幕末を呑み込んだ男 小説・五代友厚

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「あさが来た」で大フィーバーを巻き起こした五代友厚。
ドラマには描かれなかった苦悩がありました。
明治元年、五代は政府の役人として、大阪の近代化に尽力しました。
新しい貨幣制度、大阪港の整備・・・貿易によって国を豊かに・・・!!
しかし、明治2年、人生の岐路に立たされます。
横浜への異動を命じられたのです。
中央政府の官僚か?民間の事業家か?五代に選択が迫られました。

ペリー来航から9年後・・・1862年二人の日本人の姿が、上海を目指す船上にありました。
長州の高杉晋作と薩摩藩の五代才助(友厚)です。
アヘン戦争の結果の開かれた上海を目にした高杉は・・・
”清国人はことごとく外国人の使役”と表現しています。
わがもの顔に振る舞う列強・・・日本の独立のために攘夷を決意した高杉、一方五代は上海で交易し、ロシア、イギリス、アメリカでも交易したいと言っています。
その力を自らの物にすることを考えていました。

1836年2月、五代は薩摩藩の学者・五代秀堯の次男として生まれました。
秀才だった五代は12歳の時に、秀堯は開明派の藩主・島津斉彬から世界地図の模写を命じられました。
父に代わって地図を模写した五代は、もう一つ写し、自らの部屋に貼って眺めていたといいます。
中でも注目したのはイギリス・・・日本と同じ小さな島国でありながら、世界に冠たる帝国を築き上げられたのはなぜか??五代を海の向こうへ突き動かしました。

1857年長崎海軍伝習所に留学。
ここで蒸気船の動かし方を学び、1862年御船奉行副役に抜擢されます。
1865年、藩に願い出てついにヨーロッパ視察!!
髷を切り、洋装に身を包んだ五代・・・その使命は、小銃300挺、同じく500挺・・・西洋の近代兵器の調達でした。
しかし五代の興味は・・・木綿機械・・・??紡績工場や製鉄工場、ガラス工場・・・30近い工場に足を運びます。
”ヨーロッパにおいて国家の基本なるもの二あり
 インヂストレード(工場)・コンメンシアール(貿易)という”
経済が国の基盤を作る!!そのことに気付いたのです。

その頃・・・日本の政治は激変!!
1867年新政府樹立、旧幕府軍打倒へ・・・!!
1868年1月戊辰戦争開戦!!
新政府軍が旧幕府軍を圧倒・・・!!
五代が調達した武器が討幕の大きな力に・・・!!
その20日後・・・徴士参与の辞令が・・・!!
新政府の役人に抜擢され大阪へ!!
当時大阪は疲弊の極みにありました。
新政府は、戦争の莫大な戦費を商人から調達・・・多くの商人が没落していきました。
五代に与えられたのは大阪経済の再生でした。

大阪造幣局に・・・圧印機があります。
貨幣制度の安定のために、質の良い円の制定に向けて!!
港の整備も始めます。大型の蒸気船でも入れるようにします。
生糸や銅を中心に、大阪からの輸出は増え・・・明治元年に6万両だったものが2年に倍の12万両にまでなりました。
五代が考えた大阪再生・・・貿易という新しい道でした。

故郷鹿児島では、武勲派が五代を批判し始めました。
火種は5年前・・・1863年の薩英戦争でした。
指揮官として蒸気船を指揮していた五代は、3隻の蒸気船を拿捕された上にイギリスの捕虜に・・・!!
そんな卑怯な男が、実際に血を流した自分たちを差し置いて、金勘定の才だけで出世するなど言語道断!!

1869年5月、五代に突然事例が・・・会計官としての横浜勤務でした。
大阪での権限を奪う人事異動・・・背後には、薩摩の武勲派の策動があったと言われています。
五代はこれを受け入れて赴任します。
が・・・大阪では、かつての部下や商人たちによって五代の復帰を願う嘆願運動が起こったのです。

しかし一旦決まったことは覆るはずもなく・・・大阪に帰るには、役人を辞めるほかありません。
このまま官にとどまり横浜に??それとも民に下って大阪へ・・・??
1869年版籍奉還
強力な中央集権国家への道を進んでいました。
このまま会計官からキャリアを積めば、一国の経済を運営する地位すら望める!!

勝てば官軍・・・
政府の中には国家建設のビジョンもないのに、権力に固執する奴らが少なからずいました。
一緒に産業を興し、国を富ませることが出来るだろうか??
なら、役人を辞めて大阪に戻る??

ヨーロッパ滞在中に、金や銅などの鉱山を開発し、工場や鉄道を建設する・・・
その担い手として総合商社を考えていた五代。
自分が旗振り役となって大阪の商人たちを結束させカンパニーを作ることが出来れば・・・??
しかし、大阪の商人たちは保守的・・・賛同してくれるだろうか・・・??
官か??民か・・・??どうする・・・!!

大阪証券取引所に五代の銅像が建てられています。
五代の選択は、官を辞し、民に下ることでした。
「政府には人材がそろっているが、民間にはいない
 自分は大阪で商工業発展に努力する」
実業家としての再出発にあたり、中心に置いたのは鉱山でした。
紙幣を発行する元となる金銀や、輸出品である銅。。。全国の鉱山開発に臨みます。
その中の一つ・・・福島にある半田銀山は、明治7年閉山していたこの銀山を手に入れて、外国人技術者を雇い、近代化を図ります。
その結果、産出量は飛躍的に伸び、明治17年には生産量日本一を誇るようになりました。
さらに、この資金を元手に・・・事業を発展させます。
五代が建設にかかわった会社は・・・
大阪通商会社・大阪為替会社・金銀分析所・大阪活版所・鉱山管理会社弘成館・製藍会社朝陽館・大阪製銅会社・神戸桟橋会社・大阪商船会社・東京馬車鉄道会社。
五代のっ変わった会社は多岐にわたりました。
商業の基盤づくりにも手腕を発揮!!
大阪商工会議所の前身・・・1878年大阪商法会議所を設立し、為替取引などのルールを決めるだけではなく、国家財政に関しても意見書を提出します。
”これまで輸入に頼っていた商品を国産し、輸出に転じることで外貨を稼ぐべし”
興業と貿易による近代国家建設という夢を明の立場で成し遂げようとしたのです。

1874年大蔵卿・大隈重信の独断専行がほかの参議の反発を買い政府追放になりかねない・・・
当時の内務卿は大久保利通。
五代を後任に据えることを考えますが・・・中央政界への道・・・五代がこの要請を受けることはありませんでした。
大隈が政府に残れるように助言をします。
忠告をを受け入れた大隈は、政府に残れることとなりました。

中央復帰の道を絶ち、大阪で産業の発展に努める!!
それが五代の選択だったのです。

1881年5月、五代はついに、関西貿易社設立!!
住友・鴻池をはじめとする関西の豪商も名を連ねました。
背景には、開国より日本が直面している問題がありました。
その頃、日本人が商品を輸出しようとすると、居留地にいる外国人を通す・・・居留地貿易でした。
外国商人は、安く仕入れた商品を高値で売り、儲けをすべて手にしていました。
直接外国と商売をして、日本に儲けを落とす・・・直貿易をしようとしたのです。
しかし、思わぬ事態が・・・7月26日、開拓使は関西貿易商会に北海道の物産を一手に引き受けさせようとしている・・・とのスクープ記事が・・・!!
当時、政府は北海道に開拓使という役所を置き、10年計画で今の1000億円以上もの巨費を投じて、工場・港・農園などの開発にあたっていました。
それらを1/30の安値で関西貿易社に払い下げるというのです。
開拓使長官は、薩摩出身の黒田清隆!!新聞は、黒田と五代・・・薩摩の癒着によるものだ!!と、藩閥に対する抗議集会へと発展します。
明治始まって以来の疑獄事件・・・”北海道官有物払下げ事件”です。
この時、五代は・・・
「東京では相変わらず関西貿易社への攻撃がやまず、耐えがたい思いです。
 嗚呼、国家の不幸と嘆息するほかありません。」と書いています。
大混乱の中、1881年10月、払下げ中止となりました。
五代の悪名は天下に轟きます。
1883年関西貿易社解散・・・。
それから2年、五代は何も語らないまま死去したのです。
享年49歳でした。

五代は本当に甘い汁を吸おうとしたのでしょうか??
払下を受けるのは開拓使の役人たちが作った「北海社」・・・五代ではありませんでした。
五代が払い下げを受けるのは、岩内炭鉱、厚岸の山林の二つだけだったのです。
石炭や木材を輸出して外貨を獲得しようという信念に基づいたのもで、濡れ手で粟を目論んだものではありませんでした。
どうして反論しなかったのか・・・??
「政府要人の要請によって吾輩は弁明を断念した。。。」
五代が反論をすれば、薩摩閥の黒田への批判はさらに強まる・・・政治の混乱が起きないように、五代は沈黙を守ったのです。
明治の想いは、植民地にはなりたくない・・・内乱を起こしてはならない・・・国内が一枚岩にならなければ・・・!!
自分が悪者になることで全てが旨く収まる・・・。

岩内炭鉱の石炭を釜石の製鉄所に持っていく・・・
東北を開発しようとも思っていたという説もあります。
これは、大久保路線で、戊辰戦争によって東北諸藩に恨みを残したまま日本の発展はありえないという考えを継承しようとしていたのかもしれません。


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