<今川義元と戦国時代>今川家の屋台骨 太原雪斎と岡部元信 (歴史群像デジタルアーカイブス)



1560年5月19日、織田信長率いる2000の軍勢が、今川の本陣を奇襲しました。
桶狭間の戦いです。
この時、2万5000の大軍を率いていたにもかかわらず、討ち取らてれしまった武将が、今川義元です。
トレードマークは白塗りにお歯黒の公家風メイク。。。輿に乗っての進軍でした。

今川家は、足利将軍家から分かれた名門です。
その始まりは、室町時代初頭・・・
1338年、今川範国が駿河国守護職に任ぜられ、やがて隣国の遠江をも治めるようになります。
時を経て・・・7代当主今川氏親・・・その5番目の男子として1519年に生まれたのが義元です。
義元6歳の時、父が亡くなり、長男・氏輝が後を継ぐことに・・・。
しかし、まだ14歳だったので、その母・寿桂尼が後ろ盾となって政治を司ることになりました。
義元の母でもある寿桂尼は、京都の公家の出ですが、今川家の政務をとったことから”女戦国大名”と呼ばれました。
義元は・・・5男だったので、早くから出家し、栴岳承芳と呼ばれていました。
そんな義元の教育係となったのが、太原雪斎。
義元は、雪斎と共に京に上り、建仁寺などの禅宗の寺院で格式を高めていきました。
この頃の義元は・・・京都の知識人と交流し、かなりの教養を身に着けていたようです。
一僧侶として生きる予定だった義元・・・
1536年、義元18歳の時、偶然にも同じ日に、兄である氏輝、次男・彦五郎が病死しました。
氏輝には跡継ぎが居なかったので、残った弟たちの中から跡継ぎを決めることになりました。

四男は、家督争いに加わりません。
六男は、尾張今川家の養子となっておりすでにそちらの家督を継いでいました。
残るはともに出家していた三番目の兄・玄広恵探と義元だったのです。
恵探の母親は、側室で今川家の有力家臣・福嶋氏の娘でした。
ちなみに義元の母は、正室の寿桂尼。
義元になりかけていましたが・・・恵探の母方の福嶋氏が大反対!!
今川家を二分するお家騒動が勃発しました。

が・・・寿桂尼は恵探の元へ・・・。
寿桂尼は、実の息子を裏切ったのでしょうか??
この頃既に、義元は将軍足利義晴から家督を継ぐことを承認されていました。
寿桂尼が恵探に足利家からの注書・・・覚書を見せて説得したようです。
しかし、その注書をを恵探に奪われてしまいました。
寿桂尼もこの時抑留されたのだとか・・・。
注書だけでなく、母も奪われてしまった義元は、すぐさま恵探派を襲撃!!
1536年花蔵の乱・・・今川家を二つに分ける内戦の始まりでした。
義元軍は、恵探派が籠る方ノ上城を攻撃!!
すると恵探は、難攻不落の花倉城へと逃げていきました。
しかし、この鉄壁の守りも、義元家臣・岡部親綱によって破られます。
見事母と注書を奪還!!
恵探は城を捨てて逃げますが・・・その途中、「もはやこれまで!!」と、自刃したのでした。
兄・江探の死によって、熾烈な家督争いは終わりを告げたのでした。
こうして義元は、1536年、9代当主となるのです。

駿河と遠江を治めていましたが、三代当主の頃、遠江を斯波氏に奪われてしまいました。
それ以来、遠江奪還は今川家の悲願でした。
そのカギを握っていたのは井伊家でした。
井伊家は遠江・浜名湖北岸の井伊谷の国人領主で、後におんな城主となる直虎になるまで因縁は続きます。
遠江を取り戻そうと侵攻する今川に対し、斯波氏について抵抗する井伊・・・。
しかし、1513年、井伊家の支城・三岳城が落城・・・井伊は屈服しましたが、それは表面上のことで、その支配はまだ安定していませんでした。
そんな中、今川の家督を継いだのが義元でした。
井伊家支配の強化に動き出した今川・・・遠江・・・そして、三河に進出する為に、井伊家を取り込もうとしたのでした。


井伊家に飴と鞭を使う今川・・・。
奪い取った三岳城を返却し、井伊谷に駐留していた兵を引き上げ、国人領主としての地位を保証します。
温情を見せておいて、当主・直平の娘を人質に出すように命じます。
ちなみに、この娘の産んだ娘が、後に家康の正室となる築山殿です。
こうして、井伊家の支配を強化した義元は、井伊家を利用していきます。

井伊家は今川にとって外様なので、戦になると一番危ないところ・・・
井伊家も早く手柄を立てて忠誠を誓わなければなりませんでした。
井伊家を配下に置くことに成功した義元は、更に三河へと侵攻していきます。
1546年、東三河・今橋城攻略。
この三河進出に刺激されたのが、尾張の織田信秀です。
早速、西三河の岡崎城に攻撃!!
自力で織田と戦う力のなかった松平広忠は、義元に援軍を求めてきました。
義元はこれを利用・・・援軍の代わりに、広忠の嫡男・竹千代を人質にと、命じたのです。
この竹千代こそ、後の徳川家康で、まだ6歳でした。
こうして義元は、松平家の後ろ盾として参戦。
三河から織田方を排除することに成功しました。
人質を取られていた松平家は、今川配下につくしかなく、西三河も義元のものに・・・
したたかかつ、巧妙な外交手段によって、駿河・遠江・三河の大大名となったのです。

着実に領土を広げていく義元・・・そこにいたのは、軍師・太原雪斎でした。
太原雪斎の支えもあって、東海三国を制した今川義元は、領土拡大のためにさらに西へ進出!!
しかし、そのためには、退路を安全にしておかなければなりません。
北には甲斐・武田、東には相模・北条氏康が・・・義元は彼らとの同盟を画策します。
1552年11月、武田信玄の息子には自分の娘を嫁がせます。
この時、信玄は、宿敵・上杉謙信との戦いで背後を安全にしておきたかったのです。
武田は、上杉と敵対していた北条と姻戚関係を結びます。
これによって間接的に北条との間にも同盟が結ばれたことに・・・
念には念を入れて・・・1554年7月、嫡男と氏康の娘を結婚させます。
これは、単なる不可侵条約ではなく、合戦になった場合の援軍という甲相駿三国同盟でした。

例えば・・・1555年の第2次川中島の戦いでは、今川の家臣が武田の援軍として出陣しています。
さらに合戦が膠着状態になると、義元が和平案をあっせんします。
信玄、謙信に匹敵する力を持っていた義元・・・
やがて海道一の弓取りと呼ばれるようになります。

1553年「仮名目録追加」21か条を制定します。
”今川家は自らで法を定め、領民の生活を守っている。
 よって今川以外の権勢がわが領内に及んではならない。”
この頃は・・・守護大名は、室町幕府から任命されて、地方を治め、指示されていました。
そんな幕府の支配を離れ、戦国大名となることを宣言したのです。

自信に満ちた義元は、次々と計画を実行に移していきます。

①検地・・・田畑の広さと収穫量を調べる検地を徹底させます。
山地の多い今川領は推定50万石・・・一国で50万石の尾張と比べると、その差は歴然です。
そのため、別の方法で収入を増やす必要がありました。

②課税・・・田畑の段銭、家屋ごとの棟別銭を領民から徴収し、税収を安定させます。

③金山開発・・・安倍川上流にあった金山に目をつけます。
今川領には金山が無数に点在しており、そこから産出される豊富な金は、大きな収入源となりました。

領国経営のモデルとなった武将・今川義元。
先駆的な経営によって、石高は、50万石から100万石へ・・・!!
義元はこれを戦の資金源として西を目指すのです。
そして今川家は黄金時代を迎えるのです。
駿府は、今でも京都と同じ名のスポットがたくさん残っています。
京都には多くの公家が滞在し、母の寿桂尼が公家出身だったこと、義元自身も京都にいたこと・・・
能や茶の湯をたしなみ、和歌は今川家のお家芸となっていました。
今川家の歌会始には、一族、重臣だけでなく、公家も招かれ、たいへん華やかでした。
だから公家風の装いな義元なのです。

1560年5月12日、今川義元は2万5000の兵を率い、自ら陣頭指揮を行い、東海道を西に登っていきます。
この時、義元が動員した2万5000は、当時としては桁外れ!!
迎え討つ織田信長は、推定でも最大5000!!
全精力を注いで西に向かった義元の狙いは、那古野城??
この時点で、信長は清須城に移っていました。
那古野城は今川家のお城でしたが、信長の父・信秀に乗っ取られたという経緯がありました。
なので、那古野城、清須城を落とし、尾張を攻略しようとしていたのです。

いざ、那古野城奪還!!尾張を我が物に・・・!!

義元は自ら陣頭指揮を執って輿に乗って進軍していきます。
1560年5月18日、今川本体は、尾張との国境にあった沓掛城に入ります。
この時、輿に乗って進軍する義元・・・。
それは馬に乗れなかったからではなく、輿に乗る=守護大名の中でもごくわずかしか室町幕府に許されていなかったのです。
自分はそれだけの身分の人間だということを、尾張の小国大名・織田信長とその家臣たちに知らしめるためだったのです。
敵を威圧する作戦でした。

そして、運命の桶狭間に・・・!!

1560年5月19日、沓掛城を出た義元は最前線の大高城へ・・・。
ここを足掛かりに那古野城を攻めるつもりでした。
午前11時ごろ・・・義元本体は、桶狭間山の陣所で昼休憩をとっていました。
するとその時・・・!!
織田方2000の兵に、正面から奇襲をかけられ、大敗を喫してしまったのです。
どうして2万5000の兵をもってしても、織田軍を打ち負かせなかったのでしょうか?

①天気・・・この日、沓掛で楠木が倒れるほどの大雨が降りました。
豪雨によって視界を妨げられ、織田軍の接近に気付けなかったと思われます。
②油断・・・この日の早朝、今川軍の先鋒、松平元康らは、障害となる丸根砦・鷲津砦を攻略していました。
戦況が有利に進んだことに気を良くし、義元は休憩中に謡などを謳っていました。
この一時の油断が命取りとなりました。
③参謀の喪失・・・そして何より・・・遡ること5年、義元を支えてきた軍師・太原雪斎が亡くなっていました。
④兵の数・・・2万5000のうち、2万は別の方に向かっており、義元本隊5000程度でした。
しかも、この時昼休憩でみんなバラバラになっていて、義元の元にいたのは300ほど・・・僅かだったと言います。

その後、次々と倒されていき・・・間もなく大将である義元が取り囲まれてしまいました。
果敢に応戦する義元!!
義元に一番槍を付けたのは、織田方の服部小平太。
義元は小平太を交わし・・・そこにかかってきたのが毛利新介でした。
最後まで果敢に戦い、夢半ばで散った海道一の弓取り・・・
1560年5月19日・・・42歳の生涯でした。

その首は清須城に・・・
信長によって首実検され・・・本来なら返す必要のない首は、義元の首は駿府に送り返されることに・・・
尾張攻めの最前線であった鳴海城に、義元家臣の岡部元綱が踏みとどまり、主君である義元の首の返還を願い出たのです。
信長は、主君を思うその思いに・・・鳴海城を明け渡す代わりに義元の首を返還。
駿府に戻ったその首は、今川の菩提寺に弔われました。

義元無き後、継いだのは嫡男・氏真。
しかし、桶狭間の後、次々と配下の者たちは離れていきます。
今川家はかつての勢いを削がれるばかり・・・これを好機と見た徳川家康と武田信玄は、東西から攻め込んで・・・
1569年今川家滅亡・・・桶狭間からわずか10年足らずでした。

戦略にも領国経営にもたけていた今川義元・・・
samonji

京都にある建勲神社には、名刀”義元左文字”が大切に保管されています。
桶狭間の戦いで義元が使っていた愛刀です。
義元を討ち取り、歴史の表舞台に躍り出た信長は、この刀を終生大切にしたと言います。
戦国の世を自ら切り開いていった義元への敬意と共に。




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