日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:上杉鷹山

江戸に幕府が開かれて150年ほどたったころ・・・
巷では奇妙なおまじないが流行っていました。

”新しい鍋釜から金気を抜くには上杉と書いた札を貼るといい
  そのこころは
    上杉には金がないのですぐ抜ける”

この上杉とは、出羽邦・米沢藩のことです。
16万両ともいわれる借金を抱え、破産状態でした。
一時は幕府に領地返上を決断するまでに追い詰められていました。
この時、米沢藩を引き継いだのが、若き藩主・上杉鷹山でした。
類まれなリーダーシップで、財政を立て直した江戸時代屈指の名君です。

全一冊 小説 上杉鷹山 (集英社文庫)

新品価格
¥880から
(2021/10/1 21:54時点)


江戸時代には出羽国と呼ばれた山形県米沢市。
米沢市上杉博物館には戦国から続く上杉家が残した”洛中洛外図屏風”や上杉家文書など貴重な資料が残されています。
その中の一つが・・・江戸時代中期ごろの米沢藩の参勤交代行列を描いた絵・・・
ここには、上杉家が幕府から特別な扱いを受けていた藩であると示されるものが描かれています。
馬の鞍にかぶせられている”虎皮鞍覆”と”大鳥毛馬印”です。
その外にも、漆塗りの筒に家紋と龍があしらわれた刀入れや、革製の覆いに金で家紋が描かれた鋏箱、屋外で茶をたてる道具の入った茶弁当を行列に同行させることを許されていました。
非常に広い領地をしはいする大名・・・国持大名という格でした。

国持大名とは、領地が一国以上ある大名を指します。
御三家に次ぐ格式で、18家のみに許された呼称でした。
加賀102万石の前田家、薩摩77万石の島津家、仙台62万石の伊達家など、名だたる国持大名の一つが米沢15万石の上杉家だったのです。
国持大名の中で、最も石高が低い米沢藩・・・それでも国持大名と呼ばれるには訳がありました。
米沢藩の藩主・上杉家は、戦国時代の名将・上杉謙信から続く名門。
もともとは、越後を領地とする大名でした。
謙信の跡を継いだ上杉景勝は、越中信濃へと領地を広げ、その後秀吉によって会津120万石の大大名、五大老となります。

1600年、関ケ原の合戦で、家康に敵対する西軍についたため、1/4の30万石に減封。
それでも景勝は、家臣を減らすことはせず、5000人の家臣団のほとんどを残しました。
通常、30万石であればおよそ1800人が適正な家臣数です。
上杉のルーツは、大化の改新の藤原鎌足にまでさかのぼる名門です。
徳川氏は新興・・・意識は高かったのです。
鉄砲づくりをやったり、軍道の整備をやったり、関ケ原の直後は、まだ戦う意識があったのではないか??と思われます。
この時、上杉家には、謙信時代に蓄えられた御貯金15万両(150億円)があり、関ケ原の戦いから50年たったころでも残されていました。
しかし、3代藩主・網勝が、後継ぎなく死亡・・・米沢藩は、おとり潰しの危機に・・・!!
幕府に働きかけ、高家・吉良家から養子をもらい4代藩主に。
所領は半分の15万石に減封、景勝時代の1/8になってしまいました。

新藩主となった藩主・綱憲は、実の父・吉良上野介のために吉良屋敷の新築費用や膨大な借金の肩代わりなど、多額の援助をしています。
さらに、莫大な費用を投じて豪華な大名行列を仕立てるようになり、米沢や上屋敷には能舞台を建設、派手で豪華な生活を続けました。
この頃、江戸藩邸の出費は、毎年2万5千両、御貯金15万両をすべて使い切ってしまいます。
それ以降、上杉家伝来の家宝の武具や、高級調度品を抵当に、商人から借金を重ねるその場しのぎの藩財政が続きます。
遂には、前家臣の俸禄の半分を借り上げる”半知借上”を行うまでに藩は追い込まれていきました。

この時期の大名家はそのほとんどが借金に追われる状態でした。
幕府は大名を弱体化させるため、参勤交代や江戸藩邸の出費、お手伝い普請などを課し、諸藩の財力をはいでいました。

1753年、米沢藩は、お手伝い普請として、上野寛永寺・根本中堂を修復・・・費用約6万両。
最上川の氾濫で農地が荒廃・・・2年後に天候不順で宝暦の大飢饉・・・。
農村部では農民の逃亡が頻発し、50年前に藩の人口が13万5000人を越えていたが、10万人を割り込むまでになっていました。
藩の借金は、16万両・・・160億円にまで膨れ上がっていました。
返済不可能な規模となっていたのです。
米沢藩の家老たちは、藩財政は破たんし、これ以上藩の維持は困難であると、領地を公儀に返上することを藩主・重定に進言しています。
重定も、決意・・・親戚筋の尾張藩に説得され、危うく思いとどまるという前代未聞の事件を起こしています。
その4年後の1767年、上杉家の再興を託され、9代藩主となったのが上杉鷹山・・・17歳の新藩主でした。

1751年7月、上杉鷹山は九州・高鍋藩主の次男として生まれました。
1759年3月、鷹山9歳の時、大きな転機が訪れます。
米沢藩主・上杉重定の養子となることが決まり、翌年、上杉家上屋敷の桜田邸に移りました。
鷹山は、米沢藩4代藩主の孫にあたります。
8代藩主・重定に嫡子がなかったため、重定の娘・幸姫の婿として白羽の矢が立ったのです。
この時、高鍋藩の家老は、
「養家を継ぐからには、決して恥辱を残すようになってはならぬ
 養家の作法に絶対違反することがないよう、生涯努力するように」と、鷹山に繰返し諭しています。

一方、鷹山を迎える米沢藩士は、
「上杉家の家風や家格、米沢藩の国情や人情を何一つ知らない小藩の末子を、名門たる上杉家の跡取りに据えたることは好ましくない」と、小藩から来る跡取りに不満を記しています。

上杉鷹山の経営学 危機を乗り切るリーダーの条件 (PHP文庫)

新品価格
¥460から
(2021/10/1 21:55時点)


そんな中、東寺江戸家老の竹俣当綱は、度々若君鷹山の部屋を訪れ、反の苦境を訴えています。
「御家の立つも立たざるも、お前様のお心ひとつ、十万人が苦しむも楽しむも、お前様の御心一つである」

米沢藩の現状を伝え、藩主となる鷹山にお家を再興する覚悟を持つように繰返し言い含めます。

1767年4月24日、17歳の鷹山は家督を継いで9代藩主に。
将軍にお目見えし、家臣に祝賀された鷹山は、国元・米沢に一通の書状を送っています。
主君として何をするのか??代々の墓がある白子神社に誓詞を奉納しています。

”贅沢はしない
 民と共に倹約をして政治を進め、もし政治が上手くいかなかった場合は、どんな神罰でも被っても構いません”

神様と鷹山だけの間だけの約束・・・人知れずの誓いでした。

藩主となった鷹山は、江戸勤番の家臣たちを集めます。
玄奘に対する認識を伝え、改革の開始を表明します。

”大家から小家になったにもかかわらず、質素律儀の風も失われ”

さらに家臣からの半地借上を続ける現状を、藩主としての役割を果たせていないと家臣に詫びます。
そして、打ち出しただ対策の第一が・・・

①大倹約で出費を抑える

鷹山は、率先して倹約生活を行います。
着るものは木綿、奥女中も50人から9人に・・・。
食事は一汁一菜、藩主の経費は1/8近くに切り詰めました。
2年後の1769年10月、鷹山は、初めての国入りを果たします。
その行列は、従来の参勤交代の1/10の人数で行い、質素なものでした。
鷹山は、国入りするや藩内の改革に乗り出します。
藩復興の要となる「農業政策」を実行。
農村での代官の不正をただすため、世襲制を廃止、下級武士から能力のある者を登用します。
農民が逃亡し、荒れたまま残された田畑は、再度農民に分け与え、農業指導を行いました。
さらに、鷹山自ら農村の暮らしぶりを視察、藩主自らが田を耕す「籍田の礼」を行って農民を励ますなど、農村の復興を目指す態度を明らかにします。

さらに鷹山は、藩の経営状況を明らかにするため、1年ごとの収支明細書を作らせます。

②財政収支の明細を明らかに

しかし、改革を初めて5年後・・・
1772年江戸の大火で米沢藩の屋敷が消失・・・再建のため、借金が膨らみ、改革がとん挫するかに見えました。
この逆境下で、鷹山は、新たな改革を打ち出します。それまで農業や林業などに全く関わって来なかった藩士に伐採や開墾の手伝いを毎時他のです。

③藩士を土木作業に動員

藩士たちは、江戸屋敷復旧のため、山奥に分け入り1万本の材木を切り出します。
現場の指揮を執った奉行は・・・「人々の魂が洗われ、気力が奮い立つ初めての経験だった」と記しています。
鷹山自身も自ら美濃嵩に草鞋で作業現場に現れ、藩士たちに酒を勧めて慰労します。
家臣と苦楽を共にする姿勢を見せます。
これ以降、荒れ地の開墾や堤防建設、道や橋の普請に家臣たちが大規模動員され、のべ1万3000人の藩士が参加しました。

しかし、この鷹山の改革を苦々しく思っていた一団がありました。
これまで藩政を仕切ってきた名門の重臣たちです。
伊達政宗が滅ぼした会津の芦名氏の家臣や、武田信玄の息子もいました。
侍組という米沢藩の中では上級武士団に属していました。
上級武士団「侍組」は、謙信・景勝時代から仕える96家のことです。
家老職など要職を独占していました。
侍組は、よそから送られてきた藩主より、自分たちこそが藩を支えているという意識が強く、ことあるごとに鷹山に反発します。

ある重臣は、鷹山が家臣たちの修復した橋を馬を降り、感謝の気持ちを示しながらわたる様子を見て、
「見せかけの子供だましだ」と言い放ち、自分は贅沢な羽織姿で騎乗したまま橋を渡りました。
さらに、自分たちの子弟には、誇り高き武士のすることではないとお手伝い普請に参加することを禁じていました。
上杉家の今までの格式を壊してしまうのではないか・・・??
体面が保てないようにされていくのではないか・・・??
鷹山に対する危機意識があったのです。

鷹山が推し進める藩政改革・・・反発する侍組との戦いは、いよいよ抜き差しならない状態に・・・!!

1773年6月27日、明六つ・・・侍組の重臣7人が暴動を起こします。
重臣たちは早朝にもかかわらず、鷹山に拝謁を求め、7人の署名入りの訴状を提出したのです。
その時の訴状の写しが残されています。
訴状は、鷹山の藩政改革に強く異を唱えていました。

”第一に上様は媚びへつらう家臣に心惑わされ、国政を乱している”
”質素律儀の越後風に戻し、おとなしくなさるよう”

という苦言でした。
鷹山が行った支出を抑える倹約に関しては、一汁一菜や、木綿を着ることは小さなことにすぎず、籍田の礼もそのあとかえって天候が悪化し、大根の音が上がった、大凶作の前触れだとして、藩士を土木事業に参加させたことに関しては鹿を馬と見立てて使うようなものであり、国中十万人いれば九万九千人はこの改革に反対していると記しています。
重臣たちは、鷹山を軟禁することを辞さない勢いで、改革の中止を迫っていました。

累々と書き上げた40ヶ条以上・・・七家の人たちは、真剣にそう思っていました。
お諫めしてもとの形に、国持大名上杉家の格式に戻さなければいけないと思っていました。
それが、自分たちの忠義である・・・実際に非難しているけれど、それは忠義であって彼等にとってはなんら疑うことがないものでした。

上杉鷹山とイノベーション経営

新品価格
¥2,090から
(2021/10/1 21:55時点)


実はこの時期、家臣が主君を押し込め、藩主から引き下ろす事件が頻発していました。
徳島藩主蜂須賀重喜が贅沢を禁じ藩政改革に取り組むが失敗、隠居。
岡崎藩主水野忠辰、改革を断行するも家臣によって軟禁、隠居・・・失意のうちに死去。
松江藩主松平宗衍は、財政悪化の責任を取らされ家督を譲り近居させられています。
幕府も藩を守るための家臣の行動に対しては寛容で、家臣の要望を受け入れることも多かったのです。
この日、鷹山に改革中止を迫る重臣たちは昼まで居座り、席を立とうとする鷹山の裾を握って引き止めさえしました。

鷹山は選択を迫られていました。

明け方から昼時まで、鷹山に改革中止を迫った重臣たち・・・
その後、全員が屋敷に籠り、鷹山の対応を伺いました。
記録によれば、2日後、鷹山は観察役である目付を呼び出し、まず訴状内容の真偽を問いただしています。
目付たちは・・・不正はなく、人心も離れていないと証言。
さらに鷹山は、郡奉行はじめ足軽頭まで家臣の多くを招集。
訴状にある改革中止が家臣全員の総意であるかを確認しています。
家臣たちはそれを否定し、全員が鷹山を支持。
改革を続けることを望んでいると伝えました。
翌日、騒動を起こした7人の重臣たち・・・2名は切腹・家名断絶、5名は蟄居閉門・知行没収の重罰に処されました。
鷹山は、家臣に訴えの真偽を確認して判断しました。

その後、藩の収支を示した「会計一円帳」を藩士全員に公開されます。
藩の経営状況を公開することで、改革に対する家臣の心を一つにまとめようとしたのです。

藩を一つにまとめた鷹山は・・・
④収入を増やす
政策を打ち出します。
荒れ地を整備し、広げた農地を下級武士の次男三男に与え、農村人口の増加を図ります。
さらに、特産品を作るため、ろうそくの原料(漆)、生糸の餌(桑)、和紙の原料(楮)を100万本植え、産業を振興させる計画を実行、官民あげて取り組んでいきます。
改革は、飢饉などで度々とん挫します。
期待された漆のろうそくも、ハゼを使った安い蝋燭が出回ると売れなくなり、成果を上げることはありませんでした。
最大の成果を上げたのは、米沢織です。
蚕から生糸を取るだけでなく、独自の製品にするため「先染め」「縮布」の技術を確立、家臣の妻や娘に織らせて特産品にしました。
生糸や絹織物は、やがて毎年4万両の収入を得るまでに成長していきます。

1822年、上杉鷹山死去・・・享年72歳。
鷹山は、改革にかけた人生をとげます。
鷹山が亡くなった翌年、米沢藩は借金16万両を完済。
さらに、5000両の蓄えができていました。
鷹山の改革で、米沢藩は見事自力再生を果たしたのです。

”為せば成る
 為さねば成らぬ何事も
  成らぬは人の為さぬなりけり”

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

1961年、アメリカが州国第35代大統領ジョン・F・ケネディは、日本人記者から「尊敬する日本の政治家はいますか」と聞かれてこう答えたといいます。
「YOUZAN UESUGI」
江戸時代中期の大名で、東北米沢藩中興の祖と称えられる、名君・9代藩主・上杉鷹山のことです。

「なせば成る
   なさねば成らぬ
  何事も
 成らぬは人の
     なさぬなりけり」

この有名な言葉を残したのが、上杉鷹山です。

山形県の南東部に位置する米沢市・・・
戦国の雄・上杉謙信を藩祖とする米沢藩の城下町として、古くから栄えてきました。
しかし、上杉鷹山が藩主となった頃には、莫大な借金を抱えた超貧乏藩となっていました。
一体、どうして??

原因①名家のプライド
藩祖である謙信の跡を継いだのは、謙信の養子の景勝・・・会津120万石の大大名でした。
ところが、関ケ原の戦いで西軍につき、徳川家康を敵に回したことで、米沢30万石に減封されてしまいました。
さらに、三代藩主・綱勝が26歳で急死・・・生前に後継者を決めていませんでした。
それが幕府のおとがめとなり、領地の半分を没収されてしまいました。
それでも米沢藩は、一切リストラを行わず、120万石の頃の家臣(約5000人)を維持し続けていました。
実際、5000人の家臣の人件費は、13万3000石と、全国高の9割近くに及び、藩の財政を圧迫していました。
それでも家臣を減らさなかったのは・・・?
歴史と伝統のある藩で、歴代藩主は従四位上・少将という格式の高い家柄でした。
その名門としてのプライドが、家臣を削減することを許さなかったのです。
また、「義」を重んじた上杉謙信の精神を受け継いでいるため、家臣を簡単に切り捨てることが出来なかったのです。

対面や格式へのこだわり・・・
費用のかさむ儀式や、他藩との付き合いを一切やめようとせず、当然財政悪化の原因となりました。

[完全版]上杉鷹山 [ 童門 冬二 ]

価格:4,180円
(2020/11/22 08:19時点)
感想(1件)



原因②藩主の悪政
後継者を決めずに綱勝が急死・・・上杉家の家督を継いだのは、忠臣蔵でお馴染み吉良上野介の息子・上杉綱憲でした。
母親が綱勝の妹だったことから、綱憲は4代藩主となりました。
しかし、吉良上野介は綱憲の後見人でした。
米沢藩士たちから軽く見られないように金の出し惜しみはするなと指示!!
その為、綱憲は、能に興じるなど派手にお金を使い、藩施設の新築、寺院への寄付の増額、役人の増員など、バラマキ政策を実施、さらには吉良家の借金6千両を上杉家が肩代わりしました。

こうした浪費によって、米沢藩の蓄えは、底をつき、ついに財政赤字に転落!!
江戸や大坂の豪商から借金をするも、一時しのぎ・・・
返す当てもないため、財政は悪化の一途をたどります。
8代藩主・重定の時代には、借金総額16万両!!160億円にまで達してしまいました。
こうして米沢藩は、名門としての高いプライドと、藩主の悪政によって、多額の借金を抱えてしまったのです。

そして、そのツケを払わされたのが農民たちでした。
重税に耐え切れず、多くの農民が逃亡・・・
藩士たちも、給料の半分を藩に貸すという半知借上を行ったことで、武器や武具を売り払わなければならなくなるという生活苦に陥りました。
それでも、財政は一向に回復せずに破たん寸前・・・

すると重定は・・・「領地をお上に返上する」と言い出しました。
義理の父・尾張藩主徳川宗勝の説得で、領地返上は思いとどまります。
しかし、隠居・・・
その後を継いで、ひっ迫する米沢藩の9代藩主となったのが、上杉鷹山でした。
しかし、鷹山は、上杉家の生まれではありません。
鷹山は、1751年7月20日、日向国高鍋藩6代藩主・秋月種美の次男として江戸藩邸で生まれました。
米沢藩8代藩主・重定の養子となったのは、10歳の時でした。
祖母が、上杉家の出身で、まだ跡取りがいなかった重定に・・・

「松三郎(鷹山)は、利発な孝行者で、遊び方も普通の子供とは違います
 周囲の人々もその才能には驚いています」

と、推挙したのが決め手でした。
こうして上杉家に入った松三郎は、直丸と改め、2歳年下の重定の娘・幸姫と婚約。
儒学者の細井平洲に師事するようになると、勤勉な直丸は寝食を忘れて学問に没頭することも多かったといいます。

「為政者は民の父母たれ」by細井平洲

主君としての心得を鷹山にときます。
それに対して、鷹山は、涙を流して感銘を受け、平洲を生涯の師として慕いました。
領民を慈しむ父母のような藩主となれという死の言葉を胸に、名を治憲と改めて1767年9代藩主となります。
江戸藩邸で家督を継いだのは、17歳の時でした。

9代藩主となった鷹山は、使いの者を通じ、春日神社に誓いの言葉を奉納しています。

「文武に励み
 民の父母の気持ちを第一とし 
 質素倹約を忘れず
 言動を一致させ 
 賞罰を正しくし
 不順や無礼がないようにします」

また、白子神社には、内密に奉納されたため、明治時代まで発見されなかったもう一つの誓いの言葉が・・・
そこには、17歳の若き鷹山の強い決意が記されていました。

「年々国家が衰えて
 民が苦しんでいるので
 大倹約を行って
 再興したいと願っています
 もし怠るようなことがあれば
 すぐに神罰を与えてください」

鷹山がリストラをしなかった理由とは・・・??

リストラをすると、解雇された家臣達が行き場を失います。
浪人となることで、藩の治安が乱れたり、藩の悪評が幕府に伝わることを避けたのです。

財政破たん寸前の米沢藩の藩主となった鷹山は、参勤交代でいた江戸で改革に取り掛かります。
まず行ったのが倹約です。

藩政改革①倹約奨励
1767年藩主となったその年に、江戸詰めの家臣達に大倹約令の発令をします。
藩の支出を抑えるために、食事は一汁一菜を基本とし、着物は木綿の着物を。
もちろん鷹山もそうでした。
藩主である鷹山自身の江戸での生活費を、1500両から209両にまで減らしました。

「してみせて  
   言って聞かせて
        させてみる」

鷹山は、常にこう言い、まずは自分からしてみせることで家臣たちに倹約を促していきました。
そしてこの大倹約令を書面にまとめ、米沢にも発布して、藩財政の見直しを命じました。

それから2年・・・1769年冬、参勤交代を終えた鷹山は、初めて米沢に入ることとなります。
藩主の初のお国入りは、一世一代の晴れ舞台ですが・・・倹約を進める鷹山の行列は短く、装いもみな木綿の着物でした。
その道中でのこと・・・米沢領内の板谷宿で・・・思いもよらない光景に愕然とします。
その日の食べ物にも困った民衆が、フラフラになりながら家財を売り歩いていたのです。
宿も泊まれる状態ではなく、その日は野宿・・・大名が野宿とは、通常ではありえませんが、鷹山たちは、焚火と酒でなんとか寒さを耐え忍んだといいます。

「国元の改革はどうなっているのだ・・・!!」

そして翌日、米沢城に入った鷹山は、2年前に発令した大倹約令が全く実行されていなかったことを悟ります。
出迎えた重臣たちの高価な絹の着物・・・!!
家臣達には、「何も知らない若造に勝手にされてたまるか!!」という反発がありました。
上杉家の家臣のプライドが、倹約を受け入れていなかったのです。
鷹山は、すぐさま国元米沢での改革に取り掛かりました。

藩政改革②農業再生
米沢では、長年にわたる過酷な重税で、農民たちが疲弊し、作物の収穫量も激減していました。
そこで、鷹山は農民たちが意欲的に働けるよう、孟孫の環境整備を始めました。
郷村教導出役という役職を新設し、領内12カ所の農村に住まわせ、農民たちの生活保護や、農業指導を行わせました。
鷹山は、郷村教導出役から常に農村の状況を聞き、現状を把握するように努めます。
また、自らの生活費から養育費を捻出して出産を奨励。
15歳以下の子供が5人以上いる家庭に養育費を支給します。

1772年「籍田の礼」を実施
鷹山自らが鍬をもって田を耕しました。
すると、これに触発されて、藩士たちも次第に農作業を行うようになり、2年間で18万坪(東京ドーム13個分)が新たに開墾されました。
藩の財政悪化の要因となっていた藩士たちで開墾する・・・余剰の労働力を、農業に振り分けたのです。
意識の変わった藩士たちは、橋の架け替えなど公共事業にも精を出すようになりました。
鷹山は、気配りの人で、身分を問わず誰にでも丁寧な態度を崩さなかったといいます。

さらに鷹山は、90歳以上の長寿者を殿中に招いて表彰したり、身内に病人がいる者に介護休暇を与えたり、と、福祉にも力を注ぎました。
まさに、名君だった鷹山・・・しかし、慣例にとらわれない鷹山の改革にいまだ強く反発する者もいました。
伝統と格式を重んじる保守派の重臣たちです。
1773年6月、その不満がついに爆発します。
江戸家老の須田満主・芋川延親・千坂高敦・色部照長・長尾景明・清野祐秀・平林正在・・・米沢城にいる鷹山に詰め寄り訴状を叩きつけたのです。
世にいう七家騒動です。
訴状には、鷹山の改革を批判する言葉が45ヶ条に渡って記されていて、特に武士に農業を勧めたことについては
「鹿を馬とするような馬鹿げた行いだ!!」
と激しく口論!!
そして鷹山の側近が政治をし放題なので、即刻辞めさせろと迫りました。
鷹山は、後程返答すると言って部屋から出ようとしましたが、袴の裾を掴まれて、なんと4時間近くも軟禁されてしまいました。
鷹山は、近習の助けによって部屋を抜け出して、前藩主の重定に助けを求めました。
重定は、「何たる無礼!!」と、重臣たちを叱責し、ようやく終わりました。
そして、その後、鷹山が訴状の内容をチェックすると、中身はデタラメでした。
訴状には、武士に農業をさせたため、農作物の値が高騰したと記されていましたが、実際は長雨のためだったなど、デタラメなことが多かったのです。

事件の3日後、鷹山は須田満主・芋川延親に切腹を言い渡し、残りの5名は、隠居・閉門という厳しい処罰をしました。
しかし、騒動の2年後、鷹山は5人の重臣の閉門をといています。
きびしい処罰を下したのは改革を断行するという強い意志を家臣たちにみせるためでしたが、鬼になり切れなかったのです。
それに、5人は藩の重職だったため、人材を失いたくないと思ったのです。

強い意志をもって改革を進める鷹山には、ある信念がありました。
それは、「人づくりは国づくり」だということ。

藩政改革③人材育成
1776年、人材育成の学問所・興譲館を設立
そして、その講師として終生の師と仰ぐ細井平洲を招致しました。
その報酬は、100両分・・・今のお金で1000万円です!!
当然、批判の声が上がりました。
平洲を切り捨てると息巻く藩士が現れましたが、それでも鷹山は、平洲を呼び寄せます。

平洲の招へいというのは、鷹山にとって先行投資でした。
知識を得るだけの学問ではなく、実際に社会の役に立つ実学を重んじる・・・藩士たちに深い感銘を与え、人民のために、藩のためにという優秀な官僚たちの育成に大いに役立ちました。
鷹山は、財政難にあっても未来を担う人材の育成には資金を投入すべきと考え、学費を払えない下級武士には奨学金を与えていました。
その結果、興譲館からは優れた人材が数多く輩出され、鷹山の改革に大きな力となっていったのです。

参勤交代で、江戸にいなくてはならないこともありました。
そこで、鷹山が国元での改革を託したのが、2人の側近・・・莅戸善政・竹俣当綱でした。
なかでも竹俣は、新田開発や工場間の設立に尽力した改革の最大の功労者でした。
鷹山も全幅の信頼を寄せていましたが・・・
1782年、鷹山のもとに告発状が届きます。

「8月12日、領内の見回りを終えた竹俣は、豪農の家で接待を受け、翌朝まで酒宴に興じていた」

財政改革の中心人物が翌朝まで酒宴に興じていただけでも問題ですが、朝を迎えた13日は、藩祖・上杉謙信の月命日で、酒宴自体が禁じられていたのです。
さらに、告発状には公費の私的流用が記されていました。
鷹山のショックは非常に大きいものでした。

竹俣を失えば、改革は失速する・・・!!

しかし、鷹山は心を鬼にして、隠居・自宅での禁固という重い処罰をします。
大きな戦力を失った鷹山を更なる試練が襲います。
浅間山の大噴火に伴う大飢饉が起こるのです。
天明の大飢饉でした。
放出された火山灰が、太陽の光を遮ったことで、農作物の収穫量が激減し、各地で餓死する者が続出・・・
米沢藩は、領民に籾を備蓄させていたため、餓死者こそほとんど出なかったものの、農作物の被害額は11万石相当・・・
田畑は荒れ果て、鷹山が改革を行う以前の最悪の状態に逆戻りしてしまいました。
そんな中、もう一人の側近莅戸善政が突如隠居を願い出ます。
鷹山が慰留するも、莅戸の決意は固く、止む無く承認・・・
その2年後の1785年、鷹山は前藩主・重定の実子で養子としていた治広に家督を譲り、35歳で隠居してしまいました。
藩が危機的状況にある中でどうして隠居・・・??
落胆したのは確かですが・・・隠居すれば、参勤交代をせずに国元で改革に取り組めると考えたのです。

鷹山は、藩主の座を治広に譲る際、三ヶ条からなる心得・・・「伝国の辞」を授けています。

一、藩は先祖伝来のもので私有すべきものではない
一、領民は藩に属するものであって私有すべきものではない
一、主君は藩と領民のためにある

江戸の藩士は、小さい頃から帝王学を学ぶので、絶対権力者と思いがちですが、鷹山は主君は民衆のために存在するという考え方を持っていました。
現在の民主主義に近い考え方を持っていたのです。

そしてこの伝国の辞は、その後も上杉家の家訓として引き継がれていきました。

上杉鷹山リーダーの要諦 (日経ビジネス人文庫) [ 佃律志 ]

価格:935円
(2020/11/22 08:20時点)
感想(1件)



天明の大飢饉によって改革が振り出しにもどってしまった米沢藩・・・
隠居後の上杉鷹山は、家督を譲った治広を立てて、時々助言する程度にとどめていました。
そして治広は、役所の統廃合、人員の削減、興譲館の縮小など、徹底した緊縮財政によって藩の立て直しを図ったのですが・・・状況はますます悪くなるばかり・・・
鷹山の隠居から5年後の1790年の年間赤字は2万5000両・・・累積借金額は30万両・・・今の300億円と、鷹山が藩主になった頃の倍近くになっていました。

治広の倹約ばかりでは、藩士たちがやる気を失ってしまったのです。
ストレスをため込んだ役人たちは、賄賂や公金の横領に手を染めます。
政治までみだれていきました。

「このままでは、米沢藩は終わりだ・・・!!」

と、鷹山は再び立ち上がり、改革のかじ取りを始めたのです。

まず行ったのは、借金まみれの藩の財政状況を全藩士に公開します。
危機感を共有させて、改革への意識を向上させます。
そして、側近だった莅戸を再登用、「財政16か年の組立」を立案。
それは、収入の半分を藩の運営に、残り半分を借金返済に充てて16年で300億円相当の借金を完済する計画でした。
さらに、1791年には、上書箱を設置。
武士だけでなく、農民や町人でも意見を投書できる様にし、優れたものは積極的に対応していきました。

例えば・・・藩の役人・黒井忠寄は、財政の立て直しには米の増収が不可欠とし、大規模な灌漑事業を提案し、採用されています。
度々干ばつに見舞われてきた米沢北部に、全長およそ32キロの水路を造成、延べ10万人以上を動員して、完成させました。
これによって、32の村に農業用水がいきわたり、米の大幅な増収につながりました。
鷹山は、工事に携わった者たちに酒とスルメを振る舞って、労をねぎらったといいます。
その水路は、提案者の名をとって、「黒井堰」と命名され、現在も農業水路として利用され続けています。

鷹山は、飢饉対策にも心を砕きました。
凶作時の食料確保法を家臣たちに研究させます。
1802年「かてもの」を刊行。
農作物の代用食となる草木や果実を約80種紹介し、その調理法も記しました。
保存食づくりの参考にもるこの本を、領内に1500部配布しました。
この「かてもの」はおおいに役に立ち、1833年~1839年に起こった天保の大飢饉では米沢藩では一人の餓死者も出さなかったと言われています。

多額の借金を抱え、破たん寸前だった江戸時代中期の米沢藩・・・
その立て直しに粉骨砕身した9代藩主・鷹山は産業の新興にも取り組みました。

藩政改革④産業振興

鷹山は、ろうそく、陶器人形のほか、温泉水を使って塩まで作らせています。
なかでも最も力を注いだのが、養蚕です。
蚕の飼育方法を記した解説書を希望者に無料で配布し、技術指導を行うなど、領民に広く養蚕を奨励・・・鷹山は、ただでさえ切り詰めている生活費から、毎年50両を捻出し、養蚕の奨励金に充てました。
そして鷹山は、その繭から糸を作り、機を織らせます。
京都から職人を呼び、最新の機織り技術を下級藩士の妻や娘たちに学ばせました。
こうして出来上がったのが、米沢織です。
中でも高い技術を擁する透綾は、その名の通りすけるほど薄く、江戸や大坂でたちまち評判となりました。
米沢織の大ヒットによって、藩の財政もようやく上向きとなり、藩士や領民の生活も少しづつ楽になっていきました。
それでもなお、鷹山は晩年に至っても木綿の着物に一汁一菜の食事という質素な生活を続けていました。
家臣から生活費の増額を打診された際も、こう答えたといいます。

「年を取り、叱ってくれる者がいなくなった今、自由になる金がありすぎると、ワガママになるかもしれぬ
 このままで十分・・・」

そして、1822年3月12日、病の床に臥せっていた鷹山が眠るように亡くなったといいます。
72歳、藩と民のために捧げた生涯でした。

その訃報に、領内は深い悲しみに包まれ、葬儀の際には多くの人が沿道に集まり、声をあげて泣いていたといいます。
藩の財政を立て直すために、様々な改革を行った鷹山でしたが・・・お鷹ポッポもその一つです。
農民の農閑期の副業として、制作を奨励したもので、大ヒット商品となり、今も米沢の名物として作られています。
ポッポとはアイヌの言葉で玩具、お鷹は禄高を意味し、収入がぽっぽと増えていくようにとの願いが込められています。
そして、その願いどおり、鷹山の死後1年後、米沢藩は借金を完済し、さらに、5000両を蓄えるまでになるのです。
藩のため、領民のために身を尽くした鷹山は、なせば成るを体現した名君、真のリーダーでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

上杉鷹山~二百年前の行政改革~ [ 筒井道隆 ]

価格:3,877円
(2020/11/22 08:20時点)
感想(0件)

【新品】【本】上杉鷹山人を活かし、人を動かす 鈴村進/著

価格:649円
(2020/11/22 08:21時点)
感想(0件)

「生涯改革者」上杉鷹山の教え―成らぬは人の為さぬなりけり

新品価格
¥1,890から
(2014/1/27 14:09時点)



 江戸のスーパー変革者第2弾です。
東北米沢藩の名君ですが・・・上杉鷹山???

この歴史に埋もれていた上杉鷹山を再評価したのが・・・ケネディ大統領でした。

娘のケネディ駐日大使は・・・
「父は、上杉鷹山の優れた政治力と公益への献身を称賛していました。
 鷹山は民主的な改革を導入し、様々な階級の人々に、地域社会に奉仕することを推奨しました。」

ケネディ大統領の心をつかんだ言葉は???
”伝国の辞”
「国や民の為の君主であり
 君主のための国や国民ではない」
ではないか??と言われます。

改革の神様、Mr.倹約として再評価されていく鷹山。。。
16万もの借金を抱えていた米沢藩を改革していく鷹山。
55年かけて借金を返済していきます。

「なせば成る 
  なさねば成らぬ
           何事も
 成らぬは人の
       なさぬなりけり」

江戸時代・・・3000人ほど藩主になった人のうち、一番偉いのは上杉鷹山???

民の為に国がある!!
民主主義でもない時代に、民を飢え死にさせずに生かす・・・
安穏と暮らそうとでもできた時代に、人々のことを考えて健闘しました。

1751年高鍋藩3万石の秋月家の次男として生まれます。
父は、能力主義を貫き、兄は子ども手当を作り・・・秋月家は名君の血筋でした。
当時は、ほとんどの藩が財政難にあり、藩政改革をしなければならない時代。。。
各藩は、優秀な大名家の遺伝子を探していました。

そして・・・伝統ある上杉の養子となって藩主となるのですが。。。
しかし、米沢藩は財政破たん寸前の貧乏藩でした。

戦国時代に上杉謙信を祖とする上杉家は、越後に100万石以上・・・を有する名門中の名門。
徳川家となっても、初代米沢藩主・上杉景勝が五大老を務め、会津120万石の大大名でした。
しかし・・・関ヶ原の戦いで徳川と敵対し・・・米沢を中心に30万石に減俸。。。
おまけに、3代・綱勝が急死・・・お家断絶の危機!!
領地は15万石に削られてしまいました。

石高1/8なのに、家臣はそのまま5000人。。。
これぐらいの石高なら、普通は1500人~1800人だったのに・・・
足りないお金は商人からの借金で賄います。

その借金は・・・藩の年間支出の5倍・・・16万両に膨れ上がってしまいました。
おまけに藩士の給料を未払いの借り上げ金に・・・
藩士の貧困への不満はエスカレート・・・。
年貢の引き上げにより農民たちは田畑を捨て逃亡、遂に8代藩主・重定は、お家返上を言い出す始末・・・!!
そんな中、1767年鷹山は17歳で米沢藩第9代藩主となるのでした。

10歳で養子縁組をし、17歳で藩主。。。
藩主につくまでの江戸での7年間の教育は素晴らしく・・・
その中心メンバーだったのは、教育係は藩医であり儒者の藁科松柏・・・藩政改革の中心メンバーでした。
もう一人の教育係は細井平洲・・・「民を視ること傷めるが如し」=民を視るときは、怪我人をみるように見てあげ、自分の痛みのように感じなさい。

「本当に民百姓が可哀想だ・・・」

江戸屋敷で・・・
大倹約令”御代々御式目”を発布!!
我々は小家になった・・・

「国の富も尽き、借金でどうにかしのいでいる球場である
 乗り切るには君臣が力の尽きるまで大検約を断行することである。」

それまで1500両だった藩主の生活費を1/7・209両にカット・・・
奥女中や使用人の数も1/5、食事も一汁一菜、着物も絹から木綿へ・・・

ところが・・・国許には届かず・・・
重臣たちは鷹山を無視しました。

巨額の赤字&上杉家球審たちの抵抗・・・

1769年鷹山19歳で米沢にお国入り。。。
荒れ果てた国の惨状・・・
しかし、希望をもって改革に取り組もうとします。
当時は「主君押し込め」ということがありました。
老中の意にそぐわない藩主は座敷牢に閉じ込められ。。。
短命に終わるというものです。
これは、幕府でも認められており、臣下の方を勝ちとしていました。
つまり・・・このお国入りは半ば死を覚悟したものだったのです。
想像を絶するものだったのです。

1771年21歳で本格的な米沢改革に着手。
”会計一円帳”を作成。
当時は藩として1年間でどれだけ使っていたのか・・・
全く知りませんでした。

リアルな赤字額を割り出します。
結果は年間2万8000両の赤字。
累積赤字は膨らみ続けていました。
支出を減らすだけでは限界がある・・・!!

農村復興に着手し、自制基盤となる米の増産に取り組みます。
自ら耕した田んぼが残っています。
そして・・・のべ1万3000人の武士を動員し・・・
荒地開発を行いました。
「武士も鍬を握るのを拒否するな!!」
農民の大切さを教えます。
身分を越えて・・・領民一丸となって、開墾・量産していきます。

お忍びで視察もします。
自らで農地や山林に入る藩主を、農民や下級武士は歓迎します。
これは封建制・身分制を明らかに否定するもので。。。
しかし・・・旧臣たちの不満は・・・???
1773年23歳の時、七家騒動が起きます。
代々仕えてきた旧臣7名が「七家訴状」を鷹山に突き付けます。

「他家から家督を継いだ若すぎる親方様の新法は、ことごとく米沢の国風に合いません。
 大倹約令は、何の効果もあげず、農地の開墾に藩士を使うことは”鹿を馬”とするようなもの・・・
 政治の混乱を招いております。」

4時間に及ぶ訴えも・・・断固拒否!!
鷹山の下した結論は・・・首謀者2人の切腹でした。
残りは・・・隠居閉門。。。
黒幕は斬首という過酷なものでした。

そして・・・危ない戦いの中・・・さらなる改革へ!!
荒廃した国土の立て直しには、藩士や農民たちの徹底的な意識改革と人材育成が大切だと考えます。

農政を担当する代官の世襲制を廃止。
新しく領内を12に区分し、農民たちを教育する”郷村出役”を送り込みます。
彼等は農村に定住し、不正を取り締まり技術を教え・・・やる気を起こさせ生産力をアップさせます。

さらに藩の学問所”興譲館”を再興。
実務官僚の育成に力を注ぎます。
・・・藩の財政は回復していきます。
1783年6月・・・借り上げ分の半分以上を返済。
ところが・・・さらなる試練が・・・浅間山の噴火です。
5年に及ぶ天明の大飢饉が始まりました。
米の収穫高は半減・・・餓死者は東北だけで30万人を超え・・・米沢藩の損害は11万石。。。
18世紀の後半は、世界的に小さな寒冷期で。。。
飢饉がよく起きた・・・天候に左右されやすい時代でした。

しかし鷹山は・・・新しい政策へ!!
備荒二十か年計画・・・20年間で15万俵を蓄えようという計画です。
明日の食料に事欠くのに・・・??

備え米制度です。
飢饉対策であること。。。
お金持ちからお米を借りるのではなく、村の籾蔵から借りる・・・安い利息で借りられて、利息は村のものとする。。。ことが出来るのです。
一石二鳥の計画でした。
おかげでその後の飢饉で餓死者を出すことなく済むのです。

そして・・・そこには鷹山のサバイバルマニュアルがありました。
”かてもの”という書物には・・・非常食レシピが82種の動植物のレシピが書かれています。
最後には・・・
”今の豊かな日の間に
 よくよくまさかの準備を
 怠らぬように”
と書かれてありました。
この”かてもの”は、戦時下の食料難時にも利用されています。

倹約と米の増産だけではとても無理・・・
と、殖産興業とヒット商品の開発に臨みます。
1775年100万本植樹計画。
漆・楮・桑100万本を植え、ロウソク・和紙・生糸をヒット商品に育てよう!!10年間で30万石の利益をあげよう!!というプロジェクトです。

そのための資金は・・・??
長さ8mに及ぶ手紙には、商人に向け借金の申し入れをしています。
漆は・・・財源となっていきますが。。。
西日本の安い櫨蝋に負けて失敗・・・!!

そこで鷹山は、1785年10代治廣に家督をゆずり隠居し・・・
自分が後見人として改革に専念していきます。

上書箱を設置、庶民からもたくさんの意見を聞きます。
民主的な政治を行います。
その手紙には・・・
「桑の木を植え、士農工商皆で養蚕に取り組めば、それは米沢第一の産業となるであろう。」
というのもあり・・・採用!!

生糸の生産に止まらず、製品へと仕上げる!!
藩をあげての商品開発が始まります。

1792年養蚕役局を再興
藩が桑の苗木を購入し、158万本の苗木を無料配布。

蚕の飼い方マニュアル・生産を担ったのは、武士の妻や娘たち。。。
鷹山の側室も!!
最先端の織物技術の購入!!
こうして生まれたのが、特産品”米沢織”で、江戸でも人気となり、藩の財政を潤します。
”お鷹ぽっぽ”も、冬に家で作るものとして、鷹を推奨。
鷹山の”鷹”なので、出世鷹として一番に推奨されたのです。

特産品は、徐々に利益を生み出します。
藩主となって40年。。。
借り受けた借金は、ようやく片付こうとしていました。
ここから本当の国づくりが始まるのです。

名君・上杉鷹山の政治は、どこにたどり着くのでしょうか?
それは福祉政策です。

1780年・看病断制定。
藩士の父母妻子が病の場合は勤めを休んで看病すべし=介護休暇制度です。
それは実家の父母・隣組や近所の者の看病であっても・・・。

鷹山の目指した誰もが高齢者を助ける社会に!!
それは、実体験をもとにしたものでした。

高齢者への気遣いは・・・名物・鯉料理。
鯉の養殖は、病気や栄養不足な領民のタンパク源に!!
自ら飼育方法を研究したといいます。

1820年70歳の時・・・古希の宴が・・・
この時、領内の70歳全員に酒樽を配ったと言われています。
その数4560。まさに米沢は高齢化社会だったのです。

1822年72歳でこの世を去ります。
その数年後・・・累積の借金はほとんど返し、5000両の貯金を蓄えるまでになりました。

「なせば成る 
  なさねば成らぬ
           何事も
 成らぬは人の
       なさぬなりけり」

このことばを実践することで、米沢を幸せの国にしたのでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。


にほんブログ村

歴史 ブログランキングへ

上杉鷹山の師 細井平洲 (集英社文庫)

新品価格
¥700から
(2014/1/27 14:10時点)

小説 米沢藩の経営学 直江兼続・上杉鷹山・上杉茂憲――改革者の系譜 (PHP文庫)

松平定知さんと歩く 全国名城・古戦場めぐり (SEIBIDO MOOK)

新品価格
¥998から
(2013/6/6 06:13時点)




戦国最強と詠われた義の戦士、上杉謙信・・・上杉の城下町。
米沢は、上杉家が代々治めてきた土地です。

上杉謙信―信長も畏怖した戦国最強の義将 (Truth In History)

新品価格
¥1,890から
(2013/6/6 06:14時点)




山形県米沢市・・・人口8万6885人、面積548.74㎢、特産は米沢牛・鯉・米沢織

代々、上杉家によって治められてきた米沢藩・・・
祖は、自らを毘沙門天の化身とし、戦国時代に無敗を誇った上杉謙信です。

kenn.png

その武勇は数知れず・・・しかし、有名なのは、川中島の合戦です。
毘沙門天の軍旗を掲げ、信玄との一騎打ち・・・それは、まさに伝説。
越後の龍と呼ばれ、生涯義を貫いた名将です。

その謙信の跡を継いだのが、米沢藩初代藩主・上杉景勝です。
豊臣政権下で五大老のひとりとなり、越後39万石から会津120万石の大大名となった上杉でしたが、関ヶ原で西軍についたことで米沢30万石に転封・・・わずか1/4となってしまいました。

幕府の脅威に立ち向かいながら、守ってきた米沢の城下町です。

米沢城・・・今は、石垣が少し残っていますが・・・
お城はもともと天守はなく、三階櫓と藩主の館のみの平城だったそうです。
非常に質素な城だったそうです。

これには、やむに已まれぬ事情が・・・
120万石から30万石へ・・・家臣だけでも6000人も入りました。
誰一人切り捨てることなく、米沢へと連れてきました。
だから・・・お金がなかったのです。

そこには、景勝が謙信から受け継いだ義の精神がありました。

そして、米沢城が・・・謙信のお墓になっています。
その謎は???

kenn5.png

お城には、“上杉謙信御堂跡”があります。
そこに、謙信公の遺骸が安置されていました。
謙信の遺骸は、甲冑を着せ、漆で固めて保存したと伝えられています。

家臣たちは、謙信の言いつけを守り、越後⇒会津⇒米沢へ・・・お国替えをする度に、お謙信公を移したのです。

毎日謙信に手を合わせること・・・
戦に負けなかった・・・義によって働く謙信を信仰していたのです。
明治になるまで、謙信は御堂で眠り、家臣たちを、米沢を見守っていました。
米沢城は、謙信そのものになっていました。


上杉家廟所・・・1623年景勝逝去の際・・・初代景勝から11代斉定までこの地に埋葬されています。
今は、謙信公もこちらに移されて、歴代藩主と一緒に眠っています。

上杉謙信公墓所

謙信は、31歳で関東管領職の上杉家の名跡を譲られ、越後・関東の平定に努めました。


「龍」と「毘」

八海山・法音寺は、越後時代から1200年以上の歴史のある真言宗のお寺で、菩提寺です。
お寺に掲げられた毘沙門天の旗・・・
これは、毘沙門天を信仰していた上杉謙信が戦で掲げていた旗印です。

ここには実際に謙信公が拝んでいた毘沙門天の本物の“泥足毘沙門天像”があります。
軍神と呼ばれた謙信公が、深く信仰していた毘沙門天です。

kenn1.png

謙信公は、戦勝祈願をして戦に行ったと言います。
ある時・・・謙信が越後・春山城で祀っていた毘沙門天像が、戦から戻るとその足に、泥がついていたという伝説が残っている毘沙門天です。

上杉家は・・・謙信公から14代は米沢で過ごされました。
現在は東京で暮らしているのが17代・上杉邦憲さんは・・・
“はやぶさ”の開発にも携わっているJAXA宇宙工学博士だそうです。

上杉鷹山の経営学―危機を乗り切るリーダーの条件 (PHP文庫)

新品価格
¥450から
(2013/6/6 06:15時点)



米沢藩の危機を救った救世主登場・・・上杉鷹山。
鷹山公が藩主の時、日本中が大飢饉(天明の大飢饉)・30万人の餓死者でした。
上杉家も財政破綻寸前・・・

第9代当主・鷹山は、飢饉のときの食べ物として城のお濠で大量の鯉を養殖。
お城には、鯉の供養碑も残っています。

さらに、鷹山が奨励したのが、一汁一菜。
ご飯・おかず・お味噌汁だそうです。

財政再建策に取り掛かった鷹山は・・・
米沢織・・・生糸の生産に力を入れます。
これは、大ヒット商品となり財政を救います。
自分たち、奥女中から始めた倹約でした。

kenn6.png

は、とっても有名です。

自分が率先してする・・・
藩の立て直しに一生をかけた人だったのです。

米沢の公立小中学校では、謙信と鷹山の肖像画が掛けられ、鷹山の功績を今に伝えています。
上杉鷹山は、米沢を救った救世主として今も人々に語り継がれています。


米沢は食べられる城下町???
武家屋敷・・・原方衆=下級武士の家は、城下の外にあります。
減封してやってきた際に、入りきらなかったのです。

そんな武士たちの任務は、藩境警備と荒れ地の開墾でした。
藩士半農の生活・・・
石高の少ない米沢藩の武士は、自給自足の生活を送っていました。

その為、下級武士の家のほとんどに畑がありました。
町全体に、柿・栗・胡桃の木を植え、屋敷の生け垣は、食べられる“ウコギ”の木にしました。
このウコギは、トゲがあるので侵入を防ぎ、新芽をてんぷらやお浸しとして食べるそうです。

町の至る所で食べられる食料を作り、飢饉に備えていました。
また、鷹山時代には“糧者”(かてもの・糧になるもの)として、82種類の山菜や果物の食べ方などのサバイバル本を無料で配布していました。
これは、戦争中に復刻版が出たそうで・・・今も、ヘルシーブームとして復刻されているそうです。

郷土料理は、柿の白和え、ウコギ、ひや汁・・・ひや汁は、一汁一菜から生まれた郷土料理だそうです。


義に生きる大切さを説き、武士の生き様を教えた謙信と、民を救い助け合う心を広げた上杉鷹山、米沢の城下町は、二人が残した逞しさと優しさがにじみ出た町でした。



↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。黒ハート

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

歴史 ブログランキングへ

このページのトップヘ