豊臣秀頼 (歴史文化ライブラリー) [ 福田千鶴 ]

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天下人豊臣秀吉の居城・大坂城!!
三国無双と称えられたこの城で、400年前悲劇のプリンスが自害し果てました。
秀吉の息子で後継者の秀頼です。
追いつめたのは、江戸幕府を開いた徳川家康。
どうして家康は豊臣家を潰さなければならなかったのか・・・??

太閤豊臣秀吉には、心配事がありました。
秀頼のことです。
溺愛する息子はまだ6歳。。。
秀頼のために遺書を書きます。

「返々 秀よりこと たのみ申候 
 五人のしゆ たのみ申候

 此ほか にわおもひのこす事なく候」

ここで秀吉の補佐を頼んだ5人とは・・・
徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・・・
豊臣政権を支えていた五大老です。
彼らに遺言を託した秀吉は、1598年8月18日にこの世を去ります。
その後、前田利家は秀吉の言う通り補佐につき、家康は伏見城に於いて豊臣政権の政務を行います。
しかし、最古参の前田利家が亡くなると状況が一変しました。
家康が天下取りに動き出したのです。
当時、大名同士の婚姻は、秀吉によって法律で禁止されていました。
しかし、家康は、自らの勢力を強めるために・・・蜂須賀家、福島家、伊達家・・・婚姻を結びます。
反家康派の家臣たちは激怒し、関ケ原の戦いが起こるのです。
徳川家の東軍と、豊臣家家臣の石田三成の西軍との戦いで、およそ20万が・・・!!
家康側には反石田派の豊臣恩顧の大名も加わり、豊臣家家臣団の内部分裂の側面でもありました。
しかし、秀頼をはじめとする豊臣家は参戦せずに中立の立場を取ります。
戦は半日で決着!!
徳川家の勝利により、家康の天下が近づきました。

徳川家康は大坂城へやってきました。
秀頼に対面してから西の丸に入ります。
これに先立って、家康は、秀頼と淀殿に・・・
「豊臣家は今回の戦には全く関係ないから安心してください。」と伝えていました。
しかし、豊臣家に気付かぬように・・・戦後処理として豊臣家の所領を勝手に分配・・・
秀頼の領地は、摂津・河内・和泉の三か国・・・65万7400石あまりとなってしまいました。
秀吉時代の1/3でした。
その家康が、秀頼の何を恐れていたのでしょうか??

①豊臣ブランド
関ケ原の戦いから4か月後の1601年1月29日、大坂城は賑わっていました。
9歳になった秀頼のもとに、公家や僧侶の中でも地位の高い豪華なメンバーが新年のあいさつに来ていました。
徳川の力が強まっても、彼らは変わらず豊臣家に敬意を払っていました。
庶民たちはもっと豊臣贔屓・・・。
家康が将軍のなる際には・・・
「内府様、将軍になれせられ
 秀頼様 関白に御成之由候
 目出度御事にて候」
と、家康が将軍になるのなら、秀頼はもちろん関白になると考えていたのです。

上方の豊臣人気の理由は・・・。
秀吉が天下人となってから、豪華になり、京都は再び活気を取り戻します。
秀吉が死んだ後も、秀吉に贈り物などして関係を築いていました。
当時日本に来ていたオランダ人も・・・
「大坂の城にいる秀頼さまは、前皇帝の子であり、日本の正当な皇帝である。」
そして、経済都市大坂を領地としている秀頼には豊かな経済力がり、諸大名や庶民から絶大な信頼を得ていました。
秀吉が作った城下町は、商人たちにとっては住みやすい町でした。
再び豊臣の世が戻ってくることを誰もが期待していました。
いまだに人気の豊臣ブランドなのです。
それを、家康は恐れていました。
豊臣家の象徴である秀頼をどう扱うのか・・・??
細心の注意を払う家康です。
なので、年始の挨拶も忘れず、素直に代わらぬ振る舞いをしていました。

その一方で暗躍します。
1600年に公家の九条兼孝が関白になります。
家康が、秀頼を関白にさせないために、仕組んだのです。
関白を武家から返すはじめということ・・・
これは秀吉の意志であったと・・・!!
関白を摂関家に返して、新しい武家関白の誕生を阻止したのです。
征夷大将軍は官位五位相当の役職で、関白は官位一位相当の太政大臣の上位に置かれる役職です。
家康は関白になれるのか・・・??
関白は摂関家でなければなれません。
秀吉は、摂関家になっているので、秀頼には関白になれるチャンスがあるからです。

家康が征夷大将軍になった年、秀頼は関白には慣れませんでしたが、正二位内大臣となりました。
一説には豊臣方をなだめるために家康の計らいだったとか・・・。
そして、この年、秀頼は結婚。相手は、家康の孫であり、淀殿の妹・お江の娘・千姫でした。
この婚姻は、もともと秀吉の遺言でした。
しかし、家康はこの婚姻に協力的ではありませんでした。
薩摩の島津家には、結婚祝いの上洛は無用と伝え、細川家には使者は無用としています。
それでも秀頼の元には多くの祝いの品が届きました。
太閤殿下の御威光はまだ残っている!!
衰えない豊臣人気!!


②豊臣家の財産
豊臣家の居城・大坂城には莫大な金銀が蓄えられていました。
金の量は、国全体の2/3もあったと言われています。
この莫大な財産こそ、家康が恐れていました。
打倒徳川の軍資金となるからです。
そこで家康は豊臣家の財産を減らす策に出ます。
寺社造営です。
家康は秀吉の菩提を弔うと称して自社の造営や修復を勧めます。
秀頼と淀の方は、秀吉が寺社造営を進めていたこともあって、家康の言葉を素直に受け入れます。
積極的に出雲大社をはじめ、名だたる神社仏閣の修復や造営を始めます。
その数およそ100!!
かなりの財産をつぎ込んでいきます。
その一方で、それは、改めて豊臣家の権威を見せつけることとなったのです。

この頃から家康の態度が変わってきます。
毎年行っていた年始の挨拶を止めます。
秀頼に来るように・・・と。
1605年、将軍職を秀忠に譲ります。
これは、将軍家は徳川家が世襲することを示していました。
政権を戻すつもりはない!!と言っているようなもの。
そして、秀忠の将軍就任に際して、秀頼に上洛するようにと言ってきました。
淀殿は、上洛せよというなら秀頼を殺して自分も死ぬと断固拒否!!
我が子秀頼を命がけで守ろうとしました。

まだ13歳の秀頼はどう思っていたのでしょうか??
幼いころから武芸、和歌、漢詩、兵学、儒学・・・あらゆる学問を当第一の学者に学んでいた秀頼は、14歳の時に明王朝の帝王学の教科書「定鑑図説」の和睦本を出版します。
優秀なブレーンアが要ることを示しています。
ひ弱でマザコンと言われる秀頼ですが、聡明で、強い自我と行動力を持っていました。

「自分こそが秀吉の後継者である!!」という強い思いが・・・!!

そして、その意志は住吉大社の造替工事にも見受けられます。
ここはかつて秀吉の母の大政所の病気平癒と延命祈願をした場所です。
住吉大社を建て替えることで、秀頼は豊臣家再興を願ったのです。
そんな秀頼に、牙を剥き出す家康・・・
駿府城三の丸の工事を始め、他の外様大名と同じように、秀頼にも労働力を差し出すように命じてきます。
しかし、秀頼は冷静で・・・年始や七夕には人を遣わして挨拶をします。
人々はそんな秀頼を”年長ずるに従い知勇加わる”と言いました。
豊臣家当主として年々頼もしくなっていく秀頼・・・!!

ある日・・・京の町に落首が・・・
”御所柿は 一人熟して 落ちにけり
          木の下にいて 拾ふ 秀頼”
御所柿とは、駿府城に隠居し大御所となった家康の事。
老いていく家康が自然と地に落ち、その政権を秀頼が拾うと・・・
二人の年齢差を皮肉り、豊臣家の復活を望んでいるのです。


③秀頼の若さ
1611年、家康は後陽成天皇の譲位の儀式のために、今日に上ります。
そして、秀頼を二条城に呼び出すのです。
秀頼は、それに応じ3月28日午前8時、二条城に到着。
一説には庭まで出迎えたという家康。
最後にあったのは11歳の時でしたが・・・19歳の秀頼は、身長197センチの大男に成長していました。
家康に続いて城内に入った秀頼に対し・・・
「ささ・・・お先に。」家康は秀頼を先に会見の場所に通し、対等の立場で話そうというのですが・・・。
秀頼はそれを頑なに断り、家康に上席を譲りました。

家康の二条城に秀頼が赴くということは、既に秀頼は家康より下の立場から・・・なのに、家康も対等に・・・と思うのですが、この時点では、家康の方が位が上でした。
秀頼の方が下に座るべきであろうと秀頼は家康に正しい礼を取ったと言えます。
先に秀頼を家に通そうとした家康の罠で・・・先に秀頼が入っていれば、礼節をわきまえない無礼な男として非難されるところでした。
そんな家康の策にはまらず、冷静に、自分の立場をわきまえて対応します。
2時間に及んだ会見で、合間には食事も・・・。
家康は、豪華なものでは遠慮がちになると吸い物だけを振る舞います。
ここでも秀頼に気を遣っているようで・・・会見の最後に家康は言い放ちます。

「太閤殿下の遺言では、秀頼殿が15歳になったら天下を治めていただく約束だったが、先の関ケ原の戦いで我を退治せんとし、起請を破ったのは秀頼殿であるから、約束を反古にされても仕方が無かろう」by家康

関ケ原の原因は秀頼側にあると難癖をつけ、成人した秀頼に天下を渡さないことを宣言。
自らの行為を正当化したのです。
改憲の後、家康は秀頼のことを・・・

「大変かしこい人なり。
 他人の臣下となって、その命令に従う人物にあらず。」by家康

19歳の賢く頼もしい男・・・それに引き換え自分は70歳・・・。

二条城会見の数日後・・・大阪の秀頼の元へ、家康の子供たちが進物を携えてやってきました。
二人に対し秀頼は心のこもった返礼をし、家康にお礼の手紙を送ります。
この手紙は・・・家康に宛てた秀頼の挑戦状・・・??

「次にお会いしたときにお礼をします」と書いています。
その品を直接会って・・・つまり、返礼品が欲しければ、家康が直接会いに来るように・・・との事なのです。

二条城会見を外から見れば、家康に対して礼節を尽くした・・・ですが、家康に対して自分の方が上位であるという手紙の書き方をしているのです。
それは、秀頼と家康の間にしかわからない失礼な手紙でした。
秀頼はかしこい人だ・・・そう思う家康でした。

再建中だった方広寺の鐘・・・。
「国家安康」・・・家康という名が分断され、呪っていると難癖をつける家康。
これが、戦のきっかけになってしまいます。
徳川と豊臣の対立・・・もはや戦は避けられない・・・と、戦の準備が始まりました。
1614年10月、秀頼は莫大な資金を投じ、大坂周辺の米を購入。
武具などを城内に配備するだけではなく、大坂周辺にも壁を築き、籠城の準備をします。
さらに、秀頼は豊臣方について戦ってくれるように早い時点で諸大名に手紙を送っています。
それは、秀吉恩顧・・・毛利、島津、伊達にまで及んでいました。
結局誰一人、秀頼の求めには応じませんでしたが・・・どうして大名は、秀頼方につかなかったのでしょうか?
 
熊野権現の起請文・・・
家康は方広寺の事件以前に起請文を諸大名から取っていました。
徳川家に忠誠を誓う・・・なので、大坂の陣で豊臣方に協力しなかったのです。
結局、秀頼に着いたのは、関ケ原で戦って敗れた浪人たちだけ。
その中には、真田信繁、長宗我部盛親、後藤又兵衛、木村重成、毛利勝永・・・といった名高る武将もいました。
11月19日、戦いの火ぶたが切られます。
徳川方20万に対し、豊臣方10万!!22歳にして初陣の秀頼!!
しかし、それは荒々しい面構えで、総大将として堂々たる立た住まいずまいでした。
かつての秀頼の姿を見て涙する者も・・・。
秀頼は広大な城の各陣を馬で回って兵士たちを激励!!
また戦果を挙げた者には即座に褒美を与え、士気を上げます。
豊臣方は、兵の数では劣りながら善戦!!
巨大な大坂城を前に攻めあぐねる家康。
真田丸らの戦いで、甚大な被害が!!
しかし、徳川方が放った砲弾が大坂城の天守に命中。
その被害を目の当たりにした淀の方が、弱気になり・・・
12月19日和睦成立。
この時、家康が出した条件は、大坂城にいる浪人たちの追放のほか、城の堀の埋め立てでした。
和睦の際の取り決めでは、三の丸の堀と外堀は徳川が埋め、二の丸は豊臣が埋めることになっていました。
しかし、家康はその取り決めを破り、全ての堀を埋めてしまったのです。
本丸だけを残し丸裸となってしまった大坂城!!
徳川軍が退去した後、秀頼はすぐに堀の復旧と戦の準備を始めますが・・・
家康はそれを理由にまたもや出陣!!
行く当てのなかった農民たちが大坂城にいました。
まだ戦うのか・・・??
今度は、秀頼の到着を待ちます。
秀頼は、兵糧や材木を大阪城内に集めます。
火薬を作る準備も!!
豊臣対徳川・・・最後の暑い夏が始まります。

豊臣方5万5000VS徳川方15万!!
圧倒的な兵力差がありました。
それでも秀頼は総大将として本丸正門に陣を構えます。
その姿は、大いに豊臣方の士気を高めましたが、秀頼が出陣することはありませんでした。
この時、秀頼の元へ知らせが来ていました。
戦っていた豊臣の者たちが寝返って、秀頼が出撃すればそれを討つと・・・!!
秀頼は動くに動けなくなって、出陣の機会を失ってしまいました。
しかし、これは、家康のデマで・・・家康の策略にまんまとはまってしまったのです。
豊臣方の形勢は悪化・・・。
真田信繁らの有力武将などが次々と討ち取られていきます。
もはやこれまで!!
秀頼は、出撃し、戦場で討ち死にしようとしますが、周囲に止められ城に留まります。

そして、炎に包まれる大坂城で、母・淀の方と共に自害するのです。
1615年5月8日・・・家康が恐れた男・豊臣秀頼・・・このときまだ、23歳でした。 

焼け落ちた大坂城に秀頼の首はありませんでした。
あったのは、金2万8000枚と、銀2万4000枚・・・。
豊臣の財力を削ごうと暗躍した家康でしたが、その財力は、家康の想像をはるかに超えていました。
そして、この戦の後、京や大坂でこんなわらべ歌がはやりました。

花のよふなる秀頼さまを
鬼のよふなる真田が連れて
退きも退いたよ加護嶋へ

真田信繁が、秀頼を鹿児島へ連れていったというのです。
大坂の地を経済都市として栄えさせてくれた秀吉に恩を感じていた町人たちは、彼の愛した息子にはどうか生きていてもらいたい・・・と願っていました。
豊臣人気も、家康の想像をはるかに超えていたのかもしれません。


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