やがて若武者へと成長した子は、龍の如く戦国の世を駆け抜けていきます。
人々は、その生きざまを”越後の龍”と称しました。
そう・・・上杉謙信です。
自らを毘沙門天の化身と名乗り、仏教に深く帰依していた上杉謙信・・・
そんな幻覚で真面目な謙信が目指したのは、騒乱の終息と、秩序の回復でした。
義の武将、軍神として人気の上杉謙信が悩み、挑み続けた若かりし日々とは・・・??
謙信の姓は・・・上杉??
上杉は、後に次いだ家の名・・・元々の名前は長尾です。
上杉家と長尾家の関係は、上杉・守護と、長尾・守護代です。
守護は、室町幕府のもと領国を治める行政官のことで、国の主です。
守護代は、守護の補佐役です。
京都にいることが多かった守護に変わって、それぞれの領国の国人領主たち(国衆)を、現地で束ねていたのです。
鬼若殿、寺に入れられる
謙信は、越後国の南西部にあった長尾家の居城・春日山城で、越後守護代・長尾為景と虎御前との間に生れました。
幼名は虎千代・・・謙信は、後に出家した法名です。
謙信の父・為景は、戦に臨むこと100回以上、冷徹無比なその戦い方から、戦の鬼と呼ばれていました。
下剋上を果たし、越後の国をわがものにしたいと思っていた為景は、武力によって主君である越後守護の上杉房能を自害に追い込むと、房能の養子・忠実を名ばかりの守護につけ、実質上支配してしまいます。
そんな戦の鬼の血を引く謙信は、幼いころから腕白でした。
チャンバラ争いをしては相手を泣かせる毎日・・・
そんな謙信についたあだ名は、鬼若殿!!
ただし、負かす相手は年上ばかり。
年下や弱い者には決して手を出しませんでした。
その理由は・・・観音菩薩を熱心に侵攻していた母に弱い者いじめをしない思いやりのある子に育てられていました。
そんな中、父・為景は戦に明け暮れていました。
為景の、無慈悲で強引なやり方に、国人領主たちが反発し、度々蜂起していたからです。
その中心となったのが、越後守護の上杉定実の実家・上条家でした。
上条家は、打倒・長尾為景を掲げ挙兵・・・上条の乱です。
そんな戦のさ中、1536年5月・・・
7歳になっていた謙信は、父・為景から突然命じられます。
「お前は寺に入れ!!」と。
謙信は、春日山城下にあった長尾家の菩提寺・林泉寺に入れられたのです。
謙信には、18ほど年の離れた母違いの兄・晴景がいました。
長尾家の家督は、嫡男である晴景が継と決まっていたからです。
武家において家督争いを防ぐために、嫡男以外の男子を出家させることは通例で、それに従い、父・為景は、謙信を寺に入れたのです。
ただし・・・それは表向きの理由でした。
一説には、気質が合わず嫌って寺に入れた??
が、これは後世に作り話だと思われます。
実際は・・・上条の乱でほとんどが反・為景派となりました。
越後中の領主が、春日山城に迫ろうという勢いでした。
謙信が危険に晒されないように、林泉寺に避難させたというのが妥当です。
兄・晴景は病弱で、軍隊を指揮することが期待できませんでした。
父・為景は、謙信を兄・晴景の陣代として線状に赴く大将に育成したいと考えていました。
兄・晴景に万が一のことがあった時のために、謙信の命を守る必要があったのです。
その後、父は不利な状況を覆し、上条の乱を鎮めます。
1536年8月、為景は、勝利に安堵したのか、長尾家の家督を謙信の兄・晴景に譲ります。
一方、いやいや寺に入れられた謙信は、そこで障害の師と出会います。
曹洞宗の僧侶で林泉寺の住職・天室光育です。
謙信は、天室和尚から、仏の教えだけでなく、陣代となるべく兵法も学んでいきました。
厳しい修行の中、謙信が何より楽しみにしていたのが城攻め遊びでした。
それは、一間以上ある城の模型を使い、兵士に見立てた駒や引きを配置するシミュレーションゲームのようなものでした。
上杉家歴代当主の誕生から葬儀までを記した”上杉家御年譜”によると、謙信の城攻め遊びの才は、見事だったようで・・・
「虎千代さまは、軍配に優れ、尋常の人ではない
将来、家運を開く器である」
それを聞いた父や兄は、大いに喜んだといいます。
ただ、腕白ぶりは相変らずで・・・
ある日、寺の本堂で兄弟子たちと大喧嘩・・・たまりかねた和尚が、
「本堂でけんかをする者は柱に縛り付けるぞ」
そう叱り飛ばすと、兄弟子の一人が、
「虎千代さまが乱暴者で悪いのです」
と、謙信のせいにします。
すると謙信は・・・
「和尚様、私が兄弟子と相撲を取り始めると、もう一人の兄弟子が後ろから組み付いてきたのです
相撲は1対1でやるもの・・・
それを2人がかりで来るのは卑怯なふるまいと思い、懲らしめていたのです」
間違った行いを許せない謙信に感心した和尚・・・
そんな和尚が、謙信に常々教えていたのは、”兄を侮って家を乱す企みをせぬこと”でした。
その為、儒教を中心とする教育・・・四書五経などで、忠誠心・道徳心の強化が図られました。
あくまでも謙信は兄・晴景の陣代として教育されたのです。
物事の道理を守る筋目と、道理に外れたことをしない非分・・・
謙信が将来貫くこととなる義の心は、天室和尚によって培われたのです。
時は過ぎ、謙信が寺に入って6年・・・運命が大きく動きます。
戦の鬼・父・為景も、病には勝てず、この世を去りました。
謙信は、急いで春日山城に向かいましたが、城内は大混乱に陥っていました。
為景による支配に反感を持っていた越後の国人領主たちが、為景の死を知り・・・好機と見、春日山城下に迫ってきていました。
その為、敵の攻撃に備え、鎧をつける謙信・・・
まるで出陣前の緊張感の中、執り行われた父の葬儀。
「仏門にいる私に、今、何が出来ようか・・・」
戦にも出られない自分に、ただただ腹立たしく思う謙信・・・この時、13歳でした。
1543年、謙信は、兄の命を受け、長尾家の居城・春日山城に戻ります。
そこで、14歳の謙信は元服し、名を景虎と改めました。
謙信の父・為景が亡くなった越後国は大混乱!!
戦の鬼と恐れられた為景と違い、当主となった晴景は病弱で、国をまとめる力がないと侮られ、長尾家を倒すのは今しかないと、亡き為景に反感を抱いていた国人領主たちが各地で蜂起したからです。
中でも当主・晴景を悩ませたのが、一族である長尾平六でした。
平六は古志郡で挙兵、反目していた為景に父親を殺されたことを恨んでのことでした。
1543年、兵六方の攻撃が激しさを増す中、晴景は古志郡で平六方と戦う晴景方の栃尾城主・本庄実乃にこんな書状を送ります。
”病気も治ったので、安心してほしい
景虎を援軍に送るから、勝利は眼前であろう”
晴景は、寺から呼び戻し、景虎を名を改めさせた弟・謙信を、反乱鎮圧の切り札として送ったのです。
こうして、晴景の陣代となった謙信は、
「兄上に代わって逆賊を討ってみせる!!」
力強く、家臣たちの前で宣言・・・謙信、この時14歳でした。
初陣と言われる栃尾城の戦いの始まりでした。
謙信・・・初めての戦
1543年10月、長尾平六の反乱を鎮圧すべく、援軍として栃尾城に入った謙信に対し、平六は・・・
若い謙信を子バカにして、まるで猫がネズミをいたぶるように栃尾城攻めを繰り返します。
それでも、謙信は動揺を見せませんでした。
謙信たちが籠った栃尾城の守りは固く、平六方の猛攻にも耐え、膠着状態に・・・
1544年1月23日・・・謙信方の軍勢が城を出て、平六方の軍勢に近づいたのです。
これに対し、平六方は激しい攻撃を仕掛けますが・・・謙信は、はやる将兵を戒めます。
しかし、平六方の猛攻は止まず・・・家臣たちは、謙信に突撃の許可を求めます。
すると謙信は・・・
「汝ら老巧の勇士たりと言えども、戦術に練達せず
今は、兵を出すべき時節にあらず
しばし、敵勢を耐えよ」
この謙信の命令に対し、
「聡明を謳われて世に出たものの、結局は若造だ
臆病なことよ」
そう陰口をたたく者もいました。
しかし、謙信には秘策がありました。
平六方が目の前の攻撃に集中している隙をつき、謙信は自らの軍勢を二つに分け、片方の軍勢を平六方の背後に回したのです。
陣形が整うと、謙信は・・・
「かかれ!!」
背後から平六方に奇襲をかけたのです。
これに驚いた平六方は、混乱状態に・・・
すると謙信は、追い打ちをかけるように正面からも猛攻撃をかけ、平六方を制圧!!
総大将の長尾平六をはじめ、多くの敵将を討ち取りました。
指揮官として並外れた才能を見せた謙信・・・見事初陣を飾ったのです。
その後も各地で謀反が起こり、その度に謙信が晴景に代わって鎮圧に・・・
その武功を聞いた越後各地の領主たちの謙信に対する期待が高まります。
そして、謙信の兄・晴景に不満を抱く一部の領主たちが、晴景に退陣を求めるようになります。
中には、謙信を擁立し、越後を一つにまとめようと画策する者たちも現れました。
謙信、守護代になる
15歳で初陣を飾った長尾景虎・・・後の上杉謙信は、病弱だった兄・晴景の陣代としてその後も出陣し、次々と勝利・・・
指揮官としての才を発揮していきます。
「景虎さまは負け知らずじゃ!!」
「まるで毘沙門天の化身じゃのう!!」
謙信は、戦いの神・毘沙門天に例えられるなど、日増しに家臣たちの人望を集めて行きました。
それに伴い、謙信が守護代になることを望む機運が高まっていきます。
相模の北条氏康が関東制覇に向けて快進撃を・・・武田晴信は信濃攻略を進めていました。
その二つの勢力が、越後に迫る可能性がありました。
これに対抗するためには、病弱な兄・晴景では心もとない・・・
晴景に代わって将来有望な景虎に守護代になってもらいたいと周囲が望むのは当然の成り行きでした。
そんな中、謙信の軍記物などによれば・・・
越後守護代・晴景の陣代として活躍する謙信のことを苦々しく思っていた人物がいました。
誰あろう謙信に陣代を任せていた本人・・・兄・晴景です。
さらに、謙信を守護代にしようと目論む勢力が、謙信に晴景との戦いを持ち掛けたといいます。
それを知った兄・晴景は、先手を打つことに・・・
謙信がいた栃尾城に兵を送り、城を包囲したのです。
兄から攻められることとなった謙信は、
「兄上の兵は必ず今宵引き返す
故に、日が沈むのを待って打って出る!
それに備えよ!
よく見て見よ、小荷駄を連れておらぬであろう
腰兵糧だけでは、行き帰りの行軍が、精一杯だからな」
その読みは的中!!
晴景方の軍勢は、日没を待って撤退していきました。
すると謙信は、その背後を急襲!!
晴景方を大混乱に陥らせたのです。
その知らせを聞いた兄・晴景率いる本隊は、慌てて居城・春日山城へ退却!!
しかし、謙信方の追撃を受け、多くの兵を失ってしまいました。
兄弟対決は、謙信の圧勝で終わりました。
そんな兄弟の対決に胸を痛めていたのは、越後守護・上杉定実です。
「長尾の兄弟げんかがもとで、越後国が乱れては困る!!」
定実は、2人の仲裁に入ります。
そして、周囲の評判や、両者の器量などを考慮した説得により、謙信が兄・晴景の養子となって長尾家の家督を継ぎ守護代になることが決まりました。
こうして、兄との戦いの末、勝利した謙信が越後守護代になったことから・・・
謙信が兄から守護代の座を奪ったといわれてきました。
しかし、本当にそうだったのでしょうか??
兄・晴景派、早い段階から家臣たちからの「守護代を景虎に譲る」という進言を受け入れていました。
兄の家督相続の打診に、景虎は「まだ若く、その器ではない」と断っていました。
しかし、最終的に、守護である定実から命令され、三者合意のもと平和的に家督が譲られたのです。
軍記物にある戦いも、実際にあったのかどうか定かではなく、謙信・晴景・上杉定実の三者会談も、謙信を守護代にするべく説得するために開かれたものでした。
兄と対立する気などさらさらなかった謙信・・・
越後守護代になる際には、兄を立て、誓いを結んでいます。
”兄・晴景の病気療養中のみ家督を預かり内乱を収めること
国の運営などの政策は、兄・晴景の許可を得て行うこと”
謙信は、少年時代に天室和尚から叩き込まれた
「兄を侮って家を乱す企みをせぬこと」
という教えを守り、あくまでも兄の病気が治るまで越後守護代となったのです。
謙信、19歳のことでした。
謙信、越後国主になる
長尾景虎・・・後の上杉謙信が19歳で家督を継ぎ、越後守護代となった2年後の1550年。
謙信を守護代に推した越後守護の上杉定実が病で亡くなります。
定実には、跡継ぎがいなかったため、越後国には守護がいなくなったのです。
守護になれるのは、定められた格式の家柄のみ・・・
その為、その家格でない長尾家の謙信は、守護にはなれませんでした。
しかし、事実上の越後国の国主となりました。
そんな謙信に、室町幕府将軍・足利義輝から書状が届きます。
「公方様から、毛氈鞍覆と白傘袋を使っても良いとのお許しが出たぞ」by謙信
毛氈鞍覆を許すとは、行列の先頭にいる馬の鞍の覆いに動物の毛を固めて作った毛氈を使ってもよいということ。
また、白傘袋を許すとは、高貴な人が外出する際に、後ろから衣笠を翳す・・・それをしまう袋の色に白を使ってもいいということです。
毛氈鞍覆の使用は、守護代でも使用可能でしたが、白傘袋の使用は守護しか許されませんでした。
将軍・義輝が、謙信に白傘袋の使用を許可したということは、室町幕府が謙信を守護国主として認めたということなのです。
しかし、その裏には、将軍・義輝の思惑がありました。
伝える書状には、こんな事も書かれていたのです。
”将軍家のために尽くせ”
この時、将軍・義輝は、陪審の三好長慶と争って、京都を追われ近江に避難していました。
下剋上の憂き目にあっていたのです。
将軍の権威は保てない・・・京都に戻らなければ・・・!!
義輝は、京都に戻るには有力大名たちの支援が必要で、景虎に箔をつけて味方につけよう目論んだのです。
しかし、謙信はまだ21歳の若輩者・・・
将軍義輝が期待したのは、長尾家の財力でした。
長尾家の治める越後国は、他国の数倍に値する国力を持っていました。
実際、謙信の父・長尾為景は、越後で権力を守るため、後ろ盾になってもらおうと朝廷や幕府に働きかけていました。
その際の貢ぎ物から、将軍・義輝は、長尾家の資金力の豊かさを知っていたのです。
長尾家の豊かな資金力・・・その源となっていたのが、青苧と越後上布です。
青苧は、カラムシの皮から取った麻糸で、その麻糸で紡いだのが越後上布です。
高級品として高値で取引されていました。
長尾家は、その売り上げから税収を得ていたのです。
さらに、長尾家には、大きな資金源がありました。
銀山です。
越後北東部の鳴海金山をはじめとする鉱山郡・・・通称・越後黄金山などで、大量の金を産出していました。
こうした資金源を背景に、謙信は越後国主として邁進していくのです。
”晴景 嫡男成長の時に至りては、速やかに家督を渡すべし”
謙信は、中継ぎでした。
「結婚して子が生まれては、兄の子に家督を返すことが難しくなる
生涯、妻を持たぬと誓ったのは、全て兄への義を立てるため」by謙信
その意志は強く、兄の子が亡くなった後でも、中継ぎ当主という立場を貫きました。
「依怙によっては弓矢は取らぬ
ただ節目をもって何方なれど 合力す」by謙信
そんな義の武将だからこそ、謙信のもとには助けを求める武将が・・・!!
謙信、いざ川中島へ!
1553年8月、国主となった謙信のもとに、ひとりの武将が助けを求めてやってきました。
北信濃国人領主・村上義清です。
甲斐の虎と恐れられた武田晴信・・・後の信玄との戦いに2度も勝利した男です。
ところが、武田方の策略によって、精力を削がれ、居城を追われることとなり領地を武田に奪われてしまいました。
そこで義清は、「武田から領地を取り返してほしい」と、謙信に助けを求めてやってきたのです。
「貴殿ほどのお方が、この若い私を頼られたのだ
武士として見捨てることはできぬ、お助けしましょう」by謙信
謙信は、8000の兵を率いて出陣!!
義清の領地を取り戻すため、信濃の川中島で武田ん軍勢と対峙!!
11年、5度に及ぶ川中島の戦いの始まりでした。
戦いを優位に進めた謙信は、義清の領地を次々と奪い返していきます。
一方、武田の軍勢も反撃に出ます。
しかし、深入りしてくることはありませんでした。
こうして、一度目の対決は、両者腹の探り合いで終わったのです。
この戦ののち、謙信が向かったのは、京都。
前年、謙信は朝廷から従五位下の叙位と、弾正台の次官弾正少弼に任じられていました。
その返礼の為、朝廷のある京都に向かったのです。
謙信は、時の後奈良天皇に拝謁、天皇から上洛したことのねぎらいから、天盃と、御剣をもらいました。
「この上ない名誉、心して御奉公いたします」by謙信
さらに・・・
「住国ならび隣国に、敵心を差し挟む輩を治罰せよ」by後奈良天皇
これは、越後国内と隣国での謙信の戦いを、天皇が正義の行いと認めたということ・・・。
こうして謙信は、越後の統一、武田信玄との戦い・・・義の武将として戦っていくこととなります。
はじめて京の都を見て回った謙信は、朝廷や幕府の逼迫した実態を知り、自分がそれらを立て直すと心に誓ったといいます。
そして、謙信はそのあとの人生を捧げていくこととなります。
謙信、24歳の時のことでした。
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