日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:仁徳天皇

大阪高槻市に、今、注目の古墳があります。
今城塚古墳・・・二重の堀を含めた全長350mという巨大な前方後円墳です。
堀の外には、長さ50メートルにわたって、様々な埴輪が並びます。
武人、力士、巫女などおよそ200体・・・葬られた人物の権力の大きさを物語っています。
この古墳の主を多くの研究者は継体天皇と考えています。
6世紀初めの天皇で、聖徳太子の曽祖父に当たります。
継体天皇は、極めて異色の天皇でした。
出身は、権力の中心・大和からほど遠い北陸・・・先代天皇との血縁も薄かったのに、大和の豪族たちに即位を求められたのです。
一体どうして地方の王族が天皇になれたのか??
いかなる人物だったのでしょうか??

まだ日本が倭国と呼ばれていた506年・・・大和政権は、大きな危機の中にありました。
日本書紀にはこう記されています。

”武烈天皇が崩御した
 ところが、天皇には息子も身近な親類もおらず、後継者候補がいなくなってしまった”

政権の中枢である天皇になる人がいない・・・まさに、大和政権崩壊の危機でした。
そんな危機が起きた理由は、武烈天皇の4代前、雄略天皇の時代にありました。

日本書紀には・・・

”雄略天皇は、誤って人を殺すことが多かった
 人々は、大悪の天皇であるといった”

雄略天皇は、自らが天皇になるためにライバルを次々と殺していきました。
その為、後継者候補は極端に少なくなり、武烈天皇の代で遂に跡継ぎがいなくなってしまったのです。
大和政権を支える有力豪族・・・大伴金村、物部麁鹿火は、後継者探しに奔走します。
そこで、ある人物の名前が上がります。
2人が白羽の矢を立てたのは男大迹王・・・亡くなった武烈天皇とははるかに遠縁の人物でした。
武烈天皇の5世代前の応神天皇の代に別れた家系の五代目・・・
さらに、男大迹王は、そのプロフィールも異色でした。
生れたのは、大和から離れた近江の北部、父の死後、母の故郷・越前に移り、その地を治めていました。
年齢は57歳、当時としては高齢でした。
どうしてこんな異例の男大迹王が後継者に選ばれたのでしょうか?

琵琶湖の西岸に位置する滋賀県高島市・・・男大迹王の故郷に当たるこの地の調査では、男大迹王の父・彦主人王の墓(田中王塚古墳)が発見されています。
5世紀後半の築造とされています。
大きさは直径58m・・・この地域で最大級の大きさで、高島の中で突出して規模が大きいのです。
高島では100年間に70基もの古墳が相次いで造られました。
その中で、田中王塚古墳は最大で、長年にわたって地域を治める、近江の有力豪族だったことが分かります。

日本書紀によると、近江で生まれた男大迹王は、その後、母親の故郷・越前を治めたといいます。
近江と越前の豪族を従える王に成長していたことが伺えます。
さらに、男大迹王を支えていたとされるのが、尾張の大豪族・尾張連です。
当時、尾張では東海地域最大級の断夫山古墳を始め、巨大な古墳が数多く作られていました。
その尾張の大豪族の娘を男大迹王は妃にしていたのです。
近江、越前、尾張・・・広大な地域の豪族たちに支えられていたことこそ、男大迹王が大和政権の新たな主に選ばれた理由でした。
男大迹王の力の源はそれだけではありませんでした。
故郷高島にある鴨稲荷山古墳には、男大迹王の親族が葬られた石の棺の中から金で出来た靴や冠が出土しています。
これらは朝鮮半島からもたらされたものと思われます。
伽耶、百済の王墓から出てくる物に非常に近いのです。
この朝鮮半島とのつながりも、後継者に選ばれた要因の一つではないかと思われます。
5世紀以降、越前、近江、若狭といった日本側沿岸地域は、朝鮮半島との交流が非常に活発でした。
継体天皇の基盤には「対外交渉」朝鮮半島とのつながりがあったのではないか?と思われます。

朝鮮半島には、男大迹王と密接な関係を持った人物がいました。
朝鮮半島西側の国・百済の武寧王です。
武寧王は、北の強国・高句麗の攻撃を撃退し、20年以上にわたって王として君臨した古代朝鮮の実力者です。
その武寧王が、男大迹王に送ったとされる品が残っています。
和歌山県・墨田八幡神社に伝わる国宝・人物画像鏡です。
この鏡の背面に、興味深い銘文が刻まれています。
送り主の名は斯麻=武寧王、男大迹王の長寿を祝ってこの銅鏡を送るとあります。
送った年は503年・・・男大迹王が後継者に選ばれる前です。
つまり、男大迹王は即位前から百済の武寧王とつながりを持っていたと考えれます。
日本書紀には、地方にいた王族とだけ記されている男大迹王・・・しかし、その実像は、各地の豪族と朝鮮半島の百済に支えられる大実力者だったのです。

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遠く離れた越前の地から武烈天皇の後継者に選ばれた継体天皇・・・
507年に即位します。
しかしなぜか、政権の本拠地に入ることはありませんでした。
最初に宮を築いたのは・・・507年樟葉宮・・・琵琶湖から流れる淀川のほとりでした。
継体天皇はここで即位し、およそ5年過ごすことになります。
その後も・・・511年筒城宮、518年弟国宮・・・と相次いで宮を築きますが、いずれも大和ではありませんでした。

日本書紀にはこう書かれています。

”継体天皇は、内心、自分が選ばれたことに疑いを持っていた”

これは、即位に反対する勢力がいると考えていたと読み取れます。
この頃、大和の豪族たちは大きく東西の二つの勢力に分かれていました。
継体天皇を推挙した大伴・物部など大和盆地の東に基盤を持っていました。
西側には、彼らと一線を画す葛城氏の拠点となっていました。
全長200m近い大型の古墳が連なる馬見古墳群・・・これらは、葛城氏が築いたものとされています。
継体天皇の10代前、仁徳天皇の頃から天皇の后を出し続けており、彼らが新参者の即位に反対し、継体天皇の大和入りを阻んでいたとも考えられます。

それとも、敢えて大和に入らなかった・・・??
大阪府交野市には森遺跡があります。
そこからは、継体天皇が即位したころの鍛冶工房跡が見つかっています。鉄を加工する鍛冶炉・・・炉に風を送る鞴の一部も見つかっています。
この辺りは、古墳時代の鉄器を加工していた遺跡が東西2キロ、南北500mの範囲で見つかっています。
6世紀に入って、鉄器加工を集中的に行っていた場所です。
当時、倭国に製鉄技術はなく、朝鮮半島から輸入した鉄の地金を加工して使っていました。
戦略物資である鉄器生産の中心地が、継体天皇最初の地・樟葉宮の近くにあったのです。
その後、継体天皇は拠点を移し二つの宮を築きましたが、いずれも淀川水系にありました。
淀川は、大阪湾にそそいでおり、そこから瀬戸内海を通じ九州から朝鮮半島につながる・・・
南部の伽耶は、倭国が輸入する鉄の産地でした。
継体天皇は、戦略物資である鉄の輸入ルートと加工の場を共に手中に収めていたのです。

526年、継体天皇はようやく奈良に入り、奈良盆地南東部に磐余玉穂宮を置いて、名実ともに大和の大王となりました。
即位から20年近くも後のことです。

ようやく大和入りした継体天皇・・・
倭国の王として混乱する国の立て直しを行うこととなります。
しかし、その前には大きな問題が立ちはだかっていました。
舞台は九州・・・!!
北部九州最大の岩戸山古墳・・・墳丘の長さは138m、高さ20m・・・6世紀前半の古墳としては、全国有数の規模を誇ります。
この古墳の主は筑紫君磐井・・・継体天皇と同じ時代、北部九州一帯に勢力を誇ったとされる豪族です。
磐井の本拠地は、現在の福岡県八女市・・・八女古墳群と呼ばれる300もの古墳が点在し、岩戸山古墳はその中心に位置しています。
磐井の力を示すのは古墳の大きさだけではなく・・・古墳の周りの埴輪・・・岩戸山古墳は埴輪ではなく石で作られた”石人石馬”と呼ばれるもので、古墳の周りに配置されていました。
岩戸山古墳からは、石製品が100点以上も見つかっています。
石工・・・石製品を作る職人集団を九州中から集めていました。
北部九州を掌握していた磐井は、大量の石人石馬を並べ、自らの威厳を誇示するようになっていました。
そんな磐井の勢力は、九州だけにとどまりませんでした。
朝鮮半島とも結びついていたのです。
岩戸山古墳にほど近い古墳では伽耶系の耳飾りが、磐井と関係の深かった久留米の古墳では新羅系の土器が見つかっています。
百済、新羅、伽耶・・・様々な社会と複数のパイプを持つ有力者・・・
衰えた大和政権の立て直しを図る継体天皇・・・
九州で自立の動きをする磐井にどう向き合うべきか・・・??

磐井と手を組む・・・??
それとも、見せしめとして磐井を滅ぼす・・・??
どうする・・・??

継体天皇が葬られたとみられる今城塚古墳・・・
墳丘の長さは、磐井の墓の1.4倍、当時最大級の古墳です。
ここで彼の選択にまつわるものが発見されました。
それは、今城塚古墳から大量に出土した円筒埴輪・・・船の絵が意識的に書かれています。
三日月形の船体に2本マストが立っています。
これは、大型輸送船をモチーフに書いていると思われます。
古代最大の兵員輸送・・・6万人の兵を送り届ける!!
継体天皇の選択は、磐井を滅ぼすでした。

527年~528年、磐井の乱。
6万人もの兵を導入して、磐井との戦いに乗り出しました。
大将軍・物部麁鹿火率いる軍勢が、磐井の軍と筑紫三井郡で激突!!
結果は大和軍の圧勝でした。

”天皇の命に従わず、無礼であった磐井を物部らは殺した
 官軍の怒りは収まらず、石人の手を打ち折り、石馬の頭を打ち落とした”

今城塚古墳からは、戦いの後、継体天皇の力が全国に及んでいたことを示すものが発見されています。
阿蘇ピンク石は九州で採掘され・・・赤い顔料(水銀朱)がついていて、神聖な色でしばしば石棺に塗布されています。
はるか遠くにある石をどうして使ったのか・・・??
阿蘇ピンク石の産地である熊本県宇土市・・・馬門石と呼ばれています。
自分の権力や財力を、いかにして見せつけるのか・・・??

「我々は、あんな遠い勢力とつながりがある
 重いものを運んでくれる
 それほど自分達には力がある」

と、誇示したかったのです。

運ぶことによって、40~50カ所の豪族が受け入れる・・・王権の一翼を担っていると認識できます。
九州全体が自分になびいていくきっかけにもなります。
継体天皇にとって、大事な契機となりました。

磐井を倒し、大和政権の立て直しに成功した継体天皇・・・
日本書紀では磐井を倒して3年後の531年に崩御。

今城塚古墳では、発掘の結果200体もの埴輪が50mにわたって並んでいたことが分かっています。
強大な権力を手にした大王を送る厳かな儀式のありさまを伝えています。

地方からスカウトされ、衰えた大和の力を復活させた継体天皇・・・
今、その実像に新たな光が当てられています。


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2017年7月・・・大阪平野にある二つの古墳群が世界文化遺産登録に向けて推薦されることが決まりました。
一つは堺市の百舌鳥古墳群・・・
全長486mの日本最大の大仙陵古墳・・・上石津ミサンザイ古墳、ニサンザイ古墳。
もう一つの古墳群は古市古墳群・・・日本第2位の誉田御廟山古墳があります。
藤井寺市と羽曳野市にまたがる古墳群・・・墓山古墳・岡ミサンザイ古墳・・・です。
これらの巨大古墳群は、5世紀を中心に作られました。
小さいものを含めると、この地方だけで200基作られたとか・・・。
しかし、これらの古墳に埋葬されているのが誰なのか、何のために作られたのか??わかっていません。

中国の歴史書に描かれた倭の王・・・讃・珍・濟・興・武・・・倭の五王・・・。
倭の五王は日本書紀の天皇の誰に当たるのか??
濟・・・允恭天皇、興・・・安康天皇、武・・・雄略天皇は専門家の意見も一致していますが・・・
讃・・・応神天皇・仁徳天皇・履中天皇、珍・・・仁徳天皇・反正天皇・・・と諸説あり、意見が分かれています。
その倭の五王の時代、大和を中心とする政権は、巨大な武力で日本を支配下に治め、海外にも関わっていきます。
おりしも中国大陸では、宋と北魏が対立し、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が激しく争っていました。
そうした中で、倭の五王の最初・・・讃が、中国に使節を送ります。
その目的とは・・・??
五人目の王・武が宋王朝に送った書には、高句麗と戦う決意が示されていました。
巨大古墳を生んだ古代日本・・・倭の五王たちの東アジアの外交戦略と選択とは・・・??

4世紀・・・大和政権は現在の奈良盆地を中心に勢力を伸ばしていました。
そこには、五社神古墳・佐紀陵山古墳・・・全長200mを越える前方後円墳が政権のシンボルとしてたくさん並んでいます。
ところが、5世紀・・・倭の五王の時代、古墳の築造は西の大阪平野へと移ります。
それが百舌鳥・高市古墳群です。

巨大古墳はどうして作られたのでしょうか?
日本最大の規模を誇る大仙陵古墳・・・仁徳天皇陵として知られています。
全長486m堀を含めた面積は、およそ47万㎡あり、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵をも上回ります。
今は木々に覆われていますが・・・当時は土を階段状に三段積み上げた墳丘で、高さ約36mでした。
表面には石が敷き詰められ、平面には3万もの埴輪が並べられていました。
表面に敷き詰められた白い石は、太陽の光を反射しました。
かつては全体が白く輝いていた大仙陵古墳は、強大な姿は遠くからでもよく見えたことでしょう。
百舌鳥古墳群は配置にも意味がありました。
当時の大阪湾の大地の上に海岸線沿いに作られていました。
どうして海沿いに・・・??
海から見ると、この古墳はとてつもなく大きな構造物として目に入ったでしょう。
古墳は、海からよく見えるように・・・海でやってくる人たちに見せるために・・・
つまり、中国などとの交渉を意識して、海沿いに大きな古墳を作ったのです。

大阪平野には、もう一つ巨大古墳群があります。
百舌鳥古墳群から内陸におよそ10キロ・・・古市古墳群です。
誉田御廟山古墳・・・全長425m、大仙陵古墳に次ぐ大きさです。
どうして内陸に・・・??
古市古墳群の傍には、大和川・・・そして奈良盆地に続く二つの街道・・・大津道・丹比道がありました。
ここは、大和政権の本拠地に向かう・・・水路、陸路の交通の要衝だったのです。
交通路という意味では、百舌鳥よりも古市の方が重要な場所だと言えます。

百舌鳥と古市・・・ここは、倭国を訪れる海外からの使者に対して大和政権がいかに巨大であるかを見せるための仕掛けでした。
そんな大和政権とは・・・??
古墳からは、鉄製の武器や武具が数多く出土しています。
ヤマト政権は鉄で作られた武器や武具を供え、強力な軍事力を見せることで勢力を拡大していきました。
まさに、鉄の王朝だったのです。

しかし・・・倭国には鉄の産地がありませんでした。
どこから手に入れたのでしょうか?
三世紀末に編纂された中国の「三国志」・・・魏書東夷伝・弁辰の条に・・・「国 鉄を出す 韓 濊 倭 皆従いて之を取る」とあります。
弁辰は、朝鮮半島南部にあり、鉄の生産を盛んに行っていました。
倭国は朝鮮半島南部から鉄鋌を輸入して、それを加工して武器、武具を製造していました。
五世紀・・・倭国は、鉄を手に入れるために、朝鮮半島と深いかかわりを持っていたと考えられます。

日本の場合、青銅器時代がなく石器時代からいきなり鉄器時代になっています。
鉄の武器・・・が日本では生産できない・・・どうやって持ってくるのか??
理想的なのは、一つの権力が独占的に持ってきて、倭国内で各勢力に分配する・・・。
そうやって支配を強めていくことが理想の権力構造でした。
圧倒的に軍事技術に差がついてしまった場合、戦争すら起きない・・・。
その武器や武具をどうしてそんなにも沢山埋めてしまう必要性があったのか??
それは、まだまだあるという鉄のプロバイダーとしての力を誇示するためだったのかもしれません。
鉄の王朝であるにもかかわらず、それ・・・鉄を他国に依存している・・・そして、発展してきている・・・
国力の基幹部分が外国に依存しているという点では、現在も石油を依存しているので、古代も今も同じなのかもしれません。
しかし・・・当時は、鉄の取れる場所は日本列島の近くでした。
なので、軍事的進出もあり得るのです。
しかし、国内では武器、武具で傷つけられた骨が出土していません。
武装にコストをかける目的が、体内的なものから対外的なものへと変わっていたのです。

4世紀中ごろ、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国が激しい闘争を繰り返していました。
北方の強国・高句麗は、勢力拡大のために南下をしようとしていました。
その矢面に立たされたのが百済でした。
高句麗の圧力にどう対抗するのか・・・??
奈良にある石神神社には国宝・七支刀が。。。
この七支刀は、百済で369年に作られて、倭国に送られたと記されています。
一国では高句麗に対抗できないと、倭国に軍事支援を求め、その証としてこの七支刀を送ったのです。
一方、倭国にとっても百済に応える理由がりました。
当時、倭国は朝鮮半島南部の加耶と密接な関係にあり、鉄資源を確保していました。
そこに、高句麗の支配の及ぶことを何としても阻止したかったのです。
百済と同盟を結んだ倭国は、4世紀末から5世紀初頭にかけて朝鮮半島に出兵し、高句麗と戦います。
しかし・・・「好太王碑」によると、高句麗と倭国・百済の連合軍との戦いの様子を・・・
”399年、百済は高句麗との誓いを破り、倭と同盟した
 400年、新羅の都にいた多くの倭国兵が退却したので、これを追った
 404年、倭が侵入してきたので、これを討って大いに破った
 切り殺した倭国兵は、数えきれない”
高句麗の古墳の壁画に、当時の高句麗軍の姿が書かれていました。
騎兵で、馬にも鎧を着せ、長い矛を手にした強力な騎馬兵で、歩兵の倭国軍は洗車のような馬と、刀の届かない矛からの高句麗軍に手も足も出ず蹂躙されました。
それから17年後、倭の五王最初の王の讃が、中国の宋に使節を送りました。
讃の使節派遣は・・・宋にある権限を求めるものでした。
高句麗に大敗した後、百済はずっと戦争状態で、非常に押され気味でした。
それを助けるためには対高句麗戦を考えて、朝鮮半島南部での活動を確保するための軍事権を粗油から認めてもらおうとしたのです。
珍も宋に使節を送ります。
珍は宋に送った文章の中で要求しています。
倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・・・六か国の軍事指揮権です。
任那・秦韓・慕韓は、百済・新羅の力の及んでいない小国でした。
珍は中国の王朝に使節を送ることで、鉄の産地である朝鮮半島南部での軍事指揮権を目論んだのです。
しかし・・・与えられたのは、倭国王の称号と、中国王朝の官職である安東将軍の称号だけでした。
半島南部の軍事指揮権は認められなかったのです。

それでもその後の倭王たちは、朝鮮南部での軍事指揮権を求め続けます。
倭王たちの使節派遣にはもう一つの目的がありました。
倭王・珍は、自分の家臣たちにも称号をと、宋王朝に求めていたのです。
その結果、安東将軍よりも位の低い・・・
「倭隋等十三人を 平西 征虜 冠軍 輔国将軍の号に除正せんことを求む」
そこからは、倭国の国内事情が伺えます。
倭国の場合、倭王と拮抗する様々な勢力がいたので、彼らに対して中国の官職をもらう・・・
倭王の下だというランク付けを明確化し、臣下、官僚として組織する必要があったのです。
当時の倭国は、中央、地方の豪族の連合政権でした。
中央では大和盆地南西部を支配する葛城、地方では中国地方に巨大な勢力を持つ吉備・・・
巨大な勢力が各地に存在していました。
宋への使節派遣には、朝鮮半島での軍事活動の正当化という以外にも、国内の王と豪族との序列を明らかにする・・・国外、国内での意味があったのです。
宋王朝の記録での倭の五王の派遣は、実に9回に及んでいます。

宋は皇帝を持っています。
皇帝は、天下・・・つまり、世界中の支配者です。
その人から朝鮮半島南部の軍事指揮権を認定されるということは、倭国にとっては、世界中で認められたと主張できるものでした。
中国よりは下だけど、朝鮮よりは上という位置づけを・・・
本当に有事があった場合は、指揮する権利があると主張できる!!

朝鮮半島は山城がたくさんあります。
防衛にコストを使っていないと立ちいかない・・・。
百済は、鉄や先進的な文物をバーターとして日本に与え、倭を兵力の一部としてうまく利用する・・・。
同盟関係の裏にはそんな思惑があったのかもしれません。

475年、朝鮮半島に激震が起こります。
高句麗が百済の都・漢城を陥落させます。
国王までも殺してしまいました。
国の滅亡に瀕して、南に逃げた百済の王族は国の復興を願うこととなります。
この時、五王は武でした。
武は、478年宋に上表文を奉呈します。
そこで、高句麗の非道ぶりをひどく訴えています。

これによって宋は、武に朝鮮半島南部の指揮権とこれまでより上位の安東代将軍倭王を与えます。
高句麗に大敗してからおよそ70年・・・倭王部の時代になって、ようやく高句麗を討つ条件が整ったのです。
そして武は選択を・・・!!
朝鮮に出兵する??
このまま南の鉄の産地まで高句麗のものとなってしまえば、鉄が手に入らなくなってせっかく手に入れた倭王の権威を失ってしまう!!
出兵して高句麗を討ち、半島南部における倭国の権益を確実なものにしておくべきか??
高句麗の騎馬隊のために軍事改革をしてきたではないか!!
百済、新羅、加耶諸国を集結すれば、強敵・高句麗に勝てるのではないか??

高句麗を侮ってはいけない??
もし、再び高句麗に負けることがあれば、倭国内統制も利かなくなるのでは・・・??
高句麗の勢いを止め、半島南部の鉄資源の入手を確かなものとするために出兵すべきか?見極めるべきか??

武の使節派遣の翌年・・・日本書紀によると、九州の軍勢が海を渡って高句麗と戦ったとあります。
しかし・・・朝鮮半島の歴史書「三国史記」には、一切書かれていません。
二つの歴史書の違いはどうして生まれたのでしょうか?
日本書紀の出兵記事も、倭本体が派遣したのか??派兵した人は、九州が主体で、畿内の倭王権から直接派遣されたものかどうか・・・。
日本書紀の記載では・・・九州の豪族が、百済に最低限の軍事支援をする程度で、高句麗と全面対決をしたようには思えません。
倭王・武は、高句麗との対決を避けたのです。
それ以外に力を入れたのが・・・各地から出土しています。
稲荷山古墳からは・・・鉄剣が・・・そこに刻まれた115文字の銘文に・・・”獲加多支鹵(ワカタケル)大王”と書かれています。
ワカタケルとは・・・雄略天皇のことだと思われます。
そして、この倭王・武こそが、雄略天皇だとされています。
熊本県にある江田船山古墳にも・・・同じく銘文のある鉄剣が出土しています。
日本書紀によると、雄略は、葛城、吉備といった有力豪族を次々と粛正し、大和政権内で絶対的な権力を持ち、大王を名乗りました。
しかし、雄略の死後、国内が混乱しました。
そして、倭王の中国への使節派遣も途絶えてしまいました。
6世紀・・・念願だった鉄の生産が倭国でも行われるようになります。
朝鮮からの渡来人が、砂鉄から鉄を作る”たたら製鉄”の技術をもたらしたのです。
これによって、強国・高句麗と戦う必要が無くなりました。

倭国における王の権威の確立・・・。
鉄資源の確保・・・これらの目的を果たすことができたとき、倭王にとって中国王朝のお墨付きの必要性も無くなっていました。
大阪平野に異様を誇る巨大古墳・・・古代日本の王の、鉄を確保するための外交戦略を今に伝えています。

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昨日のニュースで大発見exclamation×2

奈良・橿原で「磐余池堤跡」発見!!
橿原で人工池「磐余池」と、宮殿跡が発見されました。
6世紀のもののようですが、仁徳天皇第一皇子と思われる履中天皇、清寧天皇、継体天皇、用明天皇が首都に置き、宮殿を持ったとされています。

私の大好きな悲劇の皇子・大津皇子もこの池を眺めながら、辞世の歌を詠んだとされています。
ああ、古代のロマンが、紐解かれることになるのでしょうか?

謎の飛鳥時代のさらに前の時代・・・。万葉の奈良の・・・解明の大きな手がかりになるのでしょうね。

ちなみに、磐余の里散策なら、こちら

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