかなか氏政が上洛しない理由に関しても、

”家康殿に上洛を求めた際、関白殿下は妹君を家康殿の正妻としただけでなく、母君まで人質として送っている
 しかし、父・氏政に対しては、そうした配慮が全くなされていない”

関東の覇者として君臨してきた北条一族のプライド・・・
この時点で、秀吉と戦う覚悟を決めていました。
この時、領民を総動員し、秀吉との戦いに備え小田原城の大普請に着手していたのです。

相模国の戦国大名北条氏政・氏直親子が居城としていた小田原城は、南に相模湾を望み南西に箱根連山が連なる要害堅固な城として知られていました。
そんな北条の本拠地を攻めるべく、1590年3月1日・・・
豊臣秀吉は京都を出発し、小田原へと向かいます。
既に三河の徳川家康や尾張の織田信勝、加賀の前田利家、越後の上杉景勝ら有力大名たちが兵を進め、さらに海からは、安芸の毛利輝元や土佐の長曾我部元親、志摩の九鬼嘉隆らの水軍が小田原を目指していました。
総勢20万を超える戦国オールスターの軍勢を率いた秀吉は、徹底的に北条氏を叩きのめすつもりでした。

3月29日、北条の領内に入った豊臣軍は、箱根山の中腹に立つ山中城へと攻め入ります。
堅牢な山城として知られていた山中城でしたが、豊臣軍7万に対し、北条軍はわずか4000・・・たった半日で落とされてしまいます。
その後、豊臣軍は鷹野素性、足柄城、根府川城など次々に攻略すると・・・
4月3日、遂に小田原に入ります。
20万を超す大軍が、小田原城の周囲に・・・やがて駿河湾にも1万4000もの豊臣水軍が到着し、海と陸の両方から小田原城を完全に包囲したのです。

北条氏は、如何にして豊臣軍と戦うつもりだったのでしょうか??
この状況は、北条氏に散っては想定内のことでした。
豊臣軍には数では勝てないと考え、小田原城に籠城して戦うことを決めていました。
上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めたとき、北条は籠城して軍勢を撤退させた経験があったからです。
この時の北条側は、籠城している間に、同盟関係にあった伊達政宗を期待していたのです。
籠城による徹底抗戦で伊達政宗と、豊臣軍を挟み撃ちにするつもりだったのです。

20万を超す豊臣の大軍勢に対し、居城である小田原城を楯に籠城戦をすることを決めた北条親子・・・
2人は早くから籠城の準備を進め、城を大改修します。
対秀吉に際し惣構え・・・城下町の外側に堀や土塁を作ることで町全体を防備しました。
深く広い堀が、周囲9㎞にわたって造られ、小田原の街は一つの城塞都市になっていました。
さらに、堀の随所に障子堀という仕掛けが施されていました。
山中城にはその遺構が今も残されています。
障子堀を見た軍は入ることを躊躇し、容易に小田原城には近づけなかったといいます。

その鉄壁な様子に、秀吉は小田原城を力攻めで落とすことをあきらめます。
そして、小田原攻めの後、秀吉は大坂城に”惣構”や”障子堀”を取り入れています。
それほど堅固だったのです。
しかし、敵が堀を越えてきた場合、領民もたたかわなければなりませんでした。
秀吉が攻めてくる直前に、北条氏直は、町人、商人、職人たちに対し、弓や槍、鉄砲を準備して命令が下り次第忠節を尽くせというお触れを出しています。
領民も重要な戦闘要員だったのです。
北条軍は、街をあげて秀吉軍と戦う覚悟だったのです。
城内には、北条軍と町人らを含めて6,7万人が籠城していたといわれています。
北条はそれだけの人が1,2年食べられるだけの上臈を備蓄していたのです。

しかし、信玄や謙信と籠城戦をした時と、秀吉と戦った時ではかなり状況が違います。
謙信や信玄の兵は農民でした。
その為、戦いの差有為中でも農繁期で国に帰さなければならず、小田原攻めを中断したのです。
秀吉は、信長の影響を受けて早くから兵農分離策を取っていました。
農繁期などを気にせずに戦いに専念できたのです。
北条氏は、ある程度の期間籠城すれば、豊臣軍も撤退していくと考えていました。

長期戦で不可欠なのは、兵糧の確保です。
その重要な任務を任されたのが、豊臣家家臣・長塚長束正家でした。
算術が得意な長束は、秀吉から年貢の管理や太閤検地の実施を任され、後に豊臣政権の五奉行の一人に抜擢される人物です。
長束は、すぐに20万石の米を集め、数千隻の船を使って駿河・清水港に送ります。
そこから陸路で、北条の国境にある沼津まで運び、小田原へ向け進軍してきた諸大名に配給しました。
さらに、長束は黄金1万枚を使って伊勢、尾張、三河、駿河で戦場での荷物運びや工事を担う人手や馬を調達し、小田原近くに送り込みます。
長束の見事な段取りと、秀吉の莫大な資金力により豊臣軍は万全の準備を整えていました。
また秀吉は、長期戦に備え、小田原城下に豪華な屋敷を建設・・・
そこに側室の淀の方や松の丸殿を呼び寄せたり、茶人の千利休まで同行させ度々茶会などを開いたりしていました。
従軍していた諸大名にも屋敷を建てることを許可・・・
中には兵糧の足しにと畑を作るものまでいたといいます。
こうして余裕をもって小田原攻めに臨んだ秀吉でしたが・・・
その後、焦りを見せ始めることになります。

秀吉は、小田原城を完全に包囲する一方で、さらに北条氏を追い詰めるべく関東に点在する北条氏の支城を攻略するよう別動隊に命じていました。
その主力となったのが、加賀・前田利家を総大将とする北国軍です。
利家は、上杉景勝、真田昌幸らを従え北条領へ向け進軍・・・
4月のはじめ・・・上野国に入ると松井田城を包囲します。
しかし、思いのほかてこずり、落城させるのに半月もかかってしまいます。
その後、上野国の城を次々に落としていきましたが、武蔵国で再び立ち往生・・・
鉢形城を落とすのに、またもや半月以上費やしてしまいました。
それを聞いた秀吉はいら立ちます。

「北条の枝城如きさっさと片づけんか!!」by秀吉

しかし、それを受けその後八王子城攻めに臨んだ利家は、味方に1000人以上の犠牲者を出してしまいます。
秀吉が焦っていると漢字っと史家が、強引な力攻めを仕掛けたからです。
小田原城を奉仕てから秀吉の心の中である変化が生まれていました。

この時小田原城攻めに従軍していた大名は、もともと秀吉の家臣ではありませんでした。
大名たちにとって莫大な費用が掛かる小田原城攻めは迷惑だったのです。
秀吉も、このまま長引けば諸大名の戦意が喪失し、そこを北条に狙われたら豊臣軍は瓦解してしまう・・・!!
さらには、北条と同盟関係にある徳川家康が、秀吉殿に反旗を翻すらしい・・・とうわさが流れます。
秀吉軍に不穏な空気が流れ始めていました。
その為秀吉は、これ以上長引くと更なる憶測が流れ、諸大名の士気が低下し、豊臣軍の結束が崩れると焦ったのです。

北条軍は小田原評定を開き、今後の戦略が話し合われていました。
しかし・・・ここでも全く意見がまとまりませんでした。

1590年6月・・・
豊臣秀吉に対し、徹底抗戦を続ける北条氏・・・
籠城する小田原城内では次なる一手をどうするか??軍議が開かれますが、なかなか意見がまとまりません。
一方の秀吉も、小田原城を包囲し2か月が経とうというのに有効な手立てを見いだせず焦り始めていました。

双方手詰まりの中、ある人物が動き出します。
長年北条氏と同盟関係にあった伊達政宗です。
政宗は、秀吉からも味方につくように再三促されていましたが、態度を決めかねていました。
北条に援軍を出すのか??
それとも豊臣につくのか・・・??
まだ24歳の若き当主は悩みに悩みます。
6月5に、小田原にやってきた政宗が向かった先は・・・
秀吉のもとでした。
白装束をまとい、斬られる覚悟で参上した政宗は、秀吉への臣従を誓ったのです。
この政宗の寝返りにより、伊達軍と協力して挟み撃ちにするという北条も目論見は崩れます。
完全に孤立した北条氏は、いよいよ追い込まれていきます。
そんな中、北条氏の支城の中でも堅牢とされていた八王子城に続き韮山城が陥落・・・
氏政の弟で城主・氏規が投降しました。
すかさず秀吉は、降伏した氏規を小田原城内にいた氏直のもとに送ります。
講和に応じるよう説得させ、北条氏にゆさぶりをかけたのです。
すると・・・紛糾していた軍議の空気が変わり始めました。

当初、徹底抗戦を強く主張していた氏政と弟・氏照でしたが、氏照が城主を務めていた八王子城が陥落・・・
氏政と氏照の発言力が弱まり、代わって氏直を中心とする穏健派が優勢となっていきました。
そして6月26日の早朝・・・北条氏に大きな衝撃が走ります。

なんと、小田原城を見下ろす笠懸山に豊臣軍の城が現れたのです。
秀吉は、小田原に到着早々密かに城づくりを進めていました。
しかもそれは、関東にほとんどなかった総石垣づくりの本格的な城でした。
数千人を動員して城を作らせています。
莫大な費用を使い、短期間で城を作り上げたことで、秀吉の圧倒的な力を北条氏に見せつけたのです。

一説には、この城は完成直前まで隠され、一晩で作られたような印象を与えたため、後世「一夜城」と呼ばれました。
豊臣家の絶対的な力を見せつけられた北条氏直は、再三の秀吉の降伏要求に次第になびいていきます。
父・氏政は、未だ戦う姿勢を崩しませんでしたが、家臣たちの士気は明らかに下がっていました。
そして、7月5日、北条氏直・・・投降・・・
ついに小田原城を出るのです。
3か月にわたる籠城もむなしく、関東の覇者北条氏は敗北しました。

こののち、奥羽地方を平定した秀吉は、天下統一を果たします。
これは、かつての主君・織田信長もなしえなかったものです。
北条氏は・・・主戦派だった氏政とその弟・氏規は切腹、投降した氏直は、高野山へと追放されます。
誇り高き北条は、歴史の表舞台から消え去ることとなりました。
そして、天下人となった秀吉は、更なる野望を抱き、朝鮮出兵へと突き進んでいくことになるのです。

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時は戦国の世・・・1578年3月9日!!
越後の龍と恐れられた上杉謙信が、突然倒れ、そのまま目を覚ますことなく4日後に亡くなりました。
生涯独身を貫いた謙信には、実子がなく、いたのはふたりの養子・・・景虎と景勝でした。
後継者を明言しないまま急死・・・!!

越後国の戦国大名・上杉謙信の養子で義兄弟だった上杉景虎と景勝・・・
兄にあたる景虎は、1554年相模国を治める北条氏康の七男として生まれたといわれています。
元の名は、北条三郎。
その頃の北条は、上杉の宿敵・甲斐の武田と同盟を組んでいたこともあり、上杉とは敵対関係にありました。
ところが、1568年・・・北条氏康は、外交政策の大転換を図り、武田との同盟を破棄、上杉と同盟を結ぶことにします。
その2年後・・・謙信は同盟の証として北条から差し出された養子を迎え入れます。
それが、当時17歳の三郎でした。
三郎が謙信の養子に選ばれたのは・・・??
当時は、四代当主・氏政の次男を送ろうとしていました。
しかし、幼く、他国に遣わすのには心苦しい・・・そして見直されたのが三郎でした。
三郎と同じ年頃の姪のいた謙信・・・2人を結婚させれば同盟がより強固となると考えたのです。
こうして三郎を越後に迎えた謙信は、姪の清円院と祝言をあげさせます。
そして、自身の若い頃の名である景虎を与えて上杉景虎を名乗らせます。
景虎は、謙信の居城だった春日山城の三ノ丸に住むこととなりました。
結婚の翌年には、道満丸が生まれ、謙信は初孫の誕生をとても喜んだといいます。
景虎が、後継者候補の筆頭であることは誰の目にも明らかでした。

謙信が、景勝をもう一人の候補にした理由は・・・??
それは、景虎の実家である北条氏にありました。
景虎が謙信の養子となった翌年の1571年、景虎の実父である氏康が死去・・・
すでに家督を継いでいた次男の氏政(景虎の実兄)が、全権を握ります。
氏政は、上杉と同盟を結んでいながら、水面下で武田家との関係回復を試み、再び同盟を結ぶのです。
そこにはこんな狙いがありました。
武田と改めて同盟を結ぶのは、上杉と喧嘩をしたいのではなく・・・
氏康は、北条・武田・上杉の三国同盟を考えていたのです。
しかし、北条と手を組んで武田を討つつもりでいた謙信にとっては、裏切り以外の何物でもありませんでした。
すぐに手切れの書状を送り、北条との同盟を破棄!!
これに、誰より驚き、嘆いたのが他ならない景虎でした。

「同盟の証だった自分は、もはや不要か・・・」

裏切り者の北条の血をひく自分は、殺されても仕方がない・・・少なくとも追放はされるだろうと諦めました。
ところが、謙信は、景虎を養子という立場のまま越後国に留め置いたのです。
謙信は、節義を重んじる武将・・・
被害者である景虎をさらに追い込むようなことはしたくはなかったのです。
その時には、道満丸が生れていて、引き裂くのは良くないのでは・・・??
この謙信の情愛に感謝した景虎は、それまで使っていた北条一門の花押から謙信に倣った花押に変えています。

「自分は上杉家の後継である」という自負の表れでした。

しかし、北条家出身の景虎が後継者候補であり続けることに不安を感じる家臣も少なからずいました。

「景虎さまが当主となれば、再び北条と手を結び、北条に刃を向けた我らに厳しい制裁を加えるかもしれぬ・・・!!」

こうした家臣たちの声に謙信は、

「景虎が後継のままでは何かと不都合が生じるやもしれぬな」

そんな中、1574年、景虎の運命を決定づける事件が起こります。
上杉と北条が争奪戦を繰り広げていた関宿城が、北条の手に落ちたのです。
関宿城は戦略的に重要で、利根川の水運の要所でもあり、経済的にも軍事的にも非常に重要でした。
北条氏康も重要視しており、
「この城を獲ることは一国を獲ることに等しい」と主張していました。
これを奪われてしまった・・・
関宿城が北条の手に落ちたことで、謙信は大きな戦略転換を余儀なくされます。
それが、景勝を迎え入れることでした。

1555年に生まれた景勝は、景虎より1歳年下でした。
元の名を顕景(喜平次)といい、父は越後国・長尾政景・母は謙信の姉でした。
顕景10歳の時に、実父の政景が湖で溺死・・・
叔父である謙信に引き取られ、我が子のようにかわいがられました。
十代後半で実家に戻り、上杉家の主力部隊・上田衆の長として軍事活動に従事、1575年21歳で再び謙信の養子となりました。
謙信は顕景に上杉姓を与え、上杉景勝を名乗らせ、自身の官職である弾正少弼を譲ります。
さらに、春日山城である謙信の尊称・御実城様によく似た御中城様という呼び名を与え、その御中城様を筆頭においた家臣団の名簿を新たに編纂しました。
これまた破格の厚遇でした。

謙信は、家臣たちの不安を払拭し、反北条の士気を高めるために、戦の経験豊富な景勝をもう一人の後継者候補にしたのです。
しかし、どちらが後継者候補の筆頭なのか?明言はしませんでした。
こうして二人の養子を得た謙信は、1577年、北陸方面をほぼ平定。
さらには、手取川の戦いで織田信長軍を撃退!!
越後の龍ここにありと、その名をとどろかせ、関東平定に乗り出そうとしていました。
ところが・・・1578年3月9日、突如倒れます。
通説では脳卒中で、そのまま一度も目を覚ますことなく、4日後に息を引き取ったといわれています。
そのため謙信は、後継者の名を言い残すことが出来ませんでした。
そのため、景虎と景勝による御館の乱が勃発したといわれてきました。

謙信は、家督を誰に譲るつもりだったのでしょうか?
景虎と景勝に分割譲渡するはずだった?
後継者を決めていなかった?
江戸時代から多くの意見が交わされてきました。
後継者を自分の言葉で伝え残したのでは・・・??
辞世の句も残っているので、脳卒中でそのまま・・・というのは考えにくいのでは??

”景勝が後継者で・・・しかしそれは中継ぎで、後々は道満丸に・・・”

景虎にしても景勝にしても、上杉家が分裂する可能性は高く、道満丸ならばどちらも納得のいく選択だったのでは・・・??

新潟県阿賀町・・・平等時薬師堂は、重要文化財にも指定されている県内最古の木造建築の一つです。
興味深いのは、非公開となっている堂内です。
戦国時代から江戸時代に書かれたといわれている落書きが、今もそのまま残されています。
中でも注目すべきは、御館の乱が起こった頃の兵士の落書きです。

”謙信様の御頓死で三郎殿(景虎)と喜平次殿(景勝)が御名代を争い、越後中が大混乱となった”

御名代=幼い当主に代わって政務を行う後見人のことです。
つまり、景虎と景勝は、道満丸が成長するまでの後見人を争って兄弟げんかをしていたというのです。
景勝軍が、景虎の屋敷を鉄砲で撃ったとよく言われますが、発砲した痕跡は何も残っていません。
謙信が亡くなった直後の書状にも、景虎と景勝の争いは一切書かれていません。
謙信の死後すぐには争っていないのでは・・・??
どうして御館の乱は起こったのでしょうか?
そのきっかけを作ったのは、会津の戦国大名・蘆名盛氏です。
盛氏は非常に好戦的で、謙信の死後上杉家に弔問の使者を送りつつ、その裏で越後侵略の準備を進めていました。
この盛氏の動きに一早く気付いたのが、上杉家の古参の重臣・神余親綱です。
親綱は三条城で厳戒態勢を敷き戦に備えますが、急を要する事態だったため、景勝には未報告でした。
すると、景勝はこの親綱の単独行動に不信感を抱きます。

「弔問の使者まで奇越してくれた蘆名殿が、侵略など考えるものか・・・
 親綱め・・・何か謀か?」

景勝は、家督を相続したばかりでナーバスになっていました。
あらぬ疑いをかけられてしまった親綱は、謀などもってのほかと弁明・・・
しかし、景勝は聞く耳を持たず、さらに強気に出ます。

「ならば、中世の証である誓詞を差し出すのじゃ」

長年上杉家に忠誠を尽くして来た親綱にとって、これほど屈辱的な命令はありませんでした。
憤慨した親綱は、自分に全く非はないと強く主張し、誓詞の提出を拒否!!
すると、そうこうしているうちに蘆名盛氏が、越後に攻め込んできたのです。
近くにいた上杉軍が、すぐに応戦し蘆名軍を撤退させましたが、これで親綱の判断が正しかったことが証明され、景勝の面目は丸つぶれ・・・家臣たちの信望を、一気に失ってしまいました。
重臣たちは口々にこう言いました。

「景勝さまではダメだ」

とはいえ、当主と重臣が仲たがいしたままではダメだ・・・と、謙信の義理の父上杉憲政らが二人の仲介役を買って出ますが、どちらも一歩も引かず・・・5月1日、神余親綱が景勝から離反!!
仲介役を務めた憲政らも、あまりにも頭の固い景勝を見限り、代わりの当主を立てようと動き出しました。
代わりの当主・・・それは、外ならぬ景虎でした。
織田と対立している今、東国とはあまり対立したくない・・・
ところが、景勝は強硬派・・・そう考えると、景虎だと北条は味方になってくれるかもしれない・・・武田も、味方になってくれる・・・その時、上杉家の当主は景勝ではない方がいい・・・!!
しかし、ことは簡単ではありませんでした。

「新たな当主として名乗りを上げれば、景勝との争いは必至
 御実城様(謙信)の遺言に背くことにもなる
 だが、家臣たちの信頼を失くした景勝が、当主として相応しくないのも誠のこと」

思い悩んだ末、景虎は、景勝に代わって当主になることを決意しました。
こうして戦国最大の兄弟げんか・御館の乱が勃発することとなったのです。

中継ぎ投手の座を巡って、ついに争うこととなった景虎と景勝!!
景虎方には、景勝と決裂した神余親綱・謙信の義理の父である上杉憲政・本庄秀綱・多くの上杉一門衆
景勝方には、直江信綱・斎藤朝信・河田長親・謙信以来の側近や旗本
がつきました。
両軍の戦力はほぼ互角!!
まさに越後を二分した内乱でした。
そして、謙信の死から2か月後・・・1578年5月!!
春日山城の一口にある大場で、両陣営が激突!!
景勝方は、春日山城の本丸から三ノ丸へ攻撃!!
すると、5月13日ごろ、景虎は長男の道満丸と数十人の家臣をつれ、春日山城から4キロほど離れた御館に移ります。
御館は、謙信が義理の父の上杉憲政のために立てた屋敷で、単なる邸宅ではなく堀などを備えた城塞だったといわれています。
ここを本拠とした景虎は、16日、桃井義孝を大将とするおよそ6000の大軍で春日山城を襲撃!!
桃井たちは、本丸めがけて一気に突き進みますが・・・道幅の狭い門の手前で猛攻を受けると、進も退くもできずに大混乱!!
桃井をはじめ、多くの兵を失ってしまいます。
景虎は、すぐに体制を立て直し、再び春日山城を攻めましたが、結果は同じ・・・景虎方の惨敗でした。

長期戦しかない・・・が、自分に軍事力があるわけではない=北条に助けを求めました。
しかし、景虎の実兄・北条氏政は、北関東で対抗勢力と交戦中・・・援軍を送ることが出来ません。
そこで氏政は、同盟を結んでいた武田勝頼(妹を嫁がせているので義兄弟)に景虎の援軍を要請します。
これに応えた勝頼は、2万の大軍と共に越後国へ向けて出陣!!
援軍来たれりという知らせを受けて景虎は息を吹き返し、さらに5月29日、会津の蘆名盛氏と軍事提携を結びます。
これで、兵力の上では景虎の圧倒的優位となりました。
しかし・・・景勝が秘策に打って出ます。

6月初旬、景勝は武田勝頼のもとへ使者を派遣します。
すると、使者の言葉を聞いた勝頼は侵攻を停止します。
自分は謙信の跡継ぎとして持っているものがある・・・勝頼への金銭と領土の割譲で手を打ちました。
手伝い戦で乗り気ではない勝頼に、金銭と土地を与えて戦闘を回避したのです。
景勝は、これに失敗したら終わりという危機感がありました。
これが上手くいかなければ、御館の乱で負けたのは景勝だったでしょう。

北条にも顔をたつように、勝頼はふたりを和睦させます。
勝頼の仲介によって一度は和睦した景虎と景勝・・・
勝頼が甲斐国に戻ってしまうとすぐに破綻!!
再び刃を交えます。
そして、同じ年の9月、北関東での戦いを終えた北条氏政は、景虎の援軍として2人の弟を越後国に派遣!!
北条軍は、景勝側の城を立て続けに落とし、春日山城の支城である坂戸城にも攻めかかります。
景勝方も必死に交戦し、双方多数の死傷者を出す激戦となりました。

春日山城の支城である坂戸城を景虎の援軍である北条軍に攻め込まれていた景勝は・・・待っていました。
それは雪!!

「相模と越後を結ぶ三国峠は雪深い地
 雪が降れば、北条は退路を断たれる前に必ず兵を退くはず・・・!!」

その読み通り、10月、雪が降り始めると、北条軍は坂戸城を落とせぬまま無念の撤退!!
まもなく越後国は深い雪に閉ざされました。
景虎と景勝は、自らの勢力だけで戦うこととなります。
こうなると、磁力に勝る景勝方が有利!!
景虎方から景勝側に転じる武将も多く現れました。
そして迎えた1579年1月・・・

「御館を討ち果たす!!」

そう宣言した景勝は、二度にわたる御館への総攻撃で景虎方の武将を次々に討ち果たし、遂には御館の周辺に放火!!
一面焼け野原となりました。
景虎方についていた上杉憲政は、景虎の長男・道満丸をつれて御館を脱出!!
景勝との和議を求めて春日山城へと向かうのですが、その道中、景勝の直臣によって二人とも斬殺されたといいます。
道満丸は、まだ9歳でした。
この時、景勝は武田勝頼の妹・菊姫との結婚が決まっていました。
道満丸がいることで再び争いになる・・・!!

一方、景虎も多くの家臣と共に御館を脱出!!
鮫ヶ尾城に逃げ込んだものの、すぐに取り囲まれてしまいました。

「もはやこれまで!!」

1579年3月24日、上杉景虎自刃・・・謙信の死からおよそ1年後のことでした。

そして景虎の死を知った兼勝は・・・

「去年以来の鬱憤を散じ候
 定めて大慶となすべし」

しかし、景虎の首を見て涙したといわれています。

こうして義理の兄に勝利し、名実ともに上杉の当主となった景勝
反景勝派の抵抗は、その後1年近く続きました。
この戦いで双方多くの兵を失い、その軍事力は著しく低下していました。
織田信長などの軍事侵攻に苦しめられることとなります。
また、恩賞の配分を巡っても景勝が自身の腹心をあからさまに優遇したことで不満が続出!!
終には、恩賞の配分を不服とした乱が勃発!!
平定するまでにおよそ7年を擁し、国力をさらに低下させてしまいました。
越後の龍・上杉謙信が築き上げた上杉家の勢力と威信は、謙信が後継者とした二人の兄弟げんかによって失われてしまったのです。
さらに、御館の乱は、戦国の勢力図を大きく塗り替えてしまいました。
武田勝頼が景虎の援軍という北条氏政の依頼を反故にしたため武田と北条の同盟が破たん!!
まもなくして北条が織田・徳川軍と手を結んだことで武田は三方を敵に囲まれてしまいます。
勝頼が頼れる相手は景勝だけでしたが、上杉に武田を助ける力はすでになく・・・

1582年武田氏滅亡。

織田・徳川・北条の甲州征伐によって・・・!!
上杉・武田の脅威がなくなったことで、戦国の世に新たな風が吹くこととなったのです。

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