江戸に幕府が開かれて150年ほどたったころ・・・
巷では奇妙なおまじないが流行っていました。
”新しい鍋釜から金気を抜くには上杉と書いた札を貼るといい
そのこころは
上杉には金がないのですぐ抜ける”
この上杉とは、出羽邦・米沢藩のことです。
16万両ともいわれる借金を抱え、破産状態でした。
一時は幕府に領地返上を決断するまでに追い詰められていました。
この時、米沢藩を引き継いだのが、若き藩主・上杉鷹山でした。
類まれなリーダーシップで、財政を立て直した江戸時代屈指の名君です。
江戸時代には出羽国と呼ばれた山形県米沢市。
米沢市上杉博物館には戦国から続く上杉家が残した”洛中洛外図屏風”や上杉家文書など貴重な資料が残されています。
その中の一つが・・・江戸時代中期ごろの米沢藩の参勤交代行列を描いた絵・・・
ここには、上杉家が幕府から特別な扱いを受けていた藩であると示されるものが描かれています。
馬の鞍にかぶせられている”虎皮鞍覆”と”大鳥毛馬印”です。
その外にも、漆塗りの筒に家紋と龍があしらわれた刀入れや、革製の覆いに金で家紋が描かれた鋏箱、屋外で茶をたてる道具の入った茶弁当を行列に同行させることを許されていました。
非常に広い領地をしはいする大名・・・国持大名という格でした。
国持大名とは、領地が一国以上ある大名を指します。
御三家に次ぐ格式で、18家のみに許された呼称でした。
加賀102万石の前田家、薩摩77万石の島津家、仙台62万石の伊達家など、名だたる国持大名の一つが米沢15万石の上杉家だったのです。
国持大名の中で、最も石高が低い米沢藩・・・それでも国持大名と呼ばれるには訳がありました。
米沢藩の藩主・上杉家は、戦国時代の名将・上杉謙信から続く名門。
もともとは、越後を領地とする大名でした。
謙信の跡を継いだ上杉景勝は、越中信濃へと領地を広げ、その後秀吉によって会津120万石の大大名、五大老となります。
1600年、関ケ原の合戦で、家康に敵対する西軍についたため、1/4の30万石に減封。
それでも景勝は、家臣を減らすことはせず、5000人の家臣団のほとんどを残しました。
通常、30万石であればおよそ1800人が適正な家臣数です。
上杉のルーツは、大化の改新の藤原鎌足にまでさかのぼる名門です。
徳川氏は新興・・・意識は高かったのです。
鉄砲づくりをやったり、軍道の整備をやったり、関ケ原の直後は、まだ戦う意識があったのではないか??と思われます。
この時、上杉家には、謙信時代に蓄えられた御貯金15万両(150億円)があり、関ケ原の戦いから50年たったころでも残されていました。
しかし、3代藩主・網勝が、後継ぎなく死亡・・・米沢藩は、おとり潰しの危機に・・・!!
幕府に働きかけ、高家・吉良家から養子をもらい4代藩主に。
所領は半分の15万石に減封、景勝時代の1/8になってしまいました。
新藩主となった藩主・綱憲は、実の父・吉良上野介のために吉良屋敷の新築費用や膨大な借金の肩代わりなど、多額の援助をしています。
さらに、莫大な費用を投じて豪華な大名行列を仕立てるようになり、米沢や上屋敷には能舞台を建設、派手で豪華な生活を続けました。
この頃、江戸藩邸の出費は、毎年2万5千両、御貯金15万両をすべて使い切ってしまいます。
それ以降、上杉家伝来の家宝の武具や、高級調度品を抵当に、商人から借金を重ねるその場しのぎの藩財政が続きます。
遂には、前家臣の俸禄の半分を借り上げる”半知借上”を行うまでに藩は追い込まれていきました。
この時期の大名家はそのほとんどが借金に追われる状態でした。
幕府は大名を弱体化させるため、参勤交代や江戸藩邸の出費、お手伝い普請などを課し、諸藩の財力をはいでいました。
1753年、米沢藩は、お手伝い普請として、上野寛永寺・根本中堂を修復・・・費用約6万両。
最上川の氾濫で農地が荒廃・・・2年後に天候不順で宝暦の大飢饉・・・。
農村部では農民の逃亡が頻発し、50年前に藩の人口が13万5000人を越えていたが、10万人を割り込むまでになっていました。
藩の借金は、16万両・・・160億円にまで膨れ上がっていました。
返済不可能な規模となっていたのです。
米沢藩の家老たちは、藩財政は破たんし、これ以上藩の維持は困難であると、領地を公儀に返上することを藩主・重定に進言しています。
重定も、決意・・・親戚筋の尾張藩に説得され、危うく思いとどまるという前代未聞の事件を起こしています。
その4年後の1767年、上杉家の再興を託され、9代藩主となったのが上杉鷹山・・・17歳の新藩主でした。
1751年7月、上杉鷹山は九州・高鍋藩主の次男として生まれました。
1759年3月、鷹山9歳の時、大きな転機が訪れます。
米沢藩主・上杉重定の養子となることが決まり、翌年、上杉家上屋敷の桜田邸に移りました。
鷹山は、米沢藩4代藩主の孫にあたります。
8代藩主・重定に嫡子がなかったため、重定の娘・幸姫の婿として白羽の矢が立ったのです。
この時、高鍋藩の家老は、
「養家を継ぐからには、決して恥辱を残すようになってはならぬ
養家の作法に絶対違反することがないよう、生涯努力するように」と、鷹山に繰返し諭しています。
一方、鷹山を迎える米沢藩士は、
「上杉家の家風や家格、米沢藩の国情や人情を何一つ知らない小藩の末子を、名門たる上杉家の跡取りに据えたることは好ましくない」と、小藩から来る跡取りに不満を記しています。
そんな中、東寺江戸家老の竹俣当綱は、度々若君鷹山の部屋を訪れ、反の苦境を訴えています。
「御家の立つも立たざるも、お前様のお心ひとつ、十万人が苦しむも楽しむも、お前様の御心一つである」
米沢藩の現状を伝え、藩主となる鷹山にお家を再興する覚悟を持つように繰返し言い含めます。
1767年4月24日、17歳の鷹山は家督を継いで9代藩主に。
将軍にお目見えし、家臣に祝賀された鷹山は、国元・米沢に一通の書状を送っています。
主君として何をするのか??代々の墓がある白子神社に誓詞を奉納しています。
”贅沢はしない
民と共に倹約をして政治を進め、もし政治が上手くいかなかった場合は、どんな神罰でも被っても構いません”
神様と鷹山だけの間だけの約束・・・人知れずの誓いでした。
藩主となった鷹山は、江戸勤番の家臣たちを集めます。
玄奘に対する認識を伝え、改革の開始を表明します。
”大家から小家になったにもかかわらず、質素律儀の風も失われ”
さらに家臣からの半地借上を続ける現状を、藩主としての役割を果たせていないと家臣に詫びます。
そして、打ち出しただ対策の第一が・・・
①大倹約で出費を抑える
鷹山は、率先して倹約生活を行います。
着るものは木綿、奥女中も50人から9人に・・・。
食事は一汁一菜、藩主の経費は1/8近くに切り詰めました。
2年後の1769年10月、鷹山は、初めての国入りを果たします。
その行列は、従来の参勤交代の1/10の人数で行い、質素なものでした。
鷹山は、国入りするや藩内の改革に乗り出します。
藩復興の要となる「農業政策」を実行。
農村での代官の不正をただすため、世襲制を廃止、下級武士から能力のある者を登用します。
農民が逃亡し、荒れたまま残された田畑は、再度農民に分け与え、農業指導を行いました。
さらに、鷹山自ら農村の暮らしぶりを視察、藩主自らが田を耕す「籍田の礼」を行って農民を励ますなど、農村の復興を目指す態度を明らかにします。
さらに鷹山は、藩の経営状況を明らかにするため、1年ごとの収支明細書を作らせます。
②財政収支の明細を明らかに
しかし、改革を初めて5年後・・・
1772年江戸の大火で米沢藩の屋敷が消失・・・再建のため、借金が膨らみ、改革がとん挫するかに見えました。
この逆境下で、鷹山は、新たな改革を打ち出します。それまで農業や林業などに全く関わって来なかった藩士に伐採や開墾の手伝いを毎時他のです。
③藩士を土木作業に動員
藩士たちは、江戸屋敷復旧のため、山奥に分け入り1万本の材木を切り出します。
現場の指揮を執った奉行は・・・「人々の魂が洗われ、気力が奮い立つ初めての経験だった」と記しています。
鷹山自身も自ら美濃嵩に草鞋で作業現場に現れ、藩士たちに酒を勧めて慰労します。
家臣と苦楽を共にする姿勢を見せます。
これ以降、荒れ地の開墾や堤防建設、道や橋の普請に家臣たちが大規模動員され、のべ1万3000人の藩士が参加しました。
しかし、この鷹山の改革を苦々しく思っていた一団がありました。
これまで藩政を仕切ってきた名門の重臣たちです。
伊達政宗が滅ぼした会津の芦名氏の家臣や、武田信玄の息子もいました。
侍組という米沢藩の中では上級武士団に属していました。
上級武士団「侍組」は、謙信・景勝時代から仕える96家のことです。
家老職など要職を独占していました。
侍組は、よそから送られてきた藩主より、自分たちこそが藩を支えているという意識が強く、ことあるごとに鷹山に反発します。
ある重臣は、鷹山が家臣たちの修復した橋を馬を降り、感謝の気持ちを示しながらわたる様子を見て、
「見せかけの子供だましだ」と言い放ち、自分は贅沢な羽織姿で騎乗したまま橋を渡りました。
さらに、自分たちの子弟には、誇り高き武士のすることではないとお手伝い普請に参加することを禁じていました。
上杉家の今までの格式を壊してしまうのではないか・・・??
体面が保てないようにされていくのではないか・・・??
鷹山に対する危機意識があったのです。
鷹山が推し進める藩政改革・・・反発する侍組との戦いは、いよいよ抜き差しならない状態に・・・!!
1773年6月27日、明六つ・・・侍組の重臣7人が暴動を起こします。
重臣たちは早朝にもかかわらず、鷹山に拝謁を求め、7人の署名入りの訴状を提出したのです。
その時の訴状の写しが残されています。
訴状は、鷹山の藩政改革に強く異を唱えていました。
”第一に上様は媚びへつらう家臣に心惑わされ、国政を乱している”
”質素律儀の越後風に戻し、おとなしくなさるよう”
という苦言でした。
鷹山が行った支出を抑える倹約に関しては、一汁一菜や、木綿を着ることは小さなことにすぎず、籍田の礼もそのあとかえって天候が悪化し、大根の音が上がった、大凶作の前触れだとして、藩士を土木事業に参加させたことに関しては鹿を馬と見立てて使うようなものであり、国中十万人いれば九万九千人はこの改革に反対していると記しています。
重臣たちは、鷹山を軟禁することを辞さない勢いで、改革の中止を迫っていました。
累々と書き上げた40ヶ条以上・・・七家の人たちは、真剣にそう思っていました。
お諫めしてもとの形に、国持大名上杉家の格式に戻さなければいけないと思っていました。
それが、自分たちの忠義である・・・実際に非難しているけれど、それは忠義であって彼等にとってはなんら疑うことがないものでした。
実はこの時期、家臣が主君を押し込め、藩主から引き下ろす事件が頻発していました。
徳島藩主蜂須賀重喜が贅沢を禁じ藩政改革に取り組むが失敗、隠居。
岡崎藩主水野忠辰、改革を断行するも家臣によって軟禁、隠居・・・失意のうちに死去。
松江藩主松平宗衍は、財政悪化の責任を取らされ家督を譲り近居させられています。
幕府も藩を守るための家臣の行動に対しては寛容で、家臣の要望を受け入れることも多かったのです。
この日、鷹山に改革中止を迫る重臣たちは昼まで居座り、席を立とうとする鷹山の裾を握って引き止めさえしました。
鷹山は選択を迫られていました。
明け方から昼時まで、鷹山に改革中止を迫った重臣たち・・・
その後、全員が屋敷に籠り、鷹山の対応を伺いました。
記録によれば、2日後、鷹山は観察役である目付を呼び出し、まず訴状内容の真偽を問いただしています。
目付たちは・・・不正はなく、人心も離れていないと証言。
さらに鷹山は、郡奉行はじめ足軽頭まで家臣の多くを招集。
訴状にある改革中止が家臣全員の総意であるかを確認しています。
家臣たちはそれを否定し、全員が鷹山を支持。
改革を続けることを望んでいると伝えました。
翌日、騒動を起こした7人の重臣たち・・・2名は切腹・家名断絶、5名は蟄居閉門・知行没収の重罰に処されました。
鷹山は、家臣に訴えの真偽を確認して判断しました。
その後、藩の収支を示した「会計一円帳」を藩士全員に公開されます。
藩の経営状況を公開することで、改革に対する家臣の心を一つにまとめようとしたのです。
藩を一つにまとめた鷹山は・・・
④収入を増やす
政策を打ち出します。
荒れ地を整備し、広げた農地を下級武士の次男三男に与え、農村人口の増加を図ります。
さらに、特産品を作るため、ろうそくの原料(漆)、生糸の餌(桑)、和紙の原料(楮)を100万本植え、産業を振興させる計画を実行、官民あげて取り組んでいきます。
改革は、飢饉などで度々とん挫します。
期待された漆のろうそくも、ハゼを使った安い蝋燭が出回ると売れなくなり、成果を上げることはありませんでした。
最大の成果を上げたのは、米沢織です。
蚕から生糸を取るだけでなく、独自の製品にするため「先染め」「縮布」の技術を確立、家臣の妻や娘に織らせて特産品にしました。
生糸や絹織物は、やがて毎年4万両の収入を得るまでに成長していきます。
1822年、上杉鷹山死去・・・享年72歳。
鷹山は、改革にかけた人生をとげます。
鷹山が亡くなった翌年、米沢藩は借金16万両を完済。
さらに、5000両の蓄えができていました。
鷹山の改革で、米沢藩は見事自力再生を果たしたのです。
”為せば成る
為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり”
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そのこころは
上杉には金がないのですぐ抜ける”
この上杉とは、出羽邦・米沢藩のことです。
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米沢市上杉博物館には戦国から続く上杉家が残した”洛中洛外図屏風”や上杉家文書など貴重な資料が残されています。
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ここには、上杉家が幕府から特別な扱いを受けていた藩であると示されるものが描かれています。
馬の鞍にかぶせられている”虎皮鞍覆”と”大鳥毛馬印”です。
その外にも、漆塗りの筒に家紋と龍があしらわれた刀入れや、革製の覆いに金で家紋が描かれた鋏箱、屋外で茶をたてる道具の入った茶弁当を行列に同行させることを許されていました。
非常に広い領地をしはいする大名・・・国持大名という格でした。
国持大名とは、領地が一国以上ある大名を指します。
御三家に次ぐ格式で、18家のみに許された呼称でした。
加賀102万石の前田家、薩摩77万石の島津家、仙台62万石の伊達家など、名だたる国持大名の一つが米沢15万石の上杉家だったのです。
国持大名の中で、最も石高が低い米沢藩・・・それでも国持大名と呼ばれるには訳がありました。
米沢藩の藩主・上杉家は、戦国時代の名将・上杉謙信から続く名門。
もともとは、越後を領地とする大名でした。
謙信の跡を継いだ上杉景勝は、越中信濃へと領地を広げ、その後秀吉によって会津120万石の大大名、五大老となります。
1600年、関ケ原の合戦で、家康に敵対する西軍についたため、1/4の30万石に減封。
それでも景勝は、家臣を減らすことはせず、5000人の家臣団のほとんどを残しました。
通常、30万石であればおよそ1800人が適正な家臣数です。
上杉のルーツは、大化の改新の藤原鎌足にまでさかのぼる名門です。
徳川氏は新興・・・意識は高かったのです。
鉄砲づくりをやったり、軍道の整備をやったり、関ケ原の直後は、まだ戦う意識があったのではないか??と思われます。
この時、上杉家には、謙信時代に蓄えられた御貯金15万両(150億円)があり、関ケ原の戦いから50年たったころでも残されていました。
しかし、3代藩主・網勝が、後継ぎなく死亡・・・米沢藩は、おとり潰しの危機に・・・!!
幕府に働きかけ、高家・吉良家から養子をもらい4代藩主に。
所領は半分の15万石に減封、景勝時代の1/8になってしまいました。
新藩主となった藩主・綱憲は、実の父・吉良上野介のために吉良屋敷の新築費用や膨大な借金の肩代わりなど、多額の援助をしています。
さらに、莫大な費用を投じて豪華な大名行列を仕立てるようになり、米沢や上屋敷には能舞台を建設、派手で豪華な生活を続けました。
この頃、江戸藩邸の出費は、毎年2万5千両、御貯金15万両をすべて使い切ってしまいます。
それ以降、上杉家伝来の家宝の武具や、高級調度品を抵当に、商人から借金を重ねるその場しのぎの藩財政が続きます。
遂には、前家臣の俸禄の半分を借り上げる”半知借上”を行うまでに藩は追い込まれていきました。
この時期の大名家はそのほとんどが借金に追われる状態でした。
幕府は大名を弱体化させるため、参勤交代や江戸藩邸の出費、お手伝い普請などを課し、諸藩の財力をはいでいました。
1753年、米沢藩は、お手伝い普請として、上野寛永寺・根本中堂を修復・・・費用約6万両。
最上川の氾濫で農地が荒廃・・・2年後に天候不順で宝暦の大飢饉・・・。
農村部では農民の逃亡が頻発し、50年前に藩の人口が13万5000人を越えていたが、10万人を割り込むまでになっていました。
藩の借金は、16万両・・・160億円にまで膨れ上がっていました。
返済不可能な規模となっていたのです。
米沢藩の家老たちは、藩財政は破たんし、これ以上藩の維持は困難であると、領地を公儀に返上することを藩主・重定に進言しています。
重定も、決意・・・親戚筋の尾張藩に説得され、危うく思いとどまるという前代未聞の事件を起こしています。
その4年後の1767年、上杉家の再興を託され、9代藩主となったのが上杉鷹山・・・17歳の新藩主でした。
1751年7月、上杉鷹山は九州・高鍋藩主の次男として生まれました。
1759年3月、鷹山9歳の時、大きな転機が訪れます。
米沢藩主・上杉重定の養子となることが決まり、翌年、上杉家上屋敷の桜田邸に移りました。
鷹山は、米沢藩4代藩主の孫にあたります。
8代藩主・重定に嫡子がなかったため、重定の娘・幸姫の婿として白羽の矢が立ったのです。
この時、高鍋藩の家老は、
「養家を継ぐからには、決して恥辱を残すようになってはならぬ
養家の作法に絶対違反することがないよう、生涯努力するように」と、鷹山に繰返し諭しています。
一方、鷹山を迎える米沢藩士は、
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そんな中、東寺江戸家老の竹俣当綱は、度々若君鷹山の部屋を訪れ、反の苦境を訴えています。
「御家の立つも立たざるも、お前様のお心ひとつ、十万人が苦しむも楽しむも、お前様の御心一つである」
米沢藩の現状を伝え、藩主となる鷹山にお家を再興する覚悟を持つように繰返し言い含めます。
1767年4月24日、17歳の鷹山は家督を継いで9代藩主に。
将軍にお目見えし、家臣に祝賀された鷹山は、国元・米沢に一通の書状を送っています。
主君として何をするのか??代々の墓がある白子神社に誓詞を奉納しています。
”贅沢はしない
民と共に倹約をして政治を進め、もし政治が上手くいかなかった場合は、どんな神罰でも被っても構いません”
神様と鷹山だけの間だけの約束・・・人知れずの誓いでした。
藩主となった鷹山は、江戸勤番の家臣たちを集めます。
玄奘に対する認識を伝え、改革の開始を表明します。
”大家から小家になったにもかかわらず、質素律儀の風も失われ”
さらに家臣からの半地借上を続ける現状を、藩主としての役割を果たせていないと家臣に詫びます。
そして、打ち出しただ対策の第一が・・・
①大倹約で出費を抑える
鷹山は、率先して倹約生活を行います。
着るものは木綿、奥女中も50人から9人に・・・。
食事は一汁一菜、藩主の経費は1/8近くに切り詰めました。
2年後の1769年10月、鷹山は、初めての国入りを果たします。
その行列は、従来の参勤交代の1/10の人数で行い、質素なものでした。
鷹山は、国入りするや藩内の改革に乗り出します。
藩復興の要となる「農業政策」を実行。
農村での代官の不正をただすため、世襲制を廃止、下級武士から能力のある者を登用します。
農民が逃亡し、荒れたまま残された田畑は、再度農民に分け与え、農業指導を行いました。
さらに、鷹山自ら農村の暮らしぶりを視察、藩主自らが田を耕す「籍田の礼」を行って農民を励ますなど、農村の復興を目指す態度を明らかにします。
さらに鷹山は、藩の経営状況を明らかにするため、1年ごとの収支明細書を作らせます。
②財政収支の明細を明らかに
しかし、改革を初めて5年後・・・
1772年江戸の大火で米沢藩の屋敷が消失・・・再建のため、借金が膨らみ、改革がとん挫するかに見えました。
この逆境下で、鷹山は、新たな改革を打ち出します。それまで農業や林業などに全く関わって来なかった藩士に伐採や開墾の手伝いを毎時他のです。
③藩士を土木作業に動員
藩士たちは、江戸屋敷復旧のため、山奥に分け入り1万本の材木を切り出します。
現場の指揮を執った奉行は・・・「人々の魂が洗われ、気力が奮い立つ初めての経験だった」と記しています。
鷹山自身も自ら美濃嵩に草鞋で作業現場に現れ、藩士たちに酒を勧めて慰労します。
家臣と苦楽を共にする姿勢を見せます。
これ以降、荒れ地の開墾や堤防建設、道や橋の普請に家臣たちが大規模動員され、のべ1万3000人の藩士が参加しました。
しかし、この鷹山の改革を苦々しく思っていた一団がありました。
これまで藩政を仕切ってきた名門の重臣たちです。
伊達政宗が滅ぼした会津の芦名氏の家臣や、武田信玄の息子もいました。
侍組という米沢藩の中では上級武士団に属していました。
上級武士団「侍組」は、謙信・景勝時代から仕える96家のことです。
家老職など要職を独占していました。
侍組は、よそから送られてきた藩主より、自分たちこそが藩を支えているという意識が強く、ことあるごとに鷹山に反発します。
ある重臣は、鷹山が家臣たちの修復した橋を馬を降り、感謝の気持ちを示しながらわたる様子を見て、
「見せかけの子供だましだ」と言い放ち、自分は贅沢な羽織姿で騎乗したまま橋を渡りました。
さらに、自分たちの子弟には、誇り高き武士のすることではないとお手伝い普請に参加することを禁じていました。
上杉家の今までの格式を壊してしまうのではないか・・・??
体面が保てないようにされていくのではないか・・・??
鷹山に対する危機意識があったのです。
鷹山が推し進める藩政改革・・・反発する侍組との戦いは、いよいよ抜き差しならない状態に・・・!!
1773年6月27日、明六つ・・・侍組の重臣7人が暴動を起こします。
重臣たちは早朝にもかかわらず、鷹山に拝謁を求め、7人の署名入りの訴状を提出したのです。
その時の訴状の写しが残されています。
訴状は、鷹山の藩政改革に強く異を唱えていました。
”第一に上様は媚びへつらう家臣に心惑わされ、国政を乱している”
”質素律儀の越後風に戻し、おとなしくなさるよう”
という苦言でした。
鷹山が行った支出を抑える倹約に関しては、一汁一菜や、木綿を着ることは小さなことにすぎず、籍田の礼もそのあとかえって天候が悪化し、大根の音が上がった、大凶作の前触れだとして、藩士を土木事業に参加させたことに関しては鹿を馬と見立てて使うようなものであり、国中十万人いれば九万九千人はこの改革に反対していると記しています。
重臣たちは、鷹山を軟禁することを辞さない勢いで、改革の中止を迫っていました。
累々と書き上げた40ヶ条以上・・・七家の人たちは、真剣にそう思っていました。
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実はこの時期、家臣が主君を押し込め、藩主から引き下ろす事件が頻発していました。
徳島藩主蜂須賀重喜が贅沢を禁じ藩政改革に取り組むが失敗、隠居。
岡崎藩主水野忠辰、改革を断行するも家臣によって軟禁、隠居・・・失意のうちに死去。
松江藩主松平宗衍は、財政悪化の責任を取らされ家督を譲り近居させられています。
幕府も藩を守るための家臣の行動に対しては寛容で、家臣の要望を受け入れることも多かったのです。
この日、鷹山に改革中止を迫る重臣たちは昼まで居座り、席を立とうとする鷹山の裾を握って引き止めさえしました。
鷹山は選択を迫られていました。
明け方から昼時まで、鷹山に改革中止を迫った重臣たち・・・
その後、全員が屋敷に籠り、鷹山の対応を伺いました。
記録によれば、2日後、鷹山は観察役である目付を呼び出し、まず訴状内容の真偽を問いただしています。
目付たちは・・・不正はなく、人心も離れていないと証言。
さらに鷹山は、郡奉行はじめ足軽頭まで家臣の多くを招集。
訴状にある改革中止が家臣全員の総意であるかを確認しています。
家臣たちはそれを否定し、全員が鷹山を支持。
改革を続けることを望んでいると伝えました。
翌日、騒動を起こした7人の重臣たち・・・2名は切腹・家名断絶、5名は蟄居閉門・知行没収の重罰に処されました。
鷹山は、家臣に訴えの真偽を確認して判断しました。
その後、藩の収支を示した「会計一円帳」を藩士全員に公開されます。
藩の経営状況を公開することで、改革に対する家臣の心を一つにまとめようとしたのです。
藩を一つにまとめた鷹山は・・・
④収入を増やす
政策を打ち出します。
荒れ地を整備し、広げた農地を下級武士の次男三男に与え、農村人口の増加を図ります。
さらに、特産品を作るため、ろうそくの原料(漆)、生糸の餌(桑)、和紙の原料(楮)を100万本植え、産業を振興させる計画を実行、官民あげて取り組んでいきます。
改革は、飢饉などで度々とん挫します。
期待された漆のろうそくも、ハゼを使った安い蝋燭が出回ると売れなくなり、成果を上げることはありませんでした。
最大の成果を上げたのは、米沢織です。
蚕から生糸を取るだけでなく、独自の製品にするため「先染め」「縮布」の技術を確立、家臣の妻や娘に織らせて特産品にしました。
生糸や絹織物は、やがて毎年4万両の収入を得るまでに成長していきます。
1822年、上杉鷹山死去・・・享年72歳。
鷹山は、改革にかけた人生をとげます。
鷹山が亡くなった翌年、米沢藩は借金16万両を完済。
さらに、5000両の蓄えができていました。
鷹山の改革で、米沢藩は見事自力再生を果たしたのです。
”為せば成る
為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり”
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