日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:上杉景勝

時は戦国の世・・・1578年3月9日!!
越後の龍と恐れられた上杉謙信が、突然倒れ、そのまま目を覚ますことなく4日後に亡くなりました。
生涯独身を貫いた謙信には、実子がなく、いたのはふたりの養子・・・景虎と景勝でした。
後継者を明言しないまま急死・・・!!

越後国の戦国大名・上杉謙信の養子で義兄弟だった上杉景虎と景勝・・・
兄にあたる景虎は、1554年相模国を治める北条氏康の七男として生まれたといわれています。
元の名は、北条三郎。
その頃の北条は、上杉の宿敵・甲斐の武田と同盟を組んでいたこともあり、上杉とは敵対関係にありました。
ところが、1568年・・・北条氏康は、外交政策の大転換を図り、武田との同盟を破棄、上杉と同盟を結ぶことにします。
その2年後・・・謙信は同盟の証として北条から差し出された養子を迎え入れます。
それが、当時17歳の三郎でした。
三郎が謙信の養子に選ばれたのは・・・??
当時は、四代当主・氏政の次男を送ろうとしていました。
しかし、幼く、他国に遣わすのには心苦しい・・・そして見直されたのが三郎でした。
三郎と同じ年頃の姪のいた謙信・・・2人を結婚させれば同盟がより強固となると考えたのです。
こうして三郎を越後に迎えた謙信は、姪の清円院と祝言をあげさせます。
そして、自身の若い頃の名である景虎を与えて上杉景虎を名乗らせます。
景虎は、謙信の居城だった春日山城の三ノ丸に住むこととなりました。
結婚の翌年には、道満丸が生まれ、謙信は初孫の誕生をとても喜んだといいます。
景虎が、後継者候補の筆頭であることは誰の目にも明らかでした。

謙信が、景勝をもう一人の候補にした理由は・・・??
それは、景虎の実家である北条氏にありました。
景虎が謙信の養子となった翌年の1571年、景虎の実父である氏康が死去・・・
すでに家督を継いでいた次男の氏政(景虎の実兄)が、全権を握ります。
氏政は、上杉と同盟を結んでいながら、水面下で武田家との関係回復を試み、再び同盟を結ぶのです。
そこにはこんな狙いがありました。
武田と改めて同盟を結ぶのは、上杉と喧嘩をしたいのではなく・・・
氏康は、北条・武田・上杉の三国同盟を考えていたのです。
しかし、北条と手を組んで武田を討つつもりでいた謙信にとっては、裏切り以外の何物でもありませんでした。
すぐに手切れの書状を送り、北条との同盟を破棄!!
これに、誰より驚き、嘆いたのが他ならない景虎でした。

「同盟の証だった自分は、もはや不要か・・・」

裏切り者の北条の血をひく自分は、殺されても仕方がない・・・少なくとも追放はされるだろうと諦めました。
ところが、謙信は、景虎を養子という立場のまま越後国に留め置いたのです。
謙信は、節義を重んじる武将・・・
被害者である景虎をさらに追い込むようなことはしたくはなかったのです。
その時には、道満丸が生れていて、引き裂くのは良くないのでは・・・??
この謙信の情愛に感謝した景虎は、それまで使っていた北条一門の花押から謙信に倣った花押に変えています。

「自分は上杉家の後継である」という自負の表れでした。

しかし、北条家出身の景虎が後継者候補であり続けることに不安を感じる家臣も少なからずいました。

「景虎さまが当主となれば、再び北条と手を結び、北条に刃を向けた我らに厳しい制裁を加えるかもしれぬ・・・!!」

こうした家臣たちの声に謙信は、

「景虎が後継のままでは何かと不都合が生じるやもしれぬな」

そんな中、1574年、景虎の運命を決定づける事件が起こります。
上杉と北条が争奪戦を繰り広げていた関宿城が、北条の手に落ちたのです。
関宿城は戦略的に重要で、利根川の水運の要所でもあり、経済的にも軍事的にも非常に重要でした。
北条氏康も重要視しており、
「この城を獲ることは一国を獲ることに等しい」と主張していました。
これを奪われてしまった・・・
関宿城が北条の手に落ちたことで、謙信は大きな戦略転換を余儀なくされます。
それが、景勝を迎え入れることでした。

1555年に生まれた景勝は、景虎より1歳年下でした。
元の名を顕景(喜平次)といい、父は越後国・長尾政景・母は謙信の姉でした。
顕景10歳の時に、実父の政景が湖で溺死・・・
叔父である謙信に引き取られ、我が子のようにかわいがられました。
十代後半で実家に戻り、上杉家の主力部隊・上田衆の長として軍事活動に従事、1575年21歳で再び謙信の養子となりました。
謙信は顕景に上杉姓を与え、上杉景勝を名乗らせ、自身の官職である弾正少弼を譲ります。
さらに、春日山城である謙信の尊称・御実城様によく似た御中城様という呼び名を与え、その御中城様を筆頭においた家臣団の名簿を新たに編纂しました。
これまた破格の厚遇でした。

謙信は、家臣たちの不安を払拭し、反北条の士気を高めるために、戦の経験豊富な景勝をもう一人の後継者候補にしたのです。
しかし、どちらが後継者候補の筆頭なのか?明言はしませんでした。
こうして二人の養子を得た謙信は、1577年、北陸方面をほぼ平定。
さらには、手取川の戦いで織田信長軍を撃退!!
越後の龍ここにありと、その名をとどろかせ、関東平定に乗り出そうとしていました。
ところが・・・1578年3月9日、突如倒れます。
通説では脳卒中で、そのまま一度も目を覚ますことなく、4日後に息を引き取ったといわれています。
そのため謙信は、後継者の名を言い残すことが出来ませんでした。
そのため、景虎と景勝による御館の乱が勃発したといわれてきました。

謙信は、家督を誰に譲るつもりだったのでしょうか?
景虎と景勝に分割譲渡するはずだった?
後継者を決めていなかった?
江戸時代から多くの意見が交わされてきました。
後継者を自分の言葉で伝え残したのでは・・・??
辞世の句も残っているので、脳卒中でそのまま・・・というのは考えにくいのでは??

”景勝が後継者で・・・しかしそれは中継ぎで、後々は道満丸に・・・”

景虎にしても景勝にしても、上杉家が分裂する可能性は高く、道満丸ならばどちらも納得のいく選択だったのでは・・・??

新潟県阿賀町・・・平等時薬師堂は、重要文化財にも指定されている県内最古の木造建築の一つです。
興味深いのは、非公開となっている堂内です。
戦国時代から江戸時代に書かれたといわれている落書きが、今もそのまま残されています。
中でも注目すべきは、御館の乱が起こった頃の兵士の落書きです。

”謙信様の御頓死で三郎殿(景虎)と喜平次殿(景勝)が御名代を争い、越後中が大混乱となった”

御名代=幼い当主に代わって政務を行う後見人のことです。
つまり、景虎と景勝は、道満丸が成長するまでの後見人を争って兄弟げんかをしていたというのです。
景勝軍が、景虎の屋敷を鉄砲で撃ったとよく言われますが、発砲した痕跡は何も残っていません。
謙信が亡くなった直後の書状にも、景虎と景勝の争いは一切書かれていません。
謙信の死後すぐには争っていないのでは・・・??
どうして御館の乱は起こったのでしょうか?
そのきっかけを作ったのは、会津の戦国大名・蘆名盛氏です。
盛氏は非常に好戦的で、謙信の死後上杉家に弔問の使者を送りつつ、その裏で越後侵略の準備を進めていました。
この盛氏の動きに一早く気付いたのが、上杉家の古参の重臣・神余親綱です。
親綱は三条城で厳戒態勢を敷き戦に備えますが、急を要する事態だったため、景勝には未報告でした。
すると、景勝はこの親綱の単独行動に不信感を抱きます。

「弔問の使者まで奇越してくれた蘆名殿が、侵略など考えるものか・・・
 親綱め・・・何か謀か?」

景勝は、家督を相続したばかりでナーバスになっていました。
あらぬ疑いをかけられてしまった親綱は、謀などもってのほかと弁明・・・
しかし、景勝は聞く耳を持たず、さらに強気に出ます。

「ならば、中世の証である誓詞を差し出すのじゃ」

長年上杉家に忠誠を尽くして来た親綱にとって、これほど屈辱的な命令はありませんでした。
憤慨した親綱は、自分に全く非はないと強く主張し、誓詞の提出を拒否!!
すると、そうこうしているうちに蘆名盛氏が、越後に攻め込んできたのです。
近くにいた上杉軍が、すぐに応戦し蘆名軍を撤退させましたが、これで親綱の判断が正しかったことが証明され、景勝の面目は丸つぶれ・・・家臣たちの信望を、一気に失ってしまいました。
重臣たちは口々にこう言いました。

「景勝さまではダメだ」

とはいえ、当主と重臣が仲たがいしたままではダメだ・・・と、謙信の義理の父上杉憲政らが二人の仲介役を買って出ますが、どちらも一歩も引かず・・・5月1日、神余親綱が景勝から離反!!
仲介役を務めた憲政らも、あまりにも頭の固い景勝を見限り、代わりの当主を立てようと動き出しました。
代わりの当主・・・それは、外ならぬ景虎でした。
織田と対立している今、東国とはあまり対立したくない・・・
ところが、景勝は強硬派・・・そう考えると、景虎だと北条は味方になってくれるかもしれない・・・武田も、味方になってくれる・・・その時、上杉家の当主は景勝ではない方がいい・・・!!
しかし、ことは簡単ではありませんでした。

「新たな当主として名乗りを上げれば、景勝との争いは必至
 御実城様(謙信)の遺言に背くことにもなる
 だが、家臣たちの信頼を失くした景勝が、当主として相応しくないのも誠のこと」

思い悩んだ末、景虎は、景勝に代わって当主になることを決意しました。
こうして戦国最大の兄弟げんか・御館の乱が勃発することとなったのです。

中継ぎ投手の座を巡って、ついに争うこととなった景虎と景勝!!
景虎方には、景勝と決裂した神余親綱・謙信の義理の父である上杉憲政・本庄秀綱・多くの上杉一門衆
景勝方には、直江信綱・斎藤朝信・河田長親・謙信以来の側近や旗本
がつきました。
両軍の戦力はほぼ互角!!
まさに越後を二分した内乱でした。
そして、謙信の死から2か月後・・・1578年5月!!
春日山城の一口にある大場で、両陣営が激突!!
景勝方は、春日山城の本丸から三ノ丸へ攻撃!!
すると、5月13日ごろ、景虎は長男の道満丸と数十人の家臣をつれ、春日山城から4キロほど離れた御館に移ります。
御館は、謙信が義理の父の上杉憲政のために立てた屋敷で、単なる邸宅ではなく堀などを備えた城塞だったといわれています。
ここを本拠とした景虎は、16日、桃井義孝を大将とするおよそ6000の大軍で春日山城を襲撃!!
桃井たちは、本丸めがけて一気に突き進みますが・・・道幅の狭い門の手前で猛攻を受けると、進も退くもできずに大混乱!!
桃井をはじめ、多くの兵を失ってしまいます。
景虎は、すぐに体制を立て直し、再び春日山城を攻めましたが、結果は同じ・・・景虎方の惨敗でした。

長期戦しかない・・・が、自分に軍事力があるわけではない=北条に助けを求めました。
しかし、景虎の実兄・北条氏政は、北関東で対抗勢力と交戦中・・・援軍を送ることが出来ません。
そこで氏政は、同盟を結んでいた武田勝頼(妹を嫁がせているので義兄弟)に景虎の援軍を要請します。
これに応えた勝頼は、2万の大軍と共に越後国へ向けて出陣!!
援軍来たれりという知らせを受けて景虎は息を吹き返し、さらに5月29日、会津の蘆名盛氏と軍事提携を結びます。
これで、兵力の上では景虎の圧倒的優位となりました。
しかし・・・景勝が秘策に打って出ます。

6月初旬、景勝は武田勝頼のもとへ使者を派遣します。
すると、使者の言葉を聞いた勝頼は侵攻を停止します。
自分は謙信の跡継ぎとして持っているものがある・・・勝頼への金銭と領土の割譲で手を打ちました。
手伝い戦で乗り気ではない勝頼に、金銭と土地を与えて戦闘を回避したのです。
景勝は、これに失敗したら終わりという危機感がありました。
これが上手くいかなければ、御館の乱で負けたのは景勝だったでしょう。

北条にも顔をたつように、勝頼はふたりを和睦させます。
勝頼の仲介によって一度は和睦した景虎と景勝・・・
勝頼が甲斐国に戻ってしまうとすぐに破綻!!
再び刃を交えます。
そして、同じ年の9月、北関東での戦いを終えた北条氏政は、景虎の援軍として2人の弟を越後国に派遣!!
北条軍は、景勝側の城を立て続けに落とし、春日山城の支城である坂戸城にも攻めかかります。
景勝方も必死に交戦し、双方多数の死傷者を出す激戦となりました。

春日山城の支城である坂戸城を景虎の援軍である北条軍に攻め込まれていた景勝は・・・待っていました。
それは雪!!

「相模と越後を結ぶ三国峠は雪深い地
 雪が降れば、北条は退路を断たれる前に必ず兵を退くはず・・・!!」

その読み通り、10月、雪が降り始めると、北条軍は坂戸城を落とせぬまま無念の撤退!!
まもなく越後国は深い雪に閉ざされました。
景虎と景勝は、自らの勢力だけで戦うこととなります。
こうなると、磁力に勝る景勝方が有利!!
景虎方から景勝側に転じる武将も多く現れました。
そして迎えた1579年1月・・・

「御館を討ち果たす!!」

そう宣言した景勝は、二度にわたる御館への総攻撃で景虎方の武将を次々に討ち果たし、遂には御館の周辺に放火!!
一面焼け野原となりました。
景虎方についていた上杉憲政は、景虎の長男・道満丸をつれて御館を脱出!!
景勝との和議を求めて春日山城へと向かうのですが、その道中、景勝の直臣によって二人とも斬殺されたといいます。
道満丸は、まだ9歳でした。
この時、景勝は武田勝頼の妹・菊姫との結婚が決まっていました。
道満丸がいることで再び争いになる・・・!!

一方、景虎も多くの家臣と共に御館を脱出!!
鮫ヶ尾城に逃げ込んだものの、すぐに取り囲まれてしまいました。

「もはやこれまで!!」

1579年3月24日、上杉景虎自刃・・・謙信の死からおよそ1年後のことでした。

そして景虎の死を知った兼勝は・・・

「去年以来の鬱憤を散じ候
 定めて大慶となすべし」

しかし、景虎の首を見て涙したといわれています。

こうして義理の兄に勝利し、名実ともに上杉の当主となった景勝
反景勝派の抵抗は、その後1年近く続きました。
この戦いで双方多くの兵を失い、その軍事力は著しく低下していました。
織田信長などの軍事侵攻に苦しめられることとなります。
また、恩賞の配分を巡っても景勝が自身の腹心をあからさまに優遇したことで不満が続出!!
終には、恩賞の配分を不服とした乱が勃発!!
平定するまでにおよそ7年を擁し、国力をさらに低下させてしまいました。
越後の龍・上杉謙信が築き上げた上杉家の勢力と威信は、謙信が後継者とした二人の兄弟げんかによって失われてしまったのです。
さらに、御館の乱は、戦国の勢力図を大きく塗り替えてしまいました。
武田勝頼が景虎の援軍という北条氏政の依頼を反故にしたため武田と北条の同盟が破たん!!
まもなくして北条が織田・徳川軍と手を結んだことで武田は三方を敵に囲まれてしまいます。
勝頼が頼れる相手は景勝だけでしたが、上杉に武田を助ける力はすでになく・・・

1582年武田氏滅亡。

織田・徳川・北条の甲州征伐によって・・・!!
上杉・武田の脅威がなくなったことで、戦国の世に新たな風が吹くこととなったのです。

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1600年9月15日、徳川家康と石田三成が天下の覇権をかけて戦った関ケ原の戦い・・・。
まさに、その同じ日に、遠く出羽国で運命の戦いが繰り広げられていました。
上杉家の武将・直江兼続が最上義昭を攻撃した長谷堂合戦・・・別名、「北の関ケ原」と呼ばれています。
愛の兜で名高い直江兼続・・・この時の決断は、時代を大きく左右しました。

新潟県南魚沼市・・・雲洞庵に直江兼続の幼少期のエピソードが残っています。
兼続5歳・・・上杉謙信にその才気を見込まれ、後継者である上杉景勝の補佐役として育てられました。
兼続は5歳年上の景勝に生涯忠誠をつくし、共に戦国乱世を生き抜いていきました。

兼続を奉行としてほしいと言われた重臣に・・・
「兼続には、全てにおいて隙のないほど政務を命じている
 奉行に就任すれば支障が出てしまう。」by景勝

兼続に課せられた役目は・・・
天下統一の流れにどう対応していくのか??ということでした。
そんな中で、豊臣政権との交渉の結節点、上杉川側の中心に兼続が立っていました。
上杉家は、中央政権と密接にかかわることで、越後支配を盤石にしました。
これは、上杉家の大きな決断でした。

1598年1月、豊臣秀吉から上杉景勝に思わぬ命令が・・・
「越後を離れ、会津に移るべし!!」
背景には、最大の実力者・徳川家康の不穏な動きにありました。
家康は当時、関東7か国を統治、伊達政宗、最上義光ら東北の大名と関係を深めようとしていました。
秀吉が上杉家を120万石に加増して会津に移したのは、これににらみを利かせるためでした。
更にこの年、景勝は、毛利輝元・宇喜多秀家・徳川家康・前田利家らと五大老のひとりに選ばれています。
景勝は、家康をおさえるキーマンに抜擢されたのです。
ところが・・・その年の8月、秀吉が亡くなると、時代は大きく動き出します。
1599年、徳川家康は伊達政宗と縁組・・・
東国での更なる勢力拡大に動いたのです。

奉行のひとり石田三成がこれに反発・・・前田利家の力を借りて、家康の動きを阻もうと試みますが・・・
頼みとしていた利家が病死、石田三成は佐和山城に蟄居となってしまいました。
主な政敵をことごとく排除した家康は、大坂城に入り、政務を行いはじめます。
そして・・・次なるターゲットとしたのが上杉家だったのです。

1600年4月上旬・・・兼続の元へ家康の外交僧・西笑承兌から書状が届きます。
”近隣の大名家が上杉家に謀反の動きがあると訴えてきた・・・
 景勝公は神指原で築城を進めているそうだが、甚だ本当ではない。
 一刻も早く上洛し、家康公に弁明すべきだ!!”
その頃、上杉家は若松城に代わる城の工事を始めていました。
家康は、この築城が謀反の証だと糾弾したのです。

会津若松から5キロのところに、神指城跡があります。
面積50ヘクタール、東日本最大の近世城郭でした。
発掘された内堀は、浅い段階で中止されていました。
会津と新潟を結ぶ阿賀野川・・・そのすぐ脇に神指城を造っていました。
水上交通で経済を発展させ、平地に街をつくる城下町構想でした。
狙いは・・・会津と越後を水運で結ぶことにありました。
その結果、商人たちは日本海航路を使って、産物を全国に輸出することができました。
築城は、会津に一大貿易都市を築くプロジェクトだったのです。

1600年4月14日、兼続は、西笑承兌に宛てて返書を認めました。
史上名高い「直江状」です。
兼続は、15項目に渡って天下の実力者・家康に向かって真っ向から反論します。

謀反のため武具を集めているといわれるが、槍鉄砲を集めるのは田舎武士にとっては日常の事。
逆心無くば上洛せよとは乳呑子相手の話・・・何とも対応の仕様がございません。
そもそも訴えたものの究明がなければ、上洛するわけにはまいりません。
兼続は家康に対して、景勝上洛は断じて飲むことはできないと主張しました。
1600年5月・・・事態は一転和解へ・・・。
大坂からの使者からの粘り強い交渉で、景勝上洛が取り決められました。

交渉における兼続の主張は・・・??
・上杉謀反を讒言した人物の取り調べ
・秋以降の上洛
妥協し、提示しました。

しかし、その思惑は、あっけなく覆されます。
家康が一足先に届いた直江状を逆手にとって、上杉家に対して態度を硬化したのです。
6月10日漬けの景勝への書状には・・・
「即刻上洛しなければ、会津へ出兵する」と書かれていました。
両者、一触即発となってしまったのです。

1600年6月16日、家康は会津征伐に出陣!!
秀頼から軍用金と兵糧が下賜され、豊臣政権の公的出兵と位置付けられます。
作戦は・・・伊達政宗、最上義昭が会津に通じる4つの街道から進軍・・・
家康と秀忠率いる本隊は、関東から上杉の本拠地・若松城に攻め込む!!
総勢10万を超える一大作戦でした。
兼続も、城石、米沢など領内の城に防衛体制を取らせます。
上杉景勝は、軍勢を率いて若松城を出陣!!
その数5万!!上杉の存亡をかけた防衛戦が始まろうとしていました。
ところが・・・戦端が始まろうとしたまさにその時・・・思わぬ事態が・・・
石田三成が挙兵したのです。
三成は、大坂城の奉行衆を説得し、豊臣政権を掌握したうえで全国の諸大名に打倒家康の檄を飛ばしたのです。
7月24日、家康、三成の挙兵を知り、
翌25日、江戸への撤退を決定!!
小山でこの知らせを聞いた家康は、全軍に会津征伐中止を・・・そして、撤退を始めたのです。
今や、家康は賊軍となっていました。
会津に三成の使者が来たのは、8月上旬。
どんな相談が持ち掛けられたのでしょうか?

真田家に西軍に加わるように要請する書状に、上杉との密約の内容が書かれていました。
”会津の上杉には、早々に関東表に出兵するように求めている”
つまり、家康の本拠地への侵攻作戦です。
しかし、家康は退却しながらも、着々と策を練っていました。
上杉に対する情報のかく乱もしていました。

兼続は・・・??
すぐに家康を追撃する??それとも??
家康派の急先鋒、伊達政宗と最上義光は・・・??
奥羽を固めて関東を攻める??

8月25日・・・景勝が石田三成に送った書簡には・・・
奥羽を掌握した上で関東出兵を実行するという手堅い策でした。
兼続は、すぐさま伊達と最上に対して降伏勧告を出します。
ところが、最上義光は一旦承諾したものの・・・時間稼ぎに終始します。
このままでは関東侵攻作戦は水泡と帰す・・・。
9月11日、兼続は大軍を率いて最上領へ侵入。

長谷堂城は、山形城の喉元に築かれた要の城です。
9月15日、上杉軍は、城の前の高台に陣取ってこれを包囲!!
上杉勢の兵力は最上勢のおよそ10倍・・・
容易に落とせると思った兼続は、長谷堂城への攻撃を敢行しました。
ここに、北の関ケ原と呼ばれる長谷堂合戦開始!!
ところが、この戦いで上杉軍は、最上軍を上回る死者を出してしまいます。
最上は、上杉との戦いを見据え、この城の要塞化を進めていたのです。

最上勢は、城の斜面に配置された切岸と曲輪を利用して上杉軍の猛攻を食い止めます。
怯んだ上杉軍の側面を、山形から派遣された伏兵が攻撃!!
上杉軍は総崩れとなります。
結局、兼続は3度にわたって攻勢をかけるものの断念せざるを得ませんでした。

北の開戦と同じ9月15日・・・関ケ原の戦い!!
決着は僅か1日・・・東軍の圧勝でした。
最上義光のもとに、この知らせが入ったのは9月30日。
時を同じくして兼続にも西軍敗れるの報が・・・。
最早ここまで・・・10月1日、上杉軍撤退開始。
最上勢がここぞとばかりに襲い掛かりますが、兼続も周到に構築した退却用陣地から鉄砲をあめあられと撃ちかけ応戦します。
最上義光・・・総大将の負傷に浮足立つ間に、無傷で撤退に成功!!
しかし、関東へ乱入し、家康と雌雄を決するという兼続の野望はここについえたのでした。

山形にある出羽亀岡文殊堂・・・
関ケ原の2年後、兼続が開いた歌会の記録が残されています。

「新を迎え旧を送る」

図らずも、会津から米沢に国替えをされて半年・・・その歌には、多くの家臣を引き連れて新しい人生に踏み出す兼続の決意が込められていました。

米沢には、今も兼続治世の名残があります。
最上川流域10キロにわたって作られた直江石堤・・・川の氾濫から田畑を守るために、兼続が率先して指揮を執って一つ一つ石を積み上げました。
戦のための石垣づくりから、民を守る石堤作りまで・・・兼続がこの世を去ったのは、関ケ原から20年後の事です。

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天下人豊臣秀吉の居城・大坂城!!
三国無双と称えられたこの城で、400年前悲劇のプリンスが自害し果てました。
秀吉の息子で後継者の秀頼です。
追いつめたのは、江戸幕府を開いた徳川家康。
どうして家康は豊臣家を潰さなければならなかったのか・・・??

太閤豊臣秀吉には、心配事がありました。
秀頼のことです。
溺愛する息子はまだ6歳。。。
秀頼のために遺書を書きます。

「返々 秀よりこと たのみ申候 
 五人のしゆ たのみ申候

 此ほか にわおもひのこす事なく候」

ここで秀吉の補佐を頼んだ5人とは・・・
徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・・・
豊臣政権を支えていた五大老です。
彼らに遺言を託した秀吉は、1598年8月18日にこの世を去ります。
その後、前田利家は秀吉の言う通り補佐につき、家康は伏見城に於いて豊臣政権の政務を行います。
しかし、最古参の前田利家が亡くなると状況が一変しました。
家康が天下取りに動き出したのです。
当時、大名同士の婚姻は、秀吉によって法律で禁止されていました。
しかし、家康は、自らの勢力を強めるために・・・蜂須賀家、福島家、伊達家・・・婚姻を結びます。
反家康派の家臣たちは激怒し、関ケ原の戦いが起こるのです。
徳川家の東軍と、豊臣家家臣の石田三成の西軍との戦いで、およそ20万が・・・!!
家康側には反石田派の豊臣恩顧の大名も加わり、豊臣家家臣団の内部分裂の側面でもありました。
しかし、秀頼をはじめとする豊臣家は参戦せずに中立の立場を取ります。
戦は半日で決着!!
徳川家の勝利により、家康の天下が近づきました。

徳川家康は大坂城へやってきました。
秀頼に対面してから西の丸に入ります。
これに先立って、家康は、秀頼と淀殿に・・・
「豊臣家は今回の戦には全く関係ないから安心してください。」と伝えていました。
しかし、豊臣家に気付かぬように・・・戦後処理として豊臣家の所領を勝手に分配・・・
秀頼の領地は、摂津・河内・和泉の三か国・・・65万7400石あまりとなってしまいました。
秀吉時代の1/3でした。
その家康が、秀頼の何を恐れていたのでしょうか??

①豊臣ブランド
関ケ原の戦いから4か月後の1601年1月29日、大坂城は賑わっていました。
9歳になった秀頼のもとに、公家や僧侶の中でも地位の高い豪華なメンバーが新年のあいさつに来ていました。
徳川の力が強まっても、彼らは変わらず豊臣家に敬意を払っていました。
庶民たちはもっと豊臣贔屓・・・。
家康が将軍のなる際には・・・
「内府様、将軍になれせられ
 秀頼様 関白に御成之由候
 目出度御事にて候」
と、家康が将軍になるのなら、秀頼はもちろん関白になると考えていたのです。

上方の豊臣人気の理由は・・・。
秀吉が天下人となってから、豪華になり、京都は再び活気を取り戻します。
秀吉が死んだ後も、秀吉に贈り物などして関係を築いていました。
当時日本に来ていたオランダ人も・・・
「大坂の城にいる秀頼さまは、前皇帝の子であり、日本の正当な皇帝である。」
そして、経済都市大坂を領地としている秀頼には豊かな経済力がり、諸大名や庶民から絶大な信頼を得ていました。
秀吉が作った城下町は、商人たちにとっては住みやすい町でした。
再び豊臣の世が戻ってくることを誰もが期待していました。
いまだに人気の豊臣ブランドなのです。
それを、家康は恐れていました。
豊臣家の象徴である秀頼をどう扱うのか・・・??
細心の注意を払う家康です。
なので、年始の挨拶も忘れず、素直に代わらぬ振る舞いをしていました。

その一方で暗躍します。
1600年に公家の九条兼孝が関白になります。
家康が、秀頼を関白にさせないために、仕組んだのです。
関白を武家から返すはじめということ・・・
これは秀吉の意志であったと・・・!!
関白を摂関家に返して、新しい武家関白の誕生を阻止したのです。
征夷大将軍は官位五位相当の役職で、関白は官位一位相当の太政大臣の上位に置かれる役職です。
家康は関白になれるのか・・・??
関白は摂関家でなければなれません。
秀吉は、摂関家になっているので、秀頼には関白になれるチャンスがあるからです。

家康が征夷大将軍になった年、秀頼は関白には慣れませんでしたが、正二位内大臣となりました。
一説には豊臣方をなだめるために家康の計らいだったとか・・・。
そして、この年、秀頼は結婚。相手は、家康の孫であり、淀殿の妹・お江の娘・千姫でした。
この婚姻は、もともと秀吉の遺言でした。
しかし、家康はこの婚姻に協力的ではありませんでした。
薩摩の島津家には、結婚祝いの上洛は無用と伝え、細川家には使者は無用としています。
それでも秀頼の元には多くの祝いの品が届きました。
太閤殿下の御威光はまだ残っている!!
衰えない豊臣人気!!


②豊臣家の財産
豊臣家の居城・大坂城には莫大な金銀が蓄えられていました。
金の量は、国全体の2/3もあったと言われています。
この莫大な財産こそ、家康が恐れていました。
打倒徳川の軍資金となるからです。
そこで家康は豊臣家の財産を減らす策に出ます。
寺社造営です。
家康は秀吉の菩提を弔うと称して自社の造営や修復を勧めます。
秀頼と淀の方は、秀吉が寺社造営を進めていたこともあって、家康の言葉を素直に受け入れます。
積極的に出雲大社をはじめ、名だたる神社仏閣の修復や造営を始めます。
その数およそ100!!
かなりの財産をつぎ込んでいきます。
その一方で、それは、改めて豊臣家の権威を見せつけることとなったのです。

この頃から家康の態度が変わってきます。
毎年行っていた年始の挨拶を止めます。
秀頼に来るように・・・と。
1605年、将軍職を秀忠に譲ります。
これは、将軍家は徳川家が世襲することを示していました。
政権を戻すつもりはない!!と言っているようなもの。
そして、秀忠の将軍就任に際して、秀頼に上洛するようにと言ってきました。
淀殿は、上洛せよというなら秀頼を殺して自分も死ぬと断固拒否!!
我が子秀頼を命がけで守ろうとしました。

まだ13歳の秀頼はどう思っていたのでしょうか??
幼いころから武芸、和歌、漢詩、兵学、儒学・・・あらゆる学問を当第一の学者に学んでいた秀頼は、14歳の時に明王朝の帝王学の教科書「定鑑図説」の和睦本を出版します。
優秀なブレーンアが要ることを示しています。
ひ弱でマザコンと言われる秀頼ですが、聡明で、強い自我と行動力を持っていました。

「自分こそが秀吉の後継者である!!」という強い思いが・・・!!

そして、その意志は住吉大社の造替工事にも見受けられます。
ここはかつて秀吉の母の大政所の病気平癒と延命祈願をした場所です。
住吉大社を建て替えることで、秀頼は豊臣家再興を願ったのです。
そんな秀頼に、牙を剥き出す家康・・・
駿府城三の丸の工事を始め、他の外様大名と同じように、秀頼にも労働力を差し出すように命じてきます。
しかし、秀頼は冷静で・・・年始や七夕には人を遣わして挨拶をします。
人々はそんな秀頼を”年長ずるに従い知勇加わる”と言いました。
豊臣家当主として年々頼もしくなっていく秀頼・・・!!

ある日・・・京の町に落首が・・・
”御所柿は 一人熟して 落ちにけり
          木の下にいて 拾ふ 秀頼”
御所柿とは、駿府城に隠居し大御所となった家康の事。
老いていく家康が自然と地に落ち、その政権を秀頼が拾うと・・・
二人の年齢差を皮肉り、豊臣家の復活を望んでいるのです。


③秀頼の若さ
1611年、家康は後陽成天皇の譲位の儀式のために、今日に上ります。
そして、秀頼を二条城に呼び出すのです。
秀頼は、それに応じ3月28日午前8時、二条城に到着。
一説には庭まで出迎えたという家康。
最後にあったのは11歳の時でしたが・・・19歳の秀頼は、身長197センチの大男に成長していました。
家康に続いて城内に入った秀頼に対し・・・
「ささ・・・お先に。」家康は秀頼を先に会見の場所に通し、対等の立場で話そうというのですが・・・。
秀頼はそれを頑なに断り、家康に上席を譲りました。

家康の二条城に秀頼が赴くということは、既に秀頼は家康より下の立場から・・・なのに、家康も対等に・・・と思うのですが、この時点では、家康の方が位が上でした。
秀頼の方が下に座るべきであろうと秀頼は家康に正しい礼を取ったと言えます。
先に秀頼を家に通そうとした家康の罠で・・・先に秀頼が入っていれば、礼節をわきまえない無礼な男として非難されるところでした。
そんな家康の策にはまらず、冷静に、自分の立場をわきまえて対応します。
2時間に及んだ会見で、合間には食事も・・・。
家康は、豪華なものでは遠慮がちになると吸い物だけを振る舞います。
ここでも秀頼に気を遣っているようで・・・会見の最後に家康は言い放ちます。

「太閤殿下の遺言では、秀頼殿が15歳になったら天下を治めていただく約束だったが、先の関ケ原の戦いで我を退治せんとし、起請を破ったのは秀頼殿であるから、約束を反古にされても仕方が無かろう」by家康

関ケ原の原因は秀頼側にあると難癖をつけ、成人した秀頼に天下を渡さないことを宣言。
自らの行為を正当化したのです。
改憲の後、家康は秀頼のことを・・・

「大変かしこい人なり。
 他人の臣下となって、その命令に従う人物にあらず。」by家康

19歳の賢く頼もしい男・・・それに引き換え自分は70歳・・・。

二条城会見の数日後・・・大阪の秀頼の元へ、家康の子供たちが進物を携えてやってきました。
二人に対し秀頼は心のこもった返礼をし、家康にお礼の手紙を送ります。
この手紙は・・・家康に宛てた秀頼の挑戦状・・・??

「次にお会いしたときにお礼をします」と書いています。
その品を直接会って・・・つまり、返礼品が欲しければ、家康が直接会いに来るように・・・との事なのです。

二条城会見を外から見れば、家康に対して礼節を尽くした・・・ですが、家康に対して自分の方が上位であるという手紙の書き方をしているのです。
それは、秀頼と家康の間にしかわからない失礼な手紙でした。
秀頼はかしこい人だ・・・そう思う家康でした。

再建中だった方広寺の鐘・・・。
「国家安康」・・・家康という名が分断され、呪っていると難癖をつける家康。
これが、戦のきっかけになってしまいます。
徳川と豊臣の対立・・・もはや戦は避けられない・・・と、戦の準備が始まりました。
1614年10月、秀頼は莫大な資金を投じ、大坂周辺の米を購入。
武具などを城内に配備するだけではなく、大坂周辺にも壁を築き、籠城の準備をします。
さらに、秀頼は豊臣方について戦ってくれるように早い時点で諸大名に手紙を送っています。
それは、秀吉恩顧・・・毛利、島津、伊達にまで及んでいました。
結局誰一人、秀頼の求めには応じませんでしたが・・・どうして大名は、秀頼方につかなかったのでしょうか?
 
熊野権現の起請文・・・
家康は方広寺の事件以前に起請文を諸大名から取っていました。
徳川家に忠誠を誓う・・・なので、大坂の陣で豊臣方に協力しなかったのです。
結局、秀頼に着いたのは、関ケ原で戦って敗れた浪人たちだけ。
その中には、真田信繁、長宗我部盛親、後藤又兵衛、木村重成、毛利勝永・・・といった名高る武将もいました。
11月19日、戦いの火ぶたが切られます。
徳川方20万に対し、豊臣方10万!!22歳にして初陣の秀頼!!
しかし、それは荒々しい面構えで、総大将として堂々たる立た住まいずまいでした。
かつての秀頼の姿を見て涙する者も・・・。
秀頼は広大な城の各陣を馬で回って兵士たちを激励!!
また戦果を挙げた者には即座に褒美を与え、士気を上げます。
豊臣方は、兵の数では劣りながら善戦!!
巨大な大坂城を前に攻めあぐねる家康。
真田丸らの戦いで、甚大な被害が!!
しかし、徳川方が放った砲弾が大坂城の天守に命中。
その被害を目の当たりにした淀の方が、弱気になり・・・
12月19日和睦成立。
この時、家康が出した条件は、大坂城にいる浪人たちの追放のほか、城の堀の埋め立てでした。
和睦の際の取り決めでは、三の丸の堀と外堀は徳川が埋め、二の丸は豊臣が埋めることになっていました。
しかし、家康はその取り決めを破り、全ての堀を埋めてしまったのです。
本丸だけを残し丸裸となってしまった大坂城!!
徳川軍が退去した後、秀頼はすぐに堀の復旧と戦の準備を始めますが・・・
家康はそれを理由にまたもや出陣!!
行く当てのなかった農民たちが大坂城にいました。
まだ戦うのか・・・??
今度は、秀頼の到着を待ちます。
秀頼は、兵糧や材木を大阪城内に集めます。
火薬を作る準備も!!
豊臣対徳川・・・最後の暑い夏が始まります。

豊臣方5万5000VS徳川方15万!!
圧倒的な兵力差がありました。
それでも秀頼は総大将として本丸正門に陣を構えます。
その姿は、大いに豊臣方の士気を高めましたが、秀頼が出陣することはありませんでした。
この時、秀頼の元へ知らせが来ていました。
戦っていた豊臣の者たちが寝返って、秀頼が出撃すればそれを討つと・・・!!
秀頼は動くに動けなくなって、出陣の機会を失ってしまいました。
しかし、これは、家康のデマで・・・家康の策略にまんまとはまってしまったのです。
豊臣方の形勢は悪化・・・。
真田信繁らの有力武将などが次々と討ち取られていきます。
もはやこれまで!!
秀頼は、出撃し、戦場で討ち死にしようとしますが、周囲に止められ城に留まります。

そして、炎に包まれる大坂城で、母・淀の方と共に自害するのです。
1615年5月8日・・・家康が恐れた男・豊臣秀頼・・・このときまだ、23歳でした。 

焼け落ちた大坂城に秀頼の首はありませんでした。
あったのは、金2万8000枚と、銀2万4000枚・・・。
豊臣の財力を削ごうと暗躍した家康でしたが、その財力は、家康の想像をはるかに超えていました。
そして、この戦の後、京や大坂でこんなわらべ歌がはやりました。

花のよふなる秀頼さまを
鬼のよふなる真田が連れて
退きも退いたよ加護嶋へ

真田信繁が、秀頼を鹿児島へ連れていったというのです。
大坂の地を経済都市として栄えさせてくれた秀吉に恩を感じていた町人たちは、彼の愛した息子にはどうか生きていてもらいたい・・・と願っていました。
豊臣人気も、家康の想像をはるかに超えていたのかもしれません。


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上杉討伐に乗り出した徳川家康。
その機に乗じて、三成は、打倒徳川家康の旗を挙げる。

風雲急を告げる中、真田昌幸が選んだ道は。。。

大坂にある真田屋敷にて・・・

maru












上杉討伐の命が徳川内府から発せられたが、真田と上杉は固い絆で結ばれているので、上杉につくという。。。

「裏切るのではない・・・表返るのだ。」by昌幸

大坂を出発し、昌幸は上田、信幸は沼田で軍備を整え会津へ向かうという。
女たちも大坂にいてはいかなる被害があるとも・・・と、大坂を出て上田に向かうようにと・・・!!

そして徳川の人間だった稲は・・・昌幸に話があるという。。。

「わが父、本多忠勝より書状が届きました。
 内府様は、真田のことをまだ心底から信じておられぬご様子。
 もし、裏切るようなそぶりを見せたらすぐに知らせよと書いてあります。
 されど・・・稲は真田伊豆守の妻でございます。
 徳川に動きを知らせる様な真似は、決して致しませぬ。」by稲

「よくぞ言うた・・・稲。
 お前は立派な真田の嫁じゃ・・・。」by昌幸

その頃大坂城では・・・上田に帰る信繁が、寧に・・・ご挨拶。。。

会津では・・・戦準備をしている景勝&兼次。
江戸城に入った徳川・・・総勢10万!!
 
上杉討伐に加わるために、美濃・垂井まで兵を進めた吉継・・・
そこへやってきたのは、三成・・・!!

maru3













「我らに・・・同心願いたい!!」by三成

「勝てると思っておるのか・・・??」by吉継

「やらねばならぬのです。
 五奉行は、内府の策略で3人となり、利家さま亡き後の前田家はすっかり骨抜きにされました。
 上杉討伐も、明らかに徳川の言いがかり・・・
 今倒さねば、豊臣の世は終わります。
 お命、私に預けてはいただけまいか・・・??」by吉継

「今日はもう遅い・・・泊まっていかれよ・・・」by吉継


体がいうことを利かなくなってきた吉継・・・

「わしは・・・あの男が来るのを待っていたのかもしれんな・・・」by吉継

「勝てるかどうかわからぬと申したな・・・
 そのような男に命を預けるわけにはいかん!!
 ともに死ぬなどまっぴらごめん。
 そのような弱気な言葉、二度と口にするな・・・!!
 兵を挙げるからには必ず勝つ!!その気概無くしてどうする・・・??!!
 まずは、秀頼公の名のもとに、家康内府を老衆から外す!!
 さすれば、上杉討伐は徳川が起こした勝手な戦という事になる。
 次に来るまで、内府がいかに太閤殿下のご意志に背いてきたか、弾劾状に記して、先刻の大名に送りつける・・・!!
 事は急を要する。
 治部殿、泣いている暇はござらぬ!!
 わしが、お主を勝たせて見せる・・・!!」by吉継

おお!!かっこいいですね、吉継!!
今まで人徳がない、人徳がないって言っていたのは、この場面への布石だったんでしょうか??
三成の唯一の親友ですからね。
いろいろ親友エピソードはあるんですが、がしかし、関ケ原、あっという間に徳川が勝っちゃうなんて、家康も思っていなかったことでしょう。
もちろん、このセリフでも、勝つって言ってますが、もちろん、吉継としては三成と心中しようとしたんじゃなくって、三成を勝たせるために味方したんですよ。。。
それでこそ、漢!!親友なのです。


信濃・上田城では・・・
戦いに高ぶる昌幸がいました。
もちろん、甲斐・信濃を取り戻すために・・・!!

maru4













「例の刀狩で、もう二度と戦に出ることはないと思っていたが、こんな日が来るとはのう・・・」by作兵衛

そうね・・・この人たちは、畑を耕しているから・・・
やっぱり生産性のない戦がないのが一番だと思っているんでしょうね。
この一言で、身勝手な武士を揶揄ってるのよね。

maru6













吉継の言ったように、弾劾状を全国諸大名、徳川内府に送り付け、戦のはじめとする。
諸大名の妻子を人質として大坂城に集める・・・!!
伏見城攻めも・・・!!
江戸に押し進め・・・総大将は毛利!!

太閤殿下が築いた豊臣の世の行く末はこの一戦にかかっている・・・!!

戦をやりたくないとぼやいている小早川秀秋の傍にいるのはこの男。

maru7













板部岡江雪斎!!
「実は・・・拙僧・・・徳川内府より間者として送り込まれた者でござる・・・!!」by江雪斎

って、そんなこと言っていいのか・・・??
これが、あれにつながるのか・・・??
なんて思いますが、ま、僧ですからね。
佐助のように、忍者ではありません。
この時代の僧は、国をまたいであっちこっちに簡単に行ける存在でした。
なので、情報をたくさん持っていて、どの大名にも一人はこんな人がいたんです。
ま、一番有名なのは安国寺恵瓊かな??
なので、お館様のために戦うんじゃなくって、情報収集的なスパイ・・・って言うか、結局誰の味方でもないんでしょうね。。。


続々と大坂城に人質がやってきました。
阿茶は混乱に乗じて大坂城を脱出!!

そんなころ・・・ガラシャの屋敷から火の手が・・・!!
人質に取られえるようなことがあれば、屋敷に火を放ち自害せよ・・・!!と、忠興命令が出てるそう。

maru8













ああ・・・自分を殺すことのできないガラシャ・・・
家来・小笠原秀清に胸を突かせて自害!!

このお話でとっても有名になったガラシャですが・・・
自分で胸をついたというお話もあります。

しまった・・・!!
このガラシャの死で、 自分が徳川に近い人間なので、人質を殺すのでは・・・??と、思った稲は、こうと協力して沼田に逃げる算段を・・・!!

細川屋敷があんなことになって訳の分からない三成。
そうそう、このガラシャの死で、人質に不安を抱かせてしまった三成・・・
人質を強制的に大坂城に連れてきにくくなってしまいました。
もし、多くの人質が大坂城に来ていれば、西軍有利で勝てたかもしれないので・・・
このガラシャの死が関ケ原の運命をも決めたと言えば言い過ぎかしら・・・??


maru9













戦場で存分に戦うことができないという吉継・・・
魂を込めて考え、書状を書く!!・・・って、病気が苦しくって結局書くのは三成・・・
やっぱり右筆でいいんじゃね・・・??


7月19日、徳川秀忠が3万の兵を従え江戸城を出発!!
同じ日、大坂では宇喜多秀家、小早川秀秋が挙兵!!

天下分け目の大戦の火ぶたが切られました。

7月21日、徳川家康率いる3万の軍勢が江戸を発ちました。
同じ日に・・・昌幸たちは犬伏に陣を張りました。
戦が始まり、攻撃命令が出たときに上杉につく・・・!!
そんな気でいた昌幸でした。

佐助が急いで登場!!
石田三成が挙兵したという・・・

「早すぎるわっ・・・!!」by昌幸

というのも、昌幸は、徳川VS上杉となったら、横から攻め、家康の首を取ろうと思っていたからです。

いずれにしても大戦・・・!!

maru11












これから。。。
いつまで戦が続くかわからない・・・どうする・・・??


徳川とも豊臣とも距離を置き、上田に籠り、守り・・・攻めてきた者が敵!!とする父・昌幸。
まだ戦国乱世が続くことを望んでいるのです。

「果たして父上のお考え通りになりましょうか?
 今や、合戦の成り立ちは大きく変わりました。
 敵味方が巨大な力にまとまり、それがひと所で一気にぶつかり合う・・・
 そうなったら、この戦・・・案外早く決着がつくかもしれません。

 徳川と豊臣・・・勝った方が、次なる覇者となります。
 どちらにもつかぬということは、どちらも敵に回すという事・・・
 いずれかかっても、真田の居場所はなくなります。」by信繁

「その時はその時じゃ・・・!!」by昌幸

「徳川であれ豊臣であれ、戦に勝った後は、今よりはるかに大きな力になっています。
 太刀打ちなどできるはずがありません。」by信繁

「その時は、上杉と伊達と組んで・・・」by昌幸

「夢物語はもう、終わりにしてくださいっ・・・!!」by信繁

徳川か豊臣か・・・どちらかにつくしかないという信繁・・・。

maru10













「あっちへ行っておれっ・・・!!」
様子を見に行った河原綱家ブチ切れる信幸!!
徳利を投げつけられ、歯が折れちゃいました。
緊迫しているのがわかります。

結論はなかなか出ません・・・。

父・昌幸は・・・またもや鬮で決めようと・・・

「こういうことはもうやめましょう。
 私は決めました。
 私は決めました、父上。
 私は決めたっ!!

 源次郎・・・お前と父上は豊臣につけ。
 俺は徳川に残る・・・!!
 それが最善の道だ!!
 いずれが勝っても、真田は残る・・・!!」by信幸

「しかし、敵味方に分かれるというのは・・・。」by信繁

「そうではない!!源次郎!!
 われらは、決して敵味方に分かれるのではない。
 とよとみが勝ったときは、お前はあらゆる手を使って俺を助けよ。
 そしてもし、徳川が勝ったならば、俺はどんな手を使っても、お前と父上を助けてみせる・・・!!

 これは、われら親子三人が、いつの日にかまた、膝を突き合わせて語り合う日のための策じゃ!!
 たとえ徳川と豊臣に分かれても、常に真田は一つでございます!!」by信幸

カンドー!!
信幸カッコいい!!
さすが、最後まで長生きする信幸です。
初めから信幸は沈着冷静!!
父上には面白くないと言われていましたが、父上はこうも言っていました。
二人がかみ合うと最強!!みたいなことを!!
ここで兄上、長男としての責任もMaxに感じている事でしょう!!

犬伏の別れが・・・涙の別れではなく、希望の別れとなった瞬間でした。

われらはこの時のために生まれてきたのかもしれぬ・・・ババ様の言葉をかみしめる兄弟でした。

最後の夜を・・・韓信の「背水の陣」のお話で盛り上がる親子三人・・・。

「「背水の陣」という言葉があるだろう。 これは韓信の策なのだが、意味を知っているか?」by信幸

「皮を背にして、背後には逃げられないように布陣をすることですよね。
 退路を断つことで、兵は死に物狂いで敵に向かう・・・
 そこに尋常ならざる力が生まれる・・・」by信繁

「・・・と思うだろう?
 だが、大事なのはそこではないのだ。」by信幸

「川を背にするということは、敵もまた、背後に回れないという事じゃ。」by昌幸

「さすがは父上!!」by信幸

「その分、前方の敵に集中できる・・・!!」by昌幸

「なるほど、筋が通っています。」by信繁

「この話を読んだ時、俺は、韓信と父上が重なったわ。」by信幸

「戦はな・・・兵たちの心を動かすのも大事じゃが、一番肝心なのはここ(頭)じゃ!!」by信幸

「しかも、韓信がスゴイのは、それだけではないのだ。
 ある大戦のおり、川を背にして陣を張ったことで、敵は”こいつらは戦を知らぬ”と油断した。
 総攻めをかけて来た敵に対し、韓信は相手の背後に忍ばせておいた伏兵を動かし、なんと敵の城を乗っ取ってしまったのだ。

 討ち死に覚悟の戦と思わせて、実は勝つための作戦だったのだ。」by信幸

「父上のお考えに通じるものがありますね。」by信繁

「父上は、日本の韓信だと俺は思っている。
 だからこそ、父上の突拍子もない策を聞いても、いつも安心してそれに従うことができる。」by信幸

「しかし・・・わしに言わせれば、韓信はバカだな・・・
 背水の陣の真の狙いをすべて見抜かれておるではないか・・・
 そんなことまで書物に書かれては、もう誰も、背水の陣なんかできんわ・・・!!」
maru12












声高らかに笑う三人・・・時を惜しむかのように・・・
これより2月ののち、真田軍と徳川軍は上田で激突する・・・!!


ということで、犬伏の別れの・・・この大河のクライマックスの一つと言っていい場面が終わってしまいました。
兄・信幸の策が豊臣と徳川に分かれる・・・というのは、よくよく考え、最後まで生き残る信幸の策だと思います。
ま、お父さんはやっぱり鬮ですからね。
そこはやっぱり、長男な体質なのでしょう。

ホント、かっこよかったわ~~~!!大泉洋!!




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戦国乱世に終止符を打ち、英雄・徳川家康が創設した江戸幕府・・・

幕府をいかに存続させるのか・・・??

家康からその難題を突き付けられたのが、二代将軍秀忠です。

しかし、秀忠は、凡庸という有り難くないレッテルを張られた人物でした。


きっかけは真田昌幸との戦い・・・第二次上田合戦にあります。

秀忠率いる3万8000に対し、真田軍2500!!

圧倒的な兵力差で勝って当然のところ・・・秀忠は敗北!!

この合戦に手間取ったことで、関ケ原に間に合わないという前代未聞の大失態を犯してしまうのです。

しかし、関ケ原は流動で、家康も何もわかっていませんでした。


1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉がこの世を去りました。

この時、秀吉の後継者・秀頼はわずか6歳・・・。

豊臣政権は、有力大名の合議制により支えられることとなります。

しかし、大老・徳川家康と奉行・石田三成との対立が・・・!!

治まりかけていた天下が再び乱れ始めます。


秀吉の死から2年・・・

1600年6月、上杉征伐。。。

有力大名・上杉景勝が城を修築、多数の浪人を集めるなど、豊臣政権への謀反の疑いが生じました。

家康は豊臣の名代として会津へ・・・!!

しかし、家康が会津に向かった隙に、三成が挙兵!!

家康に反旗を翻したのです。

この三成挙兵によって・・・東軍と西軍に分かれての戦いが日本全国に広がりました!!


家康は、「上杉征伐」参陣の武将たちの味方にすることに成功!!

さらに家康は江戸にもどって全国の武将に書状を送ります。

家康は時間をかけて東軍勢力拡大を目論んでいました。


そんな中、家康が危惧していたのが真田昌幸でした。

昌幸は、かつて徳川軍を破ったことのある稀代の戦上手!!

さらに昌幸の領国は、東軍と西軍の勢力の中間にあり、両者が連携を図るうえで重要!!

家康にとっては目の上のたんこぶとなっていました。



真田攻め総大将に抜擢されたのが、家康の三男・徳川秀忠でした。

秀忠22歳・・・これが初陣でした。

当時、家康の息子には三人の成人男子がいました。

後継者と目されていたのは秀忠・・・

「秀忠はあまりに律儀である。」by家康


この時家康は江戸の残っていました。

9月6日・・・総大将・秀忠は高台に布陣!!

徳川軍3万8000が2500の真田に迫る・・・!!

これで落ちない城はない・・・!!

秀忠にとって勝利が約束された戦いが始まろうとしていました。


徳川軍3万8000、対する真田軍僅か2500!!

初陣にして圧倒的に有利な戦いに秀忠は、上田城背後の砥石城を攻略!!

秀忠の戦術は堅実でした。


圧倒的に上田勢を包囲した秀忠軍・・・。

秀忠の勝利は誰の目にも明らかでしたが・・・両軍が場外で応戦!!

敗走する真田軍を追い徳川軍が上田城に殺到・・・

しかし、待っていたのは真田の伏兵!!大混乱の徳川軍・・・に、追い打ちをかける!!砥石城周辺に隠れていた別動隊が秀忠軍本体に襲い掛かります。

結果、秀忠軍は小諸まで撤退・・・軍の立て直しを余儀なくされました。


一方中央は、風雲急を告げる!!

家康が派遣した福島正則率いる東軍の先鋒隊が、美濃に進軍!!

8月23日勢いのままに岐阜城を陥落してしまいました。

東西両軍が濃尾平野に続々と集まってきました。

東軍の総大将不在のまま戦いが始まると、その後の発言力が弱まってしまう・・・!!

8月29日家康は秀忠に使者を・・・早馬を・・・!!

9月1日家康は急遽江戸を出陣!!

東軍の先鋒隊長・福島正則への手紙には、秀忠はおよそ9月10日にはその地に参るであろうと記されていました。

しかし、家康には2つの大きな誤算がありました。

①秀忠が真田との緒戦に敗れていたこと

②悪天候の影響で、死者の到着が遅れたこと


9月9日、ようやく秀忠のもとに使者が到着!!

緒戦に敗れた秀忠が戦略を練り直しをしている最中でした。

使者がもたらした書状には・・・

「急ぎ西上(上洛)せよ。」

作戦の変更命令です。

しかし、真田との戦いは始まったばかり・・・真田を放っておくわけにはいかない・・・どうする・・・??


徳川家にとって、秀忠軍は最も重要な軍勢でした。

秀忠軍は徳川四天王の一人・榊原康政や本多正信・・・徳川軍の精鋭部隊が主力となっていました。

一方家康軍は・・・豊臣恩顧の大名・・・福島正則・黒田長政などのいつ西軍に寝返ってもおかしくない者たちが群を構成していました。

東西決戦が行われる場合、家康の頼みの綱は、秀忠率いる徳川軍!!

すぐに西上し、家康と合流しなければ、決戦に敗れる可能性が・・・!!

初戦で敗れた上に西上する・・・??
それとも戦を継続・・・??
緒戦で敗北を喫したとはいえ徳川の兵力は真田を圧倒している・・・徳川方の勝利は揺るがない・・・??

1600年9月9日・・・秀忠の本陣で軍議が行われました。
どうする・・・??
秀忠は、真田との戦を継続することを主張したと言います。
しかし、重臣からの助言に考えを改めます。
三成さえ、滅亡させれば・・・!!

9月11日、家康は西軍勢力に対峙する清須城に・・・!!
秀忠軍の到着を待ったものの・・・秀忠が小諸を出発したのは同じ11日でした。
険しい中山道を大軍を引き連れて行軍する秀忠。。。
先を急ぐ秀忠を悩ませたのは天候でした。
雨が多く、川が氾濫・・・難所ばかりで思うように進めません。
秀忠軍が妻籠に到着したのは9月17日の事でした。
妻籠城に入城した秀忠・・・関ケ原まで130㎞!!
順調にいけば2日の距離でした。

しかし・・・秀忠はここで知らせを受け取ります。
東西決戦が2日前に終わっていたことを・・・!!
秀忠はその知らせに大いにいどろ板と言います。

どうして家康は、秀忠軍の到着を待たずに戦を始めてしまったのでしょうか・・・??
秀忠が中山道を西上していた9月15日、戦況が大きく変わりました。
それまで西軍は、大垣城を拠点に立てこもり、東軍と対峙していました。
突然西軍が大垣城を出て、関ケ原へ・・・!!
それを追って、東軍も関ケ原へ・・・!!
東西合わせて15万!!引くに引けない戦いの舞台が整ってしまったのです。
1600年9月15日関ケ原の戦い・・・
一進一退の攻防も、はじめは西軍が有利でしたが・・・小早川秀秋の裏切りに戦況は一変!!
東軍が勝利を収めることとなるのです。
家康の調略が功を奏しました。
誤算の連続だった関ケ原の戦いは、家康の大勝利に幕を下ろしました。

秀忠が到着したのは、5日後の9月20日。
家康は、面会を拒絶したと言われています。
家康は、重臣一同を集め、問いかけます。

「いずれの子に徳川の家督を譲るべきか??」

この時秀忠以外には、次男・秀康、四男・忠吉。
次男・結城秀康は、他家に養子に入っているとはいえ上杉征伐で抑えを任された武勇な武将、四男・忠吉は、関ケ原に参戦、先陣を切る活躍を見せています。
誰を後継者に指名するべきか・・・??議論は紛糾!!
しかし、家康が指名したのは、関ケ原に遅参した秀忠でした。

「乱世ならば武勇を優先させねばならぬが、天下を治めるには文徳が必要である。

 そうでなければ創業の志を守り保つことはできない。
 秀忠こそ、後継者に最適である。」

翌日、秀忠は家康に面会を許されます。
秀忠は家康に謝罪するものの、言い訳は一切しませんでした。
しかし、この大失態によって汚点を残し、凡庸と言われるようになるのです。

1603年、関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開府!!
その2年後、家康は秀忠に征夷大将軍を譲り・・・2代将軍・秀忠が誕生します。

が、家康の影響力が強く、秀忠が権力のすべてを掌握できたわけではありません。
未だ大坂には豊臣家が存続・・・江戸幕府の権力基盤も盤石ではありませんでした。

秀忠が将軍としての地位を確固たるものとしたのは、天下取りの総仕上げ・・・1614年大坂の陣です。
この時の軍議で家康は豊臣家との講和を図ろうとしていました。
ところが秀忠が総攻めをかけ、落城すべしと三度も強硬策を主張したと言われています。

さらに落城間際、秀忠は秀頼の正室である娘・千姫の命乞いを退け、秀頼を自害へと追い込んでいます。
豊臣家を滅ぼした汚れ仕事・・・家康がやりたくなかった部分を秀忠がやって・・・それを家康は評価したのでしょう。

当時、日本に滞在していた外国人の日記にこう記されています。

「秀忠は武人ではなく 大政治家である。」と。

1616年4月17日、徳川家康死去。

父亡きあと、秀忠の政治家としての能力が開花!!
謀反のうわさが絶えない腹違いの弟・松平忠輝を改易、兄・秀康の子・忠直を改易。
危険分子を排除していきます。
また武家諸法度を発布。有力大名の取り潰しを実行・・・その中には、関ケ原の戦いで東軍の先鋒を担った福島正則を筆頭に、蒲生忠郷・田中忠政・最上吉俊・堀尾忠晴・本多正純・・・41家を改易。

取り潰した大名の多くは、家康にとって天下取りを手助けしてくれた恩義のある大名たち・・・
しかし、感情に流されることなく幕藩体制を強化していきます。

禁中並びに公家諸法度も発布・・・朝廷をも幕府の管理下に置いたのです。
朝廷が権威を取り戻すのは、明治維新となります。
1632年1月24日徳川秀忠死去・・・享年54歳。

死の間際・・・神の称号を受けたいか?と問いかけられた秀忠は・・・

「家康公は数百年続いた争乱を打平げ、古今未曽有の大仕事を成し遂げたが、私はただ先代の仕事を守るだけで、何の功績もない。
 神号を受けるなど、思いもよらない事である。」

家康の創業した江戸幕府は、秀忠により礎が築かれ、260年の平和政権へと反映していくのです。


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