>南方マンダラ新装版 [ 南方熊楠 ]

価格:1,296円
(2017/4/6 16:47時点)
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杜を背負って立つ一基の鳥居・・・ここは、神の御座候す島・・・神島。。。
紀伊半島の沖に浮かぶ無人島です。
深い鎮守の森に囲まれたこの島は、国の天然記念物となっています。
しかし、今からおよそ100年前、この森は消滅の危機に直面していました。
きっかけは、明治政府が推進した”神社合祀政策”です。
島にあった社が取り払われ、森が伐採されようとしていました。

この時反対の声を挙げたのが・・・博物学者・南方熊楠です。
19歳でアメリカ・イギリスに渡り、ネイチャーに歴代最高と言われる50本以上の論文を掲載。
森羅万象を見つめた熊楠の研究は、植物学、民俗学、宗教学・・・明治日本の誇る”知の巨人”です。
熊楠が後半生をかけた神社合祀反対運動・・・
その道のりは、苦難の連続でした。

和歌山県にある南方熊楠顕彰館に熊楠が書いた風変わりな”履歴書”があります。
その長さ8メートル近く・・・中には幽霊やキノコの挿絵。。。
しかし、南方の志がしっかりと書かれています。

1867年4月15日、紀州藩・和歌山城下の商人の家の次男に生まれた熊楠。
子供のころから学問に興味があり、書籍を求めて二十町、三十町歩き借覧し、ことごとく記憶して帰り、写し出し繰り返し読んでいたといいます。
知識欲に駆られた熊楠が、一番興味を示した一つが、「和漢三才図会」でした。
動植物、日本や中国の様々な事物に関して挿絵を交えて解説した百科事典で、熊楠は全105巻81冊を3年がかりで写し取ったといいます。

1884年9月には東京大学予備門に入学。
ちなみに同級生には、夏目漱石、正岡子規、尾崎紅葉、幸田露伴、秋山真之がいます。
しかし、上野の図書館に通い詰めていたので成績は芳しくなく、結局中途退学・・・。
国の招来を嬉し、今こそ西洋で学問をすべきだと考えた熊楠はアメリカへ渡る決心をします。
1887年1月渡米。
5年をかけ、アメリカ更にはキューバにまで足を運び、植物の採集に奔走。
中でも当時、強い関心を抱いたのが粘菌です。
アメーバになって動く一方、キノコのように胞子を作ることから、現代では動物でも植物でもない原生植物の仲間に分類されています。
当時、日本では研究が進んでいなかったこの植物に魅了され、その研究を続けることとなります。
おまけに・・・和歌山の実弟宅には「条約改正反対意見書」が。。。
欧米諸国との通商条約改正に反対する意見書です。
そこに、熊楠の直筆での書き込みが見つかりました。
そこには、反対意見を述べた著者に最大の賛辞を送り、祖国の人々にその意を組んで立ち上がるべきだと、促しています。

当時、条約改正に伴い、政府が推し進めていた欧化主義・・・
これまでの日本の文化や慣習を無視した方針に、熊楠は憤りを感じていました。
熊楠の当時の心境は・・・??
明治政府は欧米に媚びる形で欧化政策を行い、条約を改正しようとしていました。
熊楠は、その行為が亡国につながるという思いを強く抱いていたようです。

1892年9月、渡英・・・。
そして、自身初めてとなる英文論考を発表。
タイトルは「東洋の星座」
掲載されたのは、科学雑誌として有名なネイチャーでした。
熊楠は、中国とインドの星座名に類似点があることを解き明かし、2つの民族が同じ思考パターンを持っていると指摘しました。
「東洋にも、近古までは欧州に恥じざる科学がありたることを、西人に知らしむることにつとめたり」
これを皮切りに、東洋の知識を西洋に紹介する論文を次々と発表!!
熊楠は、日本だけでなく、東洋全体の復興を考えていたのです。

その後、熊楠は大英博物館で・・・孫文に出会い、意気投合します。
後に孫文は、中国で辛亥革命を起こす革命家です。
熊楠と孫文・・・初めて会った時・・・
「あなたは一生をかけ何をやりたいか?」孫文に問われたとき・・・
「願わくは、我々東洋人は、一度西洋人をことごとく国境外へ放逐したきことなり」と、答えています。
孫文は、中国の革命を目指していましたが、中国だけではなく、朝鮮やフィリピンの独立を支援するなど、アジア全体への視点を持っていました。
自分が生れた国ではなく、アジア全体を再興したいという思いが両者にはあり、意気投合したのです。

しかし、ロンドンでの充実した生活は、長くは続きませんでした。
地元和歌山で両親が次々と死去・・・。
郷里からの送金が滞りがちになっていたのです。
帰国を決断した熊楠は、1900年10月に帰国。
14年ぶりに祖国の地を踏むことに・・・!!

和歌山県の南西に位置する田辺市・・・
イギリスから無念の帰国をした熊楠が、新天地とします。
田辺は古来、熊野詣の入り口とされた場所でした。
熊楠は・・・
「熊野の天地は、蒙昧といえば蒙昧、
 しかしその蒙昧なるが、その地の科学上、極めて尊かりし所以・・・」

貴重な植物が数多く残されていた熊野・・・ここで、熊楠は、最終活動にいそしみながら、海外の科学雑誌への投稿を続けていました。
39歳で、地元神社の娘と結婚し、翌年には長男が誕生、幸せな毎日を送る熊楠・・・
しかし、その生活を一変する事件が起こります。

田辺市にある高山寺には、熊楠が初めて新種の粘菌を発見した思い入れのある神社の杜がありました。
しかし、再びこの地を訪れた熊楠は驚愕します。
社が取り払われ、鎮守の森も、ことごとく伐採されていたのです。
その原因が、明治政府の推進する「神社合祀政策」でした。

1905年9月、日露戦争終結・・・
明治政府は、更なる国民の統合を図るために、伊勢神宮を頂点とする国家神道の確立を推し進めていました。
そこで打ち出されたのが、全国の神社を原則、一町村ひとつへと整理統合することでした。
これを受け、各道府県が合祀を進めていたのです。
その背景には、当時の国家財政も絡んでいました。
日露戦争は、内債・外債という国内外への借金・・・しかも、国家財政を何倍も上回る借金をして戦われた戦争でした。
勝利するものの・・・賠償金が取れませんでした。
ところが、政治政府は、陸軍も海軍も軍備増強をしたのです。
地方財政へ回す予算がなくなってしまいました。

そこで、1906年~神社合祀政策を推進
政府は、神社の跡地を農地へと売却してよいとし、それを地方自治体の収入源となっていました。
その結果・・・全国に20万近くあった神社は、4年間で2割以上減少・・・
統廃合された神社は、5万近くに上りました。
熊楠の和歌山県では、熱心に合祀が進められ、7割の神社が姿を消していました。

「歴史も、由緒も、勝景も問はず、況や植物などのことは問う筈なく・・・神狩りを始めている。」by熊楠

そうして、熊楠は行動を起こします。

地元の新聞や大手全国紙に、神社合祀の反対意見の投稿を始めました。

「数千万ねん永続し来りし生物にして一たび跡を絶ば、再び見るを得ざるの場合に及べる者の多きは、実に嘆きても余りあるといふべし」

さらに、熊楠は「エコロギー」という言葉を用います。
現代ではエコロジーと呼ばれる言葉・・・熊楠は、森の伐採が生態系のバランスを崩し、洪水や害虫の被害を引き起こしていると説く・・・
神社合祀の影響は、自然界だけではなく人間界にも及ぶと訴えたのです。
人間の社会生活がどのように複雑な絡み合いを持っているか・・・
その中で、神社が重要な結節点である大きな伝統を維持する装置であることを書いています。
熊楠の神社合祀反対の主張は、純粋に自然科学的な生物的なエコロジーの枠にとどまっていないのです。

しかし、反対運動から半年・・・いとこに宛てた手紙には・・・
「味方少勢にて多勢と戦ふは、中々六かしきもの・・・
 小生一人暮らしのときは豪傑らしくふるまひ得たる男なれども、已に妻子がある以上はさしひかえねばならぬこと多し」
この時・・・大きな悩み・・・大山神社の合祀運動を抱えていました。
大山神社は、400年来南方家が代々守り抜いてきた産土神でした。
この神社をどうにかして守りたいと、役人や地元の人に必死に訴えていました。
が・・・方針は覆らず・・・
そして熊楠は事件を起こすのです。
1910年8月21日、地元田辺で行われていた林業講習会・・・
そこに、神社合祀を推進する県の役人が来ていることを聞きつけていた熊楠は、酒に酔った勢いで乱入し、持っていた標本を投げつけたのです。
その結果・・・熊楠は家宅侵入罪で逮捕されてしまいました。
拘留されてしまった熊楠・・・

自分一人が熱心に反対を唱えても、人々に聞き入れられなければ、神社合祀政策を廃止に持ち込むことはできない。
しかも、自分は、全国の神社どころか、南方家の神社一つさえ守ることができないではないか??

神社合祀が生態系だけでなく、人間の生活へ影響を与えていることは明らか・・・
こんな愚かな国策は止めなければいけない・・・!!

反対運動を続けるのか、否か・・・!!??

9月7日・・・逮捕から17日が立った日の夜・・・ようやく釈放され帰宅。
その後、熊楠は前にもまして、神社合祀反対運動を活発化させていきます。
そのきっかけは、留置所内で読んだ一冊の本でした。
「石神問答」・・・後に、日本民俗学を創始する柳田國男の著書です。
この本の内容に感銘を受けた熊楠。
まだあったことのない人が、自分と同じ問題意識を持っている・・・
その後、民俗学的な情報交換をきっかけに始まった手紙のやり取り。。。
熊楠は柳田に、神社合祀反対運動の協力を求めます。

柳田國男の当時の肩書は内閣法制局参事官。
地方からの反対運動が、もう限界だと考えていた熊楠は、中央にいる柳田の力を借りようとしたのです。
これに対し柳田は・・・
「願わくは、これからの生涯を捧げて(南方)先生の好感化力に一伝送機たらん」
熊楠への協力を申し出たのです。

柳田としては、南方という尊敬する年長の研究者から、神社合祀を取りやめてくれと、高級官僚である自分に申し入れられれば、正面から向き合うしかなかったのです。
この柳田との出会いが、熊楠に大きな力を与えていきます。

三重県御浜町に、二人の協力が実を結んだ証が残されています。
樹齢1000年を越える引作の大楠・・・明治44年、この樹が伐採されると聞いた熊楠は、柳田に協力を依頼。
柳田は県知事に働きかけ、伐採計画の中止が決まったのです。

さらに柳田は、熊楠の反対意見を自費で50部作り、中央の有識者に配布。。。
すると、熊楠と柳田の元に次々と賛同意見が・・・!!
反対運動は、さらに勢いを増します。
1912年3月12日、帝国議会で和歌山選出の衆議院議員・中村啓次郎が1時間に及ぶ大演説!!
その草稿を書いたのは熊楠でした。
「神社合祀の勧誘省令は、その害の及ぶところ、測るべからさるものあり。
 速やかに合祀を中止し、これらの弊害を杜絶せられん事を望む。」

そして1918年3月2日、貴族院予算委員会・・・
いよいよ神社合祀に関する決議が行われます。
全会一致で廃止に賛成!!
翌日の熊楠の日記には、
「余、此事を言い出して、9年にして此吉報あり。 本日甚だ機嫌良し。」
熊楠の杜を守る運動がようやく実を結んだ瞬間でした。

田辺湾に浮かぶ神島・・・熊楠の運動によって貴重な自然が残された島です。
国の天然記念物であるため、上陸は原則禁止。。。
今や、陸地側では失われた植物が、数多く残っています。
なかでも当時熊楠がたいへん貴重だと言っていた植物・・・彎珠。
彎珠は、別名ハカマカズラと言われるツル性の植物で、和歌山県の絶滅危惧種に指定されています。
壊れなかった森が残っていることは貴重な事です。

昭和4年(1929年)、熊楠はこの神島で一世一代の晴れ舞台に臨みます。
島を訪れたのは幼少期より生物学に深い造詣のあった昭和天皇です。
その後振興の大役に、熊楠が指名されたのです。無位無官の研究者が務めるのは、異例中の異例・・・。
お召し艦で拝謁した際に・・・周囲を驚かせる出来事がありました。
昭和天皇の前に熊楠が差し出したのは、大きなマッチ箱。
中には110種類に及ぶ標本が入っていました。
昭和天皇は、ことのほかこれをお喜びになり、時間を延長してまで熊楠の話に耳を傾けたといいます。
翌年、島に建てられた歌碑・・・そこには、熊楠直筆の文字が・・・

「一枝も心して吹け 沖つ波
      わが天皇(すめらぎ)の めでましし森ぞ」

この熊楠の思いが通じ、1935年12月24日国の天然記念物に指定されました。
その6年後の1941年12月29日・・・熊楠は病のために帰らぬ人となりました。
享年75歳・・・
死を迎えた熊楠の手に置かれたのは、神島で熊楠が守ろうとしたハカマカズラの種子から作った黒い数珠でした。
熊楠が守り抜き、その後世界遺産に認定された熊野の森は、今も我々に様々な自然の姿を伝えてくれています。

後に行幸した際に・・・

「雨にけふる神島を見て 
      紀伊の国の生みし
           南方熊楠を思ふ」 by昭和天皇




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