堺雅人出演 大河ドラマ 篤姫 完全版 第壱集 DVD全7枚セット【NHKスクエア限定商品】

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今からおよそ150年前、東京の礎を築いていた江戸の街は危機に瀕していました。
1868年・・・新政府軍VS旧幕府軍との戦い・・・戊辰戦争です。
100万人が暮らす江戸が戦火の海になる可能性がありました。
その危機を救ったのが、勝海舟と西郷隆盛の会談・・・男たちの英断によって江戸は救われ、近代国家の道へ・・・!!
しかし、その成功への道筋には、大奥の二人の女性の命がけの選択がありました。
天皇家から徳川家に降嫁した皇女・和宮と、その姑として大奥に君臨した天璋院篤姫でした。
この時・・・将軍は朝敵とされ、男の政治が機能しなくなり、大奥には女性たちが取り残されていたのです。


1861年10月20日京都・・・日本史上かつてない婚礼が行われようとしていました。
京から江戸へと向かう降嫁の行列・・・花嫁は仁孝天皇第八皇女・和宮です。
輿入れの行列は豪華絢爛・・・警護まで含めると総勢およそ3万人!!
行列の長さは50㎞に及び、全部通過するのに4日間かかったと言われています。
その輿入れの道中には、歌碑が残されています。

「住み馴れし 都路出でて けふいくひ
          いそぐもつらき 東路のたび」

和宮は当初、この婚礼を望んでいませんでした。

1853年、ペリーが来航し、武力で開国をせまりました。
対応を迫られた幕府は、朝廷の勅許を得ることなく・・・
1858年安政の五ヵ国条約を締結。開国に踏み切りました。
これに対し、尊王攘夷派が激しく反発!!
1860年桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺!!
徳川幕府の権威は大きく失墜してしまいました。
権威回復のために、天皇の威光を利用しようとします。
そうして考え出されたのが、公武合体論です。

そのシンボルとして画策されたのが、第14代将軍・徳川家茂と皇女の婚礼だったのです。
そして白羽の矢が立ったのが・・・当時14歳だった皇女・和宮でした。
すでに婚約者がいた和宮・・・尼になると固辞します。
が・・・政治に興味のあった孝明天皇は幕府に交換条件を出します。
「幕府が蛮夷を拒絶するなら和宮を諭そう」
幕府は攘夷を約束し、孝明天皇は和宮降嫁を内諾します。
兄から強く諭された和宮は、この政略結婚を受け入れるほかありませんでした。

輿入れの道は、公武合体に反対する反幕府派の襲撃に備え、東海道を避け、警護をしやすい中山道が選ばれました。

行く先々での祝賀ムードに・・・

「惜しましな 君と民とのためならは
       身は武蔵野の 露と消ゆとも」

京を出発して25日目・・・1861年11月15日、ついに江戸に到着!!

和宮は将軍の正室・御台所として大奥に入ります。
大奥・・・常に1000人以上の女性が暮らし、250年の細かいしきたりと歴史がありました。
公武合体の使命を背負い、大奥に入った和宮に立ちはだかったのが、当時大奥の頂点に立っていた天璋院篤姫です。
篤姫は薩摩に生まれます。
名は於一(おかつ)。実家は薩摩藩島津家の貧しい分家でしたが、藩主・島津斉彬から忍耐力や才能を見込まれ養女となりました。
篤姫は幕政に対する発言力を強めようとした斉彬ために、第13代将軍家定に嫁ぎました。
その輿入れには、嫁入り道具の調達をした西郷隆盛もいました。
夫亡きあとも、次の将軍となった家茂の養母として大奥を取り仕切っていた篤姫が姑となります。

女官によると・・・二人は御風違い(作法やしきたりの違い)を感じています。
女の園・大奥で、朝廷と武家・・・それぞれの歴史と文化を背負って向き合うこととなるのです。

幕末の京都・・・天誅の名のもとに尊王攘夷派が暗躍!!
役人が次々と暗殺され・・・不穏な空気が・・・。
1863年2月、孝明天皇を命を受け、大軍を率いて上洛。
結婚の条件だった攘夷実行を迫られるのでした。
篤姫は心配し・・・
「京でのご滞在が長くなり、心配しております。
よく後先を考え、何事もうかつになさいませんようにお気を付けください。」
妻・和宮も身を案じ・・・
「京の都はいかがでございましょう。
 お慣れではない土地ゆえ 寒さもひとしおお厳しく思われることと存じます。
 ずいぶんとずいぶんとご用心なされますように。」

しかし、緊迫した状況の中で、家茂は体調が悪化していきます。
1866年7月将軍・家茂急逝・・・。 
和宮のもとには家茂の亡骸とともにお土産の京の西陣織が・・・。
「空蝉に 唐織ころも なにかせん
         綾も錦も 君ありてこそ」

家茂亡き後、英明と謳われた慶喜を将軍に選びます。
江戸を離れ、京で様々な政治工作を行っていた慶喜は。。。
大政奉還・・・徳川幕府の幕を下ろしました。
薩摩藩の西郷隆盛らはこれを機に徳川家排除を画策、新政府を樹立したのです。

1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発!
新政府軍は圧勝しました。
戦いに敗れた慶喜は、兵を残したまま江戸を離脱、船で江戸へ敗走!!
朝廷からは慶喜の追討令が発令します。
錦の御旗で官軍となった新政府軍・・・。
江戸城に戻った慶喜・・・朝敵となった慶喜が、救いを求めたのは篤姫と和宮でした。

和宮は、攘夷が果たされず・・・京へ帰る・・・??
篤姫は徳川家に嫁いだ以上、家を残さなければ!!
戦いは避けられない・・・新政府軍と一戦交える・・・??

二人で命を懸けて江戸城に留まり和平を目指す??

江戸城総攻撃目前・・・絶体絶命の中、二人がとった選択とは??

1868年2月15日、江戸進軍開始!!
各地の藩の多くは武力抵抗せず、新政府軍は兵力を温存したまま江戸へ!!
江戸城総攻撃は3月15日に決定!!
4日後に迫った3月11日、和宮と篤姫は江戸城に残り・・・和平を目指して動いていたのです。
和宮が最後の望みをかけて書いた「和宮哀訴状」手紙の相手は、先鋒隊総督で公家の岩倉具定・・・幼馴染でした。
和宮は江戸を戦火から守るためになんとか進軍を止めてほしいと強く訴えます。

時を同じくして篤姫は3mに及ぶ嘆願書を・・・相手は、新政府軍の参謀として実権を握る西郷隆盛でした。
西郷はこの手紙を読んで涙を流したと伝えられています。
総攻撃目前の3月13日から14日にかけて西郷と勝が会談し、総攻撃は中止と決定されました。
この決定を受け篤姫は幕臣たちに通達を出します。
「江戸城総攻撃は見合わせになったが、もし不心得者がいると徳川家の一大事になる。
 これまでの努力も無に帰すので、心得違いなく静謐を保つように。」
大奥からの異例の通達でした。

1868年4月11日、江戸城明け渡し

大奥の歴史にも幕が下りました。

新政府軍が城を引き取りに行ったとき、大奥は美しく整えられていました。
明治を迎えた後も、篤姫と和宮は徳川家を残すことに力を合わせます。
徳川御三卿田安家の跡取り・亀之助が徳川宗家を継げるように嘆願し、徳川宗家16代当主・徳川家達となります。
篤姫は東京・千駄ヶ谷で家達を養育し・・・
1883年篤姫逝去・・・享年49。薩摩に帰ることなく、徳川の女としてその生涯を閉じたのでした。

一方和宮は・・・1877年に享年32歳でなくなります。
遺言のより、その遺体は亡き夫の傍らに葬られました。

女たちの江戸城無血開城・・・和宮と篤姫は命がけの選択で時代の始末をつけ、大都市・東京の繁栄の道をつないだのです。


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