日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:井伊直弼

1859年10月27日、江戸時代末期の江戸・伝馬町・・・

「ご苦労様」

近代日本の夜明けのために、命を捧げた男が露と消えました。
男の名は、吉田松陰。
その辞世の句・・・

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
          留め置かまし 大和魂

覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰

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吉田松陰の素顔①遊ばない子供
山口県萩市・・・かつての長州藩の城下町です。
1830年、吉田松陰はこの町で、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。
幼名は虎之介・・・兄弟は6人で、2歳下の妹・千代は、後年、松陰についてこう語っています。

「兄・松陰は、幼い頃から遊びということを知らないような子供でした
 いつも、机に向かって書物を読んでいるか、筆をとっているか、それ以外の姿はあまり思い浮かびません」by千代

遊ばずに学問ばかりしていたという松陰・・・その理由は、父にありました。
父・百合之介は、半士半農の質素な生活を送る下級武士でしたが、大の学問好きでした。
野良仕事の際には、手伝いをする松陰たちと一緒に「孟子」や「論語」を読誦。
夜は、米つきなどをしながら親子で読書。
そうした父の影響で、松陰は学問の面白さに目覚め、遊びよりも学問に夢中になっていきました。
さらに、松陰が学問にはげむようになったきっかけが、5歳の時のこと。

父の弟で、吉田家の養子に入っていた吉田大助が、男子を残さないまま大病を患ったため、松陰が吉田家の跡継ぎとなるべく、大助の養子となりました。
吉田家は、江戸時代前期の兵学者・山鹿素行が開いた山鹿流の兵学師範の家でした。
代々長州藩主・毛利家に仕えてきました。
兵学とは、敵に打ち勝つ方法を考える学問です。
間もなくして、義理の父が亡くなり、6歳にして吉田家の当主となった松陰は、兵学師範としては約独り立ちしなくてはなりませんでした。
そこで、大助の弟子だったもう一人の叔父・玉木文之進が、松陰の教育係を務めることになりました。
その教え方は尋常ではありませんでした。
文之進はスパルタ教育で、体罰も日常茶飯事でした。
それは、松陰を早く一人前の兵学者に育て上げるためでした。
松陰も、根をあげることなく学問に精進しました。
しかし、松陰は、大助がなくなると同時に、杉家で兄弟たちと共に過ごしています。

1840年、松陰は猛勉強の甲斐あって、11歳で聴衆藩主・毛利敬親の御前で兵法の講義を行う機会が訪れます。
松陰は、藩主や多くの家臣が居並ぶ中、一つも物おじせず、抗議をやり遂げました。
毛利敬親は松陰を絶賛し、その後もしばしば講義を行わせ、耳を傾けていたといいます。
こうして松陰は、若き天才兵学者としてその名を馳せるようになりました。

1848年、19歳になった松陰は、山鹿流の兵学師範として独り立ちをします。
長州藩の藩校・明倫館で教壇に立つことになります。
しかし、松陰の教壇デビューはほろ苦いものでした。
長州藩には、四流派の先生がいて、明倫館の学生たちは、好きなものを選ぶことができました。
松陰の講義は一番不人気で、ひとりしかいないこともありました。

しかし、講義そのものの評判は悪くなかったようで・・・

「大人も子供も兄を慕うようになりました」by千代

松陰の素顔②あふれる家族愛

明倫館の師範となった翌年の1849年、松陰は兵学者としての意見書を長州藩に提出します。
「西洋諸国を研究し、その長所を柔軟に受け入れながら、既存の兵法を時勢に合うよう政変すべし」と訴えました。
そして1850年8月、松陰は藩の許可を得て、九州遊歴へ出発します。
建前上は、平戸にある山鹿流兵学の宗家を訪ねるというものでした。
本当の目的は、長崎や平戸というところは海外の窓口が近いということで、海外情勢、動向・・・アヘン戦争などの最新の世界の情報を得るためでした。

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1840年に勃発したアヘン戦争は、イギリスがアジアの大国・清に圧勝した侵略戦争でした。
松陰はその詳細を知ることで、海外列強の強さを推し量ろうとしたのです。
萩を発った松陰は、まず鎖国中唯一外国との門戸が開かれていた長崎へ!!
そこで、出島のオランダ商館などを見学。
長崎奉行の計らいで、オランダ船に乗せてもらった際には、様式を細かく記録しています。
その後松陰は、平戸に向かい、山鹿流の兵学者・葉山左内を訪ね、その蔵書を完読します。
アヘン戦争んついて書かれた「阿芙蓉彙聞」、西洋砲術書「百幾撤私(ぺキサンス)」など、50日ほどの滞在で、80冊を読破しました。
世界の情勢をおぼろげながら掴むとともに、西洋列強に対する危機感をいっそう強めたのでした。
こうして九州遊歴を終えた松陰は帰路に付き、年明けには実家に着く予定でしたが・・・急遽急ぎ足で大晦日の夜に実家に着きました。
家族と一緒に正月を迎えたい!!という理由でした。

吉田松陰の素顔③不器用な生き方
1851年、家族と正月を過ごした吉田松陰でしたが、西洋列強に対する危機感は高まっていました。
さらなる知識と情報が必要だと考え、藩主の参勤交代に同行して江戸へ・・・
そして、4月に江戸につくと、儒学・兵学・洋学など様々な学者に弟子入りします。
なかでも浸水したのが、松代藩士・洋学者の佐久間象山でした。
象山は、アヘン戦争の衝撃を受けて、江戸で西洋砲術塾を開いていました。

「開国して西洋の科学技術を学び富国強兵に務めるべし」と提唱していたのです。

松陰は、学者たちに学ぶとともに、長州藩江戸藩邸にて勉強会を開催します。
多い月では1か月に30回もありました。
勉強のし過ぎでフラフラになっても、酒もたばこも、大食することも戒めていました。
仲間たちがつけたあだ名は仙人でした。
学用品を買うので、食事のおかずは金山寺味噌か梅干しで・・・ガリガリにやせ細っていました。
しかし、研究心は劣らず、江戸に兵学修行に来ていた旧知の友・熊本藩士・宮部鼎藏らと共に、東北視察の旅を計画します。
当時の東北地方は、ロシア船が我が物顔で津軽海峡を頻繁に往来していました。
宮部らと共に決めた出発予定日は、12月15日。
ところが、出発直前に問題が起こります。
長州藩が、松陰の手形の発行に手間取ったのです。
「出発を延期せよ」と通告してきました。
手形を持たずに出発すれば、それは脱藩!!重罪です。
長州藩士であれば、出発を延期する以外道はありませんでしたが・・・
松陰は手形のないまま予定通りに出発してしまいました。

松陰は、東北視察の旅日記に記しています。
”藩に背いた罪は、私の一身に留まる
 藩を辱めるより余程良い”
友との約束をたがえる方が長州の名折れとなると思ったのです。
余りにも不器用な生き方・・・しかし、松陰は、元来そういう性分でした。

厳罰覚悟で江戸を発った松陰は、水戸や佐渡を経由して、東北各地をくまなく偵察します。
江戸にもどったのは、翌年の4月で、すぐに長州藩の江戸藩邸に出頭しました。
すると、「萩に帰って謹慎し、処分を待つように」と命じられました。
そして、およそ7か月後、萩の実家に戻っていた松陰に下されたお沙汰は、”御家人召放し”・・・藩士の籍を剥奪し、家禄を没収するという厳しいものでした。
これで松陰は、一介の浪人となってしまいました。
しかし、その能力を高く買っていた毛利敬親は、松陰を見捨てませんでした。
実父・百合之介の育の立場となりました。
育とは、身分を剥奪された藩士を、親族の保護課に置き、後に復帰できるようにした長州藩独自の制度のことです。
そして、実父に、松陰の諸国遊歴の願書を提出させました。
藩が10年間の諸国遊歴を認めたことで、松陰は自由に他国修業が出来るようになりました。
毛利敬親が、天祐ともいえる諸国遊歴を許したのは、見識を広げた松陰を、いずれ藩士に復帰させるつもりだったからと言われています。
ところが・・・

吉田松陰の素顔④猪突猛進
脱藩の罪で浪人となるも、長州藩主・毛利敬親の温情で諸国遊歴を許された吉田松陰。
再び江戸の地を踏んだのは、1853年5月24日でした。
日本の眠りを覚ます大事件が起こったのは、その9日後のことです。
アメリカ船隊・・・黒船来航です。
マシュー・ペリー率いる黒船が、浦賀に来航しました。
黒船の来航を知った松陰は、江戸を飛び出し5日の深夜に浦賀につくと、先に到着していた佐久間象山たちと合流。
高台に登って4隻の黒船をつぶさに観察しました。
驚くのも当然、当時の和船は150tでしたが、黒船は4000t近くもあったのです。
さらに9日には、日本に開国を求める第13代大統領フィルモアの親書が浦賀奉行に手渡されました。
アメリカに抗えない日本の姿に、松陰は落胆しました。
松陰と同じように黒船を見た佐久間象山も欧米の技術力の高さを改めて痛感します。

「留学生を欧米に派遣して、その技術を学ばせるべきだ」by象山

と、幕府に建白書を提出しましたが、幕府はこれを却下しました。

「ならば、講義に頼らず渡航するしかない」by象山

とはいえ、国禁を破る渡航は死罪にもなり得る重罪でした。
誰がその役を担うのか・・・??

「私が行きましょう」by松陰

この時、松陰24歳でした。
1854年1月16日、ペリーが再び来航しました。
幕府と数回の交渉の末、3月3日に日米和親条約が締結します。
日本は開国への一歩を踏み出しました。
江戸で密航の機会を伺っていた松陰は、ようやく締結後、下田に移動した黒船に狙いを定め、ともにアメリカに渡りたいと申し出た足軽・金子重之助を連れて下田へ向かいます。
3月27日、下田についた松陰は、午前2時ごろ・・・盗んだ小舟で黒船に向けて漕ぎ出しました。
ところが、盗んだ小舟には、櫓を固定する杭がついていなかったので、なかなか前に進みません。
松陰は、櫓をふんどしで縛り、やっとのことでミシシッピー号にたどり着いたのですが・・・
ミシシッピ号には、日本語の分かる船員がいなかったため、再びポーハタン号に移ります。
そこで、ようやく日本語の話せる通訳のウィリアムスと対面します。
ウィリアムスは、松陰たちの勇気を讃えます。
しかし、「アメリカに連れてはいけない」と、きっぱりと拒否しました。
失意の中、引き返そうとした松陰たちでしたが、乗ってきた小舟が流されてしまいます。
暗闇で、船の行方も分からず・・・止むなく、ウィリアムスが用意してくれたボートで陸地まで送ってもらいました。

翌朝「公儀も放っては置かないであろう」と、金子重之助をつれて奉行所に出頭しました。
潔く自首することで、自分たちの行動の意味を幕府に問おうとしたのです。

「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」by孟子

誠の心で接すれば、必ず人の心を動かすことができる・・・

松陰はこれを実行したと言われています。
しかし、国禁を破る重罪・・・未遂だったとはいえ、死罪を覚悟していました。
幕府が下したお沙汰は・・・
”父・百合之介に引き渡し、在所において蟄居を申し付ける”
実家での謹慎でした。

金子に対しても、”長州藩に身柄を引き渡し、萩で蟄居させよ”という寛大なものでした。

実は、2人に対するお沙汰が寛大だったのは、外国に渡ろうとした松陰たちの勇気をペリーが讃え、厳しい処罰は避けてほしいと幕府に通告したからでした。

[新釈]講孟余話 吉田松陰、かく語りき

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罪人用の駕籠に乗せられた松陰たちが萩についたのは、1854年10月でした。
生きて再び家族の顔を見ることができた松陰は、感激していたといいます。
しかし、長州藩は、松陰たちの蟄居を許さず、萩城下の牢獄に入れました。
長州藩は、海外密航の罪を甘くは見ていないという幕府へのアピールでした。
こうして松陰は、武士階級の罪人用の牢獄・野山獄に・・・
元々染物屋の息子だった金子は、庶民の罪人用の岩倉獄に入れられました。
岩倉獄は劣悪で、1855年1月に、金子は岩倉獄で死去。
同志を失った松陰は、深く悲しみ、野山獄で使う日用品を節約して蓄えた金を、金子重之助の遺族に送りました。

吉田松陰の素顔⑤根っからの指導者
獄中で松陰は、読書漬けの日々を送っていました。
記録によれば、約2カ月間で106冊を読破。
ジャンルは歴史・地理・兵学・医学など幅広く、みな、兄・梅太郎が差し入れしたものでした。
また妹の千代も、食料品などを松陰に差し入れていました。
松陰は、女性に対して非常に潔癖で、30歳までは結婚しないと宣言していました。
結婚すれば、学問に費やせる時間が減り、志が揺らぐ恐れがあると考えていたからです。
まさに、学問一筋!!
そんな松陰が、野山獄に改革をもたらします。

野山獄は、一般的な牢獄と違い罪人だけでなく身内から厄介払いされた者も収容していました。
その為、出獄の見込みがなく、自暴自棄になっている囚人が多かったのです。
そこを松陰は、ひとりひとりの才能を磨くように、「孟子」や「論語」など、儒学の知識を提供します。               
囚人たちで知識を共有します。
松陰が始めた獄中勉強会・・・やがて牢番も参加するようになり、消灯時間を延長するという便宜も図ってくれるようになりました。
松陰は、野山獄に学問をする環境を作ることで、囚人たちに希望を与えたのです。
そして、1855年12月、松陰は病気・保養を名目として野山獄から釈放されます。
しかし、罪を許されたわけではなく、実家での幽閉を命じられました。
与えられた部屋は3畳半・・・外出は許されず、公に他人と接触するのも禁止。
そんな松陰を父は不憫に思い、気晴らしになればと身内を相手に「孟子」の講義を行わせました。
すると、近所の下級武士の子弟なども受講するようになります。
その評判が広がると、さらに受講生も増え、ついには私塾のような形になりました。
松陰の松下村塾の始まりです。
塾生は、90~100人ほどだったと言われ、入塾には身分の制限がなかったため、武士だけでなく、町人や僧侶、医者の子弟などがいました。
松陰は、どの塾生も対等に扱い、自身も決して選ぶらず、塾生たちを一緒に学ぶ友と呼び、塾生たちの間を歩き回りながら授業を行ったといいます。
決まったテキストがなく、塾生それぞれに合わせたテキストを与えていました。
24時間体制・・・講義の時間割も、月謝もありません。
塾生への食事の提供もありました。

「あなたは何をするためにここに来たのか}by松陰

その答えの最後は、”実行に移すことが大事、実行を以て世の中の役に立ちなさい”と言っていました。
塾生のことを第一に考えた松下村塾には、高杉晋作、久坂玄瑞・伊藤博文・山縣有朋などが在籍し、その力を育んでいきました。

吉田松陰の素顔⑥誠を貫く

吉田松陰が、主催する松下村塾で塾生たちの教育に心血を注いでいた1858年6月19日、幕府の大老・井伊直弼が朝廷の同意を得ないまま日米修好通商条約を締結。
その勝手な行為に、外国嫌いの孝明天皇が激怒!!
これを知った松陰は、”大義を議す”と題した意見書を長州藩に提出。
そこにはこう記されていました。

「公儀は、帝を無視して亜米利加にへつらった
 これは将軍の罪であり、攻め滅ぼしてよく
 少しも許す必要はない」

幕府への不満が限界を超えた松陰は、ついに討幕を視野に入れるようになります。
一方幕府は、大老・井伊直弼のもと、幕府の政策に反対する者たちを次々と弾圧!!
世にいう安政の大獄です。
そんな中、松陰は、気になる情報を手に入れます。
尾張・水戸・越前・薩摩の四藩で井伊直弼を暗殺する動きが起こっていて、長州藩にも協力が求められているというのです。

「今から長州が加わっても、天誅の手柄は四藩に奪われてしまう」

焦った松陰は、別の幕閣の暗殺を画策します。
目をつけたのが、井伊直弼のもとで安政の大獄の指揮を執る老中・間部詮勝でした。
松陰は、松下村塾の塾生たちに、暗殺計画への参加を呼びかけ、藩には暗殺に使用する武器弾薬の借用したいと申し入れます。
しかし、幕府・老中の暗殺計画に、藩が手を貸すはずもなく・・・勝因を危険人物とみなし、松下村塾は閉鎖。
松陰は再び野山獄に投じられました。

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1859年4月19日、安政の大獄を進める幕府は、危険人物である松陰の身柄を差し出すように長州藩に命じます。
そして、江戸に送られる前日の5月24日。
松陰は野山獄の役人の計らいで、1日だけ実家に帰ることを許されました。
風呂に入っていた松陰に、母の滝が、
「江戸から無事にもどり、もう一度その顔を見せておくれ」というと、
「見せましょうとも、必ず元気で帰りますよ」
翌朝、護送用の駕籠に乗せられた松陰は、家族に見送られて出発。
その顔に涙はありませんでした。
しかし、萩郊外の高台で駕籠を止めてもらうと、故郷の風景をしばらく眺めていたといいます。

7月9日、江戸についた松陰の取り調べが始まりました。
しかし・・・松陰は、老中の暗殺計画について追及されると思っていましたが、問われるのは身に覚えのない罪状ばかり・・・
実は、幕府は松陰の老中暗殺計画を知りませんでした。
他の過激派との関係を取り調べていたのです。
このままでいけば命は助かるはずでした。

「僕は国をよくしたいだけだ
 その為なら、ご老中・間部殿の天誅も辞さなかった」

老中の暗殺計画を自白してしまいました。

そして下されたお沙汰は、”死罪”

松陰の至誠はむなしくも通じませんでした。

1859年10月27日、刑場に連れてこられた松陰は、処刑に立ち会う役人たちに毅然と声をかけました。

「ご苦労様」

そして、誠を貫いた30年の人生に幕を閉じました。

松陰が処刑前日に書き上げた「留魂録」
”もし、私の真心に共感し、志を受け継いでくれるものがいれば、それは撒かれた種に絶えることなく実を結ばせるも同じである”
その遺言とも取れる松陰の厚き思いは、松下村塾の塾生たちに受け継がれ、時代を動かすことになったのです。

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近代日本の礎を築いた男 吉田松陰50の教え

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1853年、アメリカ東インド艦隊司令官マシュー・ペリー率いる黒船4隻が、浦賀沖に姿を現しました。
黒船来航・・・それは、2世紀半続いた江戸幕府の終焉の始まり・・・
外圧に、攘夷を叫ぶ声、幕府の権威は低下していきました。
そんな時代に幕府をしょって立つことになったのが、14代将軍・徳川家茂です。
家茂が将軍だったのは、8年9カ月・・・そのすべてを、幕末の騒乱を治めるために奔走しました。

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14代将軍・徳川家茂誕生。
黒船の来航により、長く続いた太平の世は終わります。
ペリーは開国を要求、そのわずか19日後、危機に直面した幕府に追い打ちをかけるように、12代将軍徳川家慶が死去。
13代将軍に就任したのは、家慶の子・家定でした。
しかし、生まれつき病弱の家定に、世継ぎの誕生が望めなかったことから、早々に次の将軍を誰にするか、将軍継承問題が持ち上がります。
候補は2人・・・御三家・水戸藩の出身で御三卿・一橋家を継いだ一橋慶喜と、御三家・紀州藩主の徳川慶福(のちの家茂)です。
慶喜を擁立した一橋派を占めるのは、薩摩藩主・島津斉彬や土佐藩主・山内容堂らの外様大名、将軍選びには能力を重視し、譜代大名以外の有力大名も幕政に参加すべしという開明派でした。
対して慶福を担ぎだしたのは、譜代大名の彦根藩主・井伊直弼や会津藩主・松平容保らの南紀派・・・今までの幕藩体制を維持しようとする保守派でした。
この将軍争いで、当初は慶喜がリードしていました。
慶喜はすでに元服していて慶福より年長で、さらに、非常に優秀で、英名の誉れ高い青年でした。
慶福はまだ13歳・・・血筋は近いが、難しい政局を乗り切るには慶喜の方がいいのでは??と思われていました。
しかし、将軍の光景となったのは、劣勢とみられていた慶福でした。

どうして将軍になれたのでしょうか??
ひとつには、慶喜の足を引っ張った人物・・・慶喜の父で水戸藩主の徳川斉昭です。
斉昭は、かつて大奥の女中を襲って妊娠させ、大奥から嫌われていました。
その為、その子である慶喜が将軍になることに、大奥が強く反発したのです。
当時、大奥の力は強く、将軍後継選びにも及びました。
さらに、慶福を押す南紀派の井伊直弼が大老に就任。
形勢は逆転・・・直弼の強権によって、慶福は将軍後継となるのです。

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1858年、13代将軍・徳川家定が死去。
それに伴い、慶福は名を家茂と改め、14代将軍に就任します。
この時まだ13歳でした。

家茂は、1846年5月24日、11代紀州藩主・徳川斉順の嫡男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれます。
幼名は菊千代・・・父は、菊千代が生まれる前に亡くなってしまったため、誕生後、12歳紀州藩主となっていた叔父・斉疆の養子となりました。
ところが、斉疆も、30歳の若さで死去・・・
1849年、菊千代はわずか4歳で13代紀州藩主に就任しました。
そんな菊千代には心強い味方がいました。
波江という美しく聡明な教育係です。
家茂の誕生から教育係を務め、しっかりと手堅く、相応の人物でした。
波江の教育のおかげで、家茂はリーダーとしての資質を備えて行きました。

6歳になった菊千代は、元服の儀に先立って、12代将軍・家慶に拝謁することになりました。

「今日は非常に大切な日ですから、お泣きにならないよう、大人しくしていなければなりませんよ」by波江

しかし、重々しい雰囲気で不安になり号泣・・・

「好きなものでなだめすかし 遊ばせよ」by家慶

そうして座敷に持ってこられたのは小鳥・・・
菊千代は、鳥や虫が大好きで、この時もすぐに泣き止み、無事将軍と対面することができました。
屋敷に帰ってきた菊千代は、波江の顔を見るなり

「波江、泣いたよ!」by菊千代

約束を破って泣いてしまったことをそのまま報告・・・
誠実な少年へと成長していきます。

菊千代は、家慶から慶の字を賜り、13代紀州藩主・徳川慶福となります。
そして藩主として恥じないよう、鍛錬をかさねて行きました。
毎日、朝は手習いのために筆をとり、その後、論語や孟子などを素読・・・剣術や柔術の稽古も怠りませんでした。
まさに文武両道・・・
1858年、慶福は江戸幕府14代将軍・徳川家茂となります。
その真面目さ、聡明さは変わることがありませんでした。

そんな家茂は、多くの幕臣から慕われます。
しかし、その優しさが動乱の時代の家茂を苦しめます。
家茂は、自分を将軍にしてくれた大老・井伊直弼に絶大な信頼を寄せます。
しかし・・・幕府の実権を握る直弼が暴走して開国路線を強行・・・!!
朝廷の勅許をえることなく独断でアメリカと日米修好通商条約を結んでしまいます。
さらに、安政の大獄を行い、幕府に批判的な勢力を弾圧粛清していきました。
直弼の横暴を良しとしない水戸藩士たち・・・尊王攘夷派によって、大事件・・・桜田門外の変!!
1860年3月3日・・・水戸浪士たちが登城中の井伊直弼を江戸城桜田門前で暗殺!!
直弼の死を知った家茂は涙し、悲嘆にくれたといいます。

将軍継承問題で勝利した南紀派の力が一気に弱まり、対立していた一橋派が息を吹き返します。
1862年、新たに将軍後見職に就任したのは、家茂と将軍を争った一橋慶喜でした。
幕府の実権は、一橋派が握っていくことになります。

天璋院と和宮 (PHP文庫)

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1860年、家茂の婚礼の儀が執り行われます。
将軍家に輿入れするため、京の都から江戸へ向かったその女性こそ・・・
時の孝明天皇の妹・皇女和宮でした。

アメリカの強硬な姿勢に屈し開国を決めた弱腰外交への批判、そして、大老・井伊直弼が白昼暗殺されるなど幕府の権威は急速に衰えていきました。
焦った幕府は、将軍・徳川家茂と皇女との婚礼を画策します。
天皇家と姻戚関係を結び、公武合体を行うことで、緊張を緩和し幕府の権威回復を働こうと目論んだのです。
この時、家茂と年のころが釣り合うと選ばれたのが、時の孝明天皇の妹・皇女和宮でした。
しかし、宮中以外の世界を知らない皇女には、江戸は恐ろしいところと死か思えませんでした。

「鬼のような異人が集まるところに違いない」by和宮

和宮は、当初この婚礼を強く拒みました。
しかし、

”惜しまじな
   君と民とのためならば
 身は武蔵野の
   梅雨と消ゆとも”

兄・孝明天皇の為、民衆のためとこの婚礼を受けることになります。
1861年、和宮はお輿入れのために京都を発ちます。
道中の警備を入れると、総勢1万人以上、50kmにも及ぶ行列になったといいます。
そして、和宮の江戸到着から3か月後・・・
1962年2月11日、将軍家茂と和宮との婚儀が行われました。
この時二人は同じ17歳。
若い二人に混迷する幕府の行く末が託されたのです。

皇女から御台所となった和宮の住まいは、江戸城大奥!!
200年以上にわたる伝統と、厳しいしきたりによってつくられた女の園でした。
京の都とは異なる大奥での暮らし・・・不安と孤独の中で、和宮の心は固く閉じていきます。
しかし・・・やがて、和宮は心を開いていきます。
家茂の優しさから、信頼関係が生まれていったのです。
家茂は、和宮を大事にすることによって、幕府と朝廷の関係が良くなることを望んでいました。
かなり気を遣って大切にし、気にかけていたのです。
夫・家茂の優しく誠実な人柄が、和宮の心を開かせたのです。

229年ぶりの上洛・・・
時の孝明天皇は、異国人が日本に入ることを嫌い、外国勢力を打ち払う攘夷を望みます。
これに呼応し、天皇のいる京の都には、尊王攘夷派の志士たちが、全国から集結していました。
中心となったのは、桂小五郎・高杉晋作らのいた長州藩です。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけていきます。
そして、過激化した長州藩士とそれに呼応する公家たちは、天誅と称して、反対派への脅迫行為と暗殺を繰り返していました。
これに対し、幕府は会津藩主・松平容保を京都守護職に任じ、配下に浪士集団である新選組を置くなど、治安維持に努めます。
そんな中、1863年3月、14代将軍・家茂が上洛するのです。
江戸幕府将軍の上洛は、3代将軍家茂以来229年ぶりのことでした。

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当時の京都は、尊王攘夷を掲げる過激派の志士たちが暴れ回っていました。
将軍がいくことによって、幕府の力を京都に及ぼそうとしたのです。
それは、公武合体をより確かなものにするためでした。

孝明天皇と対面した家茂・・・2人の間である約束が交わされます。
「攘夷」実行が、天皇及び朝廷の強い意向でした。
孝明天皇の周りの尊王攘夷の過激派を納得させるためには、幕府が戦闘に立って外国船を打ち払うこと・・・それが、孝明天皇に対する忠誠だと考えました。
家茂は、現実的に外国船打ち払いは不可能だとわかっていました。
しかし、孝明天皇に対し、5月10日に譲位を実行すると約束するのです。

妻・和宮の兄でもある孝明天皇の御心を無下にはできない・・・
心優しき将軍は無理を承知の約束をしますが、これが家茂をさらに追い詰めていきます。
家茂が譲位決行日とした5月10日、幕府は動きませんでしたが、長州藩がとんでもない行動に出ます。
なかなか攘夷を行動に移さない幕府に業を煮やし、下関を航行中のアメリカ商船などに向かっていきなり大砲を放ったのです。
さらに、家茂が江戸に帰ったのち、京の都でも事件が起きます。
際限なく過激化する長州藩と尊王攘夷派の公家たちが、孝明天皇の不興を買い京都から追放されたのです。
世にいう、八月十八日の政変です。

その翌年の1864年1月・・・将軍家茂は、二度目の上洛を果たします。
参内した家茂は、孝明天皇からお言葉を賜ります。

「汝は朕が赤子
 朕 汝を愛すること子の如し
 汝 朕を親しむこと父の如くせよ
 その親睦の厚薄
 天下挽回の成否に関係す」by孝明天皇

親子のように互いに情愛をもって親しむことが、天下泰平へとつながると・・・
それは、公武合体を強固なものにしていこうということでした。
さらに、

「無謀な攘夷は望むところではない」

京都で家茂の心を癒してくれたものは、他にもありました。
和宮からの手紙でした。
しかし、時代のうねりは早く、激しく、家茂を巻き込んでいきます。

1864年7月19日、京の都を追放された長州藩が、御所周辺で武力蜂起!!
御所に攻め込んできました。
禁門の変です。
この暴挙に、孝明天皇は激怒!!
1865年9月、孝明天皇は長州征討の勅許を下します。
第1次長州征討・・・大坂にいた将軍・家茂が、幕府軍総大将として指揮を執りました。
しかし・・・なんと、混乱のさ中、朝廷に将軍の辞職を願い出るのです。
家茂はどうして将軍の辞職を望んだのでしょうか?
当時、国内の混乱に加え、諸外国からの圧力も強硬になっていく一方でした。
イギリス・フランス・オランダが、兵庫(神戸)の開港と、通商条約の勅許を強硬に求めていました。
幕府は兵庫開港をやむなしと考えていましたが、将軍後見職・一橋慶喜が開港に反対していました。
慶喜は江戸幕府と別の権力を京都で構築していました。
一会桑・・・一橋家・会津藩・桑名藩のことで、彼らは朝廷と強く結びついていました。
江戸幕府は、朝廷をコントロールしようと考えていましたが、「一会桑」は、朝廷の意向を第一に考えていました。
それが、大きな亀裂となっていたのです。
家茂は、幕府と一会桑の対立に板挟みとなり、有効な手段を打てずにいました。
事態は、家茂のキャパシティを越えてしまっていたのです。
将軍職を、慶喜に譲ろうとしていました。
しかし、慶喜はこの一番の難局に将軍となって火中の栗を拾う必要はないと考えていたのです。
家茂は、慶喜の説得を受けて辞意を撤回し、将軍職にとどまります。


不安なご時世に、庶民が歌い踊る「ええじゃないか」がはやる中、決してええじゃないかと言えない将軍・家茂はますます追い詰められていきます。

第1次長州征討の際、幕府への恭順派が権勢を握ったことで長州藩は戦わずして降伏。
しかし、これに我慢できなかったのが、長州藩の尊王攘夷派の中心にいた高杉晋作でした。
高杉は、町人や農民などの民衆で組織した奇兵隊を結成、武装蜂起し、再び幕府に反旗を翻しました。
これに対し、1866年再び長州征討の勅許が出され、幕府は15万人の兵を挙げて鎮圧に乗り出します。
第2次長州征討の始まりでした。
三度目の上洛をしていた将軍・家茂は、大坂城で布陣。
しかし、前とは状況が変わっていました。
長州藩と密か同盟を組んでいた薩摩藩が出兵を拒否します。
足並みが乱れた幕府軍は、敗戦を繰り返します。
そんな中、家茂が体調を崩します。
喉や胃腸の障害をきたし、やがて足が腫れだしました。
脚気です。
墓所の発掘調査によって、家茂には虫歯が30あったことがわかっています。
当分は、脚気の原因であるビタミンB1の消費を加速させます。

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孝明天皇が、自らの御典医を家茂のもとに送ります。
懸命の治療が行われましたが、その甲斐もなく、1866年7月20日、14代将軍・徳川家茂死去。
大坂城で息を引き取りました。
将軍在位・8年9カ月、まだ21歳でした。

激動の時代に将軍となった徳川家茂・・・後世の評価は??
幅広い人たちの信頼を得て、幕府の内紛や事件を未然に防いでいます。
確執が表に出ないような安定した政治を行えた人でした。
バランスがよく、人との信頼関係も上手に築けたようです。

家茂のような調整型の人との信頼関係を作る政治家には、もっと時間が必要でした。
家茂の亡骸は、和宮の待つ江戸城に運ばれました。
一緒に届けられたのが西陣織の反物・・・和宮が家茂におねだりしていたもので、家茂は具合が悪い中、忘れずに買っていてくれたのです。

悲しみに暮れる和宮が詠んだ歌・・・

空蝉の 唐織衣 なにかせむ
      綾も錦も 君ありてこそ

家茂亡き後、和宮は京の都に戻ることなく、徳川の女として生きます。
そして、1877年8月に亡くなりました。

その遺言により、2人は今、寄り添うように眠っています。
いつまでの仲睦まじく・・・

家茂の後、将軍となった第15代将軍徳川慶喜は、1867年に大政奉還。
江戸幕府は終焉を迎えました。
しかし、混迷を迎える幕末・・・
大きく揺れる日本を、崩れゆく江戸幕府を、必死で支えようと紛争開いていたのは間違いない将軍・家茂でした。
激動の世を駆け抜けた将軍、波乱に満ちた21年の生涯でした。

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骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと

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水戸藩第9代藩主・徳川斉昭は、その優れた功績に激しい気性も重ねて、後に烈公と呼ばれ、激動の時代を強烈な個性で生きた人物でした。
江戸時代後期、日本は開国を要求する外国からの脅威にさらされました。
この危機に立ち向かうため、斉昭が諸藩に先駆けて掲げたのが尊王攘夷・・・天皇をいただき、外敵を打ち払うというスローガンです。
斉昭は攘夷の急先鋒に立ち、全国の志士たちに大きな影響を与えました。

徳川斉昭 不確実な時代に生きて [ 永井 博 ]
徳川斉昭 不確実な時代に生きて [ 永井 博 ]

徳川御三家の一つ・水戸藩の城下町として栄えた茨木県水戸市・・・
藩の石高35万石は御三家では最も少なく、藩主は水戸ではなく江戸に常駐して将軍家を支えました。
藩校・弘道館・・・優れた藩士を育成するために設けられました。
3万2000坪の広大な敷地は、当時日本最大規模だったといわれています。
最盛期には、1000人の生徒が学び、文武両道に学びました。
この弘道館を作ったのが水戸藩第9代藩主・徳川斉昭です。
弘道館の中心に建てられた八卦堂・・・お堂には斉昭の教育理念を掲げた弘道館記碑が納められています。
江戸時代を通じて受け継がれてきた水戸藩の精神が刻まれています。

天皇を貴ぶ尊王、そして外国を打ち払う攘夷・・・斉昭はこの二つを組み合わせた尊王攘夷の実践を何よりも重んじました。
ここにあるのは”東照宮 撥乱反正 尊王攘夷”・・・徳川家康が、戦乱を治め正しい道に返し、皇室を尊び、外国との交易を制御した・・・家康の天下統一の功績をたたえるために使用された言葉と考えられます。
斉昭は、尊王攘夷を水戸藩のっ伝統として受け継いでいきたい・・・と考えていたのではないかと思われます。
斉昭の思想の礎となったのは、二代藩主徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」。
神武天皇に始まり、南北朝時代の終わりに至るまで、歴代の天皇の事績を中心に記した歴史書です。
天皇を敬い、朝廷から政をゆだねられた幕府に忠誠を誓う・・・大義名分を重んじる朱子学の影響を受けた学問「水戸学」がここから発展していきます。
斉昭も、水戸学を学ぶことで、尊王攘夷の考えを固めていきます。
そして、時代の危機が差し迫る中、それを前面に打ち出していくのです。
臨海に外国船が次々と姿を現し、日本を脅かすようになります。
1804年には、ロシア船が通称を求めて来航、幕府がこれを拒絶したため、樺太や択捉が襲撃されました。
1808年には、長崎にイギリス船が不法侵入・・・人質を取り、水や燃料を要求して幕府に大きな衝撃を与えました。
度重なる外国船の接近に、海岸線が長い水戸藩も警戒を強めていました。
そうした中、水戸藩が恐れていた事態が起こります。
領内の大津浜に食料を求めて2隻の外国船が漂着しました。
上陸した12人のイギリス人を捕縛し、取り調べを行いましたが、その間、沖合の船は空砲をならし威嚇し続けました。
黒船来航の30年前の事です。
既に水戸藩は外国の脅威を肌で感じていたのです。
1829年、斉昭は、30歳で水戸藩第9代藩主に就任します。
自らの力で攘夷を実現すべく、対外政策の改革を打ち出していきます。
斉昭は目をつけたのは、北方にある蝦夷地・・・ロシアからの侵略を防ぐため、藩士を移住させ、有事の際は武力行使も辞さない考えでした。
開拓計画を斉昭は自ら執筆した「北方未来考」で明らかにします。
挿絵をふんだんに使い、蝦夷地の城を拠点にロシアに立ち向かう構想を示しています。
積み上げた石垣の間から、的確に銃で敵を狙い撃ちする作戦です。
堀の入り口には水門を築き、綱や鎖を設置して敵の侵入を阻止する方法を考えています。
さらに斉昭は、海防政策の要として、大型船の建造を幕府に求めます。
当時、軍事力の強化や外国との交易を防ぐため、幕府は大型船の建造を禁じていました。
斉昭は、外国船に脅かされる今こそ、その解禁が必要だと訴えました。

「堅固な大型船の建造をお許しになれば、海防のためによろしく 人命も助かり重要な荷物が海中に沈む心配もなくなる」

しかし、幕府はそうした提案の御数々を決して認めませんでした。
斉昭は、攘夷の実践のため、独自の行動に出ます。
狩猟を名目に、水戸郊外の原野で軍事演習を挙行。
この「追鳥狩」には、斉昭指揮のもと、3000人の水戸藩士が参加し、諸藩から人々が足を運ぶほど注目を集めました。

太平の世になれていて、甲冑さえも持っていない・・・そんな水戸藩士もたくさんいました。
藩士たちに甲冑を着させ、大砲や鉄砲を使う・・・大々的に見せることで、攘夷が重要だと天下に知らしめたかったのです。
大砲は、斉昭が外国船から沿岸を防備する為に開発したものでした。
この作られた大砲の銅は、領内の寺院から鐘や仏像を供出させ、それらを鋳つぶして作ったのです。
この行為は、寺院勢力だけでなく、水戸藩内部からも反感を買いました。
斉昭の急進的な改革の数々に、幕府も危機感を抱き始めます。
その結果、藩主就任から15年・・・1844年、斉昭は幕府から江戸屋敷での隠居謹慎を言い渡されます。
藩政への介入を絶たれた斉昭は、失意の中、藩主の座を息子・慶篤に譲ります。
斉昭の改革は、志半ばでとん挫することになります。

隠居・謹慎の身で苦悩の日々を送る斉昭・・・
幕政の中核を担う老中首座・阿部正弘が就任すると、斉昭に転機が訪れます。
幕府として外国船の脅威に備える対策が急務と考えた阿部は、海防政策に精通する斉昭に意見を求めるようになります。
公の場に出られない斉昭は、書簡を通じて自らの考えを伝えます。

「軍艦の件は一日も早く着手したい
 異国に島々を奪われてから、こちらが船の製造にとりかかったところでどのみち手遅れである」

軍艦製造を求める斉昭の提案に対し、阿部は同意を示します。
そしてまず、幕府が作り、後に諸藩にも許可を与える方向で調整すると返信しました。
その後も、海防政策への助言を続けた斉昭は、阿部からの信頼を得て、幕府に欠かせない人材となっていきます。
1849年、斉昭は謹慎をとかれ、藩政へ復帰。
そしてこの時まだ17歳の藩主・慶篤を支える相談役に任じられました。
それから4年後・・・日本全土を揺るがす大事件が・・・!!
1853年6月3日、浦賀沖に黒船来航!!
司令長官のマシュー・ペリーは大統領の国書を持参し、日本の開国と通商を強く求めます。
海防政策が十分に練れていない中、アメリカの要求にどう答えたらいいのか・・・??
向かった先は、斉昭の屋敷でした。
今こそ、海防に関する見識を幕府で生かしてほしいと直々に要請します。
ペリー来航から1か月後・・・54歳の時に「海防参与」に任命されます。
遂に幕政への進出を果たしたのです。
斉昭は、ペリーの回答を引き延ばし、その間に海防を強化するように指示します。

「海防の強化を厳重にして、庶民を兵隊に加える
 もし、決戦になれば、全国に大号令を発し、武家だけでなく、百姓、町人まで覚悟を決めて、神国全ての心を一つにして団結することが肝要である」

攘夷の姿勢を崩さなかった斉昭は、幕府と諸藩が一体となって、未曽有の危機に立ち向かうことを訴えます。
危機感を過剰に煽らないと日本が侵略される危険性がある・・・
危機意識を高めることによって、バラバラだった日本人の心が一つになる・・・その先に、富国強兵を進めていく!!
「攘夷」は手段で、人々の心を一つにする・・・それが求められていました。
阿部は、斉昭の意見を取り入れ、戦火を交えるときは挙国一致で動く、海防の大号令を発します。
攘夷を貫いていたとみられる斉昭ですが・・・当時の斉昭の本心は・・・??
斉昭と同じく攘夷派だった福井藩主・松平春嶽に宛てた手紙です。

「外国と交際することは最善ではない
 しかし、今の辞世ではどうすることもできない
 とても攘夷を行うことはできない
 ぜひ交易、和親の道を開くべきで、尽力されることがいいだろう」

水戸藩で、海防政策に真っ先に着手した斉昭は、外国とは軍事力で大きな差があると感じていました。
現実を見据えて攘夷一辺倒ではなく、開国もやむ終えないと考えていたのです。

「私はもう年老いてしまった
 ”攘夷の巨魁”として、これまで世間に認知されてきたので、死ぬまでこの説は変えないつもりだ」

実際の行動と本心は乖離していたのです。
自分はとにかく攘夷を訴えるのが使命だ・・・!!

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幕府は通商問題を先送りにしたものの・・・1854年3月3日、日米和親条約締結。
下田・箱館の開港を認めます。
しかし、アメリカはそれに満足せず、2年後に来日したハリスは、通商条約の締結を強く要求。
拒否すればすぐ開戦という強硬な姿勢を見せました。
さらに、この外圧のさ中・・・斉昭の立場を揺るがす事態が・・・!!
病弱で子供のいなかった第13代徳川家定の後継者問題です。
譜代大名や幕臣の多くは、将軍・家定の血筋に近い紀州藩主・徳川慶福の擁立を目指しました。
それに対し、斉昭や西国の雄藩らは斉昭の息子・一橋慶喜を推挙します。
多難な幕府の行く末を託せる聡明な人物として期待されていました。
二つの勢力が対立する中、斉昭に信頼をよせてくれていた阿部正弘が、1857年に死去。
これを機に、斉昭も海防参与を辞任して水戸藩に戻り、幕政から距離を置きました。
その後、幕府の最高職・大老に彦根藩主・井伊直弼が就任・・・懸案の通商条約問題に取り組みます。
幕府ははじめ、天皇の勅許を仰ぎ条約調印を目指していました。
しかし、朝廷内は、攘夷の考えが根強く、孝明天皇の勅許は得られませんでした。
すると井伊は、無勅許のまま、1858年6月19日に日米修好通商条約を締結!!
朝廷と幕府の関係を揺るがす、異例の事態でした。
井伊の独断を許せなかった斉昭・・・
条約締結から5日後、幕府が定めた登城日を無視し、松平春嶽らと共に江戸城にいる井伊のもとに向かいます。
なぜ、天皇の許可なく調印したのか??
斉昭は問い詰めます。
井伊は、無勅許調印はやむなしとして、斉昭の質問をそれ以上受け付けませんでした。
さらに、将軍継嗣問題についても、井伊は斉昭たちの主張に取り合わず、次期将軍は慶福に決まっていることを告げました。
不満を募らせる斉昭・・・そこに追い打ちをかけるように幕府から江戸屋敷での謹慎を命じられます。
登城の件を身勝手な行動と判断されたのです。
斉昭は幕政だけでなく、藩の政からも再び離れることになりました。

斉昭謹慎の報せは、朝廷にも届いていました。
1858年8月8日、朝廷は孝明天皇の命令である「勅諚」を、尊王攘夷を掲げる水戸藩に直接下しました。
世に言う”戌午の密勅”です。
その内容は、通商条約の無勅許調印に対する叱責と、斉昭らの処分に対する幕府への批判、見直しでした。
そして、御三家や諸藩は、幕府と協力して国内の平安を図り、外国の侮りを受けないようにせよというものでした。
水戸藩に攘夷の推進を強く求めるものでした。
さらに、勅諚には添え書きが・・・”水戸藩から全国の諸藩に勅諚を伝達せよ”・・・幕府の頭越しに勅諚を諸藩に伝えるという前代未聞の指令でした。
尊攘の志士たちの意向が朝廷内に反映していました。
斉昭、水戸藩に重要な役割を担ってほしい!!
水戸藩に幕府をアシストして、勅諚の内容を実現するように努力させようとしたのです。

2日後、同じ内容の勅諚が幕府にも下されました。
この時幕府は、水戸藩に直接勅諚が送られたことを知ることになります。
一方、突然受け取った勅諚の扱いに、斉昭や水戸藩は困惑しました。
程なく、藩内でもこの一件は周知の事実となります。
即刻諸藩に勅諚を伝えるべきという声も上がり始め、その是非をめぐり意見は割れました。
謹慎中の斉昭は、みずから指揮を執れず、水戸藩は統制が利かない状況に陥っています。
勅諚の扱いは、水戸藩の行く末を左右しかねない・・・どうする斉昭・・・??
朝廷と幕府の狭間で、斉昭と水戸藩は厳しい選択を迫られました。

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思い悩む斉昭・・・そんな斉昭に進言したのは、水戸学の指導者として知られた会沢正志斎でした。
斉昭を尊王攘夷の思想へと導いた師匠に当たる人物です。
会沢はこの時、
「勅諚の趣旨を、幕府が穏便に受け取ればよいが、そうでなければ私にもどのような異変が起こるかは想像もできない」
と、あくまで勅諚を慎重に扱い、取り置くことを提案しました。
これを受けて斉昭は、勅諚を藩に留めるべきだと判断します。
藩主・慶篤にも、幕府を通り越して諸藩に伝達することは断念するように勧めました。
将軍家あっての水戸家・・・尊王をもっとも率先してやるべきは、”将軍”という立場はぶれていませんでした。

勅諚をとどめたことをきっかけに、反論は真っ二つに割れました。
斉昭の判断に従い幕府を刺激すべきではないと主張する鎮派、それに異を唱えたのが天皇の勅諚通りに諸藩への伝達を唱える激派・・・幕府への敵対心を示し、次々と江戸へ向かいます。
激派に刺激された領民たちも追随します。
謹慎中の斉昭は、激派の怒りを鎮めるために自らの思いを諭し書きに認めました。

「我々の処分が解けず、悲嘆に耐えかねて、思いつめて起こした行動ではなかろうか
 幕府への忠誠により、私は深く謹慎している
 この心情をくみ取り、早く争いを鎮めよ」

もとは自分の蒔いた種・・・しかし、その種は、勝手に成長してしまったのです。
一番の問題点は、謹慎蟄居により外に出られなくなってしまったことでした。
斉昭支持派は、勝手に忖度をはじめてしまったのです。
斉昭の肉声が届かなくなってしまっていました。
そんな中、彼らの行動はエスカレートしていく・・・それを止められないもどかしさ・・・!!
井伊直弼は、密勅の問題が幕政を揺るがすという危機感を抱き、反対派の一斉弾圧をはじめます。
安政の大獄です。
激派の首謀者と見なされた斉昭は、1859年8月、「永蟄居」の処分を受けます。
斉昭の政治生命は、永久に立たれることになります。
江戸に護送された藩士たちは、打ち首や獄門などの過酷な刑に処せられました。
その後、幕府は水戸藩に対し勅諚の返納を求めましたが、激派は断固拒否し、抵抗を続けます。

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そして・・・激派の一味は藩を抜け出し、1860年3月3日、江戸桜田門外で、彦根藩の行列を襲撃・・・井伊を殺害します。
その日の深夜、斉昭はいい暗殺の報告を受け・・・

「将軍家の信頼が篤い宰相を殺害するとは不届き至極!!
 言語道断だ!!」

自らが火をつけた尊王攘夷のうねりは、斉昭の思惑をはるかに超えて、先鋭化していたのです。
その5か月後・・・1860年8月15日、斉昭は水戸藩の将来を案じながら、
61歳でその生涯を閉じました。
斉昭の死後、幕府は水戸藩に対する監視をゆるめませんでしたが、激派の勢いは止まりませんでした。
中でも過激な尊皇攘夷を唱える天狗党が反省の実権を掌握!!
朝廷との約束である攘夷を直ちに実行すべしと訴えた天狗党は、筑波山で挙兵!!
しかし、幕府軍に追討され、指導者以下300人が命を落としました。
すると今度は、幕府よりの保守勢力が藩内を制圧・・・しかし、その後も天狗党との血で血を洗う構想は続き、水戸藩は衰退の一途をたどりました。

水戸徳川家にゆかりのある鷲子山上神社・・・ここに、幕末の水戸藩の姿を象徴するものが残されています。
斉昭公から頂いた水戸家の手鏡・・・その真ん中には菊のご紋が・・・周りに小さく葵のご紋が・・・菊は皇室への敬意、葵は幕府への忠誠・・・水戸学の伝統に基づき両者を共存させようとした水戸藩・・・斉昭が推し進めた理念に、藩はほんろうされ続けました。
そして、混乱を極める中で、幕末の政局の主導権を失っていくのでした。


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東京・目白にある学習院大学・・・
敷地内には、大学の他にも幼稚園、中等科、高等科が併設され、皇族の子息が通われる学校として知られています。
その起源は、江戸時代の京都にありました。
1847年、御所の日御門前に、学問所を新設・・・その2年後に、時の天皇が学習院と名付けたのです。
その名付け親こそ、孝明天皇・・・激動の幕末に即位した江戸時代最後の天皇です。
孝明天皇が在位していた20年の間に、①安政②万延③文久④元治⑤慶應・・・と、5回も変わっています。
国家を揺るがす色々なことが起きた時代でした。
この未曽有の国難にどのように対処したのでしょうか?

①前代未聞
弘化3年2月、もう姪天皇は16歳で天皇の位を承け継ぎます。
その5月、事件が勃発します。
日本近海に度々外国船がやってくる中、浦賀にアメリカ艦隊が来航します。
通商条約の締結を要求してきたのです。
さらに、6月には長崎にフランス艦隊が来航・・・
幕府は鎖国を理由に彼らの要求を拒み、退去させました。
しかし、その2か月後、孝明天皇が思わぬ行動を起こします。
時の関白を通じ、幕府へ勅書を下したのです。

「近年、異国船が時々渡来するという噂を耳にする
 幕府は異国を侮らず畏れず、海防を強化し、日本の恥とならないよう処置し、朕を安心させるようにせよ」by孝明天皇

その孝明天皇の勅書に、時の将軍・第12代家慶をはじめ幕府の役人たちは驚きます。
何故なら、幕府の政策に天皇が口出しするなど前代未聞のことだったからです。

当時の天皇と幕府の関係は・・・??
形の上では、天皇が将軍に国政を委任するというものでした。
実際、圧倒的に幕府が力を持っており、朝廷は抑えられているという感じでした。
天皇・朝廷が幕府に口を出すことはなかったのです。

その理由の一つが、天皇・公家は、幕府から経済的な支援を受けていました。
天皇の所領は禁裏御料と呼ばれ、3万石。
さらに、朝廷に仕える公家たちには合わせて7万石ほど・・・
つまり、幕府は朝廷に年間10万石を献上していました。

幕府からの支援を受け、孝明天皇は豪勢な生活をしていました。
幕府の支援を受けながら、実に優雅な暮らしを送る孝明天皇・・・
ひどく怖れていたのは、開国を迫る欧米諸国の存在です。
嘉永6年、アメリカからペリーが来航し、開港を要求します。
日本は激動の時を迎えます。
安政元年、アメリカの強硬な開国要求に、日米和親条約を締結・・・
箱館と下田の二港を開港しました。
さらに、イギリス、ロシアとも条約を結びます。
この時、孝明天皇は、朝廷がある関西地方の警備体制の強化を要望しながらも、条約締結に関しては承認します。
なぜなら、和親条約は友好をうたったもので貿易協定などを結ぶものではありませんでした。
箱館、下田は、京都から遠く離れていたので、恐れるほどではなかったのです。

しかし、事態は急転・・・

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安政3年、アメリカから在日総領事ハリスが下田に着任します。
正式な交易・・・通商条約の締結を要求してきました。
さらに、アメリカ大統領からの親書を、直接江戸城で将軍と謁見し渡したいというのです。
幕府は、ハリスの要求を受け入れます。
将軍との謁見を許可し、通商条約締結へ向けての交渉に入ったのです。
この時、幕府ははなからアメリカと戦う気などありませんでした。
隣国である中国・清がイギリスとのアヘン戦争にやぶれ、不平等な通商条約を結ばされたうえ、香港の割譲を強いられるという惨状を知っていたからです。

欧米諸国と戦えば、清と同じ運命をたどる・・・
開国賛成派と、鎖国維持派・・・諸大名の意見は真っ二つに分かれ、合議を得るどころではありませんでした。
そこで、天皇からの勅許を得られれば、みな、アメリカとの条約締結を納得すると考え朝廷に老中を派遣します。
この時、京都御所に向かったのは、堀田正睦・・・孝明天皇を簡単に説得できるだろうと考えていたようですが・・・孝明天皇は幕府を驚かせます。
幕府が条約締結へと動いていると事前に聞いていた朝廷では、その対応が協議されました。
そこで、孝明天皇は自らの意見を表明します。

「アメリカの願い通りになってしまっては、天下の一大事の上、朕の代よりそのようなことになってしまったのでは後々まで恥となる」

だから、条約締結は承認できないと・・・!!
幕府の提案を承認しないなど、前代未聞・・・!!
幕府とうまくやっていきたい公家たちは、困惑しました。
天皇の御威光をそのまま幕府に伝えれば角が立つ・・・なんと返答すべきか・・・??
迷った挙句、公家たちは参内した老中・堀田正睦にこう告げました。

「徳川御三家以下、諸大名の本心を今一度聴取し、その報告を聞いたうえで改めて帝が判断を下される・・・!!」

開国に反対する大名を納得させるためにわざわざ京にまでやってきたのに、その大名の意見をもう一度聞いて来いと・・・??
堀田はこれを拒みます。

「アメリカと戦っても、勝ち目などありません
 世界の情勢を見ても、通商条約締結はもはや避けられないことなのです」by堀田

理路整然と説明し、涙ながらに訴えました。
しかし、孝明天皇の心は変わりませんでした。
最後に堀田は、朝廷にこう迫ったといいます。

「アメリカがしびれを切らし切迫した場合は、戦か条約締結か、幕府が判断してもよろしいのでしょうか?」by堀田

これに対し孝明天皇は、

「アメリカが武力に訴えるならば、戦も致し方ない!!」by孝明天皇

あくまでも孝明天皇が望んでいたのは、今までの体制・・・鎖国体制の維持継続でした。
折り合いをつけるという方法を知らないアメリカの強引なやり方が、孝明天皇の”外国人に対する嫌悪感”に繋がったのです。
それが、攘夷につながった可能性があります。
頑なな天皇を前に、なすすべを失くした堀田は、勅許を得ぬまま江戸へと戻っていきました。

幕府は強硬手段に出ます。
指揮を執ったのは、大老・井伊直弼・・・
井伊は、諸藩の意見を聞くことも、孝明天皇の許可を得ることもなく、日米修好通商条約に調印(安政5年)。
これが、孝明天皇の逆鱗に触れました。

「絶体絶命の今、うかうか致してはおられぬ!!」by孝明天皇

天皇は、すぐに幕府に御趣意書を送り、猛烈に抗議!!

「この度の幕府の措置は、厳重に申せば勅書を無視したものであり、不信感を抱かせるものである」by孝明天皇

それでもまだ収まらない孝明天皇は、水戸藩に勅書を下します。
さらに、その内容を他の藩にも伝えるように命じました。
その中で天皇は、独断で日米修好通商条約を締結した幕府に、経緯の説明を求めること
さらに、外国人を打ち払う”攘夷”を推進すべく幕府を改革していくこと
を、強く求めました。
ただし、これは天皇の越権行為でした。
幕府は天皇と諸大名が直接やり取りすることを禁じていました。
それだけ、孝明天皇は幕府に対して怒っていたのです。
しかし、幕府の大老・井伊直弼は、攘夷にこだわる孝明天皇をまるで逆なでするかのように更なる強硬手段に出ます。
天皇や朝廷側につく尊王攘夷派を大量に処罰!!
吉田松陰や橋本佐内は死罪となりました。
世に言う安政の大獄です。
これを聞いた天皇は、再び激怒!!
扇子で関白の頭を執拗にたたいたと言われています。

どうして孝明天皇はそこまで攘夷にこだわったのでしょうか??
200年以上鎖国体制が続いていました。
急に開国しようとも気持ちがついていきませんでした。
当時は変化を嫌い、如何にして今を保つかが大事なことでした。
歴代の天皇が守ってきたものを、自分の代で変えることに抵抗があったのです。

将軍の職務は、外国人を制圧することにありました。
征夷大将軍の職務を果たしていないのでは・・・??

孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を勝手に調印し、天皇を支持した尊王攘夷派の者たちを大量に処罰した江戸幕府の大老・井伊直弼・・・当然、その強引なやり方は多くの敵を生みました。
安政7年3月3日・・・江戸城桜田門の前で、井伊は暗殺されます。
襲撃の主犯は、尊王攘夷派の水戸藩士たちでdした。
これをきっかけに、諸大名の幕府の強引なやり方に反発・・・幕府の権威は急激に失墜していきます。
そして、こののち、孝明天皇は、図らずも維新という大きな渦に巻き込まれていくのです。


②妹・和宮
失墜した権威を取り戻すべく、幕府は朝廷と融和し、一体となる体制・・・公武合体を画策します。
その象徴として進められたのが、14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の結婚でした。
皇族が武家である将軍家へ嫁ぐなど、前代未聞のことでした。

この時、孝明天皇自身も公武合体を望んでいました。
しかし、迷っていました。
なぜなら、妹には婚約者・有栖川宮熾仁親王がいたからです。
そして、何より和宮が江戸で暮らすことを嫌がっていました。
宮中で育った和宮には、外国人たちが多く暮らす江戸は恐ろしい場所に映っていました。
妹の幸せを願った孝明天皇は、この縁談を却下・・・
しかし、幕府は食い下がります。
困った天皇は、信頼を置く公家・岩倉具視に助言を求めました。
すると岩倉は・・・
「幕府が攘夷の実行を約束するならば、降嫁をお許しになればよろしいのでは・・・」
そこで、その条件を幕府に突き付けると、
「10年以内に鎖国体制に戻す」
つまり、孝明天皇の望み通り、攘夷を決行すると約束してきたのです。

問題は頑なにこの結婚を拒む和宮でした。
幕府から攘夷の約束まで取り付けた孝明天皇は、いまさら破談にはできません。
そこで、和宮の代わりに生れたばかりの娘・寿万宮を嫁がせようと考えます。
すると・・・それを知った和宮は、自分が江戸へ行かなければ誰かが犠牲になると、兄のため、朝廷のため、将軍家に嫁ぐ決意を固めたのです。
その代わりに和宮は、
・大奥に入っても御所の流儀を通すこと
・御所の女官を御側付きにすること
などの条件を出しました。
孝明天皇は、苦渋の決断を下した妹のため、幕府に和宮の要求を順守することを厳しく命じたうえで、江戸へと送り出しました。

これによって、孝明天皇は幕府に大きな貸しを作りました。
降嫁の交換条件として出した”攘夷”を幕府はいつ決行するのか??
幕府に対し、有利に立った孝明天皇は、人事にまで介入します。
”老中を決める際、事前に天皇に伺いをたてること”を幕府に認めさせました。
攘夷に反対する人物を、幕府の首脳陣に加えさせないためでした。

さらに孝明天皇は、悲願だった攘夷実現に動き出し、それが、”尊王攘夷”という大きなうねりを生み出すことになります。
ところが、この後、天皇は意外な行動に出ます。

和宮は、家茂のやさしさに、二人の仲も睦まじく・・・公武合体もうまくいくと思われました。

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そんな中、新しいうねりが巻き起こります。
孝明天皇のもとで政治を行い、開国を迫る外国勢を打ち払おうという尊王攘夷運動です。
理想に燃える尊王攘夷派の志士たちの存在を、孝明天皇も当初は容認していました。

③尊王攘夷派
天皇がいる京都に続々と集まる尊王攘夷派の志士たち・・・
その中心となったのが、桂小五郎久坂玄瑞らを中心とする長州藩でした。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけて行ったのです。
そんな中、文久3年3月、将軍・徳川家茂が上洛・・・
将軍の上洛は、3代将軍徳川家光以来およそ230年ぶりのことでした。
孝明天皇が、将軍・家茂を呼びつけた形になります。
幕府は、「文久3年5月10日に攘夷を決行する」ことを約束させられます。
孝明天皇が、将軍・家茂に約束させた攘夷決行日である5月10日・・・尊王攘夷を掲げる長州藩が動き出します。
下関沖を航行中のアメリカ商船を砲撃!!
ついに、攘夷を実行に移したのです。
さらに、長州藩は、当時めったに行われなかった天皇の行幸を勝手に計画。
①神武天皇陵・春日大社を参拝
②孝明天皇の指揮で譲位を行うべく軍議を開く
長州藩と尊王攘夷派の志士たちの行動は、日に日に過激さを増していきます。

ところが・・・文久3年8月18日、京都・御所・・・クーデターが勃発します。
長州藩とそれに味方する”尊王攘夷派”の公家が京都から追放されます。
八月十八日の政変・・・クーデターを実行したのは、公武合体派の会津藩と薩摩藩でした。
そして、彼らに命じたのは、孝明天皇だったのです。
どうして味方である尊王攘夷派を追放したのでしょうか??

はじめのうちは、尊王攘夷派は、孝明天皇の意見を代替えする存在でした。
しかし、いつしか孝明天皇の意向を無視して、ことを進めていくようになったのです。
孝明天皇が望んだのは、幕府による緩やかな攘夷だったのです。
尊王攘夷派の中には、幕府を倒し、王政復古を目論む者もいました。
孝明天皇はあくまでも幕府と共にやっていきたい・・・幕府と共に国を治める公武合体だったのです。
しかし、尊王攘夷派を追放し誰がために、孝明天皇自身の運命が大きく変わっていきます。

過激な尊皇攘夷派を追放したのち、孝明天皇は再び参内した徳川家茂に対し、こう表明します。

「無謀な征夷は実に朕が好むところに非ず」

なんと、急進的な攘夷は望まないというのです。
幕府に対し、あれだけ攘夷を主張してきた孝明天皇が、その態度を軟化させたことに世間は驚きました。
天皇の真意は何処にあるのか??
”攘夷”の態度を軟化させたことで、世間は孝明天皇に対し、不信感を抱くようになります。
天皇の絶対的な権威に対する疑い・・・

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令和元年11月27日・・・即位の礼と大嘗祭を終えた天皇皇后両陛下が京都を訪問されました。
令和という新たな時代・・・その代替わりを160年前の激動の時代の一人の天皇に報告するためです。
その天皇とは、明治天皇の父・孝明天皇・・・江戸時代最後の天皇です。

攘夷派が台頭し、京を舞台に相次ぐテロを実行・・・暴力を武器に時代を動かしていました。
1963年、攘夷派は天皇を巻き込んだある計画を企てます。
”大和国行幸”です。

大和行幸は、表向きは天皇が奈良にある神武陵などを参拝し攘夷を祈願するというものです。
しかし、そこには恐ろしい計画が隠されていました。
それは、行幸先の大和で軍議を開き、攘夷を天皇が指揮することを表明するというものでした。
天皇の決断次第では、幕府を敵に回す可能性も・・・
欧米列強との戦争、幕府との内戦・・・かつてない危機が迫っていました。
江戸から明治へのターニングポイントで、苦悩の選択を迫られた孝明天皇・・・その知られざる実像とは・・・??

孝明天皇が皇位を継いだのは1863年・・・父・仁孝天皇が突然崩御し、16歳で皇位を継ぎました。
時あたかも時代の激変がこの国を飲み込もうとしていました。
1840年、アヘン戦争が勃発!!
隣国清が、イギリスの圧倒的な軍事力の前に敗北、港や領土の割譲を強いられていました。
列強の触手は、日本にも伸び始めていました。
孝明天皇が皇位を継いだ年、英仏の軍艦が琉球に来航・・・
さらに、浦賀や長崎など日本本土の港にも相次いで姿を現しました。
報告を受けた若き天皇は、朝廷は外交には口を出さないという慣例を破ってまで幕府に命令を下します。

異国船来航があまりに頻繁なので心配である。
海防を強化し、清国の瑕瑾とならぬよう処置するように。

攘夷を命じたのです。

ところが、幕府の対応は、天皇の意に反するものでした。

1853年ペリーが浦賀に来航。
圧倒的な軍事力を前に、幕府は和親条約を締結。
下田と箱館で水と燃料を供給することを認めたこの条約を天皇は事後承認するほかありませんでした。
それから1月ほど後、事件が起きました。

1854年4月6日、突然黒い煙が京の町に・・・!!
天皇が住む御所が炎上したのです。
その場に居合わせた公家の日記によると・・・

贅を尽くした大和絵の絵や調度が燃え上がる中、公家たちは口々に天皇に避難を促しました
5,6人がかりで板輿に乗せられた天皇は、炎に追われるように御所の外に逃れ出ました
この時天皇は、生れてはじめて民衆の姿を目の当たりにしました。
はだしのまま供をしていた公家に草履を与える者、手桶に水を汲んで焼け出された女官に飲ませる者・・・人々の情けを受けながら、一行はようやく避難所の下賀茂神社にたどり着きました。

この頃に詠まれた孝明天皇の歌に・・・

あさふゆに 民安かれと 思ふ身の 
             こころにかかる 異国の船

とあります。

この国土に住む民衆を、自分が天皇として守らなければならない・・・!!
この時、孝明天皇は伊勢神宮など畿内22社、畿外11社に異国船退去の祈祷を繰り返し命じます。
神々の力で攘夷を実現せんと願ったのです。
しかし、開国への流れはさらに加速していきます。

1857年、ハリスが日米通商条約締結を要求。
外国人が日本に滞在し、通商を行うという”開国”を求める内容でした。
武力を背景にしたハリスの主張の前に、幕府は条約締結しかないと判断。
1858年2月、老中・堀田正睦が京に赴き、朝廷に条約締結への許可を求めます。

「もし、条約を拒んで戦となっても勝ち目はない・・・」

しかし、堀田に対して孝明天皇はこれを拒絶。

「私の代より開国することになっては後々までの恥の恥である」

代々守ってきた鎖国を、自分の代で放棄するのは、断じて許せないことだったのです。
ところが、この年の4月、井伊直弼が大老に就任するや、事態は急変・・・
天皇の許しのないまま・・・1858年6月、日米修好通商条約調印に踏み切ったのです。
さらに、井伊は反対勢力への大弾圧・安政の大獄を断行します。
それは朝廷にまで及び、公家たちは震え上がりました。
一方これと並行して井伊は、老中を京に派遣、孝明天皇に対してこう弁明させます。

「開港 貿易を好むものは、幕府重役に一人もおりませぬ
 軍事力が整えば以前の国法(鎖国)に引き戻す」

いずれ鎖国に戻すという約束に、天皇は次のように返答。

「以前の通りに戻されるとの事、条約締結のやむ終えざる事情については疑念は氷解した」

攘夷を実行しない幕府にいら立ちながらも、井伊の強権政治をまえに、天皇は妥協せざるを得なかったのです。

1860年3月・・・
開国を推し進めていた井伊直弼が水戸藩浪士らの手によって暗殺されました。
世に言う桜田門外の変です。
時の最高指導者が、江戸城の目と鼻の先で暗殺されたことで、幕府の威信は地に落ちました。
失地回復を図るために幕府が打ち出したのが公武合体でした。
そのために幕府は、孝明天皇の妹・和宮の将軍・家茂への輿入れを要請します。
1861年和宮は江戸に下り、朝廷と幕府が手を携える体制が確立しました。

ところが、これに反発したのが、尊王攘夷派でした。
急進的な浪士たちが次々と京に集結します。
幕府の出先機関の襲撃や、要人の暗殺など倒幕に向けた武装蜂起をし動き出しました。
京に不穏な空気が立ち込める中、孝明天皇に接近する勢力が・・・薩摩藩!!
1862年、島津久光は、1000人もの軍隊を率いて上洛。
朝廷に取り入り、その権威を背景に幕府政治に参画しようとしました。
一方、この接近は、天皇にとっても渡りに船でした。
上洛した久光に対し、孝明天皇は命じます。

「今日に滞在し、浪士共の蜂起を抑えるように」

攘夷の実現を目指す浪士たちを取り締まろうとした理由は・・・??
孝明天皇は、基本的に秩序を守る、維持するという立場でした。
そこに浪士たちがやってくるのは孝明天皇にとっては有難迷惑なことでした。
そこに、1000人の藩兵を連れてやってきた久光・・・頼りになる存在でした。
久光はすぐに行動を移します。
1862年4月、寺田屋事件
久光は、伏見寺田屋で、尊王攘夷派を粛正させました。
京での武装蜂起は未然に防がれ、孝明天皇は安堵しました。
ところが・・・その年の8月、予期せぬ事件が起こります。
久光の行列を横切ったイギリス人を、薩摩藩士が切り捨てた生麦事件です。
イギリスの報復に備えるため、久光は急遽薩摩へと帰国。
そして薩摩不在の京では、尊王攘夷派が再び勢いを取り戻します。
公武合体のために働いた公家の家臣から京都奉行所の与力までを標的に、テロの嵐が吹き荒れます。
この情勢の中、急速に朝廷に接近したのが藩を挙げて攘夷を掲げる長州藩でした。
久坂玄瑞、桂小五郎と言った弁舌に秀でた藩士が、三条実美ら公家を次々と取り込んでいきます。
朝廷の主導権は、完全に長州藩に握られました。

1862年11月、三条実美が、勅使として江戸へ・・・幕府にこう通告します。

「攘夷期限を決めて朝廷に報告すべし」

対応を迫られた幕府は、1863年3月、将軍・徳川家茂上洛。
実に229年ぶりの将軍の上洛でした。
これに合わせて天皇の周囲では、ある計画が進められていました。
京都市北区上賀茂神社・・・3月11日、孝明天皇加茂行幸。
孝明天皇は、楼門から中門に輿に乗り進み、中で攘夷祈願をされました。
天皇自ら神社に赴き攘夷祈願を行うのは、極めて異例のことです。
この行幸で、人々はさらに前代未聞の状況を目にしました。

孝明天皇が乗る鳳輦・・・その前後を将軍・家茂をはじめ武士たちが警護しながら神社に向けて進んでいきます。
天皇が将軍を従えて行幸し、攘夷を祈願する・・・これは、他ならない長州藩によって仕組まれたことでした。
さらに家茂は、尊攘派に押し切られるかのように5月10日をもって攘夷の実行を約束します。
猶予は3週間足らずでした。
孝明天皇が望む攘夷へ・・・時代は急速に旋回していきました。

攘夷決行の期日とされた1863年5月10日、長州藩は下関海峡でアメリカ船を砲撃!!
ついに攘夷の火ぶたが切られました。
しかし、列強との軍事力の差は歴然でした。
砲撃から20日後・・・6月にはアメリカ軍艦が聴衆に報復!!
長州の軍艦や砲台に壊滅的な打撃を与えました。
この時、長州にとって計算外だったのは・・・長州以外にどの藩も攘夷を行わなかったのです。
孤立した窮状を打開するため、長州は朝廷を動かし、ある秘策を打ち出します。
大和行幸です。
孝明天皇が、攘夷祈願のために大和の神武天皇陵などに行幸し、そこで軍議を開くという計画でした。
天皇が先頭に立って攘夷を行う・・・
天皇の権威によって、攘夷実行を各藩に強制していく・・・!!
極めて巧妙な秘策でした。

1863年8月13日、大和行幸の詔発布。

出発は1か月後・・・。
大和行幸を実行する??
この時、大和行幸を阻止するべく動き始めていたのが薩摩藩でした。
早くから異国の脅威にさらされてきた薩摩藩は、攘夷の危険性を痛感していました。
島津久光は、京都藩邸に使者を送り、工作を開始。
行幸の詔の出た8月13日、薩摩藩士高崎正風は、会津藩邸を訪問し、連携を図ります。
尊攘派から主導権を奪うため、京都守護職を務める会津藩900人の兵力を当てにしたのです。
御所を舞台にした大胆不敵な政変計画。
会津藩の回答は・・・??
”中川宮が決意されたのであれば如何様にでもご尽力する”
中川宮朝彦親王は、孝明天皇が兄とも慕う皇族です。
公武合体派の重鎮で、この時薩摩と共に政変計画に動いていました。
8月15日、高崎は、中川宮に政変計画を説明。
中川宮ら同志が参内したのち、御所の全ての門の出入りを厳重に差し止め、過激派公卿を退職、逼塞せしめる・・・御所封所計画です。
これに賛同した中川宮は、孝明天皇のもとに参内、天皇の判断を仰ぎました。

政変計画を承認して大和行幸を中止??

薩摩の島津久光に宛てた孝明天皇の宸翰には・・・
朕の存意はいささかも貫徹せず・・・尊攘派が牛耳る朝廷では、天皇の意見は何一つ通らないというのです。
尊王攘夷派の勢いに任せて、大和行幸を行うのか?
政変計画を認めて行幸を取りやめるのか・・・??
孝明天皇に選択の時が迫っていました。

1863年8月16日、孝明天皇は中川宮に密勅を下しました。
”会津中将に命じて処理せしむるのほかない
 よろしく命令して処分せよ”
天皇は、薩摩会津の政変計画を承認しました。
これによって、八月十八日の政変の幕が切って落とされたのです。
8月18日午前1時、中川宮をはじめとする政変の中心人物が密かに参内。
早朝4時ごろには、会津藩兵を中心とする兵力が御所の門を固めました。
公家たちは、正論、暴論の2つのグループに分けられ、暴論・・・長州と結託した尊攘派公家は、一歩たりとも御所に入れない警護が敷かれました。
次いで中川宮を中心に協議が行われ、尊攘派には過酷な処分が下されました。
三条実美ら尊攘派公家の官位剥奪、長州藩は御所の警備から外され追放!!
ともに長州に落ち延びていきました。
尊攘派は都から一掃されたのです。
この政変は、幕末の大きな転換点となりました。
長州藩はこれを機に武力闘争に舵を切り、1864年、京都で会津・薩摩と激突!!
禁門の変です。
長州が御所に向けて発砲したことに孝明天皇は激怒、以後2度にわたる長州征討を幕府に命じました。
ところが、1866年、第二次長州征討において、最新兵器を装備した長州に幕府が敗北。
その権威は地に落ちました。
一方、政変の筋書きを描いた薩摩の存在感は増大!!
幕末政治のキープレイヤーにのし上がっていきます。

1867年12月9日、御所を舞台に王政復古のクーデター
王政復古の大号令が行われ、天皇中心の中央集権国家が誕生しました。
孝明天皇の選択に端を発した一連の動きが、明治維新の道筋を決めたのです。
しかし、孝明天皇自身は、新たな時代を見ることなく1866年12月、36歳で崩御。
公式発表は、天然痘による病死・・・しかし、政治の渦中にいた天皇の早過ぎる死は、当時から噂がささやかれていました。
イギリス外交官アーネスト・サトウは、こう記しています。
天皇は毒殺された・・・??

「天脈拝診日記」・・・孝明天皇の侍医が残した日記をもとに子孫が発表したものです。
これによれば、天然痘の患者は発熱、発疹など五段階を経て快方に向かいます。
孝明天皇もその通りに順調に回復していました。
ところが・・・突然のたうち回って・・・手のつけようもなく・・・
”御九穴から御脱血”と書かれているものの、それが天然痘の症状とは思えない・・・。
図らずも江戸時代最後の天皇となった孝明天皇・・・
その死の真相については、論争は今も決着していません。

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