日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:仰天歴史塾

【2500円以上送料無料】真実の近現代史 田原総一朗の仰天歴史塾/田原総一朗/テレビ東京報道局

価格:1,080円
(2014/4/18 23:08時点)
感想(0件)


田原総一朗の仰天歴史塾です。
あ~、長いこと眠らせてしまっていました。

1989年1月7日・・・昭和が終わり、新しい元号が・・・平成が始まりました。
戦後政治が大転換をした時代です。

後を追うように、昭和を代表する人たち・・・美空ひばり・手塚治虫・松下幸之助・・・時代の変わり目を感じさせられました。
これまでとは違い、親王本人の意思のもと、皇室に紀子さまが入り・・・美智子さまに続く民間からのプリンセスでした。
皇太子も雅子さま、紀宮さまも民間へ・・・。
即位の礼で新しい天皇が誕生し、新しい時代が始まりました。

平成の幕開けと共に、永田町に激震が走りました。
それは、自民党支配崩壊の序曲でした。
”リクルート事件”です。

右肩上がりの時代、未公開株は確実に値上がりする・・・。
株の譲渡は現金の受け渡しと同じことでした。

リクルート社は、売上高1兆円を超えるまでになっていました。
江副浩正社長は、カリスマと・・・メディアから注目を浴びていたのです。
政官財を巻き込んで、大きなスキャンダルとなっていきます。
江副氏は、大物政治家へたくさんの献金も行っていたので、疑惑に拍車がかかります。

捜査は、歴代の総理大臣から現閣僚まで・・・。
内閣官房長官の逮捕に至りました。

1989年6月2日竹下内閣総辞職。

ここから、自民の一極支配が崩れていくのでした。

”政権が安定していないと経済は発展しないとの思いから政治献金をしたが、逆の結果になった。
 私は大罪を犯してしまった。
 悔やんでも悔やみきれなかった”by江副浩正。

兜町ではハクをつけるためにえらい人に株を買ってもらうというのは、当たり前のことでした。。。
しかし、その時代を引っ張っていく人たち・・・改革をしようとしている人たちに嫌疑がかかっていったのです。
この中には、経済団体の幹部もたくさん入っていて・・・
賄賂をもらっているつもりはありませんでした。

江副浩正さんがのし上がってきたので・・・
評判を落とそうとしたのかも知れません。
ライブドア事件と似ているかもしれません。

当時は大平首相が、直間比率の見直しが行われていました。
つまり、直接税(所得税)を減らし、間接税(消費税など)を導入しようとしている時だったのです。

竹下首相は下りたものの・・・次の首相候補はみんなこの事件との噂があって・・・
宇野さんが首相となったのでした。
清廉潔白が看板の人でした。
大臣を歴任し手堅い首相となるはずでしたが・・・
女性問題で・・・ワシントンポストまで取り上げます。

参議院選挙の結果は・・・この二つと消費税増税が重なって、社会党が勢いづきます。
土井たか子さんが日本初の女性党首を銘打って・・・マドンナブームを巻き起こします。
自民党は始まって以来の過半数割れ・・・

これから自民党政治の漂流がはじまりました。
宮沢内閣時には、党が分裂。
戦後の体制を変えようという新党ブームが始まったのです。
細川非自民連立内閣が発足します。

日本のバブルの源流は、1985年ニューヨーク・プラザホテルでの会談でした。
これがバブルに繋がっていく・・・プラザ合意です。
先進5か国の代表が集まって、赤字の続くアメリカを助けるためにドルを安くする為替会議です。
当時の竹下大蔵大臣は、円高にもかかわらず、アメリカの意向を組んで決断したのです。
急速な円高が始まります。
それは予想を越えて行きます。
中小企業を直撃し、円高不況が始まったのです。
金利を下げ、景気を刺激します。
半導体、自動車は円高にもかかわらず好調で・・・貿易黒字はたまり続けたのでした。

だぶついたお金が、株や土地に向かったのです。
バブルの到来です。
地価は高騰し、地上げ屋が出て来ます。
東京23区の土地の値段でアメリカ全土が買えるとまで言われました。
財テクの時代・・・企業は、土地をはじめ、様々なものに投資していくのでした。

ゴルフ会員権・絵画・デパートに2000万を超える宝石・・・一億総財テク時代の到来です。
投資の為に高級住宅地を買い・・・人のいない住宅地が出来たのでした。
三菱地所はロックフェラー・センターを買収、日本は絶頂に・・・。
1989年12月29日には、史上最高値3万8915円87銭を記録します。

人々はバブルに酔っていました。
しかし、あっという間にはじけてしまったのです。
株と地価が下落。。。

バブルは世界中で起こってきました。
代表的なものがこちら。

1637年 オランダでチューリップバブル
チューリップの球根への投資で、突如価格が大暴落。

1720年 イギリスで南海泡沫事件(サウス・シー・バブル)
南海会社株への投機崩壊
バブル経済の語源となりました。

1929年 アメリカで暗黒の木曜日
車・ラジオ・電気などの株に投機
ウォール街で大暴落⇒世界恐慌へ。。。

1989年 日本でバブル崩壊
高度成長末期に、株・地価のバブル崩壊
失われた20年の始まりです。

2008年 リーマンショック
サブプライムローン危機
リーマン・ブラザーズ史上最大の倒産。

2010年 ヨーロッパでギリシャ危機
ギリシャの財政赤字から発生
ユーロ圏の国債バブルが崩壊

そうして、喜ぶ人たちを誰も泊めることは出来なかったのです。

日米貿易摩擦・・・

80年代、アメリカの対日貿易赤字は膨らむばかり・・・
半導体・車などが問題だとバッシングをし出しました。
そんな時、冷戦が終結し・・・アメリカの敵は、ソ連の軍事力ではなく、いつの間にか日本の経済力になっていました。
アメリカは、本気で日本を叩きだします。スーパー301条を成立させます。
ブッシュ政権は、日本の経済構造を変えるようにと日米構造協議をし、日本は妥協しました。
しかし、クリントンはこれを失敗とし、日米包括経済協議を!!!
日米は、スーパー301条をめぐる戦いになっていきます。
この攻防は、日本の経済が低迷するまで続くのでした。
1989年が今を作っています。
私たちは失われた20年に陥ってしまったのでした。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 経済ブログ 世界経済へ
にほんブログ村

社会・経済 ブログランキングへ


ドキュメント東京電力 [ 田原総一朗 ]

価格:596円
(2014/4/18 23:09時点)
感想(12件)

AKB48の戦略!秋元康の仕事術 [ 田原総一朗 ]

価格:1,028円
(2014/4/18 23:09時点)
感想(5件)

真実の近現代史 田原総一朗の仰天歴史塾

新品価格
¥1,050から
(2014/1/9 05:49時点)


田原総一朗の仰天歴史塾です

1989年・・・世界が動き・・・ここから全ては始まりました。
冷戦が終わり・・・平和がくると思われていましたがそうではありませんでした。

湾岸戦争・フセイン・同時多発テロ・・・終わりなきテロとの戦いが始まったのです。
天安門事件も・・・
1989年はどんな時代だったのでしょうか???

1947年アメリカのトルーマン大統領が、ソ連封じ込めを宣言しました。
スターリン率いるソ連が、東ヨーロッパで次々と共産政権を樹立していって地固めをしてきたからです。
アメリカ側は1949年NATOを、ソ連側は1955年ワルシャワ条約機構を作り、冷戦が始まったのです。

1961年にはベルリンの壁が出来ました。
米ソは覇権を争い、際限ない軍拡競争に突き進んでいきます。
核軍拡の時代です。

しかし・・・核を使うと滅亡することが解っているので、代理戦争へと突き進んでいきます。
絶対に米ソが戦わない戦い・・・それが冷戦でした。

1985年、ソ連に現れた指導者はミハエル・ゴルバチョフ。
その頃ソ連では、慢性的な品不足に悩まされ・・・経済が行き詰っていました。
1979年に始めたアフガニスタン侵攻は、イスラム勢力によって長期戦に陥って・・・これが、国家財政を逼迫させていたのです。
ゴルバチョフの改革・・・ペレストロイカ・・・ソ連を豊かな国に作りかえるために!!
経済の立て直しを図るために、軍事の方向転換を余儀なくされます。
その頃のアメリカは、スターウォーズ計画によってソ連の核ミサイルを人工衛星で撃ち落とすというものでした。
完成すれば、ソ連の核は無力化されます。
ゴルバチョフは・・・これ以上、アメリカと軍事力で争うことは出来ない・・・と、決断します。

ゴルバチョフは、冷戦を終わらせる戦いを始めました。
1988年アメリカを訪れます。
民主化ドミノの始まりでした。

1989年2月ソ連がアフガニスタンから撤退
・オーストリア・ハンガリー国境でピクニック事件
・バルト三国で100万人の”人間の鎖”

東ドイツは・・・西ドイツへの旅行を認めます・・・。
それには許可が必要でした。
それを・・・西ドイツが、東ドイツが国境を解放したと放送してしまいました。
東ドイツ市民は、西ドイツのテレビを見ていました。
騒ぎが始まりました。
真に受けた東ドイツ市民は国境付近へ・・・!!
続々と・・・!!警備兵も止めようがありません。。。
11月10日ベルリンの壁が崩壊してしまいました。
もはや、誰も泊めることは出来ません。。。
ドイツは統一していくのでした。

ひと月後・・・地中海のマルタ島で・・・
ブッシュ大統領とゴルバチョフが会談し、ここに冷戦は終結したのでした。

どうしてソ連が負けたのか???
グラスノスチ・・・情報公開、表現の自由です。
東側の人たちも、西側のテレビを見て・・・西がどれだけ豊かであるかを知っていました。
テレビの力が大きかったのです。
西の経済は、量から質の経済に移っていたのです。
社会主義はサービスがないので、量だけで良かったのです。
つまり・・・西側が勝ったのではなく、東側の不戦敗だったのです。

冷戦の終結で・・・世界が大きく変わっていきます。

翌年・・・中東で新たな戦いが始まりました。
主導したのは・・・中東の独裁者、サダム・フセイン。
フセインは、イラクの独裁者で、アラブ世界の統一を目指しすバース党に入り、暗殺とクーデターに明け暮れ・・・台頭していきます。
独裁者として君臨していくのです。
アラブ世界を統一し、イラクを最大の国にするために・・・!!

イラクの軍事力は、東西冷戦の賜物でした。
米ソが自らの陣営に引き込もうと・・・さかんに軍事協力していたのです。
フセインは、冷戦終結をチャンスと見・・・
クウェートに目をつけます。
人口200万人の小さな国なのに、石油が豊富でした。
突然・・・1990年クウェートに侵攻!!
イラク軍は、わずか6時間で首都を陥落し支配していきます。
東西どちらもフセインを非難します。

国連が多国籍軍を編成し、アメリカはソ連の脅威に対抗し、ドイツの米軍をサウジアラビアに集結します。
その数・・・53万でした。
アメリカがイラク軍への空爆を開始します。
湾岸戦争の勃発でした。
空爆は1か月も続き・・・地上戦も開始。。。圧倒的軍事力によって、わずか100時間でイラク軍をクウェートから撤退させたのでした。
圧倒的な軍事力を見せつけるアメリカ・・・!!
冷戦後の一極支配・・・アメリカ独り勝ちの時代です。
しかし、国連は、イラク本国への攻撃までは認めていませんでした。
中東に火種が残されたのでした。

日本的には・・・湾岸戦争当時、海部俊樹内閣で、自民党の幹事長は小沢一郎でした。
小沢さんは、湾岸戦争に参加するべきだ!!といいましたが、軍事力を二度と世界に出してはいけない!!徒いう人が、自民党の中にもたくさんいて(海部俊樹・後藤田正晴)・・・

先の大戦の間違いを二度としてはいけない!!
ということで、自衛隊は参加せず、10億ドル+20億ドル+90億ドル・・・端数も含めると、130億ドル出しました。
しかし・・・クウェートが米紙に出した官舎広告に・・・日本の名前はありませんでした。
それは・・・軍隊を出さなかったから・・・でした。
血を流さなくても汗を流そう!!ということで出来たのがPKO法です。


同時多発テロ・・・
これで、アメリカの心臓部が破壊されたのでした。
テロ戦争の時代の始まりです。
ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が!!
もう一つが国防総省に!!
9・11同時多発テロ・・・前代未聞の攻撃です。
仕掛けたのは、オサマ・ビンラディン。
国際テロ組織・アルカイダのリーダーでした。
潜伏先のアフガニスタンから指令を出していたと思われます。

火種は湾岸戦争にありました。
サウジアラビアに駐留していたアメリカ軍をみて・・・ビンラディンは・・・異教徒の軍がイスラムの聖地にいる・・・っこれは許されない!!と。

アメリカとの戦争を決意します。
実行犯は、西洋に対応できる高学歴の者。。。
主犯はモハメド・アタ。
自爆した飛行機を操縦していました。
エジプトで生まれたアタは、頭がよくカイロ大学へ・・・
建築家が夢でした。
ドイツに留学し、欧米社会に溶け込んでいました。
しかし・・・アルカイダが近づき・・・思想が変えられていきます。

「イスラムは被害者だ!! 欧米の陰謀から自衛すべき・・・!!」

高学歴で外国語に堪能な若者たちが集められます。
アメリカで・・・市民に紛れて準備を進めます。
新しい形の戦争へ突き進んでいきます。

タリバン政権を攻撃するアメリカ!!しかし、ビンラディンは行方をくらませます。。。
アメリカの戦いは続いていきます。。。

イラク戦争勃発!!
遂にフセインを倒しますが・・・永遠と・・・ビンラディンとのテロとの戦いが続いていきます。

しかし、2011年パキスタンに潜伏していたビンラディンを急襲、殺害します。
9・11から10年が経っていました。

この9・11は、アメリカが独立戦争以来初めて戦場と化した・・・ショックな出来事でした。
何処の国からの攻撃を受けたことのなかったアメリカ本国が・・・!!
アメリカにとっても国際社会にとっても・・・宣戦布告もなく・・・相手が国ではなく一部のテロリストが民間人&民間機を使っての攻撃は、今までの戦争概念を覆すものだったのです。

国対国の戦いが・・・テロとなったことで、戦争の手段が変わり・・・安全保障も変わってしまいました。

湾岸戦争・アフガン・イラク・・・冷戦後も紛争は多発し、国際貢献の名のもとに、日本は踏絵を迫られます。
自衛隊が戦場に行く時代が来たのです。
アメリカをサポートした日本。。。小泉純一郎が西側でいち早く参加を表明し、特別措置法を使って、戦争中に自衛隊を復興支援の為に使ったのです。

このイラク戦争を受けて、安倍総理がいちいち特別措置法を使わなくてもいいように・・・
憲法を改正しようとしているのです。
しかし、矛盾していますが・・・日本を一歩出れば、外国にとっては自衛隊は軍隊です。
自衛隊を軍隊にするのか???現代にも続いている問題です。


1989年6月・・・中国の天安門広場では・・・
東ヨーロッパでの風が中国にも波及しようとしていました。
鄧小平は、改革によって中国の近代化を図ろうとしていました。
共産党の一党支配を見直す???
民主化を求める学生たちが、天安門広場に集まってきます。
ハンガーストライキを行いました。
デモは膨れ上がっていく一方でした。

デモを始めた学生たちは、共産党を倒す気など毛頭ありませんでした。
自由や、役人の腐敗を訴えただけだったのです。
趙紫陽は、泣きながら学生たちに訴えます。
「ハンストを早くやめてください。
 政府と話し合うことは出来ます。」
しかし、趙紫陽は、この日を境に姿を消してしまいました。

最高実力者・鄧小平の影がそこにはありました。
民主化デモは、共産党支配を揺るがす!と、弾圧を決めていました。
6月4日中国の未来が大きく変わります。

戦車が天安門に・・・!!
学生たちの作ったテントに突入していきます。
中国は、血の弾圧へと突き進んでいったのです。
民主化運動は、完全に弾圧されてしまいます。この時・・・自由への道は閉ざされてしまったのです。

この後・・・鄧小平は・・・独裁体制のもと、民意無き経済大国へと突き進んでいくのです。
中国型社会主義市場経済を導入しながら中国共産党の一党独裁を安定化させる・・・この難しいやり取りを中国は続けているのです。

経済発展を遂げた中国は、資源と市場を求めて膨張を始めます。
豊かな資源が眠るとされる尖閣諸島にその触手を伸ばし始めます。
2012年・・・反日暴力デモが起こり・・・日本企業が狙い撃ちされてしまいます。
日中は・・・かつてない危険な領域へ!!

1989年・・・日本では昭和が終わり、新しい時代が始まりました。
それは政治の世界にとっても、波乱の幕開けでした。
自民党政権が・・・!!
政治改革・新党ブーム・・・バブル絶頂期・バブルの崩壊へと進んでいくのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。


にほんブログ村

社会・経済 ブログランキングへ

日本政治のウラのウラ 証言・政界50年

新品価格
¥1,785から
(2014/1/9 12:58時点)

ちょっと待って! 竹中先生、アベノミクスは本当に間違ってませんね?

新品価格
¥1,000から
(2014/1/9 12:58時点)

真実の近現代史 田原総一朗の仰天歴史塾

新品価格
¥1,050から
(2013/6/9 16:22時点)




昨日の、田原総一朗の仰天歴史塾~経済大国の罠 田中角栄と中曽根康弘~ の続きです。るんるん

ロッキード事件のあと、福田内閣・大平内閣・鈴木内閣が発足しますが・・・

1982年、小さな派閥で、田中角栄派の協力を仰ぎ誕生したのが、内閣総理大臣・中曽根康弘です。
「直角内閣」とか、「角影内閣」とも呼ばれました。

その最大の理由は、官房長官に後藤田正晴を選んだことです。
”田中曽根内閣”です。

そんな彼を、人は”政界風見鶏”と呼びました。
時流を見ての変わり身の早さを、こう揶揄したのです。

しかし、彼は、トップダウン式の大統領式リーダーとして頭角を現します。
経済優先政策から舵を切り、国際国家日本を目指します。


中曽根康弘は、
1918年群馬県高崎市に生まれます。
1941年23歳で東京帝国大学卒業後、内務省に入省、その後、海軍主計中尉に任官。
そうなんだ・・・最強の内務省にいたのね・・・。

1947年29歳、衆議院選挙で群馬3区から立候補し、初当選します。

1959年41歳で岸信介内閣で科学技術庁長官、
1970年には、52歳で佐藤内閣で防衛庁長官、
1972年54歳で、田中角栄内閣で通産大臣に就任。

1982年、64歳で総理大臣に就任します。

大きな節目は、41歳で科学技術庁長官に任命された時でした。
この時に、アイゼンハワーとの会談で、平和利用のために原発を導入します。
つまり、原子力問題は、この時に始まったのです。

当時、核兵器である原爆を平和利用するというのは、画期的なものでした。

思い切ったことをするのは、田中角栄と似ています。

もっとも有名なのが、行政改革。
中曽根首相による国有会社民営化が進みます。

国鉄⇒JR
電電公社⇒NTT
専売公社⇒JT

です。

公社・公団を・・・官僚を民営化したのです。




そんな中、中曽根は、分割民営化を決断します。

そして、経済界のカリスマ・土光敏夫を引き込みます。
質素倹約で知られる、元・経団連会長です。

行革の運命は土光に託されました。

公務員は、絶対に解雇されない、給料も下がらない、待遇も落ちない!!
だからこそ、”やる気が出ない”ので、民営化しようということになったのです。


この時国鉄は累積赤字23兆円、さらに赤字を増やし続けていました。
まだまだ税金が投入される可能性があり、急務な案件でした。

しかし、国鉄は、労組が強く、民営化に大反対!!
ストが続きます。
当時、国鉄では”マル生運動”が、盛んに行われていました。
マル生運動は、国鉄当局による生産性向上のための運動のことです。

電電公社でも嫌がらせのようなことが起こります。

しかし、そろそろ高度成長期が終わろうとしていました。
歳出を抑える必要が出てきたのです。


また、中曽根は日本外交を一変させます。
訪日したレーガン大統領を、自らの別荘でもてなします。
この映像は、全世界に配信され、日本とアメリカの蜜月を知らしめました。

中曽根は、外交・防衛面での現状打開を画策します。
国際国家日本!!
国際国家における日本の立ち位置を強くしようとしました。

日米同盟の強化を図ります。
日米は運命共同体!!

「ロン・ヤス」関係の始まりでした。
テレビをうまく利用して、各国首脳との会話も、いつも真ん中の・・・会話の中心にいるように心がけました。

パフォーマンスだけでなく、
1983年ウィリアムズバーグ・サミットでは・・・
見せ場を作ります。

ソビエトに対して、アメリカのミサイル配備を推進する発言でレーガンを支援します。
会議をリードします。
国際政治で日本のリーダーが、積極的に発言したのは初めてでした。


当時は、防衛費のGNP比は1%以内でしたが、それを中曽根内閣では超えました。

ワシントンポストとの会談後、新聞に、「日本の地位は、不沈空母だ」と書かれてしまったこともあり、国内では、
「中曽根はタカ派だ!!」と、大騒ぎにもなりました。


もう一つ、教育改革をしようとしました。
”教育臨調”中曽根首相直属の諮問機関を置きました。

1975年までは、日本の教育は、”一人でも多くの子供を高校へ・大学へ上げよう”というものでした。
でも、もうほとんどが達成できるようになっていたので、目標を変えようとしたのです。

”個性化の教育をやろう”
”生徒が学校を選べるようにしよう”

教育の自由化をしようとしましたが・・・
それは、失敗します。

それは”リクルート事件”の発覚です。

政界・財界・そして官僚を巻き込んで、80人以上の逮捕者をだす贈収賄事件に発展しました。

リクルート社の江副浩正会長が、関連会社の未公開株を多くの財界人らに譲渡、これが賄賂に当たるとされたのです。

民営化で活躍したNTT真藤会長・教育臨調を進めていた文部官僚にも・・・
中曽根周辺からも逮捕者が出ました。

当時はみんなやっていたことが・・・
事件となったのです。

それは、検察・警察が中曽根を標的としたのでは???
冤罪???
と、田原総一朗さんは言っています。

日本は、新興勢力を排除する傾向があります。
旧体制が許さないというのが、リクルートにもあったのかもしれません。


田中角栄がなくなり、奇しくも同年、自民党は野党に転落、55年体制は崩壊します。
日本は、バブルがはじけて、先の見えない不況へと転落していきます。

しかし、角栄が描いた列島改造は今も続いています。
東日本大震災・原発危機・・・

日本の未来はどうなっていくのでしょうか?


この二人は、明らかに権力者!!と言えるリーダーです。
今りーだーと言える人はいるのでしょうか??
そして、この国は、これからどのように変わっていくのでしょうか???
なんだか、考えさせられます。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 経済ブログへ
にほんブログ村

政治 ブログランキングへ

田原総一朗の遺言 ~タブーに挑んだ50年!未来への対話~ [DVD]

新品価格
¥2,982から
(2013/6/9 16:22時点)


今回は誰なのでしょうか?
「田原総一朗の仰天歴史塾~日本リーダー列伝~です。揺れるハート

真実の近現代史 田原総一朗の仰天歴史塾

新品価格
¥1,050から
(2013/6/12 05:14時点)




昭和初期、格差の時代が始まっていました。
金解禁と、世界恐慌のダブルショックで企業の倒産・失業が相次ぎました。
欠食児童や娘の身売りが頻発。国民生活は窮乏を極めていました。

一方財閥は、ドルの売り買いで莫大な財産を築き、資本主義への不満が世間に蔓延していました。

政界では、三井財閥をスポンサーとする政友会と、三菱財閥と手を結んだ民政党が、互いの汚職を摘発し、泥試合を展開していました。
反乱による国家改造の機運が芽吹き始めていました。

昭和7年5.15事件、昭和11年2.26事件・・・。わずか数年で、180度変わった激動の時代、日本はこれを境に戦争への道を歩み始めたのです。

政府首脳を次々と暗殺したクーデターは、どのような思想の基に行われたのでしょうか?
そして、この国の進路にどのような影響を与えたのでしょうか?

クーデター・・・革命とは、その時代のトップを失脚させること。

クーデターが起こった大正時代から昭和初期とは???

1929年世界恐慌、国内でも失業者30万人。
1931年満州事変・・・が起こり、不安定ななか・・・。

1932年血盟団事件。これによって、前蔵相・井上準之介 暗殺。
                 三井財閥総裁・団琢磨 暗殺。

井上準之介は、浜口雄幸内閣の大蔵大臣で、金解禁を行いました。金解禁とは、金の輸出許可制を廃止して、金を通貨価値の基準とする「金本位制」に復帰させたのです。

自由主義経済、それに反対した人によって、暗殺。

団琢磨は、ロシア革命後、当時はやっていたマルクス主義・・・資本を社会の共有財産にすることによって、階級のない共同社会を目指す・・・を提唱する人によって財閥のトップが暗殺されたのです。

不況の中で農村が疲弊し、娘を売る人が増えて。。。人間的な生活が出来なくなっていたのです。
政治家たちは、次は自分ではないかと、戦々恐々としていました。


しかし、トップを暗殺しても何も変わらない。。。
それなら国家を変えなければ。。。
5.15事件勃発。犬養毅が暗殺されます。
首相官邸、午後5時過ぎ・・・。
4人の海軍青年将校と5人の陸軍士官候補生が首相官邸に乱入、武装した将校たちに慌てるそぶりも見せず、「ゆっくりはなそう。」と、応接室に招き入れた犬養毅を将校たちは、「問答無用」と、拳銃で射殺しました。

「昭和維新」を掲げ、国民前衛隊と名乗って決起したのは、古賀清志中尉、三上卓中尉達。
首相官邸、警視庁、内大臣邸を襲撃し、混乱に乗じて軍閥内閣を樹立、国家改造を行う計画でした。

しかし、あまりにもずさんな計画に、当初の目的はほとんど果たせず、憲兵隊に自首しました。

軍法会議では、厳しい処罰が予想されましたが、世間の政党政治に対する反感から減刑嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いもの・・・最も重い刑を科された古賀・三上中尉でさえも、禁固15年となりました。「国家のためにやったのだ!!」

昭和史の分水嶺と言われる5.15事件・・・。
こののち、政治家たちはテロの恐怖から、軍部への意見を差し控えるようになりました。

犬養毅、この当時77歳。
犬養は、軍部の味方だったし、対中融和路線を変更し結果的に関東軍の拡大戦略を容認していたのに、なぜ?という疑問が残ります。

それは、政党政治の一番の問題で・・・
犬養毅は明治のころから立憲会議・自由民権運動・政党政治にかかわってきました。
しかし、その政策は「党利党略」。自分の党が勝つために使うというものでした。
それが軍人には、政党の腐敗に見えたのです。
それが殺害の一番の理由でした。



5.15事件を起こした将校を思想的に支えたのが、大川周明です。
戦後、民間人唯一のA級戦犯として極東国際軍事裁判に出廷しています。

アルバイトで天皇の本の出版をすることになり、天皇に傾倒していった大川周明。
「万世一系の天皇」天皇という王朝は、永久に一つの系統によって続くという考えに傾倒していきます。

天皇支配下での社会主義を望むようになります。・・・「一君万民」です。
そして、金銭と縁のない軍人が中心となって政治を行うべきだと考えたのです。

昭和6年3月、10月の二回にわたり、大川周明は、陸軍中佐橋本欣五郎と共に軍隊を出動させ軍事政権を樹立するクーデターを計画するも、実行前に計画が漏れたり、軍首脳部が躊躇し未遂に終わります。

が、これに触発された人々がクーデターを起こすのです。
それが、5.15事件でした。
事件の1か月後逮捕され、禁固5年。獄中の人となりました。


昭和6年9月18日。中華民国奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が関東軍によって爆破されました。柳条湖事件です。

事件は、関東軍高級参謀板垣征四郎と作戦参謀石原莞爾による謀略でした。
関東軍はこれを中国東北軍の仕業とし、東北地方に侵攻し侵略を始めます。満州事変です。

若槻内閣は、中国に対して不拡大方針をとっていましたが、陸軍大臣南次郎は局地解決を望みますが、これを無視し満州占領計画を進行させ、翌年2月に満州全土を制圧します。

昭和7年3月満州国建国。

清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を擁立し、傀儡政権を樹立します。
この結果、中国では抗日運動が一段と盛んになり、欧米列強も日本への非難を高めます。

その一方で、国民の間では、戦争を支持する動きが高まっていきます。

「贅沢は敵だ!!」

軍国主義は、ますます進展していきました。

こんな中、軍部でも混乱がありました。陸軍士官学校事件が起きました。

軍部には皇道派と統制派があり、皇道派(荒木貞夫・真崎甚三郎)は軍部の隊付青年将校中心で、直接行動による軍事政権を作ることを目的とし、天皇親権の実現を求めていましたが、統制派は、陸軍参謀本部の中堅官僚(永田鉄山・東条英機)が中心となり、政財界と提携し、軍部が国家権力を握り、総力戦体制を作ろうとしたものです。

この二つが内ゲバを始めたのです。


皇道派はクーデターを起こし、真崎甚三郎を総理大臣にしたかったのですが、真崎は昭和10年統制派の策略により、教育総監を罷免されることになります。

皇道派の相沢中佐が、統制の永田鉄山を殺害する事件が起きます。裁判で不利になった相沢・・・。不利になっていく皇道派の青年将校たちは、2.26事件へと進んでいくのです。

これに強い影響を与えたのが、思想家・北一輝です。

北一輝は40歳の時1923年に、青年将校たちのバイブルと言える「日本改造法案大網」を書きます。
そして2.26事件の思想へ導いていくのです。

日本改造法案大網とは・・・。
憲法を3年間停止。
衆議院・貴族院の廃止。
現役を離れた軍人たちが、国家を運営する。
私有財産、天皇の財産を制限し、企業を国営化するという、社会主義的なものです。

5.25事件・大川周明との違いは、クーデターを起こした後の、具体的な構想があったということです。多くの青年将校が、北一輝に心酔します。

1936年2.26事件が勃発。
早朝、30年ぶりの大雪となった東京で事件は起こります。政府の要人を含む9人が殺されます。東京市に戒厳令が敷かれました。

2.26事件の二年前、昭和9年に起きた陸軍士官学校事件、事件の芽を摘むという目的での陸軍歩兵大尉・村中と一等主計の磯部の逮捕は、青年将校たちに上官への不信感を植え付けました。
この村中と磯部は、後にクーデターを起こすことになります。

青年将校たちは、相沢事件で実力行使の決意を刺激されます。
さらに翌年の春、自分達の所属する隊が満州に派遣されることが決まると、時期尚早と言う北一輝の言葉に耳を貸さず、派遣前の決起を決断します。

そして、2.26事件。。。
連隊長のいない深夜零時から早朝4時にかけて、麻布赤坂地区にある3つの連隊で非常呼集がかけられました。政府要人を暗殺し、警視庁や陸軍省を占拠し、軍部主導の理想国家を作る。

襲撃開始は午前5時。

「尊王討奸」を掲げた青年将校たち。。。殆どが、皇道派に属する20代後半から30代前半の少尉・中尉・大尉でした。彼らは、およそ1500名の兵士を率いて隊列を進めます。
そこには、「天皇親権の国家にしなければ!!」という意思が軍隊を動かしていました。

反政府クーデターが始まりました。


部隊を指揮して

蹶起直後の半蔵門 岡田啓介(内閣総理大臣)
鈴木貫太郎(侍従長)
斎藤實(内大臣)
高橋是清(大蔵大臣)
渡辺錠太郎(陸軍教育総監)
牧野伸顕(前内大臣)

の殺害を図り、斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監を殺害。
また岡田総理も殺害と発表されました(但し誤認)。

鈴木貫太郎を襲ったことが、天皇の耳にはいり、天皇の怒りをかった決起部隊は、反乱部隊とされました。

この時の兵隊は、「天皇の為を思って」戦っていました。
天皇は、自分たちの決起を全面的に認めてくださると、思っていました。
なのに、反乱軍とされてしまったのです。

真っ青になる青年将校たち・・・。

未曽有のクーデター発生から2日後の2月28日、青年将校率いる決起部隊には、前日東京市一帯に発令された戒厳令により、治安維持任務が課されていました。

が、予想もしなかった事態が。。。
この日の朝、天皇の絶対命令「奉勅命令」が下ります。

決起隊は反乱軍となり、2万人以上の鎮圧軍が出動します。
2月29日、決起部隊が敗北し、逮捕されます。
青年将校2人が自決し、北一輝ら民間人をふくむ19人が死刑判決を受け銃殺されました。

この事件ののち、陸軍統制派が皇道派を一掃。
統制派は、東条英機を中心として、太平洋戦争の道を進むことになります。

大川周明と北一輝の天皇に対する考え方の違い・・・。

大川周明は、天皇の万世一系、天皇が中心で一君万民の社会主義国家。

北一輝は、天皇も国民も進化している。歴史が始まって以来、みんな天皇をバカにしていて、天皇を利用している。天皇、玉を手に入れたものが勝つ!!=天皇を利用した社会主義国家。だったのです。
それは、西郷大久保も、GHQも同じ考え方だったと言えます。

しかし、将校たちには、同じように映っていたようです。


そんな将校たちと北一輝、同じ考えだったのでしょうか?

北一輝の理想は、国民革命をおこし、国民国家を作ること。そのためには、軍隊を使っても構わないというものです。彼にとっては、天皇のための軍隊ではなく、国民を救うための軍隊でした。

しかし、青年将校たちは、天皇の周囲には「君側の奸」がいて、これを殺せばいいと思っていました。
つまり、クーデター後の具体的な方策は全くなく、ただ破壊だけをしたのです。

天皇に対する考え方が違っていました。将校たちにとっては、天皇は絶対だったのです。

もし、北一輝の思惑通りに事が運んでいたら、決起部隊は皇居に向かっていたはずです。。。。。
おまけに、青年将校たちが慕ってきた皇道派の幹部は、味方にはなってくれなかったのです。



この時、天皇が青年将校たちを応援したら、真崎たちが新政権を作ったはずです。

しかし天皇も、クーデターではなく合議制を望んでいました。

この二つの事件で、政治家たちは暗殺に怯え、命を張ることが殺されるというリアリティが植え付けられてしまうのです。

これがきっかけとなって、戦争へと進んでいきます。


↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。黒ハート

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

政治 ブログランキングへ

誰もが書かなかった日本の戦争

新品価格
¥1,575から
(2013/6/12 05:14時点)



田原総一朗の遺言 ~一線を越えたジャーナリスト達~ [DVD]

新品価格
¥3,243から
(2013/6/12 05:15時点)


田原総一朗の仰天歴史塾~ニッポンリーダー列伝~です。

真実の近現代史 田原総一朗の仰天歴史塾

新品価格
¥1,050から
(2013/6/12 05:37時点)




今回は政党政治、政党政治と言ったらもちろん「原敬」。

明治維新を経て、富国強兵をモットーに、大国の道を歩み始めた日本。この国の政党政治は、どのようにして始まって終わりを告げたのでしょうか?

民主主義の国は、全て政党があります。アメリカには共和党と民主党が、イギリスには保守党と労働党があります。日本にも、たくさんの党があります。

この政党は、日本ではいつごろ、誰が作ったのでしょうか?

議会政治を担ってきた日本の政党、その誕生は、西南戦争の終わった明治初期に遡ります。
明治維新以来、この国を牛耳ってきたのは、大久保利通・黒田清隆・大山巌・伊藤博文・山形有朋・井上薫・・・薩長出身の人たちでした。

1873年明治6年の政変で敗れて下野した板垣退助が、藩閥政治に不満を抱く士族たちを巻き込んで、自由民権運動を展開します。

全国規模へと発展した運動を抑えきれなくなった政府は・・・。
1881年国会開設の詔勅・・・10年後の議会開設を国民に約束します。

板垣は、日本初の政党・自由党を結成します。
その後政党が次々と生まれていきました。

1890年第1回帝国議会。
各政党は政府の弾圧を乗り越えて、大同団結し、多くの議席を獲得、国政に多大な影響を持つようになりました。

大隈重信・・・佐賀藩の藩士でしたが、明治維新の実現に力を貸し、明治政府では大蔵卿の要職に就きます。大久保利通の暗殺後は、この大隈が政治を主導しました。

1881年大隈は、国会開設の意見書を提出しましたが、伊藤博文たち薩長閥と対立し下野します。
1882年立憲改進党を結成。それ以外にも、東京専門学校(現在の早稲田大学)を開設しました。それは、時の権力に左右されない学問の独立を目指しました。

民権運動の盛り上がりを受けて・・・
1889年大日本帝国憲法 発布。
1890年第1回衆議院議員 総選挙実施。
ここで、立憲自由党・立憲改進党などが、多くの議席を獲得します。
日本初の政党内閣が誕生し、大隈重信が内閣総理大臣に就任します。

なぜ薩長閥ではない大隈が総理大臣になれたのでしょうか?

当時は、第3次伊藤内閣。日清戦争でたくさんのお金を使ってしまった政府は、地租を増税しようとしました。これは、土地に課せられる租税の事で、昭和25年には、固定資産税に受け継がれていきます。
これで、評判を落とした伊藤内閣は、辞職することになるのですが。。。

大隈重信に影響力を与えたのは、福沢諭吉。慶応を作り、「学問のススメ」でも有名です。
当時は世界の事を一番よく知っている日本人でした。

江戸末期、福沢諭吉は2年間、咸臨丸に乗ってアメリカとヨーロッパを見聞、世界の政治を目の当たりにしました。
その後、幕臣として慶喜に仕えながら、1868年慶応義塾創設。多数の優秀な人材を輩出します。
1875年「文明論之概略」刊行
1877年「分権論」刊行

世界各国を知って福沢諭吉。
彼の著書「民情一新」には。

「イギリスに、政治の政党が2つある
 一つは保守、一つは革新
 常に対立してお互いを認めないように見えるが
 そもそも人の中には 考えが違う者がいる
 だから2つに分かれているに過ぎない
 人々の中から人物を選挙で選び  
 国事を語り合う これを国会という
 国会は両方の政党の議員たちが会う場所で
 一つの案件ごとに議論があって
 たいてい意見が違うから多数決で決める」

日本も政党を作らなければ・・・。

政府の中にも、福沢と同じ考えを持っていたのが、佐賀藩出身の大隈重信でした。
薩長藩閥と対立する大隈の元には、福沢によって推挙された慶応の門下生が多く送り込まれます。

長州閥の伊藤博文が、時間をかけて国会を開き、専制君主国家を確立すると主張したのに対し、大隈は、国会開設を早め、立憲君主制の確立を主張しました。

その後大隈は、伊藤によって政府から追放されてしまいます。が、
1882年福沢の門下生だった尾崎行雄や犬養毅とともに立憲改進党を結成。
政党政治の歩みを進めていきます。

福沢の助言により、イギリスの政党政治と議院内閣制を導入しようとした大隈・・・。

しかし、誕生した大隈内閣は、たった4か月で解散します。
この内閣、党内でもめ事・内ゲバが起きたことが原因で、政党政治の弱点なのです。

しかし、大隈はこれで終わりませんでした。
一旦は政界を引退し、早稲田大学の総長となります。南極探検隊の後援会長に就任。文化事業を展開します。

この間政界は、伊藤や山県が力を握っていましたが・・・。

16年後・・・

山本権兵衛内閣の時、シーメンス事件勃発。ドイツ・イギリスの軍需会社からの軍艦購入を巡る海軍の汚職事件が起きます。
事件が発覚すると、山本の属する薩摩閥と海軍に非難が集中しました。

この時期一番力を持っていたのが政友会。
時を遡ること1885年。伊藤博文が、初代総理大臣に就任します。
伊藤は、長州出身の元老でありながら、力づくの政治運営はしませんでした。山県、板垣、大隈とも融和を図っていました。

しかし、政党の力は増すばかり・・・。
そして、第1次大隈内閣発足が発足しましたが。

1900年、伊藤も自ら政党を作ることを決意。それが、立憲政友会です。
伊藤が亡くなった後も、本格的な政党の道を歩み続けます。

その伊藤の心理は・・・。
藩閥政治の中でも派閥があって、
タカ派・山形有朋
ハト派・伊藤博文 でした。

ハト派の伊藤には、穏健な政党と妥協する意思がありました。
しかし、自由党の反対で、毎年前年度予算しか計上できませんでした。
だから、政府が行き詰ってしまっていました。
出口のない戦いに、藩閥政府の伊藤が嫌気がさしてきていたのです。

「議会で予算を拡大したい!!」

自由党の星亨は、万年野党から脱したいと、思っていました。
この二人が手を組んだのが、立憲政友会です。

次の首相は誰になるのか?
当時一番力を持っていたのは、元老・山形有朋。
総理大臣を誰に任命するのか?

「立憲政友会に政権をとらせたら、本当に政党政治になってしまう!!」
幕藩政治の権力がそがれる政友会内閣には、大反対だったのです。

自分達が扱いやすい大隈に・・・。

たなぼたで、1914年第二次大隈内閣発足。
大隈内閣の一番の課題は、財政再建。ケチケチ財政。

今の政治家でいくと・・・野田佳彦に似ているとか。黒ハート

今の方が深刻だそうです。

大隈内閣にラッキーだったのは・・・。

1914年第一次世界大戦勃発でした。

日英同盟のため、イギリスの要請でドイツに宣戦布告、中国でのドイツの拠点・山東省青島を占領します。

何故戦争に参加したのか?
戦争特需による景気回復を期待したのです。
もう一つは、第一次世界大戦を機に、中国における権益拡大を図ろうとしたのです。

世界全体で戦争が起きる・・・。
一度は戦争参加の要請をしていたイギリス・・・。途中から要請の中止があったにもかかわらず・・・。

1915年中国に「対華21か条の要求」を突き付けます。
これが、大きな問題となります。

対華21か条の要求の主な内容。
①山東省のドイツの権益を日本が引き継ぐ
②南満州・東部内蒙古・・・旅順・大連の租借、日本が敷いた鉄道の租借を99年間延長する
             日本人が自由に暮らせるようにする
③中国最大の製鉄会社を、日中合弁にする
④中国沿岸の港湾・島を他国に譲らない、貸さない
列強に内緒にしていた・・・
⑤中国政府に日本人の顧問を置く(政治・財政・軍事)
 地方警察を日中合同にする

つまり、これが中国侵略の始まりで、日本が孤立したきっかけと言われています。
当時は、世界の列強が最後の侵略先として中国を狙っていたのです。

この対華21か条の要求、日本が暴走しているように見えますが、日本の事前の打診に、イギリスもフランスもOKを出していました。イギリスやフランスをモデルにすると、許される行為でした。
ロシアも文句はなかったのです。

ところが、「ダメだ!!」と言った国がありました。それは、アメリカです。

1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国・フェルディナント大公がセルビア人に暗殺されたのをきっかけに、史上初、世界を巻き込んだ戦争が始まります。第一次世界大戦の勃発です。

ドイツ・オーストリアを中心とする同盟国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国とが戦います。
つまり、みんな、第一次世界大戦にかかりきりでした。
一方アメリカは、中立を保ちつつ、同盟国側・連合国側双方に物資を供給、経済力を高めたアメリカは、イギリスにとって代わるリーダーとなり、国際外交の主導権を握るのです。

アメリカは、なぜ対華21か条の要求に反対したのでしょうか?
アメリカ・ウィルソン大統領の民族自決主義には・・・。
政治体制や帰属を自らの意思で決定する権利を持ち、他の民族や国家による干渉を認めない。というのがあります。アメリカは、植民地を持たないのです。

第一次世界大戦で、イギリス型帝国主義外交から、アメリカ型民族自決外交へと変換していくのです。
日本は、第一次世界大戦後も、イギリス中心で世界が動いていくだろうと考えていたのです。しかし、実際は、アメリカが、国際秩序の軸になっていくのです。

アメリカが民族自決を唱えた理由は・・・。
広大なアメリカ国内の開発が優先されたということ。
もう一つは、もともとアメリカにやってきたのは、移民してきた清教徒たち。
ヨーロッパ諸国の侵略行動を嫌ったのです。
しかし、このアメリカの唱えた民族自決は、世界の中で孤立しない範囲で実行されました。

世界の中で出遅れたアメリカは、「民族自決」で主導権を握りました。しかしヨーロッパ列強は、植民地頼み・・・植民地がなければやっていけないようになっていくのです。

この対華21か条の要求に反対を唱えたのが原敬。

では、原敬とは?

1856年盛岡藩士の家に生まれます。
26歳で外務省に入省、35歳で陸奥宗光の秘書官となります。39歳で外務次官となり、44歳で立憲政友会入党。
先見性のある人で、アメリカが強くなることを予見していました。

大浦内大臣が大規模は選挙干渉を行い、内外の批判を浴びたことがきっかけとなり・・・

1916年大隈内閣総辞職。

大正時代になっても、元老への批判は決して許されるものではありませんでした。
元老の山県は、長州出身の軍人を首相に据えます。
寺内内閣です。この時も、政友会の力の方が勝っていたのですが、山県としては、どうしても政友会だけには政権を握らせたくはなかったのです。


しかし、シベリア出兵が世界的孤立をますます深め、また国内では米騒動も起こり・・・。
米騒動では軍隊が出動しました。

首相候補がいなくなり・・・。
西園寺公望に頼むも・・・健康上の理由で断られ、

1918年原敬内閣総理大臣就任。

この原内閣こそが、元老たちの影響をあまり受けない本格的な政党御政治を行うようになるのです。
勲章をもらっていない、爵位もない「平民宰相」でした。

原敬の外交戦略は、対米協調御路線の平和主義。中国の内戦に干渉しないというものでした。
・国際協調
・日中親善
・大陸の権益は拡大しない
・満州・蒙古の特殊権益は維持

穏健平和政策です。

国内的には・・・四大政網

高等教育機関の拡充
 慶応義塾・早稲田などの私立大学が増える
鉄道網の整備
 全国149路線、1万キロメートルの新設案が出される
産業の振興・通商貿易の発展
 鉄鋼・造船・科学・繊維産業が整備される
 領事館が出来る
軍備の充実
 16隻からなる大艦隊が計画される
 兵器の機械化・近代化が進む

田中角栄同様に拡大路線をとり・・・金権政治を行ったのです。
次から次へとスキャンダルが・・・。だから、当時の評判はそれほどでもなく、戦後になってから再評価されました。
原敬は、均衡のある国土の発展を望んでいました。

世界は大きく変わろうとしています。

1919年パリ講和会議による議決。。。
民族自決を訴えます。今までの植民地は維持するものの、これからの植民地化は禁止されます。
ドイツは、連合国に賠償金1320億マルクを支払い、領土の一部を割譲
日本は、軍備の制限、山東半島の旧ドイツ権益を獲得

1921年ワシントン会議では。。。このワシントン会議を基準にして極東国際軍事裁判は裁かれるのですが・・・。
アメリカは、台頭する日本とイギリスを結ぶ日英同盟を破棄させます。
対米協調路線に基づき、原敬はパリ・ワシントン会議の議決を受け入れました。

平和政策を推し進めてきた原内閣。
わずか3年で・・・。
ワシントン会議目前で原敬が東京駅で暗殺されます。
犯人は、国鉄職員でした。

何故原敬が暗殺されたのか?
それは、スキャンダル。政友会は、次から次へとスキャンダルが起こりました。
1920年東京市疑獄事件
1921年満鉄義国事件
1921年アヘン密貿易事件  が、代表的な政治腐敗事件です。

政界を揺るがす事件やスキャンダルは、以後もつきませんでした。

有名なのが、1976年ロッキード事件。田中角栄が受託収賄の罪で逮捕された事件です。
1988年リクルート事件。竹下総理の退陣へと繋がりました。
1992年には東京佐川急便事件では金丸信が衆議院議員辞職しました。


原敬が暗殺された後、原敬をモデルにしたのが浜口雄幸。
1929年アメリカのウォール街を発端にした世界恐慌。株価の大暴落、わずか1週間でアメリカの国家予算の10倍が消し飛びました。
アメリカの金融システムは停止し、国際的に伝播していきました。

日本では、第一次世界大戦後の慢性的な不況と、関東大震災の影響で経済は弱体化、金融恐慌が起きていました。

この時の内閣は、浜口雄幸内閣。
軍縮と緊縮財政で生まれた余剰金で不況を乗り越えようとします。
また、自由主義経済・・・金の輸出を解禁します。
しかし、金解禁は、アメリカ発信の不況と重なり、経済不況に拍車をかけました。

1930年ロンドン海軍軍縮条約 調印。
列強海軍の補助艦保有数を制限するもので、保有率はアメリカ・イギリス・日本=5・5・3にしようというものです。
東郷平八郎がこれに大反対。
統帥権は明治天皇にあるが、総理大臣が統帥権を犯している!!と言ったのです。
しかし軍人には選挙権がなく、政治にはかかわれない仕組みになっていました。

このことをうけて、政友会総裁に就任していた犬養毅が「統帥権干犯問題」で浜口雄幸を攻撃します。
当時、議会では、立憲政友会と、立憲民政党が二大政党でした。
政権争奪戦が激化していましいた。

野党の政友会が、軍部や右翼と提携。政府が、海軍軍令部の反対を押し切って、軍縮を進めたのは「統帥権干犯である」として、攻撃したのです。
政友会は、軍隊の最高指揮権は天皇にあり、内閣は関与すべきではないと、政権の転覆を図りました。

国民は失望し、軍隊には暴走のきっかけを与えることになりました。

そして浜口雄幸は、東京駅で銃撃されます。

政党政治においては、国政より党利党略が優先されることがしばしばあります。
これが、政党政治の難しさなのです。

理想の政治システムは、今も見つかっていません。
私利私欲は悪いというけれど、私利私欲こそやる気の素になります。
自分で考えてチャレンジする人を増やすのが一番かもしれない・・・。というご意見でした。

東京都千代田区丸の内、事件は今から82年前、東京駅の4番ホームでおきました。
陸軍の演習を視察するため、岡山に向かおうとしていた総理大臣・浜口雄幸は、右翼の青年に狙撃されます。
至近距離から放たれた弾丸は、腹部に命中。瀕死の重傷を負います。
しかし、混乱する議会に無理をして登院。悪化して…。

その1年後に亡くなります。

平和を望み、軍縮で生まれた財源で、国民の負担をへらそうとしていた浜口雄幸、信じて貫いてきた政治手法は実らないまま、その死によって、政党政治は実質的に幕が下りました。

翌年には満州事変が・・・。
日本が世界から孤立していく結果となりました。

↓ランキングに参加しています。揺れるハート
↓応援してくれると嬉しいです。るんるん
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

政治 ブログランキングへ

AKB48の戦略! 秋元康の仕事術 (田原総一朗責任編集)

新品価格
¥1,000から
(2013/6/12 05:38時点)



誰もが書かなかった日本の戦争

新品価格
¥1,575から
(2013/6/12 05:38時点)


このページのトップヘ