日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:今川義元

経済で読み解く織田信長 [ 上念司 ]

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感想(4件)



群雄割拠の戦国時代、並み居る強敵を退けて天下統一に王手をかけたのが織田信長です。
しかし、その戦績を見ると・・・
上杉謙信・・・64勝8敗36分
武田信玄・・・54勝6敗22分
織田信長・・・151勝42敗9分
と、負け戦が多いのです。

どうして信長は戦国の世を征することができたのでしょうか??
その理由は旗印にありました。
描かれているのは・・・「永楽通宝」・・・どうしてお金を旗印にしたのでしょうか??
それは、銭の力で天下を取る・・・信長の圧倒的な力は経済力だったのです。

1559年尾張国を平定した織田信長は、桶狭間の戦いで駿河・遠江を支配する今川義元に勝利し、天下に名をとどろかせます。
その勢いはとどまることを知らず、美濃の斎藤龍興を責め難攻不落と言われた稲葉山城を制圧!!
岐阜城と改めて新しい居城としました。
天下統一に邁進する信長・・・この時34歳!!
しかし、まだまだ並の大名にすぎず、武田信玄や上杉謙信の足元にも及びませんでした。

1568年、室町幕府の再興を願う足利義昭から支援を要請された信長は、義昭を擁して上洛。
6万もの兵を以て京を制圧し、義昭を15代将軍に就任させます。
大いに喜んだ義昭は、褒美をとらせることに・・・

「此度の礼として畿内5か国の管領に任ぜよう」by義昭

信長にとっては大変な出世でしたが・・・「身に余ること」と辞退してしまいました。

義昭は・・・「管領で不足ならば、副将軍ではどうじゃ」

それでも信長は首を縦に振りません。
何が欲しいのか・・・??

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にすることで・・・義昭はそれをあっさりと認めました。
どうして信長は副将軍の座より3つの町を選んだのでしょうか??

足利将軍に取り入れられることを拒否し、銭の力で天下統一を果たそうとするマネー戦略の一つでした。

信長のマネー戦略①地位より港町
堺は、日本最大級の港町で、物流の拠点でした。
日明貿易や南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに発展。
それは、京都をもしのぐ繁栄と言われ、フランシスコ・ザビエルは
「日本の殆どの富がここに集まっている」と言っています。
一方、大津と草津は、琵琶湖水運港町でした。
当時、京都と日本海を行き来するためには、琵琶湖水運で船を使うのが一般的でした。
そのため、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が、義昭に所望した場所は、いずれも物流の拠点となる港町でした。
当時は、船の積み荷に関税を課していました。
大きな港となれば、莫大な関税収入を得ることができました。
これが、信長の軍資金となりました。
越後の上杉謙信の場合、柏崎港と直江津港からの関税収入は、年間4万貫・・・約60億円でした。
堺や大津などは、莫大になったでしょう。
副将軍より三つの町を選んだ理由は、港町からの莫大な税収を、軍資金にして天下を取るためでした。

1534年、信長は尾張国守護代重臣の織田信秀の長男として生まれます。
守護代とは、守護大名を補佐する立場で、尾張には二人いました。
信秀は、その守護代のひとりに仕える重臣のひとりにすぎませんでした。
信長が生まれた頃から急激に勢力をつけていきます。
そこには圧倒的な経済力がありました。
信秀は、勝幡城近くにある津島近くの港町を支配下に置いていました。
木曽川沿いの津島は、伊勢湾水運の要所で、多くの船が出入りしていました。
信秀は、ここに出入りする船に関税をかけ、莫大な収入を得ていました。
さらに信長が生まれた年には古渡城を築城、それによって伊勢湾水運によって栄えていた熱田湊の関税収入を手に入れます。
すると信秀は、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費のために700貫(1億円)を献上。
四千貫(6億円)を京都御所の修理に献上。
圧倒的な経済力を相手に見せつけることで圧倒!!
ついに、尾張国の実質的支配者となるのです。
そんな父を見て育った信長は、「武力に勝るものがある」ことを、知っていたのです。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った翌日、信長は清須城で論功行賞を行いました。
真っ先に一番槍をつけた服部春安か、一番首の毛利良勝が一番手柄だろうと考えていました。
ところが、信長が一番の褒美を与えたのは戦場では目立った活躍もしていない簗田政綱でした。
簗田は信長への情報提供・・・戦った武将たちよりも情報を届けた簗田の方が手柄が上だと考えたからです。
戦国の世に置いて、武力だけにとらわれない信長は、革新的な経済政策を打ち立てていきます。

信長のマネー戦略②楽市楽座

美濃国の戦国大名・斎藤龍興を退けて岐阜城に入った信長は、1568年に岐阜城下に「楽市楽座令」を発布します。
「市の独占、座の特権は全く認めない」
市=商売を行う場所のこと。
当時は、定められた市でしか商売ができず、一の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人たちは寺子銭(場所代)を払わなければなりませんでした。
座=商品の独占販売権を持つ同業者組合のこと。
商人たちはどこかの座に所属しなければ商売ができませんでした。
座を保護している公家や寺社に冥加金(売上税)を払わなければなりませんでした。
信長はこれらを自由化してどこでも商売ができるようにし、以前よりも安く設定した売上税のみを信長側に支払うように命じました。

楽父楽座は、南近江の戦国大名・六角義賢が観音寺城で始めたもので、信長よりも20年ぐらい早く始めていました。
更に進化したものを行った信長です。
信長の経済改革によって岐阜城下には多くの商人が集まりました。
経済は活性化し、城下町が急速に発展!!
信長には売上税ががっぽり!!
しかも、城下町のおかげで人材や物資の確保がしやすく、天下取りの土台と考えていました。

この楽市楽座には、信長の大いなる野望が隠されていました。
”天下布武”という言葉の意味は・・・
鎌倉時代以降の日本は、公家、寺家、武家の3つの権門がけん制し合っていました。
公家や寺家が莫大な税収に寄って武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。
信長は、公家や寺家の介入を許さない、純粋な武家政権の樹立を目指していました。
公家や寺家の既得権益を奪い、経済力を低下を図ったのです。
そして、商人たちを信長の味方につけることに繫がりました。

さらに関所を撤廃。
これもまた天下布武のためには外せません。
戦国時代の関所は税関で、公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていました。
通行税を課して、大きな収入源としていたのです。
そのため、関所の数は膨大で・・・
荘園が入り組んだ淀川河口から京都までの50キロの間に、380カ所もありました。
ひどいところでは、1里の間に40カ所もありました。
行商人は大変で・・・上乗せした値段が高くて商品が売れないという悪循環も・・・
そこで信長は、1568年頃から関所の撤廃を始めます。
公家や寺社の資金源を断ち、商品をスムーズに動かし経済を動かしました。

信長のマネー戦略③交通インフラの整備

戦国時代、通常戦国大名たちは敵を警戒して居城辺りはわざと悪路にしていました。
橋も架けない・・・そんな常識を・・・
1574年、命令を出しています。
・入り江や川には船を並べた上に橋を架け、意志を取り除いて悪路をならせ
・本街道の道幅は、3間2尺(約6.5m)とし、街路樹として左右に松と柳を植えよ
・周辺の者たちは道の清掃と街路樹の手入れをせよ

交通インフラの整備によって商品流通を活性化させ、財を成した商人たちから多くの税を集めることが目的でした。
道を通りやすくすることで敵に攻められやすくなる・・・そのことを、圧倒的な経済力によって強化しました。

兵農分離・・・当時の多くの兵士たちは、半農半兵の地侍でした。
普段は村に住んで田畑を耕し、合戦が始まると戦場に駆り出されていました。
そのため、農繁期の秋には出陣もままならず、長期遠征も困難でした。
「戦に専念できる兵士が欲しい」
そこで、信長が目をつけたのが、地侍の次男、三男でした。
当時は調子相続が原則で、次男、三男は長男が亡くなった時の控えで、家を継ぐことはありません。
そんな次男、三男を召し抱え、親衛隊を結成しました。
親衛隊が活躍すると、兵農分離を強化します。
召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせて、武器ごとに集団訓練をさせます。
高い組織力と機動力で強くなっていきました。
農業からから切り離した兵士たちに生活費を支給しなければならない・・・経済的な負担は大きいものでしたが、それを実行できたのは、信長が様々な税によって収益を得ていたからです。
信長の経済力がなさせた・・・天下統一への大きな要因の一つでした。

火縄銃・・・信長が10歳の時、1543年にポルトガルから種子島に伝来。
しかし、強力な新兵器としてみなが興味を示すも普及しませんでした。
その理由は・・・
①弾を込めるのに時間がかかる
②非常に高価だった
からです。
鉄砲1挺=1丁30金・・・およそ50万円しました。
信長は、鉄砲を重視していました。
19歳の時に引き連れていた親衛隊は、500挺の鉄砲を持っていました。
そして、その鉄砲が活躍したのは、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでした。

兵の数こそ織田・徳川軍が大きく上回っていたものの、武田軍には戦国最強の騎馬軍団がいました。
そこで信長は、今のお金で15億円という大金を使って3000挺の鉄砲を購入し、騎馬軍団に対抗しました。
一発撃つごとに先頭を交代し、連射を可能にしたともいわれています。
これによって長年の宿敵・武田軍を撃破!!
天下取りに大きく近づきました。
強大な経済力と境を手に入れていたこと・・・この二つが鉄砲を大量に手に入れることができた理由でした。
堺は鋳物文化が盛んであったこと、そして日本では作ることのできない火薬である硝石を手に入れやすかったことが、信長が鉄砲を存分に使えた理由でした。

信長のマネー戦略が武力に勝った瞬間でした。
その経済力のたまものの兵器・・・鉄鋼船です。
1570年、寺社勢力を削ごうとする信長に対し、石山本願寺の蓮如が立ち上がります。
各地で一向一揆が勃発!!
激闘を繰り広げるも、蓮如は次第に追いつめられていきます。
すると・・・中国地方の有力大名の毛利輝元に援助を要請!!
毛利水軍700艘を本願寺に・・・補給のために大坂湾に差し向けます。
信長は、これを阻止する為に300艘を大坂湾に・・・しかし、あえなく撃退・・・。
毛利水軍焙烙火矢(焼夷弾)によって多くが焼かれてしまいます。
信長は、配下に置いていた伊勢志摩水軍に燃えない船を作れと言明!!
こうして作られたのが鉄鋼船です。
全長23mの巨大な船でした。
当時、鉄鋼は高価なので、船全体に貼ることは莫大なお金が必要でした。
それを作ってしまった信長・・・経済力は相当なものでした。
この頃、鉄鋼船は世界中にどこにもなく、信長が初めてでした。
鉄鋼船は、焙烙火矢にはびくともせず、多数の銃を搭載していたので圧倒的な力で毛利を撃退!!
2年後の1580年には石山本願寺が降伏しました。

信長のマネー戦略④居城の移転
一所懸命・・・当時の武士たちは一つの場所でその土地を命をかけて守るというものでした。
そして、その土地をめぐっての戦いで・・・土地が最も大切でした。
そのため、自分の土地を離れる者はおらず、武田信玄、上杉謙信も一度も城を移してはいません。
しかし、信長は那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と、4回も城を変わっています。
理由は・・・22歳の時父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心だったからです。
8年後に小牧山城に移ったのは次の侵略目標の美濃に近いからでした。
美濃を攻略するとそのまま岐阜城に。
次には安土城に・・・更なる領地拡大の拠点とするため、最前線に城を築いたのです。
兵農分離のなせる業でした。

新しく城を築くには、莫大なお金がかかります。
城下町を拡大すれば、経済が活性化し、税収がアップする・・・城下町を作り、拡大し、より多くの税収を集めるために居城を移転しました。
満を持して・・・安土城!!
1576年1月・・・信長は標高200メートルの安土山に築城を開始。
この時43歳でした。安土を選んだ理由・・・
中京経済圏、近畿経済圏の両方に目を光らせ、琵琶湖を使えば京都に半日で行けること。
中山道、近江商人と伊勢商人が行き来する八風街道・・・商品流通の要所・・・経済的な発展も狙っていました。
城下町も整備し、商人たちの誘致にも知恵を絞ります。
「安土山下町中掟書」には・・・
・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からに転入者も従来からの住人と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

人々を呼び集めるために政策が書かれていました。
城にも・・・完成した安土城は七層の壮大なものとなりました。
最上階は内も外も金で輝いていたといいます。
信長はこの城を、盂蘭盆会でナイトアップ!!
人々は集まり、信長の威厳と力を目の当たりにしました。
信長は、安土を京都や堺に並ぶ大都市に成長させました。
天下統一がなされたときには、安土に遷都を考えていました。
安土城には天皇を迎えるための御幸の間がありました。
そして、その御幸の間は信長の天主よりも低いところにあったのです。
天皇をも凌駕する存在になろうとしたのでは・・・??
お金の力で天下を取る・・・それを現実のものにしようとしていた信長・・・
1582年6月2日、京都本能寺で明智光秀に襲撃されあえなく死去。
光秀は、天皇をも超える存在になろうとしていた信長を危惧し、今何とかしないと大変なことになる・・・そう考え謀反を起こしたともいわれています。
巧みな経済感覚で時勢を追い、戦乱の世を征した信長でしたが、光秀の心までは読めませんでした。


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家康長男信康と大久保家の謎 [ 野村武男 ]

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天下を統一して江戸幕府を開き、神君とされた徳川家康。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
その強靭な忍耐力は、家康最大の武器であり、天下人になり得た大きな要因の一つでした。
しかし、そんな家康でさえも耐え難い人生最大の事件がありました。

大事な跡取り息子・信康に切腹を命じた”信康自刃事件”です。
事件は織田信長の圧力に家康が屈した・・・つまり、信長が信康を殺させたのでは・・・??と、考えられてきました。
が・・・??定説を大きく覆す意外な事実がでてきました。

徳川家康と清逸・築山殿との間に生まれた嫡男・信康。
大切な跡取りを切腹させることになってしまった信康自刃事件の顛末は、家康の家臣の書いた「三河物語」に書かれています。
1579年徳川家康は、織田信長と同盟を結んだ証として、徳姫を信康の正室に迎えています。
しかし、1579年、徳姫が父・信長に書状を送っています。
そこには、夫信康と姑に対する不満や恨みが12か条に渡って書かれていました。

信康は無慈悲で非道
築山殿は悪人で私と信康を仲たがいさせようとしている
築山殿が武田勝頼と内通して織田・徳川の滅亡を訴えている

信長は、驚き、激怒!!
天下取りを邁進する信長にとって武田は難敵!!
徳川と手を結ぶようなことがあれば、窮地に陥ることは必至でした。
信長は、家康の側近・酒井忠次を呼び出します。
この時、酒井は、手紙の内容を否定しませんでした。
「即刻信康に切腹を申し付けよ!!」by信長
信長は、築山殿の処罰ではなく、信康の切腹を要求!!
家康は愕然とします。
織田と徳川は、同盟とはいえ、主従関係に近いものでした。
力の差は歴然!!
信長の命は絶対でした。
しかし、家臣たちの多くは、信長との同盟を破棄してでも信康を守るべきだと主張しました。
信康の守役・平岩親吉は、代わりに自らの首を差し出すとまでいいだしました。
苦渋の決断を迫られた家康は・・・
武田と内通していると疑われた築山殿を家臣に殺害させます。
そして、信康に切腹を言い渡したのです。
信康にとっては、まさに青天の霹靂でした。

1579年9月15日、信康切腹!!

この時の介錯人は、家康の側近で、後に伊賀忍者の棟梁となる服部半蔵正成でした。
忠義に篤い半蔵は、信康の首をどうしても落とすことが出来ず、検視役が介錯したといいます。
こうして信康の首は、信長に差し出されたのです。
この時、信康21歳でした。

これが、家康最大の苦渋として三河物語に書かれている信康自刃事件です。

しかし、この事件、謎が多いのです。

武田と徳川の内通??
信長に信康が切腹を要求した??

事件から遡ること20年、徳川家康はまだ松平元康という名で、弱小大名の松平家から強国今川家に差し出された人質として駿府に暮らしていました。
正室は、今川家当主・今川義元の姪・瀬名・・・後の築山殿です。
そんな二人の間に生まれた待望の子が、嫡男・信康でした。
幸せな結婚生活を怒っていた家康たち・・・

1560年桶狭間の戦い!!
織田信長と今川義元が激突し、義元が討死すると、今川軍として参戦していた家康は、人質生活から逃げ出せる絶好の機会とそのまま三河に帰参!!
岡崎城を今川の手から奪還します。
しかし、この時、築山殿と信康は駿府に置き去りのままでした。

「裏切り者の身内として、今川に殺されるかもしれない・・・」by築山殿

そんな瀬名姫の心配を余所に、家康は信長と同盟を結び、今川と断交してしまいます。

「今川の仇である信長と手を結んだ・・・なんということを。。。」by築山殿

そして、いつ殺されるかもわからない状態は、2年以上続いたのです。
祖の後、人質交換によって救出され、三河に移ることができたものの・・・悲劇は続きます。
嫡男・信康は家康のいる岡崎城に迎え入れられたのですが・・・
信長と同盟を結んだ家康にとって、今川義元の姪である瀬名姫は、もはや厄介者・・・。
城に入ることを許さずに、裏の尼寺で暮らすように命じました。
その尼寺が築山という場所にあったので、築山殿と呼ばれるようになりました。

家康を罵る母の言葉が、信康の父に対する反発心を生んだのではないか?
1567年5月、まだ9歳の信康が、政略結婚させられます。
その相手は・・・信長の娘・徳姫でした。
7月・・・信康が元服。
織田と徳川の同盟の象徴となりました。

1570年今川家の領地・遠江を手に入れていた家康は、岡崎城から浜松城に本拠を移すと、岡崎城を信康に譲ります。
そして、幼い信康のために、信康専属の家臣団が形成されました。
家康の後継者として嘱望されていたのです。
1573年15歳で初陣を飾ると、信康は期待に応え、武田勢を相手に幾多の武功をあげます。
「真の勇将なり
 (武田)勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも 恐るるに足らず」
しかし、その一方で、正確には何があったようです。
無慈悲で非道な一面があり、些細なことで領民を手打ちにしたことがありました。

何が原因で信康は自刃となったのか??
家康にとって、公にしたいことではなかったようです。
家康が隠そうとした徳川家のタブーとは・・・??
「安土日記」には・・・
”岡崎三郎殿逆心あり”と書かれています。
岡崎三郎とは信康のことで、父に背こうとしていたというのですが・・・??
そこには、当時の徳川家の厳しい状況がありました。
1572年12月22日、家康は遠江の三方ヶ原において武田信玄と激突!!
兵力にはるかに劣っていた家康は、信長に援軍を求めましたが、信長の援軍は僅かに3000ほどでした。
結果は・・・戦国最強といわれる武田信玄に翻弄され、徳川軍大惨敗!!
命からがら浜松城に帰る際、家康は恐怖のあまり脱糞したともいわれています。

しかし、それからおよそ5か月後・・・打ちひしがれている家康に思わぬ知らせが飛び込んできました。
1573年4月12日、武田信玄が急死したのです。
これを機に、家康は反撃に転じ、武田軍が三河侵略の拠点としていた長篠城を奪還します。
これで一気に形勢逆転かと思われましたが・・・家康の前に立ちはだかったのは、信玄の跡継ぎ・・・武田勝頼でした。
1574年5月、勝頼は2万5000の兵を率いて、高天神城を襲撃、これを攻め落とし、翌年には三河に攻め入り、徳川方の城を次々と攻略していきます。
信玄の後継者の名に恥じない戦いをする勝頼・・・さらに、長篠城の奪還にも取り掛かります。
かたや防戦一方となった家康は・・・。
こうした危機的状況の中、徳川では意見の対立が起こります。
家康率いる浜松衆・・・武田との戦いを続ける
信康率いる岡崎衆・・・武田との敵対関係を見直すべきだ
としたのです。

この頃の信長は、領地こそ拡大していたものの、各地に強敵がおり、天下統一など遠い先の話でした。
1575年徳川家に大事件が起こりました。
信康の家臣で岡崎町奉行の大岡弥四郎らが、武田と内通し、あろうことか軍勢を岡崎城に引き入れ合流しようとしたのです。
計画がもれ、未然に防げましたが、家康の怒りは大きく計画に加担したものは皆極刑にされ、首謀者の大岡は、岡崎の町中にいきたまま埋められ、首を鋸引きの刑となりました。

このことは、家康の”徳川は武田とは手を組まない”という強烈な意思表示となりました。
1か月後・・・長篠の戦いで織田・徳川軍と武田軍がぶつかります。
信長は3000丁もの鉄砲で、武田自慢の騎馬軍団を撃退、重臣たちもことごとく討ち果たし、武田勝頼を這う這うの体で甲斐に引き揚げさせるという圧倒的な勝利を収めました。
家康は確信します。
武田を選ばずに、織田を選んだ自分の判断は正しかったのだ!!と。
しかし!!この長篠の戦いの勝利が、浜松衆と岡崎衆の軋轢を、ハッキリと浮かび上がらせるのです。
その軋轢とは・・・??
浜松衆と岡崎衆の軋轢は、二つの城の位置が関係していました。
浜松衆は最前線で戦い、武功と出世の機会に恵まれていましたが・・・
岡崎衆は、ケガで戦えなくなった者の後方支援のような仕事・・・裏方で、出世にも遠かったので不満がたまっていた。
出世の奇計に恵まれていた浜松衆に対し、損な役回りの岡崎衆が反発していたのです。
一枚岩ではない・・・これは、徳川家にとって由々しき問題でした。
家康の後継者である信康は、本来ならば岡崎衆を諫め、事態の改善を図る立場です。
それをしなかった信康・・・
信康も、岡崎衆こそが徳川の前線に出るべきと考えていました。
この時信康はまだ20歳前・・・家康に対するライバル心は日に日に強くなっていきます。
そして・・・1578年、信康を逆心へと向かわせたのが・・・
3月13日上杉謙信死去。
謙信の二人の養子・景勝と景虎の間で跡目争いが勃発・・・
結果、武田勝頼を味方につけた景勝が勝利します。
しかし、敗れた景虎が相模の北条家からの養子だったために、同盟を結んでいた武田と北条との関係が悪化・・・。
武田は、敵対している徳川と北条に挟まれることとなりました。
生き残りの道を模索する勝頼は・・・得意の調略を行います。

武田勝頼から築山殿に宛てた内通の文書が発見された・・・??
勝頼は、徳川との敵対関係を見直すために岡崎衆との接触を図ったのです。
この時、信康も武田と接触していた可能性があります。
徳川の将来を思えばこその武田との接触・・・
それは、父・家康を裏切るだけではなく、信長をも裏切るものでした。
そして、このことが徳姫の知るところとなり、信長に知られてしまったのです。

徳川と織田の関係は、緊迫状態にありました。
家康は徳川家を残すために・・・信康の処断を考えていると信長に伝えたと思われます。
酒井忠次が訪れたのは、その決断を知らせに行ったのでは・・・??
切腹させろと命じていない信長・・・すべては家康に託されたのです。

1579年8月3日徳川家康は、嫡男信康のいる岡崎城を訪れます。
信康と武田との接触の真偽を調べ、どのような処断を下すべきか・・・??

8月4日、家康は信康から全権を剥奪、三河の大浜城へ移し、謹慎処分とします。
9日・・・堀江城へ。
10日・・・岡崎城に松平家一族や地元の領主を集め、信康とは以後かかわりを持たないという誓約書を書かせました。
その後、信康を二俣城へ・・・!!
信康をすぐに切腹させなかったのは、家康の時間稼ぎでした。
家臣たちが信康を逃がしてくれるのでは・・・??と。
そして家康は決断を下すのです。
9月15日信康は父の命で命を絶ちました。

家康のしたこと・・・家の存続を第一と考える戦国大名としては仕方のなかったことなのかもしれません。
しかし、織田信長は、「家康殿の思い通りにせよ。」と、切腹は求めていませんでした。
死をもって償わせる必要があったのか・・・??
廃嫡、蟄居、出家・・・の選択枝があったのに・・・??

信康に切腹を言い渡す半年前に2代将軍となる秀忠が生れていた。
後継者が他にいれば、信康を生かしておく必要はなかった・・・??

浜松衆が切腹を後押ししたのでは・・・??
酒井忠次ら側近から、信康を処分すべきという声が上がっていました。
家康が人質だった時からの家臣・忠次は、家康にとって頭の上がらない存在でした。
そして・・・家臣によって暗殺されていた祖父と父・・・。
冷静沈着、老獪のイメージの強い家康ですが、実際は気が小さく悲観的だったといいます。
最悪の場合・・・信康が生きている限り、信長から責められる危険が残ると考えたのです。

「無事に育ちさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても信康は親を敬わず、その結果、父子の間が上手くいかず悲劇を招いてしまった。」

しかし、この性格が天下人とさせたのです。

信康を切腹させるとは、信長も想定外のことでした。
そして、嫡男の信康を切腹させたことで、律義者という印象を信長や秀吉に植え付けたのです。

二人の親子の間には、戦国という動乱の時代が生み出した父と子の姿、武将としての生き様がありました。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」

重荷の一つには、信康の死があったことでしょう。

そして、関ケ原の戦いの際、秀忠が戦いに遅刻するというだいだい失態を犯した際、家康はこう言いました。

「信康がいてくれれば、こんな苦労はせずに済んだものを・・・」と。

家康は信康を死なせたことを悔やんでいたのです。
この関ケ原の戦いが起きたのが、9月15日・・・21年前に信康が亡くなったその日でした。


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戦国武将 死ぬ前の3日間をどう過ごしたか (impress QuickBooks)

<徳川家康と戦国時代>桶狭間の戦い/三方ヶ原の戦い/関ヶ原の戦い【電子書籍】[ 橋場日月 ]

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1600年9月15日、日本を東西に二分した関ケ原の戦い・・・

勝者となったのは、東軍総大将・徳川家康です。
しかし、家康には大きな誤算がありました。
徳川の主力を率いる家康の三男・秀忠が決戦に間に合わないという前代未聞の大失態を犯したのです。
この時、家康はつぶやいたといいます。

「倅がいたらば、こんな事にはなっていないはずだ。」と。

家康が口にした倅とは、家康の長男・松平信康のことです。
その名は、徳川の歴史においてタブーでした。
1579年9月15日、奇しくも関ケ原の合戦と同じ日に、事件は起こりました。
21歳の信康が、織田信長の命により自害させられたのです。
世に言う”信康事件”です。
どうして信長は、家康に長男を殺害するように命じたのか?
どうして家康はそれを受け入れたのか??
それは謎です。
カギを握るのが”逆臣”!!

家康の後継者として期待された信康。
家康と正室・築山殿との間に生まれた初めての男子です。
当時、家康は、駿河・遠江・三河を有する今川家の配下にあったため、駿府に生まれました。
信康2歳・・・この年(1560年)、今川家の当主・義元は桶狭間の戦いに討ち死に、これによって家康は独立することに!!

しかし、この時大きな問題が・・・。
駿府にいる築山殿と信康が人質に取られていたのです。
人質奪還のために、家康は今川義元の妹婿の城を攻め、当主の子を生け捕り、人質の交換に成功!!
これによって一命をとりとめた信康は、駿府から岡崎に移ることになりました。
1567年信康9歳の時、信長の娘・徳姫と結婚。
信長から信の一字、家康から康の一字を与えられています。
信康は、徳川と織田の同盟関係を象徴する存在でした。

1573年12月、家康は絶体絶命の窮地に立たされます。
甲斐の武田信玄が、遠江に侵攻。
戦国最強と謳われた武田の大軍勢が襲来したのです。
徳川軍は、三方が原で武田軍と激突し大敗北(三方ヶ原の戦い)!!

しかし、翌年の1573年4月、武田信玄死去。
武田軍は撤退し、家康は九死に一生を得ます。
とはいえ、信玄亡き後も、武田の勢力が弱まることはなく、家康は信長との同盟を維持しながら、対武田の拠点となる浜松城に身を置き、背後の要・西三河の岡崎城に信康を置き、領国の防衛強化に努めています。
信康が岡崎城主となったのは12歳(1570年)の時。
幼い領主を支えるために、新たに家臣団を作り・・・
徳川は、浜松家臣団と岡崎家臣団に分かれることとなったのです。

1575年5月長篠の戦いで、家康・信長連合軍が武田に圧勝!!
この時、17歳の信康も、一軍を率いて参戦!!
局地戦で殿を務め、功名をあげます。

1579年4月、武田軍が徳川領に侵攻。
徳川と武田の国境では、緊張が高まっていました。
そのさなか、家康のもとに、信長から信じられない命令が・・・!!

「信康に切腹させるよう家康に伝えよ。」by信長

そのきっかけとなったのが、信康の妻・徳姫が、父・信長に、夫の悪行を訴えたことでした。
信康の悪行とは・・・??
史料には、鷹狩りで意に沿わない僧侶を殺したことや、下手な踊り子に腹を立てて射殺したことが書かれています。
信康の行動は傍若無人で、慈悲の心がなく、そのため夫婦の仲は悪くなったとありますが・・・
しかし、信康と家臣との間が上手くいっていないわけではなく、揉めたこともなく・・・
粗暴な君主だったという形跡は、同時代の資料には見られません。

そして、信康のことは家康に一任していた???
信長が家康に殺せという命令を出していないのでは??
家康が、このままではいけない・・・と、忖度で殺したのでは??

当時の徳川は、武田と織田の二大大国の狭間にありました。
家康は信長と結び、武田と対峙していました。
この時、家康と対峙したのは武田勝頼。
信玄亡き後、武田の家督をついだ勝頼は、後世評価の低い武将であるが・・・
信長の評価は・・・
「勝頼は若年ながら、信玄の教えを守り、表も裏もある油断のならない相手である」と。
事実、勝頼は、父・信玄ですら攻略できなかった徳川方の高天神城を僅か1か月で落としています(1574年6月)。

徳川と武田の熾烈な奪い合いの舞台となった高天神城。
難攻不落だった高天神城・・・。
奪還を目指す徳川の猛攻を7年もはねのけた勝頼。
武田が施した数々の備え・・・横堀・・・武田の城兵は、土塁を盾にして、見下ろす形で横堀に迫ってきた徳川の軍勢に対して、鉄砲や弓、つぶてを投げて守ることができたのです。

城は、水陸交通の要所・・・家康の浜松城まで直線で僅か30キロ。。。
派は松上の喉元に刃を突き付けられるような、大きな危機を感じる場所だったのです。

家康にとって、生命線ともいえる高天神城・・・。
なんとか奪還しようとする家康ですが・・・信長からの援軍は無し・・・
10数年続いてきた徳川と織田の軍事同盟。。。
家康は、姉川の戦い、信長上洛戦、越前遠征・・・に参陣を果たしたにもかかわらず、織田からの見返りは多くありませんでした。
織田と徳川の関係は、実質的な主従関係だったのです。

そんな関係に対し、徳川家臣団の不満が一つの事件を起こします。
1575年4月、信康の家臣・大岡弥四郎事件です。
大岡弥四郎を中心とする反逆です。
密かに武田に通じていた岡崎町奉行・大岡弥四郎が、城を乗っ取り、武田に合流しようとしたのです。
事件は未遂に終わり、首謀者たちの処刑で幕を閉じました。
信康の守役も武田に内通し、岡崎奉行の三人のうち大岡を含めて2人も武田に加担していました。
さらに、正室・築山殿も加わっていたといわれています。
岡崎衆をあげて、武田家に鞍替えしようとしたものです。

武田との抗争が激化して以来、家康の浜松、信康の岡崎と家臣団は二分していました。
そこに微妙な内部対立がありました。
家康の周りには、主要メンバーで最前線で戦う。。。
しかし、信康側は、最前線で戦うことはあまりなし。。。
いつでも功績をあげられて、恩賞の利益にあずかれる可能性の高い浜松衆と、チャンスに乏しい岡崎衆との確執が、背景にあったと思われます。

この4年後・・・再び徳川家に大事件が・・・それが信康事件です。

事件の顛末を記した資料は少ない・・・
「三河の信康殿逆臣!!」
当時、岡崎にいた信康としては、先の見えない武田軍との戦い・・・いつ進軍してくるのかもわからない・・・
信康が父・家康追放、もしくは暗殺というクーデターを実行に移した場合、頼れるのは武田しかいない。。。
突如として出た信康謀反の噂・・・。
家康は、我が子・信康をどうする???

1579年8月3日、家康は岡崎城に向かいます。
信康の真意を。。。!!翌日二人は対面。
信康は家康に対し、織田を見限り武田に着くと言ったと考えられます。
一方家康は・・・厳しく問い詰めます。
苦悩する家康。。。

信康を捨て織田をとる??
このまま信長に着けば徳川は安泰。。。
この頃の信長の版図拡大は凄まじく、北陸の上杉、西の毛利に対し、織田軍が出兵し領地は膨張の一途にありました。
安土城も完成し、信長の天下は盤石になりつつあったのです。
しかし、謀反の噂が信長さまに入った以上信康に罰を・・・!!
処置を誤れば、家中が二つに割れてしまう!!


信康をとり武田と結ぶ??
家中が二つに分かれる最悪の事態は避けられるのでは??
武田はこの頃、最大の版図を獲得していました。
勝頼は、北条と対決をし、領土を拡大!!
糸魚川にまでも領土は拡大し、武田の領国は日本海にまでも達していました。
「信康事件」の前後は、武田の領土が再び拡大している時期なのです。

織田家臣団にも綻びが・・・
信長に反旗を翻す武将が続出!!
松永久秀の謀反・・・荒木村重の反乱はまだ続いていました。
が、畿内の制圧を目前の信長・・・。
信康の意見を通せば、家長としての自分の立場は・・・??


1579年8月4日、信康と対面したその日、家康は信康を岡崎から20キロ離れた大浜に幽閉。
家康は、信康を処断し、信長との同盟を維持することを決断したのです。
翌日には弓・鉄砲衆を連れて、大浜に近い西尾城へ入るように家臣団に命じます。
信康と謀反を画策した重臣たちへのあからさまな威圧です。
さらに家康は、岡崎城に家臣や三河の国衆を集め、信康と連絡を取り合わないなどの起請文を提出させます。
家康は同盟相手・信長にも事の顛末の説明をするため書状を送っています。

「信康は士道不覚悟により、岡崎城から追い出しました。」

処断されたのは信康だけではなく、信康と同じく武田との内通を疑われていた正室・築山殿が家康の家臣の手で殺害されたのです。
信康は大浜から堀江、二俣城へ・・・
家康としては信長との手前、信康を処断しなければ・・・しかし、やはり親子。。。
家康と信康の関係が意思疎通を上手くすれば、自害に及ばなくても廃嫡??と考えていたのかも??

家康は、信康幽閉の一月後、武田と敵対関係にあった北条と同盟を締結。
織田・北条・徳川による武田包囲網が完成します。
武田と全面対決の姿勢を・・・!!

1579年9月15日、信康自刃!!

21歳、若すぎる死でした。

信康自害の報告をうけた家康は、黙ったままうなだれました。
信康自決後、信康を支えた岡崎重臣たちも粛正されます。

三重県桑名市・・・ここに妖刀・村正が残っています。
信康の介錯にも村正が使われたと言われています。
家康の父・広忠、家康自身、信康・・・徳川家にまつわる人が村正に関わっているので、妖刀といわれるようになりました。
信康が自害したとき、家康は語ったといいます。

「村正は、徳川家に仇成す刀である。
 今後、刀の中に村正があれば、みな取り捨てよ。」

家康が恐れた妖刀・村正・・・。

村正の妖刀伝説が長く流布されたのは、家康の信康を自害させた後悔の想いを生涯持ち続けていたからかもしれません。
そののち、家康は信康に対して固く口を閉ざして語ることはありませんでした。

30年後・・・秀忠の妻・江に対する訓戒に信康に対する家康の想いが記されています。

「信康が生れたときは、親も若く、子が珍しく、その上発育が悪く、丈夫に育ちさえすればいいと心得、気づまりになるようなことはさせず、気ままにさせておいた。
 成人になってから、急にいろいろ教育してみたが、後に親子の言い争いのようになってしまった・・・」と。

このことで、民衆や家臣の家康に対する尊敬心は増した・・・??
家康の言葉の重みが増したのです。
徳川が15代も続いたのは・・・この信康事件の後悔からの家康の子育てにあったのかもしれません。

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標高329メートルの金華山山頂にそびえる岐阜城は、織田信長が天下取りの足掛かりとした城です。
しかし、その前は、稲葉山城とよばれ、その主は美濃のマムシと恐れられた戦国大名・斎藤道三でした。
一介の油商人から大名になった下剋上の代名詞です。

11年もの長きにわたった応仁の乱・・・全国を争乱の渦に巻き込んだこの戦いは、足利幕府の権威を失墜させ、守護の力を弱めてしまいました。
そんな不安定な情勢の中、実力で下のものが上のものにとって代わる下剋上の時代がやってきました。
そこに登場したのが斎藤道三です。

道三の出自ははっきりしていませんが、京の都・山城の地侍の子として1494年に生まれました。
11歳で出家して京都・妙覚寺で修業したとされています。
しかし、その傍らで軍略書を読み、兵法を勉強していました。
武士として名をあげたい・・・野心を抑えきれずに還俗!!
油商人の入り婿となり、庄五郎と名乗ると、全国を渡り歩き活躍の場を探します。
そんな中、今日に近い交通の要所・美濃国でチャンスが訪れます。
この時、美濃を治めていたのが守護・土岐政頼。
守護である政頼は、弟である頼芸と家督相続でもめていました。
政頼には守護代に美濃の斎藤家が、頼芸には重臣の長井長弘が付き、土岐家は分裂!!

大きく揺れる土岐家・・・
道三は、商売をやめて槍の猛特訓をし、槍使いの名人となり長井長弘に仕える道三。
やがて頭角を現し、出世し、ほどなく頼芸の直臣となります。
しかし、それでは満足できない道三。
狙いは美濃の国を手に入れること。
その野望を叶えるために、次々と邪魔者を排除していきます。
まず、土岐頼芸をそそのかしてクーデターを起こし、政頼と斎藤家を追放!!
その後、自分を最初に取り立ててくれた長井長弘を殺害!!
主君である頼芸までも追放!!
僅か一代で美濃を乗っ取ってしまいました。

しかし、この一大国盗り話はウソ??

「六角承禎条書」の中に・・・
「新左衛門尉 京都妙覚寺の修行僧にて、長井弥二郎に仕える」とあります。
新左衛門尉とは、斎藤道三の父のことです。
つまり、僧侶から油商人となり、長井家の家臣となったのは道三の父親の経歴でした。
多分、頼芸を担ぎ出し、政頼を追放したのは父で・・・美濃の国盗りは、道三と父との二代でのことだったのです。
道三の資料はほとんど残されていませんが、この文書が書かれたのが道三の死後の4年後なので、信憑性があります。

父の地盤を元に、国盗りに邁進していく道三。
1533年、父・新左衛門尉 死去。
家督をついだ道三の下剋上が始まりました。
最初のターゲットは、頼芸の重臣であり、自分を取り立ててくれた長井長弘!!
長弘が道三のことを疎ましく思うようになっていたのです。
というのも、頼芸が弁の立つ道三の傀儡になりつつあったので、長弘は危機感を感じていました。
道三の調略は手が込んでおり、一説には長弘に美女をあてがい遊興に溺れさせ、政務怠慢でその信用を落としていきます。
そうしたうえで道三は頼芸に、「長弘に謀反の意あり」と、讒言!!
上意討ちの許可を取り付けて殺害!!
非情にも、かつての主で恩人の首を斬ったと言われています。
長井家を乗っ取り、居城だった稲葉山城を手に入れたのです。

さらに、追放した斎藤家の名跡を継ぎ、それ以来斎藤道三と名乗るようになりました。
実質的な美濃のNo,2となった道三は、頼芸の弟・頼満を娘婿に迎えます。
姻戚関係を結ぶことで、土岐家をも乗っ取ろうとしていたのです。
しかし、婿に入った頼満は、道三の危険性を感じており、道三の排除を画策しますが、道三に気付かれてしまいました。
頼満を毒殺!!マムシの道三なのです。
そんな道三の新しい敵となったのが、尾張・織田家!!
信長の父・信秀が、稲葉山城の道三に戦を仕掛けてきました。

織田軍の兵2万VS道三の兵数千・・・。
調略に暗殺・・・邪魔者をことごとく排除してきた道三、次なる敵は織田!!
ところが、その圧倒的な状況の中・・・
織田の軍勢は稲葉山城に詰め寄り、城下を焼き払いました。
それでも、城に籠った道三に、怖気づいたか・・・と、信秀は勝利を確信し、日暮れにいったん兵を下がらせました。
道三はこの時を待っていたのです。
買ったも同然と気が緩んだ織田軍に、奇襲をかけ、僅かな兵で勝利を収めます。
一説には、織田一族、十院など、5000の兵が討死したともいわれています。
この時道三は、織田の家臣に謀反を起こさせて兵を退かせたり、調略で勝っていくという戦略化でした。
この織田家との戦いで、土岐家に代わって道三は美濃の実権を握ったのです。

1548年、織田信秀から和睦の要請が・・・。
織田家は、道三との戦で多くの犠牲者を出し、疲弊していました。
さらに、織田信秀はこの時、今川義元とも戦っていて負けていました。
同時に二つの戦いは・・・と、手を結ぼうと思ったのが道三でした。
道三は織田との和睦を受け入れ・・・娘・濃姫を信秀の息子・信長に嫁がせようとしたのです。
この時、信長15歳でした。
帝王学を学ぶために、那古屋城の城主となり、家老・平手政秀によって養育されていましたが・・・
この頃は、大うつけとして、一族、家臣、城下のものたちにまで疎まれていました。
道三は、濃姫に短刀を渡します。
「隙あらば、信長を討て!!」と。
事実はわかりませんが、マムシの道三、織田家の乗っ取りを企てていたかも・・・??

織田家と同盟を結び、盤石な備えを築いた斎藤道三は、国盗り最後の仕上げに取り掛かります。
主君・土岐頼芸を追放し、遂に念願の美濃一国を手に入れたのです。
その矢先・・・織田信秀急死。
これによって19歳だった信長が後を継ぐこととなりますが、家臣からは不満の声が・・・
織田家当主の自覚が微塵もないうつけ者・・・。

そこで、道三は会ってみることに・・・。
これは当時としては異例のことでした。

1553年4月、場所は、美濃と尾張の境にある寺でした。
道三は対面を前に、信長が通る道沿いの小屋から信長をうかがうことに・・・。
行列を率いてやってきた信長は、髪は無造作に結び、奇抜な虎皮の袴に奇抜な着物でした。
噂通りのうつけ??
尾張を手にする日も近い・・・??
しかし、供のものは・・・6mを越える長槍を装備した兵が連なっていました。
甲陽軍鑑には・・・
「信長の戦い方は、父の信秀を少しも真似ず、斎藤山城守の戦法を真似ようとしていた。」とあります。
斎藤山城守とは、道三のこと。
長槍を使った戦法は、道三が最も得意としたとされ、当時としては新しい戦法でした。
この頃の戦い方は、大将の周りには馬廻が、その周りには防御役の足軽が導入され始めていました。
しかし、足軽の武器は様々で、防御に不向きです。
そこで、彼らに長槍を持たせ、防御(槍衾)としたのです。
信長はこの道三の戦法を真似ることで、新しい時代に対応したのです。
そしてさらに・・・鉄砲隊!!
信長は、500挺近い鉄砲を携えてやってきたのです。

いよいよ対面・・・!!
対面の場に後れてやってきた道三はわが目を疑います。
信長はいつの間には髪を結い直し、正装に着替えていたのです。
キチンと挨拶をする信長・・・。
平然と信長と杯を交わす道三・・・道三の目に、信長はどのように映ったのでしょうか?

「どう見ても、信長殿は阿呆でございますなぁ」by家臣
「だから無念なのだ。
 この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の家臣となるであろうよ。」by道三

道三は、このただ一度の対面で、信長がただ者ではないと気づいたのです。
既成の秩序を壊す改革者として・・・!!
この時、道三60歳、信長はまだ20歳でした。
同盟関係以上の強い絆で結ばれることとなる二人です。

翌年・・・今川義元が尾張を我が物にしようと侵攻を始めました。
これを食い止めるために出陣しようとした信長、しかし、留守中に那古屋城が攻められることは必至!!
そこで、同盟相手であり舅の道三に助けを求めます。
道三はこれに応じ、重臣・安藤守就を尾張に派遣します。
信長がこの戦に負ければ、道三は尾張を攻め、奪うつもりだったと言います。
ところが、その考えを変える出来事が・・・それは、信長の行動でした。
信長は、安藤の援軍が来ると、本拠地である那古屋城近くに陣を張らせ、那古屋城を預けたのです。
自分の本拠地の城を預ける・・・??
それは、道三との信頼関係を内外に示すためのものでした。
城を出た信長は、今川軍の砦に急いで向かいます。
最新鋭の鉄砲隊と共に信長も前線で戦い、今川軍を僅か1日で撃退!!
美濃へ戻った安藤は、他国の援軍に城を預ける信長の大胆さと、その巧みな戦いぶりの一部始終を道三に報告します。
「敵にすれば、信長ほど恐ろしい武将はおるまい・・・!!」by道三
こうして、道三は織田の領地を奪うことより、信長との関係を強固なものにする道を選んだのです。

しかし・・・これがマムシの道三の足元をすくうことに・・・!!

1554年、美濃国を手に入れてからわずか数年で、長男・義龍に家督を譲ります。
稲葉山城を離れ、鷺山城に入って隠居。
しかし、その翌年、事件が起こります。
病を装い床に臥せていた義龍が、二人の弟たちを殺害してしまいました。
義龍の謀反に道三は激怒!!
どうして息子・義龍は、道三に対して謀反を起こしたのでしょうか?

義龍の母は、道三の正室・深芳野です。
元々は、道三が追放した土岐頼芸の側室で、道三のもとに下げ渡された拝領妻でした。
一説によると、その時深芳野のお腹には頼芸の子がおり、その子が義龍だというのです。
成長して自分のことを知った義龍は、道三を恨んでいたというのですが・・・
これは創作で、別の理由がありました。
道三は、義龍に譲ったものの、ゆくゆくは次男にと思っていたのです。
義龍は、本ばかり読んでいる物静かな、道三とは正反対の息子だったからです。
道三→義龍への家督交代は、家臣たちによって強制的になされていました。
道三によって戦いに明け暮れていた美濃国内は、疲弊しきっていました。
国を治めるという面では、道三は優秀ではなかったのかもしれません。
国内には、まだまだ土岐家の勢力が残っており、その勢力をなだめるための家督交代だったのです。
ゆくゆくは次男に家督を・・・それを義龍は察していたようです。
それ以外にも、道三が信長に肩入れしているということに、義龍も不満を持っていたようです。

義龍の謀反に激怒した道三は、兵を挙げます。
長良川を挟んで対峙する両軍!!
知らせを受けた信長は、道三を助けるべく美濃へ・・・!!

1556年4月20日、長良川の戦い!!
およそ1万7000の義龍軍に対し、道三は僅か2000!!
この時点では、道三は隠居しているので、道三を支持する者はほとんどおらず、まるで道三が反乱軍のようになってしまいました。
道三危うし!!の知らせを受けた信長は急ぎ美濃へ・・・!!
しかし、その途中、義龍の別動隊に行く手を阻まれてしまいます。
突破を試みるも苦戦!!
そこへ知らせが・・・!!
斎藤道三討死!!63歳、無念の死でした。

義龍との決戦前夜、遺言状を認めていました。

「美濃国も、ついに織田信長の想いのままに任せるほかはないので、譲状を送りつかわした次第である。」

道三は、後継者に信長を指名していました。

すべては夢のようだ・・・
終の住処はどこになるのだろうか

道三は死を覚悟していました。
野心のままに非情な裏切りと謀略を繰り返し、下剋上によって一国を手に入れた・・・そんな人生を夢のようだと振り返り、そののちは安らかではないこともわかっていました。
道三の死から11年、信長は道三の遺言状を大義名分として美濃を攻め、斎藤家を倒し美濃国を手に入れます。
稲葉山城に入るとその名を岐阜城と改めました。
この時から信長は命令書に「天下布武」の印を使うようになります。
信長はこの美濃から天下統一へと歩み出したのです。

道三が託した男に間違いはなかったのです。



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時は戦国時代、真紅の幟をはためかせ、朱色に染め上げられたそろいの甲冑・・・
大将自ら突進し、命知らずと恐れられた最強の軍団・・・
人呼んで、”井伊の赤備え”!!
率いたのは、赤鬼の異名を持つ井伊直政です。
井伊直政は、井伊直虎を叔母に持ち、徳川家康の天下取りに貢献しました。
徳川四天王のひとりとして名を馳せました。
そんな壮絶な井伊直政の一生とは・・・??

静岡県浜松市北部にある引佐町・・・かつて井伊谷と呼ばれ、今川家配下にあった井伊家が代々この地を治めていました。
井伊家は、直虎の時代に領地を失い、一族滅亡の危機に瀕します。
直虎唯一の井伊家の希望の星は、直政でした。
直政は、1561年に父・直親と母・ひよの間に生まれました。
直政の父である直親は、本家に養子に入り、直虎とは兄弟関係にありました。
つまり、系図上、直虎と直政は叔母・甥の関係にありました。
そんな井伊家に大きな試練が・・・
井伊家が仕える今川家は、当時は海道一の弓取りと恐れられていました。
しかし、桶狭間の戦いで義元は自刃し、息子の氏真が後を継いだばかりでした。
甲斐の武田信玄や、三河の徳川家康がそこを虎視眈々と狙っていました。
今川家の将来に不安を抱いた直政の父・直親は、今川から独立したばかりの家康に近づきますが・・・その動きを今川に気付かれて殺されてしまいました。
28歳でした。

井伊谷の直接支配を目論む氏真は、直親の子で2歳だった虎松=直政の命も狙います。
この時は、今川家の家臣・新野親矩の嘆願によって命拾いしますが・・・後ろ盾だった新野が戦いで2年後に死亡。
そんな直政の後見人となったのが、叔母の直虎でした。

1568年直政8歳の時、今川家が井伊家の領地を没収、滅亡の危機に・・・
続いて武田信玄と、徳川家康が今川の領地に侵攻・・・
井伊谷にまで戦火が及んできました。
再び命の危険を感じた直政は、つてを頼って奥三河の山麓に身を寄せました。
鳳来寺山・・・1425段もある石段を登りきると・・・1300年以上の歴史を持つ鳳来寺があります。
戦火を逃れてきた直政は、ここで14歳までの7年間を過ごしました。

どうして鳳来寺だったのでしょうか??
寺院は殺生禁断、治外法権の場・・・武力勢力の踏み込めない場・・・
そして、学びの場であり、僧兵による技術の訓練を受けることができました。
何より井伊谷に近い・・・!!
直政はこの寺で、幅広い知識を身に着け、技を磨いていきました。
いつの日か井伊家を再興する為に・・・!!

今川家が信玄と家康に攻められて滅亡・・・領地と主君を失った井伊も風前の灯・・・
そこで直虎は、一族の再興を図るべく、行動を起こしました。
それは、寺に預けられていた直政を連れ戻し、当主にする道筋を立てること・・・。
直政の母・ひよを再婚させます。
相手は、家康の家臣だった松下源太郎です。
直政に井伊を名乗らせるのは危険だったので、直政を養子とし、井伊姓から松下姓に変えたのです。
そして直政の身辺警護も・・・!!
1574年14歳の直政は、父・直親の13回忌の法要を口実に井伊に戻ってきました。
直政に井伊家再興が託されました。

直政をどの戦国大名に仕えさせればいいのか・・・??

武田家は信玄が急死、勝頼が後を継いでいました。
徳川家康はまだ30代・・・三河から井伊谷のある遠江に進出していました。
三方が原の戦いで、武田軍に大敗・・・未知数でした。
しかし、家康を選んだ直虎・・・

直政の父・直親が家康に近づこうとしていたこと、松下源太郎から家康のことを聞き知っていたこと。。。

そこから家康を選びました。


徳川実記には・・・
1575年、家康が井伊谷まで鷹狩りにやってくることに・・・
一行が街道を歩いていると、真っ新の着物を着た少年が道端でひれ伏していました。
叔母直虎が、少しでも目立つように、新調した小袖を着せていたのです。
家康も立ち止まり、顔を上げた直政を見た家康は・・・
「面魂が尋常ではない。」と・・・。
「この地を治めていた井伊の孤児でございます。」byお付きの人
「我についてまいれ!!」by家康

こうして直政は、15歳にして家康に召し抱えられることとなるのです。

家康と内通したことによって、直政の父・直親が今川に某殺されたことを知っていて、自責の念があったこと。。。
築山殿の母は、井伊谷出身であったこと。。。
家康としては直政に身内のような感情を抱いていたのかもしれません。

15歳で家康に仕えることとなった井伊直政・・・
異例のスピードで出世していきます。
そのようにして、家康の信頼を勝ち取っていったのでしょうか?

1575年、甲斐・武田と争った遠江芝原の戦いが直政の初陣となりました。
家康の世話役として本陣に詰めていた直政。
夜半を過ぎた頃、武田の手の者が忍び込み、家康の寝首を欠こうとしました。
間一髪で、直政が討ち取りました。

1582年の神君伊賀越えでは・・・
本能寺の変が起きたとき、織田信長と同盟を結んでいた家康は大坂にいました。
追っ手から逃れるために、伊賀を抜け三河に・・・。
直政は、身を挺して家康を守り抜きます。

徳川家臣団・・・三河武士ばかりの中、外様の自分がどうやって忠義を表せばいいのか・・・??
その忠義に家康も応えます。
神君伊賀越えでの功を称え、「孔雀尾具足陣羽織」を与えます。

ところが家康の直政の可愛がりように・・・
家康と直政が衆道ではないのか??とまで噂されたといいます。

一気に出世していく直政・・・。
1582年天正壬午の乱・・・徳川と北条氏直との戦いで・・・
徳川軍8000VS北条軍4万!!
不利な徳川軍は、長期戦持ち込みます。
すると北条に行っていた武田の旧家臣たちが徳川に寝返っていきます。
遂には形勢が逆転!!
北条は和睦を申し入れ、甲斐と信濃は家康の手に落ちました。
この勝利の陰に、直政の活躍がありました。
直政の外交力・・・武田の旧家臣たちに書状を送り、本領安堵を約束し、彼らを取り込みます。
北条との交渉では・・・21歳にもかかわらず、交渉に臨み、どうどうと渡り合ったといいます。

その後、召し抱えることとなった武田の旧家臣たちを直政の配下に・・・。
武田の旧家臣を直政のもとに置いた家康の狙いとは・・・??
武田と徳川は、2代にわたっての宿敵でした。
皆には遺恨があったかもしれませんが、直政には遺恨がなかったので、上手くやっていけるのでは・・・??と思ったのです。

「武具、甲冑、全て赤にせよ!!」by家康

旧武田軍の中で、もっとも恐れられていたのは、赤備えと呼ばれた精鋭部隊でした。
当時、赤い甲冑は、特別な武勲をあげたものだけに許されていました。
その赤を、あえて身に着けさせることで、部隊の士気を上げようとしました。
こうして、武田の赤備えが井伊の赤備えに生まれ変わり、徳川一の精鋭部隊となったのです。

しかし・・・これが、徳川家臣団の中に不協和音を呼んできます。
やっかみと嫉妬の対象に・・・
直政にできることは、戦で証明し、譜代の家臣を黙らせること・・・
そのチャンスがやってきました。

1584年小牧・長久手の戦い勃発!!
信長の孫・三法師を擁する秀吉と、次男・信雄についた家康が対立!!
それは、後の天下取りを左右する大事な戦いでした。
先陣を任されたのは、井伊の赤備え!!
直政は、旧武田の兵を含む2000の兵を率いて、秀吉軍に襲い掛かります。
その時!!直政は対象であるにもかかわらず、先頭で敵方に突っ込んでいったのです。
すると、大将を死なせるわけにはいかないと、赤備えが・・・!!
直政は、一番首をとる活躍を・・・!!
それを見た秀吉は、「赤鬼!!」と、恐れおののいたといいます。
井伊の赤備えの鮮烈なデビューでした。
この常識破りの行動は・・・
武田の遺臣を任され、同僚の嫉妬、やっかみを黙らせるために、目立った手柄をあげる必要があり・・・旧武田の家臣団には、リーダーとしての気概を見せる必要があったのです。

小牧・長久手の戦いによって、家康から6万石を拝領。
かつて井伊が持っていた井伊谷の領地でした。
この時、25歳となっていました。

秀吉からヘッドハンティングされる直政・・・
しかし、直政は、自分を引き立ててくれ、お家を再興させてくれた家康に忠義を貫きます。
秀吉の命によって家康が関東に移されたときには、もっとも石高の大きい上野国12万石を拝領し、徳川筆頭家臣に・・・家康の四男・松平忠吉を娘婿に迎えます。
家康との結びつきをさらに強固なものに・・・!!
そして、家康の天下統一のために東奔西走します。
天下分け目の関ケ原に向けて・・・!!

豊臣秀吉は、幼い秀頼を残してこの世を去ります。
ようやく家康に天下のチャンスが巡ってきたのです。
徳川派と、反徳川(石田)派が対立する中、直政はその外交力で、豊臣恩顧の武将たちを徳川になびかせるために奔走します。
1600年6月・・・家康は敵対する上杉景勝を討つために会津征伐へと出陣!!
そのすきに、三成が反家康の狼煙を上げたのです。
家康軍はこの時、下野国、小山にいました。
景勝を討つべきか、三成を討つべきか・・・!!
直政は進言します。
「速やかに味方を上方に進め、天下を一つに定めるべきと存じます!!」by直政
家康は、三成との全面対決を決意!!
秀忠は中山道ルートで、直政は家康の名代として豊臣恩顧の大名たちを引き連れて東海道ルートで・・・!!
9月15日、関ケ原の戦い!!
東軍と西軍が対峙!!
前日に家康も到着しているというのに、秀忠は未だ到着しておらず・・・!!
真田に行く手を阻まれて、非常事態に・・・!!

大きな不安を抱えたまま、決戦に臨むことになった家康。
東軍の先陣を任されたのは、豊臣恩顧の武将・福島正則!!
後方にいた直政は、娘婿の松平忠吉と兵を引き連れて、福島隊の前へ・・・。

「今日は忠吉殿の初陣であるから、戦を学ぶため敵陣を見にいくだけじゃ。」by直政

が・・・鉄砲隊に号令をかけ、自ら敵陣へ・・・!!

直政は抜け駆けしてしまったのです。
これは重大な軍法違反でした。

「先手の差越しは、軍法に背く。
 行ったものは成敗する。」by家康

直政としては、徳川が先陣を切ったという既成事実が欲しかったようです。
徳川の力で戦いに勝った!!と。。。

直政の抜け駆けによって火ぶたが切られた関ケ原の戦い・・・。
一進一退の攻防の中、西軍の二人の武将が寝返ります。
一人は吉川広家!!
南宮山にいた毛利軍3万を足止めにしました。
もう一人は松尾山に陣取っていた小早川秀秋。
戦が始まって4時間後、味方である西軍にいきなり襲い掛かりました。
これをきっかけに一気に東軍優勢!!
この二人の行動の裏には、直政の影が・・・
事前に盟友・黒田長政を通じて寝返るように説得していました。

戦いが始まってから6時間後、東軍勝利が確定!!
ところが、直政を悲劇が襲います。
西軍の島津義弘の軍勢が、家康の本陣に突撃してきたのです。
敵中突破を図る”島津の退き口”です。
殆どの武将たちが島津に道をあける中、直政は・・・徳川の名に傷がつくと追撃・・・
直政は鉄砲で撃たれ、重傷を負ってしまいました。
怪我を負いながら家康の陣に戻った直政は、真っ先に松平忠吉の手柄を報告したと言います。
軍旗違反のリスクを犯しながら、忠吉に殊勲の機会を作り、命がけで徳川のために戦い抜いた直政に、労をねぎらう家康。。。

戦が終わっても、直政には多くの仕事が残っていました。
関ケ原の戦いでの西軍の武将たちの処遇です。
他の家臣たちが厳しい態度で臨む中、直政は敵として戦った武将たちの話を聞き、家康との交渉に粘り強く接します。
西軍の総大将・毛利輝元は、全ての所領を没収されるはずでしたが、120万石から30万石の減俸で済みました。
石田三成に対しても、処刑される直前まで手厚く面倒を見ました。
遺恨を残さないことが、徳川の安泰をもたらすと考えていたのです。
そして、直政自身は、近江国・佐和山18万石(彦根)を拝領。
その場所は、江戸に本拠を置く徳川に代わって、西国大名を見張る重要な拠点でした。
家康はその役目を全幅の信頼を置く直政に任せます。

が・・・2年後、直政は、関ケ原の傷が元で、42歳でその生涯を終えることとなるのです。
直政の死後、井伊家は、譜代大名筆頭となり、桜田門外の変でおなじみの井伊直弼をはじめ、大老を5人も排出。
直政は、徳川になくてはならない井伊家の礎を築いたのです。

「成敗利鈍に至りては 明の能く逆め賭るに非ざるなり」by直政

家康への義を尽くし、筆頭家臣にまで上り詰めた直政の人生は苦難の連続でした。
しかし、ひるむことなく突き進むチャレンジ精神こそが、名将と呼ばれる所以なのではないでしょうか?


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