日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:今川義元

疾きこと風の如く 
   徐かなること林の如く 
侵掠すること火の如く
   動かざること山の如し

風林火山の旗を掲げ、戦国最強ともいわれる武将・武田信玄
生涯60戦以上してわずか2敗。
圧倒的な強さの裏に、人知れぬ苦しみが隠されていました。
人呼んで”甲斐の虎!!”
騎馬軍団を率いて、颯爽と戦場を駆け巡った信玄。
織田信長も畏れたといわれるお馴染みの信玄の姿・・・
singen

しかし、近年の研究によると、きゃしゃな体つきにほっそりとした顔、この肖像画が本物の信玄とされています。
豪胆なイメージと違い、常にストレスを抱えていたという信玄。
そんな悩み多き人生を思わせる姿です。

信玄は名門・武田家の嫡男として誕生。
しかし、跡目をめぐり実の父と対立。
父を追放してしまいます。
武田家の当主となっても年上の重臣たちは言うことを聞かず、信玄は酒に溺れる日々・・・。

ようやく家臣をまとめ上げ、領地獲得に奮闘するも、上杉謙信を始め強力なライバルが立ちふさがります。
激闘を繰り返し、家臣や家族を失います。
それでも信玄は、己の野望に向かって突き進みます。

「都に武田の旗を立てる」

不治の病に侵される中、最後の遠征へ・・・!!

甲斐の虎と恐れられた武将、武田信玄。
その生涯が記された甲陽軍鑑にはこう書かれています。
20歳で実父を追放、そして武田家当主となります。
どうして父を追放したのでしょうか?
1521年、武田晴信(信玄)誕生。
父の信虎は、この地を治める大名、母は大井夫人と呼ばれる武家の娘でした。
母は竹だけの嫡男である晴信の教育に熱心でした。
幼い晴信のために僧侶を招き、和歌、兵法を学ばせたといいます。
その甲斐あって、晴信は賢い子に成長しました。

ある時、晴信は大量の蛤の貝殻を持ってこさせました。
家臣に貝殻がいくつあるか当てさせます。
家臣たちは1万とも、2万とも・・・実際は、4000個でした。
意外そうな顔をする家臣たちに晴信は言います。

「5000ほど兵がいれば、どんなことでもできる」

実際は、5000ほどしかいなくても、1万や2万に思うこともある・・・
少数の兵でもうまく使えば勝てるという意味でした。
しかし、晴信の聡明さを父は嫌ったといいます。
信虎は、一代で甲斐を平定した猛将です。
戦いに長け、家臣たちを力で従わせていました。
己の力を信じ、戦で力を発揮してきた信虎にとって、晴信は屁理屈ばかりのこしぬけに見えたのかもしれません。

ある時晴信は、信虎の持つ名馬が欲しいと願い出ました。
すると信虎は、
「若いお前があの馬に乗るのはまだ早い
 来年14歳になったら元服させる
その時に、武田家の宝物と一緒に譲るつもりだ」
しかし、晴信は、
「宝物は家督相続の時にもちろん頂戴します
 しかし馬は、今から練習しておけば父上が御出陣の際にお供をして役に立つことができます」
自分が家督を継ぐことがすでに決まっているかのようなこの物言いに、信虎は激怒!!
「そんな生意気をいうなら、武田の家督は弟の次郎に相続させる」

1536年、晴信は16歳で初陣を飾ります。
隣国・信濃での領地争いでした。
その時晴信は一計を案じました。
直ちに攻め入ろうとはせず、有利になる時を待ったのです。
晴信の狙いは、正月でした。
正月を迎えると、兵士の多くは家に帰ってしまい城は手薄になりました。
晴信は楽々と城攻めに成功!!
意気揚々と引き上げ、戦果を報告した晴信・・・しかし、父は、
「から城を落としただけだ!!」
晴信の手柄を、断固として認めませんでした。

そしてある日、親子の対立を決定的にさせる出来事が起こります。
父・信虎は、杯を弟に与えたのです。
兄の晴信を差し置いて、家臣たちの前で弟を武田家の跡取りとして扱ったのです。
重臣の居並ぶ前で、信玄ではなく弟の信繁に杯を渡すというのは、家督相続予定者を信玄から信繁に変えるという意思表示・・・大変重い意味がありました。
不安に苛まれる晴信・・・しかし、武田の家臣の空気は微妙に変わり始めていました。

この頃甲斐では台風や洪水などの災害が続き、人々は飢餓に苦しんでいました。
しかし、信虎は領民の救済には目もくれず、領土拡大を図って隣国との戦に明け暮れていたのです。
そのため表立って逆らえないものの大勢が不満を募らせていました。

信虎は悪逆非道であり 人民も牛馬も ともに悲しみ悩んでいる

信虎への不満が充満する中、ある人物が晴信を訪れます。
重臣・板垣信方です。
板垣は、晴信を幼いころから教育した武田家の重臣で晴信を誰よりも知る人物です。
板垣は晴信に進言します。

「信虎様には、速やかにご隠居いただき、あなた様に跡を継いでいただくことが、一番の得策にございます」

この自分が父を隠居させるとは・・・親への忠義に反する行為・・・迷った挙句に晴信は、

「困窮する民を救いたい」

と、自分のためではなくあくまでも甲斐のために動こう・・・晴信は密かにクーデターを決意しました。

1541年、20歳の時、絶好の機会が訪れます。
父・信虎が、駿河の今川義元をたずね、甲斐を留守にしたのです。
もともと武田家と今川家は、領地を争う敵同士でした。
しかし、今川と戦うのは不利と考えた信虎は、関係改善を図ります。
今川義元の紹介した娘を晴信の正妻とします。
これが功を奏し、武田と今川は後に同盟を結ぶこととなりました。
信虎は駿河を訪問したのは今川との親睦を深めるためでした。
この機を逃さず、晴信は甲斐と駿河の国境を封鎖!!
信虎が帰って来られないようにしました。
僅かな兵しか従えていなかった信虎は、成す術もありませんでした。
さらに晴信は今川と密約・・・信虎を隠居させて今川に置いておくというものでした。
晴信が信虎の追放に成功します。
家督を継ぎ、晴れて武田家の当主となりました。
20歳の時でした。

20歳で甲斐武田家の当主となった晴信は、それから10年、領土を2倍以上に広げます。
しかし、そこに至るまでには様々な壁、そしてそれを乗り越えるための工夫がありました。
父を追放した当初、晴信に従わない家臣が多くいました。
それは、甲斐が山国で盆地が多いことも原因でした。
当時は盆地ごとに有力な家臣が地域を治めていました。
山で遮られて、他の地域との交流が少ないため、独立心が強かったのです。
武力で従わせてきた信虎がいなくなったので、家臣たちは好き勝手に行動を始めます。

通行税を巻き上げたり、所領を配下の者に分配したり・・・

”全てのことが思うようにいかず迷惑している”
 
そんな家臣たちに嫌気がさした晴信は、責任を投げ出してしまいます。
昼夜を問わず、若い家臣や侍女を集めて酒盛りや歌会を・・・
この晴信の行いに心を痛めたのは、晴信に信虎の追放を勧めた板垣信方でした。

”信虎さまは、非道の行いが過ぎた故追放されました
 今のお館様は、あまりにも我儘勝手で信虎様よりも悪しき大将にございます
 今の言葉に腹が立ったなら、自分を斬ってください” 

当時交代したばかりの信玄政権の初期を全面的に支えていたのは板垣でした。
板垣に対する信頼感は、たいへん高かったのです。
板垣の言葉に心を打たれた晴信は、家臣たちに自分をリーダーと認めさせるには、行動しかない・・・
戦場にその身を投じていきます。

晴信は諏訪の攻略に・・・この地を守る諏訪大社の庇護が欲しかったのだといわれています。
諏訪大社は、諸国に知られた戦神・・・武将たちは、この諏訪大社に対する信仰を持っている人が多くいました。
諏訪大社を保護し、盛り立てていく・・・そういう権力なんだと内外に示すことで、影響力を強めようとしたのです。

自らの正当性を強調する一方、晴信は家臣の意見に耳を傾けることにも熱心でした。
領内の政策や戦の方針など、独断をやめて合議制にします。
家臣の働きをつぶさに観察し、功績をあげたものには即座に褒美を与えました。
晴信は、戦の最中でも様々な褒美を与えていたといいます。
中でも大きな役割を果たしていたのが金・・・甲州金です。
戦功をあげたものには、金の粒を三すくい与えたという記録が残っています。
これは、金山開発が盛んだった甲斐ならではの恩賞でした。
山が多く、平地の少ない甲斐では、土地以外の褒美が必要だったので、信玄が編み出した工夫でした。

さらに、領国経営でも画期的な工夫を・・・
「甲州法度之次第」と呼ばれる法律を制定します。
法度では、年貢のルールを正確にし、役人などの横暴を取り締まります。
そして身分を問わず、法の下の平等を打ち出しました。

”この晴信自身が法度に背くことがあれば、責賎を選ばず、誰でも届け出てよい
 その時は責任をとる”

自分の制定した戦国法が、自分自身にも適用される・・・
そういった法は他にはありません。
信玄が制定した甲州法度が唯一無二のものです。

武田二十四将図・・・
二十四将と言うからには24人家臣がいるはずですが、23人・・・
つまり、晴信自身も24将の一人に数えられています。
トップダウンだけではなく、時には家臣と対等に・・・若きリーダーの姿がそこにはありました。
こうして家臣たちの信頼を築きながら、晴信は北へ領地を拡大を目指します。
目標は信濃国の完全掌握でした。
信濃侵攻を開始した武田軍は、破竹の勢いで敵を打ち破ります。

1548年、27歳の時信濃の1/4を配下に治めます。
しかし、行く手に強敵が・・・!!
北信濃の武将・村上義清です。
連勝を重ねてきた武田軍は、迷わず城を攻撃!!
ところが、城の守りは固く激しい反撃にあいます。
さらに別動隊に後ろに回り込まれ挟み撃ちに・・・!!
この戦で、幼いころから晴信を支えた重臣・板垣信方が討ち死に・・・!!
5000人ともいわれる戦死者を出し、武田軍は惨敗しました。
敗戦から2か月後、体勢を立て直した武田軍は3度の戦いの末、村上を破ります。
板垣信方亡き後、晴信はその恩を忘れず板垣家を重用。
板垣家は主を変えて江戸時代も続き、明治維新を迎えたといわれています。
こうして晴信は、甲斐と信濃をほぼ手中に治めました。
32歳でした。

武田晴信は40歳を前に出家し、武田信玄となります。
その頃、信玄のもとには、一騎当千の兵どもが揃っていました。
高坂昌信、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀・・・武田四天王といわれる武将を従えて、信玄は戦場を駆け巡りました。
若き日に信玄と戦った三河の徳川家康・・・後にこう語っています。

「今の世に信玄ほどの武将は他にいない」

どうして武田軍は最強と呼ばれたのでしょうか?

「人は城 人は石垣 情けは味方 仇は敵なり」

武田の強さの秘密は、その人材活用術にありました。
武田四天王の一人、高坂昌信は16歳の時に信玄の世話係として登用されました。
しかし、農民の出身だったため読み書きが不得意で周りの者にバカにされることも多かったのですが・・・
そんなある時信玄は家臣を集めてこう言いました。

「何より大事なのは、武功・忠孝の者から話を聞くことだ 
 一日に一つ聞けば一月で三十、一年で三百六十も聞いたことになる
 去年の自分より、はるかに優れた人となる」

この教えを聞いた高坂は、以後周りの人の話をよく聞き、覚えることに愚直に取り組みました。

武田家の歴史や信玄の教えを記した第一級の資料「甲陽軍鑑」
この本は、高坂の口述筆記を元にしています。
高坂は、武田家で見聞きしたことや、信玄が行いを年下の者に伝えることで、慢心を戒め戦に役立てたといいます。
読み書きが不得意な高坂は、信玄の教えを守ることでどんな武将も及ばない立派な書物を作ることができたのです。

四天王の二人目は山県昌景。
信玄は山県をこう評しています。

「赴くところ敵なし」と。

山県が率いたのは騎馬部隊・・・
その具足の色から赤備えと呼ばれ、他国の武将から畏れられました。
元々甲斐は、馬の産地であったことから騎馬の扱いに長けた者が多かったのです。
そこで武田軍は、他国より優れた騎馬隊を組織!!
山県はその騎馬部隊を操り、敵と味方の足軽がせめぎ合うところに突入し、勝利に導いたといわれています。

武田四天王残る二人は、内藤昌秀・馬場晴信。
内藤晴信は勇猛で知られた武将でしたが欠点もありました。
戦闘に夢中になると周りが見えなくなるのです。
そこで信玄は馬場晴信と一緒に行動するように言いつけます。
馬場は冷静で状況判断に優れていたからです。
ある戦で内藤が勝ちに乗じて単独で敵を深追いしたことがありました。
それに一早く気付いた馬場は、内藤に使者を出します。
使者は馬場からの言葉を内藤に伝えました。

「このままだと危ないぞ」

内藤は、己の悪い癖である深追いに気付き、即座に兵を引いたといいます。
信玄は家臣の長所短所を見極めて、組み合わせ力を最大限に発揮させたのです。

さらに、戦の役に立たない家臣でも、貴重な戦力にしました。
岩間大蔵左衛門は、武田軍団一の臆病者と言われていました。
戦に行きたくないと嫌がり、合戦では目を回して卒倒・・・
味方からも不満が絶えませんでした。
そんな不満を耳にした信玄は一計を案じ、岩間にこう言います。

「これからは家中のどんな些細なことでも知らせよ
 もし報告を怠ったら、斬る」

家臣たちの動向を知らせる目付けに任命しました。
岩間は殺されてはたまらないと、家中で少しでも不穏な動きがあれば逐一信玄に報告しました。
おかげで信玄は、家臣の活躍や評価を正確に行うことができ、家臣たちの不満は減っていきます。

そんな武田軍団でも苦戦した敵がいました。
越後の龍として恐れられた上杉謙信です。
謙信と信玄が相対した川中島の合戦・・・
信濃と越後の国境で、信玄が32歳の時から足掛け12年、実に5回も繰り広げられました。
しかしこの戦、信玄は地理的に不利でした。
戦場の川中島まで謙信の城からはおよそ50キロ、対して信玄の城からは100キロも離れた甲府から出陣します。
そこで、戦いの拠点として新たに築いたのが川中島に近い海津城です。
四天王の一人・高坂昌信を配して合戦に備えます。
さらに、領内に狼煙台を数多く配置、見張りが敵を発見すると狼煙をリレーして連絡し、信玄が素早く出陣できるようにしました。

1561年、信玄40歳の時、謙信と最も激しい戦いの第4次川中島の戦いを繰り広げます。
この時謙信は、信玄の先手を取って武田の陣地の目の前にある妻女山に陣取ります。
知らせを受けた信玄は海津城に急行。
武田軍は家臣全員が出陣し、総力戦の構えをとりました。
霧が立ち込める中、信玄は武田軍を二つに分け、妻女山の上杉軍を挟み撃ちにする作戦をとりました。
ところが上杉軍はこの作戦を見抜いて、密かに下山・・・。
濃い霧に紛れて布陣・・・そして霧が晴れた瞬間、準備万端の上杉軍が信玄に襲い掛かってきました。
不意を突かれた武田軍は大混乱・・・
上杉軍は武田の本陣にまで迫ってきました。
危うし・・・信玄・・・
その時、武田の別動隊がようやく現場に駆け付けます。
形勢逆転、信玄は何とか上杉の猛攻を退けました。
その後も川を挟んで二人はにらみ合いを続けましたが、とうとう決着はつきませんでした。

川中島の戦いの後、信玄には新たな野望が芽生えます。
近年見つかった資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と書かれています。
どうして都を目指したのでしょうか??

1554年、33歳の時信玄は北方の上杉謙信との戦いに備えてある策を講じていました。
南の駿河国・今川氏、東の相模国・北条氏と三国同盟を組んだのです。
同盟の保証としてそれぞれの当主の嫡男にそれぞれの姫を嫁がせるという政略結婚が行われ、三国は血縁関係となりました。
しかし6年後の1569年、39歳の時にこの同盟に亀裂が入る大事件が起こります。
桶狭間の戦いです。
尾張の小大名だった織田信長が、今川義元を奇襲し破りました。
当主が亡くなったことで今川の力が弱まっていくことは明らかでした。
これを好機と見た信玄は、同盟を無視して今川攻めの準備を始めます。
駿河には港と京につながる東海道がある・・・
どうしても欲しかったのです。

しかし、武田の家中で今川攻めに反対する者がいました。
信玄の長男・義信です。
義信の妻は、三国同盟の時に今川から迎えた義元の娘でした。
妻の実家だったのです。
今川攻めを巡って、親子は激しく対立します。
義信は信玄の暗殺を企てます。
しかし、企てはすぐに発覚し、信玄は慶喜を幽閉、その後、義信は非業の死を遂げました。

信玄は義信をかわいがり、後継者として期待をして育てていました。
しかし、義信事件となったのは、政治家としての信玄は家庭人としての顔を捨てざるを得ない・・・信玄の深い悲しみと苦悩がありました。

1568年、47歳で駿河に侵攻。
武田軍は順調に進み、翌年には駿河国を制圧します。
しかし、密かに病魔が忍び寄っていました。
駿河侵攻を始めて3年・・・50歳を超えた頃には体調が悪化し、床にふせることが多くなってきていました。

「膈という病気だと言われた」

膈とは、胃がんと考えられています。
信玄は死期が近づいてきていることを悟りました。
それでも信玄は野望を抱いていました。
2018年に発見された新資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と。
余命があまりないかもしれないという状況の中で、足利義昭と一緒に室町幕府体制を支えながら上洛を遂げて、天下の運営に携わりたいという気持ちがあったのです。

1572年12月、52歳で信玄挙兵。
病を押して京へ・・・。
隣国の遠江に攻め入った信玄・・・行く手を遮ろうとした徳川家康を三方ヶ原の戦いで一蹴、さらに西へ急ぎました。
翌月には三河の野田城を攻略、いよいよ最大の難敵・・・尾張の織田信長との対決が迫っていました。
しかし・・・口の中にできものができ、歯が5,6本抜けて次第に衰弱していきます。
もはや、死脈を打つ状態となったので覚悟をします。
信玄は遂に甲斐への帰路につきました。
その道中、遺言を残しています。

「自分の死を3年の間秘すこと」

信玄は自分の死を敵に悟られないように入念な準備をしました。
その一つが白紙の手紙・・・
信玄は、自分の花押だけの手紙を800枚余り用意しました。
信玄の手紙を出すことで、生きているように見せかけようとしたのです。

1573年4月12日、ふるさと甲斐への道半ばで信玄は息を引き取りました。
52歳の生涯でした。

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来年の大河ドラマは、「麒麟がくる」です。
今年は歴史ものではないので、ただ単に楽しく大河ドラマを見ることにした私。
でも、「いだてん」も、楽しく見させてもらっています。

来年は、戦国時代ということで、心が躍ります~~!!
しかも、明智光秀ってことで、気になってるんです!!

主人公の明智光秀は長谷川博己さんです。

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長谷川博己さんと言えば・・・

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「八重の桜」の川崎尚之助を思い出します~~!!
個人的にはちょっと華がないかなあ・・・とも思うんですが、この大河で化けてもらいましょう!!

NHKさんによると・・・

「麒麟がくる」は、大河ドラマの原点に戻り、戦国初期の群雄割拠の戦乱のなか、各地の英傑たちが天下を狙って、命をかけ愛をかけ戦う、戦国のビギニングにして「一大叙事詩」です。

脚本は、第29作「太平記」を手がけた池端俊策のオリジナル。
大河ドラマとしては初めて智将・明智光秀を主役とし、その謎めいた前半生にも光があてられます。物語は、1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」であった時代から始まり、丹念にそれぞれの誕生を描いていきます。

若き明智光秀、織田信長、斎藤道三、今川義元、そして秀吉が、家康が、所狭しと駆け巡る…
「麒麟がくる」―新たな時代の大河ドラマの始まりです。

そして、NHKで放送されるオリジナルストーリーということになります!!

王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣、麒麟。
応仁の乱後の荒廃した世を立て直し、民を飢えや戦乱の苦しみから
解放してくれるのは、誰なのか・・・
そして、麒麟はいつ、来るのか?
若き頃、下剋上の代名詞・美濃の斎藤道三を主君として
勇猛果敢に戦場をかけぬけ、その教えを胸に、やがて織田信長の盟友となり、
多くの群雄と天下をめぐって争う智将・明智光秀。
「麒麟がくる」では謎めいた光秀の前半生に光を当て、彼の生涯を中心に、
戦国の英傑たちの運命の行く末を描きます。
従来の価値観が崩壊し、新たな道を模索する現代の多くの日本人に向けて、
同じように未来が見えなかった16世紀の混迷の中で、
懸命に希望の光を追い求めた光秀と数多くの英傑たちの青春の志を、
エネルギッシュな群像劇として描き、
2020年、新たな時代を迎えるすべての日本人に希望と勇気の物語をお届けします。
明智光秀とはいったい何者なのか?
麒麟は一体、どの英雄の頭上に現れるのか・・・
今、すべてが、始まる──


タイトルの「麒麟(きりん)」は、王が仁のある政治を行う時に頭上に現れるとされる中国の伝説の霊獣・・・
その麒麟が明智光秀なのか・・・??
ということです。

私は信長は、外様の光秀と秀吉をとっても評価していて・・・でも、秀吉は絶対に家臣だと思っていただろうけど、光秀は自分に持っていない品格を持ち、都ともつながりがあると・・・家臣だけど一目置いていたと思います。
そんな光秀だからこそ、信長を天下人にするわけにはいかなかったのかも・・・??
今までの大河では、謀反人としての光秀が書かれてきましたが、本当の光秀・・・家族思いで、家臣思いで、領民思いという非の打ち所のない光秀がやってくるのかもしれません。

とにかく楽しみですね~~!!


「明智光秀が築いた京の奥座敷 亀岡の城下町」はこちら
「明智光秀・本能寺への葛藤」はこちら
「悲劇!二君に仕えた男~明智光秀~」はこちら
「光秀VS秀吉 信長はどちらを評価?」はこちら
「明智光秀~"天下の謀反人"の真実~」はこちら
「新説・山崎の戦い~なぜ光秀は天下をとれなかったのか?~」はこちら

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感想(4件)



群雄割拠の戦国時代、並み居る強敵を退けて天下統一に王手をかけたのが織田信長です。
しかし、その戦績を見ると・・・
上杉謙信・・・64勝8敗36分
武田信玄・・・54勝6敗22分
織田信長・・・151勝42敗9分
と、負け戦が多いのです。

どうして信長は戦国の世を征することができたのでしょうか??
その理由は旗印にありました。
描かれているのは・・・「永楽通宝」・・・どうしてお金を旗印にしたのでしょうか??
それは、銭の力で天下を取る・・・信長の圧倒的な力は経済力だったのです。

1559年尾張国を平定した織田信長は、桶狭間の戦いで駿河・遠江を支配する今川義元に勝利し、天下に名をとどろかせます。
その勢いはとどまることを知らず、美濃の斎藤龍興を責め難攻不落と言われた稲葉山城を制圧!!
岐阜城と改めて新しい居城としました。
天下統一に邁進する信長・・・この時34歳!!
しかし、まだまだ並の大名にすぎず、武田信玄や上杉謙信の足元にも及びませんでした。

1568年、室町幕府の再興を願う足利義昭から支援を要請された信長は、義昭を擁して上洛。
6万もの兵を以て京を制圧し、義昭を15代将軍に就任させます。
大いに喜んだ義昭は、褒美をとらせることに・・・

「此度の礼として畿内5か国の管領に任ぜよう」by義昭

信長にとっては大変な出世でしたが・・・「身に余ること」と辞退してしまいました。

義昭は・・・「管領で不足ならば、副将軍ではどうじゃ」

それでも信長は首を縦に振りません。
何が欲しいのか・・・??

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にすることで・・・義昭はそれをあっさりと認めました。
どうして信長は副将軍の座より3つの町を選んだのでしょうか??

足利将軍に取り入れられることを拒否し、銭の力で天下統一を果たそうとするマネー戦略の一つでした。

信長のマネー戦略①地位より港町
堺は、日本最大級の港町で、物流の拠点でした。
日明貿易や南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに発展。
それは、京都をもしのぐ繁栄と言われ、フランシスコ・ザビエルは
「日本の殆どの富がここに集まっている」と言っています。
一方、大津と草津は、琵琶湖水運港町でした。
当時、京都と日本海を行き来するためには、琵琶湖水運で船を使うのが一般的でした。
そのため、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が、義昭に所望した場所は、いずれも物流の拠点となる港町でした。
当時は、船の積み荷に関税を課していました。
大きな港となれば、莫大な関税収入を得ることができました。
これが、信長の軍資金となりました。
越後の上杉謙信の場合、柏崎港と直江津港からの関税収入は、年間4万貫・・・約60億円でした。
堺や大津などは、莫大になったでしょう。
副将軍より三つの町を選んだ理由は、港町からの莫大な税収を、軍資金にして天下を取るためでした。

1534年、信長は尾張国守護代重臣の織田信秀の長男として生まれます。
守護代とは、守護大名を補佐する立場で、尾張には二人いました。
信秀は、その守護代のひとりに仕える重臣のひとりにすぎませんでした。
信長が生まれた頃から急激に勢力をつけていきます。
そこには圧倒的な経済力がありました。
信秀は、勝幡城近くにある津島近くの港町を支配下に置いていました。
木曽川沿いの津島は、伊勢湾水運の要所で、多くの船が出入りしていました。
信秀は、ここに出入りする船に関税をかけ、莫大な収入を得ていました。
さらに信長が生まれた年には古渡城を築城、それによって伊勢湾水運によって栄えていた熱田湊の関税収入を手に入れます。
すると信秀は、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費のために700貫(1億円)を献上。
四千貫(6億円)を京都御所の修理に献上。
圧倒的な経済力を相手に見せつけることで圧倒!!
ついに、尾張国の実質的支配者となるのです。
そんな父を見て育った信長は、「武力に勝るものがある」ことを、知っていたのです。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った翌日、信長は清須城で論功行賞を行いました。
真っ先に一番槍をつけた服部春安か、一番首の毛利良勝が一番手柄だろうと考えていました。
ところが、信長が一番の褒美を与えたのは戦場では目立った活躍もしていない簗田政綱でした。
簗田は信長への情報提供・・・戦った武将たちよりも情報を届けた簗田の方が手柄が上だと考えたからです。
戦国の世に置いて、武力だけにとらわれない信長は、革新的な経済政策を打ち立てていきます。

信長のマネー戦略②楽市楽座

美濃国の戦国大名・斎藤龍興を退けて岐阜城に入った信長は、1568年に岐阜城下に「楽市楽座令」を発布します。
「市の独占、座の特権は全く認めない」
市=商売を行う場所のこと。
当時は、定められた市でしか商売ができず、一の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人たちは寺子銭(場所代)を払わなければなりませんでした。
座=商品の独占販売権を持つ同業者組合のこと。
商人たちはどこかの座に所属しなければ商売ができませんでした。
座を保護している公家や寺社に冥加金(売上税)を払わなければなりませんでした。
信長はこれらを自由化してどこでも商売ができるようにし、以前よりも安く設定した売上税のみを信長側に支払うように命じました。

楽父楽座は、南近江の戦国大名・六角義賢が観音寺城で始めたもので、信長よりも20年ぐらい早く始めていました。
更に進化したものを行った信長です。
信長の経済改革によって岐阜城下には多くの商人が集まりました。
経済は活性化し、城下町が急速に発展!!
信長には売上税ががっぽり!!
しかも、城下町のおかげで人材や物資の確保がしやすく、天下取りの土台と考えていました。

この楽市楽座には、信長の大いなる野望が隠されていました。
”天下布武”という言葉の意味は・・・
鎌倉時代以降の日本は、公家、寺家、武家の3つの権門がけん制し合っていました。
公家や寺家が莫大な税収に寄って武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。
信長は、公家や寺家の介入を許さない、純粋な武家政権の樹立を目指していました。
公家や寺家の既得権益を奪い、経済力を低下を図ったのです。
そして、商人たちを信長の味方につけることに繫がりました。

さらに関所を撤廃。
これもまた天下布武のためには外せません。
戦国時代の関所は税関で、公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていました。
通行税を課して、大きな収入源としていたのです。
そのため、関所の数は膨大で・・・
荘園が入り組んだ淀川河口から京都までの50キロの間に、380カ所もありました。
ひどいところでは、1里の間に40カ所もありました。
行商人は大変で・・・上乗せした値段が高くて商品が売れないという悪循環も・・・
そこで信長は、1568年頃から関所の撤廃を始めます。
公家や寺社の資金源を断ち、商品をスムーズに動かし経済を動かしました。

信長のマネー戦略③交通インフラの整備

戦国時代、通常戦国大名たちは敵を警戒して居城辺りはわざと悪路にしていました。
橋も架けない・・・そんな常識を・・・
1574年、命令を出しています。
・入り江や川には船を並べた上に橋を架け、意志を取り除いて悪路をならせ
・本街道の道幅は、3間2尺(約6.5m)とし、街路樹として左右に松と柳を植えよ
・周辺の者たちは道の清掃と街路樹の手入れをせよ

交通インフラの整備によって商品流通を活性化させ、財を成した商人たちから多くの税を集めることが目的でした。
道を通りやすくすることで敵に攻められやすくなる・・・そのことを、圧倒的な経済力によって強化しました。

兵農分離・・・当時の多くの兵士たちは、半農半兵の地侍でした。
普段は村に住んで田畑を耕し、合戦が始まると戦場に駆り出されていました。
そのため、農繁期の秋には出陣もままならず、長期遠征も困難でした。
「戦に専念できる兵士が欲しい」
そこで、信長が目をつけたのが、地侍の次男、三男でした。
当時は調子相続が原則で、次男、三男は長男が亡くなった時の控えで、家を継ぐことはありません。
そんな次男、三男を召し抱え、親衛隊を結成しました。
親衛隊が活躍すると、兵農分離を強化します。
召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせて、武器ごとに集団訓練をさせます。
高い組織力と機動力で強くなっていきました。
農業からから切り離した兵士たちに生活費を支給しなければならない・・・経済的な負担は大きいものでしたが、それを実行できたのは、信長が様々な税によって収益を得ていたからです。
信長の経済力がなさせた・・・天下統一への大きな要因の一つでした。

火縄銃・・・信長が10歳の時、1543年にポルトガルから種子島に伝来。
しかし、強力な新兵器としてみなが興味を示すも普及しませんでした。
その理由は・・・
①弾を込めるのに時間がかかる
②非常に高価だった
からです。
鉄砲1挺=1丁30金・・・およそ50万円しました。
信長は、鉄砲を重視していました。
19歳の時に引き連れていた親衛隊は、500挺の鉄砲を持っていました。
そして、その鉄砲が活躍したのは、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでした。

兵の数こそ織田・徳川軍が大きく上回っていたものの、武田軍には戦国最強の騎馬軍団がいました。
そこで信長は、今のお金で15億円という大金を使って3000挺の鉄砲を購入し、騎馬軍団に対抗しました。
一発撃つごとに先頭を交代し、連射を可能にしたともいわれています。
これによって長年の宿敵・武田軍を撃破!!
天下取りに大きく近づきました。
強大な経済力と境を手に入れていたこと・・・この二つが鉄砲を大量に手に入れることができた理由でした。
堺は鋳物文化が盛んであったこと、そして日本では作ることのできない火薬である硝石を手に入れやすかったことが、信長が鉄砲を存分に使えた理由でした。

信長のマネー戦略が武力に勝った瞬間でした。
その経済力のたまものの兵器・・・鉄鋼船です。
1570年、寺社勢力を削ごうとする信長に対し、石山本願寺の蓮如が立ち上がります。
各地で一向一揆が勃発!!
激闘を繰り広げるも、蓮如は次第に追いつめられていきます。
すると・・・中国地方の有力大名の毛利輝元に援助を要請!!
毛利水軍700艘を本願寺に・・・補給のために大坂湾に差し向けます。
信長は、これを阻止する為に300艘を大坂湾に・・・しかし、あえなく撃退・・・。
毛利水軍焙烙火矢(焼夷弾)によって多くが焼かれてしまいます。
信長は、配下に置いていた伊勢志摩水軍に燃えない船を作れと言明!!
こうして作られたのが鉄鋼船です。
全長23mの巨大な船でした。
当時、鉄鋼は高価なので、船全体に貼ることは莫大なお金が必要でした。
それを作ってしまった信長・・・経済力は相当なものでした。
この頃、鉄鋼船は世界中にどこにもなく、信長が初めてでした。
鉄鋼船は、焙烙火矢にはびくともせず、多数の銃を搭載していたので圧倒的な力で毛利を撃退!!
2年後の1580年には石山本願寺が降伏しました。

信長のマネー戦略④居城の移転
一所懸命・・・当時の武士たちは一つの場所でその土地を命をかけて守るというものでした。
そして、その土地をめぐっての戦いで・・・土地が最も大切でした。
そのため、自分の土地を離れる者はおらず、武田信玄、上杉謙信も一度も城を移してはいません。
しかし、信長は那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と、4回も城を変わっています。
理由は・・・22歳の時父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心だったからです。
8年後に小牧山城に移ったのは次の侵略目標の美濃に近いからでした。
美濃を攻略するとそのまま岐阜城に。
次には安土城に・・・更なる領地拡大の拠点とするため、最前線に城を築いたのです。
兵農分離のなせる業でした。

新しく城を築くには、莫大なお金がかかります。
城下町を拡大すれば、経済が活性化し、税収がアップする・・・城下町を作り、拡大し、より多くの税収を集めるために居城を移転しました。
満を持して・・・安土城!!
1576年1月・・・信長は標高200メートルの安土山に築城を開始。
この時43歳でした。安土を選んだ理由・・・
中京経済圏、近畿経済圏の両方に目を光らせ、琵琶湖を使えば京都に半日で行けること。
中山道、近江商人と伊勢商人が行き来する八風街道・・・商品流通の要所・・・経済的な発展も狙っていました。
城下町も整備し、商人たちの誘致にも知恵を絞ります。
「安土山下町中掟書」には・・・
・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からに転入者も従来からの住人と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

人々を呼び集めるために政策が書かれていました。
城にも・・・完成した安土城は七層の壮大なものとなりました。
最上階は内も外も金で輝いていたといいます。
信長はこの城を、盂蘭盆会でナイトアップ!!
人々は集まり、信長の威厳と力を目の当たりにしました。
信長は、安土を京都や堺に並ぶ大都市に成長させました。
天下統一がなされたときには、安土に遷都を考えていました。
安土城には天皇を迎えるための御幸の間がありました。
そして、その御幸の間は信長の天主よりも低いところにあったのです。
天皇をも凌駕する存在になろうとしたのでは・・・??
お金の力で天下を取る・・・それを現実のものにしようとしていた信長・・・
1582年6月2日、京都本能寺で明智光秀に襲撃されあえなく死去。
光秀は、天皇をも超える存在になろうとしていた信長を危惧し、今何とかしないと大変なことになる・・・そう考え謀反を起こしたともいわれています。
巧みな経済感覚で時勢を追い、戦乱の世を征した信長でしたが、光秀の心までは読めませんでした。


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天下を統一して江戸幕府を開き、神君とされた徳川家康。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
その強靭な忍耐力は、家康最大の武器であり、天下人になり得た大きな要因の一つでした。
しかし、そんな家康でさえも耐え難い人生最大の事件がありました。

大事な跡取り息子・信康に切腹を命じた”信康自刃事件”です。
事件は織田信長の圧力に家康が屈した・・・つまり、信長が信康を殺させたのでは・・・??と、考えられてきました。
が・・・??定説を大きく覆す意外な事実がでてきました。

徳川家康と清逸・築山殿との間に生まれた嫡男・信康。
大切な跡取りを切腹させることになってしまった信康自刃事件の顛末は、家康の家臣の書いた「三河物語」に書かれています。
1579年徳川家康は、織田信長と同盟を結んだ証として、徳姫を信康の正室に迎えています。
しかし、1579年、徳姫が父・信長に書状を送っています。
そこには、夫信康と姑に対する不満や恨みが12か条に渡って書かれていました。

信康は無慈悲で非道
築山殿は悪人で私と信康を仲たがいさせようとしている
築山殿が武田勝頼と内通して織田・徳川の滅亡を訴えている

信長は、驚き、激怒!!
天下取りを邁進する信長にとって武田は難敵!!
徳川と手を結ぶようなことがあれば、窮地に陥ることは必至でした。
信長は、家康の側近・酒井忠次を呼び出します。
この時、酒井は、手紙の内容を否定しませんでした。
「即刻信康に切腹を申し付けよ!!」by信長
信長は、築山殿の処罰ではなく、信康の切腹を要求!!
家康は愕然とします。
織田と徳川は、同盟とはいえ、主従関係に近いものでした。
力の差は歴然!!
信長の命は絶対でした。
しかし、家臣たちの多くは、信長との同盟を破棄してでも信康を守るべきだと主張しました。
信康の守役・平岩親吉は、代わりに自らの首を差し出すとまでいいだしました。
苦渋の決断を迫られた家康は・・・
武田と内通していると疑われた築山殿を家臣に殺害させます。
そして、信康に切腹を言い渡したのです。
信康にとっては、まさに青天の霹靂でした。

1579年9月15日、信康切腹!!

この時の介錯人は、家康の側近で、後に伊賀忍者の棟梁となる服部半蔵正成でした。
忠義に篤い半蔵は、信康の首をどうしても落とすことが出来ず、検視役が介錯したといいます。
こうして信康の首は、信長に差し出されたのです。
この時、信康21歳でした。

これが、家康最大の苦渋として三河物語に書かれている信康自刃事件です。

しかし、この事件、謎が多いのです。

武田と徳川の内通??
信長に信康が切腹を要求した??

事件から遡ること20年、徳川家康はまだ松平元康という名で、弱小大名の松平家から強国今川家に差し出された人質として駿府に暮らしていました。
正室は、今川家当主・今川義元の姪・瀬名・・・後の築山殿です。
そんな二人の間に生まれた待望の子が、嫡男・信康でした。
幸せな結婚生活を怒っていた家康たち・・・

1560年桶狭間の戦い!!
織田信長と今川義元が激突し、義元が討死すると、今川軍として参戦していた家康は、人質生活から逃げ出せる絶好の機会とそのまま三河に帰参!!
岡崎城を今川の手から奪還します。
しかし、この時、築山殿と信康は駿府に置き去りのままでした。

「裏切り者の身内として、今川に殺されるかもしれない・・・」by築山殿

そんな瀬名姫の心配を余所に、家康は信長と同盟を結び、今川と断交してしまいます。

「今川の仇である信長と手を結んだ・・・なんということを。。。」by築山殿

そして、いつ殺されるかもわからない状態は、2年以上続いたのです。
祖の後、人質交換によって救出され、三河に移ることができたものの・・・悲劇は続きます。
嫡男・信康は家康のいる岡崎城に迎え入れられたのですが・・・
信長と同盟を結んだ家康にとって、今川義元の姪である瀬名姫は、もはや厄介者・・・。
城に入ることを許さずに、裏の尼寺で暮らすように命じました。
その尼寺が築山という場所にあったので、築山殿と呼ばれるようになりました。

家康を罵る母の言葉が、信康の父に対する反発心を生んだのではないか?
1567年5月、まだ9歳の信康が、政略結婚させられます。
その相手は・・・信長の娘・徳姫でした。
7月・・・信康が元服。
織田と徳川の同盟の象徴となりました。

1570年今川家の領地・遠江を手に入れていた家康は、岡崎城から浜松城に本拠を移すと、岡崎城を信康に譲ります。
そして、幼い信康のために、信康専属の家臣団が形成されました。
家康の後継者として嘱望されていたのです。
1573年15歳で初陣を飾ると、信康は期待に応え、武田勢を相手に幾多の武功をあげます。
「真の勇将なり
 (武田)勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも 恐るるに足らず」
しかし、その一方で、正確には何があったようです。
無慈悲で非道な一面があり、些細なことで領民を手打ちにしたことがありました。

何が原因で信康は自刃となったのか??
家康にとって、公にしたいことではなかったようです。
家康が隠そうとした徳川家のタブーとは・・・??
「安土日記」には・・・
”岡崎三郎殿逆心あり”と書かれています。
岡崎三郎とは信康のことで、父に背こうとしていたというのですが・・・??
そこには、当時の徳川家の厳しい状況がありました。
1572年12月22日、家康は遠江の三方ヶ原において武田信玄と激突!!
兵力にはるかに劣っていた家康は、信長に援軍を求めましたが、信長の援軍は僅かに3000ほどでした。
結果は・・・戦国最強といわれる武田信玄に翻弄され、徳川軍大惨敗!!
命からがら浜松城に帰る際、家康は恐怖のあまり脱糞したともいわれています。

しかし、それからおよそ5か月後・・・打ちひしがれている家康に思わぬ知らせが飛び込んできました。
1573年4月12日、武田信玄が急死したのです。
これを機に、家康は反撃に転じ、武田軍が三河侵略の拠点としていた長篠城を奪還します。
これで一気に形勢逆転かと思われましたが・・・家康の前に立ちはだかったのは、信玄の跡継ぎ・・・武田勝頼でした。
1574年5月、勝頼は2万5000の兵を率いて、高天神城を襲撃、これを攻め落とし、翌年には三河に攻め入り、徳川方の城を次々と攻略していきます。
信玄の後継者の名に恥じない戦いをする勝頼・・・さらに、長篠城の奪還にも取り掛かります。
かたや防戦一方となった家康は・・・。
こうした危機的状況の中、徳川では意見の対立が起こります。
家康率いる浜松衆・・・武田との戦いを続ける
信康率いる岡崎衆・・・武田との敵対関係を見直すべきだ
としたのです。

この頃の信長は、領地こそ拡大していたものの、各地に強敵がおり、天下統一など遠い先の話でした。
1575年徳川家に大事件が起こりました。
信康の家臣で岡崎町奉行の大岡弥四郎らが、武田と内通し、あろうことか軍勢を岡崎城に引き入れ合流しようとしたのです。
計画がもれ、未然に防げましたが、家康の怒りは大きく計画に加担したものは皆極刑にされ、首謀者の大岡は、岡崎の町中にいきたまま埋められ、首を鋸引きの刑となりました。

このことは、家康の”徳川は武田とは手を組まない”という強烈な意思表示となりました。
1か月後・・・長篠の戦いで織田・徳川軍と武田軍がぶつかります。
信長は3000丁もの鉄砲で、武田自慢の騎馬軍団を撃退、重臣たちもことごとく討ち果たし、武田勝頼を這う這うの体で甲斐に引き揚げさせるという圧倒的な勝利を収めました。
家康は確信します。
武田を選ばずに、織田を選んだ自分の判断は正しかったのだ!!と。
しかし!!この長篠の戦いの勝利が、浜松衆と岡崎衆の軋轢を、ハッキリと浮かび上がらせるのです。
その軋轢とは・・・??
浜松衆と岡崎衆の軋轢は、二つの城の位置が関係していました。
浜松衆は最前線で戦い、武功と出世の機会に恵まれていましたが・・・
岡崎衆は、ケガで戦えなくなった者の後方支援のような仕事・・・裏方で、出世にも遠かったので不満がたまっていた。
出世の奇計に恵まれていた浜松衆に対し、損な役回りの岡崎衆が反発していたのです。
一枚岩ではない・・・これは、徳川家にとって由々しき問題でした。
家康の後継者である信康は、本来ならば岡崎衆を諫め、事態の改善を図る立場です。
それをしなかった信康・・・
信康も、岡崎衆こそが徳川の前線に出るべきと考えていました。
この時信康はまだ20歳前・・・家康に対するライバル心は日に日に強くなっていきます。
そして・・・1578年、信康を逆心へと向かわせたのが・・・
3月13日上杉謙信死去。
謙信の二人の養子・景勝と景虎の間で跡目争いが勃発・・・
結果、武田勝頼を味方につけた景勝が勝利します。
しかし、敗れた景虎が相模の北条家からの養子だったために、同盟を結んでいた武田と北条との関係が悪化・・・。
武田は、敵対している徳川と北条に挟まれることとなりました。
生き残りの道を模索する勝頼は・・・得意の調略を行います。

武田勝頼から築山殿に宛てた内通の文書が発見された・・・??
勝頼は、徳川との敵対関係を見直すために岡崎衆との接触を図ったのです。
この時、信康も武田と接触していた可能性があります。
徳川の将来を思えばこその武田との接触・・・
それは、父・家康を裏切るだけではなく、信長をも裏切るものでした。
そして、このことが徳姫の知るところとなり、信長に知られてしまったのです。

徳川と織田の関係は、緊迫状態にありました。
家康は徳川家を残すために・・・信康の処断を考えていると信長に伝えたと思われます。
酒井忠次が訪れたのは、その決断を知らせに行ったのでは・・・??
切腹させろと命じていない信長・・・すべては家康に託されたのです。

1579年8月3日徳川家康は、嫡男信康のいる岡崎城を訪れます。
信康と武田との接触の真偽を調べ、どのような処断を下すべきか・・・??

8月4日、家康は信康から全権を剥奪、三河の大浜城へ移し、謹慎処分とします。
9日・・・堀江城へ。
10日・・・岡崎城に松平家一族や地元の領主を集め、信康とは以後かかわりを持たないという誓約書を書かせました。
その後、信康を二俣城へ・・・!!
信康をすぐに切腹させなかったのは、家康の時間稼ぎでした。
家臣たちが信康を逃がしてくれるのでは・・・??と。
そして家康は決断を下すのです。
9月15日信康は父の命で命を絶ちました。

家康のしたこと・・・家の存続を第一と考える戦国大名としては仕方のなかったことなのかもしれません。
しかし、織田信長は、「家康殿の思い通りにせよ。」と、切腹は求めていませんでした。
死をもって償わせる必要があったのか・・・??
廃嫡、蟄居、出家・・・の選択枝があったのに・・・??

信康に切腹を言い渡す半年前に2代将軍となる秀忠が生れていた。
後継者が他にいれば、信康を生かしておく必要はなかった・・・??

浜松衆が切腹を後押ししたのでは・・・??
酒井忠次ら側近から、信康を処分すべきという声が上がっていました。
家康が人質だった時からの家臣・忠次は、家康にとって頭の上がらない存在でした。
そして・・・家臣によって暗殺されていた祖父と父・・・。
冷静沈着、老獪のイメージの強い家康ですが、実際は気が小さく悲観的だったといいます。
最悪の場合・・・信康が生きている限り、信長から責められる危険が残ると考えたのです。

「無事に育ちさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても信康は親を敬わず、その結果、父子の間が上手くいかず悲劇を招いてしまった。」

しかし、この性格が天下人とさせたのです。

信康を切腹させるとは、信長も想定外のことでした。
そして、嫡男の信康を切腹させたことで、律義者という印象を信長や秀吉に植え付けたのです。

二人の親子の間には、戦国という動乱の時代が生み出した父と子の姿、武将としての生き様がありました。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」

重荷の一つには、信康の死があったことでしょう。

そして、関ケ原の戦いの際、秀忠が戦いに遅刻するというだいだい失態を犯した際、家康はこう言いました。

「信康がいてくれれば、こんな苦労はせずに済んだものを・・・」と。

家康は信康を死なせたことを悔やんでいたのです。
この関ケ原の戦いが起きたのが、9月15日・・・21年前に信康が亡くなったその日でした。


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信康謀反

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1600年9月15日、日本を東西に二分した関ケ原の戦い・・・

勝者となったのは、東軍総大将・徳川家康です。
しかし、家康には大きな誤算がありました。
徳川の主力を率いる家康の三男・秀忠が決戦に間に合わないという前代未聞の大失態を犯したのです。
この時、家康はつぶやいたといいます。

「倅がいたらば、こんな事にはなっていないはずだ。」と。

家康が口にした倅とは、家康の長男・松平信康のことです。
その名は、徳川の歴史においてタブーでした。
1579年9月15日、奇しくも関ケ原の合戦と同じ日に、事件は起こりました。
21歳の信康が、織田信長の命により自害させられたのです。
世に言う”信康事件”です。
どうして信長は、家康に長男を殺害するように命じたのか?
どうして家康はそれを受け入れたのか??
それは謎です。
カギを握るのが”逆臣”!!

家康の後継者として期待された信康。
家康と正室・築山殿との間に生まれた初めての男子です。
当時、家康は、駿河・遠江・三河を有する今川家の配下にあったため、駿府に生まれました。
信康2歳・・・この年(1560年)、今川家の当主・義元は桶狭間の戦いに討ち死に、これによって家康は独立することに!!

しかし、この時大きな問題が・・・。
駿府にいる築山殿と信康が人質に取られていたのです。
人質奪還のために、家康は今川義元の妹婿の城を攻め、当主の子を生け捕り、人質の交換に成功!!
これによって一命をとりとめた信康は、駿府から岡崎に移ることになりました。
1567年信康9歳の時、信長の娘・徳姫と結婚。
信長から信の一字、家康から康の一字を与えられています。
信康は、徳川と織田の同盟関係を象徴する存在でした。

1573年12月、家康は絶体絶命の窮地に立たされます。
甲斐の武田信玄が、遠江に侵攻。
戦国最強と謳われた武田の大軍勢が襲来したのです。
徳川軍は、三方が原で武田軍と激突し大敗北(三方ヶ原の戦い)!!

しかし、翌年の1573年4月、武田信玄死去。
武田軍は撤退し、家康は九死に一生を得ます。
とはいえ、信玄亡き後も、武田の勢力が弱まることはなく、家康は信長との同盟を維持しながら、対武田の拠点となる浜松城に身を置き、背後の要・西三河の岡崎城に信康を置き、領国の防衛強化に努めています。
信康が岡崎城主となったのは12歳(1570年)の時。
幼い領主を支えるために、新たに家臣団を作り・・・
徳川は、浜松家臣団と岡崎家臣団に分かれることとなったのです。

1575年5月長篠の戦いで、家康・信長連合軍が武田に圧勝!!
この時、17歳の信康も、一軍を率いて参戦!!
局地戦で殿を務め、功名をあげます。

1579年4月、武田軍が徳川領に侵攻。
徳川と武田の国境では、緊張が高まっていました。
そのさなか、家康のもとに、信長から信じられない命令が・・・!!

「信康に切腹させるよう家康に伝えよ。」by信長

そのきっかけとなったのが、信康の妻・徳姫が、父・信長に、夫の悪行を訴えたことでした。
信康の悪行とは・・・??
史料には、鷹狩りで意に沿わない僧侶を殺したことや、下手な踊り子に腹を立てて射殺したことが書かれています。
信康の行動は傍若無人で、慈悲の心がなく、そのため夫婦の仲は悪くなったとありますが・・・
しかし、信康と家臣との間が上手くいっていないわけではなく、揉めたこともなく・・・
粗暴な君主だったという形跡は、同時代の資料には見られません。

そして、信康のことは家康に一任していた???
信長が家康に殺せという命令を出していないのでは??
家康が、このままではいけない・・・と、忖度で殺したのでは??

当時の徳川は、武田と織田の二大大国の狭間にありました。
家康は信長と結び、武田と対峙していました。
この時、家康と対峙したのは武田勝頼。
信玄亡き後、武田の家督をついだ勝頼は、後世評価の低い武将であるが・・・
信長の評価は・・・
「勝頼は若年ながら、信玄の教えを守り、表も裏もある油断のならない相手である」と。
事実、勝頼は、父・信玄ですら攻略できなかった徳川方の高天神城を僅か1か月で落としています(1574年6月)。

徳川と武田の熾烈な奪い合いの舞台となった高天神城。
難攻不落だった高天神城・・・。
奪還を目指す徳川の猛攻を7年もはねのけた勝頼。
武田が施した数々の備え・・・横堀・・・武田の城兵は、土塁を盾にして、見下ろす形で横堀に迫ってきた徳川の軍勢に対して、鉄砲や弓、つぶてを投げて守ることができたのです。

城は、水陸交通の要所・・・家康の浜松城まで直線で僅か30キロ。。。
派は松上の喉元に刃を突き付けられるような、大きな危機を感じる場所だったのです。

家康にとって、生命線ともいえる高天神城・・・。
なんとか奪還しようとする家康ですが・・・信長からの援軍は無し・・・
10数年続いてきた徳川と織田の軍事同盟。。。
家康は、姉川の戦い、信長上洛戦、越前遠征・・・に参陣を果たしたにもかかわらず、織田からの見返りは多くありませんでした。
織田と徳川の関係は、実質的な主従関係だったのです。

そんな関係に対し、徳川家臣団の不満が一つの事件を起こします。
1575年4月、信康の家臣・大岡弥四郎事件です。
大岡弥四郎を中心とする反逆です。
密かに武田に通じていた岡崎町奉行・大岡弥四郎が、城を乗っ取り、武田に合流しようとしたのです。
事件は未遂に終わり、首謀者たちの処刑で幕を閉じました。
信康の守役も武田に内通し、岡崎奉行の三人のうち大岡を含めて2人も武田に加担していました。
さらに、正室・築山殿も加わっていたといわれています。
岡崎衆をあげて、武田家に鞍替えしようとしたものです。

武田との抗争が激化して以来、家康の浜松、信康の岡崎と家臣団は二分していました。
そこに微妙な内部対立がありました。
家康の周りには、主要メンバーで最前線で戦う。。。
しかし、信康側は、最前線で戦うことはあまりなし。。。
いつでも功績をあげられて、恩賞の利益にあずかれる可能性の高い浜松衆と、チャンスに乏しい岡崎衆との確執が、背景にあったと思われます。

この4年後・・・再び徳川家に大事件が・・・それが信康事件です。

事件の顛末を記した資料は少ない・・・
「三河の信康殿逆臣!!」
当時、岡崎にいた信康としては、先の見えない武田軍との戦い・・・いつ進軍してくるのかもわからない・・・
信康が父・家康追放、もしくは暗殺というクーデターを実行に移した場合、頼れるのは武田しかいない。。。
突如として出た信康謀反の噂・・・。
家康は、我が子・信康をどうする???

1579年8月3日、家康は岡崎城に向かいます。
信康の真意を。。。!!翌日二人は対面。
信康は家康に対し、織田を見限り武田に着くと言ったと考えられます。
一方家康は・・・厳しく問い詰めます。
苦悩する家康。。。

信康を捨て織田をとる??
このまま信長に着けば徳川は安泰。。。
この頃の信長の版図拡大は凄まじく、北陸の上杉、西の毛利に対し、織田軍が出兵し領地は膨張の一途にありました。
安土城も完成し、信長の天下は盤石になりつつあったのです。
しかし、謀反の噂が信長さまに入った以上信康に罰を・・・!!
処置を誤れば、家中が二つに割れてしまう!!


信康をとり武田と結ぶ??
家中が二つに分かれる最悪の事態は避けられるのでは??
武田はこの頃、最大の版図を獲得していました。
勝頼は、北条と対決をし、領土を拡大!!
糸魚川にまでも領土は拡大し、武田の領国は日本海にまでも達していました。
「信康事件」の前後は、武田の領土が再び拡大している時期なのです。

織田家臣団にも綻びが・・・
信長に反旗を翻す武将が続出!!
松永久秀の謀反・・・荒木村重の反乱はまだ続いていました。
が、畿内の制圧を目前の信長・・・。
信康の意見を通せば、家長としての自分の立場は・・・??


1579年8月4日、信康と対面したその日、家康は信康を岡崎から20キロ離れた大浜に幽閉。
家康は、信康を処断し、信長との同盟を維持することを決断したのです。
翌日には弓・鉄砲衆を連れて、大浜に近い西尾城へ入るように家臣団に命じます。
信康と謀反を画策した重臣たちへのあからさまな威圧です。
さらに家康は、岡崎城に家臣や三河の国衆を集め、信康と連絡を取り合わないなどの起請文を提出させます。
家康は同盟相手・信長にも事の顛末の説明をするため書状を送っています。

「信康は士道不覚悟により、岡崎城から追い出しました。」

処断されたのは信康だけではなく、信康と同じく武田との内通を疑われていた正室・築山殿が家康の家臣の手で殺害されたのです。
信康は大浜から堀江、二俣城へ・・・
家康としては信長との手前、信康を処断しなければ・・・しかし、やはり親子。。。
家康と信康の関係が意思疎通を上手くすれば、自害に及ばなくても廃嫡??と考えていたのかも??

家康は、信康幽閉の一月後、武田と敵対関係にあった北条と同盟を締結。
織田・北条・徳川による武田包囲網が完成します。
武田と全面対決の姿勢を・・・!!

1579年9月15日、信康自刃!!

21歳、若すぎる死でした。

信康自害の報告をうけた家康は、黙ったままうなだれました。
信康自決後、信康を支えた岡崎重臣たちも粛正されます。

三重県桑名市・・・ここに妖刀・村正が残っています。
信康の介錯にも村正が使われたと言われています。
家康の父・広忠、家康自身、信康・・・徳川家にまつわる人が村正に関わっているので、妖刀といわれるようになりました。
信康が自害したとき、家康は語ったといいます。

「村正は、徳川家に仇成す刀である。
 今後、刀の中に村正があれば、みな取り捨てよ。」

家康が恐れた妖刀・村正・・・。

村正の妖刀伝説が長く流布されたのは、家康の信康を自害させた後悔の想いを生涯持ち続けていたからかもしれません。
そののち、家康は信康に対して固く口を閉ざして語ることはありませんでした。

30年後・・・秀忠の妻・江に対する訓戒に信康に対する家康の想いが記されています。

「信康が生れたときは、親も若く、子が珍しく、その上発育が悪く、丈夫に育ちさえすればいいと心得、気づまりになるようなことはさせず、気ままにさせておいた。
 成人になってから、急にいろいろ教育してみたが、後に親子の言い争いのようになってしまった・・・」と。

このことで、民衆や家臣の家康に対する尊敬心は増した・・・??
家康の言葉の重みが増したのです。
徳川が15代も続いたのは・・・この信康事件の後悔からの家康の子育てにあったのかもしれません。

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