日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:上杉謙信

1961年、アメリカが州国第35代大統領ジョン・F・ケネディは、日本人記者から「尊敬する日本の政治家はいますか」と聞かれてこう答えたといいます。
「YOUZAN UESUGI」
江戸時代中期の大名で、東北米沢藩中興の祖と称えられる、名君・9代藩主・上杉鷹山のことです。

「なせば成る
   なさねば成らぬ
  何事も
 成らぬは人の
     なさぬなりけり」

この有名な言葉を残したのが、上杉鷹山です。

山形県の南東部に位置する米沢市・・・
戦国の雄・上杉謙信を藩祖とする米沢藩の城下町として、古くから栄えてきました。
しかし、上杉鷹山が藩主となった頃には、莫大な借金を抱えた超貧乏藩となっていました。
一体、どうして??

原因①名家のプライド
藩祖である謙信の跡を継いだのは、謙信の養子の景勝・・・会津120万石の大大名でした。
ところが、関ケ原の戦いで西軍につき、徳川家康を敵に回したことで、米沢30万石に減封されてしまいました。
さらに、三代藩主・綱勝が26歳で急死・・・生前に後継者を決めていませんでした。
それが幕府のおとがめとなり、領地の半分を没収されてしまいました。
それでも米沢藩は、一切リストラを行わず、120万石の頃の家臣(約5000人)を維持し続けていました。
実際、5000人の家臣の人件費は、13万3000石と、全国高の9割近くに及び、藩の財政を圧迫していました。
それでも家臣を減らさなかったのは・・・?
歴史と伝統のある藩で、歴代藩主は従四位上・少将という格式の高い家柄でした。
その名門としてのプライドが、家臣を削減することを許さなかったのです。
また、「義」を重んじた上杉謙信の精神を受け継いでいるため、家臣を簡単に切り捨てることが出来なかったのです。

対面や格式へのこだわり・・・
費用のかさむ儀式や、他藩との付き合いを一切やめようとせず、当然財政悪化の原因となりました。

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原因②藩主の悪政
後継者を決めずに綱勝が急死・・・上杉家の家督を継いだのは、忠臣蔵でお馴染み吉良上野介の息子・上杉綱憲でした。
母親が綱勝の妹だったことから、綱憲は4代藩主となりました。
しかし、吉良上野介は綱憲の後見人でした。
米沢藩士たちから軽く見られないように金の出し惜しみはするなと指示!!
その為、綱憲は、能に興じるなど派手にお金を使い、藩施設の新築、寺院への寄付の増額、役人の増員など、バラマキ政策を実施、さらには吉良家の借金6千両を上杉家が肩代わりしました。

こうした浪費によって、米沢藩の蓄えは、底をつき、ついに財政赤字に転落!!
江戸や大坂の豪商から借金をするも、一時しのぎ・・・
返す当てもないため、財政は悪化の一途をたどります。
8代藩主・重定の時代には、借金総額16万両!!160億円にまで達してしまいました。
こうして米沢藩は、名門としての高いプライドと、藩主の悪政によって、多額の借金を抱えてしまったのです。

そして、そのツケを払わされたのが農民たちでした。
重税に耐え切れず、多くの農民が逃亡・・・
藩士たちも、給料の半分を藩に貸すという半知借上を行ったことで、武器や武具を売り払わなければならなくなるという生活苦に陥りました。
それでも、財政は一向に回復せずに破たん寸前・・・

すると重定は・・・「領地をお上に返上する」と言い出しました。
義理の父・尾張藩主徳川宗勝の説得で、領地返上は思いとどまります。
しかし、隠居・・・
その後を継いで、ひっ迫する米沢藩の9代藩主となったのが、上杉鷹山でした。
しかし、鷹山は、上杉家の生まれではありません。
鷹山は、1751年7月20日、日向国高鍋藩6代藩主・秋月種美の次男として江戸藩邸で生まれました。
米沢藩8代藩主・重定の養子となったのは、10歳の時でした。
祖母が、上杉家の出身で、まだ跡取りがいなかった重定に・・・

「松三郎(鷹山)は、利発な孝行者で、遊び方も普通の子供とは違います
 周囲の人々もその才能には驚いています」

と、推挙したのが決め手でした。
こうして上杉家に入った松三郎は、直丸と改め、2歳年下の重定の娘・幸姫と婚約。
儒学者の細井平洲に師事するようになると、勤勉な直丸は寝食を忘れて学問に没頭することも多かったといいます。

「為政者は民の父母たれ」by細井平洲

主君としての心得を鷹山にときます。
それに対して、鷹山は、涙を流して感銘を受け、平洲を生涯の師として慕いました。
領民を慈しむ父母のような藩主となれという死の言葉を胸に、名を治憲と改めて1767年9代藩主となります。
江戸藩邸で家督を継いだのは、17歳の時でした。

9代藩主となった鷹山は、使いの者を通じ、春日神社に誓いの言葉を奉納しています。

「文武に励み
 民の父母の気持ちを第一とし 
 質素倹約を忘れず
 言動を一致させ 
 賞罰を正しくし
 不順や無礼がないようにします」

また、白子神社には、内密に奉納されたため、明治時代まで発見されなかったもう一つの誓いの言葉が・・・
そこには、17歳の若き鷹山の強い決意が記されていました。

「年々国家が衰えて
 民が苦しんでいるので
 大倹約を行って
 再興したいと願っています
 もし怠るようなことがあれば
 すぐに神罰を与えてください」

鷹山がリストラをしなかった理由とは・・・??

リストラをすると、解雇された家臣達が行き場を失います。
浪人となることで、藩の治安が乱れたり、藩の悪評が幕府に伝わることを避けたのです。

財政破たん寸前の米沢藩の藩主となった鷹山は、参勤交代でいた江戸で改革に取り掛かります。
まず行ったのが倹約です。

藩政改革①倹約奨励
1767年藩主となったその年に、江戸詰めの家臣達に大倹約令の発令をします。
藩の支出を抑えるために、食事は一汁一菜を基本とし、着物は木綿の着物を。
もちろん鷹山もそうでした。
藩主である鷹山自身の江戸での生活費を、1500両から209両にまで減らしました。

「してみせて  
   言って聞かせて
        させてみる」

鷹山は、常にこう言い、まずは自分からしてみせることで家臣たちに倹約を促していきました。
そしてこの大倹約令を書面にまとめ、米沢にも発布して、藩財政の見直しを命じました。

それから2年・・・1769年冬、参勤交代を終えた鷹山は、初めて米沢に入ることとなります。
藩主の初のお国入りは、一世一代の晴れ舞台ですが・・・倹約を進める鷹山の行列は短く、装いもみな木綿の着物でした。
その道中でのこと・・・米沢領内の板谷宿で・・・思いもよらない光景に愕然とします。
その日の食べ物にも困った民衆が、フラフラになりながら家財を売り歩いていたのです。
宿も泊まれる状態ではなく、その日は野宿・・・大名が野宿とは、通常ではありえませんが、鷹山たちは、焚火と酒でなんとか寒さを耐え忍んだといいます。

「国元の改革はどうなっているのだ・・・!!」

そして翌日、米沢城に入った鷹山は、2年前に発令した大倹約令が全く実行されていなかったことを悟ります。
出迎えた重臣たちの高価な絹の着物・・・!!
家臣達には、「何も知らない若造に勝手にされてたまるか!!」という反発がありました。
上杉家の家臣のプライドが、倹約を受け入れていなかったのです。
鷹山は、すぐさま国元米沢での改革に取り掛かりました。

藩政改革②農業再生
米沢では、長年にわたる過酷な重税で、農民たちが疲弊し、作物の収穫量も激減していました。
そこで、鷹山は農民たちが意欲的に働けるよう、孟孫の環境整備を始めました。
郷村教導出役という役職を新設し、領内12カ所の農村に住まわせ、農民たちの生活保護や、農業指導を行わせました。
鷹山は、郷村教導出役から常に農村の状況を聞き、現状を把握するように努めます。
また、自らの生活費から養育費を捻出して出産を奨励。
15歳以下の子供が5人以上いる家庭に養育費を支給します。

1772年「籍田の礼」を実施
鷹山自らが鍬をもって田を耕しました。
すると、これに触発されて、藩士たちも次第に農作業を行うようになり、2年間で18万坪(東京ドーム13個分)が新たに開墾されました。
藩の財政悪化の要因となっていた藩士たちで開墾する・・・余剰の労働力を、農業に振り分けたのです。
意識の変わった藩士たちは、橋の架け替えなど公共事業にも精を出すようになりました。
鷹山は、気配りの人で、身分を問わず誰にでも丁寧な態度を崩さなかったといいます。

さらに鷹山は、90歳以上の長寿者を殿中に招いて表彰したり、身内に病人がいる者に介護休暇を与えたり、と、福祉にも力を注ぎました。
まさに、名君だった鷹山・・・しかし、慣例にとらわれない鷹山の改革にいまだ強く反発する者もいました。
伝統と格式を重んじる保守派の重臣たちです。
1773年6月、その不満がついに爆発します。
江戸家老の須田満主・芋川延親・千坂高敦・色部照長・長尾景明・清野祐秀・平林正在・・・米沢城にいる鷹山に詰め寄り訴状を叩きつけたのです。
世にいう七家騒動です。
訴状には、鷹山の改革を批判する言葉が45ヶ条に渡って記されていて、特に武士に農業を勧めたことについては
「鹿を馬とするような馬鹿げた行いだ!!」
と激しく口論!!
そして鷹山の側近が政治をし放題なので、即刻辞めさせろと迫りました。
鷹山は、後程返答すると言って部屋から出ようとしましたが、袴の裾を掴まれて、なんと4時間近くも軟禁されてしまいました。
鷹山は、近習の助けによって部屋を抜け出して、前藩主の重定に助けを求めました。
重定は、「何たる無礼!!」と、重臣たちを叱責し、ようやく終わりました。
そして、その後、鷹山が訴状の内容をチェックすると、中身はデタラメでした。
訴状には、武士に農業をさせたため、農作物の値が高騰したと記されていましたが、実際は長雨のためだったなど、デタラメなことが多かったのです。

事件の3日後、鷹山は須田満主・芋川延親に切腹を言い渡し、残りの5名は、隠居・閉門という厳しい処罰をしました。
しかし、騒動の2年後、鷹山は5人の重臣の閉門をといています。
きびしい処罰を下したのは改革を断行するという強い意志を家臣たちにみせるためでしたが、鬼になり切れなかったのです。
それに、5人は藩の重職だったため、人材を失いたくないと思ったのです。

強い意志をもって改革を進める鷹山には、ある信念がありました。
それは、「人づくりは国づくり」だということ。

藩政改革③人材育成
1776年、人材育成の学問所・興譲館を設立
そして、その講師として終生の師と仰ぐ細井平洲を招致しました。
その報酬は、100両分・・・今のお金で1000万円です!!
当然、批判の声が上がりました。
平洲を切り捨てると息巻く藩士が現れましたが、それでも鷹山は、平洲を呼び寄せます。

平洲の招へいというのは、鷹山にとって先行投資でした。
知識を得るだけの学問ではなく、実際に社会の役に立つ実学を重んじる・・・藩士たちに深い感銘を与え、人民のために、藩のためにという優秀な官僚たちの育成に大いに役立ちました。
鷹山は、財政難にあっても未来を担う人材の育成には資金を投入すべきと考え、学費を払えない下級武士には奨学金を与えていました。
その結果、興譲館からは優れた人材が数多く輩出され、鷹山の改革に大きな力となっていったのです。

参勤交代で、江戸にいなくてはならないこともありました。
そこで、鷹山が国元での改革を託したのが、2人の側近・・・莅戸善政・竹俣当綱でした。
なかでも竹俣は、新田開発や工場間の設立に尽力した改革の最大の功労者でした。
鷹山も全幅の信頼を寄せていましたが・・・
1782年、鷹山のもとに告発状が届きます。

「8月12日、領内の見回りを終えた竹俣は、豪農の家で接待を受け、翌朝まで酒宴に興じていた」

財政改革の中心人物が翌朝まで酒宴に興じていただけでも問題ですが、朝を迎えた13日は、藩祖・上杉謙信の月命日で、酒宴自体が禁じられていたのです。
さらに、告発状には公費の私的流用が記されていました。
鷹山のショックは非常に大きいものでした。

竹俣を失えば、改革は失速する・・・!!

しかし、鷹山は心を鬼にして、隠居・自宅での禁固という重い処罰をします。
大きな戦力を失った鷹山を更なる試練が襲います。
浅間山の大噴火に伴う大飢饉が起こるのです。
天明の大飢饉でした。
放出された火山灰が、太陽の光を遮ったことで、農作物の収穫量が激減し、各地で餓死する者が続出・・・
米沢藩は、領民に籾を備蓄させていたため、餓死者こそほとんど出なかったものの、農作物の被害額は11万石相当・・・
田畑は荒れ果て、鷹山が改革を行う以前の最悪の状態に逆戻りしてしまいました。
そんな中、もう一人の側近莅戸善政が突如隠居を願い出ます。
鷹山が慰留するも、莅戸の決意は固く、止む無く承認・・・
その2年後の1785年、鷹山は前藩主・重定の実子で養子としていた治広に家督を譲り、35歳で隠居してしまいました。
藩が危機的状況にある中でどうして隠居・・・??
落胆したのは確かですが・・・隠居すれば、参勤交代をせずに国元で改革に取り組めると考えたのです。

鷹山は、藩主の座を治広に譲る際、三ヶ条からなる心得・・・「伝国の辞」を授けています。

一、藩は先祖伝来のもので私有すべきものではない
一、領民は藩に属するものであって私有すべきものではない
一、主君は藩と領民のためにある

江戸の藩士は、小さい頃から帝王学を学ぶので、絶対権力者と思いがちですが、鷹山は主君は民衆のために存在するという考え方を持っていました。
現在の民主主義に近い考え方を持っていたのです。

そしてこの伝国の辞は、その後も上杉家の家訓として引き継がれていきました。

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天明の大飢饉によって改革が振り出しにもどってしまった米沢藩・・・
隠居後の上杉鷹山は、家督を譲った治広を立てて、時々助言する程度にとどめていました。
そして治広は、役所の統廃合、人員の削減、興譲館の縮小など、徹底した緊縮財政によって藩の立て直しを図ったのですが・・・状況はますます悪くなるばかり・・・
鷹山の隠居から5年後の1790年の年間赤字は2万5000両・・・累積借金額は30万両・・・今の300億円と、鷹山が藩主になった頃の倍近くになっていました。

治広の倹約ばかりでは、藩士たちがやる気を失ってしまったのです。
ストレスをため込んだ役人たちは、賄賂や公金の横領に手を染めます。
政治までみだれていきました。

「このままでは、米沢藩は終わりだ・・・!!」

と、鷹山は再び立ち上がり、改革のかじ取りを始めたのです。

まず行ったのは、借金まみれの藩の財政状況を全藩士に公開します。
危機感を共有させて、改革への意識を向上させます。
そして、側近だった莅戸を再登用、「財政16か年の組立」を立案。
それは、収入の半分を藩の運営に、残り半分を借金返済に充てて16年で300億円相当の借金を完済する計画でした。
さらに、1791年には、上書箱を設置。
武士だけでなく、農民や町人でも意見を投書できる様にし、優れたものは積極的に対応していきました。

例えば・・・藩の役人・黒井忠寄は、財政の立て直しには米の増収が不可欠とし、大規模な灌漑事業を提案し、採用されています。
度々干ばつに見舞われてきた米沢北部に、全長およそ32キロの水路を造成、延べ10万人以上を動員して、完成させました。
これによって、32の村に農業用水がいきわたり、米の大幅な増収につながりました。
鷹山は、工事に携わった者たちに酒とスルメを振る舞って、労をねぎらったといいます。
その水路は、提案者の名をとって、「黒井堰」と命名され、現在も農業水路として利用され続けています。

鷹山は、飢饉対策にも心を砕きました。
凶作時の食料確保法を家臣たちに研究させます。
1802年「かてもの」を刊行。
農作物の代用食となる草木や果実を約80種紹介し、その調理法も記しました。
保存食づくりの参考にもるこの本を、領内に1500部配布しました。
この「かてもの」はおおいに役に立ち、1833年~1839年に起こった天保の大飢饉では米沢藩では一人の餓死者も出さなかったと言われています。

多額の借金を抱え、破たん寸前だった江戸時代中期の米沢藩・・・
その立て直しに粉骨砕身した9代藩主・鷹山は産業の新興にも取り組みました。

藩政改革④産業振興

鷹山は、ろうそく、陶器人形のほか、温泉水を使って塩まで作らせています。
なかでも最も力を注いだのが、養蚕です。
蚕の飼育方法を記した解説書を希望者に無料で配布し、技術指導を行うなど、領民に広く養蚕を奨励・・・鷹山は、ただでさえ切り詰めている生活費から、毎年50両を捻出し、養蚕の奨励金に充てました。
そして鷹山は、その繭から糸を作り、機を織らせます。
京都から職人を呼び、最新の機織り技術を下級藩士の妻や娘たちに学ばせました。
こうして出来上がったのが、米沢織です。
中でも高い技術を擁する透綾は、その名の通りすけるほど薄く、江戸や大坂でたちまち評判となりました。
米沢織の大ヒットによって、藩の財政もようやく上向きとなり、藩士や領民の生活も少しづつ楽になっていきました。
それでもなお、鷹山は晩年に至っても木綿の着物に一汁一菜の食事という質素な生活を続けていました。
家臣から生活費の増額を打診された際も、こう答えたといいます。

「年を取り、叱ってくれる者がいなくなった今、自由になる金がありすぎると、ワガママになるかもしれぬ
 このままで十分・・・」

そして、1822年3月12日、病の床に臥せっていた鷹山が眠るように亡くなったといいます。
72歳、藩と民のために捧げた生涯でした。

その訃報に、領内は深い悲しみに包まれ、葬儀の際には多くの人が沿道に集まり、声をあげて泣いていたといいます。
藩の財政を立て直すために、様々な改革を行った鷹山でしたが・・・お鷹ポッポもその一つです。
農民の農閑期の副業として、制作を奨励したもので、大ヒット商品となり、今も米沢の名物として作られています。
ポッポとはアイヌの言葉で玩具、お鷹は禄高を意味し、収入がぽっぽと増えていくようにとの願いが込められています。
そして、その願いどおり、鷹山の死後1年後、米沢藩は借金を完済し、さらに、5000両を蓄えるまでになるのです。
藩のため、領民のために身を尽くした鷹山は、なせば成るを体現した名君、真のリーダーでした。

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時は戦国の世・・・1578年3月9日!!
越後の龍と恐れられた上杉謙信が、突然倒れ、そのまま目を覚ますことなく4日後に亡くなりました。
生涯独身を貫いた謙信には、実子がなく、いたのはふたりの養子・・・景虎と景勝でした。
後継者を明言しないまま急死・・・!!

越後国の戦国大名・上杉謙信の養子で義兄弟だった上杉景虎と景勝・・・
兄にあたる景虎は、1554年相模国を治める北条氏康の七男として生まれたといわれています。
元の名は、北条三郎。
その頃の北条は、上杉の宿敵・甲斐の武田と同盟を組んでいたこともあり、上杉とは敵対関係にありました。
ところが、1568年・・・北条氏康は、外交政策の大転換を図り、武田との同盟を破棄、上杉と同盟を結ぶことにします。
その2年後・・・謙信は同盟の証として北条から差し出された養子を迎え入れます。
それが、当時17歳の三郎でした。
三郎が謙信の養子に選ばれたのは・・・??
当時は、四代当主・氏政の次男を送ろうとしていました。
しかし、幼く、他国に遣わすのには心苦しい・・・そして見直されたのが三郎でした。
三郎と同じ年頃の姪のいた謙信・・・2人を結婚させれば同盟がより強固となると考えたのです。
こうして三郎を越後に迎えた謙信は、姪の清円院と祝言をあげさせます。
そして、自身の若い頃の名である景虎を与えて上杉景虎を名乗らせます。
景虎は、謙信の居城だった春日山城の三ノ丸に住むこととなりました。
結婚の翌年には、道満丸が生まれ、謙信は初孫の誕生をとても喜んだといいます。
景虎が、後継者候補の筆頭であることは誰の目にも明らかでした。

謙信が、景勝をもう一人の候補にした理由は・・・??
それは、景虎の実家である北条氏にありました。
景虎が謙信の養子となった翌年の1571年、景虎の実父である氏康が死去・・・
すでに家督を継いでいた次男の氏政(景虎の実兄)が、全権を握ります。
氏政は、上杉と同盟を結んでいながら、水面下で武田家との関係回復を試み、再び同盟を結ぶのです。
そこにはこんな狙いがありました。
武田と改めて同盟を結ぶのは、上杉と喧嘩をしたいのではなく・・・
氏康は、北条・武田・上杉の三国同盟を考えていたのです。
しかし、北条と手を組んで武田を討つつもりでいた謙信にとっては、裏切り以外の何物でもありませんでした。
すぐに手切れの書状を送り、北条との同盟を破棄!!
これに、誰より驚き、嘆いたのが他ならない景虎でした。

「同盟の証だった自分は、もはや不要か・・・」

裏切り者の北条の血をひく自分は、殺されても仕方がない・・・少なくとも追放はされるだろうと諦めました。
ところが、謙信は、景虎を養子という立場のまま越後国に留め置いたのです。
謙信は、節義を重んじる武将・・・
被害者である景虎をさらに追い込むようなことはしたくはなかったのです。
その時には、道満丸が生れていて、引き裂くのは良くないのでは・・・??
この謙信の情愛に感謝した景虎は、それまで使っていた北条一門の花押から謙信に倣った花押に変えています。

「自分は上杉家の後継である」という自負の表れでした。

しかし、北条家出身の景虎が後継者候補であり続けることに不安を感じる家臣も少なからずいました。

「景虎さまが当主となれば、再び北条と手を結び、北条に刃を向けた我らに厳しい制裁を加えるかもしれぬ・・・!!」

こうした家臣たちの声に謙信は、

「景虎が後継のままでは何かと不都合が生じるやもしれぬな」

そんな中、1574年、景虎の運命を決定づける事件が起こります。
上杉と北条が争奪戦を繰り広げていた関宿城が、北条の手に落ちたのです。
関宿城は戦略的に重要で、利根川の水運の要所でもあり、経済的にも軍事的にも非常に重要でした。
北条氏康も重要視しており、
「この城を獲ることは一国を獲ることに等しい」と主張していました。
これを奪われてしまった・・・
関宿城が北条の手に落ちたことで、謙信は大きな戦略転換を余儀なくされます。
それが、景勝を迎え入れることでした。

1555年に生まれた景勝は、景虎より1歳年下でした。
元の名を顕景(喜平次)といい、父は越後国・長尾政景・母は謙信の姉でした。
顕景10歳の時に、実父の政景が湖で溺死・・・
叔父である謙信に引き取られ、我が子のようにかわいがられました。
十代後半で実家に戻り、上杉家の主力部隊・上田衆の長として軍事活動に従事、1575年21歳で再び謙信の養子となりました。
謙信は顕景に上杉姓を与え、上杉景勝を名乗らせ、自身の官職である弾正少弼を譲ります。
さらに、春日山城である謙信の尊称・御実城様によく似た御中城様という呼び名を与え、その御中城様を筆頭においた家臣団の名簿を新たに編纂しました。
これまた破格の厚遇でした。

謙信は、家臣たちの不安を払拭し、反北条の士気を高めるために、戦の経験豊富な景勝をもう一人の後継者候補にしたのです。
しかし、どちらが後継者候補の筆頭なのか?明言はしませんでした。
こうして二人の養子を得た謙信は、1577年、北陸方面をほぼ平定。
さらには、手取川の戦いで織田信長軍を撃退!!
越後の龍ここにありと、その名をとどろかせ、関東平定に乗り出そうとしていました。
ところが・・・1578年3月9日、突如倒れます。
通説では脳卒中で、そのまま一度も目を覚ますことなく、4日後に息を引き取ったといわれています。
そのため謙信は、後継者の名を言い残すことが出来ませんでした。
そのため、景虎と景勝による御館の乱が勃発したといわれてきました。

謙信は、家督を誰に譲るつもりだったのでしょうか?
景虎と景勝に分割譲渡するはずだった?
後継者を決めていなかった?
江戸時代から多くの意見が交わされてきました。
後継者を自分の言葉で伝え残したのでは・・・??
辞世の句も残っているので、脳卒中でそのまま・・・というのは考えにくいのでは??

”景勝が後継者で・・・しかしそれは中継ぎで、後々は道満丸に・・・”

景虎にしても景勝にしても、上杉家が分裂する可能性は高く、道満丸ならばどちらも納得のいく選択だったのでは・・・??

新潟県阿賀町・・・平等時薬師堂は、重要文化財にも指定されている県内最古の木造建築の一つです。
興味深いのは、非公開となっている堂内です。
戦国時代から江戸時代に書かれたといわれている落書きが、今もそのまま残されています。
中でも注目すべきは、御館の乱が起こった頃の兵士の落書きです。

”謙信様の御頓死で三郎殿(景虎)と喜平次殿(景勝)が御名代を争い、越後中が大混乱となった”

御名代=幼い当主に代わって政務を行う後見人のことです。
つまり、景虎と景勝は、道満丸が成長するまでの後見人を争って兄弟げんかをしていたというのです。
景勝軍が、景虎の屋敷を鉄砲で撃ったとよく言われますが、発砲した痕跡は何も残っていません。
謙信が亡くなった直後の書状にも、景虎と景勝の争いは一切書かれていません。
謙信の死後すぐには争っていないのでは・・・??
どうして御館の乱は起こったのでしょうか?
そのきっかけを作ったのは、会津の戦国大名・蘆名盛氏です。
盛氏は非常に好戦的で、謙信の死後上杉家に弔問の使者を送りつつ、その裏で越後侵略の準備を進めていました。
この盛氏の動きに一早く気付いたのが、上杉家の古参の重臣・神余親綱です。
親綱は三条城で厳戒態勢を敷き戦に備えますが、急を要する事態だったため、景勝には未報告でした。
すると、景勝はこの親綱の単独行動に不信感を抱きます。

「弔問の使者まで奇越してくれた蘆名殿が、侵略など考えるものか・・・
 親綱め・・・何か謀か?」

景勝は、家督を相続したばかりでナーバスになっていました。
あらぬ疑いをかけられてしまった親綱は、謀などもってのほかと弁明・・・
しかし、景勝は聞く耳を持たず、さらに強気に出ます。

「ならば、中世の証である誓詞を差し出すのじゃ」

長年上杉家に忠誠を尽くして来た親綱にとって、これほど屈辱的な命令はありませんでした。
憤慨した親綱は、自分に全く非はないと強く主張し、誓詞の提出を拒否!!
すると、そうこうしているうちに蘆名盛氏が、越後に攻め込んできたのです。
近くにいた上杉軍が、すぐに応戦し蘆名軍を撤退させましたが、これで親綱の判断が正しかったことが証明され、景勝の面目は丸つぶれ・・・家臣たちの信望を、一気に失ってしまいました。
重臣たちは口々にこう言いました。

「景勝さまではダメだ」

とはいえ、当主と重臣が仲たがいしたままではダメだ・・・と、謙信の義理の父上杉憲政らが二人の仲介役を買って出ますが、どちらも一歩も引かず・・・5月1日、神余親綱が景勝から離反!!
仲介役を務めた憲政らも、あまりにも頭の固い景勝を見限り、代わりの当主を立てようと動き出しました。
代わりの当主・・・それは、外ならぬ景虎でした。
織田と対立している今、東国とはあまり対立したくない・・・
ところが、景勝は強硬派・・・そう考えると、景虎だと北条は味方になってくれるかもしれない・・・武田も、味方になってくれる・・・その時、上杉家の当主は景勝ではない方がいい・・・!!
しかし、ことは簡単ではありませんでした。

「新たな当主として名乗りを上げれば、景勝との争いは必至
 御実城様(謙信)の遺言に背くことにもなる
 だが、家臣たちの信頼を失くした景勝が、当主として相応しくないのも誠のこと」

思い悩んだ末、景虎は、景勝に代わって当主になることを決意しました。
こうして戦国最大の兄弟げんか・御館の乱が勃発することとなったのです。

中継ぎ投手の座を巡って、ついに争うこととなった景虎と景勝!!
景虎方には、景勝と決裂した神余親綱・謙信の義理の父である上杉憲政・本庄秀綱・多くの上杉一門衆
景勝方には、直江信綱・斎藤朝信・河田長親・謙信以来の側近や旗本
がつきました。
両軍の戦力はほぼ互角!!
まさに越後を二分した内乱でした。
そして、謙信の死から2か月後・・・1578年5月!!
春日山城の一口にある大場で、両陣営が激突!!
景勝方は、春日山城の本丸から三ノ丸へ攻撃!!
すると、5月13日ごろ、景虎は長男の道満丸と数十人の家臣をつれ、春日山城から4キロほど離れた御館に移ります。
御館は、謙信が義理の父の上杉憲政のために立てた屋敷で、単なる邸宅ではなく堀などを備えた城塞だったといわれています。
ここを本拠とした景虎は、16日、桃井義孝を大将とするおよそ6000の大軍で春日山城を襲撃!!
桃井たちは、本丸めがけて一気に突き進みますが・・・道幅の狭い門の手前で猛攻を受けると、進も退くもできずに大混乱!!
桃井をはじめ、多くの兵を失ってしまいます。
景虎は、すぐに体制を立て直し、再び春日山城を攻めましたが、結果は同じ・・・景虎方の惨敗でした。

長期戦しかない・・・が、自分に軍事力があるわけではない=北条に助けを求めました。
しかし、景虎の実兄・北条氏政は、北関東で対抗勢力と交戦中・・・援軍を送ることが出来ません。
そこで氏政は、同盟を結んでいた武田勝頼(妹を嫁がせているので義兄弟)に景虎の援軍を要請します。
これに応えた勝頼は、2万の大軍と共に越後国へ向けて出陣!!
援軍来たれりという知らせを受けて景虎は息を吹き返し、さらに5月29日、会津の蘆名盛氏と軍事提携を結びます。
これで、兵力の上では景虎の圧倒的優位となりました。
しかし・・・景勝が秘策に打って出ます。

6月初旬、景勝は武田勝頼のもとへ使者を派遣します。
すると、使者の言葉を聞いた勝頼は侵攻を停止します。
自分は謙信の跡継ぎとして持っているものがある・・・勝頼への金銭と領土の割譲で手を打ちました。
手伝い戦で乗り気ではない勝頼に、金銭と土地を与えて戦闘を回避したのです。
景勝は、これに失敗したら終わりという危機感がありました。
これが上手くいかなければ、御館の乱で負けたのは景勝だったでしょう。

北条にも顔をたつように、勝頼はふたりを和睦させます。
勝頼の仲介によって一度は和睦した景虎と景勝・・・
勝頼が甲斐国に戻ってしまうとすぐに破綻!!
再び刃を交えます。
そして、同じ年の9月、北関東での戦いを終えた北条氏政は、景虎の援軍として2人の弟を越後国に派遣!!
北条軍は、景勝側の城を立て続けに落とし、春日山城の支城である坂戸城にも攻めかかります。
景勝方も必死に交戦し、双方多数の死傷者を出す激戦となりました。

春日山城の支城である坂戸城を景虎の援軍である北条軍に攻め込まれていた景勝は・・・待っていました。
それは雪!!

「相模と越後を結ぶ三国峠は雪深い地
 雪が降れば、北条は退路を断たれる前に必ず兵を退くはず・・・!!」

その読み通り、10月、雪が降り始めると、北条軍は坂戸城を落とせぬまま無念の撤退!!
まもなく越後国は深い雪に閉ざされました。
景虎と景勝は、自らの勢力だけで戦うこととなります。
こうなると、磁力に勝る景勝方が有利!!
景虎方から景勝側に転じる武将も多く現れました。
そして迎えた1579年1月・・・

「御館を討ち果たす!!」

そう宣言した景勝は、二度にわたる御館への総攻撃で景虎方の武将を次々に討ち果たし、遂には御館の周辺に放火!!
一面焼け野原となりました。
景虎方についていた上杉憲政は、景虎の長男・道満丸をつれて御館を脱出!!
景勝との和議を求めて春日山城へと向かうのですが、その道中、景勝の直臣によって二人とも斬殺されたといいます。
道満丸は、まだ9歳でした。
この時、景勝は武田勝頼の妹・菊姫との結婚が決まっていました。
道満丸がいることで再び争いになる・・・!!

一方、景虎も多くの家臣と共に御館を脱出!!
鮫ヶ尾城に逃げ込んだものの、すぐに取り囲まれてしまいました。

「もはやこれまで!!」

1579年3月24日、上杉景虎自刃・・・謙信の死からおよそ1年後のことでした。

そして景虎の死を知った兼勝は・・・

「去年以来の鬱憤を散じ候
 定めて大慶となすべし」

しかし、景虎の首を見て涙したといわれています。

こうして義理の兄に勝利し、名実ともに上杉の当主となった景勝
反景勝派の抵抗は、その後1年近く続きました。
この戦いで双方多くの兵を失い、その軍事力は著しく低下していました。
織田信長などの軍事侵攻に苦しめられることとなります。
また、恩賞の配分を巡っても景勝が自身の腹心をあからさまに優遇したことで不満が続出!!
終には、恩賞の配分を不服とした乱が勃発!!
平定するまでにおよそ7年を擁し、国力をさらに低下させてしまいました。
越後の龍・上杉謙信が築き上げた上杉家の勢力と威信は、謙信が後継者とした二人の兄弟げんかによって失われてしまったのです。
さらに、御館の乱は、戦国の勢力図を大きく塗り替えてしまいました。
武田勝頼が景虎の援軍という北条氏政の依頼を反故にしたため武田と北条の同盟が破たん!!
まもなくして北条が織田・徳川軍と手を結んだことで武田は三方を敵に囲まれてしまいます。
勝頼が頼れる相手は景勝だけでしたが、上杉に武田を助ける力はすでになく・・・

1582年武田氏滅亡。

織田・徳川・北条の甲州征伐によって・・・!!
上杉・武田の脅威がなくなったことで、戦国の世に新たな風が吹くこととなったのです。

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<上杉家と戦国時代>景勝VS景虎 血で血を洗う上杉家の家督争い (歴史群像デジタルアーカイブス)

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疾きこと風の如く 
   徐かなること林の如く 
侵掠すること火の如く
   動かざること山の如し

風林火山の旗を掲げ、戦国最強ともいわれる武将・武田信玄
生涯60戦以上してわずか2敗。
圧倒的な強さの裏に、人知れぬ苦しみが隠されていました。
人呼んで”甲斐の虎!!”
騎馬軍団を率いて、颯爽と戦場を駆け巡った信玄。
織田信長も畏れたといわれるお馴染みの信玄の姿・・・
singen

しかし、近年の研究によると、きゃしゃな体つきにほっそりとした顔、この肖像画が本物の信玄とされています。
豪胆なイメージと違い、常にストレスを抱えていたという信玄。
そんな悩み多き人生を思わせる姿です。

信玄は名門・武田家の嫡男として誕生。
しかし、跡目をめぐり実の父と対立。
父を追放してしまいます。
武田家の当主となっても年上の重臣たちは言うことを聞かず、信玄は酒に溺れる日々・・・。

ようやく家臣をまとめ上げ、領地獲得に奮闘するも、上杉謙信を始め強力なライバルが立ちふさがります。
激闘を繰り返し、家臣や家族を失います。
それでも信玄は、己の野望に向かって突き進みます。

「都に武田の旗を立てる」

不治の病に侵される中、最後の遠征へ・・・!!

甲斐の虎と恐れられた武将、武田信玄。
その生涯が記された甲陽軍鑑にはこう書かれています。
20歳で実父を追放、そして武田家当主となります。
どうして父を追放したのでしょうか?
1521年、武田晴信(信玄)誕生。
父の信虎は、この地を治める大名、母は大井夫人と呼ばれる武家の娘でした。
母は竹だけの嫡男である晴信の教育に熱心でした。
幼い晴信のために僧侶を招き、和歌、兵法を学ばせたといいます。
その甲斐あって、晴信は賢い子に成長しました。

ある時、晴信は大量の蛤の貝殻を持ってこさせました。
家臣に貝殻がいくつあるか当てさせます。
家臣たちは1万とも、2万とも・・・実際は、4000個でした。
意外そうな顔をする家臣たちに晴信は言います。

「5000ほど兵がいれば、どんなことでもできる」

実際は、5000ほどしかいなくても、1万や2万に思うこともある・・・
少数の兵でもうまく使えば勝てるという意味でした。
しかし、晴信の聡明さを父は嫌ったといいます。
信虎は、一代で甲斐を平定した猛将です。
戦いに長け、家臣たちを力で従わせていました。
己の力を信じ、戦で力を発揮してきた信虎にとって、晴信は屁理屈ばかりのこしぬけに見えたのかもしれません。

ある時晴信は、信虎の持つ名馬が欲しいと願い出ました。
すると信虎は、
「若いお前があの馬に乗るのはまだ早い
 来年14歳になったら元服させる
その時に、武田家の宝物と一緒に譲るつもりだ」
しかし、晴信は、
「宝物は家督相続の時にもちろん頂戴します
 しかし馬は、今から練習しておけば父上が御出陣の際にお供をして役に立つことができます」
自分が家督を継ぐことがすでに決まっているかのようなこの物言いに、信虎は激怒!!
「そんな生意気をいうなら、武田の家督は弟の次郎に相続させる」

1536年、晴信は16歳で初陣を飾ります。
隣国・信濃での領地争いでした。
その時晴信は一計を案じました。
直ちに攻め入ろうとはせず、有利になる時を待ったのです。
晴信の狙いは、正月でした。
正月を迎えると、兵士の多くは家に帰ってしまい城は手薄になりました。
晴信は楽々と城攻めに成功!!
意気揚々と引き上げ、戦果を報告した晴信・・・しかし、父は、
「から城を落としただけだ!!」
晴信の手柄を、断固として認めませんでした。

そしてある日、親子の対立を決定的にさせる出来事が起こります。
父・信虎は、杯を弟に与えたのです。
兄の晴信を差し置いて、家臣たちの前で弟を武田家の跡取りとして扱ったのです。
重臣の居並ぶ前で、信玄ではなく弟の信繁に杯を渡すというのは、家督相続予定者を信玄から信繁に変えるという意思表示・・・大変重い意味がありました。
不安に苛まれる晴信・・・しかし、武田の家臣の空気は微妙に変わり始めていました。

この頃甲斐では台風や洪水などの災害が続き、人々は飢餓に苦しんでいました。
しかし、信虎は領民の救済には目もくれず、領土拡大を図って隣国との戦に明け暮れていたのです。
そのため表立って逆らえないものの大勢が不満を募らせていました。

信虎は悪逆非道であり 人民も牛馬も ともに悲しみ悩んでいる

信虎への不満が充満する中、ある人物が晴信を訪れます。
重臣・板垣信方です。
板垣は、晴信を幼いころから教育した武田家の重臣で晴信を誰よりも知る人物です。
板垣は晴信に進言します。

「信虎様には、速やかにご隠居いただき、あなた様に跡を継いでいただくことが、一番の得策にございます」

この自分が父を隠居させるとは・・・親への忠義に反する行為・・・迷った挙句に晴信は、

「困窮する民を救いたい」

と、自分のためではなくあくまでも甲斐のために動こう・・・晴信は密かにクーデターを決意しました。

1541年、20歳の時、絶好の機会が訪れます。
父・信虎が、駿河の今川義元をたずね、甲斐を留守にしたのです。
もともと武田家と今川家は、領地を争う敵同士でした。
しかし、今川と戦うのは不利と考えた信虎は、関係改善を図ります。
今川義元の紹介した娘を晴信の正妻とします。
これが功を奏し、武田と今川は後に同盟を結ぶこととなりました。
信虎は駿河を訪問したのは今川との親睦を深めるためでした。
この機を逃さず、晴信は甲斐と駿河の国境を封鎖!!
信虎が帰って来られないようにしました。
僅かな兵しか従えていなかった信虎は、成す術もありませんでした。
さらに晴信は今川と密約・・・信虎を隠居させて今川に置いておくというものでした。
晴信が信虎の追放に成功します。
家督を継ぎ、晴れて武田家の当主となりました。
20歳の時でした。

20歳で甲斐武田家の当主となった晴信は、それから10年、領土を2倍以上に広げます。
しかし、そこに至るまでには様々な壁、そしてそれを乗り越えるための工夫がありました。
父を追放した当初、晴信に従わない家臣が多くいました。
それは、甲斐が山国で盆地が多いことも原因でした。
当時は盆地ごとに有力な家臣が地域を治めていました。
山で遮られて、他の地域との交流が少ないため、独立心が強かったのです。
武力で従わせてきた信虎がいなくなったので、家臣たちは好き勝手に行動を始めます。

通行税を巻き上げたり、所領を配下の者に分配したり・・・

”全てのことが思うようにいかず迷惑している”
 
そんな家臣たちに嫌気がさした晴信は、責任を投げ出してしまいます。
昼夜を問わず、若い家臣や侍女を集めて酒盛りや歌会を・・・
この晴信の行いに心を痛めたのは、晴信に信虎の追放を勧めた板垣信方でした。

”信虎さまは、非道の行いが過ぎた故追放されました
 今のお館様は、あまりにも我儘勝手で信虎様よりも悪しき大将にございます
 今の言葉に腹が立ったなら、自分を斬ってください” 

当時交代したばかりの信玄政権の初期を全面的に支えていたのは板垣でした。
板垣に対する信頼感は、たいへん高かったのです。
板垣の言葉に心を打たれた晴信は、家臣たちに自分をリーダーと認めさせるには、行動しかない・・・
戦場にその身を投じていきます。

晴信は諏訪の攻略に・・・この地を守る諏訪大社の庇護が欲しかったのだといわれています。
諏訪大社は、諸国に知られた戦神・・・武将たちは、この諏訪大社に対する信仰を持っている人が多くいました。
諏訪大社を保護し、盛り立てていく・・・そういう権力なんだと内外に示すことで、影響力を強めようとしたのです。

自らの正当性を強調する一方、晴信は家臣の意見に耳を傾けることにも熱心でした。
領内の政策や戦の方針など、独断をやめて合議制にします。
家臣の働きをつぶさに観察し、功績をあげたものには即座に褒美を与えました。
晴信は、戦の最中でも様々な褒美を与えていたといいます。
中でも大きな役割を果たしていたのが金・・・甲州金です。
戦功をあげたものには、金の粒を三すくい与えたという記録が残っています。
これは、金山開発が盛んだった甲斐ならではの恩賞でした。
山が多く、平地の少ない甲斐では、土地以外の褒美が必要だったので、信玄が編み出した工夫でした。

さらに、領国経営でも画期的な工夫を・・・
「甲州法度之次第」と呼ばれる法律を制定します。
法度では、年貢のルールを正確にし、役人などの横暴を取り締まります。
そして身分を問わず、法の下の平等を打ち出しました。

”この晴信自身が法度に背くことがあれば、責賎を選ばず、誰でも届け出てよい
 その時は責任をとる”

自分の制定した戦国法が、自分自身にも適用される・・・
そういった法は他にはありません。
信玄が制定した甲州法度が唯一無二のものです。

武田二十四将図・・・
二十四将と言うからには24人家臣がいるはずですが、23人・・・
つまり、晴信自身も24将の一人に数えられています。
トップダウンだけではなく、時には家臣と対等に・・・若きリーダーの姿がそこにはありました。
こうして家臣たちの信頼を築きながら、晴信は北へ領地を拡大を目指します。
目標は信濃国の完全掌握でした。
信濃侵攻を開始した武田軍は、破竹の勢いで敵を打ち破ります。

1548年、27歳の時信濃の1/4を配下に治めます。
しかし、行く手に強敵が・・・!!
北信濃の武将・村上義清です。
連勝を重ねてきた武田軍は、迷わず城を攻撃!!
ところが、城の守りは固く激しい反撃にあいます。
さらに別動隊に後ろに回り込まれ挟み撃ちに・・・!!
この戦で、幼いころから晴信を支えた重臣・板垣信方が討ち死に・・・!!
5000人ともいわれる戦死者を出し、武田軍は惨敗しました。
敗戦から2か月後、体勢を立て直した武田軍は3度の戦いの末、村上を破ります。
板垣信方亡き後、晴信はその恩を忘れず板垣家を重用。
板垣家は主を変えて江戸時代も続き、明治維新を迎えたといわれています。
こうして晴信は、甲斐と信濃をほぼ手中に治めました。
32歳でした。

武田晴信は40歳を前に出家し、武田信玄となります。
その頃、信玄のもとには、一騎当千の兵どもが揃っていました。
高坂昌信、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀・・・武田四天王といわれる武将を従えて、信玄は戦場を駆け巡りました。
若き日に信玄と戦った三河の徳川家康・・・後にこう語っています。

「今の世に信玄ほどの武将は他にいない」

どうして武田軍は最強と呼ばれたのでしょうか?

「人は城 人は石垣 情けは味方 仇は敵なり」

武田の強さの秘密は、その人材活用術にありました。
武田四天王の一人、高坂昌信は16歳の時に信玄の世話係として登用されました。
しかし、農民の出身だったため読み書きが不得意で周りの者にバカにされることも多かったのですが・・・
そんなある時信玄は家臣を集めてこう言いました。

「何より大事なのは、武功・忠孝の者から話を聞くことだ 
 一日に一つ聞けば一月で三十、一年で三百六十も聞いたことになる
 去年の自分より、はるかに優れた人となる」

この教えを聞いた高坂は、以後周りの人の話をよく聞き、覚えることに愚直に取り組みました。

武田家の歴史や信玄の教えを記した第一級の資料「甲陽軍鑑」
この本は、高坂の口述筆記を元にしています。
高坂は、武田家で見聞きしたことや、信玄が行いを年下の者に伝えることで、慢心を戒め戦に役立てたといいます。
読み書きが不得意な高坂は、信玄の教えを守ることでどんな武将も及ばない立派な書物を作ることができたのです。

四天王の二人目は山県昌景。
信玄は山県をこう評しています。

「赴くところ敵なし」と。

山県が率いたのは騎馬部隊・・・
その具足の色から赤備えと呼ばれ、他国の武将から畏れられました。
元々甲斐は、馬の産地であったことから騎馬の扱いに長けた者が多かったのです。
そこで武田軍は、他国より優れた騎馬隊を組織!!
山県はその騎馬部隊を操り、敵と味方の足軽がせめぎ合うところに突入し、勝利に導いたといわれています。

武田四天王残る二人は、内藤昌秀・馬場晴信。
内藤晴信は勇猛で知られた武将でしたが欠点もありました。
戦闘に夢中になると周りが見えなくなるのです。
そこで信玄は馬場晴信と一緒に行動するように言いつけます。
馬場は冷静で状況判断に優れていたからです。
ある戦で内藤が勝ちに乗じて単独で敵を深追いしたことがありました。
それに一早く気付いた馬場は、内藤に使者を出します。
使者は馬場からの言葉を内藤に伝えました。

「このままだと危ないぞ」

内藤は、己の悪い癖である深追いに気付き、即座に兵を引いたといいます。
信玄は家臣の長所短所を見極めて、組み合わせ力を最大限に発揮させたのです。

さらに、戦の役に立たない家臣でも、貴重な戦力にしました。
岩間大蔵左衛門は、武田軍団一の臆病者と言われていました。
戦に行きたくないと嫌がり、合戦では目を回して卒倒・・・
味方からも不満が絶えませんでした。
そんな不満を耳にした信玄は一計を案じ、岩間にこう言います。

「これからは家中のどんな些細なことでも知らせよ
 もし報告を怠ったら、斬る」

家臣たちの動向を知らせる目付けに任命しました。
岩間は殺されてはたまらないと、家中で少しでも不穏な動きがあれば逐一信玄に報告しました。
おかげで信玄は、家臣の活躍や評価を正確に行うことができ、家臣たちの不満は減っていきます。

そんな武田軍団でも苦戦した敵がいました。
越後の龍として恐れられた上杉謙信です。
謙信と信玄が相対した川中島の合戦・・・
信濃と越後の国境で、信玄が32歳の時から足掛け12年、実に5回も繰り広げられました。
しかしこの戦、信玄は地理的に不利でした。
戦場の川中島まで謙信の城からはおよそ50キロ、対して信玄の城からは100キロも離れた甲府から出陣します。
そこで、戦いの拠点として新たに築いたのが川中島に近い海津城です。
四天王の一人・高坂昌信を配して合戦に備えます。
さらに、領内に狼煙台を数多く配置、見張りが敵を発見すると狼煙をリレーして連絡し、信玄が素早く出陣できるようにしました。

1561年、信玄40歳の時、謙信と最も激しい戦いの第4次川中島の戦いを繰り広げます。
この時謙信は、信玄の先手を取って武田の陣地の目の前にある妻女山に陣取ります。
知らせを受けた信玄は海津城に急行。
武田軍は家臣全員が出陣し、総力戦の構えをとりました。
霧が立ち込める中、信玄は武田軍を二つに分け、妻女山の上杉軍を挟み撃ちにする作戦をとりました。
ところが上杉軍はこの作戦を見抜いて、密かに下山・・・。
濃い霧に紛れて布陣・・・そして霧が晴れた瞬間、準備万端の上杉軍が信玄に襲い掛かってきました。
不意を突かれた武田軍は大混乱・・・
上杉軍は武田の本陣にまで迫ってきました。
危うし・・・信玄・・・
その時、武田の別動隊がようやく現場に駆け付けます。
形勢逆転、信玄は何とか上杉の猛攻を退けました。
その後も川を挟んで二人はにらみ合いを続けましたが、とうとう決着はつきませんでした。

川中島の戦いの後、信玄には新たな野望が芽生えます。
近年見つかった資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と書かれています。
どうして都を目指したのでしょうか??

1554年、33歳の時信玄は北方の上杉謙信との戦いに備えてある策を講じていました。
南の駿河国・今川氏、東の相模国・北条氏と三国同盟を組んだのです。
同盟の保証としてそれぞれの当主の嫡男にそれぞれの姫を嫁がせるという政略結婚が行われ、三国は血縁関係となりました。
しかし6年後の1569年、39歳の時にこの同盟に亀裂が入る大事件が起こります。
桶狭間の戦いです。
尾張の小大名だった織田信長が、今川義元を奇襲し破りました。
当主が亡くなったことで今川の力が弱まっていくことは明らかでした。
これを好機と見た信玄は、同盟を無視して今川攻めの準備を始めます。
駿河には港と京につながる東海道がある・・・
どうしても欲しかったのです。

しかし、武田の家中で今川攻めに反対する者がいました。
信玄の長男・義信です。
義信の妻は、三国同盟の時に今川から迎えた義元の娘でした。
妻の実家だったのです。
今川攻めを巡って、親子は激しく対立します。
義信は信玄の暗殺を企てます。
しかし、企てはすぐに発覚し、信玄は慶喜を幽閉、その後、義信は非業の死を遂げました。

信玄は義信をかわいがり、後継者として期待をして育てていました。
しかし、義信事件となったのは、政治家としての信玄は家庭人としての顔を捨てざるを得ない・・・信玄の深い悲しみと苦悩がありました。

1568年、47歳で駿河に侵攻。
武田軍は順調に進み、翌年には駿河国を制圧します。
しかし、密かに病魔が忍び寄っていました。
駿河侵攻を始めて3年・・・50歳を超えた頃には体調が悪化し、床にふせることが多くなってきていました。

「膈という病気だと言われた」

膈とは、胃がんと考えられています。
信玄は死期が近づいてきていることを悟りました。
それでも信玄は野望を抱いていました。
2018年に発見された新資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と。
余命があまりないかもしれないという状況の中で、足利義昭と一緒に室町幕府体制を支えながら上洛を遂げて、天下の運営に携わりたいという気持ちがあったのです。

1572年12月、52歳で信玄挙兵。
病を押して京へ・・・。
隣国の遠江に攻め入った信玄・・・行く手を遮ろうとした徳川家康を三方ヶ原の戦いで一蹴、さらに西へ急ぎました。
翌月には三河の野田城を攻略、いよいよ最大の難敵・・・尾張の織田信長との対決が迫っていました。
しかし・・・口の中にできものができ、歯が5,6本抜けて次第に衰弱していきます。
もはや、死脈を打つ状態となったので覚悟をします。
信玄は遂に甲斐への帰路につきました。
その道中、遺言を残しています。

「自分の死を3年の間秘すこと」

信玄は自分の死を敵に悟られないように入念な準備をしました。
その一つが白紙の手紙・・・
信玄は、自分の花押だけの手紙を800枚余り用意しました。
信玄の手紙を出すことで、生きているように見せかけようとしたのです。

1573年4月12日、ふるさと甲斐への道半ばで信玄は息を引き取りました。
52歳の生涯でした。

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津軽10万石の城下町だった青森県弘前市・・・2016年ある発見が話題を呼びました。
町中にある一軒の古民家が、忍者屋敷であることがわかったのです。
弘前藩の忍者集団”早道之者”が諜報活動のために使ったとされています。
忍者屋敷がそのまま残されているのは、全国でも極めて珍しい。
藩主、家老から命令を受けて、作戦会議をする場所だったと思われています。

忍者・・・影のヒーロー??そのほとんどは、創作の産物です。
しかし、実在の忍者が一度だけ歴史の表舞台で活躍した戦いがありました。
敵は、織田信長!!天正伊賀の乱です。

戦国時代最強を誇った織田軍が、忍びの郷・伊賀に向けて出兵しました。
ところが・・・攻め込んだ先で、兵士たちは次々とうち取られていきます。
織田軍大敗北!!ついには撤退!!
果たして伊賀の忍び達はどんな手段で織田軍を撃退したのでしょうか?

群雄割拠の戦国時代、歴戦の武将の影には不思議な呼び名を持つ者たちがいました。
上杉謙信に伏齅・北条氏康に乱波・武田信玄に透波・・・彼らは戦国時代に活躍した忍び達です。
ある時は敵地に潜入し諜報活動、ある時は敵の不意を突き夜襲攻撃、凡人には出来ない危険な任務を行う特殊部隊でした。
そんな忍びを数多く輩出したのが伊賀・・・忍びの里と呼ばれたこの地には、どんな秘密があったのでしょうか?

伊賀には屋敷を取り囲む不自然なほど高い土塁がたくさんあります。
防御を備えた館城があり、土塁だけではなく堀もあったようです。
確認された城跡はおよそ650以上・・・全国有数の密度です。
どうしてこれほどまでに多く築かれたのでしょうか?
伊賀は中世以来、限られた土地をめぐり争いの絶えない地域でした。
各地で自ら館城を築いた地侍たちは、大名の直接支配を受けることなく自治独立の国だったのです。
戦国時代の伊賀衆について・・・
毎日夜明け前から昼頃までは士農工商それぞれの仕事に励み、それから日暮れまでは武芸を磨く・・・
そして密謀の通力を伝える風習があった・・・と記述されています。
密謀の通力がいわゆる忍びの術なのです。

常に危険と背中合わせだった伊賀では、武芸だけでなく敵を陥れる技も鍛える必要があったのです。
そんな伊賀を疎ましく思っていた男がいました。
織田信長です。
当時、信長は近畿一帯に勢力を伸ばしていましたが、伊賀には手を出せずにいました。
そして隣国にはもう一つの忍者の里・甲賀があり、同じく自治独立を守っていました。
伊賀と甲賀が連携して信長の進出を阻んでいたのです。
険しい山々に囲まれ、進入路さえ分かりにくい土地・・・信長は現地の情報を集めながら、じっくり攻め入る予定でした。
しかし・・・その意図を汲まずに伊賀を狙っていたのが信長の次男・信雄でした。
1579年伊勢にいた信雄は、信長に無断で伊賀へ出兵。
1万を超える大軍勢でした。
山を越え、伊賀領内に侵入しようとしたその時・・・突然山道に地侍たちが現れ、一斉に襲い掛かってきました。
山の中で待ち伏せしていた伊賀衆でした。
その奮闘ぶりは・・・
地の利はよく心得ている
ところどころに砦を築いて弓矢や鉄砲を放ち、槍を併せ、息つく間もなく攻撃し、山の崖へ追いつめていきました。
総崩れとなった織田軍の戦死者は、数千人に及んだといいます。
そして、織田方重臣・柘植三郎右衛門が討死!!
信雄は、命からがら伊勢に逃げていきました。
伊賀の完全勝利でした。

織田軍敗北の報せは、すぐさま信長に知らされました。
言語道断!!
息子・信勝が安易に出兵したことに激怒したといいます。
見事な結束で独立を守った伊賀衆・・・
しかし、彼らにとって本当の試練はこれからでした。

1581年、織田信長は伊賀討伐を命じます。
その軍勢なんと、4万以上・・・汚名返上に燃える信雄を総大将に、織田の名だたる武将・・・筒井順慶、蒲生氏郷、丹羽長秀が先陣に加わります。
しかも、今回は多方面からの一斉攻撃!!
迎え討つ伊賀は、それぞれ敵の情報を正確につかんで連携する必要がありました。
そのために使ったとされるのが、狼煙による情報伝達です。
伊賀ではのろし台の跡がいくつか確認されています。
いずれも集落から見えやすい位置にあり、南北15キロ以上に警報を伝えることができたと言われています。
さらに・・・忍びの狼煙には、特殊能力がありました。

江戸時代の忍術書「万川集海」・・・そこに狼煙の材料が記されていました。
最初に掲げられているのがオオカミの糞・・・手に入りにくいものの代表的な材料でした。
すぐに煙が立ち上がり、煙から強烈なにおいが発せられます。
狼煙が嗅覚にうったえていた可能性があるのです。
その悪臭は、1~2キロ位は伝わる可能性がありました。
悪天候で煙が目視できないときでも使えた可能性があるのです。



織田軍に対してあらゆる防御を備えていた伊賀衆・・・
しかし、4万という大軍勢を前に、彼らの心は揺れていました。
信長に内通するもの(福地伊与)まで現れます。
福地は険しい進入路の道案内を行い、織田軍を伊賀領内に導いたといいます。
どうして仲間を裏切ったのか??
伊賀北東部にある福地城・・・ここは、織田軍が最大の軍をおいた地域でした。
福地の集落は、真っ先に攻撃を受ける場所だったのです。
福地は福地で、集落を守ろうとしたのです。

内通者を得た織田軍は、伊賀領内に侵入!!
その攻撃は苛烈を極めます。
一軒残らず焼き払い、男女問わずに殺害した・・・
伊賀衆は、わずか数週間で、最後の拠点柏原城まで追いつめられます。
籠城したのは1600人・・・城には女子供達も逃げ込んだといいます。
各方面から侵入した織田軍は終結し、およそ4万で柏原城を取り囲みました。
絶体絶命の中、協議に望んだ伊賀衆・・・
徹底抗戦する??それとも降伏・・・??
補給路も援軍もない・・・今更降伏しても命の保証はない・・・どれだけの仲間が殺されたのか??
信長は伊賀を殲滅したいのか??
袋小路に陥った伊賀衆・・・意外な意見も・・・
敵を欺いて、せめて女子供だけでも城から脱出する??
城からの脱出路・・・すでに柏原城を包囲される前に、この作戦を実行した者たちがいました。
西部の比自山城に籠城した伊賀衆です。
織田軍が城に突入すると、そこは一夜にしてもぬけの殻になっていたといいます。
伊賀衆は、城中に松明を炊き、城にいるかのように見せて織田軍を欺き、密かに脱出に成功していたのです。
しかし、すでに小田野全軍が、城の周りに・・・本当に脱出することなどできるのか??
宿敵・信長に対し徹底抗戦か??それとも降伏か??それとも脱出か??

伊賀衆が出した結論は”脱出”でした。
およそ4万で包囲する織田軍から、どのように逃れるのか??
籠城から10日以上たった夜、柏原城から数人の伊賀衆が抜け出しました。
彼等は周辺に隠れていた百姓たちを動員して、織田軍の背後の山に、可能な限り多くの松明を灯させます。
それを見た織田軍は、数千に及ぶ伊賀の援軍あらわる!!そう思い込み、大混乱となりました。
これこそ、伊賀衆の狙いでした。
この隙に、柏原城から女子供を逃がす手はずだったのです。
ところが・・・この計略を見破った男がいました。
織田の名将・丹羽長秀・・・10代のころから信長に仕えた重臣でした。
比自山城での伊賀衆の計略を見ていた長秀は、援軍を偽物と見抜き、混乱を速やかに収束させてしまいました。
脱出作戦・・・失敗!!

もはやこれまで・・・1581年10月28日柏原城開城・・・
伊賀の自治独立は、ここに消滅しました。
信長の容赦ない処分が・・・
各地の城は焼き払われ、神社仏閣は破壊されました。
そして男女の差別なく、多くが処刑されました。
運よく他国に逃げ延びたものの・・・半数の伊賀衆が犠牲になったといいます。
それから数日後、見聞のために織田信長が伊賀に入りました。
山の上から伊賀の国を見下ろしていた・・・その時、事件は起こりました。
数発の銃弾が信長に向けて放たれたのです。
伊賀の忍の残党でした。
しかし、弾はいずれも外れ、忍びは姿を消したといいます。
伊賀の執念は、最後まで信長を脅かしたのです。

その後も伊賀への警戒を緩めなかった信長・・・
その城が、信長が伊賀支配のために築いた滝川氏城・・・。
巨大な本丸跡は、伊賀のそれまでにはないものでした。
その一方、形は伊賀の館城と同じ・・・そこに信長の心境が表れています。
当時の織田のお城の作り方とは全く離れていますが・・・伊賀の城に織田の城が合わせにいっています。
伊賀の人に分かりやすい館城のお化けのような巨大なお城が作られたのです。
自らの力を誇示しつつ、慎重に支配を進めた信長・・・
伊賀を織田の直轄地とし、地侍たちが再び力をつけないように統制を図ります。

しかし・・・1582年6月2日、本能寺の変・・・信長は、突然この世を去ります。
天正伊賀の乱から8か月後のことでした。

信長の死後、天下人は秀吉から家康へと移り、戦国乱世の終焉を迎えます。
他国へ落ち延びていた伊賀衆の中には故郷に帰る者もいました。
しかし、伊賀がかつての自治独立を取り戻すことはありませんでした。
そんな伊賀の忍び達に目をつけたのが、徳川家康でした。
服部半蔵のもとにまとめられた伊賀者たちは、江戸時代、将軍家の隠密や江戸城の警備などを務めます。
伊賀者たちの評判は、全国に知れ渡り、諸藩の大名達にも雇われるようになります。
ある者は諜報活動を行い、ある者は藩主の身辺警護を務めたりしました。

伊勢の関宿にある江戸時代から370年続く老舗の和菓子屋・・・
そこには、忍者の末裔が住んでいました。
服部家には、まだ世に出ていない資料がたくさん眠っています。
関宿は、東海道五十三次の宿場町です。
多くの人が行き交い、各地の情報を得るにはうってつけでした。
店のその目の前には、将軍家の宿泊所である御茶屋御殿がありました。
家康はじめ、将軍が上洛する際に、宿泊した場所だったのです。

服部家の資料は、多くのご先祖が忍びの経歴があったことを伝えています。
もしかしたらこの和菓子屋で、代々徳川家を支えるために、忍者の仕事をしていたのかもしれません。

戦国から江戸時代へ・・・幾多の試練を生き抜いた忍者たち・・・故郷で培った忍びの術は、形を変えてその暮らしを支え続けたのです。

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戦国最強の武将とはだれか??
織田信長・・・??
しかし、江戸時代初期の軍記物「北条五代記」には・・・
最強の武将とは・・・北条氏康・武田信玄・上杉謙信と書かれています。
3人の名称のうち、一人でも長命であったならば、信長は滅亡していたはず・・・??

信長と対峙したことがあるのが上杉謙信・・・軍神毘沙門天の化身と恐れられた武将です。

決戦の場は、石川県を流れる手取川流域・・・
謙信対信長・・・氏康、信玄亡き後、戦国最強を決定づける手取川の戦いです。

謙信の猛攻の前に織田軍はなすすべなく敗れ去った・・・??
闘いの後謙信はこう豪語しました。
「織田軍は案外弱く、この分では今後天下までの道は容易であろう。」と。
しかし、織田側に記録は残っておらず、実像は明らかになっていません。
勝敗を決めたものは・・・??

”国宝 上杉本洛中洛外屏風”・・・戦国時代の京都を描いた屏風です。
これは、信長が謙信に贈ったと言われています。

屏風絵の中でひときわ目立つのは、将軍の御所へ向かう武家の行列・・・
この人物こそ、若き日の謙信だと言われています。
どうしてこのような屏風を贈ったのでしょうか?
謙信と信長・・・二人の関係は古く、最初の交わりは、この屏風を贈った日から10年前です。
この時謙信は35歳、川中島の戦いで武田信玄との争いを繰り返していました。
31歳の信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、隣国美濃攻略に力を注いでいました。
謙信に宛てた信長の書状には・・・
”我が息子を養子に迎えても構わないとの由、まことに光栄の至り、今後もご指導を仰ぎたい。”
この養子縁組は実現していません。しかし、謙信に対する信長の低姿勢は何を意味するのでしょうか?

この時、信長は尾張を治めて、謙信は越後を治めていました。
関東管領上杉家の名跡を、謙信はそれ以前に継いでいました。
室町時代の家の格としては、圧倒的に上杉の方が上だったのです。
当時のルールとしては、信長が謙信に対して丁寧に手紙を書くのは当然のことでした。
謙信が就任した関東管領とは、関東諸国の政務長官で、将軍が直接任命する室町幕府の要職でした。
二人の関係は、1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛した後も、変わっていません。
信長は謙信にこう報告しています。

”将軍様ご上洛の件、信長はお供することを請け負っただけです。”

信長の謙信に対する気遣いが伺えます。
しかし、やがて軋轢が生じ始めます。
契機となったのは、戦国時代最強と言われた武田信玄の死でした。
当時信玄は、信長と謙信共通の敵・・・信長の同盟者徳川家康は、三方ヶ原の戦いで信玄に大敗を喫していました。
武田軍は、徳川領に侵攻・・・そのさなか、信玄が病没したのです。

英雄信玄の死で、武田の領国は揺らいでいました。
謙信と信長に好機が・・・!!
この機を逃すまいと、謙信は信長に申し入れます。

「畿内のことより、武田に対する軍事行動に精を出すべきである。」

互いに協力して武田領に侵攻することを提案したのです。
1574年武田勝頼が、信長の領国・東美濃へ侵攻。
信長軍は武田軍を迎え討ちます。
その時謙信は、越後から雪の峠を越え、武田領の西上野に侵攻しました。
これによって武田軍は織田領から撤退・・・謙信・信長の共同戦線は成功したかに見えました。
しかし・・・謙信は信長を救援する為に苦労して出兵したにもかかわらず、何の例もないことに腹を立て、これを遺恨としました。
洛中洛外図屏風は、謙信の怒りを収めるために、信長が贈ったものと考えられています。

翌1575年、信長が武田領にへの共同戦線を謙信に持ちかけます。
が、謙信は武田領でなく、越中へ出兵!!
これには信長も黙っていません。

「約束を違えるのは世間体が悪く、無念です。」

謙信に恨み言を述べ、批難しています。
謙信と信長・・・二人の行き違いは、やがて決定的なものとなっていきます。

1575年8月、信長は大軍勢を率いて越前に侵攻。
長年信長と対立していた一向一揆を滅ぼすためです。
一向一揆とは、本願寺門徒宗を中心とした民衆の連合で、その勢力は、戦国大名に匹敵していました。
この時信長は、驚くべき手段に打って出ます。

山林までわけ入り、男女問わずことごとく切り捨てよと命じました。
結果、生け捕られ斬首された人は併せて3、4万にももぼったと言われています。
一方謙信は、それまで敵対関係にあった加賀一向一揆と和睦。
謙信と和睦した加賀一向一揆の拠点だった鳥越城・・・。
鳥越城は、加賀一向一揆が織田軍の侵攻に抵抗する為に築かれたと考えられ、後に壮絶な攻防戦を行うこととなります。
最新鋭の武器・武具を備えていて、戦国大名の軍勢に全く劣らない強い軍事力を持つ加賀一向一揆・・・。
江戸時代の一揆と、戦国時代の一向一揆は全く異なっていました。
越前一向一揆を力で殲滅した信長・・・。
信長と相反するように、手を結んで加賀へ進出した謙信・・・。
両者の勢力のさかいを接したことで、二人の対立は避けられないものとなっていきます。

信長がしかけます。
越前を平定した後、信長は朝廷から権大納言・右近衛大将を授かります。
これは、武官の中で最高位と見なされる官職で、朝廷は信長を武家のTOPと認めたのです。
謙信の関東管領を凌ぐ信長の官位・・・
朝廷権威を背景に信長が謙信より優位に立とうとした現れです。
謙信は外交政策に力を注ぎます。
信長に追放された足利義昭の妖精に応え、毛利や武田、本願寺と組んで信長包囲網を形成します。

対する信長は経済封鎖を行います。
三国湊に謙信の勢力圏から船が入ることを禁じています。
これは、荷留と言われる信長の経済戦略でした。
謙信は3万の兵を率いて能登へ侵攻。
能登を支配していたのは名門畠山氏・・・
謙信は畠山氏が信長と手を組むことで背後が危うくなることを避けようとしたのです。
畠山氏の居城・七尾城・・・いくつもの尾根に郭が築かれた山城です。
標高およそ300mに築かれた七尾城・・・
東西1キロ、南北2.5キロ・・・日本屈指の巨大城郭です。
城内から出土した天目茶碗・・・都の華やかな文化が日本海経由で持ち込まれていました。
城の麓に総構えが・・・。
総構えとは、城下町も含め、城の外郭を囲んだ堀のことです。

謙信には、城攻めに失敗した苦い経験がありました。
1561年小田原城の戦いで、謙信は力攻めするも、落とせなかったのです。
七尾城も、力づくで落とせるような城ではない・・・七尾城の周囲を守る畠山氏の城を攻略!!
能登の港を押さえることで、制海権をとることで、七尾城の孤立を図ります。
七尾城の大きさが、謙信の戦法を変えさせたのです。
謙信にその戦法までも変えさせた七尾城・・・
信長と決戦が近づく中、どうしてもこの城を落とさなくては・・・!!
同じころ、信長は謙信との戦いに向けて、配下の武将たちを集めていました。
柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家・・・
そうそうたる顔ぶれで、兵力は4万8000!!
ここに、戦国最強をかけた戦いが始まろうとしていました。

1577年7月、謙信は3万ともいわれる軍勢で、七尾城へ向けて出陣!!
その頃、七尾城では重臣たちが上杉派・織田派に分かれ、対立していました。
織田派の重臣は信長に援軍を求めます。
出兵の大義名分を得た信長は、謙信討伐を決意!!
謙信VS信長・・・月に直接対決の時が・・・!!
しかし、出陣の直前・・・突然、信長に従っていた松永久秀が大和で挙兵!!
この謀叛には、謙信が関わっていたという資料も・・・!!
こうした不穏な状況により、信長は出陣せず、総大将・柴田勝家のもと織田軍の大軍勢が七尾城に向けて出陣!!
まもなく七尾城を攻めあぐねる謙信のもとへ織田軍侵攻の報せが届きます。
このまま七尾城を落とせないと、織田と畠山に挟み撃ちにされる・・・!!
織田の大軍勢が迫る中、普段することのない謀略を試みています。
七尾城内の上杉派に送られた謙信の書状には・・・

信長派の一族親類を討ち取って城をとれば七尾城主にする・・・!!

一方七尾城に進軍する織田軍にも問題が生じていました。
総大将・柴田勝家といさかいを起こした羽柴秀吉が、勝手に手勢を率いて帰国してしまいました。
一枚岩ではなかったのです。

9月15日、七尾城に内紛が勃発!!
謙信の謀略が功を奏したのです。
これを機に、上杉派の重臣が上杉軍を城内に引き入れ織田派をことごとく討ち果たしました。
ついに謙信は、七尾城を手に入れたのです。
七尾城に進軍を続ける織田軍は、まだそれを知らない・・・。

七尾城を手に入れた謙信・・・織田の大軍勢をどうするのか・・・??
平地決戦をするか??それとも籠城か・・・??

1577年9月10日、加賀に侵攻した柴田勝家から興味深い報告がされています。

今日まで七尾城からの使者が一人も来ない・・・
地元の百姓が、ことごとく謙信に味方するため、七尾への通路がふさがっているようである・・・

謙信は、七尾城周辺の街道を封鎖!!これによって、織田軍には情報が一切入っていなかったのです。
謙信が七尾城を落とした3日後の9月18日、織田軍は加賀・手取川近辺に到着!!
手取川・・・日本の中でも特に急流な川の一つです。

手取川は、歴史上何度も氾濫を起こし、人々に甚大な被害を与えてきました。
島集落は、避難場所の名残です。
9月23日、織田軍に七尾落城の報せが届きました。
総大将・柴田勝家は、謙信の襲来を恐れ全軍に撤退を命じます。
しかし、織田軍は、まだ気づいていませんでした。
謙信は手取川に向かって軍を進めていたのです。
謙信は、平地決戦を選びました。

謙信は織田軍に攻めかけます。そして1000人余りを討ち取ります。
撤退しようとする織田軍を手取川に追い込んで、大雨続きで溢れんばかり川が行く手を阻み、人馬もろとも流されました。
戦いのあった日は11月上旬に当たります。その頃、それほど水量があったとは思えません。
しかし、膝まで水があったとしたら、それだけで足がとられてしまうような流れでした。
その上、大きめの石がごろごろしており、駆け抜けることは不可能でした。
撤退のために川を渡ろうとする織田軍は、急流に足をとられ行軍は進みません。
そこに上杉軍が背後から攻撃を仕掛け、織田軍の多くが討ち取られたのが真相では・・・??
勝利した謙信は、家臣にこう送っています。

「信長は案外弱く、この分では今後天下までの道のりは容易であろう。」

他の資料でも・・・
「謙信が加賀へ攻め入り、一向宗徒もこれに加勢した。
 この時、敵800人ばかり討ち取った。」
戦いの後、両軍は手取川を挟んで睨み合います。
しかし、互いに攻め込むことはありませんでした。

この時、謙信にも誤算が・・・

謙信は手取川の戦いに信長が出陣していると思い込んでいました。
謙信は12月まで七尾城に留まります。
その間3か月・・・謙信にとって手取川の戦いは信長との決戦を意味していました。
しかし、そこに信長の姿はなかったのです。
謙信が七尾城に留まり続けたのは、信長の出陣を待っていたのかもしれません。

しかし、信長は畿内周辺に留まり、謙信が待つ七尾城に向かうことはありませんでした。
12月18日、謙信はようやく越後に帰国。
謙信の家臣が謀反を起こしたためです。
上杉家の内紛を狙った信長の謀略ともいわれています。
謙信は織田軍との戦いを睨んで軍を編制・・・翌年を予定していましたが・・・
1578年3月13日、謙信死去・・・享年49歳でした。
謙信対信長・・・戦国最強の直接対決は実現せず、幻に終わったのです。

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