日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:中大兄皇子

飛鳥時代・・・日本がまだ倭国と呼ばれていた645年。
クーデター乙巳の変によって、時の最高権力者・蘇我入鹿が暗殺され、強大な権勢をふるっていた蘇我氏が滅亡。
古代日本を大きく変える政治改革・大化の改新が始まります。
そんな中、天皇を中心とした新たな国づくりを目指す倭国に、国家存亡の危機が訪れました。
白村江の戦です。

白村江の戦い

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クーデター乙巳の変ののち、大和政権は新たな政治をアピールするため、日本初の元号・大化を定め、
都を飛鳥から難波に移します。
蘇我氏に代わり、政治の実権を握ったのは、中大兄皇子、この時まだ20歳!!
大王と呼ばれた天皇を両親に持つ有力者でした。
中大兄皇子は、天皇を中心とする中央集権体制を目指し、改革を進めていきます。

その一つが、公地公民制です。
それまで有力な皇族や豪族が私有していた人民と土地を天皇のものにすると定めました。
これによって、国家による税や兵の徴収がスムーズに、強大な軍事力を作り上げるために必要な改革でした。

しかし、既得権益を失う豪族が反発。
改革は思うようには進みませんでした。
そんな中、国を揺るがす大問題がもたらされます。

・戦乱、海の向こうより来る
海の向こうは不安定な情勢にありました。
628年、中国大陸に成立した巨大な統一王朝・唐が、東アジア諸国を支配下に治めようと目論んでいました。
狙われた朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済が並び立つ、三国時代・・・
当時、高句麗と百済は新羅への侵攻を繰り返していました。
侵略の脅威にさらされた新羅は、唐に助けを求めます。
ゆくゆくは、最大の領土を有する高句麗を倒し、朝鮮半島を手に入れたいと目論んでいた唐は、新羅の救援要請を幸いにと、660年、百済討伐を決定!!
唐・新羅の連合軍は、百済に18万の兵で侵攻。
百済の王都を陥落させ、滅亡に追い込みました。
その数か月後、倭国に百済の使者がやってきました。

「百済に援軍を送っていただきたい!!」

使者を送ったのは、百済の将軍・鬼室福信でした。
福信ら、生き残った百済の遺臣たちは、百済再興を目指し、半島各地で抵抗を続けていました。
その軍事支援をしてほしいというのです。
さらに、倭国にいた百済の皇王子・余豊璋の召喚も求めます。
余豊璋は、百済王「義慈」の息子の一人でした。

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643年に倭国に人質として送られていました。
人質として送られてくるほどなので、百済王朝の中での地位は上位ではありませんでした。
しかし、百済が唐に攻め込まれて滅んでしまった・・・
百済にいた王族たちは、根こそぎ唐に連行されていました。
百済の遺臣たちが国を再興しようとしても、王に立てる人物がいない・・・!!
そこで、倭国に人質として送られた王子を擁立せざるを得なかったのです。

百済を助けるか、見捨てるか??
中大兄皇子は、大きな決断を迫られました。
強大な唐を敵に回し、もし負ければ国が滅びるかもしれない・・・
倭国の政権内では、百済を見捨てるべしと言う意見が強かったといいます。
ところが、倭国は百済の要請を受け入れて、出兵を決めます。

百済の要請を受け入れた理由①百済との関係
倭国と百済の外交は、4世紀まで遡ります。
当時、高句麗の支配下にあった百済は、独立するために軍事力が必要で、倭国が必要で同盟を結んだのです。
朝鮮半島の国から倭国は、軍事大国として認識されていました。
倭は百済を援護して軍事介入していました。
そして、その見返りとして百済は中国の進んだ文化を提供していました。
そうして、倭国と百済は、友好関係を保っていました。
百済より仏教・易学・医学など、様々なものが倭国にもたらされ、倭国発展の礎となりました。

時のの大王で中大兄皇子の母である第37代斉明天皇は、
「滅亡に瀕したものを助け、継承させるべきことは、恒典に記されている
 百済国が困窮して、我が国に頼ってきた 
 その気持ちを見捨てることはできない」

中大兄皇子もまた、同じ気持ちで、交流を深めてきた百済の窮地を見捨てることはできないと出兵を決意しました。

百済の要請を受け入れた理由②唐の状況
百済の使者のこんな言葉も決断に至りました。

「新羅の軍を破り、百済はその兵を奪った
 唐もあえて介入はしてきません
 各地で挙兵した百済の兵たちは団結し、新羅軍を圧倒!
 唐の軍勢も近づくことが出来ないほど戦局は有利にあります」

唐の介入がなく、百済復興軍は優勢だというのです。

唐の元々のターゲットは、高句麗でした。
唐の目的は、高句麗侵攻にあって、百済は遠征の生涯にならないように先に滅ぼされていました。
唐が百済駐留軍に割ける戦力は多くはなかったのです。
これならば戦えると判断しました。

百済の要請を受け入れた理由③倭国の思惑
さらに、中大兄皇子は野望がありました。
「百済王柵封を軍事力によって達成する!!」
柵封は、中国の皇帝がやったことで、力のある王が周辺諸国の王を自分の臣下に位置付けることです。
日本も中国の皇帝に倣って、百済王として擁立した余豊璋を、倭国王の臣下に位置づけようとしました。

斉明天皇は、みずから筑紫国に赴き、百済救援軍の陣頭に立ちました。
男性であっても陣頭に立った例はありません。
そこまでしたのは・・・斉明天皇は、東アジアの動乱の中で、倭国を軍事拡張路線へ導こうとしていたのです。
百済救援戦争を通じて倭国の領土御拡大させ、次の天皇として中大兄皇子に与えようとしたのです。

斉明天皇は、難波宮で様々な兵器を準備し、駿河国には船を作るよう命じました。

日本国の誕生?白村江の戦、壬申の乱、そして冊封の歴史と共に消えた倭国

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661年1月、斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇子・中臣鎌足らが兵を率いてなにわを出航。
本拠となる筑紫国へと向かいました。

斉明天皇と中大兄皇子らは、各地で兵を動員しながら瀬戸内海を西へと進んでいきました。
その即席が残されているのが、岡山県真備町・・・上二万・下二万という地名が残っています。
中野終えの皇子が立ち寄り、2万の兵を集めたという伝説が残っています。
3月25日、一行は現在の福岡県博多港にあたる那大津に到着しました。
5月9日に筑紫国の朝倉橘広庭宮で出兵の準備に入ります。

ところが・・・思いもかけない事態が起こります。
7月24日、斉明天皇倒れて崩御
すると、後を継ぐべき中大兄皇子は即位をせずに大王としての権力を振るうことができる称制と呼ばれる政治形態をとります。
斉明天皇が始めた戦争を完遂しなければ、周囲から斉明の後継者として認められないという状況でした。
偉大な母の後継者となるには、この戦いに勝ち、自らの実力を知らしめ、周囲を納得させなければなりません。
こうして、中大兄皇子は唐という大国と戦うことになったのです。

661年7月、中大兄皇子は長津宮に移って軍勢を指揮、出兵の準備をします。
そして倭国は、百済救済のため、3回の遠征を行い、のべ4万2000の兵を朝鮮半島に送ります。

662年1月、5千の兵による第1陣が出航。
そこには、百済復興の希望・余豊璋の姿がありました。
倭国軍に護衛され、およそ20年ぶりに百済の地を踏んだ豊璋。
百済復興軍を率いる鬼室福信と合流し、百済王として擁立されます。
この時、百済が本拠地としたのがクムガンの河口、白村江に近い天然の要害・周留城でした。
倭国・百済連合軍は、戦いを優位に進めていきます。
白村江周辺の地形、潮の流れを熟知していた鬼室福信の指揮も的確でした。
百済復興軍は、ゲリラ戦を繰り広げ、唐・新羅連合軍を翻弄・・・新羅の城を落とすなど、戦果をあげていきます。
唐の皇帝・高宗が、倭国・百済連合軍の抵抗に、百済からの撤退を指示したほどの勢いでした。

ところが・・・倭国・百済連合軍内に大事件が勃発します。
百済王となった豊璋が、将軍・福信を処刑してしまったのです。
日本書紀によると・・・
”豊璋が福信を捕らえ、その罪を明らかにした後惨殺した”とあります。
福信が、何らかの罪を犯したというのです。
それは、処刑の半年前・・・険しい地にあった周留城では、兵士たちの食糧確保が困難となったため、百済軍の豊璋と福信は、本拠地を避城に移しました。
倭国の将軍たちの反対を押し切ってのことでした。
しかし・・・平坦な地にあった避城は、敵の激しい攻撃にさらされてしまいます。
わずか2か月で周留城に戻ることになってしまうのです。
無駄な死出費と労力を使った本拠地の移動は、倭国・百済連合軍に痛手を与える大きな失敗でした。
百済王・豊璋は、軍事指揮官・福信ひとりに責任をとらせ罰したと言われています。
こうして豊璋が福信を殺したのにはそうしなければならない理由がありました。
二人の不仲です。
豊璋は、王子としての位が低かったので、福信が内心自分をさげすんでいるのでは??と思っていました。
福信は、自分こそが百済の復興を引っ張ってきたというプライドがありました。
福信は、百済王家と姻戚関係を結んでいました。
百済王にはなれないけれど、それに次ぐ家格だったのです。

避城への移住を最初に主張したのは豊璋でした。
福信は、移動することに異議を唱えませんでした。
福信は、避城への移動の失敗を豊璋のせいにするのでは??

福信は、自分罪を着せる豊璋の殺害を画策したと言われています。
本拠地移動の失敗で、豊璋と福信の仲は決裂!!
身の危険を感じた豊璋が、先んじて福信を殺害したのです。

卓越した軍事指揮官だった福信を失った百済軍は一気に弱体化し、戦況は不利となります。
唐は、新羅救援のために7000もの兵を送り込みます。
唐・新羅連合軍は、豊璋が立ても凝る周留城を水陸から包囲、戦況は一気に唐・新羅連合軍有利へと傾いていきます。

663年3月、九州・長津宮で指揮を執っていた中大兄皇子は、倭国・百済連合軍劣勢の報せを受け、第2陣の派兵を決めます。
その数2万7000!!
さらに8月、第3陣として1万の兵を送ります。
百済軍の本拠地である周留城が、唐・新羅陸上部隊に包囲されてしまったからです。
さらに唐から水軍およそ170艘が、白村江に布陣!!
周留城周辺に駆けつけるであろう倭国軍を向かえ撃つためでした。
唐の予想通り、倭国軍第3陣の1万の兵は、400艘の船で周留城に向かっていました。
そして、8月27日・・・倭国軍は、待ち構えていた唐の船団と激突!!
白村江の戦い勃発です。
唐の軍船は170艘・兵は7000あまり
倭国軍は400艘・1万人と、数の上では優勢でした。
ところが、倭国軍は、大敗を喫するのです。
日本書紀には・・・
”ときのまに官軍敗れぬ”
あっという間に勝敗が決したといいます。
どうして倭国軍が、惨敗したのでしょうか??
有能な指揮官・鬼室福信を失ったこと以外にも、様々な要因がありました。

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敗因①無謀な敵中突破
倭国軍第3陣の目的は、周留城救援のための兵の輸送で、海上戦は想定外でした。
白村江での戦いは、2日間にわたって行われました。
1日目(8月27日)・・・倭国軍は、全ての船が戦場に到着していなかったのに、戦いを挑みあえなく敗走。
2日目(8月28日)・・・再び戦闘。倭国軍は、前日の敗戦にもかかわらず、待ち構える敵に策もなく突入!!
指揮系統も一本化されておらず、それぞれの豪族たちが手柄をあげようと、無謀な突入を繰り返したのです。
倭国は、まだ徴兵制が施行されていませんでした。
豪族の私兵の寄せ集めによる混合軍でした。
数の上では倭国軍が勝っていましたが、しかし、寄せ集めという弱点は覆せませんでした。
一方、唐軍は、見事な連携と巧みな操船により、左右から倭国軍の船を挟み撃ち!!
倭国軍の兵は、次々と唐軍の餌食となりました。
唐は、律令制が確立しており、戸籍による徴兵が行われていました。
府兵制という常備軍もすでに完備していました。
倭国の寄せ集めとは比べ物にならない質のいい兵が備わっていました。

敗因②軍船の性能
数で劣るとはいえ、楼船と呼ばれる唐の船は三層の櫓を持つ巨大な軍船でした。
鉄の甲板は、馬が走り回れるほどの広さで、乗船できる兵は数百に及びました。
対して倭国軍の船は、輸送用の小舟にすぎず、乗れる兵もわずかでした。
果敢に挑むも、火矢を浴びせかけられ海の藻屑となりました。

”戦いは四度び及び、全て唐軍の勝利
 倭国水軍の船 四百艘を焼き払い
 その煙は天を覆い海は真っ赤になった”by旧唐書

寄せ集めの倭国の兵と、常備軍の唐の兵との質の差と、強力な唐の楼船に太刀打ちできずに倭国軍は惨敗を喫したのです。

663年、倭国は白村江の戦いで大敗。
中大兄皇子は、唐と新羅の倭国侵攻に備え、北九州を中心とした軍事施設の建設に邁進していきます。
福岡県筑紫野市にある前畑遺跡・・・
ここで発見された土塁は、発掘されている部分だけでも長さ500m。
砂や粘土などを固めた「版築」という技術で、堅固に作られています。
この遺跡の土塁は、巨大な防衛網の一部ではないかと推測されています。
護ろうとしたのは、大和政権最大の出先機関・大宰府でした。
中大兄皇子は、筑紫国に大野城などの山城を築きます。
さらに、水城・・・全長1キロに及ぶ堤防で、堀に水をためた防衛施設を作りました。
コレラの防衛施設に、山や川など自然の地形を利用して、大宰府を守る全長50キロ以上もの防衛網を作ったと考えられています。
そして、九州北部沿岸の対馬・壱岐などには警備に当たる防人らを配置。
中大兄皇子は他にも、進行ルートとなりうる瀬戸内海沿岸に山城を築きました。
そこには、別の狙いもありました。
西日本の各地に朝鮮式山城という要塞を作っていきました。
専守防衛のためと考えられますが、主要な山城の近くには、太宰・惣領と呼ばれる軍事組織が置かれていました。
筑紫・周防・伊予・吉備に軍事施設を設け、徴兵を強化しました。

667年には、都を海に近い難波宮から、責められにくい内陸の近江大津宮へ遷都。
しかし、結局、唐・新羅連合軍が倭国に攻めてくることはありませんでした。
どうして、唐と新羅は攻め込んでこなかったのでしょうか?

668年、唐と新羅は高句麗を攻め、滅ぼしました。
すると、領土の配分を巡って、両国の間で諍いが起きます。
唐は、領土のほとんどを自分のものにしようとしましたが、新羅が反対し、武力衝突へ!!
朝鮮半島の戦いにおいて、倭国の軍事力はキャスティングボートを握っていました。
朝鮮半島を直接支配しようとする唐・・・新羅と戦っている唐に、倭国を攻める余裕はありません。
うまく関係改善できれば、軍事支援が期待できる・・・!!
新羅は、倭国に背後から攻められる恐れがあり、関係改善の必要がありました。
唐と新羅、それぞれの事情から、倭国と関係を改善する必要に迫られ、両国ともに攻めてくることはありませんでした。

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唐より、白村江の戦いで捕らえられた捕虜の返還が行われました。
両国は、和解への道を進んでいきます。
一歩間違えれば、国が滅んでいたかもしれない倭国・・・
古代日本が襲われた国家存亡の危機はこうして回避されたのです。

668年、中大兄皇子は即位し、第38代天智天皇となります。
そして、画期的な改革に着手します。
670年、日本初の戸籍「庚午年籍」の作成に着手。
庚午年籍は、身分、氏姓を確定するための台帳として利用され、租税収入の予測を容易にしました。
しかし、最大の目的は・・・
「白村江の戦い」での敗戦によって、徴兵軍の強さを思い知らされました。
庚午年籍は、全国規模の戸籍です。
戸籍があることで、民衆から一定の割合で兵を集めることが可能となりました。
庚午年籍は、徴兵制確立のために、なくてはならないものだったのです。

天皇になる前、中大兄皇子は自らの力を見せようと、唐・新羅連合軍との戦いに挑みましたが、白村江の戦いで大敗・・・
しかし、その敗戦が、天智天皇の目指す国づくりを進める結果となったのです。
手痛い負け戦・・・外敵からの脅威は、豪族たちに危機感を生み、国をまとめる結果となりました。
この時、倭国には、多くの百済貴族・官僚らが逃れてきていました。
最先端の知識を持った百済人・・・そのたくさんの知識を吸収したことで、倭国の文化は発展しました。
改革は一気に進んでいったのです。

「今度こそ、強い国がつくれる」

白村江の戦いによって、天皇を中心とする中央集権国家へと変わる加速度が増しました。
しかし、道半ば・・・671年、天智天皇崩御・・・46歳でした。
その志は、弟・天武天皇が引き継ぎ、新たな国の形・律令国家を目指していったのです。

白村江の戦いで大敗によって、倭国は軍事拡張路線を土台とした律令国家へと変わっていきます。
天皇を中心とした中央集権体制を、日本という国を形作っていくのです。
律令国家・日本の誕生・・・その契機となったものの一つが、白村江の戦いでした。


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壬申の乱─新しい国家の誕生─

奈良県明日香村・・・飛鳥時代の遺跡が多く発掘されている古代日本の歴史ロマン香る場所です。
ここで、日本という新しい国づくりに生涯をささげた兄弟がいました。
兄の中大兄皇子と弟の大海人皇子です。
2人はともに即位し、第38代天智天皇、第40代天武天皇となりました。
そして、天皇を中心とした法に基づく律令国家建設を目指したのです。
しかし・・・兄弟の人生は、共に波乱に満ちたものでした。
日本という国の礎は、如何にして作られたのか・・・??




天皇がまだ大王と呼ばれていた時代、天智天皇は626年、第34代舒明天皇の皇子として生まれます。
母は宝皇女・・・後の皇極天皇です。
即位前の名は中大兄の皇子。
大兄は皇位継承の刺客があることを示す称号で、中大兄は、第二皇子を意味していました。
一方、弟・大海人皇子・・・後の天武天皇は、同じ両親のもと630年前後に生れたとされています。

大海人皇子の生まれた年がどうしてはっきりとしないのか・・・??
大海人・・・凡海(おおあま)氏出身の乳母に育てられた・・・凡海氏とが、諸国に住む海人(漁師)を統括した氏族です。
そんな特異な集団に育てられたと思われます。
つまり、大海人皇子は、中大兄皇子のように天皇に即位できる立場ではなかったのです。
その為、大海人皇子は、生まれ年はおろか、その前半生が歴史の陰に隠れています。
対して、常に表舞台にいたのが中大兄皇子でした。
その名が大きく注目されるのは、父・舒明天皇の崩御後、母・皇極天皇の御代となった645年、歴史のターニングポイントとなる大事件を起こすのです。
それが乙巳の変・・・
日本書紀によれば、まだ20歳だった中大兄皇子が中心となり、天皇を蔑ろにし権勢を振るっていた蘇我入鹿らを成敗したとあります。
事件の首謀者は別にいました。
皇極天皇の弟で中大兄皇子の叔父である軽皇子です。
そういわれる由縁は、事の発端が皇極天皇の後継をめぐる皇位継承争いだったからです。
この時軽皇子は次の天皇候補の一人でした。
しかし、ライバルがいました。
中大兄皇子の母違いの兄で崩御した舒明天皇の第一皇子だった古人大兄皇子です。
軽皇子は焦ります。
朝廷の権力者・蘇我入鹿が従兄弟に当たる古人大兄皇子の後ろ盾にいたことで、優勢だったからです。
そこで軽皇子は、後ろ盾の入鹿を亡き者にすれば状況が変わる・・・と暗殺を計画。
中大兄皇子を取り込み、朝廷での儀式の際に、中臣鎌足や、蘇我倉山田石川麻呂らと共に入鹿暗殺を実行させたのです。

事件後、身の危険を感じだ古人大兄皇子は、出家して吉野に退きました。
軽皇子は皇極天皇の後を継いで即位、第36代孝徳天皇となりました。
こうして、一番得をしたのが軽皇子だったことから、事件の首謀者とされています。
しかし、中大兄皇子にとって古人大兄皇子は母違いとはいえ、血を分けた兄・・・どうして実の兄を陥れる計画に加担したのでしょうか??
古人大兄皇子が即位すると、その系統に王位(皇位)が渡り、自分が即位するチャンスが亡くなってしまうのです。
当時は母系社会で、母方の血筋が重視されていました。
その為、古人大兄皇子が天皇になれば、蘇我氏の流れをくむ母方の系統で受け継がれ、中大兄皇子は蚊帳の外。
対して軽皇子は、中大兄皇子の母である皇極天皇の弟で同じ系統でした。
その叔父が天皇になった方が、次が回ってくる可能性が高いと考えたのです。

新たに即位した孝徳天皇は、都を飛鳥から難波宮に移します。
飛鳥には、それまで力を持っていた豪族のしがらみが多く、そこで政治を一新するのは難しかったからです。
そして、新たな都で政治改革を任されたのが皇太子の立場となった中大兄皇子でした。
改革が求められたのは理由がありました.。
当時の倭国・日本は、法律や制度が十分には整っておらず、古代中国である唐などから野蛮な国と見下されていました。
さらに、有力豪族が乱立し、国が一つにまとまっていなかったので、海外から侵略された場合、国を守ることができない可能性がありました。
目指すは、唐を見本にした中央集権国家でした。
そうしてはじめられた政治改革が大化の改新でした。

改革①「公地公民制」
これまでは、皇族や有力豪族が人民と土地を個別に所有していました。
これを廃止、全てを公・・・天皇のものとし、税が天皇のもとに集まるようにしました。

改革②「班田収授法」
6年ごとに人民の戸籍を作成。
戸籍に記載された人民に、一定の土地を貸出、耕作させ、税を治めさせることで税収の安定を図りました。

改革③「税制の整備」
天皇から貸し出された田畑で作られた作物を租・朝廷から命じられた労役を庸・公民が作った布や特産物を調として税制を整備。
これで、税制だけでなく、天皇に対する労役も人民に義務付けられました。
こうして新たな国づくりに邁進する中大兄皇子でしたが、乙巳の変ののち出家して吉野に身をひそめていた古人大兄皇子に謀反の疑いをかけ処刑。
また、乙巳の変の協力者だった蘇我倉山田石川麻呂にも謀反の疑いをかけ自害に追い込むなど、中大兄皇子は政敵になりそうな者たちを次々に排除していきました。

さらに、意に反すれば天皇にも牙をむきます。
政治改革をめぐり孝徳天皇と対立すると、中大兄皇子は母で先の天皇だった宝皇女や弟の大海人皇子など、主だった皇族と進化を引き連れ飛鳥へと戻ってしまいます。
これに孝徳天皇は激怒しますが、心労が祟ったのか・・・654年孝徳天皇が崩御。
それによって、中大兄皇子と大海人皇子の母・宝皇女が再び即位し第37代斉明天皇となります。
その後まもなくして中大兄皇子は、崩御した孝徳天皇の子・有間皇子を謀反の罪で処刑。
自らが天皇になるうえでの邪魔者を、早々に排除したのです。

中大兄皇子には皇子がいましたが、幼くして亡くなったり、存命でもその母親が地方の豪族出身など身分が低かったため後継に相応しい皇子がいませんでした。
そこで、自分の娘を弟の大海人皇子に嫁がせてその間に生まれた皇子を大王(天皇)にしようと考えました。
その思いを叶えるかのように中大兄皇子の娘たちと大海人皇子との間に草壁皇子・大津皇子が生まれました。
待望の孫の誕生に、中大兄皇子は喜んだことでしょう。
しかし・・・朝鮮半島への出征の方は上手くいきませんでした
長旅が堪えたのか、661年斉明天皇が九州で崩御。
中大兄皇子の即位が望まれましたが・・・拒否して称制という形で天皇に即位せずに政務を執り、軍を指揮します。
朝鮮半島に渡った倭国の軍勢は、唐・新羅の連合軍と激突!!
その結果、惨敗してしまいました。
白村江の戦いです。
これにより、中大兄皇子の軍は日本への撤退を余儀なくされます。
中大兄皇子は、飛鳥に戻ったのちも、称制の形で政を行います。
まず取り掛かったのは、唐の侵攻に備えるための国防の強化です。
対馬や壱岐、九州北部に防人を置いて、監視に当たらせます。
西日本各地には砦となる水城を置きます。
さらに、遣唐使を派遣、唐・新羅との関係修復に努めます。
そして、中大兄皇子は、667年に都を近江大津宮に移すと、668年、遂に即位し天智天皇となります。
斉明天皇崩御からおよそ7年・・・43歳になっていました。



どうしてなかなか即位しなかったのでしょうか??
その理由は、慎重な性格で、天皇になる盤石な体制を待っていたとか、天皇になると命を狙われると恐れていたとか、白村江の戦いで破れた責任を感じ戦後処理をしていたなど諸説あります。

この頃から、資料には大海人皇子の名前が出てきます。
天智天皇即位後には、偉大なる天皇の弟君を意味する”大皇弟”という尊称で呼ばれていたことから、重要な地位にあったと考えられます。

日本書紀によると、中大兄皇子が天皇となった668年、天皇が弟の大海人皇子や軍臣、女官などを連れて蒲生野に狩りに出かけたとあります。
当時の狩りといえば、男性は強壮剤となる鹿の角を獲る・・・女性は野山で薬草を採取したものでした。
この狩りには、万葉集を代表する額田王もいました。
皇族の生まれで天才歌人、絶世の美女とされた額田王は、この日こんな歌を詠んでいます

あかねさす 紫野行き 標野行き
            野守は見ずや 君が袖振る

額田王があなたと呼んで歌を詠んだ恋の相手こそ大海人皇子でした。
こんな歌を返しています。

紫草の にほへる妹を 憎くあらば
         人妻故に 我恋ひめやも

額田王は人妻でした。しかも、その夫が問題でした。
大海人皇子が恋焦がれた額田王の夫は兄の天智天皇でした。
天皇の后である額田王との禁断の恋となれば、宮廷の大スキャンダルです。
しかし・・・この三角関係はもっと複雑でした。
日本書紀によると、額田王は、大海人皇子の最初の妻でした。
2人の間には、十市皇女と呼ばれる娘までいました。
しかし、やがて額田王は、天智天皇からの寵愛を受けるようになり、遂には天皇の妻となったのです。
大海人皇子はこの時、多くの妻を娶っていましたが、最初の妻であった額田王は特別な存在でした。
しかし・・・歌は、座興の歌・・・
酒宴の席で、かつて夫婦だった2人が場を盛り上げるために作った歌だったのです。

近江大津宮で天皇を中心とした中央集権国家の建設を目指す天智天皇・・・
それは、大国・唐と対抗でき得る強い国を創るためでした。
その一環として、670年、天皇は日本初の全国的な戸籍といわれる庚午年籍を制定。
人民の所在を把握し、徴兵や徴税などを確実に行えるようにします。
越して新たな国づくりを着々と進めていく一方で、悩んでいました。



次の大王を誰にすべきか??

天智天皇は、いずれ自分の娘と大海人皇子の間に生まれた皇子で孫となる草壁皇子か大津皇子のどちらかと考えていました。
ところが・・・天智天皇が晩年を迎えた段階で、草壁皇子も大津皇子もまだ幼く、すぐに天皇になることは無理だったのです。
そこで、間をつなぐための人が必要でした。
671年、ある決断をしました。
天智天皇の皇子でありながら、母親の身分が低いために後継候補から外れていた大友皇子を太政大臣に任じたのです。
それは、太政大臣として経験を積ませたうえで、中継ぎの天皇とし孫へとつなぐためでした。
ただ、天皇の中継ぎであればこれまで補佐してきた弟・大海人皇子でもよさそうですが・・・
当時は天智天皇の子孫が天皇になることが決まっており、弟の出る幕がなかったのです。
日本書紀によると、671年天智天皇が病に倒れます。
しかし、床に臥した天皇が枕元に呼んだのは大友皇子ではなく弟の大海人皇子でした。
そして驚くべき言葉を伝えるのです。

「我の病は重い・・・
 後のことは汝に任せた」

それは、弟である大海人皇子に皇位を譲るという遺言でした。
ところが、大海人皇子は天智天皇の皇后となる倭姫王を次の天皇とし、大友皇子を補佐役にするのがよいだろうと推薦、しかも病気がちな自分は出家するというのです。
その言葉通り、大海人皇子は出家し、吉野へと向かいました。
実はこの時、天智天皇が譲位の意を告げたのは息子である大友皇子の即位を脅かす恐れがある弟の本心を探るためでした。
譲位を受けると謀反ありとして粛清されることを恐れ、身を守るために出家したと推察できます。

壬申の乱勃発・・・
671年、兄・天智天皇からの即位の要請を断った大海人皇子は、その足で出家。
冬の寒さが厳しい中、家族や舎人や女官など70人ほどを連れ吉野に向かいます。
都を後にする大海人皇子を見送った近江朝廷の重臣たちは、こういったといいます。

「虎に翼をつけて放ったようなもの!!」

重臣たちは、大海人皇子を恐れていました。
しかし、当の本人は・・・虎のような勇猛さはありませんでした。
まさに都落ちの気持ちで吉野にいたのです。
672年、兄天智天皇が崩御したのは、その2か月後・・・46歳でした。
ところがその半年後・・・大海人皇子、挙兵!!
これに対し、大友皇子の近江朝廷も挙兵します。
672年、古代最大の内乱・壬申の乱の勃発です。
どうして吉野でひっそりと暮らしていた大海人皇子が・・・??
一説によると、天智天皇崩御後、大友皇子が第39代弘文天皇に即位したとされています。
そして、日本書紀によれば、吉野の大海人皇子のもとに朝廷の舎人・朴井雄君などが訪れこう告げます。

「近江の朝廷が、先の大王(天智天皇)の陵を造るという口実で、人々に武器を持たせております」

それは、朝廷が大海人皇子を討つための戦の準備だと!!
さらに・・・

「吉野の監視が強まり、こちらへの食糧の供給も断たれております」

食糧の供給が絶たれては生きてはいけない・・・
日本書紀は、この時大海人皇子を追い詰めたのは朝廷の権力を握ろうとしていた重臣たちと書かれています。
朝廷をわがものにしようとしていた重臣たちは、その障害となる大海人皇子を亡き者にするため戦の準備をしているのだと・・・!!
そこで、大海人皇子は、そのたくらみを阻止し、自らのみを守るために挙兵したというのです。
しかし・・・これは歴史の改ざんです。
壬申の乱は、大友皇子から天皇の座を奪うために挙兵したと思われます。

6月24日、吉野を出た大海人皇子らは、3日後には不破に到着。
不破の道と呼ばれる東国と西国をつなぐ道を封鎖すると、ここで兵を集めます。
大海人皇子はどのようにして兵を集めたのでしょうか??
内乱が起きる2年前に、庚午年籍という戸籍が出来ています。
大友皇子は「庚午年籍」を使い兵を集めていました。
大海人皇子はこれを逆に利用したのです。
「庚午年籍」を使って兵を集める国司に働きかけ、大友皇子が集めた兵を横取りしたのです。
国司たちが大海人皇子の味方に付いたのは、母親の身分が低い大友皇子よりも大海人皇子の方が血統的に優れていると考えたことが大きかったのです。
こうして、2万とも3万ともいわれる兵を集めることに成功した大海人皇子。
対する大友皇子の朝廷軍も同様の数に及びました。
その大軍勢が激突した壬申の乱は、激しい攻防が繰り広げられ・・・7月22日、近江瀬田川の唐橋で決戦!!

橋の東側に大海人皇子軍、西側に大友皇子軍の朝廷軍が布陣!!
大友皇子は、橋の中央に穴をあけて長板を置き、敵が橋を渡ってきたら括りつけた縄をほどき、板を外して敵を川に落としたのちに矢を射かける作戦に出ます。
大海人皇子軍は苦戦を強いられますが、勇気ある兵士が突撃し、縄を斬ったことで敵はそれ以上板を外すことができなくなり、形勢は逆転!!
大海人皇子軍が勝利しました。
逃げきれないと悟った大友皇子は自害・・・まだ25歳でした。



2カ月以上続いた内乱は集結。
その翌年・・・673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮へ遷都・・・天武天皇として即位・・・43歳でした。

壬申の乱に勝利したのち、飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、律令国家の建設を目指しこう宣言します。

「新たに天下を平し!!」

天武天皇は、新しい身分制度「八色の姓」を制定。
真人・・・天皇の身内
朝臣・・・天皇の血筋につながる人
宿禰・・・天津神・国津神の子孫
忌寸・・・渡来系豪族
道師・・・詳細不明
臣・・・・詳細不明
連・・・・詳細不明
稲置・・・詳細不明
身分によって8つの姓に分け、天皇とそのほかの氏族たちの身分の差をより明確化することで、天皇の権力強化を図ります。
そして、681年、唐のような律令国家にするため、律令の編纂を開始します。
それが飛鳥浄御原令です。
しかし、原本が見つかっていないため内容がわかっていません。
同じ年には、正当な天皇の血筋を伝える日本初の正史とされる「日本書紀」「古事記」の編纂を命じています。
倭国という名を改め日本という国号を定め、大王を初めて天皇と名乗ったのも天武天皇とされています。
全ては唐に負けない国に強い国にするためでした。

その中で、天武天皇が何より大切にしたのは、新しい都の建設でした。
日本書紀によると、676年には飛鳥浄御原宮から北西に3キロほど離れた土地に後に藤原京と呼ばれる都を造成しようとしていたといいます。
発掘調査でも証拠が残っています。
新たな都づくりは、土地の造成や資材の調達、道路整備に排水路網の整備・・・すべてがこれまでにない大規模なものでした。
条坊制を初めて日本で採用した唐風都城となるはずでした。
しかし、天武天皇がその目で都を見ることはかないませんでした。

686年、天武天皇崩御・・・藤原京造営も中断されてしまうのです。

しかしこの後、天武天皇の后・第41代持統天皇が夫の遺志を継ぎます。
天皇崩御から4年・・・藤原京の造営を再開。
694年、藤原京遷都。
この都で政を行ったのは、天智天皇と天武天皇の地を継ぐ者たち・・・
日本で初めて行政法、民法、刑法の3つが揃った本格的な法律・・・
飛鳥浄御原令をもとにした大宝律令を制定します。
それは、新たな国づくりに命を燃やした兄弟・・・天智天皇と天武天皇が夢見た律令国家の姿・・・日本の新たな国の形でした。

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645年、飛鳥時代の日本で、歴史を変える大事件が起きました。
大和政権内で、天皇をもしのぐ権勢を誇っていた蘇我入鹿が暗殺されたのです。
世に言う”乙巳の変”!!
この政変の重要なカギを握っていたのが中臣鎌足でした。

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奈良県高市郡明日香村・・・一説に、中臣鎌足は、推古天皇の治世にあった614年、この地に生まれたと言われています。
大原神社の境内の奥にあるくぼ地・・・鎌足産湯の井戸と伝わっています。
その生まれについて、鎌倉時代に作られた「多武峰縁起」には、奇妙な話が残されています。
ある夜・・・鎌足の母・大伴智仙娘が眠りにつくと、股の間から藤の木が生え、そのツルが国中に巻き広がって花を咲かせるという夢を見ます。
そして、目が覚めると男の子を身ごもっており、12カ月後に生れたのが鎌足だったというのです。
さらに・・・赤ん坊の鎌足の枕元に白い狐がやってきて、鎌足を腹の上に乗せるとまじないを唱え、藤のツルが巻き付いた鎌を与えてこう告げたといいます。

「お前は天子の師範となったのち、この鎌で蘇我の大臣という悪人の首をはねて天下を平げ、大臣の職に上りつめ、天子に法を授けることになるであろう」

しかし・・・これらは後に創作された逸話・・・
藤原氏のカリスマ性を高めるために作られたものと思われます。
実際の鎌足とは・・・??

中臣鎌足は、父が中臣氏の中心人物である中臣御食子の長男として生まれました。
中臣氏は、大和朝廷の神事や祭事を司る家柄で、中級豪族の一つでした。
神と人、神と天皇の間を取り持つことから「中臣」という氏名が生まれました。
鎌足は神祇官になるべく生まれた子だったのです。

言い伝えによれば、鎌足は生まれつき体が大きく容姿端麗。
その人柄は・・・
”大臣は重い槍が深く親をとても大切にし、思考力が鋭く、先見の明があるお人であった”by藤原仲麻呂

仲麻呂は、鎌足のひ孫・・・奈良時代後期、鎌足をはじめとする藤原氏の伝記「藤氏家伝」を編纂した人物です。
神祇官になるべく生まれてきた鎌足は、幼いころから聡明で、学問を好んだといいます。
鎌足に、絶大な権勢を振るっていた蘇我氏本家の入鹿も敬意を表していました。
しかし、2人は歴史の表舞台で敵対することになります。
乙巳の変です。

事の発端は、大王の皇位継承問題でした。
時の大王・皇極天皇が皇位を退く意思を見せると、有力な後継候補となったのが皇極天皇の夫で先の大王・舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子と皇極天皇の実の弟・軽皇子でした。
優勢だったのは、蘇我氏本家と姻戚関係にあった古人大兄皇子・・・
この頃すでに40代後半となっていた軽皇子は焦っていました。
このまま古人大兄皇子が大王になれば、年齢的に今後自分が皇位に就くチャンスはないと考えたからです。
そこで、一説に、軽皇子は、蘇我氏本家を滅ぼせば古人大兄皇子を後継争いから引きずりおろせると考え、蘇我氏殺害計画を目論んだと言われています。
その計画に鎌足が加わりますが・・・いったいどうしてなのでしょうか??

「私のひいおじいさんである鎌足は、軽皇子と以前から親しい仲であった
 ひいおじいさんは、軽皇子の館に足しげく通い、一晩中語り合うほどだったのだ」

鎌足が大きな政治構想を持ち、懸命な人材であることを悟った軽皇子は、鎌足を手厚く保護したのです。
つまり、鎌足は、軽皇子から寵愛を受けていた臣下だったのです。
鎌足もまた、軽皇子が皇位に就くことを願っていたため、主君の思いを叶えるため、蘇我氏殺害計画に加わったのです。
もう一つの理由は・・・??
奈良時代に成立した日本最古の正史「日本書紀」には・・・
蘇我氏本家の蝦夷・入鹿親子は、甘樫丘の上に自らの屋敷を建てて、その下にある天皇の宮中を見下ろしたり、先祖を祀る霊廟で天皇の儀式の際にのみ行われる八つらの舞を舞わせたりと、天皇を蔑ろにするような越権行為をしていたといいます。
目に余る蘇我氏の行為に鎌足は・・・

「王室が衰退し、政が大王によらなくなった
 このままでは だめだ」by鎌足

蘇我氏本家の世を終わらせることも、鎌足が殺害計画に加わった理由でした。
しかし、相手は強大な力を持つ蘇我氏・・・
万全を期すため、共に計画を進めてくれる人物を探す必要がありました。

皇極天皇の皇子である中大兄皇子・・・!!

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しかし、接点がありませんでした。
そんな中、鎌足は、蹴鞠の会に参加します。
すると、そこに中大兄皇子もいて・・・まりを蹴った際に脱げた靴が偶然鎌足の前に飛んできました。
鎌足はそれを拾うと、中の大兄皇子の前に跪き、手渡しました。
これがきっかけで二人は親しくなったといいます。
そして、鎌足は、中大兄皇子に、蘇我氏殺害計画を打ち明け、力を貸してくれるように頼みます。
中大兄皇子は、母系社会であった当時、母違いの兄・古人大兄皇子より同じ母方の系統である叔父・軽皇子が王位についた方が将来自分が天皇になりやすいと考え、鎌足の計画に乗ることにします。
こうして鎌足は、中大兄皇子という強い味方を得たのです。

中臣鎌足は、主君である軽皇子を天皇にするため、その障害となっていた蘇我入鹿・蝦夷親子の殺害を画策!!
中大兄皇子と共に、殺害をするためのメンバーを密かに集めていきます。
鎌足が目をつけたのは、入鹿の従兄弟でありながら入鹿と不仲だった蘇我倉山田石川麻呂・・・
不仲とはいえ、蘇我氏一族である石川麻呂が加われば、相手も油断して計画を進めやすくなると考えたのです。
そこで鎌足は、中大兄皇子にこう進言します。

「石川麻呂は、意思が強く勇敢で、その威光と人望も高いものがあります
 もし、石川麻呂の賛同を得ることができたならば、謀は必ずや成功するに違いありません
 そこでまずは、皇子が姻戚となり、その後、肝必要の戦略を実行に移したいと思います」by中臣鎌足

中大兄皇子が石川麻呂の娘を娶り、関係を密にしたのち、蘇我氏殺害計画に引き込もうというのです。
中大兄皇子は、この鎌足の策に同意、石川麻呂も皇子と姻戚関係を結べば家の格が上がると考え話に乗ってきました。
そして、すぐに長女を嫁がせることにしました。
しかし、問題が・・・!!

「嫁入りの華やかな行列を迎えようとしたまさにその時だった
 石川麻呂の弟である蘇我日向が、嫁入りすることになっていた石川麻呂の娘を連れ去ってしまったのだ」by仲麻呂

花嫁を奪われた石川麻呂は、慌てふためきます。

「皇子はお怒りに違いない!!」by石川麻呂

その様子を見かねた石川麻呂の次女が「私が参ります」と、身を挺したことで、長女に代わって次女が嫁ぐことになり、中大兄皇子と石川麻呂の姻戚関係は無事結ばれることになったのです。
しかし、中大兄皇子は、長女を奪っていた日向の無礼に怒りが治まらず、処罰しようとします。
これを知った鎌足は、

「すでに国家に関する重要な謀を決めたにもかかわらず、どうして家中の些細な過失にお怒りになるのか」by鎌足

この言葉に、中大兄皇子は思いとどまり、その後、計画通り石川麻呂を味方に引き入れることに成功!!
次に鎌足は、蘇我氏殺害の刺客として宮殿の護衛を担当していた佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田を取り込みます。
着々と計画を進めていく鎌足・・・
日本書紀によると、この頃、鎌足は神祇官の長官である神祇伯に任ぜられます。
ところが、これを固辞したのです。
この時代は、その氏族に生まれた子供は当然のようにその職を担って父親を凌ぐのが目的だった時代・・・
中臣氏の世襲の職務を継承することを拒んだのです。
どうして鎌足は、軽傷を拒んだのでしょうか??

鎌足は目指していたものが他にあったのです。
鎌足が亡くなる時に、日本書紀には・・・

「生きては軍国のために十分奉公が出来なかった」

というような記載があります。
中央集権的な国家=軍国を作っていかなくてはならないということを語った言葉です。
鎌足は、神官の長官を断わって、国政への志向があったのです。
国政志向の鎌足は、神祇官の道より官僚での出世の道を選んだのです。
7世紀半ばの優秀な貴族(豪族)の子弟たちは、唐が律令国家を築き上げていることを知っていました。
鎌足も、国政志向ということで、自分たちが新しい国づくりを目指すんだという意欲があったのです。

軽皇子を天皇にするため、その障害となる蘇我入鹿・蝦夷親子の殺害を画策する中臣鎌足・・・
中大兄皇子と共に練り上げた策は・・・
最初に狙うのは、大臣となっていた入鹿・・・決行日は

「三韓の調の際かと・・・」

三韓の調とは・・・朝鮮半島三国の使者が、ヤマト政権に貢物を献上する儀式のことです。
鎌足は、それには大臣である入鹿が必ず参加すると考えたのです。
その儀式で、入鹿の従兄弟・蘇我倉山田石川麻呂が三韓の調の献上の上表文を読み上げる中、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に入鹿を襲撃させようというものでした。 
そして迎えた運命の日・・・
儀式が行われる大極殿には、既に現場で指揮を執る中大兄の皇子、襲撃を実行する子麻呂、網田、背後で弓を構える鎌足が身をひそめます。
そんな中・・・入鹿がやってきました。
すると、滑稽な歌舞を演じる芸能者である俳優が進み出て、おどけて腰の刀を預かるしぐさをすると・・・気を許したのか、入鹿は刀を渡してしまいます。

入鹿は疑い深い人物で、鎌足たちは疑り深い入鹿が剣を常に身につけていることを知っていました。
そこで、前もって俳優を使って騙し、剣を外させるように準備をしていたのです。
皇極天皇と古人大兄皇子が儀式の場に入ると、予定通り石川麻呂が上表文を読み上げ始めました。
ところが・・・入鹿を襲撃するはずの子麻呂と網田が怖気づき、一向に動かないのです。
上表文も残りわずか・・・焦った石川麻呂は、不安と緊張のあまり手が震え、滝のような汗を流します。
それを見た入鹿が怪しんだため・・・中大兄皇子が突進!!
入鹿の頭と肩に斬りつけたことで襲撃役の2人もやっと動き・・・入鹿の足に斬りかかります。
そして、首を刎ね、殺害したのです。
入鹿の死を知った父の蝦夷は、もはやこれまで・・・と、翌日、屋敷で自ら命を絶ちました。

この乙巳の変により、蘇我氏本家は滅亡・・・!!
後ろ盾を失い、身の危険を感じた古人大兄皇子が身を引いたことで、鎌足の願い通り、軽皇子が即位しました。
新たな大王・・・第36代孝徳天皇は、

「国家が安泰となることができたのは、まさに鎌足の尽力によるものである」

そう言って、鎌足のために特別に内臣という役職を作り、これに任じます。
官職の最高位であった左大臣、右大臣は上級豪族が就く役職・・・中級豪族であった鎌足にその職を与えれば必ず周囲からの反発があると考えた孝徳天皇は、左大臣、右大臣に準する内臣をわざわざ作って鎌足が国政に参加できるようにしたのです。
鎌足が目指していたものを手に入れた瞬間でした。
この時・・・31歳!!

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乙巳の変ののちに即位した孝徳天皇は、蘇我氏の影響力が残る飛鳥から難波宮に、都を移します。
政治改革を推し進めようと政権中枢部を再編成します。
改革推進の柱とするため、中大兄皇子を皇太子に置き、中臣鎌足を政務の重要機関を掌握する内臣としました。
中大兄皇子は、12歳年上の鎌足のことをとても信頼していたようで、鎌足の子孫である藤原仲麻呂が編纂した「藤氏家伝」によると・・・

「若いころから苦労を共にしてきたひいおじいさんの鎌足と中大兄皇子の親交は特別に厚いものだった
 二人は、義においては君臣の関係にあったが、礼においては互いに師と仰ぎ尊敬する友であった
 屋外にいるときは、同じ牛車に乗ったり馬を並べて走らせたり、屋内にいるときは敷物を接して座ったり、膝を接して座ったりするほど親密であった」by仲麻呂

そんな2人が中心となって行った政治改革が大化の改新です。
この頃、唐が、高句麗への侵攻をはじめていました。
周辺国は国家存亡の危機を感じていたのです。
そんな中、国家的な集中を図らないと、国家が存亡出来ない・・・!!
王や貴族によって、権力を集中して強い国にすることがそれぞれの国で目指されていました。
そんな国際情勢には、倭国も敏感で、豪族連合的なヤマト政権のままではいけない・・・
中央集権国家が必要だったのです。

そこで、皇族や有力豪族が所有していた人民と土地を天皇が直接所有することとし、税が天皇のもとへ集まるようにしました。
その税制の整備・・・天皇から支給された田んぼで収穫した食物を租、ヤマト政権から命じられた労役を庸、布などの繊維製品や特産物を調とし、物を納めるだけでなく、天皇に対する労役の義務も課しました。
こうして、天皇中心の新たな国づくりが進められる中、654年、孝徳天皇は鎌足の功績を讃え、19段階に分かれていた当時の官位のうち6番目に高い小紫に叙します。
中級豪族にとっては、破格なことでした。

654年孝徳天皇崩御・・・
先の皇極天皇は、再び即位して斉明天皇になると・・・

「斉明天皇が執務のすべてを中大兄皇子にお任せになると、皇子はあらゆることについて鎌足に相談して決定し、実行に移されたと言われておる」by仲麻呂

その功績から鎌足はさらに出世し、5番目の大紫に叙されたのです。

この頃、跡継ぎとなる男子がひとりいました。
真人・・・生まれつき聡明で、父・鎌足と同じように学問を好みました。
すると・・・鎌足は、
「硬い鉄も鍛えなければ名刀にはならない
 人間もまた同じ」
と、ただ一人の男子・真人を出家させ、遣唐使の一員として留学させてしまいました。
この時、まだ11歳だったといいます。
鎌足は、唐で最新の学問や技芸を学ばせて、将来還俗させ、自分と同じように官僚としての道を歩ませようと大きな期待をかけていたのかもしれません。
しかし・・・665年・・・帰国した息子は程なくして死去・・・23歳でした。
この頃には・・・
659年、鎌足の次男・不比等が生まれます。
鎌足は、まだ幼い不比等を田辺史大隅に預け、教育を受けさせます。
田辺史大隅は、大陸の先進文化や文章の読み書きに秀でた人でした。
不比等がうけた英才教育が、後に判事として官僚世界で身を立てることになります。

668年、近江大津宮で中大兄皇子が即位して、第38代天智天皇となります。
その少し前・・・倭国日本は、唐と新羅の侵攻で滅んだ百済の復興のために援軍を派遣し、朝鮮半島の白村江で唐・新羅の連合軍と戦うも大敗!!
これによって、唐・新羅連合軍の侵攻に備え、国防の強化に努めていました。
そうした中、55歳となっていた鎌足は、天智天皇のもと、最重要事項の外交面で活躍します。
鎌足は、神祇の家に生れ乍ら、国際派であり、氏族の枠の中に収まらないような活躍をした人物でした。

一方で、天皇家とのつながりも強化・・・
娘たちを天智天皇の弟・大海人皇子と天智天皇の皇子・大友皇子に嫁がせます。
どちらが次期天皇になってもよいように・・・と。
後に藤原氏が繁栄していったのは、その祖となる鎌足の能力が天皇から認められ、さらに、天皇家とツン狩りを深め、厚い信頼を得たことが大きかったのです。
その信頼の証となる嬉しい出来事が天智天皇を内臣として支えていた鎌足に起きたようで、こんな歌を残しています。

我はもや 安見児得たり 皆人の
         得かてにすという  安見児得たり

これは、鎌足が結婚の喜びを歌った歌です。
安見児は、天皇に近習して身の回りの世話をする采女でした。
当時、地方の豪族たちは、容姿端麗、頭脳明晰な女性を天皇に献上する風習がありました。
そんな女性は采女と呼ばれ、男性の憧れだったのです。
天皇以外の男性が采女と親しくなれば不敬の罪で死罪・・・!!
しかし、鎌足は、これまでの功績によって特別に天智天皇から采女を賜り結婚が許されたのです。

あ新たな国づくりを目指す天智天皇に長きにわたって伝えてきた中臣鎌足でしたが・・・
56歳となった年の10月、病の床に臥します。
天智天皇はすぐに見舞いに訪れました。
さらに、その5日後には使いを送りこう伝えます。

「はるかに昔の世を思うに、大王(天皇)を補佐して政を執りに行った大臣は、一人や二人ではなかった
 しかし、その功労と才能を考えれば、鎌足とは比べものにならない
 後世の大王たちも、私と同様に鎌足の子孫たちを寵愛するであろう
 よって、そなたを功績に見合った位につけることにする」by天智天皇

その位とは、党委の官位最高位の大織でした。
大織冠を与えられたことがわかっている人物は、中臣鎌足と百済王子であった扶余豊璋ぐらいでした。
天智天皇は、長い間仕えてくれて、支えてくれた鎌足のために破格の待遇を与えたといえます。
また、天智天皇は、鎌足を内大臣に任命・・・ついに大臣となった鎌足・・・!!
藤原の氏名が与えられたのもこの時でした。
後に栄華を誇る藤原氏の始まりでした。

どうして”藤原”だったのでしょうか??
鎌足が生まれたとされる地には、大きな藤の木の近くに藤井という井戸がありました。
人々はいつしかそのあたりを藤井ヶ原と呼ぶようになり、やがてそれが藤原になったとされています。
このことから、藤原は、鎌足ゆかりの地名に由来していると言われています。

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”藤原”は天皇家を藤の大木に見立て、藤原氏が藤の花として天皇家と共に反映していくことを象徴すす氏名と言う説があります。

鎌足誕生の地に由来するという説、天皇家と共に反映していくことを願ったという説が唱えられています。
ちなみに、佐藤や斎藤など、藤のつく苗字は藤原から派生したと言われています。

669年10月16日、藤原家の祖となった鎌足は、藤原の氏名を与えられたその翌日・・・56年の生涯に幕を下ろしたのです。

「天智天皇は声をあげてお泣きになり、大いに悲しまれた
 そして、鎌足の死を悼んで九日の政務をお休みになられたと伝え聞いておる」by仲麻呂

天智天皇がどれほど鎌足を信頼していたか、そしてこの時の深い悲しみと堪えがたいまでの喪失感が伝わってきます。
この鎌足の死の2年後、672年に天智天皇崩御。
鎌足を租とする藤原氏は・・・次男不比等は鎌足亡き後、律令制度の確立に尽力。
天皇との関係を強化して、藤原氏繁栄の基礎を築きます。
そして、藤原氏がその後1000年以上の長きにわたって、摂政関白の地位を独占し続けるのです。
それも、中臣鎌足という天皇に深く信頼された優れた政治家がいたからでした。

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万葉集・・・8世紀泥編纂された現存する日本最古の歌集です。
日本人の心のふるさとともいわれています。
全20巻に及ぶ歌集「万葉集」
そこに収録されている歌は、短歌:約4200首、長歌:約260首、旋頭歌:約60首・・・計4516首です。

タイトルの「万葉集」については諸説ありますが、万葉=万代(世)という意味があることからこの歌集が末永く伝わりますようにという願いが込められているといいます。
そんな万葉集の第1巻は、5世紀後半の日本を統治したという21代雄略天皇の長歌から始まります。

籠もよ
み籠持ち
ふくしもよ
みぶくし持ち
この岡に
菜摘ます児
家告らせ
名告らさね

から始まります。

これをわかりやすく読み砕くと・・・
「これは良いカゴを持ってらっしゃるし土を掘るヘラも良いものですね
 若菜摘みをしてらっしゃるお嬢さん方、家はどこです?お名前をおっしゃいなさいな」
しかし、当時名前を聞くのはプロポーズに当たり、答えないため・・・天皇は、

そらみつ
大和の国は
おしなべて
吾こそ居れ
しきなべて
吾こそいませ
吾こそは
告らめ
家をも名をも

この大和は私が君臨している国。
隅々まで私が治めているのですぞ。
それでも言わぬなら私から名乗りましょう。

なぜ万葉集はこの雄略天皇の歌から始まるのでしょうか?

雄略天皇は、国土統一の英雄とされています。
日本が雄略天皇によって統一されたと万葉集が編纂された8世紀の人々は考えていました。
歌集の価値を高める時に巻頭の歌は重要で、偉大な雄略天皇の歌を巻頭に置くことで、歌集としての価値を高めようとしたのです。

万葉集を編纂したのは、奈良時代の歌人で名門貴族の出である大伴家持が有力視されています。

新元号令和の由来は、万葉集・梅花歌三十二首の序文・・・
そしてその歌が詠まれた宴を開いたのが家持の父・大伴旅人でした。
家持は旅人の長男として奈良時代の初頭・・・718年頃平城京で生まれ育ちました。
そもそも大伴氏は大和政権の古参の名門氏族で、エリートでした。
家持は幼少のころから学問に勤しみ、十代半ばで歌を詠み始めたとされています。
そして20代後半・・・746年に国守(県知事)として越中国に赴任します。
雄大な風景に魅了されて、多くの歌を詠み始めます。

馬並めて
 いざ打ち行かな
       渋谿の
清き磯廻に
   寄する波見に

こうしてお気に入りの場所を歌に詠む一方で、

春の日に
  萌れる柳を
     取り持ちて
見れば都の
   大路し思ほゆ

これには裏の意味があるともいわれ・・・
柳は当時の都で流行っていた女性の細い眉の事・・・。
家持は柳を見ることで美しい都の女性たちを遠く越中の国から懐かしんでいたようなのです。

万葉集に収録されている家持の歌は473首。
4516首の一割以上をしめ最多!!
全20巻からなる万葉集は・・・
巻1、2、3は宮廷関係の歌
巻9は柿本人麻呂など有名家人の歌など特色がありますが・・・
巻17,18,19,20は家持の歌日記のような内容です。
さらに巻4大伴氏に関係する歌、巻5大友旅人の歌・・・と、家持の親族の歌が多く収められていることから、万葉集の編纂者ではないか?という説が古くからあるのです。

もしそうなら、本当に家持が多くの歌を編纂したのでしょうか?
万葉集は、多くの歌集を集めてきたものです。
万葉集以前にあった様々な歌集を集めて、最終的にまとめたのが大友家持だったと思われます。
天皇が歌を詠みなさいと呼びかけたときに歌が読めないと無作法に当たる・・・
そこで、宮廷社会を生き抜くために、常日頃から勉強し、スキルアップすることが必要なのです。

万葉集には防人たちの歌も数多くありますが、その歌を編纂したのも家持でした。
家持は754年兵部少輔に就任・・・防人たちを監督することになり、その際、防人たちから歌を集めたのです。
そうして集まった166首の中から厳選した防人の歌84首を万葉集に収録。
防人の妻が読んだ歌もあります。
当時、東国で徴兵された防人たちは、九州までの交通費は自費負担。
しかも任期は3年・・・それも延長されることが多く、力尽きて命を落とす者も少なくありませんでした。

万葉集には万葉仮名が使われています。
当時はまだカタカナもひらがなもなく、文字は中国から伝わった漢字のみでした。
そして日本語を表記する時もすべて漢字。
日本語の発音に漢字の読みを当てたのが万葉仮名です。
しかし、万葉集の中には皇族や貴族だけでなく、役人、兵士、農民、芸人、遊女などの歌もあります。
さらに名もなき人の歌も多く、およそ半数の2103首が「読み人知らず」です。
当時はまだ読み書きのできない人が多く、全ての人が万葉仮名を使いこなしていたとは考えにくいのですが・・・
実際は・・・??
詠った人と書いた人は別??全員が文字が書けたわけでもなく、役人たちは漢字を学んでいました。
文字が書けない人々の歌を、文字が書ける階級の人々が書き残した・・・それがいつしか万葉集として編纂されたのです。
万葉仮名はいつまで使われたのでしょうか?
平安時代以降には、万葉集はすでに読めなくなっていたと思われます。
少なくとも10世紀には読めなくなっていたので、それ以前にはすでに使われなくなっていたと思われます。
そのため、平安時代中期には万葉集の解読は困難だったようで、62代村上天皇は5人の家人に解読作業を命じています。
そして鎌倉時代中期には、万葉集の研究に全てを雪いだ学問僧・仙覚が全ての歌に読みをつけ、注釈を加えた「万葉集注釈」を完成。
これが現代の万葉集研究の基礎となっています。

万葉集に収録されたおよそ4500首・・・
その作品は主に4つの時代に区分されています。
第1期は、初期万葉時代(629~672年)・・・舒明天皇即位~壬申の乱
素朴でおおらかな歌が多いのが特徴です。
中大兄皇子と共に、大化の改新の立役者となった藤原鎌足の歌も収められています。
鎌足の歌は、采女を手に入れたと嬉しそうな歌です。
采女とは、天皇の日常の雑事に従事する女官のことで、地方豪族の娘の中から容姿端麗な者が選ばれていました。
そして天皇の妻となる可能性もある人・・・天皇以外の者が采女と恋仲になるのは厳禁・・・話しかけることもダメでした。
そんな中、天智天皇は功績のあった鎌足にあってはそれを許す・・・
それは、結婚を許すと同時に、特別な配慮を天皇から受けた・・・名誉を受けた歌となっています。

初期万葉時代を代表する歌人と言えば額田王。
後世に描かれた肖像画によって絶世の美女だったと言われています。
残された歌から宮廷歌人だったのでは?と思われますが、謎が多く、僅かな手掛かりは日本書紀の一文・・・
額田姫王・・・大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁ぎ、皇女を一人産んだ
嫁いだ経緯は記されていないものの、宮廷詩人として仕えていた際に、大海人皇子に見初められたのでは?とされています。
そんな額田王の歌は・・・??

君待つと 
 我が恋ひ居れば
    我が屋戸の
 簾動かし
    秋の風吹く

あなたが来るかなあ・・・と待っていたら部屋のすだれが動いた・・・
と思って喜んだのに秋風が吹いただけだった。

当時は、通い婚でした。
この歌を素直に読めば、愛する夫を心待ちにしている額田王ですが、実は額田王は夫である大海人皇子ではありませんでした。

この歌は、夫である大海人皇子の実の兄・・・時の天皇となった天智天皇に向けて読まれた歌です。
つまり、禁断の恋・・・夫の兄が来るのを待っていたのです。

宮廷社会は天皇から寵愛を受ける・・・それはすべてに優先されていました。
当時の慣習としては一般的だったと思われます。
更に万葉集には続きが・・・天智天皇が近江国の蒲生野で、薬狩(山野に出て鹿の若角や薬草を取りに行く行事)に出かけたとき、これに同行していた額田王と大海人皇子はこんな歌を詠みます。

額田王が・・・

あかねさす
  紫野行き
   標野行き
野守は見ずや
  君が袖振る

これに対し大海人皇子は

紫草の
  にほえる妹を
    憎くあらば
人妻ゆえに
 我恋ひめやも

未練たらたら・・・大海人皇子は、額田王を諦めきれなかったのでしょうか?
この後、天智天皇は次期天皇の筆頭候補だった大海人皇子を差し置いて、実子である大友の皇子に皇位を譲渡。
これが原因で壬申の乱が勃発しました。
万葉集を知ると、額田王をめぐる大海人皇子と天智天皇の確執もあるのでは?と、考えられます。
が・・・実際のところはどうだったのでしょうか?

この歌のやり取りは、大海人皇子が40歳前後、額田王が30代半ばを過ぎた頃・・・
今風に言えば、若い頃のコイバナを自虐的に詠んで宴を盛り上げた!!ぐらいです。
二人が交わしたのは恋の歌ではなく、壬申の乱とも無関係と思われます。


第2期は、白鳳万葉時代(672~710年)・・・壬申の乱~平城京遷都の頃で、力強い歌が多いのが特徴です。
有名な歌人は柿本人麻呂です。
万葉集以外、古代の文献には一切登場しないため、謎の歌人と言われています。
生没年不詳・・・経歴も不明・・・しかし、持統天皇などに仕えた宮廷詩人でした。
天皇をほめたたえる歌や、皇族の死を惜しむ歌など、儀礼的な歌を数多く読んでいます。
しかし、その一方、妻への恋の歌も・・・。
人麻呂が創出したとされる枕詞には、「足走る」「あさもよし」「鶏が鳴く」などがあり、歌人の模範とされ平安時代には歌聖と称されるようになります。
さらに鎌倉時代には、歌の神として全国各地に祀られるようになりました。
歌の神・柿本人麻呂を祀る神社は、山陰地方を中心に北海道から熊本県まで、全国に200以上にのぼります。
人麻呂は、その名が「火とまる」「人うまれる」に似ていることから、火伏の神や安産の神として祀られました。
歌人として頂点を極めた人麻呂は、今なお人々の厚い信仰を集めているのです。

万葉集の中で、最も多いのが恋の歌です。
全体の7割・・・およそ3000種が恋の歌です。
どうしてこんなに恋の歌を詠んだのでしょうか?
市場、橋のたもと、山の中で男女が一緒に歌を掛け合う・・・
歌をどれだけうまく返せるのか?で、人柄や知識の有無を判断していたのです。
当時は歌の上手な人がモテ、結婚相手を探していたようです。


第3期は、平常万葉時代(710~730前後)平城京遷都~山上憶良没頃は個性的な歌が多くみられます。

第五巻に収録されている「貧窮問答歌」もその一つです。
当時の民衆の貧しさと苦しさを切々と詠んだもので、詠み人は、社会派詩人と言われる山上憶良でした。
歌の前半は、憶良が下級役人だったころのみじめな貧しい暮らしぶりを詠んだものです。
晩年こそ貴族となっていた憶良でしたが、家の格が低く、40歳を過ぎて遣唐使に任命されるまでは、無位無官でした。
歌の後半は、食べる者さえロクにない農民たちの貧しい過酷な現状が詠まれています。
当時、税としての米の取り立ては非常に厳しく、餓死者も出るほどでした。
万葉集に収録された「貧窮問答歌」は、当時の庶民の暮らしを今に伝えてくれる貴重な資料でもあります。


第4期は、天平万葉時代(730前後~759年)山上憶良没後~最終歌は、優美な歌が多くあります。
繊細で優美な歌が多いことから、万葉集の成熟期と言われています。
代表的な歌人は、万葉集の編纂者と言われる大伴家持。
万葉集の最後の一種・・・結びの歌は、この家持が詠んでいます。

新しき
  年の初めの
      初春の
今日振る雪の
    いやしけ吉事

759年の正月、国守として因幡邦で詠んだ歌です。
新年を迎え、希望に満ち溢れている家持ですが、この歌を最後に亡くなるまでの25年間、家持の歌は一首も残っていません。
家持自身が世の中に絶望し、歌を詠うことをやめてしまったという人もいます。
しかし、家持が役人生活をしている以上は詠んでいないということは考えられず、結びの歌以降も歌は詠み続けていたものの、万葉集に取り込まれなかったと考えるのが妥当です。
晩年に詠まれた歌は、世に出なかったからでは??
それではどうして世に出なかったのか?
当時の大伴氏が置かれていた状況にあります。
万葉集の結びの歌が詠まれた8世紀中ごろ・・・朝廷の中心にいたのは、大納言・藤原仲麻呂を筆頭とする藤原氏でした。
しかし、権勢を振り翳す仲麻呂に対し、古くから天皇に仕えてきた面々は、不満を抱いていました。
そうした者たちが、仲麻呂の暗殺を画策!!
757年橘奈良麻呂の乱です。
これに大伴氏の一族も加わったのですが、事前に計画が漏れてしまい、加担したものは、拷問死、もしくは流罪となってしまいます。
762年・・・今度は家持自身が、仲間と共に藤原仲麻呂の暗殺を画策!!
しかし、これも事前に計画が露呈・・・
仲間の一人が罪を被ったことで、家持は無罪となりましたが、翌年報復人事で薩摩国へ左遷されてしまいました。
これで出世の道は絶たれたと思われましたが、ほどなくして藤原仲麻呂が孝謙上皇と対立し、謀反を起こし殺害されてしまいます。
そののち、家持は大宰府の最高次官をへて都への復帰が叶い、中納言まで昇進!!
785年、60代後半でこの世を去りました。

ところが・・・死後の家持にまたもや悲劇が・・・!!
家持がこの世を去った20日ほど後・・・785年10月31日、大伴氏の一族が長岡京遷都の責任者だった藤原の種継を暗殺してしまいます。

実行犯たちは斬首刑に・・・そしてなんと、すでに亡くなっていた家持まで生前関わっていたと処罰を受けます。
その罰は、家持の遺体の埋葬禁止、官位の剥奪、領地の没収、無実の嫡男を隠岐へ追放・・・
そうした処罰の一環として、万葉集結びの歌以降に詠んだ歌が破棄された可能性があるのです。

だから・・・家持の晩年の歌が世に出なかった・・・??
恩赦が実施され、家持が名誉を回復したのは、それから21年後・・・806年のことでした。

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2019年4月1日、平成に続く新たな元号が発表されました。
「令和」です。
令和は万葉集の梅の花の歌の序文が出典で、史上初、日本の古典から引用されました。
その新しい元号「令和」には、”人々が美しく、心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ”という意味がこめられ、梅の花の歌の序文から選ばれた背景には、”梅の花のように咲き誇る花を咲かせる日本でありたい”という思いが込められています。
こうした元号が使われているのは、現在日本だけ・・・。
改元回数は、247回です。
その歴史は飛鳥時代にまで遡ります。

かつて元号は、中国、朝鮮、ベトナムでも使われていました。
しかし、現在では使われていません。
中国は、1911年辛亥革命で清王朝が倒れた時に元号が廃止されています。
現在、その元号は法律によって内閣が決めることになっています。
日本の最初の元号は、何のためにどうやって、誰が決めたのでしょうか?
元号の始まりは古代中国・・・紀元前140年ごろ、前漢の7代皇帝武帝によって年を記録する方法として考案されました。
皇帝が国だけでなく時間をも支配するという・・・皇帝が変わるたびに元号が改められました。
中国から倭国と呼ばれていた日本では・・・埼玉県の稲荷山古墳から出土した5世紀の鉄剣には、辛亥年という文字が刻まれています。
これは西暦471年のことで、十干と十二支を組み合わせて60組の漢字で年を記録する方法が使われていました。
そんな日本で最初の元号が登場します。
それは日本の正史「日本書紀」にこう書かれています。
”天豊財重日足姫(皇極)天皇の四年を改め大化元年とす”
すなわち、最初の元号は大化・・・皇極天皇から孝徳天皇に代わる年に新たな政治体制を目指すべく、当時の先進国・中国の唐に倣い元号制度を採り入れたのです。
しかし、大化と残っているのは日本書紀だけ・・・
未だに木簡などは出土しておらず、使っていた形跡がありません。
そのため、大化は後の世に作りだされたものという見方もあります。

どうして「大化」の元号が使用されなかったのでしょうか?
そこには孝徳天皇とその甥で大化の改新で重要な役割を果たしたという中大兄皇子との関係がありました。
大化の改新は、天皇を中心とする国家をつくるのが目的でした。
主導的に働いた中大兄皇子と孝徳天皇の仲が悪くなってしまうので、大化はあまりシンパシーがなかったのでは?
もう一つ、外交上の理由がありました。
独自の元号を使うということは、独立国であることの証・・・
しかし、当時の日本はまだ、唐の影響下にあったため、独自の元号を使うのを憚ったのでは?
日本が独自の元号を公に使うようになったのはいつ・・・??
それは、大化からおよそ半世紀後・・・
701年文武天皇「大宝」に改元した時でした。
文武天皇は日本独自の法典を作るという長年の懸案を実現し、大宝律令を制定・・・。
そこには国号を「日本」とすると書かれており、公文書にはすべて「元号」を用いることと定められています。
律令は、政治、行政、経済など、国家の基本となる重要な法典・・・
そこに元号の使用が明記されたことは、まさに日本が独立国であるという体制が整ったということなのです。

元号に用いられる漢字の頻度数

第1位・・・・・「永」29回
第2位・・・・・「元」「天」27回
第4位・・・・・「治」21回
第5位・・・・・「応」20回

ひとつの元号が使われたの平均は5年間です。
どうして次々と改元されてきたのでしょうか?
改元を行う理由の一つが・・・天皇が代わる際の「代始改元」です。
桓武天皇が即位した際は延暦でした。
平安時代末期の後白河天皇は即位した際は保元と代わっています。
現在は一世一元制で、この代始改元だけですが、天皇一代の間に何回も改元されてきました。

そのきっかけの一つが祥瑞改元です。
祥瑞・・・めでたい事を示す現象や動物・・・大宝四年文武天皇の時、5月10日、藤原京の西に珍しい雲が発見されたことから慶雲と代わりました。
祥瑞改元の中で多いのは、めでたいと言われる珍しい亀が献上されたとき・・・
聖武天皇の時、二度あり、養老7年9月に白い亀が発見され神亀と改元、神亀6年には背中に”天王喜平知百年”と読める亀が天皇に献上されたことから天平と改元されました。
中国は、「天人相関説」があり、天(自然現象)と人(皇帝)の人格、功績には相関関係があるとされています。
珍しい現象(祥瑞)は、皇帝が天に認められた証として改元するのです。
めでたい事があれば改元する一方で、悪いことが起こった時も、その悪いことが続かないように改元しました。
それが災異改元です。
平安時代、醍醐天皇が治めていた延喜23年(923年)には、大規模な干ばつと伝染病が起きたことで改元・・・天皇の御代がこれで終わらず長く続くこと・・・延長と代わりました。
天養2年(1145年)には、ハレー彗星が出現!!
そこで天災などが起こらず久しく安泰が続くことを願って久安に改元されています。
現暦2年(1185年)には、京都を中心に大地震が発生し、多くの被害や死者があったことから文治と改元されました。
平安時代の人々は、改元という行為に呪術的な世直しの力があると信じていました。
人びとの願いが込められていたのです。
ちなみに、平安時代の堀河天皇は7回、室町時代の後花園天皇は8回も改元を行っています。
改元の多さは、良しにつけ悪しきにつけ、世の中を良くしたいという天皇の気持ちの表れだったのです。

暦仁=略人ということで、元号自体が不吉だとわずか2か月で改元されました。
明和は明和9年は迷惑年となると・・・まさにその年、明和の大火(1772年)が起き、改元することとなりました。

新しい元号はどうやって決められていたのでしょうか?
改元の機運が高まると、文章博士(勧申者)が元号を提案します。
主に中国の歴史書「史記」「漢書」「後漢書」四書五経「論語」「大学」「中庸」「孟子」「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」から字を選びます。
提案された元号を、陣儀(上級貴族の会議)で審議(難陳)され、天皇が裁可し、詔書の発布となります。
新しい元号の決め手のポイントは、どれだけいい漢字か?組み合わせはどうか?
良い元号は、呪術的な力を持っているとされていました。
平安時代後期(1069~1185)には、延久~文治まで43もの元号が生れています。
およそ2年半ごとに改元・・・それだけ世の中が不安定で救いを求めていた時代だったのです。

天皇の大きな権限の一つだった改元は、それを行う際に、盛大な儀式を行ったために莫大な費用が要りました。
そうした費用は、奈良・平安時代は朝廷が工面しましたが、鎌倉幕府、室町幕府と武家政権が作られると、改元費用を幕府に頼るようになりました。
幕府は本来朝廷に奉仕するためにある・・・幕府が出すものだ・・・と、幕府が負担することに・・・。
幕府が改元に費用を出す・・・それは、天下人の証となりました。
戦国時代に入ると・・・改元の主導権を巡り武家の間で争いが始まります。
それが、足利義昭と織田信長の戦いです。
永禄11年(1568年)、足利将軍家の牽制が衰える中、義昭は京を目指す信長の後ろ盾を得て、室町幕府15代将軍に・・・!!幕府の再建を図ります。
足利義昭が将軍代始を理由に、幕府が費用を持つという条件で朝廷へ改元を申し入れます。
これに待ったをかけたのが信長でした。
義昭が将軍となったからと言って軽減されてしまうと、改元によって室町幕府の再興を目指そうという義昭の思惑通りになるのを信長が嫌ったのです。
将軍の権威が復活してしまう・・・!!
この時は、信長の意見が取り入れられ、改元は見送られますが・・・
永禄13年(1570年)、信長が越前の朝倉義景を討伐する為に出陣すると・・・
義昭はその隙を狙って改元の費用を増額する条件で改元を強行させ、元亀という元号を定めさせたのです。

これに不満を持っていた信長は、元亀3年(1572年)、信長自ら朝廷に対し改元を要請します。
破竹の勢いの信長の申し出に、朝廷は改元の準備に取り掛かりましたが、今度は義昭が抵抗!!
将軍として負担する改元の費用を一銭も払わないと拒否したのです。
怒り心頭の信長は、意見書を突き付けました。

「わずかな金も出さないとは、一体どういうことだ!!」

この改元をめぐる闘争を機に、信長と義昭の不仲は決定的となり・・・元亀4年(1573年)、信長は京都に進軍し、将軍義昭を追放・・・これによって、およそ240年続いた室町幕府は滅亡しました。
すると信長は、改めて改元の申し入れを行い、新たな元号・天正が定められたのです。
まさに織田政権の誕生の元号であり、「天下を正しくする」ということで、信長も気に入ったと言われています。
信長にとって天正への改元は、まさしく天下人の証となったのでした。
その後、信長は、天下統一の手前で本能寺の変で命を落としますが、曽部永の時代に定められた天正は改元されることなく20年使われることとなります。

信長の亡き後天下人となったのが豊臣秀吉です。
秀吉は豊臣政権を築いた後も、当初、改元には直接関わることはありませんでした。
しかし・・・改元を必要とする事態が起こります。
文禄5年(1596年)、四国の伊予、九州の豊後で大きな地震が発生!!
さらに、京都を中心に大地震が発生し、秀吉が完成させたばかりの伏見城が倒壊するなど甚大な被害が起こります。
これに驚いた秀吉が、改元を申し入れると「慶長」と改元されます。
改元に当たっては、秀吉が選んだともいわれ、その文字には喜びが長く続くように・・・豊臣が長く続くように・・・とも言われています。
しかし、その願いが叶わず、慶長3年(1598年)秀吉は病に倒れ、京都の伏見城でなくなってしまいました。

秀吉の死後権力を握ることとなったのが徳川家康です。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで、豊臣政権の存続を願う西軍に勝利!!
自分も征夷大将軍の座につき、江戸幕府を開きます。
家康は幕府の権威を不動のものにするために改元を行いたかったのですが・・・実行できずにいました。
その障害となっていたのは秀吉の死後も大坂城にいた秀吉の嫡男・秀頼の存在でした。

秀頼がいる以上、自分の好き勝手には出来ない・・・
改元を目指す家康が、満を持して動きます。
慶長19年(1614年)大坂の陣・・・家康は二度にわたる戦いで、難攻不落と言われた大坂城の攻略に成功!!
豊臣秀頼を自害に追い込み、豊臣家は滅びました。
その直後、家康は京都に向かい改元を申し入れると、2か月後・・・元和に改元され、徳川が天下を掌握したことを世に知らしめたのです。
元和には、和の始まりという意味がこめられ、長く続いた混乱の世が終わり、平和な時代が到来したことを表明するものでした。
さらに、この改元にはもう一つ家康の狙いがありました。
慶長20年(1615年)、家康は朝廷や公家に対し「禁中並公家諸法度」を出します。
その中にはこんな一条が・・・
”改元に当たっては、歴代中国の元号も良いものがあれば採用するように”
元和は、すでに中国の唐で使われていたものでした。
家康は中国の古典から引用、未使用の元号を用いることを打ち破り、新しい選定方式を朝廷に押し付けたのです。
征夷大将軍としての権威を高めようとしました。

飛鳥時代から始まり、天皇の代替わりや国難に見舞われたときに元号の改元が行われてきました。
時がたち・・・時の天下人にとって権力の証となりました。
そうした元号と庶民たちとのかかわりは・・・??
平安や鎌倉は縁遠いものでしたが、室町以降・・・民衆にも広がり、江戸時代には完全に元号は庶民のものとなり、年貢の受取状、暦・・・元号を知っていて、語呂合わせすることもありました。
どうして全国津々浦々まで伝わったのでしょうか?
朝廷から京都所司代、幕府に知らされ、諸大名、直轄地代官→名主→領民と伝わっていきました。
伝達速度は、鹿児島や松前まで1か月ほどで伝わったといいます。

実際、改元するとなると幕府の許可がいるようになり、幕府の方で・・・幕府の教学を代々担う家・林大学頭が案を作って一つに絞って京都に送られてきます。
朝廷では形だけ「こちらが決めた」ということで、天皇が裁可することとなります。
江戸時代には、幕府が決めていたと言って過言ではありません。
太平の世が続いた江戸時代・・・
慶応3年(1867年)には大政奉還・・・
天皇を中心とする新政府が樹立され、明治へと改元されます。
新政府の議定であった岩倉具視は・・・
「これまで帝一代で何度も改元が行われてきたが、一世一元にしてはどうだろうか?」
一世一元とは、天皇一代に元号を一つというもので、天皇が代わる際の代始改元のみ行うということを意味しました。
こうして新しい天皇のもとで元号を決めることとなりました。
あくまで元号の最終決定は天皇にあるとして、3つほどの候補案から天皇が決めるということに・・・。
これを受け、議定である前福井藩主・松平春嶽が元号案を絞り込んで・・・その中から慶応4年(1868年)9月7日、夜・・・京都御所で天皇が選ぶこととなりました。
その驚きの方法とは・・・くじ引きでした。
朝廷では、大事なことを決める際、神の真意を問う意味でくじ引きが行われてきました。
それを踏襲したというのです。
明治を引き当て・・・慶応4年9月12日、全国へ改元の布告が行われました。
明治45年(1912年)7月・・・
明治天皇の様態が悪化・・・危篤状態に・・・
時の内閣総理大臣・西園寺公望は、密かに改元の準備を行いました。
この動きを察知して・・・新聞社が改元の取材合戦を繰り広げます。
そんな中、朝日新聞社の1年足らずの緒方竹虎は、枢密顧問官・三浦梧楼に狙いを定めます。
「三浦さん!!
 次の元号はもう決まっているんですよね?」
「お前だから教えるが・・・次の年号は「大正」だ」
これによって7月30日、明治天皇が法書した直後、新たな元号が大正であると一早く報道することができました。
この大スクープで名を馳せた緒方は、東京朝日新聞の主筆にまで上り詰め・・・昭和19年(1944年)政界に転じて福総理を歴任します。

新元号のスクープ合戦は激しさを増していきます。

大正15年(1926年)12月25日、大正天皇が崩御・・・
その頃、新元号選定の担当だった内閣内政審議室長の自宅前には、記者たちが深夜まで張り込み、熾烈な取材合戦を繰り広げていました。
そんな中、極秘情報を手に入れたのが、東京日日新聞でした。
「大スクープです!!
 新しい元号がわかりました。
 光る文と書いて光文です!!」
号外が発行され、世紀のスクープ!!
その数時間後・・・午前11時ごろ宮内省が発表したのは「光文」ではなく「昭和」だったのです。
公文のスクープは歴史的誤報となり、編集局トップが辞任する事態となりました。
一節には当時の宮内省が情報が漏洩したことで昭和に急遽変更したともいわれていますが・・・??
果たしてその真相とは・・・??

この時、元号案の選定は宮内省で行われていました。
その中で・・・第一「昭和」、第二「神化」、第三「元化」の3つ・・・一方、時の内閣総理大臣・岩槻礼次郎は内郭案として独自選考を行っていました。
「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」・・・この中にあったのです。
宮内省案ではなく、内閣案の一つだったのです。
そして最終案「昭和」「元化」「同和」にも含まれていませんでした。
東京日日新聞は最終候補案の情報を掴むことができず、内閣案にあった元号を報道してしまったのです。

昭和という元号・・・書経の中の、”百姓昭明協和万邦”からきています。
明るく平和であることを願うという意味が込められていました。
昭和の”昭”の字は元号として使われるのは初めてのことでした。
なじみのない文字で、読めないのでは・・・??と、懸念されました。
昭和天皇が崩御されるまで64年続き、世界で最も長い元号となります。

しかし、途中で存続の危機となっていました。
昭和20年(1945年)太平洋戦争終結・・・
敗戦国となった日本は、戦前のあらゆる制度の変革に直面します。
翌年に公布された日本国憲法には、天皇は国の象徴として存続することは決まったものの、元号は・・・その法的根拠を失ってしまいました。
GHQは、元号の法制化に反対していました。
そんな中、これを機に元号を廃止するべきだという考えも出て来ました。
後に内閣総理大臣となった石橋湛山もその一人で、「元号を廃止し西暦に統一すべき」と主張。
また、憲政の神様と言われた衆議院議員の尾崎行雄は、「新日本か戦後に改元すべき」としていました。
国会では昭和は25年で元号廃止案を真剣に検討されました。
しかし・・・GHQが、撤退すると議論は立ち消えとなり、昭和は日本の元号として使われ続けることとなります。
昭和53年(1978年)元号法制化運動が起こります。
昭和54年(1979年)「元号法」が制定され、それ以後、この法律を元に内閣が元号の選考をおこなうことになったのです。
その元号法に基づき、初めて改元が行われたのが「平成」でした。
そして・・・令和はどのような時代として日本の歴史に刻まれることとなるのでしょうか?
梅の花が咲き誇るような、良い時代になってほしいものです。

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