日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:井上馨

日本の政治の中枢・国会議事堂・・・現在の建物は、1936年帝国議会議事堂として完成しました。
参議院本会議場・・・戦前は、皇族や華族で形成された貴族院として使用されていました。
現在参議院の定数は245ですが、460席あるのは貴族院の議場だった名残です。
天井は唐草模様を配したステンドグラスがはめ込まれ、当時の面影を残しています。
この参議院議場の最大の特徴とされるのが、議長席の後ろにもうけられた・・・開会式の際の天皇陛下の席です。
日本で初めて議会が開かれたのは1890年の第1回帝国議会です。
それに先立って作られたのが、大日本帝国憲法でした。

明治維新から22年の1889年・・・
近代国家を目指して制定された日本初の憲法が、大日本帝国憲法です。
その憲法制定に16年を費やし、中心的な役割を担ったのが伊藤博文でした。
伊藤は1841年、長州藩の貧しい農家に生れました。
その後、下級藩士の養子となり、吉田松陰が開いた松下村塾で学んだことで、運命が大きく変わることになります。
20代の始めに藩の留学生としてイギリスに渡り、西洋文明と英語を学びます。
そして明治維新後、その英語力を買われ、新政府に仕えることとなったのですが、士族出身者が多い政府の中で、伊藤は立場が弱い農民出身。。。
どうしてそんな伊藤が、後に憲法制定の中心人物となったのでしょうか?

1871年、岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団でした。
30歳になっていた伊藤は、明治維新の英傑・大久保利通や木戸孝允たちと共に海を渡ります。
この時の使節団の目的は、幕末、日本が西洋列強に言われるがまま結んでしまった不平等条約改正の予備交渉と、西洋文明の視察でした。
一行は、アメリカに到着後、サンフランシスコ、ワシントン等に滞在、その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリンなどの都市を視察、そこで西洋列強の工業力や軍事力のすごさをまざまざと見せつけられ、強い衝撃を受けます。
そして、その中で、その国力の背後にある「あるもの」が日本の近代化には必要だと気付きます。

「あるもの」とは・・・??
国力を高めないと西洋諸国から認められない・・・
そのうちの一つとして憲法に注目します。
ヨーロッパの多くの国は憲法を持っており、指導者と国民が一つに繋がっている・・・そのような国の形を支えている憲法というものが重要だと・・・!!
この時の日本は、廃藩置県で「藩」が廃止、日本という国を一つにまとめるための憲法はありませんでした。
そうした中で、使節団一行は、欧米諸国と肩を並べるには憲法成立が不可欠だと知ったのです。
中でもそれを強く感じたのが、大久保利通と木戸孝允で、しかし、自分たちの生きている間には実現しないだろうと考えていました。
そこで、2人はイギリス留学を経験し、西洋列強のことをよく知る若き伊藤にこの大事業を託すことにしました。
こうして伊藤は、明治政府の重鎮・木戸孝允と大久保利通の後押しがあったから憲法制定の大事業を担うことになったのです。
しかし、そんな伊藤の前に、いくつもの壁が立ちふさがることに・・・!!

憲法制定の壁①板垣退助の自由民権運動
帰国した伊藤は、1873年11月、政府から憲法制定に向けての調査を正式に命じられます。
しかし、日本の国内事情はそれどころではありませんでした。
政府内では、朝鮮への派兵をめぐる征韓論争が起き、その結果、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが辞職・・・
さらに、士族の反乱が勃発、緊迫した情勢にありました。
そうした中、下野した板垣退助が1874年、日本初の政党・愛国公党を設立。
自由民権運動の口火となる建白書を政府に提出しました。

「今の政府は一部の藩閥政治家が支配している
 これを改めるには、選挙で選ばれた民撰議員を設置すべきである」by板垣

これにより、不平士族を中心に、自由民権運動が盛り上がりを見せます。
藩閥政治を批判し、早期国会開設とそれに伴う憲法制定を政府に要求、五日市憲法草案(自由民権運動家・千葉卓三郎によって起草された私擬憲法)など、自分達で憲法草案を起草する者も出てきました。
憲法制定を急ぐ急進派を前に、伊藤は困惑します。

「憲法は時間をかけなくてはいいものは出来ない」

選挙による議会開設は時期尚早・・・ましてやそれに伴う憲法制定については時間をかけるべきだと考えていました。

しかし、自由民権運動は、農民層にまで広がりを見せ、過激さを増していきます。
これに対して明治政府が動きます。
次々と条例を出すなどの徹底的な言論弾圧を行っていきます。
憲法改正、議会開設を急ぐ動きは、一時収束・・・
伊藤はようやく腰を落ち着けて憲法を制定していくことができる・・・
そう思っていたのです。

1873年、伊藤博文が32歳で明治政府の住職である参議・工部卿に就任。
しかし、その4年後・・・1877年、後ろ盾だった木戸孝允病死・・・
翌年には、大久保利通が暗殺されます。
伊藤は、木戸と大久保から託された憲法制定への想いを強くします。
2人の遺志を受け継ぎ、自ら政府をを先導していくと決意を新たにするのです。
ところが・・・

憲法制定の壁②大隈重信の裏切り
1881年3月、憲法制定に関する一通の意見書が、明治天皇に近い有栖川宮熾仁親王に秘密裏に提出されます。
意見書を出したのは、伊藤と同じ参議の大隈重信です。
そこにはこうありました。

「議会で多数派となった政党が、行政の重責を担うイギリス型の議院内閣制度を採用すべし
 できるだけ早急に憲法を発布し、二年後の明治十六年初めには議会を開くこと」

大隈は、時間をかけて憲法を制定するという政府の方針に真っ向から反対する意見書を出したのです。
それは、政府がいち早く憲法を制定することで、根強い自由民権派の政府批判を打ち消そうと考えてのことでした。
しかし、伊藤にとっては寝耳に水の話・・・
盟友・大隈の裏切りとも取れる行動に、腹を立てた伊藤は、政府の重鎮だった岩倉具視に宛ててこんな手紙を書きます。

「大隈さんの意見書を読んだところ、実に意外な急進論であり到底従うことはできません
 このような方針が取られるのであれば、自分は辞職させていただきたい」

その怒りの裏には、大隈の意見書が具体的な内容だったことへの恐れもありました。

”このままでは大隈重信に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

先を越された焦り・・・大隈という新たな壁を前に、伊藤はただ悶々としていました。
すると、ある事件が起こります。
北海道の開発を担う開拓使の廃止に伴い、鉱山や工場などの官有物を旧薩摩藩関係の民間企業などに格安で払い下げることが検討されていたのですが・・・
その払い下げ計画が、新聞にすっぱ抜かれ、政府と薩摩閥の癒着だと叩かれたのです。
さらに、新聞社に情報をもらした人物が、払い下げに反対していた大隈では??と疑われたため、大騒動に・・・!!

世に言う”開拓使官有物払い下げ事件”です。

明治政府は、騒動の責任を取らせ大隈を政府から追放。
これにより、伊藤が懸念していた大隈による早急な憲法制定と、議会開設は阻止されたのです。
ただし、一件落着とはいきませんでした。
こうした問題が起きるのは、薩摩・長州藩出身の政治家たちがいまだ権力を握っているからだと、自由民権派が「藩閥政治」を批判。
選挙で選ばれた人たちで健全な政治が行えるよう議会の早急な開設を求める声が、再び起こったのです。
政府は止む無く”国会開設の勅諭”を出し、9年後の1890年に国会開設をすることを表明。
これに先立つ憲法制定も急ぐこととなってしまったのです。

1881年10月12日、勅諭が下されたことで、9年後の国会開設が約束されました。
そして、これに伴い急ぐこととなった憲法の起草作業・・・
40歳になっていた伊藤博文は、その中心で奔走していました。
ところが、またもその立場を脅かす人物が現れます。
岩倉具視のブレーン・・・井上毅です。
伊藤は一体、井上の何を恐れたのでしょうか?
司法省の官僚として海外視察を経験していた井上毅は、西洋諸国の法律に精通した政府随一の法制度の専門家でした。
岩倉のために、すでに憲法意見書を作成していました。

・天皇が制定する憲法であること
・急激ではなく段階的に行うこと

「ヨーロッパの憲法を参考にする際は、君主の権限が強いドイツの憲法が適している」by井上毅

当時ドイツでは、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム1世が強い権限を持つ憲法が用いられていました。
かねてから井上は、議会を重んじるイギリス型の議院内閣制度では安定した政府運営ができないと反対していました。
ドイツ型の憲法こそ、天皇を尊ぶ日本の国情に合う憲法だと考えていたのです。
井上の意見書を目にした伊藤は、自分には明確な憲法のビジョンがなかったことに気付き、大きな危機感を覚えます。

”井上毅に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

法制度に精通する井上毅に憲法制定の主導権を奪われることを恐れたのです。
木戸や大久保から託されたという伊藤のプライドが、傷つけられたのでした。

伊藤の親友で外務卿だった井上馨は、この頃の伊藤についてこう語っています。

「近頃、伊藤も大いに心痛の極みにて、神経症が起こり毎夜眠れず
 酒一升を飲んで ようやく寝ることができるという状態である」

完全に自信を喪失し、苦悩する伊藤・・・すると政府内から声が・・・

「よかったら、静養もかねて欧州へ憲法調査に行かれたら如何でしょうか」

渡りに船とばかりに、伊藤はこの提案を受け入れ、1882年3月、伊藤博文ヨーロッパへ旅立ちます。
その伊藤に、井上毅はこんな手紙を送りました。

「立憲作業はもう最終段階、海の向こうで静養でもしながら私が研究した成果を参考にして、草案を仕上げてきてください」

それは、伊藤は無用、立憲作業のお飾りに過ぎないとでもいわんばかりの屈辱的な内容でした。
しかし、伊藤はこれを、巻き返すチャンスだと信じて疑いませんでした。

1882年5月、ドイツ・ベルリンに到着。
議会開設まであと8年・・・ドイツのような立憲君主国の憲法とは??
議会と内閣の関係とは?選挙は・・・??
具体的な仕組みの調査を目的としていた伊藤・・・
しかし、かの地で漢方調査は思うようにうまくいきませんでした。

ドイツに到着した伊藤がまず頼ったのが、ベルリン大学の憲法学者のルドルフ・フォン・グナイストでした。
ところが、こう言われてしまいます。

「遠方からドイツを目標においで下さったのは感謝の至りだが、憲法は法文でない
 精神である
 日本の事情に無知な自分がお役に立てるかは自信がない」

グナイストは、憲法や法律は国家が勝手に決めるものではなくて、その国の歴史に根ざして作られて行く物という考え方を持っていました。
=「日本の歴史を知らないから助言する立場にない」となるのです。
伊藤の憲法調査は、頓挫してしまいました。
さらに、議会の開設についても、謁見したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世から日本では到底無理だろうといわれてしまうのです。

行き詰まり、苦悶する伊藤でしたが、救いの手を差し伸べる人物が現れます。
オーストリア・ウィーン大学教授のローレンツ・フォン・シュタインです。
以前から日本に関心を持っていたシュタインは、懇切丁寧に国家の全体像についての講義をしてくれました。

国家というものは、独立したひとつの人格に例えられる
そして、それぞれ自立した3つの要素を備えている
国家の自己意識を具現化する機関としての君主
国家の意思を形成する議会(立法)
国家の好意を司る内閣(行政)
そして、最も重要なのは、憲法そのものではなく、それを支える制度や組織です

伊藤は、国家の全体像について理解するようになっていきます。
そのことが、自分こそが憲法を作るのだという自信を回復することに繋がっていきます。
そして、「立憲カリスマ」として日本に帰ってくることになるのです。

伊藤は、岩倉に宛てた手紙にこう書いています。

「私はドイツにて国家組織の大体を理解した」

およそ1年半に及ぶヨーロッパでの憲法調査で、自身を回復した伊藤は、立憲政治において誰からも一目置かれるカリスマへと生まれ変わったのです。
そして、1883年8月・・・井上毅と対等に議論できる知識を得、帰国した伊藤は、憲法制定へのリーダーシップをとっていきます。
まず着手したのが憲法を制定し、議会を開くための受け皿となる国家組織の改革です。
自立した行政を行うため、近代的な内閣制度を作りました。
そして、44歳になった伊藤は・・・1885年12月、初代内閣総理大臣に就任。

1887年、伊藤博文は、横浜・東屋旅館で参事院議官の井上毅、伊藤の秘書官の伊藤巳代治、同じく秘書官の金子堅太郎と共に、憲法の起草作業を始めました。
順調に事は運んでいました。
ところが・・・東屋旅館に宿泊していた伊藤巳代治と金子堅太郎が、ことのほか起草作業が進んでいることに木を良くし、ある晩宴会を開き、酔いつぶれてしまいました。
すると運悪くそこに怪しい侵入者が・・・目覚めた二人は青ざめます。
憲法草案の入った大事なカバンを盗まれてしまいました。
もしかして、妨害しようとした自由民権派の仕業では・・・??
しかし、幸いカバンは近所の畑に捨てられていて、草案は無事でした。
金品目当ての泥棒だったのです。

草案は無事だったものの、慎重を期し、伊藤は横須賀・夏島にあった自身の別荘に作業場を移します。
そして、密かに作業を続ける中で、三人に言いました。

「私の言うことが間違っていたら、それは間違いだと徹底的に追及してくれ
 君らの言うことが分からなければ、私も君らを徹底的に攻撃する互いに攻撃し、議論するのは憲法を完全なものにするためである
 長官だの秘書官だのという意識は一切かなぐり捨てて、討論議論を極めて、完全なる憲法を作ろうではないか」

こうして、数か月にわたる激しい議論を交わしながら作り上げていったのが、大日本帝国憲法の原案となる”夏島草案”です。

第一条には・・・
大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
この天皇の権限こそ、草案作成の中で最も論争となった点でした。
伊藤たちは、天皇は国を一つにまとめる重要な存在と認めながらも、独裁になってはならないと考えます。
そこで盛り込んだのが

第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ 此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

実際には、天皇の主権は憲法の規定に従って行うということも明記されています。
完全な意味での独裁ではなく、君主(天皇)の権限は制限されていました。
草案はその後も検討され、徐々に完成へと近づいていきました。
そんな中、最後の壁となったのが明治天皇でした。

憲法制定の壁③明治天皇の反発
明治天皇は、政治的実権はすべて自分にあると考えていました。
そのため、伊藤は憲法で主権を制限されることに天皇が難色を示すのではないかと危惧したのです。

「何としても陛下を説得しなければ・・・!!」

伊藤はいかにして明治天皇を説得したのでしょうか??

陛下には、シュタイン博士の憲法の根幹を学んでいただき、君主の役割を理解していただく必要がある・・・
伊藤は、まずは天皇が厚い信頼を寄せる人物に憲法を学ばせ、その人物に天皇に講義をしてもらおうと考えます。
伊藤がその大役に選んだのが、侍従の藤波言忠です。
藤波は、シュタインの教えを学ぶため、ウィーンへと旅立ちます。
そして、シュタインから憲法だけでなく、教育、宗教、産業など立憲国家の君主が心得るべきことの全てを学びます。

こうして1887年11月・・・
帰国した藤波は、明治天皇に講義を行いました。
その時間は、合計33時間に及んだといいます。
これにより、新しい憲法における自らの立場を理解した天皇は、その制定を見守ることに・・・
天皇が全幅の信頼を寄せる侍従に、憲法を学ばせて、天皇に講義を行うことで説得しました。

そして、その翌年の4月・・・46歳の伊藤は、天皇に意見を求める機関として新設された枢密院の議長に就任。
そこで、天皇列席のもと、2か月に及ぶ憲法の審議を行うのです。
これを受けて伊藤たちは、さらに議論を重ね、およそ半年後、全ての条文を作り上げるのです。
言論の自由、臣民の権利が、法律の範囲で保証されることが約束され、帝国議会については貴族院は皇族・華族からなり、衆議院は当選された議員から定められることとなりました。

1889年2月11日、ついに伊藤にとって念願の日を向かえます。
憲法発布の日です。
式典が、この年新しくなった皇居・明治宮殿で行われました。
伊藤が起草を手掛けた大日本帝国憲法は、天皇が黒田清隆首相に手渡しする形で、無事に発布されました。
これにより、日本は東アジアで初めて近代憲法を持つ立憲君主国となったのです。
各地でちょうちん行列が催され、民衆は憲法発布に沸き立ち、万歳三唱を繰り返しました。
その様子を、当時お雇い外国人として日本に来ていた医師のエルヴィン・フォン・ベルツは、こう記しています。

「東京全市は十一日の憲法発布に対し 言語に絶した騒ぎを演じている
 だが滑稽なことに だれも憲法の内容をご存知ないのだ」

ベルツが言うように、民衆の殆どが大日本帝国憲法の中身を知りませんでした。
憲法発布によって、日本が文明国の仲間入りをしたことにただただ喜んだのです。
そんな状況もあってか、憲法発布後、伊藤は各地で公演を行い、憲法の理解を求めて生きました。

この後、三度にわたり内閣総理大臣を務める伊藤は、大日本帝国憲法の精神と立憲政治の定着に邁進・・・
それこそが、自らの使命と信じて。。。

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明治4年(1871年)7月14日、日本史上屈指の大改革が断行されました。
およそ、270年にわたり地方の領主だった藩が姿を消し、中央政府が治める県が置かれました。
廃藩置県です。
これにより、日本の政府権力は中央政府に一極集中することになりました。
この廃藩置県は、藩主への事前通達はなく、僅か6日の間に実行された電撃作戦でした。
実行の最後の決断をしたのが、維新三傑のひとり・大久保利通でした。
しかし、大久保は廃藩置県をするかどうか、最後まで悩み続けていました。
出来たばかりの明治政府は、経済力、軍事力ともに決定的に不足し、成功させる実力がなかったのです。
無理矢理断行すれば、諸藩は反発・・・日本は再び血みどろの内戦状態になるかもしれない・・・
躊躇すれば・・・海外からの脅威に立ち向かえないかも・・・??
どちらをとってもいばらの道でした。

薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争・・・。
およそ1年半の激戦の末、新政府軍が勝利を治めました。
幕府に代わって新しい国づくりを担うこととなった新政府軍の中心となったのが薩摩藩だった大久保利通でした。
その真っ先の課題は・・・中央政権でした。
アジアでの西洋列強の植民地化から日本を守るために、天皇のもと、国を一つにまとめる必要があったのです。
しかし、大久保の前には大きな壁が。。。全国に270あまりある藩でした。
それぞれの藩は、財力や兵力をそれぞれ保有し、それらはすべて藩主のものでした。
中央集権を推し進めるためには、財力や兵力を新政府に集めなければなりませんでした。
長州藩出身の木戸孝允と共に出した案は・・・
版籍奉還(版・・・土地、籍・・・人民)・・・まずは、土地と人民を天皇に返上させようと考えました。
しかし、版籍奉還は、藩主にとっては、既得権を喪失すること・・・諸藩が素直に応じる保証はない・・・。
大久保出身の薩摩藩の反応次第では、血みどろの戦いになるかもしれない・・・。

薩摩藩は、集成館事業を行っていました。
当時の日本の最先端の軍事工場で、大量の木炭を燃料に、大砲づくりを行っていました。
西洋式の産業技術を研究し、大砲や火薬の製造、軍艦の整備なども行っていました。
その結果、薩摩は明治に入っても、強大な軍事力を持っていたのです。
もし明治政府の強引な政策に薩摩が反発すれば・・・またもや戦乱に??
たくさん残る氏族の不平が反乱の元になる事を新政府は恐れていたのです。
薩摩をはじめとする諸藩を刺激せずに穏便に改革を進めるためにはどうすれば・・・??
土地と人民を返上させ、再交付をにおわせることにします。
さらに土地と人民の返上を迫られる藩主には、魅力的な役職を・・・知藩事です。
天皇が任命する地方長官のことで、地方を支配する権限はこれまでと変わらない上に、天皇のお墨付きが就くので、大きな名誉なことでした。
大久保たちの狙いは見事に当たり、版籍奉還に魅力を感じた藩主たちはこれに応じるのでした。
その結果、大きな反発もなく、土地と人民は天皇が所有するものに。。。
大久保たちは、少しずつ江戸時代からの地方のあり方を変更し、中央集権の第一歩に成功したのでした。

政府の発言力を強め、影響を全国に及ぼすためには、強力な後ろ盾が必要・・・!!
大久保は、薩摩藩の力に目をつけます。
カリスマ的な西郷隆盛、藩に絶大な影響力を持つ島津久光。。。
二人を新政府に参画させようと試みました。

1870年1月、大久保は、自ら説得のために鹿児島へ・・・
逆風は覚悟していたものの、新政府への風当たりは予想以上のものだったのです。
久光の説得は難航・・・政府の中央集権に協力すれば、県独自の力が失われてしまう・・・。
久光は、大久保の意見に全く耳を貸しませんでした。
親友・西郷隆盛に至っては、大久保たち新政府を痛烈に批判!!
西郷は、政府の腐敗ぶりに不信感を抱いていたのです。
高額な月収を取り、かつての大名屋敷に我が物顔で住んでいるが、何の成果も揚げていない・・・これでは、泥棒と同じである・・・と。。。

地方のやり方を重視する側からみると、政府のやり方は間違っているのではないのか・・・??
天候不順の上に、政府は財源確保のために、容赦のない取り立てを行っていました。
ふるさと薩摩の痛烈な拒絶・・・
そこで、強制的に藩制を制定。。。
財政のうち・・・10%=知藩事の給料
         18%=軍事費(うち9%は政府に上納)
         72%=藩の運営経費
政府の統制を強化しようとしたのです。

ところが・・・激しく拒絶したのは薩摩藩でした。
薩摩の代表は、鹿児島へ帰ってしまいます。
更に大事件が・・・薩摩藩士の横山安武が、政府の批判を書状に認めて自害!!
これが世間を騒がせ、さらに政府への風当たりがきつくなります。
そして、国外にも衝撃を与えます。

大久保は、再度薩摩藩を説得しようと試みます。
1870年12月、再び鹿児島を訪れます。
さらに関係は悪化していました。
ところが・・・薩摩藩は意外な・・・政府への協力を約束したのです。
西郷隆盛の新政府への参画、3000人の薩摩藩士族たちが御親兵として供出されることが決まりました。
どうして薩摩藩は態度を変えたのでしょうか??
御親兵・・・御親兵の生活費は、政府が保証することで、薩摩藩の財政負担が軽くなったのです。
戊辰戦争から帰ってきた士族たちは、やることもなくくすぶっていました。
彼らに新しい役割を与えると・・・沈静化もされる・・・一石二鳥のことでした。
大久保は、政府と薩摩藩双方に、メリットのある方法を見つけ出したのです。
薩摩藩の協力を得た新政府は、中央集権化に向けて大きな力を得ることに成功したのです。

強力な後ろ盾を得たにもかかわらず、なかなか先に進めません。
中央集権に向けての改革と関係のないところで、大久保と木戸が激しく対立。
大久保は、政府の組織改革を提案・・・しかし、木戸は大久保の案を激しく批判していたのです。
その上、政府の人事案においても二人は対立!!
度重なる対立に、大久保は爆発寸前・・・!!

「動かすべきを動かさずして、動かすべからざるを御動かし、ムチャクチャの御裁断
 なにぶん今日の姿にては、奮発する気も全く失せ果て申し候」

両者の対立はひと月ほど続き、政府は分裂の危機を迎えていました。
その結果、中央集権に向けた改革は置き去りにされてしまいました。

そのことで、大久保が追いつめられる悪循環が発生します。
軍事運営の現場に近い中級官僚による突き上げが始まったのです。
彼らは、政府内の混迷で中央集権が棚上げされることで、軍事・経済の改革が止まることに危機感を強めていました。
今すぐに廃藩置県を断行しなければ・・・!!
そうすれば、廃藩置県を行えば、中央集権が一気に進む??
もし、廃藩置県が断行されれば、藩は無くなりその兵力と財源は国のものとなる・・・これを天皇の命令の元に一気に・・・!!
木戸孝允、井上馨がこれに共鳴!!
そして、まさかの西郷隆盛までもが廃藩断行に同意したのです。
中央集権が足踏みのまま、現状でいる事には西郷も限界を感じていたのです。

「私情においては忍びがたいが、廃藩は天下の世運であり、この流れは最早、人の力では止めることができない」

木戸と西郷、廃藩断行に同意し、残るは大久保のみ・・・
西郷は意見を求めますが・・・ゆっくりと慎重に進めるべきだと考えて来た大久保にとっては、青天の霹靂でした。
どうする・・・??

中央集権が進まぬ今、無策でいては、国の存続すら危うくなってしまう・・・!!
大久保はついに決断します。
「篤と熟考 
 今日のままにして瓦解せんよりは、寧ろ大英断に出て瓦解いたしたらん」
大久保は廃藩置県断行に同意する決意を固めたのです。
7月9日・・・早速断行に向けた密議が・・・出席者は、大久保をはじめとする薩長出身の一部の官僚たちでした。
この計画は、明治維新に貢献のあった諸藩や岩倉具視にさえ知らされることはありませんでした。
実行に当たっての懸案事項は・・・諸藩からの反発!!
井上馨は・・・
「多少の動揺はあると覚悟せねばならぬ
 その時は、兵を用いる必要が生じるかもしれない
 その覚悟はよろしいか」
西郷は・・・
「兵は、我々が引き受ける」
場合によっては血が流れても仕方がない・・・軍事力の行使もやむ負えない・・・。
大久保も不退転の決意で大改革に臨むことになりました。

1871年7月14日、諸藩の知藩事に対し、廃藩置県の勅令が下ります。
天皇の命令という強制力を伴った通達でした。
その結果、全国に260余りあった藩はすべて廃止・・・。
県が置かれることになりました。
密議からわずか6日・・・疾風迅雷のごとくの電撃作戦でした。
急転直下の改革劇に諸藩は・・・??

大久保たちの心配をよそに・・・反発は起きませんでした。
どうして廃藩置県を素直に受け入れたのでしょうか??
廃藩を積極的に受け入れた藩もあったのです。
七戸藩は・・・東京からはるか遠方にあり、不毛の土地がおおく、年貢もあまり集まらない・・・。
このうえは七戸藩を排し、他藩の管轄下に入れて欲しかった。。。
廃藩置県になると、借金は国が肩代わりしてくれました。
抵抗があったものの・・・名より実をとった藩が多かったのです。
廃藩置県を受け入れると・・・知藩事は収入が保障され、安定した生活が得られます。
華族の称号が与えられる・・・武士から見たら、憧れの公家と同じ称号がもらえる。。。
反対する理由はありませんでした。
渡りに船だった可能性も・・・??
多くの知藩事たちが、廃藩置県を厳粛に受け止めるように藩士たちに説いています。

私情を捨て、日本という国に報いる・・・
明治の人は流血を避け、中央集権を成し遂げる重要性を一人ひとり深く理解していたのです。
大久保は、この時の心境について何も残していません。
この反応をどのように受け止めたのでしょうか??
明治政府は悲願だった中央集権の実現に成功し、これを足掛かりに地租改正、徴兵令と、改革が進み、日本の近代化が一気に幕をあけます。



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かつてこのあたりは弁柄格子の芸者屋が軒を連ねる花街でした。
幕末には武士達、明治維新後は新政府高官が御贔屓。
深川・柳橋をしのぐ勢いだったとか・・・
そんな花街の売れっ子芸者が亮子でした。
彼女が芸者となったのは貧しさゆえでした。

亮子は幕末の1856年11月、江戸に生まれました。
父は播磨国龍野藩の200石取りの藩士・金田蔀、母・添機。
しかし、母が金田の正妻でなかったために、亮子たちは父と暮らせず、母、姉の三人で貧乏に暮らしていました。
昼は町家の娘に踊りを教え、夜は裁縫・・・
生活のために、母は必死で働きましたが、ついに倒れてしまいました。
亮子は江戸藩邸に住む父に懇願します。
しかし、亮子たちが父からの援助を受けることはありませんでした。
母の病は一向に回復せず・・・困窮していく一家三人・・・。
見かねた近所の人が亮子の勧めたのが、芸者屋への年季奉公でした。
9歳と幼い亮子でしたが、来る日も来る日も、掃除洗濯、炊事とこき使われ・・・その合間に、踊り、三味線、江戸小唄などを叩き込まれます。
芸事の師匠たちは気が荒く、怒られたり竹の棒でたたかれたり・・・
それでも母と姉のために、亮子は耐えました。
そして時代は明治に・・・1871年(明治4年)。。。
16歳となった亮子は芸者・小鈴としてお座敷デビューします。
小鈴の名は、その美貌と共に知れ渡り、瞬く間に銀座一の芸者に・・・。
しかし、花街に染まることはなく、身持ちが固く、男嫌いの意地を通しました。
そんな彼女がただ一人心を許した相手は・・・後に外務大臣となる陸奥宗光でした。
陸奥は、1844年、紀州藩士の六男として生まれますが、15歳で脱藩。
江戸に出ると幕臣・勝海舟の知遇を得て、坂本龍馬の海援隊に加わります。
貿易で手腕を発揮する陸奥を龍馬は高く買っていました。
「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけぜよ」by龍馬

明治になると・・・陸奥は、新政府の重鎮・岩倉具視の推挙の世って、外国事務局御用掛となります。
当時、日本は大きな外交問題を抱えていました。
幕末に結んだ欧米との不平等条約の改正に苦心していました。
治外法権の撤廃、関税自主権の獲得・・・それが、明治政府の悲願でした。
海援隊時代に貿易を担当して交渉になれていた陸奥は、政府の期待の星だったのです。
亮子と出会った頃、陸奥は神奈川県令となっていました。
上客のひとりとなった陸奥・・・男嫌いで身持ちの堅い亮子・・・
1872年5月二人は結婚。
この時、陸奥29歳、亮子17歳でした。

陸奥は亮子と出会う3か月前に前妻を亡くしていました。
3歳の広吉、2歳の潤吉という二人の子供がいました。
結婚の翌年、亮子は長女・清子を出産。
18歳にして3人の子供の母となったのです。
さらに陸奥の両親とも同居。
姑は気難しく、元芸者の亮子を気に入りません。
特に食事の作法、味付けにはうるさかったとか・・・。
ひたむきに尽くす亮子ですが・・・順調に出世していた陸奥が投獄されてしまいます。
1874年1月、新政府の状況に不満を抱いていた陸奥は、辞職し野に下ります。
薩長が幅を利かせている新政府では、紀州藩の陸奥は肩身の狭い思いをしていました。
日本人という観念だった陸奥・・・薩長が政治を独占しているので、政治が滞っていたのを厳しく批判しています。
1875年政府に戻りますが・・・元老院議官という有名無実なポストでした。
そんな中、西南戦争が勃発!!
鹿児島の私学校の生徒が、西郷隆盛を擁して挙兵!!
薩摩対官軍の1万人以上の死傷者を出す大激戦となりました。
この西南戦争に乗じて土佐の立志社も挙兵を企てているという噂が・・・立志社は、板垣退助を中心とする自由民権運動の政治結社です。
そこに、陸奥も通じていたのです。
立志社社員たちが次々と逮捕されている中、捜査の手は陸奥にも・・・!!
今日か、明日か・・・??ついに・・・
1878年6月10日、立志社の政府転覆計画に加担している疑いで逮捕されてしまいました。

夜を徹して厳しい尋問が行われていると・・・
陸奥は、結核を患っていたので、いつ、再発してもおかしくありませんでした。
尋問は夏になっても続きます。
陸奥が禁固5年の計を受け、山形監獄に送られた後も、亮子の心労は尽きません。
食事に毒を盛られるのではないか・・・??

そのため、陸奥は、監獄の食事にはほとんど手をつけませんでした。
山形の知人が差し入れるものを食べていたのです。
収監された翌年、もちと黒砂糖が振る舞われたときも、周りの囚人たちが食べて、毒がないのを確認してからようやく手を付けたと言います。
この時、亮子は子供三人と姑を抱え、東京で陸奥の友人宅に世話になっていました。
女子供では危ないということで、あらかじめ、陸奥が手配していたのです。
姑と子供たちの面倒を見ながら、日用品を送る日々・・・
しかし、山形は遠く、面会に行くことはできません。
結婚して6年・・・夫のいない生活をどう生きていくのか・・・??
それを支えたのは、夫からの獄中からの手紙でした。

亮子は知人の紹介で出会った後藤又兵衛に陸奥の世話を頼みます。
山形監獄の近くで旅館をしていた後藤は、食事や日用品の差し入れなど、陸奥の世話をしてくれました。

そんな中、監獄で火災が発生!!
亮子のもとに、陸奥が焼死したとの知らせが・・・!!
しかし、これはデマで・・・1879年11月、伊藤博文によって、安全な宮城監獄に移送されました。

1883年1月4日、特赦で放免される陸奥。8か月の刑期を残してのことでした。
帰ってきたとき・・・ひどくやつれ・・・しかし、僅か1年で亮子に家族を託し外遊に・・・!!
その理由は・・・
①自由民権運動に巻き込まれるのを避けるため
②欧米諸国の憲法や行政を学ぶため
2年5か月もの外遊・・・その間陸奥は、亮子に50通以上の手紙を認めています。
ついに夫が帰国!!
初代内閣総理大臣に就任していた伊藤博文の知遇を得て外務省に出仕。
それに伴い、亮子は華々しく社交界にデビューします。

その3年前に1883年、国賓や外交官を接待するために、日本初の迎賓館・鹿鳴館が完成。
外務卿である井上馨が日本政府の悲願である不平等条約改正に向けて国の威信をかけて作りました。

鹿鳴館で夜ごと開かれる舞踏会で、主役はきらびやかに着飾った女性たちでした。
当時のドレスは・・・バッスルスタイル。
見た目は優雅ですが、コルセットなどつけたことのない日本人にはとても窮屈なもので、動くたびに苦痛が伴いました。

欧米人に嘲笑されながらも、鹿鳴館の華と言われた女性たちもいました。
井上武子、戸田極子、陸奥亮子もその一人でした。
イギリスの外交官アーネスト・サトウは・・・
「陸奥の二度目の夫人は、若くて大変な美人。
 涼しい目と素晴らしい眉だ。」
サトウは25年間、日本にいましたが、容姿を褒めた女性は亮子だけです。
しかし、舞踏会が条約改正につながることなどなく・・・鹿鳴館を舞台にした井上の外交は、西欧諸国の顔色を窺うだけの媚態外交と言われるまでに・・・
1887年井上馨外務大臣を辞任。
鹿鳴館も、国辱的建物として歴史の表舞台から消えていきました。

鹿鳴館外交失敗の代わりに、条約改正の大役を任せたのが陸奥宗光でした。
1888年5月20日、陸奥宗光は特命全権公使としてアメリカ・ワシントンに赴任することに・・・。
その使命は、日本の悲願である不平等条約の改正でした。
治外法権の撤廃と関税自主権の獲得でした。
亮子は長女の清子を伴い宗光について渡米!!
ワシントンに着くや否や、当時のクリーブランド大統領に謁見。
特命全権公使妻としての生活が否応なしに始まりました。
公使館では夜ごとパーティー。要人の訪問は、数か月で1200回!!
精力的に社交活動を行う亮子。
ドレスを着こなし、その気品ある姿は若々しく・・・娘とは姉妹のようだったと言います。
現地の新聞にも・・・陸奥夫人は、最も美しい日本人女性と書かれました。
亮子は人気者となり、国務長官や政財界の名だたる家々に招かれます。
しかし、亮子がアメリカでもてはやされたのは美しかっただけではなく・・・その教養からでした。
新聞を隅々まで読み、読書を欠かさず・・・
陸奥は、近いうちに自分が政治の要職に就くであろうと思っていました。
なので、亮子に社交界に出ても引けを取らないように、多くの教養を身に着けさせようと思っていたのです。
宗光の期待に応えようと、一生懸命勉強の日々を送っていたのです。
①完璧な英語を習得していた。
②日本の文化の奥深さを紹介した。
琴を披露し日本の魅力をアピール、日本の文学も英訳。。。
毎日2時間英訳をしていたそうです。
日本が文明後進国でない事・・・日本が外国と対等に渡り合えるということを証明しようとしていました。
日本公使館の内装も、和装にし、日本をアピールしていました。

まさにbrilliant!!
当時のアメリカの新聞でも絶賛され、社交界の華となっていきます。
陸奥は、条約改正に向けて、盛んに駆引きをしていました。
1888年、メキシコと対等な修好通商条約を締結。
日本にとって初めての対等の通商条約となりました。
帰国後・・・第二次伊藤博文内閣外務大臣となった陸奥は・・・
1894年イギリスとの条約改正に成功!!
これを突破口に、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス・・・と、条約改正を実現!!
不平等条約を結んでいた15か国すべてと条約改正を成し遂げることとなります。

夫婦は道連れの旅人・・・亮子は夫を支え続けたのでした。
1895年6月、亮子38歳・・・
高熱を出して倒れた宗光の療養のために、大磯の別荘に移り住みます。
陸奥は、その翌年に外務大臣を辞任。
波乱にとんだ亮子の人生で初めての穏やかな時間でした。
夫と二人、ハワイでも療養・・・しかし、陸奥の体調が回復することはなく・・・
1897年8月24日、54歳で亡くなります。
そして陸奥の死からわずか3年、亮子は後を追うように亡くなります。
1900年8月15日、45歳という若さで下。

陸奥は遺書を残しています。
「お国のために尽くすことだけを考えていたので、財産というものを残してやれなかったが、 多少の遺産を残すことができたのは、内助の功によるものが少なからず。」

そこには亮子に対する深い感謝と愛情があるように思います。
強く美しく前を向いて・・・愛する夫を支えたいという純粋な気持ちだったのでしょう。


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副題は・・・最期まで夫を思う姉に妹は・・・??です。
ここまで来てしまいました。
気持ちが上がんないのよね・・・あとひと月・・・頑張れ私!!

ということで・・・なんとなく観になってしまいました。

群馬県に87人の国事犯がやってきました。
enn












えんもゆかりもない人々を受けれてくれた優しい群馬です。
せいが「えんもゆかりも・・・」と言った時に、この人を思い出しましたよ。
が・・・そういえば、ほかの県も受け入れてるのよね・・・

で・・・美和は空き家を借りて学びの場を作ろうとし、素彦は囚人たちの仕事の様子を見て回っていました。
囚人さん、いい人ばっかりで、労働力になってますよ。
これも、県令殿の御高説が心に響いたのでしょう。

人と人との絆が未来を作る・・・!!

最初っからこのフレーズだけで行けばよかったのにね。
が・・・粂次郎からはその絆を断ち切ろうとするような手紙が届くのでした。

「母の気持ちがわかるなら・・・あなたには今すぐその家を出て行ってほしい。。。」by粂次郎

これって、人と人の絆を美和がつなぐ・・・今年の大河の根幹を揺るがす大事件になるから、どうにかしなければねっ!!私!!とばかりに美和が行動に移ります。

って感じでしょうか??
でもね、私たちが穿って不倫っぽくブログを書いてるんじゃなくって・・・
こんな風に話を持っていくことが・・・”母の気持ちがわかるなら・・・”なんて粂次郎に言わすところが、(心の)不倫なんですよ・・・

この手紙でやっと東京へ姉を見舞いに行こうとするのです。
でも、学びの場を作らないといけないのに・・・と、言い出しました。
今までそんなことおくびにも出さなかったのに、姉よりも大事なのか・・・??
それに、生糸の生産はどこに行ったんだよ・・・
おまけに、東京に行っている間に学び舎はせいやほかの女性たちが作ってくれるそうだ。
囚人たちに受け入れも、この人たちがやってくれたんですよね。
だから、美和より偉いですよ。

粂次郎は司法省で働き出したようで・・・素彦に、寿と粂次郎の様子を見に行ってほしいと頼まれています。
そう・・・あの手紙のことは素彦には言わないんだろうか・・・??
生糸のことや囚人のことには首を突っ込むのに、もっと、家庭を守ったら・・・当時の女性の一番の仕事は家庭を守ることなんですけどね・・・。


来たことを「どうしてきたのか・・・帰ってください!!
hana1どれだけ母上を苦しめるつもりですか・・・!!」という粂次郎。。。
なんか、一度でも、母上と呼んだ自分に腹が立つ!!という感じ。

二人で話し合いを持つのですが・・・
不倫の話をしないんであれば、なんで粂次郎を外して二人で話す必要があるん??・・・って感じがしてちょっと気持ち悪いです。

病気の寿がそこにいるのに、美和も素彦もなんか寿の心のことはほったらかしですよね。
hana2でも、寿は心は二人が一つなことを知ってるんですよ・・・これって、ほんとさみしそう・・・一番きついですよね。
つまり・・・=不倫だって寿も思っているのに、きれいごとのように二人が何もなく話が進んでいくからおかしいんです。

でもって・・・二人で女性が学ぶべきだという話をし始めました。
このふたり・・・というか、杉家は女性にも勉強するようにと、かなり教育熱心だったと言われています。
だから、本当の寿は信心深く、村人たちに説法の会を開催したり、人の交流の場を作っていたんですが・・・
子供の頃から学んできた様子が描かれていないので、なんでいきなり女性の勉強の話・・・??と、頓珍漢に見えてしまいました。

で・・・美和のいない間に生糸の相場が・・・またもや暴落!!
世界経済は不況に見舞われていました。
hana4
日本経済も危機的状況らしいです。。。
素彦の尽力によってアメリカに渡った新井領一郎は、リチャードソンと会っていました。
生糸の受注を受けましたよ


生糸の値段は高値になって・・・リチャードソンとの契約よりも高値になったので、売ろうとする阿久沢様ですが、素彦が待ったをかけました。
ここで二人のバトルが始まるか・・・??と思いきや、
「10年後・・・20年後・・・100年後のことを考えねばならんのです。・・・」
と話し出した素彦・・・この契約に、日本の未来がかかっているんだそうです。

で・・・みんな県令殿に賛同し・・・なんだ・・・バトルなしかよ・・・な展開で終わるのでした。
あ~、ストーリー的に見ても面白くない・・・。

で・・・姉上のお世話をしに来たのに、安子(銀姫)に会いに来ました。
なんで来たのかな・・・??な感じですが、元昭が夢(テニス)を見つけられてよかった・・・というお話と、安子が、美和のおかげで慈善事業を始めたというお話です。
美和を見ていて人のために・・・と焦りだしたのだそうです。
本当に・・・この人の活躍を描いてほしいわ・・・
安子は、婦人教育や慈善活動に力を注ぎ、明治23年(1890年)から大日本婦人教育協会会長を務め、日本赤十字社の要職も務め、勲四等ももらっています。
日本赤十字社の要職についていますが・・・実は、新島八重も日本赤十字の正社員として働いています。
今でも長州と会津は仲が悪いと言われているのに、この時代に、女性たちは敵味方関係なく、大きな慈悲の心をもって教育に熱心に取り組んでいたんだろうなあ・・・と、それだけでも伺えます。
それなのになあ・・・

hana5群馬ではまたもや生糸トラブル・・・!!
リチャードソンの受注を受けきれなくなってきていました。。。
う~ん「お前、バカか!?」ルフィのように言ってください。
納期に間に合わないんて・・・お粗末以外の何物でもないでしょう・・・??

で・・・この生糸トラブルを解決すべく、美和が帰ります!!
美和に何が出来んねん・・・?!

「戻るんですね・・・それが母の願いなら・・・もう何も言いません。」by粂次郎
「粂次郎・・・私は戻ります。」私の方が正しかったのよ??みたいな笑みがこぼれているように思うのは私だけ??
でもね、”それが母の願いなら・・・”なんて、すでに、「私が死んだら旦那様を妻として支えてあげて・・・」と言ったと言っているようなものじゃないですか・・・??
そう・・・ドラマ自体が自分たちが認めない不倫を認めてるんですよ・・・

揚返場が作られ・・・素彦は「群馬の・・・日本の未来がかかっているんです!!」と、またもや頭を下げてそこら辺の工場を回っています。

美和も生糸運びを手伝います。それだけでしょう??できること??と、しらけムードで見てしまったのですが・・・まだまだ人手が足りないだろうと、糸を紡いでいる女性たちも運ぶのを手伝うんですが・・・
足りないって言っているのに生糸紡がんでええんかい・・・??

蚊帳の外でへそを曲げている阿久沢様を操縦するせい。
群馬の未来をかけた大博打だから・・・!!と、その気にさせるのです。
が・・・その言葉もなんとも薄っぺらくって心動かない・・・。

納期に間に合わない・・・??と思ったところへ阿久沢様の生糸を集めてきてくれて一件落着!!
「これをお使いください!!」by阿久沢様
う~ん・・・やっぱり群馬編のやり手は阿久沢様と妻・せいでいいんじゃないの・・・??
二人は何もやってないし・・・
あ・・・不倫騒動はやったか・・・。

一件落着となったので、寿を見舞うように素彦にお願いする美和。
群馬が心配だから行けない・・・という素彦に・・・
生糸の監視も囚人たちの監視も自分がすると言い出しました。
なんでお前がすんねん!!
生糸を紡ぐのは??
女たちの学び舎はどうしたんだ・・・??
県令代理の仕事の方がいい仕事なのか・・・??って感じがするわ。。。
後のことは面倒見てくれるって阿久沢様夫妻も言ってますが・・・
もともと阿久沢様が仕切ってたんだから、ここに来るまでにいろいろあったけど、腹割って男同士分かり合って・・・任せてくれ!!って感じで少年漫画のように強敵(とも)になったらかっこ良かったのに・・・

そして・・・学び舎もみんなが作ってくれて一件落着!!

いよいよ寿に最期の時が・・・
今回、はじめてじゃないの??美和が臨終時にいなかったの。

「明治十四年学びの場」
美和さんどうぞ!!みたいな感じで看板だけ書いたであろう看板が、学びの場に掲げられました。
寿と約束した学びの場だそうですよ・・・
寿の声が聞こえて・・・そう、それは、別れの声・・・。

hana3「奥様が・・・」by中原

寿が楽しみに待っていた女性のための学びの場・・・

粂次郎は、母から父への手紙を預かっていました。


東京の家で渡されたであろうその手紙・・・そこには「私が死んだあとは、美和を妻に迎えてください。」と書かれていました。

大義名分が出来ましたね、美和。

ということで、いきなりですが姉妹の約束だった女たちの教育の場が出来ました。
なんだか話が出てきてから20分ぐらいで出来上がってしまったので・・・
その間に生糸問題や寿の死も入っているので、なにも苦労なく出来上がった・・・
ただ単に、空き家をきれいに掃除して終わったみたいな教育の場が出来ました。

次回はここで勉強を教えるんだろうか??
それとも放り出して鹿鳴館で踊るんだろうか・・・??


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ああ・・・副題が~打つ手なし!二人に挽回の道は??~ですよ。
何を挽回するんでしょう・・・。
不倫の誤解を解くことなんでしょうか・・・??
そんな大河、嫌なんですけど・・・。


前回、大雨によるがけ崩れで帰れなくなった美和と素彦・・・
ようやく泊まれた宿屋は一部屋だけ・・・枕を並べて寝ることになりました。
って・・・少女漫画のドキドキじゃないんだから、奇をてらうな・・・とか言われたからのコテコテの少女漫画なんでしょうか・・・??

「おかしい・・・あの県令殿が来てからだ・・・だが・・・それもそろそろたいな・・・
 なにかが起こる・・・その責任は取ってもらう!!」by阿久沢様

って、お泊りのところに入れたら不倫の責任になるじゃん!!

hana2

















こんなことをやっているうちに、揚返し場が何者かに放火されちゃいましたよ。

県職員が必死に鎮火しようとしている中・・・探しても、探しても県令殿はいません。
だって、↑なんだもん。

で、お泊りの場に探しにやってきてびっくり!!
美和がいるではないか・・・??

すでに、生糸の仲買人が火をつけたと犯人も判明!!
処理も終えたんだって。
素彦よりも、みんな優秀だわ!!
県令殿のなさりように、不満を持っていると言っているという。。。
どの部分に・・・??

どこにいたのか・・・??全責任を取ると約束してたよね!!誰と一緒にいたのか??
と、阿久沢様が詰め寄りますが・・・
どの責任にします??

美和と一緒に一晩過ごしたってあっさり、きっぱり認める素彦に・・・。
「これは県令殿とあろうお方が・・・」そんなことはあろうはずがない・・・と、嫌みなんだよね??
いえいえ、当然のことを言ったまでですよね。

だいたいから一緒に住んでるだけですでに怪しい・・・。
うわさは尾ひれをついて広まるのでした。
サイテーじゃないの・・・??
だいたいから、最初から妾は許さないな感覚で話を進めるからこんなことになるんだよ・・・。
いい男(経済的にもね)にはたくさんの女とその家族がついていた時代・・・
=経済的に裕福な、地位も名誉もある男はたくさん女を囲うけれど、その一族の面倒も見る時代だったんですよ。
今風の・・・妾なんて絶対に許せない!!的に進めていったからこんな結果になったんだと思うんです。
ちなみに、本当の美和は、素彦の妻となりますが、この時点では一緒には住んでいないし、”久坂の妻であることを誇りに”思っています。

長州から中原がやってきました。
ひとのうわさを聞いてちょっと心配になります。
水を確保したいとやってきた中原・・・
二条窪のことでしょう??なんでここまで来るのかとちょっと変な気もしますが・・・
人と人を結ぶ美和は船津を紹介するのでした。

最近、素彦を見つめる美和がよく出てくるんですが・・・
見つめること=おしとやかとか、三歩下がって的な印象を付けようとしてるんでしょうかね・・・??
策を練っているとしか見えませんね・・・。

う~ん、中原は、うわさは気にならないといい・・・県職員たちが素彦にこの土地を出て行ってもらいたいと言ってた事が気にかかるらしいの・・・??
でもね、その元凶って、うわさ=美和だと思うんですよ。
あげまんどころか、さげまんなヒロインって・・・
「せわあない!!」だそうだよ・・・。

おまけに、美和にだけ挨拶して・・・うわさの話をして・・・素彦に挨拶もしないで帰る中原。。。
せんでいいのか・・・おい!!??

寿のもとにも美和の手紙が届きます。
それを読んで・・・
美和と旦那様は通じるものがる・・・私は・・・もう、要らんのかもしれませんね。。。
そんなこと言わすか・・・寿に!!??

信じられない!!
きっと、こんな言葉・・・脚本を書くひとの気持ちには共感できないわ・・・と、おもう。。。
だから、人気ないんだよ・・・花燃ゆ!!

西南戦争の後処理に頭を抱えていたのは・・・
ひとりの伊藤ではなくって、山縣と井上が加わってますね。。。
っていうか、本当に、出さないんだね・・・大久保・・・維新三傑で、亡くなった時に借金しか残っていなかったという政治のエキスパートを!!
誰かが言っていた・・・伊藤博文が大河にならないのは、お隣の国のこともあるけれど、「金と女がついて回るから」だって・・・!!
おっと、別に伊藤が嫌だっていうんじゃないのよ・・・
でも、出なかった大久保利通の株は下がらなかったからよかったのか・・・??

西南戦争後の罪人たちの行先・・・
群馬に罪人たちがやってくるというお話がぽんと出てきました。
なぜだか銀姫が手紙を送っています。
くれぐれも首を突っ込まないようにと・・・
これって、ダチョウさんの「押すなよ!押すなよ!」に聞こえてしまったのは私だけ・・・??
やるに決まってんでしょう・・・??

熊本・鹿児島の国事犯87人がやってきました。
県令殿の鶴の一声で・・・
「ただ働かせるのではなく、働きながら適正に応じた技能を身に着けてもらう」となりました。
ま、これはいいわな・・・。
でも、胸を張っていうほどのことでなく・・・
阿久沢様も言っている通り、ほかの県でもやっている・・・

あ・・・出ましたよ、””群馬から日本を変える!!”by素彦

で・・・歩き回って何とかするようですよ、素彦・・・。
もっと頑張ってもらわないと、阿久沢様の悪っぽさも光らないのよね・・・。

国事犯受け入れの協力を一軒一軒頭を下げてお願いしています。
トップダウンでもっとガツンとしないのが素彦なんですね・・・。

hana3













で・・・すでに振る舞いが妻の美和は、おにぎりを差し入れするのでした。

で・・・美和は、またもや仕事をほったらかして国事犯受け入れのためにお願いに回ってるようです。
養蚕はやっぱり片手間だったんだね・・・。
それに、国事犯受け入れの件は、県の仕事ではないの??

「あの人たちにも家族がおるんです。」by美和

自分たちが食べることで精いっぱいの人たちに、どう受け入れろというのだ・・・
自分の家にも受け入れないというのに・・・
そういうのは本当にトップダウンで住むところを県が作って収容してそこで作業させたらいいんじゃないのか・・・??
それが、お殿様=県令の力じゃないの??
でも主役ですからねえ・・・一生懸命頭を下げる美和のことを受け入れてくれる優しい群馬の人たちなのです。

hana2












せいにいろいろ御高説をと唱えて・・・お手伝いしてくれるそうですよ。
すでにあほ臭く、御高説、私の頭に入んなかったわ・・・
でも、美和ではなく、せいのおかげでまたもや一軒一軒回る美和・・・。
せいがどうにかして・・・とお願いしている横で、「決して悪い人たちではないんです。」by美和
国事犯ですよ・・・??おかしいだろう・・・??

hana













時間がもったいないよなあ・・・1週間も歩いてまわって成果の出ていない素彦に。。。
養蚕業の女性たちがやってきます。
美和の(せいに世話になっている)おかげで働いてもらえることになるのでした。
「まってるお身内がいると思えば・・・」とか、「おせいさんまでこられちゃあ・・・」とか、
とどめは素彦の「またやったな・・・美和の仕業よ・・・」と、なるのでした。
普通なら県令として、「罪人を一般家庭に・・・??人々を危険にさらして。。。なんて非常識な!!」ぐらい言ってほしいものです。

ああ・・・どこまでお気楽なんだ・・・ここまでくるともう・・・言葉もありません。
女性は得体のしれない男と働くなんて・・・危ないだろう・・・。
人々の安全を守るのも県令殿の仕事ではないの・・・??

国事犯たちがやってきて・・・
いろいろ演説する素彦ですが・・・更生するのは県ではなく、市井の人々なんですよ、きっと。

素彦が言うには、それぞれの未来に向かって歩むんだそうですよ。
感激の雨嵐ですが・・・私の耳には入ってこずの演説でした。

このひとなら・・・本当に群馬を変えるかもしれない・・・って、どんな魑魅魍魎が住んでんねん!!
素彦が何をやったというのだ・・・!!??

結局、いい人な阿久沢夫妻がいないと何にもできないんだよ・・・。

そこへ・・・手紙が来ました。。。
それは、東京の粂次郎からだったのです。

hana4












「母の気持ちがわかるなら・・・
あなたには今すぐその家を出て行ってほしい・・・」

あら・・・そのまま終わるのかと思いきや・・・
副題の打つ手なし!二人に挽回の道は??とか、この終わり方とか・・・
”不倫”が題材なのね。。。

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