日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:久坂玄瑞

面白き
  こともなき世に
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幕末、長州藩を率いて幕府と戦った高杉晋作の歌です。
理想に燃え、仲間の死に涙し、そして無鉄砲とも思える勇気で時代を動かした男です。
明治維新の先駆けとして活躍した長州の風雲児・高杉晋作。
晋作の代名詞と言えば奇兵隊・・・
身分の枠を超えて兵を募集した画期的な部隊です。
最新兵器で武装し、変幻自在に戦いを仕掛ける奇兵隊・・・晋作は戦の天才と言われました。
しかし、戦場から戻れば和歌を嗜み、三味線にも興じました。
誰もが晋作に憧れたといいます。
一見、誰にも縛られない粋な風流人・・・
ところが、事実は全く逆でした。
武士の家に育った晋作には、常に家名を汚すなというプレッシャーが襲いました。
人生を教えてくれた恩師との早過ぎる別れ。
夢を抱いて習った西洋航海術も、モノになりません・・・!!
教師に意見が通らず、酒に溺れ、頭を丸めることも・・・。

しかし、時代は晋作を求めていました。
長州藩取り潰しを狙う幕府に対し、仲間に決起を訴えかけます。
最初はたった80人でした。
晋作がつけた小さな炎は、やがて長州藩全体を燃え上がらせ、大きなうねりとなって日本中に広まっていきます。
しかし、そのさ中・・・晋作を待ち受けていたのは不治の病でした。

1862年、江戸時代の末、限られた人しか外国に行けなかった時代・・・
高杉晋作は、船の上から上海の街並みを見ていました。
幕府が作ったおよそ40人の視察団に、長州代表として参加したのです。
晋作は、かねてから外国に行くことを望んでいました。
どうして海外を目指したのでしょうか?

日本海を望む山口県萩・・・
1839年、この城下町に高杉晋作は生まれました。
高杉家は戦国時代から藩主毛利家に仕える名家です。
晋作の父・小忠太も、藩主の傍で要職を務めていました。
晋作は、高杉家の跡取りになるために厳しく育てられました。
特に、父の言うことには絶対に逆らえませんでした。
しかし、外では負けん気の強い性格が抑えられず・・・

15歳の時、晋作は、父と共に江戸に向かいました。
そこで目にしたのは、巨大な黒船・・・!!
1854年、15歳の時ペリーが来航。
ペリーは軍事力を背景に、日本に開国を迫ります。
大混乱の江戸の町・・・晋作は、激動の時代の始まりを肌で感じていました。
西洋列強が日本に迫ってきているのが、黒船を見ることによってリアルに感じられました。
これからの日本という国の形が変わっていく・・・彼の中で大きなテーマとなります。
この時、高杉晋作と同じ長州藩の中に、黒船に密航しようとした者がいました。
吉田松陰です。
晋作より9歳年上の兵学者で、若い頃から藩主にその才能を称えられていました。

1857年、18歳の時に萩に帰って吉田松陰の松下村塾に通い始めます。
松下村塾には、幼馴染の久坂玄瑞、後の総理大臣の伊藤博文も参加していました。
塾には自由な空気が流れ、時間の制約もなく、身分の制約もない・・・
熱い議論を交わしたといいます。
世界の情勢についても学びます。
そんな中、松陰の唱えたのは攘夷論でした。
松陰は、日本は西洋列強に学び力をつけ、その力で西洋を打ち払う攘夷を行うべきだと主張しました。
しかし、松陰の訴えと過激な行動は、一般の人たちには危険な行為としか思えませんでした。
そのため、晋作の家族は松下村塾に行くことを禁じます。
しかし、晋作は深夜にこっそりと松下村塾に通ったといいます。
国防論についても尊王論についても現実的で、そんな話が晋作は心底好きだったのでしょう。
日本の国を何とかしなければ・・・という積極的な燃えている炎があったので、松陰に引き付けられたのでしょう。

1858年、19歳の時に江戸に再遊学
この頃、藩の上層部に海外留学の希望をかなえてほしいと強く願い出ています。

”お願いしておりました私の洋学修行の件、どうなりましたでしょうか
 一刻も早く取りかからないと、手遅れになります”

ところが、この海外渡航の夢にも暗雲が立ち込めます。
晋作が江戸に来た年、幕府による危険分子の弾圧・・・安政の大獄が始まりました。
そして、晋作の師、吉田松陰も江戸の牢に投獄されてしまいます。

晋作は、牢に入った松陰のため、文具や書物を工面するなど奔走します。
この頃、晋作が感銘を受けた松陰の言葉があります。

”死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし”

そして松陰は・・・過激な思想の持ち主として処刑されました。

”松陰先生の仇は必ず取る
 しかし、主君も父もいて、わが身はわが身のようでわが身ではない”

それからおよそ5か月・・・20歳になった晋作に、海外渡航のチャンスが巡ってきました。
幕府の軍艦教練所で航海術を学び、様式軍艦の訓練をせよと命が下ったのです。

”男子としてこの宇宙に生れたのだ
 筆や硯の家来などになっていられない”

しかし、毎日書き続けていた日記がある日から書かれていません。
航海術の勉強を放棄したのです。
理系の航海術が得意ではなかったようです。
航海術は挫折したものの、藩主の跡継ぎの側近となります。
そして今度こそ、海外へ行くチャンスが・・・
1862年、22歳で海外視察団の一員となります。
行先は、清国の上海・・・晋作22歳、遂に海外に飛び出す時が来ました。
病に倒れる4年前のことです。

幕末・・・身分制度に縛られた世の中に、新風を吹き込んだ人がいました。
武士から商人、浪人に至るまで身分を問わず志ある者で編成された革新的な集団・・・その名も奇兵隊です。
創設者は、高杉晋作です。
晋作はどうして奇兵隊を作ったのでしょうか?

1860年、20歳・・・上海に渡航する2年前・・・晋作は結婚しました。
相手は城下一の美人と言われた4歳下のマサでした。
晋作はマサと仲睦まじく、上海から手紙を送っています。

”無事にお暮らしとのことめでたく思っています
 長崎でめずらしい高価な反物を買って送りました
 しかし、どうかこの反物で作った着物や帯で人の多いところ、お祭りなどへ出かけないでください
 あなたが武家の立派な妻の手本となれば、私も安心です
 稽古事や和歌の勉強をしながら、家のことをお願いします”

1862年5月、上海に到着
しかし、目の当たりにしたのは、かつての大国・清の惨状でした。
イギリスにアヘン戦争で敗れた清は、外国人が所有する居留地を各地に置かれ、貿易の主導権を握られていました。

”清の人たちは、イギリス人が街を歩けばみな避けて道をゆずっている
 その上、ことごとく外国人にこきつかわれている
 実に上海の地は清に属してはいても、イギリス、フランスの属地といえるくらいのありさまだ”

更に晋作が驚いたのは、イギリス軍の設置した砲弾・・・最新鋭の兵器・アームストロング砲です。
日本にある大砲とはけた違いの威力・・・西洋列強に武力で対抗するには軍備が欠かせない・・・!!
帰国した晋作は、長崎のオランダ商館へ。
最新鋭の武器を買うためです。
現在の価値で10億円の軍艦の契約を、藩に無断で契約!!
しかし、藩の了承を得ることができず、軍艦が買えませんでした。

”国の情勢が切迫している・・・!!”

もはや一刻の猶予もならない・・・!!
晋作は、自らの手で外国人を攻撃し、攘夷を決行しようと考えます。
向かったのは江戸・・・!!
1862年12月、23歳の時・・・
久坂玄瑞や伊藤博文ら松下村塾の仲間たちと共に、品川のイギリス公使館を焼き打ちしました。
極秘に進められたこの計画は、犯人が晋作たちだと判明するのは、明治時代になってからです。

晋作は、長州藩に攘夷のための軍備を主張し続けましたが、なかなか理解が得られません。
自暴自棄になる晋作・・・。
23歳の時、藩の要職を辞して休職・・・さらに、晋作は武士の命である髷を落とし、頭を丸めてしまいました。
酒を飲んではどんちゃん騒ぎの毎日・・・その胸には、むなしさと焦りが渦巻いていました。

”空しく月日を送り 愚か狂か 智か節義か
 なんだか訳も分からぬ人物にあいなり”

そんな中、ある事件から晋作の主張が認められるようになります。
1863年、23歳の時・・・下関事件です。
長州藩は下関を通る外国船を砲撃しました。
長州藩としては、外国船を打ち払い、攘夷を実行したのですが・・・
しかし、すぐに外国船から砲撃を受け、蹴散らされてしまいます。
初めて列強の武力に直面した長州藩・・・軍備の重要性を思い知った上層部が、晋作に意見を求めてきました。
この時、晋作は新しい部隊の新設を進言します。

”有志の士を募り、一隊を創立 名付けて奇兵隊と云わん”

奇襲をかけるなど敵の不意を打つための部隊という意味です。
武士だけで戦うには限界がある・・・戦いに長けたものを広く集め、武士ともども戦闘部隊にしようという考えでした。
志があればだれでも入隊ができる・・・
中での扱いも身分の上下はない、実力で決めていく・・・!!
後に庶民も入ってきて、それを軍事力として利用していきます。
封建社会を壊す一つのステップになりました。

1864年、25歳の時に四国(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)連合艦隊が下関に来襲。
前年に行った長州藩の攻撃に対し、更なる報復に出てきたのです。
この時、晋作の奇兵隊も初陣を飾ります。
しかし、圧倒的な戦力の四国連合艦隊にあえなく惨敗・・・
そればかりか、沿岸の砲台まで占拠されてしまいました。

追いつめられた長州藩は、戦いを諦め停戦交渉を行うことに・・・。
圧倒的に不利な仲での和平交渉に誰もがしり込みします。
結局、頼りにしたのが晋作でした。
藩の全権を任された晋作は、船に乗り込みます。
その姿は、家紋が入った直垂、黒の烏帽子・・・家老の正装でした。
居並ぶ提督たちに格で負けないように家老の息子だと偽っての交渉でした。
列強の代表は、安全な航行のための砲台撤去や、補給のための下関港への立ち寄りなどを求めます。
その上、300万ドルという巨額の賠償金を求めてきました。
これは、長州藩の年間予算の10倍でした。

こんな大金を払えば、藩の財政は壊滅・・・強硬な姿勢を崩さない外国人を前に晋作は言い放ちます。

”長州には、主君の為に命を捨てることなどなんとも思わないものが大勢いる
 もし、戦争を続けるというのならば、最後の一人になるまで戦うつもりだ”

この晋作の気迫の前に、賠償金は一銭も払われませんでした。
藩の存亡をかけた停戦交渉に成功した晋作、この時25歳。
病に倒れる1年前のことでした。

1864年12月、長州藩が幕府の圧力に屈しようとしている中、晋作は反乱を起こします。
晋作の呼びかけに応じたのは、最初はわずか80人ほど・・・長州藩は2000もの兵を動かし反乱を押さえようとするものの、戦いが進むにつれて晋作に共感するものが増え・・・800人にまで膨れ上がりました。

1864年7月、長州藩は、兵を率いて京に上りました。
御所で天皇に嘆願し、長州の地位回復を狙ったのです。
そこで、御所を警備する有力藩と激突・・・禁門の変です。
この戦闘で、長州藩は敗北し、晋作の仲間も命を落とします。
その中には松下村塾で共に学んだ久坂玄瑞もいました。

”後れても後れてもまた
 君たちに誓いし言を
 吾忘れめや”

この事件をきっかけに、幕府は長州征討を決定!!
15万を超える兵を動員します。
この動きに対し、長州藩は真っ二つに割れます。
幕府に抵抗し戦いも辞さない抗戦派と、幕府に謝罪して従うべきという恭順派です。
晋作は、抗戦派を支持していました。
しかし、藩の存続を優先するべきという恭順派が主導権を握ることとなります。

長州藩は幕府に従う証として禁門の変に関わった家老3人を切腹させ重臣たちを処刑しました。

”処刑の知らせを聞き 胸中やけるがごとく
 藩が受けた辱めをそそぎたい”

もはや武力決起しかない・・・!!
晋作は、奇兵隊の元へ・・・!!
晋作は隊士たちに恭順派の打倒を訴え決起を促します。
しかし、それに応える者はいませんでした。
この時奇兵隊は、自分たちの地位を保証してもらう代わりに藩の方針に従うという約束を交わしていました。

”この腰抜けどもが!!
 ぼくは毛利家300年の家臣だ
 たとえこの身が打倒されようと忠義を尽くす”

晋作が次に向かったのは、松下村塾の同志・伊藤博文の元でした。
この時伊藤は、下関で力士隊を率いていました。
伊藤は晋作の訴えに共鳴します。
他の部隊からも続々と集まってきました。
晋作は、約80人あまりの同志と共に決起します。

自分が死んでも自分の志を誰かが引き継いでくれるだろう・・・!!

”下関の鬼となり討ち死にする覚悟
 これより長州男児の肝っ玉をお見せする”

晋作は下関の役所を狙い、占拠することに成功。
この騒ぎを聞きつけた商人が資金援助を申し出ます。
次に晋作は、長州藩の海軍局へ・・・そこで軍艦三隻を手にします。
一方奇兵隊にも変化が・・・藩に反旗を翻します。
やがて奇兵隊は、晋作の隊に合流・・・
晋作がつけた決起の炎は、800人にまで燃え広がりました。
1月7日、ついに奇兵隊と藩兵が激突!!
最新式の銃を使いこなす奇兵隊は圧倒的勝利をおさめます。
すると藩の上層部に変化が・・・。
晋作の主張を受け入れなければ内乱はおさまらないと判断し、恭順派が更迭され始めます。

そして決起から40日後・・・藩主は徹底恭順の方針を撤回。
幕府へは恭順の意を示すもののもし攻撃を受ければ最後の一兵まで戦い抜くという武備恭順の方針を固めます。
この決起をきっかけに、晋作は長州藩の指導者の一人になるのです。

晋作が25歳の時に、マサとの間に待望の長男が誕生します。
名は梅之進・・・自分の好きな花の名で、溺愛しました。
しかし、晋作には家族と共に過ごす時間は残されていませんでした。
1865年9月、長州藩が敵対的な態度に変わったことを察知した幕府は、再び長州征討に乗り出します。
長州藩は徹底抗戦の構え・・・幕府との戦いの大義名分を文章にして民衆に示し、士気を高めていきます。
長州藩全体が沸き立つ中、25歳の晋作は、原因不明の病にかかっていました。

”腹痛がひどかったが、少し良くなった
 征長軍との戦いまでは命を保ちたいと鬼神に祈っている”

1866年6月7日、幕府軍は長州藩を取り囲み、四方向から攻めてきました。
長州藩の存亡をかけた戦い・・・幕府軍の兵数は、長州軍のおよそ50倍だったともいわれています。
しかし、晋作は怯むことなく最前線で指揮を執り、敵艦に奇襲をかけています。
小型の船を使った奇襲は大成果を納め、200隻余りを焼き払いました。
これをつぶさに見ていたのが土佐の坂本龍馬です。
龍馬は長州藩に味方し、軍艦を率いて参戦していました。

”晋作は兵士たちを鼓舞し、敵を打ち破り敵陣の陣幕屋旗などを奪っていった”

6月22日・・・激戦のさ中、晋作は突然倒れてしまいます。
不治の病と言われた肺結核でした。
それでも晋作は、病床で作戦会議を行います。
敵を蹴散らし進めと長州男児たちを鼓舞し続けます。
しかし、病は悪化・・・
喀血を繰り返すようになり、8月には戦線離脱、下関にある友人の家で療養することに・・・

晋作が最前線で戦う仲間に送った手紙は・・・

”進撃や勝利に大変喜んでいます
 体調は日々よくなっていますが、戦場に赴くほどではありません
 ご笑殺ください”

この頃、晋作を看病したのは愛人のうのでした。
元々下関の芸者だったうの・・・晋作が口説き落として一緒に暮らすようになったともいわれています。
うのは優しい性格で、正妻のマサといがみ合うこともなく、明治になっても二人の交流は続いたといいます。
そんなうのの看病の会もなく・・・晋作の病状は悪化の一途をたどります。
余命いくばくかの晋作の元へ、萩からマサと梅之進がやってきました。
医者が最後の別れに呼んだのです。
この時晋作はこう言います。

”しっかりやってくれろ・・・しっかりやってくれろ・・・”

そんな晋作の心の支えになったのはアルバムです。
そこには松下村塾からの盟友伊藤博文をはじめ晋作と深くかかわった人たちの写真が・・・
それだけではなく、アメリカ合衆国16代大統領のリンカーン、イギリスのビクトリア女王の写真まであります。

翼あらば
 千里の外も飛めぐり
よろづの国を
   見んとぞおもふ

1867年4月13日、晋作の命の炎が静かに消えました。
27歳でした。
最晩年に詠んだ歌が残っています。

面白き
   こともなき世に
          面白く

晋作がこの世を去ってから半年後・・・日本は明治維新を迎えます。

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寺田屋騒動っていっても、あの龍馬さんの寺田屋事件とは違うお話し。
今までのほほんとやってきた西郷どんで、こんなキツイ事案をするのは、とっても大変だったんじゃないかなあ・・・って思う回・・・だと思う。なるはずだ!!

血気にはやり、志士たちを押さえるために京へ向かった吉之助・・・
下関で待っていなかったことで、久光の逆鱗に触れてしまいました。
ま、当たり前だわな・・・

久光より一足早く京に入った一蔵は、吉之助を探します。

その頃、吉之助はまたもや遊郭で、食事中。
今回のお仲間は、有馬新七と、過激の急先鋒・長州藩久坂玄瑞と土佐藩士吉村虎太郎でした。
ほんと、いっつも思うわ・・・なんで遊郭やねん!!
もっと、アジトみたいなことでこそこそしてくれよっ!!
緊張感ゼロ~やねん!!

もう・・・久坂のことをこれ以上いじらんといてくれ~~~!!
このお金が黒糖地獄から出とると思うと、なんでそんなに呑気に食っとんねん!!

「おいたちはみな、思いは同じじゃなか・・・
 こんニッポンを変える・・・!!」

と息巻いている西郷さんですが、この時点で薩摩は緩やかな攘夷・・・つまり、公武合体派で、薩摩出身の篤姫様が一生懸命工作してくれているはずなんですが・・・
前年には、和宮さまが降嫁してるんですけど・・・
この時点では、薩摩は、会津・桑名と同じで公武合体派なんだよ~~~!!
薩摩はともかく、長州は薩摩の事が大嫌いなはず!!
攘夷派と公武合体派を一緒にするな、やめてくれ~~!!

と思っていたら、飲んで歌って踊るそうだ・・・。
島で教わったらしいけど、お金の使い方も教えてもらったのか・・・??

怒りにやっていた一蔵・・・
どうして待っていなかったのか?という一蔵・・・
いきなり刀を抜いて・・・二人で刺し違え・・・みたいな話になって・・・
でもね、なんだか頭に入ってこないんだよ・・・台詞が・・・。
重みもへったくれもないからかなあ・・・
とりあえず、吉之助は切腹だそうだ。

なんと、二人が話している間に、久坂も吉村も帰ってしまったとの事・・・。
ま、帰った方が身のためだよ・・・
急先鋒をかっこよく生きているのに、西郷と膝附合わせて酒を飲んだなんてトンマな久坂なんて・・・
本人が呪って出て来るだろ??

残りのみんなで遊郭で話し中、お腹が鳴るとか・・・そんな演出要らんねん!!
旦那曰く「そんなん史実やから、仕方ないやん」だそうだ
お腹が空いてるから、食べるんだとさ・・・。

「飯も酒も女子も要らん。
 こげなとこで話は出来ん!!」by一蔵

そう、その通り!!
みんなが言いたかったことを、言ってくれたね、一蔵!!
でもね、おゆうは後に、一蔵の妾となり陰で支えることとなります。
この大河の感じからすると、この一蔵のひとこと、ただのツンデレに見えてしまうのは、私が穿っているからだろうか・・・??

そこへ、海江田信義登場!!
やっぱり遊郭にいるのが解るんだな・・・ず~っと、入りびたりだから!!

海江田が言うには、自分が久光に進言したことで、腹を斬らされるそうだ・・・。
なんでも、吉之助が他藩の志士を集めて先導していると報告していたのです。
会いたがって、西郷の元に詰めかけていると・・・

「噂ではないのか??」と、やんわり誘導してくれているのに、ダメ押しの一言!!

つまり、久光の命令である下関で待っていろという命令と、他藩の者と交わるなという命令2つを破ったことになったわけで・・・
なんだか・・・そんな幕末の志士がおしゃべりってのも、なんだかなあと思います。
それも薩摩隼人が・・・!!
まあ・・・そんなうっかりだから、あんまり功績を残せていないのかな??なんて、思っとけばいいか??

と、西郷切腹の話をしているのに、またもや新八のお腹が鳴って・・・
必要か??お腹が鳴るの??
旦那曰く「そんなん史実やから、仕方ないやん」だそうだ

みんなが揃ったからややりたいことがあると言った吉之助。
やりたいこと・・・それはうなぎとりでした。
うなぎとりで決着つけるんですって・・・

もう・・・なんだかなあ・・・どうでもいいよ・・・って感半端ないなあ・・・
と思っていたら、「吉之助には負けられない!!誰が一番か勝負だ!!」みたいなことを言い出す一蔵。
・・・一蔵だけはまともだと思っていたけど、同じ穴のムジナだったんだね・・・
ウナギ取りがしたかったといった信吾の夢も叶ったんだね。って思わせたいんか~!!
なんとも呑気な人たちです。

「西郷はん、逃げとくれやす~~!!」byお虎

と言われても・・・捕まってしまう吉之助。
負ぶっていた信吾をなんと、有馬新七に預けましたよ??
いいんかい??
新七は、尊王尊王!!攘夷!!攘夷!!の急先鋒なのに??
こんな時こそ、一蔵に預けんかい!!

そして・・・久光がついに京へとやってきました。
召し出される吉之助・・・口答えもしっかりしているんですが・・・
「もう斉彬公はおられもはん!!」などと・・・久光は、久光で賢いんだよ・・・。
日本をを変えるためには・・・変えるためには・・・と一生懸命言いますが・・・そんなこんなも何も考えのない、食べて歌って相撲を取って、ウナギを取っている西郷さんの何が心に響くんだよ・・・
でもって、最後には・・・
「国父様には使いこなせます!!」と一蔵が言って命は助かるんですが・・・
どんだけ使いにくい男なの??人のいいこの西郷が??
全く解らんわ・・・
結局、島送りになることに・・・一時、薩摩に帰されるのでした。

帰ってきたら、またみんなでウナギを取るんだってさ・・・!!

「西郷はん~~!!」と、追いかけてやってきたのは、お虎。
なんだか旅支度してる!!と思ったら、すっころんで、見送るのでした。
これも必要か??どこがいいんだよ??
まったくわからん!!

don2















朝廷より志士始末の命を授かった久光に驚愕した薩摩藩過激派は、有馬新七の元に集合!!
大久保一蔵、海江田信義、奈良原喜左衛門らが説得するも聞かず・・・
1862年4月23日・・・
寺田屋にて、薩摩藩同士の斬り合いが・・・久光による粛清が行われるのでした。
そりゃあ、京都を火の海に・・・なんて話、志士始末の命を授かってしまった久光はどうすることもできないでしょう。
そんな苦渋の決断を解っていないなあ・・・
そして・・・寺田屋で、こんな話し合いがあったんだろうか??
う~ん・・・今まで全く政治的なことをやってきていないので、大山格之助と有馬新七が真剣に話していても、全く話が入ってこない・・・

don















「あ・・・亮ちゃん男前・・・。」
と思っていたら、斬りあいが始まっちゃったわ・・・。
「おいごと突け~~~!!」の有馬の言葉はありましたね!!
本当の斬りあいって・・・こんなにわかんないもんなんかなあ・・・漠然と観ました。

手を汚さなかった一蔵・・・その一蔵に懐紙で顔の血をぬぐって一蔵の懐に突っ込む大山格之介はかっこよかったですね

一蔵からの手紙が、謹慎中の吉之助の手に渡されました。
そん時の吉之助・・・三味線ひいてるってどうよ??

とにかく、「こんな事がありましたよ~~」みたいなドラマでした。
彼等の想いがどこにあるのか、志がどこにあるのか、何に命をかけているのか?そこを書いてくれないと、うわべだけの作品に成り下がってしまう!!


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備中松山城・・・日本で最も高い標高430メートルに天守閣を構える山城です。
大河ドラマ真田丸のタイトルバックにもなった美しい城として知られています。
この城には秘められた物語がありました。
時は動乱の幕末・・・物語の中心となったのは、備中松山藩重臣・山田方谷です。

備中松山城をいただく岡山県高梁市・・・。
山城の麓には、かつての松山藩の城下町が広がります。
藩校・有終館の校長を務めた儒学者・山田方谷。
隠居を考え始めた45歳の時、方谷の人生を一変させる出来事が・・・。
藩の重職・元締役(財務大臣)兼吟味役(事務次官)に抜擢されたのです。
財政の全権を任されたことを意味していました。

方谷とはどんな人物なのでしょうか?
1805年、山田方谷は農民の息子として生まれます。
幼いころから神童の誉れ高くありました。
農業と菜種油の製造販売の傍ら勉学に励み・・・元来武士ではありませんでした。
彼にとって、松山藩5万石の元締役はあまりに重責でした。
方谷は頑なに辞退しますが・・・方谷から政の手ほどきを受けた藩主・板倉勝静は聞きません。
切望し・・・ついに決意する方谷。。。
方谷が就任した時、松山藩は困窮のどん底にありました。
参勤交代の駕籠かきからも貧乏板倉と敬遠されるほどでした。
詳細な財政調査の結果・・・松山藩の5万石は表向きにすぎず、実際は僅か2万石足らずでした。
藩は、その事実を隠蔽して、大阪の両替商から借金を続けていました。
その結果、負債は10万両を超えていました。
財政破たんしていたにもかかわらず粉飾に粉飾を重ねていたのです。

危機に直面した方谷・・・就任早々厳しい選択を迫られます。
一刻の猶予もない!!
恥を忍んで両替商たちに説明して理解を得る??
代々地位を世襲してきた重臣たちは反対するだろうが・・・

「大信を守らんと欲せば 小信を守る遑なし」

武士の体面ばかり守ろうとしていたら、領民の暮らしや藩の存続さえ危ういのだ。

方谷は、藩内の反対を押し切って大坂へ・・・
金を借りている両替商たちを集め、返済延期を申し入れます。
その上で、思い切った財政再建計画を提示しました。
それは、米を現金化する為に設けられていた大坂の蔵屋敷廃止という大胆なものでした。
松山藩の米は商人に代わり、藩が相場を見て売りさばく・・・方谷は、全く斬新な方法を打ち出しました。
苦しい藩の財政を包み隠さず示した方谷に動かされて、商人たちは再建案を飲みます。
方谷が経済に明るかったこと、地域の実情を知った上での地域振興、流通革命・・・具体的で、実行可能な再建計画を見せたのが、納得の要因でした。

そして、地元の物を使って特産品を開発します。
ベンガラの特産地として知られる高梁市。
ここに江戸時代に開発された銅山が残されています。
この一帯は、豊かな鉱脈がある地として戦国時代から知られていました。
方谷が目をつけたのがその鉱物資源でした。
銅山経営、砂鉄からの備中鍬などの鉄製品の制作、農民たちには換金植物の生産(柚餅子、刻みタバコ)を。
流通も・・・撫育方を作り、藩内の産物を最大市場の江戸に直送・・・
率先して商いに加わったのは、松山藩の藩士たちでした。
これは、士農工商を揺るがしかねないものでした。
撫育方の藩士たちは、特産品を売りさばき、大きな利益を得るのでした。

2018年に方谷の直筆が新しく発見されました。
そこには、特産品の販売を担う部下に向けた心得が書かれていました。

撫育を進めるにあたり・・・武士としての義をわきまえ、私利に走らぬよう・・・藩士たちを戒めています。
高梁川・・・1852年9月5日、一世一代のパフォーマンスを行います。
領民たちが見守る前で、河原に積み上げた藩札を火にくべたのです。
松山藩は、財政難をしのぐために、藩札を濫造したので、その信用は失墜していました。
藩札を燃やす炎は、朝8時から夕方4時まで続いたと言われています。

そして、蓄財に見合った藩札「永銭」を発行します。
財政の健全化を目に見える形で示した「永銭」は、よその藩でも通用するほどの信用を得ました。
領民の家計がよくなれば、藩の財政も好転することを知りぬいていた方谷・・・市民撫育の思想を貫いて、実質的に7年で莫大な借金の大半を返済したといいます。
しかし・・・時代は大きな曲がり角を迎えていました。
方谷が藩札を燃やした翌年1853年6月・・・黒船来航によって、時代の大きなうねりに飲み込まれていきます。

方谷の手腕で財政を立て直した松山藩・・・
その実績を背景に、藩主・板倉勝静は、1862年に老中に就任。
勝静は、寛政の改革を成した老中・松平定信の孫にあたります。
混迷の時代・・・進んで幕政の中心を担う覚悟でした。
一方、松山藩では、方谷が軍制改革に取り組んでいました。
時代の先を読み、方谷自ら他藩に出向いて西洋式の兵法を学んでいました。
その実用化に向け、最新式の銃や大砲の研究を薦め、試作にも取り組んでいました。
しかし、藩士たちはこれに難色を示します。
学者上がりの方谷に、足軽のように扱われることへの反発でした。
方谷はこの反発を逆手にとって、農民たちを砲術部隊に!!
農民たちに銃を持たせ、最新式の西洋式軍隊に鍛え上げたのです。
凄まじい教練を見た久坂玄瑞は、長州の住人は叶わないと漏らしたといいます。
長州で奇兵隊が組織される6年前の事でした。
久坂が方谷の調練を見た年、幕府はアメリカと日米通商条約締結。
これを契機に弱体を露呈した幕府は、安政の大獄と呼ばれる弾圧政策や、孝明天皇の和宮降嫁による公武合体など威信回復に躍起になります。
しかし、これ以前に方谷は幕府に未来はないと断言していました。

「幕府を衣に例えるならば、家康公が材料を整え、秀忠公が織り上げ、家光公が初めて着用した。
 以後、歴代将軍が着用してきた。
 吉宗公が一度洗濯し、楽爺公(松平定信)が二度目の洗濯をした。
 しかし、もう汚れとほころびがひどく、新調しないとように耐えない状態になっている。」

方谷は、度々藩主・勝静に老中辞任を求めます。
先行きが不安な幕府よりも松山藩に目を向けてほしいという思いからでした。
しかし、勝静の意志は固く・・・1865年風雲急を告げる情勢の中・・・

「衰退する幕府を支えるには、微力であることは承知している。
 しかし、幕臣としてこれを座視するわけにはいかない・・・
 むしろ、徳川と共に倒れる道を選ぶのみである。」by勝静

悲壮な決意を語った3年後・・・京都郊外鳥羽伏見で戊辰戦争が勃発・・・ついに幕末動乱の火ぶたが切って落とされました。
この戦いによって、方谷は命を懸けた選択をすることとなります。

鳥羽伏見の敗戦後、徳川慶喜は夜の闇に紛れて大坂城から遁走!!
一路海上を江戸へと向かいます。
方谷の主君・板倉勝静も、老中としてこれに同行。
敗走から時を置かず、1868年1月11日、新政府から岡山藩に松山藩討伐の朝命が下ります。
朝敵となった松山藩・・・天空の城は、緊張に包まれます。
松山藩の藩主たちの資料が残されています。
これによると、旧幕府軍敗戦の知らせを受けて、松山藩はすぐさま戦闘態勢に入ります。
市中から老人や子供、女性を非難させ臨戦態勢に・・・!!
藩主不在の松山藩では、重臣たちによって、新政府への対応が協議されます。
徹底抗戦か教順か・・・議論は沸騰し、そして膠着します。

その間にも、1月14日新政府軍は松山城南12キロに迫ってきました。
遂に方谷は選択を迫られます。

農兵隊の武力を持って戦に出るのか??
藩主も徳川側についているから覚悟の一戦にするのが忠義ではないか??
朝敵の汚名を着せられたまま降伏では、大義が立たない!!
しかし・・・尽きない議論に方谷が終止符を打ちます。

藩士や領民を慈しみ育てる撫育こそ、我が天命である・・・
民あっての国であることを忘れる勿れ!!
方谷は領民の生活を思い、抗戦を訴える藩士たちを説き伏せます。
早速松山藩重臣が、新政府軍の陣へ派遣され、用意されていた謝罪書の文案を受け取ります。
方谷はその文面の四文字・・・「大逆無道」に激しく憤ります。
板倉勝静は、尊王を貫いていました。
それを大逆無道と言われることに対して許せなかったのです。
方谷は、遺書を認め、命を懸けた抗議に出ました。

「甘んじて死に就き 喜んで節を全う候のみに御座候」

方谷の決意を受け、松山藩重臣も死を覚悟して交渉に臨みます。
その結果・・・「大逆無道」の4文字は、「軽挙暴動」に書き換えられました。
その知らせを受けた方谷は、万感に胸を詰まらせました。
1868年1月18日、方谷の究極の選択によって、天空の城・・・備中松山城は戦火を逃れ無血開城されたのでした。

侍であれば死んだかもしれないけれど、農民であったからこそ生きてこその大切さ・・・。
侍として死ぬことよりも、生きるという選択は方谷にとって自然なことでした。
1868年8月、新政府軍が会津若松に侵攻・・・ここに至って朝敵とされた板倉勝静の行方は知れず・・・
方谷は躍起になって探します。
勝静は、戊辰戦争最後の激戦地・箱館に渡っていました。
家臣たちの必死の捜索でわかると、勝静の身柄確保に動きます。
1869年5月、付き合いのあったプロシア商船の船長に大金を掴ませ、新政府軍が迫る箱館勝静を脱出させます。
藩士たちは勝静に、朝廷への謝罪を説得します。
それは、備中松山藩復興のための絶対条件でした。
説得を受け入れ、謝罪し、自ら謹慎する勝静。
その4か月後・・・方谷たちの努力が報われ、松山藩の復興が許されます。
この頃、方谷の手腕を知る新政府の重鎮・岩倉具視や木戸孝允は、方谷に政府への出資を執拗に求めます。
しかし、方谷がその申し出を受け入れることはありませんでした。
方谷は、松山城無血開城後、生まれ故郷に近い長瀬で塾を開いていました。
若者のためにその建物は六棟にまで増築されていました。
松山城下からおよそ15キロ・・・そこは昭和3年に全通した伯備線の駅となり、全国でも珍しい人名の駅として、方谷の名をとどめています。

方谷駅から北へ20キロ・・・新政府からの出仕要請を嫌ったのか、方谷は山里・小阪部に塾を移しました。
そこは、母の故郷でした。
方谷が母方の祖父母を祀るために建てた庵が残っています。
68歳になった方谷は、祖先を弔いながら、瞑想にふけっていたといいます。
奇跡の藩政改革を実行し、波乱の幕末を生きた方谷は、明治10年1877年6月26日、小阪部で静かに息を引き取りました。
73年に及ぶ選択に洗濯の人生でした。
亡骸は、故郷の山田家の墓地に・・・多くの人に見守られながら埋葬されました。
その墓石に刻まれた方谷山田先生の文字は、旧備中松山藩藩主・板倉勝静が筆を執りました。

幕末維新の動乱の中、山田方谷が命を懸けて守り抜いた山間のささやかな暮らし・・・
かつて方谷が学び教鞭をとった藩校の跡地は幼稚園として活用されています。
未来を託す若者へ、健やかなれと祈りを込めて方谷が自ら植えた松の木が、今も子供たちを見守っています。


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ついに最終回です。
最後までやってくれました。副題は、「ドレスで光の世界!未来へ王手」です。

光の世界って・・・

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こんな”月の光の世界”を思い出しちゃいましたよ・・・。
でもって、未来のなんに王手なんだよ・・・。

では、最終回の始まり、始まり!!

すでにいきなり優雅な鹿鳴館の入り口です。

「お客様・・・失礼ですが、招待状はお持ちで??」
招待状を忘れてくるという・・・いかにもお決まりの展開・・・

「あのお方は・・・」と、下品な話し方の伯爵・伊藤博文登場!!
初代総理大臣となる男が素彦にペコペコしてますよ・・・。

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でもって、美和は退屈しているらしい安子のもとへ・・・
って、この人は本当にいろんなことを・・・婦人教育や慈善活動に力を注ぎ、明治23年から大日本婦人教育協会会長を務め、日本赤十字社の要職も務めた安子にこんな顔させられるなあ・・・
この人も本当に賢い人なんですが・・・
お姫様だったんですよね・・・下品にしか見えません。

貴婦人たちの慈善事業なんかに対して「なにかつまらんのう・・・」と前ふりをした安子のもとへ美和登場!!

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賢そうな女性たちも差別的に、本当に下品に、馬鹿らしく描かれていて・・・
美和ひとりがつつましいというか、おしとやかな感じに・・・というか、カマトトに仕上がってます。
あ~、気持ち悪い・・・。

よくわからない美和の説明で、貴婦人たちも群馬の生糸で作られたドレスで踊っていることを知って納得。
貧乏人にも、女性にも教育が必要だということも納得!!

そこに謀ったかのように津田梅子登場!!女性の教育が必要だと言い出します。
そんなこんなを、よくわからない美和の説明でなくて、最初から津田梅子にしてもらえばよかったのにね・・・
こっちのほうが説得力もあるし、美和の謙虚さも出てよかったのに・・・
あ・・・もともと謙虚ではないか・・・。

「群馬の女たちによろしくと伝えてください!!」by貴婦人を装った人たち。

よくわからん・・・

これからの生糸には鉄道輸送が不可欠だと言っている素彦・・・
大切なのはわかるが、援助をするのは・・・と、及び腰の夫たちのもとへかけてくる美和に洗脳された貴婦人たち。
「あなた・・・協力してあげたら??」×4

「またやったな・・・!!」by素彦。
「やはり。。。美和がいると面白いな!!」by安子

って、なんじゃこりゃ??

そして初めて二人でダンスを・・・!!

hana1













あ~、ここら辺はどうでもいいわ・・・。
日本人は、奥ゆかしい女性が多かったので、社交の場でしゃべったり、パートナーと一緒に踊るなんてことはできない人が多く・・・
なので、ダンスには芸妓を使ったとか、伊藤のように奥さんがお茶子だったり・・・
それでも、ろくに踊れずに猿回しの猿と言われていた鹿鳴館・・・いったいどうやってそんなに踊れるんだ・・・。

なんだか素彦と美和のおかげで就学率も上がって、前橋まで鉄道も通ることになって、生糸もいい感じ。

鉄道工事が始まったと言われていますが、すでに工事はなされていたと思われるので・・・そこもなんだかなあ・・・
「楫取様が群馬の県令になってくれたおかげだ!!」と、県庁は大喜び!!

そんな中・・・物思いにふける素彦・・・。
美和に激白!!
「県令を辞めようと思う・・・
 もう群馬での私の仕事は終わったんじゃないかと思うんじゃ・・・
 あとはこの土地の人間でやっていくんがええんじゃ・・・
 じゃが・・・私一人で決めることはできん・・・お前はどう思う??」

はあ???!!!
明治時代に女性に判断させてくれたんですかね??
素彦の志って・・・
どれだけ美和が偉いんだ・・・!!
ちなみに多分、平成な我が家で旦那が「仕事辞めようと思う」と言ったら、その判断は旦那自身で、私は結局飲まなければならないと思うから。

こんなところも頓珍漢で嫌ですよね・・・
「どんな所でも旦那様についていきます。」ってなんで言えないんだろう??
それが美和の今の志じゃないの・・・??
そういえば、最初から、いつも美和のところでいったん話が詰まるので、”薩長同盟”も美和の許可が要ったように見えるんですよ・・・きっと。

そうだ。。。新しい日本を作る!!なんて、女性に言わせるからおかしいんですよね。
男尊女卑と言われるかもしれませんが、この時代、憲法の草案はそこら辺の男の人々も書いて、考えて・・・つまり、政治に対して期待して、参加しようとしていました。
なので、それこそ普通の平民が憲法を論じてもまったくおかしくなかった時代です。
でも、そこが男と女の違いではないかと思います。
女性が活躍するということは、この時代に大変だったと思います。
女工さんも、遊郭でも・・・涙なくしては語れない、活躍した名もなき女性たちがたくさんいたと思うのですけど・・・。
きれいごとばっかり言って、でしゃばりな美和には明治という時代がそぐわないんですよね。。。


そして・・・美和がついてきてくれるので、県令を辞めることにした素彦・・・。
県庁は大騒ぎ!!
引き継ぎぐらい、ちゃんとしてください。

そして・・・その大騒ぎも10秒ほどで終わって・・・「臨江閣」で送別会です。

hana3













船津伝次平が東京で農業を教えられるのも、美和様のおかげらしいわ・・・。

でもって・・・なんだかんだと式のあいさつみたいなのが続きます。
素彦への感謝状授与みたいな・・・
なんでこんなん見なくちゃいけないんだろう・・・

おまけに、美和にプレゼントされた群馬の女たちの寄せ書きは・・・
めっちゃ上手な字で書かれていて嘘っぽい・・・

とどめは素彦の挨拶・・・
「みなさん・・・今日は本当にありがとうございます。
 ・・・妻をここへ呼んでいいですか・・・??」by素彦

「ここにいるじゃないか・・・!!」by私

あああ・・・もうついに、気持ちの糸が切れてしまいました。
素彦がまたもや内容もないスピーチで終了・・・頭にも入らんわ・・・。

題は鹿鳴館だったはずだよね・・・鹿鳴館で何をやったんだよ・・・。
何もかもが中途半端で嫌だわ・・・。


汽車の出発にはたくさんの人々がお見送り!!

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そんな汽車の中で美和がもらったのが玄瑞の手紙を綴じた”涙袖帖”でした。
なにもこんなとこで・・・ともおもうし、すでに鼻についているので・・・20年ほどたって・・・焼こうとした手紙の割にはしわ一つ寄ってないなあ・・・折り目一つないよ・・・と、感情移入できないまま汽車は長州へと向かうのでした。

萩では・・・塾で教えているのは民治、亀はおにぎりを作り、滝はやっぱりお風呂を沸かして美和&素彦をまっているのでした。


「どうか一粒の籾として次の春の種となれますよう」

と、偉そうに見える美和が言うんですが・・・ちゃんと言ってほしいんですよね。
この言葉は、松陰の「留魂録」一節だって・・・!!
松陰の言葉を胸に生きてきたのなら、まったくもってNoProblemですが、こちらの言葉もいきなり出て来て何が何だかわからないというか・・・心に響きませんでした。

で・・・美和の後ろ姿で終わってしまいました。

いきなり紀行に入るわけですが・・・
「涙袖帖」のことや、防府に移って教育活動をし、幼稚園の創設を支援したこと。
美和が裁縫などを教える女学校の設立を後押ししたこと。女性教育に尽力したこと。
楫取が明治天皇の第10皇女・貞宮の養育係となり、夫婦で務めたこと。
貞宮は幼くして亡くなられ、その遺品は楫取によって防府天満宮に納められたこと。

最後まで人を育てることに力を注いだ楫取と美和・・・
激動の時代を生きた二人の墓は、防府市桑山の麓に、添うように建てられ、日本の行く末を見守っています。。。


だって・・・

紀行じゃなくって、本編でやってください!!

どうして訳の分からないドラマを見させられて・・・見たいはずの大きな河は見せてくれないんでしょう??
そう・・・大きな河は悠久に・・・連綿と続きます。
次の人にバトンタッチするわけでもなく、自分たちの世界に戻っていったような・・・そんな終わり方でした。

あ~、真田丸も怪しいよ・・・。
キャッチコピーは、
「今だって、愛と勇気の旗をかかげていいんだ」
ですって??

日本語おかしくないですが・・・??

愛と勇気はアンパンマンに任せておいてください。。。



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ラス2のお話です。
どんなお話にも、基本的に好意的なパパが言いました。
「もはや・・・大河ではないな・・・。」と。。。

うちのパパに言われたらもうお終い。。。
でもね、的確なことも言ってました。
「本当に、こんな人だったんだよ・・・」→大河に選ばれたのがかわいそう。とか、普通の女性だったんだよ。=大したことはしていないという意味。(不倫って意味じゃないわよ

ということで、誰が関心あるのか「二人の再婚」です

「富岡は存続だ~~~!!」

そして、朝ドラ・・・いえ、昼ドラのような中年たちばかりの恋愛劇が始まるのでした。

なんだか素彦も朝ごはんを作って失敗・・・
だから、この時代に、この生活レベルの人は何人もの使用人がいるんだって!!
「あさが来た」では、いっぱいいるし、大旦那様と大奥様の旅行にお付きが3人もついていったわよ・・・。
それもこれも、美和が仕事をしやすいからだそうだ。
う~ん、今の男性でも、ここまで女性の仕事に理解のある人はいないと思うんですが・・・。
なんだか、女中さんを雇うこと、美和は嫌みたいよ。。。

でもって、阿久沢夫婦が二人をくっつけようと画策・・・

粂次郎がやってきましたが・・・何しに来たんだよ・・・と、喧嘩売りそうになりましたが、そうそう親子でした。

美和が寿の代わりにうよくしてくれているとか、美和には美和の人生がある・・・とか言ってますが、「美和には美和の人生・・・」って、美和、すでに40歳ですよ。。。
職もないのに放り出すんですか??今更な感じしませんか・・・??
で・・・粂次郎が美和を許してくれるような展開で・・・美和と素彦の共通点は「立ち向かう勇気だ・・・と。」なんて言い出しました。
何に立ち向かって、何を成し遂げたのか、その志を的確に教えてほしいもんだ。
諦めずに邁進したって・・・すべて途中でほっぽりだしてますが。
それはただの我儘・・・
で・・・粂次郎が許してくれたってことは=再婚のフラグなんでしょうね。

美和を意識し始めたのか素彦・・・。

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秀次郎が久坂家を継いだことを報告すするために、萩に向かう美和。
女中を頼んだという美和に、来てもらわないでいいという素彦。
なんだかプロポーズみたいですよ。

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「私は、これからもお前と一緒に歩んでいきたいんじゃ・・・
 傍で、互いに支えあいながら、考えてみてほしい」by素彦






返事、引き伸ばしかよ~~~!!
早く終わってほしいわ。
すでに杉家に戻ってきてしまった美和のもとに、秀次郎と辰路がやってきました。
辰路はこのときすでに、ほかに嫁にやられていたので出てこないんじゃないかなあ・・・とも思うんですよね。。。

杉家の人々も待っていたようです。
秀次郎が挨拶できるようになったと馬鹿にする始末。
杉家の人々に挨拶して、正式に久坂家を継ぐことになりました。

振り返る回なのか、幼馴染たちも登場!!
でも、誰が誰だかわかんないわ・・・。

で、びっくりなのが・・・説明のように、すみとふさが自分たちの近況報告!!
伊藤と別れたすみは、伊藤夫妻の仲人で再婚した!!と、再婚をアピール!!
「今時、驚くことでもないやろ!!」平成脳な言葉でまくし立てます。
「なんか綺麗になったんと違う・・・??」
ま、生きるための結婚でしたから、生きるために女性たちは再婚することがたくさんありました。
なので、それこそ今ほど結婚!!再婚!!とは言わなかったと思います。
なので、今時驚くことでもないやろ!!なんて言葉が出てくるほうが、おかしいとも思うんですよね。


鉄道建設のための話を阿久沢様としている素彦。
でも、「美和さんはまだ萩に??」なんて、ガールズトーク真っ青な話が始まるのです。
男なんだからというか、県令なんだから、政治の話してくんないかなあ・・・

滝に、素彦にプロポーズされたことを相談する美和です。
実際の美和は、「貞女二夫に見えず」といって、断っていたといいます。
が・・・今まで玄瑞のことをこれっぽっちも思っていなかったから、嘘くさい・・・おまけに母が、
美和と素彦が見えん糸で結ばれているという・・・???
自分の娘・寿の夫だったんですよ??
寿の立場はどないなるねん!!

そう、本当ならば、結婚を渋っていた美和を、40歳にもなって子供もおらず・・・母は心配していたはずです。
生活のため、慣習のために結婚をすすめるんですよ。。。
当時は独り身の女の人が生きていくためにはかなり難しい時代だったから・・・。


阿久沢様は仕事をしている素彦に、美和が帰ってくるから早く帰れってすすめます。

hana4
















ああ・・・一番の見せ場が!!
大事にしていた玄瑞の手紙を燃やしている・・・!!

この手紙、一番いい材料なんですよね。ほんとは・・・
折に触れ、美和が読み返してくれていれば、こちらの想いもMaxだったかもしれないし・・・
これをもってなら嫁に行ってもいいってなんで言わないかなあ・・・。
いつも、自分で言わないで、人におもんぱかってもらってずるいわ・・・。

「一緒にやっていこう・・・
 私の妻となってほしい」by素彦

「はい・・・よろしくお願いします。」by美和

ああ・・・ここで思い出した作品が一つ・・・。
それは「めぞん一刻」のあのシーン。でも、このページには書きたくないので、また書きますね。

「県令殿と美和さんが入籍の書面を提出なさいました!!」と、町のみんなは大騒ぎ!!

恥ずかしいわ!!

そして・・・鹿鳴館からの招待状が・・・!!
二人での初仕事は鹿鳴館で!!

元徳夫妻と食事を・・・ステーキを食べて・・・ドレスを用意してもらいました。
これで鹿鳴館で踊るのか・・・。

「大丈夫だ・・・お前なら・・・」
そうか・・・ダンスの勉強もこっそりしていたのか・・・。
で・・・とうとう歴史上の人物誰も出てこなかった・・・維新なのに。。。
本当に大丈夫なのか・・・最終回!!

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