日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:丹羽長秀

尾張国・清須城・・・1582年6月27日、ここで本能寺の変で命を落とした信長亡き後の織田家の跡継ぎを決める重要な会議がありました。
清須会議です。
顔をそろえたのは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・・・そして、羽柴秀吉・・・4人の織田家家臣と言われています。
そんな清須会議・・・詳しいことはわかっていません。

1582年6月2日・・・天下統一目前の織田信長が、京都・本能寺で家臣の明智光秀の謀反に遭い自害しました。
その後、同じく信長の長男・織田信忠も明智軍に攻められ命を絶ちます。
強大な影響力を持っていた信長と、家督を譲られ織田家当主となっていた信忠の死・・・。
織田家存亡の危機に一早く駆けつけたのが、備中高松からおよそ200キロの道程を2万もの軍勢を率い、わずか8日間で駆け戻った中国大返しを果たした羽柴秀吉・・・。

6月13日、山城国山崎で光秀と対峙。
見事主君・信長の仇を討ったのです。
それから14日後・・・
1582年6月27日、清須会議が行われます。

その議題は二つ・・・
①織田家の家督相続者を決めること
②織田家の所領の配分を決めること
旧明智領を含む560万石の所領の分配です。

清須城には誰が参加していたのでしょうか?
「川角太閤記」によると・・・参加したのは、
・織田家の古参で家臣の筆頭である柴田勝家
・同じく宿老の丹羽長秀
・信長の仇を討った功労者・羽柴秀吉
・秀吉と同じく山崎の戦いに参加していた池田恒興
この4人が通説となっています。

しかし・・・参加者はもっといた・・・??
「多門院日記」によると・・・4人に堀秀政が加わり5人だったとされています。
秀政は、織田軍の中国方面軍に参陣し、秀吉の配下として活躍した武将です。
本能寺の変の後、秀吉軍と共に中国大返しで信長・信忠の弔い合戦に駆け付け貢献しています。
秀政が会議に参加した可能性は・・・??
清須会議の時点では、秀政は織田軍団でのランクは他の4人よりもかなり下でした。
そのため、織田軍団の重役会議に同席しているとは考えにくいと思われます。
また、「多門院日記」は、尾張の出来事を、奈良の僧が伝え聞いて書いています。
若干史実とは受け止め難いと思われます。

また、7人いたという資料も・・・山鹿素行の「武家事紀」です。
そこには、通説の4人の他に、滝川一益、信長の次男・信雄、三男・信孝が書かれています。
滝川一益は、勝家、長秀、明智光秀と共に織田四天王と呼ばれていました。
織田家の行く末を決める会議に参加していてもおかしくないのですが・・・。
織田軍団の重要メンバーでしたが、滝川一益は会議に参加していません。
どうして・・・??
一益は、会議への参加を自ら辞退したと言われています。
織田軍団の関東方面軍司令官と思われるポジションでしたが、本能寺の変の直後、上野国で起こった神流川の戦いで、北条の大軍に乾杯しています。
そのみじめな敗戦を恥じて、清須会議への参加を辞退したのです。
また、単に北条氏との戦が長引いて、会議に間に合わなかったともいわれています。

信雄と信孝は会議に参加していたのでしょうか?
清須城にいたとは言われていますが、家督継承の当事者であり、会議に参加していないと思われます。
出席を止められていた可能性もあります。

こうしたことから、「川角太閤記」に書かれた柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人が参加者と考えられます。

その中で、清須城での会議開催を呼び掛けたのが柴田勝家でした。
しかし、どうして清須城だったのでしょうか?
勝家が指定した清須城には、信忠の忘れ形見の三法師がいました。
そのために、清須城ですることを決めたのです。

6月27日・・・顔を合わせた4人・・・張り詰めた空気の中、話し合いの口火を切ったのは柴田勝家でした。

「上様親子を突然に失ったのはまことに口惜しいことだが、新しい天下人を定め、上様と仰ぎ奉るがよかろう」

こうして、織田家の後継者選びから話し合うことになりました。
ところが・・・誰一人口を開きません。
相手を伺っているようでした。
そこにはそれぞれの思惑がありました。

この時後継者候補となり得たのは、信長の次男・織田信雄、信長の三男・織田信孝、信長の孫(信忠の嫡男)・三法師でした。

①織田信雄
この時、25歳!!
信長の長男の信忠と同じ母から生まれた嫡流の子でした。
しかし、信長の伊勢攻略に利用されます。
伊勢国・北畠具教を取り込むために.、養子に・・・。
それ以後、信雄は北畠を名乗りながらも信長・信忠と共に戦に参加。
戦歴だけは重ねるものの・・・今一つ。
信長の死後、安土城に入ります。
安土城は五層七重の天主閣を持つ当時最大の城です。
信長が天下取りの夢を馳せた居城でした。
ところがこの城が、信雄が入った直後に炎上し、灰になってしまいました。
ルイス・フロイスの報告やイエズス会日本年報に書かれている「信雄が放火した」という説が現在では有力視されています。
そんなこともあってか、信雄は家臣団からの評判も悪く、清須会議の前には後継者争いから外されていました。
織田家の後継候補は、信長の三男・信孝と、孫・三法師の二人に絞られていました。

②織田信孝
信孝は、信雄とは異母兄弟でこの時25歳。
母親の身分が低く、信長から冷遇されていたせいか、記録は殆どありません。
歴史上、その存在が顕著になるのは信長が伊勢攻略の際、抵抗の大きかった有力豪族・神戸具盛のもとに養子に・・・。
その後、武功をあげるも信長の扱いは変わらず、信孝は不満を募らせていきました。
それを知ってか、信長は信孝を四国派遣軍の総大将に抜擢!!
大坂に入った信孝は、そのチャンスをものにしようと準備に精を出していました。
そこに本能寺の変の報せが・・・。
信孝はすぐに備中高松から戻った秀吉と合流し、山﨑の戦いで明智光秀を破り、見事、父と兄の仇を討つのです。
当時の人々も、父と兄の仇を討った信孝が後継者に相応しいと考えていました。
来日していた宣教師たちも、キリスト教に理解のある信孝を後継者に望んでいました。

③三法師
信長の長男で織田家当主となっていた信忠の嫡男です。
血筋的には最も有力でしたが、この時まだ3歳でした。

信孝か三法師か・・・??

・・・??張り詰める空気の中、遂に勝家が・・・

「信孝様こそお年頃といい、その利発さといい、まことに天下人として適任この上ない人物と存ずる」

信孝を、織田家の後継に挙げたのです。
しかし、それは表向きの理由・・・勝家には思惑がありました。
勝家が清須会議の開催を呼びかけたのは、信長の敵討ちで秀吉に後れを取ってしまった汚名を返上するためです。
会議をリードすることで、織田家家臣筆頭という立場を周囲に示そうと考えたのです。
そしてその立場を盤石にするためには信孝を後継者にする必要がありました。
勝家は、信孝の成人の際の烏帽子親で、信孝とのつながりが強かったのです。
勝家は、信孝を織田家の後継者にし、自分が中心となって織田家を支えていこうと考えていました。

事実上天下を掌握するのは誰・・・??

「勝家殿の意見はごもっともだが、ここは筋目から言ってもご嫡男を擁立するのが道理・・・
 信忠さまにれっきとした若君がおられる以上は三法師様をお取り立てるのが当然かと存ずる」

秀吉は、勝家が信孝の後ろ盾として前面に出てくることを避けようと考えていました。
勝家に対抗する候補を擁立しようといました。
何よりも血筋を重んじる時代だったので、信忠の後継者を決める会議となると、信忠の血をひく三法師がいる限り、家督相続者は三法師以外ありえませんでした。

宿老の勝家に対し、強気の秀吉・・・
秀吉には、明智勢討伐の実績があったからです。
光秀討伐の功績に伴う発言力は大きいものでした。
秀吉の思惑は・・・??
成人した信雄、信孝が織田家を継ぐと、その家臣として仕えなければなりません。
幼少の三法師であれば、自身の傀儡にすることができると考えたのです。

自分よりも各下で足軽からの成り上がり者の秀吉の態度に、勝家は顔に出さないもののはらわたが煮えくり返っていました。
武将として優秀な信孝を推す勝家に対し、筋目を理由に三法師を推す秀吉・・・。
真っ向から対立する二人を前に、会議は膠着状態に・・・
勝頼と同じく織田家古参で秀吉を嫌っていた丹羽長秀が・・・
「そうじゃな・・・秀吉の申すことは正論。
 三歳とはいえ三法師様が後を継がれるのが筋目であろうな。」

どうして長秀は秀吉に味方したのでしょうか?

秀吉の器量を認める長秀・・・。
丹羽家を守るためには、勝家と秀吉のどちらに味方した方が良いかを見極め、秀吉を選んだのです。
長秀の援護射撃で、会議は一気に秀吉に傾きます。
ところがとうの秀吉は・・・席を立ってしまいました。
これも秀吉の作戦で、秀吉が立った間に長秀、恒興も勝家を説得・・・。
「弔い合戦に間に合わなかったお前の出る幕はない」という勝家への直言を秀吉がすると角が立つからです。
わざと退席し、長秀に言わせたのです。
こうして三法師が後を継ぐこととなります。
清須会議の前、秀吉は信長の妹で浅井長政に嫁いでいたお市と勝家の再婚話を進めていました。
高嶺の花であるお市との縁談を持ちかけることで、会議前に勝家に恩を売っていたのです。

また違う見方も・・・
それは、そもそも「川角太閤記」は、秀吉の天下人への台頭を前提とした歴史観によって書かれたものだからです。
三法師が後継者に選ばれたのは、秀吉が擁立鹿からではなく、会議の前から決まっていたという説です。
血筋が重要視されていた当時ならば、三法師がすんなりと跡継ぎになっていたはず・・・。
そのために、会議では後継者はすぐに決着。
別のことが議題に・・・・
信雄・信孝は、織田家当主の座を争っていたのではなく、どちらが三法師の名代になるかを争っていたのです。
議論は紛糾・・・
次男の信雄を名代とすれば、血筋は大事にされるものの・・・
信長と信忠の仇討の功績のある信孝は・・・??
信孝のもとで活躍した家臣たちも不満が・・・。
信孝を名代とすれば、血筋が軽んじられる・・・となると、三法師を血筋で選んだことにも異議が生じます。
どちらを選んでも、不都合が生じることに・・・
そこで4人が出した答えは・・・三法師様に家督は継承させるが、信雄様、信孝様のどちらも名代にはしない・・・でした。
その代わりとして、三法師の世話役の傅役を置くことに・・・。
その傅役は、三法師が治める直轄領の代官に就任した堀秀政でした。
そして三法師は、居城である安土城が修理の間、信長の三男・信孝の居城である岐阜城に・・・信孝が後見人となったのです。

謀反人・明智光秀の所領を含む560万石の遺領分配は・・・??
織田家の血縁者たち・・・光景に決まった三法師は、近江の国一郡と安土城を。
次男・信雄は本領の南伊勢に加え尾張国と清須城を。
信雄は、織田家の父祖の地である尾張国と信長ゆかりの清須城を与えられたことで、あっさり受け入れます。
信孝には、本領の伊勢神戸に加えて、美濃国と岐阜城を分配することに・・・。
信孝はこれを不満に思うも、父信長の天下布武の根拠であった岐阜城を譲り受けること、自身が三法師の後見人となったことで、しぶしぶ承知しました。

会議に参加した織田家家臣4人は・・・??
池田恒興は、摂津国池田・有岡に加え、同じ摂津国の尼崎・兵庫・大坂を。
丹羽長秀には、若狭国に加えて近江国二郡と坂本城を。
羽柴秀吉には、播磨国に加えて丹波国・山城国・河内国を。
ただし、本領だった近江国三郡を手放すことになります。
その近江国三郡を本領の越前国に加えて手に入れたのが柴田勝家です。
これによって、秀吉の居城・長浜城も勝家のものとなりました。
どうして秀吉は、長浜城を勝家に譲ったのでしょうか?
勝家が所望したのか?秀吉から譲ったのかははっきりとはしていません。
しかし、家督問題で主導権を秀吉に握られ、信雄擁立に失敗した勝家にとっては、せめて遺領配分の県は自分の言い分を通したと考えます。
秀吉は、これ以上勝家を刺激しないように、自分の本拠地の割譲と、居城の譲渡という大幅な譲歩をし、プライドの高い勝家のメンツを立てたのです。
長浜城を手放すことになった秀吉の居城は、播磨国の姫路城となりました。
秀吉は、山崎の戦いの戦場にもなった天王山に山崎城を築城することにしていました。

そして、三法師が織田家当主となったこと、山城国を押さえ京都を手中にしたことで、天下を手中に収めるという構想が出来上がっていました。
長浜城を手放すことぐらい、痛くもかゆくもなかったのです。
この時、山城国を押さえて京都を手中にしたことが、後の天下統一への足がかりとなったのは、歴史が証明しています。

ところが・・・半年後、秀吉が長浜城を攻めます。
勝家の養子柴田勝豊が守っていましたが、あっけなく降伏・・・
もともと秀吉の城・・・攻め方はわかっていたでしょう。
そして季節は冬に・・・越前に帰っていた勝家が、すぐには動けないことをわかっていたのです。
1583年、秀吉と勝家は賤ケ岳の戦いで戦います。
敗北した柴田勝家は、その二日後に自害・・・!!
秀吉は1590年、天下を統一します。

清須会議の後織田家はどうなったのでしょうか?
武将として器量なしと言われていた信雄は、秀吉についたり、家康についたりと日和見で・・・。
しかし、最後は幕府をひらいた徳川家から、大和国宇陀松山藩2万8000石を与えられ、大名となり血を繋ぎます。
対照的な信孝・・・
秀吉と敵対し、勝家と共に賤ケ岳の戦いに臨みます。
しかし、敗れて降伏・・・切腹を命じられます。
信孝辞世の句は・・・

昔より
  主をうつみの
      野間なれば

報いを待てや
      羽柴筑前

信孝は秀吉への凄まじい怨念を抱いたまま切腹!!

織田家当主となった三法師は、元服して秀信となります。
その後、美濃国を与えられますが、秀吉の身内の扱いを受け、天下分け目の関ケ原では秀吉の西軍についたことで敗北・・・
家康によって改易となり、高野山に追放されます。
再び歴史の表舞台に出てくることはありませんでした。
1605年、26歳の時、静かにこの世を去ります。

天下を決めた清須会議の結末でした。

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金ヶ崎の四人 信長、秀吉、光秀、家康 (毎日新聞出版)



戦国時代、天下統一を目指し破竹の勢いで快進撃を続ける織田信長が重用した二人の家臣がいました。
明智光秀と羽柴秀吉です。
新参者・・・ライバル二人の熾烈な出世争い・・・より信長に評価されていたのはどちらだったのでしょうか?

天下統一を目指す尾張の織田信長には、譜代の家臣・・・柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛・・・優秀な家臣たちがいました。
そんな古参たちを差し置いて、重用されたのが新参者の外様の家臣、明智光秀と羽柴秀吉でした。

信長との出会い・・・羽柴秀吉の場合。
信長との出会いが早かったのは秀吉の方でした。
秀吉は、尾張国中村の貧しい農家に生まれました。
幼くして父親を亡くして諸国を放浪、職を転々としながら生活していました。
18歳の時、尾張に戻ってきた秀吉は、織田家家臣の推薦で小者として3歳年上の信長に仕えました。

小者は雑用係・・・
秀吉は信長の草履を懐で温めたという逸話があるぐらい忠勤を尽くし、戦の時の歩兵である足軽に・・・
そんな秀吉に出世のチャンスが訪れたのは、1566年。
この時信長は、隣国美濃を攻略する為に、木曽川・長良川・揖斐川の接近している墨俣に城を必要としていました。
柴田勝家や佐久間信盛らが築城に当たるも・・・途中で敵の攻撃を受け失敗!!
その様子を見ていた秀吉は・・・
「私にやらせて下せえ・・・ええ考えがあります。」
こうして築城を任された秀吉は土地のことを良く知る土豪など1000人を集め、川の上流で城を築くための木材を調達し、いかだで運搬、木材は木組みを組んでいたので、墨俣では組み立てるだけ・・・敵の攻撃を受ける前に素早く完成させました。
”墨俣一夜城”ととも言われる秀吉の功績です。
成功したのは、秀吉の人柄も大いに関係していました。
土豪を一流の人懐っこさで動かしたのでは??と言われています。
秀吉のおかげで信長の美濃攻略は成功します。
これ以後、重用されるようになっていく秀吉・・・侍大将まで出世します。
1569年に京都奉行に就任します。
それまでは、譜代門閥主義で、代々使える家柄を重用していました。
能力本位で人材を抜擢する信長・・・中途採用でも能力さえあれば、出世できました。
信長の人材登用術が秀吉を出世させたのです。

信長との出会い・・・明智光秀の場合。

明智光秀の出自ははっきりとはわかっていません。
が・・・1528年土岐氏の支族「土岐明智氏」の家に生まれたともいわれています。
しかし、斎藤道三と義龍の戦いで、道三側についていた光秀の一族は道三が破れると離散・・・
美濃の国を出た光秀は各地を放浪したのち、越前・朝倉義景に仕えます。
秀吉よりも9歳年上の光秀は、信長に会うのは40歳の頃でした。
きっかけは・・・
1565年畿内で力を持っていた松永久秀らが室町幕府13代将軍足利義輝を殺害!!
その弟義昭も奈良に幽閉されますが・・・越前に逃げてきます。
義昭は、上洛の助けを求めてやってきたのですが・・・朝倉氏は動こうとしません。
義昭の世話をし、親密になっていた光秀は、業を煮やして・・・光秀の脳裏に浮かんだのは信長でした。
この時、光秀35歳!!尾張から光秀のふるさと美濃に進出し、治めていました。
信長を味方につけることができれば・・・
1568年、光秀は美濃国に赴いて、義昭を上洛させてくれないか?と、交渉します。
この時、信長は上洛の機会をうかがっていたので・・・交渉はすぐに成立!!
これが、二人の出会いでした。
光秀と濃姫が従兄妹の関係にあったから・・・とも言われています。
信長は義昭を奉じて上洛!!光秀も付き従います。
1568年義昭が15代将軍に就任。
信長は後見人となり、実質的に京を支配していきます。
二人の橋渡しをした光秀は、信長に仕えるようになり・・・出会いから1年で・・・
1569年京都奉行に就任しました。

秀吉と光秀は、同時期に京都奉行となっています。
そして・・・金ヶ崎の退き口で決まる・・・??

外様の良きライバルとして並ぶ二人に、あるミッションが・・・
1570年4月・・・勢力拡大を目論む信長は、越前の朝倉義景討伐の兵を挙げ、光秀と秀吉も参戦・・・!!
手柄をあげる絶好のチャンスです!!
織田軍は若狭方面から越前に進み、朝倉側の天筒山城、金ヶ崎城を難なく落とし、一乗谷城へ・・・!!
しかし、予期せぬ出来事が起こります。
妹のお市を嫁がせ、同盟を組んでいた北近江の戦国大名・浅井長政が裏切り、朝倉側についたのです。
その上、六角氏も挙兵!!
これによって、織田軍は敵中で完全に孤立してしまいました。
金ヶ崎にいた信長は、すぐさま撤退を決め、退路を断たれる前に京都へ退くことに・・・
金ヶ崎の退き口です。
この撤退戦では、最後まで織田軍の陣に残り、敵を足止めする殿を自ら買って出たのが秀吉で、当時の秀吉の名を取って”藤吉郎金ヶ崎の退き口”と言われ、語り継がれていますが・・・
5月4日付の波多野秀治宛の一色藤長の書状によると・・・
金ヶ崎城に
木下=木下藤吉郎(羽柴秀吉)
明十=明智十兵衛尉光秀
池筑=池田筑後守勝正
その他残し置かれ・・・とあります。

つまり、殿を務めたのは、秀吉だけではなく光秀も、池田勝正もいたのです。
この時、殿を務めたのは新参者で、身を挺して敵の追撃を阻む・・・捨て駒なのです。
しかし、上手くいけば、たいそうな手柄になる!!
3人は、金ヶ崎城で殿の順番を決めます。
①池田勝正
②明智光秀
③羽柴秀吉

この順番で食い止めることとなります。

まずは、勝正の軍が、信長の軍を逃がすために戦います。
次に代わって光秀軍が・・・峠で待ち受けて食い止めては逃げるという戦法を・・・
三番手の秀吉軍も奮戦します。
そして、京に戻れた信長・・・。
殿の役目は手柄となる・・・??

最後を務め、帰ってきた秀吉を見て不安に駆られる光秀・・・。
秀吉は、朝倉勢に追いすがられ、落武者狩りにも遭い・・・命からがら逃げかえってきました。
光秀は、山崎の戦いで秀吉に敗れ死んでしまっているので、功績は秀吉のものになってしまった・・・。
後世、秀吉の武功となってしまったのです。
朝倉攻めでは、二人とも貢献したことを認めていた信長です。

先に一国一城の主となったのは・・・??

織田信長は、兵を一度岐阜に戻し、徳川家康の協力を得て北近江に出陣!!
浅井朝倉との戦いに邁進します。
比叡山延暦寺が逃げ出した浅井朝倉の兵を匿っていることを知った信長は・・・
「味方になるか、中立を保ってもらいたい。
 受け入れられなければ、全山ことごとく焼き払う。」
これに対し、延暦寺は拒否!!
比叡山を焼き討ちしようとします。
家臣たちの中にも反対意見のある中、主導したのは比叡山攻略最前線を任されていた明智光秀でした。
1571年9月12日、比叡山の僧侶、信者、老若男女構わず皆殺し・・・焼き討ちします。
誰もやりたがらないことをやった光秀は、1571年信長から近江志賀郡5万石を与えられます。
比叡山の麓、琵琶湖のに面した坂本に自らの城を築きました。
一国一城の主となったのは、家臣団の中で光秀が第一号でした。
信長に出会ってから3年・・・出世争いで秀吉を大きく引き離します。
ちなみに、この時秀吉は、裏切った浅井攻略を任されていましたが、大苦戦!!
浅井氏の居城・小谷城を攻め落とし、浅井氏を滅ぼすのに3年の月日を費やしてしまいます。
その後、1573年信長から落とした小谷城と北近江3郡13万石を与えられます。
一国一城の主に・・・家臣団の中では第2号・・・光秀からおよそ2年遅れてのことでした。

城攻めが上手かったのは・・・??

1573年7月、信長が足利義昭を追放したことで、室町幕府が滅亡!!
信長は、更なる勢力拡大に向け、新しい軍事態勢を構築します。
信長自身が総大将となっていたものを・・・侵攻する地域を6つに分け、それぞれを信頼できる武将に任せます。
北陸方面郡・柴田勝家、関東方面軍・滝川一益、本願寺方面軍・佐久間信盛、四国方面軍・神戸信孝、近畿方面軍・明智光秀、中国方面軍・羽柴秀吉です。
二人もそれぞれ軍司令官に任じられました。
困難な地域を任された光秀と秀吉、その城攻めとは・・・??

明智光秀の場合・・・
1575年9月・・・光秀は丹波平定を開始。
花冠に攻め入るも・・・最初でつまづきます。
狙いを定めた黒井城が要害堅固な山城だったためにてこずってしまいます。
長引く中・・・織田方についていた丹波八上城主・波多野秀治が裏切ったため、光秀は坂本城にいったん退却!!
体制を立て直して攻め込もうとした矢先・・・
・・・光秀は、信長から石山本願寺攻め、紀州雑賀攻めに駆り出され、転戦を余儀なくされます。
結局、光秀が丹波攻めに戻れたのは1577年10月。
まずは丹波亀山城を攻略し、拠点とします。
翌年には、黒井城攻めの時に裏切った波多野秀治の八上城を攻めます。
信長公記によると・・・
「堀をほり塀・柵幾重もつけさせ、堀際に諸卒町家作に小屋をかけさせ、廻番を丈夫に警固をもう質kwられ、誠に獣の通ひもなく、在陣候なり」とあります。
光秀の城攻めは、戦わずして降伏させるというのが大前提・・・丹波の土豪たちに・・・
「味方をすれば本領安堵。忠節次第では増加なある。」
無駄に戦うことなく、交渉によって敵方を味方にしていきます。

その後も、次々と城を攻め落としていった光秀・・・最後に残ったのは、一度攻略に失敗した黒井城でした。
ところが、城主が変わっていたこともあって、光秀にあっさりと白旗を揚げるのです。
1579年、およそ4年をかけて、丹波を平定。
その翌年、信長から新たに近江(一部)と丹波を与えられ、合わせて34万石の大大名に・・・織田家家臣として確固たる地位を築いたのです。

羽柴秀吉の場合・・・
信長から中国法明軍司令官に任じられた秀吉は、中国地方の毛利輝元を攻めようとして味方を増やそうとしていました。
その手始めとなったのが、播磨の中で大きな勢力だった御着城主・小寺政職の家臣・黒田官兵衛でした。
味方につけた官兵衛が、後に秀吉を天下人へと引き上げる名軍師となるのはご存じの通ります。
さらに秀吉は、三木城主・別所長治を味方につけることに成功!!
隣国但馬に攻め入り周囲を固めたことで、中国平定は容易に成し遂げられると思われました。
ところが・・・三木城主別所長治が裏切り、毛利方についたのです。
これによって秀吉は、播磨・三木城攻めを開始します。

城攻めの際は、長期戦となるので、自軍の損害を最小限に抑え、消耗させないというのが基本です。
秀吉は、様々な城攻めの中で、兵糧攻めを好みました。
三木城攻略もその一つ・・・三木の干殺しです。
毛利方が兵糧米を送り込んだことで苦戦し、2年に及ぶ長期戦となるも、1580年1月開城させ播磨と但馬を平定。
秀吉は攻撃目標を因幡に・・・!!
秀吉の中でも残忍な鳥取の渇え殺しです。
1581年6月、秀吉は2万の軍勢を率いて但馬口から因幡に入り、吉川経家の立て籠もる鳥取城を囲みます。
秀吉は三木城攻めの際に、毛利方が兵糧米を送り込んだことで苦戦した苦い経験から、今回は城を包囲する前から計画を練っていました。
城に運び込む兵糧を少しでも少なくするために、因幡中の米を時価の数倍で買い占めたといいます。
また、村々を焼き払い、城の中に村人を逃げ込ませ、籠城する人数を増やし、食料を1日でも早く食いつぶさせようとしたのです。
やがて城の中の食料が底をつくと、飢えに苦しみ、柵に取りつくものが現れました。
秀吉軍はそれを狙い撃ちに・・・!!
その瞬間、城内の者たちは撃たれた者の体に飛びつきむさぼりついたとか・・・
それほどの飢餓状態にあったというのです。
吉川経家は兵たちの助命を条件に切腹。
城を明け渡しました。
この後、備前も攻略した秀吉は、4か国を平定したのです。

数々の城を攻め落としていった光秀と秀吉・・・
どちらが凄かったのでしょうか?
城攻めだけで見ると・・・光秀は当時の常套手段でした。
秀吉は独自の戦法を編み出しています。
なので、独自の戦法を持っていた秀吉の方が凄かったのです。
光秀と秀吉に、難しい地方の攻略を任せた信長は、この時二人をどう評価していたのでしょうか??
1580年8月8日付の佐久間信盛・信栄親子あての手紙によると・・・
「光秀の働き、天下の面目をほどこし候
 次に羽柴藤吉郎数か国比類なし」
としています。
つまり・・・光秀の方が評価が高かったのでは??
この時点での織田家の働き頭は光秀であると信長は考えていました。
光秀の評価が高かった点として・・・京都に近い国ほど、室町幕府ゆかりの勢力が多く、統治が難しかったことが挙げられます。
そして、丹波の地形は、大和盆地が入り組んでいて、統治が難しかったと思われます。
1581年2月、京都で織田軍5万ともいわれる「馬揃え」が行われます。
正親町天皇を始め、公家、女官、町人たちが見物しました。
この時、統括責任者とされたのが、信長から一番の信頼を得ていた明智光秀でした。

この時、あまりに嬉しかったのか、光秀は・・・
「瓦礫のように落ちぶれていた自分を召しだし、その上莫大な人数を預けられた。
 一族家臣は子孫に至るまで、信長様への御奉公を忘れてはならない。」と書いています。
しかし・・・その一年後、光秀が謀反を・・・!!

1582年5月、光秀は織田信長から中国毛利攻めを行っている羽柴秀吉の援軍として出陣するように命じられます。
そして6月1日・・・光秀は信長の命令通りに秀吉軍に加勢する為に、居城である丹波亀山城を後にしました。
ところが・・・老の坂で進路を変えるのです。

「敵は本能寺にあり!!」

向ったのは、信長が宿泊していた京都の本能寺でした。
6月2日未明・・・京都・本能寺。
けたたましい物音に目を覚ました信長・・・
光秀の謀反を知った信長はこう言ったと言われています。

「是非に及ばず」

天下取りを目前に・・・信長自刃。

信長に評価されていたにもかかわらず、どうして謀反に至ったのでしょうか?
怨恨説??これは江戸時代に書かれたものです。
近年有力視されているのは長宗我部問題説です。
信長は、四国に勢力を広がるために、土佐国などを治めていた長曾我部元親を取り込み、手柄を立てたら四国を与えると約束していました。
しかし、元親の力が大きくなると恐れた信長はその約束を反古にし、元親を怒らせたのです。
この元親と信長を取り持ったのが光秀でした。
面目を潰された・・・そう思った光秀。
本能寺の変は、信長が元親放伐を予定した日でした。
それを阻止する為に謀反を起こしたのでは?と考えられています。
最も信頼していた光秀によって命を落とすこととなった信長。

最終的な二人の評価は・・・??
甲乙つけがたいと思っていたようです。
その後、光秀は出世争いをしていた秀吉と戦い最期を遂げるのです。
良きライバル・・・信長にとって欠かせない二人でした。
この二人の存在が、戦国の歴史を大きく変えたことだけは、確かなようです。


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1582年・・・6月2日早朝・・・
京都で戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こります。
天下取りを目前にしていた織田信長が、明智光秀の謀反に会い自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存じ、豊臣秀吉です。

織田信長の死を一番最初に知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの準備中だった信長の三男・信孝と丹羽長秀でした。
信孝と丹羽長秀が信長の死を知ったのは、本能寺の変の当日6月2日でした。
どうして京都に向かえなかったのか??
彼等はかん口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こし、逃げ出してしまったので、仇討どころか守りを固めることで精いっぱいだったのです。

柴田勝家は京都から300キロのところにある越後で上杉攻めをしていました。
勝家が信長の死を知ったのは、数日たった6月5日~7日の間のことでした。
勝家はすぐに越前の北ノ庄城に戻り、明智光秀等夏の準備をしますが、出かけられません・・・
京都に戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったからです。
明智光秀は、上杉景勝に、本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころでなくなる・・・と、追撃態勢を整えていたので、勝家は動くに動けなくなっていたのです。

滝川一益は、北条の治めていた関東をほぼ制圧しつつありましたが・・・変を知ったのは、6月7日~9日の間と言われています。
しかし、時を同じくして北条氏政も、信長死亡を知り、反撃してきたのです。
そのため、一益は、京都に行くことができませんでした。

羽柴秀吉の場合・・・
中国地方を制圧する為に、備中高松城を攻めていた秀吉は・・・。
信長の死を知ったのは、変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロ離れた土地で、どうしてそんなに早く知ることができたのでしょうか?
明智光秀は、この時、「信長を討ったので、和平交渉に応じるな」と、毛利に密書を送っていました。
その使いが、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
この時、秀吉は、毛利方清水宗治の居城・備中松山城を水攻めにし、落城寸前まで追い込んでいました。
城の周りを全長3キロ、高さ7メートルの堤で囲んで、近くの川を引き入れ、水滅させようとしていました。
警備も厳重・・・そこへ、光秀の密使が捕まってしまったのです。
城攻めの奇策のおかげで、信長の死をいち早く知ることができた秀吉ですが、草履取りから自分を取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、泣き崩れるばかり・・・。

そんな秀吉の目を覚まさせたのは・・・軍師・黒田官兵衛の・・・

「これは天のご加護 天下取りの好機でございます。」

の一言でした。

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵を討ち、天下とるという野望をたぎらせるのです。
そして、かん口令を敷きました。
当然、」毛利方にも、漏れないように、密使を斬ったうえで備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉が始まっていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩めます。
備中・美作・伯耆を割譲するように求めていたのを、美作だけで備中・伯耆は折半にします。
さらに、備中高松城主が切腹すれば、城に残っている5000人の兵士たちの命は保証するとしたのです。

こうして、毛利とのスピード講和が実現します。
秀吉が信長の死を知ってから数時間のことでした。
その日のうちに、清水宗治は備中高松城に浮かぶ船の上で自刃・・・
その見事な最期に「武士の鑑」と言ってほめたたえました。
その直後・・・毛利が信長の死を知ってしまいました。
毛利の追撃は・・・??
この時、毛利方の吉川元春と小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に駆け付けていました。
どうなる??

吉川は・・・「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ。」
小早川は・・・「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ。」

結局、小早川の主張が通り、毛利方が追撃することはありませんでした。
そして・・・和睦の1か月前・・・毛利輝元が家臣に宛てた手紙には・・・??

「こちらは、鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている。」

武器弾薬を使い果たしていたのなら、追撃どころではありません。
しかし、これもまた秀吉の策によるもので・・・瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していたので、毛利伸樹の補給路をあらかじめ絶っていたのです。
もともと村上水軍は、因島村上家・村上吉充、来島村上家・来島通総、能島村上家・能島武吉・・・毛利方の水軍でした。
そのうちの来島村上家は毛利を裏切り信長についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略し手中に治めていました。

6月5日、吉川と小早川の軍勢は撤退を開始・・・  
それを見届けた秀吉は、翌日・・・京都への怒涛の行軍を始めるのでした。
秀吉は2万の軍勢を率い、備中高松城から京都を目指し、200キロの大移動を開始しました。
神業ともいわれる秀吉の中国大返しが始まりました。

6月6日(1日目)午後2時
備中高松城を後にした秀吉軍は、西国街道を通り、22キロ離れた備前・沼城へ・・・。
西国街道は、援軍として信長が来ることになっていたので、秀吉によって整備されていました。
向う沼上は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城でした。
待ち受ける宇喜多もぬかりありません。
秀吉たちが夜でも動きやすいようにとたいまつを焚き、城についたときに食事が出来るようにしていました。
順調なスタートを切りましたが・・・

6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発し、70キロ先に姫路城を目指します。
その途中には、西国街道最大の難関・船坂峠がありました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万の軍勢が重装備で多くの武器弾薬を運びながら進むのは困難を極めます。
姫路城までの行軍では、暴風雨にも見舞われていました。
道筋の河川が増水し・・・農民を雇って、人間の柵を作らせ、その方にすがって川を渡らせたといいます。

当時の甲冑などの装備は30kg~50kg・・・。
秀吉は大軍を率いてどうやって早く移動したのでしょうか?
秀吉は兵士の負担を減らすために・・・
海路を利用したのではないか?という説があります。
騎馬隊や足軽隊は走ったでしょうが、物資を運ぶ輜重部隊は海路を行ったと言われています。
言い伝えによると、牛窓から佐古志、片上津から赤穂岬・・・と言われています。
兵士たちを身軽にし、大軍勢の移動のスピードをあげた秀吉・・・

もう一つの説は・・・??
秀吉の書いた一通の手紙に秘密がありました。
本能寺の変を知った中川清秀の手紙に対する秀吉の返書です。
その文面の日付と内容・・・
6月5日に「今、野殿まできている」と書いています。
野殿は備中高松城から7キロのところです。
この書状が正しければ、出発日の定説が覆ることに・・・??
6日出発という説は小瀬甫庵の「太閤記」によるものです。
太閤記は、秀吉の活躍を書いたものなので、誇張表現なのではないのか?とも言われています。
中川清秀宛ての書状の6月5日に野殿にいるが注目され、6月5日の時点で備中高松城から野殿に向かって・・・という策が注目されています。
5日と言えば、毛利が撤退した日です。
この日に追撃の余裕がないと知って・・・しかし、追撃の可能性がゼロということではなく・・・この秀吉の判断はあっぱれでした。
この6月5日出発説・・・本体は微衷高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのではないか??
今後さらに検討が加えられることでしょう。

1582年6月2日本能寺の変・・・主君・織田信長の敵を討つために、備中高松城から京都まで200キロの道程を8日間で走破した羽柴秀吉の中国大返し、その成功のうらには秀吉の知略が・・・。

人心掌握術・・・
備中高松城を出発し姫路城まで2日で92キロを走ってきましたが、まだ道半ば・・・
京都まで100キロ以上残っていました。
疲弊している・・・逃げ出す者も出て来るのでは・・・??
そこで、姫路城につくと皆に信長の死を教えます。
この行軍は、信長の仇・明智光秀を討ち取るためであると皆の士気を上げます。
城にあった兵糧米・8万5000石と金・800枚、銀750貫文・・・現在の価値にして66億円相当を兵士たちに分け与えたのです。
そして、仲間・小者たちにも5斗・・・半年分の米を与えたのです。
翌日からの行軍に備え、一日ゆっくり休ませます。
そこへ一人の僧侶がやってきて・・・
「明日は、二度と帰ることができない悪日にございます。
 それゆえ、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」
それを聞いた秀吉は、
「二度と帰ることができないには、むしろ吉日じゃ!!」
そう言って取り合わなかったといいます。
秀吉は、光秀を見事討ち取ることができれば、その先には天下人の道がある・・・
そうすれば、姫路城に戻ってくる必要はない!!
城などどこにでも作れる!!
だから、帰って来れないのはむしろ吉日!!
自分が勝って天下をっとるということだ!!と。

中国大返し成功のため、他にも策を講じていました。
姫路を出た秀吉軍は、100キロ先の富田を目指します。
しかし、その途中には摂津国が・・・!!
そこに居るのは茨木城主・中川清秀と高槻城主・高山右近でした。
かつて・・・織田信長に謀反した荒木村重の重臣たちでした。
秀吉は、「奴らが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」と、書状を送っています。

「上様は難を逃れ・・・」

信長派生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしたのです。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、首を晒すことができていれば・・・でも、出来なかったので、その嘘を信じてしまったのです。
情報を操作することで、裏切りの目を摘んだ秀吉は、安心して行軍することができたのです。
秀吉は家臣たちにも恵まれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時、後方支援を担当!!
食糧や武器、人出の手配・・・迅速かつ的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・!!
黒田官兵衛は、軍師としての才能を発揮!!
隊列の先頭に毛利家の旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせます。
この旗は、備中高松城で和議が成立し、秀吉軍が撤退する際に、小早川隆景の元を訪ね、毛利軍の旗を20本ほど借りています。
隆景はある程度察しがついていて・・・秀吉に協力しておいた方が、毛利家のためになると考えたのです。
旗を見て、毛利が味方に付いたと勘違いした武将たちが次々と秀吉軍に加わります。

6月11日、秀吉軍は尼崎に到着!!
秀吉は大坂城にいた織田信孝と丹羽長秀に尼崎まで来たことを伝えますが・・・信孝を光秀討伐の総大将とすることはありませんでした。
本来ならば信孝でしょうか・・・信孝にすれば、自分は駒になってしまう・・・おまけに信孝には当時、兵が4000人しかおらず、父・兄を殺されてしまっていました。
の舞台兄は、光秀を討つ気迫がなかったので、秀吉の上には立てなかったのです。
6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと共に、軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

その頃光秀は・・・
6月2日から4日までの間に坂本城に戻り、近江を平定。
6月5日には安土城と秀吉の長浜城を占拠、丹羽長秀の佐和山城も押さえていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城主細川忠興や、大和郡山城の筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
その一方で、朝廷工作を行って・・・
朝廷から京都の経営を任せると言われ、信長の後継者は自分であると思っていたようですが・・・??
8日、大返しの知らせを受けました。
しかし・・・光秀は、京都に献金するなどの朝廷工作に勤しんでいました。

秀吉軍は4万のふくらみ・・・しかし、明智光秀は、織田信長の謀反に成功するも、味方に付けようとしてた武将たちが味方に付かないという誤算に・・・。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく正室に迎えていた娘・ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉してしまいました。
筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5000!!秀吉の半分にも及びません。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎でした。

6月13日・・・
劣勢で迎え撃つことになった光秀には策がありました。
天王山の地の利を生かします。
当時、川が迫る天王山には、馬がやっとすれ違えるだけの細い道しかなく、そこで秀吉の大軍をおびき寄せ、天王山に配置した兵に吸収させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、もし秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」by光秀

しかし、秀吉もそこのところはよくわかっていて・・・
そこで、地の利に明るい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は、敵に気付かれぬよう、松明なしに前日夜に天王山に分け入り、光秀軍より先に天王山を占拠したのです。
これで光秀軍は、勝機を失います。
そして遂に両軍が激突!!
僅か数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は命からがら逃げだすも、落武者狩りの竹やりで重傷を負い・・・6月13日、明智光秀自害!!

三日天下と揶揄されることとなった光秀、一方、主君の敵討ちを見事に成し遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
中国大返し・・・その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして、大胆な行動力と決断力・・・そのスピードの速さでした。

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<織田信長と本能寺の変>本能寺の変勃発! 織田家臣団が下した決断 (歴史群像デジタルアーカイブス)

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戦国最大のミステリー・・・”本能寺の変”
天下統一を目前に、非業の死を遂げた織田信長。
信長がどうして明智の謀反に気づかなかったのでしょうか??

1579年長篠の戦いで武田勝頼を破り、その3年後武田家が滅亡・・・信長は、日本の領土の半分を手にしました。
天下統一を目論む信長は、重臣たちを全国に配置!!
北陸には筆頭家老の柴田勝家、中国地方は羽柴秀吉、関東は滝川一益、近畿は明智光秀。
1582年5月29に備中高松で毛利軍と対峙していた秀吉から援軍要請がありました。
安土城を出発した信長は、その日のうちに京都に入りました。
出立までの数日、定宿としていた本能寺に!!

この時、信長に随行した家来150人のうち、武術の心得があったのは小姓・森蘭丸らわずか30人ほどでした。
これらは、信長の家臣の精鋭たちが各国で戦いの真っ最中だったことで、信長が無防備であったということではないようです。

当時の本能寺は、現在の本能寺より南西に600mのところ。
大きさも格別で東西140m、南北270mもある大寺院でした。
平成19年の発掘調査によって、本能寺には強固な門や石垣があり、四方には深い堀もあったようです。
本能寺は、城郭、要塞の昨日のある寺でした。
他に、信長がわずかな人数しか連れていなかった理由は、すでにこの時点で信長に逆らうものがいることは予期しておらず、約1km離れた明覚寺に嫡男・信忠が500の兵を置いていました。
安全・・・まさか、光秀が反旗を翻すなど思いも取らなかったのです。

この時信長は、朝廷より太政大臣・関白・征夷大将軍らの官職に任ぜられることになっていました。
三職推任と呼ばれるもので、朝廷も信長の力を認めているという証でした。
もはや京都に敵なし!!信長はこの時、自分が襲われるなどとは思ってもみませんでした。
6月1日、本能寺から20キロ離れた丹波亀山城から秀吉の援軍の準備を行っていました。
だれも・・・謀反のことは知りませんでした。
家臣には「信長さまが、わが軍の装備を確かめたいそうだ」と、言います。
謀反の計画がばれれば許されない!!
そして、用心に用心を重ねて本能寺へ・・・
1582年6月1日午後6時・・・
光秀軍1万3000を引き連れて、丹波篠山城を出発!!
本能寺へと向かったのでした。

どうして信長はこの大軍に気付かなかったのでしょうか??
2時間後、野条で軍議を開いた光秀。
呼ばれたのは、側近中の側近わずか数名で・・・謀反の意を告げます。
危惧する声の上がる中・・・光秀の決心に、最後は道を同じくすることを誓います。
野条・・・篠村八幡宮は、足利尊氏ゆかりの地です。
尊氏と光秀には共通点がありました。
明智家は、美濃国・清和源氏の流れをくむ土岐氏の一族で、尊氏もまた同じ源氏でした。
尊氏は慕っていた後醍醐天皇に謀反を起こしたことで有名ですが、その決意を固めたのが篠村八幡宮だっやのです。
部下たちに起請文を書かせます。
日付が変わった6月2日0時ごろ・・・沓掛に・・・。
光秀は、全員に小休止・食事をさせ・・・天野源右衛門に「不審者を見つけたら、構わず切り捨てよ!!」と命じます。本能寺に向かっていることを知られないように、怪しいものはみな切り捨てよということです。
この時、天野は農民まで斬りつけたと言われています。
本能寺まであと5キロ・・・戦の用意をさせます。火縄銃も・・・!!
謀反を知らない兵士たちがざわめきますが・・・
「今日より我が殿(光秀)は天下様にお成りになる。
 下々の者、わらじ履きの者たちまで勇み喜ぶがよい!!
 手柄の次第によって、処遇の高下を決めよう!!」と言われるのでした。

秀吉の援軍という大義名分を利用した光秀の周到な策だったのです。


本能寺の変から400年以上・・・怨恨説、信長自滅説、野望説、ノイローゼ説、朝廷守護説、救世主説、人間性不一致説、突発説、黒幕説、内通露見説、信長自殺説、信長不死説・・・いろいろ言われてきました。時代を超えて人々を惹きつけてきました。

野望説の根拠は・・・3日前に呼んだ句・・・
「ときは今 あめが下しる 五月哉」です。
どうして謀反を起こしたのか・・・??

長く伝えられてきたのは①怨恨説です。
江戸時代に書かれた「川角太閤記」に書かれています。
が・・・江戸時代に書かれた作品で・・・信長のイメージは冷酷非道となっていました。
信長=悪役というイメージ先行でした。
信長譜代の家臣でない光秀は、斎藤道三に仕えていましたが、勢力争いに巻き込まれ離散・・・放浪の末に、越前の朝倉義景に仕えます。身分は足軽でした。
転機があったのは1565年、京を逃げてきた足利義昭に信長を紹介する役目をすることとなりました。
帰蝶の母が明智の家系で、いとこ同士・・・その縁を頼ったようです。
権力を握るためにも足利家と近づきたいと思っていた信長は、橋渡し役の光秀を取り立てて自らの家臣に!!
光秀は、知識人で才覚に優れていたので、翌年には京都の政務についています。

1575年交通の要所である丹波国の攻略を4年がかりで平定!!
信長は、「丹波国での光秀の働きは、天下の面目を施した」と言われています。
褒め称え、光秀に丹波国29万石を与えたのでした。
足軽から一国の主にまで取り立ててくれた信長に対し、
「瓦礫のように落ちぶれていた自分を召し出し、そのうえ、莫大な人数を預けられた
 一族家臣は、子孫に至るまで信長さまへの御奉公を忘れてはならない。」
光秀がこれを書いたのは・・・本能寺の変の1年前のことでした。

②黒幕説
光秀の黒幕として一番有力視されているのが足利幕府15代将軍・足利義昭です。
義昭は、信長の後ろ盾があっての将軍でした。
なので、実権は信長が掌握!!
業を煮やした義昭は1573年兵を挙げますが・・・制圧され、京から追放されてしまいました。
それでもあきらめられない義昭は、旧知の仲の光秀に謀反を持ち掛けた??

③家康共謀説
信長の家康暗殺計画を光秀が利用したという説ですが・・・。
家康は、信長と20年にわたって同盟関係でした。
この頃から三河を手に入れようと思っていた信長・・・
家康を本能寺に招いて光秀に討たせる??というものです。
これに対して信長の横暴さに耐えかねていた光秀が共謀して本能寺で家康を待っていたところを討ったというものですが・・・
信長にとっても家康にとってもお互いが大切なパートナーであったことには間違いありません。
勝つという見込みのない物に、家康は挑戦しません。

そしてさらなる新説が・・・。
本能寺の変の直前、長曾我部元親と光秀の重臣・斎藤利光との間で書かれたものです。
④四国・長曾我部問題説
1575年10月、阿波国・三好氏と対立していた信長は、四国統一を目指していた土佐の長曾我部元親と同盟を結びます。
この時の取次役は光秀!!
信長は元親に約束します。
「四国における勢力圏の展開は、元親の手柄次第にせよ」
信長という強力な後ろ盾を手にし、破竹の勢いで勢力を拡大!!
阿波のみならず、四国を平定しようとしていました。
しかし、この勢いに危機感をいだいた信長は・・・
「本国の土佐と阿波の南半国は安堵するが、讃岐と伊予は召し上げる!!」としました。

元親はこれを一度は拒絶するも、光秀の説得もあり承知しました。
しかし、信長は、すでに準備していた四国征伐を中止せず、三男・信孝に出陣を命じます。
予定日は1582年6月2日!!まさに、本能寺の変の当日でした。
この四国征伐を阻止するために、本能寺の変を引き起こした・・・??
この手紙そのものには、元親の苦悩があり、光秀の取りなそうという苦しみもあります。
一つの要因となりますが・・・。

⑤信長横暴阻止説
本能寺の変当日に、光秀が旧知の武将に宛てた手紙には・・・
「信長の悪虐は、天下の妨げ・・・討ち果たし候。」とあります。
悪虐??
信長は気性が激しく、目的の為ならば非道な行いも厭いませんでした。
刃向かうものは実の弟でも抹殺!!
義理弟(浅井長政)家滅亡!!
比叡山焼き討ち!!
石山合戦!!
人々が恐れおののきます。
そのうえ、信長は権威のために、天皇家の皇子を養子に迎え、朝廷との関係を強めます。
が・・・天皇家にも横暴な態度を・・・
天皇が決めていた暦、年号・・・これは、陰陽師・安倍晴明の子孫に当たる土御門家が制定した”宣明歴”が使われていました。
しかし、信長は、尾張を中心に流布していた尾張暦を勝手に使っていたのです。
二つの暦の決定的な違いは閏暦・・・。
この頃は、1年が354日の太陰暦でした。
3年に一度閏月を設けて暦のずれを直していました。
本能寺の変が起こった年も閏月です。
新年のはじめを閏1月にする宣明歴と、年の終わりを閏12月信長の暦では新年が変わってきます。
ここで、朝廷と対立したのです。
京都で公家との交流も盛んだった光秀は、公家たちの不満を耳にしていました。

時まで支配しようとしていた信長・・・!!

正親町天皇から誠人親王に譲位させ。。。
養子にしていた誠人親王の第五皇子を新天皇とし、天皇の義父として君臨しようとしていたようです。
常識人だった光秀にとっては、目に余るものがあったのです。
もう一つ許せなかったのは・・・織田氏は藤原でしたが、ある段階から平氏を名乗っています。
源氏の光秀にとって、兵士を名乗る信長が天下を取るのは許せなかったのかもしれません。
そう、幕府を開いた源義朝・足利尊氏は源氏直系なのです。

平氏が天下を取るのなら、それは阻止しなければならない・・・??
1582年5月29日、秀吉の毛利攻めの援軍として出発し、京・本能寺に宿泊!!
信長の京での目的は、茶の湯に傾倒していた信長が、これまで信長が集めてきた茶器を公家たちにお披露目することでした。

本能寺の変の1日前の6月1日・・・
信長は、本能寺に公家や僧侶など40人ほどを招き、茶会を催し、持ってきたいくつもの茶器を披露します。
ご満悦の信長は、陽が落ちるとそのまま酒宴へ!!
そこには、近くの寺にいた長男・信忠もいました。
親子は久しぶりに酒を酌み交わします・・・これが、最後とも知らず・・・。

信長が床に就いたのは、日が変わったころ・・・。
酔いしれたせいか深い眠りに・・・しかし、6月2日午前4時!!
京に入った光秀軍が本能寺を取り囲みます。
光秀軍1万3000に対し、信長軍150!!
静かな夜は、一転、修羅場と化したのでした。
喧騒で目を覚ました信長は、下々の者が喧嘩でもしているのだろうと楽観していたようです。
しかし、森蘭丸から謀反を知らされると・・・「是非に及ばず!!」と、弓をとり、次々と敵を迎え撃ちます。
しかし、肘に深手を負ってしまい・・・「もはやこれまで!!」覚悟を決めて本能寺に火を放ち、自害するのでした。

その後、光秀たちは懸命に信長の遺体を探しますが・・・髪の毛一本すら探すことが出来なかったのです。
信長の遺体は何処へ・・・!!
火災によって燃え尽きてしまった・・・??
木造建築が燃え尽きるのは1000℃、人骨が完全に燃え尽きるのには1600℃以上必要です。
この時の火災だけで完全に燃え尽きたとは考えにくいのですが・・・。
信長の家臣が持ち去ったのか・・・??
しかし、周りは光秀の兵1万3000!!そんな余裕はなかったはずです。
信長の遺体はどこへ消えてしまったのでしょうか・・・??

遺骨一本さえ残っていない・・・その手掛かりは本能寺にありました。
信長は、鉄砲を重用し、種子島→堺の豪商を介して、鉄砲や火薬を入手していました。
そして信長は、戦に大量の鉄砲や火薬を使っていました。
その保管先の一つが本能寺だったのです。
そのため、当時の本能寺には、多くの鉄砲や火薬を置く保管庫があったと思われます。
敵に自分の首をとられないために・・・遺体を晒さないために・・・
大量の火薬に火をつけ爆破!!
跡形もなく吹き飛ばしたのではないか??とも言われています。

1582年6月2日信長自害!!


人間五十年  下天のうちを比ぶれば
                  夢幻のごとくなり


短くはかない人生を、天下取りの野望に向かって突き進んだ信長・・・49年の壮絶な生涯でした。



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滋賀県長浜市にある賤ヶ岳・・・
今から430年前の1583年、賤ヶ岳の戦いが繰り広げられました。
戦ったのは・・・織田信長亡き後天下をとろうとした羽柴秀吉と、織田家存続のための忠義を誓った柴田勝家でした。

1582年6月2日・・・本能寺の変・・・天下統一目前にして織田信長が明智光秀の謀反によって無念の死を遂げます。
その後、群雄割拠で天下取りの野望を強く抱いていたのは、織田家家臣・足軽から成り上がった羽柴秀吉でした。秀吉は天下取りに邁進します。
賤ヶ岳の戦いの発端は・・・清須会議でした。
信長の後継者を決める会議・・・主な出席者は、秀吉のほかに・・・羽柴秀吉、家老・丹羽長秀、家老・池田恒興、筆頭家老・柴田勝家・・・・
勝家は、織田家存続のために、信長の三男・織田信孝を後継者に・・・しかし、事前の裏工作で、丹羽長秀と池田恒興を取り込んだ秀吉は、まだ3歳だった信長の孫・三法師を後継者としたのです。

織田家での立場を有利にした家康に対し、筆頭家老としてのメンツをつぶされた勝家・・・
二人はやがての戦の準備を始めていきます。
秀吉は、巧みな交渉術で、織田信雄、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀長、中川清秀、蒲生氏郷、細川忠興を取り込んでいき、着実に勢力を広げていく秀吉。

勝家は、一旦北陸に戻り、陣営拡大を図るものの交渉がままなりません。
味方は織田信孝、滝川一益、前田利家、佐久間盛政・・・。

12月7日、秀吉は琵琶湖北部にある長浜に先制攻撃をかけます。
長浜城は、勝家の養子・柴田勝豊が守っていましたが、戦となった際には勝家軍の最前線基地となる重要な城でした。
どうしても落としておきたい秀吉は、勝家親子の仲の悪さを利用し、勝豊を調略してしまいました。
12月20日、雪深くなる越前の間に、勝家の包囲網を調略しにかかります。
まずは織田信孝、しかし、このまま戦えば、主君である織田家に謀反を起こすことに・・・??

信孝が、安土城に入ることになっていた三法師を抱え込んで岐阜においていて、手放さなかった・・・
ことを理由にして攻めた!!と、大義名分を作りました。
そして、信孝と不仲だった信雄を利用し、自らの正当性を主張します。
追いつめられた信孝は、父・信長の家臣たちを頼りますが、そのほとんどは、すでに秀吉に懐柔されていました。
信孝はやむなく降伏し、三法師を渡し、岐阜城に蟄居します。
一方三法師を手にした秀吉は、利用し始めました。
三法師が入る予定だった安土城・・・戦で焼失していた安土城再建に向けての仮の館の建設を提案します。
「安土城を築くための木を切らせてほしい。」
これに対し勝家は、
「三法師様の為ならば、喜んで受けよう。」と、快諾します。
が・・・木の伐採の本当の理由は・・・??
近江、越前にかけて木を切らせ・・・切った材木を放置!!切株を勝家の方に向けて・・・道をふさぐ障害物としました。

1583年2月16日、秀吉は勝家が築いた包囲網を崩そうと、滝川一益に兵を向けます。
しかし、一益は””引くも滝川、進むも滝川””の名将!!
攻守ともに得意としていました。
準備万端にした秀吉は、数万の兵をもって三方から敵陣に攻め込みますが・・・
伊勢亀山城の守りは固く、苦戦を強いられます。
そんな中、一人立ち向かう男が・・・25歳の男・米田是政です!!
是政が三の丸に火を放ち、敵兵を城に閉じ込めると、戦況は一転!!
秀吉軍は鶴嘴で石垣を崩し、本丸へ・・・!!
その是政の奮闘ぶりに城は陥落寸前!!


この状況に危機感を覚えた勝家は、ついに出陣します。
3月9日、越前を発った勝家軍は・・・未だ溶けぬ雪をかき分けて南へ・・・!!
3月12日、柳ケ瀬に到着します。
ここに陣取って、秀吉との決戦に備えます!!

一方勝家出陣の知らせを受けた秀吉は、陥落寸前の亀山城に少しの兵を残し、勝家との戦に向かいます。
3月17日、柳ケ瀬から12キロ離れた木之本に陣取ります。
秀吉軍4万VS勝家軍2万の激突!!1か月以上に及ぶ戦いが始まりました。


標高421mの賤ヶ岳に本陣を置いた羽柴秀吉と柴田勝家は、戦を有利にするために、お互いに得意の布陣をします。
柴田勝家軍は、秀吉軍の半分の兵力しかなく、圧倒的に不利でした。
なので、得意の山岳戦に持ち込もうと、深い場所に陣を構え、長期戦を狙いました。
尾根に沿って横並びに配備し、敵が谷間に入ってきたら攻撃する!!
そして、少しずつ敵を倒していく方法です。

これに対して秀吉は、得意の平地戦に持ち込もうと、本陣、賤ヶ岳、余呉湖湖畔に横3段の部隊を配置しました。山から下りてきた勝家軍を平地で迎え撃ち、突破されてもその次の部隊で撃破するというものでした。
兵力で圧倒的な秀吉は、短期戦を狙っていたのです。

勝家の陣営に発砲して挑発する秀吉!!
長期戦に持ち込みたい勝家は応じません!!
戦が思うように動かないため、敵陣の様子を偵察しようとして高台に上った秀吉は驚きます。
想像以上に勝家軍の体制が巧妙だったのです。
短期戦は困難だ・・・秀吉は長期戦へと変えます。
柔軟な秀吉・・・整備を急がしたのが、陣城と呼ばれる砦です。
城内には武器、武具の保管場所や厩、台所、傷の治療場までありました。
この戦では、勝家も多くの砦を作りましたがそのほとんどが簡単なもので・・・それに対し、秀吉の築いたものは堀も深く、随所で屈折する守りの堅いものでした。

両軍が築いた砦は、戦国史上最多の20ヶ所以上!!
にらみ合いが続くこと1か月近く・・・膠着状態を破ったのは、勝家軍でした。
秀吉が近江に去ったことで息を吹き返した滝川一益が、北伊勢で挙兵します。
これに乗じて岐阜で蟄居していた織田信孝も兵を挙げました。
両軍で秀吉を挟み撃ちにしようとしたのですが・・・
秀吉はこの挑発に乗りました。
4月17日総兵力の2万の兵を率いて信孝のいる岐阜城を攻めたのです。
秀吉が本陣を離れた!!と、勝家に伝わります。
真っ先に動いたのは、勝頼の甥で鬼玄蕃の異名をとる佐久間盛政でした。
攻め込むなら秀吉のいない今しかない!!
と、秀吉に奇襲をかけたい!!と、申し入れました。
奇襲部隊が秀吉軍に気づかれないように奥まで入り込み、すきをついて攻撃を仕掛ける!!

4月20日午前2時!!
盛政は8000の兵を率いて出陣!!
あまり秀吉軍の守りの薄い余呉湖西岸ぞいを進軍していきます。
空が白み始めた頃・・・秀吉軍の大岩山砦を攻撃!!
虚を突かれた秀吉軍は戦うも午前10時・・・遂に陥落!!
およそ1000人の兵は討ち取られてしまいました。

盛政隊の猛攻に恐れをなしたのか隣の岩崎山砦の兵は、一戦も交えることなく敗走!!
これにより盛政は二つ目の砦も陥落させます。
柴田勝家に勝機が見えたその時・・・!!
深追いはいけない・・・それが鉄則!!勝頼は撤退をするように言いますが、盛政は勝家の命令を無視し、敵陣深くに留まり続けます。

岐阜に向かっていたはずの秀吉軍が・・・戻ってきました。
途中で大雨に遭い、吉備川と長良川が氾濫したために、大垣で足止めを食らっていたのです。
そう・・・まるで、天が秀吉に味方しているかのように・・・!!
4月20日正午、盛政の奇襲攻撃を聞いた秀吉は叫びました。
「我、勝てり!!」

秀吉は大垣から本陣のある木之本までのおよそ5kmを、わずか5時間で駆け抜けました。
世にいう”美濃大返し”です。
舗装されてもいない山道を時速10km以上!!
総重量30キロの具足をつけての奇蹟の移動でした。
どうして美濃大返しは可能だったのでしょうか?
槍をもって具足でつけての時速10kmは無理なので、身軽になって走ります。
当時はお貸し具足というのがあり、長浜城にあるそれを使って手ぶらの兵たちにその武具を使わせたようです。
また、この美濃大返しを可能にした立役者が秀吉の側近・23歳だった石田三成です。
兵站部として緻密な計画を立て・・・人員・装備の調達や輸送を管理していました。
沿道の民家に握り飯や替え馬などを用意させていたようです。
全てを手配し、マネージメントしたのが三成だったのです。
美濃大返しで高い評価を得た三成は、秀吉の重臣として天下統一へと向かうこととなります。
4月20日午後4時、秀吉は、機関の準備が整うと、すぐに大垣を出発!!
秀吉隊・1万5千の激走大移動!!
5時間後木之本へ到着した秀吉軍・・・大岩山で野営をしていた佐久間盛政は、赤々と灯る無数のたいまつに秀吉の帰還を知り驚愕します。
そして真夜中・・・盛政は闇夜に紛れるように撤退を開始します。
この時を待っていたかのように、秀吉は総攻撃を命じます。
50キロも走ってきて・・・敵も疲弊しきっているに違いない!!
攻撃は明日だ・・・!!と思っている盛政のスキを突いたのです。

逃げる盛政隊を追いつめる秀吉軍!!
一斉に敵軍に攻め込んでいきます。
最前線で活躍したのが、若武者・・・のちの賤ヶ岳七本槍です。
一番首を上げたのは、23歳の福島正則です。
そのほかにも、肥後の虎・22歳の加藤清正、片桐勝元、糟屋武則、平野長泰、脇坂安治、加藤嘉明・・・。
みな、20代から30代・・・若くて体力があったことで、過酷な移動に耐え活躍できたのです。
この戦で武功を上げた7人は、秀吉の天下取りを支えていくこととなります。

七本槍の猛攻の前に、必死の抵抗もむなしく・・・戦場となった余呉湖湖畔は修羅の場と化し、湖は両軍の血で真っ赤に染まったといいます。
撤退しながらも応戦する盛政、次々と討ち取られていく中でも勝負を捨てません。
前田隊と合流するまでは・・・!!
体制を整えて反撃に出るために・・・!!
しかし、その一縷の望みも、前田隊の突然の戦線離脱によって消え去ります。

柴田勝家からすると裏切りとなりますが、織田家家臣と言う意味では同格です。
大将と運命を共にするのではなく、勝ち馬に乗るのが当然なのですが・・・
利家は、親父殿と呼んでいた勝家についていましたが、秀吉とは幼いころから苦楽を共にしてきた親友でした。
どちらに着くか・・・??その決断に、中立を保つために戦場を退いたとも、秀吉との間に戦を前に土壇場で兵を引くという密約をしていたともいわれています。
利家の戦線離脱に、盛政隊は前後から秀吉軍の猛攻を受け、4月21日正午盛政隊総崩れ・・・。

盛政隊が崩れると、勝家本隊でも脱走者が続出し、残った兵はわずか3000だったといいます。
勝家は残りの兵で、最後の一戦交えようとしますが、家臣たちの説得に止む無く越前への撤退を始めました。
こうして賤ヶ岳の戦いは、秀吉の圧勝に終わりました。
秀吉が美濃から帰ってきて、わずか1日も経っていませんでした。
秀吉軍の中には、勝家の助命嘆願を願うものもいましたが、秀吉は
「池辺に毒蛇を放ち、庭前に虎を飼うようなものだ。」と、受け入れませんでした。

4月24日、越前に戻った柴田勝家は、秀吉軍の追撃を受ける中、お市の方とともに自害!!
城内にあった火薬に火を放ち、天守ごとと吹き飛ばす壮絶な死。。。

賤ヶ岳の戦い・・・秀吉にとっては、天下取りの最大の戦いでした。

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