日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:二・二六事件

昭和天皇は、晩年、生涯忘れることがなかった出来事を二つ挙げています。
ひとつは、太平洋戦争を終わらせたときの自らの決断、そしてもうひとつは・・・
二・二六事件です。
昭和11年二月二十六日・・・陸軍の青年交渉が部隊1500人を動かし、重要閣僚ら9人を殺害。
天皇中心の軍事政権を目指し、日本の中枢を4日間にわたり占拠しました。
近代日本最大の軍事クーデターです。
83年経った今年、事件を克明に記した最高機密文書が発見されました。
この極秘文書には、事件の第一報から収束までこれまで知られなかった事実が分刻みで記されていました。

陸軍上層部が事件の裏で進めていた策略・・・海軍と陸軍が臨戦態勢を取り、内戦直前だったという新しい事実・・・。
公にされてこなかった天皇の行動・・・。
日本を揺るがし、今なお多くの謎を残す二・二六事件・・・この事件をきっかけに、日本は軍部の力が拡大し、太平洋戦争に突き進んでいきました。
壊滅的な敗戦に至った日本・・・歴史の転換点となったこの4日間に、一体何があったのでしょうか?

昭和20年9月2日・・・太平洋戦争に敗れた日本が降伏文書に調印・・・
その時、日本の代表団の中に一人の海軍の幹部がいました。
富岡定俊海軍少将です。
終戦の時、海軍軍令部の部長だった富岡・・・かれこそ、二・二六事件の文書を持っていた人物でした。
富岡は、海軍の最高機密文書を密かに保管・・・これまで公になることはありませんでした。
これまでは、事件後の陸軍軍法会議の資料が主な公文書とされてきました。
今回発見されたのは、海軍が事件の最中に記録した文書・・・六冊です。
海軍は、極秘の文書には赤い色を使っていました。
作成したのは、海軍のすべての作戦を統括する軍令部でした。
そのトップら海軍の上層部が確認した事実も残されています。
陸軍ではなく、海軍からの資料が残っていたのはとても重要なことです。

2月26日・・・一日目 知られざる事実

降り積もった大雪が、東京の中心部に10センチ以上残っていました。
午前7時・・・海軍軍令部に1本の電話がかかってきました。
警視庁・占領、内大臣官邸・死、総理官邸・死・・・連絡を最初に受けた第一報です。
夜明け前、陸軍青年将校が部隊およそ1500人を率いて決起!!
重要閣僚らを襲い、クーデターを起こしたのです。

後に明らかになる事件の内容を、海軍は発生当初の時点でかなり正確につかんでいました。
首相・岡田啓介は、間違って別の男性が殺害されました。
天皇の側近・斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣は、銃や刀で残虐に殺されました。
警備中の警察官も含むと9人を殺害、負傷者は8人に上りました。
決起部隊を率いたのは、20代、30代の青年将校たちでした。
陸軍の中の皇道派を支持していました。
政治不信などを理由に国家改造の必要性を主張し、天皇を中心とした軍事政権の樹立を目的として閣僚たちを殺したのです。

しかし天皇は、勝手に軍隊を動かし、側近たちを殺害した決起部隊に厳しい姿勢で臨もうとしていました。
事件を起こしたのは、赤坂と六本木に駐屯していた陸軍の部隊の一部でした。
国会議事堂や首相官邸や国の中枢を武装占拠・・・これに対し、陸軍上層部は急遽設置された戒厳司令部で対応に当たりました。
ここに全ての情報を集めて統制していたのです。

ところが・・・極秘文書から、陸軍以外に海軍が独自の情報網を築いていたことがわかりました。
海軍は情報を取るために、一般市民に扮した私服の要員を送り込んでいました。
戒厳司令部にも要員を派遣・・・陸軍上層部に集まる情報を入手していました。
さらに・・・現場周辺に見張り所を多く設置。
決起部隊の動きを監視し、分単位で記録・報告していました。
海軍がネットワークを張り巡らせ、膨大な情報を得ていたのです。
海軍は事件発生直後からどうしてこのような体制を組めたのか・・・??

海軍は事件発生前から陸軍の一部に不穏な動きがあるという情報を掴んでいたのです。
陸軍の青年将校が率いた決起部隊・・・
天皇を中心とする国家を確立しようとクーデターを企てました。
決起部隊に行動を否定した天皇・・・。
双方の動きをめぐる陸軍上層部と海軍との攻防が始まろうとしていました。

極秘文書には、事件初日にその後の行方を左右する密約が交わされていたことが記されていました。
二つの密約・・・
事件発生直後、場所は陸軍大臣官邸・・・
事態の収拾にあたる川島義之陸軍大臣に、決起部隊がクーデターの主旨を伝えます。
陸軍大臣の回答とは・・・??
川島大臣は、決起部隊に軟弱だと詰め寄られ、彼らの目的を支持すると約束させられていたのです。
決起直後に大臣が、決起部隊の幹部に対して「昭和維新の断行を約す」と、約束しているのです。
これを聞けば、決起部隊は大臣の承認を得たと思うのは当然です。
それ以降の決起部隊の力となってしまいました。
この直後、川島大臣はある人物と接触します。
皇道派の幹部・真崎甚三郎陸軍大将です。
決起部隊が、軍事政権のTOPに担ごうとしていました。
クーデターに乗じて、陸軍上層部の中に軍事政権の樹立を画策する動きが出ていたのです。
一方、別の場所でもう一つの密約が交わされていました。

軍を統帥する昭和天皇・・・事件発生当初から断固鎮圧を貫いたとされてきました。
しかし、極秘文書には、事件に直面し揺れ動く天皇が書かれていました。
事件発生直後、海軍軍令部総長・伏見宮に宮中で会っていました。
伏見宮は、天皇より26歳年上・・・長年海軍の中枢に位置し、影響力のある皇族でした。
その伏見宮にこう問いかけていました。

「艦隊の青年士官の合流することなきや」

海軍の青年将校たちは、陸軍の青年将校たちに加わることはないのか?と。

天皇の問いに伏見宮は・・・「無き用」言上しています。
その心配はないと語りました。

海軍は決起部隊に加わることはないのか・・・不安を抱く天皇の言葉が初めて明らかになっています。
当時まだ34歳だった天皇・・・軍部の中には批判的な声もありました。
陸軍少佐だった弟の秩父宮などが代わりに天皇に担がれるという情報まで流れていました。
軍隊に人気がある秩父宮と高松宮を軍隊が天皇にしてしまう可能性があるのでは・・・という危機感を持っていたのです。
軍隊の中で天皇の威信が確立できていないというのが昭和初期という時代でした。
事件の対処次第では、天皇としての立場も危ないという状況でした。
決起部隊に加わることはないと明言した海軍に対し、畳みかけるように命令をしていきます。

「陸戦隊につき 指揮官は 部下を十分 握り得る人物を選任せよ」

陸戦隊とは、海軍の陸上戦闘部隊です。
艦艇の乗組員を主に形成されます。
万が一、決起部隊に同調する動きが出てこないか・・・天皇は疑心暗鬼になっていました。
天皇は、陸戦隊の指揮官の人選にまで注文します。
この後、海軍の存在が、天皇の鎮圧方針を支えていきます。

決起部隊の目的を支持すると約束した陸軍上層部・・・
天皇に決起部隊に加わらないと約束した海軍・・・
事件の裏で、相反する密約が交わされる中、天皇は鎮圧に一歩踏み出していきます。
天皇は海軍に鎮圧を準備するよう命じる大海令を出します。
天皇が立て続けに三本の大海令を出すのは異例のことでした。

2月27日・・・二日目 海軍の表と裏

極秘文書には戦艦を主とする第一艦隊、第二艦隊の動きが詳細に記録されています。
天皇の命令で大海令を受け、全国に部隊を展開する極めて大規模な作戦でした。
大分の沖合で演習中だった第一艦隊は直ちに動き始めます。
長門など戦艦4隻をはじめ、巡洋艦や駆逐艦、9隻の潜水艦、戦闘機、爆撃機の飛行機隊・・・第一艦隊全体が、東京を目指しました。
鹿児島沖で訓練をしていた第二艦隊は、大阪に急行します。
全国に決起部隊に続くことを海軍は警戒していたのです。

午前8時・・・横須賀から出動した陸戦隊の4つの大隊が東京・芝浦埠頭に到着していました。
これまで陸軍の事件として語られてきた二・二六事件・・・実は海軍が全面的にかかわる市街戦まで想定されていたのです。

この時、陸軍の不穏な動きは広がりを見せていました。
東京を中心とする陸軍の第一師団・・・決起部隊の大半が、この部隊の所属でした。
第一師団の参謀長が・・・
「決起部隊もまた日本人 天皇陛下の赤子なり
 彼らの言い分にも理あり
 決起部隊を暴徒としては取扱い居らず」
と漏らしています。

クーデターに理解を示すかのような陸軍幹部の発言・・・
もし・・・陸軍第一師団が決起部隊に合流したらどうなるのか・・・??
海軍は、陸軍と全面対決になることを警戒していました。

午後2時・・・海軍軍令部の電話が鳴りました。
電話の相手はなんとクーデターを起こした決起部隊でした。
この事実は、極秘文書によって初めて明らかになりました。
決起部隊はどうして海軍に接触してきたのでしょうか?
それは、海軍の内部にも、決起部隊に同調する人物がいたからです。

当時取調べを受けた人物の一覧も残っていました。
宮中顧問官退役(海)中将・小笠原長生・・・天皇を中心とする国家を確立すべきだと常々主張し、皇室とも近い関係にありました。
事件発生直後、伏見宮をたずね、決起部隊の主張を実現するように進言していたのです。
小笠原は、有力な海軍大将らと接触し、働きかけを続けていたことが記録されています。

海軍にまで接触を試みてきた接触部隊は要求してきます。

「よく物のわかる将校一名 来部せられたし」

決起部隊は、モノの分かる将校一人で来るように言ってきます。
これに対し、岡田為次参謀が、課長の命により同部に・・・
決起部隊の司令部でこう語ります。
「君たちは初志の大部分は貫徹したとして打ち切られてはいかがか・・・」
決起の主旨を否定せず、相手の出方を伺います。
この時、すでに天皇の名を受け、鎮圧の準備を進めていた海軍・・・
その事実を伏せたまま、この部隊から情報を集めていきます。

天皇の鎮圧方針に従う裏で、決起部隊ともつながっていたのです。
一方この日、陸軍軍上層部も新たな動きを見せます。
天皇が事態の収束が進まないことにいら立ち、陸軍に事態の鎮圧を急ぐように求めていたのです。

午後9時・・・戒厳司令部に派遣されていた海軍軍令部員から重要な情報が飛び込んできました。
真崎甚三郎大将が、ある陸軍幹部と会い極秘工作に乗り出したという情報でした。
相手は石原莞爾大佐・・・満州事変を首謀した人物です。

二人が話し合ったのが、青年将校の親友を送り、決起部隊を説得させるという計画でした。
この説得によって事態が収束するという楽観的な考えを持っていました。
真崎・・・約70%成功スルモノト観察
石原・・・成功ハ殆ド確實
一方、従わない場合は、容赦なく切り捨てることを内々に決めていました。

海軍は、情勢をより厳しく見ていました。
決起部隊の考えを密かに探っていた海軍の岡田中佐・・・午後10時30分の報告

”真崎ら郡司参事官ノ説得ニ封シテ一部ノモノハ強硬
 尚解決シ居ラズ”

海軍は、決起部隊が説得に応じず深刻な事態に陥る可能性が高いと見ていました。

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2月28日・・・三日目 内戦の危機
朝からみぞれが降っていました。
午前5時・・・天皇が出したある命令を巡って、事態は大きく動きます。
決起部隊の行動は、天皇の意思に背いていると断定する奉勅命令です。
直ちに元の部隊に戻らせるよう命じるものでした。
事件発生当初は不安を抱く言葉を発していた天皇・・・
奉勅命令によって、自らの意思を強く示したのです。
しかし、海軍はこの天皇の意思に反する動きを掴んでいました。

11時5分・・・小藤大佐ガ戒厳司令部ヨリカケタル電話ノ傍聴

海軍が傍聴したのは、奉勅命令を決起部隊に伝える役目を担っていた小藤恵陸軍大佐の電話です。
奉勅命令を伝えるために決起部隊と面会してきた小藤・・・この結果を電話で報告している時、海軍軍令部員は傍で聞いていました。
そして、小藤が天皇の重大な命令を決起部隊に伝えなかったという事実を知ったのです。

”奉勅命令ハ師団司令部ニテ握リツブシ居レリ”

決起部隊との衝突を恐れ、奉勅命令を伝えられずにあいまいな態度を取り続けていたのです。
しかし、小藤とのやり取りや態度などから、部隊は奉勅命令を出し自分達を反乱軍と位置付けたことを知ります。
天皇が自分たちの行動を認めていないこと・・・そして陸軍上層部がもはや味方ではないことを確信したのです。
奉勅命令をきっかけに、事態は一気に緊迫していきます。
同じころ、決起部隊と面会を続けていた海軍の岡田中佐は、交渉が決裂したと報告します。

”決起部隊と海軍の関係、交渉の結果は合致することを得ず
 決起部隊首脳部より、海軍を敵とみなす
 海軍としては、直ちに芝浦に待機中の約三ケ大隊を海軍省の警備につかしめたり”

天皇に背いたとみなされ、陸軍上層部からも見放された決起部隊・・・
期待を寄せていた海軍とも交渉が決裂し、敵対関係になり、絶望的な状態に陥ります。
鎮圧に傾く陸軍、そして海軍陸戦隊・・・。
決起部隊との戦いが現実のものになろうとしていました。

全軍にガスマスクを・・・
市街戦で催涙ガスが使われる可能性があるとして、ガスマスクが陸戦隊に配られました。

攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思わぬ連絡が入ります。
決起部隊の首謀者のひとり磯部浅一が、ある人物との面会を求めてきました。
海軍はこの極秘情報を入手!!

”決起部隊の磯部主計、面会したき申し込み 山下大尉”

陸軍近衛師団の山下誠一大尉でした。
磯部の二期先輩で、親しい間柄でした。
山下がいる近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊です。
追いつめられた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手掛かりを求めてきたのです。
二人が面会したのは文部大臣官邸でした。
天皇のために決起した自分達を、なぜ、鎮圧するのか?
磯部は問いました。
「命令により出動した」by山下
一方山下は、決起部隊から攻撃することになった場合、磯部はどうするのかと問いかけます。
「空中に向けて射撃するつもりだ」by磯部
天皇を警護する近衛師団に向かって発砲することはできないと言った磯部・・・
しかし、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないと考えていました。
「我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか?」by山下
「断じて反撃する決心だ」by磯部
山下は説得を続けますが、二人の溝は次第に深まっていきます。

「我々からの撤退命令に対し、なぜこのような状態を続けているのか}by山下
「本計画は、十年来熟考してきたもので、何と言われようとも昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず」by磯部
もはやこれまでと悟った山下は、
「皇族の邸宅を傷つけないように気をつけろ」
とだけ磯部に告げました。
極秘文書に記録された二人の会話はここで終わっています。

共に天皇を重んじていた二人・・・再び会うことはありませんでした。
説得工作が失敗すれば総攻撃するという陸軍情報部の計画が、現実味を帯びていきます。
天皇に訴える道筋が、次々と絶たれていった決起部隊・・・
自分達は天皇に背いたわけではないと、市民に向け主張し始めます。
極秘文書には、現場の緊迫した状況が書かれています。

決起部隊の拠点・・・料亭・幸楽。
集まった群衆に対し、自分たちは間違っていないと主張していました。

”一日モ早ク悪イモノヲ殺ス
 国民ノ腹ノ底ニアル考ヘヲ 我々カ寛行シタノタ
 上御一人ヲシテ御安神遊サル様
 国家皆様モ安心シテ生活スルコトカ出来ル様ニ 出動シタモノテアル”

天皇と国民のために、クーデターを起こしたと訴える決起部隊・・・
事件の詳細を知らされていない人々の発言も残されていました。

「是レカラ尚国賊ヲヤッテ仕舞ヘ」
「腰ヲ折ルナ」
「妥協スルナ」
「諸君ノ今回ノ働キハ 国民ハ感謝シテ居ル」

2月29日・・・四日目 最後の賭け
午前2時40分・・・安藤・新井両部隊は、秩父宮電荷を奉戴し、行動す・・・。
決起部隊が皇族に接触しようとしているという情報が飛び交い、鎮圧側は大混乱に陥ります。

「安藤大尉の一行が、「トラック」にて東久邇宮邸に向かうとの情報あり
 霊南坂方面にトラック20台・・・
 突破せられざるよう、極力阻止要す」

決起部隊のトラックが包囲網を破ったという情報も入ってきました。
鎮圧部隊は皇族の邸宅周辺に鉄条網を設置、戦車も配備して守りを固めます。

午前6時10分・・・
決起部隊が現れたのは、天皇を直接補佐する皇族の邸宅でした。
陸軍参謀総長・閑院宮です。

氷点下まで冷え込んだ中、決起部隊は閑院宮を待ち続けていました。
閑院宮をを通じ、天皇に決起の想いを伝えることに一縷の望みを託していたのです。
しかし、閑院宮は現れませんでした。
決起部隊は、昭和天皇に決起の本当の意図を理解してもらいたいということで、天皇に近い皇族に接触をしようとしていました。

早朝・・・陸軍はついに鎮圧の動きを本格化させます。
海軍司令部は、周辺住民に避難を指示!!
住民1万5000は、着の身着のまま避難所へ・・・。
武力行使に備え、劇場や学校など頑丈な建物に身を寄せます。
一触即発となった鎮圧部隊・・・そして決起部隊・・・
東京が戦場になろうとしていました。

兵士の多くは、事前に詳細を知らされないまま上官の命令に従っていました。
国会議事堂に迫りくる戦車の音・・・決起部隊は自分達が鎮圧の対象となっていることに気付きます。
引き金をひけば玉が出る・・・どうして撃ち合わなければいけないんだろう・・・。
同じ日本人同士なのに・・・!!

陸軍の鎮圧部隊も、戦地とおなじような感情を抱いていました。
もし撃ち合いになったら・・・??

海軍陸戦隊は、攻撃準備を完了していました。
実行直前だった陸戦隊の作戦内容が極秘文書にありました。

「攻撃目標 内務省 外務省間の道路上の敵
 進撃命令はラッパ符「進め」
 本大隊(陸戦隊)の全部を率い、直ちに出撃し、敵を撃滅す」

この時、第一艦隊は、東京芝浦沖に集結していました。
極秘文書に記された第一艦隊の配置・・・一線に並んだ戦艦・・・世界最大級の主砲を供えた戦艦長門など、第一艦隊は命令を待っていました。
もし、決起部隊との戦闘が始まったら・・・海軍軍令部は、状況次第ではある作戦の実行を想定していました。

「艦隊から国会議事堂を砲撃」

当時、対処に当たっていた軍令部員の名前が残っていました。
矢牧章中佐・・・艦隊が攻撃することになった場合の重大さを証言しています。

「芝浦沖から国会議事堂まで4万メートル飛ぶ・・・
 陸軍(決起部隊)がもし考え違いして「やろうじゃないか」なら・・・千代田区は無くなってしまう・・・」

天皇は、時々刻々と入る情報を聞き取り続けていました。
事件発生から4日間・・・鎮圧方針を打ち出して来た天皇・・・最終版・・・陸海軍の大元帥としての存在感が高まっていました。
午前8時10分・・・戒厳司令部情報・・
ついに、陸軍鎮圧部隊による攻撃開始時刻が決定します。
8時避難完了・・・8時30分攻撃開始・・・!!
攻撃開始に当たり、戒厳司令部がラジオで流したニュースの内容が極秘文書に残されていました。

「戒厳司令部発表
 南部麹町付近に銃声聞こえるやもしれず
 市民は落ち着いて低いところに居てください
 建物などの援護物を利用し、銃声の反対に居るが安全なり」

いつ攻撃が始まるかもわからない中、海軍は最前線で様子を探っていました。
その時、追いつめられていた決起部隊の変化に気付きます。

「10時5分頃、陸軍省入り口に於いて、決起部隊の約一ヶ小隊重機銃二門 弾丸を抜き整列せり
 三十名の決起部隊降伏せり
 
 11時45分、首相官邸屋上の「尊皇義軍」の旗を降せり
 12時20分、首相官邸内に万歳の声聞ゆ」


最後まで抵抗を続けていた決起部隊に海軍は注目していました。
12時40分・・・残るは山王ホテルの250名
指揮官安藤・・・安藤輝三大尉の部隊・・・鎮圧部隊は攻撃を決めました。
最後の指揮官の安藤の一挙手一投足が書かれています。

安藤大尉は部下に対し、君達はどうか舞台に復帰してほしい
最後に懐かしい我が六中隊の歌を合唱しようと自らピストルでコンダクトしつつ中隊歌を合唱
雪降る中に第一節を歌い終わり、第二節に移ろうとする刹那、大尉は指揮棒代わりのピストルを首に・・・
合唱隊の円陣の中に倒れた

14時25分、戒厳司令官より軍令総長あてに、午後1時平定・・・

日本を揺るがした戦慄の4日間・・・
陸軍上層部は、天皇と決起部隊の間で迷走を続けました。
事件の責任は、決起部隊の青年将校や、それにつながる思想家にあると断定・・・
弁護人なし、非公開、一審のみ、の暗黒裁判ともよばれた軍法会議にかけました。
事件の実態を明らかにしないまま、首謀者とされた19人を処刑したのです。
陸軍は、組織の不安は取り除かれたと強調、一方で、事件への恐怖心を利用し、政治への関与を強めていきます。

現に目の前で、何人も斬り殺され、銃で殺される事件を見て・・・
政治家も財界人も、陸軍の言うことに対し、本格的に抵抗する気力を失っていきます。
これが二・二六事件の一番のその後の大きな影響力の最たるものです。

34歳で事件に直面した天皇・・・
軍部に軽視されることもあった中、陸海軍を動かし、自らの立場を守り通しました。
クーデター鎮圧の成功は、結果的に天皇の権威を高めることにつながります。
二・二六事件を通して、軍事君主としての天皇の役割がすごく強くなってしまって、天皇の権威、神格化が進んでいったのです。
二・二六事件後、日本は戦争への道を突き進んでいきます。

高まった天皇の権威を軍部は最大限に利用。
天皇を頂点とする軍国主義を進めていきます。
軍部は国民に対して命を捧げることを望んでいきます。
昭和16年真珠湾攻撃・・・日本は太平洋戦争に突き進んでいきます。
天皇の名のもと、日本人だけで310万人の命が奪われました。
壊滅的な敗戦・・・二・二六事件から、わずか9年後のことでした。

戦後、天皇は忘れられない出来事を二つ挙げています。
終戦時の自らの決断・・・そして・・・二・二六事件。

戦後天皇が、もしこの事件をおもいを持っていたとすれば、これは後の戦争に突き進んでいく一つの契機になった事件・・・自分が起こした強い行動は、戦争に突き進んでしまった要因の一つではないか?と、戦後色々な思いを持っていたのかもしれません。

晩年、天皇は2月26日を慎みの日とし、静かに過ごしたといいます。
二・二六事件を記録し続けた海軍・・・その史実を一切公表することはありませんでした。
どうして海軍は、事実を明らかにしなかったのでしょうか?

極秘情報・・・
海軍が事件前に入手した情報です。
その内容は詳細を極めていました。
2月19日・・・事件発生の7日前・・・東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に機密情報をもたらしていました。

「陸軍、皇道派将校らは、重臣暗殺を決行する
 この機に乗じて、国家の改造を断行せんと計画」

襲撃される重臣の名前が明記されていました。
襲撃の木城となり得るのは、岡田首相、斎藤内府、高橋蔵相、鈴木侍従長等なりと・・・
そして次のページには首謀者の名前も書かれていました。

香田清定・栗原安秀・安藤輝三

事件の1週間前に、犯人の実名までも海軍は知っていたのです。
海軍は、二・二六事件の計画を事前に知っていた・・・
しかし、その事実は闇に葬られていました。
その後、起きてしまった事件を記録した極秘文書・・・
そこに残されていたのは、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿でした。

事実とは何か・・・??
私たちは、事実を知らないまま再び誤った道に歩んではいないか・・・??
時を超えてよみがえった最高機密文書・・・
向き合うべき事実から目を背け、戦争に突き進んでいった日本の姿を今、私たちに伝えています。

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今から80年ほど前の首都・東京で、昭和の日本を震撼させた事件が起きました。
舞台は政治の中心・永田町周辺・・・。
平均年齢27歳。陸軍の青年将校二十数人が企てた2.26事件です。
総勢1483人の部隊が、僅か数時間で帝都の中枢を占拠しました。

1936年2月26日・・・東京は一面の銀世界、夜明け前・・・静寂の中にある東京の街で、えもいわれぬ緊張感が・・・
陸軍第一師団歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊です。

東京六本木にある国立新美術館・・・かつて、ここに決起した青年将校たちの多くが所属した陸軍第一師団の兵舎がありました。
昭和11年2月26日、午前4時半ごろ・・・永田町に向けて決死の覚悟で出発したのは27歳の栗原安秀中尉率いる第一師団歩兵第一連隊273人。
彼等の標的は、時の総理大臣・岡田啓介でした。
5時頃、首相官邸に到着。
総理官邸を包囲し、挺身隊が塀を乗り越えて中から鍵を開け、決起隊を中に入れると・・・彼らは屋敷の窓を壊して侵入・・・護衛警官の大半を軟禁し、一部の警官と銃撃戦をすると、岡田総理を探し回ります。
すると・・・一人の兵士が中庭に逃げていく老人を発見、発砲します。
まだ息があるのを確認した栗原中尉は、兵士にとどめを刺させ、すぐさま部屋に会った写真と見比べ、本人であると判断!!
そして、総理官邸を占拠してしまったのです。
この間、僅か1時間ほどでした。
青年将校たちは、時を同じくして5カ所で襲撃事件を起こしていました。
赤坂に向かったのは、中橋基明中尉率いる第三連隊125人!!
標的は、高橋是清大蔵大臣でした。
2階で寝ていた大臣を襲い、軍刀で切りつけ殺害します。

天皇の側近たちも標的に・・・。
安藤輝三大尉率いる第三連隊200人は、麹町にある鈴木貫太郎侍従長官邸でした。
取り囲まれると、鈴木貫太郎は「話せばわかるから・・・」といったといいます。
しかし、「問答無用!!」と、拳銃でこめかみと腹部を撃たれ倒れました。
安藤大尉は鈴木侍従長を寝床に運ばせ一部始終を正座をして見ていた夫人に・・・
「最後のトドメを刺させていただきます。」by安藤
「どうかトドメだけは待ってください。」by夫人
「では・・・これ以上のことは致しません。」by安藤
このことが幸いし、鈴木侍従長は一命をとりとめます。

内大臣・斎藤実の自宅を襲撃したのは、坂井直中尉率いる第三連隊で215人で、立ちはだかる夫人を押しのけて、40発以上もの銃弾を内大臣に浴びせます。
これに参加していた高橋少尉と安田少尉は、30人の兵を引き連れ、杉並の荻窪に会った教育総監へと向かいます。
教育総監とは、陸軍大臣、参謀総長と並ぶ陸軍三長官のひとりで、この時の教育総監は渡辺錠太郎でした。
事件の日、渡辺は娘と一緒に寝ていました。
襲撃の一部始終を目撃していた娘・和子は・・・
「私は、兵士たちの声で目を覚ましました。
 父を見ると、枕元においてあった拳銃を構えていました。
 立てかけてあった座卓の後ろに行くように目で促したため隠れると、父は少し安心したような顔をしました。
 それから間もなくして、隣の部屋の襖がほんの少し空いたかと思うと、軽機関銃の重臣だけのぞかせて、父の足をねらって撃ったのです。
 父は銃の名手で3発ほど応戦しましたが、命は奪えませんでした。
 それなのに彼らは、父にとどめを刺して引き上げていきました。」

決起部隊は、要人を暗殺するだけではなく、警視庁も占拠、朝日新聞社を襲撃、陸軍大臣官邸を占拠・・・青年将校らは、僅か数時間で永田町周辺を占拠してしまったのです。

陸軍の青年将校ら1483人が起こした2.26事件・・・。
彼等は次々と政府要人を襲撃していきます。
その武力蜂起の理由とは・・・??
青年将校たちは、永田町の一角の陸軍省へも向かいます。
そして、敷地内にあった陸軍大臣官邸を占拠。
川島義之大臣の面前で、用意してきた決起趣意書を読み上げます。

当時の日本は世界恐慌のあおりを受けていました。
主力の輸出品であった生糸とコメの価格が大暴落。
追い打ちをかけるかのように、東北、北海道を大凶作が襲います。
長引く不況にもかかわらず、政治家は財閥と癒着し、私利私欲をむさぼるばかり・・・。
青年将校たちは、そんな政治に不審を募らせていきました。
更に彼らは、世界的に軍備縮小の機運が高まっていたことに大きな不安を覚えていました。
浜口雄幸内閣は、平和外交へと舵を切り、1936年ロンドン海軍軍縮条約締結・・・アメリカ、イギリスとむすびます。
岡田内閣では、大蔵大臣の高橋是清がこれ以上軍事予算を増やすことはできないと発言していました。

軍備を拡大しないと、大国ソ連の脅威にさらされてしまう!!
青年将校たちは、軍部中央を助けるために決起したと思っていたでしょう。
軍部拡大を拒む政治家たちを排除し、昭和天皇の元、軍部による新しい政治を・・・と考えたのです。
自分達の手で昭和維新を成し遂げるのだ!!と。

青年将校たちは順調に事が運んでいると思っていました。
しかし・・・総理官邸で・・・。
写真で死亡確認した人は、岡田総理ではありませんでした。
彼等が射殺したのは、義理の弟で総理大臣秘書官だった松尾伝蔵でした。
二人はよく似ているといわれていました。

襲撃の時、総理本人は・・・??
襲撃に一早く気付いた松尾伝蔵によって寝室を抜け出し、風呂場に身を隠していました。
その後、中庭に逃げた伝蔵が間違われてしまったのです。
岡田総理は隙を見て女中部屋に隠れ、押し入れに入って洗濯物に紛れて息をひそめていました。
そのことをもう一人の秘書官・迫水久常が知ったのは襲撃から3時間以上たった8時半ごろ・・・
占拠する将校に頼み込んで、総理の亡骸を確認する為に官邸内に入ることを許された迫水は、女中に「ケガはなかったか?」と、声をかけます。
すると女中はしきりに押し入れの方を気にしながら、「お怪我はありませんでした。」
迫水は岡田総理が無事であることを確信しました。
午前11時過ぎ、迫水は決起隊の包囲網をかいくぐり宮内省へ向かうと、岡田総理が生存していることを報告。
そして、宮内大臣に総理大臣救出のための近衛師団の出動を要請します。

「しかし、近衛師団長にこのことを話せば、陸軍の将官たちの耳にも入るかもしれぬ。
 彼らはどっちの味方かわからんから、非常に危険だ。」

そう忠告を受け、迫水は断念・・・救出を考えながら、時間は過ぎていきます。
そんな中、海軍大臣が宮内省にやってきます。
すぐに救出の相談をするものの・・・
「とんでもない、そんなことをして、海軍と陸軍の戦争になったらどうする!!」
きっぱりと断られてしまいました。
その頃総理官邸では、岡田総理のいびきを隠すため、女中が寝たふりをして骨を折っていました。
迫水に救いの手が差し伸べられたのは翌日の事・・・。
軍事警察である憲兵たちが救出を手伝うと申し出てきたのです。
憲兵たちは襲撃直後総理官邸に急行、岡田首相が生存していることを密かに確認していました。
迫水は青年将校たちに交渉します。
岡田首相の家族や慰問客が首相官邸に入ることを認めてほしいと交渉します。
その弔問客に紛れさせて首相を救出しようというのです。
許可を得て、憲兵と弔問客が官邸内に・・・。
すぐさま、総理に礼服に着かえてもらい、目がねとマスクで変装。
岡田総理は嘆き悲しむ弔問客を装いながら、憲兵に抱きかかえながら玄関へ向かい無事脱出しました。

陸軍の青年将校が武力蜂起した2.26事件・・・。
26日に青年将校たちは、早朝から午前中にかけて政府要人を襲撃し、警視庁、陸相鑑定などを占拠。
それから事件収束まで4日を擁することになります。
彼等の決起という未曽有の事態に困惑したのは陸軍上層部でした。
川島陸軍大臣召集の元、この事態をどう治めるのかが話し合われました。
一部には武力討伐を主張する強硬派もいましたが、ひとまず説得による撤退をさせようとします。
この決断には、青年将校たちが占拠していた場所に関係していました。
皇居に砲弾が飛び込むようなことは絶対に避けたかったのです。
在外公館もあり、国際問題にもなりかねませんでした。
穏便に済ませたかったのです。
さらにこの時、上層部には思惑がありました。
青年将校たちの決起を利用して、自分たちの思い通りになる内閣を作ろうと考えていました。
陸軍上層部は、決起部隊に文書を届けます。
「陸軍大臣告示」・・・そこには、
決起の主旨については、天皇陛下のお耳にも届きつつある。
諸君らの行動が国を守り、確固たるものにしようという熱い思いに基づいていることは認める
これを聞いた多くの青年将校たちは、決起の主旨が天皇陛下にまで届いた、自分たちの行動が認められたと湧きたちます。
昭和維新の道が開けたのだ!!と。

2月27日午前3時ごろ・・・厳戒令公布
事態に対応する為に、九段の軍人会館に戒厳司令部が設置されます。
司令官についたのは、香椎浩平陸軍中将でした。
香椎司令官は、青年将校たちに決起部隊に命令います。

「戒厳部隊下に入り、麹町地区の警備にあたれ。」

これは、青年将校たちを反乱軍ではなく、友軍として自らの指揮かに置くというものでした。
友軍によって、決起部隊の勝手な行動を抑えられるのでは・・・??
穏やかにさせたうえで、青年将校たちを説得し、撤退させようとしたのです。
宮中にも穏便な解決に向けて動いている男がいました。
陸軍大将で軍部の人間として常に天皇に仕えていた侍従武官長の本庄繁でした。
当初から青年将校たちの考えに理解を示していた本庄は、天皇陛下に理解してもらおうと尽力します。
27日・・・本庄侍従武官長は天皇陛下に訴えます。

「かれら将校の行為は、陛下の軍隊を勝手に動かせしものにして、統帥権を犯す甚だしきものであり、もとより許されないことです。
 しかしながらその精神は、陛下と国家を思うあまりのものであり、必ずしも咎める事ではないかと思うのですが・・・。」

「朕が最も頼りにする老臣を殺戮したことは、真綿にて朕の首を絞めることと等しき行為である。」

天皇は怒っていました。

しかし、本庄侍従武官長はこの日、13度も天皇の前に出て訴えたといいます。

「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧にあたらん!!」by昭和天皇

昭和天皇は、最後まで青年将校たちに同情することも同調することもありませんでした。

「陸軍大臣告示」は、上層部が考えた詭弁でした。
実際には天皇は強く反発していたのです。
昭和天皇は、側近であった斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長が斬殺、襲撃されたことに強い怒りを感じていました。
若い青年将校たちが政治に口を出すことに強い権を漢を持っていました。
早く鎮圧することを望んでいたのです。

青年将校は、国家のためにやったことなので、昭和天皇に自分たちの思いが伝わると思っていたのです。
天皇の怒りを買ってしまったことは、青年将校たちにとって大きな誤算であり、衝撃でした。
天皇の支持を得られなかったことは、青年将校たちの決起が失敗に終わる大きな要因でした。
が・・・ほかにも要因はありました。

2.26事件の裁判記録は、公開後も閲覧は厳しく制限されてきましたが・・・。
そこには意外な事実がありました。
高橋是清大蔵大臣を襲撃した中橋基明中尉は、裁判で蹶起趣意書について聞かれると・・・
「決起後、総理官邸で見ました!!」
蹶起趣意書もみずに事件を起こしていたのです。
中には蹶起の理由さえわかっていない者もいました。
決起隊のメンバーは、一枚岩ではなかったのです。
中心メンバーでも、決起の時期についても意見が分かれていました。
磯部浅一によると・・・
安藤輝三大尉は時期尚早と思っていたようです。
安藤は青年将校のリーダー格でしたが、決行を決意したのは最も遅かったのです。
それまででも、軍部の青年将校たちが政治家や軍幹部を襲撃する事件が頻発していました。
安藤は軍の上層部と「武力蜂起を起こさない」と、約束をしていたのです。
決起隊1483人のうちの半分以上が安藤の兵でした。
安藤無くして計画の成功はありませんでした。
磯部は、一生懸命蹶起の必要性を安藤に説きます。
青年将校たちの間でかなり激しい論争があり・・・結局強硬派に押し切られて蹶起したのです。
青年将校たちの結束が強くなかった事、意見の相違があったことが蹶起失敗のもう一つの原因でした。
2月28日午前5時、奉勅命令発令!!
「決起部隊は所属原隊に帰れ」
それは、帰らなければ討伐するという最後通告でした。

驚いたのは、青年将校たち決起部隊でした。
自分達は官軍でその行動を認められていると思っていたのに、突然反乱軍となってしまったのです。
彼らの行動を半ば容認していた陸軍も、大元帥である天皇の命令により、手のひらを返したように決起討伐へと向かうのです。
事件発生から3日・・・戒厳司令部は青年将校たちが占拠する永田町界隈に、2万人の鎮圧部隊を出動させ完全包囲!!
周囲の交通、通信機関を遮断するように命令!!
そのうえで撤退するように最後まで説得を試みますが、青年将校の殆どが応じませんでした。
占拠している総理官邸からは、自分たちを鼓舞する万歳や軍歌が・・・。
街頭に出て演説をする者も・・・。
しかし、頑なに見えた決起部隊が、銃撃戦を交えることなく帰っていくこととなります。
28日深夜・・・反乱軍となった決起部隊の一部が戒厳司令部に連れてこらたときのこと・・・。
「おまえらの上官は、間違った考えから恐ろしい反乱を起こして今や逆賊として討伐されようとしているのだ。
 それでもお前らは、その上官の命令に従うのか??」戒厳司令部参謀
「どうしてよいかわかりません。」by兵士
兵士たちは今にも泣きだしそうな顔をしていました。
そんな尋問の様子をじっと聞いていたのは・・・陸軍省新聞班の大久保弘一少佐でした。
「彼等は本当のことを知らないんだ・・・何も知らずに上官に引きずられているだけなんだ・・・」
大久保は、何も知らずに蜂起させられた兵士たちに現状を教え、撤退を促すビラを撒くことに・・・。
すぐさま彼らの気持ちを動かす文面を考え批准勧告の原稿を書き上げて3万枚を刷ります。
翌29日午前8時過ぎ・・・飛行機から永田町に撒かれました。

「下士官兵に告ぐ
 今からでも遅くはないから原隊へ帰れ
 抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する
 お前たちの父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ」

何が起こっているのか、何をしているのかわからなかった者たちにとって、このビラは絶大な効果を・・・。
ラジオも流され、「手向かわないように」と、ビルの上にアドバルーンがあげられました。
午前9時30分・・・決起隊の一部が帰り始めたとの報告が入りました。
次々と部隊は帰っていき、午後3時、戒厳司令部が事件の終結を宣言!!
首都東京を震撼させた大事件が幕を閉じたのでした。

蹶起した青年将校たちの裁判が行われたのは、事件から2か月たった4月28日。
軍法会議によって裁かれることに・・・
非公開、弁護人なし、上告なし(一審制)という厳しいものでした。
政府や陸軍は青年将校たちの論争を封じるために、迅速に片付けようとしたのです。
死刑17人、無期懲役5人、有期禁錮2人
その僅か1週間後・・・1936年7月12日死刑執行
事件後内閣は総辞職し、廣田弘毅が第32代内閣総理大臣となります。
が・・・思わず事件の余波が・・・
軍部に逆らうと、武力蜂起するかもしれないという恐れから、政治家たちは発言を抑えるようになったのです。
陸軍の責任は免罪されてしまいました。
そして、陸軍は組閣の人選にまで横槍を入れる用に・・・
内閣に圧力をかけ、軍部大臣現役武官制・・・陸軍、海軍大臣は、現役の大将・中将に限るという制度まで認めさせてしまいました。
”軍部の意向に沿う内閣でなければ、軍部から大臣を出さない”といわれる可能性があり、この後軍備拡大の時代へと突き進んでいくのです。

この事件の後、日本の軍国主義は急激に加速!!
そして、戦争の泥沼へとはまっていくのです。
歴史の大きな転換期に起こった2.26事件・・・もしこの事件が成功していたら、日本はどうなっていたのでしょうか?
起こらなかったらどうなっていったのでしょうか?
戦争へと突き進んでいった軍部。
2.26事件から5年後には太平洋戦争が開戦。
しかし、徐々に敗戦の色が濃くなっていきます。
そんな中、総理大臣に就任したのが、2.26事件で奇跡的に一命をとりとめた鈴木貫太郎でした。
鈴木は、軍部の強い反対にあい、再び命を襲われる危険にありながらも、戦争を終わらせ、日本に平和を取り戻したのです。

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1936年2月26日・・・東京に鳴り響いた銃声・・・
それは、二・二六事件でした。
政府の要人たちが陸軍青年将校によって殺害された事件です。
それは、前代未聞の反政府クーデターでした。
korekiyo東京には戒厳令が施行され、緊張と不安が世を覆いました。
そして。。。その凶弾に斃れたのが高橋是清。
戦前の日本経済に命を懸けた稀代の財政家でした。

昭和初期の好景気は・・・生涯で7度の大蔵大臣を歴任し、国民の生産性向上に尽くした是清の財政手腕でした。
国民から支持を得ていた是清・・・。
しかし、大きな壁が・・・それは、軍部との対立でした。
軍部は多額の軍事予算を要求し・・・しかし、是清は膨大な軍事予算は国家予算の破たんを招くと大蔵大臣として戦いに挑むのです。
是清は何を目指し、何を守ろうとしていたのでしょうか??


民力重視の積極財政で日本に未曽有の経済発展をもたらした高橋是清・・・。
その理念は波乱万丈な生涯によるものでした。
人一倍勉学に励んだ是清は、13歳でアメリカに留学。
ところが・・・何も考えずに契約書にサインをしてしまったことから奴隷のように働かされる羽目になります。
それが・・・外国と対等になるために・・・独自の力を養うことになるのです。
英語力に磨きをかけた是清は・・・明治政府の目に止まり、殖産興業を支える財政家の道を歩むことになるのです。

銀行の世界で類まれな能力を発揮していきます。
その理念は・・・富国裕民です。
資金投入の目的は、民間活力を活性化させるため!!と、考えていたようです。
国民の力を引き出す=富国に繋がるのです。

国民の生産力の向上を目指します。
国民の期待と信頼を受けて”ダルマの宰相”と呼ばれました。
71歳の時には政界を引退するも・・・経済危機が日本を襲います。
第一次大戦後の長引く不況で・・・第27代浜口雄幸内閣が発足します。
この時の大蔵大臣は井上準之助。。。改革に打って出ますが・・・それは、大緊縮財政でした。
その背景には・・・金本位制への参加という目的がありました。
通貨の価値と信用を”金”で保証するもので、西欧と対等に渡り合うためのスタンダードでした。

この時・・・日本は日露戦争に要した戦費の返済が迫っていたもののお金もなく・・・経済の信用回復・・・金本位制への参加が不可欠だと考えていました。
経済の健全化・・・節約と倹約が第一の世となっていきます。
日本の信用回復のために・・・!!

そこに未曾有の危機が・・・!!
1929年10月ニューヨーク市場で株価が大暴落・・・。
世界大恐慌が起こると、日本を直撃!!
そんな真っ只中で、金本位制への参加が決断されました。
緊縮財政によって企業は次々と倒産・・・生糸の輸出も激減し、地方も大打撃を受けます。
町は失業者であふれ・・・貧困から娘を売るひとも後を絶ちませんでした。
経済の大混乱を受け、浜口雄幸内閣は総辞職・・・。

そして、1931年民政党のライバル・政友会の犬養毅が総理大臣となり・・・
日本を救ってほしいと大蔵大臣を依頼される高橋是清でした。
この時、是清77歳、5度目の大蔵大臣就任でした。

「日本が沈没するのを黙って見ている訳にはいかない・・・!!」

そして、是清は日本経済の復活のために積極財政へ・・・!!
金本位制からの離脱。。。
経済のグローバルスタンダードから離れた円の価値は急落しますが・・・それが狙いでした。
円の急落は、日本の輸出品の価格を下げ・・・輸出増加が経済に復活をもたらします。
また、低金利政策・・・金融緩和を打ち出します。
前向きとなった人々・・・それは、国民の力を最大限に引き出した富国裕民でした。

「確かに世界情勢も大事だ。
 しかし、産業の力を衰退させることは好ましいことではない。
 産業が衰退すれば、仕事が減り雇用も無くなり、国民生活は疲弊の一途を辿る。
 国の経済と、個人の経済とは分けて考えなくてはならない。
 大切なことは、日本人が自主的に考えることである。」

崩壊寸前だった日本経済を救いだした是清・・・一大政策を打ち出していきます。
”日銀の国債引き受け”です。
公共事業などの費用を捻出するために国が発行する国債・・・。
国債は市場で取引されるものでしたが・・・是清は日銀に直接買わせて、公共事業へ投資します。

2261

















長引く不況で疲弊しきっていた地方の農家の救済が待ったなしだったからです。
日本経済史上まれにみるカンフル剤が打たれることとなりました。

新しく発行された国際は、総額6億7000万円。。。
当時の国家予算歳入の1/3に当たりました。
巨額の資金は、公共事業や重工業に投資、雇用の創生と地方の活性化に役立ちます。
そして・・・国債も全て・・・銀行へと買い取られていったのです。

日本の国力は一気に目覚め、世界の中で日本だけが復活し、昭和初期の大衆消費社会が誕生したのです。
しかし・・・国債引き受けには、未来への危険を含んでいました。
それは・・・悪性のインフレーションでした。
深刻なダメージを避けるには・・・??
その判断が是清に託されたのです。


このまま国債を発行することはできない・・・。
時期を見て発行を控えていこうとする是清。
ところが、大きな壁が・・・発言力を強めて来ていた軍部でした。
1931年満州事変。
世界的な軍縮の中・・・大陸での権益確保とソビエトに対抗しようと強力な軍拡を進めていました。
陸軍大臣・荒木貞夫が軍事費の大幅増額を直談判する異例の事態が起こります。

1934年・・・日銀副総裁・深井英五から重要な情報が・・・
民間の国債購買力が低下してきたというものでした。

「既に日本は、国債に頼らないほど回復している。
 にもかかわらず、このまま国債を発行し続ければ間違いなく悪性のインフレーションが起こる」by英五

国債を減らし、財政健全化へと舵を取るときがきたのです。
しかし、軍部は今まで以上に国債を発行させようとします。
政界には軍部の横行が目立ってきていました。
暗殺されていく要人・・・総理大臣でさえ軍部にはたてつけない・・・??

国債削減のみで財政健全化を図る??
増税による財政健全化を図る??

1935年6月・・・予算編成方針大網を発表。
増税計画が政府に組み込まれました。
ところが・・・この増税案は、数日の間に撤回されます。
是清の考えで、国債の削減のみで行うことになったのです。
財政健全化と軍事予算の問題を解決するために、国民経済を犠牲にすることはできない・・・!!是清の決断でした。
軍事力の過大な拡大は富国を妨げる・・・国民の豊かさを追求していくというのが是清の考えだったのです。

そして1936年緊縮予算が発表され・・・軍部との交渉の矢面に立つことになってしまった是清。
「今の日本は民間の力を充実させることが先決だ。
 日本は世界に於いて天然資源も少なく、国力の豊かならざる国であるから、予算も国力に応じたものを作らねばならぬ。」

予算を巡る軍部の攻防・・・そこには孤軍奮闘する是清がいました。
11月29日・・・最後の予算折衝が行われました。

是清は・・・「国際派増発はしない。軍部は要求額を引き下げるべき」としました。
軍部は・・・「軍事戦略上、これ以上の妥協はできない。」

予算折衝の結果・・・是清に折れた軍部なのでした。
予算は総額22億7200万円で、軍事費は10億600万円。
悪性インフレを回避する最大の課題はクリアしました。
そして・・・誰もが是清を称えたのですが・・・そんな是清に憎悪したのが軍部の青年将校たちでした。

1936年2月26日早朝・・・。
226

政府要人たちの命が失われる二・ニ六事件が起きました。
青年将校たちの多くは・・・都市との格差が広がりつつあった地方の貧しい農村の出身でした。
憤懣が・・・!
青年将校たちは是清の自宅を襲撃・・・!!
暗殺されたのでした。


それは・・・日本の財政とその後の歩みを大きく変えてしまった瞬間でした。



陸軍青年将校の凶弾に斃れた高橋是清・・・。
護衛をつけるようにと言われていたのに断って・・・普段の生活をしていました。
激務の中、家族との時を楽しんだと言います。

「武備を柱とした平和は一時的なものであって、永久の平和は各国民が互いに信頼するということにおいてのみ求め得られる。
 例えば、一家和合ということは、一家族が互いに信頼することから起こる。
 経済界に於いても、同様の信頼があってこそ、繁栄を見ることができるのである。」

是清を失った日本は・・・
翌年、盧溝橋事件・・・日中戦争が始まり・・・太平洋戦争へ・・・アメリカとの泥沼の戦争へと突き進んでいきます。
この戦費を賄ったのが、大量の国債でした。
戦争へと突き進む日本・・・。

日本の健全な経済発展を望んでいた高橋是清。

「経済界のことというものは、何人たりといえども永き将来に渡って、確実に的確に予想することができるものではない。」

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二・二六事件―青年将校の意識と心理

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回顧七十年 (中公文庫)[本/雑誌] / 斎藤隆夫/著

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1941年12月8日太平洋戦争開戦。
日本は、連合軍との戦いに進んでいきます。
その1年前・・・帝国議会は、軍部の大きな影響下にありました。
そんな強力な権力の前に立はだちはだかった国会議員は・・・斎藤隆夫。
斎藤はこれまでも、軍部に告いできた国会議員でした。

当時、厳しく追及していたのは、日中戦争の早期解決でした。
日本は中国軍の強力な抵抗にあって戦いは泥沼化していたのです。
国家予算の3/4が軍事費に充てられ、国民の生活も疲弊していました。
多くの政治家が沈黙する中・・・斎藤隆夫は・・・??
太平洋開戦前夜の1940年・・・「反軍演説」をします。

はじまりは・・・
1936年2月26日早朝の東京で・・・陸軍の青年将校がクーデターを起こします。
二・二六事件です。
総理大臣鑑定などが襲われ、大蔵大臣・高橋是清、内大臣・斎藤實、陸軍教育総監・渡辺錠太郎の命が奪われました。
陸軍上層部に通じている者が・・・??軍部の暴挙に政界は声を失います。
その2か月後・・・5月7日に帝国議会において二・二六事件の処理について厳しく問い詰めた人物が・・・民政党代議士・斎藤隆夫でした。

saitou
「軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります。
 殊に青年軍人の思想は、きわめて純真ではございまするがまた、単純である。
 それ故に、是等の人々が政治に干渉すると云ふことは、きわめて危険性を持って居るものであります。

 この事件に関係致しました所の青年将校は、20名であるのであります。
 所が此れ以外に、より以上の軍部首脳者にして此事件に関係して居る者は一人も居ないであろうか。
 世間は確に之を疑って居るのであります。」


軍部の姿勢を正したこの演説は、粛軍演説と言われています。
陸軍大臣も、軍部の責任を認めざるを得ませんでした。
この演説は、がぜん注目され、全文が”軍部に告ぐ”として出版されました。
軍部に抗った斎藤を、国民は支持したのです。


斎藤隆夫は、但馬国出石郡の寒村に・・・明治3年に生まれます。
18歳で飛び出して・・・苦学を重ねて大学を卒業し、25歳で弁護士試験に合格しました。
31歳で衣エール大学に留学。。。憲法と政治学を学び、41歳で衆議院議員・・・農村出身の庶民の政治家となります。
地元でも大人気で・・・「出石郡立憲青年党」という支援組織も結成されます。
金なし・風采なし・親分なし・子分なしの斎藤を、青年たちが手弁当で支援します。

昭和12年・・・斎藤の粛軍演説も虚しく、軍部の政治介入が続いていました。
元老・西園寺公望は、調停に乗り出します。
軍部穏健派・宇垣一成陸軍大将を次の首相候補としました。
軍人によって軍部を抑えるために・・・!!
しかし、陸軍はこれに反対し、この内閣となると陸軍大臣は送らないと決定してしまいました。
陸軍万能の時代・・・??

そう・・・戦線は拡大し、政党政治が窮地に追い込まれていきます。
昭和12年7月・・・日中戦争勃発!!
首都・南京が陥落し、日本軍は南下、戦線は拡大していきます。
中国側の抵抗にもあい、戦いは泥沼化していきます。
戦死者の数も・・・半年で2万人を越えます。

当時の近衛内閣はこの戦いに”聖戦”のスローガンを打ち出していました。
聖戦・・・日本がアジアから欧米の植民地主義者を追放する使命を持っての戦いとしたのです。
東亜共同体を作るために・・・!!

昭和13年4月・・・国家総動員法成立!!

この法律によって、政府は議会の承認なしに、物資や労働力を動員できるようになりました。
軍事費が国家予算の3/4を占めるようになり、国民の生活が圧迫されていきます。
そして・・・斎藤隆夫のもとには、どうして沈黙しているのか?という手紙が来るようになりました。
軍部を正してほしい・・・!!

演説はするべきなのか??
右翼組織からの圧力は、日増しに強くなっていきます。
議会で軍部を追求するのは、大きな危険が伴います。

今まで戦争の早期集結を主張してきていていましたがどうする??

昭和15年元旦・・・斎藤は演説を行う決意を日記に認めています。

”議会に於て 一大質問演説をなすべし”

支援者の間では、軍部を恐れ、演説を止めさせようとする声もありました。
宇垣陸軍大将からも、身辺を心配するはがきが届きました。

2月2日、第75回帝国議会に於いて・・・
日中戦争の実態から説き始めます。
「他の事ではない、この事変を遂行するに当たりまして、過去2年有半の長きに亘ってわが国家国民が払ひたる所の絶大なる犠牲であるのであります。

 即ち、遠くは海を越えて、彼の地に転戦する所の百万、二百万の将兵諸士を初めとして、内にあっては之を後援する所の国民が払ひたる生命 自由 財産 其の他一切の犠牲は、此の壇上におきましては、如何なる人の口舌を以ってするも、其の万分の一をも尽くすことは出来ないのであります。

 此の現実を無視して、唯徒に聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閑却し、曰く国民正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和。
斯の如き雲を掴むやうな文字を並べ立てて、国家百年の大計を誤るやうなことがありましたならば、これは現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない。」

議場は怒号に包まれました。
この時・・・議長が書記にメモを・・・
聖戦の・・・件を削除するようにというものでした。

斎藤は続けます。

「或る有名な老政治家が演説会場に於いて、聴衆に向かって今度の戦争の目的は分らない。何のために戦争をしているのであるか自分には分らない。諸君は分って居るか。分って居るならば聴かして呉れ。というた所が、満場の聴衆一人として答へるものが無かったと云ふのである。
 此の議会を、全国民の理解を求められんことを要求するのである。」

演説後・・・2/3が削除されました。
失言・・・斎藤の除名問題にまで発展します。
しかし、国民からは、支持する手紙が800通以上届きます。

3月7日の衆議院本会議で・・・
議員・斎藤隆夫君に対し・・・議員法第96条第1項第4号により除名す。。。
衆議院議員の2/3以上に当たる296人の賛成により除名決議が下ったのでした。
反対はわずか7人。。。

自分は国民の声を代弁したのであり、それが正しかったのか間違いだったのかは100年の後に必ず明らかになるであろう。

昭和15年10月12日大政翼賛会成立。
議員の多くがその傘下に入りました。議会は、軍部の暴走を止めることができなくなってしまいました。
昭和16年12月8日太平洋戦争開戦。。。

除名後は・・・昭和17年4月、翼賛選挙が行われました。
東条英機内閣のもとで、候補者推薦制を設けます。
斎藤は推薦を受けない非推薦として出馬。
選挙妨害を受けながらもトップ当選します。

しかし・・・政治家斎藤の居場所はなく・・・議会はその機能を失っていました。

昭和20年6月・・・空襲を受け、出石に疎開します。
8月15日太平洋戦争終結。。。
地元の中学生から荒廃した日本に対する憂いの手紙が送られてきました。
その返事には・・・??
「新日本の建設は、政治の改革からはじめねばならぬ。
 日本は敗戦に依りては亡びない。
 政治の善悪によって運命が決まるのである。」by斎藤隆夫

戦後、戦争に協力した議員が追放される中、斎藤は吉田内閣に国務大臣として・・・そして次の内閣でも国務大臣を・・・

「政治を以って国に尽くさなければならない。。。」
死ぬまで政党政治家な男でした。


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