日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:中国大返し

信長・秀吉・家康 天下人の夢

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1582年・・・6月2日早朝・・・
京都で戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こります。
天下取りを目前にしていた織田信長が、明智光秀の謀反に会い自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存じ、豊臣秀吉です。

織田信長の死を一番最初に知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの準備中だった信長の三男・信孝と丹羽長秀でした。
信孝と丹羽長秀が信長の死を知ったのは、本能寺の変の当日6月2日でした。
どうして京都に向かえなかったのか??
彼等はかん口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こし、逃げ出してしまったので、仇討どころか守りを固めることで精いっぱいだったのです。

柴田勝家は京都から300キロのところにある越後で上杉攻めをしていました。
勝家が信長の死を知ったのは、数日たった6月5日~7日の間のことでした。
勝家はすぐに越前の北ノ庄城に戻り、明智光秀等夏の準備をしますが、出かけられません・・・
京都に戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったからです。
明智光秀は、上杉景勝に、本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころでなくなる・・・と、追撃態勢を整えていたので、勝家は動くに動けなくなっていたのです。

滝川一益は、北条の治めていた関東をほぼ制圧しつつありましたが・・・変を知ったのは、6月7日~9日の間と言われています。
しかし、時を同じくして北条氏政も、信長死亡を知り、反撃してきたのです。
そのため、一益は、京都に行くことができませんでした。

羽柴秀吉の場合・・・
中国地方を制圧する為に、備中高松城を攻めていた秀吉は・・・。
信長の死を知ったのは、変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロ離れた土地で、どうしてそんなに早く知ることができたのでしょうか?
明智光秀は、この時、「信長を討ったので、和平交渉に応じるな」と、毛利に密書を送っていました。
その使いが、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
この時、秀吉は、毛利方清水宗治の居城・備中松山城を水攻めにし、落城寸前まで追い込んでいました。
城の周りを全長3キロ、高さ7メートルの堤で囲んで、近くの川を引き入れ、水滅させようとしていました。
警備も厳重・・・そこへ、光秀の密使が捕まってしまったのです。
城攻めの奇策のおかげで、信長の死をいち早く知ることができた秀吉ですが、草履取りから自分を取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、泣き崩れるばかり・・・。

そんな秀吉の目を覚まさせたのは・・・軍師・黒田官兵衛の・・・

「これは天のご加護 天下取りの好機でございます。」

の一言でした。

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵を討ち、天下とるという野望をたぎらせるのです。
そして、かん口令を敷きました。
当然、」毛利方にも、漏れないように、密使を斬ったうえで備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉が始まっていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩めます。
備中・美作・伯耆を割譲するように求めていたのを、美作だけで備中・伯耆は折半にします。
さらに、備中高松城主が切腹すれば、城に残っている5000人の兵士たちの命は保証するとしたのです。

こうして、毛利とのスピード講和が実現します。
秀吉が信長の死を知ってから数時間のことでした。
その日のうちに、清水宗治は備中高松城に浮かぶ船の上で自刃・・・
その見事な最期に「武士の鑑」と言ってほめたたえました。
その直後・・・毛利が信長の死を知ってしまいました。
毛利の追撃は・・・??
この時、毛利方の吉川元春と小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に駆け付けていました。
どうなる??

吉川は・・・「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ。」
小早川は・・・「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ。」

結局、小早川の主張が通り、毛利方が追撃することはありませんでした。
そして・・・和睦の1か月前・・・毛利輝元が家臣に宛てた手紙には・・・??

「こちらは、鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている。」

武器弾薬を使い果たしていたのなら、追撃どころではありません。
しかし、これもまた秀吉の策によるもので・・・瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していたので、毛利伸樹の補給路をあらかじめ絶っていたのです。
もともと村上水軍は、因島村上家・村上吉充、来島村上家・来島通総、能島村上家・能島武吉・・・毛利方の水軍でした。
そのうちの来島村上家は毛利を裏切り信長についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略し手中に治めていました。

6月5日、吉川と小早川の軍勢は撤退を開始・・・  
それを見届けた秀吉は、翌日・・・京都への怒涛の行軍を始めるのでした。
秀吉は2万の軍勢を率い、備中高松城から京都を目指し、200キロの大移動を開始しました。
神業ともいわれる秀吉の中国大返しが始まりました。

6月6日(1日目)午後2時
備中高松城を後にした秀吉軍は、西国街道を通り、22キロ離れた備前・沼城へ・・・。
西国街道は、援軍として信長が来ることになっていたので、秀吉によって整備されていました。
向う沼上は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城でした。
待ち受ける宇喜多もぬかりありません。
秀吉たちが夜でも動きやすいようにとたいまつを焚き、城についたときに食事が出来るようにしていました。
順調なスタートを切りましたが・・・

6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発し、70キロ先に姫路城を目指します。
その途中には、西国街道最大の難関・船坂峠がありました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万の軍勢が重装備で多くの武器弾薬を運びながら進むのは困難を極めます。
姫路城までの行軍では、暴風雨にも見舞われていました。
道筋の河川が増水し・・・農民を雇って、人間の柵を作らせ、その方にすがって川を渡らせたといいます。

当時の甲冑などの装備は30kg~50kg・・・。
秀吉は大軍を率いてどうやって早く移動したのでしょうか?
秀吉は兵士の負担を減らすために・・・
海路を利用したのではないか?という説があります。
騎馬隊や足軽隊は走ったでしょうが、物資を運ぶ輜重部隊は海路を行ったと言われています。
言い伝えによると、牛窓から佐古志、片上津から赤穂岬・・・と言われています。
兵士たちを身軽にし、大軍勢の移動のスピードをあげた秀吉・・・

もう一つの説は・・・??
秀吉の書いた一通の手紙に秘密がありました。
本能寺の変を知った中川清秀の手紙に対する秀吉の返書です。
その文面の日付と内容・・・
6月5日に「今、野殿まできている」と書いています。
野殿は備中高松城から7キロのところです。
この書状が正しければ、出発日の定説が覆ることに・・・??
6日出発という説は小瀬甫庵の「太閤記」によるものです。
太閤記は、秀吉の活躍を書いたものなので、誇張表現なのではないのか?とも言われています。
中川清秀宛ての書状の6月5日に野殿にいるが注目され、6月5日の時点で備中高松城から野殿に向かって・・・という策が注目されています。
5日と言えば、毛利が撤退した日です。
この日に追撃の余裕がないと知って・・・しかし、追撃の可能性がゼロということではなく・・・この秀吉の判断はあっぱれでした。
この6月5日出発説・・・本体は微衷高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのではないか??
今後さらに検討が加えられることでしょう。

1582年6月2日本能寺の変・・・主君・織田信長の敵を討つために、備中高松城から京都まで200キロの道程を8日間で走破した羽柴秀吉の中国大返し、その成功のうらには秀吉の知略が・・・。

人心掌握術・・・
備中高松城を出発し姫路城まで2日で92キロを走ってきましたが、まだ道半ば・・・
京都まで100キロ以上残っていました。
疲弊している・・・逃げ出す者も出て来るのでは・・・??
そこで、姫路城につくと皆に信長の死を教えます。
この行軍は、信長の仇・明智光秀を討ち取るためであると皆の士気を上げます。
城にあった兵糧米・8万5000石と金・800枚、銀750貫文・・・現在の価値にして66億円相当を兵士たちに分け与えたのです。
そして、仲間・小者たちにも5斗・・・半年分の米を与えたのです。
翌日からの行軍に備え、一日ゆっくり休ませます。
そこへ一人の僧侶がやってきて・・・
「明日は、二度と帰ることができない悪日にございます。
 それゆえ、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」
それを聞いた秀吉は、
「二度と帰ることができないには、むしろ吉日じゃ!!」
そう言って取り合わなかったといいます。
秀吉は、光秀を見事討ち取ることができれば、その先には天下人の道がある・・・
そうすれば、姫路城に戻ってくる必要はない!!
城などどこにでも作れる!!
だから、帰って来れないのはむしろ吉日!!
自分が勝って天下をっとるということだ!!と。

中国大返し成功のため、他にも策を講じていました。
姫路を出た秀吉軍は、100キロ先の富田を目指します。
しかし、その途中には摂津国が・・・!!
そこに居るのは茨木城主・中川清秀と高槻城主・高山右近でした。
かつて・・・織田信長に謀反した荒木村重の重臣たちでした。
秀吉は、「奴らが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」と、書状を送っています。

「上様は難を逃れ・・・」

信長派生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしたのです。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、首を晒すことができていれば・・・でも、出来なかったので、その嘘を信じてしまったのです。
情報を操作することで、裏切りの目を摘んだ秀吉は、安心して行軍することができたのです。
秀吉は家臣たちにも恵まれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時、後方支援を担当!!
食糧や武器、人出の手配・・・迅速かつ的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・!!
黒田官兵衛は、軍師としての才能を発揮!!
隊列の先頭に毛利家の旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせます。
この旗は、備中高松城で和議が成立し、秀吉軍が撤退する際に、小早川隆景の元を訪ね、毛利軍の旗を20本ほど借りています。
隆景はある程度察しがついていて・・・秀吉に協力しておいた方が、毛利家のためになると考えたのです。
旗を見て、毛利が味方に付いたと勘違いした武将たちが次々と秀吉軍に加わります。

6月11日、秀吉軍は尼崎に到着!!
秀吉は大坂城にいた織田信孝と丹羽長秀に尼崎まで来たことを伝えますが・・・信孝を光秀討伐の総大将とすることはありませんでした。
本来ならば信孝でしょうか・・・信孝にすれば、自分は駒になってしまう・・・おまけに信孝には当時、兵が4000人しかおらず、父・兄を殺されてしまっていました。
の舞台兄は、光秀を討つ気迫がなかったので、秀吉の上には立てなかったのです。
6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと共に、軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

その頃光秀は・・・
6月2日から4日までの間に坂本城に戻り、近江を平定。
6月5日には安土城と秀吉の長浜城を占拠、丹羽長秀の佐和山城も押さえていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城主細川忠興や、大和郡山城の筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
その一方で、朝廷工作を行って・・・
朝廷から京都の経営を任せると言われ、信長の後継者は自分であると思っていたようですが・・・??
8日、大返しの知らせを受けました。
しかし・・・光秀は、京都に献金するなどの朝廷工作に勤しんでいました。

秀吉軍は4万のふくらみ・・・しかし、明智光秀は、織田信長の謀反に成功するも、味方に付けようとしてた武将たちが味方に付かないという誤算に・・・。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく正室に迎えていた娘・ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉してしまいました。
筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5000!!秀吉の半分にも及びません。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎でした。

6月13日・・・
劣勢で迎え撃つことになった光秀には策がありました。
天王山の地の利を生かします。
当時、川が迫る天王山には、馬がやっとすれ違えるだけの細い道しかなく、そこで秀吉の大軍をおびき寄せ、天王山に配置した兵に吸収させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、もし秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」by光秀

しかし、秀吉もそこのところはよくわかっていて・・・
そこで、地の利に明るい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は、敵に気付かれぬよう、松明なしに前日夜に天王山に分け入り、光秀軍より先に天王山を占拠したのです。
これで光秀軍は、勝機を失います。
そして遂に両軍が激突!!
僅か数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は命からがら逃げだすも、落武者狩りの竹やりで重傷を負い・・・6月13日、明智光秀自害!!

三日天下と揶揄されることとなった光秀、一方、主君の敵討ちを見事に成し遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
中国大返し・・・その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして、大胆な行動力と決断力・・・そのスピードの速さでした。

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<織田信長と本能寺の変>本能寺の変勃発! 織田家臣団が下した決断 (歴史群像デジタルアーカイブス)

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<毛利輝元と戦国時代>歴史シミュレーション 中国大返し 毛利の追撃 (歴史群像デジタルアーカイブス)



1582年6月2日、京都で起きた本能寺の変。
天下統一を目前に控えていた織田信長が、家臣の明智光秀によって非業の死を遂げました。
この時、主君の敵討ちを果たすために、2万もの軍勢を・200キロの道程を僅か7日間で駆け戻った武将・・・それが、羽柴秀吉・・・後の天下人・豊臣秀吉です。
この時のことは中国大返しと言われ、秀吉を天下人へと押し上げた偉業と言われています。

ところが、この偉業には3つの謎があります。

①なぜ秀吉は、毛利の追撃を受けなかったのか。

1582年6月2日、織田信長が天下統一を目前にして無念の死を遂げた本能寺の変。
この時、織田家の主要家臣たちは、全国各地に散らばっていました。
筆頭家老・柴田勝家の目的は北陸制圧!!相手は北国の雄・上杉景勝!!
柴田は上杉の城を落城寸前までに追い込み、戦いを有利にしていました。
関東制圧を任されていた滝川一益は、この時すでに関東の大大名・北条氏政を事実上傘下に治めていました。
大坂にいたのは、信長の息子・織田信孝。織田家重臣の丹羽長秀と共に、四国攻めの準備をしていました。
そして・・・中国地方にいたのが羽柴秀吉!!
中国地方10か国を治める毛利輝元と対峙していました。
岡山県岡山市にある備中高松城・・・当時、秀吉は2万の兵を率いて、毛利の前線基地であったこの城を攻め立てていました。
城に立てこもる毛利勢はおよそ5000!!秀吉の作戦は水攻め!!
山の麓から近くを流れる足守川まで堤を築き、その川の水を溢れさせる・・・そして、城を水没させるというものです。
今も、秀吉が築いた堤の後が残っています。
当時の高さは8メートルに及び、3キロにわたって築いてありました。
この結果・・・もともと周囲に比べて低い所にあった高松城・・・秀吉がその地形を利用して水攻めを実行!!
落城寸前にまで追い込んでいました。
織田軍は、各地で敵と戦いを有利に展開していたのです。
そんな中での6月2日・・・本能寺の変。
絶対的カリスマの織田信長が、この世から姿を消しました。
この衝撃に、各地の状況はひっくり返ります。

北陸担当の柴田勝家・・・信長の死を知ると、自らの城・北の庄城に戻ります。
そして、これまで戦っていた上杉の反撃に備え、自らの城から外に出ることができませんでした。

関東を制圧していた滝川一益はピンチに・・・!!
これまで従っていた関東の大大名・北条氏政が信長の死を知って反撃!!
滝川は北条との戦いに敗れ、関東から命からがら逃げだします。

大坂にいた織田信孝と丹羽長秀の軍も、混乱の極み・・・
信長の死を伝え聞いた兵が、我先にと逃げ出したのです。

主君・信長の敵討ちを討つために、一刻も早く京に向かいたかった家臣たち・・・
しかし、信長の死の衝撃で、自分の身を守ることで精一杯でした。

では、どうして秀吉だけが追撃を受けずに大返しができたのでしょうか?
落城寸前まで備中高松城を追い込んでいた秀吉でしたが、このときすでに城の危機を救うべく、中国地方の覇者・毛利の援軍がやってきていました。
毛利軍は、秀吉軍を取り囲むように、総勢4万もの大軍を動員!!
後方に控えるのは、総大将の毛利輝元!!
しかし、水で囲まれていたこの城を救えずにいたのです。
そのさなかの6月4日・・・秀吉に驚くべき情報が・・・!!
主君・信長の死・・・

秀吉は事態の大きさに驚きながらも、即行動に出ます。
備中高松城城主に残っている記録によると・・・
清水宗治6月4日切腹。
秀吉が信長の死を知ったのと同じ日に切腹・・・すなわち秀吉は、その日のうちに城主の切腹を条件に、早くも毛利との和睦を成立させていたのです。
城主の切腹を見届け、大返しを始めた秀吉。
実はこの時、信長の死を隠したまま毛利と和睦を結んでいました。

和睦から2日後・・・信長の死から4日後の6月6日、毛利輝元が信長の死を知ります。
秀吉との和睦は、信長の存在が前提の和睦。
信長が死ねば、和睦を破棄して秀吉を追撃することもできたはず・・・
しかも、毛利軍は、秀吉軍2万をはるかに凌ぐ4万!!
どうして毛利は追撃しなかったのでしょうか?

「こちらは、鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている。」by輝元

なんと、毛利の援軍は、武器弾薬が底をつき、追撃どころではなかったのです。

これこそが、秀吉の戦略でした。
毛利との決戦の前から、毛利の補給路を断つ作戦を練っていたと考えられます。
実際に、軍勢は来ていたものの、毛利に秀吉との決戦に挑む力はなかったのではないか・・・??

秀吉は毛利と村上水軍の間にくさびを打っていました。
村上水軍のうちの一つ、来島村上氏が毛利氏を裏切ったのです。
その結果、毛利は、備中への補給ができなかったと思われます。

戦いの先を見据えた戦略でした。
秀吉の深謀遠慮・・・それが、衝撃の信長の死を前にしても、対応することができたのです。


②神業ともいえるスピード。

主君・信長の敵を討つために、大返しを始めた秀吉。
その距離は、およそ200キロ。
秀吉はこの距離を軍勢を率いて僅か7日間で走破したと言われています。
伝説と言われているのが出発から姫路城までのスピード。

「6月7日に備中高松から27里離れた姫路まで、1日1夜でたどり着いた。」by秀吉

つまり、秀吉は、110キロをわずか2日で姫路までたどり着いたというのです。
そもそも、2万もの軍勢が僅か一昼夜で110キロの道程を駆け抜けられるものなのでしょうか?
その日付について・・・
秀吉自身の書状には、備中高松城から7キロ離れた野殿から15キロ離れた沼城まで・・・その日付は6月5日・・・通説では、まだ備中高松城にいた日付です。
この書状によれば、5日の時点で、秀吉は既に出発しています。
さらに毛利方にもすぐに秀吉が大返しをしたと思われる書状が残っています。
満願密寺に残っている書状には・・・
「和議が整った
 羽柴は引き退き、我らも途中まで戻っている。」by輝元
とあります。

これまでの通説では、秀吉は毛利が追撃してくるのを恐れて、6日まで滞在して出発したと言われていました。
が、秀吉は、実際には毛利が追撃する能力がないことを知っていたので、6日まで高松場周辺に留まる必要はなかったのです。
6月6日に出発し、一昼夜で110キロ・・・と思われてきた中国大返し伝説・・・
親切では、6月5日に出発していた可能性が高いのです。
僅か和睦から1日で、2万もの軍勢を連れて大返し・・・という、方針の大転換を行ったことになります。

織田信長の死から5日後の6月7日・・・
秀吉は姫路城まで戻り、明智光秀の京都まであと半分の距離まで来ました。
この時秀吉はまたもや、先を見据えた行動に出ます。
身分が低い中間、小者は食料や武器弾薬を運ぶ役を担っていました。
重いものをたくさん運ぶために、速度が遅く・・・
秀吉は大返しが成功するかどうかのカギは、この兵站輸送を担う人が握っていると思っていました。
そこで、中間たちの士気を高めるために、身分にかかわらず、高い報酬を約束したのです。
人ひとり五斗・・・人ひとりが半年食べられるだけの米です。
秀吉は、いろんな場面や場所の状況を常に自分自身が把握して、大返しという大事な時期に、一番力を発揮しなければいけない小者たちこそ大事・・・秀吉の人心掌握術の優れた点です。

6月9日・・・姫路城を出発!!
しかし、その先には大きな問題が・・・。
それは、細川藤孝、高山右近、中川清秀、筒井順慶・・・織田家臣たちの動向です。
京都周辺にいた彼らの多くは、もともと信長を討った明智光秀に近い者たち・・・
つまり、これらの武将たちが光秀に味方して、秀吉に立ちはだかる可能性があったのです。
これらを操ることが、中国大返しのカギに・・・!!

光秀との戦争を考えると、京都と大坂との間で大きな戦争をしなければならない・・・
当然、地元の武将がキーポイントでした。
そこで秀吉は、京都周辺にいる武将たちの動揺を誘うための高度な戦術を始めます。
情報操作・・・
中川清秀に送った書状には・・・
「上様は無事に切り抜けられた・・・」by秀吉
信長が生きているというウソの情報を流して、中川が光秀と合流しないように仕向けたのです。
さらに・・・
「柴田勝家も、急ぎこちらに来るらしい。」by秀吉
動けないはずの勝家がもうすぐ来そうだと伝えているのです。
信長も生きているうえに柴田に来る・・・
この情報コントロールを前に、中川をはじめとする武将たちは、とても光秀に味方することなど出来なかったのです。
普通なら信用しないような情報でも、秀吉の交友関係の広さ・・・情報収集能力のとびぬけていることは信長の家来層には浸透していました。
ありうるのではないか・・・??全面否定のできない情報だったのです。
次々と大返しの生涯を取り除いていく秀吉・・・。

それは、織田家家臣以外にも向けられていました。
明石から家臣に向けた書状には・・・
「洲本城に菅平右衛門が入城した
 彼の城を取り巻いて攻めるべし!!」by秀吉

洲本城とは、淡路島にあった城・・・この城を押さえた菅を攻めろというのです。
菅という海賊衆は、四国の大大名・長曾我部氏の関係勢力でした。
長曾我部元親は、明智光秀と親しい関係にありました。
なので、秀吉は長曾我部と光秀の挟み撃ちを避けるために、淡路島を押さえるように命令を出したのです。
どうして1週間余りで大返しができたか・・・??
それは、すぐに大返しをすると判断したことと、次々と立ちはだかる生涯を取り除いていったからなのです。


その頃光秀は・・・??
6月5日・・・安土城と秀吉の長浜城を占拠
6月7日・・・安土城で勅使の吉田兼見と会見
6月9日上洛して正親町天皇と誠仁天皇に銀子を献上する

この光秀の行動の意図とは・・・??

朝廷は非情に利用価値があったということです。
戦国大名も、新たに支配地域を広げるとき、朝廷から官位を得、自分がそこの支配の正当性を主張したのです。
正当性に疑念を抱かれる場合・・・余計に朝廷は利用価値があったのです。
戦国時代は・・・朝廷の権威よりも「勝てば官軍」の時代でした。
本当に光秀がやらなければならなかったのは、朝廷工作ではなく、秀吉を倒し、自分の強さを天下に示すことだったのですが・・・。
戦国武将にしては・・・文化人・・・??
&やましい心が味方を増やそうと朝廷をバックにしようとしたのかも・・・??


③なぜ秀吉が信長の後継者になれたのか?

信長の死後、信長の跡取り候補は二人・・・信雄と信孝でした。
しかし、秀吉はこの二人を押さえ、信長の後継者になります。
そこには、光秀との決戦を前にした選択が・・・
1582年6月11日(信長の死から9日後)、秀吉は尼崎に到着。
明智光秀のいる京都は目前でした。
そこで、信雄にすぐそこまで来ていることを告げます。
この時秀吉は最後の選択に迫られていました。
信孝との合流です。
信長の息子を総大将に祭りあげれば、秀吉軍の士気は高まります。
が、祭り上げるためには信雄の大坂城に集まらなければ・・・??
そうなると、織田家の権威を前に、秀吉の存在が薄れてしまう。。。

そこで、秀吉はもう一つの選択肢・・・信孝と合流せずに光秀と当たる・・・!?

信長の死後10日の6月12日・・・ついに秀吉が決断!!
信孝と合流せずに、光秀と当たることを決意します。
そしてその日の夕方・・・天王山の麓で、秀吉軍と光秀軍の前哨戦が始まりました。
この日の戦いは、前面衝突する前に、光秀軍が撤退・・・
結果、小競り合いに終わりました。
しかし、主君の敵討ちのために中国大返しを成し遂げた秀吉は人々に大きな衝撃を与えました。
出来るだけ早く、自分が主君の弔い合戦に駆け付けたことを示さなければならない・・・!!
天下を確実に考えていたようです。
信長の死から11日後・・・
1582年6月13日、秀吉、光秀と決戦!!


そこには、秀吉に後れながらも大坂から駆けつけた織田信孝の姿がりました。
だれもが予想しなかった秀吉の中国大返し・・・
もはや、光秀が抵抗できるはずもありませんでした。
戦いは短時間で終わり・・・戦いに敗れた光秀は、逃走のさなか討ち死にしました。

主君織田信長の敵討ちを成した羽柴秀吉・・・その力は、主・織田家さえも凌ぐようになります。

光秀を討った後に、秀吉に宛てた織田信雄の手紙には・・・
「そちらの様子で良きよう決めて連絡してください。
 それで近くへ陣を寄せます。」by信雄

この時、秀吉は光秀軍の残党狩りをしていました。
その秀吉に自分も合流したいので、どうしたらいいのか??指示を仰いでいるのです。
秀吉が光秀を討ち、主体的に行動している・・・軍も大半が秀吉の軍勢・・・。
主人筋の信雄も、秀吉の指示を仰がなければならない関係だったのです。
主君・織田信長の息子たちは、単独で大返しを成し遂げた秀吉に従わざるを得なかったのです。
この後・・・羽柴秀吉は、織田家を飲み込み、天下人への階段を着々と上り詰めていくのです。

これは・・・信長が生きていたとしても、これが一番の正しい行動です。

秀吉はどの段階で天下を意識したのでしょうか??
本能寺の変は起こる前から知っていたのでしょうか??

秀吉が知っていないまでも、畿内でどんなことがあってもすぐに行動できるように・・・
不測の事態・・・あらゆる事態に行動できるように準備していたのではないか・・・??

他の人にはできない、秀吉の情報収集能力の凄さ・・・
信長亡き後の天下取りのビジョンを明確に描けていたこと・・・
秀吉の凄さは速度・・・情報、軍の移動、決断、外交・・・
事は自分一人ではできないということをよく知っている。
秀吉は、四方八方に人脈を・・・秀吉ファンを持っていたこと・・・
普段から気を配っていたこと・・・
人々についてきてもらえる知恵・・・人の気持ちを掴むことが凄さなのです。




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<戦国時代・賤ヶ岳の戦い>大垣大返しから探る秀吉の軍略 (歴史群像デジタルアーカイブス)

<織田信長と本能寺の変>本能寺の変勃発! 織田家臣団が下した決断 (歴史群像デジタルアーカイブス)

最近バタバタしていまして、なかなかゆっくり更新ができませんで・・・
ゆっくりと書いている官兵衛まで手が回りませんでした。

1582年6月2日・・・
本能寺の変で織田信長がこの世を去りました。

しかし・・・
その時、官兵衛は備中高松城の水攻め中。。。

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「運が開けましたぞ・・・」のシーン

いよいよ、官兵衛&秀吉さまの中国大返しへの道です!!

6月3日・・・
官兵衛は夜中に恵瓊を訪問・・・。
恵瓊との和議交渉に入りました。

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ここがもう一つのポイントですね。
明智光秀の謀反によって信長公が殺されたことを恵瓊に教えちゃいましたが・・・。

「恵瓊殿であればお分かりかと・・・。」

一世一代の賭けに出る官兵衛。。。
その賭けに乗る恵瓊!!

そう、後々恵瓊は秀吉の側近になるわけで・・・
ありえない話じゃないよね。
ま、どうしてお互いが信用に足るのか・・・もっとそこを描いてほしかったような気もしますが、とりあえず早く中国大返ししないといけないからね。。。

備中高松城へ向かう恵瓊・・・
本領安堵を条件に、清水宗治に降伏を薦めるのですが・・・
命は毛利に捧げたものと、腹を切る覚悟を決める宗治。。。

一方毛利へ行く官兵衛。

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小早川隆景に、宗治の切腹を了承させようと敵陣に・・・しかも夜分に・・・やって来たのですが・・・

どうしてそんなに和平をしたいのか???
訝しんでいる隆景に、親方様の出陣が決まれば本領安堵などない!!
と、即座の返答を求めるのでした。
そう、殿の死は伏せて・・・。

全ては天下のために・・・
清水宗治の命も、そのために必要だと。。。
織田と毛利の和の証となるのです。

口が上手くなったね、官兵衛
黒いよ、黒い官兵衛

一方、黒田軍は、中国大返しの手配に大忙し。
姫路には長政が向かうことになりました。

6月4日・・・

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あ~、日本で最初の切腹が始まろうとしていました。

で・・・??
ここで舞う???
信長じゃなくって???

って思った人は、多かったはずだ。。。

「我が力には往き難き 御法の御舟の水馴棹 
  笹でも渡る彼の岸に 到り到りて楽しみを極むる國の道なれや」

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みんなの見守る中・・・見事な切腹を遂げた宗治なのでした。

そして・・・その後、お売りに光秀からの援軍要請の書状が届き・・・
隆景は、信長様の死を知ったのでした。

姫路に帰る山中で、又兵衛と再会した長政。

神君伊賀越えをお気楽にというか、やる気のなさそうにやろうとしている家康。。。
今一つ、家康って人が分りかねますが、ま、タヌキおやじですからね。
実際、こんな人だったのかも???
今回は江、連れてないのかい・・・??
でも、この旅では、信長を警戒して強者ばかり連れていたのが幸いでしたね。
こんな所では死にませんよ。

一方、安土城に入った光秀は、信長の作った価値を壊そうとしていました。
って、こんな余裕あったのかしらね??

当てにしていた細川藤孝は・・・
剃髪をし、息子に家督を譲ってしまいました。
後手後手に回って、混乱している明智方・・・

秀吉は、信長様が生きているように振る舞って手紙を書きまくります。
戦は騙し合いなのです。
官兵衛は、毛利との最後の交渉に向かいました。

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おっつ!!ここで、毛利の旗を所望するのね。
でも、隆景に、ばれちゃってましたね、
信長様の死が。。。

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前門の虎後門の狼・・・

ここで官兵衛、一世一代の大芝居!!

「わからぬか・・・!!
 今最も天下に近いのは、秀吉さま!!
 必ずや天下をお取りいただく!!
 今ここで事を構え遺恨を残すか、それとも恩を売りともに乱世を終わらせるか!!
 毛利の行く末を選ぶのは・・・あなた様です。」

「官兵衛・・・わしを試すか・・・
 毛利は天下を望んではならぬ・・・」

と、秀吉にかける決心をする毛利なのでした。

「この恩、忘れませぬ・・・」by官兵衛。

そう、毛利の旗があったからこそ、あんなにも早く大返しができたと言われています。
ま、毛利も天下を望んではならないというのは元就の言いつけでした。
下剋上の世の中なのに。。。
小さい毛利をあそこまで大きくした元就だからこその、重い一言だと思います。
毛利のために腹を切ってくれた清水宗治の恩に報いるためにも・・・!!

6月6日。。。

謀反人、明智光秀を討つために、中国大返しが始まるのでした。
後門の虎と和議を結んだ秀吉の軍勢は驚異的な速さで京に向かいます。

本当に、久々の更新となりましたが、官兵衛は毎週楽しく見ています。
いよいよクライマックス!!
大河ドラマはその人の一生をするので、クライマックスでは終わらないのが定石ですが、官兵衛もここが一世一代の見せ所!!

これからがどうなっていくのかちょっと心配ですが、とっても楽しい45分になっています。
ガンバレ~~!!官兵衛!!


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織田信長に仕えた大物家臣といえば・・・
柴田勝家と丹羽長秀です。
秀吉が姓を名乗るときに、この2人にあやかって、”羽柴”秀吉と名乗ったのは有名な話。

信長が、浅井長政を討ち滅ぼした時、朝廷の許可のもと部下たちに官位を与えました。
秀吉は”筑前守”、明智光秀は”日向守”、勝家は修理亮、滝川一益は”左近将監”、荒木村重が”摂津守”で・・・
長秀には越前守を与えようとしました。
すると・・・長秀は、今までどおりでいいと言い張って、さすがの信長も折れる他なかったとか・・・。
長秀は、忠実であったものの融通の利かない頑固者でした。

織田家臣のなかでの出世頭はもちろん”秀吉”。
勝家はそれを快く思わず敵意むき出しのバチバチ状態でしたが、長秀は秀吉を庇う立場をとります。
なので、信長の死後も、長秀は秀吉に味方しています。


1582年6月の本能寺の変後、秀吉は信長の敵・光秀を討つべく中国大返し!!
同じころ、四国征伐に備えて摂津・住吉の浦にいた長秀は、途中で秀吉軍と合流しています。

清州会議も、秀吉と勝家の権力争いの場になりましたが、長秀は秀吉と同じく信長の嫡孫・三法師を推しています。

でも・・・秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家を破ってから、丹羽家に陰りが見え始めました。
天下をとった秀吉に・・・下僚だった秀吉に臣従しなければならなくなったのです。
さらに・・・秀吉は、信長の三男・信孝を自害させ、小牧の戦いでは次男・信雄を攻撃しました。

怒った長秀は、越前府中の居城に籠もり、秀吉の招きに応じなくなります。
長秀にとっては織田家は主家。。。その主家の子供を次々と手にかけ、天下取りに突き進む秀吉に我慢ならなかったのです。

そのうち長秀は、持病が悪化し床に臥せるようになりますが。。。
1585年4月に突然病床で自害します。
勝家のように秀吉と戦うこともできず、前田利家のように従うこともできず・・・
自害は長秀の最大の抵抗だったのでしょう。

長秀は、腹を切り開き病巣を抉り出し・・・
握りこぶし大だったその病根を遺書と共に秀吉に送らせたと言われています。
秀吉も腰を抜かしたことでしょう。

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あけましておめでとうございます
今年の顔は、”軍師・官兵衛”ですね。
とっても楽しみにしています。

ということで、プロファイラー・岡田官兵衛兄さんです

戦国時代・・・豊臣秀吉に仕え、天才的な策略を駆使して秀吉に天下を取らせた男、黒田官兵衛。
大河ドラマ”軍師・官兵衛”では岡田准一君が演じますが・・・岡田准一君自らがプロファイルしてくれました。

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兵庫県にある姫路城・・・江戸時代初期に建てられた天下の名城です。
当時の姫路は、中国地方を治めるための重要な拠点でした。
東西に延びる山陽道とそこから日本海へ抜ける道・・・姫路は交通の要所だったのです。
しかし、戦国時代には、まだまだ田舎でした。

1546年黒田官兵衛誕生。

黒田家は小さな豪族で・・・小寺氏を主君として仕えていました。
しかし、小寺氏は弱小でした。
敵を撃退し、撃退し・・・頭角を現した官兵衛、20歳すぎで家老となります。
知略に優れ将来を嘱望されていました。

1575年30歳の時・・・
西の毛利が、圧倒的な軍事力で近くまで来ました。
今後小寺はどちらについた方が良いか???
毛利についた方が良いとほとんどの家臣たちがいう中・・・
「信長の天下になるべき・・・」と。
戦国の風雲児・・・信長は、遠い播磨の人々にとっては、まだまだ謎の新興勢力でしかありませんでした。

しかし、信長の将来性を確信していた官兵衛。
どうしてかというと???
情報網に長けていたようです。
姫路市にある”廣峯神社”。
農業の神を祀るこの神社は、日本有数の規模を誇り、御師が豊作祈願をするために日本各地を回っていました。
おまけに廣峯神社は京都の内裏にも密かに出入りしていたようです。
この御師たちからたくさんの情報を得ていたようです。

主君・小寺氏を説得し、信長につくことを認めさせます。
すぐに姫路をたち岐阜城へ!!
自ら直接信長を訪れます。
”小寺が織田側につくこと&毛利攻めの知恵”を持って!!
「我が所領・姫路は交通の要でございます。
 この地を利用なされれば、毛利と戦う際に中国地方を押さえる重要な戦略拠点となります。
 小寺家では、毛利につこうというものが多くおりますが、それは毛利の勢いを怖れているだけのこと。
 信長さまが軍勢をお送りいただければ、みな、たちまち味方となりますので、毛利との戦いは有利になるものと存じます。」

信長は、官兵衛の知略と大胆さを気に入って・・・
「褒美・圧切長谷部」を与えます。
小国の一家老には分不相応な刀でした。

やがて・・・播磨に軍勢を送る信長。
官兵衛は、信長軍の先兵となり、周囲の豪族を蹴散らします。
抜群の功績をあげたのでした。

「まったくもって神妙(あっぱれ)である」by信長

ハイリスクハイリターンの信長につくことで、官兵衛のたぐいまれなる才能が開花していくのでした。

上り調子に見えた官兵衛が窮地に陥ったのは・・・1578年。
信長の重臣・荒木村重が毛利方に寝返りました。
孤立してしまった小寺は、毛利方に寝返ってしまいました。
これに官兵衛は、あくまで”織田方に止まるべきだ”と主張します。

小寺の答えは、荒木を織田方に説得できるならば!!ということでした。

ひとり・・・荒木の元へ・・・城に向かう官兵衛。。。
しかし、官兵衛は、荒木村重に会うこともなく投獄されてしまいました。
狭く・・・暗く・・・じめじめとした牢獄で。。。
何か月たっても、主君が迎えに来ることはありませんでした。
その間にも・・・毛利一色になっていく中・・・織田方を支持する勢力が残っていました。
それは黒田家の領地・姫路。
官兵衛の家臣たち”黒田二十四騎”です。
これまで幾多の戦いを潜り抜けてきた官兵衛の頼もしい家臣たちでした。

主君は行方不明、四面楚歌の中、重大な決意をします。
官兵衛の妻に提出したのは”黒田氏家臣 連署起請文”

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八幡宮の印のある紙の裏に・・・
”主君の身に何があろうとも黒田家に忠誠を尽くすことを神に誓う”
家臣12人の名前と花押が!!




投獄から1年・・・
織田軍が荒木の城を攻略し、ようやく解放される官兵衛。。。
ひとりでは歩けないほど衰弱した官兵衛を助け出したのは、忠誠を誓った家臣たちでした。
主君と仰いでいた小寺家は・・・
不利な立場となり、毛利の地へと逃亡してしまいます。
以後、官兵衛は織田の下につくのでした。

そしてついたのが・・・羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉です。
1582年37歳になった官兵衛は、織田軍の司令官・羽柴秀吉と共に中国を攻略していました。
秀吉の2万5000人の大軍は、軍資金や食料を姫路に置いて戦略拠点とし、毛利に攻め込みます。
衝突したのは備中高松城!!
高松城では水攻め!!
後は敵の兵糧が無くなり、降伏してくるのを待つのみ。。。
しかし・・・本能寺の変が!!
天下を目前にした信長の死は、日本の勢力図を根底から覆してしまいます。
中心となる京都には明智が!!
信長という後ろ盾を失った秀吉・・・。
前には毛利、後ろには明智が・・・!!

信長の死を知った秀吉は取り乱します。
しかし官兵衛は・・・
「貴公・・・天下の権柄を取り給ふべきとこそ存じ候。。。」
あなたこそ、天下を取るにふさわしい・・・そう、秀吉のチャンスだというのです。
後継者になるためには、主君の仇・明智光秀を誰よりも早く討たなければなりません。
しかし、毛利に背中を見せれば殺され・・・京都への強行軍を結成すれば、兵士脱走の危険性がありました。
最後は・・・光秀勢力の地域を突破しなくてはなりません。

官兵衛は、迷わず毛利と停戦交渉を行います。
半日もかけずに・・・
これで京都に向けても背中を襲われることはなくなりました。
6月6日京都に向けて移動開始。
中国大返しです。
怒濤のように突き進んで1日で100キロ走破。
6月8日朝には姫路に到着!!
しかし・・・あまりの強行軍に足軽たちはもう限界に!!
そこで・・・姫路の蔵にに残っていた金銀を、蔵が空になるまで兵に与えます。
秀吉軍の士気は一気に高まり、さらに官兵衛は軍勢より先に・・・賄いを作らせておきました。

わずか4日で150キロを走り抜け・・・京都まで50キロ。。。
京都に近づくにつれ、明智方に味方する武将たちが増えることが予想されました。
ここで官兵衛の真骨頂!!
秀吉軍に上がる旗は・・・宿敵”毛利の旗”。
毛利を味方にしたかのような演出に、武将たちは秀吉方に合流していきます。
大返しの7日後には・・・山崎の戦い!!

明智軍1万に対し、4万にまで膨れ上がった秀吉軍!!
決戦はわずか4時間でした。
光秀軍は壊滅し、秀吉は主君の仇を討つことができたのでした。

この後、秀吉は天下人への階段を登っていきます。
そして官兵衛は、天下統一への道を支えていくことになるのです。

天下統一を狙う秀吉の下で・・・知略を駆使し、次々と敵を撃破していきます。
島津とは・・・手紙作戦で!!
島津の武将たちに寝返るように手紙を書き、精神的に揺さぶります。
武将たちを次々と攻略し・・・たたかわずして九州を制圧!!
北条攻めでは・・・小田原城は難攻不落の城!!
無理に戦えば大損害の中・・・
ひとり・・・刀も差さずに停戦交渉を行います。
北条氏の降伏を引き出して・・・ここに秀吉による天下統一が完成するのです。

官兵衛は秀吉から九州に12万石の土地をもらいます。
しかし・・・この頃から・・・ふたりの関係が危うくなっていきます。
秀吉は・・・あまりにも強い官兵衛が怖くなってきたのです。

「黒田官兵衛・・・
 あやつがその気になれば、天下をとるなど容易いわ・・・」

秀吉が心変わりしていきます。
”秀吉公
 官兵衛の大志ありて武略すぐれたること忌おそれ給う”

疑いをもたれている・・・そう感じた官兵衛は、家督を息子・黒田長政に譲り隠居します。
出家し・・・名前も黒田如水に。。。
老荘思想の”上善如水”からきています。
時代の流れに逆らわず、歴史の表舞台から身を引いたはずでした。。。
が・・・
1598年豊臣秀吉死去。。。

秀吉の死からわずか2年後・・・
1600年関ヶ原の戦い勃発!!
次の天下人を狙う徳川家康と、石田三成が激突します。
天下分け目の決戦でした。
黒田家からは如水の息子・長政が5000の兵で東軍に参加。
三成軍を破り大活躍!!

この頃黒田家では・・・兵は出払っていてもぬけの殻であったのに・・・
55歳の官兵衛が動き出します。
金銀を使って・・・浪人・・・農民や兵を集め出しました。
そして・・・にわかづくりの兵で九州を制圧するために・・・石田についた九州の土地を攻撃していきます。
黒田軍は寄せ集めにもかかわらず・・・怒濤の進軍をし・・・わずか1か月で九州の半分を制圧しましたが・・・

破竹の勢いの如水の元に届いた手紙は・・・
徳川家康からの停戦命令でした。

関ヶ原の戦いは、徳川の勝利によって1日で終了。。。
如水の睨んだ乱世は起こらなかったのでした。
如水は中津へと引き上げます。
新たに占領していた土地は、徳川家康のものとなってしまいます。

その4年後・・・黒田如水は、59歳でこの世を去るのです。
戦国の世を自らの才能に夢と野望を乗せて駆け抜けた男・・・黒田官兵衛。
波乱万丈・・・謎に満ちた人生でした。

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