日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:上杉謙信

1530年1月21日、雪深き越後国に一人の男の子が生まれました。
やがて若武者へと成長した子は、龍の如く戦国の世を駆け抜けていきます。
人々は、その生きざまを”越後の龍”と称しました。
そう・・・上杉謙信です。
自らを毘沙門天の化身と名乗り、仏教に深く帰依していた上杉謙信・・・
そんな幻覚で真面目な謙信が目指したのは、騒乱の終息と、秩序の回復でした。
義の武将、軍神として人気の上杉謙信が悩み、挑み続けた若かりし日々とは・・・??



謙信の姓は・・・上杉??
上杉は、後に次いだ家の名・・・元々の名前は長尾です。
上杉家と長尾家の関係は、上杉・守護と、長尾・守護代です。
守護は、室町幕府のもと領国を治める行政官のことで、国の主です。
守護代は、守護の補佐役です。
京都にいることが多かった守護に変わって、それぞれの領国の国人領主たち(国衆)を、現地で束ねていたのです。

鬼若殿、寺に入れられる
謙信は、越後国の南西部にあった長尾家の居城・春日山城で、越後守護代・長尾為景と虎御前との間に生れました。
幼名は虎千代・・・謙信は、後に出家した法名です。
謙信の父・為景は、戦に臨むこと100回以上、冷徹無比なその戦い方から、戦の鬼と呼ばれていました。
下剋上を果たし、越後の国をわがものにしたいと思っていた為景は、武力によって主君である越後守護の上杉房能を自害に追い込むと、房能の養子・忠実を名ばかりの守護につけ、実質上支配してしまいます。
そんな戦の鬼の血を引く謙信は、幼いころから腕白でした。
チャンバラ争いをしては相手を泣かせる毎日・・・
そんな謙信についたあだ名は、鬼若殿!!
ただし、負かす相手は年上ばかり。
年下や弱い者には決して手を出しませんでした。
その理由は・・・観音菩薩を熱心に侵攻していた母に弱い者いじめをしない思いやりのある子に育てられていました。
そんな中、父・為景は戦に明け暮れていました。
為景の、無慈悲で強引なやり方に、国人領主たちが反発し、度々蜂起していたからです。
その中心となったのが、越後守護の上杉定実の実家・上条家でした。
上条家は、打倒・長尾為景を掲げ挙兵・・・上条の乱です。
そんな戦のさ中、1536年5月・・・
7歳になっていた謙信は、父・為景から突然命じられます。

「お前は寺に入れ!!」と。

謙信は、春日山城下にあった長尾家の菩提寺・林泉寺に入れられたのです。
謙信には、18ほど年の離れた母違いの兄・晴景がいました。
長尾家の家督は、嫡男である晴景が継と決まっていたからです。
武家において家督争いを防ぐために、嫡男以外の男子を出家させることは通例で、それに従い、父・為景は、謙信を寺に入れたのです。

ただし・・・それは表向きの理由でした。
一説には、気質が合わず嫌って寺に入れた??
が、これは後世に作り話だと思われます。
実際は・・・上条の乱でほとんどが反・為景派となりました。
越後中の領主が、春日山城に迫ろうという勢いでした。
謙信が危険に晒されないように、林泉寺に避難させたというのが妥当です。
兄・晴景は病弱で、軍隊を指揮することが期待できませんでした。
父・為景は、謙信を兄・晴景の陣代として線状に赴く大将に育成したいと考えていました。
兄・晴景に万が一のことがあった時のために、謙信の命を守る必要があったのです。



その後、父は不利な状況を覆し、上条の乱を鎮めます。
1536年8月、為景は、勝利に安堵したのか、長尾家の家督を謙信の兄・晴景に譲ります。
一方、いやいや寺に入れられた謙信は、そこで障害の師と出会います。
曹洞宗の僧侶で林泉寺の住職・天室光育です。
謙信は、天室和尚から、仏の教えだけでなく、陣代となるべく兵法も学んでいきました。
厳しい修行の中、謙信が何より楽しみにしていたのが城攻め遊びでした。
それは、一間以上ある城の模型を使い、兵士に見立てた駒や引きを配置するシミュレーションゲームのようなものでした。
上杉家歴代当主の誕生から葬儀までを記した”上杉家御年譜”によると、謙信の城攻め遊びの才は、見事だったようで・・・

「虎千代さまは、軍配に優れ、尋常の人ではない
 将来、家運を開く器である」

それを聞いた父や兄は、大いに喜んだといいます。
ただ、腕白ぶりは相変らずで・・・
ある日、寺の本堂で兄弟子たちと大喧嘩・・・たまりかねた和尚が、

「本堂でけんかをする者は柱に縛り付けるぞ」

そう叱り飛ばすと、兄弟子の一人が、

「虎千代さまが乱暴者で悪いのです」

と、謙信のせいにします。
すると謙信は・・・

「和尚様、私が兄弟子と相撲を取り始めると、もう一人の兄弟子が後ろから組み付いてきたのです
 相撲は1対1でやるもの・・・
 それを2人がかりで来るのは卑怯なふるまいと思い、懲らしめていたのです」

間違った行いを許せない謙信に感心した和尚・・・
そんな和尚が、謙信に常々教えていたのは、”兄を侮って家を乱す企みをせぬこと”でした。
その為、儒教を中心とする教育・・・四書五経などで、忠誠心・道徳心の強化が図られました。
あくまでも謙信は兄・晴景の陣代として教育されたのです。
物事の道理を守る筋目と、道理に外れたことをしない非分・・・
謙信が将来貫くこととなる義の心は、天室和尚によって培われたのです。
時は過ぎ、謙信が寺に入って6年・・・運命が大きく動きます。



戦の鬼・父・為景も、病には勝てず、この世を去りました。
謙信は、急いで春日山城に向かいましたが、城内は大混乱に陥っていました。
為景による支配に反感を持っていた越後の国人領主たちが、為景の死を知り・・・好機と見、春日山城下に迫ってきていました。
その為、敵の攻撃に備え、鎧をつける謙信・・・
まるで出陣前の緊張感の中、執り行われた父の葬儀。

「仏門にいる私に、今、何が出来ようか・・・」

戦にも出られない自分に、ただただ腹立たしく思う謙信・・・この時、13歳でした。
1543年、謙信は、兄の命を受け、長尾家の居城・春日山城に戻ります。
そこで、14歳の謙信は元服し、名を景虎と改めました。

謙信の父・為景が亡くなった越後国は大混乱!!
戦の鬼と恐れられた為景と違い、当主となった晴景は病弱で、国をまとめる力がないと侮られ、長尾家を倒すのは今しかないと、亡き為景に反感を抱いていた国人領主たちが各地で蜂起したからです。
中でも当主・晴景を悩ませたのが、一族である長尾平六でした。
平六は古志郡で挙兵、反目していた為景に父親を殺されたことを恨んでのことでした。

1543年、兵六方の攻撃が激しさを増す中、晴景は古志郡で平六方と戦う晴景方の栃尾城主・本庄実乃にこんな書状を送ります。

”病気も治ったので、安心してほしい
 景虎を援軍に送るから、勝利は眼前であろう”

晴景は、寺から呼び戻し、景虎を名を改めさせた弟・謙信を、反乱鎮圧の切り札として送ったのです。
こうして、晴景の陣代となった謙信は、

「兄上に代わって逆賊を討ってみせる!!」

力強く、家臣たちの前で宣言・・・謙信、この時14歳でした。
初陣と言われる栃尾城の戦いの始まりでした。

謙信・・・初めての戦
1543年10月、長尾平六の反乱を鎮圧すべく、援軍として栃尾城に入った謙信に対し、平六は・・・
若い謙信を子バカにして、まるで猫がネズミをいたぶるように栃尾城攻めを繰り返します。
それでも、謙信は動揺を見せませんでした。
謙信たちが籠った栃尾城の守りは固く、平六方の猛攻にも耐え、膠着状態に・・・
1544年1月23日・・・謙信方の軍勢が城を出て、平六方の軍勢に近づいたのです。
これに対し、平六方は激しい攻撃を仕掛けますが・・・謙信は、はやる将兵を戒めます。
しかし、平六方の猛攻は止まず・・・家臣たちは、謙信に突撃の許可を求めます。
すると謙信は・・・

「汝ら老巧の勇士たりと言えども、戦術に練達せず
 今は、兵を出すべき時節にあらず
 しばし、敵勢を耐えよ」

この謙信の命令に対し、

「聡明を謳われて世に出たものの、結局は若造だ
 臆病なことよ」

そう陰口をたたく者もいました。
しかし、謙信には秘策がありました。
平六方が目の前の攻撃に集中している隙をつき、謙信は自らの軍勢を二つに分け、片方の軍勢を平六方の背後に回したのです。
陣形が整うと、謙信は・・・

「かかれ!!」

背後から平六方に奇襲をかけたのです。
これに驚いた平六方は、混乱状態に・・・
すると謙信は、追い打ちをかけるように正面からも猛攻撃をかけ、平六方を制圧!!
総大将の長尾平六をはじめ、多くの敵将を討ち取りました。
指揮官として並外れた才能を見せた謙信・・・見事初陣を飾ったのです。

その後も各地で謀反が起こり、その度に謙信が晴景に代わって鎮圧に・・・
その武功を聞いた越後各地の領主たちの謙信に対する期待が高まります。
そして、謙信の兄・晴景に不満を抱く一部の領主たちが、晴景に退陣を求めるようになります。
中には、謙信を擁立し、越後を一つにまとめようと画策する者たちも現れました。

謙信、守護代になる
15歳で初陣を飾った長尾景虎・・・後の上杉謙信は、病弱だった兄・晴景の陣代としてその後も出陣し、次々と勝利・・・
指揮官としての才を発揮していきます。

「景虎さまは負け知らずじゃ!!」
「まるで毘沙門天の化身じゃのう!!」

謙信は、戦いの神・毘沙門天に例えられるなど、日増しに家臣たちの人望を集めて行きました。
それに伴い、謙信が守護代になることを望む機運が高まっていきます。

相模の北条氏康が関東制覇に向けて快進撃を・・・武田晴信は信濃攻略を進めていました。
その二つの勢力が、越後に迫る可能性がありました。
これに対抗するためには、病弱な兄・晴景では心もとない・・・
晴景に代わって将来有望な景虎に守護代になってもらいたいと周囲が望むのは当然の成り行きでした。
そんな中、謙信の軍記物などによれば・・・
越後守護代・晴景の陣代として活躍する謙信のことを苦々しく思っていた人物がいました。
誰あろう謙信に陣代を任せていた本人・・・兄・晴景です。
さらに、謙信を守護代にしようと目論む勢力が、謙信に晴景との戦いを持ち掛けたといいます。
それを知った兄・晴景は、先手を打つことに・・・
謙信がいた栃尾城に兵を送り、城を包囲したのです。
兄から攻められることとなった謙信は、

「兄上の兵は必ず今宵引き返す
 故に、日が沈むのを待って打って出る!
 それに備えよ!

 よく見て見よ、小荷駄を連れておらぬであろう
 腰兵糧だけでは、行き帰りの行軍が、精一杯だからな」

その読みは的中!!
晴景方の軍勢は、日没を待って撤退していきました。
すると謙信は、その背後を急襲!!
晴景方を大混乱に陥らせたのです。
その知らせを聞いた兄・晴景率いる本隊は、慌てて居城・春日山城へ退却!!
しかし、謙信方の追撃を受け、多くの兵を失ってしまいました。
兄弟対決は、謙信の圧勝で終わりました。



そんな兄弟の対決に胸を痛めていたのは、越後守護・上杉定実です。

「長尾の兄弟げんかがもとで、越後国が乱れては困る!!」

定実は、2人の仲裁に入ります。
そして、周囲の評判や、両者の器量などを考慮した説得により、謙信が兄・晴景の養子となって長尾家の家督を継ぎ守護代になることが決まりました。
こうして、兄との戦いの末、勝利した謙信が越後守護代になったことから・・・
謙信が兄から守護代の座を奪ったといわれてきました。
しかし、本当にそうだったのでしょうか??

兄・晴景派、早い段階から家臣たちからの「守護代を景虎に譲る」という進言を受け入れていました。
兄の家督相続の打診に、景虎は「まだ若く、その器ではない」と断っていました。
しかし、最終的に、守護である定実から命令され、三者合意のもと平和的に家督が譲られたのです。
軍記物にある戦いも、実際にあったのかどうか定かではなく、謙信・晴景・上杉定実の三者会談も、謙信を守護代にするべく説得するために開かれたものでした。
兄と対立する気などさらさらなかった謙信・・・
越後守護代になる際には、兄を立て、誓いを結んでいます。

”兄・晴景の病気療養中のみ家督を預かり内乱を収めること
 国の運営などの政策は、兄・晴景の許可を得て行うこと”

謙信は、少年時代に天室和尚から叩き込まれた
「兄を侮って家を乱す企みをせぬこと」
という教えを守り、あくまでも兄の病気が治るまで越後守護代となったのです。
謙信、19歳のことでした。

謙信、越後国主になる
長尾景虎・・・後の上杉謙信が19歳で家督を継ぎ、越後守護代となった2年後の1550年。
謙信を守護代に推した越後守護の上杉定実が病で亡くなります。
定実には、跡継ぎがいなかったため、越後国には守護がいなくなったのです。
守護になれるのは、定められた格式の家柄のみ・・・
その為、その家格でない長尾家の謙信は、守護にはなれませんでした。
しかし、事実上の越後国の国主となりました。
そんな謙信に、室町幕府将軍・足利義輝から書状が届きます。

「公方様から、毛氈鞍覆と白傘袋を使っても良いとのお許しが出たぞ」by謙信

毛氈鞍覆を許すとは、行列の先頭にいる馬の鞍の覆いに動物の毛を固めて作った毛氈を使ってもよいということ。
また、白傘袋を許すとは、高貴な人が外出する際に、後ろから衣笠を翳す・・・それをしまう袋の色に白を使ってもいいということです。
毛氈鞍覆の使用は、守護代でも使用可能でしたが、白傘袋の使用は守護しか許されませんでした。
将軍・義輝が、謙信に白傘袋の使用を許可したということは、室町幕府が謙信を守護国主として認めたということなのです。
しかし、その裏には、将軍・義輝の思惑がありました。
伝える書状には、こんな事も書かれていたのです。

”将軍家のために尽くせ”

この時、将軍・義輝は、陪審の三好長慶と争って、京都を追われ近江に避難していました。
下剋上の憂き目にあっていたのです。
将軍の権威は保てない・・・京都に戻らなければ・・・!!
義輝は、京都に戻るには有力大名たちの支援が必要で、景虎に箔をつけて味方につけよう目論んだのです。
しかし、謙信はまだ21歳の若輩者・・・
将軍義輝が期待したのは、長尾家の財力でした。
長尾家の治める越後国は、他国の数倍に値する国力を持っていました。
実際、謙信の父・長尾為景は、越後で権力を守るため、後ろ盾になってもらおうと朝廷や幕府に働きかけていました。
その際の貢ぎ物から、将軍・義輝は、長尾家の資金力の豊かさを知っていたのです。
長尾家の豊かな資金力・・・その源となっていたのが、青苧と越後上布です。
青苧は、カラムシの皮から取った麻糸で、その麻糸で紡いだのが越後上布です。
高級品として高値で取引されていました。
長尾家は、その売り上げから税収を得ていたのです。
さらに、長尾家には、大きな資金源がありました。
銀山です。
越後北東部の鳴海金山をはじめとする鉱山郡・・・通称・越後黄金山などで、大量の金を産出していました。
こうした資金源を背景に、謙信は越後国主として邁進していくのです。

”晴景 嫡男成長の時に至りては、速やかに家督を渡すべし”

謙信は、中継ぎでした。

「結婚して子が生まれては、兄の子に家督を返すことが難しくなる
 生涯、妻を持たぬと誓ったのは、全て兄への義を立てるため」by謙信

その意志は強く、兄の子が亡くなった後でも、中継ぎ当主という立場を貫きました。

「依怙によっては弓矢は取らぬ
 ただ節目をもって何方なれど 合力す」by謙信

そんな義の武将だからこそ、謙信のもとには助けを求める武将が・・・!!

謙信、いざ川中島へ!



1553年8月、国主となった謙信のもとに、ひとりの武将が助けを求めてやってきました。
北信濃国人領主・村上義清です。
甲斐の虎と恐れられた武田晴信・・・後の信玄との戦いに2度も勝利した男です。
ところが、武田方の策略によって、精力を削がれ、居城を追われることとなり領地を武田に奪われてしまいました。
そこで義清は、「武田から領地を取り返してほしい」と、謙信に助けを求めてやってきたのです。

「貴殿ほどのお方が、この若い私を頼られたのだ
 武士として見捨てることはできぬ、お助けしましょう」by謙信

謙信は、8000の兵を率いて出陣!!
義清の領地を取り戻すため、信濃の川中島で武田ん軍勢と対峙!!
11年、5度に及ぶ川中島の戦いの始まりでした。
戦いを優位に進めた謙信は、義清の領地を次々と奪い返していきます。
一方、武田の軍勢も反撃に出ます。
しかし、深入りしてくることはありませんでした。
こうして、一度目の対決は、両者腹の探り合いで終わったのです。

この戦ののち、謙信が向かったのは、京都。
前年、謙信は朝廷から従五位下の叙位と、弾正台の次官弾正少弼に任じられていました。
その返礼の為、朝廷のある京都に向かったのです。
謙信は、時の後奈良天皇に拝謁、天皇から上洛したことのねぎらいから、天盃と、御剣をもらいました。

「この上ない名誉、心して御奉公いたします」by謙信

さらに・・・

「住国ならび隣国に、敵心を差し挟む輩を治罰せよ」by後奈良天皇

これは、越後国内と隣国での謙信の戦いを、天皇が正義の行いと認めたということ・・・。
こうして謙信は、越後の統一、武田信玄との戦い・・・義の武将として戦っていくこととなります。

はじめて京の都を見て回った謙信は、朝廷や幕府の逼迫した実態を知り、自分がそれらを立て直すと心に誓ったといいます。
そして、謙信はそのあとの人生を捧げていくこととなります。
謙信、24歳の時のことでした。

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相模の獅子・北条氏康・・・関東一円を支配した北条氏の三代目当主です。
武勇や知略に優れ、連勝をかさねた関東随一の名将!!
その戦ぶりから、今代天下無双の覇王と評されました。
そんな氏康が、戦国最強と謳われた武田信玄と知略をつくした戦いがありました。
戦国最大の山岳戦といわれる三増峠の戦いです。
戦いの舞台となったのは、小田原城から甲斐国に向かう山道三増峠。
ここで武田軍を足止めし、挟み撃ちにする氏康!!
危険を察知しながらも、敢えて峠へ突入していく信玄!!
互いが互いの腹を探り合う虚々実々の駆け引きの末、両軍が激突!!
しかし、資料は少なく、戦いの実像は明らかになっていません。

神奈川県小田原市・・・北条氏が関東支配の本拠地とした場所です。
北条氏の三代目当主・北条氏康は、27歳にして当主となりました。
当時、伊豆・相模を中心に、武蔵・下総にまで領土を広げ、関東に覇を広げていた北条氏・・・
しかし、当主の代替わりを好機と考えた周辺勢力が、打倒北条に動き始めます。
家督相続から4年後、氏康は最大のピンチを迎えます。



1545年、駿河の今川氏、甲斐の武田氏が駿河の北条領に侵攻。。。
同時に領国の北部にあった川越城が窮地に陥ります。
関東管領・山内上杉氏や扇谷上杉氏らが、川越城を包囲!!
その軍勢は、なんと8万!!
ここで氏康は、大胆な外交を展開します。
駿河の領土を割譲することで、今川・武田と和睦・・・二正面作戦を回避したのです。
そして、自ら軍を率い、川越城の救援に向かいました。
しかし、その軍勢はわずか8000!!
敵の1/10にすぎませんでした。
氏康は、ここで一計を案じます。
1546年、川越城を包囲する敵が油断したところを奇襲決行!!
敵の隙に付け込んだ氏康は、圧倒的な兵力差をひっくり返し、敵の大将の一人・扇谷上杉氏の当主を討ち取るなど、大きな戦果を挙げました。

氏康が語ったという戦についての言葉が残されています。

”戦が起きた時には、多くの者に相談し、3人が言う時には必ず2人が言う方を選ぶ”

北条氏当主という絶対的地位にありながら、家臣の意見に耳を傾け、多数決を重んじた氏康・・・
その先進的な考えは、内政にも発揮されます。
彼が家督を継いだころ、北条氏の領国では大地震・水害が頻発・・・
領民が土地を捨てて逃げ出し、収穫量が激減・・・年貢を徴収できない状況に陥っていました。
そんな危機を打開するために、思い切った税制改革に打って出ます。
それまで領民が代官から不定期に課せられていた様々な租税を、土地の収穫高に応じた税負担に統一!!
これによって、領民の負担を軽減させつつも、安定した税収を確保することに成功します。
さらに、目安箱を設置し、領民の意見を直接聞くなど、優れた民政で人々の心をつかんでいきました。
氏康は、領主としての在り方についてこう語っています。

”部下を愛し、庶民を慈しむは、主将の当然の務めである”

こうして、領民からの信頼を得ることで、領国統治を安定させることに成功した氏康・・・
しかし、そこに北条氏の関東支配を脅かす強敵が現れます。
越後の長尾景虎・・・後の上杉謙信です。
1560年、北条氏打倒を掲げ、関東への侵攻を開始した謙信・・・北条の拠点を次々と攻略しつつ南下。
関東各地の有力武将が次々と服属し、その兵力は10万以上に膨れ上がりました。

この大軍に対し、氏康のとった行動は・・・??
居城である小田原城での籠城戦です。
当時の小田原城は、現在よりもはるかに範囲が広く、戦国屈指の大きな城でした。
氏康の時代には、巨大な屋形の三方に深い水堀があり、鉄壁の守りを誇る要塞だったと考えられます。
氏康は、謙信の到着を前に、領民を城内に非難させ、十分な兵糧と鉄砲を確保、万全を整えます。
そこに、謙信率いる大軍が到着、城への攻撃を開始します。
しかし、小田原城の守りは固く、敵の侵入を許しません。

10日ほどの籠城戦の末に、謙信を全軍撤退に追い込んだのです。
その後、反撃に転じた氏康は、領内の城を奪い返し、謙信に味方した関東各地の武将らを降伏させます。
さらに、二度と敵の侵攻を許さないため、各地の支城の防衛を強化。
そこで作られた代表的な防御の仕掛けが、障子堀です。
堀を細かく区切ることで、侵入した敵を自由に動き回れないようにして殲滅するのです。
氏康は、こうした防衛拠点を領内各地の要所に配置、小田原城を中心に緊密な関係を築く支城ネットワークを作り上げたのです。
関東の覇者・北条氏康・・・その名は、戦国の世に隠れもないものになっていきました。

関東最強となった北条氏でしたが、周囲には強敵がひしめき、いつ攻め込まれるかわからない状況でした。
ここで氏康は、人々をあっと言わせる外交を展開します。
敵対していた甲斐の虎、駿河の今川と不可侵条約を結んだのです。

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1554年、甲相駿三国同盟です。
北へ領土を広げたい武田信玄と、西への進出を図る今川義元、東に進みたい北条氏康・・・三者の思惑が合致して成立したこの同盟・・・
それぞれ当主の娘をそれぞれの嫡男に嫁がせることで、三者は血縁関係となり、結びつきがより強固となりました。
氏康は、背後を心配することなく、関東での支配域を広げることができたのです。
ところが、桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に打ち取られたことでバランスが崩れます。
1568年、同盟締結から14年後、弱体化する今川氏に見切りをつけた武田信玄が、駿河への侵攻をはじめました。
信玄は、北条にも協力を求めましたが、娘を今川に嫁がせていた氏康はこれに激怒!!

「この恥辱、雪ぎがたし」とまで述べています。

すぐさま駿河に援軍を派遣し、武田軍を撃退することに成功。
さらに、敵対していた越後の上杉謙信と同盟を締結!!
あくまで信玄と敵対する姿勢を見せました。

周囲を敵に囲まれた信玄・・・ここで思いがけない作戦に打って出ます。
1569年9月、2万の軍勢を率いて北条領に攻め込んだのです。
上野から武蔵に入った信玄は、氏康の五男・北条氏邦が守る鉢形城を包囲、しかし、城の守りが堅いと攻撃もせずに南下、氏康の三男・氏照が守る滝山城の攻略を狙います。
猛然と攻め込んだ武田軍でしたが、鉄壁の守りを誇る滝山城を攻め落とすことはできませんでした。

城主の氏照が、戦いの状況を記した書状にはこうあります。

”敵を際限なく討ち取り、手負いの儀はその数知れず”

かねてより市場の守りを整備していたことで、氏康は武田軍の一つの城を落とすことも許しませんでした。
戦果を挙げられない武田軍・・・しかし、信玄は撤退することなく北条領の奥深くに軍を進めます。
なんと、氏康のいる小田原へと向かったのです。

それに対し、氏康は籠城戦を選択します。
お上杉謙信を撃退した時と同じ策に出ました。
諦めて退いていくところを追撃する作戦でした。
氏康の策に乗らされるように小田原城を包囲した武田軍・・・
信玄は、城への攻撃を仕掛けますが、氏康は堅い守りで応戦・・・全く寄せ付けません。
そこで信玄は、城下にある北条方武将の屋敷に火を放って挑発するものの、氏康が誘いに乗ることはありませんでした。
包囲からわずか3日後・・・武田軍は撤退を開始しました。
しかし・・・これが二人の本当の戦いの始まりでした。

小田原から撤退する武田軍・・・実は氏康は、その戦列を考えていました。
この時、信玄が甲斐へ帰国するには、侵攻してきたルートを戻るほかにも丹沢山地を超える方法、駿河方面からの迂回など、いくつかの選択肢がありました。
その中で、最も可能性が高いと氏康が考えていたルートに、武田軍殲滅のポイントとなる場所がありました。
それが、小田原から北に50キロ・・・相模川と中津川によって分断された峠口・・・三増峠です。
三増峠とは、いったいどんな場所だったのでしょうか??

この峠は当時、相模から甲斐へ抜ける代表的なルートで、信玄が退路に選ぶ可能性が高い場所でした。
そこで氏康は、滝山城の氏輝や、鉢形城の氏邦らに北から三増峠に向かうように命じました。
総勢およそ2万人!!
もし、武田軍が三増峠を通れば、小田原からの追撃軍とで挟み撃ちにできるという壮大な作戦でした。
果たして信玄は、三増峠を通るのか??いつ、追撃軍を出せばいいのか??

武田軍を即時追撃する??それとも、武田軍の状況を見極める??

小田原から撤退した武田軍でしたが、その行軍速度はゆっくりとしたものでした。
向かう先は、北の甲斐ではなく、東の鎌倉のようにも見えました。
即時追撃か、状況を見極めるべきか・・・??そこに思わぬ知らせが届きます。
武田軍が、いきなり進軍のスピードを速めたというのです。
向かったのは、あの三増峠!!
氏康はすぐさま追撃軍の出陣を命じました。
一方、氏照や氏邦の軍はすでに三増峠に到着、入り口に軍を構えていました。
ここで、武田軍を待ち受けていたのです。
しかし、北条軍の配置は間違っていた??
北条軍の散るべき陣は、峠の下ではなく、峠の上でした。
そうすると、武田軍は、峠を突破するのに時間がかかり、苦戦しているうちに小田原から追いかけてきた氏康、氏政の本体によって挟み撃ちになる・・・これは武田軍にとって最も悪いケースで、北条必勝のパターンでした。

「戦国最大の山岳戦・三増峠の戦い~北条氏康VS.武田信玄~」



実際には、氏康の戦略とは違う形で布陣していた北条軍・・・さらに、武田軍が三増峠に急行してきたことで思わぬ動きが・・・!!
武田側の甲陽軍鑑には・・・
”信玄公、三増へ付きたまへば北条衆は陣をあけ、中津川を越し、半原山に落ちる”
三増峠の入り口に布陣していた北条軍が、峠から川を渡って平地へ移動したというのです。
どうして、有利な状況を自ら放棄してしまったのでしょうか?

険しい三増峠に入ってしまえば援軍がやってくるからどちらにしても勝てるとそういう思いがあったのかもしれません。
武田の進撃の速さに恐れをなしたのかもしれません。
北条本隊が来るのを待とうという安全策を取った可能性もあります。

武田軍は、やすやすと三増峠の侵入に成功、峠からふもとまでの一帯に軍を展開しました。
信玄が本陣を置いたといわれる場所が残されています。
高台を押さえた武田軍に対し、平地に布陣せざるを得なかった北条軍・・・
氏康の計略にほころびが生じていましたが、戦いに勝つための策はまだ残されていました。
三増峠の北側にあったのが、北条方の津久井城です。
氏康は、この城からの兵によって峠の出口を遮断し、武田軍を峠に封じ込めることを狙っていました。
それに対し、峠の通過を急ぐ急ぐ信玄は、兵糧などを運ぶ小荷駄隊に先行させます。
同時に三増峠の隣にある志田峠に大規模な別動隊を進ませました。
この動きが、氏康の戦略を狂わせることとなります。

この時、氏康らの北条の本隊およそ1万は、小田原城から出陣したばかりでした。
本隊が三増峠に到着次第、武田軍に攻め込む算段でした。
しかし、武田の別動隊が、真夜中に峠を進みだしたことが、現場の指揮官である氏照や氏邦に焦りを生みました。
武田軍を逃がすまいと、本隊の到着を待たずに攻撃を開始してしまいました。
こうして、1569年10月6日、氏康の予想外の戦い三増峠の戦いが始まりました。

北条軍およそ2万に対し、別動隊を先に進めた武田軍はその半数ほど・・・
序盤は、北条の鉄砲隊が武田の有力武将を討ち取るなど兵力に勝る北条が優勢で戦いが進みます。
猛攻を続ける北条軍・・・しかし、突如、武田の新たな軍勢が姿を表しました。
それは、峠を進んでいったはずの山県昌景隊でした。
志田峠を越えた武田の別動隊・・・しかし、津久井城から軍勢が出ていないことを見ると、山県隊は反転して戦場に戻ってきたのです。
山県隊の襲撃によって大混乱に陥った北条軍は敗走・・・
多くの兵を失い、武田軍の撤退を許してしまいました。

子の戦いでの戦死者は、北条側3200に対して武田900・・・。
戦国最大の山岳戦として今に伝わっています。
氏康が味方の敗戦の報に接したのは、三増峠まで6キロの地点でした。
氏康の信玄打倒作戦はここに潰えました。
戦いの2日後・・・氏康は上杉謙信に書状を送り、その思いを述べています。

「一日の遅れによって信玄を取り逃がし、まことに無念である」

三増峠の戦いの2年後・・・北条氏康は病で亡くなります。
1571年・・・享年57歳。
死の間際、息子の氏政にこう遺言しました。

「信玄との同盟を復活させよ」

戦ったからこそ分かった武田の力を、北条が生き残るために使え!!
これが、氏康最期の作戦司令でした。

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戦国時代、甲斐の虎と畏れられた英雄がいました。
武田信玄です。
言わずと知れた戦国時代最強の猛将です。

信玄を描いた肖像画・・・

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柔和な表情を浮かべたその姿は、従来の姿とは全く異なっています。
今、信玄の実像は大きく変わり始めています。
そんな信玄が、生涯最大の敵と向き合ったのが、1572年10月・・・2万5000の大軍勢を率いて西へと進行した西上作戦です。
尊厳を前に、後の天下人・徳川家康は大惨敗!!
怒涛の快進撃で、西を目指す信玄!!
信玄の目的とは何か??



武田信玄の名が天下にとどろいたのが、上杉謙信との死闘・川中島の戦いです。
5度にわたる国境をめぐる謙信との戦いは、およそ12年に及びました。
しかし、信玄最大の敵は謙信ではなく、後の天下人・徳川家康と織田信長でした。
ことの発端は、桶狭間の戦いで今川家の当主・義元が撃たれてから8年後・・・
1568年12月、武田・徳川が密約を結び今川に侵攻・・・
それぞれ今川領を割譲しました。
ところが、これが対立の火種となります。
信玄が家康との密約を破り、国境の大井川を越え、家康の遠江へと侵攻したのです。
どうして、信玄は密約を破ったのでしょうか?
国境の大井川を基準にというあいまいな共通の理解はあったようです。
しかし、状況次第によって・・・と考えていたようです。
もうひとつ、両者の関係は、信長を通じてなされています。
つまり、両者の本当の意図が伝わっていたかどうかはわからないのです。

この頃信玄は、信長と同盟関係にあり、一方信長は、信玄だけでなく家康とも同盟を結び、両者の仲介を果たしました。
ところが、信玄が徳川領へ攻め込むことで、家康と敵対・・・さらに、今川家の当主を庇護した北条、積年のライバル・上杉謙信と、信玄は周りを敵に囲まれ、絶体絶命の危機に陥りました。
その起死回生の秘策として、信玄は、とんでもない手に打って出ます。
信玄は、10年以上抗争を繰り広げた宿敵・上杉謙信と和睦を試みます。
川中島の戦いから5年後のことです。
しかし、同じ頃、家康も謙信との同盟締結を進めていました。
家康は、武田家と織田家の婚礼を妨害するなど、信玄と信長の同盟をも破たんさせようと画策していました。

これを知った信玄も黙っておらず、家康は口先ばかりの嘘つきだと非難!!
信長に、家康との同盟関係を解消するように迫りました。
さらに、信玄はそれまで敵対関係にあった北条とも同盟を締結、信玄にとって当面の敵は家康のみとなりました。
こうして、信玄の西上作戦の下準備は着々と整えられていきます。
信玄が、傘下の武将に宛てた手紙には・・・

”3年にわたるうっぷんを晴らさなければならない”

3年にわたる家康との抗争・・・しかし、実は信玄の恨みは一人家康のみに向けられたものではありませんでした。
信玄は、家康だけではなく、織田信長との対戦にも向かっていきます。
信玄の恨みは、家康ばかりでなく、その背後で糸を引く信長にも向けられていきます。



一方信長は、この頃窮地に立たされていました。
浅井・朝倉、本願寺や一向一揆の勢力、そして松永久秀など、周囲を反信長勢力に囲まれていたのです。
信玄にとって、遂に3年のうっぷんを晴らす機会が訪れます。

1572年10月信玄挙兵!!
家康・信長打倒の兵を挙げました。
総勢2万5000の大遠征軍!!
信玄のその後の命運を左右する西上作戦が始まろうとしていました。

1572年10月3日、信玄は2万5000の大軍勢を率いて、甲府を出陣!!
これまで信玄率いる武田軍の進行ルートは、甲府から北上し、険しい峠道を越え、徳川領の遠江を目指したと言われてきました。
しかし、それまでとは全く違うルートが浮上してきました。
新説のルートでは、信玄はそのまま南下し、東海道を西へと進軍します。
つまり、信玄は険しい山道での行軍を選ばず、徳川領まで最も近い平坦ルートを選択したことになります。
さらに、新説を裏付ける信玄の言葉が残されています。

「高天神城を下し、明日陣を進め、天竜川を越え、家康の居城・浜松へ向けて出馬する」

その日付は10月21日・・・
書状にある高天神城は、信玄と家康の国境近くに築かれた徳川方の城です。
甲府を10月3日に出陣した信玄は、その18日後、徳川領の高天神城あたりに出現したことになります。
従来のルートでは、ありえない道行でした。
徳川の”当代記”の中で、この時の武田軍のルートが遠江に向かうにあたって、高天神城を通って・・・とあります。
つまり、甲府から高天神城を通っていたと考えられます。

100キロ以上の道行きをどのように行軍したのか??
山梨県には信玄の棒道と呼ばれる道が残されています。
馬が3頭ぐらい並んで走っても問題がない広さです。
当時としては大きな道路でした。
武田の軍勢は、甲府から今の静岡県清水や、静岡市周辺まで2日、3日かかってしまいます。
信玄はこれだけの道幅の道路を領国全域にこまめに整備していました。
それが、他の大名に比べて行軍の迅速さの差につながったのです。

これまで信玄本隊が行軍したルートとされたのは、別動隊の道行でした。
信玄は、敵の目を欺くために、様々な策を弄して進軍していたのです。
信玄のこうした陽動作戦に翻弄され、謙信や、家康、信長は、信玄本隊がどこに向かっているのか把握することができなかったとみられています。
かくして信玄は、突如姿を現し、高天神を降伏させ、遠江国衆を下して西へ向かいました。
すでに家康の居城・浜松城は目と鼻の先・・・しかし、信玄は、急に北へ進路変更し、二俣城を目指しました。
信玄はどうして浜松城ではなく、二俣城を目指したのか??
そこには、信玄ならではの戦略がありました。

浜松城に近い二俣城を押さえることは、常に家康の本拠地・浜松に匕首を突き付けるような状況になります。
要害堅固な二俣城・・・しかし、思わぬ弱点がありました。
城内には井戸がなく、直接川から水をくみ上げる井戸櫓を築き、水の出を確保していたのです。
そこに目をつけた武田軍は、大量のいかだを川に流し、井戸櫓を破壊!!
水の手を断たれた城は、わずか半月余りで開城しました。
その後、信玄は二俣城付近に対陣、用意周到な信玄は、次なる目標・浜松城への振興のため、城の改宗や軍事道路の普請を進めました。



この頃になってようやく信長は、信玄の狙いが同盟者・家康の領国にあったことに気付き、烈火のごとく怒ります。
信長が謙信に宛てた手紙には・・・

”信玄の所行、寔に前代未聞の無道なり
 未来永劫にわたり、信玄と二度と交わることなどない”

そして・・・万全の体制を整えた信玄は、家康の本拠地・浜松城を目指します。
信玄対家康・・・遂に両者の戦い・・・三方ヶ原の戦いとなります。

静岡県浜松市・・・信玄と家康の決戦は、東西10キロ、南北15キロに及ぶ三方原台地の上で行われました。
広大な大地の上のどこで・・・??具体的なことは明らかになっていません。
しかし、地元では、信玄率いる大軍勢が大地を登り進軍した道が信玄街道という名で伝わっています。

1572年12月、浜松城を素通りした信玄軍2万5000・・・そのあとを家康軍が追撃!!
三方ヶ原の戦いの火蓋が切られました。
ところが、信玄は追撃してくる家康軍を待ち受けていたのです。
夕刻に始まった戦いは、既に夜半には勝敗が決していたといいます。
信玄の戦術に翻弄され、家康は大敗を喫するのです。
信玄は、わずか半日で家康軍を撃破したのです。
信玄は、信長と家康が合流して武田と決戦という状況を防ぎたかったのです。
各個撃破!!これが、次の信長との戦い・・・おそらく戦場は美濃!!
ここで、家康に大きなダメージと武田に対する恐怖心を与えておく・・・これが、信玄の目的でした。
浜松城に逃げ帰った家康を横目に、信玄は西へと軍を進めます。
ところが、浜松城からおよそ10キロ先の刑部で行軍を休止したのです。

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信玄に一体なにが・・・??
12月28日の信玄の書状には・・・
「今こそ信長滅亡の時期が到来したというのに、兵を払って帰国したとはなんとも驚くべき話である」
信玄が、兵を払って帰国したと非難した相手こそ、越前の朝倉義景でした。
信玄の信長に対する作戦は、浅井、朝倉、本願寺など畿内周辺の反信長勢力と連携し、信長を宝することにあります。
しかし、朝倉勢が兵を引き上げたことで、信長包囲網の一角が崩れたのです。
ところが、信玄には更なる秘策がありました。
信玄が足利義昭に宛てた書状には・・・

”早く、信長、家康以下の凶徒を誅戮すべき旨、お下知を賜わりたい”

三方ヶ原の戦いで家康を破る信玄の行いは、信長と義昭政権に対する謀反となります。
それを信玄は、将軍を味方に引き入れることで、自分の行いを正当化させようとしたのです。
信玄の秘策とは、将軍・足利義昭を味方につけ、反信長勢力をまとめることでした。
この後、いかに信長と決戦を行うべきか・・・慎重に戦略を建てる信玄!!

徳川領にとどまり家康を討つ??それとも、西へ向かい信長を討つ・・・??

家康と信長を討つべく信玄が企てた西上作戦・・・信玄は、刑部に対陣した後、三河への侵攻を開始。
信玄は信長との決戦を視野に入れ、西へ向かうことを決断したのです。
申した信玄の行動に対し、謙信は不吉な予言を語っています。

”信玄が信長・家康に手を出したのは、まさにハチの巣に手を差し入れたようなもの
 今後、無用なことを招くであろう”

しかし、謙信の予言に対し、信玄が西へ行軍を続けることで、戦局は大きく変わり始めました。
東美濃・近江の国衆、伊勢長嶋・三河の一向一揆も次々と信長と敵対!!
そして、遂に将軍・足利義昭も挙兵しました。
信長に反する全ての者たちが信玄の西上を心待ちにしていたのです。

その矢先・・・
1573年4月12日、信玄は病の為死去・・・享年53・・・あまりに突然の死でした。
病床にあった信玄は、重臣を呼び寄せうわごとを繰り返したといいます。

「明日には我が武田の旗を瀬田に立てよ」と

琵琶湖の南に位置する瀬田は、古来東国から京へ向かう玄関口です。
信玄が最後に夢見たのは、信長軍を倒した後、武田の軍勢が瀬田を渡り、花々しく上洛を果たした姿だったのかもしれない・・・。
信玄の死によって、反信長勢力は瓦解しました。
信玄の死から3か月後、将軍・足利義昭は信長軍の猛攻を前に破れ、室町幕府は滅亡・・・。
反信長勢力の筆頭だった浅井・朝倉も戦いに敗れ去ります。

武田信玄の突然の死は、反設永陣営の武将たちの命運をことごとく左右し、そして、信玄最後の敵となった信長と家康が天下の覇権を握り、新しい時代を切り開いていくのです。

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群雄割拠した戦国時代・・・最強と言われたひとりの武将がいました。
越後の龍・・・上杉謙信です。
終生のライバル・武田信玄は、謙信を公表しています。

「太刀においては日本無双の名大将」

戦いの神・毘沙門天の化身と恐れられた謙信の強さの秘密とは・・・??

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新潟県上越市に残る謙信の居城・春日山城跡・・・
1530年、越後守護代・長尾為景の三男として生まれます。
守護代とは、元々国を統治する守護大名の筆頭家臣として政治を補佐する立場でした。
しかし、この頃、為景は武力によって主君・上杉定実から実験を奪っていました。
1548年、長尾家の家督を継ぎます。
どうして長男を差し置いて、謙信に白羽の矢が立ったのでしょうか?

”晴景の病が平癒するまで、景虎(謙信)が軍旗を預かり、近年の擾乱を退治すべし
 国家の政務については、兄晴景の下知を承って沙汰すべし”

と、記録に残されています。

謙信の兄・晴景は、生まれつき病弱で、戦の陣頭に立つことができず、その為三男の謙信が兄に代わって家督を相続したのです。
謙信は、越後を支配するため、次々と出陣し勝利を重ねていきました。
しかし、政治は兄の指令のもとで行うという二重体制を取っていました。

謙信が求められたのは、武将としての資質・・・軍事力、合戦の強さで認められました。
政治において、期待はされていなかったのかもしれません。
しかし、そんな謙信の運命が大きく変わります。
守護大名・上杉定実が亡くなり、景虎が後継者に指名されたのです。
守護代の身分から、国主への大出世でした。
どうして越後の国主となれたのでしょうか??

新潟と山形の県境に位置する鳴海山・・・謙信が、越後国を手に入れるため、大きな役割を担ったとされる山です。
山道を奥深く進むとトンネルが・・・鳴海黄金坑・・・謙信ゆかりの金山です。
鳴海金山の歴史は平安時代にまで遡り、その豊富な産出量から、越後黄金山と呼ばれていました。
慶長年間の時代、全国の金産出量の1/3掘られていたといわれています。
謙信は、この鳴海金山以外にも、領内にある金銀の鉱山を次々と開発させ、この財力で異例の出世をしていきます。
謙信の長尾家は、本来ならば守護大名にはなれない家格でしたが、1552年、謙信は朝廷から従五位下弾正少弼という官位を与えられ、国持大名に相応しい身分を手に入れます。
背後で重要な役割を果たしたのが、室町幕府でした。
この時、謙信は謝礼として将軍・足利義輝に、銭3万文、将軍正室にも酒代5千文を献上しています。
金で幕府を味方につけ、国主の座を手に入れたのです。
潤沢な資金を使い、幕府の後ろ盾を得て、謙信は名実ともに越後の支配者となりました。
しかし、この幕府との密接な関係こそ、後の謙信の人生を左右することになります。

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戦国の革命児・織田信長は、上杉謙信に豪華な屏風を送り戦を避けようとしました。
しかし、後に二人の軍勢は、相まみえることになります。
1577年、手取川の戦いです。
この時の織田軍勢は4万!!猛将・柴田勝家をはじめ、名だたる武将が居並ぶ精鋭部隊でした。
この時の上杉軍は、2万と数の上では劣勢でしたが、その結果は、上杉軍の圧勝でした。
戦を避けようとした自分の判断が正しかったことを信長は身をもって知るのです。
どうして謙信は勝てたのでしょうか??
注目すべきは、前哨戦の七尾城の攻防戦です。
この戦での織田軍の目的は、上杉軍からこの城を守ることにありました。
ところが、その情報を得た謙信は、あっという間に七尾城を落としてしまいます。
七尾城は、上杉方に寝返った家臣によって降伏開城していたのに、その情報を流さず、わざと手取川を渡らせたのではないか??と言われています。
この時の謙信の作戦は、七尾城を一気に攻め落とし、その事実を織田軍に知られないようにし、織田軍が手取川を渡り、背水の陣となった段階で、七尾城陥落の情報を流し、慌てて退却する所を背後から襲うというものでした。
こうして謙信は、劣勢をものともせずに勝利を手にしたのです。

上杉謙信は、本当に戦国最強だったのでしょうか??
上杉謙信、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康??
障害の戦を分析し、負けなかった戦の%は・・・??

①上杉謙信・・・108戦  64勝  7敗37分・・・不敗率94%
②豊臣秀吉・・・106戦  95勝  8敗  3分・・・不敗率92%
③武田信玄・・・・82戦  51勝12敗18分・・・不敗率84%
④徳川家康・・・176戦106勝37敗33分・・・不敗率79%
⑤織田信長・・・214戦154勝48敗12分・・・不敗率78%

謙信の部下が負けているものを除くとほとんど負けなし・・・無敗でした。
戦の内容も、謙信が関東を攻めた時の戦いでは、そのほとんどが城攻めです。謙信は、わずか1年の間に次々と城を落としています。
当時の山城は、大軍を擁していてもなかなかできることではありません。

上杉謙信は、終生のライバル武田信玄との間で、5度の激闘を繰り広げています。
川中島の戦いです。
両国の間に位置する北信濃の支配権をめぐっておこったこの戦の中でも、最大の激闘となったのが第4次の戦いでした。
この時、謙信は、画期的な戦術革命を起こしていました。
謙信の戦術とは・・・??
川中島合戦屏風は、合戦の始まりから収束までを描いた壮大な絵図です。
中でも有名なのが、戦のハイライトというべき場面・・・床几に腰かけた信玄に斬りかかる謙信・・・!!
大将同士の一騎打ちです。
この一騎打ちは、謙信の戦術の妙があったからだといいます。
甲陽軍鑑から、当時の戦況を見て見ると・・・
8000の兵を率い、妻女山に陣取った謙信は、夜に紛れて本陣を移動し、朝もやが晴れるとともに信玄の本陣に襲い掛かりました。
信玄は、この時の謙信の戦術について・・・

「謙信は、我が味方の備えをまわって、幾度も攻撃してきた
 ”車がかり”という戦法である」

車ががりとは・・・??
通説では、グルグルと円を描きながら武田軍に襲い掛かる・・・
攻撃を終えた部隊は、次の部隊と交代することで、休みなく攻め立て、最後に大将同士が一騎打ちをした・・・でした。
しかし、これは現実離れしている・・・??

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上杉軍の戦闘部隊は、まず武田軍の正面を迂回し、右側面に回り込み、続いてそこから方向転換し、敵の全英に襲い掛かり足止めします。
そのあとすぐに2番目の部隊も猛撃を開始・・・こうして、敵を一部隊ずつ足止めしていき最終的に精鋭である旗本同士の決戦に持ち込んだのではないか??
そんな中での鉄砲を精鋭部隊の最前列に配備する・・・これが、謙信の戦術革命でした。
織田信長が、初めて鉄砲を集団運用したといわれますが、これを普遍的な軍事に取り込んだのは上杉謙信が初めてでした。
まさに戦術革命でした。

越後の国主である上杉謙信にとって、一刻の主として妻を娶り、跡継ぎをもうけることも大事な役目でした。
しかし、謙信は生涯独身を貫きます。
その理由とは・・・?
①男色説
謙信の同性愛志向は有名で、直江兼続も謙信の寵愛を受けていたといわれています。
しかし、当時男色家な大名は、たくさんいました。
大内義隆、武田信玄伊達政宗・・・しかし、彼等は結婚もして子供を作っています。
妻帯して子孫を残すというのは政治でした。

②宗教戒律説
謙信の居城・春日山城の本丸近くにお堂・・・毘沙門堂がひっそりと佇んでいます。
謙信は、ここに毘沙門天をまつり、戦のたびに勝利を祈願していました。
信仰心の篤かった謙信は、始めて上洛の際も名高い禅寺の門をたたき、5つの戒律を授かっています。
それが、
殺生戒・・・殺してはならない
偸盗戒・・・盗んではならない
妄語戒・・・だましてはならない
飲酒戒・・・酒を飲んではならない
邪淫戒・・・性行為をしてはならない
謙信は、この邪淫戒に従って、女性との接触を断ち、生涯独身を貫いたともいわれています。
しかし・・・お酒は飲んでいます。

③中継ぎ当主説
「上杉家御年譜」には・・・
「晴景嫡男成長の時、速やかに家督を渡すべし」とあります。
謙信は、あくまでも兄の子が成長するまでの中継ぎ投手として長尾家の家督を継いだというのです。
家臣たちは、お家存続のために結婚を勧めますが・・・謙信は頑なに拒絶し続けます。
その遺志は強く、兄の子が亡くなった後でも中継ぎという立場を貫きます。

「依怙によっては弓矢は取らぬ
 ただ筋目をもって何方なれど合力す」

筋が通っていれば、相手が誰であろうと助太刀に駆けつける義の武将・・・
本当に謙信に野望はなかったのでしょうか?
謙信の真の野望とは・・・??
そこには、室町幕府と将軍・義輝の存在が大きく関わっていました。
1559年、謙信2度目の上洛の際、ひとりの公家と出会います。
関白・近衛前久です。
この時、幕府の衰退に心を痛めていた前久は、謙信にその切実な思いを伝えます。
前久の熱意に心を動かされた謙信は、密約を結ぶことにしました。
誓約書には・・・”謙信を頼って関東に下向する”と記されています。
この頃、関東では小田原の北条氏康と、甲斐の武田信玄が大きな勢力を誇っていました。
双方ともに幕府の支配を蔑ろにし、独自に領土を拡大していたのです。
謙信と前久の計画によると・・・謙信が武田と北条を押さえ込んで京都にのぼる・・・室町幕府を回復しようというのが一つの考えでした。
この計画には、将軍・義輝も積極的でした。
義輝が謙信に与えた火薬の調合法・・・最新兵器・鉄砲に欠かせない火薬の技術を伝え、謙信の軍事力を強化したのです。

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1560年、約束通り関東に下向した前久は、各地の大名への工作を開始し、東国(出羽・会津・飛騨)を中心に支持を取り付けることに成功します。
一方、謙信は・・・武田信玄の従兄弟・勝沼信元へ裏切り工作を持ち掛けたのです。
戦わずして信玄を葬るために・・・!!
さらに、謙信は関東への軍事進攻を開始し、北条氏の勢力下にあった上野国を制圧します。

1561年、将軍・義輝から、関東管領に任ぜられます。
室町幕府東国支配の要ともいえる重要な役割を担うことになります。
錦の御旗を手に入れた謙信は、関東の大名11万5000を集め、いよいよ打倒北条に向け動き出します。
謙信が出陣に当たって奉納した願文には、その時の決意が書かれています。

「東八州を掌握し、平和を取り戻す」

関東を平定し、室町幕府を再興させることが大きな野望でした。
しかし、この計画が実現することはありませんでした。
北条氏の本拠地・小田原城を前に、頼みにしていた大名たちが次々と離脱し、謙信は遠征中止に追い込まれてしまいます。
さらに、勝沼信元の謀反計画が発覚!!
信玄を撃つこともできなくなりました。
周到に準備したはずの謙信の室町幕府最高の野望は、呆気なく潰えたのです。

1573年、謙信が再興を願った室町幕府が滅亡・・・
1578年、春日山城で病に倒れた謙信は、そのわずか4日後、49歳でこの世を去りました。
再び京に上る準備をしていた矢先のことでした。
越後の龍・上杉謙信・・・その亡骸は、城内に葬られ、今も静かに眠っています。
神となり、そして、伝説となって・・・!!

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(2021/9/24 19:02時点)
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陰謀が渦巻き、裏切りが絶えない戦国時代、親、兄弟さえも殺しあう世にあって、敵からも信頼を寄せられる稀有な武将がいました。

「自分が死んだら謙信を頼れ」by武田信玄

「謙信のみが骨になっても義理を通してくれる」by北条氏康

上杉謙信・・・どこまでも義を貫いた男です。

生涯70戦以上して、わずか2敗・・・越後の龍こと上杉謙信・・・
自らを戦いの神・毘沙門天の生まれ変わりと称し、圧倒的な強さを誇った戦の天才・・・
宿敵・武田信玄と戦いを繰り広げた川中島の戦い、敵陣の奥深くに斬り込み、信玄と直接刃を交わしたといわれるほど、天下にその名は轟きました。

「自分だけの利益のために弓矢は取らない」by上杉謙信

何よりも重んじたのは、戦の大義でした。
乱れた世をただし、将軍の下で秩序を取り戻す・・・!!
それが謙信の願いでした。
野望のために人を殺し、裏切りもいとわない者が大半だった世の中で、謙信は異色の存在でした。
その高すぎる志は、家臣さえも理解できませんでした。
戦に勝ってもほとんど敵の領地を奪わなかった謙信・・・
ただ働き同然の戦いに家臣からは度々謀反を起こされます。
謙信は、孤独でした。

そんな謙信の前に、志を同じくする武将が現れます。
戦国の雄・織田信長です。
信長と友情を築いた謙信は、理想の世を進みました。
しかし、2人はあることをきっかけに決裂し、刃を交わすこととなります。

義を貫くために強さを求めた上杉謙信、激闘の果てに彼がたどり着いた境地とは・・・??

幼い頃、寺に預けられた謙信は、禅の厳しい修行に打ち込んでいました。
次男だった謙信は、家を継ぐつもり間ありませんでした。
しかし、19歳の時、謙信は長尾家の家督を譲られます。
長尾景虎・・・後の上杉謙信は、越後・春日山城の城主・長尾為景の次男として1530年に生れます。
当時の越後は、室町幕府が定めた守護大名が治めており、父・為景はその補佐役・守護代でした。
しかし、幕府が弱体化し、守護大名の力が弱まると、各地の武将たちが反乱を起こしました。
武勇に優れた為景は、これらの反乱を押さえていました。
そして、守護代でありながら実質的な越後の国主となっていました。
そんな父の地を受け継いだ景虎は、弓矢・刀で遊ぶのが大好きな腕白小僧・・・
乱暴な振る舞いも多く、大人が諫めても、聞かなかったといいます。

1536年・・・7歳の時、21歳年上の兄・晴景が長尾家の家督を継ぎます。
これを機に景虎は、親元を離れ、寺に預けられます。
景虎の祖父が立てたといわれる林泉寺です。
ここで景虎は、座禅や読経など、禅の修行を行いました。

恨みや憎しみを手放せ
欲をむさぼってはならない

しかし、景虎が11歳の時、平和だった越後に波乱が・・・
1541年、11歳の時、父・為景が死去
為景の居城で行われた葬儀の様子は異様だったといいます。
皆、鎧兜をつけていたからです。
景虎も甲冑をつけて葬儀に臨みました。
以前から長尾家に敵対していた勢力が、為景の死を知り、この機に乗じて攻撃してきたからです。
それまで為景の力で抑えていた内乱が、再び各地で起きるようになります。

しかし、家督を継いだ兄は、幼いころから病弱で、兵を率いて戦に出ることができない・・・
1544年、景虎は14歳で、兄に変わり戦の指揮を執りました。
父としては、兄が長尾家当主なので、弟には補佐役として頑張ってほしいと教育しました。
そのおかげで、景虎は、兄の弱点である合戦に強い武将に育てられたのです。
強いだけでは政権交代や、景虎が野心を持つ恐れがあります。
権力と嘘的な教育よりも、兄の補佐役として力を与えられていました。
わずか14歳で大将となった景虎・・・この戦いで並々ならぬ才能を示すことになります。

戦いの場は、現在の新潟県長岡市にあった栃尾城です。
6000以上の敵兵に対し、景虎の軍はわずかに2000!!
川を挟んで一進一退の攻防が続いていました。
戦い始めて数日後・・・敵が陣太鼓をならし始めました。
川を渡ってこちらに来る・・・??
敵が川を渡って来れば、先制攻撃を受けてしまう!!
家臣たちは急いで出陣しようと訴えました。

「今は兵を出すときではない、しばし耐えよ」by景虎

この言葉を言いた家臣たちは、
「結局は若造だ、臆病なことよ」

いよいよ敵が川を渡り始める・・・目の前に迫ってきました。
その時、景虎が動きました。

「かかれ!!」

冬に冷たい川を渡ってきた敵兵は、身体が冷え切って思うように動けません。
景虎は、その瞬間を待っていたのです。
景虎軍は、やすやすと敵兵を討ち取り、退散させました。
この戦いで、家臣たちは景虎の采配に感服したといいます。
その後も、景虎は敵対勢力を押さえ、名をあげていきます。
やがて家臣たちから、弟の景虎さまこそ当主に相応しいという声が出るようになりました。

1548年、19歳の時、兄から家督を譲られます。
後に、己の心情をこう語っています。

「自分だけの利益のために弓矢は取らない
 道理のためにのみ戦いをする」by景虎

19歳で長尾家の当主となった景虎・・・
しかし、その8年後、景虎は越後を抜け出し、高野山へと向かっていました。

「このぶんでは、大名としての仕事を続けられそうにないので、進退を決した」by景虎

景虎が20歳の頃、守護大名・上杉定実が病死、補佐役である守護代の景虎は、実質的な国主となりました。
その5年後、隠居生活を送っていた兄・晴影も死去・・・
兄の死から半年・・・隣国・信濃の武将が越後に亡命してきました。
この時、甲斐の武田信玄が、信濃に侵攻・・・城を奪われた武将は、信玄の非道を訴え、助けを求めたのです。

「弓矢を取るものとして見捨てるわけにはいかない」by景虎

景虎は、8000の兵を率いて、越後と信濃の国境へ出陣。
第一次川中島の戦いです。
景虎の戦い方は非常にユニークでした。

「景虎殿は、自ら太刀打ちにおよばれたとのこと、天下の誉れです」by近衛前久

自ら打ち合って戦う・・・対象であるにもかかわらず、前線で戦っていたのです。
そんな景虎の心のよりどころが毘沙門天でした。
戦いの神・毘沙門天は、悪行を行うものを懲らしめる・・・
景虎は、この神に、自らを重ねていたとされます。

「武田信玄は信州に乱入し、現地に住む諸士をことごとく追って滅亡させた
 神社仏塔を破壊し、信濃の悲嘆は何年にも及ぶ有様だ」

景虎は、奮闘しましたが、この戦いで勝利を収めることはできませんでした。

その2年後、武田軍が再び信濃に侵攻・・・景虎も再び出陣!!
1555年、26歳の時、第二次川中島の戦いです。
しかし、ここで景虎は思わぬことに悩まされます。
なかなか決着がつかないため、命に背いて戦場を離れようとする兵士が続出します。

武田信玄と戦う時に掲げた言葉は、「義をもって不義を誅する」でした。
正しい戦いをするのですが、最終目的が明確ではないのです。
家臣たちも、この人が総大将でどこまでやればいいのか迷うのです。

戦に勝っても領地はもらえない・・・なら、何のための戦っているのか・・・??
そう考える家臣たちと、あくまで戦い続ける景虎。
両者の間に温度差が生まれていました。
その為、景虎は家臣たちが戦場を離れないように、わざわざ誓約書を書かせていました。

「戦いが長引いて他人が勝手に帰っても、自分だけは景虎の命令に従い続ける」

第二次川中島の戦いは、およそ200日続き、結局、両軍の痛み分けに終わります。
この戦いの翌年、1556年、27歳で人知れず越後を出奔。
景虎が林泉寺の住職に送った手紙には・・・

「私は、国内の内乱を鎮めた
 武田と興亡の一戦に臨んだ
 
 私は努力を続けているのに、家臣たちの意見はまとまらない
 皆から見放されたように感じる
 このぶんでは、大名としての仕事を続けられそうにないので、進退を決した

 私がいなくても、家臣たちで相談すれば越後を治めることはできるだろう
 しかし、武田信玄がやって来れば窮地に陥るだろう」by景虎

景虎が向かっていたのは高野山です。
このまま僧侶への道を歩むつもりだったといいます。
しかし、2か月後、長尾家の家臣が見つけてやってきました。
家臣たちは、景虎がいなくなった後、重臣が武田信玄と通じて挙兵したのだといってきました。

「国衆の面々が困っているのに、亡き兄の命に違えてこのまま隠遁するおつもりですか
 先祖代々の部名が汚れることになります」

この言葉を聞いて景虎は、帰国を決意しました。
越後に戻り、謀反を起こした家臣を国外へ追放・・・越後の国内は安定を取り戻し、家臣たちは景虎に忠臣を誓いました。
景虎27歳の時でした。

越後を治める景虎が求めたもの・・・それは、室町幕府の権威でした。
しかし、当時すでに幕府の力は衰え、将軍・義輝は何度も京を追われていました。
それでも景虎は、上洛して幕府の権威を守ろうとします。
どうして・・・??
毛氈鞍覆・・・豪華な鞍飾り・・・景虎が21歳の時に、将軍・義輝から拝領したものです。
この鞍飾りは、幕府が景虎を越後の国主と認めた証として贈られました。
景虎が、幕府のお墨付きを得たことが知れ渡ると、それまで景虎と敵対していた越後の領主の多くが、景虎に従うようになりました。
実は、景虎は幕府に国主として認めてもらうため、将軍に太刀や金品を献上していたのです。
景虎は、様々な貢物を通じて、将軍と親密な関係を築いていきます。
景虎のこうした活動の資金源が、青苧という植物でした。
麻織物の原料で、乾燥させた繊維は光沢があり、織物は越後上布という高級品として都でも珍重されました。
越後は、日本一の青苧の産地でした。
景虎は、青苧の栽培を奨励し、巨大な繊維産業を作り上げていました。

1558年、29歳の時、義輝から手紙が届きます。

「私のために早く京に来てほしい」

この頃、将軍とは名ばかりの存在で、幕府の政治は有力大名の三好長慶が牛耳っていました。
将軍は、三好から実験を取り戻すため、景虎の上洛を要請したのです。
景虎は、こう返答してます。

「近いうちに上洛し、三好を倒そうと思います
 越後を失っても、幕府の権威が復活するよう貢献します」

将軍から越後の国主として任された立場・・・
それに対する恩として、幕府を守る、自分が必死になって守る・・・!!
それが、自分に課せられた使命なのだ・・・!!

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1559年、30歳・・・
景虎は、三好を倒すために5000の兵を率いて出発!!
しかし、三好側の抵抗にあい、京には1500の兵しか入れず・・・
上洛したにもかかわらず、将軍と親しく面会することもかないませんでした。
ところが、2か月後、思いもよらないことが起こります。
将軍・義輝から、景虎が新しい関東管領になってもよいと伝えられたのです。
関東管領とは、室町幕府の中枢を担う役職です。
関東一帯の治安維持を任されていました。
思いがけず、幕府の重責を担うこととなった景虎は、早速動きます。

関東の治安を乱す北条氏康の征伐に向かいます。
戦国大名の北条氏康は、幕府の命令を無視して、諸国を侵略。
小田原から関東一帯へ勢力を伸ばしていました。
景虎は、北条氏の本拠地・小田原城を目指して南に進軍!!
北条氏が奪った城や所領を攻めて、元の領主に戻していきました。
進軍の途中、景虎は鎌倉に立ち寄ります。
歴代の関東管領が就任式を行った鶴岡八幡宮で就任式を行うためでした。
景虎は、関東管領・上杉氏となり正統な後継者として晴れて関東管領となりました。
名前も、長尾景虎から上杉政虎と改めました。
後に、上杉謙信と名乗ることになります。
関東管領の目的は、関東に平和をもたらすことです。
関東管領は名誉職でもありましたが、実際に関東を平定するという義務・・・名誉と義務が一緒になった瞬間でした。
妥当北条を呼び掛けた謙信のもとには、北条に不満を抱く武士が続々と集まりました。
総勢10万に膨れ上がった謙信の軍勢は、北条の本拠地・小田原城を包囲します。
この大軍を前にしては、北条の降伏は時間の問題と思えました。
しかし・・・小田原城の守りは固く、一月経っても北条を降伏させることができませんでした。
そのうちに、寄せ集めだった謙信側の軍勢から大量の落後者が出て、軍はなし崩し的に消滅・・・
さらに、武田信玄が越後に攻め込んでくる・・・!!
との情報が入り、謙信もついには小田原城の包囲を解き、越後に帰国しました。

1560年、31歳の時、全国の人々を驚かせる大事件が起きました。
尾張一大名に過ぎない織田信長が、東海地方一帯を支配する大大名・今川義元の首を取ったのです。
世にいうおけはざまの戦いでした。
そんなころ、謙信に一通の手紙が届きます。
差出人は、その信長でした。

「鷹狩りのために鷹を探しております
 越後の良い鷹をお譲りいただけないでしょうか」

会ったこともない謙信に対して鷹をねだってきたのです。
信長が謙信と親交を結びたいという意味でした。
年齢も、身分も、信長より数段格上の謙信でしたが、望み通り鷹を贈りました。

「まことにめずらしい鷹で、我が目を疑いました」

その後も二人は、手紙や贈り物のやり取りをし、絆を強めて行ったのです。
信長から謙信への贈り物の一つが、あの国宝「洛中洛外図屏風」です。
戦国時代の絵師・狩野永徳によって描かれたものです。
京の都の煌びやかな様子が、四季の草花が、人々の生活と共に詳細に描かれています。

1564年、35歳の時には、信長からこんな申し出が・・・

「どうか、私の息子をあなたの養子としてお迎えくださいますようお願い申し上げます」

謙信と親戚関係になることで、より一層強い結びつきを考えていました。
これには、尾張と越後の間にいる甲斐の武田信玄をけん制するという意味もありました。
信長は、謙信と交流を深める一方で、鉄砲を使って破竹の勢いで勢力を伸ばしていました。

1568年、謙信39歳の時、信長は、京の三好勢を一掃・・・時の将軍・足利義昭を擁して上洛します。
その時点では、信長は室町幕府再興を・・・義昭を将軍にして天下が治まると思っていました。
しかし、謙信と信長の仲を一変させる出来事が起こります。

1573年7月・・・信長が、将軍・足利義昭を京都から追放したのです。
足利幕府を事実上滅ぼして、天下を握る意思を示したのです。
信長の行動に対して謙信は激怒!!
謙信としては、室町幕府再興が望むべき姿でした。

これをきっかけに謙信は、信長が領地を拡大している越中・能登を攻めることにしました。

1577年、謙信48歳の時、遂に信長と刃を交えることとなります。
手取川の戦いです。
謙信は、信長の前線基地である能登の七尾城を攻略すべく出陣!!
この動きを受けて信長は3万の兵を城の救援に向かわせます。
しかし、上杉軍は、織田軍が到着する前に、七尾城を陥落させていました。
進軍中に知らせを聞いた織田軍は、退却を決定!!
謙信に背を向けた・・・くしくもその時、大雨が織田軍を襲います。
謙信は、この機を逃しませんでした。

手取川近くの陣から追撃指令!!
大雨で火縄が濡れ、鉄砲が使えない織田軍・・・
瞬く間に1000人が討ち取られました。
さらに、増水した川を渡って逃げる際に、溺れた兵もたくさんいたといいます。
こうして戦は、謙信の大勝利に終わりました。
謙信が家臣に宛てた手紙には・・・

「信長も案外弱い
 この分だと天下まで進むことも簡単だ」

1587年1月、越後へ戻った謙信は、次の遠征の準備にかかります。
しかし・・・出発直前の3月9日、突然春日山城で倒れました。
原因は、脳梗塞といわれています。
病に倒れて4日後、上杉謙信は息を引き取りました。
49歳でした。
この時、謙信が目指したのは、京の都だったのか??別の国だったのか・・・答えは謎のままです。

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