日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:井伊直弼

1905年、日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破しました。
その時の司令長官・東郷平八郎は、戦後、「仁義礼智信」の文字をある幕臣の子孫に送りました。
あて先は、小栗・・・書を送るにあたり、東郷はこう述べました。

「小栗上野介殿による横須賀製鉄所建造が、日本海海戦の完全な勝利にどれほど役立ったかしれません。」

横須賀製鉄所は1865年、徳川幕府によって建造が始まった日本初の近代的造船所です。
横須賀アメリカ海軍基地に、その一部が残っています。
1号ドライドック・・・日本海海戦の勝利には、ここで建造、整備された艦艇が大きな役割を果たしました。
その建設を手掛けたのが、小栗上野介です。

群馬県高崎市にある東善寺・・・
小栗を象徴する品が残されています。
何の変哲もない一本のネジ・・・
アメリカのワシントン海軍造船所を見学した時に、ひと箱もらってきたものです。
蒸気機関を用いて、大量に作っている工業ネジ、みんな規格が同じ・・・。
アメリカの近代工学、文明のシンボルです。
日本もこういうものを作りたい・・・!!

日本の近代化をネジに託して持ち帰った小栗・・・
その先見性はどのようにして生まれたのでしょうか?
1827年、小栗上野介は旗本の嫡男として生まれます。
幼い小栗は、エリート教育を受けます。
小栗は僅か7歳で、漢学者・安積艮斎の塾に入門しています。
艮斎は、非常に開明的な人で、著書「洋外紀略」には次のような一節があります。

「国を守るには大船や大砲を数多く作るしかない
 諸外国は、その費用を交易で賄っている」と。

まさに時代は変革期にありました。
1853年黒船来航。
圧倒的な武力を前に、日本は、1854年日米和親条約の締結に踏み切ります。
艮斎から学んだことが、小栗の目の前に・・・!!

1859年、33歳を向かえた小栗は歴史の表舞台に・・・!!
日米修好通商条約批准の使節に抜擢されたのです。
役職は、使節一行を監督する目付・・・。
その才能を認めた井伊直弼直々の抜擢だったといいます。
使節を乗せたアメリカの軍艦ポーハタン号は、太平洋を横断し、サンフランシスコを経由して東海岸へ・・・およそ2か月の航海の後、首都ワシントンへ・・・!!
大統領に国書を奉呈します。
現地の新聞はその様子を大々的に報じています。
しかし、果たすべき仕事はまだあります。
小栗は出発前に、井伊大老から使命を帯びていました。

「我が国にとって海軍創設は急務。
 海軍工廠を見学したい。」と。

条約批准の8日後・・・1860年4月5日、ワシントン海軍造船所を見学。
最新の造船技術は、小栗の目にどのように映ったのでしょうか?

”銅や鉄製の部品が、すべて蒸気機関を用いて作られている”

とりわけ小栗たちを驚かせたのが、巨大なスチームハンマーでした。
そこではおよそ3トンものハンマーが、蒸気の力で持ち上がり、巨大な鉄の棒をひと打ちで切断していました。
1860年5月13日、ニューヨークを出港。
日本への帰路につきました。
日本を外国から守るため、近代的な造船所を建設する・・・小栗の中に、確かな目標ができました。

しかし、帰国した小栗を待ち受けていたのは、驚くべき報せでした。
1860年3月3日に起きていました。
大老井伊直弼が、尊皇攘夷を掲げる薩摩や水戸の浪士たちによって暗殺されたのです。
桜田門外の変です。
自らをアメリカへ派遣した大老の死・・・夢を描いて帰国した小栗・・・その行く手は突如暗転しました。

アメリカから帰国して一月・・・外国奉行に抜擢されます。
処が翌年事件が起きます。
1861年2月、ロシア軍艦対馬を占拠。
小栗はすぐに現場に急行します。
しかし、ロシア船の船長は、幕府を交渉相手と認めず、対馬藩を交渉相手と直接交渉を主張します。
交渉は行き詰まり、江戸に戻る小栗・・・
一説には、この時小栗は、対馬を幕府領としてロシアと交渉することを考えていたといいます。
しかし、幕閣はこの案を却下。
東アジアに大きな勢力を持っていたイギリスに、対馬に軍艦を派遣してもらい、ロシア軍艦を退去させたのです。
この外交の裏側には、外国通として知られた勝海舟がいたと言われています。

「日本が正面から単独で、ロシアと談判したものなら、なかなかうんとは承知しなかっただろう」by勝海舟

1861年7月、小栗は責任をとって外国奉行を辞任
軍事力無くして国家は成り立たないことを痛感することとなりました。
しかし、幕閣はその才能を放ってはおきませんでした。
1862年、勘定奉行に就任。
これを機に造船所建設を推し進めようとした小栗・・・
しかし、その道は平たんではありませんでした。
当時、幕府内では莫大な金のかかる造船所建設に疑問の声が上がっていました。

「船は外国から買えば良い」

というのです。

「海軍を運用する人材育成に、イギリスは300年かかっている
 日本では500年かかる
 造船所建設よりそちらを優先すべきである」by勝海舟

「我が国はすでに、外国から購入した船を何隻も保有している
 破損すれば修理する場所が必要ではないか?」by小栗

短期的な目で見れば、外国から船を買った方が早い・・・
しかし、メンテナンスせず、ずっと動くかと言ったらそうではない。
外洋を走る船には貝殻が付き、船体が腐らないように塗装をするのです。
そのためには、船を造るだけではなく、実際に毎日修理できる場所が必要なのです。

1864年、幕府は造船所建設に動きます。
しかし、大きな課題が残っていました。
高度な技術と莫大な資金です。
当時の日本に単独での建設は不可能でした。
幕府には、当初アメリカに援助を求める計画がありました。
ところが・・・1861年南北戦争勃発!!
小栗は新たなパートナーを探す必要が出てきました。
虎視眈々と日本を狙う列強・・・!!
もし選択を誤れば、植民地化につながる恐れがあります。

イギリスにする・・・??
海軍に置いてイギリスは世界に冠たる国で、一早く蒸気機関を実用化し、最先端の造船技術は他国の追随を許さない・・・。
しかし、イギリスのアジア進出は、極めて暴力的!!
立ち寄った香港では道の真ん中はイギリス人が歩き、清国人は端に追いやられていた・・・。
造船所建設には多額の費用が要る・・・もし、支払いが滞れば、イギリスに国の富を根こそぎ奪われる事態になりかねない・・・。
そして、イギリスは最近薩摩と接近している・・・!!
この頃薩摩藩は、幕府政治の改革に動き出していました。
政治工作でそれを実現しようとしたが果たせず、方針を転換・・・
イギリスから最新式の武器を購入し、軍隊の近代化を進めていました。
イギリスがその後押しをしているとすれば・・・幕府の要請にこたえてくれるだろうか・・・??

オランダは・・・??
古くから付き合いがあり、海軍建設(長崎海軍伝習所)にあたり頼っていた国だ。
教官はオランダから派遣された士官が勤めていました。
オランダに、技術者肥田浜五郎を派遣してもいます。
目的は、造船の機会の注文と造船所建造方法伝習です。
幕府の一部では、オランダでの造船所建設が具体的に上がっていました。
しかし、近年その国力は衰えていると聞く・・・。
造船所建設という大プロジェクトの全面的援助が可能だろうか・・・??

フランスは・・・??
あまり付き合いのないフランス・
その頃、日本とフランスの関係は転機を迎えていました。
新たな公使レオン・ロッシュが来日、イギリスの植民地政策を非難、幕閣の好意を得ていました。
フランスは正義の国だと宣伝していました。
ロッシュには、日本で手に入れたいものがありました。
それは・・・蚕。
当時、絹織物は、フランスの輸出産業の主力で、伝染病の大流行で蚕が絶滅に瀕していました。
ロッシュは幕府の許しを得て、種紙を購入し本国に送っています。

「日本政府は我が国に皇位を持っています。
 毎日私は、フランスが日本政府に与えた幸福な影響を確認しています。」byロッシュ

友好的な関係を築きつつあるフランスとなら植民地の危険性はないかもしれない・・・。
それにフランスは、イギリスに負けじと造船技術の近代化に努めていると聞く・・・
そこにかけてみる価値はあるのでは・・・??
イギリスか?オランダか?フランスか・・・??

小栗が選んだのはフランスでした。
何が決め手となったのでしょうか?

”小栗上野介がフランス公使ロッシュに要請した造船所建設担当者について回答があった
 ヴェルニーという者が適任だという”

ヴェルニーは、清国で造船所建設の経験もある、フランス海軍きっての技術者です。
そのヴェルニーを日本に派遣し、工事の指揮を執らせると、ロッシュが確約したのです。
ヴェルニーは、契約を待たずに来日し、測量しました。
大型船でも侵入可能な横須賀に白羽の矢を立て設計に取り掛かりました。

ドックから備品の工場まで・・・小栗がアメリカで目の当たりにした造船所が日本で実現しようとしていました。

小栗が勘定奉行として直面していたのが、建設費年間100万ドルです。
ひっ迫する幕府財政の中、何を財源とすべきか・・・??
目をつけたのは生糸でした。
フランスとの契約との何か月も前から、根回しに動く小栗・・・そこで、生糸に気付きます。
生糸の安定供給・・・輸出によって外貨を得、造船所のための機材を買うことができる・・・!!
そしてその、生糸を現物で納めさせ、幕府が海外で売れば、大きな利益が得られるのです。
幕府は動き始めます。

”幕府の改印のない生糸や種紙の売買は一切許さない”

小栗は、幕府による生糸独占に舵を切ったのです。
さらにこの年、幕閣に組合商法の設立を提案しています。
計画は・・・??
幕府が改印制度を使って日本中の生糸を独占します。
さらに、日本とフランスで大商人に組合を作らせ、独占して生糸貿易を行います。
日本とフランスで生糸貿易を独占し、その費用を造船所建設に使おうと考えたのです。
造船所の建設は順調に・・・
しかし、国内情勢は悪化の一途をたどり始めました。

1866年第二次長州征伐
薩摩の仲介でイギリスから最新兵器を購入した長州を相手に、幕府軍は大敗北を喫します。
幕府の威信は充足に低下していきます。
この時、長州との講和講習に臨む勝海舟に対して小栗は・・・
「幕府の下に郡県制度を立てようと思う」
すべての藩を廃止し、将軍が任命した知事が地方を治める中央集権制です。
小栗は、徳川中心の近代国家を構想していました。
明治維新の2年前でした。

1868年鳥羽・伏見の戦い
薩摩長州の新政府軍と旧幕府軍との間に戦いが勃発!!
旧幕府軍は敗北を喫します。
登城した小栗上野介は慶喜に、徹底抗戦を訴えます。
慶喜の袖をとってまで秘策を・・・!!
”東海道を上ってくる新政府軍を幕府陸軍で迎撃
 孤立した敵を、幕府の誇る最新鋭の軍艦で海から砲撃する”

新政府軍の参謀・大村益次郎は・・・
「あの策を用いられれば我が軍は全滅していたかもしれない」と言っています。
しかし、すでに恭順を決めていた慶喜は、小栗の策を却下し、勘定奉行から罷免します。
そして恭順派の勝が・・・江戸城無血開城をするのです。
徳川中心の近代化の夢はついえたのです。

1868年3月1日、小栗は、知行地・権田村に退去
移住から間もなく、この地に屋敷の普請を始めます。
敷地の一角には・・・お茶の苗木を江戸から運んで植えています。
当時お茶は、生糸と並んで重要な輸出品目でした。
この地でも、国をとませる方法を考えていたのです。

国の基本は国民、国民が豊かになって落ち着いた暮らしができるということが大事なのです。
しかし、4月22日、新政府軍から付近の諸藩に一通の命令書が届きます。
小栗上野介は権田村に陣屋を厳重に構え、砲台を築いている・・・反逆の謀略は明らか・・・
手に余るようであれば、誅滅すべし!!

4月5日、小栗は逮捕され、翌日付近の河原で斬首されます。
享年41歳でした。

小栗が手掛けた造船所建設は新政府に受け継がれ、1871年横須賀製鉄所完成!!
製鉄所とは当時の用語で造船所を含む海軍工廠を指します。
後の日本海海戦でバルチック艦隊を沈めた駆逐艦や、魚雷艇の多くがこのドックで建造補習されたといいます。
小栗が造船所建設にあたって同僚に語った言葉が残されています。

「この造船所ができれば たとえ幕府を売り出すとしても、 土蔵付き売り家の栄誉が残る」by小栗上野介

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時代は幕末から明治へ・・・
戊辰戦争、破竹の勢いで進軍する新政府軍に立ちはだかった男がいました。
越後長岡藩士・河合継之助です。
最新兵器ガトリング砲や近代兵器を使って徹底抗戦し、新政府を苦しめました。
郷土を荒廃してまで戦った河合継之助・・・どうしてなのか・・・??
越後の蒼龍と恐れられた男、河合は新政府軍との戦いの先に、何を見ていたのでしょうか?

江戸時代、越後長岡藩7万4000石の城下町として栄えた新潟県長岡市。
1827年、河合継之助は代々藩の勘定方を務めた中級藩士の家に生れました。
河合は若くして勉学に精進します。
藩校での音読中心の勉学では飽き足らず、感銘を受けた書物は一文字一文字写して体得することを心掛けました。
中でも心酔したのは王陽明の陽明学でした。
その思想は、学問を実際の行動に生かす知行合一です。
当時、陽明学の実践者として世に知られたのは、幕臣の大塩平八郎・・・貧民救済のための反乱を起こしたのは、河合が11歳の時でした。
17歳になった河合は誓いを立てます。
”十七 天に誓いて 輔国に擬す”
国のために力を尽くして働く・・・と。
陽明学が、長岡藩のためになると思っていたようです。

17歳の河合が誓いを立てた年、長岡藩を揺るがす大事件が・・・
藩が管理し、日本海海運の要として栄えていた新潟湊・・・各地からの物資に紛れ、中国からの密貿易が発覚!!
そのため長岡藩は、政府に新潟湊を没収されてしまったのです。
湊での商取引から税をとってた長岡藩は、収入減を失います。
河合の誓いは、何の行く末に対する強い危機感からでした。
案の定長岡藩は、6年後には23万両の赤字をだし、財政危機に陥ってしまいます。
藩の再建を一途に考え続けた河合・・・この後、時代の大きなうねりが彼を表舞台へと押し出していきます。

1853年6月、ペリーが黒船を率いて浦賀に現れ日本に開国を求めます。
この時、長岡藩主牧野忠雅は、譜代大名として老中を務めていました。
牧野は未曽有の国難に対する対応策を若手藩士たちに求めます。
河合も意見書を提出・・・これが藩主の目に留まり、初めて藩で役職をもらうこととなります。
藩の重役会議に列席し、意見を述べる機会を与えられた河合・・・。
ところが、席上・・・面と向かって重役たちを批判し激怒させてしまいます。
さらに、藩主の跡継ぎ勉強を教える役に任じられると・・・教えるために学問を学んでいたのではないと断ってしまいました。

1858年、旧態依然とした長岡藩を離れ、遊学の旅に出ることを決心します。
西国にどうしても会いたい人物がいたのです。
天空の城・松山城で知られる備中松山藩・・・石高は5万石でしたが、実高は2万石の小さな藩でした。
慢性的な財政年に陥り、一時は10万両もの借金に苦しみました。
これを立て直したのが、松山藩参与陽明学者の山田方谷でした。
河合は方谷から、藩政改革の極意を学びたいと願いました。
河合の旅日記「塵壺」・・・方谷に面会した日、書留がありました。

封建の世、人に使われること出来ざるは ツマラヌ物

能力があっても藩に使われなくては意味がない・・・
方谷は、藩士としての心得を伝えます。
方谷が藩政改革で力を注いだのは”備中鍬””松山きざみ”など、特産品の生産を領民たちに奨励することでした。
これを藩が買い上げ、領民たちが潤います。
松山藩では、この特産品を江戸に運び、商人を介さず、藩士が自ら販売して大きな利益を上げていました。
方谷は生産性をあげ、武士が自ら経済活動を担うことで、藩全体が豊かになるシステムを作りました。
そして藩の再建を成し遂げたのです。

民は国の本
吏は民の雇い

民衆は国の基礎であり、役人である武士はその雇われ人に過ぎない

江戸時代の身分意識にとらわれない画期的な考え方でした。
方谷から、財政立て直しの秘訣を学んだ河合・・・
長岡に戻り、いよいよ藩政改革に腕を振るうこととなります。

1860年3月、河合が方谷のもとで研鑚を積んでいた頃、幕末の政局を動乱に巻き込む大事件が起こりました。
桜田門外の変です。
開国に反対する攘夷派を弾圧した大老・井伊直弼が暗殺されたのです。
これによって幕府の権威は失墜・・・以後各地でテロ事件が頻発します。
京都では朝廷と結びついて政治の実権を握ろうとする薩摩藩や長州藩が暗躍し、時代は大きく動こうとしていました。
河合は藩主にその行動力を認められ、郡奉行に抜擢されます。
いよいよ藩政改革の重責を担うこととなります。
目をつけたのが、領内を流れる信濃川・・・流域で水害が頻発し、耕作地に甚大な被害がでていました。
河合は治水工事を完工し、米の増産に成功します。
さらに、藩内の流通にも大胆な手を打ちます。
重要な財源だった信濃川の通行税を廃止します。
人や物の往来を促進し、商業が発展するという考え方です。
独占していた商売を開放し、藩への届け出だけで新規参入できるようにしました。
生産性をあげ、流通を促進し、経済を活性化する・・・方谷に学んだ河合の改革によって、わずか2年で10万両を蓄えるようになります。
河合の藩政改革が実り始めていた頃、中央は激動の時代となっていました。

1867年10月14日、大政奉還
     12月9日、王政復古の大号令

新政府は天皇を中心とする新政府樹立を宣言します。
新政府と幕府の対立は強まり、一触即発の状態に・・・!!

内乱の危機を察した河合は京都に向かいます。
長岡藩として朝廷に意見書を提出するためでした。
河合直筆の草稿が残されています。
そこには、内乱を防ぎたいという強い想いが認められていました。
譜代藩の立場から、河合は徳川の政権復帰を提案します。
しかし、朝廷はこれを黙殺・・・
そして、1868年1月、鳥羽・伏見の戦い勃発
近代兵器を豊富にそろえた新政府軍を前に、旧幕府軍は歯が立ちませんでした。
江戸に戻った河合は、長岡藩邸に会った美術品や茶器を売り払い、その金で横浜の外国商人から近代兵器を購入します。
なかでもアメリカ製のガトリング砲は、1台で歩兵100人分に匹敵するという割れた機関銃でした。
河合はこれを2台購入し、戦乱に備えます。

鳥羽・伏見で圧勝した新政府軍は、三手に分かれ、錦の御旗で諸藩を恭順させながら東へ進軍・・・
江戸の旧幕府勢力を一掃し、会津、東北諸藩と戦端を開こうとしていました。
その途中、北陸道を進む新政府軍は、長岡藩に恭順を求めます。
新政府軍に参加するか、軍資金3万両を供出せよというものでした。
長岡藩の重役たちの意見は割れます。
恭順か抗戦か・・・議会は紛糾し、返答は先延ばしに・・・。
業を煮やした新政府軍は、長岡に向けて侵攻開始・・・
4月27日、長岡藩に隣接する小千谷に進駐・・・長岡城までわずか17キロ・・・!!

この日、河合は家老上席・軍事総督に任命され、名実ともに長岡藩の全権を預かりました。
そして藩士たちに、交戦でも恭順でもない新たな考えを伝えました。

「勤王佐幕の論外に立ち 封土を鎮撫し 十万の民を治め以て 上は朝廷および徳川氏に対し忠実を尽くし 下諸侯たる責めを全うする外なし」

それは、新政府にも旧幕府にもつかず、武装したまま中立を保つという宣言でした。

1868年5月2日、新政府軍と直接交渉する為に、小千谷の慈眼寺を訪れた河合・・・
その時に使われた部屋が残っています。
新政府軍幹部と対峙した河合・・・
自分が必ず東北諸藩を説得すると時間の猶予を乞い、新政府首脳部に向けた嘆願書を差し出しました。
そこには、河合の目指す理想の国家像が書かれていました。

10万もの領民が安心して仕事に励み、藩全体が豊かになるよう努めることが、私の天職です。
長岡のような小さな藩でも、倹約に努め、産業を起こせば海軍を持てるようになるでしょう。
それなのに、戦争によって領民を苦しめ、農業を妨げ、国を疲弊させるのは、かなしむべきことです。
今こそ、日本国中で協力し、世界へ恥じない強国を作るべきです。

河合が訴えようとしたことは、長岡藩の中立だけではなく、全ての藩が富国強兵に努め、国全体を豊かにするというものでした。
しかし、新政府側は、軍備を整えるための時間稼ぎだと決めつけ、わずか30分で立ち去りました。
河合の信念を込めた嘆願書は、受け取ることさえ拒否されたのです。
窮地に立たされた河合・・・

新政府に恭順し、会津討伐に加われば、長岡が戦場になることはない・・・
それとも・・・強引な新政府軍に徹底抗戦する・・・??
ガトリング砲を始め、最新兵器をもってすれば、数か月は持ちこたえることができるはず・・・
雪の季節まで持ちこたえることができれば、勝機も見えてくる・・・??
諸藩も味方に付くかも・・・??
それまでに長岡が戦場となれば、多くの領民が犠牲になってしまう・・・。
中立する・・・??
徳川譜代の長岡藩が、核版図の調停役を買って出れば、新政府にとっても悪いことではないはず!!
どうにかして嘆願書を新政府首脳部に・・・!!

交渉が決裂した翌日の5月3日・・・河合は新政府軍本陣をたずね、再交渉を願い出ました。
中立を貫くことを選んだのです。
しかし、河合の懇願が取り次がれることはありませんでした。
諦めきれない河合は、他藩に仲介を頼みましたが、結果は同じでした。
河合は心を決めます。

此上は君国の為に一藩を挙げて奸賊を防ぐの外途なし

最早、新政府軍と戦うしかない・・・!!
しかし、長岡藩邸1300人に対し、新政府軍はおよそ3倍の4000人!!
兵力の差は歴然でした。
河合は新政府軍と対立する東北諸藩と軍事同盟を結びます。
5月10日、両軍が衝突・・・北越戦争が始まりました。
新政府軍は信濃川の対岸から大砲を撃ちかけ、長岡城下に突入!!
長岡城に陣取った河合は、自らガトリング砲を操りこれに応戦!!
しかし翌日、河合の奮戦虚しく、新政府軍によって長岡城は落城します。
最新兵器をもってしても、新政府軍の物量攻撃には抗いきれませんでした。
しかし、河合は諦めず、地の利を生かしたゲリラ戦を展開!!
領内各地で新政府軍を苦しめます。

7月24日、深夜・・・河合は長岡城奪還の奇襲作戦を試みます。
城の裏手に広がる沼地を胸にまでつかりながら6時間行軍し、早朝・・・
攻撃を開始します。
不意を突かれた新政府軍は大混乱に陥り敗走!!
この時、城を守っていた新政府軍の兵2500に対し、河合の兵はわずか700でした。
河合は兵力差をものともせずに、長岡城の奪還に成功したのです。

しかし、この戦いには大きな犠牲が伴っていました。
河合が左足に銃撃を受けたのです。
河合重傷の報せに長岡藩兵の士気は一気に低下・・・
かたや新政府軍は時を置かず猛反撃!!
新政府軍は、各地からの援軍を加えて3万に膨れ上がっていました。
4日後・・・城は再び新政府軍の手に落ちました。
3か月に及んだ北越戦争で、長岡の町は焼け野原となってしまいました。

河合は長岡藩兵の残兵と会津を目指します。
自力で歩けないために、担架で運ばれながら、80里越えという国境の険しい峠を超えました。
道中、日に日に傷が悪化した河合は、会津の塩沢村に身を寄せます。
今もこの地に河合が最期を迎えた座敷が大切に残されています。

1868年8月16日、この部屋で河合は42年の生涯を閉じました。
塩沢村の人々は、河合の死を悼み、墓を立て弔います。
しかし、墓石に河合の名はありません。
追撃してくる新政府軍に墓を暴かれないためでした。
賊軍の罪人・・・河合は日本の未来を見据えた構想を抱きながら、賊軍の将として世を去りました。
敗走ちゅうの峠で句を詠んだといます。

八十里 こしぬけ武士の 越す峠

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今からおよそ150年前、大改革が行われていました。
参勤交代は、全国の大名が二年に一度江戸へ赴き、軍役奉仕を行う江戸時代の基本制度です。
その費用は莫大で、藩財政を圧迫・・・幕末には多くの藩の財政を圧迫し、破たん寸前となっていました。
当時は異国船の来航・・・防衛力の強化と財政の立て直しが叫ばれていました。

「最早参勤交代をしている場合ではない!!」

そういったのは、越前福井藩主・松平春嶽です。
春嶽は、大胆な緩和を幕府に提案し、大名の負担軽減と防衛力の強化を叫びます。
しかし、参勤交代は主従関係を確認する幕藩体制の根幹・・・周囲は難色を示します。
国家存亡の危機を前にしても帰られないその制度とは・・・??!!

松平春嶽が、参勤交代の帰り道を書いた日記によると・・・
江戸を出て間もなく、農民たちの姿を目の当たりにして・・・

”裕福なら牛や今を使えるが、貧しいとそうはいかぬ
 もし百姓の苦労や実情を知らぬ大名がいたら、嘆かわしきこと”

一国の主たるもの、領民を慈しむ政治をしなくてはならない!!
その政治信条を培ったのが、幕末の財政難でした。
90万両もの借財があったと言われていて、自分の藩を見つめ直し、領民に対する見方を戒めたのです。
つもりに積もった福井藩の借金・・・90万両=450億円・・・。
そのしわ寄せが領民の年貢に・・・打ちこわしや一揆が頻発していました。
危機的な懐事情で・・・春嶽ですら一汁一菜でした。
粗食で耐え凌ぐ有様でした。
他の藩も同様の状況で苦しめられていました。

その最大の原因が、莫大な経費を必要とする参勤交代でした。
その旅路は宿代だけでもバカにならず、2000人のお供を連れていた加賀藩の場合、1泊で1000万以上・・・
江戸までの片道の宿泊費は総額2億円にもなりました。
少しでも宿泊日数を減らそうと、速足で駆け抜けるという涙ぐましい努力をする藩もありました。
さらに、江戸へ人質として置いていた妻や子の住む江戸藩邸の維持費も大きなものでした。
5000人もの藩士がいた加賀藩では、年間予算の半分・・・50億円を江戸で費やしていました。

それなら参勤交代の規模を縮小すれば・・・??
御用商人たちの武鑑には、各大名の名前、石高、武器の種類や数まで事細かく書かれていて・・・それが大名の格となっていました。
江戸に暮らす庶民は、この武鑑を大名行列のガイドブックとしていたので、大名たちは、お家の威信にかけて格を下げるようなことはできませんでした。
しかも、この行列は、幕府にとっても大名にとってもメリットがあり・・・
江戸に大名が来るというのは、幕府の権威を非常に高め政権が安定します。
大名同士の序列の中で、自分の家が他藩より高いか努力します。
参勤交代の道具を増やすことを幕府に嘆願し、幕府が許可する・・・
それは、幕府の恩恵を感じ、大名は同等だった大名たちに一歩先んじる努力をしたのです。

将軍との謁見でも、格に応じて畳の何枚目に座るかが決まっており、大名の努力次第で位置を変えることができ・・・参勤交代は、大名同士の格式をめぐるせめぎあいでもありました。
しかし、その制度の改革を迫る未曽有の危機が日本を襲います。

1853年ペリーが浦賀に来航。
どう対応するのか??幕閣は連日議論していました。
しかし、結論を出すことができません。
時の老中・阿部正弘は、全国の大名に意見を募ります。
幕府としては異例の試みでした。
そして、1通の建白書が幕府に届きます。
その差出人こそ、26歳の福井藩主・松平春嶽で、その内容は、幕府にとって衝撃的なものでした。

全国の大名は参勤交代で疲弊しきっております。
この国難に対峙するためには、江戸に散布する大名を帰国させ、挙国一致で軍備を整えるべきかと存じます。

春嶽は、異国に立ち向かうためには、財政をひっ迫させている参勤交代を緩和する必要があると幕府に訴えたのです。
しかし、将軍の忠誠を誓う証である参勤交代の改革を主張すれば、幕府から反逆を疑われ、処罰されてもおかしくありませんでした。
どうして春嶽は危険を省みず主張したのでしょうか??
春嶽は、本来は田安徳川家の出身で、将軍になったかもしれない立場でした。
なので、福井藩のことだけを考えてはいなかったのです。
春嶽が生まれた田安徳川家は、八代将軍吉宗に始まる家柄で、春嶽は11代将軍家斉の甥に当たり、12代将軍家慶のいとこにあたるサラブレッドだったのです。
これは譜代からは言えず・・・親藩大名の将軍に近い自分だからこそ言える!!自信と使命感に溢れていました。
しかし、幕府はこれを却下。

「幕府を人体に例えれば、大名の参勤は、骨の最大なるもの。
 骨を砕いてしまえば、取り返しがつかない。」by阿部正弘

納得がいかない春嶽は、当時最も英明と言われていた薩摩藩主・島津斉彬に自分の意見を解き、幕府説得の協力を求めます。
しかし、斉彬は春嶽に同意するものの・・・外様の自分に言えるわけがないと答え、幕府の前で突飛な言動は控えるようにとくぎを刺されてしまいます。
しかし、建白書を出し続ける春嶽。

諸大名の忠誠と服従を繋ぎ止めてきた参勤交代を緩和すれば、幕府の権威は一気に崩れ去るかもしれない・・・
そんな危機感が幕閣にはあったのです。
このまま何も変えなくていいのか・・・??
春嶽の前に大きな壁が立ちはだかっていました。

最早自分一人の力だけではどうすることもできない・・・春嶽は、行動に移します。
同じ志を抱く大名と党派を組んで幕府の政治を変えようというものでした。
春嶽は、水戸・徳川斉昭、薩摩・島津斉彬と共に、栄明と評判の高い一橋慶喜を次期将軍に推薦します。
さらに、1857年8月、江戸の藩邸に徳川家に近しい大名達と会談し、協力を要請します。
春嶽の意見を聞いた徳島藩主・蜂須賀斉裕は、神君家康公以来の法に触れるのは幕府に不審を抱かせると難色を示しました。
それでも春嶽は引き下がらない!!改革の意義を力説します。
その熱い想いにじっと耳を傾けていたのが鳥取藩主・池田慶徳です。
慶徳はその後も春嶽と会談を進め、大名の声が天下変革の響になるという春嶽の想いに共感し、幕府に建白書を提出します。
やがて春嶽達に同調するかのように幕府内からも参勤交代を見直すことが挙げられます。
特に海防を担当する海防掛大目付は改革の必要性を痛感。
「参勤交代の緩和が諸藩の出費を減らし、海防強化の一助になる」と、建白書を出しています。

春嶽が参勤交代の緩和を主張してから4年・・・改革の機運は高まりつつありました。
ところが・・・一人の男が立ちはだかります。
譜代最大の大名・井伊直弼です。
次期将軍に紀州の徳川慶福(のちの家茂)を推した直弼は、次期将軍をめぐっての主導権争いに勝利!!
そして・・・一橋派の一掃に乗り出しました。
世に言う安政の大獄です。
1858年7月、春嶽は隠居謹慎処分に・・・江戸藩邸で逼塞生活を送ることとなりました。
井伊直弼の強硬な姿勢に耐え忍ぶようにと、家臣たちを戒めます。
2年後、春嶽を謹慎に追い込んだ井伊直弼が桜田門外で暗殺されます。
幕府の権威は急速に傾き始めました。
しかし、春嶽の近親が解かれることはなく、4年にも及びました。
春嶽はどのような政治構想を持っていたのでしょうか。
虎豹変革備考・・・春嶽がイギリスの政治体制をもとに自らの政治構想を記しています。
上院と下院に分かれた議会で、幕府には行政のみを委ねる議会制度を構想していました。
上院には大名を、下院には武士や百姓町人を参加させるべきだと説いています。
春嶽は参勤交代の改革を突破口に、近代的な政治の導入を模索していたのです。

井伊直弼の暗殺から2年後・・・時代は大きく動きます。
1862年3月、島津久光が藩兵1000人を率いて上洛。
朝廷を後ろ盾にして、幕府に政治改革させようとしました。
それは、春嶽を大老に、慶喜を将軍後見役に就任させ、幕政の助けにするという要求でした。
これに慌てたのが老中たちです。
朝廷や外様大名の要求を受け入れ幕政改革が行われるような事態になれば、幕府の権威は地に落ちたも同然!!
1862年5月、春嶽は謹慎を解かれ江戸城へ登城!!
将軍家茂の元へ・・・!!
欧米列強の対応で亀裂の入っていた朝廷との関係を修復、公武合体の実現に向けての交渉役を依頼されます。
春嶽にとって、それは将軍の以来と引き換えに参勤交代の緩和の絶好のチャンス!!
しかし、幕府の権威が落ちた今、それを行うのは大きなリスクをはらんでいました。
どうする・・・??

参勤交代の緩和を今切り出すのか?それとも時期を見るのか・・・??

将軍を目の前にどう応えたのでしょうか?
春嶽は将軍自らが不退転の覚悟で幕政改革をすると約束しないならば、従うつもりはないと言い放ちました。
その上で、老中らに速やかに徳川優先の政治をやめ、大名を苦しめる参勤交代の緩和をはじめとする幕政改革を迫ったのです。

改革の時はいまを置いて他になし!!

1862年7月、将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽を任命。

その一月後・・・幕府はついに参勤交代の緩和を布告しました。
この改正によって参勤は2年→3年となり、江戸の滞在日数を1年→100日としました。
江戸にいる間は幕府に積極的に政治的意見を具申するようにさせます。
大名妻子は帰国は自由とし、大名たちを最も苦しめていた江戸での経費削減を実施していきます。
効果は覿面!!
全国で藩政改革が進んで行きます。

大名達はこぞって軍艦や大砲を購入。
それまでできなかった軍事力の強化と産業の育成に励みます。

しかし・・・その先には、春嶽も予測できなかった時代のうねりが・・・。
それは、急速に発言力を持ちだした朝廷でした。
春嶽たちが幕政改革をし出した2か月後・・・大名に対し、帝のいる京都の治安を守るように京都警護を発令!!
幕府を通さず、天皇が直接大名たちに軍役奉仕を求めたのです。
強硬な公家・三条実美は将軍後見職の慶喜に対し、諸大名の参勤は江戸と京都で折半しようと持ちかけさえしました。
1863年2月、上洛のために家茂が江戸を出発。
開国を容認してもらうために・・・。
その交渉役を任された春嶽は、将軍上洛の数か月前から朝廷と開国容認の交渉を続けていました。
しかし、孝明天皇は認めず、攘夷実行尾を春嶽に迫ります。
交渉は暗礁に乗り上げていました。
幕府と朝廷との板挟みになる春嶽・・・

さらに盟友であった一橋慶喜との間で政治方針を巡って対立し始めました。
3月、春嶽は政事総裁職を辞任。
政治改革の道から離脱してしまうのです。
その後、日本は本格的な激動を迎えます。

1864年第一次長州征討
幕府は諸大名に出兵を命じます。
その1か月後、幕府は参勤交代の復旧を発令!!
幕府への統制力を強めようというのが狙いでした。
ところが大名たちは、国家の大事件だと困惑・・・。
春嶽にも問い合わせが来ます。

「幕命には従わなければならないが、そのまま様子を伺い、幕府から催促が来た場合には病気を口実に断ればよい」と。

春嶽から見ても、衰退は止めようがありませんでした。

1867年10月14日、大政奉還
仕える将軍がいなくなったことで、参勤交代制度は終焉を迎えます。

明治に入っていからの春嶽は、執筆活動に専念。
数々の著作を残しています。
井伊直弼のことは・・・
”徳川家の威光を盛んにせんとの志にて、決して私欲のためにやったことではない。
 彦根公の英断が今に至りては感すへし”
と書いています。

直弼の一連の決断は、幕府と徳川を思っての英断だったと振り返っています。

春嶽は、自分が行った改革を失敗だったと思っていたのでしょうか?
その真意が明かされることはなく、1890年6月、春嶽死去・・・63歳でした。

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誰も書かなかった 西郷隆盛の謎 (中経の文庫)



個人的に、歴史の事は人より詳しいつもりです。
でも、西郷どんを見ても、幕末はサッパリ迫ってきません。
なので、80歳になる実家の母に聞いてみました。
「お母さん、西郷どんなにやってるかわかる??」by私
「う~ん・・・あんまり政治的なことが分からへん。
 でも・・・あの回なに??ホモ??」by母

脚本家先生、先生のやりたいこと(ボーイズラブ)は、80歳を超えた母には理解できたようです。
私はあんな脚本で、月照さんがとってもいい声で、綺麗だったのが、本当に気の毒でした

前回、安政の大獄のために、西郷と薩摩に逃げることとなった月照さんです。
どうして月照さんが追われることとなったのか?
この大河ではあんまり解らないんですが・・・
ざっくり言うと、尊王攘夷に傾倒していた公家たちや活動家たちと関係があったということ。
ここでは出てきませんが、幕末のいろんな人と人との仲を取り持っていたのです。
そんな、清水寺成就院の住職であったのに、その座を弟に譲って、勤王の僧となることを望んだ人です。
だからこそ、安政の大獄で目をつけられ、薩摩に逃げることとなります。
ってことがないと、緊張感のない↓のような話になってしまうんでしょうか??

人相書きも出回って、関を越えられないのでは??ということで、月照様がお坊さんだということを利用するんですが・・・

「御坊様のくせに悪かお人じゃあ・・・」という有村俊斎が下品でなりません。
月照様なんか、あんたなんか声もかけられない尊いお人なんだよ!!と言ってしまいたい!!

ということで、西郷家にやってきました。
どうも・・・西郷家で匿うらしい・・・。
目立っていかんやろ・・・
でもって・・・西郷家のホームドラマ要らない・・・。

don















唯一つ、言っておきたいのは、おばあが父の名前と間違えて、「吉兵衛~~!!」と言っていて、まるで痴ほうかのように家族がいいますが、西郷吉之助は10回も名前を変えていて、この当時吉兵衛だったようです。
なので、おばあはボケてもいませんよ!!

don2















でもって、この二人も薩摩に帰ってきたようです。
「お久しぶりね~~!!」歌ってください、ルミ子さん

篤姫は天璋院となっていました。
「母上・・・ひとつお聞きしてもようございますか?
 母上は、私のことがお嫌いではないのですか??

 私は母上を信じることができません。」by家茂

??なんでそんな話を突然突っ込んでくるんだ・・・
井伊直弼がそう言わせているって持っていきたいのかしら・・・??
母上に気に入られるように頑張れよ・・・!!

一橋慶喜を公方にできなかった責任を取って・・・
努めは十分に為したと言って薩摩に変えるべきだと言い出す幾島・・・
何のことやら・・・何を言っているのか??ではないな・・・言わんとしているのか?さっぱりわかりません。
理解できん・・・。

「やはり私はお暇を頂戴したしとう存じます。
 京へ帰らせてください・・・」by幾島

「そなた・・・私のために汚名をかぶるつもりか・・・??」by天璋院

そんなこんななこと、必要か??
第一、まず、篤姫がそんなにお暇を頂戴できるのか??
14代将軍が子供な今、大奥を取り仕切るのは篤姫じゃないの??
ってことは、幾島も必要だろ・・・??

「古来、戦に敗れたものが咎を受けるのは当たり前のこと・・・
 これで少しは示しがつきましょう。」by幾島

何をやっているんだ・・・このドラマは・・・。
篤姫と幾島にこんなに時間を割いていいんかい??
もっとやるべき事あるやろ・・・??って思っているうちに、幾島が去ってしまいました。
なんだかなあ・・・幾島が何で去るのかもようわからんわ・・・このドラマ。
ちなみに、和宮が降嫁してきたときも、幾島はいます!!

??正助は、嫁さん・満寿のつてを頼るのか??
もっとギラギラ政治に突っ込んで行けよ~~~!!
満寿のおかげで、山田さまと対面!!
吉之助と月照様を助けてくれるようにお願いします。
「断~~~る!!」by山田為久
って・・・徳井さんまんまの声です。
他になかったのか・・・ギャグにしかならんわ・・・
で・・・なんだかんだと山田さまが久光の子・茂久へのお手紙を預かってくれたのでした。

それにしても・・・久光さまが愚鈍にしかみえないわ・・・と思っていたら、なんと、実権を握り返したのは元殿の斉興でした。
ますます久光さま・・・愚鈍だわ・・・。
なんだか滅茶苦茶・・・。
「お前に斉彬の代わりがつとまると思うか??」みたいなことを言われて斉興に怒られる久光ですが・・・斉興さま・・・斉彬のことが嫌いで、久光が好きだったんじゃないの??
このままでは権力にすがる爺にしか見えないわよ・・・
どうして斉興が実権を握りたいのか??その構図を見せてもらわないと・・・。
きっと、斉興は、斉彬のように湯水のようにお金を使う・・・そこまで対策をしなければいけないと思っていなかったと思われます。
ただ・・・アヘン戦争、琉球、外圧・・・それは斉興もわかっていて・・・でも、そこまでお金は出せないよね~~出し過ぎ・・・。って思っていたのは事実です。
だって、斉彬のおかげででまたもや重税にあえぐんですから・・・農民は。

で・・・斉興の言いなりだから・・・西郷&月照は日向送りに・・・。
って・・・やりたいなら西郷どんは切腹させればいいだけなのになあ・・・。

don3
















久光に直談判して西郷を助けてくれと願う正助ですが・・・
こんなに自分で会えるなら、前出の山田さまのくだりは必要だったのか??と思ってしまうのだ。
思いのままにならずにふてくされて碁を打っている久光。。。

どんな力を使ったのか??
最高権力者島津斉興にまで話に行く正助・・・。
う~ん・・・全く理解できん・・・。
話がブツブツ切れていて、何が何だかもう・・・。
と思っていたら、西郷家はウナギを食べていました。
あ~、緊張感ないわ・・・。やめてくれよ・・・。
また、ウナギを焼いてくれ・・・なんて・・・アハハ・・・!!なホームドラマなところにやってきた正助。

力が及ばなかったことを誤った正助・・・
なので、最後の手段・・・正助案では、吉之助に月照を始末させようとします。
そう・・・薩摩にとっては必要な男!!みたいなことを並べ立てるんですが・・・西郷さん、何かしましたか??
なんでも、西郷さんが死んだら、薩摩も日本国も死んでしまうんですって!!
もう、大変!!

しまいには・・・「おいのために、死なんでくりやい・・・」by正助
??こっちもボーイズラブですか??
それもいきなり??

don5















でもって・・・月照&西郷さん・・・こちらもボーイズラブだそうです。
で・・・入水・・・。

う~ん・・・西郷さんと月照さんがお互いに想い合っていたいたかどうかはともかく、お互いに命をかける存在であったかどうか・・・この薄っぺらいドラマでは全くわかりませんでした。
ボーイズラブに対しても失礼でしょ??
これならマンガやアニメの腐女子のパロディの方がましです。

私がBLと出会ったのは中学生の頃、JUNEという雑誌を友達が持っていたところから始まります。
そのJUNEを持つようなのは特別だったんですが・・・
当時、オタクたちの間で流行っていた801・・・ヤオイ・・・つまり、「やまなし、おちなし、いみなし」の、男の子たちのパロディでした。

オタク女子・・・なかでも腐女子の間では、原作をパロる際に、801・・・今はBLか?するかギャグにするか?普通にシリアスに妄想するか?なんですが・・・私が一番最初に知った801パロなキャラは・・・

sya-kin

ああ・・・カッコいいですね。
勇者ライディーンのひびき洸&プリンス・シャーキンです。
ああ・・・安彦良和さんの絵、とってもいいです。
ちなみに・・・このシャーキンは後にシャア・アズナブルのモデルになったとか??

でもって・・・この後続く長浜ロマンロボシリーズ(コン・バトラーV、ボルテスV、闘将ダイモス)も、主人公と宿敵という形なのに、敵役が美形のせいで腐女子の毒牙にかかってしまいます。

でも今のような感じになったのは・・・私が知っているのは”シャアガル”・・・つまり、機動戦士ガンダムのシャア&ガルマです。

syaagaru














こちらは、機動戦士ガンダム・ジ・オリジンの若き士官学校時代のシャア&ガルマです。

まあ、この二人に限っては、ガルマはシャアの復讐対象のザビ家だったわけですから・・・でも、そこに萌えが発生するんでしょうね。

”シャアガル”みたいに・・・
例えばキャプテン翼なら”小次健”は日向小次郎&若島津健、スラムダンクなら”流花”は流川&花道、ワンピースなら”ルゾロ”はルフィ&ゾロ・・・みたいに縮めて呼ぶんですが・・・
ここら辺は、友情や信頼を腐った目で見るとBL化してしまうってところでしょうか?

幕末なら・・・筆頭は近藤勇&土方歳三でしょう。
BLではないにせよ、男が男に惚れて信頼し合っている二人だからこそ、ドラマが生まれるんだと思うんです。
西郷&月照に、何があったのか?
ボーイズラブはNHKでは描けないでしょう??
そして、腐女子に萌えてもらうなら、もっと信頼し合っているシーンが必要でしょう。
近藤&土方なら、しびれるような命をかけた信頼し合っているシーンがたくさん書けたことでしょう。
ちなみに私は、司馬遼太郎さんの「燃えよ剣」の土方歳三&お雪が好きです。・・・もちろん、ノーマルですよ??

この西郷&月照、何も始まってないのに手と手をとり合って入水自殺した・・・ように見えるんですが・・・どうでしょう。
萌えることなんて・・・できない!!
???な、一つしかない命・・・勿体ない死に方でした。

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斉彬さまの遺言ですって・・・
「日本一致一体」「挙国一致」じゃないの?
そうだよね・・・でも、そんな話出てこなかったから、この大河では違うに違いない・・・

みんなで祝杯を挙げている西郷・・・って、これも何の前祝なんだか全くわからず・・・なんか成し遂げてから祝えよな~~と思っていたら、こんなところに月照登場!!

薩摩から来た書状で・・・斉彬が突然亡くなったことを教えてくれたのでした。
ショックのあまり、雨に打たれながら斉彬を思い出し、泣く西郷・・・。

どうも、炎天下の中軍の指揮をしていたので亡くなったという有村俊斎。
「毒やな・・・」と言い出す近衛忠煕。。。
毒に賛成の橋本左内。って、毒、毒って、もうええねん!!そんなん!!全部毒のせいにせんといて!!

薩摩の他にも同志はいるとか言い出して、水戸に兵を出してもらうと言い出す西郷。。。
って、それ駄目でしょう??
どうして外様の薩摩ごときが水戸を動かせるのか・・・??
と、ブラック西郷登場!!いきなりこんなんでええんかい?
この大河はほんと、唐突で困ります。

この水戸に動いてもらおう案は、本当にあったとか・・・
それならそれで、西郷をすでにblackに、そして賢く書いておかないとダメですよね??
だから、嘘っぽくなるのです。
視聴者、全くついていけません。

近衛と月照の働きかけに・・・天子様が近々水戸に詔を出すという話・・・。
って・・・戊午の密勅ってこと??
この戊午の密勅によって、水戸は二つに分かれてしまいます。
戊午の密勅は、幕府ではなく水戸に密勅を送ったということで、幕府の信頼が失墜し・・・=安政の大獄→幕府崩壊へとなっていくわけです。
今まで好青年だった西郷どんに、いきなりblackなお仕事です。
今まで暗躍してくれていたならなるほど・・・とも思えますが、全く持って好青年でした。
好青年西郷どんを好きだった視聴者、戦うことの嫌いな視聴者はもう、見るのは無理でしょう。
こんな大きな引き金を、いきなり西郷にひかせて良かったんですかね・・・??

江戸では・・・一橋慶喜が江戸城へと赴いて井伊直弼に啖呵を切りました。
なんのこと・・・??

天子様の詔について、斉昭に伝えるために江戸に急いでいた西郷どん・・・
この回も、雨の中歩いて頑張ってくれています。
急ぐなら、飛脚を使うか早馬だろう・・・なぜに自らの足で山の中を歩く・・・??
一生懸命頑張っています。
斉彬にもらった懐刀を見て斉彬を思い出し頑張る西郷どんです。

ところが・・・斉昭は松平春嶽とすでにお城に乗り込んでいました。
待たされ、じらされ怒る斉昭・・・
怒髪天!!かと思えば、腹の虫が鳴きました。なんてキンチョー感のない・・・。
多忙を極めているとやっとやってきた井伊直弼。
朝早くからやってきたのは解ってるだろうに・・・と怒り出す春嶽!!
その怒りの原因は、待たせるだけ待たして食事の用意もない!!ということでした

「お二方であれば、抜かりなくお弁当はご用意なさるであろうと・・・」と言い出す井伊直弼。

なんじゃこりゃ・・・弁当の話に来たんかい・・・??
この頃の武士は・・・「武士は食わねど高楊枝」だったわよ・・・きっと。
っていうか、第二次世界大戦の庶民でも「欲しがりません勝つまでわ!!」だったわ!!
でもって、条約で怒っているとか言うも、内容全くなし!!

江戸にやってきた西郷・・・斉昭に門前払いされてしまいました。
そして、もちろんやってきたのは磯田屋・・・。
天下の一大事というのに慶喜はまたもや遊女の絵を描いています。
謹慎は・・・??蟄居は・・・??せんのかい??

そこで憂さ晴らしのヒー様・・・。

「いっしょに逃げてくれって言ったらどうする??」なんてお芳に言い出しました。

そこへやってきた西郷・・・。

don















思いつめてるなら遊郭でやるなよなあ・・・
もっとふさわしい場所があるだろ・・・??

みんな蟄居になるから諦めがついた・・・みたいなことを言い出す慶喜・・・。
そうそう、このドラマで見たら、慶喜も何をしたのよ??
一生懸命お願いする西郷ですが・・・何をお願いしているのか、全くわかりません。

「さいごう・・・お前とも二度と会うことはないだろう・・・!!」by慶喜

落ち込む西郷・・・。

ヒー様を追いかけるお芳。



「さあ・・・行きましょ?
 私たち、一緒に逃げるんでしょ?
 前から何か訳のある人だと思ってた。
 とうとう逃げ出さなきゃならないことになったのね。
 わっちがついていってあげる。さっ行きましょ?」byお芳

「おいおい、ちょっと待ってくれ・・・
 俺は地獄行きだぜ・・・」by慶喜

「地獄だってどこだって、道連れにして。
 どうせヒー様も一人ぼっちなんでしょ??」byお芳

「お芳・・・俺がまだ生きていたら、迎えに来る・・・
 それまで待っててくれるか・・・」

「まってる・・・ここでヒー様を待ってる・・・」byお芳

don2















何がやりたいんだ・・・
どうでもいいんだよ~~そんなこと!!
それに、お芳、遊郭の方が地獄だろ??それを解っているだろ??
言うなら、「ヒー様、私も一緒に連れ出して!!」だろ??
逃げたって、借金まみれの遊女には、追手が出されるんだよ・・・??
ほんと、この大河、遊郭をサロンかキャバクラ程度にしかみてないんじゃないの??
遊女の殆どは、10代、20歳前半で亡くなりました。
それはもちろん不衛生と過酷な労働条件からです。
弔ってくれる人もなく、近所の寺で、合同で祀られるのが普通だったんです。
死んでも墓すらない・・・そんな過酷な悲劇を背負っている遊女にどんな力があるっていうねん。
彼女が目指したのは、いい旦那と巡り会って、身請けしてもらって地獄から脱出させてくれることでした。
自分から逃げるなんて・・・出来るわけないだろ~~~!!
短命なのに、待っててくれって、待ってるうちに死んじゃうわ!!

やっと、ヒー様、井伊によって隠居・・・蟄居です。
ああ・・・やっとヒー様退出です。

戊午の密勅を知った井伊直弼は、安政の大獄発動!!

京へと引き返した西郷・・・

「すべて、大老さんに先手を打たれてたということですか・・・」by月照

というものの・・・どんなふうに先手を打たれたのか全く理解不能でわかりません。
幕末の理解できないごちゃごゃしたややこしい成り行きが、全くわかりません。
そんなんじゃ、命かけられんだろ??

夜遅くに西郷の元へやってきた月照・・・
どうしても話をしたかったらしい・・・。

斉彬が亡くなってから、一つも涙を流さなくなったとか言い出す月照。
だから何・・・??

「あんたさん・・・薩摩へ帰って死ぬおつもりでっしゃろ?
 やっぱり・・・」by月照

??なんで??いつ以心伝心になる仲になったん??
そんな緊張感のあるかもしれない中で、西郷どんが太っているから血もいっぱい出て立派なものが出てくるだろうとか言い出します。
「それだけのことです。」とか言って、切腹を辞めさせたいのか知れないけれど、なんで血が出るとか、臓物が出るとか、当たり前の事しか言わんのやろ??
切腹するのは武士としての意味、覚悟があるやろ・・・??

natui















「切腹したら出るのは当たり前だから、そんな表現は不要です!!」と、夏井いつき先生なら言うでしょう。

「生きて・・・あんたさんが薩摩守様になりなされ・・・!!」と、言われるのでした。
なんのこっちゃ・・・。

そして、井伊直弼による安政の大獄発動!!
幕府の追放の手は、月照にも・・・!!
月照は、西郷どんと共に薩摩に行くことに・・・!!

逃げるためにいきなり山伏のコスプレ・・・
あんなこんなも緊張感ゼロですよ・・・
やめるならするなよ・・・コスプレ・・・。

薩摩行に当たって、左内の調合した薬を持って行く西郷どん
それって毒??とか思っちゃったよ・・・
二人が何を成したのか?それもわからないままの旅立ちでした。

そして・・・いきなりつかまる橋本左内!!
安政の大獄だからな・・・
これで、左内も見納めか・・・と思いつつ、あの橋本左内が何もしなかったなあ・・・この大河。と冷静に思ったのでした。

追われる西郷どんと月照・・・。

don3
















手配書が回り、取り方でいっぱい・・・薩摩はまだまだ遠いというのに・・・どうする??
といういきなりの緊張感ですが・・・緊張感でてるか??いきなりでっ!!

西郷どんが寝ていると・・・枕元に立ったのは・・・

don4
















織田信長ではなく・・・亡くなった島津斉彬でした。

「お前は一体何を学んできた・・・
 答えよ・・・西郷。。。 西郷!!」by斉彬

と、消えるのでした。。。
斉彬にはなんて教えてもらっていないよね??西郷どん!!

って・・・終わっちゃったよ・・・

ということで、月照との関係も全くわからないまま・・・って、この脚本の先生の言うボーイズラブ・BLってことじゃないわよ??
いや・・・BLでさえも、もっと信頼や愛情が見えているわ・・・感じられるわ・・・。
今も昔も、男同士の友情をBL化する”やおい”な腐女子はいますが、これは腐女子も萌えることのない、全く信頼関係も、友情も、愛情も感じられない西郷と月照です

登場人物に魅力が全くないという・・・致命的だ・・・。

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