1953年大阪・梅田・・・旧大阪第一生命ビルの地下レストラン「ニュートーキョー」に500人を招待する展示会を3日間で店で開き、飲食を振る舞いたい」と依頼がありました。
三日間貸し切り・・・??
「常連客を蔑ろには出来ない・・・」と、店長は、ビルの屋上で展示会を開くことにしました。
夜景を眺めながらビールを飲めると展示会は大盛況に終わりました。

しかし・・・翌日・・・うわさを聞き付けた市民が押しかけてきました。
止む無く、屋上での通常営業を始めました。
こうして誕生したのがビアガーデンです。
エアコンがまだ普及していない時代に、風に吹かれながら屋上で冷たいビールで喉を潤すことはたまらないことでした。
こうして客の願いを叶えたいという店長の咄嗟のアイデア、新しい物好きな大阪人気質が・・・ビアガーデンは、大阪の風土が生んだビジネスでした。



1956年、大阪市中央区で印刷工場で働いていた兄弟は、カミソリでよくケガをしていました。
お金も学歴もない・・・発明しかない!!
兄の頭に浮かんだのは、戦後進駐軍が配っていた「板チョコ」でした。
そして、カッターナイフ・・・折る刃式カッターナイフの誕生でした。
刃を折るアイデアは板チョコから!!
刃こぼれしても、まだまだ使える・・・!!
大阪人の大発明でした。

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1893年、大阪市中央区で25歳の若者が小さな会社を立ち上げました。
「人のため、国のためになる仕事をするんや」という彼の名は森下博。
妻と二人の従業員で薬品の精製を行っていましたが、なかなか業績は上がらず鳴かず飛ばず・・・
1900年当時、日本では梅毒が猛威をふるっていました。
そこで博は東京慈恵会医科大学笹川三男三博士に梅毒の新薬を開発してもらいました。
名前は「毒滅」。
数年がかりで開発した社運を賭けた自信作!!
ただ売るだけでなく・・・医療大国ドイツのビスマルクをあしらった広告を出します。
その広告の狙いとは・・・??
有名人を起用することで、消費者に対し薬の信頼度をあげたのです。
当時、広告における人物起用は斬新で、画期的なことでした。
この広告はとにかく目立ち・・・「毒滅」は大ヒット!!
その名は瞬く間に世間に広がり、会社は軌道に乗り始めました。
2年後、博は勝負に出ます。
江戸から続く薬屋街・道修町・・・小林製薬や塩野義製薬など製薬会社のTOPがしのぎを削り合う薬の激戦区で勝負をかけます。
しかし・・・道修町での商売は甘くありませんでした。
当時の日本の医療は、進んでいませんでした。
貧しく、風邪や食あたりで命を落とす人も少なくありませんでした。
薬の長期保存も困難で、田舎では薬不足問題が起きていました。
簡単に持ち歩けて保存できる薬・・・新薬の開発に乗り出した博・・・博士に協力を依頼します。
自ら薬の本場・富山で生産方法を学びます。
そこでできたのが1905年「仁丹」です。
薬をコーティングするという画期的な技術を発案しました。
そして社員全員が、実際に自分の足で売り歩きました。
全国津々浦々まで・・・広告には莫大な資金を投じ、全国の薬局に特製の屋根看板を・・・大きなインパクトを与えます。
こうして仁丹は、2年で売上高業界第一位を達成します。その後も、広告塔や電柱広告など宣伝活動に力を入れ続けました。
発売以来、114年もの間売れ続けている仁丹・・・総合保健薬として開発されましたが、今は口中清涼剤として親しまれています。

現在森下仁丹は、胃・小腸・大腸で溶けるタイミングをコントロールできるカプセルを発明し、応用研究を進めています。
その技術を使って京都大学と画期的な製品を開発しています。
それは白アリの駆除剤で、卵を巣に持ち帰りなめて世話をする習性を利用し、殺虫剤を卵に似せたカプセルで持ち帰らせる=死滅するというものです。
ただ今開発中!!

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大阪・心斎橋に本社を構え、世界11か国に支社を持つタカラベルモント。
ある業界でトップシェアを誇るこの会社ができたのはおよそ100年前・・・。
1921年創業したのは吉川秀信22歳。
当時は鋳物を作る小さな鋳造所でした。
作っていたのはマンホールのふたや五徳・・・しかし、金属をガラスでコーティングするホーローの技術を採用したことで、意外な注文が入るようになりました。
理容イス・・・当時の理容イスは足やひじ掛けはホーロー鋳物が利用されていたので、大量の注文が舞い込んできたのです。

いっそイスを丸ごと作れないのか??
余所より早く、安く作るために・・・!!

1931年理容イスの生産を開始
そこで参考にしたのは、帝国ホテルの超一流理容室で使われていたアメリカトップメーカーのコーケン社のバーバーチェアーでした。
宝鋳造所第一号のイスが完成!!
平均価格の120円を大きく下回る50円で販売に踏み切りました。
しかし・・・売れない・・・。
鋳物工場が見様見真似で作った理容イス・・・そう簡単には売れませんでした。

吉川が足を運んだのは商売の神様「えべっさん」の今宮戎・・・
実際に座って体感してもらいます。
ショールームのような試みでした。
吉川のイスはえべっさんのイスと呼ばれるようになっていきます。

「枕の高さ、調節出来たら嬉しいんやけどなあ」

店主の意見を自ら現場で聞き込み、全国を売り歩きます。
主力商品となっていきます。

そして創業から34年、56歳になった吉川は決断・・・アメリカ進出です。

終戦から10年、やっと戦争の傷が癒されていた時期に・・・「国際貿易見本市」に理容イスを出展。
しかし、当時最先端だったアメリカの製品と比べ、品質が劣っていたためにトラブルが続出!!
アメリカとの技術の差に苦しみます。
そんなある日・・・ある理容店でイスの昇降に苦労する理容師を見かけます。
そしてあるアイデアが・・・世界初の製品・・・??
誰も開発したことのない、電動理容イスでした。
この発明で、アメリカのメーカーに挑みます!!

社運をかけて開発した電動理容イスは、異例の大ヒット!!

1969年、吉川は社名をタカラベルモントに改め、アメリカトップメーカー・コーケン社を吸収、一時はアメリカのシェアはほぼ100%に!!

70歳になった吉川は・・・「世話になった業界には恩返しを・・・」と、大阪万博でのパビリオン単独出展でした。
それは、無謀ともいえる挑戦でした。
大企業は出展しているものの、中小企業はたかラベルモントだけだったのです。
そんな吉川に惹かれ・・・黒川紀章がパビリオン設計を担当し、コシノジュンコがコスチュームを担当しました。
目標100万人のところ、300万人が来場!!出展は大成功に終わりました。

今も理容イス世界トップを走るタカラベルモント・・・図々しいほどのチャレンジ精神と行動力、なにわの商人吉川の物づくりの情熱は、創業100年経った今も脈々と受け継がれています。

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